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☆ 東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 1. 片目Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
富士の初冠雪
![]() 平年より11日遅く初冠雪 8合目から頂上雪化粧 (2015年10月11日mainiti.jp) 今年もよろしくお願いします。 『天』の運行とはありがたいものです。 昨年の4月16日より更新もできずにいましたが、 その間に、季節は確かに移り、新しい年が巡って来ました。 早いもので、ほぼ9ヶ月ぶりの更新になります。 我ながら驚くのは、 昨年は、たった一回の更新しかできなかった事です。 それなのに、 その間、たびたび御訪問をしてくださった方々には感謝申し上げます。 昨年中は、 いつもの代わり映えしない『 陰陽太極図 』ばかりを ご覧になっていただきましたので、 もう、飽きて来たよ―― もう、よく分かったよ―― と言われそうな気がしていました。 あはは。 そう、 皆様の優秀な脳では、 すっかり 『 陰陽太極図 』をいつのまにか見覚えて、 脳内のシナプスがしっかりと結ばれたのではないかと、 心配して? いいえ、東洋を広める為には 喜ばしい限りと感謝しております。 ほほっ。 少しは、みなさまに、東洋の恵みなり、効果があったでしょうか? ほほっ。 このブログは、 クールな東洋的世界観を広める目的を持っています。 冠雪が望める富士山頂のはるか上空、 東洋的世界観から地球上を見下ろしていますと、 現在、地球上は、えらいことになっておりまして、 近代合理主義と云う物質ばかりを追いかける思想の大特価販売中? いいえ! いいえ、、、 大特集中と書くつもりが、、、 ほほっ。 物、モノ、ものの大特集が行われているようで、 大キャンペーンみたいな状態になってしまっています。 ほほっ。 自然は物、 あなたや私も物、 自然や人間も、物質としての扱いで、 人間の欲望のターゲットになっているようです。 人間の欲望って、 自分の身中の欲望ですよっ。 自分を自分の欲望の獲物にしてしまうなんて、、、 自分の命の尊厳どころか、 他人の命の尊厳なんて分からなくなっているような、 光り輝いて見える物しか相手にされない時代が到来しています。 見えもしない感じる事すらできない東洋的無意識などは地味も地味、 ジミーなものは無視をしておけば? 無いのと同じなのだから、 と云うような空気です。 地球の空気ってこんなものだったのかしら? 我々の現在を作り上げてくれた先祖のDNAから受け継いだものを 感謝も尊敬もしないでいいものだろうか? このままで日本民族はどうなっていくのだろうかとか、 お正月早々から、 いろいろな心配が頭をもたげて来ると云うのが正直な処です。 と云う事で、 今年も、どっぷり東洋的世界観の素晴らしさを書いていきます。 もう、うんざりや~ と思われませんように。 ほほっ。 東洋的世界観は、多くの人が気が付こうとはしませんが、 これは、実にクール! 日本が世界に誇ってもいいものだと思っています。 しかし残念なのは、見えないので、 カメラで撮れないし、アップできないし みなさんにお見せできない事ですわ、、、 テレビのバラエティでもやっていないし、 コミックにもないみたいですよ。 近代合理主義の物質文明では、形無し、、、 とにかく書くしかないですね。 今年はもう少し更新できるようにがんばります。 たしかに地味過ぎです。 ほほっ。 今年も地味路線で行きます、、、。 東洋的世界観を知る事は、 ただ知っただけの知識では終りません。 東洋的世界観は、知識ではありません。 我々の先祖が、獲得した智恵です。 智恵は即(そく)価値なのです。 東洋はダイレクトに恵みに通じて行きます。 だから、智恵、智のめぐみと書くのでしょう。 これが、どうしてなのかは、いずれまた記事にするつもりです。 東洋的視座とは この東洋的叡智があふれる世界観から 西洋的世界観を眺める事ができれば、 おのずと東洋的視座なるものが体得できるはずです。 ★ ほらっ! 同じ(エイチ)でも、 東洋のエイチは、英知ではなく叡智なのです。 お見知りおきを、、、、、、 ほほっ。 これは譬えれば、 富士山頂から他の低山を見るとどのように眺められるか、 その風景を知ろうとすれば、 中途半端な高さの山ではだめですよ。 ――― 最高峰の富士山に登ればいいのです。 登れば、おのずとその視座は得られるのですから。 思想と云うものは、 皆、同じではないのです。 それぞれが我こそ高いと競っているものです。 急峻な峰々の中から最高峰の思想に出会ってください。 今日の記事は、 ☆ 東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 1.片目 1.片目? 1.は、ひょっとして2.3.と続くシリーズって云う事? 片目は、 東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみると、 片目にみえるってこと? ひどいなぁ、 近代合理主義をここまで言うのか、って? あはは。 そうです。 これは、 近代合理主義の世界観に浸かり切っていたら分からない事ですが、 ちょっと疑問を持っていただいて、 我が身を東洋的世界観の方へ身を乗り出せば、 はっきり見えて来る近代合理主義の姿なのです。 近代合理主義は、すべてを見通す両目を持っていません。 あらゆるものを見る両目を持ってはいないのです。 どうして両目が無いって解かるのか? それには、 東洋の『陰』と『陽』が相対する世界観 から 近代合理主義を眺める必要があります。 さぁ、 東洋的世界観の天空に、昇りましょう。 東洋は『陰』と『陽』が相対する世界観 ーーーーーーーーーーーーー★ 東洋的世界観は、『陰』と『陽』が相対する世界観です。 相対する世界観とは、 どう云う関係を云うのでしょうか? まず、 前の記事の冒頭に掲げた 『 陰陽太極図 』 を思い出してください。 あの図の白い部分と黒い部分、 東洋的世界観では、 我々を成り立たせている世界に、『陰』と『陽』があるとなっています。 黒い部分、 『陰』は五感では見えない世界。 ・ 我々の五感の感覚器官である目は、 この『陰』の無意識の世界を見る事はできません。 白い部分、 『陽』は五感で見える世界です。 ・ 我々の感覚器官である目は、『陽』の世界を見る事ができます。 ----- それに反応するのが意識です。 この黒と白が、相対する東洋的世界観とは? 我々の意識にとって、この見える世界と見えない世界は、 東洋的世界観ではどう云う関係があるというのでしょうか、、、 相対するとは? これを分かりやすくする為に、 巧く例えられるかどうか分かりませんが、 ちょっとやってみましょう。 ◇◇◇ 空気中に在る酸素は、普通、目には見えません。 これを、『陰』の状態の酸素とします。 これを、我々の感覚器官の目で見えるようにする方法ですが、 1. 酸素を液体化するとか、 2. 物を燃やしてみるとか、 なにか意識で捉えられるような現象を起こしてみる事です。 そうすれば、液体になった酸素とか、 物が燃える、酸化する、熱を発した証拠で、 そこに酸素がある事が分かると云う事になります。◇◇◇ そう、実験でわざわざ現象を起こして証明するのですね。 ーーー これは、意識には見えない『陰』の存在を、 『陽』の世界に現象化する事で、 意識にとって捉える事ができるようになるのです。 つまり、 現象界の現象に対応して発達して来た意識が見えるようにするには、 現象化が必要なのです。 意識は、現象化したものしか捉える事ができないのです。 ★ ここですよっ! これが近代合理主義の意識には自覚できないのです。 近代合理主義の意識は、 自分が、現象化したものしか見る事ができないのだと云う事を知らない。 近代合理主義の意識は、 自分が見ているのが、現象だとは分かっていないのです。 その奥に、本体の存在があるのを覚知できていないのです。 そして、自分には、元々の役割がある事を忘れて、 自分の能力の限界に対する自覚がないのです。 それはどうしてでしょう? 近代合理主義の意識は、無意識から切り離されているからです。 自覚できないと言った方が良いでしょうね。 自分の姿を自覚できないのです。 我々でもそうですが、 相手があって、社会の中で自分の姿を教えられるのですよ。 たとえば、 家族の中で兄を見て、妹としての自分の性差に気付くのです。 おのずと自分の役割と存在の価値を知るのです。 近代合理主義の意識は、 無意識界である『陰』の世界の存在を認めない思想の中では 無意識の役割である真理を知る事ができると云う役割を押し付けられて、 すっかり、その気になっていますから、 実は、自分が捉えているのは現象に過ぎないのだと云う事が 分かっていないのです。 