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    運命論 1/4  "運命論"の本筋からです。    

    Category : 運命学
                                                 満月








    今日は、BGMは、ありません。(笑い)


    その代わり、あなたの真上で静かに照らす、

    月の光を浴びながら、お読みになってくださいね。よろしく、、、、、



    う~ん~。喜んでいいのか、  (笑い)                            

    鑑定の仕事で、コントロールの効かない忙しさの渦のなかにいます。 
                          


    世相や経済がこんな状態なので、

    一身上の変化が起こって来るからでしょうか、、、                                                   

    最近のご相談者は、もともとご自分でよく考え抜いていて、                                                                

    自分の決定は間違っていないかどうか、

    慎重に見極め、将来にわたって安心したい、

    そういう心境でご相談に来られます。


                                                                                      

    今日の記事は、"運命論"の本筋に戻ろうと思います。 
                       

    今という時代は、

    自分の問題点を自分で解決する事が、

    難しい時代と、感じています。 



    なぜなら、

    今は、それぞれが、立場の違いや、

    役割というものに気づく事が、むずかしいからです。


    なぜ難しいかというと、

    各人が自覚したり、目覚めない方が都合がいい

    という所から多くの情報が流れてきて、



    そして、

    その流れが、各自の差異や立場を気づかせないように誤魔化し、

    覆い隠そうとしているからです。
     


    それは、、、、、、、 

                                                       

    昔から仏や神が " この世の差別 " の真の意味を問題にしました。           

    人間も自分で、なんとかしようと 『 法の下の平等 』 を作りました。


    作った以上、建前上、差別を口にすると

    自分が作った法の精神に逆らう事になり、違法者になるから、、、


    誰もが差別は口にしません。

                                                                                         

    確かに、


    人が作った法の下では皆が平等だという理屈は出来上がったのです。

    でも、本質的には、やっぱり、この世界は不平等です。                                                            

    で、『 法の下の平等 』という建前を作った事をいい事に、、、  

                                        

    今の大量情報化社会の大きなうねりは、

    差異を無視して、運命も平等なのだと思わせようとしています。



    それは、お互いに差異を認めない方が、

    情報を大量に早く流しやすいし、流すのに工夫が要らない、

    ひと色の情報で事足りるからですね。

    その方が、社会を十派一絡げにして、

    自分の思い通りに動かそうとする時には都合がいいのです。 






    ある意味、経済的、政治的にとって都合いいやり方です。

    はっきり言うと、権力者にとって絶対に都合がいいのだから...




    この時代の都合を、私たちがそのまま取り込んでしまうと、

    その枠組みで思考や行動をするようになり、

    本質がずれ、判断がゆがんでしまいそう・・・ 


    その弊害を、 仏が2300年前に指摘した『 』 、『 迷妄』、


    不幸になる原因の一つだと言っています。 


    僻見・びゃっけん 』 ですね。
                                                                          

    迷い、偏見を、いつのまにか、

    その弊害的見方を正しいと思い込む意識が定着してしまっている。


    こういう時代の偏り、暗さというものを、

    鑑定している相談者の中に度々、感じています。
      


    幸せになるのには、その大きな濁流に気づき、ゆがみを意識して、                        
    それに影響されない自分というものを意識できるか、ですよ。                                                  
    いつもは意識より、無意識の方を尊重している私ですが、  

    ここは意識・・・ です。                                                                             
                   

    運命学から言える事は、

    私たちは、外見、性格、資質、家族、全てにおいて、

    差があります。ひどく不平等なのです。


                                              

    人の外面、内面、潜在意識等を細かく鑑定しますが、

    一人として同じ人はいない、この世界です。                  


    それなのに、

    現実は何よりも欲望を優先してモチベイションにする事で、

    その差が乗り越えられる? というムードがあります。


    それが間違いとは言えないが、

    その陰で自分の立場や、

    役割を自覚することが、曖昧に伏せられていないかしら? 
                                                                                  
    そういう曖昧さや、

    臆して現実を見ようとしない天然キャラなど?

    妄想のせいで、

    随分トラブルや不幸感を作り、問題を生み出しているのに、

    その事にも気づかないままで、

    自分に都合よく解釈しようとする。



    そういう事でしょうか?                                                       
                                

    具体的にいうと、

    人間関係において、

    相手を自分にとっていいか、悪いか、どちらかに決める妄想。                            
    相手は自分のようにあるべきだという妄想。 

                                     

    他人が手にした幸せと、

    全く同じ幸せを自分が手に入れるのが当然、と思い込んでいる妄想。

    それをもっと物に敷衍した形で、同じ家、車、おしゃれな服、

    それを持てば同じ幸せになれるという妄想。 

                                     

    この妄想は古くから宣伝広告に利用されていますね。
                                                                 

    今度はそれを人に敷衍した形で、

    男姓も、女姓も、簡単に相手を選んで幸せになれるという妄想。

    ダメな場合、 

    自分の妄想は横に置いて、相手を非難するのが正しいという、

    ひがんだ妄想も持ってしまう、、、 

                                        

    学歴、容姿、経済などの、条件を分析して、

    マニュアルを作るのも一つの妄想ですね。 




    飽くなき識別をして誰にでも当てはめていく妄想です。

    あげればキリがないくらい、妄想を抱いてしまって、、、

                          

    言い換えれば、

    自分の妄想で今の不幸せがあるかもしれないのに、、、 
                                                                             



    実際のはなし、

    努力努力、一生懸命と言っても、

    それでは、ますます、

    凶運の人は、凶運を増長してしまう事だってあるし、

    望んだ実は結ばない可能性も、、、あるのですよ。  あはは。 
                     

    自分の運にあった事をやらなければ、

    人と同じと思って、同じ事をやっても、

    同じ結果は出ません。


    それが運です。  


                                  
    自分はどんな種・タネ? これを知る事こそ大事です。 
                           
    いつ蒔けばいい種?芽はいつ出るの? 花が咲くの?  
                      
    どんな花? それは、ひとりひとり違うのですよ。
     
                                                                                        

    我を忘れて、

    他人のマニュアルを真似する事に一生懸命努力しても、               

    冬咲く花を、冬に種を蒔いても芽は出ない、、、 


    これは、不運ですね。 
          

                                

    自分の種は、秋に蒔くのが適した時なのだ。と

    『時』に合わせていくのが、

    それを時を得る、ツキがあると言います。


    『時』の巡りを待つ事です。 



    時の巡りとは、それは、

    そのまま宇宙の運行そのものなのですから・・・



    (次回の記事へつづく)                                                                                                                              

          






























      
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    運命論 2/4 運命の流れは、意識より何層か深いところの深層の泉。

    Category : 運命学
    東洋の月









    今日の記事には、BGMは、ありませんが、三日月が、、、(笑い)

    あなたの真上、静かにあなたを照らす三日月の智恵の光を浴びながら、、

    お読みになってくださいね。よろしく、、、、、


    今日は、前回の記事、運命論のつづきです。

    その前に、相談者との間でよくあるエピソードをご紹介しましょう。







    ご夫婦、恋人、親子、いずれであれ、

    その人間関係のご相談の時に、私がとる手法があります。



    まず、ご相談者当人に、

    『あなたのことをまず、どういう方か観ます。それにあなたが納得すれば、

    次にお悩みの相手の事を、お話ししましょうね 』 


    そう言うと、皆さんが喜ばれて納得して、

    まず、自分のことについての私の鑑定を聞かれます。 
                   

    何故こういう風にするかは、実際多くの方を観てきて、


    余りにも、人は自分の相手の事をホントウに解かっていないからです。                                 


    そして、その事に気づいて欲しいからですが。


    まず、『あなたは、、、、、、、ですね』 とお話しますと、 
                 
    「 そうです。そうです。その通りです。」 と 驚かれます。 
             

    次は 『相手の方ですが、、、、、、、ですね。』 とお話しますと、 
            

    「 えっ、そういう人なのですか?解からなかった。

    そうだったのですか?それはこうだと思っていたのです。 」 と、



    こういう反応が、必ず出てきます。   (笑い) 


    ん十年もいっしょに暮して、

    親子や、夫婦の関係で、ほんとうに~!

    いや~実に!  あはは。


    "そういう人だったの? " はないでしょう? と

    苦笑してしまいます。

    でも、大抵こうなのですよ。(笑い)


    職場の人間関係や、親子は、

    お互いに選んだ相手ではないですから、仕方ないにしても、

    冗談ではありませんよ~!!  あはは。                                     


    若い感性で選んで結婚した二人、いい年の人だってそうです。                                       


    人間は、お互いをそれ程知らなくても、

    知ったつもりで恋愛もし、結婚もし、子供も作り、いっしょに住める、

    それが人間なのですね。 あはは。


    実際に相手の事を理解してしまったら、

    結婚なんて決められないかもしれませんね。

    結局、自分のエゴイズムで都合のいいように相手を、

    デフォルメするのでしょう。(笑い) 

    ある意味の効率化、合理化、ですね。



    お互いに分ってるつもりが、

    何かがあってから、

    初めてお互いの間に壁が出て来た~と思うのでしょう。                                                                                              

    実は出会ったときから、生まれたときから、元々あったのです。(笑い)          

    その時の本人達に、認識がなかっただけです。

    いろんな壁やトラブルがあって一歩深く気が付いていくのです。

    恐れてはいけませんね。

    人は、分ったつもりで自信を持ったり、

    失くしたりしているのでしょうね。(笑い)
                                                                   




    これは、わかったつもりでいる惰性と、

    人間の五感の情報収集力の狭さみたいなものと、

    自分の必死に培ってきたからこそ馴れてしまった意識に縛られた癖です。 

    そのおかげで、

    《愛は理解》なんていう重いテーマを作って、理解しようとして、

    いろいろ実際は大変な苦労をしているわけですね。

    それはそれで悪い事ではないのですが、、、


    そういう苦労も、結論からいうと、

    縁さえ良ければ、運さえ良ければ、

    無意識の福に包まれて幸せはあるのです。



    そういう方は、あなたの周りにも、静かですが、いらっしゃいますね。

    そこからは、理屈も、へりくつも聞こえてきません。


    反対に、
                 
    これこそが愛よ~!

    ほら理解がないとダメ、そうよ信頼さえあればね~、

    という風に言わなくても、ね! あはは。

                                                     

    学歴だけ、知識だけが目的の教育を受けてしまうと、


    人は、その値打ちを出そうと、

    どうしても自分を正しいと思い込みたくなります。


    そして、他人や社会の意識でガンジガラメなのに気が付きません。  
                                                    


    その上に、

    この時代のフィルターが重~く圧し掛かっています。

                            
    それは、"自分の理解は正しい" 

    "自分の考えは正しくない" という

    【正しい】か【正しくない】かに分ける西洋的二元論です。 
                                                                      


    近代以降、

    人は強い自己肯定か、迷いの自己否定かに

    染まっていますから尚、大変です。


    五感にもフィルターがガッチリ架かっています。
     

     

    あなたの五感はセンシティヴですか?


    五感も、センスの訓練もしないで、

    知識や注意で人が解かるのかしら? 
                                      

    たとえば、耳が外に向いて開かれた構造は、                                  
    目のように意思で拒否して閉じるようにはなっていないでしょう?                        

    これって

    外の世界からのすべての音声を、拒んではダメ!

    ちゃんと聞かないと危険ですよ!

    認知の間違いから自分の命を守れないわよ。

    ということなのかもしれませんね。 
                                       

    我々のホントウに解かっているっていう中味は、

    実はどうなのかしら? 


          

    ですから、

    つくづく思い返せば、 

                                                  
    近代合理主義の祖デカルトは、1600年代の人だから、

    400年以上、今の思潮が続いているわけです。
       

                                
    彼には悪いのですが、

    " 我思う故に我あり " では、捉える事はできない、、、、、。



    そのもっと最奥に幸せの根っこはあるのですよ。                                                           
    その智慧は東洋では、6~7世紀に述べられています、、、
       

             

    運命の流れは、


    意識より何層も、深いところ、もっと深層の泉、
                                   

    地下の原水が涌き出すところ の はるか 上層 


    にあります。 





    次回の記事につづきます。


































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    運命論 3/4  自分がこの世に生まれた【時】の、太陽エネルギーとの関係  

    Category : 運命学
    東洋の月






    カテゴリーが『 運命学 』のときは、BGMがありません。

    三日月が..。....。........見守っています。 (笑い)



    自然は、いつに変わりなく自然の息吹で満ちています。 
                                          
    四季の移ろいは、眠っていた感性を呼び起こします。

    そして、意識までも・・・・・・

    花や木々に触れ、世話をしていますと格別です。


               
    ところで、今まで、運命学の、、、と言いながら、

    宇宙の運行、

    人の意識の地中深いイメージ,

    を書いてきました。


    今日は天文です。 だって、は天文学でしょう。                                           

    太陽を見あげて、、、と言っても、 眩しくて! 無理ですね。 (笑い)                                 

    夜空を見あげて、又は、天空を想像しながら、                               

    今日の記事は読んでいただけたらうれしいです。 
                                             


    おおざっぱな運命学の3回目、

    とりあえず締めくくりの記事になります。


    夜空を見あげながら、ファンタスティックに想像したり、

    深く思考したり、瞑想したり、

    興味深く、たのしんで読んでくださいね。


    私たちは、

    大宇宙の中の小宇宙=銀河系の片隅に位置する太陽系の星、

    地球に産まれて来ました。

    私たちはとりあえず、その太陽エネルギーのおかげで

    生物としての生を成り立たせています。
     

    生きています。 

                                                       

    自分がこの世に生まれた【時】、太陽エネルギーとの関係はどうだった?                                



    自分の意識や意思に関係なく、

    自分が望もうと、拒否しようと、

    太陽のおかげで死までのプロセスを辿れるのです。


    いや、死そのものも。 


    死後も太陽のおかげ?と言えると思います。


    元はと言えば、太陽エネルギーで、

    死後の肉体は分子、原子レベルまで分解されるのですから・・・・・ 



    この命の誕生も、そうでしょう。
                             
    私達は、この自分の命の誕生した瞬間【時】から、

    死までのプロセスを、

    太陽エネルギーのおかげで運ばれています。







    ........。....。..。。..*☆゜ ∴..★*  *☆。.. 。....。..。.........



    その太陽エネルギーと、自分はどういう関係なのだろうか?  

    その関係性を、黄道上の位置から、時というとして読み取ったもの、

    それを命式といいます。



    それが、あなたの運命の芯、種です。 



     
    (つぎへ続きます )

     

                                                                                      




















     
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    運命論 4/4 固有の運命の地図=命式があります                  

    Category : 運命学
    東洋の月

                                                                                             







    今日も、三日月の知恵を浴びながら、読んでくださいね。


    地球の天球上の太陽の見かけの通り道のことを黄道といいます。
     

    現在の科学では、ある【時】 (年月日時の)太陽の位置を表現するのに

    このように計算をし数字を用います。


    しかし、3,000~4,000年まえの中国の知恵のある人々は、それを、

    十干と十二支という仮借形容詞を組み合わせて、表現しました。 
                                                                    





    十干とは、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸で、                                           

    十二支とは、子丑寅卯辰巳午未申酉亥戌です。






    十干とは五行の5(その陰陽で10)進法、                                       

    十二支とは五行で5種類の、陰陽でいう6組の(6、12)進法で、

    できています。
                             

    その組みあわせから60の組み合わせ、還暦があります。                           

    そして、組み合わせた仮借形容詞の表現が繰り返されて

    暦ができています。



    私たちが地上に生きる命として地球上に誕生した際の、                                                               その一瞬に於ける太陽と地球の【空間】上の位置

    (黄道上のその位置)を、仮借形容詞の言葉で表したものを、

    運命学では、

    私たちひとりひとりの固有の運命の地図=命式とします。



    簡単にいうと東洋の運命学は太陽系ですね。              


                       

    その同じ表裏に、星系で西洋の《占星術》があります。



    日本の歴史上、

    都が明治維新まで京都にあったことから、

    それまでの海外の文物は、

    中国大陸から朝鮮半島を通って京の都に渡来しました。



    東洋系の運命学、及びその文献は、

    長い年月を掛けて関西を中心に広まっていましたから、

    関西では、古くから一般人のなかでも趣味として

    》や《論語》・東洋運命学を学ぶ人は多かったと思います。

    歴史や伝統、土壌があるのですね。      
                                                      

    それに比べると、

    それから後、東京へ都が移って、

    西欧からの文物が東京へ入ってくるようになって、

    西洋の《占星術》が、東京を中心に広まっています。

    関東では東洋的な運命学よりも西洋占星術の方が、

    マスコミ的にも一般的だと思います。


    お分かりいただけますね。



    歴史の経緯は、この位にして、

    現在の私たちの用いる暦は、

    地球が太陽の周りをまわる周期を元に、

    その連続する空間の位置を、流れて行く【時』として捉えます。



    それを、単に流れるの時として理解するのではなく、 
                                
    誕生のその一瞬における、黄道上の位置模様を、                               
    その縦糸を【時】に、

    横糸を【空間】にとって織りなした位置模様を、                     

    私たちの生命が、存在始めた確認書、を命式といいます。



    それは、いわば前世からの履歴書とも言える命式です。                               

    その人の命式とは、

    こうして地上に生まれてきた本人の過去の記録、

    という意味があります。



    鑑定をする時には、その人の命式から、

    どういう六親(親子、夫婦、兄弟等の肉親関係)に

    恵まれているか?

    どういう性分で、どういう潜在能力を持ち、

    どんな癖に染まっているか?



    行きたがる方向も、見据えて、お話しできます。                                           


    それはまるでペルシャ絨毯の模様のように、

    という形容がぴったり、  
                        



    その福と禍を織り成した命式は、

    その人の全てを少しも漏れることなく書き表している

    地図のようなものです。  
     
                                                                 

    この地図を手に持って、

    どちらにどう進むかはその人自身の意志です。



    この自分の命式を調べることによって

    ずいぶんと楽になることが、

    運命学の生徒を見ていて解かります。                                                  

    2年前、

    Aさんが初めてご相談に来られたのは、

    豪腕なご主人の浮気?

    本気とも取れる女性関係でした。

    人間関係で相手が思うようにならない悩みはさまざまありますが、

    相手を悪と決めたところでどうにもなりません。




    実際ホントウの処、どっちが悪いのか簡単には言えないのです。

    基本は悩むご本人の問題です。



    一通りの鑑定が終って、もう大丈夫と思いましたが、

    運命学を学ぶことをお進めしました。

    その時、

    Aさんは、内心は必死だったのではないかと思います。

    とにかく、コツコツと2年間通ってこられて、

    自分の生き方に自信を持つようになられました。




    それは、東洋の知恵を通じて、

    自分も、ご主人も、子供さんたちをも

    客観的に見れる自分を築き上げられたからです。


    現在のAさんは、2年前の自分を若く、小さく、

    振りかえって見られる余裕を感じさせます。



    ................。....。..。。..*☆゜ ∴..★*  *☆。.. 。....。..。....................                                         



    東洋的学問は、指し示す事によって、

    相手のなかに知恵が涌いてきます。

    自分の存在自体の意味を知ることによる気づきの連続です。 





    学ぶことが自分を知ることになるのです。

    人は自占(自分の出生命式を調べること)によって、

    それに対処して、自分という荒野を肥沃な大地を知ります。


    その大地に豊穣な実りを築いていくには

    どうしたらいいのかを自ら学び取る事ができるようになります。


    自分は、太陽エネルギーとは、

    どういう関係なの?




    その関係が、あなたの運命ですよ。

    太陽と、まったく関係なく生まれて来ている人は、

    ひとりもいないのですから・・・・・
    まず、ご自分を知る事から、

    始めましょう。




    よき日々をおすごしくださいね。
















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    ★十二支   ハバスパイ滝はシャングリラ ・桃源郷と言われるインディアン村にあります。

    Category : 運命学
                             


    グランドキャニオン









    今日は、桃源郷といわれるハバスパイ村、   
                       

    Havasupai Indian Waterfall
    (3分10) をどうぞ!                               




    映像は、700年も昔からあるインディアン村のハバスパイ滝です。


    滝は、巨大な岩が果てしなく林立するグランドキャニオンの

    谷底にあります。

    パピヨン型のヘリコプターでしか往けません。

    グランドキャニオンの絶壁の間を降りて行くと、

    シャングリラ/桃源郷と言われている村があります。


    ハバスパイとは

    《 サファイアブルーに光輝く水のある土地 》という意味です。



    村人の祖先は、どういう方法で谷底へ到達したのかしら?                                      
                
    存在のあらゆるものは、今、見えている姿が全てではない。                  

    少し此方の立ち位置をずらせば、今までとは違った姿を見せます。
                                        

    もっと覗き込めば、今まで知らなかった姿を見せてくれますし、                                       
    もっと知ろうとすれば、見た事もないありのままを開扉してくれます。                             

    あ、それで満足しないで! もっともっと奥へ扉があるの・・・                                                  

    以前、東洋に関心を持つようになったのは、    

    ( 十二支に気づいてから) と書きました。 


    今日は、その続編です。                                                                  

    その頃、十二支というものを意識し、観察を続けました。                             

    対象は家族、塾の生徒は0歳児~高校生、父兄、生徒、友人です。

    その結果、私の周りの人の十二支が偏っているのに注目しました。                                                                                                                                                 

    例えば・・・・・・講師たちを子年とします。                                      

    塾の準備、採点の助手達、掃除等をする人は、丑年として。                                                              

    教材、本屋、講師を調達してくれる人は、寅年というように。                         

    私を中心にして、

    それぞれの立場同士に、

    ほぼ同じ十二支が集まるという傾向がありました。 
                                                                    

    奇妙だな? 何か意味が? う~ん。                                          
           
         なにか見えない道があって、集まって来ているような~                                    

    それを運命と思うよりも、

    好奇心をそそられ、

    本を読み、関心を持った結果、

    人には定められた立ち位置のようなものがあり、

    ある状況の変化をいろいろ研究するやり方があるんだ、

    という発見が新鮮で興味深く、東洋学の神秘を見たようでした。 
                                                                    

    西洋的近代合理性から外れた東洋的な感覚が、

    自分の中に沁み込むように入ってくる・・・




    そういう感覚が、自分の中の腑に落ちた時、

    いつの間にか自然に、私の人間を観る見方が変っていき、

    家族や友人、生徒や父兄に対しての認識、判断、

    言葉が変わっていったのです、、、。
                                                                                                

    そのあたりから、自分の意志や欲とは別のベクトルがあるという感覚、                                                                                  

    これが運? 

    たしかに運という字に納得したものです。 
                          

    運ぶ、運ばれている、どこかに向かって誘(いざな)われている、

    そういう感覚を運と呼ぶのなら運かもしれない。

    そう思うようになっていました。



    それを確認するために少しづつ東洋運命学へ、

    一度知って( 知る事は悪くないだろう )

    受け入れてみようという覚悟で、

    そして足を踏み入れた・・・という次第です。


    当時の私の周りに集まって来た十二支の意味を

    後日、

    運命学的に観ますと、

    実に、仕事が成功する役割であったということが

    後になって解かりました。

    それぞれの干支が、その立ち位置で私を確実にサポートする

    組み合わせだったのです。


    それが分った時、

    過去のことですが、驚きと、感謝と、感動、大袈裟なのですが

    光と言う言葉に意味があると、

    (=神ではないですよ。そういうものではない。あは!)

    思ったのを憶えています。

    何かしら、恵まれた、たしかにラッキーな事だったのです。



    今は又、その時とは違う十二支達が、私の周りにいますよ。 (笑い)
     
                      
    十二支とは違う捉え方が他にも、あるはず、あってもいいと思いますが、

    暦の12という数に、妙味を感じます。 
                                                                            

    これを読まれて、さぁどう思われるか? 

    気違い!(ガハ) あはは!         

    『 たまたまでしょ~ 』 と言われても、

    私が感じている実に広大な秩序正しいこの世界を

    肉眼ではお見せできないし、、、(笑い)    
     

                                                  

    昔の人は、自然と調和して生きる能力が高かったはずです。                          

    そうしなければ生きていけないから。                                         


    五感というのは人間が決めたカテゴリーですから、

    本来、六感も、九感も、六十感もあったかもしれません。 
                                      
        

    昔の人の全身感覚は外界といっしょに呼吸していて、

    わずかな風でも、太陽系の変化までを、

    ひょっとすると、肌の毛穴で、粘膜で、声帯で、内臓で

    受け止めていたかもしれません。
                                                                         


    遠くの水の音を聞いたり、風で臭いをかいだり出来たのでしょうね。                                                               

    昔の人は危機管理は自分で行っていた・・・

    そうするしかないから。 
                                      

    今、科学が、学問が発達して

    他人の頭脳が証明した理論を信じ、                                  

    開発された計器が確認した結果を、

    私たちは当てにしています。                           

    自分の脳センサーを閉じて、それらを頼ってしまっています。



    合理的で便利とは言いつつ、

    それは、

    自前の危機管理のセンサーを脳内部で消失することになり、

    十全な生命力の発現を弱めてしまい、

    自分の足元が、自然淘汰の波にさらわれているのに、

    気づいていない

    のではないかしら?                                                                                               

    そういう不安を感じずにはいられません。   
























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    ★財運  財は、必要不可欠の道具ですが、あくまでも、道具です。

    Category : 運命学
              



     



            初冬の富士山を眺めながら








    今日は、 ラフマニノフ をどうぞ!  

        ピアノ協奏曲第2番 第1楽章    (10分57秒)




    福、禄、幸、吉、寿というような縁起の良いと言われる漢字があります。

    その中の【福】【禄】【寿】について、それぞれの意味を、

    【福】とは、家庭の幸福をいい、                        

    【寿】は、元気で長生き、よろこばしい長寿のことです。                           

    【禄】とは財運、律令制で身分に応じて与えられた綿布・鍬(くわ)・穀物、

             後世は知行地・扶持米(ふちまい)・給金。祝儀、引き出物。


    今日は、【禄】、これを取り上げようと思います。 
                

    運命学では、金運といわずに、【財運】といいます。                             

    財運について全部書きますと、一冊の本になります。

    今日は、大まかに、少し役に立つ程度にさせていただきます。
                           

    金運は、世間における" 通俗的な占い "では、話題性がありますね!

    よく取り上げられる材料です。

    今まで 取り上げた " 運命の人 " や " 復活愛 "
    と同様に、【金運特集】と表紙にコピー( 宣伝文 ) が書かれてあれば、

    それは、たぶん、その本がよく売れるため?

    でしょうね。  (笑い)



    何事も、資本主義社会では、その視点を忘れないでください!  ほ。


    それは誰もが、お金がいっぱい入ってくる運を、望んでいるから?                                 

    多くの人の関心事であると云う事は、間違いないのでしょうね。                                                 

    特に" 運命の人 " や " 復活愛 " は、

    どちらかといえば女性が関心を持つようで、

    " 金運 "は、どちらかというと男性が、関心を持たれるようです。

    時として、

    男性週刊誌がその特集を組んだりしているのを見かけます。


    財運といいますと、お金が入ってくる事、

    それによって吉や幸がもたらされる状態の事という風に捉えるのですが、

    それを分りやすく、例としてあげるとなると

    芸能人、売れっ子のタレント、トップのスポーツプレーヤー、等の姿を、

    思い浮かべていただければ、あれが一応【禄】に恵まれる状態ですね。

    そういう人の命式を鑑定すると、

    強い財星がある人ばかりです。(笑い)

    いろいろ能書きを喋っている人でも、

    本質的には、財欲が強い人ばかりです。

    それに、株や投資で大きな額のお金を動かす、これも【禄】と言えますが、

    利益を得て、資産を蓄えるかどうかは、

    また別の種類の【禄】に恵まれていないとだめなのです。


    いわゆる、動かす【禄】、蓄える【禄】、性質が違います。

    見せる【禄】、盗む【禄】、犠牲としての【禄】、さまざまあります。




    このなかで、

    ”【禄】に恵まれる ”というような言い方は、

    いかにも東洋的な言い方の一言文脈で、

    意味の中味が幅広く、意味するところが深すぎます。

    それよりも今は、

    一般的な西洋文明的な分析的な言葉で説明する方が分りやすい

    かもしれませんね。

    東洋的表現を西洋的な意識的、分析的言葉に置き換えてみましょう。



    【禄】には、emotion (感情) も reason(理性)も motivation(動機付け)

    としての財運があるといったらいいでしょうか? 

    変な言い方ですね? (笑い)


    ① 財運により労力を惜しまないから財に恵まれる結果がある  cause of 

    ② 発端となる財運 the origin of  

    ③ 要因としての財運 a factor

    ④ ①に戻って、結果として財運に恵まれる、と言うのが適当でしょうか?


    運命学でいう【禄】に恵まれる状態、とは、

    ①~④が一体渾然となっている状態です。


      えっ、難しい?  分りにくくなりましたか?  あはは~ 


    【禄】は、財運ですから、生きていくのに必要不可欠なものです。

    ⑤でも、財だけあれば言いという様なものではなくて、

    東洋の知恵は、

    ⑥徳のない財運は、賎(いや)しい運、『賎命』(せんめい)と

    名付けています。

    ⑦徳と知恵のない財運は、周りに策略家や嘘つきを

    呼び込んでしまいます。

    ⑧いくら身辺に財運がころがっていても、自己の知恵と力が

    及ばなければ、財を思い通りにできなくなる運、

    貧者であると見抜いています。


    東洋運命学を産んだ東洋思想には、

    キリスト教西洋文明から出てきた自由主義経済、市場原理主義

    投資ファンドのような拝金的な経済・社会活動性を排しています。


    暴走を押しとどめる価値観=中庸としてのバランス感覚

    =均衡性が重要なファクターであり具わっています。

    これこそが、東洋文明の真髄です。


    日本においては、

    その中庸の真髄を、141年前に、近代化と共に、

    自らすすんで捨てた事こそが、

    経済も政治もなりふり構わず西洋を真似て、

    『徳』のエネルギーを『欲』のエネルギーに変えて来た事こそが、

    国の運命を『賎命』にして、

    国の財運を傾け、

    今の経済の混乱の渦の中に、

    国民を落とし入れることになったのでしょう。


    徳や運が尽きてしまえば、

    なにの策略をもってしても駄目になります。

    ただ⑤から⑧への坂道を転落するだけなのかも知れません。


    個人においては、

    財運があっても無くても、生きるという意味は変わりません。

    財は、必要不可欠の道具ですが、あくまでも、道具です。

    頭でも、魂でもありません。

    そこを、勘違いなさらないように。

    そこを間違えれば、財があって無きが如し、という、

    財から、楽が引き出せない、苦ばかりの財運になってしまいます。

    お気をつけ、あそばせ~   ほほ。







    みなさまが、よき財運と共に、

    お祈りしております。


    そして明日は、日曜日です。

    よき一日、よき夜を、おすごしくださいね。




































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    ★姓名判断   命名から見る自前の文化を失う姿   運命の不可思議さ

    Category : 運命学
    上高地の木道

    上高地・木道





    秋の虫の音を聴きながら、14夜の月夜をどうぞ~





    今日は、前回の記事にいただいたコメントからです。


    まず、次のような拍手コメントを紹介します。




    子どもの頃に、物を乱暴に扱うと、

    父から「○○が『いたい、いたい』って泣いてるよ」と言われて育ちました。

    本や新聞、お人形、はさみ、コップ、その他

    どんな“物”であっても同じでした。

    「本はしゃべらないよ~」と言い返していた子どもの頃の私ですが、

    大切なことを教わっていたのだということを、大人になって気づきました。

    それが仏教的な考えだとか、

    難しいことは一切言わなかった父ですが、

    逆にそれ(物にも命がある)が当たり前の中で育つことができた

    私は幸せ者だと思います。有り難いことです。






    読ませていただいて、まず頭に浮かんだのは、

    文化の伝わる姿を見たような気がしました。

    教科書や、本などから頭へ入って行く事とは違って、

    お父様の人格から、こどものありのままの人格へ伝わっていくのですね。

    緊張感のない心が緩んでいる時に、知らずにすっと入って行く。

    無意識に、そうして受け止めていたものは、時間が経過した後、

    じわ~っと、意識上に自覚できる時が来るのです!

    因果応報の報いと同じです。

    本当にすばらしい、体験ですね。

    すばらしいお父上、そして、 幸運です。

     
    感謝の心が伝わって来て、目の奥が痛くなりました。



    真実の命の継承は、命の文化(魂)の継承でなされるという証明ですね。



    これは、簡単なようで非常に貴重なことなのです。


    私たちも、後へ続く命の継承者へ、

    このコメントの御父上のように、

    ありたいものだと願わずにいられません。





    この夏、図らずも、

    赤ちゃんの命名の仕事が重なっていろいろな体験を致しました。

    まさに、その間に感じた事は、日本文化が息も絶え絶えどころか、

    ある次元は、もうすでに消えてしまっている・・・・・

    その現実に驚愕したショックは、まだ冷めておりません。

    正直、暗澹たる気持ちを抱えておりました、、、、、。


    だからいただいたコメントを読んで、

    ”光”を感じたと言えば、大げさでしょうか? (笑い)


    コメントありがとう! 感謝です!



    今日は、今夏の命名を通して感じた”自前の文化を失う姿”について、

    記事にしてみましょう。



     
    赤ちゃんの命名に関わらせて頂く仕事というのは、

    本当に責任重大な内容を含んでいます。

    お生まれになった赤ちゃんの良き縁になれればと願っています。



    命名の時に誰もが抱く喜び、期待、ワクワクした心で、

    その気持ちを込めて、どんな子になるように、どんな名前をつけよう!

