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02/20 12:02 |
哲学の小道というのが、京都大学の近く疎水のそばにあります。Category : 生活哲学
![]() 吾妻山の登り道 ”生活哲学” これを、見つめなおしてみたいということで、 このブログを書き始めたのですが、 なかなか前へ、進みません~ 途中のサブジェクトがたくさんあり過ぎです! 最終的には、生活としての『道徳』、体を通しての『哲学』へ 行こうとしているのですが、、、 上の写真のように、まだ山の途中道を歩ている状態ですね。 ほほっ。 哲学の小道というのが、京都大学の近く疎水のそばにあります。 その近所に、私が尊敬申し上げる梅原猛先生の住居が当時ありました。 そういうことを思い出しながら、 今日は、哲学について勝手な事を書いてみようと思います。 まず、東大名誉教授・今道友信氏が先月六本木ヒルズで懇話会を行い、 大腸ガンのため、最終講(演)として次の遺言のような訴えをしました。 氏は、生活圏を意味する(エコ)と、倫理学のエティカを合成する 「エコエティカ」(生圏倫理学)を提唱しています。 以下講演の内容 ・社会構造の変容に見合った倫理の革新が必要だ。 ・ハイデッガーの哲学を、これからの世界を考える上では不十分と批判。 ・現在のネット環境、デジタル構造においては (情報)と(認識)の区別がつかず、与えられた(情報)から何かを (選択)するという受動的な行動を取りがちになる。 与えられた情報の外=想定外の危機からは脱却できない。 ・(選択)ではなく(決断)してこそ、人間は(創造)の世界に入ってい く事ができる。(つまりネットの選択だけでは創造はできない。) ・行き詰まりを打開するのは、理性と想像力を糧とするアナログ構造。 ・哲学者として、21世紀をより良い世界とするための努力を怠って来た のでないかという忸怩たる思いがある。 読売新聞紙の記事から引用しました。 専門家もそう思っているのかと納得はしましたが、遅すぎます。 私たちは、もう、理性のみを中心にする哲学を捨てなければいけません。 これからは感性に裏打ちされた体を通した哲学でなければウソです。 もう、頭のなかで作った(創ったではないですよ!)ロジックだけには、 辟易しています。 普通の庶民に判りにくいもの! さも、哲学=難解の構図を作ったのが、過去の哲学者の功績でしょうか? 学(ガク)がないと解らない。 だから哲学=キライな人ばかりだと思います。 どことなく自分の能力がついて行かないように感じ、 哲学や学問をする柄じゃないよ~ そう思ってきたのは、みなさん人がいいからですわ。 哲学を責めたりしないのね! ほほっ。 その前に逃げますか? あはは。 私は、いつも思ってきました。 逃げるのがキライだからですが、 ほほっ。 私が、常々それをおかしいと思ってきたのは、 哲学は、何の為にあるのか? それは私たちの為にあるのですよ。 そう、私のために! みんながそれぞれ私の為にある、 そう思ってください。 今までの哲学という学問がおかしい! 難しかったのは我々が”おばか”だからじゃなくて、、、、、? それこそ、そう思わせてきた哲学が無力なんだ。 一般人を引きつけられない、そういう魅力がないから、 生活の言葉で、語れないから。観念世界の作り物に過ぎないから。 それは、○○○哲学そのものの限界である。と思って来ました。 実は、わたしも共産主義は一通り洗礼を浴びました。が、 でも、体がどこか受け付けない、生理的に馴染めないものでした。 自分のブログの中ですから好きなように書かせていただきますが、 あはは。 マルクスって、ひがみ根性を持っている男なんじゃない? ほんと、永らくそう思って来ましたよっ! ほっ。 左の方って、そういう方が多いの! あはは。 そういう彼のマイナーな潜在意識・性格を感じ取ったら、 もう、彼の理性の狭い暗い道にいっしょに入って行けない! 私には、無理! あはは~ そう思って、あほらしいと思っただけでした。 彼は人間を本当に分っていない! 自己のひがみ根性を正当化する為に、ここまでやるの? バカバカしくって、 若い私はそう思ってマルクスを捨てました。 資本主義もそう、 どうしてこうも、 偏った物ばかりがメジャーな思想になるの? ほほっ。 今、私は資本主義の社会に生まれて生きていますが、 ムズムズと居心地は良くない!ですね~ 何故って? 資本主義の世界で生きると、知らず飢餓感に襲われます。 それを毎日自分の心の中から排除しないと、 資本主義に毒され続けるという事です。 資本主義は、欲望の整理ができていない。 如何に理性的な言葉をロジカルに組み立てていようと、 所詮キリスト教思想の積み木を、 ただ組み立て方を変えただけじゃない! って、 マルクスさんとアダムスミスさんの事をそう思ってしまったのですね~ 生産の分配をどうするか? 両者は、キリスト教の塔の右と左の窓から眺めた景色です。 共産主義、資本主義、あれは狩猟民族が「飢え」から逃げたくて、 生まれた思想ではないのか? う~ん、 これは、私の生育暦からくる個性なのかもしれませんが、 何かが、真理というからには、 その証拠に五感で受け入れた時に、 頭と、心と、体が、同時に受け入れるのだと思い込んでいます。 たとえば、ドキッとするとか、 体に汗を感じるとか、血の巡りを感じるとか、 喜びになるとか、涙が出るとか、 そういうさまざまな症状が 意情体=生命に感じられるものだと、 それが宇宙だと、大前提だという基盤が私の内側にあるからです。 頭だけが納得するって、ありますよね。 それは、認知する脳の一部分が理解する、 まさに理解です。 理解というのはまだ観念的な世界の出来事ですね。 ここの段階はまだ、本当の事かどうか判らない。 そう思っています。 理屈はそうです。 政治にはいつもここで騙されるのです。 ウソなのに、 言葉のロジックで騙されるのです。 ロジックに頼る限り仕方ないですね。 主に男性が創った人工物ですから、 理性もロジックも人工の概念だから、まるまる当てにはできません。 理性で並べただけの論理では、人は救えないのが判りました。 理性の限界と言っていいでしょう。 もう、古い?のです。 人は感動したら知らず涙が出る。 どうしようもなく悲しくなる。 これが感性でしょう。 自ずと、体を軽く感じる。 背筋に血が上って暖かくなる。 手に汗握る。鳥肌が立つ。 頭に被さっていた物が晴れてすっきりする。 これが体感です。 それと理性。 この3つが揃わないと”真実ではない!”と、私のウソ発見器が申します。 私のウソ発見器で”うそ”と出たら推移を眺めるだけにします。 あとは、観察です! 本質が分るまで手は出しません~ 真実は簡単なもの。シンプルという意味です。 すっきりしているものです。 体の中心部に衝撃が走る。 それに近いものです。 ほっ。 感性では、うれしくなるもの。 がんばろうと思えるものですよ。 そして、威張らないものです。 やさしい言葉・生活の言葉で語れるものです。 そうあるべきです。 そうでなければ”ウソ”だとウソ発見器がささやいて、、、 これからの哲学は、 理性でロジカルに語るものではない所に、 出現するでしょうね。 哲学は、哲学者のものにはあらず、です。 宇宙と、自然と、地球と、 あらゆる生命・私たちのための哲学であるべきです。 生活の現場からです。 これからは、 理性の満足という観念的な言葉の論理性の追求だけでなく、 心も健康になり、体も血色がよくなる、 というような実践的な「感性と実感」に 裏打ちされた哲学のはずです。 東洋の智を、”温故知新”まず温故、知ることから、思い出して、 そして温めましょう。 温める=陽光、体温、地熱が感じられます。 太陽(天)、人、地です。 熱線で貫かれています。 生命のエネルギーです。 これらの事を、 あなたのいのちの中で、、、、、 温めておいてください。。。 良き一週間をおすごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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02/23 10:46 |
道徳1 今よりもっと諸悪が増えて悪が分散し見えにくくなるだけです。Category : 生活哲学
![]() 武蔵野の朝 最近ですが、めずらしい記事を、 道徳に関しての記事ですが、新聞紙上に発見しました。 今こそ道徳 と大きな字が目に飛び込んで来る位の見出しで4段抜きの記事を見ました。 何ポイントか、活字の大きさが、縦横2,5cmもある見出し字で、 記事の真ん中にぶち抜き! (ご覧になった方もいるでしょうが) 真上の見出しが、命の尊さ 規範意識 郷土愛 つづけて、県教育局が独自資料集 小中高生向けと白抜き文字で! きっと記事を書いた記者も、注目をしてほしいという気持ちで 記事にしたのでしょう。 読まずにはいられない気にさせる迫力があって、 私も日頃、これに関しては関心があるわけですから、すなおに読みました。 埼玉県が、全国的に異例という「道徳」教育用の資料集を 製作したという記事です。 暴力行為やいじめなどの問題が深刻化する中、命の大切さや他人の痛み、 帰属感といった問題を学ぶきっかけになればと 企画された資料集を紹介していました。 こういう資料集を作ったのが、全国的にも異例というのにも驚きましたが、 埼玉県内の公立小中高の生徒の暴力行為は2008年度に2559件発生し、 過去最高。ネット掲示板の「ネットいじめ」も認知されただけで131件。 具体的にこういう事件が増えていっている事は切実です。 一部、資料集の内容がそのまま紹介をされていました。 学校教育での授業で、道徳を学ぶ参考にするための”良い行い”についての 紹介の物語の内容も、ただ事実が列挙されているだけです。 なぜ主人公が、そのような良い行いをするようになったのか? 主人公が真似をした母親の善意の行動の本当の動機はなにだったのか? 子どもの心が理解し、納得して共感できるデーティルをもっと、 さらけ出す必要があったのではないのか? 全体が当たり障りのない上辺だけの説明で、 ほんとうにこれで「道徳」心が芽生える事ができるのか? 読んだ記事の範囲のなかですが、そのような不足を感じました。 現在の小中学校の学習指導要綱は、道徳の授業について年間35時間行う と定めているものの正式な教科とは位置づけられてはいない。 特に高校は何の規定もないままです。 埼玉県は、県内の公立高校に対して「年5回以上、道徳の授業を行う」と推進 方針を通知するそうですが、 他府県は、そこまでいっていない状態なのでしょうね。 それにしても、年間5回ですか・・・・・ 日本という国が、どういう人間を未来の国民として育てたいのか、 まったく指針も目標も持たずにいること、 この現状を知ってあきれたというか、教育に関しては国の体を為してない、 それは、滅びに向かっている国と言うよりも、 わが国の教育においては、もうすでに国の姿形が無く、 国柄は溶けて無くなっているといえるのではないでしょうか? こういう見えない部分の象は、かならず目に見える現象の世界に具現します。 3年、7年、10年、30年で取り返しがつかなくなります。 それで経済? 学力テスト? 行財政改革? 財政規律? 安全保障? 笑ってしまいます。 できるわけないでしょう。 未来の姿が形作られて初めて現在のするべき事が分って来るというもの! まったく、人間教育をないがしろにしておいて、政治家が何に夢中なの? 人の本性は、制度ややり方で変わりません。 何の改革も人間を変える事はできません。 ただそういう人間の弱みを踏まえたリスク管理をするしかない。 制度や法律を変えても、その制度と法律の数ほど 今よりもっと諸悪が増えて悪が分散し見えにくくなるだけです。 人の欲望に対するアンチテーゼを設けられない、築けない国が、 人の欲望に対するアンチテーゼを設けられない政治家が、 未来ある子供たちに、それを指し示し指導できない国が、 未来ある子供たちに、それを指し示し指導できない政治家が、 この国のために、これ以上の何ができますか? もっと悪党になるだけです。 中高卒の若者失業率 最悪14,2% もう、おわっている。 この国には、羞じることもなく、誇りも忘れた金銭にだらしのない男が、 二人えらそうに居座っている・・・ いのちの継承を大事にできないままで、、、 少し、みなさまもっと深い処で考えましょう。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 教育問題について考える |
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02/28 11:46 |
道徳2 道徳は、心と体にいいこと、いのちにいいことなのですよ。Category : 生活哲学
![]() 暖かい冬の日 道徳を、新聞記事から取り上げた前のブログ記事へ、 次のようなコメントをいただきました。 公の道徳教育は、 戦前の教育とダブって身動きが取れないような気がします。 だからといって、このままでいけませんので、草の根ではありませんが、 各家庭といいますか、 個人が道徳心を養わなくてはいけない時代だと思います。 今の日本の現状を国民目線から見たコメントですね。 どうもありがとうございました。 たしかに今、こう言うしかないのが私たちの状況です。 私も分っていながら記事を書いたわけですが、 正直なところ、官の行う公教育で道徳というものを教えるという事は、 あまり期待していないのです。 まず! 言葉だけ理屈だけで教えるものではないのですから・・・・・ しかし、親の関心は、学校がどう教えているの? この一点でしょう。 学校は子どもも影響を一番受けますから、 そういう意味で無視はできない、重要な場所だと思います。 その上、社会全体がその気になっていないのに、 大人が本気になっていないのに、子どもだけをターゲットにして 道徳の箇条書きだけを教えるというのも、後ろめたい気がします。 日本人はこうして生きてきたという 過去からつながっている道徳心の伝統を 今の大人がどれだけ感じているか? 持っているか? 説得力があるか? と考えた場合、正直なところお互いに自信がないのでしょうね。(笑い) 私もそのなかの一人ではあります。(笑い) まぁ、何もしないよりましか? せめてこれ位やらねば! という曖昧さと良心が道徳の現場にはあるかもしれない。 ”これからの道徳は学校と家庭で、それを取り巻く社会全体が 取り組まなくてはいけないわ。いっしょになってね。” ここまでは、皆が心の底で考えていることなのに、 なぜ、それが出来なくなっているのか? この点について、 この重く垂れ込めている道徳の雲を払えるかどうか? 分りませんが、、、 今回、どういう道徳?という点は、すべて省いて、 考えてみましょう。 歴史上、今の現実に至ったのには、2,3の原因が挙げられます。 まず、ひとつは日本のある時期から道徳の本来の意味が 摩り替わってしまっているのですね。 何事も本質的なものが滅びる時はそうなのですが、 重要な核心は抜かれて、卑小なものに摩り替わるのですね。 尊いものが、滅びる原理はこれです。 元々の目的を見失って、卑小な邪悪な通俗的な目的に利用されるのです。 一番は、他者を支配しようとするあらゆる権力に利用されるのです。 (オオカミがヒツジの皮を着るようなものです、) 政治利用ですね。 政治は、そうでナイものを、そうでアルと言ったりします。 政治は『陽』の極地ですから、時間の経過でかならず偽になります。 政治ほど時間の経過に左右されるものはないでしょう。 政治家の言葉は、すぐに腐る魚のようです。 日本の過去に思い当たることが、ありますね。 権力者こそが、本来の道徳の真髄を身に付けていないといけないのに、 その真逆に、徳のない権力者が、 自分の権力欲を正当化する為に 民が信奉している尊い物を身にまとったように振舞い、 尊いものを利用し、民をだまし愚弄するのです。 それで日本の道徳は、狂った使われ方をされて、 中味を貶められたのです。 (これは民の側にも責任があります。形だけの道徳を持っていたからです) 一度貶(おとし)められた物を、人は二度と拾いません。 そのことから、本当は為政者自身が反省をして国民に詫び、 本来の道徳を見出さなければいけないのに、 わが国の為政者は、責められれば他国には謝るけれども、 国民には、本当の反省と、謝罪は行われていないように思います。 この国の民は、 ウソをついて道徳でひどい目に遭わせた政治家を 責めるわけでもなく、 人が良いままに、戦勝国の裁判結果を受け入れ、 原爆を落とした敵国を憎むわけでもなく、 肉親を奪った無差別爆撃を怨むわけでもなく、 正等に抗議すらしないまま、 自分の感情を抑圧して、 ただ自分たちが持っていた道徳=恐い! その過去を捨てよう! それが進歩的だと思って生きてきたわけです。 そういう雲が垂れ込めていますね。 通常の人間の感情ならできない事を 戦後の洗脳教育で越えてきた。 そのスタートに、 すでに道徳の根は手からすべり落ちてしまっていた。 かって、今も、目の前を見ても、 道徳の雲を払ってくれるような徳を積んだ政治家はいたっけ? いないわ~ 悪は為していないと強弁し、自ら説明しない、 国民に対して『礼』や『義』を欠いた権力者が一人じゃなく、 二人も居座っている! 普通一人ですよ! 人の作った法で悪とならなければ、道徳は無視してもいいの~? 人為の法は時と共に変われども、不変の法を道徳と言うのでしょう? 道徳の方が、まったく上位の法ですよ! この状態を作り出す人(鬼畜?)を「賎しい」、 「ずるい」、 「品の無い」、 「不徳の人」と言うのですよ。 『礼』や『義』のないところに、『仁』があると思いますか? まして『信』など持つ事が出来ますか? おそろしい~ 道徳的に成っていない事を、 正義として強権で通すということは、 今よりもっと、道徳をおとしめる行為そのものです。 60年前の為政者は、道徳を語って国民をだましました。 それは、国民が道徳を大事にしていると見ていたからです。 だますのに、道徳の力が要ると踏んだのです。 しかし、 現在の為政者は、初めから道徳を無視しています。 これは、国民を舐めている、無視している事になるのですよ。 道徳の程度が低い国民だから、オレのやっている事は正義で通る。 読みの鋭い権力者が、そう思っている行為そのものです。 ここに、なぜ、私たちが道徳を大事にしないといけないか? 答えがでています。 道徳を必要ないと捨てた国民には、 道徳性のカケラも無い政治が、平気で押して来るという事です。 断っておきますが、 これは、政治論ではありません。 まして今の政治を政治的に批判するのが目的ではなく、 その根本の、思想、哲学、そこからの道徳を論じているだけです。 誰が良い政治家かどうかは、どうでもいい事です。 人に拘り、人に停まるのは私の好みではありませんから、、、。 その政治家が持っている哲学(陰)が低ければ、 その現象(陽)である政治は、見る影も無くなるはずです。 論じる必要もないわけです。 ここのテーマは、東洋哲学であり、その生活哲学・道徳論です。 そのように、 いまだに日本においては、腐った魚のニオイが鼻についています。 たしかに、コメントに書かれているように、 私達一人一人が、しっかりするしかないのです。 現象面として、 民法の改正? 夫婦別姓、外国人に参政権を与える、こども手当て、 良いか悪いかは別として、今までに無い物がどっと押し出されています。 今、短兵急に、 これらの事を私たちはじっくり考えられますか? 気になるのは、 これらは全て、道徳的な影響面は議論されていません。 これらの政策で、 日本の貶められた道徳がもっと、おとしめられるのか? 逆に、これを切っ掛けにして精神性が向上するのか? 物質面だけにおいて議論されて、精神面の影響は無視されています。 所詮は、物質文明の渦の中の掻き回し方の違いしかないのでしょう。 なら、もっと将来において、 日本は精神の荒廃が進み、苦しむことになりますね。 結局は、 私達の道徳に丁度の政治が、行われているというだけです。 私達の道徳に丁度の経済が、目の前に続くというだけです。 道徳を無視すれば、私たちの徳性を無視した政治や経済が行われます。 その程度で支持をする軽い国民だと、為政者は見抜くわけです。 為政者だって楽をしたいのです。 手を抜きたいのです。 あはは。 その程度の政治や経済の知恵しか、世の中に出て来ないのです。 自分が他者を重んじれば、他者は私を重んじてくれます。 なぜ、道徳を言うのか、 それは運命と深く関わり一体だからです。 このブログの目的は、 精神性・哲学と道徳がそのまま「運命」だという事です。 心と体は、別々ではありません。 道徳は、心と体にいいこと、いのちにいいことなのですよ。 道徳は関係ないけれど、お金さえあれば、、、 道徳は関係ないけれど、健康ならいいのよ~ それは、物質文明の浅瀬しか見ていませんね。 人生の実態は、目で見える程、そこまで単純ではありませんから。 昔の中国の『呂氏春秋』という本に、 徳のそなわっている人が国を治めれば、 自然もおだやかに中庸に、 したがって雨が降っても山は崩れず、 地震や災害も起こらず、農作物は豊作に、 世が平安になると、書かれています。 つなみだって、地震だって、人心を不安にする災害は 起こらなくなると、、、。 物質性+精神性=世界の現象=いのちの現実です。 同じく『呂氏春秋』には、 私達の思う事は天地に通じ宇宙を覆っている、とあります。 次へ、つづきます。 それでは、よき日をお過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 心と体にいいことはじめよう! |
