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    東洋的思考、言葉の良さについてです。

    Category : 身近な物質文明
            




         ゆきだるま

                                    ゆきだるま





    おそらく、今年最後の更新になります。
            


    年末の慌ただしい時期、お気に入りの曲です。

    マーラー 交響曲第5番 第四楽章アダージェットを どうぞ~







    今日は、東洋的思考、言葉の良さについてです。

    特に漢字は、とってもアクティブな意味を豊富に含んでいます。


    ごらんのように、西洋文明の分析的、説明的言葉を使って、

    東洋的な言葉の中味を翻訳していたら、

    いつまでもたっても、頭の思考は西洋文明的思考から抜け出られません。

    まず、このフィルターを抜け出る事、その努力をしましょう。


    実際、これは、とても難しいことです。

    しかし、やらなければならないことです。



    なぜなら、西洋文明の理論的、説明的言葉で片がつくほど、

    この世界の存在は単純ではありませんから。 

    英語が得意とする分析した言葉や、知識で、文章に表されて、

    全ての姿が分るほど、宇宙、自然は簡単ではありませんから。



    西洋文明的思考の言葉を繰っているだけでは、

    自然も、人間も、正観(しょうかん)を得られない。

    そう思うようになりました。

    正観とは、仏教用語で、邪観に対する語です。

    中正真実なる悟りを意味します。



    あまりに知識ばかりを駆使しますと、中味が抜けます。 


    間抜けです!


    たしかに、数で表されたら掴みやすいという面もあります。

    単純に的確な言葉で言いえたら、そうっか!と思うこともあります。

    しかし、それは、的確であっても、それそのものではありません。



    仏法では、それそのものを掴むのに、まず、自己のなかにある妄想、偏見、

    いわゆる偏った観方を失くす修行が多くあります。

    説明でもなく、理論でもなく、数でもなく、肯定でもなく、否定でもなく、

    智慧によって、それその物の存在のなかに、一体となると云う事です。



    知識があるということは、

    真実をありのままに掴むことが、難しくなります。

    なぜなら、知識も、説明も、理論も、意識も、

    自分がそれそのものの存在の【外】に在る、という立場です。


    肉薄といった処で【外】です。一体にはなれない。限界の露呈です。



    まず、現代の西洋学問的言葉は、心と体をバラバラに捉えています。

    対象のモノの分析の時に、心が置き去りにされています。

    又、心を分析する時、モノとの関わりが、抜け落ちています。

    決定的なのは、

    心もモノも時間軸で変わっていくと云うことが無視されています。

    だから、学問をしたからといって人格や幸せとは、=にならないのです。

    こころと+からだが=幸せ、とはいかないのですね。


    わが国にある「絵に描いた餅」という表現に似た表現が、

    英語にあります。 「 Pie in the sky 」空にあるパイ、です。

    餅もパイも、理屈や知識のなかにあるのではありません。




    私達の先祖は、141年前まで、

    東洋的な文明、文化の豊穣な知恵を含んだ言葉を使ってきました。

    それで日々の生活、自然との共生を営んできました。

    自己の根がしっかりしていれば、外来文明、外来文化という物を、

    根の栄養として吸収することもできますが、

    現在の日本は、根を断ち切り、根無し草です。

    そして、外来のものを接木しています。


    言葉も、そうです。

    漢字の形は残っても、中味はもう、外来とはい言えない位に蔓延った

    西洋文明、西洋文化の接木の意味に摩り替わっています。

    141年前と比べると母国語の言葉に、力がありません。

    もはや、今生まれてくる子供たちは、この西洋文明や西洋文化を、

    外来とは、受け止めないでしょう。

    自国の当たり前の、『自前』のものとして受け止めるでしょう。

    これからは、『自国の歴史』から学ぶことが重要になりますね。

    自国の文化を、子供のころから何か一つ身に付けると云う事が、

    それには、役立つかもしれません。



    ある時には、知識はカケラですから、

    全体ではありませんから、

    無駄なカケラは捨ててもいいでしょう。 

    捨てる事で救われることも、多いはずです。


    大掃除の時に、捨てればいいものは、多いのに、

    馴れたものは、捨てられません。

    心がどこかにくっ付いているからです。

    物を整理するということは、心の整理ですね。

    心 と、体 は、ひとつの命です。

    西洋文明のおかげで、私達は、そういう観点を失っています。

    失ったおかげで、得たものは、物質の天界です。

    仏教の言葉で、『色界・しきかい』=物質の世界といいます。

    三界(さんがい)の中の一つです。

    三界とは、欲界、色界、無色界のことです。

    くわしくは、省きます。



    ある意味、現代文明はその色界の極みを具現しつつあります。

    今、私達はその色界、物質の天界に居て、命が苦を感じています。

    物質に囲まれて、幸せではありません。

    心を込めているのに、口から発する言葉からも、なぜか、

    物質的なニオイがします。

    今、命が感じたものが、心と体に苦の現象となって現れています。


    私達は、その苦に、立ち向かわなければならないでしょう。

    2010年とは、そういう年の始まりになります。

    逃げてはいけません。


















    みなさま、よき新年を、お迎えください。

    ありがとう---+"*☆★















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    物質文明に犯されていない人々の圧倒的な存在感が印象的です。

    Category : 身近な物質文明




    あけましておめでとうございます





    今年初めての更新です。


    写真家の野町和嘉
    (かずよし)氏を紹介いたします。

    Kazuyoshi Nomachi公式HP

    「人はなぜ祈るのか」





    わたしが、以前京都で、

    野町氏の奥様に会っていた頃、

    サハラ砂漠に行った時の体験を聞いたことがあります。



    「水がないので、牛の尿で手や顔などを洗いました」 


    えーっ!(笑い)

    大丈夫なの !? 

    その当時は、その程度の印象でした。 

    そして、

    くわしく作品を拝見すると云うところまでいかないまま時が経ちました。





    野町氏の作品のテーマは、「人間と祈り」。

    ときどき週刊誌や新聞で取り上げられている氏の作品を見て、

    共感できるテーマに気づきます。




    野町氏は、25歳でアフリカのサハラを旅し、

    過酷な自然に溶け込むように暮す人々に接するうちに、

    彼らが、宗教を大きな支えとして生きていることに気づきます。



    それに魅せられた氏は、以来37年間、

    「人間と祈り」をテーマに、

    イスラム教の聖地メッカの巡礼風景、

    インドのガンジス川など、

    アフリカやアラビア半島、中東など80カ国を取材します。



    神や自然を敬うことで、己を律する、

    ひたむきな人々の世界が、

    そこには広がっています。





    『今の日本人は、宗教から一番遠ざかっている人種ではないか』

    『個人と家族、地域社会の絆を紡いでくれる』



    宗教に潜む力を信じ、

    作品を世に問い続けています。







    『人間と祈り』

    日本が一番失おうとしているもの、 

    それが横溢しているシーンばかりです。

    それは、

    物質文明に犯されていない人々の圧倒的な存在感が印象的です。




    この圧倒的な存在感のある人々の国々においては、

    人口は溢れ、


    物質文明の極みの日本においては、

    少子化に悩んでいます。



    氏の写真のなかには、

    他者と比べて自己を評価する人間は

    いないように見えます。




    この現代において

    物質文明に侵されていない彼らの、


    ありのままに、自己の誇りにひた向きに生きる姿に触れる時、


    過酷な自然と共生しようと、自己を律する人々の内面的な表情が、


    見る人の目を釘付けにしてしまうようです。





    自然とバランスを取り、

    内的に強い誇りを持って生きるということは、

    外面を他者と比べたり、

    虚飾や見栄を張る生き方から遠ざかるようです。





    自然のきびしさに立ち向かう自制心と、


    その恵に守られる畏敬感謝の精神、


    自然に対峙し生延びるセンス、


    伝統的に受け継いだ生きる平衡感覚、


    それらが鈍くなった時に、


    民族の力というものは、


    衰えていくのかもしれません。












    今年も、どうぞよろしくお願いいたします。






























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    安岡正篤記念館にめぐりあいました。

    Category : 身近な物質文明
    安岡正篤記念館

    敷地内の中庭から見る安岡正篤記念館

    (後ろの建物は、国立女性教育会館の宿泊棟)






    前のブログで、

    独立行政法人 国立女性教育会館(NWEC)へ行った事を書きました。 

    その続きでございます。


    不思議なめぐり合わせがありました。







    我ながら、三・才女の作品の講座が目的とは言いながら、

    NWECへ行く気になったのはどうして?

    と現地に着くまで車を運転しながら不審に思いながらの道中でした。



    まず、忙しいのに~~ よくやるって、(笑い)

    多少の無理は構わない! 今回行く事はムダではないわ、、、

    そういう、どこかで自分を支える気持ちがあったのは確かなの。


    それに、講座を申し込んだのが3日前ですから・・・

    ほぼ定員に達している状態で、参加が叶ったのですから・・・


    普段の私の行動基準なのですが、

    自分の気持ちだけでは行動しないのです。自分の欲だけでは動かない。

    そう決めています。

    行きたい所があっても、じっといろんな都合が合うのを待つ訳です。



    その気が体中に、充満するまで何年でも、とことん待ちます。 (笑い)



    その私が、思い立ったように行動したのが、今回です。(笑い)



    何かに引っ張られている? あはは!

    その正体が分りました!!





    NWECの門を目指して、左にハンドルを切った時、


    目に飛び込んできたのは、『安岡正篤記念館』の看板の文字!


    お恥ずかしいのですが、その時までそこに安岡正篤記念館があろうとは、

    知りませんでした!



    「えーっ! ~~~ 」



    と、もう、NWECの門はそっちのけで、

    その横の、看板の見える小道に車を入れていました。

    感動もの~ もう~、信じられなくて、、、(笑い)

    碑文を読んで中へ入ると、白いコンクリートの建物。

    木立の中の建物の中で、集まって勉強中 ? のようなお部屋など、

    そこでお尋ねして、奥へ、2,3の建物の奥に、

    上の写真の、展示室がある瓦屋根の日本家屋が、ありました。





    なにしろ、講座の受付時間が迫っていましたので、外から眺めただけです。



    ゆっくり見るには、今回は時間がなくて、次に又来てと云う事にしました。


    実は、心は、シンポジウムより、どうして此処まで来て、、、

    この記念館を見つけられたのか?という不思議感でいっぱいでした。

    そこで、記念館の案内板の住所、電話の部分を携帯で写真に撮って、

    NWECへ引き返しました。



    なにかの気に包まれて、心の中は満足、、、でした。




    何故、NWECの隣に『安岡正篤記念館』が、あるのか?

    家に帰ってからも、知りたくて、電話で記念館の人に伺いました。






    その歴史のお話を、ご紹介しましょう。




    安岡正篤氏のそれまでのご生涯は、有名です。

    嵐山のこの地へ来られた切っ掛けは、

    昭和6年当時、

    金鶏学院の事業部門として農士学校をつくると云う事になって、

    その費用を前総理の麻生太郎氏の祖父、麻生太吉氏が寄付をした当時の

    お金で10万円・現在の6億円で買った土地ということです。



    この土地は、畠山重信の館跡、本丸菅谷館があった場所で、

    元の広さは、23hもあったそうで、

    現在の『安岡正篤記念館』と、独立行政法人 国立女性教育会館の敷地を

    合わせた部分が当時の地所なのだそうです。



    それを、敗戦でGHQにより学院の解散を命じられ、

    すべての財産は没収され、

    占領政策の後、国から元の土地を払い下げられる時には、

    全てを買い取るだけの財力はなく、

    記念館側としたら現在の地所だけを引き取り、

    その残りを埼玉県側が買い取り、

    そこが、現在、NWECが建っている所です。

    だから、NWECの敷地は、埼玉県が所有をして、

    独立行政法人NWECへ貸しているらしいのです。



    どうりで、両者がまさに隣接しているのですね。




    そういう歴史の場所だったのです。






    ついでに、ご紹介したいのは、


    安岡正篤氏によって存在が主張された3S政策等についてです。




    これは、アメリカ軍が占領政策として、

    日本の大衆の関心を政治に向けさせないようにする為の

    愚民政策のひとつと言われています。




    賢くて? 戦争を起してしまった日本人を、

    今後そうさせない為に、

    愚かなお馬鹿な国民にしてしまおうという策略だった?そうなのです。


    今の日本の社会を覆っている物質文明の根といってもいいかも知れません。




    このカテゴリーを書こうとした時に、いい出発点になりそうです。






    3Sとは? 


    日本を全く骨抜きにする3R、5D政策などと言うのもあります。



    関心がある方は、こちらを、




    ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムについては、

    こちらを 
    ご覧になってください。



    では、また、来週をお楽しみに、


    よき一週間をおすごしください!

































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    物質文明1 身近な物質文明の影 《心と体》

    Category : 身近な物質文明
    吾妻山菜の花

    先週末に登った吾妻山の頂上展望台の菜の花。

    大勢の人で賑わっていました。






    音楽をどうぞ~








    子供の体を育てる時には、食べ

    子供の心を育てる時には、音楽や本の読み聞かせ。


    体というには、を! 

    心には、心を動かすを与えましょう! 

    なにかそういう風に、決めていないでしょうか?



    え、何か気が付かれましたか ? (笑い)


    そう、両方とも、なのですね!

    体を育てるにも、心を育てるにもに頼ってるの?


    物質文明ですね。

    お母さんの心だけで、子供の心には十分ではないですか?



    そして、こういう風に物質と精神を分けて考えるのは、いかにも、

    西洋合理主義の二元論です。




    “モノの時代からココロの時代へ” 


    このスローガンを幾十年の間、何度聞いたことでしょう?



    何時まで経っても、ココロの時代にはならないですね?

    どうして?

    物質文明のパラダイム(認識の枠組み)の中にいる限り、

    心の時代ではない、のです。



    物質文明という【物で人の心・精神が決まる】という時代の思潮の

    枠組みから出るか、その枠を壊さないかぎりは、変らないのです。




    それこそ、それは物質文明の中のココロ編に過ぎないのです。




    物は、物が育てるのでしょうか?

    心は心でしか育てられないのでしょうか?

    こういう風に分けて考えること自体が、私達の持っている力の可能性

    を狭めています。もう、こう考える事を止めなければいけませんね。




    私達は植物を育てる時、何が大事?


    と聞かれれば、作物はと判断

    して、土や肥料や水という物質をすぐに思い起します。

    まさか、私の心を準備しなければと、まっさきに思わないでしょう?


    でも、アメリカインディアンにとっては、

    作物に笛を吹いてあげることが「肥料」だったそうです。実り多く

    なって欲しいために、彼らは畑の作物に笛を吹いて聴かせました。




    現在、青森で、農薬も肥料も使わない自然栽培のリンゴ農家の

    木村秋則さんは、テレビや講演等であまりにも有名な人です。


    一般に林檎は実の収穫までに、農薬を50回は使うと言われます。

    栽培農家の方は、妻が妊娠中だと林檎園に入れないとか聞いた事は

    ありますが、そのように林檎は、無農薬で栽培するのは絶対に

    不可能だといわれてきました。

    木村さんは7~8年苦労した後、

    30年もりんごを自然栽培しています。


    《有機栽培は有機農薬、肥料を使いますが、

    自然栽培は農薬はもちろん、肥料さえ使わないで、草もそのまま、

    自然のままで作物を実らせようとする農業です。》



    最初、木村さんは山のタンポポと自分の畑のタンポポを見比べて、

    山のタンポポの方が元気なことにハッとして、

    木村さんは両方のタンポポの根を掘り返し、

    それぞれの根の量の差に愕然としたそうです。



    肥料を与えない人間の手が加わってない山のタンポポの方が根の

    量が多く、小さな根までしっかり張りきっていました。

    一般の農学の理屈の通りならば、人間の手が入り、肥料を与え、

    農薬を使って害虫から守られたタンポポの方が立派に育つはずです。



    この時、『これは、おかしい! 』 と、

    木村さんは肥料や農薬が、林檎の木を弱くしてだめにしている!!


