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    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 4  美辞麗句 <平等>      

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
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    春の恵那山

    恵那山




    「過去」があるのではない。
    「思い出・記憶」や「意識が記録したもの」が、いま、あるんだ。
    それも、私たちの脳が都合よく改変した過去が脳内にあるんだ。
    「未来」があるのではない。
    「希望・不安」や「過去からの意識の予測」が、いま、あるんだ。
    ある時は不安に、又は希望に染められた未来が私たちの脳内にあるんだ。

    いま、あるんだ。と云う現在だけが確かで、
    それを私たちの意識が、瞬間! 捉えているだけ。


    それは、クルクル変わって、いま、ある現在だって
    意識にかかると、その場の共感の輪から、嘘が事実になるわけです。

    つまり、それっぽいよね、って 
    似たイメージが増幅し合って、
    民主主義の原理で、多数を占めた時、   嘘が事実になる!

    東アジアにおける歴史教育問題だって、そう
    これが、フェイクの生まれる根源です。


    そう云う不確かな存在を抱えて、
    私たちは、大地に、その埋め合わせの確かさを求めています。
    大地こそは変わらないのが、あたりまえ!
    私たちは、大地を頼って生きています。


    それが、大地の徳『信』



    今年、20018年1月1日時点で、
    南海トラフで最大クラスの地震が起こる30年以内の発生確率が
    70% - 80% だと聞かされると、
    やっぱり恐ろしいですね。   ほほっ。

    生きている足元の大地には、静かにしていて欲しい。
    それが意識の本音です。
    もう、祈りにも似た気持ちがあるのではないでしょうか。

    そのように、当然ですが、
    我々の生は大地の存在が前提です。



    だって、
    我々は何も分からないまま大地の上に、生れ落ちた訳ですから、  
    ここに、もともと、あったもの!
    あるべき大地を信じて、両親は生れ落ちた赤ん坊を抱いたはずです。
    どうして? その大地が動くの?    あはは。

    大地は自分が買って来たベッドではありませんものね。   あはは。
    買って来てすぐに壊れてゴミになる消費財ではありませんよ。
    我々が働いて得た糧で、交換をして手に入れたものでもありません。

    当たり前のように、ここに
    そこに、ここに、無償に提供されているもの、
    大地は、永遠にあるように思えるものです。
    資本主義なぞに手を出してほしくない次元です。


    つまり、大地は、物であるから『陽』の消えてなくなる現象のように見えて、
    『陰』の本質を含む存在です。
    しかし、『陰』本質ではない。
    だから、千変万化、動くのでしょうね。
    そもそもが、こんなにどっしりした恵那山だって、
    その大昔、想像もできない地殻変動で今の山容ができたのでしょうし、
    でも、その大地の変化の恩恵を生物は享けて生きていられる。
    間違いなくありがたいものです。

    私は仏教徒ですから、
    これが、仏の慈悲に、似たものなのだろうか、と思うばかりです。



    我々は、無意識からまばたきをするようにして意識の世界へ、
    パチっと生を受けるのです。
    命は、
    耳や口や鼻や目や触角と云う感覚器官が捉えて意識できる前に、
    無意識からやって来ています。

    バカな意識は、このパチっとの前は分からない、
    分かるのは、パチっとの後からです。
    と云っても、覚えていないでしょうね。 
    テストの為に覚えたわけでもないので記憶にない。

    あはは。



    根本的に、意識は、私たちはどこから来たのか? 知りません。
    ああなのか、こうなのか、想像と、考えるしかない訳ですが、
    前回の記事で書いた通り、我々の脳はバカだから、
    都合よく記憶したり、忘れたりしているはずです。


    生きている間、今も、
    命は 意識が守って支えてやっているんだと思っていませんか?
    いいえ! とんでもない !  ほほっ。

    それこそ、意識の身勝手、自己中です。
    全くの意識の錯覚です。
    オレサマガエライ! 
    オレガキメテヤッテイル!  これが意識です。   あはは。


    命は、意識が辛いから死にたいと思い詰めている間も、
    無意識の世界に支えられて生きています。
    自殺をしても助けられて死ねない場合もあり、
    大地震が来た時に、助かりたい人は助からずに、
    たまたま外出をして留守だったから地震に遭わなかったなど、
    私たちの幸不幸の分かれ目において、
    それはどうしてなのか?

    こここそが運命学の淵、淵源です。
    デタラメじゃないのよ。
    それこそ精緻な条理の世界がそこにはありますの。 ほっ。



    人の生き死には意識では差配できない領域であって、
    なぜ、その人だけが? と我々の意識で問い詰めれば、
    この奥は無意識界への入り口、運命学の領域になってしまいます。
    そこからは、非常に、差別相がある世界が広がっています。
    一つとしておなじものはない世界です。
    運命学こそは、まったく不平等な世界の道しるべなのです。
    しかも、それにはきっちりした理由があります。


    なぜ、その人はそう生まれたのか? 
    と問い詰めれば、
    それは、そのまた奥、、目や耳の感覚器官では分からない世界です。
    いわゆる昔から短命、長命の寿命と謂われるものです。
    人の命の長短は、
    どんなに力のある頭の良い人の意識でもどうしようもない次元です。
    それを全うすることが自然に叶う、
    その意味を込めて寿ぐ命と云い得たのだと思います。


    ここで、お気づきになりましたか?

    運命の不平等の相の下に、
    平等なルールがあるって!


    人の命の長短は、
    どんなに力のある頭の良い人の意識でもどうしようもない。



    この次元に来て、やっと、我々は平等に扱われています。


    我々の意識にすれば、長いのか短いのか分からない命だけれど、
    この次元で定められている寿命を全うしようと、
    精いっぱい生きる事しかできないのです。
    結果は分からない。
    命の根幹を支えているのは無意識界からの力なのです。
    つまりは、意識で努力をしているつもりでも、
    どちらかと云うと、自然と共にある命の
    それを邪魔しているのが意識でしょう。
    おいしいからもっと食べようと過食をしたり、
    楽しい事には寝るのを忘れて徹夜をしたり、
    トンチンカンで間抜けな意識! 