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03/05 11:31 |
道徳3 私達は、東洋の素読的な知の理解というものを失っていったのではないか。Category : 生活哲学
![]() 窓に凍りついた氷の結晶 氷が視界を邪魔するように、 現代文明の意識が、本来の私達の認識の邪魔をしています。 今日は、道徳の3回目、 正直に言うと道徳について今、ここまで書こうとは思ってもなかったのです。 前々回、次のようなコメントをいただきました。 いつもお伺いしようと思っていたのですが、 今の人の主張は、感覚、知識、意識ばかりが溢れています。 何か、偏りを感じています。 子育ての話題も意識、音楽についても意識、政治も意識、 息がつまりそうです。 東洋学というものに触れたら、 こういう風に気が付く感覚が、自分の内側で育ってくるようです。 このブログのせいかしら? (笑い) 子育ての話題も意識、 音楽についても意識、 政治も意識、息がつまりそうです。 分るような気がします。 政治が、意識的という事は当然としても、 特に子育て・教育は意識で構築したロジックだけでは不十分ですね。 一般的に女性は教育や育児を、心を中心において理解しようとしますから、 意識的な言葉だったら、理屈は解っても、体が動いて、行動が出ません。 体と心が動かない教育論は、意味がありません。 音楽もそうですね。 モーツァルトなどを、意識的な言葉でいくら解説してくれたとしても、 あのモーツァルトの音楽は、伝わらないですものね。 意識的な言葉で、全てを理解できる、させられると思うのはダメね~! 女性は、生理的に受け付けない処がありますよね。 その無意味さを直感的に分ってしまうのです。 言葉だけの理解で何が手に入るの? と。(笑い) ついでに紹介しておきますと、 カントも、人間界では「意思」が出発点になる 、と言っています。 西洋文明の哲学者は、実に! いろんな認識の道具や存在の意義を作り出すものですね~! ここから東洋です! 東洋学の言葉は漢字は難解?でも、漢字の表記でほぼ意味が通じます。 特に中国の古典を読むときに、 漢文の素読で声を出してそれらの文を読めば、 目から字の意味がうっすら脳へ、その音が耳へひびき、 脳から全身へ。 口を動かす筋肉から体感へ、 何かが自分の体の中から、 その文中の匂いと同じものが、立ちのぼって来るような気がします。 文中の意味を、音の美しさを、 言葉の真実味をシャワーで浴びるようです。 私達の先祖は、そのような 東洋の素読的な知の理解というものを失っていったのではないか。 いつから? 明治維新以降から入ってきた西洋文明の書物や考え方、文化などを 吸収する為に、 我々の先祖は必死で西洋の実証的な知識的理解というものを 受け入れていったわけです。 そのおかげで、ずいぶんと進んだ面もありますが、 その結果、今の道徳の捉え方は、 西洋の実証的な知識的理解のみに終始してしまっている。 と、言えなくもないと思うのです。 まさに、心に思う事を身体的実践で行うのが道徳とすれば、 西洋の実証的な知識で道徳を理解させようと教えたとしても、 本当の道徳の理解には至らないという事です。 『いい番傘を作る』という例えで言いますと、 まず番傘の仕組みを知るために目の前にいろんな傘を並べて研究して、 形をデザインする。 それから、それがどうしていい番傘になるのか 材料や形を理解できるように説明する事で終っているのです。 心・体=いのちという身体的実践が伴なわないまま、、、 解ったつもりになっている。 雨の中を番傘をさしてみるという経験をしないまま、 番傘の事が解ったつもりになっている? 一度もさしたことの無い番傘。 あれこれ理屈を教える。 だって、それが今の世では頭のいい人なのですものね~ それに気が付かない文化が、ずっ~~と、 西洋化の波の中で続けられてきたのではないですか? この世界や、宇宙、又、人間や、いのち、は、 間違いなく人間より先に存在していたものです。 それなのに、 その本質を見ようとするのに、 人間が400年前に気づいた意識という、 知る方法の一つでしかない西洋の実証的な知識的理解でもって、 この世界のすべてを推し量ろうとする事が、 余りにも稚拙であるという事に、もう気がつかないといけない。 そう思われませんか? まぁ、モノを扱う場合はそれで間に合うかも知れませんが・・・ 人間の行動は、感情で動く部分が大きい。 無視はできないですね。 感情を無いものとして扱い、なんでも自分が意識する物を中心に 全ての存在を論じようとする。 この西洋的な知の有り方そのものを考え直さなければ、 次への扉は開ける事はできない。 そう思います。 その点、東洋においては、 この世界や宇宙、又、人間や命の本質を 見極めようとする時は、 必ず、意識できる知性だけに頼るだけでなく、 情的な感性と体感を伴なう身体的実践を重んじてきました。 また、一度確認されて普遍的な知となった智慧・悟りを 後世へ伝承するにあっても、その正確な追認には、 かならず身体的な実践を欠くべからざるものとして来ました。 なぜならそれら(この世界や、宇宙、人間や、いのち)は、 意識だけの存在ではなく、 なにかあれば、私達の全存在に影響を与える存在だからです。 だからその確認には、 意識したものを文字やデーターとして留めただけのものではなく、 生死において肉体・精神=命で覚知する基である という前提があるからです。 道徳においても、そうでしょう。 西洋の実証的な知識で道徳を理解できるとしてきた事。 これが、私達の道徳への鈍麻性につながっているのでは? 道徳への鈍麻性の例、 西洋の実証的な知識を身に付けた人とは、高学歴の人です。 高学歴と道徳性は比例しないでしょう? あはは。 北教組の幹部たちの選挙資金の違反、 教員採用試験等の教師の犯罪、 警察官、判事、弁護士、医師の保険請求の犯罪、 議員のお手盛り、政治資金の不正、きりがないです~。 その鈍麻性を、失くそうと思えば、、 自らの道徳性を磨く事なしにはできないでしょうね。 道徳を箇条書きにして、壁に貼ったところで何にもなりません。 憲法や法律のように、人間が作った法律ではなく、 人の所業に、良心によって確認される成文化されない則です。 条文化されていないイギリスの憲法に 少し通じるものがあるかもしれません。 私が今まで、東洋、東洋!と絶賛してきた 我が東洋の哲学の特長は、 体を通してしかそれらの真髄は分らないという点にあります。 身体的実践を伴わない西洋哲学とはココが違うのです。 当然、そこから生まれた道徳の価値もそうです。 体を通して、初めて道徳の真髄が分るのです。 本当の道徳とは、 身体的実践を通して、取り巻く環境との交流から、 他者との反応、それは喜びや感謝で還ってくる感情的満足、喜び、 自己と他者が共に向上する喜び等を、 心身共に取り入れ味わいながら命の深奥へ積み重ねられる 宇宙やこの社会との共鳴です。 その共鳴のリズムを心身両面で感じ、培った命は、 次、欺瞞を帯びたものに対して敏感に反応するはずです。 かりに為政者が、人に喜びを施すという手練手管を使って、 腹の中では時代を思い通りにする欲望を秘めて謀ったとしても、 我々の心身に、他者との徳性の向上における喜びが、 刷り込まれていれば、 それをひとかけらも感じさせない為政者の言葉には、 騙されない知性と感性、意識が私達のいのちに深く根を張っていて、 自らが陰謀の穴へ落ちてしまう事から 守ってくれると思います。 あらゆる権力や魔性が、我が身を蹂躙しようとしても、 それから守ってくれるのは、お互いに見抜く力、 自分の培ってきた自分の徳性しかないのです。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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03/12 14:51 |
道徳4 『道徳』のヒエラルキーにおける位置は、最下層に追いやられています。Category : 生活哲学
![]() 満開の梅の木 最近 ”難しすぎる~!” というメールをまた、貰ってしまいました。 ・・・ 扱う内容が、大事な内容を含む場合、 どうしても外せない点だけは、書かないといけないと思い、 迷うながら、、、 なるべく具体的な言い方を心がけながら記事にしています。 こんな言い訳を書くのも、 今日も難しいと言われそうなので、 予防線を張っている次第でございます。 (笑い) よろしくおねがいします。 普通の人、私もごく普通の人なのですが、 あはっ! 道徳とか、哲学とか、思想というものが、 どんなに重要か、 どんなに自分の一生に関係してくるか 気が付いていない人が、多いのですね~ このブログへ来ていただいている方は、別として、、、 なかなか、近づきたくないのが、哲学! 道徳! 難しい面倒な事!! あはは。 また、今は教育という中で、そういうものを、教えないし、 教えるとしたら知識としてまで。 教える実体を持っていないのね・・・ 今日の記事は、道徳4、これで一区切りにしようと思います。 道徳が、人としてのたしなみ、教養くらいにしか 考えられていない事が、道徳に関心を皆さんが持たない原因です。 だって、効率や、利益誘導を優先する社会において、 たしなみは無視され、 教養は、飾り物のように端っこに追いやられています。 道徳は、たしなみや教養より、マシな物ですよ。 (実際そうなのに、、、ムダとしか思っていない現状が、、、) お金より、ずっと得な物! ですよ。 これでは、どうでしょうか? ほほっ。 お金より得だって言えば、 少しは、振り向く人が増えるでしょうか? あはっ! 何に例えたら、道徳の価値が分かるのか ? 自分が一番欲しい物が手に入る根拠になるものです。 これでは、どうでしょうか? 嘘みたいで、騙されてるって? あはは。 今、いろんな点で、世の中がここまで、 にっちもさっちも【二進も三進も】行かなくなっているのは、 全ての価値観が転倒しているからです。 理念のない、哲学の心棒のない政治、 その下で行政の枠内で行われる官教育、 その官教育の行政下の片隅に道徳を置いているというのが、 そもそも、おかしいのです! だって、行政に管理されて、どういう意味が? 道徳にとって、もっとも悲惨な歴史は、 明治から戦後まで、道徳が国家神道のなかにあった事です。 明治維新以降、 欧米諸国の一神教のキリスト教に対抗する為に わざわざ、取って付けたように、天皇と今までの神社信仰を利用して 明治政府の政治家と役人が作ったものが国家神道です。 私は、これは神社系の新興宗教だと思っています。 政治家は政治をしておけばいいものを、、、 自分の頭の上にあるものを、権力の道具に落したのです。 政治が権力の為に宗教を利用した例です。 そして、 その時にも、 日本はにっちもさっちも行かなくなって、 戦争を起すしかなくなって、 国家神道を国民を鼓舞するのに利用しました。 大罰当たりなことです! 神風など吹くわけがないし負けは、当然です。 これは、狩猟民族の一神教のキリスト教の神と、 国家神道という新興宗教のオカルト神の争いだった、 と言う事もできるのではないかしら? 結果は、 宗教としての歴史が長く、 幾多の戦いの経験のある狩猟民族の一神教の キリスト教の神の勝利でした。 だから、それからというものは、 日本はその神の領土になったはずです。 それ故に、日本は物質文明の世界の中に入ってしまいました。 それが今の日本です。 どこが間違ってこうなったのか、もうお分かりでしょう? 古来からの神道を利用して、オカルト神道を捏造し、 政治の下駄の下に神社局を作り! ここがもう~おかしいのです。 政治が宗教を統治する? =人間が神や仏を統治する? 本来は逆さまじゃないですか? 本末転倒そのもの! 今更、言いたくもないですが、 明治政府を作った立役者たち、 まったく、文化や宗教には、無知だったようです! ちょっと横道に逸れますが、 先日、テレビで、 総理の鳩山夫妻が、先祖の墓参に行ったというニュースを流していました。 見ると、お墓の石塔に向かって、拍手を打つように手を合わせ、 その手には、仏式の数珠も、キリスト教のクロスもありませんでした。 拍手は、まさか二拍手ではありませんでしたが、 パンと合わせた拝み方に、驚きました! だって、拍手は神式ですよ。 仏式の墓参では、属した宗派の数珠を手にするのが常識だし、 そっと手を合わせます。 パンとはしません。 まさか! 総理ともあろうお方が、ご存知ないの? と思ってテレビの画面を見ていましたら、 その場のインタビューに答えてこう言っていました。 『鳩山家らしい、りっぱな政治をさせていただきたいと、、、』 まったく何もご存知ない~ お墓はお願いに行く所じゃないのよ。 追善供養といって、自分の善行を死者の為にお供えに行く所です。 こういう宗教的な事に無関心なまま外国留学をする事の方が、 進歩的と思われるのか? 日本の古い事には無関心で、知らない位方がインテリなんだとか? そう云う雰囲気のご家庭でお育ちになられたに違いない。 そう理解しましたが、 今の10代や20代の若者と同じレベルですね。 やはり我が国の総理というからには、 わが国の伝統のある文化を知って、 実家のお墓参りにはご宗旨の御数珠を持つ位の事をするのが嗜み。 男性側が分からなければ、奥様が準備なさればいい事です。 このように、 必ずしも政治家といえども自国の宗教や文化において、 知的に優れているという事はないみたいです。 政治権力と、宗教との関係は、 ヨーロッパでも、王権と教会の争いはずっとありました。 誰だったのか? 本の題名も思い出せないのですが、 (過去に見た文献を捜したのですが、見当たりませんでした。) 『頂上の哲学・宗教からその思想のエネルギーが下へ流れる ヒエラルキーが形作られる』 と 言っています。 ピラミッドを思い描いてくださいね。このヒエラルキー(階層)は、 最上の頂点、ピークの部分が、宗教・哲学、いわゆる理念・思想。 すぐ下の層が、芸術・教育。 その下の層が、政治。 それから一番下の層が、経済。 (経済は偉そうにしているけど、最下層! 下僕なの!) つまりは、宗教や哲学と云った川上の理念や思想の中味が、 人間観や世界観を芸術・教育に影響を与え、 そこで花開いた文化や知恵が、 政治思想へと影響を与え、 それからその力が、経済へというふうに川下へ流達して、 世界や人々を潤す。哲理が人々を潤す、というもの。 逆に、思想の中味次第では、人々に飢えをもたらすかも知れません。 だから、どういう思想?理念?という事が大事なのよ! 宗教・思想・理念が人間に良くも悪くも影響を与える構図なのです。 欧米は、マルクスが出てくるまで、プラトンとアリストテレスの流れから キリスト教思想のもと、この世界が成立していました。 この伝統はマルクスの理論においてあきらかに終わりをむかえたのです。 マルクスにおける、世界変革の思想は、 「ヘーゲルを転倒させたというよりは むしろ、思考と活動、観想と労働、哲学と政治との間の 伝統的なヒエラルキーを転倒させた」と、 ハンナ・アーレントが、彼女の著書で、 『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』言っています。 日本においても、仏教や、朱子学を基としてとか、過去はそうでした。 現代は、このヒエラルキーから見れば全部逆さまですよ! 今は、トップの宗教・哲学・理念、思想がなくて、 そのトップの座を下層の経済が奪い取って頂点のピークに居座り、 その経済を牛耳る政治権力が全てを統治していて、のさばっている! 政治が宗教を利用し、あ、宗教が政治を利用しているのもあるわね! 政治が教育を統治しているのね~ おかしくないですか? 教育も本来は、四権分立のように、独立した方がいいのでは? 今の芸術も人間の生き方を変えるようなパワーを感じません~。 今の混乱は、あきらかに物質文明のキリスト教思想から起っている。 貧しさの物の哲学は、本当に世界を精神の貧しさまで落すのですね。 現在は、その混乱の滞留のまま、 モノの分配、経済をトップにしたピラミッドであり、 その『経済』を牛耳る『政治』権力が、トップに立つ ピラミッドの世界です。 なぜ、こういうややこしい事を言うのか?と言いますと、 『道徳』のヒエラルキーにおける位置は、ありません。ないのです! それか、最下層に追いやられている? 政治や経済の力によって邪魔に扱われているのかも、、、うざいって。 それに気が付いてほしいのです。 もう、道徳が消えてなくなりそうです。 本来は、『道徳』の位置は、トップの哲学、宗教、思想、 その下の教育と並ぶものだったのではないのかしら? 今は、哲学、宗教、思想そのものを見失った時代ですから、 仕方がない? そういう現実ではありますが、、、 このままで、日本の国が繁栄し、 このまま、日本人が生延びれる? いいえ! とんでもない幻想です! 『経済』と『経済の為の政治』権力が、トップに立つピラミッドの世界では、 それらは、泡のごとくの幻想です。 『経済の為の政治』権力が、トップに立つピラミッドの世界では、 人間の精神や心、自然、命が、きれいごとの裏で蹂躙されている世界です。 最後になぞかけを~ 日本の為政者が口にする ”コンクリートから人へ””いのちを”というおしゃべりと、かけて。 幼児が学芸会でしゃべる台詞に似ています。 そのこころは~ 自分の出番が終れば、直ぐに忘れてしゃべらなくなる台詞です。 これらの意味不明の言葉は、 言葉の中味や本気の衰退へ、つながって行き、 すべては 、権力欲の為の経済・政治へ絡め取られて利用されるだけです。 民の善意は、何度利用されましたか? また利用されるつもりなのでしょうか? 何度騙されたら気が付くのでしょうか? 自己の徳性を磨く事なしに、それを止める事はできません。 道徳が滅びるという事は、 私達の子孫と密接に関係があります。 この事に関しては、又記事にする時があると思います。 おたのしみに・・・ -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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03/25 17:28 |