    と気づかれたのです。

    それから肥料をやめ、農薬をやめたそうです。

    それからが苦労で林檎の木は肥料、農薬がきれた禁断症状を起こし、

    8年もの間、「無収穫」。木村さんには、ご近所からの中傷も、、、。

    7年目、林檎の木の苦しむ姿に、木村さんはリンゴの木に

    これまでの栽培の間違いを謝ってまわったそうです。

    林檎の木に謝る言葉を声かけしているのを近所の人に見られたら、

    又、何を言われるかと気にして、隣に近い林檎の木だけには謝ら

    なかったそうです。



    そうすると、8年目に、謝らなかった林檎の木を除いて、リンゴの樹は

    一斉に花が咲き、実を実らせたのです。

    そのなかで、驚くべきことに、

    近所の目を気にして、謝らなかったリンゴの木たちは、

    全て枯れたそうです。



    『本当に植物は人の心がわかっている、

    作り手の思いやりこそが

    実を実らせる肥料である』とお話されるそうですよ。



    このサクセスストーリーは、自然栽培の農業の人の間で有名です。



    追求を重ねた自然栽培で、

    りんごを実らせたいと言う情熱から出る言葉、

    その底流に流れているリンゴを対等な生命の存在として思う

    木村さんの心、それらがすべて肥料になったという事です。

    なぜなら、いわゆる肥料は全く与えていないのですもの、、、。




    自然のままなら、

    山のリンゴと同じように小さな実しか付けないものを、

    木村さんのりんごは、普通の大きさ、味は深みのある甘いりんごです。


    それに、不思議な事にりんごを二つに切ると、真ん中に

    ある種のまわりの囲みがありません。


    じつは、中央にある種を囲んだあの部分は、リンゴ自身が、農薬や

    異物から種を守ろうとして作るのだそうです。

    木村さんのりんごは、無農薬ですからりんごが種を守ろうとする

    必要がない、だから種を囲む部分がないのです。



    自然というものは、あらゆることに対して、

    自分の種を守るための均衡を求めて変化します。

    それが造化の美です。





    また別な例をあげれば、

    心のさみしさ、嫉妬などが凶悪な事件等の行動の原因や機縁になって

    いるといった事などもあります。





    物と心は生命という存在の次元で一つなのです。


    物は、生命の存在の中で心につながり、

    心は、生命の存在の中で物とつながっています。

    生命という次元では同一の物が、

    現象界では物質と精神とに分かれています。



    何事もそうですが、

    現象だけに囚われたら本質を見抜けません。



    インディアンが作物に笛を吹く、

    木村さんがりんごに語りかける、

    そういった生命と生命との真の触れ合いが、

    心と物の繋がりを教えてくれます。



    これらは、

    今あたりまえに思っている近代合理主義の二元論では、

    説明のつかないものです。

    近代合理主義の二元論は、もうたくさんだと思います。


    この古い二元論の枠組みで不可能だとされ、考えもしなかった

    事実が、枠組みを出ることで可能になります。




    さまざまな問題があふれる中、二元論ではない新しい自然への

    対応の仕方を生活の中で、探っていかなければいけないと思います。

    学問が変わるのを待てないわ~


    庶民が生活レベルから変えるのが本物です。



    そうすれば、生命と生命との真の触れ合いとは?

    新しい物と精神との関係性の構築ですね。

    人と人との関係も。


    普段、当たり前だと思い込んでいるものを、

    疑問に思う事から始めましょう。



    身近な物質文明の影。

    それらに気が付く事、これが幸せへの一歩です・・・




























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    物質文明2  身近な物質文明の影  《言葉の力の剥落)  

    Category : 身近な物質文明

     

    雪高原





    前の記事で、

    子供の心を育てるのもに頼っているの?

    と書きましたら、次のようなメールをいただきました。

    心を心で育てるのには、言葉は要りませんか?




    そうですね。言葉! これは難しく言えば文化の問題ですね。

    心を伝えるのには、言葉は要らないかもしれません。


    でも、親やそれが属している社会の文化を伝えていくのには、

    言葉は大事ですね。

    どういう心を持って生きているのか表すのは言葉ですね。

    特に、母国語の力が重要だと思います。




    ちょっと前ですが、

    俳人の長谷川櫂氏の言葉、次のような記事を新聞で見ました。


    『言葉が記号のようになっている現代。

    しかし、本来、言葉はもっと厚みがあるもの。

    歳時記についての認識を高め、日本文化への知識を広めて欲しい』




    年毎に失われていっている季節感を惜しんで味わう為に、

    日本語の大切さを再認識するために、

    季語の集大成である歳時記の検定試験を、

    4月24日に東京の渋谷・こどもの城で行うそうです。



    これを読んで、

    日本語という母国語の危機を感じている文化人の方も多くいらっしゃ

    るのだと私もほっとした所です。


    人の持っている言葉(母国語)とは、

    どのような国に生まれ、その国のどのような文化の中で育ったのか、

    というその人のアイデンティティーそのものではないか、と思います。


    生れて育った母国の文化のなかの、伝統や守られてきた仕来りや、

    その伝統を作り上げる為に営々と努力し、大昔からそれらに係わった

    先祖や人々の悲しみや喜び、苦労の中から選択してきた価値観、

    そういった全ての「精神・心の歴史」を含んだもの=母国語です。





    命の継承の川上から、受け継いで人々が生きてきた証が言葉である。

    ちゃんと受け継ぎ、現実に生かし、大切に守り、

    そして次世代に受け継いでいかなければならないもの=母国語です。






    私達は、あいうえおの「あ」の音をさりげなく聞いて、覚えて真似ます。


    「あ」の音に含まれる音のイメージ、「あ~」「あぁー」 (笑い)



    私達の先祖が日本列島に住み始めたときから、

    精神のなかで抱き続けてきた「あ」の世界、

    繰り返し、くりかえし、口で発する声を耳で聞きながら、

    私達は、「あ」の音とともにその世界を受け入れます。肉化します。


    大地に両足を広げて立ち、空へ両の手を広げて上げ、

    宇宙に対峙する驚き、感動だったかもしれない「あ」。

    新しい事に期待する、未来が始まる合図だったかもしれない・・・「あ」


    あ、 あぁ、 あした、 あたらしい、 あさ、 あなた、に  あう。





    心と体を分けないで、一つの命と捉える感性で、

    命と日本の自然があわさった言葉。

    口で発して心地よく、耳で聞いて安らかな言葉=母国語です。




    正しい日本語を話しているだけで、

    その音や漢字の綴りから、

    字の形の持つ成り立ちを想像して

    目や口や耳から刺激が脳へ送られ、受け継がれるものが自然に

    伝えられて、日本人として培われていくのでしょう。



    この修養のような期間が、生まれてから青年期に達する頃まで、

    必要です。 その期間は、世界のいろんなものに興味を持つ、

    年代でもあります。 人を母国語に漬け込む時間です。

    それから自我が芽生えて、葛藤し、確立するまでの間、

    母国語の中味を生命に籠めるのに必要な時間です。





    何のために?

    この国で、日本人として、幸せになっていくためにです。



    できれば、この期間、母国語よりも外国語を学ぶ事は避けたいです。

    又、この期間に長期の留学や外国での生活はさせたくありません。

    余ほどの必要がなければね!



    自国の文化の面を重んじたら、そうすることが理想と思います。

    どうして?

    いつか今度詳しく、私の運命鑑定の仕事の中から帰国子女の方達の

    ご相談を通して体験した事を紹介したいと思います。


    中途半端にバイリンガルになった場合、アナウンサーや学者等の

    専門的な職業についた場合は別として、なかなか日本の社会の中で

    居場所を見つけるのは大変な事のようです。

    特に、女性は結婚相手を見つけるのに苦労をしています。

    日本の男性に、きちんとした相手として見てもらえない悩みを、

    抱えている場合が少なくないのです。 大都会の東京でですよ!

    交際の段階で失敗するようです。



    詳しくはまた。




    母国語を通して強い人間としての精神を形成するということよりも、

    確たる目的も持つように指導する事も無いまま

    英語の早期教育が進められている現状は、どうかな?と思います。

    外国語は、あくまでも手段でしかありません。






    外国語を早く習得するメリットは、何? と、

    それをお母様方にお聞きした事があります。

    入試や、将来子供が就職で優位に立つ、とのお答えでしたよ。

    精神より、経済、仕事の便法が優先されているのですね?


    英語を習えば、将来子供が出世ができて楽ができるから。

    恥ずかしげも無く、そう口にしていました、、、

    そういうパンフレットがあって、信じているようでしたよ。

    それを幻想と知らず時流に乗ってしまう。


    精神より物!

    と物に囲まれて育った親の世代は、身につけた方がいい! と

    思うのでしょうか?



    心や、精神には価値を置いていないようです、、、。




    文科省も目先の国としての構えを優先させているようで、

    資本主義という物質文明の枠内での教育論の域を出ていない、、、

    外国語という技術を身に付ける前に、

    その語学力で何をするのかという、目的が語られていないわ~



    本当の国としての『教育論』が語られていない気がします。



    その結果は、母国語の力の剥落です。

    それはそのまま自国を守る意欲、生きる力の剥落です。

    なぜって、思考力は母国語とその体験から出てくる力ですよ。



    これも、物質文明の影が落ちているところです。






























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    テーマ : 英語・英会話学習
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    『時が主役2』     時は、私たちを生から死までいざなう主役ですから、、、

    Category : 身近な物質文明
    林

    5月の尾瀬・林








    自然の音(森の湧き水)をどうぞ!




    前回のつづき、石油の話でしたか? (笑い)


    あ、  時が、主役だというテーマでしたね。



    しかし、人間は、 ”人間が主役だ!”と、勘違いしていませんか?


    そして、

    自分の命を守り抜く為に持たされた自己愛(ナルシシズム)を、

    愚かにも自分の客観世界にまで無理やり押し広げようとしたり、、、

    調子に乗ったり~! (笑い)




    でも、調子がいいのは長くは続かないでしょう。

    臥せるべき自己愛を、世間さまへ広げて悪臭が出てきた頃には、

    時が片付けてしまうのですよ。 あはは!

    時は、劇的に打ち切ったり、目くらましをします。

    失脚するか、忘れられるか、捨てられるのです。


    時は、偏りを嫌いますから。

    バランスのために突然すべてを打ち切るのです。




    そうすると、『自分には力がなくなったぁ~』と人は思うようです。


    人間は、すべてに於いて自分中心の解釈をしますね~


    主役は、あなたではありません。

    あなたの力ではありません。

    主役は、『時』です。

    天が中心です。天の運行であり、

    それが『時』です。すべては、そこから始まっています。

    時を無視すると、自己の思いを遂げられません。

    時を無視すると最後、後悔だけが残ります。

    時は、私たちを生から死までいざなう主役ですから、、、



    空は、大きな空間に水蒸気が集まって雲がある所だというのは、

    物質的な天の概念しか知らぬ、物質論者の言い草です。

    科学が解明した知識が真実を掴んでいるとは思わないでくださいね。




    それと、もうひとつ。

    すべての論拠を、自分に力がある、ない、で言い訳をする。

    悲しいですね。 自分を点数や、力で計る。

    すべて自己に中心を置くからです。





    むかしから、『時』を手に入れたくて人は必死でした。

    それは、勝つ為でした。 『時』を手に入れた人は、強いのです。

    『時』を手に入れるとは、『時』を知るという事でしょうか?

    『時』を中心にすれば『時』を待てます。

    単純に比較できる例として、

    織田信長と徳川家康の違いとでも言えば良いでしょうか?



    今は違いますね。

    天の時を単なる数字の序列、集合に落として無視し、

    物質文明の現代は『時というモノ』も、作為的に作り出します。

    『偽装の時』です。

    都合のいい情報を繰り出して、時を作り出して、なんとか人を乗せて、

    商売をしようと、虎視眈々でしょう? (笑い)


    今は、本当の喜びも、悲しみも、憎しみさえも忘れた麻痺した心で、

    『偽装された時』のために浪費するお金が、社会で一番の大事なものに、

    なっているようです。


    結果は、何のためになっているんだろう? その曖昧さがますます、

    お金自体を私たちの目的にしてしまっているようです。

    それが、物質文明の中に生きるという事なのですね。




    ついに、『お金』を手に入れる事の完成は、利権です。

    利権とは、自然や生命までもが、お金の下になるという事です。

    物欲の渦が巻く中心が、利権です。


    他への分配を拒絶し、物の中央集権構造です。

    それの欲を支配することによって、それを欲しがる人間を支配することです。

    自分以外の人間を、自分の儲けの手段にする。

    今のように、哲学や思想が不在の時代は、このエネルギーが充満します。




    たとえば、

    花粉症の原因も、癌の原因も、実はもう解かっているはずです。

    以前のエイズ薬害事件も、全くそうです。

    解かっていて放置した、、、。

    その数百倍の規模のことが癌や花粉症で起きているはずです。

    画期的な治療法が開発されても、世界中でことごとく潰されています。

    三大療法(手術、放射線、抗ガン剤)以外は、利益にならないからです。

    癌医療には、年間15、6兆円という巨額の利権構造があり、

    だれが、その利権を手放しますか?

    黙っていたらずっと、巨額の利益が転がり込むのですから・・・


    なぜ対症療法から、根本的な治療法へ転換できないのか?

    医療費の増大という問題も根本的に解決できるのに、

    対症療法に頼るという安易な生活習慣を国民に甘んじさせて

    最善の方法があるのに、なぜその方法が取れないのか?


    天を忘れた人間の我欲そのものと、

    それを守る既得権益を握った組織化したエゴが原因です。


    病気で儲けるという意味では、インフルエンザワクチンも同様です。

    ワクチンもまた巨大な利権です。 


    私企業の利権を優遇するために、悪と知って誤った行政判断をする国、

    その被害者へ、裁判で命じられて、またまた賠償金を税金で払う国。

    国が原因を作っておきながら、その償いを国民の税金で済ます。

    政治家と官僚が、国民の税金を餌食にしている構図です。


    口で財政再建と言いながら、実際は国の財政破綻なんて、

    彼らには関係ないのでしょうね。

    哲学と倫理観のなくなった営みは、すべてこういう体たらくです。

    この繰り返しが、これからも続くでしょう。



    病気になったとき化学精製された薬を飲むというのは石油文明の表れです。

    病院で使っている専門の医薬品は別ですが、いわゆる売薬、

    一般の市販薬のほとんどは、本来は必要ないものです。

    本来必要もない『物』が、どうしてこんなに溢れているのだろう?



    ピークオイル以降、今まで、石油に群がっていた利権は、

    次、どこへいくのでしょうか?



    これまで何度も言いましたが、

    これからの変革は、上からは起こりません。

    上は、既得権益、利権に少なからず組み込まれている、

    いや、それそのものの組織が出来上がっているからです。

    一人一人が賢くなる、自立する以外にありません。



     
    最後に、前回の記事にいただいたコメントを紹介させていただきます。


    > いや、このまま自然に逆らって、科学とか経済とかに頼っていたら、

    人間が滅びる時間は急速に縮まる様に思えてなりません。

    人間が増え続けないと立たない経済、

    人間が増え続けるると壊れる地球の自然、

    これを科学の力では解決出来るとは思えませんから・・・

    それよりも、人間が滅びる前に、

    人間の精神が滅びるのではないでしょうか、

    それは、思っているより意外に早く訪れるのかも知れません。

    最近の人間社会は、

    その兆候が見えてるのではないかと思う事が有りますが、

    そんな事は無いのなら良いのですが・・・。





    おっしゃるとおりです。

    石油の代わりの物が、何が出てこようと、

    人間が増え続けないと成立しない経済と、

    人間が増え続けると壊れる地球と枯れる資源。

    この矛盾を、

    今の科学の力では解決出来るとは思えませんね~





    そうなのです。

    皆さんが、気が付いているのか、どうか?