    と、それぞれの知恵を持ち寄って悩んで約、14日間。

    いろいろ工夫をされるのですが、結論から言いますと、


    その子の運命命式に沿ったぴったりの名前が結果的に付いていきます。


    分かりやすく言いますと、

    生まれ出た一人の人間の運命にふさわしい名札、看板です。

    名は体を表す。とは、まったくその通りです。


    あらゆる角度から、その運命の中身をすべて表しているものです。


    誕生生年月日時から鑑定をした命式の運命と、

    名付けられた名前の姓名判断の運命は、

    本質的には同じものです。


    この世にあるものは、偶然もなければ、一切の無駄もありません。

    すべてがなるべくしてなった、因と縁により、果を結んだ姿です。

    ある意味、非常に美しい条理にかなった方程式の解です。




    具体例を出しましょうか?


    運命学の教室で、命式を鑑定できるようになった生徒さんへ

    姓名鑑定を教えます。まず、自分の名前を教材にします。

    すると、「これ、私の命式とまったく同じですね!」という反応が出ます。


    そして、次は自分の家族全員の名前を並べて書いて、

    それぞれ姓名鑑定をするように言います。そうすると、、、

    これは、父が、主人が付けた。と言いながら鑑定をしていますが、

    また、驚きが出てきます。

    家族の姓名鑑定から,家族の運命の癖、傾向というものが一致してい

    るのが分かるのです。

    「 気持ちがわる~い!」  「不思議~!」  あはは。

    なにか意識では説明の付かない世界を覗き見るような気持ちになります。



    一般に、姓名判断として普通に広まっているのは、

    1、漢字の画数から来る数の霊意です。

    これは、初めて親になる若いご夫婦が、

    自分たちだけで子供の名前を付けようと、

    簡単な命名の本などを買って来て二人で楽しみながら名前を考える時に、

    一番の気にする項目です。

    画数というのが分かりやすいのですね。


    また、最近は、初心者用にも、


    2、陰陽の配列なども載せている本が出ています。


    が、これ以上になると、

    なかなか個人が本を買って来てというのは大変です。

    どういう項目があるのかというと、


    3、名前の音意。

    4、五行の配列。

    5、数の11位の運による名前の解読。

    6、先祖からの遺伝している運命を読み解く。

    7、鑑定命式との吉凶を詰めていく。

    8、凶運を排する字を極めていく。


    などですが、

    良い名前をと思っても、1と2だけですと非常に中途半端です。

    良い画数の字をいくら配置しても、

    3~6が抜けていたら、何にもなりません。

    7,8は、もう専門の鑑定家でも難しい項目です。


    どんなに画数を選んで吉名を付けたと思った所で、

    7,8の中身に失うものがあれば、吉が凶へ変化をします。


    依頼者からご希望があれば、

    これらの条件を満足する一つの名前を決めるのは可能ですが、

    字の画数だけでも本当に良い名前というのは、

    一つの姓にそんなに数多くありません。

    姓の持つ画数、その陰陽、五行から条件が狭まってきますので、

    名前に使える字に制限が出て来るからです。


    姓に影響される為に、最高に良い名前というのは、一つ、二つ、

    ゼロという場合もあるのです。

    そうして命名した名前を、信頼してくださり、そのまま出生届けをし、

    その報告をいただく場合もあれば、 

    やはり、今時の、ご夫婦にとったら、

    鑑定は、参考にはするけれど自分達が決めたいと望む方もいます。

    この場合は、1 の画数だけで決めるしかなくなります。



    今の人が、どんな名前を好むかというと、

    深慮遠謀したもの、そうでないもの、そのどちらをとっても、

    ディズニーランドのアトラクションのように、パーとはっきりと、

    字を見て、絵のように形や意味が分かる名前を付ける傾向です。


    さすが、ヴィジュアル時代の申し子世代なのでしょうが、

    今までの使われて来た漢字の意味は捨てる。

    使われてきた意味をそのまま使うのは、

    古いと思っている感覚的な嗜好が強いようです。

    具体的には、誠、義、正、豊、覚、恵、厚、などは古いと受け止めるが、

    その代わり、心、愛、などという字は使いたがりますね!  (笑い)

    複雑な精神的経験がないのと、

    そういったものに価値を置かないマスコミ?の影響もあるのでしょう。


    美愛、愛華、あま~い砂糖菓子のような名前!

    を父親の側も付けたいようです。 あはは~

    なんなのでしょう?

    パラダイス嗜好、バラエティ嗜好でしょうか?



    あるいは、漢字を、英語音を表現する記号としてだけ使う。

    漢字の意味は捨ててしまいたいようです。

    そうですから、自然と、従来の漢字の意味が、

    欠落して来ているように思います。



    その嗜好が1~8の条件をクリアーし、良い名前なら一番いいのですが、

    それが、なかなか、、、 むずかしい。

    しかし、ふしぎなのは、

    何気なく付けた名前が、

    1~8をパーフェクトクリアーする名前になっている、

    そういう強い運の親御さんもいらっしゃいます。

    名付け親の運を貰うという側面も、真実ですね。




    残念なのは、名前に対しての嗜好、

    それぞれの都合(同じ発音の名前がかっての知り合いにいた等)が

    出て来た時、すべては振り出しに戻ります。

    もう、この時点で良い名を付けるのは、不可能になります。

    あとは、こういう名前を付けたいと思っている人の満足を追求する事が

    目的になっていきます。

    吉運名を付けるという目的からずれてしまうのです。

    吉運命をつける目的が、両親が満足する名前さがしになるのですね。

    これに案外、気が付かれない、、、、ここで、私は関与を避けます。

    というのは、

    若夫婦が自分の好みを入れて満足する為に、

    使いたい漢字や、好みの音を選んで命名するという流れになります。

    なるべく吉名になるようにその条件を伝授し、

    できるだけの協力は致しますが、

    ご両親へ6~8を理解していただく事は、

    その辺は、きびしい物があります。 

    両親が満足して付けたいと思う名前が、凶運名ならどうするか?

    たぶんにその可能性120%です! 



    その結果、つく名前は、先ほど申し上げたように、

    先祖の癖のある運を受け継ぐ、誕生命式の運命そのままを持った、

    名前が付いてしまうのです。



    これも、ある運命のエネルギーの力ですね。

    生まれた子の運命が、どうしても運命にふさわしい名前を望んでいる。

    そうとしか思えない姿を、何度も見ます。

    生まれた赤ちゃんは、無力どころではなくて、

    運力は大人より強いのです。


    運命を良い方へ導く名前を付けたいという意識だけでは、

    如何ともしがたい、新生児の持つ強い運力を感じる時です。


     

    生まれた赤ちゃんの将来における良い結果や、先々の吉兆を望む場合、

    それに関与する直接の当事者同士が、自己の好みや満足を追求する程、

    当事者同士が持つ凶運の方向へ運気が強められ、努力が水泡に帰す。

    それは、あくまでも私欲、欲望ですから、、、



    私欲を強く持てば持つほど、

    なにもしなかった方が、よかった。  そうなります。






    今の日本には、特に若い世代は、

    非常に、人間のエネルギーの枠が狭まって、

    恋愛も結婚も出産も育児も老後さえも、個人的事柄になっています。

    自分のために、自分が所有する為に、自分の為に動く原理です。


    狭い自己の満足を追及するだけに終わってしまう世の中なのですね。



    ”歌は世に連れ、世は歌に連れ”という言葉がありますが、

    娯楽や嗜好は仕方がないにしても、

    すべてが世に連れ、世はすべてに連れてしまって揺らぐ日本は、

    欧米のなんだかんだ言ってもキリスト教の理念に基づく社会観、

    コスミック教育に根ざした社会教育という基盤がある西洋と比べれば、

    日本人はかわいそうだなぁ~  と思います。




    個人でしか生きられなくなっている傾向が社会で強くなっていますね。


    それで、当然の如くに、

    今は、自分の幸せが人生の最大目的で、親もそう育てて行きます。


    だから、

    深く文化を伝えるという事などに、及びもつかないのだろうと思います。



    だから、命名を機会に一つの亀裂が顕在化します。

    仲の良い親子であっても、

    どんなに上手くいっている祖父母と若夫婦の世代間においても、

    赤ちゃんの名前を決めるという一大事において、

    実は、思っている割りに、

    それほど親から子供への文化の継承ができていないと気が付くのです。 

    自前の文化を失う姿を見るのです。


    命の継承者と文化のつながりと言う事から考えれば、

    もう、そのつながりは途絶えている、そういう姿を多く見てしまう時代です。

    若い世代が、もう、自分の命が継承された川上を見ていない。 



    年長者の側は、それに気づいても黙ってしまう。

    自分は、口出しすべきではないと我慢をしてしまう。

    それはなかなか難しい現実です。文化の継承においては、、、、、、




    大家族から、核家族へ、今は、個人へ、その流れは今に至ります。 

    個と個の連帯もなく、孤人へと、、、行く末が見えるようです。


    これらの、抜け落ちていった間を、政治が制度で、

    社会を埋めようとしています。


    埋められるのでしょうか?


    道徳と文化の崩壊からくる個と個のほころびを、

    政治の社会という糊で、くっつけようと、、、?

    しかし、社会とは何ですか?

    孤人、孤人となった、人の集合を社会というのですか?


    同じ文化を持つ人間が集まって、社会の一体感は醸成されるのです。

    文化も道徳も持たない人間が集まって、

    どういう風に社会を営むのでしょうか?




    支えは、介護、育児、医療、それらを買うお金ですか?

    生活保護、年金、奨学金の返済、社会を弱くした分、大変ですね~


    権力者は、萎えた国民に、

    親や、子や、身内の代わりになり、隣人や、友人や、知人の

    代わりになる人を雇えるお金を支給するのですか?



    個人主義では、もうこの先へ進めない局面に、出ます。

    ある崖っぷちに出ます。






    今、明らかに社会にある流れは、

    東洋的な思考を排除する事が、知的であると認知される世間です。

    約100年前から、

    それはゴミのように扱われ捨てられて来たのですから、、、




    今度は逆に、

    それを、拾い集め、自分の血肉とし、骨の髄として肉化し、

    代わりに世の表層に流動する、あふれこぼれる西洋化した思考の断片を

    批判、選別する物差しを持たなければ、私達が、危ない!

    持ち堪えられないのではないかとさえ、感じています。






    あまり言いたくないのですが、

    男をさげすんで、自分の経済力に頼る、できる女に

    なれる赤ちゃんが、

    今、女の赤ちゃんがたくさん生まれて来ています。

    家庭運も、配偶者運も、子供運も弱い、しかし財運に恵まれた、

    孤独に強い美女です。



    どうしましょう? ?




    男の子を、もっと強く鍛えねばなりませんね!

    女の子には、躾をしっかりしなければ、国は体を成さなくなるわ?

    江戸時代は、こういう所は、うまくやりましたね。




    小沢さん、菅さん、財政再建どころじゃないでしょう?

    日本の道徳の建て直しをしなければ、

    お金は駄々漏れだわ~!(笑い)

    いくら国債を発行しても空中に消えると思います。

    そして、男女の自然が消えます。天の道が危なくなるわ~!



    それとも、

    男が子供を生むという政策でもあるのでしょうか? あはは。










    地球だけが温暖化で狂っているのではないのです。

    天下(宇宙も人も自然も)は一つですから、

    天が狂えば、気候が狂い、

    地が踊れば、天災が起こり、

    人の紀が乱れれば、伝染病が流行る。

    だれが政治をしても追いつかない状態になると、

    最後、民が不幸になると。国が乱れる原理を、3000年前に

    東洋の叡智は見通しています。 



    天下は一つの生命体です。物にも命があり、心があるのです。




    そのいい例が、前回の記事にいただいたコメントに紹介されています。


    植物に音楽を聴かせたり、語りかけると育ちがよくなるという話を

    思い出しながら読んでいました。

    また、醸造中の酒に音楽を聞かせると、味がまろやかになるそうです。

    これは麹菌が反応しているのでしょうか・・・。

    科学の進歩が遅れ、証明されてはいませんが、

    実践している人たちはいるのですね。



    杜氏が、麹菌をかき混ぜながら、歌を歌う。

    古来から意識で説明のつく知識にならなくても

    どこかで、無意識で分かっていたのですね。

    詳しくは次回、このつづきから、、、、



    さりげなく、身近な所で、

    命の文化を残していけるように、、、・

    祈りましょう。



    ^^良き夢を見ましょう~。 


























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    ★家運  ー 木に譬えられる家系のふしぎさ ー ( 人の運と家運の関係 )

    Category : 運命学
    有馬温泉大銀杏


    11月中旬、有馬温泉(兵庫県神戸市)で見かけた銀杏の木

    晴れた日でした。 青い空が、見えますでしょう。






    今日は、運命学の記事になります。


    年末のあわただしい時期、

    運命の事を、静かにお読みくだされば、幸いです。

    もうすぐやって来る新しき年に、備えて、、、、

    願い事や誓いや計画に、お役に立てればと願っています。



    このブログの右上、

    プロフィールと云う文字のすぐ上に

    TITLE LISTとあります。


    そのボタンをクリックしていただきますと、

    今までの全記事のリストが出てきます。


    一行が、一つのブログ記事の内容を表しています。


    左の日付から始まって、記事のタイトルが横に並んでいるのですが、

    タイトルの頭に、★が付いているのが運命学の記事になります。

    いままでの過去の記事は、


    2009/09/06 : ★十二支 


    2009/12/12 : ★財運 


    2010/09/10 : ★姓名判断    です。



    今日は、これに続く


    ★家運  木に譬えられる家系のふしぎさ ( 人の運と家運の関係 )

    についての記事です。





    私の願いは、

    運命と云うものを専門家だけが観る事ができるものではなく、

    誰もが身近に手に取るように分かるものになればと願っています。



    できれば、単なる占いではなく運命学から東洋学へ、

    そして伝統を取戻し、層を厚くする事で、

    身近な生活レベルまで広げる事ですね。


    世は、万事お金もうけですが、

    各自が賢くなれば、商売人も勉強せざるを得ないでしょう。


    世の中が、いい塩梅になって行くようにと祈っています。


    もっと大きな視点からは、

    自己の運命を知る事で、

    個人の自立自尊、自律的な生き方の助力になればと云う思いと、

    この世の仕組みを深く(無意識の領域を含めて)知る事で、

    少しでも他者を思いやる心が出て来るのではないかと云う

    希望も持っております。       ほっ。







    さて、私のブログをお読みいただいて、

    かならず気が付かれるのは、

    運命鑑定と言いながら、余所(よそ)と違う?!


    なにやら、

    好きな人ができて、その人の事を占ってもらうのと違うー、

    ちょっと雰囲気がちがうわねー、   

    とお感じになるのではないかしら?       あはは。



    それで正解なのですよ。


    もちろん、それらは人間の関心事には違いないのでしょうが、

    ピンスポットで運を観て行くと、問題ありなのですよ。

    まず、異性問題。


    色恋ならまだしも、色情、欲望を愛情と思わせて、

    不倫の相談も、貴女の恋愛運は強いと、成功へ誘う?

    何が成功か? わからない世界が出来上がっていくわけです。

    こわい、こわい世界です。


    魔界ですね。

    間違った事を、間違いと言わない世界があります。

    永田町、政治の世界だけではないですね。  ほほ。





    家系の運を観て行く事で、

    個人の運を鑑定するだけでは、見えない時間軸上の実相があります。



    家系の家族を観て行く事で、

    一人の運を観る事だけでは観えない空間が浮かび上がって来ます。




    たとえば、意識の捉える現象世界においての、

    成功、と言いましても、

    一か月の成功もあれば、3年だけの成功もあり、

    その成功の10年後には、立ち上がれない一生が待っている。

    かも知れないのですから。      ほ。





    また、努力あっての成功、と言いましても、

    強く財運だけを意識する事によって、陽の現象だけを追いかけて、

    偏って全ての陰徳を使い果たし、

    仕事が成功した! と同時に、

    実は、子供運、家族運、全ての陰徳を犠牲にして、

    最後は、貧・病・孤 の奈落へ堕ちる成功かも知れないのです。



    これでは、成功と云う名の魔王の奴隷でしかありません。


    昔からの知人が、ある駅前で、結婚仲人行をしております。

    約20年前から、

    中年の再婚希望者がたくさんお見えになられるのですが、

    その紳士たちは、ほとんどがバブル期に一旗揚げて、

    成功した人ばかりだそうです。

    バブルで一財産作ったはいいが、ご本人は外で遊び過ぎ、

    奥様は別の男性の元へ、

    子供たちは家を出て行ってしまったアルジの方が多い。

    あわれ!

    人は、貧しても、富んでも、夫婦別れをするものなのですね!





    運と云うものは、多極的に、多面体で動いています。

    人間の意識=五感が捉える皮相面だけで、

    物事は、変化をしている訳ではありません。


    畳の目を数えるような幸せの見つけ方もありますが、

    そもそも、畳がボロボロになったら終わりです。

    腐ったり、燃えてしまったり、流されたり、切り刻まれたり、

    泥を掛けられたり、海に流されたり、、、、、


    本当に、こう云う事が、起こりましたね。

    3.11は、そう云う現象でした。


    短時間に起こる現象には、人は驚いて、気づきますが、

    徐々に、静かに、起こる現象には気づきません。


    今回は被災地にならなかった場所も、

    知らずいつの間にか、変化が起こっているはずです。


    当たり前の事、

    人の成長、 老いること、中身がなくなること、

    知らず本質が変化をすること、、、などは、


    人の意識=五感では、どうしようもない。

    =『天・時』の支配する力で起こります。

    =無意識の世界からのエネルギー=現象を生みだす力です。




    『天』が嫌うのは、『陰』と『陽』の不均衡です。

    また、自然の創造性を潰す働きに『天』は容赦はしません。

    『陰』と『陽』の均衡を求めて、

    創造性を抑圧する遮蔽物を破壊します。

    それが、人間が、どれだけの年月をかけて作った物であっても、

    です。

    嘘は、うそなのです。




    それが、自然と云うもの、運命を形作るそのものの力です。

    運命とは、『天』の運行が運んで来るものです。

    『時』そのもののもたらす変化です。


    この場合の創造性とは、

    芸術などの作品を創造する事ではありません。

    自然の営み、中庸、均衡を求める命の活動性です。

    新たないのちの生まれ出る事です。




    それを、人間が、自己中心的に、

    良い、悪いと評価を名付けているだけで、

    『時』を経て『天』が実現するものは、

    均衡を求める創造性そのものであり、


    それが、ある時は保守であり、革新なのです。




    これは、来たり起こってしまえば、

    どうしようもないものかもしれません。

    しかし、来たり起こる前なら、あらかた予測ができる。

    予防もできる可能性があります。






    人の本当の幸せとは、

    その力に従った、人らしい、

    自分の持っている種(たね)に合ったしあわせです。


    まさか!

    『天』を凌駕しようなどとは思わないでくださいね!  ほほ。




    その種は、誕生命式に表われています。

    いいえ、あなたの全てに、相として現れています。


    例えば、生まれながらに持って来た顔の相、

    耳や鼻や手の相、

    手の指紋、

    後天的には、名付けられた名前、家族、家系、などです。


    きょうは、この家系のお話しになります。

    私たちは、自分を形作っているもの、

    そこから、自分の運を見出して行く事ができます。



    その運を、自分の五感でなんとかしようと思っても? 

    それは、どだい無理と云うものです。

    うまく行ったと思う間は、それは運に支えられている期間だった。

    そう云う事ですね。

    かならず『時』における限界が出て来ます。

    出処進退、必ず大事な時があるわけです。

    暦では、時節、節目を大事にします、


    自分は、いつまでも夏のつもりが、もはや冬になっている。

    五感だけでは、偏見や癖からそう云う勘違いが起こってしまうのです。




    具体的な、一つの大まかな目途として、

    家運と云うものが、あります。


    家系の運と言った方がいいかも知れません。

    家系を木に譬えますと分かりやすいのです。


    根が、先祖です。

    亡くなってしまって、この世にはいらっしゃらない方です。

    我々にとりましたら、無意識の存在ですね。

    あの世は、無意識の世界ですから..... 

    たとえれば、大地の中の根の存在です。


    昔から、西洋の神話などでも、大地の下は死者の国だったりします。



    地中の根は、前の記事にも書きましたが、

    その木が実生なら、その種が、大地に根を張った時からの存在です。

    毎年、春に出て来て、秋に散ってしまう根ではないですね!   



     ほほほ。





    幹は、根より生じて以来のその歴史を保っています。

    その家系が、

    どんな経験をしたのか?

    どんな過酷な乾燥期を経て生き延び、

    どんなに寒い寒冷期を凍えながら耐えたか?

    すべてが、年輪になって残っています。




    今、現在、そこから出た枝が、貴女や貴男です。

    貴男や貴女である枝から出て来た葉や、蕾、花が、

    すべてが、貴男や貴女の力の成果でしょうか?


    そう思って喜んで褒め合うのは、どうぞ、勝手ですが、

    今生きている、今咲いている花や、実が、

    自分の力だけで咲かせたものではない事だけは、確かです。


    おわかりになりますね!




    今、どう云う花になり、実になっているかは、

    それまでの枝、いままでに枯れて散って行った葉たちの

    過去の努力の集計です。





    つまり、

    私が、運命学の教室でよく云う言葉なのですが、



    人が、どう咲いていくのか?

    どう、枯れていくのかは?


    もっと言いますと、

    どう云うお相手と結婚をするのか?

    どんなわが子が生まれて来るのか?


    過去から現在に至る先祖力(せんぞりょく)なのです。



    結果が出てからでは遅いどころか、

    気が付いた時には、もうその結果の形は出来上がって、

    胎児のように体内に孕まれています。

    赤ちゃんは、10月10日で生まれるとなっていますが、


    運は、物理的諸条件を克服して、

    この世界へ現象として何時出るか?

    そう云う事だと思います。




    まぁ、そうですね、

    私達の努力、反省、命を賭した生き方、

    それらの本当の結果が形になるのは、孫の代になる。

    今、自分は、孫の為に生きている。

    そう思われるのが自然かな、と思います。



    家系の中の運は、

    現在の代へ、生きている我々へ、

    代々の先祖の経験や知恵を送ると云う形で出て来ます。





    これは、おそらく将来、

    DNAで、説明がつくようになると思いますが、

    先祖の経験が蓄積されていて、

    その中から、繰り返し繰り返し家系に表われます。




    経験や知恵と云っても、いい形、良い結果ばかりではありません。


    その時の先祖の迷い、苦を再現するような形で出る。

    としか思えない表われ方をする場合もありますし、

    も! 無理! と先祖が投げ出した? としか味わえない運を

    垣間見る事もあります。


    まったく家系にはない形が、出現するのは、末っ子です。

    これは、両親が若かった第一子の時よりも、

    両親が年を取って来る間に獲得した知恵の差と、

    生まれながらに年上の兄弟に言葉や行動で鍛えられる、   あは。

    それに抗していく本人自身の意識の開発に依るのでしょうね。


    如何ようになろうとも、

    いのちと云うものは、常に創造性を求めて、

    その発現と完成を探っているものだと云う事が分かります。


    その紆余曲折が、運の軌跡なのですね。


    ちなみに、

    女の子は、父方の父、本人にとったら祖父の運を、

    男の子は、母方の母、祖母の運を引き継ぐ割合が多い。

    と云う事も言われています。


    これについては、また、詳しく記事にできればと思っています。




    それにつけて思う事は。

    私たちは、近代以降、近代的自我を獲得しました。

    今までにない自我を獲得したと言われています。




    しかし、近代的自我を獲得をして、

    先祖が生きていた頃よりも、自由になった、平等になった。

    と、勘違いをしてはいけません。


    今まで、繰り返し書いてきた事ですが、

    近代的とは、無意識を排除したという世界のルールで成り立っています。


    その狭い領域の中で獲得した自我、

    自我なのか、自害なのか、自画自賛なのか、   あはは。

    迷ってしまうのですが、、、


    言ってみれば、大人の社会で認められない若者が、

    髪を染めたり変わった格好で街を席巻するのに似ています。



    そんな安っぽい近代的自我を、いくら持った処で、

    この家系から家運からの離脱は果たせていません。


    戦後の新民法によって「家」制度が廃止され、

    家長制度は無くなっていますが、

    それで、個人が真に家から解放された訳ではありません。


    あくまでも、それらは、制度の改革であり、

    人間の解放ではない。

    それを勘違いをして、新しい時代、古い考えを捨てて、

    家を出れば自由。何をしてもいいんだ!  なんて、

    好きな事を自分の五感で選んで生きる事が、進歩だなんて!!

    幸せになっただなんて、

    本気でそう思っているとしたら、 


    困ったなぁーーー。


    日教組のやって来た戦後教育は、これなのです。


    この程度の自我の浅い認識程度では、

    今まで営々と今の日本を築き上げてきた先祖にも劣る自我、

    幼稚な原始人に逆戻りをしただけの事に過ぎないと

    (この表現は、原始人に失礼ですね!  あはは。)


    気が付いてほしいのですが、

    まだ無理なのかな?    ほほっ。





    近代的自我を持とうとも、

    この営々と築き上げてきた古い物の積み上がった現実からは、

    絶対に逃げられませんよ。



    我々は、先祖の業績の上に立たざるを得ない。

    否が応でも、先祖を引き継ぐ以外に生きれない。

    その事実を、

    我が子を抱く時に、

    我が子の目を見つめる時に、自覚したいと思います。

    確かめてください。


    それは、絆。

    切っても切れない絆です。

    それらすべてを、誇りを持って受け入れ、継承し、

    次へつなげなければならない絆なのです。


    イヤな事も、気持ちがいい事も、すべてです。

    それが、運を変える事に通じる唯一の道なの。





    目に心地いいこと、

    口に心地いいこと、

    耳に心地いいこと、などなど、、、


    意識を有頂天にする物ばかりを集め続ける事は、

    自分の意識を、創造性の枯渇した狭い世界に閉じ込める事です。




    それらを売りつける事に狂騒する物質文明に犯される事なく、

    買いあさる事に、狂奔する事なく、

    つつましく年末を、生き延びてください。    あはは。




    今の時代で生き延びるとは、そう云う事ですね。   ほ。


    それらに同調したり、助けたり、人を乗せる事は、

    悪運を積み続けるゾーンに、はまって行く事ですから。。 。




    お気を付けあそばせー。





    すこしおどかしました。   あはは。

    次の記事が、今年最後の更新になります。

    よき一週間をお過ごしください。


































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    不思議な命式のお話し 1.   ③ 衣食住の運命 1  コメントへのお返事  

    Category : 運命学
    大正池から見る穂高連山


    これでも、まだ正午過ぎ、、、雨が降りそうな空模様、、、 

    滞在中、ずっと雨雲りの穂高連峰だったけれど、もうお別れです。



    大正池から見る穂高連山


    写真をクリックして左の端までご覧ください。

    大正池の6月初頭の姿、春遠からじ、の草木が、、、、、














    「不思議な命式のお話し」このシリーズは、今回から始まります。




    今日は、不思議な命式のお話し 1.   ③ 衣食住に関する運命の1.   

    以前、いただいたメールへのお返事を兼ねています。



    実は、いつもコメントをしていただく方に限定をして

    ご希望の人の命式をお教えした事があります。

    それに対する次のようなメールでした。



    命式を教えていただきましたが、

    それを自分を知る為に役立てたいと思います。

    命式に関して記事をお願いします。




    そうでした!

    うっかりしていました。

    命式への理解が、少しでも深まるようにするべきでした!

    と、そう云う事で、

    このシリーズをさっそく作りました。

    命式になんら知識をお持ちでない方にとりましても、

    日常の中で、運命とはこう云うものかと、

    腑に落ちていただけるような、

    物の見方が深くなって、人生の機微に役立つような記事に、

    したいと思っています。



    もうひとつ、メールでいただいたコメントです。


    コメント等、書きたいと思ってはいるのですが

    cosmosさんのブログへのコメントはいい加減な気持ちでは書けないので

    あれこれ考えてるうちに、あっという間に時間が経ってしまって(--;

    先日のメールでご連絡頂いていたので、次回の記事を、

    楽しみにしていました^^
     
    でも、どんな内容の記事でもcosmosさんの書いてる記事は

    とても勉強になるし、色々考えさせられる事も多いので

    ちょっと難しい~ですが(笑)毎回、楽しみにしています。
     
     
    命式については、詳しく知りたいのは山々ですが^^;

    そぉ簡単にはいかないと思いますので

    ひとつひとつ、ゆっくり・・・理解?出来ればいいな・・・

    と思ってます^^ 





    では、さっそく始めましょうか!


    今日は、 ③衣食住に関する運命の1.です。



    “③衣食住”の③と云う数字ですが、

    記事中の①~⑩の数字もそうですが、

    命式中の10種類の数字に当たります。

    あらっ! 私は、自分の命式を知らないから、、、

    と云う場合でも、そう云う読者の方がほとんどですから、

    関係ないわ! と思われないで...     あはは。

    どの数字の後の記述が、自分に当てはまるかな?

    と、思いながら読んでいただくだけで結構です。

    ある数字で始まる記述内容が、自分に当たっているようなら

    当たっていると思う番号を、いくつか覚えておいてくださると、

    このブログを続けて読んで行く内に、すこしづつ、かならず、

    いつか、自分の命式がおぼろげながら掴めて来るはずです。


    そんな事は、どうでもいいや、と思われるのでしたら、

    すべて無視をして、お読みになってくださっても結構でございます。







    どんな時に役に立つか?





    彼(てき)を知り、己(おのれ)を知れば、百戦危うからず


    これは、「孫子」と云う書物の中の最も有名な格言です。

    そのままの意味は、

    相手を知り、自分を知って戦えば、百回戦っても負けはしない。


    自分を知り、相手を知る為には、

    運命学の命式は非常に役に立つのです。





    なぜなら、意識だけで生きようとすれば、意識は真実を隠してしまいます。



    だって、意識は五感で分かる範囲の事だけでしょう?

    それ以外は、まったく分からないのですから。。。

    自分の事が分かったと思う瞬間は、

    それは、意識が真実を隠しているのを忘れた瞬間ですわ!  あはは。

    意識だけを信じていたら、騙されますわよ。  ほほっ。



    意識は、真実を隠す。


    自分の事すらそんな程度です、、、相手の事など解る訳がないのです。


    孫子も完全に知りなさい!と、言っている訳ではないの。

    まず、相手を、自分を、知ろうとすれば、冷静になるし、

    自分の能力を過信する事もなく、

    気に食わない相手でも、彼の能力を認める余裕が出て来ると、

    無駄な戦争をしなくなるんじゃないか?

    その為には、

    人ができない努力をして、負ける因から抜け出なさい!


    いよいよ、自分と相手を研究したければ、

    運命学の命式が役に立つと云うものです。

    本当に東洋運命学は、その人の事を見事に言い当てています。 



    たとえば、普通、私たちは、

    自分の経験範囲から、人間と云うものは、、、とか、 

    男と云うものは、、、とか、  または、 女は、、、とか、 

    自分のたった一人の母親を見て、親と云うものは、、、とか、

    夫婦と云うものは、、、とか、 子供と云うものは、、、とか、


    人、すべてを一枚の板の上に乗せて論じる事が正しいような?

    ひとまとめ的な言い方をしますね。

    それは、そうしておく方が、楽だからです。


    楽を選び取るのは、意識の癖でした!!!  あはは。



    ちょっと前の世代のお祖母さまたちは、

    子供の事を話すにしても、知恵がありました。

    子供は、最低3人産んで育てないと、子供は分からないものだ。

    一人くらい産んで、子供は大変だ、云う事を訊かないと云うものじゃない。

    3人産んで、初めて母親として一人前になれる。

    母親が一人前でないから、子供をうまく扱えないのだ。

    子供は、3人産みなさい。

    そう言っておられたのですよ。    あは。

    自分の思い通りにするのが子育てではないと。

    3人育てて、一人ひとりの個性を見る母親の目が養われる。

    そこから一人前の母親と言えるのだ、そう云う事なのでしょう。

    だから、最初の子、長男、長女は失敗作なんだと、、、!