西洋的思想の欠陥はいわゆる欲望の頂点=権力の魔性を、見抜いていないのです。Category : 生活哲学
![]() さくら一番 前々回の記事『呂氏春秋』1 に 次のようなコメントをいただきました。 「足るを知る」・・・ということでしょうか。 高校時代に中国の時代が地政学的に見て次に来る、 と言っていた世界史の先生を思い出してしまいましたが、 この時代の賢人たちが今の時代に存在していれば、 名実ともに素晴らしい中国になっているような気がします。 私の記事を呼んでいただいて、こう自分は理解したとコメントをくださる事は、 本当にありがたいことです。 世間には、さまざまの解釈が溢れていますから、 どう解釈なさるかは本当に自由なのですが、 なるべく読者の方ともお互いに、誤解だけは避けられればと思っています。 なぜなら、できうれば今後もずっと当ブログの読者でいて いただきたいと願っているからです。(笑い) とくに、当ブログは、日記風の記事ではなく、 とりあえずは哲学のジャンルですから、 いろいろいろんな解説が出てくる方がおもしろいなぁ~と思っています。 今後とも、よろしくおねがいします~~ 「足るを知る」・・・ということでしょうか。 そうですね! 老子・第三十三章 には 勝人者力 (人に勝つ者は力有り) 自勝者強 (自ら勝つ者は強い) 知足者富 (足るを知る者は富む) 強行者志有(強を行う者は志有り) とあります。 また同じく、四十四章には、「足るを知れば辱められず」とあり、 自分の能力をわきまえ、天(自然)の運行の摂理を悟ったら、 自らが「富裕である」とおなじ結果になると説いています。 仏教がインドから中国へ伝わって道教の影響を受けたもので、 禅宗の石庭のある竜安寺にあるつくばいに彫られているのでも有名です。 一般的には、「足るを知る」ということは、 もっともっとと、足りないものを求めるのではなく、 今すでにあるものでよし(足る)とする。 と理解されているようです。 この内容では、なんとなく解ったようで解らない、、、そう思われませんか? もしか、これを教訓的に言われた場合、何となくイヤ~ナ、(笑い) お説教じみて聞こえるのは、なぜでしょうか? なんとなく消極的で、身の程をわきまえなさい! て言うような、、、 むやみに不満を持たない。 適当なところで自分の欲望を棄てなさい。 みたいな、、、 戒律的で、小乗教的で、あきらめモードに入るみたいな、、、(笑い) なんとなく解っているけれど、元気がでないみたいな、、、 これらの解釈から生じる不満?は、 私達の西洋的思考の癖から起こってくるのです。 今までにも、この点は何度も書いてきましたが、 東洋的思考と西洋的思考は、右と左ほども違います。 東洋の全体智を、西洋的分析、分断、細切れ思考で理解をしようとしたら 部分的に解ったつもりになりますが、全体を捨ててしまうのです。 いけません! 西洋的思考は、最後は言葉の最小単位の単語の羅列、 それをつないだだけの知識の羅列になってしまいます。 それで、解ったように、『なんだ~、こんな事!』あるいは、『むずい~』 と、偏見で終ってしまったら、それは、どちらも間違いです。 本当にもったいない~ くれぐれも注意しましょうね! 東洋の文献を読むなら、頭の中を東洋的に馴らしてから、、、です。 西洋的思考の癖は、自分と自分の外側(環境)を対立的に捉えます。 例えば、今のままの自分の状況は不安、焦り、恐怖、だから 自分のそういう状況を乗り越えるために、 自分の内なる欲望を満足させるには、 自分の環境や人間関係・現象を変えることで満足しよう、 幸せになろうとするのですね。 自分の不安、焦り、恐怖、などを、 自分に『足りない』ものを、 自分が主体で、対する相手を変えて手に入れようとする解決方法です。 (鯨のシーシェパード、まぐろ、等の問題のように西欧の今も変わらぬ解決方 法です。自分の価値観を相手に押し付けてくるわけです。) 最後は、相手を否定してまでも自分の主体を守ろうとするわけです。 そこに、戦争の正当化などがあります。 はっきりいいますと、西洋的思想の目指す目的地は、欲望の満足の天界な のですから、西洋的思想の欠陥はいわゆる欲望の頂点=権力の魔性を、 見抜いていないのです。 思想内で、魔性を見抜き、淘汰できていない、解決できていないのです。 自己のエゴイズムを乗り越えていない、エゴイズムの力の肯定まで、 だから敵陣を倒し、未開を拓くエネルギーには、満ち溢れていますが・・・ だから、そのエネルギーを、もうその辺で止めて! それ以上の欲は持たないで! 『足るを知る、よ!』と、ストップをかけられているようにとれば、 そうかもしれないけれど、なにか、縮みなさい!と言われているようで、 フラストレイションが残る可能性もありますね。 限界を作られるようで、一時的に無理無理、行動は、ストップできても、 自分の内側では満足できないというエネルギーの余っている人には、 不満が残りますから、幸福感がないのですね。 東洋の知恵の本当にいい言葉なのに、西洋的思考で解釈したら、 広まらないわけです。勿体無いです。 この現代の西洋的思考の癖の解釈に対して、 わが東洋的思考の解釈は、 相手や環境を変えないで、 逆に、環境に振り回される自分を捨てるところから始まります。 自分を変える事から、その波動で周りも幸せになれるという考え方です。 自分のやる気を縮める思考じゃなくて、足るを知るっていうのは、 『今のままの自分でいい』とまず自分を認める所から出発する事です。 本当の自分の確認です。 家柄だって鳩山さんに負けるし、力も見かけもよくないし、学歴だって、、、、、 そういう自分を、他と比べることなく、人より勝ろうと見栄を張らず、 そういう相対的な価値観を恐れない、焦らない、臆病でない自分の確認です。 与えてもらった命に感謝をし、健康な体を大事に、自分の現在に自信を持ち、 けっして、他と比べて卑屈にならない、うぬぼれない。 今ある自分の全てが、自分にとって丁度なもの、という肯定と感謝をする。 それが、『足るを知る』という本質ではないかと思います。 自分を深く見つめる、そして、環境(情報やマスコミ)に振り回されないで、 本当の自分が望むことを見つめて捜すという作業です。 そして、それを見つけたら、心を込めてそれに打ち込む。 という、とてもエナジーに溢れた状態のことだと思うのです。 その上で、やりたいことを存分にやることなのでしょうね。 他人と自分を比べたり、競争したりする事が、まったく必要ないし、 そうすれば、幸福感がいっぱい満ち溢れてくるでしょう! (笑い) その時の欲は、自分サイズの欲で、欲の達成に人を巻き込まないのです。 自分サイズが大きいか? 小さいのか? 決めるのは自分です。 欲が多い人というのは、自分の不安、焦り、恐怖、を誤魔化す為に、 周りの人を巻き込んでいく事が多いです。 例をあげると、堀江モンのライブドアの一件、政治家や官僚の贈収賄など、 それが一時的に派手に映って、勢いがあると、 ”ああいうのがいいのかなぁ~”と周りに誤解を与えてしまう事もあるでしょう。 老子も、 欲の多い人は、世間に害を与えることが大きいと指摘しています。 一番大人が気をつけなければいけない事は、 子供に、競争が生きる目的だなんて教えないことです。 生きることが競争だと思う大人になったら、 競争に勝つためには、環境に何をしてもいいと思う人間になります。 自然も破壊します! 人も無視します! 最後は孤立します・・・ どんなに力があってもそれでは、幸せな人間にはなれないのです。 又、中国の時代が地政学的に見て次に来る、 そのとおりだと思いますよ。 その先生は、確かな目を持っていらっしゃったのですね! 特に、 地政学的に、という単語が、光って見えますね! と言いますのは、中国ならではの地政学的特長が、 エジプトやメソポタミアやインダスの文明とは違う、黄河文明を生み、 なぜ、西洋的思想より優れたより本質的な東洋思想が生まれたのか、 いつか、この事について書きたいと思っていたからです。 また、いつか、お待ちくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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08/05 10:13 |
道徳の本と、主知主義、現代ヨーロッパの思潮についてCategory : 生活哲学
![]() 冷たいサラダ 暑中お見舞い申し上げます。 外へ出て、空を見上げると、 夏らしい青空に白い雲が、まるで綿菓子のように、 ふわふわと浮かんでいますね。 『因果応報の源 時間を生きる』 は、まだ続く予定ですが、 今日はインターバル、 主知主義と、現代ヨーロッパの思潮について、 記事にしたいと思います。 あ、その前に、近況を少し、、、 この夏は、何時もよりもまして忙しく、更新もなかなかの状態です。 来週あたりまでが、出産予定日の命名のご依頼等、重なっています。 順調に赤ちゃんがお生まれになる良き時期が重なっているという事で、 うれしい事には違いないのですが、 決まった通りにお産があるわけでもなく、、、 命名の根拠になる誕生命式は、日と時間が重要なファクターな為に、 依頼者の方は、産まれたら即、日と時刻を連絡して来られます。 携帯が何時鳴るか? あはは~。 産院はお産の前ですが、こちらは産後に連絡が来ます。 夜中はまさか!ありませんが、朝、早くだったり、夜でも気になります。 予定日前後には、留守にはできなくて、 今年は、全員の命名が終わってからです。 夏休みは、、、。 まずは、 前々から、いただいているコメントから、 「道徳」に関する入門書みたいな本はございますでしょうか? できましたら、ご紹介していただきたいのですが・・・。 何か挙げようと思えば、本屋さんを開業する位、たくさんあります。(笑い) いま、一番、だれにでもお勧めしているのが、 安岡正篤先生の「天地にかなう人間の生き方」 致知出版社 もう、絶版になっているはずですから、古書でしか手に入らないでしょう。 文は簡潔で少ないですが、じっくり取り組むのにぴったりです。 というのは、あまりにも簡単にさらさら読めるというのは、 どうでしょう? (笑い) ”道徳”というテーマは、さらさらと分かるはずのものではない? あはは。 『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』 分かったら死んでもいい位の、命と同じ貴さがあると云う道とは? さら~さら~と読んでしまうのは、、、 それは、如何がでしょうか ? あはは。 さら~さら~と読んで、 さら~さら~と解るのが良い?のは、知識です。 知識は、その程度のモノ? 読めば判る。 イヤ、解る。 あはは。 だから、読んで道徳は解ったけれど、解かっていない。 やっぱり、難しい。 そう思うのが我々凡人の理性の限界、癖です~ あはは。 ここポイントですよ! 西洋的学問における知識教育は、 意識的な理性と感性を分かつ二元論故に、これでいいのです。 理性で解ればOKというレベルです。 だから学校のテストは、理解、暗記で100点がもらえるのです。 東洋的学問においては、点数はつけません。 東洋的学問における知恵の取得は、 存在を二元論で捉えない故に、 体を含む命(無意識)全体での把握を必要とします。 全身行為なのです。 いわゆる、 体全体をともなう時間をかけた習得、修行、体得が必要です。 東洋は、皆そうですね。 なになに道、然りです。 西洋でも、宗教教育はそうですね。修行です。 それ故に、道徳の本などは、さら~さら~と読めない本が、 読んで直ぐには、分からない位の本の方が、良書だと思います。 いわゆる道徳には、ハウツー本は要らない。 ハウツーで判ったと思う道徳は、もう、そこで主知主義に堕ちてしまう。 道徳を知識として捉える主知主義は、 人を、道徳という”まがいもの”の奴隷にして、 その”まがいもの”の牢獄へ入れてしまうのです。 本来の実学(自分を陶冶し生きる事に実に役立つ、、)とは、 読んで、知って、なんぼのものではなくて、 生きて変わって実績が残って、なんぼのもの。 自己の内側と、客観世界との響きあいを聴く。 そういう態度がいいのではないかと思います。 私なども、まだまだそのレベルとは言い難く、 一冊の本も、分かったとは言えません。ね~。 一生、自分で行動思索をしながら読むつもりで、 死ぬ前に分かる位でいいのでは?と、思っています。 (笑い) 知識として得たつもりでも、確信や力にならなければすべて無駄です。 それを学んだと言うのなら、結果は、雑学でしかなくなります。 道徳が、雑学へ堕落すれば、偽善になります。 偽善的な道徳が広まることは、 道徳がなかった社会よりも、もっと劣悪な社会へ進みます。 人間のエゴが道徳の仮面をつけて、 人間を縛り、だまし、利用する道具として使われるのですね。 道徳を盾にして、上下の身分とか、そういう制度を作るのですね。 人為的な制度を、いかにも天の道のように、、、偽って、、、 たとえば、 幕藩体制を支え、士農工商の身分制度を正当化したのが、 朱子学でした。 孔子、孟子の儒教を、朱子が、アレンジしたとも言えるでしょう。 日本では、朱子学派を大成した徳川幕府の御用学者、林羅山です。 今風に言えば、 西洋二元論に似た万物は理と気から成るという(理気二元論)で、 天地自然に高低尊卑の差別があるように、 人間社会にも差別がないと国が治まらないという。 これを林 羅山の(上下定分の理)という。 その理論を社会に客観化した規範こそが、礼(礼儀)お作法です。 天地自然に高低尊卑の差別があるように? ? ??? 人間社会にも差別がないと国が治まらない? ? ??? その為の、礼だったのです。 あははっ! 凡人には理解できない説が多いです。 太平が続いた江戸時代において、 戦のなかった元禄時代に、暇を持て余した武士階級が、 理に偏り、観念的になった朱子学の【窮理】= = 知識を極める事を重視する。 封建的秩序を正当化するためだった羅山の考え方は、 幕府の官学であるという事自体が、その限界だったのです。 【礼】【儀】を偏って重んじれば、どうなるか? 【義】は【仁】を斬る刀です。そして、 【仁】【義】のバランスが大事なのです! 【義】を極端に尊大化、最高価値の【孝】より 上位の価値だと拡大解釈をした。 【義】というのは、本来、命の継承を守るはずのものなのに! 【義】のために、命を捨てさせる、そういう使われ方をしたのです。 【義】のための死を美化したのです。 ☆ それは、そうした方が都合がいい権力者がいたからです。 今の我々の他人を重んじるという礼儀の概念より、 封建制度を守る為の、上から押し付けた矮小化した【礼】【儀】。 大いに抵抗を感じてしまいます。 その流れが、明治維新の支柱的思想へと変貌し、 その流れで、ほら! お馬鹿な戦争を、お国の為だと言って、、、 有能な若き人材を説得し、死を望むようにと駆り立てる為に、 ”まがいもの”の道徳が作り上げられ、国家権力でそれを利用行使した。 (詳しくは別の機会に譲りたいと思います。) ”まがいもの”道徳は、最悪、 人のいのちを支配し、殺し、貶め、手段化します。 邪悪性を帯びた道徳を美化しすぎると、そういう穴凹へ堕ちます。 その過程で、主知(知性や知識を重んじる)主義という怪獣は、 恐ろしい、恐ろしいエネルギーで襲い掛かって来ます。 人間の意識が作った知識や知性が、無意識の自然を統括するなんて! 意識は、無意識の中から生まれた滴(しずく)ですよ! それが、立場が転倒して! それで正気だって言うの? 今の思潮が、気違い沙汰だって! !! 識字レベルが低いのも、文盲というのも問題だけれど、 意識に偏重して理性が理解する知識に重きを置き、 理性や知性を自然や道理より上位に扱う、 ある意味、神仏以上に頼りにするのはもっと、困った問題です。 困った! 困った、由々しき問題なのです。 そのことについて、 いい例を、 バチカン大使の上野影文氏の新聞のコラムから、 現代ヨーロッパの思潮について、ご紹介しましょう。 キリスト教文明の本場である欧州において、次の2つの事で、 人間の知性の膨張が、神を押しのけ始めたという記事です。 ベネディクト16世が就任して今年で丸4年になりますから、 昨年の3周年の時、 今の欧州で広まりつつある「科学主義」と「相体主義」に 悩まれるローマ法王の姿が浮き彫りになるような メッセージをお出しになられました。 そのうちの一つ目は、「科学主義」=科学至上主義の科学に対して、 法王庁は受精卵を破壊するSE細胞実験や人のクローニングは 神聖なる人の命をもてあそぶものだと非難をされ、 許し難い暴挙であると、 別の機会にも、繰り返しメッセージを出されました。 だから受精卵を使わない山中京大教授の研究には 大いに期待をされている。 二つ目は、「相体主義」と云われるもの。 スペインで同姓婚が認知され、ポルトガルで妊娠中絶の禁止が解かれ、 イタリアでは事実婚の認知を求める運動、 尊厳死の非処罰化を求めて活発化する運動に対して、 法王庁はキリスト教の生命倫理観や家族倫理観を逸脱した 「相対主義」として 再三非難をして来られています。 あらゆる事に、”人間が選択権を持つか? 神に従うか?”の対立です。 デカルト以来の理性中心の思潮=近代合理主義は、理性を暴走させて、 科学信仰、人間中心思想を異常なまでに育て上げてしまっている。 近・現代西欧の思潮は、人間が超えてはならぬ境を越えて、 『神を押しのけた文明』を生みつつあり、 現実の社会の中に、深刻な対立と摩擦を生んでしまっている。 ”人間の意識による人権擁護もここまで来たか!”という 驚きとあきらめの気持ちで、悩んでいらっしゃるローマ法王のメッセージの 内容に大いに共感です。 あるがままの無意識である自然を見ようともせずに、 人間の理性が作り上げる”意識で切り取った母なる自然”を絶対視し、 合理性を追求する人間の理性が神聖視する『環境信仰』。 あらゆる表現の自由を神聖視する『表現自由信仰』。 こういう人間の意識が作り上げた新たな『神なき信仰』。 これ等が、ぞくぞく世界のあちこちで作られ、対立を生み、 その流れの傲慢さがイスラム教への侮辱、法王の非難などを生む。 それらをものともしない「われわれは、絶対に正しい」と譲らない人が、 増えて行っているとか、、、。 鯨の調査捕獲が、シーシェパードによって妨害を受けるなどの、 これらの調和を破壊する行為が、正義の主張で罷り通ろうと、、、 無神論を内に孕むキリスト教徒にとって、 神に代わる「人間の原理」を模索するヨーロッパの人々、 そして、法王のなやみ。 キリスト教の世界だけの事ではなく、 私たちだって傍観者ではいられない状況です。 ヨーロッパは、キリスト教というせめてもの物差しがあるだけ、 未だ随分マシです。 家にこわい長老、お祖父さまがいるという存在感。 うるさいけれど、こわい親父、それで保っていると言う事もあるでしょう。 それに引き換え日本は、 家を壊して、うるさい親父を追い出し、 各家庭に恐いお祖父さまが居ない! 若い者が自分の考えで放縦にできる天国?という有様です! ほほっ。 だから、これは、所を変えて、規模は極小さいけれども、 核家族の夫婦関係、親子関係、人間関係において、 似たような事が起こっているのではないでしょうか? 男女平等である人権を宣言する妻。 家事の手助けや育児休暇を取るように社会から圧力を掛けられる夫。 教科を止めて時間のゆとりを与えれば、ゆとり教育ができるなんて! あはは。 義務教育をくるくる変えてしまって、、、 ゆとり教育こそ、総合教育こそ、基礎学力が一番いる教科なのよ~ だって、自分が考えなければいけないのですから、、、 それが、失敗だったなんて、、、国を挙げて、 よく子供に聞こえる所で、言える事! それこそが、賢い大人が、賢い教育者がいなかった!って事じゃないの? 子供の自主性で決める食事! 食べたいものは?で決めれば、毎食が菓子パン! になるわね~ 社会問題化している事柄の本質は、みなそういった類でしょう。 それを、 現代は、《 価値観の多様化の社会 》であるとか、なんとか、 評論家や権威筋のご都合に乗せられて、コメントを聞かされて、 こんなもんなんだなぁ~と思わせられて、 どうでもいい周辺の事で、説得されたような風になって、 本質を、かっ飛ばされて行く、、、 ・・・・・・・・・・・ 目の前の現実を軽く眺める癖がついて、、、、、 (いなさ)れて流れて、いませんか? いなす=相撲で、急に体をかわして、攻撃して来る相手の体勢を崩す。 あしらう。 真剣に向けられた追及を冗談やはぐらかして言葉巧みにかわす。 私達こそ、しばし、 自分で考える”ゆとり教育”が必要かもしれませんね! (笑い) 私達を取り囲む現在の思潮の渦が、どこから流れて来て、 私達をどうしようとする思潮の流れなのか? 因果応報に無関係な個人がいないのと同様、 今の純粋な『時』の中に、国民は存在しません。 過去の国の因果応報のプロセスの只中に、 私たち個人も、国民も存在しています。 日本の中の濁流にも押し流されず、 西洋の平原を席巻する竜巻にも飲み込まれないよう、、 どちらにも、巻き込まれてはいけません。 これが、人が人であろうとするサバイバルゲームです。 あの ”トイストーリー・3”のように、 溶鉱炉に落ちる直前までも、おもちゃたちは、あきらめなかった。 仲間から一人の落伍者を出さないで、おもちゃたちは頑張った。 希望を持っていましょう~ (笑い) 暑さ厳しき折、ご自愛を。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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08/29 22:11 |
