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    『無常の相』に拘るかぎり、不滅のものはありません。

    Category : 不滅なもの
    梅沢の海


    先週末に寄った湘南の海・梅沢海岸




    音楽をどうぞ! 






    前ブログからのつづき、

    不滅のものを、探って・・・・・





    最後は仏法へ戻りますが、


    まず、中国の陰陽学から、、、

    陰陽学の『陽』は、『陰』の創造力の表出世界と言えます。



    空間世界に象として現われ出るもの。

    私達の五感で捉えられます。



    その本体は、『陰』そのもの、創造力の根源です。 

    その『陰』の蓄積が、

    【時】と場所に合わせてさまざまな『陽』の表出を生むわけです。



    その結実・現象の一つである学問や英知は、

    本来は人間の貪欲を排した結実であるべきですね。


    英知を装った【貪欲の論理の知識や法律や制度】では、

    絶対にあってはならないのです。





    そして、また『陽』は、

    常に『陰』という命の創造性に逆らわない表出であるはずなのに、

    【時】によって風化した『陽』は、『陰』の正統な表出ではなくなります。

    現実において私達は、『陽』である知識や法律が、社会のある変化に

    即応していないのではないか? と、

    疑問を感じたりする場合がありますね。



    それは『陽』のせいではなくて、

    本体の『陰』の創造性が弱くなった事が、本当の原因であろうと

    思われます。





    『陽』の力の消失は、『陰』の創造性の欠乏です。

    なぜ欠乏するのか?

    これは、また、別の機会に書いてみたいと思いますが。




    単に『陽』の存在を非難、攻撃するだけでは、好転しませんよ。

    『陽』の存在とは、政治や経済や社会の仕組みのことです。

    『陽』のそれらを変革しようと思えば、『陰』を強くするしかないのです。

    私達が反省しないまま、それらを批判したところで

    『陰』は弱まるばかりです。

    知識や法律や制度は、社会状況や私達の必要に応じて

    生まれて来たのです。

    私達の体の影のような存在、です。

    影に注文をつけても、ムダでしょう? 

    体から正すべきですよ。

    責任は客体にあるのではなく、

    飽くまでもそれを用いる主体側にあるのです。



    それら知識や法律や制度は、永遠の存在ではありません。



    そして、その不都合を修正しようとするとき、

    現実に対応していくための時間の遅れや反応速度の遅れという

    タイムラグが生じると・・・変革には、時間が必要ではないかと

    ・・・思っています。


    実りには年季が掛かる、お分かりですね~



    そのように【時】というのは、いつも重要なファクターです。

    なぜなら、ここは太陽系の★、地球ですから、すべてが

    太陽エネルギーのおかげで営まれているのです。



    まさに、”今”という【時】、私達の身の回りで、世界中で、

    『陰』の徳が無くなって行っているようです。

    今までの私達は先人が積み残してくれた”徳”を消費してきました。

    今度は、私達が『陰』の創造性を高める努力が必要なのです。

    ここが、一番むずかしい。(笑い)


    もうお分かりのように『陽』は、タイムリーなものです。

    自然に実る果実を、想像なされば? お分かりになるでしょう?


    日進月歩です。日々是新たな英知を生み出す事が最上です。




    浜辺に押し寄せる波が、つぎつぎ、一つ一つ消えていくように、

    いかなる現象も、【時】の照射によって均衡を求めて変化し続けます。


    均衡を求めてとは、

    宇宙・自然は偏っている事をお気に召さないという事なの。(笑い)

    これは、間違いないわ~ 私達がいい加減に生きてしまって、万が一、

    自然の均衡が犯されれば、爆発もし、大地震も起こり、崩壊もします。



    易学はその変化を人間世界に見て陰陽に分けて、述べています。

    変化は【時】。太陽エネルギーそのものです。

    だから【時】の選択が大切になります。


    そんな事は気にしないのだ!! 

    やりたい時、したい時がいい時なのだ!(笑い) 

    これが現代の風潮ですね。

    なんでも自由? なにか子供じみていませんか、、、

    あまりに気ままな欲望に傾きすぎですよ~ (笑い)

    だから東洋運命学は、【年、月、日、時】を選ぶことをおすすめします。



    【時】は、けっして欲望の言い成りにはなりませんから。

    【時】を得ない欲望は、滅び去るばかりです。



    海亀の産卵、女の卵巣の排卵、発情期、開花、結実、

    これら創造の実りも、成熟、老化、腐敗、分解、生死すらも 

    命が【時】に仕えた所産です。


    我々の意識だって【時】に命令はできません。 断じて!


    東洋は【時】を尊び、【時】が基軸です。

    意識、理性、欲望が基軸ではありませんよ~(笑い)

    人間が基軸? とんでもない! 自然中心です。 

    間違ってはいけません!

    わがままはダメ!  あはは。


    自然には、 我々の小細工は効かないのです!








    仏教においても【時】は重要です。

    久遠・くおん(遠い遠い過去の時間)という言葉もあります。

    仏は、【時に応じて】出現し、法を説くと書かれています。




    所詮、この世のものはすべて、平等に【時】の力を受けます。

    そして、命すら生じて、【時】の力で死という現象を現じて、

    滅するではありませんか。




    では、不滅の物はないのか?

    『無常の相』に拘るかぎりにおいて、不滅のものはありません。

    だからこそ、

    伊勢神宮の遷宮のような事を、古来からの神官は

    営々と行ってきたのではないでしょうか?




    神のまじないを以ってしても、チチンプイプイ!

    絶対に壊れない社になれ! 

    要は、こういうのは分っていない人のやることです。


    この『無常世界』を生み出している本体へ向かって、

    均衡を求めて変化をしている本体に向かって、変化を抑えろ!

    なんて、


    生きている人に向かって、息を止めて生きろ! 

    というようなもの・・・ 滑稽でしょう?



    無常世界』に生きる限り、

    分っている人は、あるがままそのままを受け入れるのが、

    正しいと思ったはずです。


    それが知恵ある人です。


    だって、どうしようもないのですから、

    『無常』のタイムラグにいる限り、我々は滅びます。



    無常世界』の舞台に棲む我々は、『常住世界』に生かされている。


    それゆえ我々は、非力です。

    非力というのは、謙虚さという徳の種を生みますね! 

    感謝も! 有り難さも! 

    報恩ということも此処から生まれたのでしょう。




    昔の人は、大きな天球と自己の小ささを見極めて、知力を尽くして、

    無常のありようを受け入れざるを得なかったのでしょう。





    西洋は、石造で永遠性を具現するかのように神の国を目指して

    高く聳える建物を建てます。でもこれは永遠ではないでしょう。

    錯誤。所詮ウソです。気持ちは解るけれど、ね!

    正に久遠という過去から、未来の永遠という【時】から見れば、

    木造の100年も石造の3000年も変わりは無い。

    どちらも、まばたきの間の短い【時】にしかならない。

    常住世界から観れば、所詮は、現象界の範疇にしか過ぎず、

    いずれは崩れ去るという無常の域を出ていないのですよ。

    仏法は、そこまで峻厳です。





    反って、

    日本には、時が経つと朽ちると解かっている木造しか術がなかった。

    その方が、

    あるがままの現象世界の無常を受け入れて、

    同じ物を創る事で時をつなぎ、

    それで常に存在する事実を実現しようと計ったのかもしれません。

    そこには、真実以外のウソを見抜く知恵と、ウソを捨てる潔さ、

    1000年を永遠?と錯誤する欺瞞と偽善が排除されています。


    東洋は、何事も徹底されている、 だから信用できるの。(笑い)

    私は、絶対に東洋信奉者です。(笑い)


    今日本人は、

    西洋文明の大海原から押し寄せる波に洗われています。

    海の恐さを忘れて、

    不滅の存在を捨てて無常の崖に舞い戻っています。

    崖からの眺めは、海の恐さ。それは、『無常の世界』の空しさです。

    なぜなら西洋文明は、物質文明であり、

    【時】の照射で全てが消滅するという色界(物質世界)そのもの・・・

    物質を奪い合う殺戮の世界のセオリー、ロジックなのですから・・・

    所詮は武器を持った狩猟民族のロジックです。



    なぜに、鍬と鋤しか持っていない農耕民族の我々が、

    常住を秘めた無常観を捨てて、永遠と錯誤した崖の淵に、

    舞い戻る必要があるのですか? 



    私たちは、東洋思想には常住世界があって、

    命が永遠であるという事を思い出さなければいけません。





    人は、永遠も不滅も捨てれば、何でもするようになるでしょう。

    ただし、頭の中で捨てたと思うだけですが。

    万能になるというのではなく、 ケダモノになるのです。

    明日も未来もない畜生道へ堕ちても平気だっていうことです。



    西洋文明は、錯誤した永遠の上に積んだ欺瞞と偽善でしかない。

    あはは~ 言い過ぎでしょうか?(笑い) ごめんなさぁ~い!


    なにも、西洋と喧嘩や戦争をしようというのではないのです。

    そういうイメージングで、西洋と仲良くしましょう。

    お互いを知り、まず、我々は自分の足元を固めるべきなのです。

    あちら様には、西洋文明の欠陥を知ってもらい、

    反省を促しましょう! それしかない!

    そうしないと皆で破滅です。それでいいのですか? (笑い)

    笑いごとじゃないのよ!!





    あ、それと、もうひとつ!

    現代の凡人のわれわれは、自然の変化に向き合わないでいいように、

    自然の摂理に逆らって、都合の悪い事を科学の力で避けようとする。

    人類を危険や困難から守るまでは良かったものを、、、

    まさか!今では楽をして何もしないで、能率が上がるようにと、

    科学の進歩を望んでいます。 便利で、手軽で、疲れないもの、

    本当に、思うがままにしたいのですね!


    所詮、それは、

    人間の一時的な欲望を実現するだけの道具に堕ちていないか?

    ここで又、我々は、永遠性を唱えながら、行動では曖昧なのです。



    『その時』人の心は、魔性を帯びます。






    科学は西洋文明の『時』の範疇なのだから仕方ないのかナァ~

    科学は西洋文明の自慢の息子よ! 秀才の! あはは~

    この秀才息子をコントロールするのは、だ~れ?

    母なる西洋文明の手に負えなくなっているわ!




    これは『陽』の科学が非難される事ではなくて、

    それを用いる人間の徳性、身近に言えば生活レベルに表れる

    私達の道徳性の欠如です。


    そう考えると、私達は自然に対して、

    人間のわがままな欲望のせいで、

    多大な無駄と無理を強いていませんか、、、、、

    それそのものが、『陰』の創造性を摩滅するのに・・・

    これでは、新たな『陽』の果実の恵みがあるわけがないわね!!



    人間が押し付けた多大な無駄と無理を被って、

    自然は黙って静かですが、

    現状の歪みで溜め込んだ不均衡のエネルギーを

    かならず均衡を求めて、必ず押し返してくるでしょう。

    膨大なエネルギーで、、、



    その力を、現代人は、軽く見ています。

    科学を、欲望を満たす道具として利用しながら、

    欲望を満たす事が幸せの基であるという社会のゆがんだ前提を、

    チェンジしなければいけない時が迫って来ていますよ~~。

      




    ふっと、今、

    天皇皇后両陛下が、自然のままにしておきたいというお気持ちから、

    白髪を御染めにならないで、白髪頭のまま、

    年齢のままになさっていると云う事を思い出しました。

    それは、年に負けると云う事ではなくて、

    自然に逆らわないでそのままの生を享受して生きる、品のよさ。


    私が述べる立場ではないのですが、

    ご自分を、この宇宙・自然に対して、

    永遠不滅の物に対して、よく弁えていられるそのお姿と生き方!!

    尊いとは、こういうことなのでしょうか? 



    清清しいお二人の生き方を、

    参考にさせていただきたいですね。 





















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    『時が主役1』     おそらく2020年。『オイル・クランチ』が来るかもしれない

    Category : 不滅なもの
    水芭蕉の群生

    尾瀬のミズバショウ 真ん中の穂芯のような処が花

    葉は、夏には背丈ほども伸びます。









    今日も、いただいたコメントから始めます。


    尾瀬が、東電さんのとは知らなかったよ。

    電力や車のエネルギー関連は、今は昔、大変な時代です。

    人間は、おっしゃる通り、変わらないと生きていけませんから、

    変わりましたね!夜は早く寝るようになりました、時差の恩恵でしょうか。






    あははっ~!


    人間は、変わらないと生きていけませんから、というフレーズ!

    気に入りました~~


    今日は、易の本質、『時』がテーマです。

    時と共に全てが移ろう、その変化に私たちは、

    積極的にどう係わっていけばいいのか? 

    今までの常識が覆る、おもしろい時がくるのでしょうか?




    尾瀬に行った時に、もともとこの地が、

    日本の工業化の為の電力供給の水力発電の水資源地帯として、

    今の東電に引き継がれた土地であることを知って驚きました。

    これは想像ですが、

    もしか、そういう目的で

    この広大な土地を買い占めていなかったら

    中小の観光会社のホテルや旅館が立ち、別荘地帯とて

    土地は細切れになって売られたかもしれないと思いました。

    工業化という、電力開発のための大規模計画のおかげで、

    尾瀬の自然も結果的には守られた? 

    そうなるのではないかと思います。

    東電も今更、

    尾瀬を水力発電の場所として使おうなどとは思わないでしょう。

    現在の尾瀬を守る為に、湿原の木道などを整備したりしているようです。




    このように、


    物事の目的や、価値観は、時間と共に、移ろって変化をしていきます。



    これこそが東洋の易学で一番重んじる縦軸、『時』です。

    万物は移り変わる。この事象にどう係わっていくのか?

    係わり方の自在の智恵を、自分自身でどう身に付けていくのか?



    自在の智恵という中には、

    前回までの”主観から客観へ”という自在感も含まれますよ。




    今、どういう時代に生きているのか?



    コメントの中の電力、エネルギーの転換点、そこから記事を書きますね。


    こういう時の変遷に関していろいろ考えてみると、

    『時』は、無作為の無意識の答えを出してくれる一つの智恵、

    であると思います。

    私たちの頭脳の及びもつかない答えを出してきます。


    すべて主役は、”時”です。




    たとえば恋愛、

    いくらある人が、主観で、”これ以上の恋愛はない”って

    愛していると思っても、周りから客観的に見れば、

    ”どうしてあんな人がいいのかしら? 病気だわ!” あはは。


    そのくらいに見られて、ちょうどいいのかも? あはは~


    『時』は、名医であり、癒しであり、

    『時』は、あらゆるバランスを取ります。

    『時』は、あなたの命がバランスを取って保全できる方向へ、

    物事を運びます。



    時は、あるとき、無残にも全てを打ち切ります。

    その理由は、当事者の中に、始まった原因のなかにあるはずです。


    大失恋で壊れた恋愛だって、そうなのです! 

    長い時を経る事ができない恋愛だった。だけです。

    ある意味、天の計らいでしょう。

    凡愚の身である私たちに、それが悟れないで、

    いつまでも悲しむのですね!    あはは。



    なにであれ、

    命が守られる方向へ行っているのは間違いないのだから、、

    命の糧を守って行きましょう! 

    命の糧に感謝しましょう!




    ”命がバランスを取って保全できる”って? 


    わからない?   あは!

    このブログをお読みいただいていたら、

    いつか必ず、お分りになるはずです。






    今、生きている、

    今、流れている時だって、

    人間は、目先の欲で現在を生きるのに精一杯の有様ですが、、、

    私達が意図しない、意識もしていない結果に

    至るという事は十分にあります。



    常々思う事は、

    目の前で正しいとマスコミの情報や、軽いノウハウ本などが言う事を、

    そのまま正しいと受け留める癖は、もう止めたほうがいいと思って、、、

    十数年が経っています。



    実際、あまりにもウソが多いのです!


    ”時”の審判に掛けないとどんなものだか? そう思っています。

    あまり時代的な動きには、一番で乗らないように、、、。

    エコノミックなコマーシャリズムが仕掛けたものは、

    そのうちゴミを残して去っていくような空騒ぎのものばかりです。

    生き生きさは無く、時代が疲れていくばかりです。




    先日、訪問鑑定でお邪魔したご家庭で、

    私がその場で”先生”と呼ばれているので、

    その家の4、5歳くらいの御孫さんが、

    私の事を、幼稚園の先生とでも思ったからでしょうか?

    たまたま私と二人だけになった時、

    目の前にあるテレビを指差して、

    「テレビのなかは、全部本当の事?」と、

    つぶやくように訊いてきました。   

    テレビのなか?

    一瞬、意味が判らずに考えましたが、   

    あ!賢い子なんだ~ !


    「 そうね!そうかも知れないって気がついたのね? えらいわねぇ~

    ほんとじゃないって思ったの? 確かめたいのね!」


    そう言って、彼の反応を見ますと、

    納得したように頷きながら私の顔を見ています。

    もっと何か言ってほしいんだなぁ~ 知りたそうです。



    「アニメとかは、作り物って分るでしょう?」    

    肯いています。

    「本当に生きていないのね。

    ニュースだって、本当にどうなのかは、

    自分で行って自分の目で見ないと分らないと思わない?