    三男、三女がやっと成功するのでしょうか。。。?  あはは。



    でも、最近の世間においては、なかなかそう云った

    役に立つ苦言を言ってくださるお年寄りはいらっしゃいませんね。

    今は、近代的自我に付随する当然の権利のように、

    皆が、全ての存在を画一的に扱い、見る事が平等だと云う

    間違った観念が行き渡っています。

    何でも概念で見てしまうのですね。

    それが、理性的で頭がいい事だと勘違いをしている。

    これこそが、『陽』の大過の弊害であります。


    経験深いお年寄りを、自分と同じ立場で見てしまう、、、、、

    だから、

    自分の意見が一番と、主張する若い人たちには逆らえない。

    若い人の言葉には負ける。 黙っていよう。 と、

    ご自分の意見や知恵を披歴なさらなくなってしまわれました、が。



    ほら! ここにも意識文明が知恵を隠す弊害が表われています。




    まさに、今は、自分の五感で感じた物こそ真実だと、 

    それが尊重される事が、何よりも正義なんだと牽制する時代です。 



    一億総国民が、価値観の多様化と名付けて、

    それぞれ自分勝手なロジックを正当化する事が当たり前、

    これが真実、自由、平等であると、

    実は、迷いの宮に入り込んでいるのが現文明です。



    ★ しかし、特に人を、

    論理性で括ったり、モノの様にひとまとめに扱ってはいけないのです。





    この迷いの宮から抜け出るには、

    運命学の命式論が一番手っ取り早いのです。



    なぜなら、命式は非常に明快な客観性の図式です。


    目で見える図式に、確実に一人の人間の特徴が表われています。

    第八識から浮かび上がった業から来る無意識からの傾向性が、

    固有の癖を帯びた意識の敏感性が、文字で示唆されているからです。



    それを、できれば誰もが、自分の命式を意識できるように、

    自分の大昔から来る無意識のベクトルを読み解けるように、

    迷いが晴れて、すっきりするように、   ほほ。

    このシリーズを始めたと云う次第です。


    一気に分かろうとしてもムリです、ダメです。

    すこしづつ、確実に、無意識下へ、です。




    では、③食や衣食住全般にわたる敏感性の傾向についてです。



    それにちょうどのコメントが、

    4月29日の記事、いのち(自然と健康)を脅かすもの 4   

    ○ 経口吸収より恐ろしい経皮吸収 2 へいただいておりますので、

    紹介をしましょう。 



    長いですが、お読みになってください。

    コメントの文と文の間から、今日のテーマ、

    ③衣食住に関する運命の強いオーラ-が炸裂していますよ。  






    経皮毒について、洗剤やシャンプー、歯磨きのことなど

    知ってはいましたが、まぁ大丈夫だろう、って感じで、

    ついつい便利さと安さにかまけて、使ってしまっているんですよね。。。

    でも、シャンプーとボディーシャンプーはもうやめて、

    石鹸だけにしています。

    私はロングヘアーですが、リンスなしで全く問題ないです。

    髪を洗うのも毎日ではなく、週に1,2回です。

    その方が髪の毛の調子がいいです。

    台所も合繊洗剤から、固形石鹸を使うように、やっと替えました。

    これも、想像していたよりも問題ないです。

    洗う前に新聞紙とかである程度脂汚れを落としてからにしたら、

    水を使う量も減らすことができますし・・・。

    あとは、洗濯洗剤と柔軟剤です。

    これがなかなか、やめられないんですよね。

    すすぎは、プラスアルファー時間をかけてますが、脱水もですか・・・。

    重曹を使った洗濯に替えたいのですが、

    今住んでいる場所では安価な重曹が

    手に入れられないので、ちょっと面倒なんですよ。

    だから、ついつい、身近で買えるものを使ってしまいます。

    インスタント食品は基本的に食べません。

    ただ、ビスケット、シリアル類、ですね・・・。

    お砂糖やお塩その他添加物が気になりつつ、自分で作るのは面倒なので、

    ついつい、買ってしまいます。

    生活全般を見直さないと本当にいけないですよね。

    便利だという口車に乗せられ、何も考えずに手に取って、時間が経ってから、

    病気になって後悔・・・って嫌ですからね。

    実際、もう既に私は乳がんで手術をしましたし、夫も亡くしましたから・・・。

    子供が大きくなるまであと13年は生きないといけないので、

    気をつけたいと思います。

    微生物との共生がこれからの課題ではないかと思っています。

    手作りお漬物、お味噌などなど・・・。

    昔は各家庭で作っていたんですもんね。。。




    ありがとうございます!

    乳がんの手術をされた経験もあっての事か、

    命や健康に非常に高い関心を持っていられるのに驚きました。





    昔からの年寄りの知恵なのでしょう。

    こう云う言葉が、言われておりました。


    子供は、自分の録(ろく)を持って生まれて来る。

    (子供は、それぞれ自分の食い扶ちを持って生まれて来るから、

    親が心配しなくても、大丈夫、子供は育つよ。)




    子だくさんで、もうこれ以上、子供が出来たら、どうしようと、

    家計も大変だから育てていけないかも知れないと、

    妊娠してしまったお腹を抱えて、産むか産まないか、迷っている母親に、

    頑張って産みなさい。と云う励ましのお祖母さんの智恵の言葉です。

    父親の経済力に関係がないと!

    子供は、自分が成長する食い扶ち分位は、自前で持って生まれて来る。



    人間は一生の内に食べられる質と量が、決まっているのですよ。


    えっ、 信じられない!??     あはは。


    どんな程度の、質で、 どんな美味しさの、 どれ位の量を、

    食べる事ができる運なのか?

    おおよそ、決まっているのですよ。

    ひとりひとりが、自分の運を持って生まれて来る訳ですから、

    一応(いちおう)は、親の運と関係がない訳です。    あはは。




    これらは、③が命式の中にあるのか、ないのか、で観ます。

    ③は、あまり努力しなくても衣食住に恵まれる運ですから大事です。

    そして、命式の中で調和をしているのか?

    たとえば、良い食事に恵まれたとしても量が、問題です。

    子供の内から、暴飲暴食を続けるのは、

    ③ が命式中で調和をしていないのです。、

    好き嫌い、野菜キライなど、偏食と云う象(かたち)で出て来ます。




    しかし、再応(さいおう)は、親の運と関係があります。

    それは、どう云う母親の所へ生まれて来るのか?

    と云う運でもあります。

    その母親である女性が、どう云う夫運を持っているか?

    どう云う男性と「縁」を持つ「因」を持っているか?

    そのように母親の命式が、深く係わっている訳です。



    母親が子供の将来の健康に深く係わっている事は、

    現代科学でも、立証されています。

    母親の子宮内に、胎児でいた時に、

    母親が、栄養的に充足をしていなかったり、

    妊娠中も、体重が増える事に注意をしてダイエット気味だったり、

    少食にして、栄養が不足がちだった胎児期を過ごした場合には、

    生まれてから、肥満や成人病になる確立が高いのだそうです。


    これは、運命学でも納得できる話です。

    と、云うのは、

    ⑨ 今日のテーマである食や健康などに対する敏感性よりも、

    どちらかと云うと、⑨気分にウェートを置く傾向の女性は、

    食べ物と云う目に見えるモノよりも、美容やおしゃれ、雰囲気において

    自分が、どれだけ心地いいか? 自分の心の中しか見ない傾向から、

    物全体を粗末にする癖、体や健康に集中できない運もあります。

    それで、インスタント食品や外食にもあまり抵抗がないようです。

    そう云う女性の場合、

    結果的には、妊娠期を健康的に過ごしにくく、子供運もよろしくないので、

    あとあとの出産や育児にも苦労が出て来ます。







    A.親よりいいものを食べる運の子供もいれば、

    B.親よりもヒドイ食事をする運の子供もいます。


    A.は、たとえ親は貧しくても、

    ③あたたかく子供を庇護し、健康や発育を見守る事ができる

    犠牲的な愛情を傾ける親に恵まれる運です。



    B.は、その気はないのだけれど、無意識的な癖として、

    ⑨健康や食生活が、なぜか生きる為に最も重要とは思わない親に

    産み育てられてしまう運です。




    A.と B.は、両極端な例で、

    実際の人生は、A.と B.の間の無数のグラデーション(段差違)の中に

    あって、決して同じ位相、位置、姿と云う訳ではなくて、

    ひとりひとりが、全く違う位相に存在しています。

    (実際の命式では、①~⑩の10種類の関連性も重要です。)





    命を産み育てるのは、『陰』の徳性です。

    『陰』の徳性が無い処に、命は出生しません。育ちません。

    『陰徳』の力があるから、

    妊娠をし、命が産まれて来るのですよ。

    そう云う事から、なぜ日本が少子化なのかお分かりですね?

    と同時に、栄えていた家が、絶家にどうしてなって行くのか?

    それらは、同じ「因」と「縁」です。 




    この事は、『陰』の智慧です。

    『陰』の創造性の本体です。



    しかし、近代から、日本を大波で洗っている近代合理主義の濁流は、

    『陰』を無視すると云う本性を持つロジックです。

    『陰』の抹殺を、この地球に実現しようと、

    『徳』を捨てた先進国から先へ、まず日本へ、

    実現しようとしています。





    『陰』の現場を根絶やしにされても、気づかずに、

    『陽』の価値観を押し当てられて、

    それを良い事だと受け入れた日本は、

    教育費がかかるから子供は産みたくない。 産まない。

    子供の為に夫婦が犠牲になりたくない。 産まない。

    結婚自体を、自分が好きな事ができないからしない。

    この大罰当たりのロジックを、価値観の多様化と云う虚構を築いて、

    正々堂々とまかり通らせているのですから。。。



    これが、近代化に成功したと云う日本の現状です。

    真に調和の取れた③を、命式内に持つ子供が生まれにくく、

    命式内に③の無い子供の出生が増えているとしか思えません。


    『陰』を捨てた恩知らずな日本の国土には、

    自分が生れて来た『陰』への感謝・報恩を忘れて

    エゴイスティックな欲望を好きにさせる現文明が暴れ狂っています。

    そう云う国土を、我々が安穏に暮らせるようにと、

    『天』や『地』が守るでしょうか?



    今後も、ますます、

    『陰』を萎縮させ、埋没させ、

    生れ出ずる方途を閉じる『陽』の暴挙が、荒れ狂うでしょう。

    その出発点が、今、地球を席巻している近代以降の合理主義なのです。

    その大過した『陽』の殺戮が、

    生きている我々をも標的にしている事を忘れてはいけません。




    グルメと飽食をする事が、③が調和した良質な命式ではありません。

    どんなにグルメ的に贅を尽くした食事であっても、

    本当に心からの愛情が、思いやりが込められているかどうか?

    一見、御馳走に見えても、その中身の本質は、味わいのないエサなのか?

    物質的な満足を求めて、我々は一体何を食べているのか?


    私たちが、捨てている食糧が、年間1940万トンと云う数字が、

    それを物語っています。



    しかもです! 

    年間 5800万トンの食糧を輸入しながら、

    その1/3を捨てています!!!



    この廃棄量は、

    世界の食料援助総量740万トンをはるか、3倍近く上回り、

    先進国の3000万人分の年間食糧に匹敵しています!



    それは、途上国の5000万人分の年間食糧に匹敵しています!


    しかもです!

    全食糧全体に占める食糧の廃棄率では、

    世界一の消費大国アメリカを上回っています。




    日本は、廃棄率では、世界一なのですよ。

    日本は、こんな事では、アメリカを上回って、

    さすがと云うか、馬鹿と云うか、、、愚か者そのものです。


    命の冒涜とも言える、この経済循環を守る為に、

    原発の再稼働をしなければならないとは.....!??



    もう、この狂気を、止めなければいけません。




    一見、粗食であっても、命の糧になる人間蘇生の本当の食事を、

    取り戻さなければ.....

    私達の徳性を取戻さなければ.....





    このテーマで、次回もコメントを取り上げて行きます。

    長い記事を最後までお読みいただきまして感謝です。



    次回更新は、

    お盆の墓参、登山等の都合により不定期になります。


    ご先祖様への追善供養をなさってくださいね。




























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    どうぞ宜しくお願いします。

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    不思議な命式のお話し 2   ③ 衣食住の運命 2  命式に従う意識の作るロジック

    Category : 運命学
    岩礁の波





    海の砕ける波の音を、どうぞ!  

    よろしければ、Youtube を後ろに隠して、聞きながらお読みください。

    ちょっと、うるさいかな?   あはは。


    Relaxation Meditation (Sunset Over the Ocean)  (22分)








    熱帯の気候とも思える暑さが、晩夏に、まだ残っているような気候です。

    ところで、みなさまの夏は、いかがでしたか?

    私は、最近は、山へ行くばかりなのですが、

    夏の終わりの海もいいものですね!





    今日の記事は、

      
    不思議な命式のお話し 2   ③ 衣食住の運命 2  

    命式に従う意識の作るロジック です。








    命式に従う意識の作るロジック
    が今日のポイントです。




    海と云えば、どの海も世界中の海へつづいています。

    目の前の海から、ずっとつづくその南海の島々で、


    命の出所、『陰』の徳性に背を向けて、

    敵兵の命に武器を向けざるをえない『陽』の殺戮の世界があった。





    その現場が、この海のつづきにあった。 



    たった67年前ですよ!

    一世紀も経っていないのです!




    いつ終るのか、いつ日本へ帰れるのかも知れない戦いの中で、

    今の日本よりも暑い熱帯雨林気候の中で、

    水もなく、食料もなく、祖国を思って死んでいった先祖たち、




    その苦しみの海。 悲しみの海。


    それを忘れて、その犠牲の上に、あたりまえの如く立って、

    なおもなおも、

    安楽だけ、気持ちのいい事だけを求めようとする現代の我々の意識。


    いいえ、

    我が国の指導者達、上層部、関東軍(大日本帝国陸軍)も、

    エネルギー資源のない我が国は、

    それらを求めて満洲へ踏み込んで行きました。


    エネルギー資源のない我が国は、依然変わっておりません。




    日本は、1868年明治維新後、( 144年前です。)

    西洋式の近代国家を志向し西洋を見習って富国強兵を行い、

    1945年の第二次世界大戦終結までの、いわゆる「大日本帝国」時代、

    軍国主義、植民地主義、覇権主義、膨張主義などの政策・体制を以って

    さまざまな戦争をして来ました。

    その77年の間に、日本なりのロジックを構えて4回も戦争をしています。

    その事自体、決して、威張れる事ではない。

    おまけに、その戦争の結果は、頼ったロジックのお粗末さもあって、

    御存知の様に、最後に日本は大敗、惨敗を喫しました!




    『陰徳』のバックアップなしのロジックは、張子の虎です。

    必ず、その上位のロジックに破られます。

    お互いのロジックが違えば、どんな事になって行くのか? 

    最近の例からいいますと、


    韓国の李明博(イミョンバク)大統領の、

    竹島訪問、天皇の訪韓時の謝罪要求、親書の受け取り拒否と返還、

    韓国と我が国との“喧嘩”がニュースで報道をされています。

    いろいろなご感想をお持ちの事と思いますが、

    韓国、朝鮮とのこう云うやり取りは今に始まった事ではないのですよ。


    明治元年、1868年、明治維新を成し遂げた日本の明治新政府は、

    朝鮮に、王政復古を伝える書契を渡そうとします。

    明治新政府を国として認めさせ国交を開こうとしたのです。

    しかし、その時も受け取りを拒否されています。

    理由は、書契の文中に「皇」と「勅」の文字が書かれてあったからです。

    (今回は、親書の中に竹島の文字があったからです。)

    日本側は、明治天皇に対してこれらの文字を使った訳ですが、

    従来の形式では、

    これらの文字は、宗主国である清の皇帝だけが使える文字だったのです。

    朝鮮にとって、日本は宗主国ではない。と云う事でしょう。

    そう云う朝鮮なりの立場のロジックがあった為で、

    その後、1876年(明治9年)日朝修好条規が調印されるまで、

    明治新政府は朝鮮との国交交渉が進展せず、国内的にも余波があり、

    8年間、新政府を認めさす事ができなかったのです。

    途中、1871年(明治4年)

    日本と清国の間に日清修好条規などが締結された機に乗じて、

    清が宗主国である朝鮮に対し国交交渉に臨んでも駄目だったのです。

    朝鮮との国交交渉に進展が見られないまま、

    1873年(明治6年)明治天皇の裁可で朝鮮遣使が無期延期とされた時、

    責任をとって、遣使賛成派の西郷と板垣退助と江藤新平など5人の参議

    および約600人の官僚・軍人が辞職する事態となっています。

    1873年(明治6年)朝鮮で起こった宮中クーデターの政変を利用して

    1875年(明治8年)日本は、国交交渉団を再度、朝鮮に派遣します。

    しかし、

    今度も、交渉役の森山茂が西洋式大礼服を着用していたと云う理由で、

    書契交換の前に、外交儀礼をめぐる意見対立により交渉が再び中断します。

    朝鮮側は、江戸時代の和装を求めていたのです。

    7か月後、日本は、軍事的圧力で局面の打開をはかりました。

    軍艦2隻で朝鮮沿岸を測量させ、

    軍艦「雲揚」が首都漢城防衛の最重要拠点江華島に接近した事によって、

    朝鮮側が発砲をし、それから2か月間の戦闘の後、

    特命全権大使の黒田清隆が、軍艦3隻を伴って朝鮮に派遣されます。

    その結果、日朝修好条規が調印された(砲艦外交と言われています)。


    なんともはや、外交と云うものは、それぞれのロジックの激突なのです。

    今の日本は、軍艦の派遣など不可能ですが、、、   あはは。

    同じ東アジアの韓国と日本でも、こうも違うのです。



    国と云えども、動かすのは人間です。

    人の集まりの国は、人の意識が作るロジックで構築されたものです。

    この『陽』の世界におけるロジックを生み出すもの、

    これらは、違う五感から生み出される意識が作り上げるものです。



    だけれど、その認識はあまりにも薄いですね。   ほっ。

    日本人は王朝の革命等を経験していませんから、

    自分が善意であれば、相手に通じると、、、

    相手を自分と同じだと思う傾向があります。


    これは、今でもそうです。 一つの迷妄ですね!





    私達は、人間は、皆おなじだと、どこかでそう思っていますね。

    まして、東洋古来の人間観を失い、知恵を捨ててしまって、

    近代化の物差し、皆、自由、平等、人権、権利ですか ?   あはは。

    皆は、同じ人間。 平等であると、     

    だから、序列を作ってはいけない。     

    ちょっと飛躍し過ぎですね。    あはは。

    生れた時は、皆真っ白で、後々育った環境や教育で違って来ると、、、

    本当にそう、信じているのでしょうね?!


    運命学では、

    私達人間は、皆おなじではありません。

    生れた時は、皆真っ白ではありません。

    育った環境や教育で違って来る訳ではありません。





    そもそもが、生れたての赤ん坊の感覚器官は、

    ひとりひとり肉体的な個人差もあって全部違います。

    実は、生れたての赤ん坊の感覚器官は、大人よりも鋭いのです。

    その感覚教育で有名な特徴を持つモンテッソーリー教育は、

    0歳から幼児の間に、感覚器官の敏感期と云うものを見抜いて、

    その敏感期にあった遊具を与えて五感の能力を伸ばします。

    平方、立方、ルート、二乗などの概念を、

    感覚的に捉えられるように原初的な練習になる遊具がある程です。

    その“子供の家”で遊具を自由に遊ぶ事ができると云う条件下に、

    幼児たちをおくと、自分の感覚に合った遊具を選んで遊びます。



    人間は、その人固有の感覚器官の癖、感性の違いから来る意識の癖、

    それら独特の癖のある五感で、自分の環境を習い覚えて育ちます。


    絵を描かせても、一枚として同じ絵はありません。

    自分の五感(センス)が集めた言葉や、

    欲望の満足を得ようとして意識が作り上げるロジックは、

    人によって違って来るのが普通です。




    それは、どこから出て来るのか? と云うと、

    運命学から観れば、

    命式の癖を100%帯びています。



    どの哲学であろうと、芸術作品であろうと、

    造り上げた人間の命式の癖が、色濃くそのまっま滲み出ています。




    2012年 3月 3日の記事、

    ( 命の継承と運命 9.) 胎内世界 / 芥川賞 『共喰い』 田中慎弥

    の中で、田中慎弥氏の命式の中には、7人の実母がいると書きました。

    そして、

    彼の命式の中にある五行で、一番強いのは、『水』だと書きました。

    つまり、彼の命式は、多大な水の母に守られている事になります。


    それで思い出すのが、『共喰い』の中の描写です。

    主人公の育った地元の川の描写です。汚れた川の水。流れる川の描写。

    川の中に捨てられた自転車など、非常に印象的に書かれていました。

    そして、雨。

    雨で全く見えなくなった川にかかった橋の上。

    クライマックス、実母が実父を殺める時に降り続く雨。

    雨の中でそれを眺める主人公。

    足元を川の様に流れて実際の川に注ぐ雨です。

    小説の中に溢れる水、水、水の描写。

    田中慎哉氏の無意識下の水が、溢れていました。

    水に親しみと救いを見ているのですね。


    水のある風景が、彼の心象風景なのだろうと思いながら読み、

    それから彼の命式を観た時、幾度となく体験した事ですが、

    命式の的中に鳥肌を覚えたものです。




    同じく滲み出るモノに、

    遺伝学のDNA(遺伝子)の影響があります。

    我々の肌の色、髪の質、背の高さ、容姿などに、

    遺伝子の影響を認めない人は、もういないでしょうが、

    私達の性格、知能、能力までが遺伝の結果なのだそうです。

    パーソナリティへの遺伝子の影響は、60%だそうです。

    この60%と云う数字は、今の処の数字だと思っています。

    いつかすべて解明されたなら、100%になるはずです。


    その100%の上に乗っかって来るのが環境因子。

    そう云うバリエーションの展開になるはずです。




    しかし、

    伝統的な教育学では、こうは思いたくない傾向があるようです。

    なぜなら、理想は、人のあらゆる可能性を否定したくないのですね。

    人間は、生まれた時には真っ白で、皆同じであると、、、

    環境が、その人を決めるのであるから、

    そこに、教育の可能性が重要であると、そう云う主張です。

    人は、教育でどうとでもなると、そう思いたいのです。  あはは。

    教育次第で、人間の内面は変える事ができると信じたいのですね。

    これを否定しないのが、愛だとか、やさしさのような ?

    命は、どんな延命治療を施しても長生きさせるのがいい。と云うのと

    似ています。

    どこかに、死や、理想の通りでない人間を厭うネガティブ性がある。

    そして、そのネガティブ性を隠すのに使うのが、

    そう信じる事が、道徳ではないかと云う感傷です。


    分かるような気がしますが、でも、それでは現実は変えられませんね。

    それでは、正しい現状認識が掴めないからです。


    進学塾で、多くの生徒を教えた経験からですが、

    子供の能力は、背丈や顔つきと同様、見ただけで違っています。

    基本は生まれつきですね。

    能力を点数で云うのは矛盾していますが、

    例として分りやすいので、、、誤解を恐れずに言いますと、

    20点の生徒を50点取れるようにする事は難しくはない。

    が、98点以上の点をいつも取る生徒にするのは、無理です。

    人間の能力は、ゾーンのような限界が、はっきりありますね。

    遺伝と云っても、そんなに単純ではありません。

    父親が大学教授、母親が熱心でも、子供は優秀児になるとは限らない。

    職業では、ありません。

    父親がサラリーマンでも真面目で、ご夫婦が非常に仲がいい。

    そう云う普通のご家庭で、優秀児の子供を多く見ました。

    能力と云うのは、点数だけではありませんから、

    いろんな側面がありますが、これらは運命そのものになるのでしょう。


    この事に関しては、

    2009年10月1日の記事、

    家庭 2/4 川上から流れてくるものが陰徳と云われるものかもしれません。 

    に書いております。



    西洋から起こった近代学問は、

    五感で捉える意識の範囲でデーターを積んでいきますが、


    東洋は、癖を帯びた意識の現象としての虚偽性を透過し、

    その奥に見えるモノを探します。 

    そこが、無意識の領域になります。



    運命鑑定は、命式と云う目識で触れる文字記号の中に、

    無意識のサジェスチョンを読み取るものです。



    ここに、運命学からの現代文明へのアンチテーゼがあります。



    現代文明は、

    見えるモノ、聞こえるモノ、感覚で捉えられるモノが全てです。

    それが、全てだとなれば、なんと騙しやすい世界でしょうか?



    皆がおなじと云う思い込みは、捨てた方がいいですね。

    しかも、意識『陽』の作為したあらゆるロジックは、

    どうしたって『時』の経過でその価値は消えてしまうのです。

    そう! つまりは、現象そのものなのだから

    何時かは、必ず消えるモノ。

    だってそうでしょう?

    喜びも悲しみも、時と共に虚(うつ)ろって消えます。

    五感は、環境の刺激に支配されるモノです。



    環境の刺激に支配されるモノを根拠に作られたロジックなど、

    趣味や好みの程度ならともかく、

    真実を表している対象としてとか、

    実は、そうやすやすと信じてはいけないのです。



    同時に、また自分のロジックに固執する必要もないのです。



    では、運命はそうやすやすと信じてもいいのかと云うと、

    ③に関しての、

    さして努力をしなくても衣食住に恵まれるという運命は、

    言い換えれば、

    生活全般にわたる感受性が豊かである。

    命を守る智恵に長け、生活力が旺盛な敏感性を持っていると。

    そう解釈をしていただければ、よろしいと思います。


    ただ、運がいい、と云うのはないのですね。

    きちんと裏があると云う事です。

    ただ、生まれつきであるから、努力をするのに苦労がない。

    そう云う良い報いが出て来る素性を持って、此の世を生きる事ができる。

    そう云う能力の事なのです。


    報いって?   


    そう、生れたばかりの赤ちゃんの誕生命式から鑑定できる事を考えれば、

    運命鑑定の命式は、

    生れる前からの積善、もしくは積悪の結果としか思われません。




    これは、私の体験でもありますが、

    自分の命式の中に、自分では考えもつかなかった深い意図、

    前世から申し送られた一筋の光を感じられたなら、

    今、生きて行く事の意義が骨の髄まで分かるはずです。

    生れて来た事に納得をし、全てを受け入れられるかもしれません。



    もしや、自分の運命学の命式、遺伝的差異の影響を知ってしまったら、

    その先は、どうなるのか不安ですか?

    これらを、これから先の生きる事への制約とみなすのではなく、

    これらの方法で分かる自己の特性を、役立てる方向で、

    もうひとつの教育を役立てるべきです。

    教育で、運命や遺伝の支援をしていくようになる事が、

    正しい捉え方ではないかと思っています。

    分かった以上は、後は自己教育、に没頭なさってください。







    次回の記事では、

    婚活殺人の木嶋佳苗容疑者の命式を

    取り上げたいと思います。



    初秋に迎う折々の日々を味わいながら、


    良き八月後半の一週間をお過ごしください。




























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    テーマ : 命式の癖
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    不思議な命式のお話し 3   ③ 衣食住の運命 3   婚活詐欺  木嶋佳苗容疑者   

    Category : 運命学
    8月19日 午前5時 雲海 (富士山)

    富士山雲海


    写真をクリックしてください! 左側全部が見られます。


    携帯の画像なので雲の輪郭が甘くて、くっきり見えませんが、

    プリン!とした艶っぽい雲全体がモコモコと動いています。








    内閣府が行った「国民生活に関する世論調査」が、8月25日発表された。

    「物の豊かさ」を重視すると云うのが、30,1%

    「心の豊かさ」を重視すると云うのが、64,0% で、過去最高だった。


    充実を感じる時は、

    「家族団欒」が、51,3% で、これも過去最高。


    一方で日常生活に不安を感じる人は、69,1% 。

    不安の原因は、「老後の生活設計」で、55,3% で10年連続トップ。



    「物の豊かさ」では、「老後の生活設計」が安心できなくなっているのですね。

    「家族団欒」が、「心の豊かさ」の象徴のようになっているようです。






    これは、当たり前の姿でしょう。

    個人、個人が、自分の五感の満足だけをそれぞれ求めていたら、

    家族の意識がバラバラになって行くだけ、、、

    自分の欲望を満足させる積み重ねは、

    決して、「老後の生活設計」の安心には結び付かない。

    その事に気が付いて来たのかも知れません。


    いい傾向ですね。     





    前回、


    皆がおなじと云う思い込みは、捨てた方がいいですね。


    と、書きました。

    その根拠は、命式にあると書きました。


    命式は、無意識から浮上した意識を動かす癖です。




    意識は、環境の刺激を五感が受けて作り出されるモノです。

    と云う事は、環境に支配をされているのですね!

    だから、

    意識で、環境を乗り越える! 

    なんて、大変な事なのですよ。    ほっ。

    われわれの心・意識は、周りの悲しみや喜びにも染まります。

    相手を殺戮する事を許すほど、憎悪に染まる事もあります。

    殺戮を正当化しようとするのも意識です。

    つまり、

    意識・心は、自己都合ですから勝手なのね。

    それが、『偽』性を持つ『陽』の働きです。




    自己都合の癖が強い場合、どうなるのかしら?




    どう云う自己都合の癖があるのか?

    その癖の地図が命式です。



    一億人がいれば、一億種類のあらゆる地図があります。



    その地図を見れば、

    五感の感覚器官での感じ方、その出し方、行動原理が観えて来ます。

    命式から、あらゆる「位相」が、手に取るように眺められるのです。


    それはまるで富士山から雲海を眺めるようなものですわ。  ほっ。







    今日の記事は、

    不思議な命式のお話し3. ③ 衣食住に関する運命 

    婚活詐欺 木嶋香苗容疑者




    このテーマを見て、 

    どうして衣食住に関する運命に、

    婚活詐欺、殺人容疑で死刑判決を受けた木嶋佳苗なの ? 

    分からない――!  と思われるでしょうね?  あはは。  



    ③ 衣食住に関する運命も、

    時と場合によってさまざまな現れ方をする。

    ピンからキリまでの運命の「位相」があると云う事です。

    木嶋佳苗は、そのキリ。 そう思ってくださったら...





    まず、その前に、

    質問をいたします。   ほほ。

    あなたの直感的力量の訓練かな?   ほほ。



    木嶋佳苗に関して、

    マスコミ報道の情報の中から、あなたが受けた印象を、


    彼女が、一番多く命式に持っている五行は?  なあに?

    欠けているとすれば、どの五行?  どれ?

    木・火・土・金・水のどれか? 

    一瞬の集中力で感じるものをお答えください!


    分からない?

    間違ったとしても、(当たるとは思っていませんが、、、) あはは。

    この作業が、あなたの無意識と意識の回路になります。

    無茶ぶりで、申し訳ございません!


    正解は、記事の後半に...


     おたのしみに!






    「人」は、「天」の恵みを享け、「地」に支えられて立つ。


    決して、人間は、天地=自然を支配しているのではないのですよ。

    人間は、天地=自然によって支えられているのです。


    常に、このイメージを大切にしてください。

    ここから、あらゆる道徳、道理が生れて行きます。




    では、具体的に、

    その天・地から生命を生かそうとする「気」が溢れています。

    五行、木・火・土・金・水です。 ・・・・・・・5の数の根拠です。


    これに、それぞれ陰陽があるわけですから、

    陽木ー陰木、陽火ー陰火、陽土ー陰土、陽金ー陰金、陽水ー陰水

    ・・・・・・・・これが、10の数字の根拠です。


    これらが、『陰陽五行』です。



    「人」を取り巻く陰陽の五行からのエネルギーは、10種です。

    それを、①~⑩の運カテゴリーに分けているのですね。 




    その10種の運の一つが、③苦労なく衣食住に恵まれる運です。


    恵まれると言うのですから、これは良い運ですね!

    ③は、本来、良い果報をもたらすものです。





    しかし、自然は多様性が本来です。

    なぜ、多様性なのか?

    多様性を以って、調和を求めていると言えると思います。


    一つとして同じ因果を持つ生命はないはずです。


    10種類に分けた運命のカテゴリも、

    全ての人間が、この10種類に入ると云う浅い狭い概念ではありません。

    このたった一つの「衣食住の運」においてすら、

    その両極端の間には、

    限りないバラエティな「位相」の展開があります。

    ピンからキリまでの運の表われ方とでも言いましょうか、、、

    いつも云う、グラデーションです。


    その中のある極端の例として、まず、木嶋佳苗容疑者です。






    彼女の罪状、容疑として浮かんでいる事件性についての詳細は省きます。


    まず、分りやすくする為に、

    マスコミなどが、彼女を演技性人格障害(演技性パーソナリティ障害)と

    言っている点から入って行きましょう。



    ウィキペディアには、演技性人格障害について次のようにあります。

    1.自分が注目の的になっていない状況では楽しくない。

    2.他人との交流は、しばしば不適切なほどに性的に誘惑的または

    挑発的な行動によって特徴づけられる。 

    3.浅薄ですばやく変化する感情表出を示す。

    4.自分への関心を引くために絶えず身体的外見を用いる。

    5.過度に印象的だが内容の詳細がない話し方をする。

    6.自己演技化、芝居がかった態度、誇張した情緒表現。

    7.被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい。

    8.対人関係を実際以上に親密なものとみなす。





    いつも思うのですが、

    心理学的なこう云う分析の表現は、ご苦労さま! と言いたくなります。

    と、云うのは、

    ある人格の表出現象から、その差異を捉えようとする努力が分かるからです

    が、要は、『陽』・現象からの細かな分析なのですね!