『因果応報の源 時間を生きる』 8. 天の道への反逆 西洋の観念性Category : 生活哲学
![]() 上高地・田代池 『因果応報の源 時間を生きる』に戻りました。 8です! なかなか、終わる事ができないテーマのようです。(笑い) 取り上げたいコメントが溜まっています。 宿題ですね。 宿題は、すぐその日に済ませましょう^^ あはは。 まずコメントから紹介しましょう。 私達は、自分のしたい事の為に生きるのが正しいのだと思って来ました= 自己の都合の前に、何を優先しなければいけないのか= 昔の人は、もう少し自然と調和をして生きて来た= 今のように個人の満足の優先と言う意識がなかったのかも知れません= 何度読んでも、目が覚めるようなコメントです! 個人の人権の尊重から、個人の満足の優先が当たり前の世の中です。 私たちは、自分の満足を優先させるあまりに、 公=天の道=宇宙の運行=時=自然=命、を軽視し、無視して、 犠牲にしてしまっているのでしょうね。 これでは、陰徳の積める生き方ではありませんね。 深く反省をしなければと思います。 今日は、そういう間違った観念の恐さ、その影響についてです。 『因果応報の源 時間を生きる』 3.の記事のなかで、 この地球上で生きる以上、 『天の道』=大宇宙の存在=大自然の懐から飛び出すことは、 不可能のように思えるにもかかわらず、 西洋文明に染まった現代人の私達の意識は、 自然からかけ離れたって生きていける。 と錯覚している。 と書きました。 なぜ、西洋文明に染まった意識は、自然からかけ離れたって生きていける。 と錯覚するのでしょうか? 東洋の「天の道」の観点と、西洋の「二元論」の観点を比べてみましょう。 東洋においては、主(観)客(観)が合一と捉えます。 人間は自然の一部というより、もっと高次元の捉え方、 人間と自然は一体であるとします。 自然をコントロールする事は、自分をコントロールする事です。 つまり自分がコントロールしているつもりでも、 結果は、廻りまわって自分を含む自然からコントロールされる事です。 つまり、 「天の道」に為したものは、つまり自らに為したものと同じなのです。 それは、因果応報の原理そのものなのです。 自らを生んだ宇宙生命を、コントロールする事など 所詮は、できない事なのです。 それをできると思って来た人間にとって、そう錯覚させる程に、 人間の為す事と比べれば、自然の懐は大きい、 それ程までにスケールが途方もないという事でしょう。 よく、主客の相互関係という言い方をしますが、 相互というのは、元々別々である2者の間の関係が前提ですから、 東洋での自然と人間の関係はそうではなく、 元より一体不二の関係です。 それは、妊婦と、その胎内にいる胎児を思い描いてください。 そのあり様は、自然そのものです。 直接的には、母親が胎児を出産するのを目にし、 我々も、母親が子供を生む、生んだと言います。 が、しかし、 実は、自然の営みとして自然自体が、命を生み出しているのです。 妊娠、出産こそは、まったくの自然の営みそのものです。 胎児が胎内にいる時には、母子は、一体不二の存在です! それに近い感覚で、 あらゆる命と自然の一体不二感を捉えてくださったらと思います。 しかし、 西洋における、二元論においては、 主観と客観がバラバラです。 しかも対立しているとします。 それゆえ、 主体である人間「自分」が、客体である自然「天の道」のエネルギーを、 コントロールしなければ自らが、されるという強迫観念があるようです。 何の為に? 生存の為、生きる為にです。 狩猟民族の生存の戦いの中には、食料の確保という切実な目的の為に、 どんな手段でもいいと言う過酷な戦い、戦争をしてきた経験が、 歴史上あった事は事実でしょう。 それゆえにコントロールしても良い。 自然は、征服するものだ。 この肯定感は、あくまでも人間中心です。 一人称の I (私は)の世界です。 対立する相手 you(あなたは、あなたを) の世界に対して、 つまり、征服しなければ、征服される、という行動原理が働きます。 I が you を征服して we になっても、その中に自然は入っていない! 東洋的な考え方からみると、西洋式合理主義は、 あまりにも一方的、片側だけの真理です。 これを、部分観として見たら、一部の知見でありますが、 しかし、この一部の知見を、 自然全体、宇宙全体、人間存在全体に及ぼす事は、いかがなものか? 人間を含む全生物の命を生み出す自然の機構・秩序を無視している 結果にならないのか? その上の、西洋合理主義における、もうひとつの誤りは、 自然や命に臨むのに、人間の意識という断崖からの景色だけを見る事です! 意識で引っかかった物だけを”ある”とする。 自分の意識が”こう捉えている”というあくまでも主観世界の中にしか過ぎない ものを、客観世界へ当てはめようとする欺瞞性・傲慢性に気がついていない。 自然を征服するという事は、自然を犠牲にしている事なのだと、、、 これが、今の地球を覆っている”理性万能・合理主義のもたらした物質文明” です。この観念をなんとかしないといけません。 なんとかしなければと言ったって、私たちの生活には関係ない ? いいえ!何故こういう地球や宇宙、理性や合理主義の問題を挙げるのかと 言うと、身近な私たちの生きる上での問題点と、密接不可分だからです。 現在の私たちを取り巻く思想の問題と、私の運命鑑定へ相談に来られる方の 悩みの内容とは本質的には同じなのです。 それはどういうことかと言うと、 どんな偏頗な論理の観念であっても、 意識で作る主観的な論理やイメージの世界=観念の世界の中にある限り、 その論理は【観念の中】では、破綻する事はありません。 あくまでも【観念の中】ですよ! 個人の考えの中だけなら、他人に束縛されるものではありませんから、、、。 しかし、 それが、【現実の中】へ表出した時に、問題(悩み、困難な事)を生みます。 自己満足の世界、自己の中に閉じ込められた論理であっても、 あらゆる形で私たちの生活の場面に表出します。 たとえば、本人が、出口のない観念を捨てられないで鬱病になる、、、 それだけでも身近な悩みとして周りに影響を及ぼしますが、 それだけでなく、 個人的に密接な人間関係=夫婦、親子、家族の中に表出します。 家庭は、自己をさらけ出す場であり、自己が休む場であるからです。 それゆえ、避けて逃げられない家族という人間関係において、 一人の勝手な独善的な観念が、家族を巻き込み傷つけ、家庭を破壊します。 それが、悩みや喜び・個々の因果応報による受け継がれる運命の問題を もたらすのです。 一に、個人の内面に持つ観念が、どういったものか? 何に影響をされてその観念を持つに至ったか?(ココが重要です) 恐い事に、個人の観念は、たやすく社会の観念に染められている状態です。 だから、大きな観点からの思想を知る事は、大事です。 また、何を信じていくのかと言う事も、最重要です! それは、自己と家族を守るためにも。。。 その観念の中身次第で、それに応じて現実の中へ諸現象が現れるわけです。 観念は観念だけでは終わらない。という事実です。 精神と肉体が不二である限り、その観念に応じた喜び、悲しみ、苦しみの 感情によって、表情、病気で表れます。 詳しくは、中医学をご参考に。 特に、政治的な権力者が、どういう観念を持つかは重大な事です。 そのいい例が、 太平洋戦争下の日本において、欧米列強の植民地支配に代わって、 日本を中心とした東アジアの民族の共存共栄圏を作るという御旗を掲げて、 軍部が、日本のアジア支配を正当化し、聖戦とまで謳い戦争をしました。 国民は軍部の大東亜共栄圏の観念的な論理に騙されたわけです。 その当時の大多数の国民も、失礼ですが、”おバカ”だったのです。 それは、国民が軍部の観念の虚構性を見抜けなかった。 一部の人々を除いて、見抜ける思想を国民が持っていなかったのです。 それが、現在の日本の『因果応報』の結果をもたらしたと言えるのでしょう。 哲学や思想は、難しいからと遠ざけてはいけません。 せめて権力者が、どういう思想で持って何を為そうとしているのか? それを見極める知恵(知識ではありません)を持たなければ。 学者や一部の人間が知識として知っているだけでなく、 哲学は、生き生きと民衆の中で生きていないと値打ちがないのです。 民衆の血肉の中で脈動するエネルギーにならなければ、存在価値は無い。 そう思っています。 果たして、日本の転換期は、そうだったのか? 人はつい、その理想的な論理を聞くと酔って信じてしまい、 現実の世界に通用する論理であるかどうかを検証しないまま、 観念的な美辞麗句で飾られた空理空論を、 ”こんな理想的な論理はない!”と錯覚をして騙されるのです。 子曰く『甘言令色、仁少なし』と。 耳に心地よい、あまりにも理想的な事ばかりを言う事を信じるのは、 結果、仁の報いはない。くやしい情けない惨めさに終わるという事です。 意識で作る主観的な論理やイメージの世界において、 どんなに理想的に見えた論理であっても、 真の人間観や自然観に立脚していない論理は、かならず破綻をします。 その破綻をした時の悲劇性、多くの犠牲を考えると、 【観念的な論理】というものは、必ず見破らなければいけないのです。 つまり、この観念、観念的というのは、実に困ったものなのです!! いつも、最近口癖のように記事に書いてきました、主知主義に陥った朱子学。 観念的な朱子学。・・・・・・・・・・あのフレーズです。 観念的な思想の導き出す現実は、常に”負け”の現実です。 なぜなら 観念性の欠点は、意識で作る主観的な論理やイメージですから、 客観性の現実世界において、存在しない論理なのです。 ほら! 子供のヘリクツ、分かりもしないのに生意気な! (笑い) お前が言うのは10年早いよ! あれといっしょです~ あはは。 子供の屁理屈を好きにやらせたらどうなりますか? あはは~ それが日本そのもの~ 政治の世界というのは観念の激突! 観念の闘争の場です。 あまり大した観念じゃなかった? あはは。 でも、その当時は、見破れなかったのです! 冗談は、さておいて、 ここまで、OKですか? 次へまいります~ 米国国防総省・国防科学局において、 「知的能力・身体能力とも高いレベルを維持したまま睡眠の必要性をなくす事 ができれば、戦闘方法や部隊展開が根本的に変わる。」という報告があり、 米国国防総省・高等研究計画局(DARPA)で、 24時間あるいは7日間連続で戦闘できる兵士「代謝に優れた兵士」を 作る研究プロジェクトがあるそうです。 まったく、理性が観念のなかに作った造作物ですが、 SFの世界、おとぎ話なら、たのしい思い付きじゃないですか? (笑い) パワーに溢れた発想というのか、何事も力で成し遂げようとする、 実現しようとする処が、アメリカらしいです。 パワフル!! (これ皮肉ですよ~) あはは~ 戦争にとって睡眠や排泄を邪魔なもの、マイナス要因と捉える思考方法。 戦に勝つ為には、兵士の生理的リズムすら無視しようする発想。 これこそが、効率主義です。 効率は善なのか?真理なのか? 要は、人間は意識の力で『時』の支配から脱出できると言うのでしょう。 大自然の『時』ですら、自らの意識で支配をしたい!という、 何がなにでも欲しい物は手に入れる、人間の欲望の肯定化。 その為の道具になった現代の理性の肥大化と言えるでしょう。 確かに、むかし西洋の人々が、 狩猟をする中で見て学んだであろう自然界における弱肉強食の姿、 確かに自然界における表層部分は、まさにその通りです。 人間が生き残るには、強さのピラミッドの頂点に登らなければと、 そう思った。そう実践してきた。 その征服の歴史そのものの論理です。 しかし、その奥に、東洋の叡智は、調和を観ているのです。 生きとし生けるものの弱肉強食の殺戮の奥に、 因果応報という調和と秩序の法の存在を。 もう、400年あまり、 近代合理主義の理性は、天=無意識に、挑戦状を叩き続けています。 やれば何でも支配できる。と! 人間の意識は万能である。と! それこそが、善である。と! 近代合理主義のいう部分観の観念が、巾を利かせています。 その気が、厚く垂れ込め、この美しい地球上を覆っている現状です。 今、地球は、均衡を失った不調和な状態です。 将に、今、西洋と東洋は、 お互いの血の中に流れているそれぞれの観念の違いを認め合い、 西洋の近代合理主義を抑えて、この困難を乗り越えるしか 私達は地球上で生き延びる事はできないでしょう。 イヤ、今、日本人の中からだって失いつつある東洋的な観点を、 心ある人が、それを抱きしめて大事に守っていかなければ、 日本人が、この日本列島に生き延びるすべはないと思って不安です。 世界中へ出稼ぎに行く経済難民、流浪の民になって、 帰るべき故国というものを失うのではないかという悪夢を見ます。 経済や政治の問題の前に解決するべきものがあるでしょう? 道徳の崩壊が、すべてを国が制度で保障をしなければならない国にし、 予算を使わなければならない非効率な国にしているのではないか? 国を挙げて本末転倒の姿です。 なぜそうだって分かるのって? たくさんの人の事例を否応なく見させていただいているからでしょう。 国力の衰えには、その数十年も前から人の生きる力の衰える姿があります。 その前に、人間を支える道徳が、心身から消えて行くのが見えます。 陰徳のない、徳を積まない人が集まったって、栄えるわけがないでしょう。 それを思うと、ほんとうに、ため息が、、、 今日は、うっかり本音を書いてしまいました。。 。 しかし、希望を持って、つよく息を継ぎましょう。 Never give up ..... 参考文献 『 生物時計はなぜリズムを刻むのか』 日経BP社 著者 ラッセル・フォスター / レオン・クライツマン -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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09/02 22:49 |
『因果応報の源 時間を生きる』 9. 現代文明は、命に関しては、お伽の絵本のレベルなのです。Category : 生活哲学
![]() 上高地・梓川の流れ 彦☆星による ” 輝く水 ”をお聞きください。 どうぞ~ <4分10秒> 『因果応報の源 時間を生きる』を今日で一旦終わります。 最近・・・祈りたくなる事がたくさんあります。 原因は、大げさに言えば、”現代の物質文明”です。 (笑い) この文明は、生命の存在は、植物、動物にある。と認めています。 だから、生物と呼ぶのでしょう。 しかし、心は、人間の専売特許扱いです。 身辺にころがっている物、心を込めた物であろうがなかろうが、物です。 物には、心がない。命もない。そういう観念的論理です。 この場合の”観念的”とは、実態のない空理空論という意味です。 空や、海や、山も、物体扱いです。 宇宙も広大な物質の世界であると。 物質だから心はない。という観念です。 心のない喜怒哀楽がない対象には、何をしても良い。 ほんとうでしょうか? これで正しいのでしょうか? たぶん、今の大人が子供へ教えるニュアンスはこういうものです。 動物や植物は生物だから命を持って生きているから、やさしくね! (魚や肉は食べるけれど、鳥や野良犬、猫は動物愛護で殺してはいけない。 でも、植物はお花は大事、草は邪魔なら刈るもの。野菜と果物は食べるもの。 なんだか、ずい分勝手な人間のやり方だ事! あはは!) 石は鉱物だから、命があるはずがない! 心もないんだ! (何の考慮もなく、人間が支配、利用していいんだ。) 野山は、生物を育むけれど、感じる心を持っていないし、命はない! (美しい景色は残すけれど、野山は人間が利用してもいいんだ。) 西洋の合理主義の思想を根底に置いている今の学問では、 物体に生命が宿っているとは見なされていないのです。 そう! 意識で捉えられないから、無い。と、いうのです。 そう思って生きていませんか? 当然だよ! と。 しかし、仏教においては、 動植物以外でも、たとえば机や石、紙切れ、木切れ、すべての存在に 命があるという大前提があります。 仏教の一つの法門に、 『草木成仏・そうもくじょうぶつ(草や木も仏に成る。)の法門』があります。 その意味は、あらゆる生きとし生ける物を、 有情(うじょう・心がある)と非情(ひじょう・心がない)に分けて、 それらに亘る原理です。 この世に有るものは、すべて含まれ何ひとつも洩れる事はありません。 それらが、等しく皆、成仏する、仏になれる。という教えです。 なんという広大無辺な、深い観念であろうと、知って驚いた事があります。 日本も、以前は、そういう観念で人々は、生きていた! それが、時に移ろって、人の精神も変われば変わるものです! これが、我々の命は、時代や民衆に染まっていくと言う事でしょう。 現代文明は、非常に息苦しい、観念です。 現代の息苦しさは、まず、この観念的物質文明です。 つまり、この物質文明の観念は、 まず、この世の存在を精神と肉体に分ける二元論。 次は、生物以外は、物である。物には命も精神もない。 という上に論理が積み上げられて行きます。 これは、根本的に間違った論理です。 これは、どうでもいい事ではなくて、一番大事な事です! この扇の要のような部分をいい加減にして、今の文明は成り立っています。 これらの認識の土台の上に、今の経済や政治が成り立っています。 