    少子化で経済が成長しないと言いながら、人口を増やさなきゃと言い、

    しかし、その反対で、

    人口増を喜べない地球の現実。

    物質文明を地球上で皆が謳歌しようとすると、

    絶対的に足りない資源。奪い合いの競争が経済の力だなんて、、、!



    石油に代わる『物』では救えないのです。

    『物』で解決を図ろうとする今までの癖に頼る前に、

    ”人間中心の『物』の考え方”を止める事ですね。

    ”自然に存在する『法』に気づいて学ぶ自然中心の考え方”へ、

    自然中心の都合に合わせて人間が変わる『時』なのです。

    『時』は、変わる事を教えてくれています。

    『時』に従い変わらなければ生物は死滅するでしょう。


    自然は、毎時、『時』として、メッセージを与えてくれています。



    その転換がない限り、人間はこの大宇宙に淘汰されて行きます。





    これらが、なぜ運命学に関係するのか? と思われるでしょうが、



    自分が、何を大事と思い、何を中心に生きているのか?

    その人の所に、その心身に見合った

    因縁を持つ子孫が、生まれてくるからです。


    それで子孫の興亡が決まって来る。 

    民族の興亡だって、国だって。

    としか思えない個々の運命命式を毎日、鑑定させていただいているからです。

    今、生れてきた赤ちゃんの運命命式は、未来からの警告書です。



    同じ人間が、生まれて来ているのではないの?

    いいえ、明らかに違って来ています。


    詳しくは、またいつか、記事にしましょう。


























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    テーマ : それでいいのか日本国民
    ジャンル : 政治・経済

            

    『因果応報の源 時間を生きる』1. 「知」と「権力」の共犯関係、 フーコーの言う「生政治」そのものです。

    Category : 身近な物質文明
    尾瀬・大清水  炉端の山女と鹿の肉


    炉端









    テーマ『時が主役』を

         『因果応報の源 時間を生きる』に変えて続きます。



    ★前の記事にいただいたコメントからです。

    ”時は無情に過ぎ去り、全てのものを消し去るもの”だと思っていました。

    新たな時の意味に冷静になっています。

    また新たに変化ですか?秩序ですか?

    次はどんな驚きがあるのか楽しみになっています。




    そうなの、私たちの主観の世界では、

    『時』は苦しみ辛さを癒してくれるモノと映ったり、、、

    時間の残酷さとありがたさと、受け取ったり、、、

    一般的には、時の流れに救われると感じることもあるようです。

    また、この瞬間を記憶に留めて置きたいと望んでも、

    それでも忘却してしまう事を『時』の仕業?

    と思ったりします。


    しかし、これらは、

    直接『時』そのものが働きかける効用ではなく、

    私たちの脳、脳の働き、生命保存の脳が持つ脳力の仕業です。

    それを私たちの意識が、『時』の仕業と感じるのでしょう。


    そのように、

    私たちの認識というものは、まず、

    人間脳のフィルターが、掛かっていて、

    人間脳のフィルターは、個の生命存在を保存する為に有無を言わせぬ

    必死のバランスを常に取ろうとして、

    私達の意識に魔法を掛けるのですね。

    更にその上に、

    個々人の癖のある感情なり、

    その人なりの変化に富むキャラクターという

    フィルターが掛かっているわけですから、

    ”『時』は苦しみ辛さを癒してくれるモノと映ったり、、、”

    というのは、

    まさか! これだけが『時』の本質とは認識していないでしょうが、、、

    『時』に対する人の感情的解釈の一端なのでしょうね~ ほほ。

    これは、

    人間らしい、人の感性の豊かさの表れなのですね。




    ★拍手コメントにいただいたコメントを、もうひとつ、


    現代の女性は、

    働くコトを前提に子育てをすると言う考えが当たり前になっていますよね。

    根本的に、小さな子供を他人に預けて働くという考えを持っていること

    そのものが既に問題の様な気がします。
     



    これは、すこし以前と今とでは、

    子育てに対する認識が、明らかに違って来ているのに

    疑問を持たれたコメントですね~


    本当に、いただいたコメントに同感、共鳴してしまいます~


    今日は、これに拘って記事にしたいと思います。



    ずっと以前、

    子供を育てるには、

    母親以外の人間や保育所に預ける事は良くない!

    どんなに経済的に苦しくても母親は働かないようにして、

    かけがいのない子育ての時期を親子で触れ合って子供を育てましょう。

    と推奨され、それが正しいと言われていたのです。 


    その頃の母親は、

    ある意味必死で自分の手元での子供の世話に拘りました。

    それなのに、どこでどう教育学や育児方法が変更されたのか?

    現代は、母親が働くという事が前提です。

    おかしいなぁ~

    働くと言えば、子供を預ける正当な理由が成り立ち、

    その為の託児所が足りないと、

    正々堂々と、本人だけでなく公共や国が言っています !? 



    ぁー あ、

    最近は子供を保育所へ預けるのに誰も反対しないのね!

    コメントを書いていただいた人のように

    普通に子育てを今までして来た世代の女性たちは、

    コメントのように不審に思って、わだかまりを持つはずです!

    ”保育園に預けるのを当たり前だなんて、おかしくない?” 

    と大勢の訝(いぶかる)る声が、聞こえて来そうです~




    この社会における、

    子供に対する育児観の変遷に、正直、付いていけなくて、

    内面は忸怩たる思いの大人たちも多いことでしょう。


    娘や息子の嫁の、子供(孫)達を

    保育園まで送迎している祖父母の方たちも多いはずです。

    本当に世の中、どうなっているんでしょう!? 

    大家族が助け合って暮らしていた昔の暮らしぶりからすれば、

    核家族の中で、気ままと気楽さを手に入れた代わりに、

    なんと余分な道具立てと、余分なエネルギー、

    余分な努力で周りを巻き込み、

    国も税金を投入するという、、、、!?




    あ・ほ・らしいと思うばかりです・・・・・  



    だって、


    この幼児教育における宗旨替えの主役は何なのだ? 

    ナニのため?

    誰じゃないのよ?  

    主役は人間じゃない、モノですよ!


    おそらく、きっとこの理論付けは、教育畑からではなくて、

    人口統計学、経済畑、その周辺からです!

    ほらね!やっぱり、

    現代を牛耳っているのは経済です。



    お分かりでしょう? 

    子供が主役じゃない。

    子供の為であるはずがない!

    子供は、犠牲者です。 


    もう、今は子供まで生贄に出す。という構図です!



    母親の為でもなく? 

    ええ~! 母親も振り回されている生贄ですよ!



    じゃぁ、、、何の為? 

    社会は何のためにこれだけのエネルギーを、、、

    集めて、集中させて、怒涛の如く流れていくの~?



    この濁流の根源は、物質文明という魔王です。  

    モノこそ・命・の魔王よ! 



    すべてをモノ化して、

    モノの坩堝(るつぼ)に集約していくエネルギーです。

    精神に価値を置かず、

    最終的には自然そのものをモノと認識した延長に、

    人間存在そのものも、モノとして扱っていく。


    恐ろしい魔王!





    私達も、

    ”モノが命よ! ”と認識したら最後、この流れに乗ってしまうわ!

    モノに脅されて、

    哲学や倫理的心を、さげすみ、捨てた民が辿る流れです。




    これが、命の流転というコースです。


    あぁ、日本人は流浪の民になるかもしれない? 




    流れて、転がるように生きる羽目になったのは、

    どうして?



    それは、たぶん、吉田茂。

    65年前、サンフランシスコの彼の地で、

    国が、きっちりした羅針盤を持たずに、

    唯一、経済を頼んで、これからは経済で生きようと、

    モノの為の従属の道を選んだからでしょうね。


    いや、その前にも、、、、、、


    それが、一億総民の流転の始まりとは露知らず、

    その時の為政者が為した結果です。


    吉田氏は、自分の死の前に洗礼を受けて洗礼名を貰った。

    おそらく心中は、ずっと前から神の子であったはずです。

    だから彼は、母国の伝統を軽視できたのでしょうか?

    フリーメイソンの結社の名簿にYOSIDAの名前が、、、、、

    神の御名にかけて、この国を神の国にしたかったのか?

    疑ってしまいます、、、、、、




    それから、65年。

    表面的な物質文明の繁栄?を国民は享受して、

    彼が画策したモノは手にしたけれど、

    他はぜんぜんダメ!!

    精神に大穴が、、、空洞が、、、アイテイル。




    もう、反省するしかないのに、それもできないのね~ 

    最後、人は、

    地に落ちた権威を守って地獄へ行くのだわ!

    65年前の為政者の決断がどうだったのかは、

    『時』が審判を、もうすでに、出しています!


    この日本人の心身共の流転の現実そのものが、、、

    東京裁判の判決文なのではないですか.......?







    最近、

    新築の福祉法人の経営する保育所を見学する機会がありました。

    公的補助の少ない自治体は、経営が大変だから、

    基準ギリギリの設備は、

    お砂場やブランコもないし、裸の土の園庭もなくて~。

    お砂場やブランコがないといけないとか、

    園庭が裸の土でなければいけないとか、

    そういう基準はないようでした。 

    ごぞんちでしたか?


    どうでもいいのですね!

    あれだけ大事だって、幼児教育で言っておきながら、

    お砂場も、ブランコも、なくていいのですね!   あはは。

    子供を入れる建物があれば、いいんだ! 


    保育園は、そんなものでいいのですね・・・




    敷地全部が、コンクリートで覆われて、

    まるで動物園の飼育小屋 じゃないですか?

    砂や土は、玄関や廊下が汚れて管理に手数が掛かるかららしい。。。

    母親が社会へ駆り出されたせいで、

    邪魔になった子供が預けられた居場所として

    期待していた事が見事に裏切られていて、

    やるせない不幸感で、いっぱいになりました。。 。


    これでは、収容所ではないですか。。。 。


    あれだけ大事であったはずのモノが、

    躊躇(とまど)いもなく無くなっている、、、、、、

    暗澹たる思いで、帰って来ました。


    なにかが無残に壊されている。



    「ここは、公的補助が少ないところだから、もう増やす計画はない 」

    これで当然の施設である。  と。

    そう堂々と、、、管理者の言葉です。




    小学校の放課後、児童を預かる児童会の現場も見て来ました。

    殺風景な倉庫のような建物で、狭い!

    一畳に、1、2人が思い思いに床に座り込んでいる窮屈さ!

    まるで難民キャンプのような風景だった、、、


    目まいを感じて。。  

    、、、?




    国が、国の未来を大事にしていない、、、

    この因果応報は、10~20年後に現象化するでしょう。


    今の世は、

    敗戦後の廃墟ではありません。

    廃墟をうろつく孤児ではないでしょう。

    大人は、自分の楽を求めて生きる余裕がある時代にですよ!


    親までが自分の事しか考えていない。


    ”私たちが施設の向上を求めれば、親の負担が増えるだけなのです。”





    帰路の車の中で、率直に、悲しみが、

    どこかで慟哭したい気持ちが込み上げてきました。




    国は、国民の命を道具のように扱う。

    そう云う社会に、いつのまにかしてしまったのですね。

    この事は、敗戦を経て、65年経っても変化がないようです。




    国家が、

    人口減少の穴埋めに、働き手として男の代理を女に求める。

    それは、女から母性を虚勢し、子供からの母の略奪でしかない。

    将来、

    未来に亘る母性の欠如を国家が行っているのです。

    同時に、女性の側の智の欠如=おろかさ、も原因です。




    これは、自然である『天の道』への謀反であり、

    『地の理』が歪められ、その破壊です。


    これで完璧に『人の紀』は乱れ、

    天変地異が起こり、政がうまく実現できない。

    これが東洋の考え方です。


    なぜなら、自然と人は一体であるという思想からです。






    今の世界を覆う現代思想の問題点は、

    政治や経済をリードする哲学が萎え、

    新たな芸術を生み出すべく力ある思想が生まれていない状況下で、

    人間が、経済の手駒になってしまっている。







    その現状は、(政治が生み出す混乱)=

    (近代における「知」と「権力」の共犯関係)を暴き出してきた

    ミシェル・フーコーが晩年、提起した

    「バイオポリティクス(生政治)」そのものですよ。





    その昔、

    国王が持っていた自分の領民に対する生殺与奪の権力が、

    近代に至って革命で王政を倒して出来上がった近代国家に、

    そのまま移行しているという。


    18Cにおける「規律権力」は、まず従順な身体を作り出す為に

    ”監視と処罰というシステムを利用した。”


    19Cになると「生権力」が登場する。

    今度は個人の身体にではなく、

    住民・人口という新たな政治主体に向かって、

    形を変えて、国民を統治する法律として、

    「出生率や死亡率」「健康増進や人口調節」などの

    国民の生存管理に取って変って、



    国民を統治する権力を《生権力》と言うのです。


    それを行うのを《生政治》と言います。


    まさに、行われているのは、《生政治》そのものです。


    それを支えるのは、「社会防衛」の理念に立つ

    精神医学、公衆衛生学、統計学などの学問であり、


    まさにそれらが、

    今の「少子化対策」、「介護保険」、「後期高齢者医療」、「嫌煙権」

    などの施策になっているのです。


    「後期高齢者医療」が国民の大多数に理解されないのは、

    そういう生政治の陰湿さがあるからです。







    裸の国民をまとめて薄暗い牢屋に閉じ込める。

    そう云うイメージです。




    また、法律によって

    脳死体が臓器移植の対象と見なされることを「身体の国有化」と捉え、

    これらの”現代の《生権力》が、

    時に、不穏な相貎をもつ”と云うフーコーの指摘は、当たっています。




    この行き着く先が、

    どういう社会なのかも説明されないまま、

    (おそらく、現政府も何のヴィジョンもないはずです!)

    その道具にされかねない命 !を、

    自分が生むかもしれないという恐怖が、じわじわと、、、、

    女の心の無意識に伝わっている事が、

    少子化へと続く原因のひとつ、

    なのではないか?




    女は、鋭い嗅覚で分っているのかもしれません。

    彼女に突きつけられているのは、

    社会での男性化と家庭での子を産む器械としての役割だと。 




    生めよ! 増やせよ!  どこかで聞いた事がある・・・



    国の制度の為に子供を増やせ? 


    過去は戦争の為だった・・・

    今度は、平時だから、昼間は社会で男と対等に労働をしろ!


    まったく同じじゃないでしょうか?




    どういう顔をして、国はそういう事を言えるのかしら?

    国民は国に対する奴隷だ。 と、

    大国に従属しているポチのような国に言われたくはないわね!!



    《 それが、女の本心かもしれませんね~》



    本当に、国家権力に言われて生みたくはないですね~。

    管理統治されるために生みたくはないですね~。



    その苦しみが聞こえてくるようです。




    女性が子供を生むのは、自然です。

    それに逆らう事はできないけれど、

    ナニの為の子供の命ですか?



    モノの取り合いの争いの道具にするつもりですか?





    今、子供を生んで母になろうとする女性は

    子供が生まれてきて、ナニがしあわせなの? 

    そう考えちゃうでしょうね~





    それでも、いじらしい女性は、国の施策に従順です。

    どこかで洗脳されているのに気がついていないのかも?