    でもいちいち行ってる暇がないから、

    こんなのかなぁ~ってほんとうに? と思って見てるのね。

    でも、行って見たら全部ウソかもしれないね。」


    黙って深く頷いて、

    やっぱり、テレビってその程度? という彼なりに得心した様子でした。

    全部ウソかもしれないね、という言葉にたじろぐかと思いきや、

    彼は、その言葉で、落ち着いておとなしくなりました。



    ウソという言葉を私が口にしたのは、

    4,5歳の彼が、「全部ウソよ!」と、言ってほしがっていた、、、。

    きっと、この子は心の底ではテレビのウソウソしさを、見抜いていて、

    私なら、きっとそう言ってくれるとどこかで思って、

    訊いて来たのだって、ピーンと来たからなのです。

    家族に訊いても、きっと子供だからと、

    いい加減に誤魔化した答えしか言ってもらえない ?

    彼は、それを知っているかのように、

    ずっと、心に抱えていたことを口にしたのです。



    この子とのこの会話、この光景が忘れられない~です。

    子供は、未来から来る、と言います。

    たしかに本当ですね。

    今の訳の分からない、グジャグジャな社会を

    幼児の時から、眺めて育っているのですものね。

    大人より鋭敏な感受性で、ウソと本当を見抜いている。


    きっと、この子は、

    何が本当か、自分で考えて確かめる賢い大人になるんじゃないかって、、!

    未来のそういう大人と会話をした。そう云う感覚が残りました。

    幼児と話して、よくある感覚なのですが、

    1歳くらいから、

    表は幼児、内面に長老、お爺さんを感じることがよくあります。

    今日は、心配性なお爺さんと出会った、そういう残象感です。

    過去と未来の『時』が幼児の中で出遭っている不思議さでしょうか。







    ところで、ピークオイルという言葉をご存知ですか? 

    「安く豊富な石油文明の終焉(しゅうえん)」の事です。

    (石井吉徳・東大名誉教授) 


    これも、一つの過去になろうとしている”時”の名前です。


        
    1956年、米国の地質学者のハバートは、

    米国内の石油生産は66年~71年に生産量がピークと予測し、

    現在、それは結果的に当たったとされています。

    安くて潤沢な原油生産はすでに峠を越したとの認識です。

    油田はまだまだ地球上に存在します。

    石油資源が全くなくなるのではなく、

    低コストで生産できる油井が減り、

    生産が峠を越すピークという意味です。 

    オイルサンドと呼ばれる質の悪い石油資源も大量にあるらしいのですが、

    しかし、それらは生産が難しい深い海底や極地にあるので、

    ガソリンなどに精製するには大変なコストがかかる。

    低コストでの供給は難しい。

    結局、石油資源は希少化し価格は上昇する。

    高級品になるのですね。

    1リットルが1000円!!以上にもなる?と言われています。

    オイルピーク論者の間では世界のピークについては、

    2010年とする見方が一般的です。

    また国際エネルギー機関(IEA)のエコノミストは昨年、

    「おそらく2020年。需要の増加次第で2010年以降に

    『オイル・クランチ(原油の需給逼迫)』が来るかもしれない」

    と注目的な発言をしています




    ご存知でしたか?



    もう身近な問題です。

    10年以内に、1リットルが1000円以上になるかもしれない。

    そうかも知れないと思ったら、いろいろ考えられますね。


    私的には、現代文明の中で、一番迷惑だと思っているものが、

    化学的な、便利だというフレーズで押し付けられている化学製品群です。

    それらが安価で製造できなくなればいいのに~~!   あはは。


    防◯剤、 ◯◯剤、ばっかり!  もう、うんざり~!

    一切使う必要のないものを、押して付けて売る、この資本主義の俗化!

    こんなあきれる文明はもう、終わってほしいと思っています。




    不滅な文明は、ないのです。 

    不滅なものは 『時』そのものです。




    安っぽい物質文明も、安い石油もピークアウトしてほしい! あはは。

    貴重品として、どうしても要るものに、限定的に使えばいいのです。




    今日は、これで、

    また次へつづきます。

























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    『時が主役3』     審判は、『時』が行います。

    Category : 不滅なもの
    三宮駅前

    JR西日本・神戸三宮(さんのみや)駅前のゴミ箱









    恩人の墓参が目的で、神戸、広島、山口へ

    3泊4日の旅行に行って来ました。

    年に一回は、今までお世話になった方の墓参の旅をしていますが、

    今回は、いろいろな意味で感慨深い旅になりました。

    今日は、その事に触れながら、

    テーマは、『 染まる 』という事に観点を絞って、

    いままでメールをいただいている”恋愛”、”不倫”に関するご質問への

    ご返事にさせていただきます。







    見知らぬ地方の町を、時折訪ねると、

    そこには、自分の日常の時空を離れた物や、人がいて、

    それらを知る事ができるのは本当にたのしい事です。


    恩人の墓参は、血縁者を訪ねてお墓を案内していただくわけですが、

    初めて降り立った町の、印象は行く前の想像を越えていて、楽しみです。


    また、仕事で鑑定を依頼されて訪れる町も、

    時間のある限り、気の向くまま歩いてみたり、

    初めての道や、裏通りの細い辻などを歩いてみたり興味が尽きません。



    地方へ行くと日本は、ある時から共通の変化を遂げた事がわかります。

    おそらくそれは、戦後の高度経済成長期からかと思いますが、

    どこへ行っても駅前通りや、国道沿いに、均一の風景があります。


    ここは、東北? 

    空気の冷たさや目の前の山の形から確かめないと、

    ここは、どこで見た風景だった? 判らなくなっています。



    特に、新幹線の駅は、どこもおなじですねぇ~ (笑い)

    あ、新神戸の駅は違っていましたね!

    画一的ではない、個性を主張した駅だったと思います。



    特に関西において感じることは、

    滋賀も、奈良も、京都など大阪や兵庫もそうですが、

    自分たちの生活や文化、

    受け継がれた精神や歴史、その伝統を、

    ずっと守って来た人々の暮らしの形や思いが、

    あちこちに残っています。


    守られて来た古い物に出会い、それらを見る事ができるというだけでなく、


    長い年月の間、

    外来文化を積極的に取り込んで咀嚼して来たたくましさと、


    裏返せば、自己の文化に対する絶対の自負心を持ち、

    または、直接踏み込んだであろう外来文化に負けずに、染まりながらも、

    よそ者(西欧化)が、侵入するのはここまでにして!(笑い)と、

    戦って瀬戸際で食い止めて来た証しのようなものがあります。




    外来文化に対する、自分の文化への愛着と執着が、

    片鱗として残っている街や風景がそこここに存在します。


    その片鱗が、西洋化された現代のガラクタ狂想曲に混じって、

    その中でうずもれながらも、

    『ここよ! ここよ!』とサインを送ってくれている場所があって、

    そのサインを見つけると、

    どこか胸が締め付けられて、キュンとなるような気持ちにさせられます。

    それが、可愛いと、いう表現がいいのか? どうか、、、 

    それらが、

    伝統も歴史も捨て去った跡にできた現代の合理主義の猥雑物の中で、

    何百年も経って生き抜いている事に元気を貰う事もあるのです。

    私が、関西へ足しげく通うのも、その為かもしれませんね。




    外来文化に染められた日本を意識しながら旅をすると、

    宗教、哲学、道徳、文明、文化、において事にそうだろうと思うのは、

    高きものから、低きものへの流れはあっても、

    低きものが、高きものを染めるということは、ないだろうと思っています。




    文化と文化の関係もそうですが、


    人と人の関係もそうでしょう。




    特に、いろいろな人間関係の中で、真面目であれ、病的であれ?

    いわゆる恋愛においては、

    お互いが染め合うという事を忘れては、、、いけませんね。


    染めるというからには、

    何に染まるかということが重要です。

    染まった結果においては、それ以降の自分が多大な影響を受けます。


    通俗的な”うらない”では、恋愛だけを殊更取り出して

    運命の主題のように扱いますが、、、、

    ご存知ですね? それは営業ですよ。   あはは。 

    人がお金儲けでやっていることです。  

    どうか、、、、、営業されないでくださいね~~ 

    若い人は、大丈夫でしょうか? 



    私たちのこの世間は、いろんなものがあって世間ですから、

    高きも、低きも、あって世間なのですが、 あははっ~

    (世間とは、仏教語で、それぞれの存在に差別相があるという意味です。)




    恋愛が上手くいけば人生、事もなし。 ではありません。


    逆です。 


    人生上手くいけば、恋愛、事もなし。 です。。。

    特別に恋愛だけが重要ではなくて、恋愛をするあなたが重要なのです。




    誰かを好きになるということは、誰かの何かに染まることです。

    ここで問題なのが、

    自分が染まっても惜しくない相手を見つけるという事です。

    主役は、あなたの感情でもなく、欲望でもなく、

    『時』が主役ですから、年が経っても偽物にならないように。



    感情のままに人を次々取り替えて好きになることが、

    『時』を経て、どういったシミが自分に残るのか?

    せっかくの命を天に与えてもらって、最後どんなシミを残すのか?

    今的に西洋二元論で言うと、それが、いいか? わるいか?

    あなたの感情では決められません。

    あなたの意思だって無理なのです!




    審判は、『時』が行います。





    ただ、それを今、あなたの心の中で確かめたかったら、

    自分のなかの、あなたの高き心、

    尊敬と感謝を、あなたが周りの人へ注いでいるかどうか?


    自分のなかで、あなたの低き心、

    軽蔑と無関心の盾を、あなたが周りの人へ立てていないかどうか?


    命の糧を渡してくれる夫への感謝を忘れて、

    誰を好きになったところで、あなたの心は邪鬼に染まっているのです。



    美しい女性のすることではないわ!


    邪鬼が為した事《始》は、そのシミは、必ず、必ず、

    《末》としてあなたの娘に伝わるのよ。

    又は、娘がいなければ、息子の嫁が,あなたのやった行動を再現します。




    それが、物事の始末、《始=末》 始と末が揃って一部始終と言います。

    受け継ぐ命は永遠ですから・・・・・





    『時』は、天は、決して記憶喪失はしないから、、、、、

    このことだけは、あなたの肝に銘じておいてくださいね。



    運命鑑定家からのお願いです。


    この天が与える不思議な繰り返しが、

    人間に道があることを示しています。




    永遠に変わらぬ人としての道徳です。






























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    『時が主役4』     確かに地方は、乾いていましたね。

    Category : 不滅なもの
    瀬戸内

    雨上がりの瀬戸内海国立公園の白い砂浜












    前回のつづき、墓参旅行の雑感・『時が主役』のつづきです。

     


    確かに地方は、いろんな意味で乾いていましたね。


    自然が豊かで恵まれている土地では、人間は生活を成り立たせられなく

    なり、否応なく若者は都会に出て行く、

    それが決定的である現実を見て来ました。




    これは、訪問した国立公園内の昔からある集落を見た例です。


    私が訪ねた故人の縁故者の方が、遠くから来た私をもてなす為に、

    瀬戸内海の島々の観光へドライブに誘ってくださったのです。


    本州側から橋を渡り、笠戸島という島へ行きました。

    《風光明媚》とは、こういう意味だったかと思うくらい

    沈水海岸による複雑で優美な海岸線で、海も山も静かで美しかった。




    ”笠戸”という島名は、

    むかし、神功皇后が、朝鮮征伐の折に船で立ち寄って

    海辺の戸先へご自分の笠をお掛けになったから、とか、

    諸説があるようです。



    神功皇后は、仲哀天皇の皇后で、

    気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)です。

    仲哀天皇の没後、懐妊のまま朝鮮半島に遠征をし、

    帰国後に応神天皇を出産します。



    ・・・そうか、この辺りは昔から朝鮮半島と縁が深かったのだな!・・・

    ・・・目の前の海も遣唐使の船が通ったかもしれない?・・・



    説明をしてくれる声を聞きながら想像をして海を見渡しました。



    夕日がきれいという丘まで上がって眺めた海は、

    さながら湖のように海面は静かで、

    波ひとつありませんでした。

    回廊やテラスに囲まれた建物群は、海に臨んで

    まるで映画のセットのようにきれいでした!



    またいつか、夏に一度、訪れてみたい気になった位です。




    ところが、

    島の湾を一周して、島内をドライブして廻ると、

    観光地区の華やかさとは打って変わって、

    昔からの集落は、地場産業である造船業が衰微したために、

    昔の面影はなく、年寄りばかりが残って寂れている。


    ・・・そう仰っていましたね。




    テレビ等でみる限界集落が、山奥ばかりでなく、

    国立公園内の集落でもおこっているという事。

    なにかをしようとしても、

    国有地で調整区域であるために、新参者は入り込めない。

    土地の売買も、新しい建物を建てる事も新参者には

    法の規制があるという事でした。





    日立製作所、東洋鋼鈑、日新製鋼、などの

    大企業が多いにもかかわらずに、地元で就職難とは? 

    新幹線や山手線の電車を一手に製造している、(日立製作所)

    その横には資材である鋼鈑を製造する、(東洋鋼鈑)

    その横には、

    (日本石油)が、かって工場を撤退していった広大な敷地が、

    地肌を出して更地になっていました。

    最後は、すべて大地に戻る。その通りの光景でした。 


    この島を橋で結ぶ本土側は、

    瀬戸内海沿岸石油コンビナートの工場地帯。

    新幹線の車窓からは、何十キロも続く石油精製所の光景が見えました。



    原油を積んだ巨大なタンカーが何隻も並んだであろう港、(今はからっぽ)

    巨大な天然ガスのタンクの群れ、

    何キロも続く迷路のようなパイプライン。

    それが、もう新規投資をされていない証拠に鈍い錆びた色で、

    光の輝きを失っていました!




    もう、全部は稼動していないのかしら?(笑い) 

    設備を廃棄処分するのも、膨大な経費が掛かるのでしょう~



    なんとなくもう、石油の時代はおわりだよ~という感じを、実感、、、。


    ・・・石油は、もう斜陽の産業??!・・・


    これは、物事の極表層・・・経済の問題にしか過ぎません。


    ・・・地方の活性化は、

    国の政治一本でやったところで、

    その施策は末端の人々まで行き渡らない。・・・


    ・・・やはり、

    自分たちの地域を自分たちでなんとかする地方自治の時代・・・



    これも、物事の極表層・・・政治の問題にしか過ぎません。

    人間の意識の領域の、知識と思考のなせる技、その世界の事象です。



    ドライブの途中、

    運転席の縁故者の方の説明を聞きながら、

    目は眼前の景色を追いながら・・・・・・


    私は、その奥のもっと大きな『時』の存在を考えていました。




    これらの経済的な、政治的な問題であろう事象は、

    すべて大きな『時』の移り変わりの現象の現れです。






    東洋の知恵は、その現象を起こしている根源の世界の秩序を

    『時』の移り変わり=『天』の気を、『天の道』と言いました。



    『天の道』は、五感の目では捉えられません。

    つまり、意識では認識しにくい。

    つまり、それが自然というものの本来の実態です。




    しかし、私たち凡人は、目で見えるようになると気が付きます。

    目の前に展開される光景なら、誰もが気がつきます。



    目で見えるようになるということは=天の気が地上に物(として)事を結ぶ。

    物(として)事を結ぶというこの表現を、意識しておいてくださいね!



    むずかしいかしら・・・・・?  (笑い)


    天の気が大地の上に物(として)事を結んで、

    あらゆることが目の前に展開するのです。




    これを、『地の理』(利では、ありませんよ!)と言います。



    それぞれの現象の差別が意識で捕らえられるような事物になるのです。

    山、川、水の流れ、風向き、陽の差し方、湿気、暖気、気温、季節等です。






    私たちは、平等に天の気を享けて、、、

    大地の上の『地の理』を意識(五感)で掴まえながら生きるのです。

    その生きる方途が、『人の紀』です。

    この『人の紀』における秩序が道徳であろうと思います。




    私たちは、『天の道』を意識では認識できないけれど、

    無意識で悟れます。





    なぜなら、私たちは『天の道』の秩序から生を享けて、今、あるのです。

    私たちの命の秩序と、『天の道』の秩序は同一です。

    私たちの命の中を、『天の道』の秩序は貫通し、

    共に存在しているからです。




    『天の道』と『地の理』の『道』と『理』で、いわゆる『道理』となります。


    道理に沿って生きる、それが道徳であろうと思います。


    天と地に調和する為に、人間としてのルール『人の紀』があります。






    『天の道』は宇宙の運行として『時』として、

    大地の上の『地の理』の事象を通して、

    私たちにその変化を知れ!知れ!と言って来ます。



    私たちがそれに気がつく、そのもっと前から、

    10年や100年より、もっと前からです。



    人間のエゴ(天の運行の『時』の秩序の破壊行為)の行き過ぎを

    ストップさせようと、方向転換を示唆して来ている・・・



    それが、

    目に見えないが確実に変化を起こす根本原因=天の気運です。



    その『時』には、逆らえないでしょう。誰だってです~


    が、


    ほこり(誇り?埃?)高い権力者はそれを無視します。


    『天』、『時』の変化に調和しようとしたら、

    私たちの感情も、感傷も、理性が作った理屈の抗弁も要りません!

    いさぎよく人間は、自然=天に従うしかないのです。



    あの石油コンビナートの巨大なスクラップ、どうするのかしら? 

    いずれは、大地の上に何もなくなって、元の自然の風景へ戻るでしょう。

    『地の理』は、『天の道』へエネルギーを返してしまうのでしょう。





    この表層的な時の変化に遅れずに、うまく乗り換えようと、

    グズグズ言うのは、

    まず、理念も哲学も希薄な人間の意識の所産の中では、

    一番ドンクサイのは、経済や政治の意識です。(笑い)


    なにがなんでも、利権と、占有を手放したくないのですから。



    哲学のない、道徳性が低い経済や政治は、

    それ自身の不完全さと不自由さ故に、眼前の者を敵と見做し、

    渇望から物を奪い合う畜生道を具現するだけです。



    あ、これは社会や世の中の事で、個人的には関係ないでしょう、って?

    私には関係ないわよ!、、、?


    いいえ、とんでもない! のです~。



    社会の汚濁や歪みは、簡単に個人の心身を『染め』ますよ~。

    染められやすいのが、生物です。

    みんな異体異心のままの心中ですね。(笑い)

    はとやまさんとおざわさんみたい、、、。 あははっ~!



    民主主義の筋は多数決だから、ひとりでも多くの『染められない』人が、

    増えなきゃ、いけません。


    あなたを信じて、これを書いていますので、

    どうか『染められない』一人になってくださいね。


    運命鑑定家からのお願いです。


































    『天の道』『地の理』『人の紀』については、

    『呂氏春秋』を参考にさせていただきました。

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    『因果応報の源 時間を生きる』 6. 移ろう『時』の空しさを恐れない立ち位置で永遠という『時』に沿う生き方

    Category : 不滅なもの
    森の日

    梅雨の晴れ間の森 鴬の声






    『因果応報の源 時間を生きる』 6回です。

    今日は、色界(仏教で物質の世界を意味する)に光を当てて、

    体・肉体における『因果応報』です。




    前の記事は、

    本人自身がまったく意識する事に関係なく、

    人間の脳の視床下部には、太陽や地球の一日のリズムに合わせて

    命の生存を保持する機能が、無意識的に働いているという事実から、

    『天の道』から、道徳、先祖のお墓参りまでの話へ進んだのでした!





    つまり、地球上の生物は、生存する為のあらゆる機能を、

    無意識の世界の『天』のパワーを享けて、

    命が『天』の一部として機能しているという事実です。

    『天』とは、自然、宇宙に存在するリズムです!





    さて、

    この地球上の生物には、

    太陽や地球の一日だけではなく、


    さらに年単位や

    月の動きにあわせた生物のリズムが、あるそうです。


    昆虫のセミは13年に1度一斉に成虫となり交尾します。

    竹は7年に1回花を咲かせ、

    鹿は毎年角を落とします。

    人間の皮膚は、2週間でターンオーバーし、

    全身の細胞がすべて入れ替わるには、3年が掛かるとか?



    体の各部分が、各々違うサイクルで新陳代謝を繰り返す。

    ふしぎな時のうねりが、体の中にあります。



    それを考えると、



    私達の存在において、今という純粋な『時』はないようです?


    どういうこと? ?



    だって全身の細胞が、それぞれ製造年月日時がバラバラで、

    古くなって老廃物となって捨てられる廃棄期限が違う、、、。(笑い)

    肉体は、それぞれが生きて経過した時間が違う細胞で構成され、

    それらの過去の細胞に包まれて、今の現在の体があるのですから、、、。



    爪だって、今伸びた爪はどれ? 爪のどこの部分? 

    そうして見るほどもなく、ほとんどの爪は古い! (笑い)

    髪の毛だって、そう! 長く伸ばした毛なら2年前の毛が、

    ほら、毛先に!

    皮膚だって、垢になる表皮は、過去のものでしょう? 


    人間の体だけじゃないわ~


    太陽光線だって、今の瞬間、太陽が発した光ではないでしょう!

    太陽の光が、地球の私達の手元に届くには、8.3分!




    私達の、

    主観が意識する”今という瞬間”は、客観世界においては、過去の累積です。

    過去の遺物で支えられている。


    まさに、マルクスの言う通り、

    過去から与えられ伝播された、既に存在する状況の下で

    私たちは、今という瞬間を味わうのですよ!



    しつこいようですが、

    今現在の私たちの肉体には、

    過去3年前後の間の食べ物の分子で構成された物も含まれ、

    思った事、行動した事で得た血液の汚れと、

    それから受ける細胞のダメージの歴史と、

    宇宙からの紫外線の影響によって変質した古い皮質などで、

    作られているとも言える !?



    このように、今の私達の体は、過去の自分の所業が集めたもの、

    所業の結果で集ったもの、の積み木細工なのです。

    今の瞬間! よりも古い過去のモノで作られている!




    その集積が、私たちの現在の姿形を作っている。

    それが、私たちの抱える現実そのものなのです。

    私たちの現在は、積み上げた過去からの集積なのです!



    この事自体が、自分の過去からの因果応報の状況ではないですか?

    今の自分は、過去の自分の寄せ集め?




    ある例を、ご紹介しましょうね。


    アメリカ先住民のイロコイ五部族のジョン・モホーク族の

    『時』に関する言い伝えに、

    「我々が今日為したことは、遠い将来に反響する。

    7代先の子孫に起こる事まで責任を持って、

    今日の行いを為さなければならない。」
    という概念があったそうです。



    なんと言うすばらしい! 保守主義でしょうか!




    これは、

    政治的な右派とか左派という保守主義ではなくて、

    今行うことがこの先何倍にもなって帰って来るので、

    今行うことについて非常に慎重になる、そういう意味での真の保守主義です。



    彼らは、

    岩を手で打てば、その痛さで返ってくるものがある。

    自分が自分の外へ発したエネルギーの反響は、

    『時』を経て自分へ帰ってくる!



    物体だけでなく、肉体と不二である精神においても、

    自らの主観を客観へ解き放ったエネルギー結果が、

    『時』を経て自分の主観をゆさぶる!


    自分の主観から客観へ、客観から我の主観へという相互の働きがあるのを

    経験的に解っていて、その事を認めていたのでしょう。





    色界や無色界(形のない世界・心)・欲界(欲望の世界)における変化は、

    『時』とともに移ろい、仏教で言う処の無常観を生んでいます。



    この無常観を恐れずに、永久にこの『時』とともにあろうとする。



    この志向は、移ろう『時』の空しさを恐れない立ち位置です。

    『時』の移ろいを逆手にとって、利用する?

    この移ろう『時』のエネルギーの中に自らが飛び込み、

    過去と未来の両方の『時』と共にあろうとする、

    移ろう『時』と共に自分が存在しようという生き方、


    永遠という『時』に沿う生き方だ思います。





    すばらしい!




    悲しみが即移ろって、よろこびに変わる、

    苦しみが即移ろって、希望に変わる。

    過去と未来が、現在のなかに融け合っているのです。


    『天の道』=『時』

    『時』によって過去が現在の原因になり、現在が未来の原因になる。

    『時』によって現在が過去の結果であり、未来が現在の結果になる。



    このように、

    現在の姿・形のなかに過去を観る事ができ、

    現在の姿・形のなかに未来を観る事ができる。

    この『因果応報』という条理を嘆き、恨むのではなくて、

    これをを使いこなし、未来に幸いの結果を出すのが智恵です。






    そのためには、


    常に、今(now)という『時』は、いつも新しい(new)でなければいけません。





    日々新たなり。



    カレンダー上の今日の次の日がやって来る、のではないのですよ! (笑い)

    順番ではありません! あはは。


    今までにない新しい日が、昨日とは違う日が、

    毎日、巡って来るという事です。



    夜、目を閉じる時に、過去は創造的に明日へ、

    朝、目を開く時に、生まれて初めての日に出会うのです!

    その為には、自分が古くなってはいけないのですね。

    その時、初めて、自分が真の自立をしたと言えるのです。

    自分の環境からだけでなく、時間からさえも、自由になれるのです。

    あなたが『天』そのものへ成る。

    そういうことです・・・・・



    It is the truth when the day is new.

    It is the new when the day is new.

    It is to be new.

    It is the new.

     now? new!   



    『時』について、まだ続きます。


















    参考文献 『 生物時計はなぜリズムを刻むのか』 日経BP社

     著者 ラッセル・フォスター / レオン・クライツマン

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    テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
    ジャンル : 心と身体

            

    『因果応報の源 時間を生きる』 7.                                                                                                                     体と心と口の行為は、必ず、客観世界からその反響が自分の主観世界へ返ってくるという事。

    Category : 不滅なもの
    採れたてのイチゴ

    とても強い,イチゴの甘い香りが~










    前回の『因果応報の源 時間を生きる』 6.において、

    私達の命の構成が、さまざまな時のうねりの中にあると書きました。



    命とは、心身ともにです。






    精神と肉体に二つに分けるのは、西洋文明の二元論です。

    東洋的存在の考え方は、精神と肉体が、一体不二であるという事です。

    だから、東洋の仏教から出てきた『因果応報』の認識は、

    西洋文明の二元論における精神と肉体に分けて考えないでくださいね。



    たとえば、

    壁を手のひらで叩いた場合、

    手の平はどうなるか?   あはは。

    叩いたエネルギーに関して、手の平が壁の反発を受けて、”痛い!”

    真っ赤に腫れ上がるほど痛い目にあう、そう、間違いない反応ですね。


    そう! これは、

    (西洋二元論の物についての)学問の物理学です。

    ならば、

    (西洋二元論の心についての)学問の心理学でも同じだと言う事です。



    これらの学問は、二元論の範疇を出ていません。



    あくまでも、人と宇宙、人と自然を分けています。

    人と関係のない物の世界、宇宙です。

    人と関係のない物の世界、自然です。

    心理学ですら、宇宙と自然から切り離した人間の心理です!

    (人の心理は、風土や地理と切り離せないものなのに~)

    そう!物理と心理の学問だけで、すべてはカバーできないのです。

    そこを埋める学問が、つぎつぎと生まれてくる・・・あはは。

    キリがない! 分かれて分かれて、枝になって、、、陽そのものです。




    西洋学問の知識は、時間とともに古くなる。  陽だからです。 



    東洋なら、両者を二つに分ける必要はありません。

    す・べ・てが一体なのです!

    統一、含蓄、一つのものに帰っていく。






    主観世界の自分の感情、思いを込めて、「憎たらしい!」と思って叩けば、

    あなたの主観世界に存在した、その感情と同じものを、

    今度は、それと同じ迫力で ”憎い!”の感情を、

    将来、あなたの主観世界で受け取る事になるという事です。


    十分ご注意あれ~ (笑い)  


             ここまで、OKですか ?



    じゃぁ、次にいきますよ!




    ”今がラクで、後が辛い人生。

    今は辛くとも、後がラクになる人生。”


    あなたはどちらを選びますか



    「今は辛くとも後がラクになる人生」、これこそが極意といえそうです。


    何故かは、この世は、皮相世界では、無常の世界だからです。

    つまり、人間は間違いなく年を取り、死にます。

    弱って、力が無くなる結末へ向かって生きなければならない訳です。

    それならば、誰だって、

    力のなくなった晩年には、死の直前には楽が来るようにしたい。

    そう望むのが、当然です。


    これは、間違っていないでしょうね。 (笑い)





    だから、脅かすわけではないのですが、

    人生の原理原則は、

    「行きはヨイヨイ、帰りはコワイ」のです。  あはは。



    私達は、『時』を経ると共にどんどん若々しくならない。力強くならない。

    だから、これは避けられない根本命題ですね。



    これは、どうしようもない、のではなく、

    どうにかしなくてはいけない。

    そういう苦に、立ち向かって生きて行かなくてはいけない。


    これが、生まれた以上、解決しなければならない苦です。

    釈迦の言う、四苦(生・老・病・死)の生の苦です。




    生きていこうとするだけで、苦しい。それが生の苦です。



    生物は、

    根本的に自立をめざして生きなければならなくなっているのです。


    そうしないと、誰かにおんぶ、迷惑をかけてしまうのです。

    おんぶだ、だっこだと言えるのは、

    これは、共同だ、平等だと社会制度を作れる人間の場合で、

    本来は、自立しない生物は、死ぬしかないのです。


    これは、蟻も、ライオンも、小鳥も同じ。



    違うのは、ペットくらいかな?

    ペットは、依存するからペットと言い、飼い主に”生”を

    ゆだねる代わりに自由を失っているザマなのです。



    生物は、自立をしない命は、滅びます。


    それが、自然の掟です。






    ここまでをまとめますと、

    体と心の行為は、必ず、

    客観世界からその反響が自分の主観世界へ返ってくるという事。

    その条理の上に、生きる上で、

    ”帰りはヨイヨイ!”の結果になることを誰もが望むのでしょう。


    むずかしい・・・あはは。

    ・・・・・まだ、あるの~




    ? !


    そう、まだ。あります! (笑い)


    自分の為した因果応報を受ける、もうひとつのもの・・・?

    口から出すものです。えっ?...う~ん、  『言葉』。




    私たちの口から出した言葉です。

    強い感情を伴う言葉、何の考えもなく口から出る言葉、いろいろあります。

    あなたの言葉も、あなたの因果応報の原因になります。



    心にあって、それを出すのが、言葉。 

    心にもない、言葉。 




    もともと『因果応報』は、仏教の言葉です。

    身口意の三業(しんくい)の(さんごう)と言って、

    身の行う所為、

    口から出す音声。

    意(心)に抱く思い、

    これらの三つを原因として、

    その結果がそれぞれ自分に報われると説かれていますよ~



    いやぁ~ほんとう ? (笑い)

    よく、考えるとぞ~っとするでしょう~。  あはは。


    そんなこと、考えたこともなかった、、、、、






    という事で、、、、、私達は、

    現在は、過去の自己の身口意の行為の集積の真っ只中にあります。


    じゃぁ、自分の現在は、ずっ~と自分の過去に縛られたままで、

    過去から開放されることはないの?

    不自由そのものじゃない~!




    いいえ~!

    違うのよ!


    まったくの

    自由を手に入れるのは、そんなに簡単な事ではないけれど、

    不自由だと、

    決め付ける事は間違っているわ!



    じゃ、なにが?




    それに気がついて欲しいから、これを、ず~っと書いています。

    もっと『時』の認識を深く、簡単に思ってはいけないのです!



    『時』とは、カレンダーにある均一な日の羅列じゃない。

    時計のまるい文字盤の均等分された角度が、『時』ではないのよ。



    今日は、簡単に書きますが、



    『時』は、必ず過ぎ去る。

    この世のすべては、『時』とともに必ず移ろって変化をする。

    ある法則をもって、変化をしているわけ。

    その『時』の法則を、

    計れる物として、意識で解明していくのが物理や、天文学でしょう。




    しかし、計れないし、物とは決めつけられないし、

    意識の領域だけでは不十分でしょう。

    それを解明していくのが本来の宗教、宗教哲学、哲学というものです。

    人を仏の視座まで高めようとする慈悲で説かれたものが仏教なら、


    人間が、人のままで、人のレベルまでの

    移り変わる『時』と人間との関係を

    解き明かそうとするものが運命学です。


    運命学が扱うのは、人のレベルまでです。



    私達は、過去に放った自分の主観の反響を必ず未来に受け取ります。

    現在は、過去のその結果と、未来の結果になる原因のただ中に居ます。



    それなら、

    未来に良い結果が起こるに違いない原因とする現在を生きることです。



    今の瞬時が、すぐさま過去の瞬間になるのなら、

    過ぎ去る『時』のスピードを受身で眺めて、見送りながら惜しむ態度より、

    逆に、『時』が現在の結果として運んでくる未来の時を、

    良きにつけ、悪しきにつけ、

    能動的に受け止めようと、迎えて待つようにすることだわ!



    自分の未来を、『時』より早く先回りをして、

    (これは、意識にできることよ)

    自分の未来を出迎える。


    それです!



    不安な心配な未来を恐れないでいいように、

    その変化を、今より良い変化に変われるチャンスとして生かす事です。




    その変化とともに生きようとする事。

    より良い結果の未来をすごせる様に、現在を生きようとする事です。

    言い換えれば、未来のために現在の自分を生きることです。

    未来に生きる事によって、過去の縛りを放ってしまう事です。




    それが、無常から逃れる方法のひとつです。

    言うのは簡単ですが、変わるのには努力が要るでしょうし、

    そして、無鉄砲にやっても無駄多しですよ。

    主観のルツボに入ったら、害多しでしょう。


    肝心な事は、自己を客観的に観るものさしを持つ事。


    できうれば、自分の誕生命式から、自分のタイムテーブルを知って、

    自分を冷静に客観視できる視座を持つ事をおすすめします。


    何事もそうですが、現実を客観視できれば、全ては手の内です。



    それには、時間も掛かるでしょう。


    しばし、未来が変わるのには時間が掛かります。

    未来までには、しばしの時間の余裕がありますか?



    それを、待てますか?

    粘り強く、忍耐できますか?



    これは、我慢をするための忍耐ではないわ!

    自分の未来を切り開く、希望のある忍耐です。


    希望を失わない持久戦、何を信じて、、、?




    自分の未来を信じる忍耐ですね。




    それが、瞬間、瞬間を、希望の中に生きるという事です。



















    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 

    どうぞ宜しくお願いします。








    テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
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    コメントへのお返事 25.    近代合理主義の理紋からみる   お墓 ①                       ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 絶対性を失った物質文明の中の「物」   

    Category : 不滅なもの
     
     富士山頂からの雲海 


    富士山頂の雲

         



                                  

    今回の写真は、日常とは違った気分を味わっていただこうと、  ほっ。
    とっておきの写真をアップしました。


    真夏の8月、
    富士山頂で、登山者が雲海を眺めて休憩をしている光景です。
    遠くから見る富士は、清冽で荘厳なのですが、
    シーズン中は登山者が世間の汚れを持ちこみますので、、、あっは。
    こんな俗っぽい所がいまだにあったのかと呆れるくらいに、
    ご覧の通り、登山者がごった返しています。
    頂上は抜けるような青空で快晴、
    下界は、この雲が邪魔をして頂上が見えない曇りだったはずです。



    お気づきとは思いますが、ちょっと画面を修正をしております。
    こちらを向いていた人物を2人、消しました、、、    ほほっ。










    上の景色を、富士山頂から眺めて、早2年以上が経ちました。





       2年前の富士登山の写真は、ここと、ここと、ここと、ここをクリックして
               ご覧になってください!







    雲は、足元にあるもの、、、
    雲は、足元に湧くもの、、、
    そう、雲は、見下ろすものなのですよ、、、       あは。
    それが、富士山頂の常識なのです。    ほほっ。


    この2年間、その鮮烈な感覚はつづいていました、、、
    目をつむれば、この景色がまぶたに広がって、、、  
    この景色が壁紙のように存在していました。
    下界の生活の中で、
    どうして、雲を、見上げないといけないのだろう?   あはは。
    と云う違和感がつきまとっていたものです。  



    山頂は、細いロープを張り廻らせただけで柵もなく、
    足元の視界を遮るものは何もありません。


    足下に、富士の溶岩肌の急斜面をおおう雲間から下界が見られます。


    下界をおおう青みがかった透明な大気は、地上からの蒸気で揺れていて、
    まるで、たゆたう巨大な湖の淵に立って、
    その深い湖底を覗き見ているかのようでした。


    はるか下の湖底には、
    くっきりと、本物の富士五湖の河口湖、山中湖、その右手には
    海面に靄(もや)が立ち昇る駿河湾があって、
    その先には、光る太平洋が遠くに靄って広がっています。
    御鉢めぐりをすると、
    何も遮るもののない独立峰ならではの景色が360度見渡せました。
    独立峰の富士の頂上には、
    空、風、天空からの大気、海からの蒸気、雲、光と云う自然エネルギーが
    交流するど真ん中に突き出た高舞台のような臨場感があって、
    一度それを味わった人は、また再び、
    その自然のライブの真っ只中に立ってみたくなるようです。
    富士には毎年登ると決めている方も多いようです。     



    富士がいつか噴火をする事があっても、
    あの形は変わって欲しくないですね。













    ―――  ここから、ちょっとむずかしくなります。     ほっ。










    我々が生きているこの近代合理主義社会の【空間】と云うものは、
    【日本最高峰の独立峯の富士山頂の存在】を否定しています。
    そこから見える景色、眺望をも否定しています。







    えっつ??    何のことやら、ですか?   あはは。
    急に、、、富士山頂といわれても、、、?     ほっ。
    富士山頂も、そこから見える景色も否定している、
    それが、近代合理主義社会?



    ほら、『陰』と『陽』、意識と無意識ですよ! 
    富士山頂を、『陰』、無意識に譬(たと)えているのですよ。  ほほっ。



    上の文章の中で、
    【日本最高峰の独立峯の富士山頂の存在】 を、
    『陰』 又は、 【無意識の世界】 と置き換えて読んでみてください。
    今までのブログを読んでくださった読者には、
    よくお分かりになるはずです。





    今まで記事に書いて来た事で、


    近代合理主義は、『陰』を無視している
    意識に掴めない無意識界の存在を認めていないと云う事です。




    その『陰』である無意識を、富士山頂に譬えてます。
    ( 我々の住む下界が、『陽』、意識になります。)





    『陰』   と 『陽』、 
    無意識界と意識界、
    命の本源と現象界、
    それぞれの関係を思い出していただけましたか?




          OKですね ?    あはは。



    今日は、新しい概念の追加をします。  
    『陰』と『陽』に、新しい2つを振り分けます。






    ひと息、ここでおきます!   
    後から又、つづきをします。
    つづきの始まりは、≪富士山頂≫がキーワードです。 
    憶えておいてくださいね!    ほほっ。



    ≪富士山頂≫ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    《東洋哲学を宣揚》ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー☆










    今日は、一年のまとめのような記事になります。
    おそらく、いつもより長文になりそうで、、、     あはは。  
    年末年始に掛かりますが、次の更新までは十分な間があります。 ほほっ。
    お時間がある時に、なんどもご訪問くださって、
    ゆっくりお読みになってくださいますように。       ほほっ。






    過去数年間、
    このブログにおいて、
    『陰』を否定する思想が、体の中に入るとどうなるのか?


    と云う事に関しまして、
    近代合理主義と云う 《思想のおそろしさ 》 について書いて来ました。


    近代合理主義と云う 《思想のおそろしさ 》は、
    のちほど、本論の中で、《近代合理主義の相貌》と云う事で
    いままで記事にしていなかった領域も書く予定です。



    これが、私から、みなさんへのお正月のお年玉!


    お正月休みに、ごゆっくり、お読みいただきますように!
    この狂った時代を、どう見通していけばいいのか、
    みなまの安泰、一家の安泰、御子孫の繁栄を祈っております。

    (近代合理主義はこの反対の現実が実現します。)


    おたのしみに!       



    時期的にはクリスマスプレゼント?   ほほっ。
    とんでもありません!  、、、ではありませんのよ!
    私は東洋の仏教徒ですので、西洋のお祭りはしない事にしています。
    二つ心は、持たない。
    これが信条でございますの。  ほほっ。
    いくら、戯れ事、遊びのつもりでも意識からは無意識へ入って行きます。
    無意識に一度入った物を消すのは大変です。
    楽の快感で受け容れた事は捨てるのに苦しみます。
    これが、近代合理主義の完璧なテクです。
    どうして、こんな子供っぽい思想が見破れないのか?  あはは。
    やさしく、なぐさめ、
    きれいな世界を想像させて、あごがれさせる、
    みにくい欲望をきれいな言葉で飾り、
    愛という言葉をひろめる、、、
    近代合理主義は目に耳に鼻に口に手に、気持ち良いからです。
    そして、
    これを一旦受け入れたら手放せない様に繰り返す、繰り返す、
    意識の快感を追求し、
    そのちょうどいい処をデザインし、
    物としたら完璧なまでの造形を追求するのですね。   あはは。
    しかし、そこまでです。
    無常の範疇の、崩れ去る天国、天界止まりです。
    そんなものをいくら積み上げても『陰』の幸せは掴めませんよ。
    『陰』とは、?


    近代合理主義と云う 《思想のおそろしさ 》は、
    個人においては、
    『陰』の本質である徳分を失わせて心身を破るだけでなく、
    極端な個人主義、夫婦や、親子、家族を破り、家庭の消滅、
    家系から見た絶家と云う姿に至ります。
    社会的には、
    男性のメス化、非婚化、少子化、女性の不妊症等を書き続けて来ました。


    愛だ、
    アイダ、あいだ、と云いながら、
    間(あいだ)ができちゃう!   あはは。
    人と人との間が、遠く、広く、開いてバラバラになって、、、
    ひとりひとりが孤立していくのです。
    意識を中心とすると、みんな意識は違いますから、、、ね!
    つなぐものがない。
    つなぐもの、、、そこが、『陰』です。



    これらについては、後ほど、近代合理主義の相貌についてで、
    詳しく記事に致しますが、
    すべてが、命の敗退へつながるものです。
    これらは、確かに民族の時間をかけた衰亡の姿なのです。




    これからも、これらは、このブログの大きなテーマに変わりはありません。





    命の種を断つ近代合理主義の欠陥を克服するには、
    東洋哲学を宣揚するしかないと云うのが、
    私の運命学の鑑定から得た信念である限り、
    この東洋的観点が、非常に大事になって来ます。




    それ故に、このブログの中には、
    科学的、合理主義的な論理を前提にした記事は、ございません。


    そうなのです。 
    まるきり、時代と真逆でございます。     ほほっ。
    この立ち位置を、ご承知おきくださいませ、、、     ほっ。



    《思想のおそろしさ》ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー☆









    近代合理主義と云う 《思想のおそろしさ 》を分かりやすくする為に、
    今日は、
    ① その恐ろしさの発生元を確認しましょう。   あはは。
       《近代合理主義の氏素性》です。


    そして、その後に、


    ② 東洋学から観た《近代合理主義の相貌(そうぼう)》を
       明らかにできればいいと思っております。





    これらは、本論で! くわしく!    ほほっ。




    《国家神道の例 》ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー☆




    あっ、その前に、
    一般的に、我々は思想に無関心ですよね?
    めんどうな、むずかしい、いそがしいのだから、、、   ほほっ。
    民主主義だってどんなものか?    あはは。
    毎日をどう過ごそうかとするだけ、
    一日一日が大切でしょう?  自分がどう思うかだわ!
    今、自分の意識がどうなのか?と云う点だけで生きようとする人が、
    非常に多くなって来ているように思います。
    思想に無関心で、自分の意識ばかりを見つめていたら?
    自分の意識こそが、時代の思想に染まって行っているのですよ!




    思想を、いい加減にしていたら、どんな目に遭うのか?
    思想に無関心だったら、どうなるのか?





    その良い例が、 国家神道ですよ!    ほほっ。


    ■ かっての国家神道。
    国民は、明治政府が作ったこの新興宗教を受け容れましたね。
    どう云う気持でだったかは、さまざまでしょう。
    信仰心からでしたか?
    政治的圧力で以って?
    皆がそうだと言うから?
    天皇が神だって、反対できる訳がない!


    そもそもが、政府は法律や制度を作るものです。
    宗教を作る機関ではありませんよ。
    そこから、おかしかったのです。
    だれもきがつかなかったのかなあ~




    シュタイナーが述べているヒエラルキーでは、
    政治は宗教より下の下の下ですよ。


    宗教、その下が教育、その下が芸術、その下が政治、
    まったく立場が逆の下層の政治ごときが神を定めたのです。
    オカシイと思わないで黙って受け入れたのでしたか? 
    その時の知識人は気が付かなかったのでしょうか?


    平社員が、課長や部長や専務を飛び越えて、社長を指名する!
    平社員が、自分の政治権力で思い通りにできる社長が欲しかったのです。
    --- そもそもが道理に反している、非常識なのです。
    だれかが、その点に気が付いていたのでしょうか?




    あ、今の世の中もそうじゃないか、って ?     ほほっ。
    政治が、宗教や教育や芸術の上で居座っている、、、


    ーーー それは、今の社会に広まっている思想が卑しいからです。









    まったく明治維新から、日本は、ここから狂ったのです。
    あ、徳川までが正しかった、と云う訳ではありませんよ。   あはは。


    もう、ここで、日本は西欧に劣っていたのです。


    明治政府が西洋列強の立憲君主国家に伍して行く為に、
    急こしらえした国家神道より、
    よほど、西洋のキリスト教の神が、
    この世界を創ったと云うおとぎ話の方が、まだとりえがあります。
    キリスト教のおとぎ話の方が、きよらかだわ~。 ほっ。
    それに引き比べ、
    明治政府の国家神道は、ドロドロと、、、
    醜い政治権力が世界政治の場での競争の為に生んだもの、


    これは宗教ではありませんね。
    少なくとも、宗教は不幸な人間を救う為に成立してほしい、
    どんな宗教でも、そこに動機があるはずです。


    国家神道って何だったのでしょう?
    政治が生めるものは、法律? 法律による制度?位です。
    法律や制度で決めた程度のものを、
    国家神道と云う宗教だと?
    これは、もう稚拙な政治が、その綻びを隠す為の擬態そのものです。
    恥ずかしい、みっともない宗教観だったのですね。
    我々の先祖、日本国民だけなく世界中の列強を偽って騙した。
    実に愚かな事をしたものですね。


    東洋の地、日本で、
    まさか、『天地』の道理を無視をし、
    こんなイカサマ宗教を平気でねつ造する
    欺瞞に満ちた国の政府が作った神を、
    ヒエラルキー最上部に位置する宗教界の他の神仏達は、
    認めるはずがありません。
    宗教のヒエラルキー最高部から、政治の下層へ蹴落としたはずです。


    蹴落とされた結果が、
    東京裁判の国家神道の斬首です。
    東京裁判を肯定しているのではありませんが、
    すべて、戦争とは、原理はその思想戦ですから、
    これは、西欧の列強、キリスト教の神に斬首されたと云う事です。




    東洋思想の『天・人・地』の三才の上からも、
    『天地』に認められない『人』の行いの天罰として、
    『天』と『地』の間に、この国の民は居場所を失くしたはずです。
    その結果が、
    世界に大恥をかいて、亡国の憂き目に遭ったのです。



    中味も確かめないで黙って受け入れる事ほど恐ろしい事はない。


    中味を知らないって黙って受け入れる事ほど恐ろしい事はない。


    国が為した事の結果と云うのは、亡国の憂き目にまで行くと云う事です。



    個人が為した結果と云うものは、亡人、
    家として為した結果と云うものは、亡家、
    企業として為した結果と云うものは、廃業です。



    ああ、この国は、未だに独立国家とは言えない、、、
    この屈辱を、この恥を、よ~く噛みしめてください。


    明治政府は、勝手にやったんだ!
    自分は、そんな事は分からなかった、、、、、。
    天皇が神だと謂うから、信じたのだ、、、。


    いや、他人のせいにするのは止めましょう。
    国がする事を、した事を、
    国のせいにして、 なにも知らなかった、、、解らなかったのだ、、、では、
    絶対に済まないと云う事です。


    我々は、明治政府が国家神道を作った根性が卑しかったのを、
    見抜く目が無かったから、
    直感で気付けなかったから、
    それに等しい卑しい目に落とされたのです。
    亡国の憂き目に遭い、恥や屈辱を味わったのですよ。
    一切関係ないでは済まされないのです。
    これを、仏教の法理では因果応報と言います。


    何事も自分の意識が見逃した事は自分に降りかかって来るのですよ。
    口では言い訳は言えます。
    しかし、結果は覆せない。
    それを、その思想の相貌と言います。



    『陰』とは、
    見せかけの、人間が言葉を並べて作った論理ではありません。
    人間の意識が作った論理性が無意識の『陰』において、どうなのか?
    どこがどう『陰』の摂理と違えているのか?
    その結果として、その思想は、
    我々をどう云う現実へ結果として陥れるのか?
    それをその思想の相貌と言います。




    意識が真理を決める事はできません。
    意識は部分であり、常に偽性を伴います。






    国に広まっている思想、宗教が間違えば、
    皆がもろともだと云う事を、知っていただきたいのです。

         





    かように、思想を信じると云う事は恐ろしく、
    疑わないで黙って従うと云う事は、信と同じです。
    信じていないつもりでも、
    そのロジックで構築された社会に住むと云う事は、
    心身を、その思想に賭けている事になってしまうのですよ。   
    近代合理主義にご用心! ご用心!     ほほっ。


    同様に、その正邪も知らずに宗教を信じると云う事も恐ろしいのです。
    お気を付けあそばせ!!
    我が身だけならまだしも、それが、子々孫々へ伝わるとなると、
    仇やおろそかにはできない問題でございます。


    ただ今の地球の病名は、近代合理主義症候群です。   ほほっ。
    これを、治すにはどうしたらいいのでしょうか?
    そこに意識を向けてください。
    少しでも近代合理主義を疑う事です。
    この思想の害から逃れるには、それが第一歩かと思います。
    事は、地球の事ではありませんよ! 自分の事ですよ!     あはは。
    このままでは、いずれ亡地球ですか?







    《近代合理主義と云う思想の恐さと、お墓の関係》ーーーーーーーー☆






    もうひとつ、本論へ入る前に片付けたい事があります。
    それは、
    近代合理主義と云う思想の恐さと、お墓と、どう関係があるのか?   




    お墓は、生死観に係る大事な問題です。
    東洋と西洋では、その生死観において大きな違いがあります。
    また、東洋の中でも、細かく言えば違います。
    それだけ、お墓は、生死、あの世、大変なテーマなのです




    近代合理主義の、生死に関わる言動とはどういったものか?


    ≪富士山頂も、そこからの展望も否定≫する言動とはどんなものか?


    具体的には、次のようなものでしょう。     ほほっ。




    死ぬとは脳・肉体が機能停止する事なのである。
    肉体の死が、人間の死なのだ。
    肉体を失ったら無にかえるのだから、葬式やお墓など必要ない。
    無になるのに死後の世界なんて、必要ないし、科学的にあり得ない。
    葬式や墓は、残った人間の自己満足の為に在るに過ぎない。
    死後の世界は.ある、と云った処で、証明できない。
    証明できないものは、無いのだ。
    人間は死んだら脳・肉体は機能停止してしまう。
    意識や心は脳機能に依存している。
    脳が機能しない以上は、意識や心、精神も消滅するのだ。
    すべてが消滅するのに死後の世界は必要が無い。
    死は全て終わりなんだ。
    死後の世界なんてものは絶対にない。
    墓は無意味だ。 遺体は焼いたら何処かへ撒いてくれ。





    どこに自信があって、
    ここまでの断定ができるのでしょう?  あはは。
    それに、
    墓は無意味だ。 遺体は焼いたら何処かへ撒いてくれ。
    こんな身勝手、よく言えますわね!    あはは。
    結局は、周りに人に世話を掛けるだけなのですよ。
    黙ってお墓に入れば、後に残る人達は楽なのに、、、  ほっ。


    皆さんは、これを読んでどんなご感想を持たれましたか?
    あぁ、同感だ! と思う方もいるかも知れませんね?!   ほほっ。
    あらかた男性に多いのです。




    私の運命鑑定のご相談の中での体験では、
    こう云う夫や息子を持つ奥様、お母様からの悩みとして、
    お聞きする場合が多いのです。
    高学歴の人、理系の人、大学教授の方々に多いですね。
    いい年をした実家の長男、そう云った夫や息子を持つ苦悩です。
    『陰』を認めない近代合理主義が徹底された学問の中や、
    合理的な企業精神の中で
    、こう云った見解が男性達に醸成されるようです。






    この一例として、2012年 2月 25日の記事
    ( 命の継承と運命 8.) 功利と近代的自我の残骸 3. /  
    肥大した少陽


    の中で、紹介をしたAさんの長兄も、そうでした。




    記事からの引用部分 
    教師であった両親の息子なのですね。
    自力で日本一の大学を卒業されて、現在、私立大学の教授をしています。
    60代で、ずっと独身、父親の法事に一度も帰って来ない。
    両親のお墓の事、母の老後の事を相談をしても、
    「自分は墓の世話をする気はない。自分のも作る気はない。
    そっちで勝手にしてほしい。」と云う返事しか返ってこない。 
    本も出され、大学で哲学を教えておられる方です。
       引用終り



    こう云う方、身近にいらっしゃいませんか?
    西洋哲学、このAさんのお兄さんは、フランスの現代哲学がご専門です。
    人の生死や思想に付いて学生に教鞭をとる立場で、 なぜ?
    と思うのですが、返って、こう云う方が多いのですね。
    弁護する訳ではありませんが、
    Aさんのお兄さんだって、自力で日本一の大学に行った事は、
    当時、非常に真似のできない親孝行な息子だったのです。
    知識ばかりの中で『陽』の現象界の研究に埋もれて、
    『陰』の本質を抹殺した近代合理主義の空間の中へ入ると、
    こう云う風になってしまうのかも知れません。
    学問も分野により同じような影響があるとは思いませんが、
    西洋哲学と云うのは、観念ばかりの世界です。
    その観念的な知識ばかりというのは、文字で表わされるものです。
    真実は『陽』である文字で表わせる、と云う勘違いと、  ほっ。
    合理性の無いものは存在自体が無い。と云う偏見?   ほっ。
    に陥ってしまう傾向があるように思います。
    『陽』の現象界に埋没して自分を見失って行くのでしょうね。




    近代合理主義には、死も分らない、
    死後の事も分らない、
    そして、生だけ知ったかぶりをする。
    実際は、分からない事だらけ!     あはっは。












    《お墓は無意識界の特性・『孝』の具現》ーーーーーーーーーーーー☆



    まさに『陰』の東洋的価値観、
    智恵や徳性と云う、
    文字で表わせないものの存在を、失って行くのです。
    言葉で語れないものの存在を、失っていくのです。



    これは、非常に大事な事です。
    意識が、一つの言葉で表すものは、その裏に数限りない存在があって、
    それが、無意識、『陰』なのです。
    それを、読み取る事が、生きた言葉になるはずなのですが、、、    
    哲学の学者が分かっていない....。
    どこか、スポイルされた感を深く持ってしまいます、、、









    『陰』そのものは文字でも表わせない、言葉で語れないものです。 

      




    ーーーーー  表わせない、語れないと云うよりも、
    元々、そう云う『陽』の世界へ表出しないものなのです。  







    お墓は、無意識界の特性・『孝』の具現なのです。





    こう言えば、読者の方はお分かりになりますね?
    ゆえに、
    近代合理主義に、お墓を論ずる資格はないのです。  あっはあ。



    あらっ!  先に、結論を書いてしまいました!   ほほっ。




    と云う事で、やれやれです。
    やっと、本論へたどり着きましたぁ。











    今日の記事は、


    コメントへのお返事 25.    
    近代合理主義の理紋からみる   お墓 ①                      
     ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 絶対性を失った物質文明の中の「物」     






    テーマ中、 お墓 ① と通し番号を付けています。
    とても、お墓の事は今回だけで書けるものではありませんから、
    今後、機会が在るたびに書かなければ、、、と思っています。
    でも、次回が、そうだと謂う意味ではありませんよ。






    今、紹介をしました

    死ぬとは脳・肉体が機能停止する事なのである。
    肉体の死が、人間の死なのだ。
    肉体を失ったら無にかえるのだから、葬式やお墓など必要ない。
    無になるのに死後の世界なんて、必要ないし、科学的にあり得ない。



    近代合理主義下で、
    たしかに、こう云う風に考える人は増えているはずです。


    しかし、近代合理主義の優等生になれない人は、    あはは。   
    そう、言われても、ね~? と感じています。
    この近代合理主義と近代科学の態度を、
    そのまま受け入れるのをためらっている処がありますね。


    特に、★ 女性には多いと思います。★
    その理屈を説明していては、もっと記事が長くなるので止めます。


    はは。


    それはそうでしょう。
    完全な合理だけの世界へ飛び込める頭のいい科学者でない限り、
    死んだら、ゼロになる。 無なのだ。 墓はいらない! 
    と言われても、、、  
    凡人には、こうも割り切った処に自分を置くのは無理なのですね。
    それで、どこか、不安なのです。
    それを埋めてくれる何かが欲しい、、、、、   ほほっ。






    《天国と云う言葉》------------------ーーーー☆  
      

    大手を振って近代合理主義や現代科学が表通りを闊歩する現代は、
    つつましい人間らしい望みを持ったとしても、
    それはなかなか言いにくい。
    せめて、時代に合った言葉で、
    時代の与えてくれない穴を俗世の知恵で補おうとして、  
    飛び付いたのが、今浸透している言葉、天国です。


    近代合理主義や科学が否定しているゆえに、
    時代の文明もだれも、きちんと説明してくれない死後の世界について、
    天国なら共通認識として通用すると安心したのでしょう。   ほっ。


    仏式のお葬式にも係らずに、
    父は、今天国で、、、、、、とか、
    あの子は、天にいるはず、、、、、、と天国と云う言葉を、
    平気で口に出して言う人が多くなりましたね。     ほほっ。


    そして、共感が得られる事で心の中を埋めたつもりでいる。
    その言葉の内実が無いにもかかわらずにです。
    仏教の経典には、天国はありません。
    と云うのは、仏教では天界が最極の場所ではないからです。


    仏教の極楽とかは、ちょっと古臭いし、  あはは。
    常寂光土(じょうじゃっこうど)は、あまりにも難しくて身近でなかった!
    近代合理主義下の影響下ですから、
    我々の意識にはキリスト教の死後の世界の天国が、
    ピッタリと来る!    ほほっ。
    まったく現代らしい現象です。
    我々の意識が内実を求めなくなったのです。。。


    それは、近代合理のせいです!
    いわゆる、惰性なのです。
    これについては、何時か詳しく書かなければと思っています。



    《近代合理主義の惰性》---------------ーーーー☆  





     

        ☆




    これには、又、別の面があります。


    それは、


    この文明は、死を隠し、
    生だけを偽善的にむやみやたらと賛美する為に、
    有限な地球資源に依存しています。
    死が恐いから、その恐怖から逃れる為に生に執着します。
    そして、それが、いかにも幸福追求であるかのような幻想に、
    我々を閉じ込めているのです。 



    これが、天国幻想。
    疑似天国幻想です。
    もう、騙されてはいけません。




    なぜなら、
    貪欲の満足の為に、
    地球の資源を掘り尽くしても、天国へは行けないのですから、、、





    このまま、我が地球号の近代合理主義症候群が治らなければ、
    我々は、天国どころか、
    この世の終末を、見なければならないかも知れないのです。
    ええ、私はとっくに死んでいるでしょうが、
    今の子供、若いあなたは、そう、かも知れないのですよ。





    我々日本人が、近代化以降、
    絶対性を無視した思想の中で生きて、早、150年、、、
    近代合理主義は、言葉で言わぬとも、形で示さずとも、
    確実に、我々の人間性の中から、
    我々の『陰』の徳性を消滅させて行っています。






    それに加えて、運命鑑定で見聞きする世間のありさまが、
    東洋人としてこのままで平気なのか?
    と云う自問自答が常に心に在ります。
    本当に、合理だけの筋を通して生きる夫や息子のふがいなさ、
    《今だけで自分が成り立っている》かのような思い上がりに、
    家族が、お悩みになるのが当り前です。
    近代合理主義で目の奥が変わった眼差しを夫や息子から向けられ、
    家族がお墓の心配や世話をしている姿に無関心でいる態度と云うのも、
    なにやら家族や家庭の中が荒涼とした風景ではありますね。
    家庭、家族、家系の中から徳性が、消えて行ってしまうシグナルが、
    聞こえませんか?



    《今だけで自分が成り立っている》 = 現在と自己だけを守る、、、
    そう、これが意識の本質です。






    それなのに、
    お墓を論ずる資格がない近代合理主義が、
    利益や経済発展しか頭にない物質文明が、
    お墓に関する情報を、あれやこれや発信しております。   ほほっ。


    商売、 しょうばい! 商売ベースで、
    だれやら分からぬ人の欲が、
    知ったかぶりの人間の欲が、
    まるでお墓の一切を取り仕切っているような態度!
    お墓が何かを知って言っているのか?


    お墓を建てようとする人は当然お客さまでしょう!   ほっ。
    これから先、それだけでは足りないから、
    墓をあきらめた人も、お客にするにはどうしたらいいのかと、   あは。
    手ぐすねで工夫をした情報がばらまかれていますね。
    どこかで、だれかが、引っ掛かって来るだろうと云う読みを込めた、
    この善意ぶったお墓のセールスに、
    非常に恐ろしいものを感じています。



    あなたの家系が潰れるのを、お手伝いしましょうか?
    魔性が手招きをしているのですね。     ほほっ。



    便利な駅前のビルの中のお墓!
    樹木の下で 《 共に 》 眠る墓地!
    墓友!? とか云う言葉まで生れています。
    樹木の下の地面に一緒に埋葬をされる友???  
    これは、なんなのでしょうか、、、、、、
    死後、これらの仲間と一緒に居られると云う根拠は?
    まるで、明治維新の国家神道と同じです。


    政治の分際で宗教を作る。
    消費第一の経済が、お墓をアレンジする。    あはは。
    それは、あくまでも墓とは言っていますが、
    どこどこまでも、お墓なのでしょうか?


    言葉の内実がどんどん抜けて行く、、、
    そのうち言葉の中がからっぽになって
    言葉の皮だけがふわふわと我々の間を飛び交うような気がします。



    国家神道は宗教ではなかった。
    真に信仰を集めていた宗教なら、GHQが潰そうがどうしようが、
    隠れキリシタンのように、隠れても信者は信仰を続けるはずです。
    宗教、信仰は、政治には負けないのです。
    宗教は、唯一、それ以上の大きな宗教に勝てない、、、
    GHQに叩かれたくらいで、クモの子を散らすみたいにいなくなった!
    それもただの政治権力ではない、
    戦勝国連合の政治的権力によって潰されると云う事は、
    まるで、虫を潰すようにプチッと指先でヒトツマミですよ!   あはは。
    それを、宗教とでっち上げたのは?
    どこの誰なのですか?
    国家神道が、真っ当な宗教とは、真っ赤なウソ!
    宗教をあなどって政治が策謀した似非宗教モドキだったのです。
    まず、天皇御自身が、人間宣言をなさった。
    そこに、真の内実はなかった証拠です。
    でも、これ位のウソを平気で付くのが意識です。





    人間の意識の恐さは、これです。
    さも、さも、真なるようなロジックを作り上げる能力です。  あはは。 
    ゆえに、意識 = 『偽性』です。     .あはは。
      
    いいですか、、、近代合理主義自体が、『偽性』なのです。





    意識がまた、ウソをウソをついている、、、、、、


    日本の墓苑や霊園経営が編み出した墓友? 樹木葬?  
    本当に墓なのですか?
    友とは?   
    こう云う言葉は祖先の祭祀と子孫の繁栄を何よりも重んじる儒教には
    、、、、、ない!
    聞いた事もありません。
    先祖供養を説く仏教にもない。 
    おそらく外国でもないでしょう。 キリスト教にもないはずです。
    日本の商人は、何でもアレンジをするのが得意ですが、
    あきんどの浅智恵で、
    ヒエラルキーの最上部の宗教の中にまで
    欲に突っ張った手を、伸ばしていくのは止めた方が良い。
    これは、国家神道以上の欺瞞でしょうね。    ほほっ。
    敗戦を終戦と言い換えた以上の、、、、、、
    魔性の行状ですよ。 よーく、お考えになってください。   ほほっ。





    本質の無い近代合理主義と云う思想は、何処を切っても欺瞞、
    欺瞞、欺瞞、ばかりの惰性です。
    なぜ、この欺瞞が見破れないのか?
    さすがに!意識中心の思想だけあって、
    意識に心地よい心配りをする手練手管は抜群なのです。
    欺瞞、欺瞞の惰性が生んだ生死観のごまかし、
    死を包んだ包み紙の美しい事!
    天国は美しくて! きれいな音楽が!  憧れの天国!    あはは。


    ーーーーー 何も分っていない。
    死は、意識(五感の感覚器官)が閉じるのです。
    美は見えません! 
    キレイは聞こえないのです!         ほほっ。
    いい加減な商売に騙されて、
    これは、ひょっよしたらオレオレ詐欺より卑劣かも知れませんわ?
    間違いなく戻れないあの世に行ってから、
    間違っていたと気が付いても取り返しがつかないでしょう、、、


    一般大衆が解らないのをイイ事に商売が、経済が、
    お墓の講釈をやっています。        あはは。
    ついには、お墓をあきらめた人にはお墓を片付けさせて、
    片付け賃を稼ごうと、 っつたく!
    地獄の沙汰も金次第、墓終(しま)いまで、金次第!   ほほっ。


    運命鑑定の中で、
    お墓の不思議なお話や因果についてを見聞きしていますので、
    よくも、他人様の家系の存続が掛かっているお墓事情を、
    ここまで喰い物にできるなあ、と云うのが率直な気持ちです。





    それらを、どう判断をし、どう選択するかですが、
    その為には、近代合理主義の相貌を知っていただきたいなあ。
    こんなおそろしい形相を見たら、
    きっと気持ちも変るのではないかと、、、   あはは。
    後悔なさらぬようになさってくださいませ。



    物質文明の中のお墓事情、、、
    間違いなく、それは、物としての遺骨の保管場所? 物置同然の?
    いくら、きらびやかにLED照明を付けて、アクリル板で囲おうと、 
    その本質は、単なる遺骨の置き場、でしかないのでしょうか。







    『陰』を否定する思想によって
    お墓も、そこまでに中が空っぽの言葉になってしまっては、
    いや、そうではない、、、どうしよう、、、と
    お墓をどうしたらいいのだろうと、迷われるのが普通ですね。  ほほっ。





    ここで、2014年 8月 20日の記事、
    コメントへのお返事 24.  科学信仰というお化け / 犬の幽霊 


    に、ボーダーライン と云う題名でいただいた
    コメントをご紹介いたします。



    cosmos 様 

    冒頭の壮大なお話で
    先日来の疑問を コメントさせていただきやすくなりました。
    何千万年何億年規模になりますと、
    今の私が、先祖が子孫がと思いやった所で 精々が100年後に
    私を思い出す子孫は稀で、 悪ければ無縁仏になっているように思います。
    こう考えますと、
    何千年後には今生きる人は 全て無縁仏になると思われます。
    世界で最も古い王家の天皇家でも1500年前まででしたでしょうか。?!
    墓を持つ事はいずれ廃れ風化するという事ではないでしょうか?
    では苗字を引き継ぎ家系を 継承する事の意義 は何なのでしょうか?
    家系どころか、いずれこの世界にも終りが来るのですね。

    いっそお寺へ納骨すれば賑やかで、
    お参りする誰かが 子孫である可能性も考えられるし
    面白そうかもしれませんね!?
    戸建かマンションかって事でもないのでしょうが ^^;
    それも短い数百年の事でしょうけど。

    先祖への感謝と子孫への思いやりは
    墓が無くとも苗字が違えども人類が滅びようとも
    心の内にあり一つにつながっておれば良いのではと思えてしまいます。





    むずかしいテーマに、コメントをくださってありがとうございます!
    この時の私のお返事は以下のようなものでした。


    ★ まあ、えらい深刻な事考えはるんですね!?   ほほ。
    これ位のタイムでしたら、もうほとんど、我々にとったら永遠と同じです。
    永遠に立ち向かう覚悟をしておくれやす!     あはは。
    ★ 2000年以上続いた家系、天皇家より古い家系ですが、
    けっこう、あっちこっちに残ってはるんですよ。
    そんなにビクビクされないで、よろしいのです。
    遠大な遠くを見るより、大事な事の一つ目はアシモト。
    足元を一生懸命歩けば、永遠に匹敵する偉業になるはずです。
    ここで、大事な事は自分の足元を固めると云う事ではないでしょうか?
    子の代は、子が考えればいい事で、その先だって同じです。
    大事な事の二つ目はヤクワリ。
    自分の今の役割を全うする事です。
    駅伝と同じです。
    自分が走る処は、自分のベストを尽くす。これのみです。   ほほ。
    次の区間は、次の走者の役割でしょう?    あはは。
    四の五の言わないで、自分の区間を走りなはれ!   
    そして、区間記録を出す事です、、、ほほっ。 
    ★ 大事な事を訊いていただきましたわ!
    お墓は、自分を飾る手段でも、立てる事が目的でもありません。
    結果なのですよ。
    子が親に報恩を尽くそうと云う心が結集したものなのです。
    しかし、その心を永遠に証明するには、形式は大事です。
    社会の中に残っているすばらしい伝統と云うものは、
    すべて形式を守っています。
    その形式がないと、どうでもよければ、
    人は伝統の中に在る心を守れないでしょうね。
    苗字も、そうです。
    苗字が違えば、孫の代からは、
    お墓を訪れる事すら意識から無くなるでしょう。
    苗字も大事です。 映画や小説の題みたいなものです。
    題(苗字)があって、脚本通り(形式・お墓)にするから、
    人に真実(孝)が伝わり感動させられるのです。  ああは。
    何が欠けても、ダメ。
    間違ってはいけないのは、
    自分のお墓を自分が立てるのでは意味がないのですよ。 
    子が、子孫が、その孝のある証しとして親のお墓を立てるのですよ。
    だから、陰徳が積んだお墓になるのです。
    その家の陰徳の証です。
    自分が建てたって、それは、自分が安心したいからだけ、  あはは。
    お墓を建てる動機は、
    せいぜい欲深い所有欲や、見栄から、心配から?  
    その辺のたぐいでしかないのではないかしら。
    これらはあの世で、一番見下されるものばかり!    あはは。
    今の世間は、墓石屋さんの御商売に乗せられて、
    その程度でお墓を作ろうとする方が恰好のカモにされていますわ、、、
    ほほっ。
    自分で自分のお墓を心配する事はおかしいのです。  
    お墓を立てるのは、子供の役割です。
    我が子がどうするかは、親がどう云う背中を見せて来たか?
    そこが本物かどうか?に尽きますわ。
    つまり、偉そうなことを言いますが、自分の一生の値打ちがどうか?
    それを子が評価する、そのモニュメントがお墓です。
    お墓は、我が子に評価をされると云う厳しい試験ですわ。  
    よろしいでしょうか?  



    今、少し、この時のコメントへのお返事へ足そうとすれば、
    やはりと言いますか、お墓に関しても、
    我々の中から大事なポイントが抜けて行っていると云う感想を
    持ってしまいます。
    それは、
    近代合理主義の影響が我々の中で暴れていると云う気配です。



    何をどう暴れているのか?
     後々の記事をお読みになってくださいね。     ほほっ。





    お墓の事は気になりながら、しかし、今の世情を考えると、
    一歩立ち止まってしまう処が確実にありますよね。


    それが、ボーダーライン と云う題名に表われていますね。 
    非常に近代合理主義臭がただよっていますね。  


    臭い~  あはは。



    なに事につけても、まず計算をしてしまう、
    これが合理主義です。
    お金の計算、物品の数を数える、株価を見張る、   ほほっ。
    それは適応範囲なのですが、
    計算できる能力をめったやたらと、そこら中に発揮したいのか?
    意識は、自分の身の丈を忘れて、
    何でも計算をしてしまう!  ほほっ。
    そして、永遠のような計算できないものまでも、ね!    あはは。
    何でも目星をつけたくなるようですね!      ほほっ。
    この際、間違いをしたくなければ、無理をなさらない様に、、、
    『陽』の現象世界はどうぞ、数えてくださって結構ですよ。
    『陰』は、数えたくても見えないモノでしょう?
    想像で数えるのは止めてくださいね。       あはは。


    ーーー 振り返ると、
    人間は、もっとつつましやかな心を持っていましたよ。
    どうして、こんな、自分の身の丈に余るものまで意識で結論を出そうと
    思い上がったのでしょうか. . . . . 
    この癖は、近代科学の発達から、、、     ほほほっ。






    繰り返します。


    我々、日本人も、解らないまま、
    絶対性を無視した思想の中で生きて、早、150年、、、
    どんな人でも、もう分ったような顔に見えます。
    近代合理主義は、言葉で言わぬとも、形で示さずとも、
    人間の欲を土台にした思想ですから、マスターが早いのです。
    あるがままの欲を出したらよろしい、
    赤ちゃんでも教えなくてもマスターできます。
    そして、我々の人間性の中から、
    我々の人間としての中身、徳性を消滅させて行ってくれます。









    なんだか、空気感が変わったでしょう?     ほほっ。





    2度目のひと息を、 
    ここで一旦、流れが変わります!   ほっ。  
    後から又、つづきをします。
    つづきの始まりは、≪永遠のような計算できないものまでも計算する≫
    これがキーワードです。 
    憶えておいてくださいね!    ほほっ。

    ≪永遠のような計算できないものまでも計算する≫ーーーーーーーー☆






    この前の≪富士山頂≫  のキーワードは、まだです。  ほほっ。
    これも、覚えておいてくださいね。    あはは。








    《近代合理主義の氏素性について》ーーーーーーーーーーーーーー☆








    さぁ、近代合理主義の氏素性についてです。



    今の地球を支配する巨大な文明にまでなった近代合理主義は、
    17世紀のヨーロッパにおける科学革命が、切っ掛けなのです。





    これについては繰り返し記事にして来た処なのですが、
    何度も何度も繰り返さないといけない気がしています。   ほほっ。
    もう一度、書いておきましょう。


    この世界の矛盾が生れた原点を徹底的に知って欲しいのです。
    この現代の矛盾が生れた原点を徹底的に知って欲しいのです。



    歴史のお勉強ですよ~         ほほっ。
    17世紀のヨーロッパにタイムスリップ、
    あなたは、今、17Cのヨーロッパに居ます。     あはは。




     
    この時期に起こった事は、
    当時までヨーロッパの人々を支配していた
    聖書に書かれてある神の秩序を探究する宇宙体系が終焉して、
    科学的な宇宙観へ変革された事です。


    具体的には、天動説から地動説への大転換なのです。


    近代ヨーロッパ文明以前の人々は、今とは違って、
    キリスト教理による中世的世界観を信じて生きていました。
    それは、どう云う事かと云うと、
    神が創造したこの世界は、皿の様に平らで、真ん中に大地があり、
    その周りを海が取り囲み、
    船で航海を続けると此の世界の端へたどり着く、、、
    神が創造したこの世界の周りを、
    天にある太陽がグルグル廻っていると云う天動説を
    信じていた訳です。
    この世界は、神が創造したもので宇宙の中心ですから、
    この世界が、太陽の周りを廻っているとは考えなかったのです。


    しかし、
    その世界観を崩すような事象が表われて来ます。
    13C初頭、オスマン帝国が、現在のトルコあたりを支配し始めます。
    シルクロードの丁度、ど真ん中に位置して、
    東西貿易の中継地として栄えるのですが、
    インド、中国との交易の為に陸路でここを通過するヨーロッパ各国に
    高い税金をかけたのです。
    このオスマン帝国の税金を逃れようと、
    ヨーロッパ各国がオスマン帝国領内を迂回するには、
    ロシア領土へ入り込み、冬は極寒を商隊は堪えなければなりません。
    そう云う理由で、ヨーロッパ各国はインドや中国との交易の為に、
    陸路以外の海路を開発する必要性が出てきた訳です。
    その頃、ヨーロッパで羅針盤が揺れる船上でも使えるよう改良され、
    航海術が進歩していた事もあって、
    15Cの終り、バスコ・ダ・ガマが、
    1498年にアフリカ喜望峰回りのインド航路を発見し、
    マゼランも、西回りインド航路を発見しようと
    南アメリカ回りで太平洋へ出て世界一周を達成しました。
    いわゆる15Cからの大航海時代の幕開けです。
    この航海中の船の位置を知る為に、天空の星の観測技術が必要となり、
    急速に天文学が研究されるようになります。
    航海の為と云う実利上のおかげで天文観測の技術が進歩するにつれて、
    太陽がこの世界の廻っていると云うキリスト教理の天動説を疑う学者が、
    出て来ました。
    太陽が廻っているとしたら、計算上が合わなくなるからです。


    それが、16Cのコペルニクスの地動説です。
    彼はカトリック司祭でもあったので、
    ローマ教皇庁は、自分の地動説を許さないと解っていました。
    理由は、当時の天動説は、絶対的なキリスト教の聖書の教義でした。
    彼が発見した地動説は、その教義を根底から覆すものだったのです。
    具体的には、
    神の創造した地球が宇宙の中心的な存在ではなく、
    銀河系の端にある小さな惑星で、
    太陽の周りを回るひとつの惑星に過ぎない事実、
    その地球に住む(神による創造物の中心的存在としての)人間の
    アイデンティティが脅かされるからです。
    それで彼は、自分の地動説の著書『天体の回転について』の販売を、
    自分が死期(1543)に至るまで待ちました。
    コペルニクスの死後、
    ローマ教皇庁は地動説の内容が『聖書』に反しているとして、
    当然のごとく、この本の閲覧を禁止します。
    コペルニクスの死後、約50年経った1600年
    ローマ教皇庁は
    コペルニクスの地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノに
    異端の判決を出し火あぶりの刑に処しています。
    1609年、ガリレオガリレイも望遠鏡で天体観測の結果、
    地動説を言い出しますが、ローマ教皇庁検邪聖省から地動説を唱えない
    ように注意を受け、その後、異端裁判で有罪の判決を受けます。  
    裁判の後に 「それでも地球は動く」とつぶやいたとされている、
    これが、有名なガリレオ裁判です。
    このように、ニュートンの時代まで、
    地動説を主張する科学者への迫害が続きました。
    ガリレオの死去から実に350年後の1992年
    ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、
    ガリレオ裁判が誤りであった事を認めて、ガリレオに謝罪をします。
    キリスト教会側が地動説を認めたのは、ほんの22年前の事です! 






    コペルニクス、ケプラー、ガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートン等の
    科学者たちが天動説と云うキリスト教的世界観をくつがえして、
    現代科学の幕開けとなった宇宙観、地動説へ転換をしたのです。
    このコペルニクスの地動説に端を発した
    「17世紀科学革命」(the scientific revolution)は、
    その後の現代に至る物質科学のめざましい発展を導く事になります。





    今までのキリスト教理的な世界を
    地上のものと、天上のものとに分け、
    神が自然を支配すると云う中世的な世界観をくつがえして、 
    ① 地上も天上も全てが人間が支配できる対象へと広がって行き、
    ② 自然、宇宙全体が人間が支配しても良い領域へ変ったのです。


    それに加えて、ニュートン力学の発表の影響によって、
    近代科学の理論的枠組みを最初に確立した、
    西洋近代合理主義の祖と言われているルネ・デカルトにおいて、


    ③ 自然は恐れるに足りない。自然は機械と同じである。
    ④ 機械には人間との相互の意思疎通などあり得ないし
    ⑤ 精神的な意味での交流もない。
    ⑥ 人間が働きかけても自然は何も返答しない。
       あるいは、自然がわれわれに何か働きかけて来る事もない。
    ⑦ 完全に我々が「主」であり、自然は「客」である、、、。
    ⑧ 人間と自然を完全に分離し、人間は自然を機械と見なして、
       道具として自然を利用すればよいのである。



    と断言しています。
    デカルトは、このように主張をして、
    ⑨ 自然は人間によって利用されるべきものと云う
    世界を機械になぞらえる機械論的自然観を唱えたのです。
    この近代合理主義科学のもたらした機械論的世界観は、
    今日まで続いています。





    もう一人、
    中世のスコラ哲学で、
    神や理念から演繹的に世界の物事を考えるのを排し、
    観察や実験によって帰納法的に物事を考察しようとする
    近代合理主義と自然科学による自然の成り立ちの上に、
    人間の王国を作ろうとするフランシス・ベーコンは、


    ⑩ 自然は物質に過ぎない。
    ⑪ だから人間の都合のいいように料理してよい。
    ⑫ 自然は征服すべき対象だ。

    と言いました。
    これがフランシス・ベーコンの「自然征服論」です。
    フランシス・ベーコンが、
    自然支配の思想を生んだのです。






    黄色の字の①~⑫までの内容を、よく読んでください。


    ーーー これらは東洋の日本人の自然観とは、まるで違うのです。






    お分かりになりますか?
    これを読みながら、意味を考えると、心が疼(うず)きませんか?
    自然を擬人化したり、自然の中に心を見る、
    あるいは、我と一体になった自然を詠う、、、
    和歌や俳句、中国の漢詩、山紫水明画、あらゆる東洋の美が、
    これじゃ台無しですわ、、、
    これを読んで心が疼くのが、東洋人のDNAです。     ほほっ。


    もしか、心が疼いたのなら、今度は周りを見廻してください。
    我々の今の社会は、この①~⑫を、そうだと信じて、
    実現しようとしている社会なのです。
    それを見て、我々の心が疼かないのはどうして?


    近代合理主義のショーウィンドウが、余りにも目に心に心地よいからですわ。
    見た目がカッコウよくて、
    欲望が満たされたら、こうなれるんだw!
    ってワクワクする夢を見せ付けられるからです。
    CMの繰り返しです。
    情報のシャワーを浴び続けるからです。




    これが、宣伝広告、キリスト教には宣教宣伝の伝統があります。



    知らない内に、ね。
    まるでそれは、国家神道を黙って受け入れていたようにです。
    天皇が神だ!
    権威を利用して、飾って騙す常套手段ですわ。
    ここまでの説明なら西洋近代合理主義的です。   ほほっ。
    東洋的説明をしてみましょう、、、 ほっ。
    東洋は、色心不二ですから、
    精神、心がこれを疑わないで受け入れていると云う事は、
    我々の肉体も、その思想を具現して来ると云う事です。
    それが、体、身に表われる生物的変化と云うものです。
    後から紹介をする近代合理主義の理紋から来る24項目を
    ご覧になってください。
    まさか!
    こんな相貌が、我々の心身に出て来るなんて思いもせずに、
    近代化と聞けば、全てがバラ色になると思ったのでしょう。
    江戸幕府の末期、黒船の蒸気船を見た日本人は、
    その技術に驚き、これを真似しないと、、、
    日本は欧米の列強に敗けると思ったはずです。
    それで、欧米列強に追いつけ追い越せ!
    近代化を急いだ、、、
    優秀な頭脳を、そこへ注ぎ込んだのです。
    戦後の民主主義、人権思想、、、
    近代化は、この世の大正義であるかのように
    かっての国家神道を黙って受け入れたように、
    我々国民は、この国の変化を黙って受け入れたのです。
    自然を数値化して経済効率を計算し、
    自然を道具とみて人間の欲望で支配をする事が
    間違っているなんて思いもしないで必死にやって来たのです。


    えっ! 『天地』の中庸?  な~に?それ、、、
    『天』と『地』の間の『人』である事なんか、すっかり忘れて、、、
    『天地』は、自分の欲望を満たす為にあるのだ!    ほほっ。


    それを、国が、企業が、煽って来たのです。
    戦時中の産めよ、増やせよ! が、
    もっと欲しがって、もっと買え!          あっは。


    これらを全て否定する気はありませんよ。
    でも、近代合理主義さまさま、様!
    そう! まるで、あの17世紀の科学革命の科学者達の様に、
    過っては、神仏が占めた我々の心の尊い位置に、
    自分の欲望を置き、それを支える意識を祀り上げたのです。





    これが、庶民にでも分かる近代合理主義です。 あはは。 




    山を崩し、海を埋め、川を汚し、田畑に土砂を入れて宅地にし、
    ガソリンを燃やし、あらゆる便利さの為にCO2を出し、
    自然を道具と見なして征服しようとして来たのです。
    自然を利用して、いくらだ!    
    山も川も海も全ての経済効率を数値化して
    我々は自然を征服した気になっているではありませんか、
    いや、これからだって、もっともっと征服しようとしている。



    この欲望のダービーの出発点が、
    フランシス・ベーコンとルネ・デカルトです。  あはは。
    いざ、走れ! この二人にそそのかされて、今が始まったのです!     ほほっ。


    地球の資源を貪りつくすストック経済が始まったのです。




    しかし、フランシス・ベーコンとルネ・デカルトが言ったように、
    人間は地球を征服できそうですか?      ほほっ。





    東洋における『天地』は、物ではありませんから、
    只の道具ではありませんから、
    五行(木・火・土・金・水)のエネルギーを以って
    因果応報を返して来ているではありませんか?



    それでも、このデカルトやベーコンの説に眩惑されて、
    地球上に近代合理主義を続けて行く気なのですか?





    この先、
    あらゆる気象変動の困難を乗り越えて、人間が勝ちそうですか?








    《科学の偽性》ーーーーーーーーーーーーーーーー☆


    ★ これは、他にまた、もうひとつ、影響があります。





    この世界の真理を追究する科学を邪魔したのはキリスト教会である。


    真理の追究を邪魔する神の支配を跳ね除けて、
    人間の意識を中心に、この世界の真理を探究するのが科学である、
    と云う近代科学思想が成立します。


    科学の手法は、人間の意識を中心に誰にでも再現可能な方法、
    実験や観察によって正しさを証明する。
    この事が確立されたのも、
    ガリレオ、ベーコン、デカルトの時代からです。



    科学とは真理を追究するもの、、、、、、、、
    真理の追究は聖なる作業、、、、、、、、、、   と、なっている


    、、、、、、、、らしいのです。





    みなさん、本当にそう思いますか?
    科学は、頭のいい人にしか分からないから、、、、と云って、
    逃げてはダメですよ。
    あなたの心身、命、あなたの子孫に関係する事柄です。    ほほっ。

    今日の記事は、お墓ですから、、、   あはは。
    科学の事は、あまり深追いは致しません。    ほっ。



    しかし、これだけは、書いておきます。



    科学の手法は、
    誰にでも再現可能な方法、
    すなわち実験や観察によって自説の正しさを証明するという方法です。


    たしかに、このマニュアルは、科学の領域においては正しいのでしょう。
    しかし、

    その結果、近代合理主義が認める真理は、
    近代科学が発見した科学的真理だけです。



    オカシイのは、ここなのですよね!     ほほっ。
    科学が科学の中で、こう決めるのは認めますよ。
    しかし、
    科学の領域を外れた処まで、これをこう敷衍していいものか?




    いわゆる合理的に【意識】によって証明されたものだけだから、
    そうなるのだと、、、、です。         ほほっ。
    それが、いわゆる学問です。
    つまり、人間の意識を中心にして、
    意識が証明できたものだけを真理とする、、、、、





    もう一度、確認します。
    科学の手法は、
    誰にでも再現可能な方法、
    すなわち実験や観察によって自説の正しさを証明するという方法です。


    これは、あくまでも、科学の手法と云う事でしょう?
    それでもって、
    全てをそうだと言い切る処に、論理の未熟さを感じるのですが、、、
    と、云うのは、
    意識が生れるのは五感、感覚器官です。
    五感って、人間の五感って曖昧なものなのですよね。
    そして、その疑いが、
    次のような驚きになってしまうのです。   ほほっ。



    なんと!
    真理を人間の意識が見つけると謂うのですか?
    意識は、常に環境に揺らぐ、影響を受けて反応する感覚器官ですよ。
    無意識と云う本体に存在する内因を、
    環境の外因に合わせて現象を表出する表現器官にしか過ぎないのですよ。
    そんなところに、真実があるものですか!?     ほほっ。






    科学とは真理を追究するものと云う言い方は、間違っています。
    東洋的に云えば、真理は無意識界にあります。
    意識に分からないと切り捨てた無意識界にです。
    意識には、真理を掴む事はできません。




    詳しくは別稿で、何時か記事にしようと思いますが、
    今日はこれまでにさせていただきますね。




    《現代の崖っぷちへの混迷》ーーーーーーーーーーーーーーーー☆



    コペルニクス以来の科学が真理を探究するのを邪魔したのは、
    キリスト教の神です。
    ローマ教皇庁でした。
    そして、
    科学が真理を追究する為に、
    払い除けた絶対者は、キリストの神です。


    神の支配を逃れる為に、
    人間の意識を中心にした、、、、、、、
    それが、近代合理主義です。



    これらは、中世ヨーロッパにおけるキリスト教の神と人間との事情です。



    これらに関して、東洋の風土は、まったく関わり合いを持っておりません。
    東洋の儒教も仏教も、関わり合いを持っていません。




    なんども言いましょう。
    ヨーロッパの科学者たちが否定した絶対者はキリストの神です。



    そうであるにもかかわらずに、
    なぜ、近代化と共に日本人の我々は、
    キリスト教と科学者の軋轢には何の関わり合いも無いはずなのに、 
    その世界観の中へ引きずり込まれたのでしょう?



    それは、こう云う事です。
    日本が取り入れた近代化と云うPCには、
    a、 人間の意識を中心にすると云う保存情報と同時に、
    b、 神(相当)の支配(関与)を排除すると云うウィルスが
       仕組まれていたのですね。
       気が付かなかったなっ。    ほほっ。


    近代化と云う事は、それが一体になっているシステムだったのですね。




    この東洋の地で、近代化と云うPCを開けると云う事は、
    東洋の地の神(相当)=仏の関与を排除してしまう。
    そう云う事になってしまうのだったのですね。



    現に、今の日本人からは、東洋的風土は消えかかっています。


    明治政府は、日本の伝統的な精神を守りながら、
    西欧の知識や技術だけを取り入れようとしました。
    国家神道をねつ造した位ですから、
    キリスト教自体を、移入するつもりはなかったはずなのです。
    しかし、
    キリスト教の神を取り入れたはずはないけれど、
    近代化と云うPCを使う事で、
    その土壌になっているキリスト教理自体のエッセンスを
    受容してしまった!
    現実は、そう云う事になったのです。
    だから、天国と云う言葉に違和感を感じなくなっている、、、
    キリストの神を拝まないけれど、
    その核心であるキリスト教理を、
    意識せずに知らずに受容してしまったのです。
    喜んで近代化を受け入れた事で、無意識に入ってしまったのです。




    これを、仏教では、業と謂います。






    ほら! 意識しないで染まる、、、、、
    無意識が在るって云う証拠ではないですか!    あはは。




    もう一度繰り返しますね。
    これは、どう云う事かと云うと、
    キリストの神を払いのけた近代合理主義を黙って受け入れたと云う事は、
    知らずに、汚染されていたウィルスに犯されて、
    神相当の関与を否定するようになる、、、
    、、、我々の地、東洋が信を置いていた風土そのものを、
    払いのける事になってしまった。
    今の現実が、、、その結果なのです。



      ほっ。



    東洋が真を置いていた風土とは何か?
    東洋は、『陰』に真理の実体を置く思想群です。



    近代合理主義下では、それらはすべてスポイルされると云う事です。




    それらを捨てると云う事になってしまったのです。
    そもそも、思い起こせば、、、
    近代化を受け入れる時に、当時の知識者階級の人達が、
    それを自覚していた行動だったのか?


    おそらく、思想と云うものを表面的にしか捉えていなかったと思います。
    近代化 = 工業化 = 先進国 = 西欧列強に敗けない

    そして、もっと先進国へなって行こうと、、、


    しかし、事はそうそう甘くはなかったと云う事ですね。
    先進国になればなるだけ、近代化に成功すればすれだけ、
    我が国は、脊髄から脳髄までを、
    キリスト教理に染め上げて行ったと云う事だったのです。



    もう、中味は東洋人とは言えない世代が生れ育っています。


    西欧人の暴走を止める東洋人がいない!




    全く、これは亡地球を叶えるようなものなのですよ。
    どこかで、このネジレを外さないといけない。
    このネジレから出ないといけないのです。








    ま、いろいろ書きましたが、
    とにかくこれらの自然支配の思想は、
    月へ行ったり、ハヤブサも、  あはは。
    近代科学の進歩と、近代ヨーロッパ文明の原動力にはなった!
    、、、のでした。




    しかし、

    この近代文明は、
    自然と人間との本当の正しい関係性を築き上げられずにいます。
    現時点での地球温暖化、地球号の破滅、
    これらは、キリスト教の聖書の狭量な教理に打ち勝った
    人間の意識の勝利から導き出されています。



    科学の発見を認めなかったのは、
    ウソの世界観を持ったキリスト教理だったのです。
    そもそも、そこがオカシイのに、
    それだからって、キリスト教自体を疑う処までは行かなかった、
    そう云う面は、
    科学が、キリスト教の世界観から食み出るような乱暴者ではなかった
    と云う事です。
    なんだかんだと云っても、キリスト教皇庁から認められたいいい子だった
    のでしょう。
    あ、これは、ズルさと云うより、世間を知らなかったのです。
    キリスト教以外の世間を知らなかった!
    日本はこの点は、タフですね。
    古代からの神道も知り、中国の儒教も知り、仏教も知っていた。


    そう云う複合的な知恵が西洋にはなかった! のです。
    近代科学にしても、キリスト教以外の哲学を経験していない。
    ここが、欧米の最大の弱点ですね。
    キリスト教が、本当に正しいと純粋に信じているのでしょうね。




    ほほっ。 疑いを知らない幼子のようにです。



    あ、だから、
    17世紀の科学革命以降の西欧の人々は、
    この時に、ほんとうに人間の意識が、神に勝ったと思っているのですよ。
    日本にいる我々に取ったら、
    自分の意識を含めてですが、
    人間の意識が、キリストの神に勝とうが関係ないのですね。  あはは。
    もともと、キリストの神に敗けた記憶がないわけですから!    ほほっ。
    どこかで、東洋の仏、儒教の影響の方しかないのですから、、、



    本音を言いますと、、
    関係がない事を押し付けて来ないで!     ほほほっ。
    もう、めんどうだなぁって云う気持ちがあります。



    人間の意識が神に勝ったからって、
    自然を人間が支配してもいい、なんて、   ほほっ。
    まったく西欧人の論理の飛躍にしか聞こえませんわ!
    しかし、その論理の飛躍の延長線上に、
    人間の意識が勝利した結果の、
    地球温暖化、地球号の破滅がある訳です。





    このネジレを、本当に理解している人が、どれだけいるのか?
    此方の心配の方が大きいのです。
    日本人のどれだけが理解しているのか?
    不安に襲われてしまいます。




    我々が生を受けて、今、生きている、、、この日本や世界は、
    この屁理屈を押し通して作り上げた人工空間なのです。  あはは。



    だから、ネジレるのです。    ほほっ。







    近代合理主義の【空間】では、
    = 近代科学の認識においては、
    死は、肉体の死である。
    だから、肉体が死ねば何も残らない。
    死後の世界もない。  となっています。 
        





    i PS細胞だ、体外受精だ、と、
    今、一番、華々しいのが、一番狂っている!      あはは。





    現代文明の本質はここに在ります。






    このことを、重々記憶に残しておいてくださいね!   ほほっ。




    ある意味、


    ヨーロッパ人は、長い間受けて来たキリスト教理の抑圧を克服して、
    近代科学文明を築き上げて来たかのようですが、
    実際は、キリスト教的世界観の中から一歩も出てはいないのです。






    近代合理主義の下、
    近代科学文明自体が、
    自然を、
    人間が支配をし搾取する対象としての物質とみる観点は、
    それは、そのままキリスト教理の二元論の範疇内、
    キリスト教哲学の中に止まっている証拠なのです。


    敢えて言わせていただきますと、
    キリスト教的世界観が、近代科学を疎外したようでいて、
    実は、キリスト教的世界観が、近代科学を育ててきたのです。


    もっと、言いますと、
    《17世紀科学革命》と云う言葉の通り、
    科学がキリスト教理の迷妄を跳ね除けたと云う事だけで、
    依然として、現代の科学はキリスト教理の中に止まっています。





    近代科学はキリスト教の聖書の世界観に逆らって、
    打ち破って出たのではありません。、
    新たなより広い世界観を打ち立てたのでありません。 





    近代科学はキリスト教のその狭量な教理の迷妄から
    人間の存在を解放したのではなかったのです。  




    キリスト教理の世界観の中で、その土台の上に、
    科学の手法、方法論としては、聖書を跳ね除けたのです。





    まず、はっきり言える事は、
    自分達が発見した科学的真実から、
    キリスト教理や聖書に対して、疑いを持つようになり、
    今の近代文明を作り上げた優秀な科学者たちにしても
    天動説を地動説に転換をし、地球が丸い事を証明した処で、
    ● 彼らの信仰の聖書の中の世界観、自然観を変革できなかった!


    ● 相変わらず、地球を物質としか見ない自然観のままに、
      地球を、人間の意識と欲望が支配をする対象としてしか
      見ていないのです。


        と云うより、


    ● 彼等、有名な科学者たちは、それに続く哲学者たちは、
       キリスト教理の宇宙観、世界観、自然観と対峙する事すらせずに、
       あくまでもキリスト教理と云う土台の上のロジックを
       編み出すだけなのです。




    これを、変革と云えるのだろうか?    あはは。
    世は、西洋哲学のプールの中です。
    それを言っても所詮無駄よ。


    彼等に取れば西洋の哲学はキリスト教理の中の事であり、
    東洋には、そう云った哲学や思想は無いと!
    思い込んでいるのですから、
    そう云う世界の実態であります。


    その現実を、思い起こす度に、
    胸が苦しいと言いますか、非常に残念で情けない思いになります。




    西欧人の哲学や自然観や世界観は、自分達のがすべてです。
    東洋の端っこに、自分達のとは違う哲学や自然観や世界観があるとは、
    思ってもない、東洋的な存在感は一切ないのです。









    近代合理主義の氏素性について、
    どこで生まれたのか、
    どう云う育ちの思想なのか?
    分かっていただけましたか?


    さあ、いよいよ近代合理主義の相貌です。


      
    《近代合理主義の相貌》ーーーーーーーーーーーーーーーー☆




    さあ、行きましょう!
    近代合理主義の全貌を、あなたの掌(たなごころ)へ
    ぎゅっと握って、潰しましょう!       あはは。


     
    近代合理主義の相貌 ?
    そう、顔ではありません。
    お化粧で調えられる顔ではありません。
    意識で繕う表情でもありません。
    哲学や社会科の教科書で学ばない、、、 
    教科書で教えるのは表の顔です。        あはは。




    近代合理主義の相貌について、
    まず、その奇怪さ、奇妙なロジックに気が付いて欲しいのです。


    その奇妙さを分かりやすくする為に、
    近代合理主義の理紋を①、②とご紹介します。






    近代合理主義の理紋① は、『陰』無意識界の否定です。


    近代合理主義の理紋② は、『陽』意識中心の世界観です。





    この理紋①、②が、
    近代合理主義を受け入れた人間内部の人間性に歪みを起こします。
    ちょっと待って!
    受け容れたって言ったって、そんなつもりは、、、
    と言った処で、疑いを持たないと云う事はそうなってしまうのですよ。  
    って、先ほどから申し上げて来ましたよね。    ほほっ。
    分からないから、、、と逃げないで、
    しっかり、このお化けを批判する目を持ってくださいね。
    その為に、書いておりますので、、、    ほほっ。





    相貌とは、顔形に顕われた氏素性、人相のようなものです。
    思想を表す言葉上に現われていない、
    その思想に潜在的に具わる必然的な思想の運とでも言いましょうか、、、
    これが、思想の理紋です。 
    思想の表に掲げられたロジックとは違います。


    これは、まだ仮定の段階ですが、
    その思想を作った人間の命式がノリウツッタモノではないか、
    と思っています。
    これからの課題ですが、
    哲学者の命式を調べると面白い事が分かると思っています。
    これは、又、いつか、触れられれば、、、



    次が、思想の現実世界への応用段階になるのですが、
    思想が人間の意識へ入り、行動の基本に取り入れられる段階までには、
    潜在意識の、浅い無意識の領域へ蓄積されます。
    ここで、個々の人間の中で変化が起こりますが、まだ見えません。
    まだ、あなたの無意識界で起こっている事です。
    まだ、『陽』・意識界へ現象として現れる段階ではありません。


    と同時に、
    思想の理紋通りの特有の内部変化が、個々人の人間性に起こります。
    思想が人間の中で、その思想を実現しようとするのです。
    というより、人間が生物として生きようとする力に取り込まれるのです。
    取り込むように、OKを出すのは本人です。
    これが、「信」と云う行為の重要性です。
    「信」は、『土』の徳性でした。
    信じた時点で、無意識に流入する関門は開かれますから。
    ここから、いわゆる、思想による影響と云うものです。


    単に、心が傾くと云うよりも、
    心身に亘る影響を受けた我が身に、
    受け容れた思想の理紋通りになる業が形成されるのです。





    これに、だれもお気づきになれない!
    おめでたい事に、
    人は、全てが自分の意識のままになると思っているのです。
    特に、近代合理主義以降の人間は、ね!     あはは。
    ロジカルな自分の意識が、一番正しくて、、、
    甘~いですねぇ!
    意識の思い上がりよ!
    意識はそれほど賢くはなかったのだわ!    ほほっ。
    意識を支配しているのは、無意識です。
    その波紋が、運と謂われるものです。   
    それと、もうひとつ、
    「時」は運命を運ぶ乗り物。
    意識は、「時」に支配され、無常の檻の中に居るものです。
    そして、その視界は狭く、一点しか見る事ができません。   あはは。
    意識は、かように不自由なものです。
    だから、自由を! と叫んだのでしょうか?     あはは。
    あのう、自由! 自由! と叫ぶのは意識なのですね?