この論理に従って生きた場合の提起してくる因果応報は? 仏教の世界観のほうが深遠、広大な理論体系があるので、 仏教でいう処の三界(色界、無色界、欲界)の言葉を借用すると、 今の物質文明の論理に乗っかった人は、 ”色界(物質世界)の大王”に多いに可愛がられ、 物の豊かさの恩恵に預かるでしょうが、最後は必ず、 心のない世界で独りで物の重みに耐えかねてコケルであろう。 行き詰って崩れるだろう、下敷きになるであろう、(笑い) と予言をしておきましょう。 あはは~! これをお読みなった方は、この大王に好かれず、嫌われず、 バランスをとってうまく生きてくださいね。(笑い) 中国雑技団ほどのテクがいるかもしれません。大丈夫ですか? あはは~! 冗談はさておいて、 空や、海や、山に癒される、と言うのは人間の傲慢で、 空や、海や、山によって、生み育てられ見守られていると信じています。 まぁ、これは、個人それぞれ、どう思おうと自由でいいのですが、 あまりにも実態からかけ離れた存在感が、世の流れにあるものですから、 空や、海や、山に対して、申し訳ない。 ごめんなさい! 宇宙や自然に、謝る。心からすまないと思う。 それで、祈りたくなる事がたくさんあるのです。 そう思っていた矢先、次の知らせがありました。 動物と植物の「3億年の闘い」という副題で、 「英国科学実験講座」が、明日から(9月4,5日)東京の有明で開かれます。 精緻な自然な美しさを持つ植物も、自分の身を守る為に、 時には悪知恵を働かせている。というのです! 植物と動物の不思議な相互作用を研究しているスー・ハートリーという 英サセックス大の生態学教授が、植物が草食動物から身を守ってきた歴史を 実験を交えて解説をするという事です。 なんと神秘的な、又、植物にありそうな?話です~ やっとここまで合理的意識中心の科学が、少し気がついて来たのか・・・・・、 どの分野もそうですが、科学というのは後になって、そうだったのか! と新たな真実で塗り替えられるものです。 現在は、そうだけれども、実際、あとどの位経ったら変わるのだろう? という懐疑的な留保的な態度というものが大事と思っています。 そう思って新事実を受け入れるようにしています。 新しい真実が、古い息苦しい嘘を暴いてくれれば、こんな良い事はないわ。 学問の世界でも、解剖学や地理学など、新しい事項は加わっても、 基本の概念がもう先々変わる事のない学問と、 化学や経済のように時の推移と共に価値が移ろっていく物を、同じ学問体系 の中に置かないで、分けるべきなのではないかと思っています。 科学の目的が、実証的実験や意識的論理性で、真実を追究するものとするな らば、特に、経済学など、何が真実なのか?純粋に学問と言えるのかしら? 実に大いに疑問があります。(笑い) 「脳死論争」をここでするつもりは、まったくありませんが。 最近マスコミで伝えられてくる脳死の人から内臓を提供をしたニュース。 本人からの臓器提供の意思表示が無くても、遺族が、家族の死後、どうする か選択できるようになって俄かに臓器提供が増えているそうです。 改正臓器移植法の全面施行後、3週間で最多の脳死提供があったそうです。 改正臓器移植法が、海外へ移植の臓器を求めて渡航する日本人が多くなり、 外国の趨勢が、移植の臓器を自国内で、という動き、牽制から、 日本も国内でまかなわなければならなくなった世界の事情があって、 急がされたという側面があって成立をしたものですから。。。 病気の人へ臓器提供をという事の前に、 まず、脳死が、人の死でいいのかどうかという決着が非常に曖昧のままです。 人の死とは、意識があるのかないのかにこそある。 だから、脳の働きが止まれば「人の死」と規定する。 この観念が、今の改正臓器移植法の前提になっています。 これに対して、脳死反対論者の主張は、 たとえ脳は止まっても、体は生きているのだから、脳死は「人の死」ではない。 この両派に分かれて、いまだ論争が続けられています。 この論争の双方とも、 「精神と肉体」は分離している存在である。という前提が共通です。 「精神と肉体」の分離という西洋的価値観に対する批判は、 このブログでもずっと書き続けて、貫いてきたテーマですが、 これは、「我思う、ゆえに我あり」デカルトの有名な言葉から、発しています。 思うものにはすべて「精神」が宿っているが、思わないものはすべて「物体」。 このように「精神と物体」とを切り離してきたのが、「近代の歩み」でした。 それも、人間が作ってきた一つの観念です。 問題は、それが真実の観念だとジャッジをしたその決定者です。 思う・思わない”を決定するのはあくまで人だったという事です。 特に、山、川、海、空、植物、 その他雑多な物に成り代わって世界を眺めたのか? いいえ!、 一度も植物や大地の立場、目線に立って決められたものではないのです。 人が独自に、もしくは勝手に、判断をしてきた。 それは間違いありません。 意識がなくなる、脳死は、死である。 基本的に、東洋の日本人には合わない論理性を孕んでいるのは事実です。 私たちのDNA中に連綿として宿り繋がれてきた生命に対する畏敬。 命に関する事を人間が決めるという事への”おののき”です。 東洋には、できるだけ人の主観を脱して、自然界に判断軸を求める。 そういう自然観、生命観、智慧がありました。 声を発しないから、心がない。 本当でしょうか? 同じ生物でも、猫や犬は愛護団体があり、守る法律まである。 しかし、植物は、土もタネも、作物も、全部精神のない「物体」ばかり? 作物が苦しむ声、土がうめく声は、種が泣く声は、聞いたことがないから、 だから、農業では、どれだけ農薬を振りまこうが構わない。 泣き叫ばないから? どれだけ痛めつけようとも、おとなしいから? いくら収奪しようとも、植物には一切の配慮は存在しません。 では、植物をどう扱えって言うの? 扱えって、つまり、それは、植物をそれだけにしか見ない因果応報が、 「食の安全」を脅かす問題となって私たちの子孫に良くない結果が、 跳ね返ってきているという事実です。 主観が客観へ為したことは、必ず、客観から反動が返ってくるのです。 植物も、扱われたように人間を扱う。寡黙な野菜の反逆です。 また、今世紀は「生命科学の世紀」といわれているそうです。 永遠の生命、老いることのない皮膚、体、病気にならない肉体の実現。 失った手指が、元通りになる。 こうした人類の夢を実現するものとして、 又、これらを実現するノウハウの産業化で経済を成長させる? その分捕り合戦が国益の為になされています。 お国の経済力の為にという大義名分で多いに期待されている現状です。 真理が発見され、新たな技術が出てくる事は、奨励するべきでしょう。 しかし、 どこまでそれを生命倫理的に統御できるルールを持っているのか? 精神の要は、外れたままで、利のみを漁る。賎しくはないですか? まさに、『色界の大王』が手を叩いて喜んでいるはずです。 「 皆が、精神を捨ててくれた!喜ばしきかな!」と。(笑い) 問題は、国策的に開発されたノウハウを、産業の育成の為に煽られて 是が非でも消費する側に自動的に廻されるのか? 私たちがそれを本当に≪どこまで≫望むのか? 望まないのか?です。 産業の為に踊らされる必要はありません。 あくまで、自分の主体性です。 ある意味、「生命科学の世紀」とは、 死への恐怖や不安が、それを避けようとする欲望が、 それが、今世紀のターゲットなのです。 欲望を煽って、ぶつける! 売れるに決まっている! マーケットリサーチはすでに終わっています。 生命に終わりがある事は本当に悪いことなのでしょうか? 終わりがあるからこそ、今が大事に感じられる訳ですし、 老いていく事は、そんなに醜い事なのでしょうか? 弱るからこそ、生命にハリを実感でき、人は努力を続けようとするのだし、 病は人生をあきらめさせる不幸の根源でしょうか? 終わりがあるからこそ、かけがえのない日々を知るのだろうし、 死ぬまで若さを保ち、死ぬ時期を伸ばして伸ばして選べる事が、 経済力次第だなんていう未来が来たら、新たな苦が始まるのよ! ( あはは。笑うしかないわ。) 私たちはこうした問いを重ねて答えを求める必要があると思います。 今の文明は、永遠という意味が「形の滅びを避ける」事であるかのように、 私たちを物としてだけ永遠に残そうとする欲望が強すぎます。 それは、今の文明が生命の本質が何かが解っていないからです。 蝉(セミ)の死骸が、 アスファルトやコンクリートの上にたくさん転がっています。 踏み付けそうになって、ハッと気がつく事は、 もう、秋! (笑い) そして、 蝉の命は、どうなったの? この問いに、現代文明はまだ、解答を出せません。 老いや死への恐怖を乗り越えようともせずに、 反って不安を煽って、メシを食べようという、たかが知れた程の文明です。 目に前の蝉を物として扱うだけで、 抜けていった蝉の命の詮索もできない。た・ぶ・ん『天国』だって!! あまりにも、子供じみていて、笑ってしまいます! あはは。 そのようにずっと、今の文明は、肝心要を極めていない。 誤魔化しているだけでしょう? 現代文明は、命に関しては、絵本のレベルなのです。 まだまだ、おとぎ、お伽のレベル。 天国だなんて、クリスチャンしか行けない所らしいわよ。 あはは。 おやすみなさい。 ^^良き夢を見ましょう~。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2011
07/31 08:58 |
『陽』の相対的世界における自由・平等は絵に描いた『お供え餅』です。Category : 生活哲学
![]() 7月19日 台風前の雲の帽子をかぶった富士山 もう、10日ほど前になりますが、台風が近づいている空模様を案じながら、 先祖の年忌法要を済ます為に、7月16~18日の3連休を利用して、 2ヶ月ぶりの墓参に行って来た時の車窓から撮った富士の山です。 台風が近づいている直前の気配か、 墓参からの帰路の車窓から見えるのは、 夏草の向こうに、モノクロームの富士山でした。 ゾーっとこわい?感じの、富士山でした。 きょうは、前の記事(自由 平等)にいただいた長いコメントへのお返事です。 長いコメントなので分割、編集をして紹介します。 《 日本の教育は、 義務教育や受験で入り口段階までは機会均等になっていると言い、 進路の自由や機会が平等に与えられていると言い、 職業の選択の問題も就職先や進路を自分で選択可能だと言う事になっているが、 これは、有り得ないと考えます。 たしかに小学校入学のスタート地点から最終学歴の卒業までは 平等であるようになっている。 つまり、制度としての平等は託されているようであるが、 その現実は、教育や職業の選択の自由、平等を実現するというよりも、 実際は個々の差別化を実現する制度になってはいないか。 実態は格差の実現化のための制度として機能している。》 教育や職業の選択における自由と、 その選択の機会の均等化=平等の問題ですね。 たしかに! 制度が、また次の不平等を生む。 そうおっしゃりたいのですね。 そのとおりですわ !! ! まちがいありません。 それは、すべて『陽』の範疇の世界の実相です。 意識から生まれるすべてのものは、『陽』です。 制度、法律がそうです。 学問、もそうです。 なかでも判りやすいのが政治。 『陽』の実態を、よく表しています。 まさに御しがたい官僚の独特の言葉と、 その官僚機構こそが、今、『陽』の権化となっています。 まるで、終わりなきペテン、嘘、偽装の言葉のジャングルです。 ( 失礼、、、あはは。) 『陰』のバックアップ(=中庸)がなくなった日本国における法律や制度は、 『陽』の独占化、権化です。 今、これらの『陽』の現象世界は、人間(生命)を守っていますか? 守るどころか、 すべてが遅延し放置されています。 被災地では、3.11の津波で陸へ流れ来た魚の腐臭が漂っているそうです。 生命の痛みを感じているとは、とても思えない状況です。 『陰』の欠片もない『陽』は、中庸を失い、生命の無視、殺戮へ動きます。 自己を死から守ろうとする機能がその正体である意識が、 死への恐怖から、自己保存の目的の為に この世の相対世界を作り、 人間の意識が作った言葉が、この世界を分割し学問を生み、 人間の意識があらゆる社会的格差を生み出すのです。 その差異が現れる姿は、樹木の幹からの枝、その枝分かれの姿そのものです。 『陰』の本体を分けて、分けて、分けて、幹から分かれた枝です。 『陽』の本質は、数値化、比較化、差別化、分化であるならば、 『陽』の現象の宿命は、分知=部分的知見でしかありません。 ある部分は、当たっているかもしれないが、 他の部分は、外れている。 意識は、スポット的です。 だから、学問で人生を考えてはいけないと云うのです。 どんなに、その制度や法律を考え抜いて作ったとしても、 意識が推進し、定めた制度・法律と云うものは、 所詮、意識の反映=現象であり、本質から「分かれ」出た部分なのです。 この世・相対的価値を追求する世界を構成するものです。 人間の作ったもので、この天下(自然・人)を包摂する事はできない。 故に、 近代化によって輸入された”自由、平等”と云う言葉の本質は、 『陰』もしくは『陰徳』から、もっとも遠いものになります。 つまり、制度や法律は、いかに平等の実現を図ったものであろうが、 その他方では、不平等=格差を生むのです。 だから、それらを納得した上で運営されなければなりません。 つづきです。 《その理由は、 先天的に自然から与えられた個人の資質のまったくの違いを無視している。 それでも殊更に平等を強く印象つけるために教育の現場で指導をされる事は、 曰く、『誰でも努力すれば夢は叶う』という日教組的考え方がなされていて、 努力をどうするかにかかっていると云う言い訳です。 この理屈は、 制度の限界を親と子供たちに転化するもので彼らは迷いながら従うしかない。 ゆえに夢が叶わないのは本人の努力が足りなかった。という圧力が働く。 これは自然な差異のある生身の人間の現実を 無理やり人間の理性がつくった制度へ合わせるイカサマです。》 あぁ、たしかに、でも、 イカサマというよりも、 それが、『陽』の現場そのものと云う事であり、 相対的価値を追求する実際の競争、 効率、数値化で評価される現象世界の現実だと思います。 いわゆる相対化されたこの世と云う世界の現実なのです。 ゆえに非常に、人間性を失ってしまう現場でもあります。 『陰』の本体の創造性が枯渇する現場ですね。 これは、その制度、仕組みに関わる姿勢の問題です。 それは、『陰徳』と密接に関わっていると前で申しました。 運命学において、説明しましょう。 努力は大事です。 また、忍耐も大事です。 一生懸命も大事です。 ただ、努力と一生懸命さを押し付けるだけでは、だめですね。 『誰でも努力すれば夢は叶う』は、すべての人に当てはまりませんね。 人生は、計算や理屈ではありませんから。。 。 私の、運命鑑定で観る現象、その現場で感じる事は、 『一生懸命にやれ!』と云う言葉の功罪です。 不幸になる方は、そこへ至るまで一生懸命にした人たちです。 『一生懸命にやって』どうしようもなく不幸になった結果を観ています。 一生懸命にやったから、破綻の崖まで来たと言う事もできます。 順調な運に恵まれた人ならともかくですが、 リスキーな命式をお持ちの方が、一生懸命やったらどうなるか? リスクが実現されてしまう危険性が、あります。 何に一生懸命になるか? どう云う心構えで一生懸命になるか? これは、どう云う信条を持って一生懸命したらいいのか? と云う内面的な条件も鑑(かんが)みないといけません。 これは、倫理、道徳まで関連してきます。 ここが、このブログを書いている土台の処なのですが。 しかし、肝心なのは、当たり前のことですが、 人間の存在を、相対化された世界にばかり置かない事です。 自分に値打ちがあるかどうかと云う判断を 相対的な価値観でばかりする事は、『陰徳』を消去します。 ずっと以前にも、言いましたね。 女性の教師は、『陰徳』を消去すると。 お分かりになりましたか? が、しかし、ここが、日本の苦しい所ですね。 相対化された世界の価値観しか、無くなって来ています。。 。 単純に夢が叶わなくても傷つく必要はないのです。 儚(はかな)い、と云う字は、人に夢です。 夢を見る人は、はかないと云う事なのか? 人が夢を持つ事は、はかないと云う事なのか? ?? 昔人の字を作った意図は解からず、、、 あはは。 そう! 夢は見るものではない。実現するものだ。 なでしこジャパンの沢さんが、言っていましたね! これこそは、その時の、タイムリーな真実、部分知そのものです。 嘘ではない、けれど、誰にだって言えるものではない。 こう言わせる彼女の運は、 修験道者のような苦を求める=自分を痛めつける修行をすればするだけ それが、即、自己を守り、自己実現を叶える事に結びつきます。 つらさが即喜び。 苦しむ事が、即意欲、即実現する運です。 この命式を持つ沢さんならではの言葉です。 つづきです。 《 ある学歴を身につけたとして、 同じエンジニアという職業についても、 アメリカのマサチューセッツ工科大学院、国内の大学院、一流の工学部、 三流の工学部、専門学校卒業では、一つの大メーカーに入社できたと しても手にする業務は天地の差別が実社会にはある。 》 それは、まさにあらゆる差異による差別化のヒエラルキー、 どこの世界にもある姿です。 つづきです。 《 自然の社会の実態は、 不平等であると明らかにし正直に受け止め、 個々人においては正しく己を知ることが正しいと考えます。》 あはは。 いい処に、たどり付きましたね。。 。 拍手喝采を贈ります。 パチパチパチパチパチ !! 外から与えられた平等なら、破綻をした共産主義の論理で経験済みです。 西洋の自由と平等の獲得は、法の限度内で実現をしようというものです。 悪い事ではありません。 人間の脳、前頭葉の発達した成果です。 ほほ。 しかし、それを近代化で輸入をした日本が、 制度や法の整備で、自分の自由と平等が実現すると思うのは、甘い! あは! 勘違い! です。 昨今は、自分は自由と平等を両手に持って生まれて来たと、 だれにも負けない人権と云う権力を持っていると、 勘違いをして大人になった人間が増えて来ています。 おほ! 西洋の相対世界の価値観である自由と平等を、 わが国の空っぽの頭に、絶対化の価値観へと取り込んでいる!!!、 なんと云うおそろしさ !! これが、欠けたものを補おうと云う、補償と云う行為なのでしょうか? なんとあわれな~ 母を失った幼子が、他人に甘える代償行為のようです。 にせものとほんものの区別がつかなくなっているのですね。 ”みそもくそも一緒 ” 浅はかな自由と平等と人権と云う言葉を知っただけの知識の獲得で、 わが身を守れるなどと、この世をあなどるなかれ! 絵に描いた(お供え御餅)でお腹は膨れませんよ。 東洋の思潮の大体の似ている目的は、 法・制度の内のみならず、 自己の運命からの開放、不幸の連鎖からの開放、自己の真の確立です。 ここでも、東洋の方が深くて、広いのです! ほほっ! ( いばったって仕方がないのですがー ) 東洋の叡智は、 この世の相対的なものさしで測れる程の小~ちゃいものではなかったのでした。 まぁ、そう云う視点からみますと、 日本は、142年間の近代化の研修におかげで、制度、法的な整備は済みです。 その中身が空洞である事が、問題なのです。 絶対的価値を失いつつある日本の国土において、 男と言わず、女と言わず、 だれもが相対化された価値を追いかけるだけなら、 それは、まさに法的に整備された不平等と、 管理された不自由のジャングルに足を踏み入れた事になるでしょう。 制度としての完璧な自由と平等と人権のもとで、 行けども行けども命を殺戮する不平等の壁に突き当たり、 出口のない閉じ込められた命を圧殺する不自由な天井の下で、 人権を持った奴隷になっているかも知れない? のです。 ほ。 一瞬たりとも早く、この現実に気づいてください。 その為に、このブログを書いております。 何事も言葉だけを鵜呑みにしたらいけないわ~ ”愛してるよ~!” ”あなただけ~よ!” ぶーー。 何事も、言葉だけ~~~で信じてはだめなの。 西洋の言葉を咀嚼もせずに飲み込まないで! きちんと、東洋の消化酵素をかけて消化してほしいのです。 西洋は、キリストと云う神があっての言葉です。 聖書に手を乗せて誓う言葉です。 わが国は、なにに誓う言葉なのですか? なににって? 頭が無い。 魂が無い。 心ぼそく。 ハートさびしき。 云う程のものが無いはず。 無い無い尽くしで、よく頑張っている事だわ ! あはは。 今までの繁栄は、過去何千、何百年の先祖たちの『陰徳』のお陰です。 今、生きている我々の力ではありません。 資源こそ地球の成り立ちからの恩恵ではありませんか。 光ですら、何億光年も経て、到達する。 我々の行為も、一度『天』に波動で伝えられて、 全宇宙へ、すみずみまで、響いて伝えられるはずです。 なぜなら、東洋は、宇宙と我とを一体と言います。 すべての宇宙を経めぐった我々の所作のリズムの結果は? いつごろ宇宙から戻り、その答えが具現するのでしょうか? 何億光年の先、 まず月あたりに行ったものが帰って来るのが、 孫の時代でしょう。 もっと後に、還ってくるリズムもあります。 どう云う応報が還って来るのでしょうか? お考えくださいね。 今回も長い記事を最後までお読みくださった事に、 深く感謝を致します。 次回は、夏疲れもあって、 短い記事にしたい。 そう思っています。 ほほ! よき一週間を、おすごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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06/09 09:13 |