    産後1,2ヶ月もしないうちから、認可保育園が一杯なら無認可へ、

    19時までの保育時間しか預かってもらえないなら、

    わが子を19時に保育園から受け取って、

    19時からの預かりがある保育園へ、

    自分の代わりに預け変えてくれるパートを雇ってまでも、

    仕事をがんばってしまう、、、



    子供を荷物の預け変えのように、

    子供をモノとして扱う? 

    子供と対面するのは、深夜ですよ。

    子供は夕食を保育園で食べてきます、、、


    そこまで子供を犠牲にする値打ちが、世の中の仕事にありますか?


    そこまで値打ちのある仕事を、社会は彼女へ任せるのでしょうか?

    足元のしあわせを大事にできなくて、

    他に何を大事にすると?



    この女性の焦りを作り出し、将来に亘る母子関係を混乱させる元凶は、

    「知」と「権力」の共犯関係、

    ミシェル・フーコーの言う「生政治」そのものです。  





    国家というものは、国民のためといいながら、

    国の利害の為には、

    国民の生命を軽んずるのは平気です。


    むしろ、善とする道徳をぶち上げるものです。



    その原理は、敗戦の経緯を経ても変わっていません。
     

    学問の「知の力」を利用しながら立法、行政で国民を翻弄し、

    国家権力で行使するという国家のエゴイズムは不変です。



    今、女性としての本来の生き方を確立するためにも、

    真の主体性の確立が女にとって必要な時です。



    それは、学問の「知」ではなく、東洋学の「智」に依るべきです。

    雑学の「知」ではなく、実学の「智」を、、、





    「智」も持たずに獲物を探しに慌てて外に駆けて出て行ったって、

    大した物は、手に入れられないはずです。

    焦りや、渇望から生まれる飢餓感は、

    餓鬼界のモノを漁る貴女です。

    貴女の心が、ぼろぼろになるだけです。



    雑学をいくら知っても、結果は、”労のみ多く、実少なし”。

    実は、智の中にこそ存在します。



    西洋の知から、東洋の智へ、お戻りください!



    ”慌てる乞食は、貰いが少ない”って?  

    そうならない為に、、、、、、あはは。



    よき一週間を、お過ごしください。
















    参考文献:
           
    「フーコー 生権力と統治生」中山 元(哲学者) 河出書房新社

    「 《生政治》の哲学」 金森 修(東大教授)ミネルヴァ書房


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    敗戦記念日を振り返って   蔓延する相対主義   今を蔽う退廃という雑草

    Category : 身近な物質文明
    上高地の白樺

    上高地・白樺の林


     


    先月、今年の終戦記念日が、ありました。

    おぼえていらっしゃいますね! 

    まだ1ヶ月前のことなのに........

    もう何ヶ月か過ぎたように感じる.........

    過ぎ行く時、の速さを感じています。




    毎年のことですが、

    暑さのピークの時に行われる終戦記念の行事を、

    暑さのせい?(笑い) かどうか?  あはは!

    只、報道や行事を見守るだけで精一杯という精神状態で終わってしまい、

    その間に、

    戦争や平和について深く考える事なく過ごしてしまった後悔の心が、

    いつもこの頃、秋が近づいて涼しくなった頃、

    ああだった、こうだったと、思い出しては、

    これで戦争はなくなるのだろうか?  

    という気持を自分の中で、反芻し始める癖があります。(笑い)





    秋は、人が物思いに耽るような、そうさせる力がありますね。

    夏の激しさの緊張から解き放たれて、

    体中が、ゆるむ、落ち着く時なのでしょう。

    これが、緩急のある四季をめぐる幸せでしょうか、、、



    今回は、前の記事のつづきで、

    私たちの命が、外界の全てのものに有機的に密接につながっている、

    と云うよりも、事実は、本当は一体である!


    その事について書く予定をしていましたが、

    何しろ前置きに書いたように、

    夏の疲れを解さないまま、秋を越せない?!  あはは。


    あの終戦記念日が頭を離れないものですから、

    予定を変更します。

    これは、また次回をおたのしみに・・・









    夏から秋への、わたしの重たい疑問。

    本当に戦争を、解っているの?

    これで、本当に次の戦争を食い止められるの?



    この疑問を、

    今の時点の私のつたない運命学の知恵で、記事にしたいと思います。

    毎年8月15日に、繰り広げられる反戦平和の報道。

    行事と化したイベント。

    過ぎ去る時の中での扱いは、

    スーパーの安売りのイベントとどこが違うの?



    日本における8月15日の終戦記念日!  終戦?

    ”日本人は顔がない” ”はっきり物を言い表さない”と

    よく言われ、

    おだやかに、どっちでもいいみたいな顔をするのが得意ですが、

    戦争に関しては負け。

    負けた事を、はっきりさせるべきでしょうね。

    これは意識的に負けたという自覚がないと、

    本当に立ち直れないです。


    敗戦記念日でしょう?  

    敗戦を終戦だなんて言い変えて、中途半端な!!

    いつもそう思いながら、毎年の8月をやり過ごして来たわけです。



    溢れる報道は、目や耳から入って来ます。

    ”戦争は悲惨だから反対です。

    ””空襲の遺品を見て、苦しくなりました。

    ”””こんな悲惨な事があったらいけない。

    ””””特攻隊の人は、かわいそう~。 (なんと失礼な!)

    祖国を思い命を掛けた気概は、

    今の私達には及びもつかないわ!・・・・・


    今年、印象的だったのが、

    はだしのゲン』の作者であり、

    家族が広島で被爆をして自分だけが生き残った中沢啓治氏が、


    ”未だに、原水爆禁止運動にも参加する気持ちにもならず、

    平和記念公園で被爆者へ祈りをささげる気にもなれない。”

    と、

    原爆やアメリカへ対し、未だにおさまらない憎しみの感情や

    持って行き場のない怒りの表情を抑えながら言っていた事です。


    中沢啓治氏は、もう60代の後半の年齢です。

    氏が携わった一生の仕事の目的が、

    原爆の怖さを訴える漫画を描く事だったからか、

    戦後のプロパガンダに汚されずに、

    現実を誤魔化そうともせずに、

    世の移ろいの流れに妥協していないというのか、

    原爆投下時のそのままの感情を客観的に留め置いている。


    というのか、

    敗戦と原爆が氏のなかで中途半端な処理をされていない。

    被爆のリアルな感覚を持ち続けている稀有な人だ

    という印象でした。



    世の物事を憎む、

    恨む感情を肯定する訳では決してありませんが、、

    非常に、氏の言葉を自然な感情として受け入れる事が、できました。

    奇妙な言い方ですが、

    素直に、

    氏の立場に立って原爆や戦争を憎む感情が出て来たという事です。



    本来は、

    私達、国民は、もっと対戦国に対して、

    赤裸々な心情として、

    あらゆる政治や外交を抜きにして、

    もっと直接的には、原爆を投下した国を、

    市民まで無差別爆撃をした相手国を憎むべきだったのです。

    もっと、怒りに心を熱くするべきだったのです。

    これは、感情に拘るという事ではないですね。


    何が、悪かを、心に刻み込むために!!

    その悪を、あらゆるものから峻別する能力を保持するために、

    悪の正体をはっきりさせるべきなのです。 


    今も、、、

    目の前のパンとは、別次元で、、、、、、



    たとえば、

    未だに韓国や中国が日本に過去の謝罪を求めるように。

    他から、周りからどう思われるかという考慮を捨てて、

    自己の核心を確立する必要があったのです。

    それが、真の意味で過去を今と一体化し、

    未来を今へ引き寄せる事になるからです。


    次へ進む自分自身の為への、”溜”です。

    "陽”から“陰”へのエネルギー転換です。

    そうしないと

    国力の興隆への真の創造性のvividさは、出て来ないからです。




    ”もどき”は、

    あくまでも”もどき”でしかありません。

    リアルな現実の周りをぐるぐる旋回しているだけで、

    幻想の中の国の繁栄でしかないのですから、、、、、





    日本はリアルに生きなかった、、、

    今を見る限り、それは、なかったのです。



    国の道徳や文化が生活レベルで崩れて行っている姿を見る限り、

    真の自国の主体性の為にリアルな選択をしなかったと言えるでしょうね。

    親の過保護のせいで

    足が現実に着いていないモラトリアムなマザコンのように、

    甘えた選択をしてしまった。。 。

    アメリカに抱きついた?!  あはは。




    あまりにも連合国側の3S政策や、

    一連のプロパガンダが成功を奏して、

    日本国民は、

    アメリカに親愛と許しの感情しか持たないようになっています。

    この世界で、

    表面のカッコウ良さだけを選んでうまくやって来たのが、

    日本です。


    友好的な感情だからいいのではないか?

    それは、結果論。   

    あまりにも偽善的ではないですか?

    ぶさいくでも、泥臭くても憎しみを経る必要はあります。

    その姿が、醜くても、

    カッコウが悪くても、

    周りから笑われても、構わないから、

    そういう自分の姿を、

    客観性の世界へさらけ出す事は、絶対に必要なのです。


    中沢氏のように、

    ”被爆を経験した者が、確実に今を生きるという事は、

    これ以上の悪はないという核の世界を乗り越えないと、

    本当の未来はない。”


    被爆で知った悪の力を、全部吸収して、

    その力で悪そのものの存在へ、反撃する体勢を作る為です。

    悪そのもの=アメリカへという事ではありません。

    人間の奥にある悪の根源、それを征服するまで許さない。

    真に悪を叩くという事は、そういう事です。




    ある意味、

    自分自身の未来の実存の証明を賭けた行為になるのでしょうか。

    次の一歩が、また悪の繰り返しにならないように、疑う。

    見張る。 

    中沢啓治氏の眼光は、光ってみえました。


    過去からの今を確認をしないと、戦後をスタートしてはいけないんだ!! 




    実際、

    戦争の感想論、結果論の感想をいくら述べ合っても、

    おセンチなメンタルだけでは、

    次の戦争は食い止められ無い。


    それだけでは、本当に、戦争を無くす事はできないでしょうね。 



    戦争は、また、繰り返される。


    巻き込まれれば、結果は、亡国しかない。

    65年も感想を述べ合って来て、、、、、、、、、


    もう、そこまで、背後まで、

    亡家、亡国は忍び寄って来ていると思います。


    仕事で、亡家の姿を、あまりにも多く見ていますから、、、、、

    亡国も、同じ原理です。

    それが、いつか? という事だけです。

    そして、どう回避するかという事です。


     
    だからこの際、悲しみを追悼するだけではなくて、

    感情は、いろいろ役立てたらどうですか?


    たとえば、悪を憎む高ぶる感情がありますか?

    たとえば、祖国を守る高ぶる感情がありますか?



    今の日本は、”気が済む”文化ですね。

    ただ感じた心の、”気が済む”追求をやっているとしか思えない。




    気が済むだけでは、未来は何も変わらない。

    そう思いませんか?

    気は済まなくてもいい。

    未来の戦争を絶対に止める事ができさえすれば。

    気が済まなくてもいいのです。 

    それが、 ”気の溜 ”なのです。





    戦後、もう十分な時間が過ぎたでしょうから、

    もう、はばかる事なく、

    どうか、戦争の起きた原因論の議論を始めてください。

    それを始めなければ、次の戦争に間に合いませんよ!



    だれが、どこで、間違ったから、

    戦争が始まったのか?

    なぜ、

    間違ったのか追求しなければ、、、



    それには、

    どういう思想が、いつから、どういう影響をしてきたのか、、、

    制度や法律の欠陥はなかったのか、、、

    あれば、それはどこか、、、

    なぜ、そういう法律を作ってしまったのか、、、

    あらゆる角度から、それこそ研究してください!


    その結果を、

    今度は、どういう風に生かすのか、、、

    国がそうだったけれど、国民はどうするのが良かったのか、、、

    良いと思う事が、なぜ、どういう邪魔で、できなかったのか、、、

    人の心は、その時、どう動いてしまうのか、、、



    国は、国で、 個人は個人で、敗戦処理をしなきゃ! 

    今度は、絶対! 巻き込まれたくはないでしょう。



    ほんとうに国はいい加減~!!  

    100歳以上の高齢者の戸籍だって、 いい加減~!!




    家庭だってそうでしょう?

    夫が、仕事を倒産させて、無一文になったと知ったら、

    かわいそうと思いながらも、 

    これからどうするの? と言う前に、

    どうしてこうなったの? と問い詰めるでしょう?   あは。


    夫が、どんなに嫌がったとしても、

    そこを聞かなきゃ、理解できないと、

    ちゃんと話してくれないと離婚だわ! と女房は言いますよ。


    なぜなら、

    最悪の亀裂を避けるために。 

    そこで理解し合って、一緒の足場を作らないと、

    そこから先へ、もう、一緒に進めない。

    そういうものでしょう?


    【今】が、判らないと、この先、信頼関係が築けないからです。




    日本の国は、その時、どうだったのか?




    そういう思いが、8月15日以来、心にあって、

    上田 和哉氏のブログで、出会ったのが、

    米ハーバード大の元教授、

    アーサー・シュレージンガー氏の「アメリカの分裂」


    「記憶を失った個人が、どこにいたか、どこへ行くのかも分からずに、

    まごついて呆然とするのと同様に、

    自らの過去についての観念を持たぬ国民は、

    自分たちの現在を、そして将来をも、処理することができなくなる」




    以前に読んだ記憶を反芻しながら物思いにふけっていましたら、

    秋の真夜中に、

    前の記事に対する次のようなコメントが入って来ました。



    自分の過去を客観視できない者は、

    自分の未来において、”我”の存在を持つことは不可能。

    ”我”の未来は無いと思え。

    果たして日本は自分自身で過去と現在を分かっているのかどうか。

    日本は、瀬戸際ですな。




    不思議なシンクロ(共時性)を感じた訳です。

    この事は、上田氏のブログへも書かせていただきました。


    心は、光のように、すぐさま飛んで行く事ができるのですね。

    どんな物質も通過する、まさに暗黒物質そのもの、みたい。 



    ブラック・マターとは、心を乗せる物質でしょうか? あはは。



    自分の過去を、

    かなしいとか苦しいとかの主観ではなく、

    なぜそうなったのだ? という自然な問いの発露に対して、

    自己の責任においての自分の現実を客観視して、

    答えを出さなければ、

    そこで、自分を見失うという事になる。


    これは、種々の悩みにおける原因においても同様です。

    相談にこられる方のお話のなかで、一番欠けている要素でもあります。


    感情は重要ですが、

    感情を乗り越えた所にあるものがもっと重要です。

    感情は、目的ではなく、頂上へ至る谷間、峠なのでしょうね。 




    自らの過去の整理が正しくできない人は、

    未来に自分自身の存在を積み重ねる事はできない。

    嘘には、嘘が積み重なり、

    欺瞞の”賽の河原”ができます。

    そして、

    本質的な立場において、自己の記憶を失うという事は、

    自分という存在意義を自ら消去するBack space なのです。

    自らの存在を抹殺する事に通じるわけです。 

     


    これは、人間一人の事だけではなく、

    一家も、一族も、国も同じです。

    私の運命学のテーマである、『家系の存亡』そのものです。

    つまり命の消長そのものの姿。 

    原理は、同じです。



    国の過去を、自国の歴史の機軸において、

    厳しく整理、断罪できなければ、

    (つまり、嘘で固めた妥協をして国の魂を、他国へ売った時)

    国を取り囲む環境、周辺諸国から抹消されると云う事になるでしょう。


    この時、周辺諸国を恨んではいけません。

    責任は自国、日本自身にあります。

    日本が自分で自分の位置を瑣末なものだと

    位置づけた道を選んだせいです。



    周りの目というものは、

    本人自身が本人の事をどう自覚し扱っているかを見て、動くのです。



    犬と見たら、犬の扱いをし、

    恐い者と見たら、恐い者の扱いをします。

    自らの誇りを捨て、自分の事がよく判っていない言動をする者に

    対しては、

    私達だって、真正面から相手をしないでしょう?