    ここまで考えると、
    意識こそが信用できると、神や仏の無意識界の奥、神霊域を排除して、
    全ての根幹に人間のうすら馬鹿な意識を置いて
    意識こそが真理を見つけるのだ! という近代合理主義こそが、
    人間が作った邪教ではないか? と、思えてくるのですが、、、?   

     ほほっ。


    まだ、よくわからないなぁと云う方へ
    卑近な例を言いましょう。
    我々は生きたいと意識して息をしているわけではないでしょう?

    そんな事をしていたら、何にも集中できなくて疲れてしまいます。
    無意識に、呼吸だって、血圧だって、体温だって統合されています。
    こういう領域に関しては、
    意識は何にもやってはいないのですから、、、

    仮に、こういう(生存)領域の統括を意識に頼めば、
    感情次第で好きな事だけをやる、
    嫌な事はすぐに止めてしまう。
    行き詰るとすぐに死にたい、と口走るおバカな意識なぞに
    呼吸や、体温調節を任せられますか?
    バカな意識に、まかせられないではないですか!    

    あはは。

    我々の命を生み出した、この大自然、宇宙そのものの存在は、
    アホな意識には、命を守り、支配する権限を与えていないのです。



    みんな、これらの機能は
    ご本人の意識、意志とは関係なく機能する無意識系へ
    我々をこの世へ生み出した天然自然の力はゆだねている。
      --- この事実!

    だから、自律神経系と名付けられたのですが、
    宇宙とつながった大自然との調和で命の恒常性を保とうとする
    体内のホメオスタシスのおかげでしょう?

    これを、今から86年前 (1932) 、アメリカの生理学者 W・キャノンは、
    著書で 『人体の知恵』 という表現で提唱しています。
    初めての方に、少し説明をしましょう。

    生きている間、私たちの生体内の諸器官は、
    どのような気温や湿度など外部環境の変化においても
    自分の体位や運動機能、運動量などの身体的変化においても、
    それに適応できなくて死に至らない様に、
    常に命の生体機能の秩序が、生存に適した一定の範囲内に保たれるように
    しようとする性質があり、体温や血液量や血液成分などの身体の内部環境を、
    生存と云う目的を果すように全身が統一的に働き続けています。
    随意神経系である体性神経系と対照して、
    循環、呼吸、消化、発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝の
    ような不随意な機能は不随意である「自律神経系」が制御しています。
    自律神経系はホルモンによる調節機構である内分泌系と協調しながら、
    種々の生理機能を調節しホメオスタシスの維持に貢献しています。
    これに免疫系を加え「ホメオスタシスの三角形」として扱い、
    この性質をホメオスタシスと名づけた。

    体温や血糖値の正常範囲外への逸脱は、
    = ホメオスタシスが失われる --- これは生体恒常性の異常で病気。
    生体恒常性の表われが、自然治癒力。

    ーーーーーーーーーーーーーー

    これらの生体維持装置であるホメオスタシスも、
    大地の上での安定が前提です。

    意識は、頼る。 と言うのでしょうが、
    無意識にまかせて言えば、生かされているのでしょう。
    なによりも
    これを意識が自覚しようがしまいが、
    私たちは、自分の生活の場である足元の地面が微動だにしない、と
    安定しているのが当然だ、と疑わず、
    信じています。


    地震が、今来る? いつ来る?
    疑っても仕方がない!    あはは。

    何を成し遂げたと威張ったり、
    お金に換算してほくそ笑んだところで、
    そんなもの生きている間の誤魔化しの道具には成り得ても、
    これから向かっていくあの世、死に対しては何の役にも立たないのです。
    そこは、道端に生えている草の方が強靭に見える。
    あるがままの生を享け入れて、
    精いっぱいの生き死にを楽しんでいるように見えます。
    生に有頂天にもならず、死を疎んじる様もなく自然と共にある。
    その生きざまは、仏の成仏の境涯のようであると、
    天台は『摩訶止観』に書いています。

    所詮、人間は草よりも弱いかな?
    ありのままでは一時も居られない存在でしょう。
    キレイなおべべを着て、飾らずにはいられない性分です。
    そここそが意識の本領、嘘で固めたがるのです。    あはは。

    せめて、足元だけは穏やかでいて欲しい。
    大自然を頼って生きているからこそ信じていたいのです。  ほほっ。

    感謝をしなくても、望まなくてもあるもの、ありがたいこと。



    我々の命と云うものは、無意識に根を発しています。



    意識中心、意識できる世界だけをターゲットにする近代合理主義は、
    この無意識の世界『陰』を排除しています。

    意識が作り上げる学問なんかに命が、分かるわけがないのです。 ほっ。

    生も、、、ああだ、こうだ、と云いながら、
    学説をクルクルと変えながら、
    それを進歩だと云いながら、未だに分かっていない。
    生も分からない意識に、死は、手も出せないはずです。

    生も死も分からないで迷っている意識に、
    ただただ、死を遠ざける事だけで胡麻化している意識に、
    幸せとは、なんて論じて言い得る力はないはずです。
    さもあるかのように口にする学者先生には、あほらしい限り、   
     
    ほほっ。    ごめんあそばせ!



    死を意識の彼方へ追いやって、無視をして、
    生の楽園ばかりに光を当てて飾り立てる狭いドームの中に
    影ばかり、薄暗い空間に我々は閉じ込められています。

    見上げれば見えるのは、電飾ライト?  あはは。
    はたまた、ステンドガラスでしょうか?
    生の楽園ばかり、と書きましたが、 
    ほんとうに楽園なの?

    意識が感じ得る「楽」を掲げるしかないキリスト教の限界
    「楽」を具現した天国を信仰の到達地点とするしかないキリスト教理の限界、

    天国すら有るのか、無いのか分からない?
    神を否定した科学革命から出発している現代科学ですが、
    しかし、科学の世界観は、キリスト教理の世界観から一歩だって出ていない。

    そうでしょう?
    科学が神を否定したと云うのなら、
    神の説く天国なるものが、どこに存在するのかしないのか、
    証明して見なさい!
    科学的実証を示すべきでしょう!