    カテゴリーのない所から、観察によって導き出すわけです。




    それに比べると、運命学は反対です。

    命式と云う『陰』の表出としての手がかりにする文字があります。

    その運カテゴリーの意義内容から読み取るきっかけを与えられますので、

    此方は楽なのです。





    東洋運命学における


    ①~⑩の運命カテゴリーは、

    元々が、命式中に、それぞれ一つ(一位)であれば吉運なのです。 



    具体的には、

    ③生活面の感受性が豊かで、食べ物、健康、体に関心が強い。

    その結果が健康に恵まれ、活動的で積極的です。

    主婦なら、家計が大変と思えば、自分でなんとかする位の行動派です。

    ポジティブで明るい性格は、親しみやすくおおらかです。

    楽しいおしゃべりが好きですから、友人も多く作れます。

    お嫁さんにぴったり、ふっくら色白美人の女性です。   あはは。

    男性なら、気取らない気さくな人物、どんな事をしても家族を守ります。

    不思議と食品関係の勤め先が多いのです。

    食欲旺盛で食べっぷり、飲みっぷり、体格もいい。

    命式中、一位で障害がない③でしたら、人生を謳歌する姿に出て来ます。




    それが、


    命式中に一位以上あって大過する場合は、凶運へと変化をします。



    具体的には、恐い女性に!??     あはは。 

    おそろしい妻へ!?? 変化をします。   あはは。

    感受性において、女性でも男性的です。

    自分よりも運気的に弱い男性と縁があり、

    夫を頼るより、自分が社会へ出て活躍する事を好みます。

    社会で男性顔負けの活躍をし、外で活動する方が合っています。

    デスクワークよりも、フットワークが合っています。

    家庭では夫を差し置いて、やる気を挫く妻です。   ほほっ。

    多少は、例外もありますが、産むのは女児、圧倒的です。

    男性は、男らしくなくなり、おばさん的な雰囲気を醸し出します。

    結婚縁や子供縁が弱い。  または恵まれません。


    ③もともと生命や生への原始的執着心が強いわけですから、

    大過の場合は、その奥、生の衝動・性的な本能が露出して来ます。

    エロい事が何故悪いんだ? と言った感じになります。

    上の演技性人格障害についての2.にあるように、

    他人との交流の手段に、しばしば不適切なほどに、非常識にも性的に

    誘惑的または挑発的な行動を当たり前の如く用いる行動をします。

    いわゆる、品がない。 品行方正ではないのです。





    ★では、木嶋佳苗容疑者の命式の鑑定へ進んで行きますね。

    まず、飛び込んで来るのは、とにかく人生の最後が良くないのです。


    まず、仲間、家族がおりません。

    孤命(こめい)です。(孤独なひとりぼっちの運命です。)

    当然、結婚縁、子供縁はありません。 

    孤命とは、善意や愛情を受けても、それがつながりにはならないのです。

    自分から断ち切って行く判断や、行動を繰り返します。



    年々、時に連れて孤立を深めて行く。

    その上に、木嶋佳苗容疑者の命式中には、五行の『火』が弱い。 

    まったく無いと言える位です。

    『火』の徳は、『礼』でした。

    『礼』に欠ける。礼儀がないのです。

    恩顧に『礼』で返さない。 恩を仇で返す。 恩知らずの人格です。



    だから、嘘をついて大金を援助してもらって、、、も罪の意識はない。


    その上に、

    木嶋佳苗容疑者の命式は、③が強すぎるのが特徴です。

    ③の大過によって

    ③の良さが消えて、具体的には、上で書いた、恐い女性に!?? と云う

    ③の凶運の姿へ変わっている癖を持つ命式なのです。




    その癖の結果が、上の演技性人格障害についての2,3,4,8の特徴に

    当てはまります。

    つまり、

    2.他人との交流は、しばしば不適切なほどに

    性的に誘惑的または挑発的な行動によって特徴づけられる。 

    3.浅薄ですばやく変化する感情表出を示す。

    4.自分への関心を引くために絶えず身体的外見を用いる。

    8.対人関係を実際以上に親密なものとみなす。



    読者の方たちには、今現在、③以外はお分りにならないはずですが、

    ついでに、木嶋佳苗容疑者の命式中の他の運カテゴリーを当てはめますと、

    1.は、①の特徴です。

    5.は、②④⑨が、

    6.は、①④⑦⑨が、

    7.は、⑨が当てはまります。 

    ①②④⑦⑨とも、彼女の命式の中にピッチリ揃っています。



    特に、犯罪者になるトライアングルのひとつ、①③④、が揃っています。

    そして、又、女性の犯罪者の多くが持つ⑨も強いですね。

    ③以外については、またいつか、記事にします。






    さぁ、初めにした質問のお答えですよ。    




    彼女が、一番多く命式に持っている五行は?   

    ③に当たる『木』です。 衣食住としての『木』です。

    まさに、木は植物。 我々の食の糧、料理、食べ物です。

    彼女は、セレブ生活に憧れているとは言え、

    食べ物に関しては、外食や豪華なグルメではなかったようです。

    グルメが手に入る程の③が、命式中では働いていませんから、、、

    彼女は交際を始める頃、手料理を男性たちに作っています。

    作為的にした行為と云うよりも、料理が好きだったのでしょうね。

    ブログにも手料理を載せていたようです。


    そして、『木』の徳は、『仁』。  慈しむ心です。

    一見、慈しむ心が溢れているように相手には見える。

    あの顔は、男性を切るようには見えません。

    (男性を切る運カテゴリーもあるからですが、、、)

    しかし、実体では無かった。



    手料理を作り、気さくな馴れ馴れしさを以って、

    それが慈しむ心、情が深い女性だと、

    一人でいる男性達に感じさせたのかも知れません。

    そして、性的なアプローチ。

    それは、見せかけの『仁』でした、、、




    欠けているとすれば、どの五行?

    先にも書きましたが、『火』です。

    それは、礼儀知らずの厚顔無恥の人格として現象化します。



    もっと豊かに暮らしたい、

    そう思うのは人間として自然の意識の持ちようなのですが、

    身の程知らずに、セレブな生活を好んで、

    幾人かの男性から金銭を騙し取った木嶋佳苗容疑者は、

    当然の事ですが、夫縁は、ありません。

    奇妙ですが、男縁(異性縁)はあるのですね!

    ここが、困った処なのです。

    自分の衣食住への、見た目セレブ的な強い執着、欲望の強さ、

    それを満足させてくれ、押さえてくれる男性を求めても得られない命式です。

    哀れ、非常に哀れな命式です。


    孤命に生まれ、命式の中の凶運に囲まれて育った彼女は、

    普通の人が、悩み苦しむように生きて来たのでしょうか?

    これだけの孤・苦・凶運の命式を持って生れると、

    普通に生きる事は、どうしようもない。

    その上に、欲望を肯定、解放した現代文明の空気の中では、

    なにでも自由! 五感の満足が規範だと曲解しやすい環境です。

    そう! 猛獣を檻から出したようなものです。


    この猛獣を、誰が、檻から出したのか ?

    私達、社会を含めて、過去からの構成員の罪でしょう。




    彼女が、真に、死刑の判決で言い渡された罪を全部犯しているとしたら、

    これらの罪は、重大です。重罪です。

    人間としてあるべき行動であろうはずがありません!

    これだけの罪を犯したなら、反省をしてしかるべしだ!


    これは、彼女が、皆が、同じだったらと云うのが、前提です。

    なぜ、罪を犯したのか?

    深く洞察をする物差しを、社会は持っていません。

    心身、精神異常、病的人間として片づける方法しか今の社会にはない。



    そう、まるで、ガンの病巣の切除だわ!

    外科的手術で、社会が良くなるとでも?




    直接的な証拠はないまま、あくまで状況証拠の積み重ねで、

    本人は否認のまま、死刑判決を受けました。

    上からの司法の裁きで心から反省をするのでしょうか?



    冷静に彼女の命式を眺めて観ると、

    彼女は、命式に表われている行状をそのまま生きただけ、、、

    そう云う心境が、心の中に満ちているのではないか?

    その事において、罪の意識は無いだろうと推察します。



    こう云う彼女の命式で、彼女の気持ちを推し量ると、

    死刑なんて国の都合だ。

    自分こそ国民の処罰感情の犠牲者なのだ、、、と。

    私だって、自分の都合で生きて来ただけよ、、、と。

    不公平よ。私だって思うように生きたかった、生きただけよ。

    そう思って、ますます被害者意識に陥っているのかも知れません。。  。




    こう想像をするだけで暗澹たる気持ちにさせられますが、

    これを気付かせるには、時間的にもっと過去にさかのぼって、

    彼女が生れた時、この社会に公正な基軸が存在していなければいけません。

    社会が一体になって守ろうとする道徳が確立されて、

    謙虚な家族の中で、自分を冷静に客観視できる躾がなされている事が、

    必要でしょうね。




    死刑という極刑が、真に、人間を更生させるのだろうか?

    反省もできない人間を、この世から抹殺するだけで、

    死刑と云う刑罰は、果たして適切な処置なのだろうか?

    死刑は、結局見せしめに過ぎないのだろうか?



    誰の為の見せしめ?




    生きている我々を、満足させる為に?   まさか!

    ああ、



    我々も、おぞましい罪を犯しているものですね!

    ここまでも、我々は自分の満足が大事、意識に支配されている。

    我々が、生きているこの社会は、

    死刑犯を、死刑に処しても反省もさせられない。。 。

    この社会は、どう云う社会?


    これが、法治国家?? ?


    そりゃそうでしょう!

    欲望の節制をすると云う美徳を隠したまま、

    勝組になれと、子供すら煽って育て続けながら、

    セレブになりたい、セレブ生活に憧れるミーハーをゴマンと作って、

    我慢は古いの、パーッとやらなきゃ、なんて、宣伝、広告に乗って、

    余計な欲望を煽って、消費行動を煽って、売れる処から取ろうなんて、

    経済効果が幾らだと学歴の勝者である学者や専門家が勘定をしている社会で、

    (子供たちは、その為に勉強だ、勉強だと追いやられているのに)


    普通の命式の人でも、何が正しいのか、何が正しくないのか、

    訳が分からなくなりそうな処へ、

    間違いなく邪曲の癖の命式を持つ人間の意識が、

    ゾクゾク生れているって云う事に気が付いていないじゃない。


    勝ち組の為の画一化されたこのプログラムに付いて来れない人間は、

    そんな人間は、罪を犯せばいい。

    死刑にすればいいんだ、、、

    そんな声が聞こえて来そうな、社会です。


    いわゆる、社会に公正さが、ない。 深みがない。

    正しい人間観がないのです。



    「人」は、

    「天」の恵みを享け、「地」に支えられて それぞれの立場に立つ。  



    これが、分からなくなっているのですね!

    これが、合理の果てに、たどり着いた時空間です。

    なにやら周りがゆがんで見えませんか?

    我が身も、真っ直ぐに立てない感じがありませんか?   あはは。



    一生懸命生きるのに、人並みな幸せが手に入らない。

    この渇望感から、ゆがんだ欲望が大きくなって来るはずです。

    この歪みを正せるのは、周りの社会の公正さです。


    今の物質文明が人間の欲望を肯定、解放し、

    物質的満足を追い求める画一的な社会では、無理でしょう?



    遺族の方たちも、

    自分が、鬼にはなりたくないはずです。

    死刑の執行を心から望むより、

    罪を犯した人の謝罪の言葉と反省を望んでいるはずです。





    皆が、自分を冷静に客観視できる、

    その姿を、誰もが素直に受け入れ合える、、、


    そう云う啓(ひら)かれた社会にしたい。


    残暑の残るあつぼったい空気の中で、

    懊悩しながら願う毎日を過ごしております。   あはは。


    富士山頂で足元に眺めた空が、

    下界に戻って気が付いたのは、


    空って、頭の上にあったんですね!   あはは。





    よき、一週間をお過ごしください。

    季節の変わり目、体調にお気を付け下さい。






















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    不思議な命式のお話し 4   ③ 衣食住の運命 4  神田うのさんの命式

    Category : 運命学
    雲海の向こう、ご来光 (富士山) 

    御来光をバックに5時10分 (2)


    写真をクリックしてください! 右側半分が全部見られます。





    御来光をバックに5時10分 (1)


    ご来光を背にして、、、私!    ほほっ。 









    秋の気配と、熱帯の気候とも思える夏の名残りが、まだら模様に

    日々、まだつづいております。






    今日の記事は、


    不思議議な命式のお話し 4  ③ 衣食住の運命  神田うのさんの命式



    ③ 衣食住の運命の最後の記事になります。


    前回の記事へいただいたコメントから紹介しましょう。





    こんにちわ~~♪

    富士山に登られたんですね。

    凄い!! 雲の上ですね。


    日常生活の不安の原因が老後なんですね。

    確かに今のような核家族化がすすんでしまってはどうしようもない!

    と言う感じでしょうか。

    老人一人を見るのには本当は大家族で皆で出来ることを手分けして・・

    というのが理想なんでしょうね。

    誰も歳をとる訳だから皆でいい知恵を出し合って

    老後の不安が取り除けるといいのだけど・・・・

    命式は難しいですね。

    何度も何度も読み返さないと・・・それでも??が・・・

    そのうちわかるようになるのかしら??(。^p〇q^。)プッ 






    そうですね ! 命式の導入部は、難しいですね~。    

    特に、お勉強で優等生だった人は、殊更そうみたいですよ !

    なぜなら、

    意識のお勉強に馴れた頭(前頭葉)にとって、

    五感でつかめない無意識の領域は、合理的ではありませんから、

    フワフワとして捉え処がないのね。



    目で見える世界ではないし~ 理屈でも捉えられないし~

    意識には、むずかしい。 ですね! 







    あ、でも同じことを教室の生徒さんへもお伝えするのですが、

    難しいと、意識が捉えた !  これがラッキーなのです。


    ある意味、意識の限界が、無意識への入り口なのです!








    今の近代化以降の私たちの癖は、

    意識中心、意識で此の世は全て解る。と云う枠内にいる事です。

    その前提で、意識で解った範囲の中での知識、学問です。

    知らない間に、無意識の領域を排除してしまっている。  










    ですから、、、西洋的合理主義のお勉強の(解る)と云うのは、

    意識が捉える範囲の世界の中を、解るのが得意と云う事です。


    お勉強の頭は、

    無意識の世界は、無い。として捨てていますからね。

    無意識の領域にある運命学は、むずかしゅうございます。。 。



    無意識は、どんなに意識に無視されようと無くなるものではありません。

    意識は、無意識から生じた爪楊枝(つまようじ)のようなものだからです。

    無意識は、樹齢何千年の大樹。

    意識は、その小枝から作られて、使えば捨てられる爪楊枝です!



    あはは。






    また、学問やお勉強は、意識の範囲だから、

    すべて、目で見える文字に表せて、記号に表す事ができます。

    目に見えて、聞こえて、触れて、味わえるモノが対象です。



    だから、意識が作った知識は(教える)と云う事が、可能なのです。




    西洋の知識は、外から、教えられて自分の頭に取り入れるもの。

    東洋の智恵は、自分の内側からあふれ出るモノなのです!

    西洋(意識)と東洋(無意識)はここまで違う !!!





    -―――ちなみに、無意識の領域の事は、(教え)られません。-―――


    言葉にも記号にもできないモノは、(教え)られません。








    意識で取り入れた知識は、最後、覚えます。

    憶えたか、どうか? 意識・前頭葉の能力検査が、テストです。

    解ったかどうかを、記憶したかどうかでチェックするのね。

    100点取れば、解ったとなる。  ???   あはは。

    解ったとしなければ、先へ進めないし、、、

    これは、(教えている)先生都合でもあります。

    先生も、自分の生徒の理解度を、意識、目で見えるモノで捉えたいのね!

    0点。 62点。 100点。 数字で比較する訳です。

    しかし、実態がどうなのかは先生もわからない。  あはは。




    こうしてみると意識の世界の教育とは、

    思えば、なんと単純な画一化のレールでしょうか?



    そう! すべてを画一化する、 これが意識の害悪です。

    と云うよりも、意識は画一的にしか対象を掴めないのですね!  あはは。






    ★ 私達の意識が、この画一化に染まれば、

    学歴や収入や持ち物で、人を見る。値打ちを測るようになったりします。



    明治維新後、我が国の近代化を進めた浅はかさは、

    人は皆、平等である。と云う自然における真実・真理でもない、

    西洋の人が作ったロジックでしかない価値観を取り入れて、

    人は皆、等質である。人間は、皆同じである。と、錯覚した事です。


    真実の自然は、異質な存在の種の多様性で構成されています。




    同質だから学問をするかしないかで値打ちが違って来るんだ。

    と云うゆがんだ人間観を知らない間に、持ってしまっている...

    それで自分の人間性を醜くしてしまっている。


    学歴偏重、 知識偏重、 

    男と女は平等であるから、学問をした女はしない男に勝てる。とか、、、

    もう、笑うしかない男女同質論です !!!?



    真実の自然は、オスとメス、男女は異質の存在です。

    男女の役割は、違いますね。





    学問、勉強で、高学歴で、高額年収で、物質的満足なら、 人として幸せ ??

    人生判断をゆがんだ基軸において、

    そうでなければ、負け組のような ??? 

    そうならないようにと云う意識を振りかけながら、

    次世代の子供たちを育てててしまっている。


    そうならないようにと避けながら、

    子供にそう云う意識を押し付けて染めているのですね。 

    なんて恐ろしい事でしょう!!!

    これは、ひとえに、

    意識の作った近代合理主義には、正しい人間観がないからです。

    また、

    これは、近代化の先駆者・福沢諭吉の「学問のススメ」の影響もありますが、

    これこそが、わが国を近代化の毒素で汚してしまったものです。

    福沢諭吉が、功利主義であると言われる所以が、ここです。





    現実の世の中で、人の幸せは、そんなものでは実現できないし、測れない。

    大学で経済を学んだからと云って、財運に恵まれる現象は出ない。


    運命学で云うその人の命式に(財)がなければ無理な事です。

    経済学を学ばなくても、強い(財)を持てば、必ず発福(現象化)します。

    運とは、宇宙の運行『時』をかけて運ばれて、

    無意識の世界から湧き出(いで)て、

    姿形の現象として身に付いて来る事です。








    全ての創造性は、無意識からです。


    意識などに運命学が、分かるはずもないのです。



    頭(前頭葉)では、しあわせにはなれませんわ。

    運命学は、そう云うものです。







    つまり、運命学は、

    解るものではなくて、おのずと、分かるもの。




    おのずとは、

    自分の中から、思い出すように納得できるようになる事です。






    分かるとは、もつれて玉になっている糸が、分かれて分かれて

    長い一筋の糸になって、元の姿がはっきりと見えるようなる事です。





    もの事のありようが、ああ、こうだったのか!

    と、得心でき、自分の立ち位置が、足元が見えるようになる。





    無意識の中にあるものを(あるはず)と思いながら、探す態度です。

    本来、自分の無意識にとったら、分かり切っている事ばかりなのですよ。






    運命学は、初めは知識のような感じを受けるのですが、

    それは、意識と無意識をつなぐ連結部のようなものなのです。


    毛穴から、体の中へ入って行くもの....。 あはは。



    馴れれば ! 必ず分かるようになりますよ~!

    ご自身の無意識の中にあるものだからです。






    それより、物事の本質は、

    見えない世界に積んだ原因に動かされている。 それを知ってください。



    今の目の前の現象は、遠く過去の原因から起こっています。

    『天』・『時』・宇宙の運行によって目に見えるようになっただけ..。

    植物を見れば、当たり前の事ですが、

    将来、『時』を経て、良い花実を成らそうと思えば、

    花の咲く枝の先端に、水や肥料をやりませんね?  あはは。

    見えない地中の根に向って、未来に咲く花実を信じて水と肥料を施します。




    これから秋ですが、

    来年の春に備えて、冬を耐えるように肥料や植え替えをします。

    来春と云う『時』に向って、見えない根・『陰』へ水と肥料ですね。

    後は、『天』の太陽エネルギーと『時』です。


    今の我々の現実の姿の原因は、見えない時空で作られて来たのです。

    これを、意識に入れて置いてくださったら真実は近くなります。  ほほ。









    さあ、それを頭に入れて、神田うのさんの命式です。




    なぜ、彼女の命式を選んだのかと云いますと、

    実は、

    前回の記事、殺人容疑で死刑判決を受けた木嶋佳苗の命式に似ている。

    そっくりではありませんよ !    あはは。

    似ている。  

    五行「木」である③衣食住に恵まれる運が、

    木嶋香苗容疑者よりも、大過している。  3つもあります。

    五行「火」が弱いのも同じです。

    「木」の徳・『仁』の大過も同じです。


    それなのに、神田うのさんは、知りうる限りにおいて、

    木嶋香苗容疑者よりも邪悪、悲惨では、ありません。


    当然ですが、孤命ではなく、犯罪者のトライアングルもない。

    夫運も、目立つ見せる処にきちんとありますし、、、  ほっ。。。



    昨年までに、海外へ行って豪華結婚式を9回もしている! とか、、、

    昨年お産みになった娘の咲良(さら)さんに、

    数千万のティアラを作ったとか、、、この手の話題、

    彼女の個人情報は、ネットに溢れておりますので、

    興味がある方は、検索をしてそちらをどうぞご覧になってください。


    「うの」は、持統天皇の幼名「鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」の

    鵜野(うの)から両親が名付けられたそうです。

    おそらく、娘の咲良(さら)さんも、讃良(さらら)からでしょう。

    パリにある全寮制のバレエ学校(コンセルバドワール)の卒業です。

    彼女の父親である神田 淳氏は、東大工学部、大学院修士課程修了後、

    通産へ入省し、平成10年原子力発電技術機構理事をしていた人です。

    「持続可能文明の創造―エネルギーからの文明論 」と云う本を著しています。


    彼女は、③衣食住に恵まれる運命を、姿形に体現している好例です。

    ほとんど障害もなく、

    いわゆるセレブ、桁違いに豊かな生活が生れた時からある運、

    あふれるような良質なモノに囲まれる運、

    それが天界の喜びとともに恵まれる運です。 

    彼女が生れてからの努力の成果とは、とても思われない! あはは。

    間違いなく持って生まれた運です。


    どうして、こうなの?

    ③衣食住の恵まれる運の大過の邪曲の灰汁(あく)を抜き、浄化し、

    ③本来の良運を守り支える最高の吉星が2つも燦然と輝いているからです。



    この吉星が命式中にあれば、あらゆる方向からの災難から逃れられます。

    たとえば、仮にお財布をどこかに忘れたとしても、必ず戻って来る人です。

    やる事なす事、周囲、目上からの引き立て援助あり、困る事がない人です。

    地に落ちると云う境遇にならないばかりか、

    あまり努力もしていないのに、  あはは。

    社会的地位(職位)が向上したり、試験に受かったりします。

    本人も、どこか自分の運が分かっているので努力家ではない。

    競争も、喧嘩も、人を騙す事もしません。   

    必要がないからです。 

    心根はきれいです。 

    富命であり、同時に貴命ですから性的トラブルは起こしません。

    おのずと、自分の周りに邪悪なものは寄せ付けません。


    でも、神田うのさんには、③の大過の臭いが、、、

    やはり匂うでしょう?

    ご主人の事をマスコミにぞんざいに言う事など、平気 !   あはは。

    とても、夫を立てている日常とは思えない。   あはは。

    夫を差し置いて、やりたい事をするでしょう。    あはは。

    社会の中でのフットワークが止まらない。






    生まれながらどうしてこんなに格差があるのでしょうか?






    その命を取り囲む生れた時の『天地』の気が違うからですが、


    『時』も違います。

    宇宙の運行における『時』すら、いつも同じではありません。

    清明なる気もあれば、邪濁なる気もあるのです。





    野の植物だって同じです。



    植物すら、

    根を下ろした場所も違えば、タネが風に運ばれる処も違う。

    そのタネのDNAには、タネとなった草が生えていた土の情報があります。

    そして、今度は、新たな根付いた土の情報が取り入れられて行きます。

    その土の情報をDNAへ完全に取り込むのには、数年の『時』が必要です。

    その土の情報を取り入れて、姿形自体が独特に変化成熟したモノ、

    それが京野菜やその土地の野菜と呼ばれるモノです。



    人間は皆同じ。

    そう捉えるのは、意識のレベルです。

    意識にしたら、それは仕方がないのです。

    意識・前頭葉は、シナプスが結ばれていないものは、判断ができないのです。

    シナプスは、何度も経験したものしか結び付きません。

    どんな人間がいるのか、すべての人間を経験をしていませんから、

    だから、人間は皆同じ、そこを基定にするしかないのです。

    アバウトどころか、画一的です。



    意識は、人を、(種)において一括りです。

    あとは、目に見える白人、黒人、など、、、あはっは。




    ある意味、人間は皆おなじと云う意識の認識は無邪気なのですが、

    これは、無知蒙昧に通じるので、困るのです。


    無意識では、人間は皆違います。

    真実、人間は固有の命を帯びています。

    個々の意味や、役割があって存在していますから、

    お互いが、

    うらやんだり、ひかくしたり、うぬぼれたり、しっとする存在ではないのです。



    本来の自己の役割、使命に生きるならば、そんなヒマはない訳で、


    運命学を知りますと、その事が、よく分かって来ます。

    東洋学の、その一旦である運命学は、

    現代文明の歪みをクラッシュする力を秘めている。

    と思っています。







    今回の③衣食住に恵まれる運、は、

    これで一旦終わります。

    不思議な命式のお話し シリーズは、

    いつかまた再開したいと思っています。





    よき一週間を、お過ごしくださいね。























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    ★姓名判断   緊急!  『陰』を無視した名前は付けてはいけません。 (1)

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                             月の光を浴びて...   




                             万葉の月









    今まで、少し難しい哲学の記事が続いたものですから、

    今回は、運命鑑定日記のカテゴリーで記事を書くつもりでいました。



    それが、ここ一週間の事件やニュース記事で、

    子供の虐待記事の多い事に背筋の寒くなる思いをしています。


    ああ、やっぱりこうなるのだな、、、と心が重くふさがる節があるのです。


    被害者の子供たちの名前です。









    あまり、ブログ上で、”ああしたらいけない”などと

    読者の方の行動を束縛するような観念は、書きたくはないものですから、

    今まで文字にせずにおりました。

    (私の無意識界に留め置いたままでした。)

    書いてしまいましょう!   ほほ。

    (意識界へ出す = 言葉として表す。)

    誤解をはばからずに言うには、決断と勇気が要りました!





    こんな名前を子供に付けてはいけません...!




    最近の例では、


    千葉県柏市で、母親に餓死させられた

    蒼志ちゃん  2歳



    神奈川県葉山で、母親が女児二人を刺した事件の

    碧授(みう)ちゃん 9歳

    彩風(はるか)ちゃん 9か月



    広島県府中町の、母親に虐待されて死亡した

    唯真(ゆま)ちゃん 11歳


    2010年、大阪市の幼児2人が置き去りにされ死亡した事件。

    桜子ちゃん  3歳

    楓くん    1歳


    2010年、大阪市の母親と内縁の夫に遺棄されてベランダで衰弱死した

    聖香さん   9歳






    ごめんなさい!

    ここまで、書いて来てお名前を見ただけで泣けてきそうです。

    他にも事件で目に触れる名前はいろいろあったのですが、

    これらは、たまたまメモ等で取り置いてあったものです。



    幼くして保護者に命を奪われた子供たちへ、

    折角生まれて出た今世で、越えられない苦を負ったでしょうが、

    あなたたちは、幼くして自分の運命を果たされたのです。

    この世は、現象界です。 

    絶対界ではありません。

    現象界の意識は、どのような心であろうとはかないものです。

    次、ふたたび現象界へ生じる時には、

    かならず幸多かれな因縁に恵まれるように 

    強くご冥福をお祈り致します。

    すべてを許し、

    どうかやすらかに...   




    この子たちの生年月日は公開されていませんから、

    命式を立てるのは無理です。

    その両親、その祖父母たちの生年月日、名前も分からないので、

    家系自体の運命を論じる事はできません。

    間違いないのは、絶家に向う家系であったはずです。

    そして、身近に良質の大人が一人もいなかった。






    が、名は体を表す。 と言います。


    命式が意図する運命と、姓名の暗示する運命は同じです。

    私達は、自分の運命を名札に付けて歩いているのですよ。


    ニュース記事に出ている子供たちの名前に、

    我々が臨んでいるこの現代と云う問題点が滲み出ていると思います。





    今日は、


    ★姓名判断  緊急! 

    『陰』を無視した名前は付けてはいけません。





    私も運命学の仕事をしていますので、

    赤ちゃんの命名に関わらせて頂く機会は多いのですが、

    これは、本当に責任重大な内容を含んでいます。

    お生まれになった赤ちゃんの良き縁になれればと願いながら、

    なかなか依頼主の祖父母の思い通りに、良い名前が付く事は稀です。

    なぜなら、

    若い両親になるべき夫婦は、世間知も深謀遠慮の知も知らず、

    自分の意識(心)の満足する名前を付けようとします。



    もう、まさに『陽』の行為です。


    今の時代の自由と権利の御旗の下で育ったおかげで、

    個人の嗜好(好き嫌い)を優先させる若い世代の今の風俗に流された、

    今様な名前が命名される事が多いからです。


    これで、陰徳が反映される訳がありません!


    両親がどんな人間か、それが匂って来るような名前です。

    自己愛に溢れた名前からニオイ立つものは?


    エゴイズムの臭気でしょうか、、、、、、




    現代では、

    命名さえ無意識を無視する、自分の五感を中心にした業になります。



    ひたむきな家族の祈りが感じられる名前は少なくなりました!





    こうする事が、すべて悪いと云う訳ではありません。

    家系、ご家族、ご夫婦の運の良い場合は、

    結果的に、よい名が付く事もあります。

    名付け親の運次第と云う処でしょうか、、、

    多くの場合、凶運が強調された名前が付けられてしまいます。






    それらは、すべて命式に表われる運命と、

    その行運(宇宙の運行)で確認する事ができます。



    行運 : 日々刻々、月々年々、『時』に応じて変化する運です。



    生れた瞬間までは、先天運と言います。

    どうする事も出来ない決定的要素が織りなす運です。




    科学の云う処のどのようなDNA(遺伝子)を持って生まれて来たのか?

    まず、男か女か?

    どのような国に、家系に、家族に、

    どのような良質の大人に囲まれて生まれて来たのか?

    手相、顔相、耳相、鼻相、足相などなど、、、です。



    これから以降は後天運になります。


    後天運(生まれた後に本人の努力、陰徳で、変化する運です。)



    どう云う名を付けるのか? これが、一番大事です。


    どんな地方、地域で育つのか?

    どんな家相の家に住むのか? 

    印相、墓相、、、

    これらは、変化をさせる事ができます。

    これを逆手に取って、商売に利用する御仁もいらっしゃる訳です。

    非常識な金額の悪徳商法には、乗られないように!  


    あはは。


    後天運の最初の選択が命名になります。

    我々は、命名によって、ある運を確定する事になるのですね!





    それに関しては、2010年 9月 10日の

    ★姓名判断  命名から見る自前の文化を失う姿   運命の不可思議さ

    に、書いてありますように、現実は実に悩ましい状態です。


    その記事を、引用します。

    この色の文字の部分が引用です。

    今回の新たな記事を挟んで行きます。



    若いご夫婦が、初めての赤ちゃん誕生で、

    命名の時に誰もが抱く喜び、期待、ワクワクした心で、

    その気持ちを込めて、どんな子になるように、どんな名前をつけよう!

    と、それぞれの知恵を持ち寄って悩んで約、14日間。

    いろいろ工夫をされるのですが、結論から言いますと、

    その子の運命命式に沿ったぴったりの名前が結果的に付いていきます。


    分かりやすく言いますと、

    生まれ出た一人の人間の運命にふさわしい名札、看板です。

    名は体を表す。とは、まったくその通りです。


    あらゆる角度から、その運命の中身をすべて表しているものです。


    誕生生年月日時から鑑定をした命式の運命と、

    名付けられた名前の姓名判断の運命は、

    本質的には同じものです。


    この世にあるものは、偶然もなければ、一切の無駄もありません。

    すべてがなるべくしてなった、因と縁により、果を結んだ姿です。

    ある意味、非常に美しい条理にかなった方程式の解です。。





    生れた子の運命が呼び寄せたような、ぴったりの名前になります。




    具体例を出しましょうか?


    運命学の教室で、命式を鑑定できるようになった生徒さんへ

    姓名鑑定を教えます。まず、自分の名前を教材にします。

    すると、「これ、私の命式とまったく同じですね!」という反応が出ます。


    そして、次は自分の家族全員の名前を並べて書いて、

    それぞれ姓名鑑定をするように言います。

    そうすると、、、

    これは、父が、主人が付けたと言いながら鑑定をしていますが、

    また、驚きが出てきます。

    家族の姓名鑑定から、家族の運命の癖、傾向というものが一致してい

    るのが分かるのです。

    「 気持ちがわる~い!」  

    「不思議~!」  

    なにか意識では説明の付かない世界を覗き見るような気持ちになります。 




    自分の命式に表われる運命と、

    名前が示す運命と云うものが、我々の内外に漏れなく、

    精密に張り巡らされた目に見えない網でからんでいるのが実感されます。

    それまで、遊び心でお勉強に来ていた人が、真面目になって行き、

    我々の意識する心で捉えられない存在を感じて、

    非常に、おごそかな真剣な気持ちになられます。


    なにかがある!??

    これが、無意識と云う領域を察知し出す出発点ですね。





    一般に、姓名判断として普通に広まっているのは、

    1、漢字の画数から来る数の霊意です。

    これは、初めて親になる若いご夫婦が、

    自分たちだけで子供の名前を付けようと、

    簡単な命名の本などを買って来て二人で楽しみながら名前を考える時に、

    一番の気にする項目です。

    画数というのが分かりやすいのですね。


    また、最近は、初心者用にも、


    2、陰陽の配列なども載せている本が出ています。




     ---------  引 用 中 略 ----------




    今の人が、どんな名前を好むかというと、

    深慮遠謀したもの、そうでないもの、そのどちらをとっても、

    ディズニーランドのアトラクションのように、パーとはっきりと、

    字を見て、絵のように形や意味が分かる名前を付ける傾向です。


    さすが、ヴィジュアル時代の申し子世代なのでしょうが、

    今までの使われて来た漢字の意味は捨てる。

    使われてきた意味をそのまま使うのは、

    古いと思っている感覚的な嗜好が強いようです。

    具体的には、誠、義、正、豊、覚、恵、厚、などは古いと受け止め、

    その代わり、心、愛、などという字は使いたがりますね!  


    誠、義、正、豊、覚、恵、厚と云う漢字は、

    複雑な精神的経験がなければ使えないのと、

    そういった複雑な精神的経験に価値を置かない現代の世相、

    マスコミ?の影響もあるのでしょう。


    美愛、愛華、あま~い砂糖菓子のような名前!

    を父親の側も付けたいようです。 


    これって、なんなのでしょう?

    パラダイス、バラエティ嗜好でしょうか?