    ちょっと横に行っててほしい。

    対等な相手にするには無理だってどこかで認識する。


    これは子供だって、解ってます。 





    わが国において、

    自国の機軸を倒し、動かし、筋を通す事を避けて来たから、

    それは、為政者が、国民のひもじさを恐れたからでしょう。

    しかし、これは、『天の道』への反逆、道理への反逆です。

    いくら弁解したって、欺瞞は欺瞞なのよ。


    家族を養う為だって言っても、他人を詐欺すれば許されません。

    善行と悪行は、相殺できないのですから、、、、、




    確かな事は、

    日本の過去の選択は、絶対に自慢できる選択ではなかった。

    事ですよ!

    黒船以来の開国から、数えて幾つ目の間違いなのか?  あはは!



    又、わが国が、反省する事が増えた事は、間違いないわ~

    大きな間違いです!



    間違いを犯した記憶を忘れてしまっていませんか? 





    欺瞞の上に、働けど働けど、努力をすれどすれど、

    暮らしは、一向に豊かになるはずがない!  

    当たり前でしょう! 

    因果応報よ! 

    欺瞞の塗り重ねにふさわしい

    欺瞞の繁栄しか手に入らなかったはずです。




    それより、もっと怖いのは、この繁栄の本質の中で、

    『本気の衰退』が、始まり、『命の退廃』が進んでいったのです。

    (ここの命とは、西洋二元論の精神と肉体です)





    料理に手を抜けば、おいしくない料理ができる。

    当たり前でしょう。


    「本気」がなくても、そこそこのお金や物が手に入る気楽さ、

    人と人との関係も、希薄になり、

    他人にそんなに真剣に本気を出さなくても生きていけるようになった。


    だって、物質文明の魔王が後押ししていますもの~~~!

    色界(物質界)の魔王が、

    人間の心が萎えるのを喜んでいるでしょうね。


    〝皆が、自分の配下へなるのも、もうすぐだ!” と。  
     
    手を叩いて喜んでいることでしょう!  あはは。


    魔王の目的は、あらゆるものの心が萎えた退廃の姿の顕現です。




    歴史を見れば、ローマ帝国をはじめ、物質主義を謳歌した社会は、

    一時の物質の豊かさの繁栄を享受し、傲慢で不遜な享楽を経験した後、

    かならず一転して衰退に向かい、没落、滅亡の運命をたどっています。



    現代の日本が、それらと違うと、誰が言えるの?


    これは、引き止めようが無い、

    個々の思想自体に備わった、思想がその本質を顕現する力学ですから。

    哲学や、思想は、それほど重要な事なの!
     



    今は、その少し手前、


    真理の絶対的な妥当性を認めないいい加減な価値観が大手を振るい、

    人間の認識や評価はすべて相対的であるとする相対主義の台頭を許し、

    なんでも、平等が一番という観念の固定化が、

    人々の心に巣くってしまっています。


    これらの思想は、真の創造的な活力を我々の命から奪って、

    命の底に退廃の雑草が芽を出し、はびこって行きます。

    物質文明の競演のさなか、私達は、思想に鈍感になっています。


    色界の魔王の思う壺だって!


    ほら! 総理大臣が、何が変ったってうれしくないでしょう?

    喜びも、希望も感じない。

    これを、政治の退廃 と言わずして何と言うのか? 


    真の悲しみとは、こういう事を言うのでしょうね。


    ”あたしたち国民も、あの程度なのね。”  そうね、馬鹿なのね。

    そういう悲しみもあります。 (笑い)




    これは、自分の過去を正直に見つめないで、反省をしないで、

    甘えた楽な道を選んで、辛い事を逃げて、乗り越えて来なかった日本の


    罰あたりです。


    楽をしようと思ったら負けです。

    生死を賭けて生きぬく時は、そうしないと後が、立たないのです。

    敗戦の時、日本は良いチャンスを逃しましたね!

    ピンチは、チャンスとは、この事だった。。 のに。




    日本は海洋国家ですから、

    周辺の国からのゴミが海を流れて日本へ辿り着きます。

    それと同じように、

    西洋思想を根底とするこの物質文明は、

    日本の海岸へ、相対主義と退廃の種を漂着させています。

    そして、日本列島を”退廃”の雑草が蔽い尽くしたころ、

    色界の魔王が、天から、凱旋の銅鑼を鳴らしながら、

    大喜びでやって来るでしょう。


    ”おぉ~! わしの配下にするのに142年かかったわい!”



    今、ローマ帝国の人がいないように、その時、日本人はいませんわ。



    みなさま、ご注意を~!  あはは。




    あらゆる出会いに感謝を、

    アメリカへ感謝を、



























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    コメントへのお返事 23.      進歩という幻想     〝 降りてゆく生き方”      

    Category : 身近な物質文明
    涸沢カールの中の赤い屋根の涸沢ヒュッテ 





    karasawa hyutte





    真ん中の赤い屋根が涸沢ヒュッテです。
    夕暮れのような雰囲気ですが、
    ところどころの雲の切れ間に、太陽光が照らしています。
    右上の白い処は、夏を越した雪渓です。


    昨日の午後、到着した時、建物の左端のテラスの上で、
    ヘリコプターが何度もホバリングをして物資を下していましたっけ。



    写真をクリックして、、、、、それをもう一度クリックしてくだされば、
    大きく広がって見えやすくなります!


    2度クリックの拡大版の写真の右側を、ごらんになってください!


    陽が当たって明るい岩場に見える黄や赤や青や白の点々は、
    日本中から集まるアルピニスト達の北アルプス登頂のベースキャンプの
    色とりどりのテントの色です。


    ここが、どれだけ広いか!
    トップシーズンには人口数千人のテント村ができあがります。
    ここは、目の前の穂高連峰へ約2~3時間で登れます。
    陽が当たっている真ん中あたりの建物が、涸沢小屋。






    涸沢カールの名物は、三段((3色)紅葉です。


    1つは、左隅の 雪渓の白、
         夏を越えて秋、冬まで雪渓があり、夏スキーのゲレンデになります。

    2つ目は、紅葉の橙色と、

    3つ目は、樹木の緑を同時期に見る事ができます。


    他の灰色の部分は穂高の岩盤の色そのままがむき出しになっています。






    朝のモルゲンロートに続いて、天気は快晴と言いたいのですが、

    ご覧のように、雲の影が全体にかかっていました、、、。


    この雲が動いてくれますように、、、そう願って降りて来ると、     





    ・ ・ ・ ・ ・ いつもまにか雲が消えて、



    やっと見る事ができた涸沢(からさわ)らしい景色!

    遠くに見えるのが、涸沢小屋。


    涸沢の特徴は、涸沢カール と云う呼び名で有名です。




       晴れ間の 【涸沢ヒュッテのテラス】


    ヒュッテのテラス


            ↑ 中央:涸沢岳/3110m          ↑ 右端:北穂高岳/3106m



    待ち焦がれた青空をバックにした穂高連峰の雄大な自然美と、
    テラスの上でゴチャゴチャとしている私達、人間たちを、、、   ほっ。
    比べてみてください!


    どうでしょう?  どちらが主役?        あは。
    どちらとは敢えて言いませんが、      ほほっ。
    どちらが目障りな存在かお分かりになるでしょう?   ほっほっ。 


    お分かりにならなければ、
    どちらのオーラ-が巨大か?    あは!
    いわずもがな、でございます!


    ウジャウジャとした我々人間が、
    ひたすら穂高岳詣でをしている、
    そう云う構図でございます!   あはは。





    山とは云え、標高もあって高い樹木や土はなく、
    巨岩石の塊をあらわに見せている山肌は、
    170 - 180万年前の破局噴火の時の火山灰由来の穂高安山岩と呼ばれる
    溶結凝灰岩で形成されています。


    この170 - 180万年前 ! 
    地球がどう云う状態だったかと云うと、


    地質時代の区分で、
    更新世(こうしんせい、Pleistocene)の前期、カラブリアンの頃です。


    ヒト族が進化して、
    北京原人、ジャワ原人、ネアンデルタール人の頃、


    氷期と間氷期を繰り返し、地球上で15回の氷期があった頃、
    マンモスなどの大型の哺乳類の絶滅が始まった頃です。


    この170 - 180万年も前からここに居る!  
    今の人間が知る事ができない地球のありさまを知っている!
    という穂高連峰の無言の存在感が放つオーラーが、
    どうしようもなく人間を、細かく見せるのですね!      ほほっ。


    まだ地球に生れて20数年そこそこの若者から年配までの我々人間が、
    精一杯の元気を出し切って登って来て、
    どんなに意気軒昂な勢いがあって数千人が集まった処で、
    うじゃうじゃと云う存在感しかないのでしょう。


    170 - 180万年の存在からは、
    我々はもう、赤ちゃんも同然なのですね!     ほほっ。


    両手両足を使って地面を這い回る赤ちゃんのように、
    ここまで登って来た我われを出迎えてくれたのは、
    御年170 - 180万歳の峻厳なる峰々でした。





    しかし、山は常に温かいのです。
    こうして、何時の時も、詣でて登って来る人間を
    大きな腕(かいな)に抱き取ってくれます。
     




    170 - 180万年前のカラブリアンの頃の
    地球のエネルギーの姿に出逢えた事に、感謝です ! 




    乾杯!  です。









    ------ なんだかんだと申しましても、

    我々人間は、自然に対して完全に平伏すしかないのです。





    言い換えれば、
    自然を、支配する対象としてしか見ない近代合理主義の思潮の中で
    我々の意識が染まった傲慢さ・毒気を落とす為に、
    自然に平伏す我を、確認しに、山へ行っているのかな?     
    と、山への熱が覚めない私などは、こう、思うこの頃です。  ほほっ。




    せせこましい都会の中では、
    人間が巾をきかしていて、  
    あたかも、人間さまが主人公?     ほほっ。
    人間の意識は科学で自然を支配するんだ ! って?   ほっ。 
    電気も、電磁波も、楽で便利な生活を実現している!   ほほっ。
    な~んて、
    心のどこかに近代合理の優越感を持ちながら、     
    我々はおりますけれど、、、、、、、、    あっはは。





    ○o。.。o○ そんな事は幻想だと云う事が分ります。







    火(太陽熱)と水(水蒸気)のもたらす何十年ぶりと云う大雨、
    地球温暖化で年々温度が上昇する海水上昇のエネルギーが、
    今までにない巨大な台風になって、
    我われに向って来ると云うニュースに耳をそばだてています。
     






    『陰』の系列


    宇宙 ----- 自然 ----- いのち ----- と云う『実』に触れて思うのは、


    日ごろの我われは、
    みずからの「生」が、何処に根ざしているのか?
    その足元を見ようともしないで、
    意識に都合の好い幻想で作ったカプセルの中で生きているようです。





    幻想?   


    そう、幻想を幻想と気が付かずに、


    我々は、たった一度の人生を、
    豊かになるために~と云う幻想の中で生きさせられているようです、、、、、


    それが、本当の豊さだったらいいのですが、、、


    生きさせられて?    ほほっ。
    これが、生きると仮にするのならば、のお話ですよ、、、   ほっ。  






    近代合理主義の恐さは、ここです。



    我われは、真っ当に生きている ----------
    そう思っている現状の実相は、『陰』を排除した世界観の中です。






    ○o。.。o○ これは、地球と人間の真の関係から遊離した幻想の世界です。









    ● この近代合理の幻想に生きるかぎり、
    『陰』は無視され実体が無いのですから、
    『実』・命の継承の能力は萎えて行くでしょう。




    『実』とは、あらゆる命の継承です。
    それが、『陰』なのです。  





    それが、現象としての少子化です。


    『陰』を押し除け、経済、経済と伸(の)して来て、
    これが今、アキレス腱になっています。
    あくまでも、< 労働人口減 > などと、
    いかにも経済中心の用語らしい言い方ではないですか?   ほっ。
    経済大明神が社の奥から出て来て慌て出しています。
    経済の神輿をかつぐ人数が足らん!  とか、、、、  ほほっ。


    理由は簡単です。
    『陽』の『偽性』の大過は、『陰』の『実』の消失につながると云う事です。



    あらゆる命の継承がなければ、『陽』は栄える事ができないのです。   
    そんな事も知らないで!    ほほほっ。  

    この事が、『陰』の存在を排除をしている近代合理主義下の優秀な頭脳には、
    思いもよらない事なのです。
    近代合理主義が、『陰』を認めていないバツですよ! 








    本来、国土が生成発展を繰り返し続いて来たように、     
    我々の命も、生成発展を実現するのが『天』『地』の中庸なのです。




    それにもかかわらずに、


    近代国家といわれる西欧の先進国や、
    日本、韓国、カナダと云う近代化優等生の国々には、
    命の継承の危機である少子化の現象が起こっています。
    また、あらゆる命の継承が、この地球上で消失しようとしています。




    これらの危機は、
    『陰』を排除する近代合理主義の『陽』の頂点である現代の学問や
    近代国家の政治からも、
    次のような警鐘が鳴らされています。






    ●1. 植物においては、
    国立環境研究所や九州大などの研究チームが、
    環境省などが1994~1995年、2003~2004年に行った
    植物分布調査のデーターを使い、
    レッドリストで絶滅危惧種と準絶滅危惧種に指定している
    計1618種の植物の自生数の分析をし、
    「 国内に自生する植物が、現在のペースで減少を続けて行けば
    100年後には最大で561種が絶滅をする。」

    と云う予測を発表しました。
    この日本における絶滅のペースは、世界平均より2~3倍早いという。




    ●2. 海の食糧資源である魚も著しく減って来ています。
    今年の6月15日、絶滅危惧種に指定されたウナギは云うにおよばず、
    水産庁は、サバやスケトウダラなど、数が減って来ている魚について、
    新たな漁獲規制を導入する方針を決めました。
    サバは、1970年代は300万トン以上の資源量があったものが、
    2012年には109万トンまで落ち込んでいます。
    スケトウダラは、1990年代初めの1割程度までに落ち込んいます。
    その為、なんと、スケトウダラにおいては、漁獲量を半減させます。


    これは、価格にも影響しそうです。
    サバもスケトウダラも、今は庶民の魚ですが、高級魚になるかも?




    ●3. 東京へ一極集中の結果、地方も東京も滅びると、
    増田前総務大臣の論文が、霞が関で旋風を起こしています。
    その理由は、東京一極集中の為に20~39才の妊娠適齢期の女性が
    地方に居なくなると云うのです。
    若い女性が集まって来る東京では、若い女性は子が産めないと、
    理由は、東京は産んで育てられる環境ではないと云うのです。




    これらの現象は、今、急にこうなったのではありません。
    我々が右肩上がりに< 豊かになった > と、
    みずからを誇らしく語る時代を経て、この結果が出て来たのです。





    振り返って、
    真に日本が< 豊かになった >のは本当だったのでしょうか?        


    あっは!