そして、 自分には、元々の役割がある事を忘れて、 自分の能力には限界がある事の自覚が欠けています。 近代合理主義の意識は、 男勝りのおんなはんみたいやわ~ 無意識の役割をできるってうぬぼれてます。 うぬぼれでは何もできしません。 こんな意識を信じて生きたら、 我が身だけでなく亡家、亡国、みんなを滅ぼしてしまいます。 傾国の美女? ほほっ。 東洋的世界観の中では 意識は、きちんと自分の分限を守って役割を全うしてまっせ、 無意識はんをきちんと立てて、 世の中がなんでできてるのか、よお、弁えてます。 大事な事は、自分の役割を知って分限を守る事です。 ほほっ。 詰まるところ、 我々の意識は、現象しか見えないのですよっ。 ふっふっ。 詰まるところ、 この地球上は、現象だらけなのです! 詰まるところ、 現象だからいつかは消えてしまいます。 我々だって、例外ではない。 生れて来たら、いつかは死にます。 現象である事を楽しみましょう。 どう云う現象なのか? それが運でございます。 次の現象の為に備えましょう。 現象だからこそ、変化できるのです。 どう変われるか? です。
ここで、大事な事は、 『陽』の現象界で液体化した酸素や 物を酸化させて燃やす現象が起こった処にだけ 酸素はある訳ではありません。 見えない『陰』の状態での存在 = 空気中にも酸素は存在しています。 ここで例として出した酸素は、見えないと云っても、 我々は科学的知識から、 空気中に酸素が在る事は知っていますから、 この例えは少し問題があるかもしれませんが、、、。 それはさておいて、重要な事だけに絞りますと、 ここから解かる事は、 『陰』の状態は、空っぽなのではありません。 ある物が存在するけれど、 我々の意識では捉えられないだけなのです。 とどのつまり、我々が生きているこの世界の、 その現象を興しているエネルギーの本体は、 この現象世界『陽』ではなく、『陰』無意識界にあります。 その無意識界を、現象化の本体と観るのが東洋的です。 それを 『陰』と謂います。 双方が見えている物で譬えて言いますと、 転がっている木炭が『陰』 ただの炭です。 その炭に炎があるようには見えません。 事実、炎は出ていない。 炭に火を熾す(現象化)と、そこから燃え上がる炎が『陽』です。 炎は、炎自体が燃えている訳ではありませんね。 そして、『陽』の現象である炎は、炭が燃え尽きれば、,, 直に、消えて行きます。 炭と云う本体の力がなくなれば『陽』の炎は衰微します。 つまり、炎の存在は『偽性』を孕んだ存在であると捉えます。 『陽』は、偽(うそ)なのです。 じゃあ、炎はどこから来たのか? 炭自体の中にあったとも言えます。 だから、炭が燃え切ってしまえば炎は消えてしまうのです。 お互いの存在を頼り切っている、 存在を相手に拠っているのです。 『陽』の現象界に現象として見える存在は、 その存在の本体が『陰』に亘って存在するとします。 これを、陰陽相対の関係と謂います。 ーーーーーーーーーーーーーー 多少、ムズカシイかも知れませんが、 東洋的世界観においては、 『天地』・自然と我々は無意識界でつながっています。 東洋においては、 もともと『天地』は、存在そのものが力なのです。 どう云う力か? 深い広い無意識界の『天地』・自然の力が、、、、、 、、、、、我々の無意識へ流入している、、、 絶えずあらゆる力が我々の無意識へ流入している、、、 意識に噴き出す無意識界の浅瀬では、それはリズムです。 その力は、我々の命を生み、育て、生かす力として顕われ、 命のあらゆる姿となって現象化します。 又、その力は、我々の生が死へと還って行く本体そのものなのです。 この事を一体と観ます。 『陽』の意識界においては、すべてがバラバラに見えます。 なのに、 『陰』の無意識界では、すべてが一体なのです。 『陽』のバラバラに見える風景が、 『陰』ではすべてが一つになっているのです。 そのつながりを通じて自然の智恵が流入して、 我々の先祖は、遠い昔、 『陽』の現象界の現象(花実)には、 それを(咲かせる)本体(根)が土中にあると見抜いたのでしょう。 花実より、土中の根に、その本体の力を観るのは、 存在の奥に、それを存在ならしめているものを観るのは、智力です。 知力ではありません。 この卓越さが、東洋人の真骨頂です。 この東洋人のエッセンスは、中国にはありません。 北朝鮮、韓国にもありません。 東洋の東端、日本に寄せ来て深く此処に留まっています。 