    それすらしないで、神の世界観の中で安住をしている科学は、
    ただ、真に根本的な真理追求から逃げている輩に違いない。
    僭越ですが、そう申し上げておきましょう。


    天国の存在は、
    意識の能力である、想像、憧憬、の域を出ていないのでしょうね?



    真に実在する処なら、飾り立てる必要は無いのです。
    あなたは、あなたのふるさとの話をする時に、
    あなたのふるさとを金銀やステンドグラスで飾り立てようと思いますか?
    なにの飾りもしようとは思わないはず、
    なぜなら、間違いなく故郷は存在するものだからです。
    誰に否定されようとも、主観的にも、客観的にも
    間違いなく存在するものだからです。
    ひどい言い方をしますが、
    天国は、神は、
    想像の中にしか無いから、実感に近づく為に飾り立てるしかないのです。
    実感とは、意識に影響を与えている五感が集めるものです。
    どれほどの実感があっても、100%間違いはないとは言えないのに、
    意識は実感に、こよなく信頼を寄せています。
    その実感に向かって、これでもか! これならどうだ! 
    光の下で、耳へ賛美歌を、昏い閉鎖的なドームに閉じ込めて、
    目を閉じて、外の世界を遮断して五感へ訴えようとするのです。

    これで芸術の発達には貢献したのでしょうね。


    本来、
    その空間が、真に真理なら、なにもなくてもいい。
    青空の下の木の下で、あばら家でも、どうでもいいのです。
    東洋で、人が聖者と向かう構図は、自然のなか、青空の下が普通です。
    迹門の仏・釈迦が解脱をしたのは菩提樹の下でした。
    仏教では、宗派は違えど本尊と対峙するのは、
    虚飾を払った庵、絢爛とは程遠い修行の道場であったはずです。


    絢爛豪華、美辞麗句、
    人間の能力が及ぶ限りの芸術の飾りを施して
    美辞麗句で飾った近代合理主義のドーム
    我々は、このドームの中にいて外の自然を捨てていませんか?


    近代合理主義のドームを外してみれば、
    そこには、広大な、宇宙大の空間が広がっています。
    何の飾りもない、ありのままの、生死の現場が、
    深く静かに、果てしない無意識の世界が広がっています。

    絶対に、意識が及ばない世界です。

    我々の命は、個々の意識が自覚しようと、しまいと、
    この無意識の存在に支えられて、生かされています。


    我々の命の営みと一体になって命を支える力を
    それを、『徳』と謂います。

    『徳』に触れる事が、智恵なのでしょうね。
    そこにはロジックはありません。

    近代合理主義が尊ぶロジカルな説明は意識の稚拙な方法論でしかないのです。


    ― つくづく最近、近代合理主義は邪教であると思えてきました。   





    私たちは、自分の内側の『徳』と、この大自然の『徳』、
    それが合致しているからこそ、今、ここにいます。




    このことはすごいことなの。
    生とはそういうもの、

    それが普段の意識には分からないのですね。




    大地に絶対の『信』を置く。

    それがあらゆる生命活動の生成発展の礎です。
    無意識の内にあらゆる生命の生成発展を生むもの、それが『徳』です。

    『徳』とは、光り輝くものではない。
    色彩や形象や言葉で飾り立てるものではない。
    見えるものではない。
    言葉で表すものではない。
    意識が捉えられるものではないのです。






    ★ーーーーーーーーーーーーーーー 大地・『地』の『徳』 は、『信』





    大海原の底にだって、地球の土があります。
    大地は、あらゆる処で生物の生の土台となっています。
    言い換えれば、
    地球そのものこそが生物の生の発生装置なのです。


    東洋の陰陽五行学では、大地を土、その本質を【土性】と謂い

    大地へ
    『信』の徳性を与えています。 




    あらゆる生物の母体である大地とシンクロする
    『信』の『徳』が、我々の中にもある。
    あらゆるものの中にもある。



    『信』とは引きつけて止まない地球の力、引力、重力の力であり、
    この力を地球上のすべての存在は平等に享受しています。

    私たちの心にあっては引き合い寄せ合って安定しようとする力、
    合(ごう)の力、信頼の力です。
    これも、あらゆる生物においてそうですし、
    人間、種族や民族、家族、あらゆる群れの行動として自覚できます。



    つまり、生を守り合う、生を全うしあう共同体意識とでもいいましょうか、
    この原理を生き方、生活に訳せば、
    どういう書物だったか忘れてしまいましたが、
    かって読んだ古代中国のある書物には、
    『孝』の『徳』のない者は、この大地の上に立っていられないーーー
    それは
    大地の神が、親不孝者の生命の生成発展を許さないから、
    大地の神が不孝者が立っている地面を揺らす。 
    と書かれてあります。





    しかし、東洋の世界観から観れば、
    色心不二(しきしんふに) 肉体と精神は一体であり、
    境智冥合(きょうちみょうごう) 主体と環境は一体なのですから、
    これは地震の本質論であろうと思います。






    さまざまな気候的風土的な違いによる文化の差別を包み込む
    東洋の地にこそ、『陰』の真理が眠っています。


    総務省によると2016年の「親と同居の未婚者」いわゆる
    パラサイトシングル(20~44歳)は約1300万人。
    親元から自立できず新たな家族を持てない若者は
    90年代から増えに増え続けている。

    いや、もう若者じゃない。

    40〜50代の親同居で未婚は『黄昏同居』と呼ばれるらしい。
    1995年116万人だったのが2016年には263万人、、2倍以上に増えている。
    終身雇用が無くなり非正規雇用が増え、
    十分な賃金と安定した未来を確保できなかった世代が、
    両親の年金収入を基盤に生活せざるを得ず『黄昏同居』へと移行していく。
    3世代同居は夢のまた夢。
    中年になっても自分の足で立つ事すらままならない現実がそこにあるのだ。