    東洋4000年の叡智は、こう警告をしてくれています。

    『天』と『地』の間で生きる我々『人』は、
    『天地』との中庸(バランス)を求めて行かなければならない。
    それが、『天地』に守られる『人』たる所以なのです。






    『陽』の旺ずる極みは、衰。



    旺ずるとは、物事の道理よりも我々の欲を中心とする作為が進む事です。

    旺ずるとは、見えない本質より見える姿形に囚われる作為が進む事です。


    つまり、
    根・『実』から離れて枝葉・『方便』が満ちると云う事です。


    枝葉が繁り過ぎると、根はやせ衰えます。


    基本が失われ、応用ばかりが巾を効かせるようになります。


    そのうち、
    『方便』が『実』に取って代わって真理のような顔をします。


    これが、『陽』の『偽性』です。


    『偽性』が『実』を覆い隠します。






    ○o。.。o○ こうなると、全ては幻想でしかありません。







    我われは幻想に取り囲まれ、それを『実』だと勘違いをします。
    こうなると、我われは『実』を面倒と捨て、
    あえて、幻想を『実』と思い込んだ方が、楽なんだって!    あは!


    この面倒さが、ウザイと云う言葉に顕われています。




    『実』を見ないように生きる気楽さを知った我々は、
    見せかけがキレイであれば、何でも気に入ります。
    ファストフード( 待たずに食べられる簡単な食品の事)、
    ファストファション、ファストセックス、ファストウェディング、
    ファスト離婚、ファスト墓地、、、
    すべてが簡略化して、パッ、パッと片づけられるものばかり、、、


    『時』を賭けて『実』を掴もうなんて! ウザイ!
    効率が悪い事を、どうしてやらなくちゃいけないの?
    なんでもいいのよ! 便利に片づけられれば、、、、、



    そして、ついに、お葬式やお墓まで、
    宗教を抜きにしてお金で片をつけるようになってしまった。。 。


    自らの死が、どうでもいいものになる前に、
    食品に化学毒が混ぜられていても平気で食べるようになって、
    あらゆる事でダマされる事に鈍感になっています。




    真実は隠れ、意識に楽な『方便』ばかりが大通りを闊歩しています。
    幻想の外に出られない我々は、ウソを見抜く力を失っています。





    ●1. も ●2. も 現に起こっている現象です。
    ●3. は、これから起こる現象です。



    ●1.  ●2.  ●3. の、原因は、
    『陰』たる地球・自然の与えてくれる資源に対する
    人間の側の欲望の満足を求めるやり過ぎた奪取の結果です。


    ここまで、無慈悲に資源を欲望のままに搾取できるのは、
    地球を人間が支配をする物の世界と観る近代合理主義のせいです。
    近代合理主義と云う意識を中心にした欲望礼讃の思想のせいです。









    植物たちも、魚たちも、『天地』の間で、
    『人』が、その中庸を失っている犠牲になっています。
    植物たちも、魚たちも、自然から転がり出た『人』に警告を発しています。




    幻想都市・東京は、衰しかないのでしょうか?






    我々はどうでしょう?



    『天』『地』の中庸を破壊する
    欲望の論理である近代合理主義に染められた我々は、
    『天』の道を無視をし、『地』の理を破壊し、道理を踏み倒し、
    『天地』の中庸を破り、『天地』の自然から転がり出て、
    どうしようと云うのでしょうか?





    これでは、我々が安心をして住む事ができる自然は無くなるはずです。




    木も火も土も金も水も、その徳性で『人』を守らずに、
    『天地』の道理を忘れた『人』に刃向かって来るはずです。




    木も火も土も金も水も『人』へ刃(やいば)を向け困らせるはずです。









    これは、憎しみで言っているのではないのです。
    これは東洋4000年の叡智の精華です。







    さぁ、今日は、
    近代合理主義のこの世界が、幻想であると気が付いていただきたい。
    その『偽性』のベールを剥がしていただけるような記事にしたい。。。


    そう願いながら、書かせていただきます。
    いつものように、長くなる気配が、、、、、    ほほっ。
    更新の間は十分にありますので、
    何回かに分けて、お読みいただきますようにお願いします。








    涸沢の写真は次回もつづきます。
    上の写真の、 青空に映える穂高の山々、
    そのすそ野にもっと近づいて行って撮った写真を、
    次回は、お見せしましょう。



















    今日の記事は、

    コメントへのお返事 23.
             進歩という幻想 〝 降りてゆく生き方” のススメ       









    “ 降りてゆく生き方 ”については、後ほど記事の中で紹介します。


    まずは、初めに、
    前回の記事に “ 初コメント”をくださった方の
    拍手コメントをご紹介いたします。


    鍵が掛かっておりますが、公開をさせていただきますね。
    ご了承ください!






    おはようございます。
    昨夜は訪問を有難うございました。
    記事を拝読しました。
    言葉を吟味してわかりやすく書かれてありますので、とても助かります。
    親族の悩みのない人は、ほとんどいないのではないかと思います。
    一族の繁栄を考えるならば、誰が継いでもよいのでは?と思いますが、
    財産の相続やその他もろもろのしがらみがあるので、
    争いが絶えないのだと感じます。
    私は無宗教ですが、子供の頃から11歳まで、
    プロテスタントの教会へ通っていました。洗礼は受けていません。
    仏教をはじめたくさんの宗教関係者がおられますが、
    高尚な方もお布施を集めることに必死で、
    市民を上から見てきたことが衰退につながっているような気がしています。
    私はお坊さんが若くして結婚をして丸々と太って、
    バイクや車を乗り回している … という現実がどうしても解せません。
    一度しかない人生ならばそれもありかもしれませんが、
    口では輪廻転生を唱えつつ、ご自分の行動は … (・∇・)?
    と思ってしまうからです。
    けれど、本当に素晴らしいお坊さんが存在するのも事実です。
    文字数が … また来ます。  






    拍手と、コメント、どうもありがとうございました!
    お人柄がうかがえるような丁寧な文章ですね。


    なお、固有名詞のあった一文は、まことに勝手とは思いましたが、
    コメントから割愛をさせていただきました。  ご了承ください!


    コメントの中身は、初めて下さったコメントとは思えない位、
    私が共感を抱かせていただくような内容でした。
    普段から、深く物事を観ておられるのですね。
    次の ①~④ について、お返事をいたします。




    ①  親族の悩みのない人は、ほとんどいないのではないかと思います。  


    そのとおりでございます。
    親族と云うのは、自分の意識が選んだ人たちではありませんの。  ほっ。
    それは、自分の無意識が選んだ人たちです。      ほほっ。


    意識の深い奥、過去の自分の所業に染まった無意識があります。
    ここは、五感(意識)では捉えらえません。
    つまり、意識の理解がおよばないゾーンです。
    だから、意識はなにも知らないのですね!    あはは。


    そこには、過去からの自分の身口意の業が、全部インプットされていて、
    あらゆる事が記憶されているらしいのです。
    そこにある無意識が記憶している情報によって、
    それにピッタシと合う今世の親族を、我々の無意識が選んで生れて来たと
    仏典には書かれています。
    今の瞬間までの自分の所業の反転が、
    いまの自分を取り巻く環境の全てであると、
    過去、現在、未来を説く因果応報の理法そのままであると、


    そう云う事でございます。



    全ての原因は意識ではなく、無意識にあります。
    無意識が種、意識上はそこから生じる枝葉、花実の現象です。
    無意識界にこそ実体があります。



    だからと云っても、今の意識界を軽く思ってはいけませんの。
    今の意識界への取り組みが、次への無意識界へ記憶され、
    次への意識界へ現象化する因になるからです。






    ◆ それなのに、今の思潮は、意識中心にあります。
    無意識界を無いモノとして排除をしています。
    つまり、近代合理主義は、人間の五感に基づく意識を中心にして、
    人間の無意識、神や宗教を排除しています。
    これは西洋での神と人間との事情から起こった事です。
    人間が、キリスト教の神の桎梏から逃げて自由になるのが目的でした。


    キリスト教理に置いては、
    神がこの世界を創った為に大地が中心なのです。
    地球はお皿のようなもの、太陽がその周りを廻っているとされていました。
    天動説です。
    聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述がある為に、
    大地が動くと云う地動説は、神の偉大さを否定する事になる訳です。
    まず、マルティン・ルターがコペルニクス説について、地動説を否定しました。
    ガリレオ・ガリレイも、地動説を唱えた為に迫害されました。
    プロテスタントでも、
    地動説はアイザック・ニュートンの登場まで迫害の対象だったのです。


    西洋の歴史は、
    キリスト教の全知全能の神中心の世界観の中で、
    人間の自我が封殺をされた歴史でした。


    それを、人間の自我意識を、世界認識の起点において、
    神に何の遠慮も無く、 地動説 を主張していこうと、
    この人間の意識の自由の為に、神を削除する事を選んだのです。


    神よりも、人間の意識を中心に据えたのです!


    これが、
    ヨーロッパにおける近代化の土台になったデカルトの言葉

    ” 我想う故に、我在り ”  です。


    しかし、デカルトは、神を完全に削除する事はできなかったのです。
    人間の究極的な存在と知識の基礎を神に求めたのです。
    “ 我想う、、” の我の存在の証明に神の保証を付けた訳です。


    ですから、近代合理主義の成る畑の土壌は、キリスト教理そのまま、
    キリスト教理の自然観、人間観、世界観の上に、
    デカルトは自分の哲学を構築しました。
    ですから、近代化を受け入れると云う事は、
    知らない間に、キリスト教理の自然観、人間観、世界観の中で、
    我われは生きている事になるのです。






    ○o。.。o○ これは、東洋人の我々にとっては、一つの幻想の世界です。









    そして、近代化の本質は、
    キリスト教の神が作ったこの世界で生きて行くのに、
    人間が、神の桎梏から逃れて人間の意識を中心に据えると云う事です。
    非常に、都合の好いロジックですね! 
    そう! まるで子供だましのように、、、、、  あっはあ。


    我ら人間は、神の保障した世界に居るが、
    その神殿には、神ではなく、人間の五感・意識が祀られている訳です。


    これは、当時のスコラ哲学が権威を持つ社会に置いて、
    そのスコラ派と折り合った一つの妥協だったのでしょう。



    この近代化の本質は、
    ここ日本にも、とんでもない影響を与えています。


    どう云う事かと云いますと、
    本来は、クリスチャンではない東洋の我々にとっては、
    キリスト教の神の桎梏など、なんら経験も関係もないにも関わらず、
    神を消去し、人間の意識を中心にした近代化を受け入れる事によって、
    日本人の我々も意識を中心に据えるようになったのと同時に、
    キリスト教の神の部分にあたる -----
    今までの東洋的伝統や宗教から来る倫理、道徳、東洋の叡智などを、
    ----- 完全消去してしまうと云う
    おそらく予想もしていなかった現実を招いた事なのです。
    我々のDNAの中に在る東洋の精髄とも言える無意識の世界を、
    近代合理主義は、根こそぎ濁流で呑込んでしまったのです。


    我々は、それ以来、
    神も仏も、東洋の叡智も、無視をするようになりました。


    無視をしている事すら意識しないで、、、



    西洋にかぶれたから、捨てたのではないのです。
    日本人が軽率だったから、失ったのではないのです。


    近代合理主義を受け入れると云う事が、
    即、それが無意識を無視した幻想の世界への参入だったのです。


    その思想に触れれば、無意識を忘れてしまう、、、
    そう云う仕掛けが近代合理主義にはあると云う事です。


    そして、無意識の価値、普遍性、
    東洋的な徳性と呼ぶような価値観を失って行ったのです。


    その代わりに、近代合理主義の根底を流れるキリスト教思想、
    それが、我々が失った東洋の無意識の価値観と入れ替わりました。


    それが、今、147年経った今、
    我々の血肉となり、血管の中を流れる精髄となっています。


    これは、本当に恐ろしい事です。
    日本に居て、日本語を話しながら、いのちの血潮はキリストです。
    半獣半人というのか、キメラというのか、、
    純粋な東洋は、我々の中には、もう、ないのです。。 。



    そして、日本人は、自分の背骨を失った人形のようです。
    ただただ、我尊しの自分の意識を惜しむ余り、
    家系を無視し、家族を崩壊させ、家庭を創る徳性を失いつつあります。



    これに、どれだけの人が気が付いているでしょうか?



    しかし、近代化以降の欧米に置いては、日本とは状況が違っています。
    欧米の人々の血肉や血液であったキリスト教理は、そのままです。
    近代合理主義下でも残っています。
    なぜなら、
    人間存在を神に保障をさせたデカルト以降の西洋哲学は、
    近代合理主義下でも、その自然観、人間観、世界観は、
    キリスト教理の空間の中に納まっているからです。


    西洋のあらゆる哲学は、キリスト教理からはみ出ていません。


    そこが、完全に東洋的な世界観、自然観、人間観を消去された
    日本とは根本的に違う訳です。
    西洋は昔を温存しています。
    東洋は、過去をすべて断ち切って捨てさせられたのです。


    先の敗戦の東京裁判で軍国主義の思想を捨てさせられた、
    そう云う事よりも、もっと深く長い時間をかけてです。



    ですから、日本人の我々は、個々には心の中で、
    東洋的な心象を持っているつもりかも知れませんが、
    我々が存在すると意識のどこかで、かすかに思っている東洋的な世界は、
    実は、もうない。
    --------- ないのです。


    たしかに、地理的な意味での【アジアの日本】 と云うのは存在します。







    ○o。.。o○ しかし、思想的な意味での東洋の叡智を継承している日本、
           これは、もう、すでに、一つの幻想なのです。







    我われは、今と云う現代を生きながら、
    日本国内の神社仏閣を、少なくともキリスト教よりも身近に感じ、
    それらに母国の歴史や愛着を少なからぬ感じていながら、
    我々の学ぶ教育や、我々が支持をして行かなければならない政治、
    それらはすべて、キリスト教理の哲学の上に築かれた物ばかりです。


    東洋の思想を帯びたものは、ほとんど我々自身の周り、
    我々の意識からも抜け出て行っています。
    自分の意識が東洋的な叡智に染まっていると自信がある人は、
    おそらくそんなにいない。 そう思っています。
    真に、東洋的な思考が身についていると、
    現代の余りな西洋的な二元論やロジック主体のやり方に、
    気分が悪くなってしまうでしょう、、、  あはは。


    我われは、正しいとか正しくないとかではなく、
    現実的な適応力として、近代合理主義的な観方を真似をし身に付けて、
    現実的には、二元論的な観点で物事を処理をしているのです。
    その方が、正しいと、新しいと、カッコイイのだと、
    自らに言い聞かせ、そうするように努力をしてきたはずです。
    それが、時代の思想に染まる、と云う事です。




    この事が、個人の所業になります。
    そして、

    運命自体にかかわって影響を与えます。



    だから、こんなにクドクドと書いているのですよ。  ほほっ。




    ついでに、
    一般的に学問で哲学と云う場合、
    西洋の哲学の事を指します。
    西欧で哲学者が新しい◯◯学派を生んだとして、
    その論理は、あくまでもキリスト教理の範疇での事です。
    西欧に置いては、この世界の中心は、キリスト教の神であり、
    二元論的自然観が真理だと云う大前提があるのです。


    学問が云う処の哲学と云うのは、
    東洋の思想などを哲学には入れていないのです。
    今の地球上で、哲学と云えば、キリストの世界観の上での事、
    近代合理主義下では、哲学、思想とは西欧の独壇場なのです。



    西洋で哲学を学問的に研究をすると云う事は、
    あくまでも、キリスト教の神を中心に据えた世界観の中で、です。
    それを根底に真理とするのが大前提です。
    哲学を学問すると云う事は、その内で考えると云う事なのです。



    西洋の人々は、東洋には思想があるとは思っていないでしょうね。
    仏教の一派、禅が西洋で理解をされたと言いますが、
    禅によって彼らの世界観が変わった訳ではない。
    世界の中心は、キリスト教の神、この世は神が創造したものと云う
    大前提は、揺らがないのです。



    それに比べると、特に日本における近代化は、凄まじい!