ウソではありません。 だから、日本人は地味なのですね。 ほほっ。 目立たない事を受け入れ、見えない事に納得をしますから、、、 アメリカに見習う事もなく、 ヨーロッパにあこがれる必要もないのです。 日本は日本でなければいけないのです。 その為には、 どうか、近代合理主義の人工ドームから出て来てください。 そうしなければ、日本はどこかの属国に果てるかも知れません。 思うに、 東洋の陰徳深い土地柄は、自然にしても、西洋ほど過酷ではなく、 自然に接する態度が融和を以って親しむ事ができたのでしょう。 その事が自然の智恵を学ぶ余裕を 東洋人にもたらしたのではないでしょうか、、、 いいですか? 花は花の力が咲かせているのではない! 実は実みずからが自身を実らせているのではないのです。 ほほっ。 西洋はこの当たり前の事が、 ああぁ、、、意識全盛の21世紀になっても分っていないのです。 それは、 キリスト教理の世界観に原因があるのです。 自然は、神が造って支配する物質でしかありません。 物と教えられれば、物から何を学ぼうとするでしょうか。 物と認識する事から生れるのは、どう利用しようかと云う点です。 日本人は、豊作を自然のそれぞれの神に感謝をします。 西洋では、自然を創ったキリスト教の神へ感謝をします。 この違いは、それぞれの世界観の違いから出ています。 ついでですから、、これは余分ですが、 陰陽相対の原理に、 我々の命を置き換えて考えてみたら面白いでしょう。 生は、 『陰』の状態の命がこの現象界へ『陽』となって生じた現象状態です。 死は、生命活動が見えなくなってしまっても、 命そのものが無くなってしまう事ではないのです。 命が 『陰』の状態になっただけ、 命の実体は、無意識界の中に存在しているはずです。 そして、 それは、又、いつか、現象化をする、、、、、生まれ変わるのです。 そう考えると、命は永遠に続くと思えるのです。 ほほっ。 このように、 東洋的世界観の括目すべき点は、 目で見る事ができない無意識の世界の存在を認めている事です。 意識では捉えられないその世界を『陰』と名付けて しかも本体として洞察している事です。 詳しくは、別の機会に書きますが、 この『陰』と『陽』の関係は、常に対(ペア)です。 なぜペアなのか? 分かりますね? このペアの関係を、あいたいする相対(そうたい)すると云います。 男と女、自然と人間、天と地、空に太陽と月があるようにです。 東洋の考え方は、自然のありのままの具象的な道理なのです。 東洋的視座とは、 これらを踏まえて、 東洋的世界観と西洋的世界観を知った上で、 東洋的知見を以って西洋的世界観を捉えることです。 お分りになられたでしょうか? キリスト教を根底にする近代合理主義の世界観は、 東洋的世界観の『陰』を否定しています。 すなわち、 近代合理主義は、 東洋的世界観の『陽』の現象世界の存在だけを認めています。 これを、東洋的視座から眺めますと、 両目が揃っていない姿、形と云う事になります。 これが、片目の近代合理主義と名付ける所以なのです。 確認します。 近代合理主義は 片目でこの世界を見ている思想になります。 また、 近代合理主義の世界観には、 現象は現象として見据え、 その現象の奥に本体を見きわめると云うような力量を感じません。 はっきり言いますと、現象とその本体の区別すらできていない。 思想としたら、原始的次元の状態です。 現象と本体、この反意の両義を踏まえる処に真理が在るとするならば、 キリスト教理を根底とする近代合理主義の世界観には、 そう云う重層的な智恵は全く無いようです。 そう、『陰』と『陽』の対(ペア)がない世界観です。 しかも、陰陽相対のペアで欠けているのは『陰』です。 近代合理主義に本体『陰』が欠けているのは致命的です。 そして、 事もあろうに、現象界である『陽』を重んじています。 時に淘汰され、必ず消えて行く『偽』に通じる世界を重んじるなんて 近代合理主義を主導した人達はどうかしてます。 それが分からない人々だったのですね! あはは。 あの高名な科学者、思想家たちですよ。 これについては、又。 ーーーーーーー たしかに、こうして見て行きますと、 東洋的世界観の中では、 『陽』・意識は賢明に自分の分を弁えていますが、 近代合理主義における意識と云う役割の設定や配置は、 愚かさ、愚まいさを感じずにはいられません。 一言で言うと、みっともないのです。 しかし、それで意識が悪いと云う訳ではないのですよ。 