    近代合理主義は、『陰』の世界、絶対界を捨てて
    人間の意識が全てを決める相対世界の中で中心に居座っています。
    意識には、動物の意識だって、
    魚の意識だって、在るって言うのに!
    東洋の仏教においては、植物や石や物にさえ意識が在ると説いています。

    そういう仏説を差し置いて、
    科学革命以降の人間は、人間にしか意識がない!と、
    傲慢にもうぬぼれて、驕慢の限りを尽くして
    人間の意識で全てを相対化してきました。
    自由だと云う言葉を造語し
    人権と云う言葉を造語し、
    本質からかけ離れた言葉で人間の欲望を覆い隠して来ました。


    相対化は偽善です。


    そう、『陽』は現象界、はかなく消える『偽』の世界でした。

    そして、偽を纏う言説が生まれては消え、消えては沸いて来る


    ― つくづく最近、近代合理主義は邪教であると思えてきました。   




    もう一度、大地の創造性の話へ戻りましょう。
    大地の想像性とは、火山の象残活動です。
    これは大地の過去でも未来でもなく、現実です。

    大地の現実について
    環太平洋火山帯と隣接する火山地帯で大きな噴火が相次いで起きています。

    カムチャツカ半島のシベルチ山、クリュチェフスカヤ山など5大火山。
    インドネシアのシナブン山、アグン山。
    フィリピンのマヨン山。
    パプアニューギニアのカドバー島。
    バヌアツのアオーバ島。
    ソロモン諸島のティナクラ火山。
    アリューシャン列島のグレート・スキン島、ウニマク島
    メキシコのコリマ火山

    アメリカ、ワシントン州のセントヘレンズ火山も。

    日本列島でも火山噴火が相次いでいます。

    群馬県の草津本白根山。
    鹿児島県の新燃岳。

    以上が環太平洋火山帯の2017年から現在までの状況です。

    東日本大震災後まで遡ると、日本では
    西之島
    御嶽山
    浅間山
    口永良部島
    諏訪之瀬島
    度々噴火している桜島もそうです。
    他に、白山、阿蘇山、男体山、蔵王山、
    ここでは、火山性微動や、火山性地震が観測されています。

    今後、警戒されている東海~東南海の大地震とこれらの火山活動は、
    近い将来起こる巨大地震と大津波を予感させるのに十分です。
    日本は環太平洋火山帯の一部です。








    今日の記事は、

    ☆ 東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 4 

                       美辞麗句 <平等>








    東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみると、
    近代合理の相貌は、どんなもの? 第4弾です。


    シリーズ1. では、片目でした。
    シリーズ2. では、「妊」の喪失でした。 
    シリーズ3. では、美辞麗句としての<自由>
             

    近代合理主義のことを、片目だとか、子供が生まれないとか、
    近代合理主義の云う自由は美辞麗句でしかないとか、
    それは、他者を拒んだ自己防衛の言葉でしかないとか、
    ひどいケチばかりを付けて来ましたが、
    今回の美辞麗句は、平等!


    確かに封建制度を壊した政治理念としたら画期的なのは認めますが、
    それは、政治、統治制度としてでしょう?
    それを、人間存在の哲学的な普遍性を持つ価値観として
    敷衍していくのはどうなのでしょうか?

    近代合理主義の普遍的?価値観は、みんなチンプな美辞麗句、
    これが、近代合理主義の本性である。
    今日は、と云うような記事になろうかと思います。


    美 とか、 麗 とかの文字の怪しさ、嘘嘘しさについては、
    前回の記事に書きましたので省きますが、
    美辞麗句の言葉の意味については、再掲致します。

    * 美辞麗句を調べますと 美しく飾った、聞いて心地よい言葉とあります。
    甘い言葉 ・ 甘言 ・耳障りのよい言葉 ・ 耳当たりのよい言葉 ・
    口当たりのよい言葉 ・聞こえのよい言葉 ・。
    人の心をくすぐるレトリック ・ リップサービス ・ 巧言令色
    何気なく聞くと、とても魅力的に思えてしまう言葉のこと。だそうです。


    東洋的視座・陰陽相対の世界観から見ると、
    近代合理主義の相貌は人の心をくすぐるリップサービスである。


    ほほっ。



    そんな~ 
    リップサービスなどしてくれなくったっていいのよ。
    生まれたままの自分で十分ありがたいのに~
    自分のありようそのままで十分ありがたい。






    さて、今回は、
    美辞麗句で<平等>という言葉の氏素性について取り上げます。




    西洋哲学における(平等)について ーーーーーーー★




    間違いなく絶対に消滅する 『陽』 現象界  
    現象界の全ては、『時』に淘汰される存在です。


    つまり、無常。

    この無常感が、西洋には無いようです。
    それは、西洋は意識の世界しか知らないからです。


    それはどう云う事かと云えば、
    厳蜜には、
    意識に、自発性はありません。
    常に他者、他所に依存をしている存在です。
    常に、周りの刺激に染められているのが意識であろうと思います。



    では意識の本体は何なのか? 


    意識は、意識自体が顕在化していられる「生」を守りたいのです。
    意識には無意識界である「死」後の事が意識できません。
    意識できる「生」での状況が無くなる事= 「死」が絶対の恐怖なのです。
    この死への恐怖の為に、当然ですが、
    そこから引き出される「生」への貪欲な執着そのものが意識の本体です。  



    その為には他者の命を奪います。 
    これが、戦争の原理です。 

    これを、大乗仏教では『元品の無明』と謂い、
    がんぽんのむみょう = 「死」が分からず生死の意味に迷う段階であり、
    これが西洋の謂う処の利己主義・エゴイズムの根源です。 




    意識の役割は、
    自分の「生」を守る為に、
    自らを取り巻くあらゆる情報を収集するアンテナである感覚器官を使って、
    「生」だけに貢献する従僕の役割です。