    なぜなら、キリスト教理を全て信じる訳でもなく、
    かといって、消去された東洋4000年の叡智も知らない。
    そう云う人間ばかりです!       あはは。


    そして、日本人は、自分の意識ばかりで生きている!
    凄まじいばかりです!      ほほっ。



    あ、そうか! 経済大明神を信仰している?   あはは。



    それに比べれば、
    西欧の人々が、近代化の中で権威は堕ちたと云えども、
    クリスチャンである割合は高いはずです。
    アラブのイスラム然り、インドのヒンズー然り、
    他の民族は何かの宗教を自分の背景にしています。


    日本人は、寄る港も無く浮遊している状態です。
    取り付く岸辺がないと云う点で、哀れ、溺れかかっているのですよ。


    日本人の世界観は?  自然観は?  人間観は?
    ましてや、家庭観は?  家族観は?     


    普遍的なそれらの価値体系が消去されてしまって、、、
    しっかりないのに、結婚?  できないわよね。
    若さの暴走で子供だけは作っても、それを維持できないのです。
    封建的な家制度は崩壊をし、それを補うものがない。
    意識だけが尊重されて、それゆえに浮遊するしかない日本人、



    あまりにも分厚い幻想に閉じ込められた日本人の意識、
    意識に頼っても、せいぜい迷走をするのが関の山なのですよ。
    意識が作るものは、せいぜいロジック位のものです。
    意識には、真理など掴む事はできません。


    その意識の迷走、
    少子化を、どうしたらいいのかと云う処での迷走、
    近代合理主義が壊して捨てた、
    例えば、家族道徳的な普遍性のあるお互いを結び付るもの、
    そう云うものを失った迷走だと思います。



    迷走も、幻想も、意識のする事です。      ほほっ。
    無意識は、迷走も、幻想も、致しません。     ほっ。








    今まで、長々と書いて来ました近代合理主義の世の中、
    人間の意識だけを重用する思潮の中で、
    その思潮の通りに生きるとすると、
    各々の意識は10人10色ですから、それを尊重をして、
    お互いの自由と平等を認め合うとすると、
    たとえ、家族であっても、
    お互いにバラバラで合わなくなるのが事実でしょうね。  ほほっ。


    現代の思潮である近代合理主義は、
    近代化が尊重する人権思想、自由、平等、権利、義務が、
    最高の価値基準として強調されていますから、
    個人の五感に基づく意識だけを主張しあって行けば、
    もう、柘榴(ざくろ)の実のように細かい粒粒がボロボロになって、
    バラバラになって飛び散ってどこに行ったのか分らなくなる本質がある、
    と思っています。


    特に、身内、家族の間は、大変なのです!
    家族や家庭、兄弟や夫婦と云う単位が、
    バラバラ、個個へと離れて行くでしょうね。
    離れて行くより前に、消える、、、、、命の継承が消えます。
    バラバラになると云うのも、実は消えるそのプロセスなのです。



    それらを円滑に、お互いが喜んで一つの心になる為には、
    どうしたらいいのか? 
    実は、これが、このブログのテーマなのです。




    無意識の本体を追求した東洋の叡智を、
    我々の中心に据えるしかないのではないか?





    お互いが、喜んで一つの心になる、、、


    その結果が、家系における いのちの継承の実現なのです。





    我が家が、近代合理主義の害毒に遭わない? 為にも、  ほほっ。
    近代合理主義の欠点をよく理解される事を提案します。




    ◆ 東洋思想から観る近代化の思想の特徴は、
    A. 個人の五感に基づく意識を最大限に尊重をしています。
    B. 自然や神や仏と云う存在よりも、です。


    これを、東洋の陰陽学で観てみますと、
    A.  を 『陽』の範疇で人為によるものとします。

    B.  を『陰』の範疇とし人為によらないものとします。







    陰陽学において、
    『陰』は、本体、 根、 無意識、すべてを結び、一つにまとめるものです。
    『陽』は、機能、 枝葉、 意識、分かれ分かれて、 消えるものです。




    ごらんのように、意識だけを中心にした近代合理主義は、
    人間の意識が作った『陽』のロジックでしかありませんから、
    真理でも、本質でも、本体でもありませんから、
    その究極は、『陽』の原理のままに分離、分散、消滅する現象です。
    仏教的に謂えば、無常の範疇なのです。    ほっ。



    現代を色濃く染める近代合理主義には、
    個人の人権や個人の自由平等だけを強めるだけで、
    その人間をつなぎとめる、一致団結させる思想がありません。


    人としての道理というよりも、
    人為的な法律や制度が決めた自由、平等、基本的人権というロジックに、
    我われが逆規定されると云う有様になって来ています。
    これらは、画一的なバラバラになった個人が、
    網の目の中の一マスにハメ込まれて、
    放り込まれたような個人に成り果てています。
    自由だ、平等だと云っても、その個性を生かす事とは違います。
    人間を真に幸せにする事とは、違いますね。


    そして、いくら人間が書いた条文でこれらの枠にはめようとしても、
    絶対に、はめられないものがあります。
    それが、過去、現在、未来を貫く人の運のようなものです。
    制度でいくら平等と云っても、運命は不平等でございます。
    とくに、個人の運命は家系の運命から自由ではありません。


    人間だけが基本的人権といっても、
    自然の中にはそう云う概念は、一切ありませんし、
    自由、平等、というロジックも、宇宙や自然の中には存在していません。





    ある意味、人間の意識が作った権利と義務で要求する事は、
    自然を犯す、、、調和を崩す不自然性を感じます。




    自由ではないものを、憲法の条文にそって自由に振る舞うから、
    そこの処から、新たな分離と不幸が湧き出るのです。
    平等ではないものを、民法にそって平等を要求する事によって、
    そこの処から陰徳を失い、避け得た不幸を呼び起こす事もあります。



    これが、次世代への不幸の原因になるのが分っていますから、
    自然のありように、学ばなければいけないと思います。





    ですから、運命学の御相談では、
    極力、裁判で決着をつける事を避けるようにお勧めします。



    たとえ、裁判で勝っても、その事で陰徳を失えば、
    先で、手にしたモノを失う事があるのです。



    このように、人間の運を観て行きますと、
    ウムを言わさない厳しい摂理が貫かれているのが分かります。




    運は、最大の自分の中の自然そのものなのです。







    ②  一族の繁栄を考えるならば、誰が継いでもよいのでは?と思いますが、
    財産の相続やその他もろもろのしがらみがあるので、
    争いが絶えないのだと感じます。   





    相続についてですが、
    一般的に、長子相続ですね。
    これは、儒教の長幼の序 ------ 【 「孟子」滕文公上 】


    年少者は年長者を敬い従わなければならないと云う秩序です。


    昔は正妻の子の嫡男だけではなく、妾腹の庶子がいて、
    異母兄弟間で後継ぎ争いが起こっています。
    醜い家内争議を起さないように、
    一族の陰徳を守る筋として定められていたのです。
    昔は家督を継いだ長男に他の下の兄弟が従って家を守る。
    家督を継がない息子は、他家へ養子へ出す等の知恵がありました。



    民法での相続は、兄弟が平等に遺産を相続するとなっていますが、
    運命学的で云いますと、
    長男が、両親及びご先祖のお墓を守ると云うのが、
    いわゆる祭祀権の継承ですが、
    一番、家系的には正しくて、陰徳のある一族、家系になります。


    長男が継承できる家系と云うのは、それだけで運が良いと言えます。
    そうでない場合は、継承を受け継げない運が出て来ます。


    先祖からの運命として、さまざまな癖を受け継ぎ、
    いろいろな理由で長男がしっかりしていない。
    病気や精神的な障害で、将来結婚ができない状況であるとか、
    さまざまな現象が出て来ます。
    たとえば、結婚をしないので子供がいない、その意志がないとか、
    その代わり、しっかりした弟がいて、
    ご両親の世話やお墓の祭祀もやってくれる、
    こう云う場合、自然と長男はダメだけれど、
    次男が実家の名前を継いで、お墓の祭祀もしてくれる、
    こう云うご家系もよくあります。


    こう云うご家系の場合ですが、
    長男がダメ な家は、その本家筋が絶家になっているのが多いのです。
    つまり、継承運が二男の家へ移って来ている、と言えます。


    自然を観察するとよく分る事なのですが、
    植物も、年々季節が巡れば新たな枝が出て来ます。
    今までの古い枝を越えるほどの勢いがあって、
    その先に堂々と、一番に花を咲かせたりします。
    エースですね!      ほほっ。
    今年からは、僕が頑張っていっぱい咲かせるよ!
    そう云っているようで頼もしい限りです。


    その反対に、
    人間が枝を選んで剪定をしようとしなくても、
    放っておいたら何時の間にか、枝が枯れているのがあります。
    木全体は、どこもおかしくなく、新芽も出て来ている。
    そんな中で、1本の枝が枯れて行く、、、
    自然剪定と云います。
    木全体が生き延びる為に、不必要な枝を自分から枯らす事です。
    どうして? 去年は、あんなに花を咲かせた枝だったのに、、、
    と思って残念な気持になったりします。
    そんな気持に関係なく、自然は非情な厳しさで、
    自然の中で生き抜く知恵を実行していくのですね。
    自然の中では全体の秩序を守ると云う事が生命線なのです。


    これを、人間に当てはめてみますと、
    家系と云うのは、ただ偶然にそうなると云う事はなくて、
    その一族の姿を克明に表わすものなのです。
     


    目には見えないけれど、人の運は、家系で説明ができます。
    家系には厳然とした法則があります。
    家系から個人を離して尊重するだけでは、
    人間は決して幸せにはなれませんね。
    木自体、家系自体も枯れて行きます。






    『時』に従う秩序と、全体の中で自分を見ると云う事が大事です。


    これが、近代化以降の日本には、欠けています。
    秩序からも、全体からも、分離して行っているのです。
    これでは、繁栄するわけがありません。


    これに関しては、
    命の継承と運命シリーズの記事をお読みになってください。









    ③  仏教をはじめたくさんの宗教関係者がおられますが、
    高尚な方もお布施を集めることに必死で、
    市民を上から見てきたことが衰退につながっているような気がしています。  






    なるほど、その通りだと思います。
    市民を上から見ると云う事もそうでしょうが、
    もともとの釈迦仏法に末法と云う限界があって、
    力が衰退をすると云うその姿を現していると思う事もあります。






    ④  私はお坊さんが若くして結婚をして丸々と太って、
    バイクや車を乗り回している … という現実がどうしても解せません。
    一度しかない人生ならばそれもありかもしれませんが、
    口では輪廻転生を唱えつつ、ご自分の行動は … (・∇・)?
    と思ってしまうからです。
    けれど、本当に素晴らしいお坊さんが存在するのも事実です。  





    これも、その通りだと思います。
    よく、ご覧になっていらっしゃるのですね。
    実は、私も、ひとつ拘りがありまして、
    僧と云うからには、出世間というのですから、
    未婚でいるべきではないかと思う事もありました。
    仏教界においても、昔は厳しくて、全員がそうなのです。
    しかし、特に鎌倉仏教以降、
    大乗経では煩悩を、そのまま認めるようになりました。


    お坊さんと云えども、100人100色です。
    無意識界の因もさまざま、見かけでは分からないものです。
    今と云う皮相的な姿だけでは説明がつかない処がありますね。


    が、運命学から拝見いたしますとよく分ります。
    つまり、『時』をかけて観ると云う事ですね。
    『時』は、『天』そのものの運行です。
    つまりは、道理です。
    道理で観て行くと非常によく分ります。
    まず、子孫に現象が出て来ますから。
    一番、恐い事は跡を継がせたいと思う一人息子が、思うように育ちません。
    そして、子供は全員が女の子しか生まれないとか、
    その中のカワイイ末娘さんが、どうしても結婚をしないとか、
    お寺さんの家でも、まったく、在家の我々と同じ悩みをお持ちですよ。   
    それはその方の所業の因果応報として出て来る現象です。
    そのように『天』は公平、処置に間違いありませんから、  ほほっ。
    僧と云った処で分け隔てはありませんから、
    黙って見ておけばよろしいのです。   あはは。


    人は、その職業や地位といった『陽』の現象で見たらあきまへん!  あは!
    大事な事は、家庭、家族、家系です。
    全てはそこへ表われて来ますから。
    『天』の無意識からの伝言は、
    その人の家系の中へ、家族、身内の中へ、
    特にその人の孫の中へ現れます。
    これは、もう、誰でも誤魔化しようがありません!
    ご安心なさってください!       ほほっ。





    ○o。.。o○







    いままでの我々日本人を取り巻く幻想の世界、
    いかがでしたか?





    毎日が、意識(五感)を満足させる事に夢中で、
    キレイな物や美味しい物、楽しい物を手にする事に忙しくて!
    なかなか考えてみる事もなかったのではないでしょうか?




    これからは、地球を取り巻くマジカルミステリーツァー!   ほほっ。
    その探検にお連れしたいと思っています。     


        あはは。









    これからが、今回の記事の目的、
    ○o。.。o○ 我われを取り巻く最大の幻想の世界についてです。


    この『偽性』のベールを、剥がしましょう!




    相当長くなっていますので、もう少しご辛抱下さるか、
    何度かに分けて、ご訪問いただきお読みになってください!   ほっ。





    ◆  降りてゆく生き方 ”について、



    降りてゆく生き方 と云うのは、映画の題名です。



    映画は、武田鉄矢さんが出演をしている自主映画です。
    詳しくは、 ここ をクリックしてください!