コメントへのお返事 16. <近代化の奈落 3.> 我々は若者の見本にはなれない!Category : 生活哲学
至仏山・しぶつさん(2228.1m) (群馬県みなかみ町)
![]() 至仏山は、尾瀬国立公園に属し、 太平洋側と日本海側の分水嶺の山です。 尾瀬ヶ原を竜宮から牛首や山の鼻へ向かう木道を歩いている時に 前方に見える、なだらかな女性的な山が、至仏山です。 〝山の天気と女心は変わりやすい” と云いますが、 その中でも尾瀬は本当に天気が変わりやすい地形です。 登山から下山までの数時間の間に、 曇り、小雨、どしゃ降り、霧、濃霧、風、強風、快晴まで 体験をしたのは、この至仏山が初めてです。 ドラマチックな? 自然を体感できる山でした。 ーーー これから3回に分けて至仏山へ登った時の写真を紹介します。 が、決して登山のブログに変わった訳ではないのよ、、、 あはは。 登山ルートは、 山ノ鼻ルートが、登山者の増加で登山道が荒れて通行禁止の為に、 群馬、鳩待峠からのルートでアタックです。 鳩待峠に着いた時の空模様は、雨を呼びそうな曇りだった為に、 もう、レインコート、防水ハット、スパッツ、ザックカバー、など、 雨具の完全装備です。 やっぱり! 登山道に入った途端、小雨が降り始めると云う、 絵に描いたような下り坂の空模様でした。 急勾配の山道に差し掛かるといよいよ本降り、ザァーザァー降り。 頭よりも高い両側の藪の葉先から流れ落ちる雨が全身にかかり、 足元は、すれ違う事ができない位細い溝のような山道を 雨が川のようになって流れて下って来ます。 その時には、まだ、 〝雨にも負けず、風にも負けず、、、“ と云う賢治の詩を そのまま実現するような登山になるとは露知らず、、、 ほほっ。 何時止むのか分らない雨の中で、 頂上に着くまで止まないかも知れないと覚悟をしていました。 悪天候のせいか、他の登山者が見当たらない?! あはは。 両脇の葉先から、したたり落ちる雨の滴を避ける為に かがむように傘をさした平身低頭の体勢で、 しかも、もう片手にストックと云う両手がふさがった状態で進みます。 登山中の雨は、これが自然なんだと思っているせいか、 雨で中止をしようと云う気持ちには一度もなった事がありません。 風雨を起す自然も、地震や津波を起す自然も、 我が身に現れる運命と云う自然も、同じ自然なの。 同じ無意識の領域・『陰』に、そのエネルギーの本源はあります。 だから安心して、 私たち達の命を生み出した本源『陰』と同じよ。 この世における自然のあらゆる現象は、必ず『時』と共に変化をします。 だから*莞爾として、突破・ブレークスルー(break through)するのです。 何も恐くは無いのです ------- 逃げてはいけません。 それを悦びとしましょう! ほほっ。 雨もよし、嵐もよし、悦びです。 あはは。 【*莞爾(かんじ) = にこにこと笑って】 雨で濡れながらでも、時として雪をかぶりながらでも、 全身は心地良い大量の汗をかきます。 これが、スポーツの醍醐味ですね。 どんな汗をかくかで、無意識が知らせてくれる事があるのですよ。 ちょっと、それを書いてみましょう。 登山中は、止めどなく汗が噴き出て来ます。 出た汗の代わりに、1リットル以上の水分補給をします。 時として、額や顔の汗が目や口へ流れ入って来るのですが、 サラサラとした何の味もしない水のような汗です。 汗はそもそも、暑くなった体が水分を蒸散させて体温調節をする為です。 だから、理想的には、体からは水分だけが出て来ればいいのです。 ところが、塩辛い汗をかく場合は、 体から必要なミネラルが出て行っているからで、 普段、あまり運動をしない人が、塩辛い汗を流すのですね。 本人の意識に関係がなく、 体が、運動をつらいと感じた時、ミネラルまで出してしまうようです。 体に必要なミネラルを、体温調節の時に流してしまうのは、無駄ですし、 体にとって良い事ではありません。 せっかく運動をして、ミネラルが流れ出れば、体に負担をかけて、 よけい疲れてしまいます。 じゃ、どうすればいいかと云うと、 継続的に運動をして、体にとって運動全てが軽いと感じるレベルになれば、 体が、体自身に負担をかけない汗の出し方ができるようになります。 つまり、継続的に、もしくは定期的に運動をする事によって、 体が、これ位の運動なら平ちゃらさ、楽勝だ、と平気になった証拠に、 塩辛くない水分だけの汗を出せるようになるのです。 また、水のような汗なら、乾いても汗臭くありません。 塩辛い汗は、乾けばミネラルが酸化をして汗臭い! あはは。 臭い汗を出している場合は、体がつらいと感じた汗か、 内臓や体調がよろしくない場合が多いので、要注意です。 塩辛い汗なら、定期的に運動をした方がいいのです。 サラサラの水のような無味な汗なら、運動は十分です。 もうちょっと体に負荷をかけてみたらどうでしょう? もしか、初めはサラサラだったのに、 運動をしている途中で、塩辛い汗に変ったとしたら、 ちょっと無理な運動をやっちゃったかな?と気づいてください。 このように、体を統合する無意識が、 汗の出方の状態で、体の状況を知らせてくれているのですね。 このように無意識に従っていたら、間違いないのですが、 意識が欲に染まると無意識のヒントに気付けないのです。 では、登山へ戻ります。 やっと草木が生い茂った急勾配の細い山道をやり過ごしたら、 次、視界が開けるはず? と期待した木道へ出る頃には、 あれだけ降っていた雨も止み、今度は霧が下から登って来ます。 おかげで視界は、まったく開けていません! 下からの風で霧が辺りをどんどん覆っていきます。 雨水で濡れて滑りやすくなった木道歩きが終わると、 次は、雨水の水たまりを避けながら階段状の登山道を登ります。 晴れなら、きっとここからは良い眺めが広がっているはず、、、 霧に追いかけられながら後を振り返っても、 濃霧で視界はゼロ、足元以外、周りは全く見えなくなりました。 いつのまにか周囲の木々が低くなって、 樹林帯をすでに抜け出したらしいのが、ぼんやり分かります。 木がない、、、これが森林限界に出た印です。 と、急に、胸や腰の高さまである蛇紋岩の大岩が、ゴロゴロ、 ゴロ石とガレ場に出ます。 (下の写真) 濃霧で、まったく向こうが見えない! 頂上までの1kmはこのような完全な岩場歩きになります。 ![]() (写真をクリックしてください。全体が、、、) この続きは、また次回へ、、、。 ------ さあ、本論へ行きます。 今日の記事は、直近の記事にいただいたコメントへのお返事です。 全てのコメントを引用したいと思うのですが、 記事が長くなる場合は、次回へ廻します。 全文は、長くなるかと思いますので、 何回かに分けてお読みになってください。 よろしくお願いします。 コメントへのお返事 16 <近代化の奈落 3.> 我々は、若者の見本にはなれない! 前回からの続き、まず、地球と日本の現状の認識からです。 2012年 4月 1日の過去の記事、 思い出の 「大地」五行学の土の徳は、『信』 で次のように、、、 近代的自我を付与されて、『地』から浮き上がった私達。 知識と意識で捉えた幻想のシゼンの中にいて、 どこから付与されたのか? その出所もわからない幻想の自由を本然的自由とはき違えて、 自然を自由にシゼンへ変える権利がある! あはは。 垢のようなウソの積み重ねを経て、 いったい、どこへ足を踏ん張ればいいのかさえ解らない位、 自己の足場を、自己意識を失っている。 意識で捉えたシゼンが、我々の周りをすっかり取り巻いて、 それで生きているのだと倒錯している現代人の我々。 はっきりと、これは偽善です。 この偽善のシゼンの中で、子を産み、育てる事は、苦だと、 『地』・母性は、もうすでに傷つき、嘆き悲しんで泣いているはず。 と、書きました。 ここの 『地』・母性 とは、 ・そのまま、母なる大地、更には地球そのものであり、 ・母となる女性の孕(はら)む性(さが)であり、 ・万物の命の母体であるこの宇宙、太陽、自然そのものです。 『地』・母性が、もうすでに傷つき、嘆き悲しんで泣いている。 その証拠に、 ・近代化以降、合理主義の下で、 あらゆる命が生れる母なる大地、この地球の限界を超えても尚、 我々の貪欲が、地球の資源を貪(むさぼ)って止まない現実。 地球は、悲鳴を上げているに違いありません。 ・近代化以降、合理主義の下で、 母となる女性の孕む性が、女性の近代的自我の自立?の犠牲になり、 不妊症の増加、少子化と云う現象を引き出し、 『陽』なる経済活動に働き手として狩り出される現実。 新たな次世代の子供らは、1歳未満から保育園で育つと云う現実。 これらは、今の50代以上の母親には、考えられない状況です。 子らは、母親が育てるべきもの、3才までの育児は特にそうでした。 真の母性は、子と引き離されて職場で働く事を喜んでいるのか? ・近代化以降、合理主義の下で、 自然との調和を失ってしまう程に行き過ぎた開発を進めて来た先進国が、 気候変動、生物多様性、チッソ循環において、 地球環境の許容限度を何倍も超えてしまっているにも係らずに、 それを未だに止める事ができない現実。 これらは、『陰』を無視する近代合理主義の思潮の下で 『陽』一辺倒の経済活動、 現代の物質文明を極めた歪みが表われて来た現象です。 『陰』を無視するから、『孝』が廃(すた)れ、 道徳の根本の『孝』が廃れているから、本質を見失うのです。 『孝』を見失った人間の足下の大地は、『地』の徳性を消失します。 『地』の徳は、『信』。 絶対の『信』を失った『地』は、『人』を守りません。 大地を命の安定の拠り所にする『人』にとって、 『地』の『信』の消失は、------- 来るべき大地震への不安です。 不動であるべき大地への不信感が、『孝』を忘れた人間を包むのです。 これが、東洋の考え方です。 人 即 天地。 宇宙 即 我。 まさに、今の日本中が、そうです、、、 大地震と津波への不安が、国中を蔽っています。 この現実は、『陽』経済や政治では解決ができるものではありません。 経済の損失をはじき出して、防災、減災に努めるしかできない。 『陰』を食い止める事は、『陽』意識にはできないのですよ! ほっ。 日本はアジアの中で、近代化に先頭を切って成功をしました。 そう、発展! 自他共に認め、先進国の仲間に入ったのだ!って、 自慢をし、自惚れて来ましたね。 それが、どれだけの値打ちなのか? さすれば、それが西洋思想史の中では解体したかに謂われる今日、 もう西洋中心の近代化などと云っていられない、 欧米に類例を見ない見事な完全な近代化をやってのけた日本です。 ここまで、『陰』を捨てたら、 もう、何でもアリの日本の状況下ではないですか。。。。。 何のことはない! 我々大人がやって来た事の実相は、 自分たちの餓鬼道の貪欲を肯定し、 阿修羅のごとく他者を押しのけ 経済大国2位と云う近代化の成功例を世界に示して いい恰好のポーズを見せて来たのです。 後進国がうらやましがるように、、、 日本を見本にして近代化を真似るように、、、 近代化を説いて、説教を垂れて来たのではないのですか? なんと罪深い事でしょう。。 。 御存知でしたか? 世界中が、日本と同じ生活水準をするなら、地球が4つもいる! 近代化に成功した!と自慢をしながら、 『陰』を捨て、『孝』を廃し、 経済大国になった! 世界第2位だ! そうして、この、 地球4つ分の浪費社会のモデルを、営々と築き上げて、 自慢しながら見せびらかして、 これから、尚且つ、アフリカへ広めようと云うのですね? もう、止めてほしい、、、、、 日本の〝地球を浪費するモデル”を、 かっての中国へ広める前に、 アジアへ広める前に、 つつましやかな、清楚な、質素な日本に戻ってからにしたかった。 なぜなら、 一度知ったこの物質欲の満足は誰しもが手放し難いものだから。 広めた相手をも苦しめる事になりはしない? もう一度、お互いが、前より苛烈な餓鬼道から這い上がるしかないのです。 日本の当座の財布を肥やす為に、 将来の重苦を、広めた相手に与えているのに気が付かなかったのか? この罪滅ぼしに、少しでも早く、 日本は、節約と禁欲と自然を尊ぶ修行を以って世界中を巡礼しなければ。 そうしないと、、、実は、もうすでに、 2009年の時点で、 地球の限界点は3分野で超えていたのです。 これに関しては、ストックホルム大学の研究機関、 ストックホルム・レジリアンス・センターのヨハン・ロックストロム所長が、 国際的に有名な科学者のチームと共に、 9項目から成る一連の地球限界について発表をしています。 2009年時点で、 ① 気候変動(大気中のCO2濃度)は、 限界点の350PPMを現在387PPMで超えています。 【産業革命前は280PPM】 ③ 生物多様性の損失速度(100万種ごとの絶滅種の数)は、 限界点の年間10種類を現在100種類以上が絶滅して行っている。 【産業革命以前は約1種類】 ③ チッソ循環(大気中から人工的に取り出されるチッソ量)は、 限界点の年間3500万トンを現在12,100万トンで超えています。 【産業革命以前は0】 そして、今が危機の上に在って安心できないのは、 地球は、変化に徐々に反応するのではなく、 ある限界点に達すれば、ある時、一気に! 人為では止めようもなく不安定化する転換点があると云うのです。 それは、予期せぬ事態を引き起こし破壊的な悪影響を与えかねない。 この限界を体温に例えると解りやすい。 人間にとっては、体温42度が生死を分ける限界点です。 だから、人は、38度になると病院へ行って治療をするのです。 ------------ 今の地球の体温は、その38度だと云うのです。------------- ですから、 当然ですが、 これからは、経済発展ではなく、「安定的な地球」を最優先にするべきだ。 と云う主張です。 その通りです! 大賛成です。 さすが、スウェーデンですね。 こう云う方は、知識人と呼ぶよりは、智者と言うべきでしょうか、 教えてくださって、ありがたい事です。 ところが、それから4年が経過し、 現状は、大国のエゴで世界はなかなかまとまらないのですね。 大悪事は、止まないのです。 あはは。 特に、① 気候変動(大気中のCO2濃度)については、 国連の気候変動枠組み条約における国際交渉では、 「世界平均の気温上昇を産業化以前を基準に2℃以内に抑えるべき」との 差し迫った科学的見解は認識されていても、 飽くなき経済発展を国是とする大国、発展途上国のco2の排出量は, 増加を続けています。 ◎ 日本も同様です。 東日本大震災と福島原発の事故以来、 日本でのco2削減ブームは退潮し、しかも原発の停止が続く為に 代わりの火力発電所の稼働によってco2排出量を以前よりも増加し、 京都議定書の第2期間(2013~2020)に参加すらしていないのです。 現在、世界の論調は大きく分れ、 ・積極派は、将来の人類の為に緊急に対策を強化し、 気温上昇を2℃以内を絶対に達成すべきと主張し、 ・消極派は、専門家の多くは2℃以内の目標達成はもはや非常に困難だと 認識をしています。 どちらにするべきか? 積極派の対策を行うなら、それの伴う≪経済コスト、社会変革に伴うリスク、 co2を地中に封じ込めるイノベーションに伴うリスク≫を覚悟する必要があり、 消極派の云う通りにするなら、将来の温暖化の悪影響に ≪人類が対処しきれなくなるリスク・例えば気温が上がれば台風の大型化、 干ばつが続く可能性、大洪水などの異常気象≫を覚悟するべきなのですが、 日本では、こう云う地球の危機が迫っている現在にもかかわらず、 その選択のリスクについて詳しく国民には説明がされていません。 さあ、日本はどうする? ここまがで、地球限界に対する世界と日本の現状です。 これらを、まず意識で理解してください。 そして、自分は、どうすれば生き延びれるのか? この意識を常に、心の奥底へ置いておいて欲しいのです。 そうすれば、徐々に無意識の中へ沈んで行くはずです。 そうすれば、必ず、何がしたいのか、するべきか、 無意識からのヒントが、意識界へ湧き上がって来るはず、、、 そう願いながら、記事を進めていきたいと思います。 此処からは、前回の記事にいただいたコメントをご紹介をします。 いつもながらのみなさまの真面目なコメント、ありがとうございました! 内容は、それぞれ一部抜粋をさせていただいております。 全部をご紹介したいのですが、長くなれば次へ廻します。 鍵コメントは、公開をさせていただく事をご了承くださいね。 まず、一つ目です。 ◎ ブログ読みながら、 近鉄ハルカスがバベルの塔とダブって見えてきましたよ(笑) あ、そうすると、バベルの塔って 世界中に一体いくつあるのだろう!なんて考えたり。 昔から人類はあまり進歩してないんでしょうかね~ バベルの塔は単なる神話、昔話と受け流す?(>_<) 自分も男ですから、陽の世界で頑張らないといけないんですが、 その方法を間違わないようにしないと。 温故知新、東洋思想を学びながら生き方を見つめなおしていかねば! と思います。 気持ちのやさしさが滲み出ているコメントですね。 西洋は、心=意識=五感=目や耳や鼻や、、、などが捉えた世界です。 意識は、五感を通じて集めた情報のリアクションですから、外界に従います。 それを知っている西洋は、宣伝や広報が非常に上手いのです。 キリスト教も世界中に宣教師を派遣しました。 良いものは自然に広まる、ではなくて、積極的に目や耳へ訴えます。 これが、今の西洋の外交であり、ビズネスであり、政治です。 高層建築も、1930年代のニューヨークのマンハッタン街区の、 エンパイア・ステートビル、ワールドトレードセンター(アメリカ同時多発テロ 事件で破壊された)などはそのハシリでした。 それまで -------- 貧しさと飢餓が、人類の敵でした。 