    意識がこの「生」の従僕の役割の分限に徹しているだけなら、
    まだ許せるものをこれを大きく逸脱させたのが近代合理主義です。



    近代合理主義は、
    「生」の従僕でしかない意識に、神の立場と権限を与え、
    絶対界である無意識界を排除しました。  



    ここから今に至る欺瞞と、悪の世界が生じている。 



    これを本質論から言い換えれば、
    今を盛りに地球上を席巻をしている近代合理主義によって
    神の座に祭り上げられてしまった意識のみじめな姿が見えて来ます。



    原理的には、
    意識できる範囲の他者、他所に依存をしている意識には、
    意識できない未来が分かりません。
    ただ「死」を恐怖して苦を避けたいのです。
    それが、意識のエネルギーの全てでしょう。
    意識の氏素性、身分は、
    過去からの蓄積である無意識層からの現象でしかないからです。


    真の自発性の発動は、無意識層からです。




    近代合理主義の社会では、
    五感の達する領域で意識が捉えて作り上げる知識が一番大切です。
    その為に子供達は、昔なら所帯を持ってもいい年齢まで学業をして、
    社会へ出るようになっています。

    それなのに、
    その知識自体は、意識のキャパの枠組みの中へはめ込まれた知識です。
    肝心の意識が掴めない領域の内容は、省かれています。

    だから、我々は、近代合理主義の知識を知っても賢く成れません。
    知識が智恵にならないと云うのはこの理由です。

    なぜなら、
    近代合理主化で行われる教育、社会生活下の習慣に依って
    『陰』の領域への扉を閉ざされた我々の脳の機能は、
    見えない『陰』の世界については、それ以上知る必要はないと、
    智恵から湧き出る創造の自由を奪われて堂々巡りをするからです。
    その内、近代合理主義のこの特徴によって、
    我々は、創造性のない馬鹿になってしまう。
    これが、知識をいくら持ってもバカになる、だけではなく、
    生物としての命の継承力を失うのです。
    これが、現代の愚かさです。

    近代化された先進国から少子化が起こっている事からも明らかです。
    教義が近代化を阻むイスラム圏の人口が増えるはずです。


    それゆえに、
    (この言い方って、近代合理主義的ですが、、、)  あはは。

    近代合理主義の論理性では、『陰』を理解するのは無理なのです。
    合理主義の現代の学問では、無意識・『陰』を学問の範疇に入れていない。

    意識が掴めない領域は存在しないのである!
    オカルトとして無視をせよ!
    これが、近代合理主義のお作法と心得よ!

    あはは。  笑っちゃいけませんわ!

    でして、、、これが近代合理主義の印籠です。


    こう云う場合、逆に、感心をしますのは、
    結果的に、近代合理主義が、
    無意識・『陰』を否定した事は、正直この上ないのです。
    正直さの美徳でとでも言いましょうか?     ほほっ。

    自らの意識の限界を正直に証明している。

    なぜなら、出来もしない事を、できると、
    ココだけはウソを言っていない訳です。




    このブログでは、普段は必ず
    近代合理主義は、『陰』を捨てていると非難悪口を言っています。
    近代合理主義は、『陽』の世界のみの言葉です。
    しかも、近代合理主義で解るとは、
    「説明」する言葉を読んで、、、「解る」となります。

    段々説明をして、結論を導くやり方です。
    これを、哲学的には「帰納法」と言い西洋哲学は、これです。
    近代合理主義の合理の上で、「解る」です。

    意識できる範囲の「解る」です。

    ところが、意識は人によって違いがありますから、
    「解る」にもいろいろある訳です。
    それらが、さまざまなロジックを生む。

    一つの過程における仮の論、方便「ウソ」ですね。
    これは、どちらかと云うと、男性の思考方法です。



    反対に、無意識・『陰』に関して書こうとすれば、
    人間の営みが作った「言葉・文字」と云うものは、
    意識が作ったものですから、『偽』を孕むと謂います。

    言葉は、『偽』です。
    本質は書くことができない。
    ここに書いている文章、言葉も、その範疇でしょう。

    つまり、いわゆる、生や死、に対しては無能だと云う事です。

    時・時代によって中身まで変わって行く「言葉・文字」では、
    無意識・『陰』のそのものを表したり、書けないのですね。
    無意識・『陰』は、もう結論だけがあるようなもの!  

    それも、ポッとひらめく様な、とらえどころのない存在です。
    しかし、それらは実現する。    あはは。

    有無を言わさずに、~である。と断定できます。

    これを哲学的には「演繹的」と言い、東洋哲学はこれです。


    これを書きものに残そうとすると
    ~みたいなモノ、の様な一つのロジックで書く事はできるでしょうが、
    それは、もう『陽』の偽性に触れてしまってウソになる。

    これで、始終、立ち止まって悩んでおります。
    無意識が、私に「書けるものなら書いてみろ!」と、
    ひらめきの様なエネルギーを寄こします。
    それだけで喜び、うれしいものですが、
    「書け!」とは、
    難題苦悶、熾烈な修行のようなものです。



    近代合理主義で導き出された一つのロジックは、
    全体からつまみ出した一時の仮の理、方便ですから、
    ゾウのしっぽだけで、ゾウを知ったと思い込むようなものです。
    絶対に意識は全体を捉えることはできませんから、
    そのロジックは『陰』の根源からみると、全くの勝手な偏見・ウソです。

    『陽』が、『偽』とはよく言ったものです。

    つまり、ゾウを知った事にはならないでしょう?