    ほんとうの「生き方」を求めて と云う題で
    映画のコンセプトがそこに載っています。
    長い文章ですが、何回かに分けて是非読んでみてください。



    これを、今回取り上げましたのは、
    私がこのブログに書いている内容と恐ろしく内容が類似しているからです。
    特に、近代化以降の現代に噴出している問題点に気が付いて、
    具体的な行動を起こしている日本人たちがいる、と云う点に、
    少なからぬ驚きを感じたからです。


    これを、読む事によって、我々は、


    ○o。.。o○ 戦後最大の幻想に気が付く事ができるかも知れません! ほっ。   


    ○o。.。o○




    どうか、近代合理主義の『偽性』に気が付き、
    この楽と便利と進歩と云う表看板のキャッチコピー幻想から目覚めて、
    (大きな事を申し上げるようですが、)
    我われと、地球の運命を変える事につなげなければなりません。 ほほっ。





    映画のコンセプトから、少し、抜粋、引用します。





    第二次大戦後、日本人のみならず世界中の人々は、
    科学の進歩にこそ人類の明るい未来の希望があると考えていた。
    人間の科学技術は、もはやどんな問題でも解決できると、
    当時の人々は考えたことであろう。


    まさに「昇っていく時代」の象徴といえよう。
    ところが、アポロ計画による月着陸からほどなくして、
    ローマクラブが「成長の限界」を発表し(1972年)、
    このまま地球の環境破壊が進めば環境悪化と資源の枯渇によって
    人類は成長の限界に達する、と論じたのであった。



    人間の科学技術は、
    人間の輝かしい未来を保証するものではなく、
    環境破壊によって人類を滅亡へと誘うものになってしまっていたのである。



    そして、環境問題は、金融問題とならび、
    世界人類にとって大きなテーマとなっているのである。


    近代以前は、いまのようなグローバルな人間圏は存在せず、
    ローカルな人間圏がちらばって存在するだけだったのである。
    これが劇的に変化するのは、
    18世紀に始まった「産業革命」のときであった。


    産業革命に始まる科学技術の発展は、
    それまで生きることが精一杯だった人間が、
    それまで抑圧してきた「欲望」を解放するものとなった。


    時代は、近代へと入り、新しいユニットが生まれた。
    それが「国家」である。
    「国民国家」が成立するに至ったのだ。


    国民国家の台頭により、「領土は国家が所有するもの」となった。
    これが「地球は人類が所有するもの」という現代の人間の考え方の
    出発点といってよい。


    モノをどんどんつくり、豊かになれば必ず幸せになるはずだ。
    日本人の多くがそう信じていた。
    ひたすらにモノをつくろう。豊かになろう。消費をしよう。
    そういう「欲望」というものを基礎として、
    日本人は「右肩上がりの経済成長神話」を信仰するに至ったのである。
    経済成長していれば、必ず幸せになると、だれもが信じていたのだ。
    そして、その経済成長は、永遠に継続すると信じていたのだ。



    いや正確にいうならば、
    経済成長が永遠に継続すると「信じたかった」というべきかもしれない。



    戦後は、戦前の大家族主義から、
    消費を前提とした「都市型」の「核家族」が圧倒的に増えて、
    家族は、「生産共同体」から「消費共同体」へと変化した。


    日本は、経済のグローバル化を選択した時点で、
    経済というものを自国のコントロールから外してしまったのである。


    人間は、いまや、世界的に、
    マネーのもつこの魔力に屈したといってよい。


    そして、「カネで何でも買える」という人類の共同幻想が、
    幻想を超えて、いま正に制度として確立したのである。



    マネーはいまや、各国民国家に上位し、それを包含するもの、
    人間圏の根本原理たる地位を獲得したといえる。
    もっといえば、マネーが人間圏を「支配」している、ということである。


    つまり、マネーとは、
    人間にとっては「神」といってもよいようなポジションを獲得したのである。



    それが、経済のグローバリゼーションの本質であることを
    十分理解する必要がある。



    それまで日本的な組織やムラ社会にいた個人たちが、
    個人として世間の荒波に直接放り込まれるようになった。
    つまり、個人が全てのリスクを背負わされる社会が到来したのである。
    ここから「格差社会」が始まるのである。



    格差社会が始まったということは、
    それまでの日本社会におけるルールである「学歴主義」「終身雇用」と
    いったものが崩壊を始めることであった。
    役に立たない人間はリストラされ、
    大学を出ても就職ができないような状況となった。
    派遣業法も改正され、企業は自由に派遣会社から人を雇い、
    不要になればいつでも切ることができるようになった。
    人間は、ついに、企業の部品、モノといっていいところまで、堕ちたのである。


    日本人の多くは、国や行政がなんとかすべきだ、と考えている。

    しかし、日本政府が経済の統制を放棄し、
    グローバリゼーションへと舵をとった時点で、
    日本は国民国家の権能を放棄したのであるから、
    日本人は直接「世界」と向き合うほかないのである。



    それにもかかわらず、日本人は、
    「国や行政が何とかしてくれる神話・幻想」から逃れられずにいるのである。


    というよりも、
    国や行政しか、すがるものを思いつかないということなのかもしれない。


    国や行政に対する神話や幻想の消滅という事実を直視することは、
    個人にとってはあまりに辛いことなのかもしれない。
    日本人が、戦後いままでとってきた「生き方」「考え方」からすると、
    私たち個人を支えてくれるものは存在しない、というのが現実なのである。



    私たちは、戦後の経済至上主義、右肩上がり神話の中で、
    「お金」に全ての関心を奪われ、
    「いのち」というものの大切さをすっかり見失ってしまったのかもしれない。
    以上のとおり、
    日本人は、ミクロの視点において重大な危機に立たされている。


    それのみならず、マクロの視点からも、危機に立たされている。


    地球システムにおいて人間圏が膨張する中、
    地球温暖化問題や環境汚染の問題や食糧問題が発生しているのである。



    中国など新興国の工業化によって、
    食糧が今後確実に不足してくると言われている。



    2020年には、
    食糧不足と水不足が大きな問題になると言われているのである。



    食糧と水は、人間が生きて行く基礎をなす。
    これがなくては、生きていけないのである。
    2020年には、「生き甲斐が欲しい」「充実感が欲しい」などと
    悠長なことは言っていられなくなるだろう。


    その後、食糧不足と水不足の問題はさらに進み、
    カネがあっても食糧や水が買えないという事態が発生する。


    もしそうなってしまうならば、
    「カネで何でも買える」というマネーに対する共同幻想が崩壊し、
    貨幣制度が崩壊し、
    ついには資本主義が崩壊する可能性が高いのである。


    国民国家の上位にあった「グローバルマネー」という構成要素が、
    音を立てて消えていくのである。


    そのとき人々は、マネーというものは実態がなく、
    共同幻想に過ぎなかったことに気づくであろう。


    そして、そのときやってくるのは、
    「人間圏の消滅」という人間の生存に直結する危機なのである。
    そうやって、2050年ころには地球環境は最大の危機を迎え、
    宇宙学者や環境学者たちによれば、
    遅くとも今世紀中には人間圏は消滅するとされているのである。



    このように、地球システム的に日本人が置かれている立場をみると、
    将来に対して不安をもち、希望がないのは、
    むしろ自然な事といえるのである。

    では、もう未来には希望はないのだろうか?

                                   引用おわり






    これから先は 「ほんとうの生き方を求めて」 ← クリック!

    をご覧になってください。


    いま「常識」だと思っている事をもう一度疑ってみて下さい。
    これが、そのままどこまで通用するのか、疑ってみて下さい。
    本当に人間らしく生きる為に、今、何を変えるべきか、するべきか?

    これが私たちに課せられた未来への挑戦かも知れませんね。





    なんども繰り返し書く事なのですが、





    近代合理主義は、その意識中心で無意識を無いものとして扱っています。


    それは、どう云う事かと云いますと、


    『陰』の根を失った『陽』の世界(近代合理主義)は、その内実を失って、
    『偽性』そのものになっいるが故に、
    『実』そのもの・存在意義を失くして滅ぶ。




    実体がないものは、滅ぶ。


    と、云う事でした。




    皆さん!   安心してください。     ほっ。
    ウソは栄えません。
    『偽性』は、子を孕む事ができないのです。



    あっ、ウソをついて生きている方は、安心できない?  あは!
    じゃ、これからは、ウソをつかないで生きて行きましょう!  あはは。


    でも、この場合のウソは、心で、口で、嘘をつく事ではないのです。
       これは、自覚できる事ですが、


    『偽性』はウソの世界観の中でそれに気が付かないまま生きる事です。   
       これは、自覚がないままする事です。




    つまりは、
    近代合理主義の価値観を信じて、その幻想を信じて生きる。
    自然を排除した空間をおかしいとも思わず、
    これが、楽で便利だと、天国だ! と錯覚する事です。





    しかし、その上に、更に、
    今、近代合理主義のこの局面は、より深刻になっています。


    意識のお調子者は!  もっと悪さをしています。
    『陽』が『陽』を呼び、『偽性』が『偽性』を生んで、
    我々は、完全に幻想の世界に飲み込まれています。



    なんのことだか? 分らない?    あはは。




    最後に、卑近な例えでまとめましょう。


    ほんの少し前まで、大人は明日の空模様を知るには、
    家の外に出て、西の空を仰いで自分の目で確認をしていました。
    ラジオやテレビの天気予報を見ても、
    自分で、空を見上げて納得をしていたのです。
    自分の目で確かめたかったのですね。     ほほっ。
    昔の大人は、全員が天気予報官みたいなものでした。     ほっ。
    しかし、今の我われは、
    自分の目で見て明日の天気を知る、なんて事はしない、
    できないでしょう?
    理科で習った事が、実際の現場で使う能力が育っていないのですよ。


    だって、 いそがしいから、、、    ほほっ。
    テレビで見た方が早いじゃない!


    天気予報は、
    テレビで見るモノ、ネットから知識として知るものになっています。
    空を見上げるなんて、都会では窓も開けませんね。


    このように、我々は、身近な自然を断ち切って平気でいます。


    自分の五感(『陽』・意識)で確かめようともせず、
    今は、専門家と云う他人が作った情報を頼るようになっています。
    便利じゃない!


    もうすでに、我われは、自分の五感を信じるより、
    五感(意識)すら閉じて、機械を頼るようになっています。
    そして、何十億年も前から生きる為に培って来た能力をスポイルしています。

    何千年も、何万年も、かかって培った能力が、
    我々の命の中で、輝きを失って行っています。


    天気予報の能力だけではありません!
    体育座りをすると後方へ引っくり返る小学生や、
    水道の蛇口をひねる事ができない子供、
    人や物の気配を感じられない子供ばかりになっているそうです。
    この原因は、自然の中で虫捕りをする経験が少ないから、
    自分の意識で操作できない思い通りにならない物を捉える経験がない。
    ゲームは、どう云った処で、人間が作ったもの。
    人間の限界内のものです。
    つまり、人間が操作するように作られた物です。
    しかし、自由に飛ぶ虫は、人間が操作できません。   ほほっ。
    人間の意識外の動きに対応できないのですね。
    それを訓練してくれるのが、自然の中の虫捕りなのだそうです。
    自然の中では、小さくても、虫の方が上手!    あはは。
    自分より上手なものでしか、訓練はできないのです。
    自然を遠ざけた事で、こう云った能力が退化しているそうです。


    そう、まるで、絶滅危惧種の草木や虫たちのように、、、、、
    我々の命を支えて来た人間の能力が絶滅危惧種そのものなのです。


    こうして、



    『天』と『地』の間で、『人』として生きる調和点を見出す能力を失い、
    『天』と『地』の間の、道理が悟れない。


    自由と平等と、権利と義務、基本的人権と云う幻想を立ち上げ、
    『陽』の現象で身を固めた我われは、
    宇宙との調和とは? 
    首を傾げるばかりです、、、、、、、



    それは、もう、自然の中で生きていける命ではないと云う事です。
    我々自身が、絶滅危惧種になりつつあると云う事です。






    日本人そのものが、希少種になるのでしょうか!!!





    この宇宙の地球と云う星に生きていながら、
    宇宙、自然の摂理から、こぼれ落ちているのです。





    それに気が付かず、これらを楽と受け入れる我々の意識の歪みが集まって、


    ・・・・・・・・ これが、時代の傲慢性に通じています。





    我々が、自慢気に進歩をしたと思っている事を、
    我われを生み出した宇宙やこの地球や、自然は、


    どう思っているでしょう?


    我々、人類の祖先たちを自然の懐に入れて育んでくれたこれらの自然は、
    我々が、自然を隔離した便利な空間に住んで喜んでいる事を、


    どう思っているのでしょう?




    日本の、145年間の近代化の歴史の中で、
    我々はりっぱに近代化をした!
    先進国になった! と思っている事を、
    これらの自然の山々、森は、どう思っているでしょう?





    人間の進歩なんて大したものはないさ。
    自分達(大地)が、大揺れしたら、
    (山)が、マグマを吹きだせば、
    すべて木端微塵に壊れる物ばかりだろう、、、



    大雨が降って、山が水を持ちこたえられなくなれば、
    山もろとも、森もろとも、川を埋め、人の家を押し流してしまう、
    人間の近代化とは、所詮、押し流されるものさ!
    宇宙の小さな星よりも早く消えてしまう、そんなものにしか過ぎない、、、




    ----- これが、 平成25年10月11日(金)に発生した台風26号が、
    16日深夜、伊豆諸島付近を通過した時に起こした風水害でした。




    他人が作ったロジックの中にはめ込まれて、
    毎日あくせくと、大自然を遠くに、自分の背後に置いて、
    決して、自然を、 自分が生まれ出た処を、振り帰ろうともせずに、
    前に、前へ、進む事が良い事だと単純に思い込んで来た我々。


    しんぽ、シンポ、進歩とおまじないのように唱えながら、
    シンポしなければ、相手に敗けるからって、
    欲しがりません、勝つまでは、、、、、  
    まるで、戦時体制下のように、頑張って来たけれど、


    我々は、一体、本当にシンポしているのですか?       あはは。
    どこまで、進む予定ですか?      あはは。




    すると!    声が!


    大事な事は、便利と進歩だ! 目指すは楽だ!
    地球の資源を使い尽くすまで、進歩をしろ!  



    あぁ、そう云う第6天の魔王の声が聞こえるようです!      ほほっ。 






    そのうち、人間が何もしなくても
    目的地へ運転をして連れて行ってくれる車が溢れ、、、
    なにでもやってくれるロボットが◯種の神器とかになって、、、
    壊れたロボットが、粗大ごみに出される日も近いでしょう。


    子供は、若い頃に冷凍保存をした卵子を取り出して産む物です。
    出逢った事も無い男の精子を通販で送って貰い、
    一人暮らしの女も孤独に子供だけは作れるようになる、、、
    あ、これは、もう普通の事なのですね。


    その子が、その親の所業をどう運命的に背負って生れて来るのか、
    考えようともしないのです。


    運命学からは、恐さ以外の何物でもないのですよ! 
    また、詳しくは、いつか、機会があれば、、、



    そして、このままだと、
    不便な森の中で自然の摂理のままに生き抜いているおサルさんに、
    すべての点で、負けて行くでしょうね。
    苦であれ、楽であれ、自然のままにおサルさんらしく行き切る事が、
    どんなに自然に調和をしている事か!
    人間は、生き抜く能力においても、
    自然に生きると云う生物の目的に置いても、完敗です!


    永遠や精神はどこかに置いたまま、
    我々の肉体は物として、物質文明の坩堝と化すでしょう。
    角膜や足や手も、臓器もなんとか細胞で作り変えられて、
    100才と云っても、ピッカピッカの体の持ち主ばかりになるでしょう。


    目も良く見えて、歯も大丈夫! 臓器もピッカ、ピッカの体になれて、、、
    よかった!
    そして、100才以上で、その元気で、
    地球上に枯渇していく食料や水を、世界中の人と奪い合うのですか?
    高騰する食料や水を、どう手に入れるのですか?


    年金は、もっと高くしなければいけませんね!   あはは。
    そのお金はどこから持って来るのですか?
    あ、そうだ! 
    食料と水を奪い取って来る為のロボットを開発しなければいけませんね!
    企業の次なる製品開発は戦うロボット!   それだ!    ほっほっ。


    企業は、売れるものを作ろうとするのですね。
    地球の未来も、人間の進化も、まったく考えていないのです。
    目先のマネーだけが欲しいのです。


    ○o。.。o○ 


    ○o。.。o○ 



    これが、我々の真に望む夢? だったのでしょうか。。。

    もう遅すぎるくらい!



    でも、安心をして、、、、、
    自然は、見事に解決をするでしょう。




    これに対する自然が繰りだす解決方法は、


    自然剪定。


    本来の生の息吹に満ちていない枝から、枯れて行くはずです。





    どうか、お互いが、
    その時、自然剪定される枝にならないようにしたいものです。


    今日は、その為の、これから考えていただく為の入り口で、
    ほんの一つのヒントとしていただけたらと、、、 
    映画 「降りてゆく生き方」を紹介させていただきました。



    今までの進歩(上昇する生き方)では、我々地球★は、もう無理です。
    一人一人が、地球★を守る生き方を始めましょう。


    あなたにとって「降りてゆく生き方」とは?






    あなたの五感を喜ばす奇麗な心地よい便利なベールをちょっとつまんで、
    近代合理主義の幻想の天国から這い出てくださる事を祈っております。


    五感に心地よい楽な道から、
    苦に満ちた荊(いばら)の道の方へ歩み出して下さい。
    そこにこそ、無意識下で真の楽の応報へと転ずる因が積まれます。
    苦の出会いの中でこそ、陰徳は積まれるのです。
    よろしくお願いします。




    次の更新まで、良き日々を!



































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    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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