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    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から見る智恵   2    時の本質

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
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    早朝の山道







    一年が経つのは、あっと云う間です。
    月が過ぎて、日が経ち、新たな年、令和2年です。


    カレンダーでは1年の始まりは、1月1日ですが、

    東洋の暦においては、
    新年というのは、カレンダーの1月1日からではありませんのよ。



    今、一般化しているカレンダーというものは、
    明治の近代化以降、明治六年(1873)に西洋からやって来た太陽暦です。


    東洋運命学の暦は、
    カレンダーのように月や日を示す用向きばかりではありません。





    今日の記事は、

    東洋的視座・陰陽相対の世界観から見る智恵  2 時の本質



    昨年、
    平成から令和の御世へ元号が変わり、
    天皇の御世、元号が注目されました。
    一連の新天皇即位の慶祝行事、大嘗祭をご覧になって、
    近代合理主義の現代に慣れた目には、
    新鮮などこかに響く深い驚きの感慨に浸られた事でしょう。

    衣装や儀式のように目で見えるもの、だけではなく、
    その奥に潜むもの、
    この世に現世を形作らせている、その奥にある世界
    そこに潜む我々の東洋の自然観、世界観を感じていただけましたか?



    そこは、意識できない『陰』の世界への浅瀬、
    意識へヒタヒタと寄せ来る無意識からの波打ち際、
    西洋と東洋の自然観、世界観を分つ、東洋の無意識層への入り口です。



    本来の東洋の暦とカレンダーの違いが一番分かりやすい例が、
    冒頭で申し上げた
    近代化以降、明治六年(1873)に、西洋からやって来た太陽暦である
    カレンダーでは1年の始まりは、1月1日ですが、

    東洋の暦においては、
    新年というのは、カレンダーの1月1日からではありませんのよ。



    どうしてか?
    東洋運命学の暦は、
    1番目の月の1番目の日が、
    その年の始まりだと設定するカレンダーとは違うのです。


    東洋は、表示した順番じゃなくて、その中身なのです。
    東洋の叡智が、「時」の中身を見据えているからこそ、
    「時」に人格があるように名前を付けるのです。





    「時」に名前を付ける。これこそが東洋の世界観の特徴です。-----★




    まず、天皇の御世の名前、元号、

    元号とは、
    日本を含むアジア東部における紀年法の一種です。

    紀年法
    特定の年代に称号をつける。
    「時」という 意識で捉えられない存在に称号をつける。

    かっては李朝鮮も、そうだったし、
    シナは清王朝辺りまでそう、しかしすでに廃れて、
    現在では、日本だけに残っている紀年法のようです。

    今になっては日本だけに残っている伝統というのは、
    東洋の「時」の捉え方の残滓が、
    ここ日本に限って存在をしていると云う事です。

    これは、日本の特殊性です。
    考えてみれば島国の日本という地政学的な立ち位置が、
    異民族からの侵略を防いできたからでしょう。
    日本は、それだけ特異な奇特な国土なのです。



    「時」の捉え方に西洋と東洋の世界観が顕れるーーーーーーーーーーーー★




    東洋の運命学の暦は、
    現在のカレンダーのように
    単なる月や日にちの巡りを順序数で表す実用性だけでなく、
    宇宙における太陽の巡りや位置からの影響に左右されて我々の運命があると云うテーマが前提です。
    その年、月、日の刻々の「時」に、
    その運命の詳細が内包、網羅されている象徴と観ます。

    もっとわかりやすく言いますと、
    東洋には、我々人間、いや全ての存在は宇宙と元々は一体である。
    と云う世界観が前提にあるのだと思います。


    なぜ、西洋のように「時」を単なる過ぎ去っていく時として
    順序的な時として平板に一律に扱わないのかと云いますと、


    地球上の全ての自然界における在りようは、
    そのすべての生命の与奪の力は、
    地球上における生命の全ては、
    太陽エネルギーに負っており、かかっており、
    太陽の黄道上の位置によって享ける我々一人一人への影響こそが、
    我々一人一人の運命を左右するものであると云う見識からです。



    この見識が、古代中国において、
    ほぼ4000年前に成立していたと云う事は、驚くべき事です。




    現代では、太陽の位置、巡りを正確に知ることは、
    宇宙を物として見做す現代科学の下で、
    天文、気象、等の科学的データーでたやすい事なのですが、
    その昔、何千年も昔、
    東洋の我々の先祖の先達たちは、
    すでに自力で観測をしていたと言う事、
    そのことの方が、
    何もできない21世紀の我々にして驚きです。