    ★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー西洋哲学は部分知です。



    智ではありません。
    知っただけの知です。



    西洋と云う処は、何千年もこの部分智をさがして放浪している状態です。
    知る事を求めている状態です。

    それに引き替え、東洋では、
    うつろいやすい自然から、今目の前にある知は『偽』である。
    と見抜いたのです。


    『陰』は知るとか、知ったから書き残すとか、そんなレベルではない。
    書いて残す現象に、本質は宿らない。

    それを謂うに、
    智恵の塊(かたまり)、溢れる創造力のような、、、

    『陰』に関しては、ロジック化をなるべく避けなければいけない。

    ここが、苦しむ処です。


    これを伝えようとするのは、このように、
    私の無意識と、このブログの読者の無意識がつながっている、
    その事を信じながら何を書いているのか分からない事を書くしかないのです。

    それを難しいとお感じになるでしょうが、
    ムズカシイは、智への入り口です。 
    難しいのが分かる のが= 智恵です。
    知らなかったのを知る = 知ではありません。
    知る事=知識ではなく、
    それはそのまま智=智恵にならなければ、ウソです。
    物事を動かせません。
    あ、 もうこの辺もムズカシイですね。   あはは。



    江戸時代まではいざ知らず、
    戦後の日本人が教え込まれてきた
    「民主主義や経済自由主義は普遍的な善」は、必ずしも正しくはない。

    最近は、経済界の中にも
    こう云う意見、人が増えてきたように思います。
    私は、もともと、
    民主主義や自由主義経済について「普遍的な善」であるとされていた中で
    それはおかしいと疑問を持っていたわけです。


    資本主義がキリスト教の母体から生まれてという事だけをみても
    もう嘘嘘しいのは分かりますが、
    そんな簡単に普遍的な価値や善があるものではない。
    と云う懐疑があったからです。

    おそらくですが、キリスト教が、人間の意識に
    天国の存在を刷り込みに成功をしたように、
    簡単に都合良く、
    世界中が、西洋に注目をして夢中になるように
    また、かりそめの真理や普遍的な価値だというのを作り出したのだ、と
    気が付いていました。

    自由、平等、人権と云うような言葉群、
    今の我々の周りにある言葉群は、
    近代国家日本の中で守られているだけのものです。
    決して普遍的な存在感を孕んだ言葉群ではない。
    一時的にせよ、それはそれで、ありがたい状況ではありますが、
    世界には、それを否定する考え方はれっきとしてあります。

    我々に保証されている自由や平等、人権は、
    日本が侵略されたり、どこやらの属国になったら、
    吹き飛ばされてしまう軽い価値観でしかない。


    わたくしたちは、
    単純に「民主主義が善、権威主義は悪」という価値観では生き延びられない
    世界で暮らしています。
    この現実を、日本国民は理解する必要があると思うのです

    ------------------------------------------

    次の文章からは、マスコミからの引用です。

    “本来の意味”とは違う使われ方をしている格言は少なくない。
    明治初期に福澤諭吉が『学問のすゝめ』の冒頭に書き記した
    「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の意味は、
    人間の平等を表わす言葉とされているが、
    その解釈は表面的すぎる。歴史研究家の井手窪剛氏が指摘する。

    「福澤はその後に、
    “人は本来平等なはずなのに、貧富の差や身分の差があるのは何なのか”と
    説き、『賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり』と
    結びます。つまり、学問をやるかどうかで差が付くのだ、ということが
    言いたかったのです。

     福澤自身、学問のおかげで下級武士の貧しさから脱することができた。
    彼が紹介したかったのは、
    あくまで米国型の“機会の平等”という概念であって、むしろ学問によって
    差が付く“結果の不平等”は積極的に肯定しているのです」

    聖徳太子の『十七条の憲法』にある「和を以て貴しとなす」も、
    誤解されがちな格言だ。『ざんねんな偉人伝』など歴史関係の著作が多く
    ある真山知幸氏はこう説明する。

    「『波風を立てるな』という意味で使われることが多いのですが、本来は、
    『意見が異なるのは当たり前だから、よく話し合え』という意味で、
    議論の大切さを説いています。飛鳥時代の政治改革において、
    “話し合う”という価値観が重要とされたのです」

     武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀」は、
    「人を大切にしろ」という意味とされているが、
    前出・井手窪氏はそんな生ぬるいものではないとして、解説する。

    「文字通りに捉えるべきです。信玄が国主になったとき、
    甲斐の国は財力が乏しく、立派な城がありませんでした。
    家臣たちの武力を城の代わりにしなければならないというリアルな事情と
    して、『人は城』と言ったのです。“人を大切にする”どころか
    家臣を“人間の盾”扱いしたとさえ言えるでしょう」

    ※週刊ポスト2017年10月27日号

    -----------------------------------------------------


    ・旧陸海軍の意志決定メカニズムを分析した著書『失敗の本質』を書いた
    野中郁次郎の伝えるべき教訓というのは、たった一言であった。

    「何が物事の本質か」
    これを議論し突き詰める組織風土を維持し続けることだ、それに尽きる、
    ということだった。

    ・日本の組織は、創設当初は独創力もあり人事も柔軟で、優れた対応能力を
    示す。しかし、20年、30年と時間が立つにつれて意志決定がゆがんでく
    る。とかく、人間関係や過去の経緯など本質でないところを拠り所として、
    重大な判断が行われるようになりがちだ。

    だから、つねに、何が物事の本質かを追求するように個々人が心掛けると同
    時に、組織のシステム、風土も常にそこに意を集中しなさい、ということ。


    -----------------------------------------------------------------

    ★ ことばポストモダン について

    現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする
    言葉。各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失し
    てしまった現代的状況を指す。現代フランスの哲学者リオタールは、著書の
    なかで用いて、広く知られるようになった言葉である。
    リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によ
    って、真理と正義へ向かって進歩していく」「自由がますます広がり、人々
    は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、
    情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向
    への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの
    条件』1979年)。また、ポストモダンという言葉は、ポスト構造主義の思想
    傾向を指す言葉としても用いられ、その際はポスト構造主義とほぼ同義であ
    る。唯一の真理をどこかに求めようとする思考を徹底的に批判しようとした
    デリダ、近代は自由を求め拡大したのではなく、むしろ人々の内面と身体を
    管理する技術を発達させたと述べたフーコーなどは、共に、近代的な物語を
    解体しようとした思想家として見られるからである。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