事は、そう単純ではない。 『陽』・意識にも、その癖に合った役割があるのだから、 その用い方がおかしいのです。 馬鹿とハサミは使いよう、 あれです。 ほほっ。 そもそも、意識の役目は、現象世界の現象に対応する事でした。 意識は、云わば、生きる為の営業のフロントマンです。 普遍性などと云うような真理を掴めるような能力機能はないのです。 言い換えれば、 我々の意識と云うものは、 五感と云う感覚器官を通して情報を集め、 それに対応できるように発達して来た能力なのです。 何の為に? 生命保持、生きる為です。 太古の昔、 地球の気候変動や自然災害、 めまぐるしく変わる季節や、気温、風、雨、雲の動き、 襲いかかる野獣など、 さまざまな障害から身を守り、生き抜く為でした。 五感から入って来る情報で、 生き続ける為に必死に対応して来た我々の意識は、 そのおかげで発達して来たのです。 意識は常に環境における現象をリサーチする役目です。 意識は、森の中で自分の安全を守る為に、 常に、五感を研ぎ澄まして環境に対応しようとして来たのです。 つまり、意識が活躍する世界は『陽』の現象世界なのです。 決して、本質や普遍的な真理を扱う事は得意ではありません。 意識は、非常に人間臭い機能です。 ウソと本当が見分けられないのです、、、 ほほっ。 だから、 意識は、自分以外の人の意識に騙されるのですよ。 意識は意識を騙します。 意識は意識に騙されるのです。 ここに、 現代の資本主義が喰い入っているのではないでしょうか? 広告、宣伝、CMなど、 本当でないと分かっていても、つい信じてしまう、 つい、買ってしまうのです。 ほっほっ。 意識とは、 いわゆる、人間らしい間が抜けたヤツなのです。 あはは。 そして、正直な処、 意識には足りない処ばかり目立ってしまうのです。 でも意識は可愛いどころか、恐ろしいヤツです。 理由は、 意識の本質は自己が生き延びる為のエゴイズムなのですから、、、 でも、意識を嫌ってはいけません。 それで人類は餓死もせずに生き延びて来たのです。 それが、未だに、こんな物質文明の中でも かっての飢餓の恐さに対応して来たDNAが頑張っています。 もう、このDNAは眠ってもよさそうなものなのですが、 自分の命が餓死する恐怖から解放されていない、、、 万が一、自分が襲われそうになったら、 武器を持って戦って相手を殺そうと、身構えるのが意識なのです。 究極のエゴイズムが意識の背骨ですが、 これを失くせと云う方が、 今の地球上では無理と言うものでしょう。 しかし、意識だけでは平和は訪れない。 これも事実なのです。 そう云う理由で、 余程運が良くなければ、意識だけでは人間は幸せにはなれません。 こう言われても仕方がない要素が 意識には一杯ありますでしょう? ほほっ。 その証拠に、 我々の意識が、自分の満足を求めて頑張れば頑張る程、 戦争や紛争が争いや競争が起こって来ます。 やはり、 意識の中心は自分だけ良かったらいいと云うエゴだからですね。 何度も言いますが、 これは決して、意識が、悪いと言っている訳ではないのです。 自己の生命の保持を第一の目的にすると云うのが 意識の本来の使命であり役割なのです。 このエゴイズムと云う意識の本質も見極めずに、 近代合理主義が意識をフィーチャリング (featuring) している事が 大いなる過ちなのです。 この一点こそが、近代合理主義の欠陥、錯誤、過ちなのです。 この近代合理主義の欠陥、錯誤、過ちをどうするか? 困った! 本当に困った事なのです。 こんな意識に全面的な全権を持たしたのは、 きんだいごうりしゅぎですよっ。 近代合理主義の意識に、猫の鈴を付けるのは誰ですか? 近代合理主義の害毒は、 『極陽』の思想ですから、『陰』を苛むのです。 近代合理主義と云う『極陽』が陰徳を消去します。 得ばかりが優先され、 徳の値打ちを知る人がいなくなります。 よく考えてください。 我々は、意識・『陽』・男(父親)に産んでもらった訳ではないでしょう? 誰もが、無意識・『陰』・女(母親)から生れて来た存在ですから、 意識が自覚ができない『陰』の次元で、 『極陽』の思想である近代合理主義の害毒で さいなまれるのです。 近代合理主義と云う『極陽』が陰徳を消去します。 意識が自覚ができない『陰』の次元で、 我々は、深く傷ついていきます。 直撃するのは、『陰』の命を孕み産み育てる母性です。 社会全体で母性を苛み虐げる方向が強まって行くでしょう。 そして、社会が母性をを喪失して行くはずです。 