    そもそも我が国の暦は、『日本書紀』に、
    欽明天皇14年(553年)に百済に対し暦博士の来朝を要請したとあり、
    わが国には、6世紀には伝来していたと考えられます。


    朝廷や幕府に、歴史学者と天文学者を兼ねた史官という役人がいて、
    日食、月食の予報や惑星の運行の推算(天体暦)などを行っていました。


    それらの過去の記録を「歴」と謂い、
    現在から未来に関する記録を「暦」と謂ったのです。

    つまり、現在から未来に関する記録が暦、
    つまり、暦は未来を扱うものだったのです。

    当然ですが、一番身近な命の糧である自然のありよう、
    農業の種蒔き時期から自然災害の予知、
    当然ですが、それらから予言的な性格をもち、
    星や太陽の位置から占う占術へと大きく関わり、
    それらを暦注と呼びました。

    歴史的に有名なのは、
    天皇から我が国の暦を任されていた土御門家です。

    土御門有修(つちみかど ありなが) が、詔によって、
    天文・暦術(陰陽・おんみょう)の両博士を兼ねることとなり、
    同家の子孫が天変地異あるごとに
    朝廷、幕府に警告する業を伝えて来ました。
    これが、安倍晴明が出た土御門家です。
    同家の子孫は、明治維新で華族に列し子爵を授けられています。


    東洋運命学の暦は、それを引き継いでいます。



    翻って、近代合理主義のドームの中で生きている我々は、
    科学技術の発達によって宇宙の果てから持ち帰った石や、
    遠く果てしない宇宙の写真などを日常的に見聞きし、
    太陽の黒点や電磁波の情報を、知りえる環境にいます。
    が、?
    それと我が身がどう云う関係にあるのか
    近代合理主義下、キリスト教理の世界観の中で
    考えたこともないのではないでしょうか?

    それはそれ、 

    私の今の運命と、宇宙のどこが関係あるの?   あはは。




    こう云う思考の底流には、
    知らず知らずのうちに西洋の無意識が侵入しているって!

    そして、いつの間にか、我々は東洋的無意識層を失っていく!



    全ての根本は一つと謂う東洋と引き比べれば、
    西洋の特徴は、あらゆるものを分割します。
    その原理はキリスト教理の二元論にあり、
    この世のあらゆる存在を真っ二つに切り分けます。
    そもそもが、神と人間は別物、
    神は創造主ですが、人間を含む他は神が創った物です。
    永遠に、クリスチャンはいくら信仰をしようが神にはなれない。

    神とは隔絶した世界に住んでいるのが人間です。


    (キリスト教理の)西洋の世界観の中では、
    完全無欠な存在は神だけなのです。
    神以外の存在は不完全な「物」
    神が創造をした「物」でしかないのです。
    つまり、神以外の存在は、対象「物」でしかなく、
    神が支配する物としての存在でしかありません。


    西洋では「時」に名前を付けるよりも、「時」は数えるもの。
    誰にでも、等質で均質な「時」が流れていく。
    時の流れそれ自体に意味はなく、
    物理的な捉え方で繰り返しを順序数のように数える。

    つまり、西洋文明とは、=キリスト教理
    「時」自体に、意味を持たせなかった世界観でした。





    これらは、一神教の世界です。




    実は、ヨーロッパにも多神教がありました。

    一神教のキリスト教に滅ぼされたヘレニズム文明です。
    この多神教のヘレニズム文明が、
    ユダヤ教に始まる一神教に滅ぼされてからは、
    現代に至る西洋哲学は、一神教の世界観です。


    そこから来ている。


    この一神教の西洋の神には、
    神にのみ意味があっても、
    見えない「時」に、意味なぞは必要がなかったのです。

    必要がある、ない、というよりも、
    見えない「時」そのものに意味や意義を見いだせなかった。



    理由は、
    一神教の神以外、すべての存在は、神の従僕なのですから、
    従僕の一つ一つ、時なぞに、名などあるとは、
    まさか、意味などがあるとは思いもつかなかったはずです。

    西洋哲学の世界観では、
    時に名など付ける必要もなかったのです。


    ほんとうですか?
    それなら、
    どこででも同じ均質な「時」の概念を科学から与えられて、
    それを信じ込んで、我々は、今生きていて満足なのでしょうか?


    一神教の神が創ったというありようではなく、
    大宇宙から生まれた私たちだから、
    いつのまにか一番大事な事を打ち捨てていませんか?