    いろいろ、ここまで
    近代合理主義の悪口を書き連ねて来ましたが、
    ここで、重要な事は、
    誰が一番平等と云う理念を欲していたのか?と云う事です。
    さる時代の、彼の国の人民? 
    不幸な階級制度で苦しんでいたさる国の民衆なのでしょうか、
    学校で教えられたこれらに関する歴史認識について懐疑を持っています。
    これについては、もっと長くなるので今回はやめにしますが、
    本当に平等を実現したかったの主人公は誰だったのでしょうか、、、


    近代合理主義のきらびやかに飾られたドームの中、
    その壁に、平等と云う看板が掲げられてから、
    それよりも、もっと大きなテーマである人権という価値の為に、
    我々は、誰もが自分を喜ばせるお花畑を求める権利がある、と
    全員が、誰もが快楽を追求する権利があると、
    追求する努力の程度も振り返らずに、欲望だけを増幅させていませんか。

    そこには、
    今までに無かった正義が生まれています。
    誰もが、こうして各自が自分の人権を主張をして
    自分の不幸は社会のせいで、それは悪なのだと、
    それと高う事が正義であると、思い込まんではいませんか。

    自分が幾分か進歩したと、
    自分も、かっての王侯貴族とまではいかないけど、満足、満足!
    もう、ほどほどでいいんじゃない、となかなか思えなくて、
    もうちょっと、楽しいこと、五感を満足させることを!
    いつのまにか、
    快楽に浸りたい~   あはっは。  っている!?
    ならいいけれど、人並みだって云う自己満足をしたいために、
    冴えた意識だけが、どこか、快楽主義を演出している情報の渦の中で
    キョロキョロしているのです。

    この演出をプロヂュースしているのは、自由と平等です。




    近代合理主義は人の心をくすぐるリップサービス? ーーーーーーーーー★




    そう、その中身がないことが分かっていても、
    口で言われるだけで嬉しい、、、
    慰みになる、、、



    そういうものに、人間の脳は、直ぐにOKを出します。
    そう、そう、それそれ、それでいい、それが正しいのさ。


    つまるところ、脳は、正義がお好き!      あはは。

    つまり、中身はないけれど感覚器官が喜びそうな?
    意識(心)に受けがイイ言葉です。

    それは、つまり、嘘

    近代合理主義のロジックの中には、
    人間の欲望が喜びそうな、好きそうなテーマやタイトルが!  
    たとえば、
    ほら、ほら、
    平等、自由、永遠、と云う言葉などが、
    まるで王冠に散りばめた宝石のようにキラキラ光を放って眩しい位!
    まるでキラキラネームみたいです。

    これらは、みんな嘘? 
    中身のないレトリックなのでしょうか?


    現実を見てみましょう。
    自由と平等と博愛の旗を掲げて来たフランスにおいてさえ、
    自由と平等の実現には苦労をしています。


    フランスの新大統領となったマクロンの下でもフランスが難民問題を解決す
    ることは不可能です。
    経済だけでなく、テロ対策の上でも深刻な問題として横たわります。
    ルペンを移民排斥主義者と規定する向きがありますが、
    これは正しくありません。
    彼女は年間1万人の移民を受け入れるけれども、
    無制限な移民受け入れには反対すると表明しているのです。


    また、「ドイツのための選択肢」も反移民政党ではない。
    もともと彼らはユーロに反対し、マルクの復活を主張するエコノミスト色の
    強い政党でした。しかし多くの難民がドイツに流入して社会問題になる中、
    理性的な対応策を主張したところ、大衆ヒステリー的な批判に晒され、
    極右政党というレッテルを貼られてしまったわけです。

    現在、ドイツでは軍、教会、行政組織など、本来は保守的であった場所にま
    で移民が入り込み、拒絶できなくなっている。
    ドイツ人は「ドイツ語を話しドイツの文化を愛しドイツ人らしく生きる」と
    いう当たり前のことが言えなくなってきている。そんなことを言えば、途端
    に排外主義者扱いになってしまうわけです。


    かつて作家の三島由紀夫は、
    1970(昭和45)年7月7日、『サンケイ新聞』(当時)夕刊で日本の行く末につ
    いて、「からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、
    或る経済的大国が極東に残るのであろう」と述べました。
    この三島の表現を借りると、EUは単なるニュートラルな経済共同体になり、
    欧州としてのアイデンティティはなくなってしまうでしょう。
    そして最も「からっぽな経済大国」になろうとしているのがドイツです。


    むしろ移民問題にしっかりと対応しているのはポーランドやハンガリーなど
    東欧諸国です。こうした国々は冷戦時代にソ連の抑圧を受け、国内の民主化
    運動を蹂躙された経験があるからこそ、国家の独立や民主政治について明確
    な意識を持っています。

    難民問題について、最もはっきりとした主張を述べているのはハンガリーの
    オルバン首相です。彼は、自国の受け入れ対象はキリスト教徒の難民のみで
    あると述べており、これは至極当然の主張と言えます。

    現在、欧州ではイタリアのNGOなど、左翼勢力の手引で対岸の北アフリカか
    らの難民を受け入れており、難民条約を批准している国々も人道上の理由か
    ら難民を拒否できずにいるのです。

    EUはソ連崩壊やユーゴスラビア内戦の際、東欧諸国からの難民を受け入れ
    る態勢をとっていました。あくまでも同じ欧州地域からの難民が対象です。


    ところが、現在は民族や信仰がまったく違うイスラム圏の難民を受け入れて
    いることが問題です。経済難民を際限なく受け入れていては大変な事になり
    ます。国家の解体、そして日本の間接侵略に繋がります。日本にとっては、
    中国との関係を考えれば、非常に分かりやすいと思います。

    朝鮮半島と日本はそれほど離れていない。当然、難民問題にどう対処するか、
    という問題は危機管理の上で想定しなければいけません。


    そもそも私は国際難民条約について、根本から疑問を持っています。


    シリア難民問題はあくまでもシリア人の責任であり、無条件に外国から難民
    を受け入れれば国家は滅びます。普遍的人道主義に囚われて難民問題を論じ
    るべきではありません。

     
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    普遍的人道主義って?
    何をもって普遍的なの?
    人道主義って、地球上で人間が一番、上って言うこと?
    つまり、人間ファーストって言うことなの?


