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    『呂氏春秋』 1     欲を適す

    Category : 呂氏春秋の世界
    中国の楼

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    自然観においても、人間観においても、

    東洋的思想の方が、西洋的思想より優れていると言って来ましたが、



    今日は、シナ古典の中で最も基礎的な、代表的な文献のひとつ、

    原名は『呂覧』(りょらん)。

    史記などが『呂氏春秋』(りょししゅんじゅう)と記しています。


     『呂氏春秋』の世界の中を味わってみましょう。

    現代の西洋文明の欲望の論理に慣れっこになっている私達に、

    非常に新鮮で、目が覚めるような印象を持たれると思います。




    猛春紀 (重紀)    町田版 春の節8から、


    世之人主貴人,無賢不肖,莫不欲長生久視,而日逆其生,欲之何益? 


    「 世の人主(じんしゅ)、貴人、賢不肖(けんふしょう)と無く、

    長生久視(ちょうせいきゅうし)を欲せざるなし。

    而(しか)るに日に其の生に逆らう。之を欲するも何ぞ益せん。」


    世の中の諸侯や貴族は、誰でも長生きを欲しない人はいない。

    それなのに、それなのに、毎日毎日、

    (彼らは)長生きができる生き方に逆からっている。

    長生きをしたいと思っても、何にもならない。




    猛春紀   おなじく


    凡生之長也、順之也;使生不順者、欲也;故聖人必先適欲 


    「凡(おおよ)そ生の長きや之に順(したが)へばなり。

    生をして順(じゅん)ならざらしむる者は欲なり。

    故に聖人は必ず先(ま)づ欲を適(てき)す。」


    寿命が長いという事は、内分泌機能、生理機能などの命の生の

    働きに順に、自然に従って生きるおかげである。

    これを妨げて不順な生き方をしてしまうのは欲望のせいなのだ。

    だから、

    正しい生き方をする人は、まず自分の欲望を適当に調節するのだ。





    人間の正しい生き方とは何なのか、という場合、

    自然に順って生きること、

    命を全うすることであるというような言い方が、

    呂氏春秋のなかにはあちこちに出てきます。

    自然に順って生きる、その為には、まず、自分の欲を調整しなさいと。

    自然に順う生き方とは、漠然とした言い方ではなく、

    具体的に、『呂氏春秋』は、全体が十二紀に分けられ、

    冒頭に「時令」として各月の太陽の位置、

    南中する星々、

    各月との五行の対応関係、時候、

    天子の為すべき事、儀礼や政令、勧農などを定め、

    それに順って人間も行動せよと説いています。



    そしてこれらの政令に違反した場合には、災害が降ると警告しています。





    前221年、秦の始皇帝が中国を統一します。


    秦の宰相 呂不韋(りょふい)が、

    秦の強大な国力を背景に、中国全土から有能の士を募り、

    賓客として招聘し優遇しました。

    その数は3000人にも達したそうですが、

    その中から、

    学問才識の優れた上客を選んで

    聞き知っている事柄を記録をさせ作らせたものです。

    それは全部で二十万語にも及ぶものでした。

    その中の一字一句の欠点を指摘し、修正したら、

    千金を与えると賞金を賭けて、

    そのすべてを秦の都の市場の壁に張り出します。

    とうぜん、誰も何の欠点も言って来なかったそうです。

    これが前240年頃です。




    欲を適す。

    天と地という自然の巡りのリズムのなかで、

    その運行をつぶさに観察をしながら、

    自然の力を利用して農業を行いながら、

    人間の欲望をうまく調節して、

    天と地の間で、災害を抑え、

    人が与えられた命を全うしていくための創意工夫が溢れています。

    それが、中庸という東洋独特のすばらしい概念の芽生えです。

    自然を人間に対する物体として扱わずに、

    逆に、すべての生きている宇宙として捉え、

    自然のエネルギーをどこまでも包摂して、我と一体になり、

    どこまでも自らの内側に取り込んでいく。

    自分の内側に、太陽を観じ、月を観て、宇宙を観る

    その静かなダイナミズムに、

    いつも感嘆してしまうのです。





    ”子ども手当て”で右往左往する今とは?

    お金を与えてどうにかできるという人間の生とは?

    物質文明が国土にも心にもすっかり沁み込んでいる・・・

    これを生命体である宇宙・天は、どうみるのか?

    生に順った結果として潤沢な生が未来に約束されたのか?

    人間の欲とみるのか? 

    ならば将来、この場所からの排除の論理が働いてくるのか?





    東洋より、世界へ




























    参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫

             百家諸子 中國哲学書

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    『呂氏春秋』 2  天・人を生じて貪(たん)有り欲有らしむ

    Category : 呂氏春秋の世界
    中国の楼

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    今日の記事は、『呂氏春秋』2 です。




    東洋的思想の優れている点に、欲望の扱い方があります。


    西洋的思想では、

    ギリシャ・ローマ時代からずっと理性と感性という二元的に分けて、

    これをお互いに矛盾的に対立させ、人間を説明してきました。

    ある時は理性を良しとしたり、

    ある時は理性的でありすぎると言って欲望の肯定に感性を謳ったり、

    あるいはキリスト教の原罪説から、人は罪を背負っている、

    と考える傾向が強くあります。



    私などは、十代の頃、これを本で読んで知った時、

    ”なんて西洋のキリスト教の信徒の人たちは、不自由な人間だろう。

    よく、そういう人間観の宗教で我慢をしているものだ!” 

    と同情をしたものです! (笑い)


    私なら、気が付いた時点で、どんな葛藤を経ても、

    もっと違う人間観の世界へ、きっと逃げ出しただろう~

    今でも、そう思います。

    最初の自己存在の規定からして窮屈なのだから、

    西洋人が、自由=獲得するもの、と思ったのはしょうがないわね。

    イヤ! フランス革命以降も宗教の縛りは、解けていないの~

    彼らは、ずっと原罪を背負っていかなければならないのです。


    東洋には、自由という概念はなかったのでないかしら?

    だって、もともとが、自己を宇宙と一体だと規定する思想に、

    そこから抜け出す自由は、必要なかったのだと思いますヨ!

    本当に東洋人で良かったと・・・・・実感です。





    そのように、

    東洋の私たちの思想的特長は、理性と感性と二元的に分けません。

    分けるという概念がない、と言ってもいいでしょう。

    天はひとつなのですから。

    知らずに先祖から受け継いだ考え方は、主に一元的です。






    仲春紀 (情欲)から   町田版 春の節24


    天生人而使有貪有欲。欲有情,情有節。


    聖人修節以止欲,故不過行其情也。



    『 天・人を生じて貪(たん)有り欲有らしむ。欲に情あり。情に節有り。

    聖人節を修(おさ)めて以って欲を止(とど)む。

    故に其の情を過行(かこう)せざるなり。』


    天はこの世に、人を生じさせる時に、貪(むさぼ)る心と欲望を与えた。

    その欲望には感情が伴ない、情欲には節度がある。

    それで聖人は節度を修めて欲望を支配した。

    そのおかげで過度に情欲を過ぎて行わないのだ。





    東洋は、

    貪欲や情欲を、良心や理性に反する異質の物と捉えていません。

    貪欲や情欲を、

    もともと天に具わっている働き・自然の作用として肯定をしています。

    一元的です。

    西洋のように、貪欲や情欲を悪、良心や理性を正と分けていません。

    貪欲とか情欲を嫌っているわけではないのです。

    悪といって憎まない。

    正と言って自惚れない。

    これは、ある意味、東洋人のおおらかさになっていると思います。


    西洋人から見れば、

    悪をも認める包容性として映るのではないでしょうか?



    だから、なめられる? のでしょうね~

    人がよさそうに思われる・・・何でも黙って受け入れてしまう・・・

    随分、この点が誤解されて、利用されてきたように思います。



    西洋的思考は、分類する思考です。

    理性、感性、正、悪、知、情、意、、、etc

    なにでも分けてしまいます。 

    これらはすべて部分知です。

    それを忘れて部分知で全体を推し量るという間違いをしてしまいそう。

    それでは、ついに実態を離れてしまい・・・

    ただの知識の細切れになってしまうのです。




    分けた一こま一こまの論理性は正しく思える?

    だから、平和を作るためだと言って、戦争をするのです。







    東洋的思考は、包摂する、全体知です。

    もともとひとつであった全体を会得する知です。それと我です。

    部分知のようなモノを出しながら、いつも「天」を出して全体知へ帰す。





    欲望というものを、別件扱いにしない。継子扱いにしない。

    全体のなかで、それをどう生かしていくか?

    「天」の下で恥ずかしくない欲望へと昇華させるのですね。



    元々あった欲情や情欲をやりたい放題、放漫にしない。

    やりたい放題、放漫にしたい放題する事も人間の自然なありようですが、

    その人間の自然なありようが過ぎるのを過失と言うでしょうか? 

    ほほっ。

    やり過ぎていた事を節を以って抑制することで、

    人間の自然なありようを、過ぎて行わせない。


    人間の自然なありようを、天の自然のありように近づけていく・・・

    天に我の欲望を帰していく。天と合一する我です。







    天の自然のありようを、見習って、学ぶ姿勢が根本です。


    現代の危機は、天の自然を感じられない住生活環境です。

    便利さを求めて、私たちから、自然の姿が見えなくなっている事です。






    天とは、自然の摂理です。

    自然の摂理を犯せば、動植物は死んでいきます。

    いわゆる、自然淘汰です。

    ここでいう自然淘汰とは、

    弱い者が強い者に負けて淘汰されるという事ではありません。

    天に逆らう事によって、生のリズムに乗れない。

    だから天の恩恵を受けられない。

    生命力が衰弱して、種の保存のための生命活動ができなくなるのです。


    自然の摂理を犯せば、命あるものは滅びていくしかないのです。


    ここで大事な事は、滅びるようになる原因は自己にあります。

    天に逆らう事によって自分のなかの生の灯火を、消してしまうからです。







    この事を、現代の人間は忘れていますね。





    少子化を金銭や保育所という物で解決しようとしていますが、

    解決策は、そんな所にはないような気がします。

    ある程度は、それで上向くかもしれません、、、。




    産めるけれど、産みたくない! のではないのです。




    子を産むこと自体、完全に理性的?なことではないはずですから、

    できれば産みますよ! 大抵の女性は、ね!


    だから、産める人は、産んでいます。

    経済的に大変でも、2人、3人、産んでいます。







    実際、産みたいのに、産めない体の人が増えているのです。

    そういう悩みの方がたくさん目の前に来られています。

    不妊治療をしても、体外受精をしても、

    子宮へ着床するかどうかは、自然の摂理の範疇です。

    天といい、自然ともいう領域なのです。

    人類はまだ、そこまで立ち入る通行許可証を手にしていません。




    自然の摂理が、産むことを、許さないのか?



    天に逆らったから産めないの?

    天に逆らうとは、どういう事?

    誰が逆らったの?






    一度、国もきちんと調査をするべきだと、思います・・・


    しかし、調査にどれだけ本当の事を白状するでしょうか?