    一年はいつから始まるのか?
    運命学の暦では、
    令和2年の元旦は?
    2月4日の18時 3分 の瞬間で新年になります。

    もしか、この一分前、2月4日の18時2分 生まれなら、
    それは去年(己亥)の生まれになります。


    この何時何分という正確な数字は、
    現代では天文台、気象台でのデーターによっています。

    この日から我々の運命は、
    今年(庚子)の運命のリズムの中に入ります。


    節分を迎える2月の頃、1年のこの辺りから、
    来るべき来年の運は、どんなものか、波が寄せ来るように感じられます。
    ヒタヒタ、、、と

    この新たな年の「時」の到来というものは、
    スパッと、今切り替わった!と分かるものではなく、
    巡りくる季節感のように分かって来るものです。
    ほら、まだ冬なのにどこか春の到来を感じる気配ってあるでしょう?
    あれです。


    昨年の運勢が徐々にエネルギーを失い消えて行く代わりに、
    今までにない新たなエネルギーの蠢きが、
    あなたの意識の奥、無意識から湧いているのを感じられるはずです。

    すべての感情を伏せて、静かに自分の意識の奥を感じてみてください。


    そして、


    そして、毎日の日々が、
    生まれて初めての日々なのです。



    西洋のカレンダーでは、
    毎年、一年の繰り返しは同じようでも、
    東洋の暦では、
    決して同じ「時」は二度と巡って来る事はなく、
    そして、その上、
    たとえ同時刻に地球上に存在する我々においても
    我々は一人一人が生まれて来た「時」もさまざまです。
    その固有の「時」の影響を享ける限りにおいて、
    厳密にいえば、一人一人が迎える今と云う「時」の意味も
    それぞれ一人一人で違ってくると言う事なのです。


    東洋は、あらゆるもの一つ一つが、もともと一体です。
    宇宙と我々、仏と我々、宇宙の全てのものは根本は一つのものです。
    一体であるという思想は仏教以前からありました。
    言う事は単純ですが、そのありようは、それぞれが複雑で複合し合い、
    精緻に結ばれている世界です。
    そして、その世界は美しい。      あは!


    ★★なんどでもいいましょう!



    我々の命は、すなわち「時」は、
    宇宙の運行と、太陽の位置と一体である。
    切り離していい関係ではない。
    と言う事から、
    太陽も、毎日同じ太陽ではないのですよっ!

    「時」を単なる過ぎていく 西洋の time としてではなく、
    日付を、単なる順序として扱うだけでなく、
    東洋は、このように細やかに、厳密に扱っています。








    時は、一律に過ぎ去って行くだけ順序数ではないのです。




    私には、深い物理学の知識も、見識もありませんけれど、
    東洋的知見を辿っていけば見えてくるものがあります。

    本来、東洋においては、
    時は、今風に言えば質量を持ったエネルギーそのものです。





    その東洋の叡智で観える本質を大雑把に捨てて、
    いや、その前に知りもしないで、
    「時」を、単なる順序数、
    Time というものの集合、
    誰人にとってもの均一性、
    測定可能という等質の繰り返し、
    このように押し広げた西洋の「時」の常識は、
    一応、これが、科学の常識と云うものなのでしょうが、
    それだけでいいものだろうか、、、と、
    東洋学、特に運命学をやっている身としましては、
    自然を無視をした近代合理主義の乱暴過ぎる、粗雑なやり方に、
    もう、いい加減に飽き飽きしているところです。    ほほっ。







    自分は、いつも均一、同質、同傾向ではありません。
    年齢(=時=太陽との位置=宇宙の運行との関係)で変化をするものです。
    宇宙が刻々と進化をし変化をしているように止まる事なく
    変化をしているのが自分です。


    今日のあなたは今日だけ、
    明日はあたらしいあなたになるのですよっ。

    良かったことも、
    ダメだと思ったことも、
    すべてそこだけ、その時だけです。
    自分の意識が捉えたものは常にすぐに古くなります。
    次の新たな瞬間を迎え入れる用意が要ります。
    私たちの命は、
    そう云った意味での自由さを常に湛えていなければならない。
    そうしないと、
    瞬間瞬間の可能性を潰してしまうのが勿体ない気がします。


    死ぬ「時」まで瞬間、瞬間、生まれ変わってくださいね。

    運命を開くとはそういう意味ですよっ。
    ボヤっとしないでくださいね。      あはは。





    長い記事を最後までお読みいただき、感謝申し上げます。
    また、長くない内に次の記事でお会いできますように!

















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    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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