    人間よ、うぬぼれてはいけない。



    ★ーーーーーーーーー法律(紙)に書いた自由と平等の行き着く先は画一化



    『ほしいものが、ほしい』という自由と、
    個性があるものに魅力を感じると云う事は矛盾しますね。

    ある日の、某コンビニで、
    某プレミアム商品がずらりと並ぶのを前にした時、
    私は再びこの矛盾が心に突き刺さってきました。

    食品から生活用品まで全て、ロゴと色彩を統一されたパッケージ、
    それぞれのメーカーのカラーを排除し、匿名性でパッケージングしてある。
    プレミアム商品とそれ以外のメーカー独自で販売している商品を
    あえて並べて陳列し、アピールしてる商品群を見て、
    『これって、ほしいものだった?』 うれしくない自分が居ました。
    贅沢かも知れませんが、
    ほしいものって、自分でしか見つけられないものってありますよね。
    心を揺さぶるなにか、そう云うものに自分の対価を支払う喜びがあるのに、

    皆が欲しがるものをマーケッティングされて、
    ほぼ一緒だからって、平等に誰もが買う事が出来るように?
    ああ、私たちは画一的な人生を押し付けられているんだなあ、って
    飽き飽きしませんか?


    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    西部先生の長良川河口堰への問題意識

    長良川河口堰が、これほどこじれた問題になった理由は、
     『長良川流域の人々の生命と財産を守る』という言葉だった。

    生命、財産、これらの言葉が持つ普遍的とも思える価値観を
    振りかざした説明が、権威的に受け取られてしまって合理主義的なロジック
    では人は説得できないと云う経験の記事をコピペします。

     
    ★西武先生が、「天下の印籠が見えないかという君の権力的な態度が、
    事業がこじれてた最大の理由ということが良く理解できたよ」
    と言って席を立たれてしまったのです。
    私の言葉によって、西部先生が長良川河口堰への
    不信感を持ってしまったのです。

    【上から目線】
    全ての著書を読むほど西部先生を尊敬していました。
    その西部先生に私は打ちのめされてしまったのです。
    「生命と財産を守る」という言葉には、誰も抵抗できません。
    この言葉を使うときは「誰にも文句は言わせないぞ」
    という権力そのものだったのです。
    「生命と財産を守る」は、水戸黄門の「印籠」だったのです。
    上から目線での説明を、西部先生は独特の言い回しで指摘したのです。
    私の説明は丁寧であっても、人々の心に届かない言葉だったのです。
    国の虎の威を借りた言葉だったのです。
    その後も、長良川河口堰の説明をする日が続きました。
    しかし、もう「人々の生命財産を守る」という印籠は出せなくなっていまし
    た。
    印籠を出すことは、人々を伏せさせることだと分ってしまったのです。
    西部先生に打ちのめされた次の日からも、長良川河口堰の説明をする日が続
    きました。
    印籠を封じて、長良川河口堰を説明する難しい日々となりました。
    やむを得ず、自分の価値観が出る言葉は封じました。
    価値ではなく客観的な事実で説明することにしました。
    客観的な事実とは、長良川の地形、気象そして災害の歴史でした。
    その事実だけで長良川河口堰事業を説明していきました。

    【下部構造の説明】
    それから2,3カ月後、作家の曽野綾子さんに説明することとなりました。
    やはり緊張して説明をさせていただきました。
    その別れ際のご挨拶の時に、曽野先生が「竹村さんの説明は分かりやすいで
    す」と言われました。
    夢にも思っていない言葉でした。私は曽野先生の前で、緊張して長良川の災
    害の歴史と地形と河口堰の機能を説明しただけでした。
    もちろん、あの印籠は出しませんでした。
    その帰路で気が付きました。
    私は日本の下部構造、つまり地形と気象を丁寧に説明すればよい。
    政治、社会、哲学、宗教、文学などの上部構造には触れない。
    自分が得意な地形と気象の下部構造を表現すれば良い、ということに気が付
    いたのです。
    土木屋の私の役目は、下部構造を説明することだと明確に意識しました。
    この意識化は、その後の私の人生の指針となりました。
    西部先生の言葉が、私の人生の姿勢を左右したのです。
    西部先生に打ちのめされた時、私は44歳でした。
    それ以降、私は立ち直る努力を続けてきました。
    ずいぶん長い時間がかかっています。
    72歳の今でも、まだ、それが続いているような気がします。★★

    ーーーーーーーーーーーーーコピペ終わり


    えらく長くなってしましたが、
    お読みいただけたでしょうか?

    私たちは、いつの間にか、近代合理主義ドームの中にいて
    それが、果てしない宇宙や自然の絶対界を排除した処であると
    気が付きもしないまま生きていませんか?
    そして、無邪気な子供のように疑う事もなく、
    人間が作り上げた言葉を、飾り立てたデコレ―ションを
    それが、さも、生命すらを貫く普遍的な真理であるがごとく受け入れて、
    いつの間にか、神仏へ捧げる命の如く信じていませんか?
    意識が作ったものは全て『偽』を孕み、
    ある時は、どんなに輝いて見えようとも、
    物は物、言葉は言葉だけのものです。
    いいですか、言葉は言葉でしかなく、
    生や死を解決してくれるものではありません。
    道具は道具でしかありません。
    たしかに、過去、封建制度から解放する力はあったかもしれません。
    ある時は私たちを助けてくれる道具だった、かも知れません。
    未来は、私たちの命のリズムを乱し蹂躙する道具になるかも知れません。


    我々は、物事を刹那的に考えると善悪を気にしがちですが、
    歴史の連続性を意識しさえすれば、
    物事に白黒つけることさえも無意味なことに感じます。



    長い記事を最後までお読みいただきまして
    深く感謝申し上げます。


    無意識からのプッシュは、今も止みません。
    それをどれだけ、記事にできたのか不安はありますが、

    今回の様な、記事の構成も良いかな、と思っています。




















    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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