    あるいは、漢字を、英語音を表現する記号としてだけ使う。

    漢字の意味は捨ててしまいたいようです。

    そうですから、自然と、従来の漢字の意味が、

    欠落して来ているように思います。  




    この事自体が、非常に憂慮しなければいけない事態です。



    先人からの知恵を積み上げたものが漢字の意味です。

    文字の中には、言葉で言い尽くせない意味、―---これは『陰』です。

    長い時をかけて先人たちが命を込めて来た漢字の力がある。

    それらを無視する。

    そして、読みと云う音表記として使う。 ----これは『陽』です。

    言霊(ことだま)と言われるもの、

    それを無視する。   ―――『陰』の無視です。






    因果応報の理論から言えば、

    『陰』を無視した業は、

    次は、『陰』から自分が無視される番です。




    残念なのは、運命学的に見れば、

    名前に対しての嗜好、あんな名前がいい、こんなのはイヤだ、

    それぞれの都合が出て来た時、すべては振り出しに戻ります。 






    おわかりになりますか?

    赤ちゃんに良い名を?  じゃなくて、

    大人たちが好きな満足する好い名、、、が目標になるのですよ。

    お分りになりますか?

    ステージが変化しているのです。

    自分の五感が満足する名前が、= 良い名前になっているのです。


    結局は、親の自己実現・自分の追及・自己陶酔です。

    そうして、

    名付け人の運命が、そのまま乗り移る名前になります。




    もう、この時点で赤ちゃんに良い名を付けるのは、不可能になります。

    あとは、こういう名前を付けたいと思っている人の満足を追求する事が

    目的になっていきます。

    吉運名を付けるという目的からずれてしまうのです。

    吉運命をつける目的が、両親が満足する名前探しになるのですね。

    これに案外、気が付かれない、、、、

    若夫婦が自分の好みを入れて満足する為に、

    使いたい漢字や、好みの音を選んで命名するという流れになります。


    ここで、私は関与を避けます。  



    この流れの中では、私が、何かを言う事によって、

    若い両親の自己実現の邪魔になります。

    運命的に良い名を付けると云うステージは、終った訳です。

    ある意味、両親の満足を邪魔立てしたくはありませんし、


    子供の名づけを借りて、

    自分たちの自己満足を追求する因果に加わろうとは思わないからです。




    命名と云うのは、

    夫が指輪を買ってくれると云う奥様に、好みをお聞きして

    似合う指輪を捜してあげるようなアドバイスとは、まったく違うのです。

    これは、マイホームの設計を依頼された建築家が、

    クライアントにいい家の本質を理解されない場合に似ていますね。


    あはは。






    自分たちの好みを犠牲にしても、

    赤ちゃんの為に良い名をと云う祈り = 『陰』ではなく、

    大人の欲を実現すると云う、意識の満足コースになるのですね。『陽』




    なるべく吉名になるようにその条件を伝授し、

    できるだけの協力は致しますが、

    ご両親へ条件6~8(前記事を参照)を理解していただく事は、

    その辺は、きびしい物があります。 

    両親が満足して付けたいと思う名前が、凶運名ならどうするか?

    たぶんにその可能性120%です!     あはは。 





    その結果、つく名前は、先ほど申し上げたように、

    先祖の癖のある運を受け継ぐ、自分のカルマから這い出せない、

    誕生命式の運命そのままを持った名前が付いてしまうのです。



    これも、ある意味、自然の力なのです。

    運命のエネルギーの力ですね。




    生まれた子の運命が、どうしてもその運命にふさわしい名前を望む。

    そうとしか思えない体験を、何度も見聞きしています。

    生まれた赤ちゃんは、無力どころではなくて、

    運力は大人より強いのです。

    赤ちゃんの運命が、この世に現象化を起すのです。


    運命を良い方へ導く名前を付けたいという意識だけでは、

    如何ともしがたい、新生児の持つ強い運力を感じる時です。



     



    生まれた赤ちゃんに良い名を付けたいと思っても、

    それに関与する両親などが、

    自己の好みや満足を追求する程、凶運の方向へ運気を強めてしまう。

    そう、

    原動力は、あくまでも私欲、欲望ですから、、、

    私欲を強く持てば持つほど、

    なにもしなかった方が、よかった。  そうなります。





    今の日本には、特に若い世代は、

    非常に、人間のエネルギーの枠が狭まって、

    恋愛も結婚も出産も育児も老後さえも、個人的事柄になっています。

    自分の為、自分が所有する為に、自分の心と云う意識の満足の為に、

    と云うのが当世の人間気質ですね。    ほほっ。





    欧米は、なんだかんだ言ってもキリスト教の理念に基づく社会観、

    コスミック教育に根ざした社会教育という基盤があります。

    外国における人の名前は、

    近代化を受け入れた日本のようには、変化をしていないと思います。

    欧米は、日本が近代化で受けた変化がありません。

    元々が、キリスト教思想ですから立っている大地は同じなのです。





    特に、先祖代々から受け継いで来た命名の仕方が変わる!

    その使用する文字が変わる!

    そう云う変化を受けていないのですね。



    例えば、

    エジプトのクレオパトラ、女王の名前ですが、

    あれは、ギリシヤ人の女性の名前です。

    プトレマイオス朝は、ギリシヤ人がエジプトで開いた王朝なのですが、

    現代でも、ギリシヤのある地方へ行くと、

    クレオパトラと云う女性が、赤ちゃんからおばあちゃんまで居るそうです。



    それに引き比べ、

    日本人の名は、流行にさすらい、風俗化していますね!   あはは。




    ”歌は世に連れ、世は歌に連れ”という言葉がありますが、

    娯楽や嗜好は仕方がないにしても、

    命の根幹、生きる基軸までが世に連れ、

    世はすべてに連られてしまって揺らぐ日本は、

    つくづく哀れ、

    日本人はかわいそうだなぁ~  と思います。 








    日本は馬鹿正直ですから、近代化をそのまま受け入れ、

    個人でしか生きられなくなっている傾向が社会で強くなっていますね。




    それで、当然の如くに、

    今は、自分の幸せが人生の最大目的で、親もそう育てて行きます。


    だから、

    深く文化を伝えるという事などに、及びもつかないのだろうと思います。  








    赤ちゃんの名前を決めるという一大事において誰にも相談をしない。

    若い夫婦が、風俗として行うようになっています。

    風俗と云えば、ほら!   あれと同じだわ。 パチンコ。  


    あはは。  同じ程度で名づけをやってしまうのですね!

    その自分の姿に気が付けない。

    規範がないから。

    基軸がないから。

    昔からの道徳が廃れているからです。


    政治や経済もその程度ですから、、、ね。    あはは。





    命名を、

    命の継承者と文化のつながりと言う事から考えれば、

    もう、そのつながりは途絶えているのが多い。

    若い世代が、もう、自分の命が継承された川上を見ていない。 



    もう、陰徳がない人が増えて行っている!

    そして自助自律が出来なくなっているのですね! 


    これらの、抜け落ちていった間を、政治が制度で、

    社会保障で埋めようとしています。


    埋められるのでしょうか? 






    それは、無理であるという

    一つの証明が、

    次々と出て来る、現実離れした子供の名前。

    漢字の意味を無視した名付け。

    これは、何千年の時の遺産を文化を無視した行為です。






    目には見えないけれど、伝えたいものが秘められている文字。

    それらが全く伝わっていない名前が、その証拠でしょう。

    まさか、先人の祈りや徳が、

    無意識があるとは思ってもいない所作、業です。


    名前自体が実体のない空虚なイメージを放っている。

    その子の名前に会った時に、名付け親の願いが伝わって来ない名前。

    何を意図したのかが、さっぱり人の心に伝わらないのです。




    私達の心の中から、タネのような物が抜けて来ている。。  。





    こう言う名前は、 

    大事な我が子には付けてはいけない名前です。
     




    個と個のほころびを、政治でなんとかしようとする!?!??

    その政治は、経済の番頭をしていると云うのに??!??





    そもそも、社会とは何ですか?

    孤人、孤人となった、人の集合を社会というのですか?


    同じ文化を持つ人間が集まって、

    初めて社会の一体感は醸成されるのです。

    文化も道徳も持たない人間が集まって、

    どういう風に社会を営むのでしょうか?




    支えは、介護、育児、医療、それらを買うお金ですか?

    生活保護、年金、奨学金の返済、社会を弱くした分、大変ですね~


    権力者は、萎えた国民に、

    親や、子や、身内の代わりになり、隣人や、友人や、知人の

    代わりになる人を雇えるお金を支給するのですか?



    個人主義では、もうこの先へ進めない局面に、出ます。

    ある崖っぷちに出ます。









    今、明らかに社会にある流れは、

    東洋的な思考は、古い。

    合理的じゃない。

    東洋を排除する事が、知的であると認知される世間です。

    約100年前から、

    それはゴミのように扱われ捨てられて来たのですから、、、



    まるで、保護者から遺棄されて、ベランダに寝かされた、

    凍えて餓死させられた子供の様に、

    東洋の叡智は、日本人に扱われて来ました!




    それで、今度は、我々が、あぶないのでは ?


    捨てられた東洋の叡智と、

    っざたい!と嫌われた我々の漢字の意味と、

    先人の血や涙が込められた文字の意味を、

    拾い集め、再び自分の血肉とし、骨の髄として肉化し、

    今、世の表層に流動する、あふれこぼれる西洋化した思考の断片を

    批判し、選別する物差しを持たなければ、

    今度は、私達が、危ないのですよ !



    持ち堪えられないのではないかとさえ、感じています。






    あまり言いたくないのですが、

    男をさげすんで、自分の経済力に頼る、できる女に

    なれる赤ちゃんが、

    今、女の赤ちゃんがたくさん生まれて来ています。

    家庭運も、配偶者運も、子供運も弱い、しかし財運に恵まれた、

    孤独に強い美女です。



    どうしましょう? ?   



    いま、保護者から遺棄され、

    虐待され、餓死させられる子供たちが沢山生れています。




    どうしましょう?




    もう、人の心に響かない名前を付けてはいけません。

    言葉が指し示す日本民族の血が通った『陰徳』を引き出す漢字の意味を、

    無視してはいけません。

    捨ててはいけません!







    一目、その文字を見れば、

    その子の名付け親の厚い陰徳が伝わって来て、

    誰もが、その子を抱きしめて大事にしたくなるような名前を

    その子の命のお守りになる良き名前を、

    付けてあげてほしいと切望します。



    子供の名前を、両親の見栄や飾りで付けてはいけません。

    よろしくお願いしますね。






    命名について、

    禁止観念が、たくさん出て来ましたけれど、

    よくよく、ご理解いただきますように、

    何らかの道しるべとして、

    みなさまがお役立てくだされば、幸甚でございます。





    長い記事を最後までお読みいただきまして感謝です。


    よき一週間をお過ごしくださいね。





































    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 妊娠・出産
    ジャンル : 結婚・家庭生活

            

    ★生活における『五行』について   『陰』の儀式 ――炊事の大切さ 

    Category : 運命学
           あけましておめでとうございます
           
               お正月飾り  (京都)

               

                
              お正月かざり


    京都では、小梅と結び昆布を入れた大福茶を飲みながら、

    お祝いの言葉を交わします。


    おめでとうさんどす~


       . . . . . . . . . . . . . .
     







              

    今年初めての記事は、運命学の記事になります。 





    今日のテーマは、

    ★生活における『五行』について 『陰』の儀式 ――炊事の大切さ



    生きる原点についてです。







    今まで、五行については、カテゴリ【東洋学】において、

    5行の徳性について書いてきましたが、

    今日は、

    五行学の実践編としてカテゴリ【運命学】の記事になります。

    (『陰陽五行』については、後日、また詳しくする予定です。)



    五行学とは、中国のその昔、

    前四世紀末の頃、陰陽家・鄒衍(すうえん )が、

    前一世紀頃、劉向・劉キン親子によって完成されたと言われています。


    五行とは、この宇宙の生成流転消滅する現象(意識で捉えられる)世界

    の万物の元素、5つのエネルギーとしての木・火・土・金・水の事です。


    似たようなものに、仏教の五行があります。

    仏教の五行は、地・水・火・風・空とされています。




    人と自然の関係を解釈する手段としての五行学は、

    『陰陽学』と相まって『陰陽五行学』説と云うものになり、

    科学が進んだ現代においても、

    近代化以降の西洋医学の追従を許さない東洋医学、中医学の理論の

    中核となっています。

    そのように現代中国の中医学に大きな影響を与えた哲学です。

    それは、分科していく西洋医学の対症療法とは比べ物にならない程の

    治療上の効果と影響を人体の生理、病理、病因、診断、薬物の領域で

    与えつづけています。






    五行には、それぞれの色が定められています。


    木   仁の徳: 青

    火   礼の徳: 赤

    土   信の徳: 黄

    金   義の徳: 白

    水   智の徳: 黒(紫)


    五行のそれぞれの徳性については、

    今までの記事に詳しく書いていますのでそれをご覧になってください。

    ブログ画面、右上のプロフィールの直ぐ上、TITLE LISTを

    クリックして全記事メニュから、タイトルの前に、.。.:*:.。..。の飾りが付いて

    いるのが記事の目印です。




    この五つの色は、" 七夕の歌 " 、

    ”五色のたんざく~ 軒端(のきば)にゆれて~ ” の


    短冊の五色は、五行の五色の色なのですよ。

    「七夕のお星様」は、古代中国の『陰陽五行説』と深い関わりがあります。


    お寺にある五重塔、五輪塔など、

    この五の意味は、それぞれ五行の五に対応しています。




    五節句もそうです。


    人日(1月7日)、

    上巳(3月3日のお雛さま)、

    端午(5月5日の鯉のぼり)、

    七夕(7月7日)、

    重陽(9月9日)。



    この節句というのは、正しくは、『節供』と書きます。

    季節の変り目に、その季節のお供えをする、五行のお祭りです。
     




      
    一週間の月 火 水 木 金 土 日 もそうですね!

    五行の木 火 土 金 水 に

    『陰』を表す月と、『陽』を表す太陽である日を配して出来ています。


    七曜は、陰陽五行で出来上がっているのです。

    陰陽五行を、一週間で一回りするという事ですね。


    日常的には、すっかり聴き慣れない五行ですが、

    これ以外で、私たちの生活のごく身近なところに、

    五行が完璧に揃っている場所があります。2ヶ所かな?

    さあ、どこでしょう?

    答えは、あとで、、、    ほほっ。





    運命学における五行は、

    性質、癖、人格、運命エネルギーの流れ、体質の特徴までを表します。


    運命学における

    良い運、良い命式とは命式中に、きちんと五行が揃っている事、

    この五行が、自分の誕生命式の中に全部そろっていると、

    運命のエネルギーが行き詰まる事なく循環をすると云う事になります。






    下の図をご覧になってください。

    木、火、土、金、水、を五芒星の形に載せて時計回りに配置すると

    五行の相関関係図ができあがります。













    黒い矢印が、見えにくいですが、

    相生・そうしょう(エネルギー移動による五行転換)の関係です。

    相生の関係は、互いが生かし合う関係になります。



    ・木が燃えて火を生じる。

    ・火は燃えて灰となり土を生じる。

    ・土の中から鉱物・金は得られる。

    ・金が結露すれば水が生じる。

    ・水が木を成長させる。    


    そして、この水から、また木が火を生じるへ戻る訳ですが、

    宇宙森羅万象は、このように、 

    → 木 → 火 → 土 → 金 → 水 → の規則的なリズムで

    一時も、休む事なく現象を起こしていると云う東洋独自の

    西洋にはない『時』に従って移ろいゆく循環の法則なのです。


    すこし面倒ですが、

    この循環を理解して、そのイメージを思い浮かべられるようになれば、

    目の前にある物事の表面だけに囚われて右往左往しなくなったり、

    深く事態の動く推移を眺められるようになったり、

    物事の奥行きを観て行動ができるようになりますよ!    あはは。

    だんだんと高度な東洋学へ入って行けるはずです。







    白い矢印は、相剋(そうこく)の関係です。


    相剋とは、お互いにエネルギーを消し合う関係、滅ぼし合う関係です。

    例えば、木から土へ向かう矢印は、木が土を剋すと云う事です。

    木は、土の中へ根を張る事で土の養分を奪い、やせさせます。

    同時に、金から木へ向かう矢印は、金が木を剋すと云う事です。

    金は、斧になって繁茂した木の枝葉を切り落とします。


    そのように、それぞれが剋す相手と、剋される相手を持っています。




    では、生きる原点と申しました本論です。






    人の一生、この現象世界に生れる人間の生命は、一組の男女からです。

    夫婦と云う陰陽の一組が揃って、初めて新たな生命がもたらされます。

    厳粛な、『陰』と『陽』の役割分担があってこそ、

    次の新たな命も誕生し、その命の役割を全うできるのです。

    『陽』の生産性が弱いよりも『陰』の徳性が発現できない場合の方が、

    命の継承、命の繁栄は不可能です。

    命、家系の存続は、経済力にて行われるのではありません。

    ただ、ひとえに『陰徳』の恵みの下で達成されるのですよ。



    命の成長とは、五行の徳で守られて達成するものなのです。

    そして又、新たに子孫を産み、育て、残し、老いて行くものです。

    命の成熟を達成し、この循環の役割を終えた命は、

    つぎ、また、あらたに、新鮮な姿形で生まれ変わるには、

    今ある古い状態を一旦滅ぼさなければなりません。


    その為に、五行の相関関係図の循環のサイクルの中には、

    お互いを生かし合う相生関係と滅ぼし合う相剋関係があります。




    どのような命の存在も、辿るその、どの循環の場面においても、

    その存在自体が消えてなくなる事はありません。

    ただ『天』の運行・時の流れと共に、

    姿形が見える世界から見えない世界へ、変化をするだけなのです。


    そして現象であった肉体は滅びて灰となり、土に還ります。

    そして、

    その土から芽吹いた植物が『天』の水を受け、木となるのです。

    その『天』の恵みを動物や人間が食べて新たな生命の糧とする。

    『人』は『天』の運行の『時』を経て成長をします。

    『人』は、『天』が育むものです。



    その舞台が、この『地』の上なのです。


    五行とは、これらを巡る循環の法則です。

    循環の法則とは、

    『時』の流れと共に、この現象世界のすべての姿形を変化させ、

    一定のリズムを持って、繰り返される創造的運動です。


    この本源は、目には見えません。

    この力は、無意識の領域の中にあります。



    この自然そのままの大地に、近代化以降の我々は立っていません。

    舗装をされたアスファルトの上で、決して裸足になる事はありません!

    食料は、商社が海外から買い付けて、スーパーが売るモノだと、、、?

    水は、水道管どころか、ペットボトルでダンボールごと買うモノ、、、?

    流れる川も身近になく、雨は迷惑なモノ、、、?   


    あはは。


    五行の徳から遠くなった生活を営む我々は、

    無償で命を守ってくれる徳性の感覚さえ、忘れかけていますね。



    それが、家の中に、1ヶ所、もしくは2ヶ所、

    これらの五行が集められて、

    知らない間に命の為の儀式を行っている場所があるのですよ!


    さぁ、どこでしょう?

    目をつむって考えてください。

    明日のいのちの為に、心を込める清浄な清潔にされている場所ですよ。






    一つは、お炊事場。

    あえて、台所とは言わないでおきましょう。

    木は米も野菜もある。 火がある。 水が出る。 金は包丁がある。

    土で作ったちゃわんがある。昔は土間もかまども土でした。

    土が付いた野菜を洗い包丁で切ってお鍋(土器)でゆでる。

    これらの行為は、五行すべてを揃えて、命を継ぐ儀式だったのです。


    五行を揃えて、五徳の心で、食を整えたのですね。

    この食は、真実、命の糧になったはずです。




    もう一つは、お仏壇。

    木は青々とした樒や供花。 火はロウソクとお線香。 土は線香の灰。

    金はチーンの鐘と仏具。水はお水をお供えしますでしょう。

    これらは、インドで生まれた仏教が中国へ伝えられた時に加えられた

    五行学が融けこんだ仏教の様式、儀式です。 



    お仏壇は、ないご家庭もあるでしょうが、

    お炊事場。  この原点だけは大事にしてくださいね。

    女が、『陰』の徳性を守る場です。


    まさか! レトルトや出来合の御惣菜で済ますような事はなるべく避けて、

    日々の命に捧げる五行の儀式を、執り行ってください。


    これは、目に見えない世界(無意識界)に積み上げられる、

    一番簡単な、陰徳を積む行為です。



    このブログを読んでいただいている読者の家々で、

    今年もつつがなく、

    徳性を帯びた心を以って、

    お炊事場の儀式が執り行われますようにお祈りしております。



    寒さがまだまだ厳しく続いて参ります。

    ご自愛のほど、よき一週間をお過ごしください。


    しばらく更新が不定期になるかもしれません。 

    ご了承を、、、






























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    ★生活における 『陰陽』 について    陰陽の役割---男性脳 と 女性脳 の違い

    Category : 運命学
      京都のお正月 玄関飾り  
               

                京都お正月


    京のお正月のお餅は丸餅、お雑煮は白みそ仕立てです。





    七草粥、鏡開きと、松の内も過ぎ、

    はや新年からの日めくりは、18日、

    大雪もあったり、

    時は、まるで駆け足の競争のように過ぎて行きます。






    しかし、

    運命学の今年は、まだ始まっておりませんのよ。

    2月 4日 午前1時14分の節入りから、今年が始まります。

    運命学の暦と云うのは、この節入りが大事なのです。

    年の節入りだけでなく、

    毎月の節入り日、時間も把握しなければ、


    太陽の黄道上の正確な位置がないと、正確な運命は出せません。

    詳細に、何時、何分、これらは気象庁、天文台の情報に拠ります。




    人間は、太陽を包み込む大宇宙に支配されているのですね。



    潮の満ち引き、これも重要です。

    私は、自分の生まれた時間の潮の満ち引きを、

    今から10数年前、気象庁に教えてもらった事があります。

    自分の年齢ほども前の事をですよ!    ほっー

    自分の運命学に確信を置いて間違いないのか、

    検証しようと、、、

    気象庁の電話に出られた担当官は、私の誕生地の県名、場所を聞いて、

    そう、5分もかからない間に、その詳細を教えてくれました!

    そこなら、何時何分と何時何分が満潮、で、

    何時何分と何時何分が干潮、でした。 と!

    すばらしい!!!   

    いまだに、感心をして、、、感謝しております。


    人が生れて来ると云う事は、意味もなく生れて来るのではありません。

    自分の運命のタネが発芽する『時』に出生するのですね。

    そう云う意味で、

    私たちは『時』を選んで生れて来ます。

    両親や誕生地は、自分の「内因」の縁に拠った発芽の土壌です。

    そして、我々の運は、刻々と『時』に応じて生育をします。


    細かく言いますと、30年運、10年運、1年運、日々の運の節目があり、

    年運において、運命のリズムは去年から今年の節を越えておりません。

    みなさまの運命も、そう、

    まだ去年のまま変わっておりません。

    いわゆる節分からが、新しい運が動き出します。

    敏感な方は、季節の変わり目のように、その兆しが感じられるはずです。

    . . . . . . . . . .







    今日の記事は、


    ★生活における『陰陽』について  男女の役割ーー男性脳と女性脳







    なにやら、

    このブログを読んでいただいている読者の方が、ムズカシイ!

    とコメントなどでお知らせくださいます。

    なにやら、頭が三角になるとか、、、 あはは。

    それでも読んでくださるのを感謝しなければいけませんね。

    実は、書いている私も、ムズカシイと思いながら、、、 あはは。


    東洋的な思想を、

    もうすでに合理主義的言語になってしまった日本語で表現するのは、

    本当にムズカシイ!大変! です。  ほほっ。


      
    今回の記事が、いままで『陰』が、なにやら?

    『陽』が、なにやら? 分かりにくかった方の入門編になると思います。


    そして、今まで、初めの頃より毎回お読みいただいた読者の方達には、

    このブログでさまざまな切り口から展開をして来た『陰』『陽』についての

    新しい切り口のきっかけになるはずです。


    現代科学によって解かった " 男女の脳の違い " から、

    東洋の『陰』『陽』に分かつ男女の役割が、いかに正しかったか、

    説明できると思います。


    ・『陽』=男、『陰』=女とする易学のなかの相待的相互関係は、

    東洋が西洋に追従を許さない独自の哲学であって、

    単なる対立する存在と捉える西洋の二元論とは隔絶の違いがあります。


    相待的(仏教語、二つのものが互いに関連して存在する。相い待つ関係 )


    更に、今年も運命学へのご理解を深めていただきますように、、、

    みなさまの生活面での応用力を、ウォーミングアップしてください。


    できるだけ、年の初め、サラリと行きたいのです、、、が、、、 

    無理かな?  あはは。









    まず、簡単に、陰陽学について、  さらり、、、と、  あはは、


    古代中国では、宇宙の事を「大極」と言いました。

    その「大極」を

    『陰』と『陽』という対立する属性に分類する哲学思想です。

    ここから生れて来た、推命学や易学、漢方、中医医学・東洋針灸などの

    東洋医学の根本原理です。




    『陰』と『陽』は、互いに対立する関係性だけでなく、

    互いに制約し、互いで大極を統一する関係性を持っています。

    つまり、

    この宇宙に存在する物事は一つ一つが単一に存在するのではなく、

    常に互いの、反対の側面がなければ成り立たない。

    自分の存在が、相手の存在に依存すると云う考え方です。



    たとえば、

    上と下、上がなければ下はなく、下がなければ上はない。

    左と右、左がなければ右はなく、右がなければ左はない。  

    『陰』と『陽』とは、このような依存関係性を持っています。

    具体的な生活面において、男女の関係性でも、

    意識と無意識の関係性でも、その通りです。





    まず、『陽』は、


    人間の感覚で意識できるもの、すべて『陽』です。

    触れる、見える、臭う、聞こえる、味わう、話す言葉、等の五感の

    感覚器官で意識できる範囲、世界、領域です。

    その結果、意識=心に現れる、うれしい、悲しい、楽しい、辛い、苦しいと

    感じて現れる現象、その心もそうです。


    人間の意識が作り上げたモノ、を『陽』と云います。


    我々の五感が環境の対象を捉えて作り上げたこの世の中、

    = 現象世界です。



    その現象そのものは、分かれ分かれて細分化をして行きます。

    科学の先端においては、大学の隣の研究室が何を研究しているのか

    隣にいて分からなくなっているそうです。

    病院の◯◯科が、良い例です。

    昔はなかった診療科が増えて、20年ぶりに行く病院は、

    廊下でウロウロしてしまいます。

    が、『陽』の範疇における分化と云うものも限界があり、

    最終的には、『陰』・本質を離れて原点を見失って行くものです。

    出発は「命」の為と云いつつ、「家庭」の為と云っていたのが、

    いつの間にか「経済」の為にがんばっているのが実態というような、

    それが『陽』の現実的な性です。



    『陽』の現象界では、分かれ分かれて、何になるのか?

    最後は、ゴミです!  クズです。   あはは。

    原子力発電所、  あれも最後は、ゴミです。

    そのゴミを、処理できないものを作ったのは、だれですか?


    最後、朽ちもせず、値打ちを失わないモノは、真理だけです。

    原子力発電所を、真理と思って作ったのでしょうか?


    あはは。


    原子物理学者殿、政治家殿、経済学者どのは、

    ご自分が『陽』の範疇を越えられない存在だと云う認識がなかった?

    最後は、害を及ぼすようなモノに成り果てる、、、

    その知見に、

    経済や原子物理学の知識などでは到達できなかったのですね。

    そう、

    此の世、現在の社会のあらゆるもの、ゴミまでが『陽』です。

    『陽』のあらゆるものが、将来はすべてゴミになるものです。

    正倉院の御物など、特殊なもの以外は、ね!   あはは。


    有史以来、男が、作為して、工夫をして、努力で作り上げた社会です。

    人間が生きる為に作った道具から、

    社会を作り守ろうとする為に作った言葉、知識。

    感覚器官で掴んで作り上げた概念、その概念の究極である思想、

    その象徴たる国家、制度、教育、法律、政治、経済、権威、階級、

    褒賞としての勲章、名誉、恩賞、

    逆の価値で、刑罰、罰金、など、

    今は、民主化で無くなりつつはありますが、いわゆる力の最高位、

    王、皇帝、天皇と云う絶対者の地位、王国、貴族、

    はたまた差別の最下層の奴隷、人非人、、、

    いわゆる意識は、感覚器官で覚知し、評価をし、差別をし、

    人の作った物差しで、人の序列を作って来ました。

    感覚器官の求める美の序列、価値の序列、

    詩や絵画、彫刻、小説、音楽などの芸術作品もそうです。


    すべて、人間、特に男性の意識が作って来たものです。

    有史以来、著名な思想家、政治家、作曲家、建築家、経済学者、

    そのほとんどが男性です。


    もっと卑近な例では、建物、橋、ダム、家、道具、食器、などなど、、、

    あらゆる産業、生産物、などです。


    故に、『陽』を男の生産性、生産物と見てもよろしいでしょう。

    『陽』は、現象を生みだす力を欲します。 

    故に男は、力を欲します。




    間違いない事は、

    我々人類は、男の意識の恩恵の中で生き延びて来た訳です。


    その恩恵は、それを作り上げて来た男たちの生産性のお陰です。

    ある意味、自然の生存競争の結果からもたらされています。

    その中には、殺戮も戦争も肯定するロジックも存在します。


    故に、『陽』・意識の最大の欠点は、

    自己の生存する事を第一に考えるエゴイズムを未だ乗り越えてはいない。



    それは、意識が、死を解決する事ができていない故であり、

    死を恐怖する処から生まれるエゴイズムに足場があるからです。



    と云うよりも、

    その足場をモチベーションにしているのが実態です。


    これが、意識の限界です。


    そして、もう一つの欠点は、

    『陽』その現象すべては、『時』に移ろって消えていきます。

    『陽』は、『時』に支配され、いつかは消えるモノ、無常の範疇です。




    ここから、

    我々が、我々の意識を評価する時に、気を付けないといけないのは、


    人の意識では、真理は掴めないと云う事です。


    それを敷衍すれば、


    意識で、真理をさも解かったように語ってはいけない。

    意識に必要なのは、常に謙虚さです。



    人の意識で分ったとするものは、あくまでもロジック。

    西洋は、これがお得意です。 ◯◯主義、を次々作り出します。

    歴史の流れを振り返れば分かるように、

    その時だけの人間の意識に都合の良いロジックだと云う事です。

    このロジックは、『時』の淘汰で、『偽』へと変貌します。


    今、まさに我々がどっぷりと浸かっている資本主義、

    もうこの化けの皮は、剥げ落ちております。

    共産主義も、その醜態をさらして滅んで行く事でしょう。

    『陽』は、いわゆる、『時』には耐えられない。

    真実に根ざしていないからです。

    故に、『陽』は、『偽性』を孕み、結果、嘘に、悪になります。




    いずれ滅びるのが、当たり前。  

    永遠ではありません。

    『陽』に永遠を求めても仕方のない事です。



    『陽』は、必ず変わる。

    それは、本体『陰』の創造性の現象、作用として変わります。 




    このように『陽』の特徴は、

    ★ 意識、分化、生産性、現象、男、父性、無常、偽性です。

    この部分を次の『陰』と比較してみてください。





    では、『陰』について、


    『陰』の特徴は、

    ★ 無意識、含蓄、非生産性、本体、女、母性、常住、真理です。



    東洋的哲学の深さ、鋭さは、

    表層的な現象だけに囚われることなく、

    それを『陽』と切り分けて後方へ退け、

    その奥にある、『陰』を発見した事です。



    どんな災害が襲って、海の水が、海底の砂を山まで押し上げたとしても、

    『天』や『地』が逆さまになる事はありません。

    また、なくなる事はありません。

    必ず、海の水は海へ戻り、山に草木は繁ります。

    『天』に元々在ったものは、そのままあります。

    それが、『陰』の姿です。


    人間の五感で掴む事のできない自然の力です。

    近代科学が掴めない、科学が捨て去った無意識の世界です。




    エネルギー資源を求めて、人間は幾度も戦争をして来ましたが、

    この『陽』の飽くなき人間の欲望、生への生産努力。

    これこそが、『陽』たる男性の本質でしょうね。



    男は、自分たちが作り上げた社会のシステムに命を懸けております。


    近代合理主義・意識が作り上げた自由と平等と云うロジック。

    自然に逆らう架空の空間に漂う偽性の自由と平等、

    それを盾に、男にも育児を、家事をするように求める女たちは、

    逆に、平等に、

    武器を抱えて男と同じように戦場へ行くつもりなのでしょうか?

    敵国の兵士を、殺す事ができるのでしょうか?


    今日現在、アルジェリア南部で、

    武装勢力が邦人含む41人を拘束中だとか、、、

    報道によると、人質には日揮の従業員5人が含まれているとか、

    こう云う危険性を顧みず、男性社員たちと同じように、

    危険地域へも海外出張をする覚悟なのでしょうか?

    『陰』を捨てた女たちへ訊いてみたい気がします。


    男たちは、どんな場所でも、彼らは命懸けなのですよ。

    そりゃ、今の社会を作って来た責任があるからですが、、、


    ほーー




    そもそも、男と女は、脳みそが違う。

    私は、そう思って来ました。

    昔から、儒教などでも「男女の別」と云うのがあります。

    それを、何とか合理主義的思考の現代人に、

    立証して見せる事はできないか?


    それが、―――――――つい最近、2年前に!

    男女の脳の違いについて、科学的研究結果が出たのを御存知ですか?