これを、どうしても止めなければ、、、 どうか、折に触れて、 東洋的世界観を思い出してください。 そして、東洋的視座から眺めた現代の邪悪思想、 近代合理主義の意識の行状を見つめ直してください。 近代合理主義に あなたの大切な家族、子供たち、孫たち、その先まで、 あなたの命の血縁関係を滅ぼされないようにする為です。 くどいですが、もう一度申し上げます。 『陰』を消去した思想、近代合理主義は、 『陰』の命、自然、母性を消去します。 我々から、自然な命の生命力を、美しさを、恵みを 奪って行くはずです。 意識の武器は、五感の快感で意識を満足させる事です。 五感の快感、それが、近代合理主義の持ち芸で売りなのです。 我々がなによりも快感を欲しがるのを喜びます。 我々が快感を得る為には、 すべてを犠牲にしても意識を大事にするようになるからです。 そして、あなたから尊いものを収奪していくでしょう。 それは、 あなたが自分の欲望に敗けて五感の快感の為に 尊いものを犠牲にする因果応報です。 それを喜ぶ機能が『陽』・意識にはある。 ーーーーーーーーーー これは魔界ですね。 これに相当するのが、 仏教が説く処の、 天界にある第六欲天に住む魔王ですね。 有頂天と云うのも、その中の一つです。 意識にコントロールされてはダメなのですよ。 近代合理主義にコントロールされてはダメなのですよ。 そのためには、、、、 我々のDNAの中に眠っている東洋的世界観を 埋没させてしまっていると云う現実に立ち返るべきでしょう。 まず、我々は、その現実を 我々の両目を見開いて見なければいけないと思います。 片目を真似てはダメです。 ほほっ。 ーーーーー 最後まで長い記事をお読みいただきました事を 深く感謝申し上げます。 次は、 しばらく書いてない卑近な運命学の記事を書けたらいいのですが、、、、、 その時まで、 たのしく良き日をお過ごしください。 今宵は土曜日、新年の二日目です。 素敵な夜を~ 今年はあなたの夢が叶うと良いですね。 謙虚に祈りましょう、、、、 最後に、溢れるほどの思いをあなたへ、 無意識を通じて贈ります。 どうぞ~ -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。=
昨年はずっと更新がなかったので心配をしていました。= お忙しいのに違いないとおもっていましたが、= 今回、お元気のご様子で安心いたしました。= 今回の記事は新境地を開いた様な新鮮なものを感じています。= cosmosさんにはなにかおつもりがあったのですか?= とくに命の生と死について書かれている処はすばらしいお話でした。= 次は運命学の記事になるようで、たのしみにしています。= 日本の足元cosmosさん。
近代合理主義の世界観とは、 つまり雨とリカちゃんの世界観。 それが、片目だっていうのはその通りかもしれない。 北朝鮮が水爆実験をしましたが、 北の核開発が次のフェーズ(段階)に入った可能性があるにもかかわらずに、 リカちゃんの国はそれに追いつけていない。 日本を射程に入れている北のノドン(中距離弾道ミサイル)が、 小型化した核弾道を搭載可能となれば 一気に日本への脅威はおそろしい位高まって来て 日本人の生存権などどうなるかわからない。 共にミサイル防衛を担う韓国とは、 防衛機密を共有する法的な枠組みがない。 その理由は、韓国世論の猛反対があるからだ。 去年2015年、日本の中谷防衛相が GSOMIA(軍事情報包括保護協定)の締結を韓国の防衛相に求めたが、 「国会と国民の支持が先行しなければならない、」と断られた。 といっても、 雨とリカちゃんの国からの情報では、 数秒で届くミサイルの迎撃には機能しない。 日本は、やっぱり孤児のままです。 これが片目のなせる業かと思う。 日本は戦後と比べれば物があふれているだけで 窮地に居る事には変わりはない、 近代合理主義で良くなったというのは軽はずみ。 管理人のみ閲覧できますこのコメントは管理人のみ閲覧できます
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No titleお世話になっております。
ご無沙汰ですみません。 今年は昨年より生きやすく感じております。 来年はどうなることやら? 晩年運だと思うので、もうそろそろ気に入った人生に向かうかなと期待しています。(^^; cosmos様 どうぞステキナ年越しをお過ごしください。よいお年を。 |