    産めないのを、産みたくないと、、、



















    参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫

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    『呂氏春秋』 3  人寿160歳、81歳で死ぬのを”夭”と言う。

    Category : 呂氏春秋の世界
    中国の楼

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    前回の記事には、みなさん、耳が痛い~という

    反響が多かったです! あはは!

    現代は、夜の10時に寝るには、非常な困難があるようです!




    現代は、天の摂理に逆らう時代なのですね~





    前のブログ記事で、自律神経は無意識の領域であると書きました。

    無意識の領域(まだ人間の意識では開明できていない領域という意味)は

    たとえば解りやすいのが宇宙で、人間の意識で、(宇宙科学として)

    ほとんどが解明できていない領域=無意識の領域です。






    無意識の領域という言葉事体が、西洋的思考方法そのものですから、

    大問題なのですが、、、、、

    西洋式思考で生まれた言葉やその概念というものは、

    自然のあるがままを捉えるには、

    余すところなく事実を掴むには、足りない、無理がある、ものです。



    実際に、仏教哲学から見ると、


    今の西洋的学問の認識は、仏法の説く三身のうちの一身でしかなく、

    しかも、その一端という、偏狭さを具えています。

    意識、無意識という言葉の概念においても、

    天台仏法における、『九識論』という理論の方が、格段に優れています!


    またこれらは、次の機会に。





    素人は、科学が進歩すると何でもできる! と思い込みがちです。

    すすんだ科学者なら、人間の意識が解明したその奥に、

    もっと膨大な未知の世界が、広がっている事に気が付きます。 




    膨大な未知の無意識の領域である自然に対して、

    人間が、ささやかにできる事は、無意識の領域に存在する力を利用して、

    何かできる事はないか?と工夫する事だけです。




    何処まで行っても広がる無意識の世界=宇宙そのものが命の源です。

    そのおかげで、私達の創造活動は可能になるのです。





    「自律神経」という今の学問の知識は、

    自然のなかの人体における体の機能、働きを系列的に研究し、

    人間の意識で引っ張り出した無意識の領域の中のほんの一部の理に、

    名付けた名前です。

    自律神経の交感神経と副交感神経が、夜、時間でチェンジするなんて、

    前ブログでみなさんが ”耳が痛い! ” とおっしゃった、

    10時~2時までなどという機能の時間的な制約は、

    誰が時間を定めたのだ? 

    と追求したところで、、、 ほほっ。

    これは、権力者であっても自由にできない、勝手は許されない。


    それを東洋的には、宇宙のリズム、秩序、自然の摂理などと言います。

    仏法では、『法界』(仏の法の世界)とも、云います。



    不思議な宇宙生命ルール、これが、『呂氏春秋』でいうところの、

    【天の道】と言うものでしょう。

    これらが、東洋のすばらしい卓見ですよ!


    この【天の道】の下では、
    生命あるものすべてが、平等な扱いであります。





    それは、そもそも宇宙的生命と私たちの命が、同根である。

    そのまま、どこかで宇宙の時間的なシステムに統御されている。

    その事実であるという事に他ならないのです。



     


    西洋的学問と、東洋的学問の違いは、

    西洋的学問は、人間が意識できる世界だけを存在するものとし、

    意識で捉えられるモノだけを対象として、微細に見ます。

    あ、多少の霊的なものも、学問には入っていますが。


    しかし、東洋的学問は、意識できる世界の変化を知った上で、

    それにこだわる愚かさと、偏りを避ける為に、ナンセンス!

    常に、天=膨大な無意識の世界全体、へ 目を向けようとします。



    エヘン! やっぱり東洋の方が親分だって!  あはは。





    季春紀 (盡数)  町田版 春の節33から


    天生陰陽寒暑燥溼,四時之化,萬物之變,莫不為利,莫不為害。

    聖人察陰陽之宜,辨萬物之利以便生,故精神安乎形,而年壽得長焉。

    長也者,非短而續之也,畢其數也。畢數之務,在乎去害。何謂去害

    ---故凡養生,莫若知本,知本則疾無由至矣。



    天・陰陽を生じ、

    寒暑・燥湿・四時の化(か)・万物の変・利を為さざる莫(な)く、

    害を為さざる莫(な)し。

    聖人・陰陽の宜(よろしき)を察し、万物の利を弁じ、以て生に便ず。

    故に精神・形に安んじて、年寿、長ずることを得(う)。

    長ずるとは短にして之を続(つ)ぐに非ず。

    その数(すう)を畢(つく)すなり。

    数を畢すの務(つとめ)は害を去るに在り。ーーー

    凡(おおよ)そ生を養ふは本を知るに若(し)くは莫(な)し。




    天・自然に陰陽というものがあり、

    そこには、寒い・暑い、乾燥・湿る、

    四時の推移、すべてが変化し、それが利にもなれば、害にもなっていく。

    天の道を究めた聖人なら、陰陽を考察し、

    どうすれば万物が健やかに生きるかという事をわきまえて、

    生命が生きるのに都合の良いように取り計らっていくのである。

    故に、精神が肉体とともに安らかになって、寿命が長くなるのだ。

    長寿とは、短いものに接ぐような事ではなく、

    生命の持っている天から与えられた生命の理法を尽くして

    十分に発揮する事である。

    生命の理法を尽くして十分に発揮する事とは、その害を去ることである。

    (害とは、事故、怪我、中毒、いわゆる命の夭折)

    生命を養うとは、生命は何であるかという基本を知って、

    害を除いていけば常に真実であり、永遠である。

    (大抵の人間は、枝葉抹消にこだわって、基本を忘れるのである、)



    中国の道教では、

    年齢81歳を半寿といい、その倍の160歳を全寿と言い、

    81歳以下で死ぬのを夭折の ”夭 ”と言います。

    ”夭 ”とは、生命が若くみずみずしい内に死ぬことです。



    【天の道】に沿って生きれば、160の人寿をまっとう出来る?!!




    生理的とは、天から与えられた生命の理法である一端を、

    医学が意識で捕らえた知識と言う事もできますね。


    最重要な生理的な現象・機能は、生命の創造、

    受胎、妊娠、出産、という事になりますか?



    人間が人間を産む。全てが意識で解明されていません。




    命を産むのは女です。

    妊娠出産にそなえて大事な機能をする子宮、卵巣。

    毎月、28日周期で生理的におこる月経。

    それは、本人自身の意思や意識に関係なく定期的に起こるもの。

    いわゆる自律神経の働きです。


    しかし、自律神経失調症という病気があるように、

    自律神経も、(宇宙との統合的調和が)乱れて機能が低下し、

    働きが崩れる。


    子供が産めなくなっている、現実。

    一人の孫も抱くことができない年老いた両親のご相談も多いのです。

    人々が良かれと思って、自分の欲望を最第一に位置づけて、

    営々と努力してきた結果が、これですか?




    私は、医者ではありませんから、

    診察や、診療はできません。しません。


    これも私の仕事の経験、ご相談の内容から思うのは、



    男性的に活発に活動する女性は、圧倒的に生理不順が多いようです。

    体が育つ思春期に、過度な運動に偏って、栄養がそちらに取られ、

    20代を過ぎても子宮が成熟せず、

    ダイエットや体の冷えが原因で卵巣が排卵しない。




    また、不妊に関して運命鑑定のご相談に来られるお話を伺うと、


    どうも、

    『女に産まれたことが、疎ましい。』

    『どうして、女だけ生理があるの? めんどう~ 』

    『生理のない男になりたい! 』


    そういう意識を強く思ったり、軽いつもりで願ったりしたら、

    ついには、生理の28日周期が乱れたり、止ってしまうらしいのです。

    無月経が長く続くと楽ちんでも、子供はできにくくなりますよ!



    女性が、女に生まれた事を、すなおに受け入れられない時代。

    女性が、女に生まれた事を、喜んで生きようと思えない時代。

    女性が、ある意味、

    女性である事に反抗をしている結果ではないですか?


    これは、女性の過去の歴史をどう見るかという評価の仕方や、

    そして、

    情報社会が女性をあおるその質の低さ、低俗さにも原因があります。

    要は、社会における道徳観の欠如ですね・・・



    決して、女性だけに責任があるという事ではないけれど、

    主体者は、女性でしょう?

    女たちが逃げようとしている。 

    どこから? 

    目の前の現実からです。


    子育てに難しい時代だと、、、?


    馬鹿言ってんじゃないわよ!     あはは。 
    (山口百恵ばりに? play back!)

    ちょっと知識の端くれを学んだからと言って、

    人生解ったように言わないのよ。

    自分を飾るだけの知識?を幾ら拾い集めても、最後は塵になるだけです!





    我々の先輩はどんな戦火の中だって、

    愛があれば、その人の子供を、、、

    命を継ぐことだけは、止めなかったでしょう?

    それが、どうして?




    一つの理由は、

    根無し草の国家で、未来の子供に希望はないと決めた。

    誰が決めたのですか?女じゃない。


     女の意識でしょう?




    女が意識で物事を決めるようになったら、世の中、おしまいなのよ!

    今まで、女は意識で大事な物事を決めはしなかった、、、。

    ほら、女は子宮でものを考えるっていうでしょう?

    男は理性ですが、女は本能(直感)で物事を判断してきたの。

    女は、意識を超える力で決めていたの。 

    事、いのちに関しては、ね!


    ついに、それを放棄して、

    女が意識にしがみ付くようになったのですよ。



    それは、女性が物質文明のひもじさに負けて、

    根無し草を襲いつづける資本主義の飢餓感に負けて、

    自らの内なる不思議なる力を捨てたのです。



    弱きもの、汝の名は、女なり。  (あはは!)



    この背後には、被害者である男性がいます。


    また、女性たちを逃がそうとしている勢力が、潜んでいる。

    彼女たちの意識を変えて、生理に及ぶ変化を強いたのです。




    もう!

    女でいられない、、、女を捨てて男へ変身せざるをえない女たち。

    男の本番、陽の現場へ、物質を求めて漁りに出かける女たち。


    それが、かっこいいなんて! おやめなさい~!

    時代に乗るという事は、少しもかっこよくない。 



    みっともないだけ・・・



    だって、この時代そのものが大変な倒錯なんだから。

    無意識の領域であれなんであれ、

    なにでも意識で捉えられるという倒錯です。


    自然を捨てて、うぬぼれや傲慢さの方が楽ですか?



    意識で全てを凌駕できるという邪教を信じる天に対する反逆が、

    こうして、人間が天罰を受けているのに気が付かなければ・・・・・



    科学の真理というものは、次、新しい事実が判れば偽になります。

    これは、何度も言って来ました! 

    いわゆる『陽』だからです。

    知ってはいいけれど、頼れるものではない・・・



    あらゆる知識が宇宙や自然に対して、どこまで事実に迫っているのか?

    真剣に疑って、考えなきゃ、真の安寧は手に入らないですよ。



    次、その最たるもの病気の癌について取り上げますね。

    おたのしみに!






