そして、貧しさと飢餓を乗り越えたと思う人間の慢心が、 こう云う高いビルを建てて来たのでしょう。 いいえ、たとえそれが一時的な錯覚でも、誤解でも、 この自己満足を見て確かめるのには高い建物は分りやすいのです。 『陽』の現象は、 見えない『陰』などを最重要だと叫ぶ東洋より ぐ~っと分りやすいし、伝えやすい。 あはは。 東洋は豊かになればなるだけ、 何も無い方がいい! と、ワビ、サビの世界へ行きますから、 ほほっ。 ワビ、サビの究極は、豪華なお城ではありません。 平屋の簡素な作りですもの、、、 あはは。 桂離宮も、浜離宮も、、、吹けば飛ぶような? ほっ。 まったく違うのですよね、西洋とは、、、 しかし、もう、すでに、足元に、再び、 地球の限界を犯す危機から起こるかも知れない貧しさと飢餓を 乗り越えるには、東洋の出番かも知れないですね。 そう信じております。 二つ目のコメントです。 ◎ 最近は タワーマンションとやらのかなりの高さのマンションも珍しくなくなりました。 あんな雲の中に住んでいてどうなることやら・・・ どの地方も駅に降り立ったときその地域の特色が感じられず なんか画一化してるような・・・ どこへ行ってもチェーン店が目白押し。 なんかだんだんつまらない世の中になってきたような気もします。 それだけに京都みたいな街は貴重ですね。 世界中の消費が地球1.5個分 2030年には地球2個分 と聞いて本当にびっくりです。 今まで意識の中にこんな事考えてもみなかったことです。 確かに・・仕事もしない子供が大人の真似をして、 お金の使い方だけが大人以上になっただけというのも頷けます。 さてどうしよう?? そう、時代は自由に個性を目指すのかと思いきや、まるで逆ですね。 画一化の方へ進んでいます。 それは、なぜか? どこへ行ってもチェーン店が目白押し、 憧れて行く店でもない、無難なのですね、その中へ入る安心感? 差別化どころか、個性も何もない? あはは。 いつから、こうなってしまったのでしょうか、、、 少し難しいかもしれませんが、 19世紀のフランスの思想家トクヴィルが、鋭い事を言っています。 彼の事は、2012年 12月 10日に コメントへのお返事 10.(母性を喪失した家族の癖)トクヴィルの政治学 で 紹介をしましたが、 彼は、こう警告しています。 「民主主義社会は、嫉妬社会である為に人々の行動や考えは平等化し、 最終的には、平等化された多数者が、 少数者を抑圧する【多数者の専制】を生んでしまう。」 この【多数者の専制】政治と云うのは、政治だけに限らず、 あらゆる処に潜んでいる無言の平等化の押し付けなのですね。 例えばですが、極端な例として挙げれば、 貧しさは生活保護を受給できる条件ですが、 それを逆手に取れば、貧しさが保護を受ける権利を持っているのです。 国民が貧しくなり、その権利を有する人達ばかりになったら、 貧しい多数者の思い通りの政治が、国民へ押し付けられる訳です。 そう云う事はあり得ないはずですが、この事からも、 国は大多数の国民の所得を上げて、立派な納税者にするしかないのです。 そうしなければ、国が体を為さなくなります。 しかし、なんとかかんとか国民がやっている間は、 マスコミや政治にとって、画一的な国民の方が扱いやすいのです。 ひとつの号令で、皆が右にナラエ! で云う事をきくからです。 そして、国民の間に嫉妬心を増長させたくはない。 なるべく、ね! 言葉で国民を同じ様に扱っているポーズをする訳です。 あはは。 その方が、扱いやすいはずですから、、、 国民が、同じようなモノを追いかけてくれる方がいいのです。 皆が大学進学、皆がホワイトカラー、制度上の皆の機会均等、 子供は保育所へ預けるモノ、女性は働くのがススンでいる、男女平等は善、 いつのまにか、ほら、ほら、こっち! と誘導されているのですね。 その大きな波に呑まれて、 知らず知らず自分の意見を忘れて、個性がなくなって行く、、、 国民の方も、ついつい同じお店に皆が入って行く方が、安心です。 わざわざ、それに抗って、 画一化に注文を付けたくなるのは、 ほほっ。 私たちが個性的である証拠なのかも知れませんね? ちょっと、安心しましょう。 あはは。 ついでに、民主主義社会は、嫉妬社会である、について、 近代合理主義は、神や仏のような絶対的な存在を認めません。 すべてが皆平等、同じ価値である、となっています。 従って近代化以降、ヨーロッパでは、神が人間の処まで引きずりおろされ、 神の権威が失われる事により、神が禁止をしていた同性愛、堕胎が 社会的に、法律で認められるようになりました。 その神の代わりに権威を持ったのが、科学です。 社会の中に、絶対者もなく、すべてが平等である、、、となると、 人は、各々の五感から入って来る情報(環境)に頼った自分の意識を 唯一の神の様に信じます。 (自分が感じた事が真実なんだ) これが、相対化、相対主義と云うものです。 相手が自分より優れた存在であれば、尊敬の念を持つのが自然です。 しかし、相手を自分と平等な存在として見れば、 自分の上の人間を自分の嫉妬から尊敬せずに、批判して引きずり下し、 片や、尊敬する事もできない自分より下の者を庇い引き上げる事により 自分にとっての上と下の他者を民主主義と云う社会制度を利用して 尊と卑の相対化、平等化をする事で、 その中間で、自己の安定を謀ろうとする人間に具わる醜さ、卑しさを トクヴィルは、150年も前に見抜いていた。--- おどろきです。 デモクラシー社会は嫉妬深いと云われる所以は、 民衆の嫉妬から出て来る(私も他の人と同じ様に扱ってほしい)と云う要求を 常に満足させなければならないのです。 政府も大変です。 あはは。 沖縄の基地問題、放射性廃棄物の処分場問題、など、、、 何も決められない右顧左眄する政府が、立ち往生しています。 これが、愚かな民主主義です。 個々の人間関係においても、心からの尊敬や、まごころ、誠意と云った 無意識の徳性を帯びた意識が希薄になって来ています。 人間の狡さが、 平等主義の制度や法律を利用して、横行するようになるのです。 生活保護の不正受給などはその典型ですね。 自分が、不平等に扱われたと云うだけで裁判を起こす場面も出て、 法的に争うと云う事が増えて来る訳です。 人の守るべき道理『徳性』よりも法律『陽』の力を頼り、 嫉妬の思いを晴らす(相手を倒す)訴訟社会の出現です。 合理主義の行き着く処は、そこら辺の場末の刑場です。 民主主義自体が、絶対王政の王などに対する民衆の嫉妬から出発した、 その事を考えれば、それは、当然の成り行きだと言えるでしょう。 虐げられた民衆の憤怒と嫉妬が、王や王妃をギロチンに架けたのです。 そこに、民主主義の原型があると見抜いたのは、トクヴィルです。 トクヴィルが、何故見抜けたのか? トクヴィルの家系は、古い貴族だった為に、 フランス革命の時に、両親は投獄され、 祖父は、王族と共にギロチンで処刑をされています。 その時、20代のトクヴィルは目の前で、群衆の嫉妬を見たはずです。 民主主義国家が、嫉妬から解放される手段は? トクヴィルは、道徳や宗教が有効である。と、言っています。 「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てる事は出来ない。 信仰なくして道徳に根を張らす事は出来ない」 あ、日本は近代化以降、道徳も宗教も、、、捨てたのよ! 敗戦で68年前、画一化への道を選んだのです。 近代化によって、神の権威は落ちた。と云いながらも、 厳然と精神世界は、キリスト教の基盤の上に在る欧米とは ぜんぜん違うのです。 だから、近代化によって全てを捨てた日本の近代化の方が、 欧米よりも純化した近代化なのです。 世界で類例をみない原理主義的近代化を成し遂げたのは日本だけ。 と云う事は、日本人は、68年前に完全にこだわりを失った。 日本社会の中には、絶対性と云うものが存在しないのです。 この春頃、文科省が、小学生にイジメや殺人がなぜ悪い事なのか? を教えるテキストを作ろうとして、止めました。 その理由は、イジメや殺人が悪である。と云う事を説明できないからだと、 新聞で読んで知って、 なんて、文科省の役人は正直なのかと驚くと同時に、 イジメや殺人が悪と教えられない日本の社会の基軸の無さに、 呆れると同時に、救いようのない現状を観る思いがしました。 日本中の駅前を見ると、その通りだなと思ってしまいます。 あはは。 三つ目のコメントです。 ◎ 次を読んで正直落ち込んでしまいました。= 良いと思ってして来た事が、こんな結果になってしまったのですね。= >現在の世界中の資源消費は、地球1,5個分。 >未来の人類の分まで借りて、豊かさを享受するって? これはなに? >このまま2030年代まで行くと、 >人類の環境負荷は、地球2個分まで拡大します。 ほんとうにこれはなに? です。= それにしても、これに関しての情報は少ないです。= 国もアベノミクス、3本の矢とかばかりを言っていますが、展望がないわ。= 生活を縮めるとか、もっと循環型の社会へするとか、官僚は動いている のでしょうが、= 一番生活に密接な国民はツンボ桟敷です。= 地球上をおかしくするような発展なんて、経済力なんて望んでいない のですから。= 本当に、その通りです。 先ほど、紹介したトクヴィルですが、彼は、またこう言っています。 「 民主主義社会では、人々の関心は、 どうしても〝現在”と〝自分”に集中する。」 本当に、彼が鋭く見抜いていたのには、感心させられます! なぜ、意識が生みだした民主主義社会は、 〝現在”と〝自分”だけに集中するのか? 意識は、現在の環境から五感へ入って来る情報に頼っているからです。 五感の根拠は、現在の環境刺激だけなのですから。。。 見えない未来を五感は、掴む事ができない。 未来を見通す無意識を知らないから、 〝現在”にしがみつくしかない、、、現状保存です。 ほっ。 その自分の五感が感じた事は、自分一人の意識しか感じていない、、、 本質的に、意識は個々バラバラです。 自分の意識を根拠にすれば、自分中心にならざるを得ないのです。 誰もが自分中心のロジックを作ろうとします。 欲に囚われていない無意識を知らないから、 〝自分”にしがみつくしかない、、、自己保存です。 ほっ。。 家族も相性が悪ければバラバラです。 昔の様に、相性が悪くても大家族としてつなぐ基盤がない。 簡単に家庭が崩壊する訳です。 それが国対国なら、競争が発生し、戦争まで行くのですね。 物質文明では、頼るのは心より物。 国なら、資源です。 手にした目の前の経済の利便性を失う事が、命を失う事より恐い! それほど人間の前頭葉は、 現生存性と自己の満足と物に固執しています。 現状保存、自己保存と云う腐った保守性は、 危機が迫っても、今までのやり方を捨てられないのです。 放射能や地球の限界で命を失うのは、未来のある日です。 見えない未来のある日ですから、、、、、 あはは。 意識には見えない、聞けない、、、感じられないのです。 規制改革と云いながら、改革ができない政治が、 経済を思い通りにできるとは思えないですね。 その保守性にがっかりした市場が、今は株価を下げています。 ------- 最後のコメントです。 ◎ 切り捨てられる人たちのシェアハウスを建てて、 多くの物を共有したり自給自足を促進したりすればよい。 社会的弱者や孤独な方、共生を望む方達が そこで新たに家族を形成すればいい。 孤独な人たちのお金が国庫へ回収される前に、 それぞれの能力や知恵を出し合い、力を出し合い、心を尽し愛。 そんな村でもマンションでも長屋でも設計できないかな・・?! とか、小学生並みの無智な夢物語を披露してしまい・・なさけなや。 ちなみに戦前の阿倍野をご存知なんですね! (冗談 m(__)m、10年程前まで戦前の風景も残ってましたもんね) あはは。 最後に、オチまで付けていただいて、、、、、、ほほっ。。。 深く、感謝もうしあげます。 一瞬、 えっ? 戦前に生きていたかしら? と 自分で、戦前生まれだった? なんて考えてしまい、、、 つい、その気になりました。 あはは。 シェアハウス、そうですね! 地球上が、一つのシェアハウスになったらいいのですね。 先日、日本で開催された第5回アフリカ開発会議もそうですね。 アフリカの国々が民主化を成し遂げ、今の中国のようになると、 生活水準は上がり、消費するエネルギーも増大するはずです。 その時、どうするのか? 今は、日本などが消費している分を分けて、 シェアするしかないのではないか、、、そう思います。 より少ない資源で、よりよく生きる事をしなければならないでしょうね。 人類は、それを、自分の満足点として受け入れるしかありませんね。 私は、経済学者ではありませんから、 難しい事は申し上げられません。 が、これからの経済は、 際限のない我々の貪欲に基づいた経済ではなく、 世界人口と地球規模に基づいた道徳的な経済を考えるべき時ですね。 なにが、道徳なのか? それは、おのずと地球規模を世界の人口で割ると、 自分の口に入る量、肌身に付けて着れる物が決まって来るはずです。 今まで、拡大路線で人より多くを取って、人より着飾ろうとする事が、 努力であり、成功だと生きてきた大人は、 この新たな世界道徳に入って行くのは、辛いだろうなと思います。 そう云う意味で、今までの大人は、若者の見本にはなれません。 お手本は無理ですね。 早く、この世から引き下がるべきであろうと思います。 また、過去のやり方を良いと云う教育をしてはいけないと思います。 幼い子も、若者も、今の大人を見習わないでください! 10代の若者も、自分たちの為にもっと政治に関心を持ってください。 若い両親たちは、我が子の負担を考えて行動しなければいけません。 これからの大人である子供達、若者が、新たな基軸を打ち立てて、 地球をしっかり守り、大事に、永遠に続くように、 己の分に従って、しかも天下の則を超えず。 東洋の智慧を学んでいただきたい。 もっと、世界中に、東洋が広まって行くように 祈って行こうと思っています。 過去の栄光は、何の役にも立たない。 今からそう云った覚悟を決めて生きようと思っています。 みなさまはいかがなさるのか? どうか、お考えになってください。 では、今日は長くなりましたので、 今日できなかったコメントへのお返事は、 次回へ廻させていただきますね。 最後までお読みいただいた事、感謝申し上げます。 次回更新まで、よい日々をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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06/22 18:24 |
コメントへのお返事 17. <近代化の奈落 3.> 見事な大根は「種」を残せないCategory : 生活哲学
濃いガスに包まれる至仏山(しぶつさん)登山道
![]() 頂上をカモフラージュする岩場 (写真をクリックしてください!) ------ 至仏山登山の前記事からのつづき 上の写真のように、 頂上をカモフラージュする崖が、遠くから見れば頂上に見えて! あれが、頂上、、、、、 近づけば濃いガスのせいで騙されたんだって、、、がっかり。 こう云う事が何度あったでしょうか。。 。。。 あはは。 、、、黙々と足場を確認しながら登って行く背後を、 下方からガスを吹き上げて来る強風が、強く背中を押して来ます。 何の遮るもののない稜線に出ると、 ものすごい風で我が身が吹き飛ばされそうです。 みんな、黙って、 濃霧の中、強風によろめかないように気を張って、 最悪の事態になる前にリタイアすべきじゃない? とか、 いや、まだ前に進めるのか? (まったくわからない!) 山では、恐い! と云う言葉が禁句なので誰も言いませんが、 平らな岩盤の上で滑ったりすると、 どんな景色かさえも、まったく見えない崖下への恐怖が? あは! ちらっと、かすんで消えたり、 自分自身を含む大自然と戦っていたのです、、、、、、、ほっ。 全く同じ経験を、あの、3.11(東日本大震災)の時、 午後2時46分、つくば山に居て、震災に遭った下山道で感じました。 その時の詳しい状況は、 ⇒⇒⇒ その時の記事 人間は、自然の one of them です、一部ですから、 全体である自然には、究極、部分でしかない人間は逆らえません。 西洋二元論において、 人間は、自然を支配する、とか、 自然と共生する、とか、 自然に逆らう、とか、 自然と人間とが、いかにも対等であるかのような近代合理の言説は、 まったく*詭弁でしかなく、 どういった場合でも、自分の欲望を正当化したい人間の増上慢を 満足させるこじつけでしかありません。 *詭弁(きべん)--- 道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論。 それらは、単なる愚か者の劣等感の裏返しの思い上がり、 大自然に対する無礼、イジメの行為にしか過ぎません。 部分が全体を支配するなんてお門違いだし、 部分が全体と対等に共生するなんて、 部分が全体に逆らえば、全体からはじき出されるのがオチです。 だから、ほら! 今、 人間は自然からはじき出されているではありませんか。。。 でも、 自然の為すがまま、あきらめて従えと云うのではありません。 それでは、臆病な自分の意識に、唯、囚われている事になってしまう。 〝現在”と〝自分”に固執する意識に従って、今あるものを守るだけなら、 それに徹すれば徹する程、一生懸命になればなる程、 命・心身は次第に衰えます。 (運命学では、自分の欲望の為の 努力や一生懸命が、必ずしもいいことだって言えないのです!) 現在を守ると云った処で、『天』の運行、時は進む、と云う事を考えれば、 現状維持なんてありえないのです! 現在を守りながら古くなる。老いていくのです。 つまり、 現在を守ると云う事は、衰退を意味します。 真の意味で、「今」を守ろうとすれば、 「今」を捨てて、 未来へ、限界を超えて進まざるを得ないのです。 自然は、自己を助ける者を助けます。 自己の限界に置いて、生への執着とあきらめない欲を持ち、 目標を持ってまだ見えぬ未来にベストを尽くす人だけへ、 その大きな胸を与え、抱き上げ、腕(かいな)の中へ入れてくれるのです。 「天」と「地」の間にふさわしい「人」として、引き上げてくれるのです。 (こう云う欲望こそ思いっきり強く持つべきなのね) あはは。 登山では、その事を素直に学べます。 これらは、自然の寒暖を遮断して空調で快適にしつらえられた室内で、 自然の写真を見ながら、自然の美しさを歌う音楽を聴き、 ひねらないでも出て来る水道の蛇口で手を洗い、 ナチュラルだ、ヘルシーだとラベルに書いてある食物を食べた処で、 そのような五感の満足の追及では、真の進化は得られないんだって事、 それどころか、五感の満足の追及は、退化を意味するんだって事、 命の退化へと堕ちて行く事になるんだって事、 我々の祖先が進化を遂げた起爆は、そんな処にあったのではないかと、、、 大自然の腕に抱かれて、そのぬくもりから分っていくのです。 大自然の懐に抱かれながら、自分の中から力を引き出してもらう、、、 自然の中では、人間は元気になり強くなっていきます。 天の自然のありようを、見習って、学ぶ姿勢が根本です。 現代の危機は、天の自然を感じられない住・食生活環境です。 便利さを求めて、私たちから、自然の姿が見えなくなっている事です。 天とは、自然の摂理です。 自然のルールから外れれば、動植物は死んでいきます。 温度ひとつ、水分ひとつ、日照時間ひとつ、不足しても 『陽』の現象界からの撤退を余儀なくされる、 消える。 五感では掴めなくなりますが、なくなるのではありません! それが、死です。 いわゆる、自然淘汰です。 人間だって同じです。 