    アメリカ、カリフォルニアの現役の臨床医である

    ローアン ブリゼンディーン女史が、

    「The Female Brain」 (女性の脳)

    「The Male Brain」  (男性の脳)を著しました。


    それらを、少しだけ、簡単に紹介します。


    女性脳は、

    ・ 前帯状皮質(選択肢を比べ、くよくよ心配して決断をする中枢)

      が男性より大きいのです。

      どっちにしようかと、くよくよするようでは、女性は戦場へは

      行けませんね。

    ・ 前頭前皮質(感情を暴走しないよう抑えて、扁桃体にブレーキ

      をかける中枢)が、男性より大きいのです。

      この部位が成熟するのは、思春期の少女の方が少年より2年早い。

      いわゆる女子の方が、おませだって云う事です。




    それに引き比べ、男性脳は、

    ・ 視床下部の一部の内側視索前野(性的なものを追求する中枢)

      が、女性よりも2.5倍大きいのです。

    ・ 側頭頭頂接合部(難問に直面した時、即座に解決策を探求する中枢)

      が、女性よりも大きいのです。

      問題の現場に行って、陣頭指揮を執るのは男性向きなのですね。 





    ここから、つまり、脳科学は、男女の間の深い溝?  あはは。

    「なぜ男は女を愛せないのか?」を解明して行く訳ですが、

    この男女差を生み出す脳内ホルモンの違いと影響については、

    以下のような研究結果が出ています。



    生理学者である杉靖三郎氏は、   詳しくは、ここウィキペディアへ
    ものすごい数の本をお出しになっていますが、

    約40年前、『英才教育―間違いだらけの教育―』の中で、

    「他人を愛する事は、女性特有のものであり、男性は本来持ち得ない

    能力である。」と云う仮説を書かれています。

    当時盛んだったホルモンの研究から、この結論に至ったようですが、

    この仮説が実は、最近の研究で証明されて来ました。


    2004年、アンドレアス・バーテルズ教授が発表した研究結果は、

    恋愛中の女性脳は、母性愛を実感する時と同じ回路が活性化していて、

    恋愛中と育児中では、関係するホルモンの結合部位も共有されている。

    この事から、女性は、本能的に自分の子どもを愛するように、

    男性を愛するのは本能である、と考えられるようです。


    一方、男性の方は、我が子の育児をしている間も、

    男性脳の、この回路は活性化されなかったと云う事です。


    また、次の事は、少々ショックな方もいるかも知れませんが、

    男性が女性に感じるのは愛ではなく、性欲であるとする研究結果もあり、


    先ほどのローアン・ブリゼンディーン女史に戻りますが、

    思春期の男子には、急激な男性ホルモンの増加が起こり、

    それが先ほどの男性脳の性的発火中枢を刺激するとしています。

    このとき男性脳に分泌されるドーパミンによって、

    男性は、愛を実感するのではなく、むしろ攻撃的になるとしています。

    そもそも、男性の内側視索前野(性的発火中枢)そのものが、

    女性より2.5倍大きいので、男性の本能は、

    愛ではなく性欲によって女性を求めている事になります。



    ニュートンプレスの『最新の脳科学 脳の仕組み』では、

    男性が人を愛すると云う事は、男性脳に具わった本能ではなく、

    旧皮質の一部、海馬と云う所の記憶からであるとされています。

    乳幼児期に受けた母親や祖母、周りの人から注がれた愛情体験が、

    記憶・感情・情動の旧皮質の海馬に記憶されます。

    その乳幼児期の愛情体験の記憶は、

    およそ4歳位から発達するとされている理性・精神・創造の司令塔である

    大脳の新皮質へ移行します。

    これが、男性脳の長期記憶となって、

    他人を愛する原型として認識されると考えられるのです。

    人間だけの特徴である新皮質が発達する事によって、

    本能だけの他の動物のオスと違い、人間である男性は、

    自分の本能を乗り越え、愛する事を知る事ができるのです。

    しかし、その新皮質が完成するのは、20代の中頃、

    その頃までの男性は、まだまだなのかも知れません!??


    この社会を作り上げていく男性に、人を愛する事を伝えられるのは、

    母親、特に4歳まで母性愛が大事だと分かりますね。

    その間の、愛情を受けた体験。

    その記憶。

    それが、自己の本能を乗り越える創造力へと昇華する訳です。


    この大事な時期に、生れて一歳も満たない時期から、

    保育園に預けて安心していられるものなのだろうか?


    この自然のありのままの営みを無視して、

    それ以上に何が大事と言うのだろうか?




    本能的に、自分の母性愛を注ぐ事ができる女性は『陰』です。

    この『陰』の胸に抱かれて、どの子も育ってほしい。

    それこそ、どの子供にもある権利だと思うのですが、


    本能的には、人を愛する事ができない男性は、

    記憶によって愛を知る、母の愛の記憶で愛を認識する。

    このプロセス自体が、『陽』そのものと云えるでしょう。



    子供は、保育園に入れて置けばいいんだって、

    母親を働かせるには、保育園を作る政策を、だって、

    そんな次元で現実を変えて行こうなんて、

    一体、将来、どんな国にしようと思っているのかしら?



    日本の、思想のなさ、

    そろばん勘定だけの頭で、賢いやり方だって思っているのね。

    この馬鹿さ加減を何とかしなければ...









    自然は、いかに華美豪華であっても、欺瞞な生であれば滅ぼします。

    自然は、いかに質実か、真実かを試して、その生を育みます。






    新年からの2本の記事で、

    東洋哲学の基礎、五行学と陰陽学を取り上げました。

    いかがでしたか?

    これから続く記事が読みやすくなったのなら良いのですが、、、




    寒さ厳しき時候が、まだまだ続きます。

    ご自愛くださいませ。

    更新が、不定期になっています。

    よろしくお願いします。










     













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    どうぞ宜しくお願いします。

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    コメントへのお返事 13.     (★姓名判断 1 )   紀子さま/名の音霊について

    Category : 運命学
     吉野山 (奈良県吉野郡吉町吉野山)






              願はくは花のもとにて春死なん


                     そのきさらぎの望月のころ  
      
     


                   (願う事なら、花の下で、春の満月にこそ死にたいものだ)   


                                            西行法師「山家集」    







          一目千本(ひとめせんぼん)と言われる桜の山景色


    一目千本


    4月に入って日本列島を襲った低気圧のせいで花びらが散ってしまい、

    葉桜ばかり、例年よりさみしい山肌でした。

    いつもは、下のような幻想的な桜の山になります。



    吉野山




    4月11日 10時すぎ吉野山着、

    地元の人によれば、

    早朝には雪が降り、積って、日の出と共に瞬く間に溶けたとか、

    おかげさまで、道中、足元は、程よいお湿りで土ほこりも立たずに、

    下(しも)から中(なか)、上(かみ)、奥へと

    桜を求めて登って行く事ができました。


    吉野山  下千本(しもせんぼん)   
    花は散っているのが多いですね。
    吉野山3万本の桜と云いますが、実は下だけで3万本あるそうです。
     


    下千本






    吉野山  中千本(なかせんぼん)   花がまだ残っていました。


    中千本




    昨年の11月には、持統天皇の面影をさがして紅葉の吉野山へ行きました。

    その時の様子は、ここをご覧になってください。


    「日本書紀」の巻の第三十の持統天皇紀に記録が残っている、

    天武天皇の皇后 ・ 讚良皇女(さららのひめみこ)、後の持統天皇が、

    九年間に、3~17日間の吉野への逗留を30回以上もされていたと云う

    史実に肖(あやか)って吉野山へ行ったわけですが、

    関西への仕事の合間の限られた時間の中でしたので、

    上(かみ)まで行くのが精一杯、奥までは足を延ばせなくて、、、


    それから、約半年ぶり、

    その心残りと、冒頭に挙げました、

    桜に魅せられた西行法師の辞世の句に誘われて、、、 ほほっ。

    お花見に的を絞って奈良へ赴き、桜の吉野山へ参りました。





    西行法師の事を少し、、、御存知の事とは思いますが、

    本名・佐藤義清(のりきよ)。家柄が藤原の鎌足の流れをくみ

    鳥羽院の北面武士と云う身分でしたが、23歳で家督、家族を捨てて出家。

    出家の際に、彼を慕って裾に取りついて泣く娘(4歳)を

    縁側から蹴落とした! と云う逸話が残っています。



    まあ、そんな不埒な父親と思えなくもない男が出家をしたのですから、

    どんな行く末、死にざまかと思いきや、

    彼は願い通りに、桜の咲く満月に亡くなったそうでございます。  あはは。

    この事を当時の貴族達は、こぞって賞賛をしたのだそうです。



    23歳の若さで俗世間を捨てて出家をした動機には、

    彼の失恋説があります。

    そのお相手は、鳥羽天皇の中宮待賢門院か、あるいは

    鳥羽天皇の譲位後の寵妃、近衛天皇の生母美福門院とか、、、

    その為に、裕福な暮らしや官位、家族も捨てて遁世した彼が、

    死ぬまで断ち切れなかった執心の的が吉野の桜の美しさでした。






      花にそむ心のいかで残りけん


                捨て果ててきと思う我が身に



     (花に染まり執着する気持ちが、どうしてこんなに残っているのか

           俗世の事は捨て切ったと思う我が身であるのに)








               -----------------------------










    今日の記事から、しばらくの間、

    過去記事へいただいたコメントへのお返事の記事になります。




    今日のテーマは、


    コメントへのお返事 13. (★姓名判断 1 ) 紀子さま/名の音霊について 



    2012年 10月 16日の記事

    ★姓名判断  緊急!  『陰』を無視した名前は付けてはいけません。
    へいただいたコメントからになります。







    今日、引用させていただくコメントは、



    ◯ 紀子様の場合、

    読み方が『きこ様』と『のりこ様』では運勢は違ってきますか?





    名付けた名前の読み=音の違いにおける運命の表われ方ですね。

    よく深い処まで、お気づきになりましたね!


    そうなのです。

    名前は、それが持つ音によって運の象徴は、まったく違ってきます。


    秋篠宮 紀子様の場合、「きこ」さまと読むのは珍しいですね。

    一般的には、紀子と書けば、「のりこ」と読みますね。


    姓名鑑定では、「あ~わ」までの一つ一つの音に意味があります。

    少し説明をしますと、


    言葉には、言霊、

    音には、音霊があります。

    音霊には、母音と子音、その組み合わせの音霊があります。



    「のりこ」の初めの「の」の母音は、お。

    「きこ」の初めの「き」の母音は、い。


    母音の「お」は、すべてを受け入れる体勢を意味します。

    外界を受け入れて、自己と一体になっている口の形です。

    自分の口の中に外界を含み入れて包むように、

    口の奥を大きく膨らませて、こぼれないように口をすぼめる。  


    おーー  


    お の音がする言葉は落ち着くイメージの言葉です。

    (納まる、修まる、桶、置く、起きる、、、)



    母音の「い」は、外界と自分の境界線をはっきりさせる体勢です。

    言い換えれば、外界を知って受け入れるかどうかの自己認識、

    ひとまずは外界を拒否する口の形です。

    口を閉じるように横に引き締めて、少しの隙間から息を吐きますね。 


    いーー


    い の音がする言葉は、意志、確固としたイメージの言葉です。

    (いや! 意志、言う、行く、家、石、意味、、、)




    「のりこ」と「きこ」の音の違いについてです。

    「のりこ」なら、

    Nの子音の霊意も合わさって、

    おおらかな知能型で、自分を伸ばしていこうとするタイプです。




    「きこ」なら、

    Kの子音の霊意と強い自我意識「い」の母音が合わさる事により、

    あらゆる外界に対して対面的に相い対して行きます。

    名の音霊からの暗示は、自立的、孤独的。




    紀子さまの場合、


    それが、やわらかな従順さで包まれているのは、

    知恵と他者に尽くす命式との調和です。

    = 他者の為に努力ができる方でいらっしゃるのです。

    人は、決して見た目ではありません。 でしょう?

    嫋(たお)やかに見える紀子さまが、実はしっかりした方なのです。

    コツコツと単独で自分の周りを運気旺盛に以って行ける人です。





    紀子と書いて、「きこ」と読ませる。

    そう決まった時から、今の運命が定まっていたのでしょうね。


    天皇になられる人はもちろんですが、

    天皇の妃になる人も、天皇の母になられる人も、

    頑丈な自我意識を持っていないと潰れてしまいますよね。

    発福する自我意識は、見えない処で『陰徳』に根ざしています。


    よい果報を得る生き方と云うのは、

    年柄年中、まるでキャンペーン? のような情報の濁流を放出する

    近代合理主義社会の自然から浮いた囲みの中の現象に囚われる事なく、

    唯一、依りかかれるものが『陰徳』と云う生き方です。

    これが、最善最強なのです。





    皇室にお入りになられたから、人は幸せになれるものではありません。

    皇太子妃の雅子さまの例もあります。


    ついでに雅子さまの音霊をさぐってみましょう、、、

    「まさこ」の初めの「ま」の母音は、あ。


    母音の「あ」は、外界に気付いて驚く体勢を意味します。

    口の形は、外界に対して無防備に開いた形です。


    あーー


    あ の音がする言葉をさがしてみてください。

    何か、あざやかなモノ、事が始まるイメージがあります。

    (朝、明るい、遊ぶ、秋、あるいは、暑い、、、)



    外界を受け容れるも拒否するもない、前駆的緊張状態です。

    その緊張状態を周囲に及ぼします。

    私に付いて来て!  生来のリーダーです。

    仕切り屋さんでしょうか?     あはは。

    新しい事に気付くのが早く、それをマスターしようとします。

    学芸技芸に興味を示し、常にトップを目指します。

    その為には全身全霊を打ち込む人です。


    「まさこ」の名の音霊は、

    Mの子音の霊意と、「あ」のリーダーシップ性が合わさって

    静かだけれども女性らしさの中に、強烈なトップを目指す意志です。

    あなたが一番よ、そう認められて大きくなって来た方ですね。


    皇太子に見初められて、初めは固辞していた雅子さま、、、

    それは、あなたが一番だと認められた事だったのですね、、、

    しかし、皇太子妃と云うお立場は、

    トップのままでいいと云う訳にはいかない。



    「あ」の音霊を持てば、

    誰かに従う事は得意ではありません。

    誰かに自分を犠牲にして尽くす事など性に合っていないのです。

    自分の上に、目の前に、だれかが居る風景には馴れていらっしゃらない。

    自分がトップランナーなのですから、、、ね。


    人の適性と云う観点から観ると、

    雅子妃殿下は、外務省のキャリア外交官のままであれば、

    世界的に大活躍をなさった有能なキャリアウーマンだったのでしょうね。

    人が怯む問題にも、既成概念に囚われずに、まず一番に挑戦し

    先陣を切って必ず母国日本の為に何かを築かれたでしょう。


    雅子妃殿下は、女系である三人姉妹の長女の出自でした。

    兄も弟もおられません。

    明らかに、女系の家系のお出になります。



    将来、天皇になるべき男児を産まなければならないとするのであれば、

    そこまでの見識を以って諮らなければならない事だったのではないか、

    雅子さま、お一人の責任にしてはならないと思います。




    ーーーーーーーー紀子様の事にもどります。




    秋篠宮 紀子さまが、婚約中の記者会見ですが、

    結婚式を終えて落ち着けば、学習院の大学院生に戻って、

    心理学の研究を続けたいとおっしゃっていました。

    当時、ひやっとしました。----------ーーーーあぶない!

    事を言う、まだ若いな、と聞いておりました。


    その当時、自己実現 と云う言葉が流行っていて、

    何の為の自己実現か、分らないまま...   あはは。

    皇室がいかに開かれた皇室になったとしても、

    近代家族のような、男女の役割が曖昧で均質化した夫婦でない事は

    はっきりしている訳ですから、、、

    、、、、、、覚悟がない、と云う印象を受けていました。


    周りにだれも、知恵を授ける人間がいないのか?

    なんと、合理主義的な、まわりも近代家族そのものじゃないか?   


    心配をしていました。  ほっー。



    結局は、紀子さまは余裕がなかったのか、それをなさらなかった。

    非常に、その事がよかったと思っています。

    正確に云えば、約20年間、なさらなかった。




    1989年(平成元年)  学習院大学院進学、 婚約内定
    1990年(平成2年)  6月29日  結婚の儀
    1991年(平成3年)  10月23日 眞子内親王が誕生
    1994年(平成6年)  12月29日 佳子内親王が誕生
      (この間、学習院大学院へ通われていたが)

    2006年(平成18年) 9月6日 (39歳)悠仁親王を出産
    2009年(平成21年) 4月 (42歳)
        お茶の水女子大学で研究活動を再開

    2013年(平成25年) 3月 (46歳)
      今年の春、お茶の水女子大学から博士の学位を授与される。




    その間に、葛藤やお悩みがおありだったはずですが、

    それで、よかったのです。

    見事な生き方です。

    悠仁親王さまが、御茶ノ水女子大付属の幼稚園に通っている間、

    ご自分も、通っておられたのですね。



    自分の本来の大きな役割に気付く。

    こう云う女性(嫁)が、女系化した絶家の家系(皇室)を救い、

    こう云う嫁が、息子、孫の嫁と、3代続けば家系は盤石になります。




      

    自分の役割の為に、ある選択をする。

    見えないもっと大きな何かを手にする為に、見える手の中の物を捨てる。


    捨てるか、ある時期、我慢をする。

    我慢や忍耐を経る事によって、

    意識より、無意識の方へ重心を置く生き方へ入れるのです。






    なぜなら、我慢と云うのは、


    自分の五感が求める意識の満足をーーーーー見据えると云う事です。

    自己の欲望をいぶし、虫干しをするようなものです。  あはは。

    自分を苦から逃げさせようとする意識を潰す作業になります。



    まるで、モグラ叩きのように、ね。    

    強欲な意識よ! えいっ!  えいっ!   ほほっ。


    ここまですれば、惰弱な意識は潰れます!      あはは。

    忍耐は、人を作ると申しますが、こう云う事なのですね。

    『時』が、人を鍛える、のですね。



    我慢は、『時』を信じる智恵です。

    陰徳から出て来る智恵です。

    『時』を信じる事は、『陰』を信じる事に通じます。



    無意識は、自分の欲を解かなければ見えて来ません。

    無意識は、苦を避けていては見えないのです。





    目に見えないモノが見えるようになる。

    その事から、

    意識が急(せ)かす狂騒に勝った満足境(天国)よりも、

    無意識界から湧き出るもっと広い深い喜びに包まれるのです。




    我々は、この現象界において、

    自分の運命を示唆するさまざまな衣服を着ております。

    その内の一つが、姓名の音霊です。


    我々の存在は、精緻で精巧な作りをされているようです。

    体のどこを切っても同じ血が出るように、

    あらゆる方向から我々を占っても、それらの答えはほぼ一致しています。


    そこには、なにか統一された設計図があるように思え、

    そのルールは、普遍的な何かに貫かれているようです。




    最後に少し、

    最近の西洋批判を、、、西洋は、未だに『陰』を知らず。


    アントニオ・ネグリ、 マイケル・ハートと云う現代の思想家が

    せいぜい〈共〉・コモンと云っているようなレベルです。

    例えば、人々は大地や海洋、空気や生命を共にしている。と云うのです。

    大地や海洋、空気や生命が、〈共)・コモンだそうです。

    コモンウェルス(共通の財産)と云うのだそうです。

    人々の(共通の財産)だから、資本家や国家の独占から、

    それらを取り戻そうと〈帝国〉の革命を目指す。と云うのですが、

    どこか、縦と横の次元が混乱しています。

    まず、そもそも、

    〈共〉の概念の中身、大地や海洋、空気は分るのですが、

    それらと同列に、を並べる事自体が、まったく奇妙です。

    その上、大地や海洋、空気や生命を結ぶ何かが見えていないのです。

    それらが、陰陽学の『陰』とかぶる概念かなと思うのですが、

    彼らは、大地や海洋、空気や生命を、バラバラに提示するだけです。

    宇宙観、自然観の未完成さ、未整備なのを感じます。

    そして、現代新進の思想家が、相手にするのは資本家と国家とは?、

    これでは、あまりに直接的な目の前の相手しか見てないのか?

    子供が文句を言っているような浅い議論にしか思えないのです。

    資本家、国家、そのどちらも個人にとったら大変なものですが、

    新たな思想が相手をするとしたら小さ過ぎる観があります。


    このように、西洋は、どこまで行ってもロジック 対 ロジックです。

    キリスト教的宇宙観、自然観から一歩も出ていない。

    共産主義、資本主義、合理主義の弟のようなレベルです。

    だから、相手のロジックをも、包み込もうとする普遍性がない。

    これでは、単なるロジックの置き換えにしか過ぎない。

    そう思われませんか?       ほほっ。


    彼ら西洋人は、随分前に仏教の禅を理解をしたようですが、

    禅では、まだ東洋を理解するには無理なのですね。

    禅に、はじめて「空」観が説かれる訳ですが、

    まだまだ、般若心経の「空」は、半端な空観しか説かれていないし、

    禅を理解したと云っても、物事の存在の全貌が分っていないのです。

    西洋は意識の中をグルグル廻って迷っているステップです。。 。

    今後、西洋から大した思想は出て来ないと思っています。


    それで足元を見れば、その程度で作られた近代合理主義のお仕着せで、

    日本は晴れ着を着て舞台へ上がった気分でいるのでしょうが、

    意識にダマし生きさせられている現代の日本は、寝言のレベルかな?

    はやく目覚めてほしいものです。




    実に、『陰』の存在を知り探究をした東洋に生れて幸いです。

    しかも、その『陰』のはしくれでもかじっているのは幸いです。




    ながい、ながい記事を最後までお読みいただきました事、

    感謝申し上げます。


    おつかれなきよう~    ほほっ。




    次の更新まで、よき日々をお過ごしください。



























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 栄える家とは?
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    コメントへのお返事 14.    (★姓名判断 2 )   名と体、 あるいは主客合一

    Category : 運命学
    吉野山  上千本  高城山展望台からの眺め


    上千本







    如意輪寺から坂道を登って来て、展望台までは12000歩くらい、

    あと、最後、奥千本にある西行庵を目指して金峯神社へ登りました。




    ---------









    今日は、前回からのつづきです。


    コメントへのお返事 14.(★姓名判断 2 ) 名と体、 あるいは主客合一





    今日の記事は、むずかしいかな?

    そんな気がしております。



    現代の常識から見たら想像もできない?!   ほほっ。

    キレイだ! 美味しい! ウザイよ! なんて

    感覚的な反応しかできない意識なんかには到底掴めそうもない実相を、

    今日は、東洋哲学の叡智・深遠なる法理の真骨頂を

    書かざるを得ないかな?  と思っております、、、

    と云う事で、覚悟をしていただいて、よろしくお願いします。







    今日の一つ目のコメントは、前回からのつづき、

    2012年 10月 16日の記事

    ★姓名判断  緊急!  『陰』を無視した名前は付けてはいけません。
    へいただいたコメントからになります。




    まず、いただいたコメントを紹介をします。


    ◯ 今時の子供達の名前については、

    やはり疑問や違和感を感じていました。

    何かがおかしい、こんな名前を付けられた子供は可哀想だ、

    と思っていましたが、何がおかしいのか?

    その理由がはっきりとわかりませんでした。

    「現代の若い人の考えにはついていけない」で片付けていましたが、

    名前と命名に、こんなにも深い意味があった事に驚きました。

    若い人達がおかしい…だけではなく、社会からも、私自身からも、

    日本の文化や陰徳が失われている姿だったのですね。


    >いま、保護者から遺棄され、
    >虐待され、餓死させられる子供たちが沢山生れています。


    とてもショックです。

    命や陰を軽視して無視しているから、こんなことになってしまう…

    どうしても、弱いものが犠牲になってしまう。

    陰を、東洋の叡知を、日本文化を、先人が大切にしてきたものを、

    本当に本気で取り戻さなくてはいけない。





    いつも、よく記事をお読みいただいて咀嚼なさったコメントを

    感謝申し上げます。

    今、生れてくる子供たちは、過去に生まれて来た子供たちよりも

    命式の調和が取れていない確率が高いように思います。

    命式の調和とは、命式内の五行のバランスです。

    めくるめくような? 目がグルグル廻るような名前を付けられて、

    その名にぴったしの運命の特徴を命式で示して生れて来ています。


    名は、その体を表す標(しるし)です。

    体は、その運を現象化した実体、時に応じる運命の舞台です。



    名は体を表わす



    昔の諺にもあるように、名はそのままそのものの実を示します。


    その人の名は、その体(実・本質)をあらわし、

    その人の名は、その体(実・本質)を表わすに等しく付いた題名です。




    又は、名(めい)と実(じつ)は相応じています。

    名前はその物や人の性質や実体をよく表すものだということ。

    名実一体ともいいます。



    それは、そうでしょう。

    名には何らかの想いが込められています。

    個々の想いの差別相が、名に込められて体の差別相です。

    名と体は、その思いの反映の結果でしかありません。

    それゆえ、名を決定する想い(意識)は重要です。


    思想が人を作り、人が自分を述べる事で国が造られる。

    まして、我々の五感を利用するマスコミや国の狙いもあって、

    われわれは、刻々の情報に支配され、操作されています。

    この国がこうだから、それにふさわしい運命の子供が生まれる。

    この国の人びとは、今こう云う風な傾向だから、

    その傾向が積み重ねれば、一つの時代が生れるのです。



    昔は、そこに風土、国土が関わって来ていました。

    風土の影響、自然と一体となった人が居ました。

    自然と一体となった人が集まって国を作る。

    その時、自然と一体となった人が作る国は、自然の秩序を鑑み、

    自然を守りながら国を造って来たのです。

    その頃の子供の名前は、自然に対峙する人の「道」や「理」、

    人のあるべき生き方を表わす漢字が、名前に付けられました。

    それは言いかえると、国に自然の守りが具わる道理だったのです。


    近代合理主義が徹底された現今の子供に付ける名前は、

    無意識(自然)を排除して人間の意識を中心に据えた思想のままに、

    道理や伝統を排除した自分は自由である!と宣言をしたような名前や

    自然とは縁を切った人間、意識で生きる自分のみが輝く?名前や、

    自己存在のみに没した名前になっています。

    これは、近代化の優等生である日本で顕著なのではないかと思います。



    未だに欧米の名前は、Mery や Peter など

    キリスト教史の中で、その名が聖者のだったり、

    あるいは、建国の勇者のだったりと、謂われと由緒を持つ名前です。



    この事から分るのは、


    もうすでに、日本は終わっているのです。




    東洋の叡智は、精神と肉体は一体であると説いています。

    さすれば、西洋の合理主義を取り入れて約150年、

    精神が無意識を排除した思想に慣れ親しみ、完全履修してしまった今は、

    肉体にもそれは侵入し、生命機能を根底から変えているのですよ。


    現今の日本の現象を見ていると、

    精神と肉体は一体であると云う証拠が表われて来ているようです。

    精神の現象は直ぐに現れますが、病気と同様に、

    肉体、物の世界に表われるのには物理的に『時』がかかりますから、、、

    約30年から100年かかるのですね。





    物の世界に現れてしまってからは、もう遅い、、、

    肉体に症状が表われてしまってからでは病気は進行をしています。

    実は、大変な事に、、、心身共の苦に立ち向かわなければいけません。



    まず、新しく生れてくる子供たちの数。

    少子化です。



    次が、その生まれた来た子供たちの心身。

    その証拠が、体をあらわす名前になります。



    同時に、『陰』である女性が『陽』の現場へ狩り出される事。

    国策を挙げて経済の為に女性が働き手として狩り出されようとしています。



    次が、国土。

    自らの命の根源を無視する事は、自らの命の破壊です。

    自らの命を軽く見て、自尊の精神を捨てた人間を、

    他者が重んじる訳は無いのです。

    自らの命の根源『陰』を軽んずる人間のいる国土が安んじられる訳はない。



    国土を守る国境警備の危機が惹起するのは、至極当然なのです。


    これから、ますますこの苦難は厳しいものになって行くでしょう。







    >いま、保護者から遺棄され、
    >虐待され、餓死させられる子供たちが沢山生れています。


    とてもショックです。




    本当にショックです。

    『陰』・命の根源を無視する思想を受け入れてしまった我々は、

    あらゆる次元から命を軽く見てしまう隙を受け入れたのです。

    まず、母が子らを、親が子供を、子供が親を、軽んずる。

    道徳の規範が、ザルから水が漏れるように、抜けていく現象化が進みます。


    経済の為だからと、気楽に考えてはいけないのです。

    政治の道具だからと、便法に走ってはいけないのです。

    根源を失った民は、命が軽んじられる光景を見る苦しみが、

    感覚器官を通して個々の意識の中で疼(うずく)くハメなるのです。




    そして、この『陽』の現象界には、

    人の意識の推移にふさわしい人間が生れて来るのです。

    この国 = 我々です。

    われわれを取り巻く環境 = 我々です。


    『天地』 = 『人』




    今日は、この事をちょっと深く掘り下げてみたいと思います。





    まず、むずかしさの頂点から滑空して行きましょう!   あはは。


    名実一体に似た言葉に、

    名体不二、主客合一、あるいは、境智冥合(きょうちみょうごう)

    と云うものが、東洋哲学にはあります。

    境智冥合は、仏教的な深遠な法理が絡む仏語ですので、

    今日は、簡単に次の二つに絞っていきます。


    名と体、 あるいは主客合一については、

    その内容が、東洋的思想、東洋ならではの哲学になります。

    むずかしい?理由は、

    我々は、東洋の地である日本に生きながら

    西洋近代合理主義の現代を生きている為に東洋思想に疎くなっています。


    特に現代の病理である近代合理主義の

    意識できる事だけが全てと云う思潮を鵜呑みにして生きています。

    それゆえ、

    無意識の領域にある真実の存在を知らぬ間に過ごしています。


    現象界である此の世=意識できる此の世界がすべてだと、、、、、

    見、聞きできない無意識界における実相など、無いと思い込んでいます。




    具体的には、

    現象界におけるこの世では、

    我(主)と環境(客)は、みごとに離れた別々のモノと云う認識です。



    私は人間、足元の大地は物でしょう?      あはは。

    私を取り巻く環境は、私とは関係のない物だわ!   ほほほ。


    これが、意識が行う認識の限界です。 



    近代合理主義と云う

    五感を中心に据えた覚知に重点を置く思潮にだまされて、

    無意識界においては、主(我)と客(環境)が一体である。と云う

    真実、実相をなかなか会得信じる事ができないのですね。



    東洋の仏教においては、

    凡愚の身である我々は、この真実を会得するのは無理!

    大変なんだ! とされて来ました。

    それを真に分っているのは仏なんだと説かれています。

    その位、難解な重要な東洋の智慧を記事にしようとしているのですが、

    さあ、どこまでお伝えする事ができるか?

    これもまた、ムズカシイ事ですね!

    無謀な挑戦をし始めるような? そんな気がしないでもない、、、

    でも、難しいなんて!

    今は、そんな事を言っていられない。

    この西洋の意識文明を有効に使いこなすには、

    東洋の叡智を我々が身に付けて行くしかないのではないか?

    それしか、私たちのサバイバルの方法は無いような気がしています


    ◎◎ まず、諸注意を!    あはは。

    東洋は、「分る」とは、簡単に言ってはいけないのです。

    「理解した。解る」なんてとんでもない!

    「解る」と言うのは、傲慢。

    慢心の謗(そし)りに値する事です。


    ◎◎ 東洋は、頭だけで「解った」を一番軽蔑しますから、

    実行も伴わない解った気分になる事を一番厳戒します。

    それ以上の進歩が無くなる事を戒めるのですね。


    ◎◎ 東洋の叡智が分ったと云う以上は、

    あなたは、聖人、仏、それ同等の人間になったはず、と見なすのですね。   恐いですね。     あはは。


    唯の凡愚な人間の風情で「分った」なんて、恥ずかしくて言えない。

    東洋の会得とは、意識が認識する合理とは全く違うのですよ!   ほほっ。


    ◎◎ 東洋は常に、全生命的な解を求めています。






    ---------- それに比べれば、西洋は簡単です。

    西洋は頭の中だけの合理であればいいのですから、、、


    『陽』・意識が行う認識とは、『陽』・言語を通じた前頭葉の機能です。

    目や耳や手で合理の事項を記憶する ----------。

    それが、( 解った ) --------- つもりになる。


    ---------- 全身的な体感が伴わないまま脳の中だけで、

    前頭葉の中で、新たなシナプスが結びついただけの事です。

    この繰り返しの刷り込みが、学校教育で行われているものです。

    これが、知る事に重点を置く知識教育です。

    いわゆる人間の持つ全脳の能力からしたらほんの一部です。



    この積み重ねの集積が、学問です。

    学問をすれば、真実に到達ができると錯覚をしている現代人。

    学問をすれば、あらゆる矛盾を解き明し、

    人間がしあわせになれると錯覚をしている現代人。


    とんでもない!

    学問がどんなに知識の集積を積み上げようと、

    人間は平等にも自由にも幸せにもなれない 。


    ---------- 矛盾が広がるだけです。


    なぜなら、もっと端的云えば、

    五感と云う狭いセンサーで得た情報で、

    全宇宙・我が生存そのものを規定しようとする傲慢愚行です。

    ~~~が、できる。

    ~~~ができない。

    と、意識の了見だけで人生の重要事項を決定をしてしまう。。。

    実は錯誤の上の決定や傲慢愚行かも知れないのにです。

    そこの傷口、矛盾が広がるだけなのです。

    『陽』・前頭葉が「知る」事は、すべてが分る事ではないのです !   



    新たな「知る」を求めて、ゴミのような知識が、時々刻々生れて来るけれど、

    「知る」事では、人間を本当に幸せにする事はできません。

    「知る」事の大過は、存在の不調和・不幸を舞い起こします。




    ≫≫≫≫≫ 今、現在、

    この世・『陽』の現象界で行われている事は、

    無意識が見えない事をイイ事に、『陰』を無視して捨ててしまった現場で、

    『陰』のバックアップの無い知識ばかりが暴走をしているのです。








    以前、たしか、記事にした事があるのですが、

    安岡正篤先生の記念館の方が言われた言葉、

    「大学教育を受けると『陰』が分らなくなるのです。

    自分の命や存在に関係のない雑学ばかりを学んでいくと、

    自らの命、その存在についての実学が身につかないのです。

    今の大学教育は、『陰』を排除した世界の中で学問と言う。

    何十年、学問と云う雑学をいくら学んだ処で、

    命の原点から、自己の存在の原点から遠くなるのです。

    迷いの中で命を大事にできないのです。」


    この意識の「知る」事へ偏重した教育のせいで、

    なにが自分の生存の源なのか ? 分からなくなるのですね。

    そして、終には、簡単な目先の物欲へ執着をするようになる。

    ---------- これが、現代の病理です。




    この人間のありさまを見て、


    天界の中、第六欲天の魔王、他化自在天が手を叩いて喜んでいるはず。

    人間の物欲へ網を懸けて、

    自在に人を支配できる喜びに打ち震えている事でしょう。

    天下の人間が、皆、俺の配下になった!!!  と。






    よく冷静に考えてみてくださって!




    究極、我々の命は、『陽』・五感が支えているのではないでしょう?!

    『陽』・意識が、『陰』・命の源ではないでしょう?!

    まったく逆さま!

    『陽』・意識は、『陰』・命あればこそ生れるものです。

    その証拠に、目が不自由でも、耳が不自由でも、口がきけなくとも、

    命は長らえる事ができるではありませんか?


    その『陰陽』の関係を逆転をして、

    『陽』意識が、『陰』・生命存在を解明しようとするなんて?!

    -------- それを学問がする。と言っているのよ!


    意識が命を解明する? できるのですか? できるわけがない!

    『陰』から派生した『陽』が、

    どうして命の源『陰』を解明できるのでしょうか?

    学問なんぞにできるわけが無いのです。


    もう、意識の慢心、驕慢としか思えない、、、、、


    いかにも、いかにも、近代合理で自然から隔離された現代人は、

    『陽』・意識でこの世を解明して行くつもりなのでしょうが、

    残念ながら、個々人バラバラの五感が集める = 意識できる領域には、


    ≫≫≫≫≫ 宇宙や自然の真理と結びついた智恵は、ゼンゼン無い。

    無常の現象界には、時に耐えられる真実は無い。  のです。







    この意識中心文明の限界を見極めた上で、

    近代合理の誤謬、大錯誤を踏まえた上で、 よろしいでしょうか?

    先へ進みましょう!




    西洋が指さえ触れる事ができない東洋の深遠なる智恵、

    東洋独自の叡智、

    その一部を抜粋してみましょう、、、


    たとえば、驚かれるかも知れませんが、    


    ◎ 正悪不二。  正と悪は二つではない。正と悪とは一つなのですよ!


    ◎ 色心不二。 ( 色 = 肉体)肉体と精神は二つではない。




    現象界では正と現れ、悪と現れる二つのモノが、

    現象界では肉体と精神とに分けて捉えられる二つのモノが、

    実は無意識界では ------------ 不二である。 

    --------------------------- 一つである。



    この事が、哀しいかな、五感・意識には掴む事ができないのです。

    欲に塗(まみ)れた意識には情けないのですが、、、



    この真実も知らずに、物に固執をしているのが西洋文明です。


    強いて言えば、物を獲得する為に出来上がったのが西洋思想です。


    それはそうです。


    無意識界を知らず、無いと捨て去った思想に、分るわけがない。



    ≪≪≪≪ 依然、西洋は、

    五感の快楽の天界に憧れて真実に迫る事ができないままにあります。






    現代における政治世界の常識のひとつは、

    ≪≪≪≪ 都合よく正と悪とを分けて、

    正義は悪を退治しなければならない。

    相手を倒す為に、自分を正当化する為に、その方が都合がいいのです。

    民主主義は正である。故に、民主主義の敵は悪である。

    その悪を滅ぼす為の戦争は正しいのだ! 、、、だそうです。  あはは。

    過去の戦争を見ても分る事は、

    民主主義の為と言いながら、実はエネルギー、資源の為です。

    そして、

    現在、世界の強大国は、

    兵器を使わない経済戦争をやっているではないですか?

    そのバックに軍事費の増大と、核を見せて脅かしながら、

    我々は、まだ物欲の世界戦争から抜け出してはいないのですよ。


    ≪≪≪≪ 肉体と精神はべつべつである。

    肉体は、心の表われである。とか、

    心の入れ物が、肉体である。とか、

    体は穢れても、心が清ければ正しいのだ。とか、     あはは。


    まさに迷いの中、

    その都度の都合のイイ言い回しでありとあらゆる表現が出回っています -----

    ----- しかし、心と体が不二だなんて、誰も言わない。

    云えば、自分の欲望を抑えなければならなくなり縛りますし、

    まず、自分の欲望に邪魔をされて、そこには及びもついていないのでしょう。




    西洋における人間の真の自由と平等は、偽善、絵空事であります。


    神や天国や正義や悪、悪魔も、人間の観念の造作物でしかありません。





       ------



    では、東洋の叡智が、この苦境をどう啓いていけるのか?

    に移っていきますね。



    ≪≪≪≪≪≪ 東洋の分ると云うのは、

    その事で、自分を取り巻くある局面が啓(ひら)けて来る事です。



    つまり、自分を取り巻く一切が変わって来る。


    ーーー ここが、意識中心の我々には、ものすごく分かりにくい。と思います。




    なぜなら、われわれを取り巻く現代文明の常識 -----------

    ---- キリスト教哲学の自然宇宙観は、

    主(我)と客(環境)はバラバラの関係です。

    いわゆるキリスト教的世界観は、二元論で貫かれています。

    まず、神と人間が、創った神、創られた人間として離れていますね。

    Oh! no! この距離感!!!     あはは。

    どうにもならない! この距離感!   

    どうしたら人間は、神になれるのだ???

    ーーーーーー どうしようもないです! 

    なれません。




    私なら、信仰におけるどんな利得よりも、この一点が納得できないならば、

    キリスト教の神を受け入れる事はないでしょう。

    五感が満足する天国なんぞ、 行った処で飽きるに決まっているからです。

    そんな満足より、神、と同等になれる方途が明かされていない事は、

    致命的であり、ここが欠陥なのに、理解ができません。

    私なら、このGODと人間との関係をまず糺(ただ)さずにはいられないわ、、、   


    なぜ?

    神との格差を認める教理の中で、

    人は、人間同士の間に格差を築き上げるはずだと.....    ほほっ。


    その通り!  西洋は格差どころか、階級社会なのですから、、、

    日本とは全く違う階級社会、契約社会そのものです。

    その西洋史で、人は、神との平等を求めるよりも、

    人間同士の平等を求めて来た惨(むご)さを思わずにはいられません。

    だから、あえて、自由と平等と叫びたかった、手にしたかったのです。

    人間を縛るこの近代合理主義を生み出した母体、神との関係、

    どうしようもなく神へ近づけない宇宙存在観の中で、

    どうして真の人間の自由や平等が実現できるのでしょうか?


    近代合理主義の閉塞感、     ほっーーー


    もう、いい加減にしてほしい、、、

    あ、

    ただ、天国がどこに在るかは、理的に明示されておりません。が?  

    ラッキーなら天国へ召されるそうです。 あはは。




    究極、宗教、思想と云うものは、

    その絶対者との関係性、思想の世界観が、この世に具現するのです。




    この浅はかな主客バラバラ、どこまで行っても神に成れない階級社会、 

    合理主義をやればやるだけ日本も階級社会へ移行をし、

    そして真面目な日本人は、それも完成させるでしょう。



    いろんな各界の識者から、

    これからの労働はピンとキリとに別れていくと云うメッセージが出ています。

    その通りです。

    < おれの意識で、おまえに差をつけてやる!>     あはは。

    これが、近代合理の原理ですもの。。。

    各自の意識、前頭葉のスグレ方の競争に収斂されて行く訳です。

    これからの社会はいよいよそうなる。

    熾烈な前頭葉の競争が激しくなっていくものと思います。

    前頭葉の優秀さ(知識の集積)が合理主義の成功者になっていきます。

    が、それは、『陰』の衰退の現象化を引き起こすでしょう。

    それは、つまり命の継承の断絶です。






    まとめましょう。



    主と客の二元論が、現代の一般常識ですから、

    あらゆる情報、思考、学校教育もそう、

    この二元論の上に成り立っていますから、

    それらに染められている我々は、二元論の時空の中に居るゆえに

    東洋の叡智・主客合一なんて、むずかしくて受け入れられないのです。

    前頭葉のゴミのような知識が邪魔をして.....   ほほほっ。


     



    西洋哲学の愚かしさは、

    キリスト教的西洋哲学の二元論の主体と客体がバラバラな事です。

    私の欲望の満足の喜びの為に、

    私の意識の満足の為に、

    欲に染まった意識主体の自我は、

    欲望を叶えられないのは客体であるあなたが、環境が悪い。

    全ての原因を自分以外の他者、環境のせいにするのですね。

    他者を変える事にヤッキになります。

    これでは、争いや戦争はなくならないでしょう。

    相手が悪いと云うロジック上では、悪を退治する戦争は聖戦になるのです。



    これが、欧米の大国のロジックです。

    彼らは、環境(他国、地球まで)を人間好みに変える事が善なのです。

    彼らの望みは、自分の国家の意識が満足をする事です。

    このロジック上で、今の世界は廻っています。


    意識の満足、快感を求める(天国)

    しかも意識は、過去を向いています。

    五感で感じた結果から脳が反応するのが意識ですから、

    反応がない事は、意識には分らないのです!   あはは。


    感覚器官に引っ掛かった事には、徹底的にリサーチをする。

    しかし、感覚器官に何も感じない事には、見向きもしない。

    目の前にない「未来」には、弱いのが意識です。


    だから、

    『陽』の権化である法律、それを人間の福祉の為に行う行政において

    こうなると想像できる事について、手が打てないのです。

    だれか被害者が出るまでは、、、誰か死亡者がでないと改善しません。

    だから、墓場行政と云われる所以なのですが、、、、、


    現今の世界情勢においても、

    世界を振り回す北朝鮮が悪いのです。----- とこうなります。

    現実の局面を、大国が寄って集(たか)って弱小国家のせいにして、

    アメリカ、中国揃って、呆れるほどの無能ぶりです。    ほほっ。




    これを東洋的に観ますと、主客は一体なのです。

    私が苦しむのは、私が変わらなければいけない証拠である。

    北朝鮮をそうしたのは、我々のロジックが間違っているのだ。

    --------------- こうなります。

    力ある大国が、変わればいいのです。

    客体(他者)を変えるより、主体が変わる方が簡単でしょう?









    国を家系、家族に言い換えますと、


    我々は、主体です。

    我々の家系、家族は、客体です。


    主客合一ですから、

    私は、私に過不足なくふさわしい家系に生まれて来ました。

    あなたも、あなたに丁度の家系に、両親の処に生まれて来ました。

    と云う認識が、真に正しいのです。



    それを覚悟しませんと、先へ進みません。

    そう認識した処からが、リセットです。

    さあ、後は、あなたが、次からどうするかです。

    あれこれ感じ続ける?  (あはは。)意識に振り回されていては

    まだまだ、自分の欲に振り回されている状態です。

    感覚器官が集めた過去の雑多な意識は、捨てる事です。


    運は、<時>が造るものです。

    今と云う新しい<時>を、過去の意識で汚さないようになさって!


    真に今の<時>を自分のモノにするとは、

    そう云う事でございます。



    常に、new!

    それを、now と言います。






    最後にテストです。    あはは。


    西洋は正と悪の対立。   東洋は正悪不二

    西洋は心と体が別々。   東洋は色心不二。 ( 色 = 肉体)


    みなさまへ、

    上の西洋と東洋の違い、どちらが馴染んでいますか?

    西洋と馴染んでいると? それは危険ですわ !?   あはは。

    宇宙の真実はどちらだと?      



    (東洋かな?) とうっすら、、、?   あはは。


    この乖離!  を自覚なさってください。

    この西洋と東洋のはざ間で中途半端にうずくまらないで、

    これを乗り越えていただきたいと切に願っております。




    ゴールデンウィークも最後になりました。


    山ばかりに行って、現実を捨てておりましたが、

    今日位から現身(うつしみ)に戻りつつあります。




    次の更新まで、良い日をお過ごしください。

    次回も続きの記事になります。
































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    コメントへのお返事 15.      (★姓名判断 3 )      運命と努力について

    Category : 運命学
      吉野山  奥千本西行庵


    西行庵 2






    今回の吉野行きの目的は、西行庵を訪ねる事でした。

    高城山展望台からは、人影が少なく、

    こんな山道を、西行庵まで行くなど、誰も居ないのかしら?

    不安になりながら金峯神社の手前まで登って来ると、

    鈴なりの人達が、神社前で群れになっていました。

    門前色を成すとは、この事かと、、、

    バスで登って来た観光客の群れでした。

    そこからは、数珠つなぎの人の群れに混じって奥千本への道中です。

    西行庵は人気のあるスポットのようでした。




    奥千本 へ降りる山道から  桜の木がまばら、、、急斜面の切り株の痕
     


    奥千本




    上の写真ですが、

    桜の花越しに見える谷合にも、

    写真の下の方にも、

    地面に散らばっている短く切られた木の断片がありますね。

    これらは「ウメノキゴケ」と云う白いカビの被害で枯れてしまった桜の木を伐採したものです。奥千本は被害が広がっていましたね。

    桜を守る為に地元のボランティアの方々が、

    タワシでカビを幹から落としたり、伐採した桜の枝を持ち帰って

    新たな桜の苗木を育てたりされているそうです。





    実際に西行法師が、

    吉野山のどのあたりに庵を結んだのかは、はっきりしないらしい。

    庵は、上の写真の急勾配を右手の方へ降り切った処、

    谷に臨む南に面した平地にひっそりと建っていました。


    西行庵 1





         とくとくと落つる岩間の苔清水


               くみほすほどもなきすまひかな 



       (苔生した岩の間からとくとくと湧き出ている清水があるのだが

                汲み干す事もない位の一人住まいの我が身よ)


                               伝 西行作




    この「苔清水」と読まれた、西行法師が庵での生活水を得た場所が、

    この庵より東へ100m程進んだ所にあります。

    そこは、西行法師や彼を慕う松尾芭蕉が歌や句に読んだ処で、

    歌碑があります。 



    庵の前にある谷側の桜の木の下で、庵を正面から眺めていると、

    地元の人である老人が近づいて来て、次のような話をしてくれました。


    他国を放浪する法師などは、人間嫌いな人が多いのです。

    西行法師もそうだったのでしょう。

    こんな山奥に庵を結んでと、よくやるなあと思うかもしれませんが、

    逆に、人間嫌い、一人がいい人間だったのですよ。

    普段の生活は庵の裏山に当時あった宿坊で、

    山伏たちと共に起居をしていた西行法師が、

    一人になって歌を詠み、月や自然を味わう為に建てたものです。

    今は、社会の中で会社や組織、家族と云う人間関係をこぼれると、

    ホームレスになって路上生活をするしかないけれど、

    昔の日本は、寺がそう云う人たちを受け入れる場所になっていた。

    諸国を流浪する法師と云うのも、山には山伏、それが町に住めば浪人、

    ほとんどが武士の出です。

    なぜなら、百姓は子供が大勢生まれても、寺へ出すと云う事はしなかった。

    出す金子がないと云う事もあったが、

    子供は歩くようになれば田んぼの働き手になるんだから、

    武士は、決まった食い扶ちの中で、家督は長男だけしか継げないし、

    余った子供は養子に出すか、何かの金子を添えて寺に預けたのですよ。

    寺も、そう云うもので財産を増やし大きくなった面もある。

    その頃の寺は、今の葬式のような事をやっていませんでしたから、

    何もないまま寺に転がり込んだ者は、自分の食い扶ちの為に、

    近在の郷で、死人の出た家の死体を運んだり埋葬をしたりして

    物を貰うような事をやっていた。

    日本人には、仏教の修行者に物を与える=布施をする事が善行だと云う

    教えは広まっていたからです。


    この西行庵も、

    何度も朽ち果て、その度に地元の人達が立て直して来たのです。





    見知らぬ出会いのまま、老人は、そこまで一気に語ってくれました。

    いつもそうなのですが、どこかへ行きますと、

    このような不思議な出会いがあります。  ほっ。

    必要な人と出会えるのは無意識からの守りと、、、感謝しております。



    ★ ------仏教と葬式について少し。


    仏教では、

    お釈迦さまが亡くなった時には在家の人達が葬儀をしたようです。

    日本でも昔から、一般には葬式は儀式化されていませんでした。

    では、今のようになったのは?

    江戸時代からと、はっきりしています。

    理由は、江戸幕府のキリシタン弾圧です。

    自分の家はキリスト教徒ではない証明の為に、

    だれもが、必ずどこかの仏教寺院に所属する檀家制度を設けたのです。

    その宗派への信仰云々から選択をすると云うよりも、近場の寺院へ、

    つまり近在のお寺に、今の役所の住民課、戸籍係を担わせた訳です。

    それが、「宗門人別帳」です。

    幕府は、死の秘蹟と云うキリスト教式葬式と区別をする為に、

    仏教の寺院、僧侶に葬式をやるように命じました。

    そこから、現在の儀式としての葬式仏教ができ上がるのですね。

    当時の仏教界が、時代の政治権力に道具化され、屈し、

    思想としての瑞々しさを失い、制度化し硬直化した姿です。


    ★ ------ついでですから、仏教の歴史的な変遷について簡単に、


    ・もともとインド仏教は、輪廻からの解脱、生者の悟りです。

    故に葬式、墓参の概念はありません。


    仏教が中国へ伝わった時点、中国には儒教が広まっていました。

    儒教自体は、紀元前2Cには、それまで中国人が元々持っていた先祖霊崇拝と云うシャーマニズムを吸収し、それを基盤にした家族理論と政治理論を完成した国家的な学問になっていました。

    その儒教の影響を受けて成立したのが中国仏教です。

    ・中国仏教は、儒教の先祖霊崇拝の思想『孝』を受け入れたのです。


    古代の日本にも、先祖霊崇拝シャーマニズム的土壌がありました。

    中国から伝来した仏教は、日本古来の先祖霊崇拝と融合します。

    ・我々が日本仏教と思って来たものは、

    本来のインド仏教にあったものと、無かったもの -----

    --- 中国の儒教的要素や

    --- 日本古来のシャーマニズム的要素が、

    深く混交融合しているのです。

    従って日本仏教の味は、一番濃厚なはずなのですが?  



    このように、仏教は伝播伝道されて行く度に、

    その国の民族の魂を深く吸収しながら広まって行ったと云えると思います。

    逆説的には、

    仏教は、土着のものを貪欲に吸収咀嚼する深い懐がある

    高度な哲学大系であったと云う事です。

    ここが、土着を切り捨てながら排除するキリスト教とは全く違います。



    さぁ、伝播最終地日本で仏教は葬式仏教のまま死に絶えるのか?

    インド、中国の文化文明を浚(さら)って大きな潮流となった

    仏教の海流が、日本の土壌で新たに薫発発展するのか?

    非常に興味があります。



    ★★ ------ついでですから、現代の思想的現状について簡単に、


    現代は、これら東アジアシャーマニズムに発した宗教圏と

    人間の意識が作り上げた宗教(キリスト教)の激突の結果、

    ご覧の通りの意識的宗教(キリスト教)が生みだした

    近代合理主義の席巻する東アジアになっている現状です。

    人間の意識が作った人工的教義『陽』によって、

    人間を含む自然、命の根源『陰』が排除されているのが現状です。

    これは、このブログで繰り返し記事にしています。

    詳しくは、今後、追々東洋の思想シリーズで、、、


    ーーーーーーーーー













    本論へ入りましょう。






    今日は、前回からのつづきです。


    コメントへのお返事 15    (★姓名判断 3 )  運命と努力について






    今日の一つ目のコメントは、前回からのつづき、

    2012年 10月 16日の記事

    ★姓名判断  緊急!  『陰』を無視した名前は付けてはいけません。
    へいただいたコメントからになります。




    コメントを紹介をします。


    こんにちは、

    暇を見て、お昼休みに一読できました(^^)

    命名は必然な部分が多いようですが・・

    努力の仕様はありますか?   





    努力ですね?

    そうですよね、

    少しでも良ければ、、、と思うのが人情ですから、、、    ほほっ。


    努力は、良い事ですね。

    でも、お尋ねは、もうすでに悪い名前が付いてしまってから、

    それを努力で覆(くつがえ)すような事ができるか? ですね?





    少し、むずかしいですよ!   ほほっ。

    一般的には、

    意識の世界に置いては、努力は無条件に良い事です。

    論ずるまでもない。




    しかし、合理主義的発想に基づいている努力、と云う限りにおいては、

    大いに、、、問題あり、です。

    無意識を無視をした努力、、、と云う限りにおいて問題です。


    なぜなら、

    私達の生の衝動は、意識『陽』から芽生えるものではありません。

    私達の生の衝動とは、意識の奥、何層もの奥、


    意識のもっと奥の無意識から、

    私達のすべての生の衝動は起こっています。 


    私達は、自分の生の衝動によって生命を守られています。

    無意識を無視する意識中心の努力は、

    一時は栄えるように見えても、

    終には、家族を崩壊をさせ、家族、男女の役割を失くし、

    個人を孤人に変えて、社会の生の根源を途絶えさせるからです。

    こう云う混迷した人間のありさまを

    ずっと鑑定の仕事の中で見続けて来ています。

    こう云うのを、是非努力してとお勧めする訳には行かないのです。



    この処を踏まえてか、

    この質問を寄せられたコメントを下さった方は、賢明な方ですね。



    努力の仕様はありますか?   



    仕様はありますか? と、問われています。


    仕様 と言われています!   あはは。


    そうなのです!


    仕様 は、いろいろありますね!   あはは。



    しあわせになる仕様と、

    不幸になる仕様が、あって、

    その間には、しあわせと不幸の間のグラデーションが際限なくあって、

    どこの仕様なのかが問題なのです。




    ややこしい?   あはは。

    この視点から、今日は一つだけ、余り長くなるといけないので、

    このブログの視点から記事にして行きたいと思います。



    問題とは、仕様 次第で努力が実を結ぶどころか、

    不幸の結果の原因になる、不幸を招く事もある。

    そう云う点です。



    それが、特に、

    五感を通して入って来た情報である環境に振り廻わされた場合、

    努力の結果は、もっと不幸になる場合もあります。



    と云う事を覚えておいてくださいね。

    要注意です。

    最後に、出て来ますから -------★◎★の印の処です!




    まず、先に、


    運命的に悪名が付けられた場合に限ってどうするかですが、

    一番簡単に直ぐにできる努力は、改名をする事です。

    この場合、

    戸籍名まで変えるのは家裁を経なければいけないので難しいのですが、

    通り名くらいを変えるのは、直ぐにできます。

    改名は、我々の意識でする事、『陽』ですが、

    自分の意識を通して、名前の数霊、音霊、陰陽、五行などの

    無意識の力を用いると云う事になりますか、、、

    それは、ある時は思っても見なかった効果をもたらす場合もあれば、

    期待通りの運を呼び起こさない場合もあり得ます。

    それは、数霊や音霊や陰陽や五行の認識が不足していたり、

    無知から来るものです。

    改名の効果は、直ぐには表われません。

    使い初めて、『時』が必要です。

    でも、何事も興味があるようだったら、

    ご自分で勉強をして、いろいろ研究をするのも楽しいかも知れない。

    練習ですね!    あはは。


    名 即 体 と云う事が良く分る体験になるでしょう。

    一度、徹底的にどう改名できるか、紙の上でやってみたら分るのですが、

    自分の願う理想的な名前へ改名する事はむずかしいのです。

    あ、これは、専門家がやっても限界はあります。


    まず、姓がすでに限定されていますから、

    苗字まで変えられないでしょう?   あはは。

    その条件下の工夫になる。

    ----- 使える文字が限定されます。

    苗字の画数とバランスが取れる漢字と云うのも制限されます。

    苗字の画数に合う陰陽、五行を持つ漢字も制限されます。

    そこで、少なからず妥協をしながら

    幾らか希望通りの名前の候補を作って挙げてみると、

    その画数や陰陽、五行の何処かかしこに、

    そこが不思議なのですが、

    命式に表われている運命の特徴が見え隠れします。


    これが、名は体を表わす証明です。

    名で体を決して隠し誤魔化す事ができないのがよく分ります。




    例えば、

    結婚運も子供運も弱い、いわゆる家庭運の弱い命式の持ち主とします。

    画数から数霊、音霊、陰陽、五行を調べながら好きな漢字を選んで、

    改名を決めて、これでいい名前ができたわ! と

    最後、もう一度確認をすると気が付かなかった処に、

    孤独運や後家運を表わす数霊や音霊が出て来ているのですね。

    凶運の名前を、その代わりに吉運を表わす名前にしようと

    努力すれど、モグラ叩きの様に、どこかにその運気が出て来ます。

    最終的には、

    それを、多少なりとも妥協しながら決めるしか無くなります。

    命式の運命を全く感じさせない改名は、非常にむずかしいのです。


    例えば、

    松田聖子さんと神田正輝さんの娘、神田沙也加さんですが、

    ・ 彼女の誕生命式からは、

    異性関係の複雑さ、配偶者運の弱さ、孤独性が浮かび上がります。

    それは、裏を返せば、何事も自分一人で為し得る女丈夫の運です。

    同時に、それに耐えうる強さもありますが、

    ・ 姓名判断の大家の先生に命名してもらった名前は、

    すべてが大吉、吉数の数霊で付けられた名前です。

    明らかに社会的に成功をする名前になっていますが、

    家族運は修正できていないままの名付けです。

    決定的なのは、命式で欠けている五行の「水」が、

    名前全体の五行でも欠けているのには驚きでした。

    彼女にとっての「水」は、

    妻とする女性にはあってほしい五行になります。

    神田沙也加と云う名前には、妻としての幸せはないのです。

    姓名判断の大家の先生に付けてもらったのに、、、、、

    この過程、結果を含めた全てが彼女の運命と云う事になります。



    結論から云いますと、

    このように運命学的に先天的な運を示す

    誕生命式の表わす運を変える事は非常に困難です。





    が、しかし、改名の効果はそれなりにあります。

    しないよりは、随分マシなのです。    あはは。




    このように、私たちの誕生日命式を観れば、

    各自の命式の偏りや癖が分かります。

    ここで、もしか、私は命式など分からない! と云う場合ですが、

    一般的な個性、キャラが立つと云うのか、  あは。

    各人の考え方、行動様式、感受性の癖、偏りと解釈下さって結構です。


    命式を知らずに、意識しなくても、

    その癖、及び、偏りを以って我々は独自の生き方をしている訳です。

    いいえ! 私はそう偏ってはいないわ! 

    と云う方もおありかと思いますが、人は何等かの癖を帯びております。

    もちろん、その癖が良い結果になったり、その反対もありますね。


    ここで、何が何でもがむしゃらに努力! と云う場合は、

    その過程で、この癖や偏りが強調されて出て来ます。

    良い癖が強調されるのは、喜ばしい事ですが、

    凶運を招く癖が強調されますと、困った事になりますね。

    まず、自分の運の癖を知る事が、大事になって来ます。


    おのれを知る事の重要性かな?   あはは。


    自分の命式が分らない人でも、

    なんとなく、あまり苦労しないでうまくいく事と、

    苦労も努力もするのにうまくいかない事がある、と

    云うような事は分ると思います。


    命式に具わっている事は、楽に自然にできますが、

    命式に全くない事は、自分ができない事すら気づかない。

    そこが盲点になっているのです。    あはは。


    たとえば、こう云う事もありますね。

    人の集まりの中で、いつの間にか他人の世話を焼いている。

    片や、いつの間にか自分は誰かに面倒を見てもらっている。

    など、人との間での自分の立ち位置などは、

    全部、自分の命式の中に具わっている事なのですね。




    運の癖、偏りは、例えると運命の器に例えられます。


    ◎ 生れ持って出て来た運命の器は、変える事ができません。


    ◎ これは、無意識の領域に根「因」があるものですから

    意識では変えられない。



    意識でする努力では変えられません。


    この根「因」は、五感では掴む事はできません。





    ◎ その根「因」が、この意識世界へ現れたのが花実「果」です。

    この花実「果」が、五感で捉えられる我々の姿です。



    我々が、お互いに五感で捉えている姿は、花実の部分です。

    これが、千差万別の現象の姿です。

    つまりは、運命の器に盛った中身の部分です。


    この中味の部分は、努力で変える事が出来ます。





    例えば、運命は、

    大きさ、深さ、色、質などが違うさまざまな器だと思ってください。


    仮に、器を綺麗な焼き物の壺としましょう。

    この綺麗な焼き物の壺を、ガラスの瓶に変えられません。

    しかし、この壺に何を入れるのか?

    中味を変える事はできます。


    清水で満たすのか?  雨水を貯めて置くのか?

    青い液体を入れるのか? 牛乳を入れるのか?

    う~ん! 雨水とお酒を混ぜたものを入れてしまったら?

    メチャクチャです。。。

    あ、いつもきれいな水を入れて花を活けましょうか?


    これは、心掛け、努力で出来る事です!





    そして、誰だって、一番手っ取り早く変えているのは ?

    外見的には髪形、お化粧、服装、アクセサリー、体型、

    学歴、職業、、、意識で努力をする部分です。

    人間は、もうすでにあらゆる努力をしています。   あはは。


    現代の文化は、ここに集中していますね。


    おまけに、我々は、普段、この姿をすべてと思っているので、

    意識で捉えられるこの姿を変えれば、運命を変えられると!

    そう思っている人は多いですね。     ほほっ。


    でも、これらは、どちらかと云うと環境に振り回された努力です。

    そして、その成果も五感で確かめたり、確認できる。

    特に、この近代合理主義の思潮の中では、

    皆が、個性を尊重すると云いながら、

    横並びに、皆と同じ姿になる為に、

    自分の個性を埋没させる事が変身だって云う場合もある。。 。

    学生時代の服装から、リクルート服になる事が努力、

    大人になれば、世界中で大量生産されている服を買って、

    大工場で大量生産で作られた加工食品を便利だって食べて、

    大量生産で効率を追求した車や家具、家に住んで、

    だいたい同じ幸せの形を求めて生きるようになってしまいます。

    我々は、選択の幅が狭まった効率化のしわ寄せの文明の檻の中で、

    自分の幸せを見つけるように飼育されたモルモットのようです。

    画一化の波に乗れないなら、不幸せなのだ~~!

    と思い込むように支配、仕向けられています。

    我々の消費行動が、国の経済指標を担っているのですから、

    さぁ、お金を使いなさい! 効率こそが美しく、

    消費こそがしあわせへの方途! 

    と刷り込まれているような時代です。



    地球が、もう、限界が来ていると云うのに、、、

    物をもっと浪費する為に消費しろと?!




    我々は、経済学のシナリオの中で、

    演ずるように期待されている大勢のエキストラです。

    その他大勢の群衆の役割を演ずるのですね?

    セリフは?   消費こそが楽しい! ですって、 あはは。

    買い物こそが人生よ!  ですって、

    お仕着せのしあわせの衣装を着せられて、、、、、なんと、


    -------------------- ああ、なんとお節介な時代なのでしょう。





    -------★◎★





    今の文明の中で、求められている努力が、  

    私たちが真にしあわせになる為の努力なのでしょうか ?


    と、、、ハタと考え込んでみてくださいね。  あはは。







    さて、最後に、丁度、この記事の締めくくりにぴったりな感じの

    コメントを紹介致します。

    鍵コメントですが、公開を致します。  ご了解を下さい!


    前回の記事にいただいたほやほやのコメントです。

    皆さまがお読みになっていただいて、どうお感じになられるか、

    とっても興味が、あります。

    よろしければ、お知らせください!   ほほっ。



    先日、身の回りの草花や動物を眺めてふと思ったのですが、

    彼ら程自分を見失わずに、

    ありのままで天寿を全うしているものはないと感じます。。


    猫は飛ぶ鳥をみて「自分も」とか、「こうなりたい!」とか思いませんよね、

    花とて隣のコスモスが綺麗といって真似をする草花ってありませんよね....

    振り回されているのは現代人だけなのかもしれませんね。

    そんな意味で、動植物に頭が下がる思いです。 

    江戸時代の人々は、ありのままの自分の徳分や身の丈に

    心から納得して生きていたと思います、

    お百姓さんが机に向かって勉強し「江戸さ行って役人様になるだ!」と

    言ったら皆から笑われたと思います。(笑) 

    現代のように経済の為に皆、同じ道を無理矢理選び、

    意志による自己実現をするのが大人だなんて...

    当時は皆が生き生きとしていたのではないでしょうか。

    何だか、江戸時代にタイムスリップしたい気分になりました。。(笑)





    率直な真っ直ぐな感受性を感じましたよ!

    コメント、ありがとうございます。

    このように、自然の有りようから一片の真理を感じ取るのを、

    仏法では、縁覚(えんかく)と言います。

    自然の一縁に触れて、その一理を悟ると云うような意味です。

    なかなか位が上の方で、上から仏、菩薩、縁覚となっています。

    もっと深い意味があるのですが、今日はここまで!   あはは。


    又、機会があれば、お講義致しますね。      ほほっ。


    そう、あなたがお感じになられた似たような事を、

    私もよく思案致します。

    深山渓谷とまではいかなくとも、山へ登るたびに、

    普段は尋ねる人もいない山道に沿って咲いている花々を見るたびに

    誰に見られなくとも精一杯の自分を咲かせている植物を見ると

    感動に近いモノをいつも心に抱いて帰路に着きます。

    それら、植物の成功の鍵は、ただ『時』に従って生きる事です。

    ただ『時』に従う事だけを喜びにしているかのように、

    『時』に自分をゆだねて生きる様は、「木」の徳そのものです。

    『天』からの「火」と「水」、「土」の中の「金」、

    そのバランスの中庸の中に「木」の命はあるのですね。

    何かが欠けても、「木」は枯れてしまいますから、

    その事に感謝をして、芽吹いては花を咲かせ、土へ死して行く

    見事な命の生死、一生だと感動を覚えます。

    私もかくありたいと思っている一人です。


    それと、もうひとつ、

    山奥では、突風や嵐の後、本当に大きな高い木が倒れています。

    もう、あちらこちら、にです。

    短い根を露わに出して、根こそぎです!

    こんな大木なのに、こんなにみみっちい根だったの?

    なんと惨めな?    あはは。

    小さな木は倒れる事はないのですよ。

    根の力以上に幹が大きくなっていないから、倒れないのです。

    木は周りの養分を吸って大きくなった木ほど、倒れるそうです。

    自分の根にふさわしくない背丈と枝葉を伸ばし過ぎるからですって、

    そして、山のガイドさんが云う事には、

    大きな木が倒れるといい事があるっていうのです。

    周りの小さな木に日が当たるようになり、

    幾本もの木が救われるって言うのです。

    これが、自然淘汰。

    強きものは、いつまでも強くは無いのです。

    弱きものへも恵みは廻り、必ず、文字通り、日は当たるのです。

    こうして森は継続され、木々は伸びて行くのです。

    自然に反して、大木をなんとか保とうとするのは人の浅智恵。

    自然は、そうは望んでいないのですね。

    人間の欲で自然のリズムを犯す処から、自然のリズムが狂い、

    自然が壊れて来るのです。

    そう云う機智に触れて、真実を知るのも山の楽しみです。




    何が努力なのか、、、

    これを機会に、皆さまもどうか倒れないように、、、あはは。


    努力をし過ぎて、枝葉を伸ばし過ぎて、

    小さな木々に日陰の苦労をさせない為にも、

    自分の分限を知る。

    役割に徹して行きましょうね。



    このシリーズは、この後も続きますが、

    次回は、ひとやすみ、インターバルです。


    コメントへのお返事ではない記事になります。





    次の更新まで、よき日々をお過ごしください。



























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 命式の癖
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    ★ 『 時 』 のダイナミズム        「冥」 と 「顕」 

    Category : 運命学
          新年あけましておめでとうございます       2014年


          2014 しめ縄


                       今年も 宜しくお願い致します。                         
                      寂光-cosmos






    今年初めての記事は、『時』を扱ってみようと思います。



    ★ 『 時 』 のダイナミズム   「冥」と「顕」 







    もぉ~い~くつ寝るとおしょう~が~つ~

    と云うお正月の歌がありますが、

    私たちは、どこか、サンタクロースが煙突からやって来るように、

    お正月が、どこかからやって来ると思っている処がありますね? あは。




    もう幾つ寝ると、お正月の日が巡って来るのだろう?


    この主語は、「もういくつ寝ると」= 『時』なのです。




    『時』が我々の前で、現象に幕を引いたり、開けたりします。



    それが意識に映るのが、「冥」、「顕」です。



    「冥」とは?  


    暗い。見えない。知らず知らずのうち。

    ものごとが、はっきりとした形になる前の状態。



    「顕」とは?


    明示。はっきりとした外見。

    ものごとの実在、存在が、姿形を伴った表現化、具体化。




    もしか仮に、「冥」が、「無」であり、

    「顕」が、「有」であるとなれば、こんな簡単な事はないのですが!?

    そう云う意味ではないのです。


    「無」と「有」の二元論は、無意識を知らない意識のキャパ、テリトリーに

    おける概念であって、近代に至る西洋哲学の狭い概念ですね。

    この奥が、東洋の領域、東洋の神秘が広がっています。

    西洋哲学の追従を許さない処なのです。      ほほほっ。




    「冥」と云えば、見えないから無いのかと云えば、無いのではない。

    有るけれど見えないだけなのです。



    「顕」と云えば、見えるから有るのかと云えば、有るのでもない。

    見えるのは、一時的な現象そのものであって、本質はそこには無い。 




    つまり、「冥」と「顕」を知らなければ、本質は分らない。

    「有る」も「無い」も、『陽』の偽(うそ)でしかありません。


    つまりは、西洋哲学では真実を見極める事はできない。と言えるでしょう。





    『陽』は偽(うそ)と云う事を例えれば、

    意識・五感から見た大空にある雲を、思ってください。


    大空に雲は見えます。「顕」です。

    では、有るのかと云えば雲と云う現象は一時も同じではありません。


    そして、必ず消えて無くなる。 「冥」です。

    では、無くなってしまったのかと云うと、そうではなく、

    雲を現象化していた水蒸気や天空のエネルギーは、

    そのまま、形を変えて、この現象界のどこかに有るのです。 

    無ではありません。

    ひょっとして、雨となって地上に降って、木々を潤したのかも知れません。

    これが、運命学の五行学における(水生木・すいしょうもく)、

    水が木を生む。 水が木を生じる。

    水から木へのエネルギー転換です。


    これを相生(そうしょう)の関係と云います。


    この世に、エネルギーとして存在しています。

    木々を潤した水は、池に溜り、翌朝の水蒸気の上昇となって、

    また再び、雲になり大空へ上昇するのです。


    五行には、その逆、

    相剋(そうこく)の関係もあります。


    これらについては、今回は省きますが、又、いつか、、、



    ここで、頭に残しておいて欲しい事は、

    未来を考える上で、

    目で見えるのかどうかと云う事は、さほど重要ではないのです。

    大事な核心は、意識では掴めない事ばかりです。

    すぐに目で見えない処にこそ、宝物は隠されているのです。


    だから、自分の意識・五感で判断した事でも疑ってみて、

    意識中心に、100%物事を決めない方が良いのです。

    自分の意識・五感は、自分を騙す事もありますしね。  ほほっ。

    直感で決めた方が良い場合も多いですね。





    もうひとつ、

    この世は、差別の世界、現象界なのですから、

    みんなに同じお正月が来る訳ではない。

    『時』は、ひとりひとり違ったお正月を運んで来ます。

    『時』が、命を、どう運ぶかは、千差万別。

    各人の命式に表われています。


    あなたのお正月は、どんな『時』でしたか?

    その『時』の中身が、あなたの〝運”そのものなのです。


    我々の心を満たしたものが、ひょっとして不如意なものだったら?

    嘆いたり、悲しんだり、逃げたりする事ではないのです。

    逃げるのは、最悪ですが、、、

    『時』は、次は〝倍返し!”で戻して来ますよ。    ほほっ。


    それは、『時』が、我々に、何かを伝えたくて、気づかせたくて、

    無意識の深層から、我々の意識をノックしているのです。

    それは、あなたの一番の弱点かも知れません。

    でも、

    何なのか? 教えてほしいと無意識へ訊ねてください。

    我々に必ず気付かせてくれます。

    それには、条件があります。

    意識が欲望に強く染まっていない事です。



    無意識は、現実が素直に受け止められる事を期待しているのです。。








    ここからが、運命学の『時』の本論です。




    今のお正月は、

    西洋のカレンダーでの 1月 1日を新年としたもので、

    我々の運命にとって、新たな運気に入る日ではありません。

    運気的には、昨年の12月31日の続き、今は去年の続きです。




    中国や台湾のみならずシンガポールなどの中華圏は、

    西洋式カレンダーの1月1日をお正月とせずに、

    旧暦「太陰太陽暦」を使って、お正月のお祝いをする国柄です。

    これが、春節です。

    横浜や神戸の中華街も、春節のお祭りをやりますね。

    時の節(ふし)を無事に越えたお祭りです。   

    この時の節(ふし)を越える事を節(せつ)入りと謂います。

    なお、旧暦のお正月の日付も、西洋式カレンダーとは無関係です。




    「年」は太陽の運行で決めるとしても、

    西洋式のカレンダーは、時を単なる流れる数字の序列にしました。

    画一的な1日の365回の繰り返しです。

    意識には、、、1日1日が、画一的にしか観えないのですね。 

    その区別を付ける為の1,2,3 と云う順番の月名、

    日も、その何日目かを知る為の1,2,3、、、と云う順序数です。


    まったく、この科学的!な方法は、

    ≪ 東洋の叡智なぞ露知らないままに ≫

    科学的なら最高、正確、とでも云うように表通りを闊歩しています。




    しかし、これは科学的と云うものの本質をよく表わしていて

    よく考えれば、一年を均一で画一的な a day の寄せ集めにしたのです。






    均質化した365個の a day を12個の月と云う缶詰に詰めて、 あはは。

    中味は、都合によって数合わせをして分けただけ、、、 あはは。

    同じラベルでは区別が付かないので12個の缶詰に異なる呼び名を付け、

    ・奇麗で美しい・ ラベルをデザインし貼ったのです。


    ------- 西洋のマニュアルは、ほら! TDLだって、

    意識が満足する様に飾り立てる。 

    意識が反対しない様に、、、こう云うものばかりです。





    我が国は、東洋の叡智を内包する国柄でありながら、

    みすみす『時』のエキスを零(こぼ)して捨てて、

    風味の抜けた滓(カス)ばかりの『時』の抜け殻 a day だけを並べて、、、

    ・奇麗で美しい・ 西洋のカレンダーなどを壁に掛ける。 

    で、いいセンスでしょう?  

    ああ便利になった~    ほほほっ。


    スケジュールで a day を埋めて行けば、 

    なんとなく充実感が? あるような気になる、、、 あはは。

    自分が時を支配しているような気分になる、、、

    あくまで、なんとなく、、、

    気分なのね。   あはは。

    意識ができる事は、せいぜい  想像する。

    いいセンスね。

    なんとなく、ね。   いい気分!   あはは。


    これじゃ、ぜんぜん論理的じゃないわね!

    合理性って、意識(主観)が決めていたのだったっけ?

    そうか、じゃ、こうなるべくしてこうなるのだわ!   あはは。


    そんなもので、全て意識をスルーして、パスさせて、

    こんなに原発を作っちゃったのですよ。

    安全と書いてある、と目で耳で知って、それで安心する程度なの。

    お金が入るって欲を満足すれば、

    これは、好い事だと思ってしまうのでしょうね。  あはは。 

    豊かになれるって! 

    反対する事もないんじゃない?

    国民にこう思わせた政治家が、一番悪人なのでしょうが、

    ----- こうして、

    我々は、戦争を、いつか、又始めるかも知れませんね???



    意識って恐いです。







    ついでに、日本が、暦を一挙に西洋化した事について、


    1873年(明治6年)明治政府は、国民との議論、対話など全くせず、

    急激に太陰太陽暦(天保壬寅暦)を廃し、

    現在の太陽暦(グレゴリウス暦)を正式な暦としました。

    その理由は、翌年が閏月のある年で、

    国の役人へ月給を13回も支給しなくてはならないのを、

    財政難であった明治政府が回避する為だったそうです。

    しかも、改暦発表は、旧暦による「明治6年の暦」の発行後だったとか。

    それを知らされないで旧暦を大量に作った印刷業者は、

    紙屑同然になった暦を捨てるしかなかったそうです。


    詳しくは、ここをご覧になってください。


    今のように、印刷業者の損害を国が補償なんてする訳がないし、    

    そう、国を挙げて、まるで詐欺師まがいの事をしたのですね。

    そう云う点は、日本の国民は大人しくて従順なのですね。

    誰も文句を言わず、黙って従ったのだとか、

    明治政府に、自国の文化を重んじるなんて気風はとんでもない。

    おそらくですが、

    東洋学を御存知なかったのではないでしょうか、、、

    欧米に比べれば、自前の古い物は捨ててしまおう、、、

    それこそが、近代化!? 急げ! 急げ! と焦っていたはずです。

    自尊を失えば、文化を捨てれば、

    民族や国は亡ぶ、と云う認識が全くない御仁ばかりだったのかしら?

    いい加減な国柄で、お恥ずかしい限りです、、、






    実は、


    運命学での新年は、まだ、、、、。



    運命学の新年はいつなのか?と云うと、

    西洋式カレンダーの節分会、

    あの〝鬼は、外~!”の日とほぼ同じ頃、

    今年の運命学の新年の節入りは、正確には 2月 4日午前 7時 3分

    この時点からが、東洋の暦の新年、

    事実上の、(きのえのうま)の年が始まります。


    この日が東洋式運命学の元旦です。 

    どうかお見知りおきくださいませ。


    この新たな年が、我々に、一様に巡り来ますが、

    我々に及ぼすエネルギーは、一様ではありません。





    例えばですが、


    今年の (きのえのうま)と云う干支ですが、

    上の干、(きのえ)は、上にあるので天干(てんかん)と云い、

    『陽』の木を表わします。


    下の支、(うま)は、下にあるので地支(ちし)と云い、

    午は、十二支の中で『陽』の火に当たる干支(えと)です。



    これを合わせれば、

    『陽木』を天に、『陽火』が地にある年になります。




    天に木を、地に火を置けばどうなるか?

    天の木が燃え盛ります。

    火だらけ、炎ばかり、火焔地獄のようです。


    こう云う場合は、火生土と云いまして、火は燃えて焦土と化す。

    焦土とは? 焼け焦げた大地です。

    また、その多すぎる大地は、土剋水(どこくすい)といいまして、

    水を堰き止めてしまいます。

    水の徳は、智です。

    智が、流れなくなる。

    イメージですが、砂漠の様な大地が広がる。


    木は、午の火で燃やされますから、樹木はない。

    『仁』の徳が消えるのですね。


    火が燃えた結果の大量の土が金を生じる。

    土生金(どしょうきん)です。

    金は、財貨とも、武器ともとれます。


    この金は、火焔地獄では、トロトロに熔けますね。

    溶ければ流れます。  どこへ流れるのでしょう。

    この熱い金を冷やし固める水が、ない!

    水がなければ木は生じませんから、火焔だけの大地の上に、

    水が、水がない、、、

    その内、木が無いので燃えるものも無くなり、

    多大な大地だけの上に、金がゴロゴロと晒されている、

    そう云う風景を思い浮かべざるを得ません。



    ほっーー。



    さあ、今年は、どう云う年になるのでしょう?

    個人の年運は、各人の日干支、命式の内容に拠ります。


    このように、東洋的暦は、5種類の五行の陰陽、計10種類を「天」に配し、

    十二支の動物を当てはめた干支(えと)を「地」に配する組み合わせで、

    上下に順に組み合わせる事で毎年の呼び名が決まって来ます。



    一番最初は、十干の一番初めの甲と、十二支の一番初めの子、で甲子。 

    次は、乙丑、丙寅、、、

    こうして組み合わせて行くと、全てで60種類の組み合わせができます。

    一番最後は、、、、癸亥。

    60年で、全ての十干と十二支の組み合わせが一巡します。

    そして、又、最初の甲子へ戻ります。

    ------------- これが、還暦です。


    暦が60年で一巡して、初めの干支へ戻る。

    つまりは、生れた年の干支へ60歳になると戻るのですね。

    そのお祝いが、還暦祝いです。







    運命学では『時』が一番、重要なのです。





    どれほど重要かと云いますと、

    運命学では、『時』においては◯分と云う処まで、正確さを期します。

    根拠は、地球上の全ての命の源である太陽の位置、

    位置と云っても、太陽は動いていないのですよ、、、   ほほっ。。

    動いているのは、地球の方です。      ほほっ。


    仮に太陽が動いているとして天体上に定めた太陽の通る道 = 黄道、

    太陽の黄道上の正確な位置を計算で、節入り日を決めます。

    これは、国立天文台の天文観測に従って計算された時間に拠ります。

    計算の結果、◯分と云う端数が出て来るのですね。




    東洋運命学は、*地学と謂われるものそのものなのですね。


    *地学 =  地球の内部,表面,および周辺空間の現象を研究対象とする学問分野。 地球科学とほぼ同じ意義内容です。



    今のように科学が進んでいない3,4000年前において、

    数字を用いないで、仮借形容詞である十二支・十干の漢字を組み合わせ

    60通り(60進法)を完成させていた事は、驚いてしまいます。

    古代文明においては、天文学は今よりも身近であったと思います。


    現代は、天体の星の数、その大きさ、距離を問題にします。

    いかにも意識らしいキャパ、認識のマニュアルです。

    ところが、

    古代では、意識と比較をすれば、それよりも、

    無意識的な、空にある星の意味を探る方へ興味があったのでしょう。

    表記も意義内容を持つ漢字で表しました。

    特に東洋は、表音文字ではなく、表意文字ですから、

    「太陽」と書く方が、丸飲み、それがどう云うものなのか分かります。

    ただし、「太陽」の意味を分るには、

    「太」と「陽」の字の意義を知っておく必要がある。

    漢字を作った人間の方が、知の構造は複雑ですね。    あはは。


    SUNだなんて!   お空の太陽と直ぐに解るかしら?   ほほっ。

    たしかに!  陽光は燦々(サンサン)と謂いますね。   あはは。







    なぜ、細かく◯分まで拘るのか?



    我々の運命を観る命式を作る時に、それは大事なのです。

    我々の誕生年・月・日・時に、太陽がどこに位置していたのか?

    それが根拠になります。


    これは、あなたの誕生年、月、が、

    それぞれの節入り時間の前か、後か、が非常に重要になります。

    だって、それで運命が違って来るのですもの。     ほっ。




    それほど、『時』は重要なのです。



    当然ですが、運命学の今年の新年、2月 4日午前 7時 3分前に、

    生れた赤ちゃんは去年の生まれになります。   巳年生れです。

    巳年の性格、運気を帯びている訳ですね。

    そう云う事で、

    現在の世の中、この地球上は、未だにまだ、癸巳(みずのとのみ)年、

    五黄土星の運気が続いております。

    2月 4日午前 7時 3分まで、まだ予断を許さない時が続いていますのよ。


    五黄土星については、丁度一年前の2013年 1月 27日の記事、


    ★ 合理主義へのアンチテーゼ・東洋の暦   「五黄土星」「二十四節気」

    に詳しく書きましたので、そちらをご覧になってくださいね。





    東洋運命学は、時の学問です。

    『時』は、『天』の運行そのものであり、

    自然宇宙の『陰』の世界にあなたが溜め込んだ「冥」なるものを、

    『天』の道と、『地』の理に沿って、「顕」じます。

    『陽』の現象世界へ現象を「顕」わす力なのです。




    東洋運命学における暦に置いては、

    本来、年も月も日も、あらゆるものが、分単位で、

    一つ一つが意義を持っています。




    しかも、個々人において、その一つ一つの意義は違って来ます。

    命式の内容において、個々人は、本質的に オンリーワンの存在です。





    それを現在の近代合理主義における時と比較すれば、

    西洋とは、考えようによれば、

    本質を削り落とした文化、文明と言えると思います。

    この論は、いつか詳しく記事にしたいと思っています。





    『時』の意味を重要視しなくなり、

    数えるだけの機能に扁平化した西洋式カレンダーは、

    まさに、自然のありのままから隔離した空間で生きる我々が、

    こう云った智恵を失っている証拠物件になると思います。



    智恵の代わりに知識を駆使して、

    居心地のいい空間を実現するのが、現代科学、技術なのだ!   

    最新のテクノロジー、イノベーションに次ぐイノベーション、

    便利な道具を作りだせば、

    人間がしあわせになるとでも思っているようです。

    『陽』とは、分化、枝分かれですから、

    もっと、枝の先端へ行けば、人間は満たされると?

    本気でそう、思っているのでしょうか?    ほほっ。

    余りにも人間を知らない無知、無知過ぎます。



    知識を身に付ければ、ますます無知になるとは?

    これ、いかに?        あはっは。





    『陽』のあらゆる成果で、自然の脅威から我が身を守れると

    信じる近代的自我にすれば、

    こうも、言いたいはずです。


    科学の進歩が人間を守ってくれるのよ。

    自分の好きなしたい事の為には、自然も「時」も、関係ないわ!

    時代のイノベーションを利用すればいいのだし、

    お正月? それをどうするかは、私!

    私がどうしたいのか? 決めるのは私の意識、心だわ!



    あはは。  

    本来なら、しっかりしているのね、とホメてあげたいけれど、、、

    自由と平等を纏(まと)った近代的自我は、

    自分の意識の中にどれだけの快適さがあるのかだけを見ている

    単純さと狂った思い込みに当てられて、ホメる事すら、、、 ほほっ。

    忘れてしまうのです。


    要は、感傷(意識)が飛んでしまっているのです。


    ------- 後で書く空亡時の現象の崩壊、に通じますね。


    余りにも無意識から外れた意識は、意識である事もできなくなる、、、

    枯れた意識とでも云うのでしょうか........。




    近代的自我のペルソナをかぶった自我は、

    自然の移り変わりより、

    時の意味の移り変わる様よりも、

    自分の移り変わる意識が、どう感じているのか?

    その一点だけに関心を置いている。





    TDLが、顧客のありのままの客観性を消す為に、

    鏡を置かないようにしている、共通するサインが観えて来ます。




    我の欲が満たされる事だけに没頭したい意識に取れば、

    自然も、それこそ『時』の意味なんて、煩わしいに違いありません。


    自然も時も、都合で動かそうとしても、

    自我ではどうにもならない物ばかりです。

    自我が、従わざるを得ない客観的事物、本質なのです。




    さあさあ、これで少し、分って来たかな?

    自我の性分が!    ほほほっ。



    これを貫くのが、近代合理主義なのです。






    ----- 自分の意識に貼り付く事は、

    常に、環境に振り回される事だって、

    ここが東洋思想の第一歩なのに、まだ、気が付かないようです。 ------



    ひょっとしたら、アフリカへ住む時にはエアコンを完備して、

    快適室温を保った涼しい部屋で過ごすつもりなのでしょうか?

    もっと、ひょっとして?

    地球上の亜寒帯や亜熱帯は云うに及ばず、

    全ての人類は、快適室温に設定した巨大エアコン付の都市空間の中で

    生きるようになるのでしょうか?

    その快適さを保つ為に、どれだけのエネルギーがいるのか、

    それを享受する為に、北極にも、南極にも海流発電所を作り、

    一番効率が良いと云ってアフリカ中に、

    安倍さんが原発をセールスに行って、

    原子力発電所を林立させるのでしょうか?    こわっ。


    意識の満足を追求したら、地球はどうなってしまうの?




    邪魔臭いものは、無視すればいいのですよね!   ああは。





    ああ、その邪魔臭いものを暦から排除したのが、カレンダーなのだ。






    もっと、自然の『時』を意識しましょう。



    この世の事は、

    私たちの意識だけで、かたちつくるものではありません。

    その事を、現代文明は忘れている。


    それを、我々は、自分の意識でどうにかなるものだと錯覚している。

    自分の意識を全開して目で見て、耳で聞いたものに頼ります。

    他に頼るモノがないからです。

    この五感を意識し、移ろう現象に囚われ過ぎて、

    五感に入って来るものばかり、そればかり気にしているので、

    この『時』や自然の存在自体を、意識しなくなっているのです。

    すっかり忘れてしまっていますね。


    こう云う群衆を騙すのは、簡単だと思います。

    自分の廻りに心地いいものを求めているからです。

    デザインされた・奇麗で美しい・もの。

    それを並べたら、そこに行列を作る群衆です。






    最後に、『時』の威力をお示しします。





    昨年末に、都知事を辞任された猪瀬氏は、

    自分が都知事に就任した一年後に、辞めるようになるとは

    彼の意識は想像だにできなかったはずです。


    彼のカレンダーは、オリンピックまでのスケジュールで

    埋め尽くされていたはずです。

    そのスケジュールを埋め尽くしたとしても、

    彼は、未来の時を、支配していたとは言えないのです。

    意識の認識できる限界は、そこまでなのです。


    御気の毒なのですが、

    彼の命式から分る事を、少し参考にしながら、

    運命学の空亡と云う『時』の怖ろしさを書いてみましょう。


    空亡とは、運命学の暦にある60干支表で、

    自分の生まれ日の日干支の一番下に書かれてある干支の事です。


    猪瀬氏の空亡年は、辰年、巳年でした。

    ドンピシャ、この空亡辰年に都知事に就任。

    前知事の石原氏から禅譲されて、理想的じゃないですか、

    しかも、得票数も、大量でした。

    好事魔多し、とも謂いますが、

    滅びの前の空前のエネルギーの放出、

    しかも空亡に気が付かないなんて、

    自分が、そんな普通じゃない境遇に成れるなんて、

    本来、警戒するべきなのですね。

    でも、そんな、もったいない! って、

    手を出してしまうのが普通、凡人ですよ。

    個人差はありますが、

    空亡年には、本人にとってウットリする様な目くるめく、 あはは。

    まるで蜃気楼のような現実が出現します。

    手に入りそうな状況が出て来るのですね。    ほほっ。

    例えば、欲しかった家よりもっといい家が手に入りそうとか、

    素敵な異性に出会って恋愛関係になれるとか、、、  あはは。

    なにか、得な仕事に誘われて契約をするようになるとか、

    いつも云うのですが、

    空亡時は、飛び付いてはダメなのよ。

    飛び付いた途端、 消えちゃうのね、、、、、、、


    空亡時に手にした成果は、

    まるでゼロに回帰する様に崩れると謂われています。

    ゼロなら、まだマシかも知れません。

    もう、回復不可能な位のダメージを遺してしまう。

    一年前の都知事になったと云う現象など、瞬時に消えます。

    都知事を辞任されたのも、翌年の空亡年、巳年でした。

    すべてが、空亡の期間でケリが付き、

    後には、大穴が空いてしまって、

    特徴的なのは、余りにも見事にゼロになるモノですから、

    感傷が残らないのです。

    そう、狐やタヌキに騙されたような、、、

    しかも、『天』のお裁きによって空亡時に、

    それ以前の悪事が、必ず、ポロッと露見します。

    これは、不思議です。

    何年も盗みを働いていた人が、その人の空亡時にバレます。

    『天』の欲望の清算が行われるのでしょう。

    たしかに、『天』は見ているのです。

    これが、

    空亡時に、欲望の論理で生き得た現象の行く末です。

    くれぐれも、空亡時には、

    蜃気楼の様な夢を掴まないようにしてください。

    無事に過ごそうと思うなら、

    その時は、欲を慎んで捨てるように、、、。

    得や益を、人に喜んで譲ってください。

    徳を積むしか、その時の生き延び方は無いのではないかと思います。

    そもそもが、12年の巡る『時』の中の2年の空亡の意味は、

    10年間の欲の原理に生きた反省と、

    それで手にした成果への感謝です。

    それを知る事、その『時』に従う事、

    10年間、放置していた『陰徳』に徹する時なのです。 ほっ。





    『陰』も知らず、『冥』も知らず、『時』の違いも知らず、

    『陽』の現象界で、欲望の原理に従って、

    意識のキャパのまま、

    平和だ、命の尊厳だ、男女共同参画社会だ、と

    賢げな言葉を広めても、

    それを拾って見て、感動して、声に出して泣いたとしても、

    この世の中は、変りません。

    それらは、冷たいようですが、

    現象は、現象を起しますが、本質まで変らないでしょう。

    五感、意識の感動では、本質は変わりません。

    無意識まで動かす事はできないからです。


    ただ、お金を移動させる?      ほほっ。

    消費活動)の経済効果は、あるのでしょうね。  ほほっ。





    今の近代合理主義の世界は、そう云う状態です。

    お金の儲かる人が楽しい世界です。

    だって、空前の人類開闢以来の地球資源が消費されている

    物質文明の爛熟腐敗! おっとっと!

    あはは。

    余裕がある人は、それらに浮かれるのもいいと思いますよ。  ほほっ。



    『陽』は『偽』ですから、虚無は虚無です。

    元(はじめ)から分っている事、 

    しかし、東洋はその奥です。

    意識の虚無を踏み越えて、奥へ入らなければ分からない。

    奥座敷。  ほっ。。

    東洋の叡智に取っては、意識の虚無こそが当たり前。

    東洋は、その気配を感じさせます。

    しかしなのですが、

    どれもこれもカッコウ付けたがりの権力に利用されたのです。

    その慣れの果てが、残っている。

    我々は、その残滓を眺めている人々です。    ほほっ。


    これから、どうするかですが、






    だから、なぜに、   ほほっ。

    大学院や外国の留学経験がある頭の良い人がたくさんいるのに、

    すべてが関連している現象だって、分からないのか?

    以前書きました、老子の〝科”、

    その〝科”にとどまる頭の良さでは、

    これを救う全体智は、分らないのかも?


    この ”分からない ” と云う言葉自体が、

    『陽』である枝が伸びて伸びてもうこれ以上枝分かれする事ができない

    と云う意味からできた言葉なのです。


    とどのつまり、みんな、枝の先へ行ってしまうのですね。   ほほほっ。

    偉くなりたいから、お金持ちになりたいから、

    人の為になると云う夢を叶えたいから、

    生れて来た生きがいを感じたいから、

    人類の為と、どう聞いてもビッグマウス?  あはは。

    見栄を切った発言が、当たり前のように報道される、、、

    あまり、枝の先へ登っちゃうと折れて落ちますわよ!   ほっほっ。


    正直な処、自分の運命に翻弄されて、

    耐えて生きるだけで一生を送られる方も一杯います。

    それでいいのだと思いますよ。  

    ヒトそれぞれでいいのです。


    『陽』の現象界はビッグマウスさんへお任せして、、、

    全体を見通す役割は、『陰』の役割なのですね。  やっぱり!

    これは、またいつか、脳の機能から説明しようと思います。






    まとめます。





    なぜ、現代は、社会で起こっている問題が、

    すべて関連する事柄なのだと分からないのか?  







    ――― それらを一つに束ねる『陰』を失っているからです。―――





    『陰』は、無いのではないのです。

    『陰』は、意識には「冥」、有るけれど見えないだけです。

    だから、意識のキャパの中で泳いでいるだけでは駄目なのです。

    現象に溢れた環境に、振り回されてオド・オド・踊らされているだけです。



    あはは。



    「顕」・・・・・『陽』の世界へ見える現象化

    「冥」・・・・・『陰』に存在するが、『陽』の世界からは見えない。




    しつこく繰り返しますと、

    この世の人に例えますと、人が生れる事が「顕」。

    いなかった人間が、この現象世界へ顕われるのですから、

    生れたばかりのあなたは、間違いなく赤ん坊でした。    ほほっ。

    それが、20年も立てば大人だし、70年も立てば老人です。

    20才のあなたは? もういない、、、「冥」です。

    人の死は、その人の「冥」です。

    あの世を「冥界」とも謂いますね。

    すべてこうして「冥」は「顕」になり、「顕」は「冥」になります。


    「冥」は、

    人間の意識・五感では見る事ができないと云う事ですね。


    あなたの存在を、「顕」から「冥」へ変化させるのは、なに?

    あなたの意識などでは、ありませんよ!     あはは。

    あなたの欲でもありません!

    あなたを生から死へ運ぶのは、『時』です。



    時が命を運ぶ ----------- 運命




    ここが、近代合理主義下では、


    意識に見えない、分らない死を無視したまま、

    意識にとって、命を生から死へと運ぶ『時』そのものも「冥」ですから、

    意識には、『時』の見えない部分は、

    二元論下では無いのと同じなのです。


    『時』の見えない部分を落としたまま、無いとした。

    それで作ったカレンダーが壁にある。

    とってもウザイって、感じています。






    その『時』の残滓を、

    意識のキャパである計測できる『時』だけを、

    抜き出し、均一化、画一化して、

    扁平に順序数としてカレンダー上に並べたのですね!


    つまり、Timeです。

    「顕」= 計測できる『時』だけを、『時』全体から取り出して、

    これが、『時』のすべてだ! とした。




    つまり、『時』さえも、

    無意識の中へ沈んで見えない部分を無いとしたのです!


    これを、一つのロジック(部分知)と知らずに、真理とした!




    壮大なる意識の大間違い!

    これが、近代合理主義の誤謬の核心です。







    「死」を捨て去った残りの「生」、

    その「生」の主体を意識で割り切ろうとして、割り切った。

    そこから、この誤謬から、すべての捩(ねじ)れが惹起しているのです。






    その捩れを、

    近代合理主義下の「時」の醜さを、真理を隠す邪悪さを、

    壁に掛けてあるカレンダーを見るたびに、

    私の無意識が、ほら! ほら! っと気づかせるので、

    ウザイ! ってなってしまうのですよ。   ほっ。。




    ブログをずっとお読みなってくださって、

    運命学の独習書を学んでいただいている読者の方たちには、

    ちょっとでも共感をしていただけるかな? 

    あなたの運命は、『時』の中に沈められている、、、、、、

    この事を気が付いて、それを読み取って、

    少しは意識の参考になさってくださればと願っています。




    今年も、現代の巷には無いとされている『陰』について、

    小難しい記事を、果てしなく、、、  あはは。

    書いていくつもりでおります。



    どうか、よろしくお願い致します!



    昨年、お約束している老子の『和光同塵』の後半の記事は、

    次回、アップする予定でおります。


    では、次の更新まで、よい毎日を!

    あなた独自の貴重な時を抱きしめて! お過ごしになってください。




    あなたが、あなたの時を大事にする事が、

    あなたが、自分の運命を受け入れた事になるからです。


































    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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