    参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫

             百家諸子 中國哲学書

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    『因果応報の源 時間を生きる』 3.必ず公を先にす 天下は一人の天下に非ず  天下の天下なり。

    Category : 呂氏春秋の世界
    尾瀬沼木道

    6月初旬 福島県桧枝岐村から雨の大江湿原へ 尾瀬沼へ至る木道








    あなたは時間と聞いて何を思いますか?




    5世紀、西洋思想の巨人、聖アウグスティヌスが、

    『時』について、こう文献に残しています。


    「誰にも尋ねられなければ解っている。

    がしかし、尋ねられて説明しようと思うと解らない 」



    聖アウグスティヌスでさえこう言っています。

    主観的に解ったつもりでも、客観的には説明できないって~ (笑い)



    相対性理論のアインシュタインは、

    「時計が示しているのが時間である。」という言い方をよくしたそうです。



    天才といわれる人間であっても、『時』の説明はむずかしかった。


     とぼけている?  まさか!   あははっ!






    先月、七年ぶりに地球に帰還した

    HAYABUSA です。 どうぞ!  (3分08)







    宇宙と共に、太陽と月と地球があって、

    それぞれの運行と共に、我々の時間はあります。



    太陽と月と地球が、唯、単純に? そこにあったからだなんて?

    本当?   たまたま、そこにあっただけだよ~  そんな!~

    こんな事が、偶然にあるわけないでしょう!

    なにゆえ ?  なぞです~~



    科学は、何時? どのように? 何が? どうなったの? を

    追求するかも知れませんが、、、、、

    なぜ、太陽と月と地球が調和してあるのか?

    このなぞの解明は、科学では無理でしょうね~。





    太陽と月と地球が織り成す位置関係のリズムは、

    私たちに影響を与えているというよりも、

    それそのものによって命を与えられ、保っていると言ったら

    言い過ぎでしょうか?



    『天の道』の秩序の中で、その宇宙の運行の影響を受けながら、

    『地の理』の知恵の中で、気候に従った衣食住を創造して工夫しながら、

    『人の紀』の礼節の中で、社会や人々と調和を図って命をつないで行く。、



    この地球上で生きる以上、

    『天の道』=大自然の懐から飛び出すことは、不可能のように思えます。





    今のカレンダーは、

    1年に1から12の月の集合と、その順番があるという事を表すだけです。

    一ヶ月も、30ないしは31までの均一な1日が集合したものであり、

    その1から31までの日の順序を示すものでしかありませんが、


    東洋における古代の暦や時には、

    1、2,という集合や順序の意味だけではありませんでした。

    十干という陰陽五行の文字と、十二支の組み合わせを使っていました。

    刻む時のひとつひとつに概念性があり、意味があるものとして、

    具体的には、星々の移動、天体の変化、自然の変化の具体性でした。




    1日1日のそれぞれに固有の意味と意義があり、

    他の日とは区別できる独立した役割というものが内容としてあります。



    今、それらは、私たちの生活の中から消えています。

    私たちは、その中の東洋固有の文化を失っています。




    東洋固有の「文化を失う」という事は、東洋固有の「言葉」を失う事です。

    この言葉とは、命のある=心がある言葉です。

    その言葉を聴けば、心に概念が浮かび、体が動きが示す言葉です。


    文化を失うとは、言葉を失い、心と体のある機能が退化する事です。

    固有の文化、言葉を失ったから、”日本人らしく”なくなりました。




    文化は、人の群れ、人の集まりのなかで息つきます。

    命のある言葉は、人と人の「つながり」によって伝えられていくものです。

    その「つながり」を断ってしまえば=人が孤立すれば言葉を失います。

    その「言葉」を伝える場として家族や地域の共同体がありました。

    家族や共同体の意識が壊れつつある現代は、文化も、そうですね。

    日本固有の文化を失った日本人は、おそらく孤立状態に近い。



    このことは、また、機会を見て書きたいと思っています。






    本質的な、

    自然の変化を暦に書き止めてきた東洋人の知恵は、

    今、カレンダーに取って代わられています。

    暦の精神性である日々の意義や、概念はいらない! 

    ただ月、日の順番と数量の概念性だけでいい! 

    (これは、暦の物質化です)



    星々の移動、天体の変化は、今も変わらず、

    そのままなのに、


    現代の暦は、

    さも順番に、巡りくる時であるかのように、

    変わらずつづく物として、、

    簡単便利な都合がいい順序数の機能の所だけを残して、

    人間中心の一片の見方に合理化してしまっています。


    古代人が、感じていた一日一日の意味のある内容が、

    切り捨てられています。





    今は、

    『暦』を失って、日を数えるだけの機能であるカレンダーがあるだけです。

    万人共通の毎日24時間単位の一律の日々が並んだカレンダーです。



    それによって、

    私達は、暦の複雑さから開放された代わりに、

    毎日の日付を見る事で、

    星々や天体の変化、自然の変化を感じる事を遠ざけてしまいました。




    これは、人間の意識の中から『天の道』を葬ることであり、

    東洋智である『天の道』を無視する事で、

    西洋文明に染まった現代人の私達の意識は、

    自然からかけ離れたって生きていける?と錯覚しています。




    しかし、厳然として、

    1日や月の満ち欠けなどのリズムにあわせた、

    生理現象が私たちの体の中にはあります。


    ほとんど全ての生命が、本当に小さな細菌から、人類に至るまで、

    体内にこの生物時計を持っているそうです。


    人間だって、さまざまな生理学的、生化学的現象を1日のリズム=

    地球の自転に合わせて持っているそうです。

    それゆえ、あらゆる生命はどうしても生理現象に拘束されます。

    イヤ、生理現象として現代科学が捉える以外の現象が、

    もっと私達の命のなかにあるかもしれません。

    今は、ただ、意識にひっかからないだけで、、、



    私の仕事とする『運命学』も、その延長上にあります。

    今は、まだ科学が認識して知識にしていないだけです。





    今日は、

    万人共通のカレンダー上の均一な日々の『時』というものが、

    万人平等の同じ日々ではない、というだけではなく、

    個人々々の

    命式におけるその人固有の『時』の意義、意味があるのだという事を、

    運命学の生徒さんの体験から紹介をしたいと思います。




    運命学を学びだして3年目の生徒、

    Lさんとします。

    運命学を学びだしたら、それは誰しも同じ気持ちだろうと思いますが、

    自分の命式を出して、自分の運命を知りたいと思うはずです。

    もちろん、それは学んだ力次第、可能です。




    昨年の1月のある日、

    Lさんが「今年の私の運気は、こうだと思うのですが、、、」と、

    自分の命式を持って来ましたので、

    私は、ちょっとした強い注意と警告をしました。



    私  : 今までにない大変な年だから、十分注意をして!

       何でもやりたいようにやっていい年ではない事を忘れないで!
      
    Lさんが、「わかりました」と言い、

    重なる質問もして来たので、自覚をしてくれたと安心していたのですが、
       
    この後、それが、ぜんぜんわかっていなかった事が判明します。

    というのは、去年がLさんにとって危険な年になる『時』であるという事が、

    どういうものであるのか、その年が明けて、今年の3月になってやっと、

    私が言った事が実感できるという事態に陥ったのです。





    運命学において、

    人間には、何かを強く望んでやってはいけない時というのが、

    種々の運の中のひとつにあります。

    これは、その人固有ですから、その時は、人それぞれバラバラです。

    そういう時に、仕事など何かをガムシャラにがんばったりすると、

    結果はもちろん手にしたつもりでも、

    その評価が全くなかったり、考えられない四面楚歌に陥ったり、

    元には戻らない体の病に罹ったり、ある人は、念願の鎌倉に自宅を建て、

    明日が引越しという前日に亡くなった。そういう事もありました。

    失敗に失脚が続けて起こるような目に遭う時なのです。

    こういう時に、欲を出して頑張り通した場合は、

    その年運が本来なら終わる2月の節分あたりから

    本当なら上昇運気が巡るはずが、もっと大変な循環に

    入ってしまう。恐れるべき時なのです。


    しかし、

    また、こういう破兆な時には、いつにないバラ色の情報が持ち込まれて、

    ウットリするような気分でやりたくなるものなのです! (笑い)

    そして、その話に乗ったが最後、蜃気楼のように全ては消えていく。

    そういう年運です。それが、Lさんの去年の年運でした。


    それなのに、

    Lさんは、私の注意も訊かずに、昨年は一人旅の海外旅行を二度、

    その後、案の定、働かなければならない経済状態になって

    フルタイムの仕事に就きました。

    その都度、私へ相談をして来たわけですが、

    彼女が熱心に信じている新興宗教の海外研修?である海外旅行へは

    ”やめた方がいい”という私のアドバイスを振り切り、

    前々からの信仰上の予定だからと頑なに言い張って出かけました。

    仕事も”来年からにしたら”という心配もよそに、

    「せっかく年齢に関係なく採用してくれたから」

    と言って勤め始めました。


    すべてが、自分中心に決めていると云う事に気が付かないまま、


    何もなければいいが・・・と案じていると、

    今年の2月、「仕事止めました」と報告がありました。

    訊くと、化学過敏症らしい症状で、通勤の電車にも乗れない、

    吐き気に襲われずっと寝ているというではありませんか?

    働かなければいけない経済状態はどうするの?



    運命学を学んでいるLさんでさえ、こうですから、

    今の私達は、自分の欲望や自己都合を優先が正しいと、思い込んで、

    物事を決めるのが正しい、

    そう、思っています。

    自分が決めた事が間違いない。そう思っていますよね?(笑い)

    いわゆる、自分を点検する物差し(道理)を持っていない。

    理性で決めると言った処で、打算や欲を優先していたり、

    ひどいのは、怨恨や嫉妬で決めることもあります。

    それだけ、自分というものが可愛いのですね~ (笑い)

    これでは、私欲そのものでしょう? あはは。



    えっ! 自分のためで、どうしていけないのかって?

    自分の生を栄えさすには、『天の道』・時に従う事こそ大事よ!

    私達の命は、そこから生じている。

    生物は、『時」を違えれば、自然に淘汰されるのを忘れないで~!

    花や実がなるのは、植物の生が、時に従えばこそなのですから。



    Lさん曰く「家族の為に宗教行事にも参加をしたし、

    働く事だって、家族を思う善い事だから、

    悪くはならないと思ったのですが、、、」


    あははっ~、善良なるLさんに、私はこう言いましたよ。

    家族といい、その為といい、

    貴女の命があっての家族ですよ。『人の紀』です。

    貴女の命・『天の道』がなければ、家族とも出会えなかったでしょう。

    運命の重要な時とは、その命の根源の秩序なのだから。

    それほど、『人の紀』家族を大事に思うなら、

    その前に『天の道』・『時』を知って自分の生に従う事。

    時に順ならざれば、滅ぶ。 命があってよかったわね~

    今年は、去年の代わりにじっとして、命に感謝をする時にしたらどう?・・・




    Lさん「えぇ、そうしようと思わないでも、

    実際もう、どこにもいけない位の体の状態です。

    今年一年間、じっと自分を見つめようと思います」




    私達は、すこしでも余裕があれば自分の欲に走ります。

    今、政治家の先生達は、何の欲か、走り回っています。  あははっ!

    それが、凡人の常の習いなのでしょうが、


    「呂氏春秋」には、次のようにあります。




    昔先聖王の天下を治むるや、 必ず公を先にす。

    公なれば天下平らかなり。

    平らかなるは公より得。

    天下は一人の天下に非ず。

    天下の天下なり。





    私欲を去って、公のために。



    そこで公というのは、いったい何が公であるのか。



    英語のPubric(パブリック)とはまったく違います。


    深い東洋思想の知恵を

    どうか、ご自分で思索してみてくださいね。





    よき一週間をお過ごしください。

























           






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    『因果応報の源 時間を生きる』 5. 因果応報と永遠のいのち、これは『時空』にわたる永遠性の別名です。

    Category : 呂氏春秋の世界
    葉桜

    梅雨空の葉桜




    ちょっと、今日は前置きを、、、


    『因果応報』という古い仏教的な言葉を、

    できるだけ現代の意識的な言葉で種明かしをしてみたいという衝動から

    このテーマを書き始めたのですが、

    思っていたよりも簡単に終われそうもなくて、、、(笑い)


    いただくコメントに導かれながら、

    だんだん深みに入って行っているような気がしています。 あはは。




    実を言うと、なぜ、『因果応報』なのか?



    現代のすべての面における閉塞感は、

    表面的には経済の行きつまり、地球資源の有限性、

    社会的には少子化など、の現象として現れてきていますが、

    その奥の問題点は、

    理念や哲学、思想の欠如による

    生活レベルの道徳の崩壊と思っています。

    そこが、私達の深く豊かな創造力の表出を奪っているのです。




    道徳のその奥に、ふたつの扉があります。

    ひとつは、”因果応報”の扉。

    もうひとつは、”永遠のいのち”の扉。


    この二つは、『時空』にわたる永遠性の別名です。


    このふたつの扉の後ろには、またひとつの扉があります。

    それには、今、触れる余裕はありませんので、省きます。





    『時空』にわたる永遠性の別名、”因果応報”と”永遠のいのち”

    この、もともとの東洋的な叡智を失念、捨て去って来た事が、

    現代文明の病につながっているのではないか?



    いろいろなご相談を聞いて、運命鑑定をしている間に、そう

    確信するようになりました。



    つまり、

    自己の存在の永遠性の喪失は、今だけに生きる生き方になります。

    刹那的で、表面的な快楽、

    今だけ楽しければいい、後の事を考えなくなる。

    目の前の世界に生きるのですね。

    それはつまり、難しい事を言うと、

    人間のなかの、仏性や神性を壊し、限りなく畜生系に近くなる。

    いいえ! そう言ったら、

    畜生(犬や猫、動物等)に失礼かもしれないですね~ (笑い)

    畜生以下、石ころ以下、この地球上に立っていられなくなる存在です。。






    "因果応報”感の喪失は、『空間、場』における自己責任感の喪失で、

    本当の自分を見失う事です。

    自分を見失う事、それは、同時に客観性を失って相手を無視して、

    そして自分も社会から消える事です。



    ”永遠のいのち”感の喪失は、『時』における自己の存在の瑣末性です。

    ささいなつまらない自己に限りなく堕ちて行くのですね。



    こうなれば、

    人は何をしても自己を評価できなくなります。

    逆に、突然、

    通りで何十人の人間を刺し殺したとしても悪いと思わない。

    全てを他人のせいにして、逃れられると、、、

    傲慢の極、もっともまずしい命。


    なぜなら、それはこの宇宙のリズムを無視し、

    『天の道』に反逆し、自己の命のよりどころを失っているから、

    虚勢を張って威張らずにはいられない。



    素直になれない

    その威勢の行為が、他の命を殺傷する。

    殺傷しないまでも、平気で他を傷つける。

    そうしてまでも歪んだ自己の存在の証明をしようとする。


    たしかに、今の世は、

    ”因果応報”と”永遠のいのち”の存在を忘れて、迷っている・・・・・





    過去に

    いろんな時代がありましたが、

    こんなに自ら進んで自己を矮小化し瑣末に考える時代があったかしら?



    知識を知れば知るほど、自己が矮小化していく。 なぜ?

    進んだ科学が、増えた知識が、人間を有限化したのかもしれません。




    知識ではないものを、信じるな! 『因果応報』なんか、うそっぱちだよ!

    数字で計れないものを、信じるな! 『永遠のいのち』なんてあるわけが

    ないだろう! 人は死ねば土、石ころになるんだよ。 無だ!


    それか、なんとなく、(てんごく)へいくんだって?  



    あははっ~! 大人がこう言っているのを聞くと笑うしかないのです。





    今、人は人間性の瀬戸際にいるような気がしています。







    あ、ぁ、前置きが長くなりました。






    さて、記事本文に戻ります。


    前回の陰徳の視点から観る『因果応報』のテーマの記事に

    次のようなコメントをいただきました。


    ピンチのあとにチャンスあり!ではなくて、

    慶事のあとに凶事ありなのですね。

    慶事の前には、貯金の限度額は決まっているようですが、

    「徳」を積んでおかないといけないのですね。

    これは命式によって決まっているようですが、

    善行を行うことによって積み立てられるものなのでしょうか。

    今からでは遅いかもしれませんが、陰徳貯金の必要性を感じました。




    このコメントに、誰もが共感されると思います。


    今日、なにか参考になる事が書ければと思っています。







    この地球上で生きる以上、

    『天の道』=大宇宙の存在=大自然の懐から飛び出すことは、

    どう考えても、私達には不可能です。



    この宇宙の片隅の太陽系の中の水惑星。

    46億年前に誕生した地球。

    太陽から3番目の近さ、その適当な距離を保って太陽を回る。

    その条件が、多様な生物の生命活動を可能にしている。



    これらの事は、もうすでに、

    意識の額縁のなかである科学が、証明をして来た事です。

    これらは、人間の意識を通して科学が証明をする事です。


    しかし、なぜに、こういう惑星があるのか?

    そこにどうして我々が生存しているのか?

    この謎は、科学では解明できないでしょう。

    科学が網羅する範囲を超えているからです。

    意識の及ぶことではない、そう思います。



    これらは、おそらく哲学、宗教が答えなければいけないわ!



    同じく、科学では、

    地球の1日や、月の満ち欠けなどのリズムにあわせた生理現象が、

    私たちの体の中にはある事も証明しています。



    私達の生命は、それらの生理現象に拘束されています。

    理性が私達を拘束する前にです! 


    脳の視床下部という、

    私たちが自分で意識する、しないにかかわらずに

    私達の生命の保全を司っている

    自律神経である交感神経・副交感神経機能

    及び内分泌機能を全体として総合的に調節しているところがあります。


    視床下部には、

    体温調節中枢、下垂体ホルモンの調節中枢、

    浸透圧受容器、摂食行動、飲水行動、性行動、睡眠などの

    本能行動の中枢、及び怒りや不安などの情動行動の中枢が

    あります。


    それらは、

    体温、血圧、心拍、睡眠、

    ホルモンや消化酵素等の内分泌機能、食欲、

    細胞の新陳代謝の現象など、一日の中で一定のリズムを持っています。

    つまりは、体の持ち主である本人の意識とは関係なく、

    これらの生きる本能的な機能は、

    直接、地球の1日や、月の満ち欠けなどのリズムに合わせて

    機能する生理現象だという事です。

    私達の体、命は、

    自分の命であるようでも、自分の意識のままにはならない。

    自分の命は何の指図で働いているかというと、

    大宇宙のリズムの影響で機能をしている。

    そういうことなのです。

    自分の命は私の物ではない。

    私物ではない。

    命は『公』=『天下』のものである。

    という思想が出てくるのですね。




    『呂氏春秋』の

    天下は一人の天下に非ず。

    天下の天下なり。



    命は自分だけの一人の命ではない。

    すべての命は、大宇宙の命から生まれた命なのだから、

    =大宇宙の命なのだ。

    大宇宙のリズムに合わせて生きることが長生久視を叶える事だ。

    と言うのです。



    これが『天の道』です。

    『天の道』に順じることが命を謳歌できる事であり、

    それを邪魔するのが自分の欲である。

    自分の欲の満足の為と言って結果は『天の道』に逆らって生きる。

    その事を「私欲」と言う。



    「私欲」を去って、「公」に生きるとは、


    あくまでも、宇宙をひとつの生命体と見て、

    そこから生まれ出る事を可能にした地球の恵まれた状況、

    命をはぐくむ条件を満たしてくれる太陽と地球の恵まれた状況、

    その命を今現在のあなたまで継承してつないでくれた恩人、

    それが、直接的には両親。 

    それ以前の両親の親達。 先祖と言う事になります。

    お分かりになりますね。

    いのちの継承の筋です。


    それが、『孝』に、道徳の最高価値を置く理由になります。



    単に、親孝行、何かをプレゼントをすることが親孝行、

    そんな目先の行為をさせる為だけの、『孝』ではありません。

    それでは、幼稚園レベルと変わらないではありませんか? (笑い)


    小学生に教科書で教える道徳とは、

    困ったお年寄りに席をゆずりましょう。等が道徳という事に

    なるのでしょうが、

    それは、ずっと先のほうで派生する枝葉であって、

    根本的な本質は、この『天の道』から、『孝』へと導かれる

    中にある筋であって、ここを外してはいけません。




    孝を知っている。孝とは親孝行だ。親を大事にすることだ。

    私は、親孝行をしている。その事に十分満足をしている。


    あはは。


    これでは、単なる主知主義(知識や知性を重要価値とする)です。

    これが、まじめな勤勉な日本人が陥りやすい穴凹(あなぼこ)ですね~



    すぐにすなおに学んで覚えるいい子ちゃん! 

    偏差値教育をすぐにマスター優秀児! 


    実を言うと、

    これが、今の民主党の政治家に多いタイプなのです!

    彼らに任せておくとどんな日本になるのか、

    見えてこない!

    権力者の謙虚さがない! 

    不安ですよ~

    彼らは、学んだ知識が最上のものだと思っているだけで、

    そういう教育を受けてきた自分を間違いないと思っている。

    それ以上の高みを知らないように思う。

      


    たしかに、たしかに、日本人は、

    外来文化を学んで覚えて素早く身につける天才ですよ!



    しかし、ついでに言っておきます。

    江戸時代の元禄文化という緩みきった(今の日本と極似している)

    文化のなかで主知主義に陥った朱子学のせいで、

    黒船に対抗できない、どうにもできない非力な日本人を作り、

    現代につながる明治維新の本質的ゆがみをもたらした、

    元凶なのではないか?



    この事については、また別の機会に記事にしようと思います。





    孝経に、夫れ孝は徳の本なり。とあります。



    陰徳とは、太陰にそなわるエネルギー、創造力のことです。

    天のエネルギーに対する大地のエネルギー。

    太陰にそなわるエネルギーに相対するものが

    地球にとっての天そのもの=太陽そのもののエネルギーです。


    太陰に相対するのが太陽です。 太陰:太陽(お天道様です)


    太陽から守られるあらゆる生物の命の存在に最高の価値を置いて、

    その事実を感謝し、その心で『天の道』に順ずる生き方を守り、

    命への感謝から親から子へ、

    また子へと継承して行くことが、陰徳です。


    太陽への感謝=命への感謝=大地に積もる徳なのでしょうね。

    命への感謝を、身近な具体的な行為として挙げれば、

    先祖に、我の命の誕生までつないでくれた事へ感謝をする行為。

    その感謝の報いとして、先祖に自分の善行為を以ってお供えをする行為。

    まず、生きている親への孝の前に、

    死者であるご先祖のお墓参りをなさるようにお勧めします。


    宗教や宗旨がどうのこうのではなく、

    子孫としての振る舞いとして、

    感謝の心を持って行かれるだけでもいいと思います。

    お墓参りの行為以前に、死者に感謝の心を持つという事がいいことよ!


    ちょうどお盆も近いし、

    ご両親のお供をしてご先祖さまのお墓へ

    あるいは、一家の主として墓地の祭祀権者として、

    ご無沙汰のお詫びに伺うのもいい時期ですね。


    お墓参りは、貴重な陰徳を積む行為です。


    つづきます。

















    参考文献 『 生物時計はなぜリズムを刻むのか』 日経BP社

     著者 ラッセル・フォスター / レオン・クライツマン


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    『呂氏春秋』 4   人之性壽 ・ 人の寿命は120歳 (命を縮める原因)

    Category : 呂氏春秋の世界
    今回より命式の説明の文に★①、★②などの番号が付いています。

    気になさらないでお読みください。 
     



    中国の楼

    中国の楼













    昨年の暮れに、取引先の40歳の男性仮にFさんとします。が、

    体調を崩したので退職をするかも知れないと、あいさつに来ました。



    いつも、元気そうに人一倍頑張っていた印象がありましたので、

    驚くと同時に、原因を私なりに探ってあげたい。

    西洋医学の見解では、無理な領域と云うものがあるでしょう? ほほ。

    その気持ちが強く動いたものですから、

    少し、話した後、解った病気の原因をアドバイス致しました。

    実は、こう云う男性を案外、たくさん知っているのです、、、





    現代の西洋医学においては、

    命や健康を、心と切り離した物的肉体で診ます。

    体の細胞レベルの目で見える物としての異変の証拠をつかまえないと、

    わからない、としか言えないのですね。

    分子レベルで検査をする今の医学では、そう云うしかないのです。

    命の存在全体を、心の移りゆく変化体としてみないのです。

    しかも、分子レベル以下の異変は、検査機器に引っかかりませんし、

    余程のブツ的症状が出ないと、診断名は付かないみたいですね。


    食欲が湧かないとか、疲れてぐったりする。

    こう云う症状が出ても、

    それが、細胞の分子レベルのダメージが出ていない症状だったら、

    それが、どこから起きているのかが分からないのですね!


    見るとやせ形の彼が、もっと痩せていました。



    直感的には、≪本人の限度を超えた欲望≫と、分かっていました。


    原因は、A. 彼の高いプライドが望む、

    B. その満足感を得ようとする欲望の強さ、

    C. その為に必要で十分なポテンシャル(潜在能力)があるのか?

    A. B. C. のバランスとでも言いましょうか、、、、、?   


    A. や B. に耐えられる C.がなかった。 

    それが、今回の病気の原因、

    心身の行き詰りの原因なのだと判断をした訳です。



    A.とB.が強すぎて、C.がもたなかった、潰れたのです!


    こうなると、あらゆる困難、不調が起きます。

    体の不都合=病気だけではないわ。

    環境との不調和も同じく起きて来ると云う事です。



    それを確かめる為に、彼の誕生命式を立てました。

    初めて観た彼の命式は、それらしいものでした。

    それらしい... 誰にも頼らず、頼れず、孤軍奮闘する。

    まさに彼の負けん気に、体が付いて行けないのでした。。。

    40歳になったばかりなのに、、、

    肉体的には、働き盛りなのに。。。

    しかし、その真っ盛りに訳のわからない病気になる。

    でも、まだ幸運でした。

    命は亡くなっていませんから。。。      ほっ。




    男は、自分のプライドと欲、女の為に命を落とし、

    女も、自分の見栄と欲、男の為に、命を落とすー。  あっ!  あはは。

    どうなのでしょう?    今は?      あはっは。





    しかし、Fさんは、仕事を失おうとしています、、、。






    病名はない、強いて付ければ、心臓が弱っているのだそうです。

    治療の具体的な方法はないと、

    ただ、過労を避けて心臓に無理を掛けないようにと言われたそうです。





    Fさんの命式から分かる運命的な性分は、

    ★④元々の力よりも、自惚れが強い為に、

    無意識に力があるように振る舞って見せてしまうのです。 

    どう云った性格 ?    あはは。

    自分を、底から浚(さら)い出す性(さが)なの。

    あはは。 自分の底が見える?まで空っぽにするのね!

    一見、奮闘しますから、持つ能力より何倍にも見えるのね!

    あはは。

    ついには、本人も消耗し疲れ切ってしまうでしょうが、

    周りは、すごい人だって思い込んでしまう、、、



    やっぱり、そうだったのー、

    異様に思える位の頑張りだったわねー。

    どんな事にも折れないし、意地を張るし、負けず嫌い。 あはは。


    どこかそう云うものを感じていたけど、、、

    直接言えば、彼のプライドが許さない。   ほほ。

    いつもその場の、その時にちょうどの言葉を吐く。

    スキがないと云うのか、見事なまでのポジティブさ!


    あまりにも前向きの彼には、感じたままを、

    伝えておりませんでした。




    出来るか、出来ないか分からない事を、

    良い事だからした方がいいと言う。

    言葉が、先行する独特の性格です。

    実力以上に自分を大きく見せる性格。

    できる確信のない事を、良い事だと発言する性格。

    一応言った事を達成しようと努力はしてみるのです。

    見境なく、深く考える事もなく、です。

    そして途中失敗、と云うより、

    自分に無理だなんて気が付く事は、誇り高い自分に許せません。

    外観から気が付かないように、他のロジック(理屈)に乗り換えます。

    客観的には、物事は中途半端で放ったらかしです。

    結果的には、周囲を騙してしまうわね。


    まぁ、誰かに似ていませんか?     




    そう、民主党のリーダーたちです。

    言葉が先行して実行しない。

    どうしても実行しなければと云う気はもともと無いのに。

    いえ、実行どころか、発言した事で満足しているのです。 あはは。

    言って発散して、心の中は自己満足の完了形です!

    国民は、そこから期待が始まるのですね。   ★④


    なんとやっかいなー。(関西弁です)  あはは。   


    まったく、花火にそっくりです。

    打ち上げのドーンと云う音から、何かが始まると思う人の心。

    ドーンと云う音は、火薬の燃え尽きる音、

    もう、これで終わりと云う音です。

    あまりに最後が華々し過ぎて、

    その瞬間は、終わりの合図だなんて思えない人の心。


    結果、虚言になってしまう人物ばかりが、グループのリーダーです。

    そう云う人物が、選挙区で議員に選出されているようです。



    責任は選挙民ね!  華々しさの後が、 見抜けていないー。

    あーー、我々も反省しなければいけない!     ほ。    



    Fさんが、民主党議員より良いところは、

    体を潰すまで、本気で仕事をやり遂げようとした所です。

    又、国民に対して大言壮語を言っておりません!   あはは。

    しかし、結果はおなじです。

    巻き込む範囲は狭いですが、中途挫折ですね。

    そこが、微妙に民主党のリーダーとは違います。   あはは。




    今日は、

    Fさんに読むように助言をした『 呂氏春秋 』からの記事です。




    『 呂氏春秋 』シリーズは、2010年7月1日以来の記事になります。



    呂氏春秋について詳しくは、『 呂氏春秋 』 1 をご覧になってください。






    猛春紀・本生       (町田版 春の節3から)


    夫水之性清、土者拍之、故不得清。

    人之性壽、物者拍之、故不得壽。

    物也者、所以養性也、非所以性養也。

    今世之人、惑者多以性養物、則不知輕重也。

    不知輕重、則重者為輕、輕者為重矣。

    若此、則毎動無不敗。

    以此為君悖、以此為臣亂、以此為子狂。

    三者國有一焉、無幸必亡。 



    水の性は、

    もともと清らかなのに、土がそれを濁らせるので清んではいない。

    人も、本来は長生きするのを欲望が乱す為に長生きができない。

    金銭などの物は、

    本来が人の性を養う(長生きができるように助ける)物なのに、

    実際は養って(長生きできるように助けて)いない。

    今の世の人は、

    分別なく惑って、金銭の為に寿命を縮めている。

    このように、物の軽重が分からないために、

    値打ちのある重いものを軽く扱い、

    値打ちのない軽いものを重く扱うのだ。

    それで行動をするたびに失敗をしてしまう。

    こうした人が、政治をしたら道理に背いた悖主になり、

    こうした人が、官僚になれば秩序を乱し亂臣となり、

    こうした人が、子となれば狂人となろう。

    悖主、亂臣、狂人の内の一人でも、国にいれば、

    余程の幸運でもなければ、その国は必ず亡びる。





    国を、家、人に置き換えてお読みになってください。

    寿 の意味には、命の長いこと。長生き。長命と云う意味があり、

    もともと自然に合わせて生きる事が出来るならば、

    120歳までの寿命が、人にはある。

    と云うのがその基本にあります。




    それを、全うできないのは水を土が濁らせるように、

    人にとっては、その欲望だと云うのです。

    そして、命よりも大事なものはないのに、

    人は、その命を金銭の為に傷め傷つけて、

    まるで、金銭に命を貢いでいるようなものだと.....


    物の軽重が分からない人とは、

    『天』の道、

    『地』の理、

    道理が分からない人の事です。


    そう云う人が、政治の権力を握り、

    そう云う人が、官吏になって行う政治を、

    狂った子供の行動と同じに述べられています。


    国が亡ぶと....。



    家にても同じ原理です。

    人にても同じ原理でしょう。



    大切なものは、なになのか? 


    近代化以降、近代的自我を手に入れ、生きる武器にした我々は、

    自己の人権意識を拠り所に、

    自分が欲しいと思ったものは、誰にも束縛を受けないで、

    それを手に入れる為には、全力で努力をする事が正しい。

    そう、自分の欲望を全面的に肯定します。

    そして、

    価値観の多様化と言いながら、

    その欲望の達成に前向きに生きる事が、正しい。と

    ネコも杓子も、隣の人と同じように思い込んでいます。


    そうする事が、

    前に進むとか、ポジティブだとか、口で言い心で思いながら、

    人は、一生懸命に自分の欲の為に生きようとします。


    しかし、現実に起こってくる現象は、

    とても欲望の達成とは思えない光景が出てきます。

    治らない病気で挫折や、その結果の貧困であったりします。


    それは、目的と手段を間違えていないか?






    同じく、呂氏春秋より、



    仲春紀・貴生        (町田版 春の節22から)


    凡聖人之動作也、必察其所以之與其所以為。

    今有人於此、以隨侯之珠彈千仞之雀、世必笑之,是何也?

    所用重、所要輕也。

    夫生豈特隨侯珠之重也哉? 



    凡(およ)そ聖人の動作するや、

    必ずその之(ゆ)く所以(ゆえん)と

    その為す所以(ゆえん)とを察(あき)らかにす。

    今ここに人あり、随候の珠を以って千尋の雀を弾ぜば、

    世必ず之を笑わん。

    是れ何ぞや。

    持ちうるところ重くして、

    要むるところ軽ければなり。

    夫れ生は豈(あ)にただ隋候の珠の重きのみならんや。


    聖人の行動は、

    どんな目的で、どう行うかと云う手段とが明確である。

    今、ここに次のような人がいる。

    深い谷間にいる雀を、高価な隋候の宝石を弾丸にして打ったならば、

    世間はきっと笑うであろう。

    どうしてか?

    貴重な宝物を弾にして、捕ろうとする物が貧弱だからである。

    一体、人の命は、隋候の宝石よりも値打ちが無いのであろうか?





    よく読めば、笑いたくなります。  あっははは。


    呂氏春秋の秦の時代も、今も、目先の欲を優先するのは同じです。

    宝石を捨ててまで、雀を捕まえようとする。


    おーなんと?ーーー。 雀を捕ってどうするの?






    人は、一生懸命生きるゆえに、

    本来の目的を忘れて目先に囚われて、価値観の転動をしてしまうのです。

    それ故に、120歳の寿命を生きる人はいない。

    聖人は出現しない。 と言うのですね。



    聖人とは、自分の欲と力のバランスをとれる人の事です。




    何が一番大事なものなのか? 事なのか?

    それを忘れて、

    つい、そんな愚かな事を! 真逆を行ってしまう!

    ああ、滑稽さに笑ってしまう、、、、、、

    たぶん、私たちも同じような事をしているのでしょう。  あはは。




    生きる為に一生懸命に働きながら、

    その命を痛めつけ、寿命を縮めているのですね!


    明日、食べる為に働きながら、

    食べる食欲がなくなる位、命をお金の為に貢いでいるのです。



    皆がそうとは、言いません。

    そうなりやすい命式、性(さが)と、運を持っていれば、

    他人が引き留めても、そうしてしまうのです。。。  あは。



    凡人にとりましては、客観的にそれを知る事が、

    自分の癖がどうだと知る事が、恐くもあり、難しいです。



    呂氏春秋は、

    時代が変われど変わらない人の本性と云いますか、

    それを、じんわりと教えてくれます。




    今日の2題を、

    120歳の寿命を生きる糧に、   ほ。

    時々、読み返してみるようにしてくださいませ。

    えー、太くて短い方が良い方も、ご参考になさってくださいね。



    おろかなこと、かしこきこと、

    さぁ、そのどちらか?      ほほほ。




    良き一週間をお過ごしください。




































    参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫

             百家諸子 中國哲学書

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

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    『呂氏春秋』 5   異宝 ・ 何が宝か?     (受け取らないのが宝)

    Category : 呂氏春秋の世界
    中国の楼


    中国の楼










    今日は、2012年 1月 12日以来の『 呂氏春秋 』の記事です。


     異宝 ・ 何が宝か? (受け取らないのが宝)





    もしか、あなたが、こう云われたらどうしますか?


    畑を耕していたら玉(ぎょく・宝石)を見つけました。

    これは、私の宝物です。

    それを、あなたに差し上げたいので、受け取ってください。








    あなたの宝は、なにですか?














    《 孟冬紀 》・ 異寶(宝)         (町田版 冬の節113から)



    宋之野人、耕而得玉、獻之司城子罕、子罕不受.

    野人請曰 :「 此野人之寶也、願相國為之賜而受之也. 」

    子罕曰 :「 子以玉為寶、我以不受為寶. 」

    故宋國之長者曰 :「 子罕非無寶也、所寶者異也. 」  





    宋の野人、耕して玉を得、之を司城の子冠に献ず。


    子冠受けず。
       ( 冠の正字はカンムリの中が、ハに干 )



    野人請いて曰く、「 此れ野人の宝なり。


    願わくは相国、之が賜(たまもの)と為して之を受けよ。」


    子冠曰く、「 子は、玉(ぎょく)を以って宝と為すも、


    我は受けざるを以って宝と為す。」


    故に宋国の長者曰く、「 子冠は宝なきに非ざるなり、


    宝とするところのもの異なるなり。」





    宋の国の農民が、畑を耕していて宝石を見つけ、

    その宝石を役人の子冠に献上しようとしたが、

    子冠は、受け取らなかった。


    農民は請い願いながら言った。

    「 これは私、農民の宝です。

    どうか之を宝として受け取ってください。」


    子冠は、答えた。

    「 おまえは、宝石を宝としているが、

    私は、それを受け取らない事を宝としているのだよ。」


    そこで、宋の国の長者は言った。

    「 子冠は、宝がないのではない。

    宝だとするものが一般普通の人と違っているのだ。」





    子冠 = 実在の人物で、春秋、宋における賢大夫。

    「春秋左氏伝」の魯の襄公6年と9年(紀元前567、564年)に登場し、

    姓が楽、名が喜、字が子冠という宋の賢者。廉潔な人物として知られる。



    廉潔の意味……(私欲がなく、心や行いが正しい事、 清廉潔白 ) 





    廉潔な人物として知られる子冠という宋の賢者は、

    農民が自分の畑で見つけたと云う宝玉を、手ずから献上されても

    それを受け取らなかった。


    おまえには、それが宝なのだろうが、

    私は、それを受け取らない事を、宝としているのだよ。


    宝とする物=大事なものは、人によって異なるのだ。




    それぞれ、異宝(異なる宝)であると云っているのですね。

    いかがでしょうか?

    さて、あなたにとっての宝は ? 何でしょうか ?





    同じ「 異宝 」のこの後の段に、次のようにあります。




    今以百金與摶黍以示兒子、兒子必取摶黍矣.

    以龢氏之璧與百金以示鄙人、鄙人必取百金矣.

    以龢氏之璧、道之至言以示賢者、賢者必取至言矣.

    其知彌精、其所取彌精 其知彌觕、其所取彌觕.



    子供に、百金と大きな黍団子のどっちが欲しい?と見せたら、

    子供は、必ず黍団子を取るだろう。

    田舎の人に、和氏の璧玉と百金を見せたら、百金をとるのだろう。

    賢者に、和氏の璧玉と道徳の至言を示せば、

    賢者は必ず道徳の至言を取るものだ。

    その知が彌(いよい)よ精なら、その取る所も彌よ精であり、

    その知が彌よ觕(粗い)なら、その取る所も彌よ觕くなるものだ。





    このように、

    人の知の、精( 邪気が抜けた )の度合いによって、

    欲しいもの、手に入れたいモノが変わって来るのだと云うのです。


    現代文明における知とは、

    人間の意識が作ったロジックを理解する事や、その知識を持つ事です。

    しかし、

    以前にも書きましたが、中国古典の知とは、「矢」と「口」。


    「矢」は、自分に嘘があれば自分の命を断つ武器です。

    「口」は、「天」への誓詞(誓いの言葉)を入れた箱です。


    「知」とは、自分の命を懸けて真実の言葉しか言わないとの意味です。




    真実に命懸けなのですよ!   ほほっ。




    どこやらのイジメで真実を言わない教育委員会とは大違い!

    どこやらの原発事故で反省ができない電力会社とは大違い!


    もう、これらは、「知」以下なのですね!





    意識を最上とする学問体系では、

    単に知らなかった(意識しなかった)知識を耳で手で口で、

    聞き、書き、言え、憶える事が、知でもあります。

    習う側は、それでも良いにせよ、

    それを教える教師、学問の先生、学府の教授、

    命を懸けた「知」を頭に置いていらっしゃるのでしょうか?

    今の〝知”は、いにしえの「知」と比べれば、

    比較にならないシロモノですね !   あはは。





    その知が彌(いよい)よ精なら、その取る所も彌よ精であり、

    その知が彌よ觕(粗い)なら、その取る所も彌よ觕くなるものだ。





    彌よ精( いよいよ精)の「精」についてです。

    「精」とは、神のお供えをする米を選ぶ、と云う意味です。

    神前に汚れのない傷の無いお米を備える為に、一心に良い米粒を選ぶ。


    大変な、集中力と注意力がいる作業です。



    ● 『呂氏春秋』 では、 人間の気を


    「天・人・地」の三才における「人」の精気と云うものは、 

    天と地の間を上ったり下ったり活動して 巡り回り止まる事がない。



    と、述べています。



    ● 『呂氏春秋』 では、 天・地の気を


    「天・人・地」の三才における「天」と「地」の精気と云うものは、

    一年の季節の移り変わりの「気」として表現します。





    ●● その「天・地」の移り変わりの「気」と、

    「人」の精気は、結合をしている、 ≪ 我 即 宇宙 ≫ です。

    だから、「人」は、その季節にあった生活をして、

    政治も行わなければならないと、時令(時に合う規定)がされています。


    ●●● 「人」が、時令に従って生活し、適合した政治をする時にだけ、

    人や国は栄える。と述べられています。



    ●●● 時令に反し従わない時は、個人も国も災害が起こると述べられています。






    これは、

    後々の 『 天人相関説 』と云う考え方へつながって行きます。


    自然と人間との「気」を通しての「感応・かんのう」が行われる。 



    つまり、人間相互の気の交流と、

    人間界と自然との間の気が影響し合うエネルギーの交換、 交流相互作用

    が行われると云うのです。





    その知が彌精なら、その取る所も彌よ精であり、


    その「知」が、いよいよ精とは、


    あなたを含む人間界全体と、

    『天』の「気」との感応(エネルギー交流)が行われた時、

    『天』の気を享けた人の精気と云うものが形成されて行った時、


    その取る所も彌よ精であり、


    人は、何が一番大事か?

    何を一番最高の価値に置くか?

    が、

    その基準が、おのずと分かって来ると云うのです。

    そして、それに応じた『天恵』があると云うのです。

    それを知る事を、「知」と言うのです。





     


    喧(かまびす)しい政争の明け暮れの、

    政治が、時令に合っていない為に起こるさまざまの軋轢、

    『天』から降る未だ経験した事のない風雨、

    『地』が蠢(うごめ)く災害、



    消費税、社会保障、一体改革と言った処で、何が一体なのか?

    それは、「知」と言えるのか?


    原発、反原発、ウラン燃料の廃棄処理、


    どれもこれも国の「あるべき姿」が無いから、

    定まっていないから生じる漏ればかりです。



    漏れがある事を、「精」とは言わない。




    子供に百金と黍(きび)団子を見せれば、

    子供は、百金を捨て、かならず黍団子を取るだろう。


    田舎の人に、璧玉と百金を見せれば、

    田舎の人は、璧玉を捨て、かならず百金をとるのだろう。


    賢者に、璧玉と道徳の至言を見せれば、

    賢者は、璧玉を据え、かならず道徳の至言を取るものだ。



    この国は、子供なのか?

    田舎人なのか?

    賢者なのか?


    国と云えども、我々一人一人の集団であるからには、

    私たち一人一人が、どれを取るのか心で決めなければ...


    子供のままか、、、

    田舎人でいるか、、、

    いやいや都会人になって子供のよさも味わいたい?  あはは。



    意識が真っ先に感じるのは、まず苦ですか?  あはは。

    快と楽を抱えて、道徳を見習えないモノかって???   あはは。






    その知が彌よ粗(あら)いなら、その取る所も彌よ粗くなるものだ。



    楽を求めれば、五感の奴隷になり

    苦を避ければ、意識の餌食になってしまうのです。

    意識の餌食になれば、苦を避け、楽を求めて、鬼になれますよ!

    自分の楽の為には、他者の苦は平気になるのね!



    不器用な近代合理主義の国家は、

    経済の為に!、原子力発電を!

    原子力発電の為に、国民が我慢しなさい!    えっ?

    仕事が、雇用がなくなるんだよ。って?

    どこかで聞いたフレーズ ???


    8月になれば、思い出す。

    はるか60数年前、何の為に我慢をしなさいって言ったの?

    その時も、経済の為ではなかったの?

    あの時も、エネルギーを求めて、

    大東亜共栄圏を作るんだって、



    意識の作った絵空事の為に、国民を駆り立てて、

    国家への『大義』を押し付けて来て、

    もう、国民をおどかしながら、おびえさせながら、

    今、同じパターンに入っているって気がしない?


    もう、いい加減にしておかないと、

    意識の行きつく先は、『陰』の無視、命の殺戮です。



    今は、兵器を使わない殺戮戦です。



    まさにそうでしょう?

    今は、平和と言いながら、

    平和なりの殺戮と云うものが出来上がっているでしょう?

    兵器や銃を向けられるより抵抗ができないのよ。


    最愛の我が子に与える食べ物を求めれば、

    近代学問の作った化学毒で汚された食べ物を買うしかない、、、

    日本は、EUやアメリカよりもヒドイ!

    家畜のエサのような食糧を、平気でスーパーで売っている。



    遺伝子組み換えの商品を

    食べ続けると3世代目は、どうなるか分からないのだから、

    蝶の実験では、3世代目は幼虫の段階で、発育しないまま

    死んだそうです。


    こんな怖いものを、味噌や醤油や納豆に作らせ、

    毎日食べる物にして人間が食べているのは日本だけです。

    他国は、輸入禁止か、家畜のエサとしての利用だけです。




    これを、二元論的に云うと、

    精神が、偏狭な思想で汚されるのを放置する事は、

    肉体に、取り出せない毒を入れる事になるのですよ。



    つまり、下級な思想は肉体を汚す事が気にならなくなり、

    毒で汚れた血液からは、神経がやられ、堅実な希望が持てないのです。



    学校でのイジメと云う暴力事件、脱法ハーブ、未成年の性病


    仏教の経典で云う処の、

    『 毒気深入 』 そのものの姿です。

    何が尊いのか? 分からなくなっているのです。






    異宝


    さまざまな宝




    その中から、どの宝を選ぶか?


    その知に感応して、自然界からの現象が起こって来る。

    それが、災であるか、禍であるか、

    恵であるか、福であるか、

    感応によって自然界から引き出される同値エネルギー交換なのです。





    各々の知をいよいよ精にして、

    何も受け取らない宝を持って、

    この国を変えて行かなければいけないわ。


    広島、長崎原爆記念日、 敗戦記念日







    長い記事を最後までお読みいただきまして、

    感謝申し上げます。


    暑い日々が続きます。

    よき一週間をお過ごしください。































    参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫

             百家諸子 中國哲学書

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    『呂氏春秋』 6   天下非一人之天下也、天下之天下也   (東洋の平等観)

    Category : 呂氏春秋の世界
    中国の楼


    中国の楼











    今日は、久しぶりにカテゴリ ”呂氏春秋の世界 ”の記事です。

    前回より、8か月ぶりかな?

    もっと頻繁に書きたいのですが、いろいろあって、、、、、 あはは。




    呂氏春秋は、非常に好きです。

    呂覧(りょらん)とも言います。

    中国の戦国時代末期、秦の始皇8年(紀元前239 年)に

    秦の呂不韋が多くの食客を集めて共同編纂した書物。

    26巻160篇からなり、儒家・道家を核に、名家・法家・墨家・農家・陰陽家

    など諸学派の説が幅広く学べます。

    孔子の言の次の行に、老子の言が普通に出て来る思想空間です。

    いわゆる雑家の代表的書物で、当時の思想全般を知る事ができます。

    1年12ヶ月を春夏秋冬に分けた「時期」の12期の構成から鑑みれるのは、


    我々『人』が、『天』と『地』の間で栄えるには

    『天』の恵み、『地』の安定を得るには、

    ーーーーー 決して私欲に従うのではなく、

    『時』に沿って行く事が重要であると云う示唆です。





    これは、繰り返し繰り返し述べられています。





    『時』こそが、

    『陰』そのものの『陽』・現象界へ与える表現であると云うような

    『陰』の創造性を『陽』の世界に現象化する力、エネルギー、

    我々を生から死へ、又生へと運んでいくものであると云うような、、、

    そう云う示唆に富んだ内容と思っております。




    『天』の道、『地』の理(ここから地理と云う言葉ができた。)=

    -------- これが道理と云う言葉になる訳ですが、

    これら『時』・道理を無視をして、

    自分の欲・私欲だけに囚われ従って生きる事を強く戒めています。

    それは、自分の欲すらも叶えられない、

    自分の足場を失くす生きざまに陥るしかない。と、言うのです。


    まさに、現代人の病理を言い当てているようです!



    今も変わらぬ人間の欲を、どう裁き、どう旨い永遠の料理にするのか?

    これが、東洋の英知の追及でした。


    ここが、欲望の満足境(天国)を渇仰する西洋と違う処です。
     


    ◎ 東洋は、欲にまみれた意識を疑う処から出発しています。

    直感的に、東洋は見抜いていたのです。


    意識が欲望を適切にコントロールできない事を!!!  あはは。

    言い訳ばかりをして、へリクツばかりを作るのが上手なのを!!!


    ったく!  あはは。


    だから、自己の欲望をコントロールする規範を

    自己の中に求めずに、

    欲にしがみつく自分の意識を信用などしないで、

    『天』や『地』の調和の姿にそれを求め、宇宙の摂理を探究したのです。


    ーーー その結果、

    自然、宇宙に具わった摂理が、自分の中にも在る。

    宇宙即我 ・・・・・その事を発見したのも東洋の叡智です。


    これらの方向性は、西洋哲学、思想にはまったく無いものです。



    現に近代合理主義が爛熟した21世紀の今、

    我々の目の前にあるのは、

    我々を欲に狂騒させる欲望の肯定の上にある経済至上主義と、

    その為に弱き意識を脅す為に持つ大国の大量破壊兵器、

    今は、その論理に則って北朝鮮など経済的に弱小な国まで、

    自国の存在をなぎ倒されない為に、核武装を着々と進めている。

    それをどうしようもできない大量情報伝達・マスコミ、知識偏重社会。

    宇宙自体を意識で探査する物質の世界としか見ない科学。

    知識は膨大に膨らみ殖えるけれども、その中に智恵は一つもないのね!


    あはは。  たしかに、彼らを知識者とは言うわね! 

          知恵者とは言わないわ、、、



    われわれを包む濃霧は、

    自然のありのままの中に生きる我々の存在を無視して、

    無理やりに我々を意識で作り上げた人工疑似自然空間に隔離幽閉した

    キリスト教的自然観、人間観を根底にする近代合理主義社会です。




    呂氏春秋の思想空間は、それらとは、全く違うと云う事ですね。 




    呂氏春秋の言葉や語句を見れば、堅苦しい? と思いきや、

    それらが志向するのは私欲から解放された普遍的な自遊空間、

    (自由ではありませんわ!)     ほほっ。

    それらが志向するのは私(わたくし)しない平等観です。


    どうか、「呂氏春秋」の世界の中に身を浸して、

    現世の灰汁にまみれた我が身を洗い清めてくださいませ!   あはは。








    では、本論へ進みます。






    《 孟春紀 》・ 貴公      (町田版 春の節11から)



    天下非一人之天下也、天下之天下也。

    陰陽之和、不長一類。

    甘露時雨不私一物。萬民之主、不阿一人。



      --- 中略 ---


    天地大矣、生而弗子、成而弗有、

    萬物皆被其澤、得其利、

    而莫知其所由始、此三皇、五帝之德也。 





    天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なり。

    陰陽の和は、一類を長ぜず、

    甘露時雨(かんろじう)、は一物を私(わたくし)せず。

    万民の主は、一人に阿(おもね)らず。


      --- 中略 ---


    天地は大なり、生じて子とせず、成して有せず。

    万物皆その沢(たく)を被(こうむ)り、その利を得るも、

    その由りて始まる所を知るなし。これ三皇・五帝の徳なり。 





    天下はだれか一人の天下と云う訳ではなくて、万人の天下である。

    陰陽の調和は、(生き物の)一種類だけを成長させるものではない。

    時節に叶って降る雨は、(生き物の)一物だけに恵みを与える事はない。

    万人の上に立つ君主は、一人だけを依怙贔屓するものではない。


      --- 中略 ---


    天地は偉大である。

    物を生み出しながら私物化せず、作り出しながら所有しない。

    万物は、すべてその恩沢を受け、その利益を享受しながら、

    それがどこから始まってもたらされた恩沢や利益か考える事もない。

    いにしえの三皇・五帝の治世が、そうであった。




    過去、2010年 7月13日の記事に次のように書きました。


    『呂氏春秋』の

    天下は一人の天下に非ず。

    天下の天下なり。


    命は自分だけの一人の命ではない。

    すべての命は、大宇宙の命から生まれた命なのだから、

    =大宇宙の命なのだ。

    大宇宙のリズムに合わせて生きることが長生久視を叶える事だ。

    と言うのです。



    これが『天の道』です。

    『天の道』に順じることが命を謳歌できる事であり、

    それを邪魔するのが自分の欲である。

    自分の欲の満足の為と言って結果は『天の道』に逆らって生きる。

    その事を「私欲」と言う。


    「私欲」を去って、「公」に生きるとは、


    あくまでも、宇宙をひとつの生命体と見て、

    そこから生まれ出る事を可能にした地球の恵まれた状況、

    命をはぐくむ条件を満たしてくれる太陽と地球の恵まれた状況、

    その命を今現在のあなたまで継承してつないでくれた恩人、

    それが、直接的には両親。 

    それ以前の両親の親達。 先祖と言う事になります。

    お分かりになりますね。

    いのちの継承の筋です。


    それが、『孝』に、道徳の最高価値を置く理由になります。


    単に、親孝行、何かをプレゼントをすることが親孝行、

    そんな目先の行為をさせる為だけの、『孝』ではありません。

    それでは、幼稚園レベルと変わらないではありませんか? (笑い)


    小学生に教科書で教える道徳とは、

    困ったお年寄りに席をゆずりましょう。等が道徳という事に

    なるのでしょうが、

    それは、ずっと先のほうで派生する枝葉であって、

    根本的な本質は、この『天の道』から、『孝』へと導かれる

    中にある筋であって、ここを外してはいけません。




    全ては、これに尽きるのですが、

    『孝』の普遍性は、自分の両親、先祖だけにとどまりません。

    全人類で、、、     大きく出ましたでしょう?    ほほっ。


    『天』の恩恵を受けている生物皆、

    『天』の恩恵を受けて生じた物皆、


    と云う事になりましょうか、、、、、   あはは。


    大変な深いお話になりますので、今日は簡単にします。

    また、機会がある時に、記事にしたいと思っています。





    今日は、ついでですから、

    『天下』と云う言葉について、世間にさまざまな曲解があるようですから、

    それらをここに、書き留めておきましょう。




    たとえば、

    ◎ 「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり」と云う言葉を、

    徳川家康の言葉として紹介している場合があります。


    又は、

    ◎ 「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と

    吉田松陰が主張していたと紹介をしている場合もあります。


    これらは、徳川家康吉田松陰が始めた言葉ではなく、

    紀元前3C、呂不韋によって編纂された『呂氏春秋』を原典とする言葉で

    あろうと思われます。

    おそらく、彼ら二人も中国の文献として『呂氏春秋』を学んでいたか、

    学んでいた師匠についてそれを会得していたと思われます。


    ◎ 福沢諭吉の「学問のすすめ』の

    「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」という一節の

    「天」と云う言葉についてです。


    まず、その前に「云ヘリ」は、天が言ったというような意味ではなく、

    どこそこでこのように「云われている」という引用の意味です。


    この有名な言葉全体も、実は福沢諭吉の言葉ではなく、

    アメリカ合衆国の独立宣言からの引用であれば、

    この場合の天とは、キリスト教の神であろうと思います。

    また、諭吉が1871年(明治4年)に、2人の息子たちの道徳教育に書いた

    「ひびのをしえ」と云う小冊子に、

    -----「てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがふべし。

    ただしここにいふてんとうさまとは、にちりんのことにあらず、

    西洋のことばにてごっとといひ、

    にほんのことばにほんやくすれば、ぞうぶつしゃといふものなり」。

         ・・・・・中略・・・・・・

    父母のいきしにはごっどのこころにあり。

    ごっどは父母をこしらえ、

    ごっどは父母をいかし、また、父母をしなせることもあるべし。

    てんちばんぶつなにもかも、ごっどのつくらざるものなし。

    こどものときよりごっどのありがたきをしり、

    ごっどのこころにしたがふべきものなり」-------


    と書かれてある処からも、

    キリスト教の神を受け入れていたのが分かります。

    諭吉は、世間的にはキリスト教排撃論者として知られていました。

    が、後に、

    キリスト教を一時的とはいえ排撃した事は誤りであったと自己批判し、

    日本の独立の地位を保つ為には、キリスト教という欧米文明と同じ

    色の宗教を盛んにする事が必要だと述べています。
      




    諭吉の天は、東洋的な天とは明らかに違います。

    キリスト教のGod です。 今後、区別をしておいてください。


    実は、この事を知って腑に落ちた読者も多いのではないでしょうか?

    日本の近代化が、現在の状態のように完璧に行われた本当の理由です。

    単なる国の政策、制度上としての近代化ではない、

    命の底から遺伝子レベルから近代化に犯されている日本を知るにつけ、

    これは、タダならぬ気配・・・魂からキリスト教的な社会を憧れ、

    真にそうなろうとした人間がいたからこそ!  

    現在のような日本の近代化が完成しているのです!!!


    近代化の事を考えるたびに、そう思ってきました。

    随分前から、そう思ってきました。

    それは、だれなのか?

    当時の為政者、知識者、近代化推進者たちが、この諭吉のように、

    本音の処で、キリスト教へ改宗をしている位の傾倒をしていたからこそ、

    現在の近代化の完成された姿に日本がなっているのです。

    当時の知識者たちは、本気で近代化を成し遂げたのです。

    それがどうなる事か、思想を吟味もせずに、、、です。


    そう云う意味において、

    日本には思想家がいなかったのですね!    ほほほ。


    近代化が、欧米以外で、完成されたのは日本だけです!




    実は、これで私の長年(中学校で諭吉の学問のススメを習った時以来)の

    諭吉に対する不信感が腑に落ちたのです。

    東洋がなんたるかを知らないレベルの10代の私の心には、

    人の上、人の下と云う言い方はイイ事を言っていると受け入れるには、

    当時なぜかは分りませんでしたが、違和感がありました。

    日本人ではない? この言葉に、東洋的でないニオイを嗅いでいました。

    心に影を落とした福沢諭吉と云う人物には、

    この時から?が付いていたのです。

    得体が知れない、と言った方がいいでしょうか。。。

    東洋的でないというはっきりしたニュアンスではなく、

    生活の中で漏れ聞いて来た普段の両親や周りの大人の言葉の端から

    感じるモノとは違う!! どこかおかしい?

    人を扱う言葉として、人があるべき道理を言い当てるのに、

    上や下と云う表現を用いる事すらが不適切と、

    体のどこかが受け止めていたと言った方がいいのでしょうか。。。

    頑固に、受け入れられなかったのです。

    なによ! と反発を感じていた、、、

    今、考えれば無意識の便り、皮膚感覚で痛い!と感じていたのです。

    長年、この事を誰にも言う訳ではありませんでしたが、

    その点を確認するまでは、

    諭吉をどんなにエライ人だと世間が言おうが、

    私の心の中では、それに迎合する気はありませんでしたの。  ほほっ。


    東洋学をするようになって、諭吉に対する疑いはますます濃くなり、

    最近、諭吉がキリストの神を受け入れていたこの事実を知った訳ですが、

    納得すると同時に、なぜ、私の子供心に違和感があったのか?

    今更ながら不思議な思いがしています。


    私の前世が教えてくれた?   あはは。

    この事から再確認したのは、

    物の在り様や言葉に対する疑問や不信は、決して曖昧にせずにいれば、

    何時かは、必ずその実体が観えるようになるのだと言う事です。





    しかし、現在、学校教育においてさえ、「学問のすすめ」の天の意を、

    未だに東洋的な天の意で解説している教師の方も多いと思います。

    間違いは、訂正されなければいけません。



    個人的な宗教の自由は、認められてはいる問題ですが、

    政治家、公人性の強い場合は、それも考慮しなければいけませんね。

    ちなみに、自民党の石破氏、麻生氏はクリスチャンです。

    他にも、大勢いらっしゃいますね。 

    なぜ、自民党の政治家にクリスチャンが多いのか?

    興味がある方は、ここへどうぞ!




    本論へもどりましょう!

    ここからが、大事です。

    むずかしいかもしれませんが、読むだけでも、、、




    『人』=『天・地』と云う自然観や宇宙館は、西洋にはありません。

    『人』=地球・自然・宇宙と云う世界観は、東洋の叡智です。



    『地』の形態が、『人』の為すすべを生み、

    『地』の様相が、『人』の従う則を決めるのです。

    『地』の『理』が、『人』の『紀・き』を定める。

    『地の理』が、『人の紀』へ通じて幸いが実現されます。

    ここで、『地』と『人』とは、一体なのです。




    『天』もそうですが、『人』は、『天・地』自然と一体なのです。


    東洋の、我即宇宙と云う叡智は、

    西洋の意識・観念が作文する”自然と一体感を持つ”

    ”自然と共生をする”などと云うような

    意識に心地よい、耳に聞き良い、美辞麗句でもなく、

    表現上の言葉のアヤなどでもなく、

    見て綺麗な幻想のおとぎ話の挿絵でもありません。




    実在の『天・地』から『人』の存在までを一体と観る叡智です。



    実在の心と身体に、その行動へ作用する『天・地』の力を観じた

    東洋的な智恵なのです。


    その根は、無意識にあります。


    意識では、感覚器官では捉えられない真実とでも言いましょうか?





    東洋は、わざわざ自由だ平等だと概念で区切りませんのよ。 あはは。

    区切らなければいけない事こそが、幼稚、稚拙だと思うのですが、、、

    誰かの自由は、その隣にいる人の不自由かもしれませんし、

    すべて平等だというのは、

    愚かな尊卑相対化と人間の均質化を進める蛮行でしかありません。

    選挙権が平等にある。と云うの等はOKですよ。   あはは。






    天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なり。

    陰陽の和は、一類を長ぜず、

    甘露時雨(かんろじう)、は一物を私(わたくし)せず。

    万民の主は、一人に阿(おもね)らず。 



    西洋的平等感のようなものは、東洋にはワザワザありませんが、

    強いて言うなら、この上段の部分は、東洋的平等観とでもいいましょうか、


    そして、また、



    その下段の部分、


    天地は大なり、生じて子とせず、成して有せず。

    万物皆その沢(たく)を被(こうむ)り、その利を得るも、

    その由りて始まる所を知るなし。これ三皇・五帝の徳なり。 



    ここは、束縛、支配、所有から解き放たれた東洋的自由観でしょうか、



    西洋的概念、人間の意識の中にしかない、人間の観念で作った言葉、

    実体のない絵空事の自由、平等とは全く違う --------------


    無意識・『陰』--------------------- あたりまえのように存在する

    自然そのものを受け入れれば ------------------ すぐそこに実在する

    ----------- 誰もが知らない内に恩恵を受けている。



    これは、圧倒的な平等ですよ!    あはは。



    無駄に使おうが、役立てて使おうが、まったく自由です!   あはは。



    ただし、ただしです!

    『陰』におけるありさまは、そうですけれど、

    一旦、欲を帯びて『陽』の現象界へ生産性を具現すると、

    そこは、厳しい差別の世界なのです。

    動機も不平等なら、得る結果も不平等です。 不自由です。

    いかに、不平等か?

    いかに、不自由か?

    は、各々の陰徳の蓄えに由ります。

    『陰徳』の蓄えは、各々の『陰』を尊ぶ業に因る訳ですから、

    まったくのごまかし、要領、依怙贔屓はききません。



    どれだけの『陰徳』を積もうとするのか?

    それすらも、まったくの各自の自由です。

    ただ、その結果は掛け値なく、差し引きなく、あなたの業の果です。



    この法則において、摂理において、われわれは平等に扱われています。

    『天』は差別をしません。

    『天』は依怙贔屓をしません。

    『天』は狡さを見逃しません。

    『天』は『陰』を尊ぶ業も見逃しません。



    全きの平等な天下です。


    さあ、安心をして生きていきましょう!

    『天』を信じて、、、







    東洋的叡智ともっと仲良くなってくださいね。   ほほっ。










    長い記事を最後までお読みいただきました事を

    感謝申し上げます。




    次の更新まで、よき日々をお過ごしください。






    今夕より、奈良へ参ります。

    吉野山の桜が携帯カメラでよく撮れるといいのですが、、、


    ほほっ。


































    参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫

             百家諸子 中國哲学書
    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 哲学/倫理学
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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