    これで、西洋が、ことさらに自由、自由と叫ぶのが分かります。
    西洋哲学は、意識の範疇なのですね。
    えっ、 西洋?  当然でしょう!  キリストも。      ほほほっ。





    これを運命学的に云えば、運命の種を植えると云う事です。
    そして、この種は、次世代、次々世代へと伝えられます。
    当然ですが、種が消えるまで、
    これは、その人固有の命式上に仮借形容詞の文字で、
    見えるようになります。
    血系を伝って継承される家系の癖になる場合もあります。
    あっ、これは、吉凶共に通じます。








    近代合理主義は、『陰』を無視している思想ゆえに、
    『陰』のあらゆるところへ、その無視をした相貌が出て来ます。




    次のような心身共に亘る『陽』=現象界における現象群です。
    先に紹介をしました近代合理主義の理紋①、②の
    現象群の1.~20.です。




    1. 徳性の鈍化 (権利、義務の主張から来る)
    2. 苦を逃避する (意識が苦しむのを避ける)
    3. 意識の楽、物の満足の追及 (意識中心、物質文明から来る)
    4. 役割の消滅 (徳性の鈍化、自由、平等から来る)
    5. 道徳性の後退  (能力至上主義から来る競争)
    6. 男女の役割の消滅。
    7. 男性のメス化。 (ここまでの結果として現れる)
    8. 女性のオス化。 (      〃         )
    9. 非婚。 (個人主義の徹底)
    10. 晩婚。 (結婚の軽視)
    11. 不妊の増加。
    12. 不妊治療に拠った子供の増加。  
    13. 離婚運の継承。
    14. 縦係累の絆の断絶。
    15. 家族、家庭の消滅。
    16. 家系絶家。
    17. お墓の終焉。
    18. 過去世、来世の否定から来る永遠観の破棄。
    19. 社会の目的観の消失。
    20. 創造性の喪失。 惰性的社会。 芸術の貧困。(無意識の無視から)
    21. 社会に対する強い関心の無さ
    22. 思想の衰退
    23. 生の衰弱
    24. 人類が居なくなるかも知れないとだけ言っておきましょう。


    などなど、、、、、これらの領域は全て『陰』の創造性です。


    『陰』とは、『陽』意識ではどうしようもない領域です。
    自然を支配すると言ったヨーロッパの思想家たちは、
    この『陰』を知らなかった。
    強いて言えば『陰』の概念を追求しなかった。
    と云うより、はっきり言えば、知恵が無かったのです。   あはは。
    失礼いたしました!


    よく、1~24を見てください。
    これらがあって、初めてあらゆる人間活動が成り立つのです。
    いわば、生を支える土台ですね。
    身体で言えば、
    意識に統御されない自律神経系、
    人体の中の無意識系に守られて、呼吸をしているのです、、、
    息を吸って、吐く、吸って、吐く、
    息をつないでいるから、生が保てる。 
    『陽』の生産活動などができるのです。
    『陽』・意識は、無意識系で成り立っているのですよ。


    それを忘れて、気づかず、
    自分の生を成り立たせる為に息をしている無意識系を無視をして、
    意識が、生産活動の経済や政治で天国を求めた所で、
    それはまるで、
    発想自体が、道楽息子なのですよ。        ほほっ。
    親の力で成り立っている事に感謝をせずに本末転倒、
    近代合理主義は、本末転倒主義、思想?      あはは。



    これでは、いかに、『陽』の経済、学問、
    企業による仕事の現象化が旺盛になったとしても
    『陰』の衰亡により、家も国も、当然個人も衰えて行くのは必定です。


       
    ★ 今日は、これらの現象化が、
    近代合理主義の理紋から出て来ていると体の芯から分っていただけたら、
    しあわせでございます。










    これを、近代合理主義の考え方を、
    富士山頂と下界の眺めを例にしてわかりやすく言いますと、
    つまりは、こう云う事です。


    富士山頂の景色、眺望なんて登らないと分からない事だ。
    下界(意識)にいて分からないものは、無いと同じだ、
    富士山頂と云ってみても、登った事がないのなら、
    富士山頂そのものだって在るのか無いのか、分ったものじゃない!
    在るとする証拠がない。富士山頂は無いのだ。
    無いものを在ると言うのはオカルトである。 胡散臭い!  
      


    あはは。


    笑ってしまいましたが、
    ここで、富士山頂の景色、眺望と言っている処を、
    《 死後の世界 》と、置き換えていただいて読んでみてください。




    ◆ 近代合理主義は、死後の世界を認めません。




    なぜなら、その存在を科学的に証明する事ができないからです。
    そう!
    科学の手法は、
    誰にでも再現可能な方法、
    すなわち実験や観察によって自説の正しさを証明するという方法です。


    死は、確かめられません。
    実験や観察によって証明できません。    あはは。
    だれでも再現可能な死、    ほほっ。
    そんな事、できる訳ないじゃありませんか?


    これが、近代合理主義の思想的空間における態度であり、
    近代科学の基本的な態度なのです。






    ◆ 近代科学は、絶対界の神や仏も、死後の世界も認めません。


    それが、体外受精や遺伝子組み換えを進めて来た
    現代科学の正体です。






    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 


    さあ、≪永遠のような計算できないものまでも計算する≫
    キーワードです!




    先ほどのお墓のコメントのお返事のつづき、
    我々の意識で、永遠を推し量ってもしょうがない! 
    と云う処からでしたね。


    今、近代合理主義の歴史をザ~っと見て、
    このムジナのような魂のない、
    目や耳や鼻や口が顔より大きくて顔から溢れそうになっている、 あはは。
    手には、あらゆる物差しを持ち、背中にも計りを背負い、
    何から何まで計り、測り、謀り、量り、図り、謀る巨大で、
    奇怪なバケモノ思想の氏素性を、正体を、十分に分った上で、
    今の我々が生きてい現場を感じてみてください。



    ここで、大事な事は、計算など止めなはれ! と云う事なのです。
    そもそも、世情に合わす事はどうでもいい、後回しでいいのです。
    お墓の意味や役割を考えて迷った場合には、
    仁徳天皇のようなお墓を作れるわけではなく、  あはは。
    どっちにしても、庶民は自分の身の丈の事しかできないのですから、
    その中で、永遠のお墓を作ろうと、   あはは。
    どうしろって言うのですか? って!     ほほっ。
    もしか、あなたに抜けた処があったら、
    あなたが死んだ後、子孫が考えてくれますよ。
    とにかく、真っ当なお墓を残す事です。    ほっ。


    しかし、ここで抜けてはいけないのは、
    おまえしかいない、おまえが両親の墓をみるのだぞ!
    祭祀する権利をおまえに遺すと云う事をはっきり子供へ伝える事です。
    それで、波風が立つようなら、普段の付き合いに問題ありですね。


    先ずは、墓としての本質を真ん中にきちんと建てる事です。
    これは、永遠なのだ。
    そんな事を言っても、エジプトのファラオのようなお墓は無理なのですから、
    見栄とか、子供の事を考慮してとか、それらは次善の策でしょう。
    家は、そう云う次善の策でお建てになろうと趣味でも結構です。
    家は、ほぼ一代ものです。
    しかし、墓は、過去から、見えない先祖がいらっしゃる訳ですから、
    家より比べられない位、重要です。
    できれば、永遠性を担うには、石材を用いるのが正統でしょう。
    ピラミッドも、あれ、石だったから残ってるのですよ。
    神道みたいに木造だったら、20年おきに大金がかかりますしね。
    石だ! 世話をすれば永遠に保つ! だから世話をしろ!と
    言い残す事です。
    あなたに色よい返事はないかもしれませんが、
    渡すべきバトンだけはあると云う認識は大事ですね。
    後は、お子さんが何十年も掛けて考える事ですわ。
    信じてあげましょう。    ほほっ。


    永遠を信じるかどうかの瀬戸際ですね。    あはは。
    しかし、ここが、現代人は、できないのでしょう。
    そんな事、意識で考えられない事を言うなんて、
    なんか、年寄りみたいで、、、  ほほっ。
    カッコワリー気がしてとか、    ほほっ。
    いわゆる、知らない内に、近代合理くさ~くなっていますの。


    我々の中で、永遠と云う『時』が抱けなくなっている。



    お墓が永遠なんて~?


    へぇ~、それで、
    心のどっかで、永遠の愛なんて、憧れている癖に!


    もう、笑うしかありませんね、、、    あはは。
    これらは、なんでも計算する近代合理主義のせいです。
    近代合理主義の世間では、そんな事、馬鹿みたい?
    もっと実利の有る事をした方が良いのかな? とか、
    いろいろ、難しいのですね。
    しかし、ここが最重要なのです。
    近代合理主義を我が身から追い出そうとしたら、これです。   あは。
    今の時代に逆行した事を、ズンと中心に据える事です。


    永遠と云うのは、
    我々の様に、せいぜい7,80年しか生きられない身では、   ほほっ。
    何時か死ななければならない身の上に取ったら、
    それは、〈今〉でしかないのです。
    まさに、 今でしょう!      あはは。


    ここは、重要です。
    よく分っていただきたい処です。
    〈今〉と云う瞬間を生きるあなたの意識が、
    実際にですよ、永遠と云う時の存在を信じて生きた瞬間がなければ、
    その瞬間の累積があなたの人生になる訳ですから、
    あなたの人生において、
    永遠と云う言葉は意味を持たなかった事になるのです。
    永遠と云う言葉は知っていた。
    しかし、その内実をしらないまま死を迎える事になります。
    あなたにとっては、永遠は、中味の無い、ウソだった。
    そう云う事になります。
    他人を騙すと云う事よりも、
    自分のしゃべっていた言葉の中身を信じていなかった、、、
    自分で自分を騙して一生を終えるなんて、
    こんなアホな人生はないでしょう?
    信じるなんて、なんぼもお金が掛かる事ではありませんから、
    私は、しっかりと信じていますのよ。     ほほっ。


    そう云う意味で、永遠と云うのも、今の瞬間だと云うのです。
    これを、仏教では、久遠(くおん)と謂い、そう云う教えが在ります。
    この真意は、もっと深いものなのですが、
    その断面、ちょいとした一つまみを披歴しただけですが、
    これは、浄土教や禅宗ではありませんよ。      ほほっ。


    そう云う系統として、仏教ではないですが、
    分かりやすく具体的な行事として見せているのが神社の遷宮です。
    有名なのは、お伊勢さんや出雲大社ですが、
    永遠なんて保つはずのない木造作りの神殿を
    20年ごとに作り変えて遷宮をしてみせる事で、それを繰り返す事で、
    永遠につながって行くと云う形式、伝統を創っているのです。
    これこそ、人間の意識が永遠を信じる創造性だと思いますよ。
    20年後、100年後の人たちが、これを受け継いでくれるかどうかなんて
    不安や、迷いはみじんもない。
    それらを受け継いで、やってくれると云う気迫が込められていますよ。
    あの気迫を、見習いなはれ!     あはは。




    家に付いてですが、分かりやすいのが、
    歌舞伎や相撲と云う世界には伝統を守ると云う精神が残っています。
    そして、そう云う家は、不思議なものですが子孫も続いています。
    東洋学を学んでいる身として、
    孔子の子孫などについて興味がありました。
    孔子が、間違いなく天地が認める生き方をしたのなら、
    その証しに、子孫が必ず続いているはずだと思っていました。
    そうすると、それからすぐに、ちゃんと中国軍の軍人をしていると云う
    ニュースが、写真と共に報道されました。
    私の場合なのですが、
    知りたいと思うと、どこかから答えが出て参ります。


    有名な家では、今の安倍総理の家系です。
    岸家と安倍家と佐藤家が、お互いに後継ぎが生れなければ男の子を、
    お互いに養子として迎えていますね。
    現に総理の弟・信夫氏は、岸家の養子です。
    信夫氏は、晋三と実の兄弟である事を知らずに育ち、
    真実を知ったのは、
    大学進学に際し戸籍謄本を取り寄せて見た時だったそうで、
    「見た瞬間アレッて思いました。そのときのショックは、
    それは大変なものがあった。」そうです。


    それと、今、NHKの朝ドラ、マッサンですが、
    ・ ニッカ創業者の竹鶴政孝氏自身も子供ができなかったので、
    実家から甥・威氏を養子にもらっています。
    ・ サントリー創業者の鳥居信治郎氏も、長男は33歳で亡くなったので、
    2代目社長は、次男の佐治敬三です。
    佐治の云う姓は、信次郎氏の奥様の実家へ養子へ行ったからです。
    3代目社長は、早逝した長男の忘れ形見の鳥井信一郎氏です。
    4代目社長は、2代目社長佐治敬三氏の息子、信忠氏です。
    このように、家系を絶やさない様に両家が支え合う。
    もう、この事自体が陰徳を積む事になります。


    男の子を養子に出す家は、他家を支えた訳ですからそのお陰が、
    貰った家も、自分の先祖を祭祀する役目を放棄しなかった訳ですから、
    それぞれが栄える因を積んだ事になります。


    永遠の心を信じ、支えようとする処には形や形式、
    中実も付いて来るものですよ。



    まず、ご自分が、毎月墓参を続けてください。
    それが第一歩です。



    よろしいでしょうか?
    えらい長い記事になってしまいましたが、後少しですよ。  ほほっ。
    肝心な事は、かなりしつこく書いております。    あはは。




    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




    ★★最後に、
    ≪富士山頂≫がキーワードです!
    憶えておいてくださったかしら?    ほほっ。
    下界の景色の譬えに、、、
    先ほどに、戻りますね!



    ≪富士山頂≫ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





    今日は、新しい概念の追加があると書きました。  
    『陰』と『陽』に、次の新しい2つを振り分けて見ます。
    一段とむずかしくなりそうです、、、   あはは。
    大丈夫かな?  ですね!








    『陽』 相対(界)性 = 向かい合い、合い対し、又は対立する性質。
                   互いに他との関係をもち合って成立し、存在する事。
                   相対的な価値観の現実世界。


    『陰』 絶対(界)性 = 長く変化しない事、 不変性 ・ 恒久性 ・ 永遠性
                    変化なく止まらない持続性、 普遍の真理性、 
                    絶対真理、正義の神仏の領域。








    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー☆


    だいじょうぶでしょうか?
    これを、まとめてみますよ!     (難しかったら、パス!    ほほっ。)
    まず『陽』から、我々の生きている相対世界からいきます。






    普段、我々の背丈(意識)で眺めている下界を意識界とします。
    ・・・・・・・・・・ 『陽』の現象界、 光、 生、 男   
    ・・・・・・・・・・ 相対性の世界
     新しいのはココです。






    これは、だいじょうぶですね!
    普通の意識の世界、我々が覚知できる世界です。
    ここには絶対真理はありません。     ほほっ。


    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー☆




    さぁ、次が絶対界、 いつもの『陰』、無意識界のことです。
    この世界を、近代合理主義は、無い。と言っています。







    富士山頂を無意識界とします。
    ・・・・・・・・・・ 『陰』で現象を起こす本体、 暗黒、 死、 女
    ・・・・・・・・・・ 絶対性の世界 = 
    ココです。
                         仏教の絶対的真理の世界 



    * 東洋的思想を宣揚するブログですから、                       

    具体的な絶対性の世界として、仏の絶対的真理の世界としました。





    これについては、
    このブログの一番最初の記事である  寂光について・・・・・で、
    具体的に書いています。
    下線の処で、リンクしていますので、
    どうぞ、クリックしてご覧になってください。

                   




    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー☆




    ここ、近代合理主義の社会は、相対的価値観しかない娑婆なのです。




    ◆◆ 暮も押し迫った2014年、12月現在、我々は、間違いなく
    絶対観のない物質文明の中、に生きています。◆◆






    今回は、我々の伝統的なお墓観が、
    近代合理主義の物質文明に犯されて、内実を抜かれて、
    「孝」も供養も感謝も永遠の生命観も抜けきった「物」そのもののお墓、
    墓地や墓石、お骨を葬る場所、物、処になってしまっているのを、
    気が付いていただきたいと云う願いからです。

    明治以来の近代化の結果、
    我々は、どれだけの我々の東洋的な伝統を守って来たのか?
    先人の方々を悪く言うつもりはありませんが、
    それらについては、はなはだ疑問、失望を持っています。
    近代合理主義は物質文明です。
    それは、あらゆるものを物質と観る思想です。
    精神と物質に分ける二元論においては、
    精神は置き去りにされ、命を物と観る風潮が増長され、
    簡単に人を殺してしまう事件が増えて来ています。
    その中で、お墓も例外では無いと云う事ですね。



    大真面目な日本民族性が、近代合理主義を進んで受け入れて、
    西欧に追いつく為にと自らの伝統を捨て、
    先進国になったと云う誇りを得て喜んだのもつかの間、
    近代文明は、未来の人類史を切り開く展望は持てなくなっています。
    『陰』の無視は、人間生命が、そのつながりを失って行く訳ですから、
    墓地の祭祀の継承者を失い、墓終(しま)いも、お墓の消失も、
    我々の当然の報いであり、結果なのです。


    この近代合理主義が世の中の常識になっている現代で、
    お墓だけが、昔の儘であるわけがないのです。
    お墓だって、近代合理主義の風に吹かれて荒んでいき、
    その重要な意義と意味が失って行っています。

    我々の中から、「孝」と云う徳性が廃れ、消えてしまった。
    その事実が、お墓にも当てはまる原因結果なのです。
    もう一つ大事な事は、
    永遠の生命観が、我々の中から失われていっていると云う事です。


    近代合理主義は、
    目の届く範囲、きらびやかに飾り、
    行き届く範囲、気が利いたデザインで被います。
    それが得意、また、
    それしかできない文明です。



    それら、きらびやかな輝きの中には、
    もう、永遠はない。
    ないからこそ飾る。


    ーーーーーーーーーーーーーーーーー それが西洋的です。



    永遠を探る。そこにあるのを分っているから、
    信じているから、、、
    きらびやかに飾らない。
    無駄な装飾を省く。
    何もない空間に「ある」を視、
    描かれていない顔に表情を観るのです。



    ーーーーーーーーーーーーーーーーー それが東洋です。





                




    どうか、年の終り、初めと云う節にあたって、
    そのような事を考えてみてください。


    超長い記事を最後までお読みいただきました事、
    深く感謝申し上げます。

    良きお年をお迎えください。






























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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