植物と違って、手足と意識を自在に使える人間は、 天に、自ら逆らう事によって、生のリズムに乗れない。 ルールを外した処で、いくら努力をしたってダメです。 生命力が衰弱して、種の保存のための生命活動ができなくなるのです。 オスがオスでなくなり、 メスがメスの機能を失って、 メスっぽいオスや、オスっぽいメスだったり、 ほほっ。 自然にあるべき役割の摂理の中から外れる現象化が起きます。 ここで大事な事は、滅びるようになる原因は自己にあります。 天に逆らう事によって自分のなかの生の灯火を、消してしまうからです。 天を無視して無理をする事が成功への秘訣だなんて!?? とんでもない! この事を、現代の人間は忘れていますね。 至仏山頂上 ![]() 写真をクリックすると大きく見れます。 やっと本当の頂上が、目の前に現れた頃には、 もう、霧も風も、ヤル気満満!だったのが、幾分和らぎ、 『天』の繰りだす天候のオン・パレードの次は? 今度は、雪? それとも槍でも降って来るのかしら? あはは。 冗談を言う余裕が出て来ていました。 では、この続きは、次回へ -------- 今日の記事は、 見事な大根、だいこんについてです! あはは。 コメントへのお返事 17. <近代化の奈落 3.> 見事な大根は、「種」を残せない この〝大根”については、 過去の記事、カテゴリ「絶家の家族関係」の 家庭1/4 ベルレーヌの詩を思い出して言ってみたくなります に書いているものです。 全体の記事が長くなるように思います。 次までの更新に余裕がありますので、読み疲れなさらないよう、 ゆっくり何回かに分けて お読みいただければうれしいです。 ほっほ。 では、一つ目のコメントから紹介をします。 拍手コメントへいただいたものです。 拍手コメント、いつも、ありがとうございます! ◎ 「今までの大人は、若者の見本にはなれません。」 私もこう思っていました。 そして今までの大人(自分も含めて)には 間違いなくツケがまわってくるでしょう。 共感をしてくださり、感謝もうしあげます。 そう、もうすでにそのツケが廻って来ているのではないでしょうか、、、、、 あらゆる低級な思想に染まった人間の行為の結果である現象面は、 最終的には、生命の衰弱へ堕ちていくものと思います。 過っては、自然からの脅威、気候変動、氷河期など、 人類や生物の生存が脅かされた時期はありましたが、 今ほど、生物としての人間が、自分から危機的な状況を作り出し、 それらに自らをさらしている時はないのです。 その状況を、それを作り出した科学者、識者は分析できても、 それを、今は、どうする事もできない状況にいる、、、 、、、、、、その事は、間違いのない事実でしょう。 放射能なら、その危険性は周知徹底が為されていて、直ぐに除染を行うが、 放射能よりも怖いのが、 その危険性が、広報されていなくて、安全なものと云う商品に混ざって 我々の生活の隅々にまで便利で効率がいい商品として売られている物です。 具体的には、日々の歯磨きやシャンプー、ボディシャンプーを通して、 しかもそれには、いい香りと云う人工の化学的芳香剤もご丁寧に添加をされて、 (人工の化学的芳香剤こそが、 鼻の粘膜から吸収される環境ホルモンを多く含む! ) 男性の生殖機能に影響を及ぼすと指摘されている環境ホルモンです。 詳しくは、過去記事の、カテゴリ・いのち/ふしぎなるもの いのち(自然と健康)を脅かすもの 3 経口吸収より恐ろしい経皮吸収 1 いのち(自然と健康)を脅かすもの 4 経口吸収より恐ろしい経皮吸収 2 をご覧になってください。 どうしてだか? 特に、生殖機能のカギを握る男性がターゲットになっている。。 。 としか思えない現象ばかりが目立ちます、、、、、 それはそうでしょう。 男性からオスらしさが無くなれば、子供は作れない。 もう一つの例が、牛乳です。 牛のメスホルモンが、毎日の学校給食の牛乳を通して、 育ち盛りのこれから男としての性徴を顕す男児の体の中へ吸収されています。 女性は、牛のメスホルモンを追加されても、女としての性徴が早くなる、 女らしい体に早く成熟すると云う位の事でしょうが、 ほっ。 男児が、牛のメスホルモンを毎日与え続けられると、 男性としての性徴が妨げられ = 女々しくなる、草食系男子になる、 ほっ。。 ニューヨーク市の学校給食など、ごくごく少数を除いては、 業界などの圧力団体の力が強いからか、 日本においては、誰も学校給食から牛乳を止めさせようとはしません。 それどころか、 たばこの様に健康被害が具体的に実証されていないと云う認識から、 牛乳自体の健康被害を広報する方向性は、まったく見えません。 詳しくは、過去記事のカテゴリ・いのち/ふしぎなるもの いのち(自然と健康)を脅かすもの 6 牛乳 (癌とオスのメス化 ) を、ご覧になってください! これらの現実は、誰が作ったのか? これらの悪魔の粉を命の営みである人間の生活圏へ入れたのは誰だ? すべて、人間自身です。 ただ飢餓から逃れたい -------- から次は効率を求めて、 人の欲望である、楽に、便利になりたい。 楽になるなら、少しは毒が混じる位、いいじゃない。ですって、 あはは。 私たちの眼前に在る市場経済は、そう云う経済です。 人間の欲望を肯定して、その欲望の邪魔になる道徳を遠ざけた経済です。 真ん中に通してある表向きの筋は、<消費者主義>です。 あはは。 表向きの奥に在る本音の筋は? 言わずもがなです。。。 消費者は王様! そう云う事です。 ほっ。 でも、私が王様だから、私の為に良い商品を作ってくれるはず、 それが、民主主義、消費者主義なんだわ! って喜ばないでください。 あちら様から褒められる時は、 あちら様の主導した舞台の上だっていう事です。 まずまず、王様にふさわしい品物が、手に入るなんてないはずです。 しかし、 この市場経済は、消費者が望むモノは何でも作ります! ほ。 売れれば、開発担当者が社長に怒られなくて済みますもの、、、あはは。 ここが偽善的、政治のポピュリズムと一緒ですね。 そうそう、今に残る本物の物を作った昔の職人は、 消費者の為だなんて言って物を作ってはいなかった。 作り手側のプロの集団があって、その中で競争をして、 いかに良いものを作って認められようかと、他の集団よりも 自分の集団の価値を高めようと作っていたのです。 自分の限界に挑戦して無意識とつながっていたのです。 「私たちの明るい未来」を作る為に、 「科学技術の進歩」を信じて来たはずだったのではないのか? 私たちは、思い描いていた明るい未来にいますか? まだ、大人はいい、今の子供達は、可哀想です。 価値観が倒錯した、まがい物が本物と置き換えられている空間を この世と受け入れていくのです。 近代化がまだ達成されていない後進国の子供達に、負けるでしょう。 なぜなら、彼らの方が、真の自然を五感で知って大きくなっているからです。 とても、我々は子供たちの見本にはなれません。 真の自然を近代合理で隠し、本物に接する邪魔しているのですから... 日本だけでなく、世界を見ても、 近代合理主義の行く付く処、『陰』・無意識を排除した生命の衰退です。 今年の5月子供の日に、総務省が発表した15歳未満の子供の推計人口は、 前年比12万減の1665万人です。 統計がある1950年以降、 子供の数の減少は、31年連続です。統計以来、最少も記録しています。 総人口(1億2765万人)に占める子供の割合も、38年間連続で低下し、 たったの13%に減っています。 これは、運命学による私見ですが、 近代国家である先進国は、近代化が遅れている後進国に比較すると、 人口割合は減っているであろうと、勢いは劣勢になるであろうと、 具体的には、地球上では後進国が栄えていくであろうと、 欧米では白人の人口割合が減って行くであろうと推測しています。 それに関しては、 アメリカの国勢調査局が発表した人口推計が出て、次の事が分りました。 アメリカ国内の1歳未満の乳幼児の人種別割合で、 白人の乳幼児の割合が、初めて半数を割った。 白人の乳幼児が、全体の50%を切りました。 多い順に、 白人 ----- 49,6 (%) ヒスパニック ----- 26,2 アフリカ系黒人 ----- 15,3 アジア ----- 4,6 と云う事は、2042年(この子供たちが29歳になる)には、 白人以外の人種がアメリカ国民の大半になると云う事です。 アメリカの国内事情も変化をしてくるはずです。 これは、運命学からの私見ですが、 近代化を成し遂げた先進国の人口は衰退をして行くはずです。 『陰』自体を遮蔽していない現在の後進国は、 それだけ自然に近いと云う事です。 自然に近いと云う事は、進化を遂げる潜在力がまだあるのです。 では、二つ目のコメントです。 鍵コメントですが、公開をします。ご了承ください! ◎ 書かれている事は、その通りですが、 アジア太平洋地域の資源利用量は、今のままでは、40年後に3倍になります。 そうなのですか、、、お知らせくださってありがとう! インドも25歳以下に爆発的な人口を持っていますし、 シンガポールも、インドネシアも経済的に伸びて来ます。 ベトナムもそうですね。 日本は、いろんな意味で小さい部分になっていくのではないかと、 生き残る方途は、ピリリと辛い山椒の実のような存在になっていく。 それと、東洋的な思想をバックボーンに据えて行くようになるでしょう。 かって、笑い話みたいに、今まで記事に書いた事もあるのですが、 中国国民13億人が、日本人と同じようにトイレットペーパーを使うようになっ たら、地球上の森林資源は、見る間に無くなるでしょう。 そうならなくするには、日本人が自分たちの生活水準を下げて、 その分を譲るしかないのではないか、、、その覚悟ですね。 日本は、全国土に自然エネルギーを作ったとしても、 その表面積で発電できる量に限度があります。 日本の国力を保つ為には、一にも二にも、エネルギーです。 その時、原子力発電をどうしていくのかと云う問題がありますね。 co2の排出を考えると原子力しかないのかも知れません。 私個人は、どうもイヤだなと思いますが、 これは、次世代の人が、考えるべき事柄です。 40年後、生きていたとしても活動期を過ぎる人間が、 ほほっ。 どうこう言える事柄、立場ではないように思います! 若い方が、結論を出すべきですね、、、 まだ、大根の話が出て来ないでしょう? あはは。 三つ目のコメントを紹介します。 これも鍵コメントですが、公開します。 ご了承ください! ◎ >有用性の追求も程々にしなければ、いい加減にしなければ、 >不合理な無用性を切り捨てて計算し尽した社会など、 >希望も喜びも、歓びも、悦びもない社会になるでしょうに... 有用性の追求をしていくと、 人間として大切なものが失われていく、生命が失われていく… 近代合理主義の社会は、必ず格差を作りますね。 全てをビジネス化して、格差や貧困層を作り、 弱者から奪うやり方は、まさに弱肉強食の社会です。 自然界の弱肉強食は調和していますが、 人間社会の弱肉強食は、暴力的で破壊的で、調和とは正反対のモノですね。 現代の社会は、自然との調和を失った人間の欲望が暴走した姿なのでしょう。 >これでいいのか? 日本人? >1000年の後、日本列島に日本人は住んでいるのか? >日本人は、命懸けでここに住み続ける思想を持っているのか? 悲しいことですが、 日本人は、命懸けでここに住み続ける思想を、失ってしまったのでしょうね。 例えば、ちゃんとした思想があれば、 原発や核施設を、こんなにたくさん作ることはできなかったはずです。 現実に、フクイチの事故が起きてしまい、それを解決することも出来ず、 原発から出る核廃棄物がいっぱいで処分場も無いのに、 まだ原発推進をする、 さらに、外国に原発を売り付けて、 我が国の総理大臣が嬉しそうに、その経済効果を力説する… そんな安倍さんを持ち上げるマスコミを見ていると、 絶望的な気持ちになります。 将来、日本の美しい国土が、核廃棄物のゴミ捨て場になりそうな (もうそうなっている?)…私の杞憂だったら良いのですが。 核廃棄物という、嫌なもの、見たくないもの、厄介なゴミが、 次世代に引き継がれて苦しめていくのですね。 心理的な面でも、 自分が見たくない嫌なもの、厄介なものを無意識に追いやっていくと、 上手に隠して忘れたつもりでも、 それが両親から子供へ、子孫へと受け継がれてしまいますよね。 次世代に悪いものを受け継がせない生き方が、大切だと思います。 難しい事ですが…現実は理想のようには、なかなか出来ないですね。 これを解決するには、 やはり、東洋の教えを深く体感することしかないのでは… と感じています。 下 線 は、編集で付けました。 う~~ン 大事なテーマを出されましたね。 ここです。 次世代に引き継がれて苦しめていくのですね。 次世代に悪いものを受け継がせない生き方が、大切だと思います。 それを、守って行こうとすると、 守らざるを得ないと思う何かが、必要ですね。 えぇ、もちろん、それを教えられなくても、 生れながらに徳性を身に付けておられる方もいる。 しかし、大抵の人は、まず、自分、自分の満足を第一に考えるでしょう。 ★ 今日は、その事で、大根のお話をしたかったのです。 ほほっ。 前記事のコメントで紹介しましたトクヴィルの言葉、 「 民主主義社会では、人々の関心は、 どうしても〝現在”と〝自分”に集中する。」 民主主義下では選挙で、我々の代議士が選ばれます。 総理もその中から選挙で選ぶ以上は、多数決の論理です。 多くの賛同・数を得ようと思えば、直ぐの目の前のお互いのリスクを避けて、 今、現在、そこに居る自分達にとっての共通の利益を図る事が、 一番の争点になり、それが説得力を持つのですね。 具体的には、国民の為と云うよりも、経済団体や役人の省益の優先です。 先々、自分に関わりがない自分の死後における未来のメリットや、 自分以外の他人の得る利益は無視をする事ができる、 そう云う人間心理を見抜いたトクヴィルの卓見なのですね。 まさに、人間は、他人の為の利益どころか、 自分の身内である子供や孫の利益よりも、 自己の今現在の利得を優先する動物なのだという事を 思い知らされるような次のような記事が、先日、新聞に載っていました。 (以下の記事は、 決して世代間対立を煽ろうとする目論見からではありません。) 政府の社会保障制度改革国民会議(会長、清家篤慶応義塾長)が 会合を開き、現在65歳へ引き上げが決まっている 厚生年金の支給開始年齢を、 将来は、さらなる引き上げを検討すべきだという認識で一致した。と 又、支給する年金額を、保険料などで賄える範囲内に抑える為に、 (マクロ経済スライド)と云う仕組みを 早期に機能させる必要性でも一致とありました。 これでは、あまりにも、 現在の老人たちが受けている年金制度の恩恵を守る為に、 今の制度自体の矛盾から生まれて来る損害・「苦」を 将来の子や孫の世代へ先送りをして、そこで帳尻を合わそうとするやり方だと、 あきれて物が言えない内容だと憤りを超えて悲しい思いがしました。 現在の老人の受給者は、60歳、もしくは65歳からの支給開始です。 そして、支給されている年金の原資には税金が投入されています。 今の老人たちが長寿で、これから20~30年近く長生きした場合、 その年金を支えるのは今の40代以下の人たちです。 しかし、その人たちが年金を受け取られるのは70歳以上 になる!!! なんと云う不公平でしょうか?! しかも、これからの子供は生れて直ぐに保育園に預けられて、 母親も働けと云う社会です。 夫婦が、揃って70歳位まで働かなければいけないのに、 その世代が年金を受け取る時点になれば、 支給する年金額は、保険料などで賄える範囲内に抑えられる!?? なんと云う不公平でしょうか?! しかも、70歳からの支給で、年金はそれから何年間もらえるのでしょう? 国家の税金の為に女性まで動員をされて働かされて、 ips細胞で、医学が進歩して目や手や足や、 ブタの体の中で作られた内臓を取り出して作り替えて、 所得税を払う為に長生きせよと??? あはは。 いやあ、ブラックジョークの世界です! 一番憐れなのは、現在選挙権のない10代の世代、 また10歳未満の幼児達は、彼らこそが、 30年後、今ある原子炉の廃炉の費用の負担を強いられる世代です! なんと云う、なんと云う厚かましさでしょう! それが、分っているのだから、今の内からどうして 今の大人たちが、生活をささやかにしてでも、その費用を出さないの? その子たちが何も分からない今の内に、 その子達の将来、老後の事まで、 今の老政治家達が、決めてしまっていいのですか? これが、自由、平等、人権を謳う民主主義を目指し、できあがった社会です。 なら、子供達の人権は? 子供達がいやだ!と云う自由は? 現老政治家と10歳未満の子供達は平等ではないのですか? 10歳未満の国民と老政治家の格差のすごさ! 老政治家の 老政治家による、 老政治家の現在の「楽」の為の、 老政治家の「苦」の先送りの政治の為の民主主義社会の実現です。 ほっ。。 これこそが、『陽』に偏った繁栄の虚偽性です。 意識の自己実現の貪欲があまりにも強い為に、子孫を害する構図なのです。 世に出て、成功を欲しいだけ手に入れた男性には、跡取りができない。 よ~く、世間を見渡してみてください! 自己実現した有名人、成功者には、命の継承が恵まれないのです。 自分から、二代目、三代目は女の孫ばかり、もしくは結婚しない長男です。 これは、悪態ではありません。 これは、運命学の絶家の一つのパターンです。 これを日本は、国を挙げて名を成したご立派な方がやっているから、 --------------- 絶国ですね。 跡取りが生れる訳がない。 少子化なのです。 大根を農作物として売るには、見事な太い根にしなければ売れません。 しかし、根に栄養が行った大根はからは、種は採れません。 貧弱な、種しか採れないのだそうです。 見事な根を成した大根は、自分全体に栄養が足りていると満足をして、 次への命の準備を疎かにするのだそうです。 翌年、立派な大根になる種を採ろうとすると、もともと育て方が違うのです。 根に栄養が行かないように、全体が栄養が十分に行き渡らないようにします。 丁度の飢餓状態にするのですね! あはは。 そうすると、大根が、根を立派にする事ができないなら、 次世代へ生き延びる事へ目的を変えて、必死になる。 次はいい根が成るようにと、種に乏しい栄養を集めると云うのです。 成り上がった親は、自分の立場を守る事に汲々としているので、 (親が子供の運気までも吸い取りますから) とぼしい種が成り、 まずしい親からは、自分に賭けても仕方がないと、 捨て身の愛情を子供へ与えて次世代へ芽吹く種が成るのです。 動物も植物も、生物は、精一杯生きようとしています。 その生きる精気が、どこへ現れるのか? 今、自分なのか? 未来、子孫なのか? すべて、その覚悟で決まって来るのです。 さぁ、あなたはどちらの親でしょうか? 自分の自己実現が欲しいのか、自分の栄誉が欲しいのか、 それらは、全部、現在の自分の世の為ですね。 現在の自分に生きるとは、 自分が、 子孫が、 家系が、 国が、 人類が、衰亡へ向かうと云う事です。 しかし、近代合理主義は、人々を、現在の自分に釘付けにします。 西洋の思想には、時軸がない。 未来の為に作られた思想ではないからです。 死後の永遠の生命が、まったく説かれていない。 天国で終わりですから... 自分の五感が捉える事ができるのが、現在の自分しかないからです。 さあ、困りました! あはは。 未来に生きるとは、どうする事なのか? どうか、お考えになってみてくださいね。 長い記事を、最後までお読みいただきまして、 深く感謝申し上げます。 次の更新まで、よき日々をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |