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    毘盧舎那 /天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その1

    Category : 運命学と歴史
    川面・夏

     過ぎ去った 夏の日の思い出 川面












    先日、東京国立博物館の平成館へ


    光明皇后1250年御遠忌記念特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」  

    を見に行って来ました。

    館内は、年配の人たちは、もちろん思った通りでしたが、

    若い男性が一人でぷら~っととか、小中校生の親子が多かったですね。

    もっと、女性が関心を持ってもらいたい。  そう思いました。

    なぜ? 

    女性が幸せになれるかどうかというテーマなのですから。




    まず、いつものように、いただいたコメントを紹介します。


    教育のおはなしを興味を持って読みました。

    何事も、お体裁ではいけない、そこで差がつくのでしょうか?

    今日の記事もさりげなく、

    気がつかないくらいに運命学を教えてくれています

    が、最後は、運命学は家族や家庭なのですね。

    いまの時代はまるで反対の方向へ進んでいるような気がします。

    家から出て、家族から離れて、

    血縁と関係ない事が大事という様な感じです。



    その通りですね。

    運命は、個人や、家族や家庭に表れるものです。

    個人もそうですが、家族というものは、意識で選んでいるようで選べない。

    家族との出会いは、無意識の運命そのものなのです。

    だから、自分の意識で、家庭や家族のお体裁を取り繕う事は無理です。

    どんなに取り繕っても、子孫が2,3代経る頃には、


    『天=時』が、すべてをまる裸にします。 嘘はつけないのです。

    そして、重要なのは命の継続です。

    その決定は無意識の領域で為されます。



    丁度、前回までのブログ記事の内容が、

    宇宙、地球と天上へ広がっていましたので、(笑い)

    今回は、運命学によって、人間界へ降りて行きま~す。 あはは。



    よろしいでしょうか?

    過去に学びましょう。

    天武天皇流の天皇の女系化、系流の断絶に観る運命学。

    過去から現在に至る記事になると思います。






    私が、こういう展覧会を見に行くのは、

    日本の美術、歴史だけを見たいと思うのではなく、

    歴史の中に展開される人の運命の縮図、それを確認するためであり、

    運命学の正しさのための研究のひとつと思って行きます。

    数年まえから、気になっている題材、 『女系化による絶家』 

    毎年、正倉院展に行くのも、そのひとつです。






    今回のメインテーマである ”奈良の大仏さん”は、

    よく知っておりますので、

    大仏さん(関西では大仏さまと言わないでこう言います。)が、

    目的ではなくて、( 大仏さん、ごめんなさい! あはは。)


    目的は ”光明皇后 ”と天武天皇系の天皇の周辺です。


    この辺りは、日本史のなかでも非常に人間くさい、

    ドラマチックな人間模様があって、

    運命学にとっても非常に参考になります。




    また、日本の地に建ったあの大仏さんが、

    どうして華厳経の盧舎那仏であったのか?


    仏教上の意義、社会的な意義の両面に疑義が、あります。


    なぜなら、このような大規模な建設工事は膨大な国費を浪費させ、

    国内の財政事情を悪化させるという事実を突き付けたはずです。

    当時はやはり、貴族や寺院が富み栄える一方で、

    農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、

    租庸調の税制が崩壊寸前になる地方も出るなど、

    律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにしたのです。


    関西大学の宮本勝浩教授らが、

    平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、

    創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると

    約4657億円と算出されたそうです!


    この部分は、ウキィペディア参照



    統治者として、そこまでする社会的意義があるのか?


    まったく、現在の政治家、今の日本の現状と瓜二つではないですか?

    社会的には、まったく破綻をした事業であったとしても、翻って、

    仏法上の意義において、

    毘盧舎那仏を、ここまでする真の意義が、あったのか?

    本当にあったのか?

    ずっと、疑問に思っていました。




    こう言うと、不思議に思われるかもしれませんが、

    実は、釈迦は一生の説法の間に、

    さまざまな名前の仏の説話を残しています。


    初めて読んだ時に、

    一体、これらの仏群は、どういうこと?!

    と思って読むのを止めようかと思いながら、、、(笑い)

    、”おもしろくない!”

    西洋の観念的な哲学の本を読む時に

    脳細胞の全体が休止してしまったように感じる、あれです。

    いわゆる、知る事に体が喜んでいないのです!  あはは。


    その中の、どの仏が、本当なの?

    本当に実在したのか? 実証できない、、、


    中には、譬えの説話の中で釈迦自身の過去世の修行時代の姿を、

    別名で語っている場合もある。

    東西南北、中央に5種の仏を配置しています。


    まるで将棋の駒じゃないのだから、、、あはは。 


    その必然性は? 

    おとぎ話を知りたいのじゃないのだから、、、

    毘盧舎那仏は、5種の中のひとつになるわけです。


    説法の上での便宜上とか、方便として?

    釈迦の観念の中だけに存在する架空の仏を説いたのか?


    大疑は、大悟へ通じるといいます。

    何事も、そのままを受け入れずに、自分の命で消化しましょう^^





    疑っていいのです。

    哲学、思想には厳密な正確性を! 真実を!

    生活には闊達な柔軟性を!  です~!”



    経文上の事が、事実であるならば、

    理論的にも証明されて、

    尚かつ、現実に証拠がない物は信じられないという、

    観念論大嫌い!(笑い)の実証主義の私にしたら

    我慢できない! 点なのです。



    あはは。 

    まぁ、そういう事などを、


    今回から、何回かに分けて、日本史の中を、運命学的に観ながら

    記事にしたいと思っています。

    歴史を少し、わかりやすく詳しく書きながら進めていきます。

    面倒がらずにお付き合いくださってお読みください。

    天皇の家族関係、家系の流れが主題です。





    なぜ、光明皇后なのか?は、

    後、記事の中でお読みいただくとして、


    その前に、関西人が親しみを込めて ”大仏さん ”と呼ぶ

    盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)と、

    当時の仏教についてから始めますね。




    サンスクリット語のVairocana( ヴァイローチャナ )

    音写(音をそのまま表した訳)が、毘盧舎那です。

    毘を頭につけて毘盧舎那(びるしゃな)というのが正式かな?


    意訳では、光明遍照、浄満など他、いろんな意味になるようで、

    宗派によってさまざまであり、一様ではありません。


    だから、

    あたり障りのない音訳の”びるしゃな ”を普段使いするのでしょう。


    さまざまの宗派において、

    毘盧舎那という仏は、格付けも扱いも違います。

    要は、仏としてのステータス(地位)が違う。のです。

    ある宗派では、仏ではない。

    そういうのだってあるのですから。

    簡単に言うと主格、脇格、古仏(もう、役に立たない仏)扱いなどです。

    ある宗派では、本尊になっていると思えば、

    ある宗派では、排斥されている。


    どうなってるの~? と初めは思いました。


    同じ仏教と言っても、宗派によって真実が違うのですね。

    それも、また、おもしろいです~!

    なぜ、違いが出てくるのか?

    仏が、いろいろ~ではないの。

    人間が、いろいろ~なのです! (笑い)



    そういう宗派同士が、現実の世界では寺領を隣同士になって仲良く?

    か? どうかは判りませんが、

    東京の谷中に行きますと、

    あらゆる宗派のお寺が集まっていますね。

    ご近所でもう、何百年もやっているのですよ。


    それが、世間というものでしょう。


    だから、どうでもいい事のようですが、

    人間が認識すると言う事は、どんなに不確かなものか、、、

    認識の不確かさから来る”災い”も多いですから注意しなければ、

    根本はなるべく見極めて、慎重に行きたいと思います。

    大事な事ですね!



    という事で、この続きは、

    次回へ廻したいと思います。


    これは、目で見える世界の、もっと奥の

    見えない世界の事です。

    現実を制する為には、その奥を、

    もっと億を?  あはは~!



    もっとも、億円なんていう物質文明から遠い事象です。

    現実の世の中の物質文明のホコリを、払いたいのなら、

    丁度いい按配のものです。







    おたのしみに。。。


    今日は土曜日、

    明日は日曜日ですね^^


    よき休日をお過ごしください。

















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    宗派 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その2

    Category : 運命学と歴史
    ★稲荷山中

    高尾山の登山道・稲荷山の頂上付近














    今回は、前からの続きです。


    ”同じ仏教と言っても、宗派によって真実が違うのですね。

    それも、また、おもしろいです~!

    なぜ、違いが出てくるのか? ”


    ここからですね。


    まず、前回の記事にいただいたコメントの紹介から、、、



    おっ!これから・・・と思いましたら、

    「よき休日を・・・」になってしまいました(笑)。

    運命学からみる日本史・・・楽しみにしています。

    「仏が、いろいろ~ではないの。人間が、いろいろ~なのです!」

    に妙に納得しました。




    ほんとうに、あはは~ ですね!(笑い)


    私も前回の記事がいつもより短く終わったなぁ、と思いながら、、、あは!

    内容的に丁度の所で切りましたら、ああなりました。

    あのまま続けたら、10m位の記事になったいたかも? あはは。

    そうです! 今日はその長くなる内容ですので、

    お疲れなきようお付き合いください。



    なぜ、いろいろな宗派の違いが出てくるのか?


    大雑把に言うとそれは、おそらく、

    1、釈迦の弟子の段階で、各々の弟子の悟りの解釈に差がついている。

    2、釈迦自身の年齢的なタイムラグにおける悟りの進化の違い。

    3、仏教が伝わる段階での、人間的解釈、伝播するタイムラグによる時代

    の解釈の変化の差。

    などが、挙げられるでしょう。


     

    何時か必ず記事にしたいと思いますが、1,2、は、今回は省きます。

    3、の“ 仏教が伝わる段階での、人間的解釈、伝播するタイムラグに

    よる時代の解釈の変化の差 ”と、

    天武天皇系に至るまでの“ 倭国における内政的な流れ ”を

    追ってみます。



    そうしないと此の記事が、何十mにもなりそうです。  あはは。

    よろしいでしょうか?







    宗教と言っても、呪術政治が行われている倭国の時代において、

    庶民にとったらお上の言う事に従うしかないわけですし、

    お上と言えども、朝貢(ちょうこう)貿易の相手国である中国からの文物

    ですから断るわけにもいかなかった、当時の事情がありました。

    朝貢貿易については、次回詳しく記事にするつもりです。


    インドからの仏典は、サンスクリット(梵字)で書かれています。

    中国において、

    その経典を漢字へ書き直す(漢訳)事業は2世紀後半から始まり、

    11世紀末まで、ほぼ間断なく継続されていました。

    中国に伝わり根を下ろした仏教は、

    南北朝時代(439~589)に多くの教派、宗派が発生していて、

    隋から唐にかけて興隆を極め、中国の思想界を支配していました。

    インドから伝わった仏教は、中国で大流行をし、多くの仏教学者を生み、

    中国国内でも、さまざまの経典が書かれたのですって! 


    初めてこれを知った時、へぇ~と思いました。

    釈迦以外の人間が書いても経典になるんだって、、、


    それらは、大蔵経もしくは一切経(いっさいきょう)と呼ばれる叢書に

    まとめられます。 この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、

    後世に影響を与える大蔵経・一切経が完成したのが、730年です。

    日本に仏教が伝わったのは、それが完成する前です。

    従って正確に言うと、伝わった仏教は、一切経の一部だと言えるでしょう。




    しかし、どうでしょう?

    私達もそうですが、思想において、初めて自分が受け知ったものが、

    その一部という認識を持つでしょうか?

    受け取った思想すらも、完全に咀嚼消化していないものを、

    目に見えない次なる仏教の変化した教えが伝わったとしても、

    先に受け入れたものを仏教の全体であるとした認識は、変え難い。

    何事も新しく、変化を受け入れて古いものを更新していく事は必要でも、

    それが、為されるという事は不可能に近いでしょう。

    例えば、物なら、見た目にも変わる変化を捉える事もできますが、

    今、PC位の物ならバージョンをこうだ、ああだと判りますが、

    目で見えない、鼻で嗅げない思想的なもの、宗教、哲学が

    一旦入ってからの上書き、更新を続けていく事は難しいですね。


    ある意味、伝統を守るという価値の側面を重んじる事に重点を置けば、

    そういう流れが、宗派という固定を生み、今に至っているのでしょう。

    しかし、何が、釈迦の教えの主流なのか? 眼目なのか?



    何が、釈迦の残した真実なのか?  

    それを見極める為にも、中国の皇帝たちは、

    仏教の総まとめ的な仏教総覧大百科とも言うべき大蔵経・一切経の編纂

    をおこなったのでしょう。

    そのおかげで、それ以降の仏教を志す出家者は、大蔵経・一切経

    備えてある寺院に籠もってそれを読破するという所から仏教の勉強が、

    できるようになったのです。


    大蔵経・一切経は、経・律・論を合わせて「三蔵」と呼びます。


    「経」とは、釈迦が説いた教えを記録しているもの。

    「律」とは、弟子が書いた修行法や戒律に関するもの。

    「論」とは、高僧が経典を注釈したもの。  



    当時、中国へ仏教を学びに行くと言っても、

    一切教を全て学び終わった者が行く訳ではないですから、

    それぞれの宗派の違いや間違いを認識選択してから行くのは無理で、

    初めて仏教の経典とまではいかなくても、

    律でも論でも、一巻を手にしたら、

    ”これが、仏教だ!”と思うのは無理もなかったのでしょう。


    遣○使と言うのは、当時、国費で留学をさせていただいているわけです。

    帰国すると、”これが、カノ有名な仏教です!”と、

    実際の巻物を何十巻も手にして持ち帰るという実績を、

    報告をしなければならないわけですから、、、。



    何時の遣唐使の、誰が、どの宗派の、誰に出会い、

    仏教経典のどの「経」を、

    又は、「律」なのか、「論」なのか? 何を手にすしたのか? 


    それは、選ぶというよりも、自分がどういう仏教の教えを実績として

    持ち帰れるかは、出会いの『運』そのものだったのでないか?




    しかし、事は重大です。

    宗教 = 宗の教えですから、その哲学が間違いなら、

    すべてが滅ぶわけです。


    だから、中国では南北朝時代に、

    南三北七(なんさんほくひち)という十の宗派が入り乱れているのを

    見かねた天台大師が、それらと論争をして論破をしています。

    南の揚子江流域の三宗派と、北の黄河流域の七宗派が相手でした。


    論破の論拠は、たとえば、

    釈迦の一生の間の化導(民衆を導いた)をした『時』代を五つに分け、

    又、一生の間に説いた教えの内容の全体を八種類に分ける

    『五時八教』を立てて、釈迦の全ての経典の浅深優劣を示して、

    法論をして十派を整理したのです。


    ちなみに、それを伝え聞いた当時の日本の天皇、

    第50代・桓武天皇は、

    天武天皇系の、平城京における、

    肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い

    中国の天台の教えを日本に正しく伝えたいと願って、

    その実現をする事を最澄に命じます。


    桓武天皇に中国の天台の教えを日本に伝える事を命じられた最澄は、

    この時期すでに、天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に

    任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていました。


    最澄と共に、乗った船は違いましたが、

    同じ時期に遣唐使として許された空海が、最澄と同時に入唐したのが、

    803年です。

    律令制度下において僧籍に入るには、

    年に一定数の得度しか許されない決まりがあって、

    原則は定員10名で、試験に及第して官許されるものでありました。

    それにもかかわらず、

    僧には課役を免除される特権があった為に、

    税を逃れようと官の許可なく勝手に僧となる農民などが、

    たくさん出て来て、それを私度僧と言います。

    ついでですが、空海については、当時の身分は「私度僧」でしかなく、

    どうして遣唐使の一員になれたのか未だに不明なのです。



    最澄のように、勅命の目的があって遣唐使で行く者もあれば、

    そうでない者は、遣隋使や遣唐使で中国へ渡航した時に、


    その時の中国の仏教界で、何が、真実と注目されていたのか?

    それには、時の皇帝や、仏教界の実力者によって変化もし、

    それぞれの認識の間の差違いが生じるのは当たり前だったでしょう。


    考え方や、法は、人に依って広まるものです。

    もっと言えば、人格に依って、広まりもし、廃れもする。

    そういう一面が、あるのは間違いのない事でしょう。

    また、情報が多く集まる所では、量的にも、時間的にも、

    先進と思っていた知識が、古くなるのは早い。

    スピードがあるのは、今と同じです。




    しかも、隋、唐あわせて遣唐使は600~894年まで、約300年間

    続きました。 その間に情報量的、時間的にも、世の中は変わります~


    今の日本の300年前は、江戸時代です。 

    江戸時代に日本を学びに来た時に外国人が持ち帰ったものと、

    今のを比べるとどうですか?  違って当たり前です。

    その位、知識というものは、『陽』ですから、”ご用心!”なのです。

    『陽』は時と共に、移ろいます。 知識とは、そういうものです。


    その間に、中国の仏教の様子も変わったでしょうし、

    なにしろ、当時は、仏教を、まず先進の『知識』として持ち帰った、、、

    なにか、そういう臭いがします。


    宗教を ”知識”として持ち帰る?

    不思議な行為そのものと思われませんか?



    学問・知識と言うものは、意識の産んだものです。

    宗教は、無意識の世界から、意識を見据えるものです。

    宗教が、知識の段階での理解であるかぎり、

    その宗教の力は、無効なのです。

    信じて受容して、初めて、それは、完結するものです。

    つまり、宗教は、”知る”ものではありません。


    いわゆる受容する。

    信仰は、受容するものです。

    正しく受容もできないまま、

    どのように日本は知識として、仏教を扱ったのでしょうか?






    たとえ、知識として吸収しようとした所で、事は、

    その当時の倭国の理性のレベルでは、追いつかなかったでしょう。


    どういうレベルで、どういう雰囲気で仏教が公伝されたのか?

    どういう世情の中から、仏教が正式に伝わったのか?

    仏教の受容の過程は? 

    今回の記事は、それらを内政的な観点からみていきます。





     

    国家間の公的な交渉で仏教が伝えられた事を“仏教公伝”と言います。

    仏教公伝から、聖武天皇が毘盧舎那大仏を建立発願まで207年。



    百済に仏教が伝来したのは384年です。 

    その154年後の538年に、

    百済の聖明王(聖王)が、日本(当時は倭国)に仏教を伝えました。


    29代・欽明天皇へ釈迦仏の金銅像と経論他が献上されたのです。


    さぁ、その釈迦仏の金銅像と経論は、最後どこへいったのでしょうか?


    とんでもない事になります! あとで、、、あはは~! 


    それよりも、

    百済は、わが国よりも仏教先進国だったのです。

    154年も先に仏教国になっていた。それを、今更どうして、

    日本へ仏教を伝えようとしたのでしょうか?




    その背後には当時の朝鮮半島の情勢があり、

    百済は、新羅の任那侵略に対処するため、

    日本と連携してその援助を受ける必要に迫られていた最中でした。 

    さかんに倭国に対して援軍を要求していました。


    その援軍を得る為に、

    継体天皇の時に五経博士を日本に送り、

    六世紀初頭には仏教を伝え、

    文化的なつながりを深めようとしたのです。

    また仏法を東方へ伝播させたという実績をもって

    仏教に帰依していた梁武帝の心を捕らえて、状況を有利にする為に、

    仏教を日本に伝える事を外交の道具として利用したという側面です。


    このように百済の仏教伝来は外交政策の一環として行われました。



    以上のような状況下で、倭国(日本)は、

    自らが望んだわけではなく外交政策でもたらされた仏教を、、、

    どう扱おうとしたか?

    釈迦仏の金銅像と経論他の扱いに困って大騒ぎになったのです。 





    なぜなら、この仏教が伝来するまで、

    倭国を支えた宗教は呪術的なものを含む神祇信仰です。 

    太政官の方ではなく、独立して置かれた神祇官(みみつかさ)の方です。

    大和朝廷発足以降も、律令という法令を一般民衆に理解させるのは

    難しい事で、地方支配にしても

    地方豪族を容認する連合国家のような朝廷の初期の姿が、

    それそのものでしたから。

    朝廷が民衆から税金を採る方法だって、

    「神様に今年の収穫物の一部を捧げれば来年も豊作になるから出そう」と

    云うようなものでした。 毎年の収穫時期に豪族などを介して

    地方の神主・神祇官が収穫を集め朝廷に送っていたのです。


    このような日本の支配体制は、

    下部にある共同的に統合された呪術的支配体制を、

    より強固な呪力で再支配する体制とも云えるのです。

    これら土着の呪術的かつ共同体的な支配体制内において、

    新たに外国から公伝した仏教の受容については、

    外交的儀礼を含めて、どうしたらいいのか頭を抱えた事でしょう。



    『日本書紀』には、大騒ぎが起こったと書かれています。 あはは。

    天皇、豪族と言えども、同じ人間なのですね~

    親しみを感じてしまいます。 (笑い)




    29代・欽明天皇が、仏教の信仰をどうしたらいいだろうか?と

    居並ぶ群臣に聞いた時、

    物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対をし、

    「 そもそも倭国の天皇は天神地祇を拝してきたのに、

    それをやめて蛮神(外国人のまつる神 )を拝めば、

    国神の怒りを招くであろう」と述べたと『日本書紀』は、伝えています。


    このような日本古来の国神に対する外国の蛮神という発想が、

    仏教の仏を捉える出発点であったようです。



    その一方で、蘇我稲目は、

    「 西の国々はみんな仏教を信じているのだから、

    日本もどうして信じないでおれようか、仏教に帰依したい。」と

    言ったので、

    天皇は、蘇我稲目に
    百済の聖明王から献上された仏像と経論他を下げ与えました。



    稲目は私邸を寺として仏像を拝み始めますが、
    後、疫病が流行ると、
    外国から来た神(仏)を拝んだので、
    その前に信仰をしていた国津神の怒りを買ったのだ、と、




    寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てます。 あはは~! 



    なんということでしょうか!    
    自分が手を合わせて拝んでいたものを捨てる! なんて、、、
    大した信仰心までを持ち合わせていなかったのでしょう。
    まず、仏と云うものが分かっていなかったのです。   ほほっ。



    その後、 仏教の可否を巡る争いは、
    31代・用明天皇の後継者を巡る争いで
    物部守屋が滅ぼされるまで続きます。



    近年、物部氏の本拠であった河内の居住跡から、
    氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見されたりして、

    物部氏も仏教を私的に信仰していたと云う可能性が高まっており、
    同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られています。




    結局のところ、

    崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・否受容を争ったというよりは、
    仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの
    意見の相違であったとする説や、

    本質は朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いとする説も出ており、
    従来の通説に疑問が投げかけられています。





    蘇我・物部両氏の対立の後、
    587年、蘇我氏が支援した推古天皇が即位して、
    曽我馬子によって本格的な伽藍を備えた
    半官的な氏寺・飛鳥寺、四天王寺・法隆寺が建立され、
    仏教的道徳観に基づいた政治を行ったとされます。


    が、

    この時期において仏教を信奉したのは、

    朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、

    仏教が国民的な宗教になったとは言い難い状態でしょう。






    その後、時代は、

    蘇我入鹿を暗殺して、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から

    天皇中心の政治へ転換しようと乙巳の変 (いっしのへん)『大化の改新』を

    行った藤原鎌足、中大兄皇子の時代へ大きく変わります。 645年です。



    中大兄皇子こそが、今回の記事の天武天皇の兄、

    668年即位をした38代・天智天皇になります。


    中大兄皇子は、父、34代・舒明天皇と、

    母、35代・皇極天皇(重祚して、37代・斉明天皇)との間の

    第二皇子です。


    (文中の、は女性のしるしです。)




    男の運命の舞台は、

    社会での欲望の達成、権力欲の達成かもしれませんが、

    その根となる運命の源は、その人の家族、一族のありさまに見れます。




    次に、
    簡単に天智天皇の身近な家族との関係を、一部挙げておきます。




    天智天皇から平城京の奈良時代が始まります。

    大化の改新より23年後の即位というのは、いろいろ問題があっての事、

    天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説があります。

    中大兄皇子であった当時の出来事ですが、

    孝徳天皇の正妃・間人皇女(天智の同母妹)との不倫関係を示唆します。




    最初の結婚は、鏡王の娘とでしたが、

    その後、鏡女王を中臣鎌足に娶らせたのですが、

    この時すでに、鏡女王は懐妊していましたから、
    中臣鎌足の息子、藤原不比等は中大兄皇子の子供という説もあります。


    また、その頃、弟・大海人皇子と結婚していた額田王(鏡女王の妹)を
    離婚させて、自分の元へ嫁がせる。
    という様な事もしています。



    こうして、天智天皇は14人の子どもを残した事になっていますが、
    そのうち娘は10人、
    その中から5人の娘を弟の天武天皇へ妻として与えています。


    これだけの娘を弟へ娶らせたと云うのは、
    同母兄弟と云う関係でなかったとも考えられます。

    天武天皇へ与えた娘のうち大田皇女は、天武天皇の正妃で、
    蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘が産んだ娘です。


    大田皇女(伊勢斎宮となった大来皇女、大津皇子の母)は、
    大津皇子を生んだ2年後に亡くなっています。


    幼い時、

    父(当時、中大兄皇子)と藤原鎌足の陰謀に拠るとされる密告で、

    孝徳天皇の兵が、

    謀反の咎で祖父(蘇我倉山田石川麻呂)へ差し向けられ、

    その時、

    祖父(蘇我倉山田石川麻呂)は、山田寺で自害をしてしまいます。

    その心労で母を失い、長女として幼い2人の妹弟を守らなくてはいけない

    心労から大田皇女は短い一生を終えたのかも知れません。




    大田皇女がこんなに早く亡くなる事がなければ、
    妹の鵜野讃良皇女(後の持統天皇)が、
    天武天皇の皇后になる事はなかったでしょう。
    そうすれば、持統天皇も有り得なかったのはないでしょうか? 

     

    歴史は大きく変わっていたはずです。






    おそらくこの頃は、

    国内的には、曽我氏が天皇家を脅かす程の権力を握り、

    まず、その排除をする必要性もあったでしょうが、

    なにしろ屈辱的な朝貢貿易の時代に、

    隋や唐から受ける文化的刺激で成長をしていた我が国は、

    朝貢貿易の宗主国である中国に、

    野蛮な文化的に劣った国として扱われたくなかったのです。

    そして、またいつまでも従属の関係の外交関係でいたくなかった。

    文化や軍事や経済等、あらゆる面で、

    中国から後進国扱いの外交関係を脱したかっのです。

    その為には、天皇中心の中央集権国家としての建て直し、

    隋や唐という国家と同じように、律令(法律)による政治を行う。

    仏教をその精神支柱として、国の文化とする事を真似るのに急務だった。 






    仏教を、精神面における宗教的な受容というよりも、

    隋や唐といった、アジアの先進国と文化や政治のレベルで肩を並べ、

    国としてのお体裁を整える為の道具として、

    仏教を必死に受け入れる。

    という動機が大きかったはずです。

    仏教に、「日本の国際的地位の向上」という目的が課せられていた。




    要は、中国の姿、形、宗教を借りて来て、真似て、

    対等な国としての格好をつけたかった。

    そういうエネルギーと藤原鎌足というブレーンによって、

    天智天皇が押し上げられたのではないか。




    渡来人や朝貢貿易によって中国の思想や知識を吸収し、

    呪術政治を律令政治へ転換をし、うまく“脱皮”に成功をした。

    日本は、新しい船出をしたと言えるのでしょう。




    運命学において、

    婚外の男女関係の乱れは、いわゆる現代の不倫ですか、

    家系の運気レベルをひどく押し下げてしまいます。


    いくら政略結婚ばかりの時代であっても、そうです。

    夫婦である相手に、恨みと悲しみを与え不幸にするからです。

    不貞に限らず、不道徳な事は、陰徳が消えて行くのですね。

    『天』の秩序に反するからです。

    その一番現れる処が、子供、子孫です。

    思うようになりません。不如意です。


    いかに権力を掌中にし、巨万の富を蓄えた人間にとっても

    頼りにしていた子供が、倒れる、夭折する、当てが外れます。

    引継ぎが上手く行えません。ひどく不道徳なら、すぐに子供に、

    大抵の場合は、3~4代目に時を経て現れます。




    究極の現象としたら家系的には、家系を継ぐ者が途絶えるようです。

    それは、つまりお墓の祭祀の継承者がいなくなる...

    それは、つまり、自分を弔う者がいなくなる...のです。



    なぁんだ、そんなこと、どうでもいいよ~!

    ですか?   あはは。


    今は、個人の、しかも、刹那的な欲望の満足だけが”しあわせ”だと、

    自分のしたい事をする事が、”しあわせ”だと、

    あらゆる方向から思わさせられている世の中です。



    先祖が残してくれた陰徳のおかげで、なんとかやっていますが、

    私達が、なぁんだ、そんなこと、どうでもいいよ~!

    で済ましてしまうと、未来は?


    そう、

    死は、nothingではありませんから、、、

    無ではありません。


    そして、

    何の理屈よりも、

    夫婦が仲が良いのが家運の為にも、自分の為にも一番良いのですよ!


    (笑い)






    次回は、大化の改新から、壬申の乱までの内政と、

    朝貢貿易の詳しい状況から見る屈辱的な中国との外交的な関係。

    できれば、( 無理かもしれませんが、、、 ) 

    聖武天皇と光明皇后の運命を、生み出した二人の女性を

    探ってみたいと思います。


    聖武天皇側は、父方の曾祖母になる持統天皇。

    光明皇后側は、その母、橘三千代(たちばなのみちよ)です。




    時代の裏には、女あり! あは~!


    乞う、ご期待!~!



    今日は日曜日ですね。

    素敵な一日でありますように・・・   

    世界の不思議が、

    みなさまの心満たしてくれますように・・・・・


















    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    朝貢貿易  /  天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その3

    Category : 運命学と歴史
    西那須野ICへ向かって青空

    那須高原からの帰路、

    西那須野ICへ向かう道路上 雨なのに青い空










    前回のつづき、


    前回予告をしました、『大化の改新』から『壬申の乱』、



    余裕があれば、

    聖武天皇と光明皇后の運命を、生み出した二人の女性を、

    取り上げてみたいと思っています。


    聖武天皇側は、父方の曾祖母になる持統天皇と、

    光明皇后側は、その母、橘三千代(たちばなのみちよ)です。



    ちょっと欲張りすぎたかな、

    と反省をしています。 あはは。

    今日の記事が長すぎるようなら、次回へ廻しますのでご了承を.....。






    『大化の改新』を行った藤原鎌足、中大兄皇子の時代

    すなわち、天智天皇の御世になった処からでしたね。



    歴史上の人物は、誰でもそうですが、

    私的な家庭生活や家族関係、生活面を見る方が、

    作られた公的な業績よりも、その人となりの実像が見えてきます。


    なぜなら、力がある人物なら公的な業績は、いくらでも、

    作為的に作り上げられます。


    まさに、『日本書紀』や『古事記』のように、

    それが天智天皇の死後、権力を奪った天武天皇の思惑から出て作られた

    文献においては、権力者の都合の好い様にいくらでも書く事が出来ます。

    そういう意味で、残った歴史とは“勝者”の側の記録なのです。


    その記録を金科玉条のように正史であると肯定をするという事は、

    なんとアホラシイ事でしょう。 


    一つの視点には違いありませんが、、、


    本当の歴史とは、残された文献や、歴史記念物から、又は、

    同時代の交渉相手である外国の歴史上に残された文献と突き合わせると

    言う作業をしながら、いかに真実に迫るかという点を忘れられたら、

    それは、もう母国の歴史であっても魅力を感じなくなります。


    当然いろんな視点があっていいのだと思いますが、

    国民が知りたくなる歴史、

    知ることに依って、国を尊ぼうとする気概が生まれる歴史、

    その国の人間として生まれて良かったという感謝が芽生える歴史、

    であって欲しいですね~~。





    特に、最高権力者を見る時には、

    その人物が、相手の女性をどう扱ったか? 扱うか?


    あはは~! 

    “ 愛していた”とか、“ 大切にしなかった”とかの、

    一言で片付けられるようなものではありませんよ。


    女性の側から見ると言う側面だけではなくて、



    これは、その人が、自分の財産をどう扱ったか? 扱う人か?

    を知るのに役に立ちます。
     

    これは、非常に大事です。 ご参考になさってください。



    天智天皇に関しましては、後、『壬申の乱』についての記事の時に、

    また、詳しく書くつもりですが、、、




    特に、当時の天皇家は、

    現在の象徴天皇制のように民主主義で国会に管理された?収入だけで

    はなくて、すべての事に実権を持つ、まさに日本国の最強権力者です。

    当然多くの利権なども一手に握っていたでしょう。

    また、利権においては豪族との駆け引きも絡んできます。

    天皇の近くに上がれる采女は、各地方の豪族の娘たちでした。

    天皇が相手にする女性も、利権の一部、財の一部と見てよいでしょう。

    女も財も使い放題、自己の思うがままに、です。 (笑い)




    その相手となった女性は、どうだったのかと言うと、

    女性が、まるで心のない物のように扱われるこういう状態は、

    一つは、いつも言います正しい宇宙観、自然観、人間観、生命観、

    それらから来る道徳観、人生観、そこから生まれる結婚観、家庭観、が、

    社会の中に形成されていない状態のなかで生きているわけですから。


    あったとしても、非常に低いシャーマニズム【shamanism】、

    アニミズム【animism】の範疇における未分化な社会です。



    だから、今の女性が思うほど、彼女たちは不幸と思っていなかった。

    それが当たり前と受け入れていた。 はずです。





    そういう未分化な社会を、それをいち早く脱したのが、インドの仏教です。



    いわゆる森羅万象の奥に、因果の理法

    (すべての物は原因・結果によって起こっている)を見出したのです。

    それまでの時代の人類は、森羅万象の現象の表面だけを見て、

    それが何故起こるのか? 説明できないレベルだったので、

    その現象そのものに神の存在を見出すしかなかったのです。

    火事のおかげが “火の神”、洪水になれば “水の神の祟り”です。

    いわゆる、当時の人の意識レベルで捉えられない範囲は、

    無意識の世界の言葉で括るしかなかったのです。


    いわゆる幼子が、すべての良し悪しを母親の言動に由るのと似ています。


    結果の原因を皮相的なレベルに求めるしかない観点の低さ、甘さです。



    よく言う、“社会が悪い”、夫が浮気をしたら“夫が悪い”と、

    すぐに相手に原因を求める、そして攻める。

    そういう自己中心性を脱していない認識の低さに通じるものです。



    人類は、そこから脱した者が勝ちなのです。

    国も、個人もそうです。

    だから相手よりも優れた宇宙観、自然観、人間観、生命観、

    それらから来る道徳観を持った方が、価値であり、勝ちます。



    根源は、宇宙観(天の道)、自然観(地の理)、

    それに調和した人間観(人の紀)です。  この三つです。




    今日は、日本の奈良~平安時代、

    中国と行った朝貢(ちょうこう)貿易の遣隋使、遣唐使派遣について、

    考えて見ましょう。

    なぜ、中国とそういう形になったのか?

    そうしなければならなかったのか?

    そういう運命に陥った原因は、何だったのか?



    それは、当時の中国と、倭国・わが国との

    宇宙観(天の道)、自然観(地の理)、人間観(人の紀)の違いです。

    違いというよりも、圧倒的に高い思想体系が中国にはあったからです。


    それらが生まれる素因の一つに、地勢的な条件もあげられるでしょう。

    それは、又、別の機会に。





    広い、周りをすべて包含する位の世界観を持っている国に対して、

    何の世界観も持たない国は、その中に組み入れられてしまうという

    現実というものがあった。 今もあるという事です。



    経済力が、すべての源のように現在の世界は、動いています。

    それは、違います。 それは一つの現象にしか過ぎません。

    そう見せている? 

    その方が本当に支配をしようとする人間には、

    支配をするという意志を見られないで済む。

    隠れる事ができる。そういう理由からでしょうね。


    世界は、見て、感じて、それだけの奥行きではありません。


    見えない世界の方が、正も悪も、膨大に広いのです。



    経済の勝負の前に、

    その奥の目で見えない世界の勝負が着いているという事を

    その事を、確認したいと思います。



    時代を遣隋使の頃へ元に戻します。

    朝貢貿易の詳しい状況を通して、

    外交的な中国との関係において、思想に負けるという事は、

    抜き差しならない本質的な従属関係に陥るという事、

    それを見て行こうと思います。






    残念ながら、我が国は、大和政権成立の当時から、

    この東アジアにおいて、先進国ではなかった。

    呪術を用いた政治を行い、法律を用いた政治ではなかった。


    片や、中国においては四大文明のひとつである黄河文明を経て、

    独自の死生観、宇宙観、自然観を持っていた。

    文字も、暦も、天文学も、土木技術も、勝れていた。



    きっと、その頃、倭の国といったわが国の人々は、

    中国の文物へ憧れ、知った事象を、そのまま受け入れていたのでしょう。

    大陸の中国が、すべての流れの川上であり、源流だった。

    そういう関係に違いなかったはずです。



    そういう関係とは、

    今も変わらないある国に対する外交における日本の位置に似ています。



    それらについて、先へ進みます。

    今の日本の現実に至る遠因を深く知る上でも参考になるかもしれません。



    日本の奈良~平安時代、

    中国では隋・唐の頃、仏教の信仰や研究が盛んになっていました。
     
    当時は、朝貢(ちょうこう)貿易の遣隋使、遣唐使派遣が盛んでした。

    朝貢貿易というのは、学校で習ったのは、

    中国の皇帝に貢物をする貿易だ、という内容だったはずです。

    しかし、実際の詳しい実態は語られていませんね。


    それは、おそらく、、、

    中国に対しての立場が、日本にとって屈辱的な立場だったからか、


    朝貢貿易と言うのは、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態で、

    中国の皇帝に対して周辺国(属国)の君主が貢物を捧げ、

    これに対して中国の皇帝側が恩賜を与える、

    という形式で成立した貿易の事です。




    中国古代史で 『 中華帝国冊封(さくほう)体制論 』を唱えた、

    東京大学名誉教授、中国史学者西嶋 定生(にしじま さだお)氏が、

    この関係を『冊封体制』という概念で説明をされ、(冊封・さくほう)

    「六-八世紀の東アジア」(1962年)にて、

    「東アジア世界」という「その中で完結した世界」があったと言う事を、

    その存在を提唱しています。



    『冊封体制』とは、

    冊封によって作られる中国を中心とした国際関係秩序の事です。


    冊封とは、中国の「天子」皇帝と、と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、

    名目的な君臣関係をともなう外交関係の一種です。

    簡単に言うと、(宗主国)と(属国)の関係での外交関係で行う貿易です。



    そう、中国は古代においても、自前の国際関係秩序を持っていたのです。


    それはどういうものか?


    その背景には、「天子」と「皇帝」の言葉の使い分けがあります。

    まず、「天子」とは、

    「天命を受けて自国一国・中国だけでなく近隣の諸国諸民族を支配・

    教化する使命を帯びた君主」の事を言い、国外へ向けての呼称です。

    「皇帝」とは、中国国内での呼び名です。


    まったく感心をしてしまうのですが、

    初めから近隣諸国を支配しようとする戦略があったのですね。

    この戦略が生まれた背景には、

    中国側の「華夷思想」・「王化思想」が根底にあります。


    「華夷(かい)思想」とは中国に住む者を文化の高い華とし、

    周辺部に住む者を礼を知らない夷狄(いてき)と蔑み、

    峻別する思想の事です。


    夷狄とは、中国から見て未開の民や外国人、野蛮な民族の事を言い、

    東夷(とうい) - 日本・朝鮮などの東方の国 、人

    西戎(せいじゅう) - いわゆる西域と呼ばれた国、

    北狄(ほくてき) - 匈奴・鮮卑・契丹・蒙古などの北方の国 、人

    南蛮(なんばん) - 東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋の国、人


    これらの言葉は、今では死語になっていると思っていたのですが、

    学術的には使われ続けているそうです。 え!





    「王化思想」とは東西南北の夷狄(野蛮な敵)であっても、

    中国皇帝の徳を慕い、中国皇帝への礼を受け入れるならば、

    華の一員となることが出来る、してあげる。と言う思想です。

    夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば

    冊封国=属国になれたわけです!   

    (喜んでいいのか? 苦しんでいいのか? トホホ、、、)



    冊封とは、天子が、臣下や諸侯に冊をもって

    爵位や称号・任命書・印章などを授けます。

    つまり、

    冊封を受けた属国の君主側は、

    王や侯と言った中国の爵位や称号、印を授かり、

    その授受を媒介として、中国皇帝と君臣関係を結ぶ事です。

    (要は、名誉を与えて柵の中に囲い込んでしまうのか?)


    あぁ、だから江戸時代でも、毛利のお殿様などが『日本国の王の印』と

    いう印を持っているのですね。

    あれは、中国から貰ったのかしら?  



    冊封関係を中国と結んで、『冊封体制』の中に入るメリットとは、

    一つ目は、夷狄である周辺国が、冊封のおかげで中華の一員となれる。

    二つ目は、他国の攻撃を受けた時は中国の救援を求める事が出来る。

    三つ目は、中国からの軍事的圧力を回避できる。

    四つ目は、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築ける。

    五つ目は、当時朝貢しない外国との貿易を原則認めなかった中国との

         貿易で莫大な利益を生むことが出来る。

    (なんだか、似たような関係が、今もあるわね~)



    「属国」の側の義務は、

    一つ目は「臣・けらい」の立場で「方物・土地の産物」を
      
         ≪元旦に献上≫しなければならなかった。

         ≪この事≫が朝貢で、これを行う使節を「朝貢使」と呼んだ。

    朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通って指定され

    た「方物」を「天子」に献上し、天子の徳をたたえる文章を提出した。


    二つ目は、「天子」の元号と天子の制定した暦を使用する義務があった。

    三つ目は、中国から出兵を命令されることもある。


    また、宗主国と同じ文字(漢字)、暦も使うようになっていたそうです。



    これらの冊封国=属国の君主(天皇)は、

    東アジアという冊封された領域内で

    基本的に自治あるいは自立を認められていて、

    冊封国(日本)がそのまま中国の領土となったと言う意味ではない。

    冊封国=属国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、

    中国皇帝とは関係を持たないので、

    この意味で冊封関係は外交関係での支配であり、

    中華帝国を中心にした外交関係の秩序を形成維持する為のものでした。



    つまり、貢ぎ、貢がれる、属国、宗主国にとって、

    それぞれの国益を謀った駆け引きがあったのです。


    宗主国側(中国)の宮中では、

    毎年の元旦の「元会儀礼」において朝貢物は展示され、

    「天子」の徳の高さと広がりを示し、

    献上国の「天子」に対する政治的従属を誇示したそうです。

    朝貢の数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのであり、

    内外に向けて現政権の正統性を示すためには、

    中国の政権は朝貢で得た物以上のコストを払ってでも朝貢を

    歓迎したのです。

    と言うのは、朝貢には回賜という”お返し”があり、

    貢物に対して数倍の価値ある回賜をする事が原則でした。


    それが属国である朝貢国にとっては利益になったわけで、

    朝貢使節団に対しても多額の褒賞金が与えられると云う

    ならわしががあったのですね。

    その為に冊封を受けていない(属国ではない)国でも

    朝貢自体は行うことが出来たので、朝貢を行う国があったそうです。

      
    同じ漢字文化圏である冊封国である属国にとっての朝貢は、

    そういう経済的な利益だけではなくて、

    書物、情報、知識など、社会・文化的な得点もあって、

    貢がされている?割りにそろばん勘定が合うものでした。


    また、中国側にとっても、

    周辺諸国と敵対関係になって戦争の為の軍事支出を行うよりも、

    朝貢を受けて回賜を与えたほうが安上がりであるという現実もあり、

    その地方との紛争を避けるという実利的な成果と、逆に周辺諸国

    を討伐しようと戦争を仕掛け支配下に置いたとしても、

    資源のない生産性の低い地域を支配領域に広げるだけであり、

    税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る事になると

    いう計算の上で、朝貢自体が、中国政権にとって、

    外交関係で支配でき安全上も優れた保障システムだったのです。



    とにかく、こういう中国に対して、倭国が朝貢までした目的は、

    海外の情報や中国の先進的な文物、仏教や儒教の経典等の収集です。




    なんとなく、日○安保条約の中身と似ているでしょう?

    今も昔も変わらぬ大国と小国の関係なのですね~ (笑い)



    ついでに逆に、日本が貢がれた例を、

    日本は、7~10Cに朝鮮半島北から今のロシアにかけて出来た渤海国

    から朝貢を受け入れましたが、

    当時の我が国の国力では、毎年の朝貢に対する回賜を行う能力は無く、

    朝貢の回数を12年に1回でいいと制限をしたそうです。

    あらあら! 、、、

    やはり、国力がないと貢がれる事も、無理だったようです。


    遣唐使の最後の頃から、日本は、この冊封から外れていくのですが、

    清代にはインド以東の国では、

    ムガール帝国と日本を除いて他の国々は中国の冊封を受けていました。





    当時の倭国と、当時の隋が、どういう関係だったのか?

    日本書紀』と、『隋書』を読み比べてみると、おもしろいのです。



    推古天皇8年にあたる、600年 に第1回遣隋使を派遣していますが、

    日本書紀』に、その記載はなく、(なぜないのか?)

    『隋書』にある記載です。

    隋の高祖文帝が、遣隋使の使者に対して倭国の風俗を尋ねます。

    それに対する遣隋使の使者の答えが、高祖からみると、

    倭国の政治のあり方が道理に反したものに思えたのであろう納得できな

    かったようで、そこで、倭国の政治を改めるようにと、

    使者に対して訓令したというのがあります。


    (要は、政治のやり方にまで、指示を受けていた?)





    もうひとつは、

    607年、聖徳太子小野妹子を派遣した第2遣隋使の時です。

    あの有名な「 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という

    あれです。

    私の記憶では、聖徳太子が隋の皇帝に対して対等な書き方をしている、

    それ程、聖徳太子という人は優れていたという様な話を

    学校の授業で習ったと覚えています。


    しかし、『隋書』にある記載では、

    隋の皇帝煬帝(ようてい)は、倭国の王からの国書に、

    “日出ずる処の天子”と倭国の王が自称しているのを見て立腹し、

    外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に

    「蕃夷(ばんい)の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と命じたと、

    あります。  無礼な野蛮なやからの書は、今後自分に見せるな、と。

    隋に従属している倭国の王が、

    自分の事を天子と名乗るとは持ってのである! 

    思い上がるのも甚だしい!!二度と聞きたくもない!! と

    そう、立腹したという事です。


    これには、続きがあります。

    この時に小野妹子が持参したのは、

    聖徳太子から隋の皇帝煬帝へ当てた「国書」です。

    この返事は、外交儀礼では、帰国の時に持たされるのは煬帝からの

    「返書」であるべきです。

    しかし、この時に小野妹子へ持たされたのは、

    倭国を臣下扱いする「訓令書」でした。

    小野妹子は、これを天皇に見せて、天皇の怒りを買う事を恐れた為に、

    妹子がその返書を破棄してしまった。

    というのは、

    妹子が「返書を掠取された」という大失態を犯した様に取り繕い、

    大芝居をして、聖徳太子、推古天皇などとも合意した上で、

    返書を掠取された事にした!?

    「訓令書」しか貰えなかった事を隠した!?と

    推察される事件もあったような記述が日本書紀にあります。

     
    あは! マンガ、、、(笑い)

    それ位に、弱いと云う事は、苦しい立場だった、、、。

    我が国は、威信を守りたかったのです。



    小野妹子の返書紛失事件は『日本書紀』にはありますが、

    当然ですが、『隋書』に記載はありません。



    これらの事から、隋と倭国の関係がどういったものだったか?

    訓示した、、、無礼な蕃夷、、、訓令書ですから、ね。 

    対中国に対しては、今も昔も変わらない?  あはは。

    王の位は、皇帝の下になります。



    隋が滅ぶ618年(推古26年)まで、5回の遣隋使が行われています。


    12年後に始まった遣唐使は最後の838年まで、

    約200年間に渡っています。

    唐の皇帝から、”その道の遠きを矜(あわれ)み、”と、

    遠い所からだから毎年来なくてもいい、

    20年に一回の朝貢でいいと許されて、

    その間に、12~20回の諸説がありますが、遣唐使を派遣しています。

    その間、派遣を命じられた者が、病と称して行かずに流罪になったのと

    か、あらゆる海難事故に遭ってたくさんの方が亡くなっています。

    朝貢とは、元旦の朝に皇帝に貢物を持って伺うという事ですから、

    12月中に都に着かなければならなかったのです。

    そう、冬の海の荒れる時の航海をしなければいけなかったのです。

    その当時の人たちの苦労が忍ばれます。そういう人々の犠牲の上に、

    今の日本があるのだと思うと感謝をせずにはいられませんね。


    「旧唐書」に記載されているのは、日本の遣唐使使節団が、朝貢の礼に

    唐の皇帝から下賜された文物を、長安の都で全て売り払って、

    代わりに膨大な書物を買い込んで帰ったと言う話が載っています。

    どれだけ日本が中国の知識を求めていたかが分かりますね。

    素直な日本人は、自国の知識や文物が劣っているから、

    中国に引け目を感じないといけないのだと思ったのでしょう。

    そして負けたくなかった。

    国の為に必死に学ぼうと努力をした。その姿が目に浮かぶようです。



    しかし、知識を学ぶ、身につける、真面目にそれだけをすれば、

    外交関係とは対等に行くものでしょうか?

    自国の国益第一の頭のいい相手は、いろいろな理由をつけて

    自分を上位へ以っていくはずです。



    この外交における力の違いは、何処から生じるのでしょうか?


    一つは、確固とした世界観を持っているかどうか?

    そこから来る対外戦略があるかどうか?

    これらは、物で作るものではないのです。

    物を所有する事でもない。外貨を貯めることでもない。



    価値ある者や物が集まってくる思想を持つ事です。

    それは、目に見えない所の戦略。その戦略を生む見えない理念です。



    理念も戦略も持っていない国は、今も昔も同じです。

    いつも周りを見てウロウロするしかないのです。


    ウロウロすると言えば、 築地市場


    世界の人口が70億人へと近づく中、食料の需要の増加は加速してい

    ます。経済成長によって所得が増えたBRICs4カ国も、

    食料においては輸出を減らす一方、輸入量は拡大しているそうです。


    東京・築地市場の2010年1月の初セリでは、香港と日本で店舗展開する

    「板前寿司」が3年連続の最高値でクロマグロを落札した。

    今年の最高値は重さ232kgのマグロで、1本1628万円という値段は、

    2001年の2020万円に次ぐ記録だ。板前寿司を経営するリッキー・

    チェン氏は「香港の人もおいしいマグロを求めている」と話す。

    2010年の初セリにはマカオで高級日本料理店を経営するフューチャーブ

    ライトグループも初参加し、築地市場でもアジアの勢いは増すばかりだ。

    もちろん日本も新興国などの買いに応戦すればいいのだが、

    高値で買い付けても低価格志向の強い店頭で価格に転嫁できず、

    国際市場で買い負けてしまう。

    デフレの日本を素通りし、富裕層の多い上海など中国の沿岸部へ向かう。

            (日経電子版 食料ウォーズ より引用)




    いくら一流企業が業績で海外で勝ったとしても、

    国内の労働者の所得が伸びないと購買力は出てこないのです。

    その為に、お魚大国だった日本において、高級魚が海外へ全てさらわれ

    て行ってしまうという悲しい現実です。

    指をくわえて、それを見ているしかないのでしょうか?

    わが国においては、

    真の高度な精神文明を培っていかなければ、、、。

    祈るような気持ちです。 。。



    週末が巡って来ました。

    よき休日をお過ごしください。

    長い記事を最後までお読みくださって、感謝です!




























    参照:

    「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」

    川本芳昭著、九州大学

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。



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    壬申の乱 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その4

    Category : 運命学と歴史
    あき

    那須高原・秋







    『大化の改新』を行った

    藤原鎌足、中大兄皇子の時代になったところからでした。


    次のエポックは、壬申の乱です。





    今日は、運命学的に観た簡単な天智天皇論から始めましょう。

    この中から、少しでも運命学の片鱗が皆様のお役に立ちますように、、、。


    えらい天皇さまの事を、こんなに簡単に記事にしていいの?

    どうだこうだと言っていいのかしら? ほほ。


    私ごとき人間が、過ぎた振る舞いのように思いますが、

    そこは、どうかご容赦いただきますように、、、、、、

    失礼がありましたら、どうかお許しくださいませ。








    天智天皇は、政治面の業績を見る限り、

    非常に進取性に富んだ男らしい人であったようです。

    大化の改新を成し遂げる位の人ですから、決断力のある人物でしょう。

    自分の思っている事を、果敢に実行をして行く力があったはずです。



    しかし、その裏側に見えるのは、

    過去からある物をそのまま守って引き継ぐ運勢ではありません。

    女性関係を見ていると分かるのですが、

    何事もドライに考えて即物的な思考をし、クールな対応をする。

    あらゆる過去を合理的に整理、捨てる事ができる初代運の運勢です。

    財が集まって来る運ですから、

    権益や女性が雲集して来たはずです。


    ( うらやましいですか~?)


    しかし、運命にも得手があれば、不得手があるのですよ。

    自分が成功する運の人は、自分の子供が後を継ぐ運に恵まれません。

    跡継ぎ運がないのです。



    あはは~今日は、頭から男女不平等のような記事です。


    現代だって、有名なスポーツ選手、あの人も、この人も、

    芸術活動をしているあの人も、この人も、、、

    一人自分の世界を作り上げて成功をおさめたという方は、

    子供がいない。いるとしても女児だけだったり。

    男児が生まれても母親の世界だけで大きくなっている。

    その子が将来結婚もせず、孫ができない。

    孫がいたとしても又、女の孫。そういう方が多いですね?


    一代だけが栄える運です。

    伝える事ができません。



    また、男児、女児には、深い意味があります。



    自然の摂理から言うと、植物においてもですが、

    花や実を、大輪を咲かした場合は、良い種が取れないのです。

    大根だって、実る時に栄養を与えて大きくしたら、

    良い種が取れない。



    逆に優秀な種を取ろうとすれば、栄養を制限して、飢餓状態にし、

    実を大きく実らせないようにするのだそうです。




    ご存知でしたか?

    人間も、同じ摂理の中に生かされているのですよ。


    ( えっ! 花も実も種も両方ほしい~?

    それには、運命学を勉強してくださいね。)





    既存の過去を必要としない、あれば反ってそれらを壊して、

    ゼロ・0からの出発ができる。そういう力を発揮する人は、

    つまり、守りはできない。攻めのタイプです。

    攻撃は得意です。けんかをすれば負けるはずがない。

    また、孤独にも強い、というより孤独である方が持てる力を出し切れる、

    王たるに相応しい頭脳も肉体も、恵まれた人。


    天智天皇とは、そういう人だったはずです。


    負けん気の強い、自負心の大盛な男らしい性格の中大兄皇子、

    その性格に取ったら、倭国の置かれている状況は、

    対外的には、『 中華帝国冊封(さくほう)体制 』)の外交関係のなかです。

    (東京大学名誉教授、中国史学者西嶋 定生氏が提唱)



    わが倭国を何とか強くしたい、

    そういう男気に溢れていたはずです。


    だから、『大化の改新』を成し遂げられたのです。



    歴史を変えるのは“人”です。

    権力者の人間的資質、性格の力に負う処が、大なのです。

    制度や、法律は、その後です。





    天智天皇という人格のおかげで、

    倭国は呪術の政治から律令の政治へ脱皮を果たした訳です。

    しかし、天皇と言えども為す事は完全ではありません。



    いくら天皇だからといっても、変革への理解ばかりだけではなかった。

    まわりから相当な反感を買ったはずです。




    具体的には、

    いわゆる大化の改新までに既得権益を持っていた豪族からの反発です。

    得をする側がいれば、それによって損をする側が生まれるわけです。


    倭国の中央政府にとったら、良い改革でも、

    倭国の見えない部分=特に地方=に

    そういう不満が鬱積していたはずです。

    しかし、天智天皇は運も自我意識も強すぎて、弱さを感じられない。

    他人の弱さに無頓着なドライな性格だったに違いありません。



    次に起こる『壬申の乱』のエネルギーを思えば、

    『大化の改新』の後、中央政府に対する不満が鬱積していたに違いないと

    思わざるを得ないのです。





    ほころびは、天智天皇が病気に伏せられた時期から始まります。


    権力者が強すぎる人の場合、逆らっても勝てない相手の場合、

    不満分子は、権力者が病気などで弱まるのを待っているものです。。 





    天智天皇が崩御される二年前に、

    重臣の中でも最も重要な人物、中臣鎌足が56歳で亡くなっています。

    その時、

    天智天皇は今までの鎌足の功績を讃えて大織冠と大臣の位を授け

    「藤原」という姓を贈りました。これ以降藤原という姓名が誕生します。



    もしか? 中臣鎌足がもう少し生きていたら、どうなっていたのか?

    『壬申の乱』のエネルギーをうまく分散させる事ができたのか?






    ここで、これからの人間関係を整理しておきます。(39・=39代天皇の事 )


    39・天智天皇(中大兄皇子)と、40・天武天皇(大海人皇子)は、一応
      
      同母兄弟と言われています。

    40・天武天皇(大海人皇子)の妻(41・持統天皇)は天智天皇の娘です。

    40・天武天皇と、その妻・41・持統天皇は、叔父と姪の間柄になります。

    大友皇子(のちの40代・弘文天皇)は天智天皇の第一皇子ですから、

    天武天皇の妻(41・持統天皇)とは、異母姉弟になります。


    非常に、近い親族関係同士です。 系図をどうぞ!  



    天武天皇の妻・鵜野讃良皇女(後の41・持統天皇)は、

    正妃であった大田皇女の妹で、

    天智天皇が皇太子にした大友皇子とは、異母姉弟になります。




    興味深い話題があります。

    一つは、天武天皇は、天智天皇と同母兄弟であるとしていますが、

    他の説では斉明天皇(皇極天皇)が舒明天皇と結婚する前に

    一緒になっていた高向王(用明天皇の孫)との間に生まれた漢皇子が

    大海人皇子(天武天皇)という説があります。

    それは天武天皇が天智天皇よりも年上であるという説から出ており、

    一方では漢皇子は天智天皇という説もあります。




    『壬申の乱』と言えば672年に起きた

    ポスト天智をめぐる皇位継承権を争った日本古代最大の内乱ですが、

    いまだに、『壬申の乱の原因論争』と題する古代史論争が、

    特に大海人皇子決起の根拠、決起の正当性などが、

    十分に論じ尽くされているとは言えずに、決着が付いていません。



    乱の原因は単に親族の相続争いではなく、

    当時の朝鮮半島情勢(新羅、百済の争い)および、その渡来人の争いが

    背景にあると言う見方もあって、多くの人が論を繰り広げています。




    何故こういう騒乱が起こったのかと言うと、最大の問題点としては、


    皇位継承についての確固たる制定がなされていなかったことです。


    嫡子存続という原則がなかったために、当時は、


    兄から弟へと譲ることが多かったのです。


    今では皇太子が第一皇位継承者として定められているので、

    皇位を争うような事は起こりません。当時は皇太子制自体がなかった。

    皇太子の地位は、飛鳥浄御原令か大宝令で成立したもので、

    軽皇子(文武天皇)か首皇子(聖武天皇)が初例です。

    首皇子が皇太子の場合でも、元正女帝が即位するなど、

    次期天皇としての皇太子の地位は、まだ確定していなかったからです。







    日本史のこの辺りは、

    この時代の人のおおらかさ、自然性を失っていない、

    非常に人間くさいドラマが、いっぱい詰まっているあたりです。


    ここから、『壬申の乱』へ進んでいきます。







    天智天皇は、668年の即位から3年後、

    671年1月5日、47歳。太政大臣を新設し、

    我が子、大友皇子(24歳)を任命します。


    当時は、同母兄弟間で皇位継承が行われるのが慣例でしたが、

    それを無視して、

    天智天皇は、弟よりも血を分けた自分の子供(大友皇子)を

    後継者とする意思を周囲に表明したのです。


    大海人皇子は、事実上政治面からは外されます。




    671年8月、天智天皇は、病床に着き、先の長くないことを悟ります。

    同、10月17日、

    天智天皇は、弟の大海人皇子(41歳)を枕元に呼びます。

    使いにたった蘇我臣安麻呂は「言葉に気をつけるように」と注意しました。

    天智天皇は、大海人皇子に後事を託しましたが、大海人皇子は、

    大友皇子を推挙し、天皇のために自らは出家を申し出ます。

    大海人皇子は、

    自分の家に帰って、全ての武器を天智天皇へ差し出します。

    これは、疑い深い専横的な天智天皇の性格を

    大海人皇子が知っていたからだと言われています。


    そして、大海人皇子は、家族を伴って吉野の山へ隠棲します。

    これを知った人は、「虎に翼を着けて放てり」言ったといいます。


    大海人皇子が、吉野の山へ行った時の和歌が、万葉集に残っています。


    み吉野の 耳我(みみが)の嶺に

    時なくぞ 雪は降りける

    間無くぞ 雨は振りける

    その雪の 時なきがごと

    その雨の 間なきがごと

    隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し  その山道を



    “ 思ひつつぞ来し  その山道を ”という処に、当時の大海人皇子の

    失望が滲み出て伝わって来るような和歌です。


    ここが、人間もようですね。


    兄弟で、気を使い合って?“嫁を取ったり取られたり”(笑い)しながら、

    兄の天智天皇も、娘を5人も弟へやった位、仲も良かったのでしょうが、



    その中に、兄の寵愛する皇子が権力構造の中へ入って来る事によって、

    雲行きは、当然の事ですが、ガラガラ~っと変わったのです。


    ここまでの大海人皇子の対応は、正解です。

    誰か助言をする臣下でもいたのかもしれませんが、

    天智天皇存命中は、自身の身の危険を察知して、吉野に隠遁します。



    同、12月3日、天智天皇が崩御。

    同、12月5日、(近江朝)大友皇子が即位して、弘文天皇となり

            近江にあって政務をみていたとされています。


    翌、672年5月、大海人皇子の舎人が、

            大友皇子が天智天皇の墓を造ると言って、

            美濃と尾張の国司に命じて人夫を徴発しているが、

            本当は武器を持たせていると報告してきました。


      6月24日、大海人皇子は、

            近江朝が軍備を整えているとの情報を得て、

            妻の讃良皇女(後の持統女帝)や草壁皇子・忍壁皇子、

            舎人20人、女官10人を連れて、吉野を脱出し、
            
            尾張に向かう。ここから古代最大の争乱が始まります。
     
      6月26日、大海人皇子が伊勢の北部に入ると、

            大津宮(近江朝)を脱出した長男高市皇子、大津皇子と

            合流し、桑名(三重県)にいたります。
     
            まもなく、美濃に派遣していた村国連男依が戻って来て、

            「美濃の兵3000人を動員して不破の道を防いだ」ことを

            報告します。


    この行動を察知できなかった近江の朝廷側の動揺は大きく、

    急いで東国・飛鳥古京・筑紫・吉備などの諸国に使者を遣して、

    兵隊を集めようとしますが、東国への使者は、

    不破の関で捕らえられました。


    本格的な戦いは、

    7月 7日、不破から近江平野に進出した大海人軍が、

          近江朝軍を撃破したところから始まり、

    7月22日、近江を守る最後の拠点、勢田橋の戦いで、

          大海人が勝利し、体勢が決着します。

    7月23日(近江朝)の大友皇子が自害。

          大海人皇子の吉野側の勝利に終わります。


          9月15日飛鳥岡本宮にもどります。


    これを、壬申の乱と言います。



    673年2月27日、 大海人は即位します。これが40代・天武天皇です。

    以降、40・天武(673~)系統の天皇が第48・称徳天皇(~770)まで、

    100年に3年足らない 97年間、天武天皇系列の時代が続きます。


    その中には、天武天皇の血統を絶やさないようにと、

    近親結婚やさまざまな努力をしながら、

    皇后や母親が中継ぎの女帝をしながら8人の天皇での97年間です。



    この皇統を眺めていると、

    ヨーロッパのスペイン王国のハプスブルク家を思い出します。


    (詳しくは、次回以降の記事へ )





    壬申の乱の原因とは、

    天智天皇が自分の後の皇位を

    弟より自分の子供に与えたかったという個人的な理由と、

    天智天皇の急進的な改革によって既得権益、特権を奪われた者の

    不満が爆発寸前まで溜まっていた。  

    そう考えられます。

    その事は、

    大海人皇子が吉野を出てからの畿内での動きを見てみればよく解ります。

    地方の豪族が、

    武器と兵士を準備をして大海人皇子の挙兵を待っていたのです。

    なぜなら、そう感じる位の迅速さで兵を集めて行きますから。



    壬申の乱以降は、おもいっきり天皇の神格化が作り出されます。


    それには、二つの理由が考えられます。

    ひとつには、

    天武天皇系列の天皇の地位を、再び奪われないように強くして

    置きたかった。

    もうひとつには、

    天皇の強権化を進め易い環境が整っていた。  なぜなら、

    大海人皇子が勝利して天武天皇即位の時、その重臣になった者達は、

    天智天皇時代の中・下級官僚たちでした。


    まだ壬申の乱直後は近江朝廷には組織が完全に残っており、

    高級官僚たちの殆どが大津に住んでいました。

    天智天皇の天皇家と深い姻戚関係を持っていたわけです。

    当然、乱の間は、重臣・家臣・親族なども両派に分かれて争うようになって

    いましたから、その反対に大海人皇子に従うものは、

    その下の官僚たちだったのです。



    天武天皇の新しい朝廷で、元近江朝廷の中・下級官僚だった者たちが

    高級官僚になった気持ちはどんなだったか?

    お分かりですね~ 

    「雲の上に乗った!!」感じだったでしょう。


    彼らをして、“われ等が天皇”を神格化するようになるのは、

    至極当然だったのです。

    天武天皇の皇后(後の持統天皇)は、さかんに柿本人麻呂に

    天皇の賛辞の歌を作らせています。


    大君は 神にし坐せば 天雲の 雷の上に いほりせるかも 



    柿本人麻呂はとうとう天武天皇を神様にしてしまいました。


    日本一のゴマすり男?!  あはは。


     それにしても『万葉集』はおおらかですね。

    皇族の不倫の歌を堂々と載せて、載せられた皇族も、民衆も、

    それを許すおおらかさ。   

    その上、ごますり歌も、堂々と載せている! 

    ごますり男を、大歌人だと!  あはは。 


    今の感覚では、どうなのでしょうか?   あはは。


    この時は、まだ、天皇ではなく大君と詠んでいます。



    敗れた大友皇子の皇妃は、

    壬申の乱の勝者、大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女です。


    自分の好いた女性との間の娘の夫と皇位を争うなんて!

    いくら、権力闘争とは言え、すさまじい修羅の命です!


    天智天皇が我が子・大友皇子を思う人の親としての心とは、

    まったく反対の心ですね。

    本当に、大海人皇子の本心だったのか?

    この行動の裏に、野讃良皇女( 後の持統天皇)の怖~い嫉妬を感じます。

    十市皇女は天武天皇と血を分けた親子ですが、

    十市皇女と野讃良皇女との血はつながっていませんから。



    継母による義娘の虐待なのか?


    『日本書紀』には、

    野讃良皇女は、壬申の乱に際して

    大海人皇子と「ともに謀を定め」たと書かれています。

    間違いなく乱の計画に与ったことが知られています。



    彼女こそが乱の首謀者であるという説が、あるのも事実です。
     
    今のようなマスコミがあったら、どう書かれるのでしょうね ? (笑い)


    いまだに大海人皇子の決起の根拠について、その正当性は?などの

    論争が決着していないというのも故あるかな、です。



    それを踏まえてか、天武天皇と皇后は、


    679年に、6人の皇子たち(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、

    ★川島皇子、★芝基皇子で、先の4人は天武の子、★は天智の子)に

    互いに争わずに協力する事を誓わせたと書紀にあります。



    将来における御二人の皇子・草壁皇子への譲位を

    安全なものにする為に、

    天智天皇との皇子たちとの争いを避けようとする両親の親心、

    配慮が透けて見えます。


    こうして見ると、壬申の乱の勝利は、

    間違いなく自己の思いの実現。完璧なる自己実現です。

    誰の自己実現でしょうか? ?

    誰が望み、誰が一番満足をしたのでしょうか?  



    非常に巨大な『陽』の炸裂です。

    『陽』は現象ですから、現象面では間違いなく勝ったのです。

    意識の勝利でもあるのですが、、、

    『陽』の現象の表出には、『陰』のエネルギーの消費があります。


    覚えていただいていますか? 前のブログ記事に載せた、

    家を新築した後に、必ずそこの誰かが亡くなるという不幸な出来事が

    惹起するというコメントです。



    では、天武天皇の為した業の後に来る不幸とは?

    何か? 



    大海人皇子が天武天皇となって、

    その威光が弥栄えてほしいと願ったはずです。


    わが子孫が、永遠に栄える、そういう夢を見たでしょう。

    果たしてそういう夢は、叶うのでしょうか?


    打ち滅ぼされて没落をした天智天皇の直系の人々は?

    もう、天皇の地位をあきらめてしまったでしょうか?


    この先どうなったのでしょうか?





    「天智天皇は、わが子大友皇子に皇位を継がせたかった」と

    日本書紀は伝えています。





    しかし、如何に天智天皇の強い性格と強権を以ってしても

    死ぬまでにそれが叶えられる環境を、整える事はできなかったのです。






    先に、天智天皇に跡継ぎ運がないと言いました。

    太閤秀吉・豊臣秀吉も同じです。

    人から譲り受けた訳ではない、自分で奪い取った権力を、

    わが子へ継がせたかったにも拘らず

    五奉行へ託さざるを得なかった状況、

    最後まで安心できなかった死期の到来、

    天下を完全に押さえた我が子のたくましい姿を見れなかった親心。


    どんな権力者であろうと、自分の運を子供へは譲れないのです。

    運は、別です。



    運自体は、我々の意識外にあり、

    『陰』の本体・高大な無意識の領域のエネルギーに、

    因っているからです....。




    権力は『天の道』に因るのです。

    権力などより、幾千萬億倍も『天の道』の方が凌駕します、

    『天の道』の方が、そもそも本体なのです。




    『天の道』が燃える“太陽”本体なら、権力はそのコロナの一部なのです。



    なにしろ『時』を以って、すべてのいい気になった権力を剥ぎ取り、

    絶頂にある権力者を100年も経たない内に丸裸にします。




    権力者が浮き沈むのも、

    すべて『天の道』が刻む『時』のリズムのせいです。

    権力という現象は、時に由り興り、時に由り廃れます。

    嘘はいずれ暴かれ、贋物はいずれ壊れていきます。


    我々人間も、その範疇の中に居ます。


    最後に残るのは、自然、天と地のみ。

    それこそがあらゆる生命を生じ育んできた『陰』の本体なのです。



    『陽』の現象として、政治的には、

    国家として、より強力な中央集権体制が築かれた。となっています。



    いよいよ次は、聖武天皇の祖母、持統天皇が中心です。


    聖武天皇の皇后・光明皇后の、その母、橘美千代は、そのあとで、、、




    今日も、長い記事にお付き合いくださいまして、


    感謝です!


    みなさまの心が、世界の不思議で満たされますように!

    よき日、

    よき夜を、

    お過ごしくださいね。






























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    女帝1 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その5

    Category : 運命学と歴史
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        テンプレートを変えてみました。右上の Titie list から全記事のリストが出せます。


    秋の日

    秋いろの葉












    春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山






    持統天皇の作られた、万葉集と百人一首の有名な歌です。




    非常に、季節感のある色彩的に鋭い感受性を感じるお歌です。

    おおらかな大自然と一体となった息使いが、みなぎっています。

    非常に鮮烈な言葉使いができる方だったのでしょうね。

    頭の優秀な、自己表現のお出来になる有能な女性と思います。





    古の昔から、わが国は、

    四方の海と豊かな自然に恵まれながらも、

    文明的な文物は海を越えた外国から学び求めて来たようです。

    自国の現状を、常に、このままで良いとは思えなかった

    生真面目さと、勤勉さ。

    それらの気質を育む、適度な緊張感を大陸から受けていた。



    そして、


    国としての形を整える為に必死に生きて来たのです。

    自分の生まれた国の暦史を知るという事は、

    知った後の喜び、または苦悩もあって、

    それが、我々の心のひだを豊かにしてくれます。


    それが、連綿と続く日本人の心の歴史なのかもしれません。






    歴史を見て行くと、

    最高権力者と言えども運命の流れに逆らう事ができない。。

    と言う事に気が付かされます。

    いや、反って、権力への欲望の為に、争い、それを掌中にしたが為に、

    流転するリズムのなかへ放り出されるのだろうと思います。





    まるで、

    権力を手にした者が、それを手放したくないという執着する心で、

    流され翻弄される河と、落ちていく谷底があるようです。




    歴史を探れば、

    必ず、その濁流と谷底を覗いてしまう気がして、

    その暗さを覗くのが嫌いで、歴史はあまり好きではなかったのですが、


    運命学を知る事で、

    その暗さへ光を当てられる力を知り、




    それ以来、


    権力を手にしても、運に流され、谷底へ落ちないようにするには、

    どうしたらいいのか?   



    馬鹿とはさみと権力は、使いよう?  あはは!






    前置きが長くなりましたが、

    前回は、

    倭国と言われていた時代から日本へと呼び名が変った

    国内の政治のながれを見て来ました。

    壬申の乱で大友皇子に勝った大海人皇子が天武天皇に即位します。

    そこまででした。




    天智天皇の子供が乱で自害をしたわけですから、

    天皇の位は、壬申の乱以降、第40代・天武天皇の子孫の方へ、

    天武天皇系流の方へ天皇の位が、移っていきます。



    41,42,43,44,45,46,47,48代の称徳天皇までを言います。

    8人の天武天皇系流の天皇がいらっしゃいます。







    今日は、予告しました通り、持統天皇を中心の記事へ進みます。






    おそらく、長くなりそうなので今回は、持統天皇の即位まで。

    持統天皇による様々な謀略説についてです。



    次回は、持統天皇の即位以降と、飛鳥(あすか)時代最後の天皇 

    42・文武天皇(持統天皇の孫)までの予定です。




     

    天武天皇の皇后 ・ 讚良皇女(さららのひめみこ)は、

    645年、大化の改新後の大化元年に生まれました。

    以後、讚良皇女、皇后と言う表記をします。

    天皇在位中だけ持統天皇と表記します。


    父の天智天皇が弟の大海人皇子(後の天武天皇)に5人の娘を与えた、

    その内の一人です。    


    それが、13歳の時、

    姉の大田皇女らと共に、

    大海人皇子(叔父)の所へお嫁に行きます。

    17歳の時、

    天智天皇が百済救援の為に中国・新羅連合軍との戦争を指揮する為に

    筑紫に滞在した時に、夫と共に天皇に随行し九州まで行った。

    この戦の結果は大敗でした。




    天智天皇は、この大敗の後に逃げるように都を近江に遷都します。

    この戦の影響で、中国・新羅系人達の支援があった大海人皇子側が

    壬申の乱を起こしたのだと言う説もあります。

        

    18歳、その地・九州で草壁皇子を産み、

        翌年に姉の大田皇女が★大津皇子を産みます。 ( ★注1 )

    23歳、正妃であった大田皇女が亡くなり、

        讚良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高くなった。

    28際、吉野へ隠棲した夫に従い、我が子草壁皇子、大海人の異母子・

        忍壁皇子(高松塚古墳の被葬者とする説がある。)を連れて行く。
         
         壬申の乱の時にも、美濃に向けた脱出の強行軍を行った。

    29歳、天武天皇が即位と同時に、皇后になります。


    病気がちの天武天皇に代わり、皇后が統治者として存在感を高める。


    36歳、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例は過去になかったが、

        19才の草壁皇子を皇太子にします。

         (皇后の強い要望があったと推測されます。)

    41歳、686年、天武天皇崩御。

    天皇の「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に

        報告せよ」の勅により、皇后・草壁皇子が共同政務を執る。


    『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、ずっと皇后は天皇を助け、

    側で政事について助言をしたと、あります。







    当然のことですが、

    皇后は吾が子・草壁皇子が天武天皇の後を嗣ぐことを望んでいました。





    次は、天武天皇が崩御された時、悲しんで詠んだ皇后の歌です。





    向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而

    北山に、たなびく雲の、青雲の、星離(さか)り行き、月を離れて



    青雲を天皇、月を自分、星を皇子たちに喩えて詠っています。


    北山にたなびいている青雲が、星や月から離れて遠くに行ってしまう。

    のような意味なのでしょう。





    春過ぎて夏来るらし”のお歌もそうですが、

    目の前にある自然の事物を見逃さない、鋭い観察眼です。

    等身大の目線で周りを見回す、直裁的な情感の持ち主だったのでしょう。

    『日本書紀』には、

    持統天皇を「深沈で大度」、「礼を好み節倹」、「母の徳あり」などと記載

    されています。


    きっと、男勝りな女性だった! あはは!




    持統天皇が、積極的性格と有能さがあったためでしょう。

    それを前提として、彼女による様々な謀略が説かれています。



    まず、 ( ★注1 )大津皇子の謀反
    夫の死後に草壁のライバルであった大津皇子を排除した事です。



    天武天皇の死の翌年、

    大津皇子は、具体的な謀反の計画の存在は判らぬまま、

    川島皇子の密告で謀反が発覚して自殺したとなっています。



    『日本書紀』に描かれている大津皇子は、

    草壁皇子より1歳年下、2人の母は姉妹であって、

    大津皇子は早くに母を失い、

    立ち居振る舞いと言葉使いが草壁皇子より優れ、天武天皇にも愛され、

    頭脳も優秀で、“詩賦の興りは大津より始まる”とあるのは、


    大津皇子を可愛がっていた天智天皇ゆずりと言う事か。


    反対に、草壁皇子に対しては何の賛辞も書かれていないのです。

    草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』、

    その中における扱いがこうなので、

    諸学者の中では、2人の能力差を疑う者はいない現状です。


    草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画しています。


    大津皇子の謀反については、

    学者の中では、謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルとして

    皇后が先制したという皇后の側に攻撃的意図を見る者が多く、

    大津皇子の無実説か、謀反人に仕立て上げられたという説が多い。


    一連の流れに皇后の意志を見る点は共通のようです。







    関連して大津皇子に対する監視スパイ説がある。

    大津皇子が、石川郎女と寝た事を津守通に占いで看破されてしまった後、

    大津皇子が詠んだ『万葉集』の歌について、

    万葉学者の吉永登氏は、皇后が占いではなく

    密偵によって知ったのではないかと指摘をしています。

    直木孝次郎氏がこれを支持して、

    皇后の指示で大津皇子の監視スパイを行ったのではないか

    と言う説もあります。




    さらに、さらに、

    持統天皇が孫の軽皇子(かるのみこ)を立太子させる為に、

    高市皇子を暗殺したと言う説もあります。




    こういう噂が立つという事は、”つよさ”と”こわさ”のイメージがあり、

    余程の意志を持って物事を遂行する女性だったのでしょう。


    裏返せば、権勢は誇っても、頼れる跡継ぎ運のなさ、寂しさを感じます。




    42歳の時、天武天皇が崩御されます。



    その葬礼が終わった後、草壁皇子を即位させるつもりだったはずが、

    その直前に、草壁皇子が突然、皇太子位のままで亡くなります。



    皇后の草壁皇太子を天皇にする皇位継承計画は、

    根本的に狂ってしまったわけです。

    そこで草壁皇子の子、当時7才の孫の軽皇子(後の文武天皇 )に

    次の望みを託すのですが、皇太子に立てるにも幼過ぎます。


    そのために、やむなく自らが即位したと解するのが大勢です。



    天武天皇系列における持統天皇の位置は、

    我が夫・天武天皇から我が子の草壁皇子・孫の軽皇子に皇位を伝える

    役割であったと言うのが通説ですが、

    野讃良皇女自身が、初めから皇位に向けた政治的野心を動機に持ってい

    たとする説もあります。






    45歳の時、持統天皇に即位。(在位 690年~697)
    在位期間は、たったの7年間ですが、

    『続日本紀』には、文武天皇と並座して政務をとったとあるので、

    持統天皇の政治的関与は在位期間だけに限らないでしょう。




    即位の儀式で、

    初めて「天つ神の寿詞」の読み上げを始めたのも、持統天皇からです。

    前代までに行われた“群臣の協議・推戴”を止めたという事は、

    天皇の神としての権威の上昇の結果、

    “群臣の協議・推戴”は必要がなくなったと言う事なのでしょう。



    まさに、天皇の権力神格化路線の最高到達者です。 



    その天皇の権力神格化路線の最高賛辞者としての柿本人麻呂は、


    有能で打って付けでした!  あはは~!

    官位の低かった人麻呂は、持統天皇から個人的な庇護を受け、

    彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として

    天皇とその力を讃える歌を作り続けました。

    前ブログでも書きましたが、

    柿本人麻呂に天皇を神として仰ぎ見る賛嘆歌を作らせ、

    対貴族、対豪族に、強力なプロパガンダ力を発揮させています。



    その代わりに、柿本人麻呂は、

    歌人としての名声を手にして、

    その後は官僚となって地方に転じています。

    貴族ではない彼は、都では食べていけなかったのでしょう。

    まさに、《天下り》のハシリですね。

    ゴマをすりあげた功徳です! あはは。


    今もそうですね。

    総理の秘書官や、民間から国務大臣になった人が、任期が終わったら、

    大学の教官として天下りをしますね。(笑い)



    即位の後、持統天皇は、

    一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治を止め、

    大規模人事を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命します。


    持統期には、今まで影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)、藤原不比等ら

    中国文化に傾倒した若い人材が台頭して来ます。

    不比等は、壬申の乱の時に近江朝廷側だった父、鎌足の子として

    天武天皇の時代は身を潜めて、持統天皇には可愛がられ出世します。



    柿本人麻呂による貴族や官僚に対する歌によるロビースト活動、

    宣伝力、人心の掌握術を心得ていたのでしょう。

    非常に社会性の強い志向、言葉による情報力を上手に使う能力に

    長けていた女性だったと思います。

    頭がいいのです! あはは。 





    特に、時代は腕力から能力へと移行していました。

    能力さえあれば、女だって! 

    剣を持って戦をしなくてもいい、そういう時代に入っていたのです。 



    そう、大歓迎だわ~ 女だって!

    今も、こういう声が聞こえてきそうです。。



    ほんとうに?  

    よろこんでいいの?






    こうした『陽』の現象世界だけに囚われていたら、

    見過ごすのが、無意識の世界、『陰』の本体です。







    女性が、陽の舞台に表れるという事は、

    地中深く張っていなければならない根が、地表へ出て来た!

    そう、解釈をしてください。

    運命学での価値観は、そうです。




    根が地表へ出て来たら、どうなりますか?
    そう! 養分や水分を幹や枝へ送れなくなる!

    まず、葉が枯れ、蕾がしぼみ、実が落ちます。


    最後は、根自体も枯れてしまいますね。


    そうなれば、どんな大木だって・・・・・






    植物は、そうだけれど、人間は違うわ!

    意志と理性があるでしょう。

    それで考えながら生きていくから大丈夫!



    そう、反論が出てくるのは分かっていますが、


    意志と理性は、完璧じゃないわ。

    意識上の力は、『天の道』へは、届かないのです。



    無意識の領域を、琵琶湖の大きさに例えると、


    意識の領域は、琵琶湖へ投げ入れた小さな砂粒ひとつくらい。


    私達が意識できない世界の方が、圧倒的に膨大なのです。




    命や、自然や、しあわせや、苦悩は、

    無意識の領域からのエネルギーに因っています。

    思考や理性や知識では、太刀打ちできないのですよ。







    限りなく研究されて公になった情報をもって、

    持統天皇の貴重なご苦労を便宜的に習いながら、

    記事を書いていますが、


    実は、今の貴女の、貴方のしあわせの為の材料になればと思って

    これを書いています。


    目の前の現象世界に囚われるだけではなくて、

    見えない世界の神秘も、不思議も、

    おとぎ話の絵本の中だけではないのです。


    持統天皇以降は、異様なまでに女帝(元明・元正天皇・・・)が出てきます。




    『天の道』が、

    あなたの命の中心を、地球を含む自然と同じ秩序が貫いている事に、

    気がついてください。





    あなたの命から溢れる不思議に、気づかれますように。。。。。




    感謝です。





















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    女帝 2 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学 その6

    Category : 運命学と歴史
    那須高原 ステンドグラス美術館

    那須高原 ステンドグラス美術館 



















    今日は、予告をした通りに、


    持統天皇の即位以降と、飛鳥(あすか)時代最後の天皇 

    42・文武天皇(持統天皇の孫)までの予定ですが、

    可能なかぎり、先へ進めようと思っています。





           ☆ 41・持統天皇 (女帝 《在位7年》




    持統天皇の特徴的なのは、

    頻繁な行幸で、在位中に31回の行幸を記録します。

    一番多いのは吉野行幸です。


    伊勢に一度、紀伊に一度の行幸も、

    『万葉集』には、近江に一度の行幸も記述されています。




    吉野は、天武天皇との思い出の地というだけではなく、

    我々には想像を絶する心労があったためでしょう。



    本来の女の人生の完成期における安定とは、

    力を持った夫に支えられ、壮年に達した息子、その幼い孫の成長を

    目を細めて眺めていられる平凡な日常です。




    持統天皇には、

    その日常が無かった。。。。。


    天皇神格化路線の最高権力者としての地位は築き上げたけれども、

    自分を守ってくれる夫も亡くなり、頼るべき息子も夭折し、

    残された幼い孫と、嫁と子供たち。

    自分が守ってやらなければならない者ばかりでした。


    しかも、守る物は、それだけではなっかた。

    それ以上に大事な、手にした皇位があった! 





    このストレスは、想像を絶しますよ。


    オリンピックで金メダルを取るストレスなんて、あはは。


    小指の垢くらいのものでしょう。 (笑い)



    人は、手にした楽と同質量の苦労を背負うわけですが、


    苦と楽とは背中合わせなのです。

     






    単に、息子を亡くすという不幸だけでも発狂しそうな位なのに、、、。




    跡継ぎの草壁皇子を亡くし、孫の軽皇子に移譲するまでの公の政務。

    どれひとつを取っても放り出して逃げられないものばかりです。


    いかに自分から天皇になりたかったのだとしても、

    男勝りな有能な女性であったとしても、

    他に類を見ない心労があったのだと。


    それを癒す時空としての、吉野ではなかったか、

    と推察致します。


    それは、あたかも、

    高村光太郎の妻、智恵子がふるさとの安達太良山を思ったように、、、




    持統天皇は、自分の置かれた立場において、

    あらゆる重圧に負けずに果敢に、

    自己の欲望の達成の為に努力をしたはずです。

    その努力には、持てる権力を惜しみなく行使したはずです。







    次のような説もあります。


    草壁皇子の遺児、軽皇子(文武天皇)を天皇にする為の★密約です。


    軽皇子の父の草壁皇子は、即位せず皇太子のままで亡くなっています。



    そういう場合は「皇子」ではなく「王」の呼称で呼ばれるはずなのです。

    が、祖母である持統天皇の力によって、

    立太子以前から皇子の扱いを受けていました。



    不比等と結んだ★密約と言うのは、
    それは軽皇子を天皇にするのに協力をしてくれたら、

    その代わりに、不比等の娘を入内させるというものです。




    7歳の孫が15歳になるまで時間稼ぎに、

    讚良皇女が持統天皇として即位をして、

    この間に都を藤原不比等に因んでいるとも言われる藤原京へと移します。







    藤原京 (694~720)に関して、すこし、、、、、

    2年前ですが、

    この藤原京を造営するための大規模な運河跡が見つかっています。

    この都は、日本で最初の都市計画に基づく都です。



    滋賀県の琵琶湖の南の田上山の木材が、宇治川、木津川の計100km

    を経て奈良県橿原市の藤原京まで、この運河を使って運び込まれ、

    木材などの搬入後、この運河は埋め立てられてたとみられるそうです。


    それは、それで大変な事業なのでしょうが、

    それを成し遂げたのは、すべて奴婢と言われる庶民です!



    彼らの、その頃の生活は、

    土の上に柱を立てたわらぶきの竪穴住居だったのですよ。

    おそらく草類を敷いて、地面の上に寝ていたのです!

    当時は、それが当たり前と言っても、



    天皇や貴族の暮らしぶり。

    その差に気が滅入ってしまいます。
     




    先日の「大仏展」もそうでしたが、

    毎年行く、「正倉院展」にも、

    きらびやかな御物など、珍しい物が展示され、

    わが国の誇るべき文化だと我々は賛嘆をします。



    しかし、一部はそうであるかもしれないけれど、

    ほとんどが外国からたどり着いた御物ではないのか。

    遠い外国と交流があったという証拠にはなるけれど、

    いわゆる当時の倭国の最上流階級の人々が、

    海外からの文化美術品を交易によって手にすることができたと云う

    だけに過ぎないものではないのか。



    同時に、地方と朝廷とがやり取りをした文書が展示をされていて、

    それには、田や畑といっしょに、奴婢が何人、女が何人と、

    まるで奴隷として! 物といっしょに混ぜて交換したり、

    税としてやり取りをした事などが読み取れます。




    それらを見て、「 何が文化だ?」と、笑いたくなります。


    当時の倭国の社会における、統治者の人心の低さ、

    文化以前の野蛮性の臭味を嗅ぎ取ってしまうからです。



    いくら母国の歴史と言っても、

    すべてが正しいと受け入れられるものばかりではないのですね。





    今の政治や官僚主導の政治に対する”怒り”に似た感情と共に、

    何か恥ずかしい心情になります。

    御物の美しさや誇らしさ、それに対比して

    精神の惨めさ=やってはいけない事を発見した時の恥じ入る気持ちが

    沸き起こります。 


    自分が、天皇や貴族のつもりでいるのなら満足でしょうが、

    おそらく我々の先祖は、そうではなかった?  あはは。



    ひとつの例ですが、

    正倉院に納められた御物の目録の中で、

    扇が、 八十  とあるのを見た時、 うそ~!!あはは~


    それはそれは美しい、おびただしい数の芸術品の扇子です!


    信じられない~? と思いましたよ。 (笑い)


    これは格差どころじゃないわ!


    奴婢は、団扇のひとつも持っていなかったでしょうに~。



    意識が! 理性が! 格差や階級を作るのですよ。

    貴族という階級自体、意識と理性の産物です。



    または、人間は格差や階級を正当化する為に、

    理性や意識を発達させて、、、来たのですから、、、。





    そのために、仏教の知識までを利用した。

    仏教を信じて湧いてくる智恵ではなく、

    仏教の智恵を知ったかぶって利用をする仏教の主知主義ですね。


    それが貴族仏教の限界です。


    主知主義は、知者たらんとする人から起こります。




    人間は、エゴの為なら何でも利用しますから! 

     


    では、つぎへ進みます !





          
             ☆ 42・文武天皇 《在位10年》





    持統天皇が52歳の時、


    697年、2月、孫の軽皇子を15才で皇太子にする。

          8月、軽皇子に譲位。持統は初の太上天皇(上皇)になります。


     
    697年、飛鳥(あすか)時代最後の天皇42・文武天皇の在位697~707 
              
             

    ★密約の通り、 不比等は、自分の娘、宮子を入内させます。




    これは梅原猛氏によれば、

    不比等は、地方の美しい娘を自分の娘と偽って後宮に入れたとか。。 



    皇后、妃になろうとしても皇族出身に限られていたので、

    宮子は「夫人」と言う名称ですが、


    『続日本紀』において、

    文武天皇が、正式な妃・皇后を持った記録は無いのです!




    本来は、皇太子になった段階で、

    将来の皇后となるべき皇族出身の妃を決めない事は考えられないので、

    何か原因があってできなかったか、記録が消されたのかもしれない。



    つまり、宮子が一番上位の妻の立場、つまり事実上の皇后だったのです。



    このことについても梅原猛氏は、彼の著書『黄泉の王』で、

    万葉集を根拠に、

    紀皇女こそ妃であったが 弓削皇子と密通した事が原因で

    妃の身分を廃されたという仮説を述べています。


    未来の皇后の不倫という不埒な行為によって公式記録から抹消された?

    紀皇女については記録が殆ど残されていないのです。





    夫人の藤原宮子こそ、首皇子、45・聖武天皇の精神病を病む母です。 






    万葉集に、文武天皇の作られた歌が残っているが、皆さみしい歌です。


    み吉野の山の嵐の寒けくにはたや今夜もわが独り寝む



    本当にさむ~い!凍えるようなお歌ですね~ 





    文武天皇の在位はわずか10年間で、最大の業績は、

    701年、大宝律令の制定・施行。遣唐使の復活です。


    701年、文武天皇と夫人の藤原宮子の間に首皇子が生まれます。

         後の聖武天皇です。


    702年、持統天皇はこの曾孫を見届けて57歳で崩御。


    1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇の墓に合葬されます。



    天皇の火葬はこれが初の例であったそうです。



    なぜ火葬にしたのでしょうか?



    陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。


    持統天皇の遺骨は銀の骨壺に収められていたのですが、1235年に

    盗掘に遭って、骨壺だけ奪い去られ遺骨は近くに遺棄されたという。


    藤原定家の『明月記』には、

    女帝の御骨においては、銀の筥を盗むため、路頭に棄て奉りしと言う。

    塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。

    ひどい話だ。」とあり、

    崩御の500年後に夫・天武天皇と引き離され打ち捨てられた持統天皇の

    悲惨さを物語りその盗掘の顛末が記されています。







    持統天皇の孫の文武天皇も、24歳で病に倒れて亡くなります。

    残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)は、7歳でした。



    母の宮子は精神病で、聖武天皇は物心がついて以後、

    母とは37歳の時まで会う事すらができなかったと言います。。




           



          ☆ 43・元明天皇(女帝《在位8年》




    残された首皇子(後の聖武天皇)は、7歳でまだ幼かったため、

    中継ぎとして、草壁皇子の正妃・文武天皇の母が皇后の経験もなく、

    707年、43・元明天皇、在位707年~715年、が即位します。


    持統天皇の異母妹であり、草壁皇子の叔母であって、

    18歳で甥の17歳の草壁皇子の正妃になっていましたが、

    草壁皇子が即位しないまま亡くなったので皇后にはなっていません。

    持統天皇と同様、孫の成長まで祖母が皇位を続けるというパターンです。









    不思議に思いませんか?





    ★持統天皇の子供は、草壁皇子一人であって27歳で天皇に即位もせず

    に7歳の軽皇子を残して亡くなっています。



    ★持統天皇の孫である文武天皇(軽皇子)も、24歳で

    7歳の首皇子を残して亡くなっています。






    偶然でしょうか?



    偶然ではないのですよ。







    運命学で言えば、天武天皇の家系が女系になって来た証拠です。


    女系とは、頼るべき男性が病弱とか、夭折とか、能力がない等の姿で

    生まれて来て、全く当てにできない為に、

    逆に女性がそれを庇うような力があって生きる為の苦労を背負います。

    女性の側も、男性に守られると言う『陰』の生き方が真っ当できません。



    家系が滅びる末期には、

    こういう傑出した女性が出て男を凌いで成功する現象が現れるのです。
     








    簡単に元明天皇の人間関係を整理しましょう。



    奈良時代になってからの初代天皇である元明天皇は、

    智天皇の娘なので、

    大友皇子、39・弘文天皇、41・持統天皇、とは異母兄弟になります。

    夫・草壁皇子とは、叔母と 甥の関係になります。


    子供は、氷高皇女(元正天皇)、珂瑠皇子(文武天皇)、吉備内親王


    孫は、首皇子(聖武天皇)、広成皇子、広世皇子、膳夫王、葛木王、

    鉤取王、桑田王




    710年、元明天皇、藤原京から平城京に遷都。

         これ以後、794年の平安京遷都までを奈良時代と言います。 

         
         左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、

         平城京では右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。

    712年、古事記が献上され、

    713年、風土記が編さんされた。

    714年、首皇子の元服が行われて正式に立太子をします。

    しかし病弱であった事と皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、

    即位は先延ばしにされます。









           ☆ 44・元正天皇(女帝《在位9年》





    元明天皇は自身の老いを理由に譲位することとなり、

    孫の首皇子はまだ若かったため、文武天皇の姉である草壁皇子との娘の

    氷高(ひたか)皇女が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぎます。



    715年、<44・元正天皇即位、715年~724年在位は9年間。 



    女帝としては5人目ですが、

    それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、

    結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇です。



    また、唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇です。

    ただし、父親は男系男子の皇族である草壁皇子であるため、

    男系の血統は維持されています。



    717年から藤原不比等らが中心となって養老律令の編さんを始める。

    720年、日本書紀が完成。藤原不比等が病亡し、大きな後ろ盾を失う。

    721年、元明天皇崩御。

    「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には、

    「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり、

    「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。


    723年、三世一身の法が制定。これにより律令制は崩れ始めていく。








               ☆ 45・聖武天皇 《在位25年》




    724年、45・聖武天皇(持統天皇の曾孫)即位。在位724~749年

              伯母の元正天皇より譲位を受ける。




    持統天皇以来、ご本人、息子の嫁、その娘、というように女帝が続いてい

    ましたが、天武天皇系流の男の天皇が、皇位に就いたわけです。


    ここでやっと女帝の中休みになります。


    しかし在位の前半、聖武天皇は病気がちで政務が行えなかった為に、

    元正上皇が、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行しました。


    そして在位の後半は、仏教信仰に傾倒した聖武天皇に代わって、

    光明皇后が政務を行いました。


    どちらにしても、天武天皇系流の男の天皇たちは、存在感が弱く頼りなく

    なぜだか今の”植物系”男子を思わすような感じがします。





    それでもこれは暗雲の隙間から漏れた一条の光でしかなく、

    最後、締めくくりの女帝の時代へと進んでいきます。



    文武天皇につづいて、

    不比等は、聖武天皇にも娘・安宿媛(あすかひめ)を入内させます。



    すなわち、後の光明皇后です。

    藤原不比等42歳の時、橘美千代36歳との娘です。


    文武天皇の夫人・宮子とは姉妹です。

    つまり、藤原不比等の長女(宮子)は聖武天皇の母となり、
     
    その聖武天皇の皇后は、藤原不比等の三女(安宿媛)です。




    その光明皇后と聖武天皇との間に生まれた阿倍内親王こそが、

    藤原不比等と橘美千代の孫、

    女帝 46・孝謙天皇であり、重祚した第48・称徳天皇なのです。






    あぁ、やっと、橘美千代が、出てきました! (笑い)

    辿りついて、ほっとしました~。 あはは。



    次回は、藤と橘について、  えっ? 


    そう、藤原氏と、橘氏、

    光明子の母、橘美千代を中心にしたいのですが、、、





    ちょっと歴史は休憩しましょう~   (笑い)



    次回は、

    皆様からいただいたコメントが溜っていますので、

    そのコメントを中心にお返事を記事にしたいと思っています。



    藤と橘は、その次です。





    あなたが、無意識からのシグナルを受け止められますように!


    祈っております。


    感謝です。





























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    藤原不比等 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その7

    Category : 運命学と歴史
    久高島の巨大渦潮



    沖縄、久高島の北約3キロの海上で直径約5.5キロの巨大な謎の渦を

    第11管区 海上保安本部が9月1日午前9時半ごろに発見。


    これが、ある意味、膨大な無意識のエネルギーの表出、のひとつの現象です。








    今日は、藤と橘のお話です。


    藤は、藤原氏。  橘は、橘(たちばな)氏。




    藤と、橘は、天皇に奉仕する集団の呼称である姓、「氏」です。

    もともと皇族でない臣下へ、天皇が下賜(臣下へ与える)された四つの姓

    の内の二つです。あとの二つは、平氏と源氏。 






    なんとなく、今日は”藤”だけで終わりそうな予感がします。(笑い)






    教科書的な藤原不比等は、面白くないでしょう? 



    中臣鎌足の一族はおそらく百済系の渡来人です。

    不比等は、中臣鎌足の次男です。




    鎌足の長男は、不思議な死に方をしています。

    それについては、また。





    「製鉄集団」、鉄器を製造する技術を大陸から持ち込んだ集団です。

    「中臣鎌子」や「鎌足」という名前からも、鉄と中臣の関係が,

    うかがわれます。




    砂鉄の産地であった常陸の国(今の茨城県)の

    鹿島出身の中臣氏と言う説があり、

    「製鉄に必要な火」の関係から「神と人の中を火で取り持つ者」

    「祭祀を司る者」としての中臣氏の役割が見えて来ます。






    例えば、京都の伏見稲荷神社を開いた「秦氏」などと同じ渡来人です。

    新羅系の帰化人である秦氏は絹織物の技に秀でていました。


    その秦氏が築いた朝廷での立場を

    「中臣氏」が横取りしたと考えられます。


    後の世、桓武天皇が長岡京に遷都を行いますが、

    その地は、秦氏が開拓していた山城国です。




    我々は、学校の教科書的歴史教育によって、

    「朝鮮半島からの渡来人が文字や宗教などを持ってきた」程度の

    認識を、日本人の一つの常識であるかのように

    受け容れて信じていますが、





    「古事記」、「日本書紀」には、

    それ以上の驚くべき真実が隠されています。





    たとえば、古事記の最初の方に、

    あの有名な伊邪那岐(イザナキ)命と、伊邪那美(イザナミ)命の

    結婚の話があります。


    二人で柱のまわりを反対側から廻って、出会ったところで

    イザナキ(男の神様)の方から先に、イザナミ(女の神様)に向かって

    【変体漢文・日本語】で『鞅奈珥夜(アナニヤ)』と言って

    二人は夫婦になった。 とあります。


    日本書記では、

    【正格漢文唐代北方音・語】で『妍哉乎(あなにや)』です。  


    誰も、意味は、さっぱり解りませんから、  あはは。

    普通の口語訳は、「ああ、なんていい女なんだ」 と、 (プーっ)


    あはは~! 訳されていたりする処です。    

    (なんか~いい加減ですね~!)

     


    おそらく、誰だって日本語ではない感覚を感じるでしょう? 


    これを見たユダヤ人のヨセフ・アイデルバーグ氏が、

    「イザナミとイザナギの結婚は、

    古代イスラエルから今のユダヤ人も行っている結婚式の伝統である。

    立っている花婿を天的な柱に見立てて、

    花嫁が花婿のまわりを廻って

    「アナ・ニーサ」(Ana-nisa)と言う習慣がある。



    この古事記の「アナニヤ」は、

    もしヘブル・アラム語が変形したものなら、

    「私は結婚する」の意味なのである。」と指摘しています。



    この事から、記紀の編纂された飛鳥時代には、

    ユダヤの習慣が伝わっていた事が、わかります。


    もうひとつ、陶棺という陶器でできた棺おけが、

    岡山県の久米郡に限ってたくさん出土しています。

    倉敷考古館長の間壁忠彦・葭子夫人共著の

     『吉備古代史の未知を解く』に

    「焼き物の棺は、その7~8割に当るものが、岡山県下で発見され

    しかも、県下発見例の中の7割以上が、吉備の中でも美作となる地域

    に集中していることは、あまりにも異常な事なのである。」と述べておら

    れるように、久米町の糘山遺跡や佐良山に多いのが判ります。

     
    たくさん出土した中の一つが国立上野博物館に納められています。

    棺桶の側面に一人の人物が刻まれています。

    問題はその人物が両手で触っている羊です。

    羊は神の使いですが、

    その刻まれている尾の先が太くなっているそうです。

    この羊のことを寒羊といい、中国でも見つかっています。

    ユダヤ人が中国を通って、美作まで連れてきた証拠だと、

    田村誠一氏は著書で述べています。

    川瀬勇氏は、著書「日本民族秘史」の中で、

    この寒羊はイスラエルが原産であり、この羊の毛で作ったフェルトが

    正倉院の御物の中にあると述べています。


    田村誠一氏によると、

    朝鮮の北のほうからやって来たスサノオ、

    月氏国からきたツキヨミ、中山王国から来たイザナギとイザナミ、

    呉の国から来た天照大神らとなります。



    興味深いですね!


    古代の日本には、

    中国人も、朝鮮半島の人も、ユダヤ人もたくさんやって来ていました。





    ある意味で、飛鳥は、オリエント都市、「アスカ」だったのです。


    古代も今も同じです。


    人は、生きていく為に、皆が欲しがる物を求めて日本へ来ます。


    国が滅びた時は、生き延びる為に、逃げて来ました。


    今より、国境も定めが弱く、出入国管理事務所もない!  あはは。 


    出入り自由です。


    倭国の『絹』を求めて、来たのでしょう。

    世界相場で日本の『絹』は金よりも高かったらしい。

    絹と交換の為に、いろいろな物が持ち込まれました。

    金より絹の方が運びやすいのです。

    その絹を、天皇家側と、日本に住んでいた中国人が取り合いました。



    毎年、正倉院展で見る御物を、

    『わが国の文化』という表現をする事に、非常に抵抗を感じている。

    と先のブログに書きました。


    展示されている御物は、本当に、この時代の日本人が作ったの? 

    いぶかしく思いながらいつも帰って来ます。大いなる疑問でした。


    だって、現在の技術で造ろうと思っても難しいのではないか? 


    そして教科書で習ったように、いくら交易のおかげと言いながら、

    それだけの物を手に入れる為の物々交換の文物が、

    当時の日本にあったのか? 






    正倉院には9000点以上の聖武天皇が使ったと言われる物が

    納められている、そうですが、


    そう、実は、正倉院御物のほとんどは、外国産だったのです。


    ご存知でしたか?


    由水常雄氏の『正倉院の謎』(中央公論社)によると、

    7~8世紀の御物は、150点ほどしかないと指摘しています。 



    非常に納得をし、腑に落ちた経験があります。

    学会は、これらを完全に無視をしています。

    今更、訂正をしたら困る方が、大勢いらっしゃるのでしょう。





    日本の歴史はすべて天皇家の血の争いによったものであって、

    皇族間の皇位の奪い合いと云う日本史が正しい事になっていますが、



    天皇の身内間と云う後から作った虚構を作り上げて、

    実は、さまざまな渡来人同士の権力の奪い合いが隠されている。

    東アジアを巻き込むもっと広い権力闘争が繰り広げられたのです。



    日本を巡る近隣国家との外交を見れば、今の世も同じです。



    日本人の癖は、本音と建前を使い分けて、

    真実を覆い隠して、奇麗事で済ますと言う点ですが、

    『なにでも奇麗事で済ます日本』の大元は、歴史からかもしれません。 



    歴史があまりにも奇麗事で済まされています。




    自国の歴史を、奇麗事で済ます国が、

    自国の安全保障を、本気で考えられる訳がないのです。





    藤原の姓も、鎌足からという事になっていますが、


    663年に白村江の戦いがあって、


    わが国は、反曽我、百済派の鎌足と中大兄皇子、斎明天皇以下、

    大海人皇子までが九州まで行って百済への急援軍を指揮をしています。

    そして負けています。

     


    斎明天皇が中大兄皇子、大海人皇子の母親という歴史の教科書的建前

    を受け入れてみても不思議なのは、

    女性天皇が自らと我が子、それも大事な跡継ぎを2人も連れて

    九州まで行くでしょうか? 

    百済の為にどうしてそこまでするのか? 

    戦果のはかばかしくない結果、九州で立ち往生をし、

    命からがら帰朝をしてしまうまで百済の為に援軍を出した理由は、

    何の為なのでしょうか? 

    全く、この動機が、教科書的歴史では説明がなされていません。


    この行動は当時の朝廷の一丸となった政策ではなく、

    朝廷の百済派の暴走と受け止められていた雰囲気の中で、

    中大兄皇子は九州から逃れる様に近江へ行き、ようやく即位をします。


    そういう政治情勢の中で、中臣鎌足は藤原を名乗れなかったでしょう。

    唐・新羅連合国に敗れた倭国の親百済派は失脚をしたわけです。





    天武朝(新羅国の傀儡政権)がやまと国を奪取し、天皇制度を確立、

    初めて天皇と名乗ります。

    こうしてしばらくの間、半世紀は、

    親新羅勢力による日本建国が行われました。




    藤原を名乗ったのは、持統天皇の庇護の下の不比等からでしょう。 




    こういう政治的な日本史を書き出したら、きりがないですね。(笑い)



    政治的、文化的に歴史を見る事は、意識の上からの理解です。

    意識が作り上げるものは、都合よく嘘が言えます。

    意識というものは、『陽』である限りその範疇から逃れられません。


    ウソをコテコテに塗ったくるのが、『陽』の本質です。


    世の中の政治が、そうです。

    経済さま様も、その通りでございます。  あはは。





    しかし、


    運命学的な見方とは、

    クルクル変わる現実の奥にある無意識の世界を観る事です。

    人為で操作ができないゾーンなのですよ~ 

    恐るべき、尊ぶべきゾーンです。

    私も、そこまでしか分かりません。  


    つまり、ウソを付きたくてもつけない。

    付こうとしたらいけないのです。







    では、本筋へ、 前置きが長くなりましたが~~、(笑い)


    物部、蘇我、中臣氏などが、ルーツは朝鮮だったかも知れないが、

    日本の豪族として根を張り、彼らが倭人国家の形成をした者です。





    そういう激動の飛鳥時代に、藤原不比等が出て来ます。



    まず、言える事は、前置きに書きました

    朝鮮半島の皇族の力を利用しないと倭国を治められなかった現実、

    この倭国以来の歴史を分かっていたのが蘇我氏であり、

    だから天皇を傀儡にしたのです。

    その傀儡ともいえる現実の天皇の流れを、すべて隠蔽して、

    あたかも一つの流れのように作り上げた人物こそが、

    天武天皇の正妃、皇后であった持統天皇です。




    その持統天皇に見出されて、その能力を買われ、

    天武、持統天皇系流の我が天孫、皇孫の正統性を確立し、

    後世の為に残すと歴史をねつ造する事を託された人物こそが、

    『古事記』、『日本書紀』の編纂に深く携わった人物、

    藤原不比等であろうと思っています。


    そこまで、天皇家の裏の裏まで知った不比等が、

    天皇家に迫る権力を実現するのは、楽なゲームだったでしょうね。







    前回、

    聖武天皇は、いろいろな理由で政務をしなかったと書きました。

    元々の役割は、祭祀者であり、実際の政務は豪族が行っていました。、

    そのように直接天皇が政務をしないこともあったのです。

    そういう場合は、


    政権は、天皇の血縁関係、皇族、王族に限られていました。

    いわゆる皇親政治です。


    皇族ではない藤原不比等は、持統天皇にいくら重用されたとしても、

    政権は担当する事はできませんでした。






    それで、


    なんとか


    政治権力を握る為に天皇家と姻戚関係を持とうと、

    天皇の周りの豪族は、自分の娘を天皇が関係する女性にしようと

    やっきに

    なったわけです。





    藤原の全盛時代を築いた藤原不比等は、

    659年、父・鎌足が中大兄皇子と為した大化の改新の14年後に誕生、

    10歳で父を亡くし、3年後の壬申の乱では負けた近江朝廷側とされ、

    一人、山科の田舎へ預けられ静かに目立たぬように潜んでいました。

    もしか、

    父・鎌足が生きており、壬申の乱の勝者、天武天皇側だったなら、

    朝廷の重臣の御曹司として恵まれたスタートをしたはずです。



    しかし、まさに、老子58章「禍福倚伏」の通りです。


    彼が青年期に至るまで田舎にかくまわれ、政治的に排除され


    不遇だった事が、非常にラッキーだったのです。



    なぜラッキーか?



    若い頃の苦労は買ってでもと謂いますが、その苦労が、まるで只!

    で手に入った訳ですから。    ほほっ。  

    『天』の配慮、 『時』の仕掛け、  ”運 ” の力の物凄さです。


    そう! 父親を失って、最上の成長期をすごしている事です。


    そして、権力の渦の完全な外側に居た事です。




    その間に、他者から使役された我慢ではなく、

    自然に対する辛抱を覚え、忍耐が身についたはずです。


    虚飾や虚言のない逆境の中で、身に着けたものを持って、

    (これが陰です。) 都に戻ったら、どうだったでしょうか?


    恵まれた中で、誉められ、甘言に馴れている同年代の貴族や豪族の

    御曹司たちが、不比等の目にどう映ったか?




    不比等が、『陽』である人間の造作の世界に入って行って、

    頭角を現すのは当然でした。

    田舎に付して隠れていた時の『陰』の蓄積があったからです。

    おそらくですが、持統天皇にいくら寵愛されても、

    調子には乗らなかったはずです。

    努力も、時を待つ辛抱も、惜しまなかったはずです。

    なにより、その後得た自らの地位を失うような行動はしなかった。

    親の力で与えられた地位ではなく、

    自ら這い上がって手にしたものだからです。 


    そして、おそらく藤原という血縁に、生まれた事を感謝したはずです。

    なぜなら、田舎から戻る場所を与えたのは、藤原という家だからです。


    持統朝でやっと、31歳で判事に昇ります。






    これが、運命というものです。


    運命という力が、ここまでの人を生み、育てるのです。 


    果たせなかった父親の執念も強かったはず、


    それらの無意識の陰徳が、彼を上へと押し上げて行ったのです。


    田舎の山河が、彼の揺りかごとなり、心身を守ったのです。


    価値は、無意識にこそ存在します。 




    決して、目や耳で意識できる母親の言葉や、

    偉大な先生がいたからでは、ありません。


    そういう『陽』の営みの存在は、

    その人の運命(無意識なる陰徳)が、『天』たる『時』を選び、

    必要な環境を引き起こすだけに過ぎません。 



    父親がいない方が運が開ける。そういう運の人もおります。

    子供は、誰もが理想的な環境で、力を出すのではありません。

    誰からも援助を受けない方が、伸びて行く運もあるのでます。 






    ちょうど、ここまで書いて、気が付いたのは、




    今の中国で、2年後の2012年秋、第18回党大会で


    党総書記に選出されることが確実視されている習近平・国家副主席


    の生い立ちによく似ています。




    習近平・国家副主席は、

    新中国建国に大きな功績を残した元副首相、習仲勲氏の息子です。


    それだけを聞くと、

    あ、アッソウさんや鳩ぽっぽとおんなじ御曹司?と思いきや、


    父親が権力闘争に巻き込まれて文化大革命で失脚した為に、

    彼が10代、一家は離散し、習氏も農村送りになります。


    当然、親から離れて一人でです。


    「下放」された田舎で、自分で崖をくり貫き竪穴式住居を作って住み、

    井戸掘りなどの重労働をしながら、

    夜は、ランプの光で本を読んだそうです。

    勤勉な働きぶりで村人に信用を得て入党を認められ、

    20歳で村の共産党支部の書記になる。



    習氏は、田舎で困難に打ち勝つ根性を得た。と述懐しているそうです。




    非常に、不比等と似ていませんか?


    生まれと育ち、権力の移行による社会からの切り捨て、

    親の失脚、 家族と離れた不遇時代。

    成人するまでの自然の中における育み、普通にはない苦労。


    彼らの揺籃期において、


    両親の助けは、不思議に受けていないのです!




    意識世界においては、ある意味、ゼロからの出発に見えますが、


    無意識の世界においては、豊穣な陰徳に守られていたのです。




    それが、見えますか?


    見えない? そうでしょうね~   あは!


    あなたに、それが見えるようになってほしいので、


    このブログを書いている訳です。





    本筋に戻ります。


    習氏は、お世辞にもハンサムではない(オ~、ソーリー!)のですが、

    女性にうまくアタックする所も、不比等と似ています。 あはは。


    彼の奥方は、国民的歌手の彭麗媛、大スターですし、

    「尊敬している」と言って、約半年でスピード婚だそうで、

    ゴシップでは、元愛人とされるテレビキャスター・夢雪もやはり

    美女なのだそうです~。


    これは、習氏が単身赴任の時期に起こった事で、発覚した時、 

    奥方の方から、「私が仕事を止めて、貴方の傍にいるから」と言って、

    おさまったとか。  賢い奥方をお持ちのようですワ! (笑い)



    いろ男、金も女も、ありにけり~、ですか。 (笑い)




    ついでに、申し上げますと、 (笑い)


    ここが、子供を育てる大事なポイントですよ!

    可愛い吾が子は、シュガーハウス(甘い家)や

    ハニーホーム(蜜の家)で育ててはいけません!  

    父親の失脚などで田舎へ預けられるのが良い運です? あはは。 




    ちょっと、これは衝撃かもしれませんが、



    それと、もうひとつ、大事な事を。


    少・青年期に母親と遠ざかるという事も、重要なことです。



    これに関しては、また記事にする機会があるかと思いますが、

    母親と甘えた関係になる事は、人間という生物にとって、


    害こそあって利は何もないからです。


    命と言うものは、一が単位、それで充足されているものだからです。





    藤原不比等も魅力があったのでしょう。
     

    たくさんの妻と子供がいたようです。

    不比等の時に、まず蘇我系の女性たちとの間に四人の息子を作り、

    藤原氏の基礎を作ったと言えます。




    天智天皇の近江朝廷から、 天武天皇の飛鳥へ、 そして平城へ、 


    それから平安へと、


    権力の中心で確たる磐石な体制を築いていったわけです。






    こういう不比等が、どうして?

    縣犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)美千代に出会ったのか?




    古代における最強カップルといえば、★天武天皇と持統天皇★です。



    しかし、橘三千代と藤原不比等もそれに劣らぬ ☆最、☆最強! 


    カップル、凄まじいまでの御夫婦ですね。  (笑い)


      




    次回は、美千代。


    これだけの不比等に嫁しながら奥方としては納まらず、

    男性顔負けの活躍で最高地位に上り詰め、

    娘を皇后にまでした女傑です。


    彼女は、3代先が無くなる為に、努力をした訳ではないのでしょうが、


    結果、彼女の孫の代で、最後の大仕掛けの大花火が消えていきます。


    人は、自分の孫の代で、自分の因果が見えるようになると言います。


    わが身が栄える事だけに囚われていてはだめなのですよ。


    あなたの3代先に、あなたがどうだったのか? 



    その答えが出るようです。




    自分の為の欲望を満たす努力というものは、

    このようにはかないものなのです。




    、、、、、。





    よき日をおすごしください。





















    参考文献:由水常雄著  『正倉院の謎』  中央公論社

         『常陸風土記の史的概観』  河野辰男・著

    参考: 井上友幸氏による新説・日本の歴史


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    橘美千代 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その8

    Category : 運命学と歴史
    渓谷の晩秋


    錦秋の渓谷美    










    やっと、橘美千代(たちばなのみちよ)までたどり着きました。








    今回のこのテーマ『天武天皇流の天皇の女系化、、、は、


    家系と言うものは、女系化の特徴を辿りながら断絶をするという例を、


    もったいなくも天武天皇系の家系を例に書かせていただいている記事です。


    実際、藤原不比等よりも、


    持統天皇と橘美千代が主役級の人物、キーパーソンなのです。







    今日の写真は、橘美千代にふさわしい写真を、、、と、

    秋の絶景とも言うべき錦秋のあでやかな風景にしてみました。


    如何に艶やかな美しさがあったとしても、

    1ヵ月後の今、また訪れたとしたら、、、、、


    きっと、そこは薄墨色の冬景色。

    おそらくモノトーンの幽玄な世界に変わっているはずです。




    あでやかな秋色と、幽玄なモノトーンの冬色、


    どちらがお好きですか? 




    自然には、多様な植物が生きており、さまざまです。

    枯れる物、芽吹く物、入れ替わり、棲み分けていきます。


    人も、そうです。

    滅びるものもあれば、栄えるものもある。


    なぜ、栄えるのか?

    なぜ、滅びるのか?


    それが、運命学です。 





    それを行うのが、『時』、『天』です。


    人為、人智、理性や意識の入り込む隙のない、現象を起こしているものです。




    今の時代は、水深5mmの浅瀬のような思潮が流れています。


    皆が、物質的な成功を求めて、

    自分の思い通りに生きる事が、幸せだと思い込んでいる。


    今の時に、皆が追いかける成功と呼ばれるものが、本当に成功なのか?

    池の中の踏み石を、飛んで渡るような危なっかしさです!



    特に女性が...女の枠を壊してまでも幸せになろうとしています。


    本当に、それが幸せの結果をもたらすものかどうか、、、


    壮大な実験が行われているようなものです。



    思い通りになった事を成功と認識をして喜ぶのか?


    成功の絶頂期を衰退の始まりと認識をして危ぶむのか?




    その分かれ目は、『今』という時を、どう捉えるかという点でしょうね。



    今を、過去からたどり着いた時点と思うのか?


    今を、未来への出発点と思うのか?


    どちらが、よろしいのでしょう? 






    持統天皇と橘美千代は、力もあり、立派な夫も持ち、


    いわゆる女性のその時代の枠組みからはみ出てまでも、


    自己の思いをあらゆる方法で実現した二人です。



    このお二人の生き様の結果が、


    本当に望んだものが最後に手に入ったのか?


    このテーマの記事も、Vol.8になりました。


    最後まで記事を読みながら、それを確認をしてください。


    あなたの参考にしていただければうれしいです。








    では、本文へ、 不比等と美千代の出会いです。



    このあたりから、このテーマのエンディングへ向かって、

    誰が誰と、等の錯綜とした人間関係が出てきます。

    めんどうですが、注意を払いながらお読みになってください。


    嘘や誤魔化しのできる政治的表舞台の出来事よりも、

    家族として表れる裸の人間の歴史を見ようとしてください。














    不比等が, 大納言(だいなごん)になって、


    持統天皇との密約を守って、 

    初めて自分の娘を天皇へ入内させようとしたのが、長女・宮子ですが、 



    実は、不比等の実の娘ではない、紀伊の寒村から連れて帰った娘だ。

    と言う説もあります。 


    おそらくそうだったでしょう。


    入内させても、寒村生まれの育ちから来る立ち居振る舞いの齟齬は、

    周りにしっかりした命婦を付けて守らせればいいのですから。


    おそらく不比等は、自分が同時期に子供を作り、その我が子と、

    宮子が産んだ皇子と結婚をさせようと、そこまで考えていたと思います。





    願わくは、我が女児を授かり、文武天皇の皇太子と、、、



    その為に、近親結婚を避けるために、

    実の娘でない女を、娘と偽って入内させたのでしょう。



    この時代は、異母兄弟、異父兄弟の間の結婚は世間が認めていました。





    不比等が、宮子を我が娘として偽って入内させ、

    これから作る我が子との閨閥を諮る以上は、


    その子の母は、今までの子供の母親以外の女性でなければならない!!!




    その為に妻にする打って付けの女性。


    宮子を自分の娘として入内させる為に、色んな裏情報を得られる女性。






    この二つの条件を満たす人間として、


    その時に、目を付けたのが女官・縣犬養連美千代(665年~733)です。







    なぜなら、彼女は、内命婦(ないみょうぶ)として後の文武天皇になられる

    軽皇子の乳母を務め、後宮で勢力を振るっていたからです。




    美千代は、その当時、30敏達天皇の曾孫「美努王」に嫁して、

    葛城王(橘諸兄)、佐為王、牟漏女王(藤原房前室)の

    3人の子供を生んでいました。
      


    ( 多産系の女だ!と不比等は、認めたのかもしれませんワ!)  




    天武天皇時代の、皇后だった頃からの持統天皇のお気に入りの女官で、

    天武、持統、文武、元明の4代の天皇に内命婦(5位以上の位の女性)として

    仕えた奈良時代前期の女官です。 
     



    以後、橘三千代 と言います。





    694年、頭のいい不比等は、橘三千代(29歳)を、三千代の夫「美努王」が

        大宰府に赴任中に後妻とします。 



    不倫の上の略奪です。だれが不比等に逆らえたでしょうか?  



        不比等35歳です。 


    きっと、3年後に控えた宮子の入内に、必要だと判断をしたからでしょう。



    697年、宮子は、(第42代)文武天皇の夫人になります。

        紀伊(今の和歌山県)の寒村の娘は、幸せだったのか?



    701年、藤原不比等42歳、次々と重要な事が起こった年です。


        まずは、持統太上天皇に命じられていた大宝律令の完成。


    同 年、文武天皇と宮子に、★1.首皇子、つまり、後の聖武天皇が誕生。


    同 年、藤原不比等と橘美千代の間に、

        ☆2.安宿媛(あすかべひめ)つまり後の光明皇后が誕生。 





      これには、ちょっと驚きますね! 同年に子供を作って!

      

         不比等の思い通りになっています。 


    しかし、宮子は産後、ひどい鬱症にかかって一室に引きこもり、首皇子との

    母子の対面も全く無くなります。


    この事態は不比等にとって、

    天皇の外戚にはなれたけれど、次は天皇の血縁者、

    天皇の外祖父になるという戦略には、不利な状況でした。 





    というのは、宮子の産んだ皇子には、二人の競争相手がいたからです。






    文武の妻たちは、宮子のほかに、もう二人、

    特にその内の一人、嬪、石川刀子娘(いしかわとねこのいらつめ)は

    二人の皇子を産んでいました。




    しかも、この嬪は当時第一の豪族である蘇我氏の正統であり、

    藤原氏にとっては強敵であったわけです。




    不比等は、自分の戦略を達成するには、

    この嬪と二人の皇子を除かなくてはならなかったのです。



    (大化改新で蘇我入鹿は滅びても、蘇我氏自体は健在でした。) 



    それには、なにをどうすればいいのか?

    次の打つ手を、不比等の頭脳は、弾き出します。



    つまり★1.首皇子の乳母・養育係に誰をするか? です。



    もっと分かり易く言うと、

    首皇子を天皇に即位させる為の役に立つ乳母は、誰か?です。 

     


    乳母は、美千代しかいない! 


    元々、不比等のゲームソフトに戦力として美千代は組み込まれていました。


    同時に子を産んだ美千代は、大事なおっぱい・母乳も出ます! !  



    なんということなのでしょう!  あは!








    庶民の私たちには、天皇の外戚になるなんて! えっ?

    可能性も無い我々は、そんな~! と抵抗も感じる事だらけです。

    想像をしようにも、、、できない事だらけです!



    しかし、立場が違って、手を伸ばせば手に入る可能性があり、

    権力も独占して一番近くにいる二人にとっては、

    自分がそうしなければライバルにしてやられるわけですから、



    そういう目的を持つ事、考え付く事は、至極必然だったのでしょう。 




    金銭や権力にまつわる感覚は、


    それらを手にして、潤沢に意の侭に行使できる境遇に立たなければ

    分からない事なのでしょうが、


    それらを手にした人間が、「人が変わる」という事は事実です。


    金銭や権力は、常人の常識や倫理感覚をも狂わせる魔力を持つ物です。 






    きっと不比等の心一つで、決まったはずです。


    宮子が産んだ、★1.首皇子の乳母は美千代です。 



    乳母になった美千代の最大の仕事は、

    すっかり自分を信用してくれている元明天皇へ(文武天皇の母)

    宮子以外の二人の嬪たちの品行が悪い事を吹き込む事でした。



    未亡人で、しかも潔癖な元明天皇は、

    自分の息子(今はなき文武天皇)の嬪たちが、

    他の男を作っているという噂に耐えられるはずもありません。


    それで、二人から嬪という位を取り上げてしまったのです。





    何の為に? 




    ふしだらな嬪たちの、その腹から生まれた皇子達が、皇位に即(つ)く資格を


    失わせてしまう為にです! 




    ひどい話! と、思いませんか?


    しかし、やらないとやられるという権力闘争の修羅場では当たり前でした。


    凄い! こわいですね~。これが、陽の世界、闘争の世界です。 





    最、最強! 凄まじいまでの不比等と三千代の夫婦のタッグです。 



    また、三千代と不比等は、再婚前のお互いの子供同士を結婚させる事で

    お互いの一族の結束を固めようとしていたようです。


    美千代の前夫との娘・牟漏女王の結婚相手は不比等の息子、

    つまり牟漏女王の義理の兄・藤原房前です。


    また、三千代は不比等との間に二人の娘を産んでいますが、


    ひとりは聖武天皇に嫁がせた☆2.安宿媛。

    なんともう一人は、三千代の連れ子の葛城王と結婚をさせています。


    (義理とは言え、自分の子供同士でですよ!)





    とりあえずは、美千代の前夫の「美努王」は皇族ですから、

    美千代の子供は皇族になります。だから王、女王と呼ばれます。


    また、家系は、男系で継承をして行くわけですから、


    当時の女性は、皇族男子と結婚をすれば皇族になれますが、

    男性は、皇族の女性と結婚をしても皇族にはなれません。


    藤原氏は、娘を天皇に嫁がせますと、娘は皇族になれるのですが、

    自身は皇族にはなれません。




    また、当時【律令】において定められていたのは、


    ・天皇から5代までが、皇族、6代からは非皇族であり、

    ・皇族は、皇族としか結婚ができない。

    ・女性は、13歳から結婚ができました。



    美千代は不比等と結婚をして、皇族から降り、

    美千代の連れ子は、皇族のままの身分だった事になります。

    不比等の息子より、美千代の子供の方が、格が上という事ですね。




    その上、美千代は、 


    708年、元明天皇の大嘗祭の時に、

    天武天皇の時代から仕えている事を認められ、天皇の杯の中に浮かぶ橘

    を見た元明天皇から橘宿禰の姓を賜ります。 

     


    女性ですが、橘氏の実質上の祖です。 





    710年、元明天皇が、都を平城京へ移す。

    715年、平城京の第一次大極殿の完成


    文武天皇と宮子の間に産まれた、★1.首皇子と、

    藤原不比等と橘美千代の間に産まれた☆2.安宿媛は、


    首皇子の世話係が安宿媛の母親・美千代なのですから、幼いころより睦みあ

    ってお互いが理解し合った仲だったでしょう。二人が16歳になった時に、


    不比等と三千代は、自分たちの娘・☆2.安宿媛


    716年、★1.首皇子に入内(結婚)させます。
          
             
        以降、★1.首皇子は、そのままの表記で。    
       
        以降、☆2.安宿媛を、☆2.光明子と書きます。


       


    ★1.首皇子 は、病弱で気弱であり、臆病でした。

    反対に、☆2.光明子は、明るく気丈であったと思います。 


    女系の典型的なご夫婦ですね!  あはは。 







    毎年の正倉院展での私の個人的な感想ですが、

    写経など☆2.藤三娘(光明皇后)の御筆跡を拝見しますと、

    横に引く線は細いが、縦や払いの線の幅は太く広く、力強い激しい筆使いで、

    女性とは思えない剛毅な感情の持ち主だったと想像します。


    几帳面に揃えた経の文字の並びからは、しっかりした強い意志と、

    ストレートな感情表現、力を抜かない律儀さを感じます。 



    ☆2.藤三娘とは、藤原家の3番目の娘という意味で、

    書などのサインには、光明皇后は、ご自分の事をこう書かれています。


    光明皇后の筆力は雄健と称されているようです。





    この結婚以外に、三千代はもう一つ、

    首皇子に一族の娘・県犬養広刀自(ひろとじ)をも入内させています。

    彼女の出身の県犬養氏は、中級の貴族ですから、

    本来、皇太子に入内というのは無理な家柄です。

    これは、娘・☆2.安宿媛が跡継ぎを産めない場合の安全弁

    だったのでしょう。 





    717年、三千代が2階級昇進して従三位となり、正式に「貴族」となります。



    718年、★1.首皇子★17歳と、☆☆2.光明子17歳に、

         
        ☆3.阿倍内親王が誕生。=後の孝謙・称徳天皇です。






    720年に不比等が亡くなるまで、あと2年。

    この頃が、美千代と家系にとって、ピークの時期になろうかと思います。





    持統天皇の時以来、自分が仕える女主人に、完全に気に入られ、

    寵愛を受ける美千代も、実力派ですが、


    その力を見抜いて妻にし、利用した不比等とは、、、 


    いかばかりの男であろうか?  (笑い) 





    古事記や日本書紀の編纂を通じて、

    密かに知りえた天皇を取り巻く権力闘争の実態の歴史のかずかず。


    それから学んだ事は、難くないはずです。

    このご夫婦には、舌を巻きます。 まったく、無敵艦隊そのものです。 (笑い)




    しかし、無敵と言う事は、怖いことですね。

    人界に敵なしとは、天をも恐れない事かも知れません。


    誰よりも強い人は、『天』にやられるしかない。

    『天』とは、『時』。


    『時』を敵に廻すとは、、、自然淘汰。


    叩いたから、叩かれた。  あはは。

    目先のちょっとした因果応報ではありませんよ。


    叩かれないのですよ。やさしく愛撫されるように・・・

    気が付いた時は、もう手遅れ。取り返しが付きません。


      

    原因から10~30年掛かる因果応報が一番怖いのです。 


    『天』・『時』には、逆らわないように。。。 



    人間も植物も、同じです。


    自然に合わなければその種は、絶えます。




    物質文明に酔って、寝言を言っている場合ではない。


    無意識にこそ叡知が、存在する事に目覚めて、、、。


    これが、このブログを書いている動機なのです。。




    次回は、不比等が62歳で亡くなった所からです。





    女の出世は、手を叩いて喜んでばかりいられる場合ではないと、、、


    世のみなさまに、参考になさっていただければ、


    と願っています。



         



    よき時をおすごしくださいね。




























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    聖武天皇 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学   その9

    Category : 運命学と歴史
    越塚御門古墳


    大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる「越塚御門(こしつかごもん)古墳」/7世紀後半


    2010.12.12 奈良県明日香村での現地見学会で大勢の考古学ファンらが全国から訪れ、

    硬い石英閃緑(せんりょく)岩を加工した精巧な石室に熱心に見入っていた。(YOMIURI ONLINEより)










    前回の『 天武天皇流の天皇の女系化、、、』 Vol.8を


    アップした翌日 2010.12.11 に、


    飛鳥時代の女帝、斉明天皇の孫であり、天智天皇の娘である


    大田皇女の墓とみられる「越塚御門(こしつかごもん)古墳」↑ が、


    斉明天皇の墓所である牽牛子塚(けんごしづか)古墳の前で、


    発見されたという報道に接しました。


    何故か胸がドキドキして。。。 






    日本書紀の

    『 斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬する。皇孫大田皇女

    (みまごおおたのひめみこ)を陵(みささぎ=斉明天皇陵)の前の墓に

    葬る 』 の記述を裏付ける第一級の発見だそうです。



    斉明天皇は女帝で、天智天皇と天武天皇?の母にあたる人です。






    このブログでも、『 女帝1 / 天武天皇流の天皇の女系化と、、、』で


    大田皇女の事は、取り上げています。  

    大田皇女についてはここをどうぞ



    大海人皇子へ嫁いだ天智天皇の5人の娘の長女で、正妃でした。

    大海人皇子が天武天皇に即位をした時に、皇后になるべき女性で、


    2人の子供、大伯皇女7歳、大津皇子5歳を残し20代で夭折します。

    この二人の子供は、母方の祖父である天智天皇に引き取られました。


    大田皇女の代わりに妹が皇后になります。 それが、持統天皇です。

    あろう事か、後々、

    持統天皇によって彼女の産んだ大津皇子は粛清されます。


    そういう悲劇的な、日本人のDNAにとっては、”義経的な同情感”

    判官びいきの民族の心を刺激する要素がある皇女なのです。



    “悲運のプリンセス”

    すこし、イギリスのダイアナ妃を慕う感情に似ているかもしれませんね。




    その皇女が、祖母(斉明天皇)に守られるように眠っていた。

    その事が、1300~1400年の時を越えて、

    現代の私達の心にさざ波を起こしたようです。


    午前中だけで1500人を超える考古学ファンが詰めかけ、

    感嘆の声を上げながら人々は、石室を眺めたという事です。





    約、3ヶ月前になりますが、


    平城京遷都1300年の佳節の年の去る9月9日、

    マスコミの報道で、


    牽牛子塚(けんごしづか)古墳に、


    墳丘のすそを八角形に囲む敷石や石室を囲んだ巨大な石柱が出土し、


    天皇クラスの墓に限定される八角形墳だった事がわかり、


    斎明天皇陵と判明したというニュースを知って、


    この『天武天皇流の天皇の女系化、、、』の記事を書く気持ちになった


    のを思い出し、時の不思議さを感じています。 





    斎明天皇陵については、現在、次の両説があります。


    A.『日本書紀』に、天智6年(667年)2月27日、 

    斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を、

    小市岡上陵(おちのおかのうへのみさざき)に合葬したとあります。

    これらの古墳を造営したとされるのは、

    斉明の子、間人皇女の兄、大田皇女の父である天智天皇です。

    近江へ遷都をする前に、自らの母親、妹、娘を同時に葬った場所です。


    Aにより、宮内庁は、現在、

    高取町車木(くるまき)の丘陵の山頂に築かれた車木ケンノウ古墳を、

    斉明天皇と間人皇女を埋葬した越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)

    として、その前に築かれた大田皇女の墓を

    越智崗上墓として管理しています。



    B.ところが、『続日本紀』の文武天皇3年

    699年、には奇妙な記事があって、10月20日、 
    文武天皇は、

    「越智山陵」と「山科山陵」を新たに造営するよう命令を下したと言う。


    「越智山陵」は斉明天皇の墓で、「山科山陵」は天智天皇の墓である。




    もしこの二つの山稜の造営が事実ならば、

    斉明天皇の亡骸は間人皇女の亡骸とともに、

    小市岡上陵から八角形の牽牛子塚古墳に改葬されたことになる。

    従って、今年9月に発見された陵墓である。となります。



    しかし、この時には、文武天皇は16歳です。即位が同年8月ですから、

    天皇になって2ヶ月で、こういう命令をしたとは思えない。


    天皇陵を八角形とする案を考え出したのは、若き文武天皇ではなく、


    持統上皇が、夫の心酔した道教の思想に基づいて、


    彼女は一族の天皇陵を八角墳へ改造することを命じたにちがいない。




    しかし、宮内庁は、13日の定例会見で、

    「 現時点で陵墓の指定見直しまでは考えていない」と述べています。


    学会もそうですが、

    官という処は、革(あらた)むると言う事ができないですね。

    なにのシガラミもなく革むる事ができるのは、

    尻軽い庶民ですね~。 あはは。




    前にも書きましたが、このあたりの歴史を見直して見ると、

    納得がいかない事が、非常に多いのです。


    田村皇女の墓発見について書いた前置きが、長くなりました。



    そろそろ、


    本題の方へ、進みましょう。










    時は、斉明天皇の治世から60~70年後、奈良時代の終り、




    藤原不比等と橘美千代の孫の代へ、


    天皇家は、天武天皇と持統天皇の曾孫の代になっていました。






    政治体制は、天皇や皇族を中心にした皇親政治から、


    とうに、藤原氏を始めとする天皇の外戚(母方の実家)が、


    実権を握るようになって行ったのです。





    権力を掌中にした不比等が行った外戚政治、摂関政治というものは、


    娘が天皇と結婚をして皇子を産まなければならない条件下です。


    人にとって

    最高の慶び事である孫の誕生と言う、自然の恵みである摂理を、


    自己の権力欲の為には、

    それすらをも利用をする。為なら何でもするという


    不比等の”仁義なき戦い”の凄まじさを前回の記事に書きましたら、





    それに対して、次のようなコメントをいただきました。



    素朴な疑問なのですが、

    この時代には、もう儒教が入っていたのでしょう?=

    なぜ、どうして、倫理観が低いのでしょうか?=

    それが、人間のサガと言われればどうしようもないですが。=

    知って悲しい事、歴史にはたくさんありすぎですね。=





    本当に、そうですね!


    不比等が編纂に深く関わった『古事記』・『日本書紀』によると


    4世紀末、百済国から王仁博士が論語10巻・千字文1巻を携え渡来し、


    日本国に漢字と儒教を伝え皇子に教えたとあるのに~。 

    王仁博士の墓


    あはは~! どうなっているの??

    私も、大きな声で言える立場ではございませんが、、、


    ”論語読みの論語知らず ”? (爆笑)




    儒教が、どれだけ

    当時の天皇や貴族の生き方の中へ受容されていたの??

    優秀な頭脳ですから、知識として頭は覚えているかもしれませんが、

    心、精神まではとてもとても~! 及んでいない!   あはは。

    この時代のあらゆるもの、古事記や日本書紀、律令制度、仏教、等々は、

    中国の唐に対する示威活動、日本が対等な国であると見せるための

    セットアップだったのではないかと思います。 


    いわゆる、《万国博覧会》。


    唐の皇帝から認めてもらいたい一心で、突貫工事的にしたものでしょう。

    だから、嘘もある。 まゆつばもある。 そんなものでしょ!

    それをやったのが、天皇家の筆頭ブレーンである不比等です。 





    唐の目線に付いていくのに精一杯!

    形だけの国体を整えたのではないか。

    日本は、いつもそうです! 戦後もそう。

    民主主義、平和憲法、男女平等、個人の人権、、、

    未だに、どういう事? あはは。 誰も判っちゃおりませ~ん!!


    あははっ~! (笑える話題を提供してくれていますが、、、)



    まず、知識欲、知性と呼ぶものを総動員して、

    そして、入りやすいのが交易、商売からですね。 次が技術、、、。

    日本は、今、そこです。

    これでいいと、思ってしまうのです~!

    技術と知性と理性だけで生きていると錯覚してしまうのですね。



    最終戦争は、思想戦だと言う事が、判っていない。



    手と足の部分は、さっさと真似をするのですが、

    心の奥、精神に於いてはいつも”もつれ”ています。

    も~う!転びそうなくらい!  あ、もう転倒している? あはは。 

    .....かも知れませんワ! あはは。





    あぁ、また、主知主義の亡霊に出会いました。 (笑い) 







    時は、元正天皇の在位、


    等しく比べることすら不可(でき)ないほどに優れた不比等が


    720年、日本書紀を完成して、62歳で亡くなります。

        不比等死後、藤原氏の跡を継いだのが、藤原四兄弟。

        武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、

        宇合(うまかい)、麻呂(まろ)



    不比等の莫大な遺産の大半は、妻三千代を経て

    光明子に受け継がれます。




    まだ聖武天皇、光明子、19歳です。アンバランスな出来事です!



    膨大な財産を受け継いだ妻を持つ聖武天皇。イヤまだ皇太子でした。


    運命学で言うと、典型的な女系の運命のひとつの象です。

    女性の側が、どういう理由であれ経済力があります。



    即位まで、あと4年。藤原氏の後ろ盾で即位を控えた皇太子は、

    光明子に頭が上がらなかったでしょう。


    しかも、光明子は、まだ皇后でもないのです。夫人でもない。

    皇后になったら、どうなるのでしょうか?


    聖武天皇は、光明子のお尻に敷かれたのでしょうか?  (笑い)


    あは! 失礼な冗談は、さておきです。


    このあたりから、不幸の予兆が錯綜として出て来ます。 


    不幸の予兆とは、男より、女が栄えていく姿が顕著になる事です。





    721年、三千代が正三位に叙せられ、

        同じ年元明天皇の危篤に際し出家。 



    721年、皇親勢力を代表して長屋王(不比等の娘婿)が政務を担当。

         長屋王は天武天皇の孫で、その妻の吉備内親王は元明天皇の

         子。夫婦そろって皇族です。


               



              ☆ 42・聖武天皇 《在位25年》

     


    724年、★1.首皇子が、聖武天皇として即位。在位724~749

    724年、☆2.光明子が、夫の即位と共に後宮の位階である夫人号を得る。


        これより、★1.首皇子を、★1.聖武天皇 と表記します。

             ☆2.光明子は、そのままです。


     

    727年、★1.聖武天皇☆2.光明子共に23歳の間に★4.基王が誕生。
               
                  生後一ヶ月でが立皇太子される。


    天皇や皇太子には成人であることを求めた当時としては、

    きわめて異例です。


    これには、天武天皇朝の皇位継承者の夭折という悩みが続いていて、


    安定した跡継ぎに恵まれないコンプレックスが、あったためでしょうね。 


    どれだけ確実な跡継ぎを望んでいたのか、胸の痛いほど判ります。 




    『天』は、不比等を失った美千代に都合のいい事ばかりを与えません。


    又、ここが、聖武天皇、光明子、美千代にとって運勢の頂点と言える

    でしょう。


    次々と、不幸の予兆が襲って来ます。




    728年、 ★4.基皇子が、病気により逝去。死後は那保山に葬られます。


    そして、この生後一ヶ月でが立皇太子された★4.基皇子の死去より、






    やさしい聖武天皇の基皇子の死に対する嘆きと悲しみが、


    後のこの皇子の供養のための寺が、

    大仏殿の建立へつながって行きます。



    ★1.聖武天皇について、最後に少し述べてみたいと思います。


    聖武天皇は、生来病弱だったのと臆病で、やさしい性格でした。

    現代の草食系男子?(笑い)

    もっと格段な品格がおありだったはずですが、


    天武天皇系皇位継承者が、ずっと女性天皇だった為に、

    男性の継承者として、きっと大事に過保護で育てられたはずです。

    在位25年の間、25回の行幸と、いく度かの遷都を繰り返しています。



    自分に徳がない事への自戒と伝わっていますが、

    実は、自分が権力闘争で襲撃されるのが恐かった為に、

    常に居場所を移動していたという説もあります。


    あまり側近を信用できない事情があったのかもしれません。



    その証拠かどうか、実は正倉院の御物で最も多いのは、


    聖武天皇の武器と兵器です。 



    聖武天皇は、行幸や度々の遷都のたびに、

    その兵器を移動させています。


    それはどうしてか?


    臆病なやさしい聖武天皇は、藤原家との婚姻関係から来るプラス面、


    マイナス面では、権力闘争の巻き添えになる事、

    その身に迫る身近な危険を感じて

    避けていたのかも知れません。 



    また、聖武天皇は仏事に専念した為に、

    政治の事は、藤原氏、橘氏が支える光明皇后にまかせっきりでした。



    お可哀想な聖武天皇 !! 





    可哀想という形容詞が、男の方には失礼な言葉なのですが、、、





    事実、そのおびただしい数の武器兵器を、

    光明皇太后が聖武天皇の七七忌に、藤原氏の氏寺であった興福寺に

    おいて法要を行い、

    当日、聖武天皇が使っていたものを正倉院御物として、

    東大寺の盧舎那仏に奉献したとされています。


    この時に奉献したものを記した『東大寺献物帳』が残っていますが、


    初めに、光明皇太后の天皇に対する哀悼文が記され、

    奉献品の目録があって最後に、五人の署名があります。



    この『東大寺献物帳』の内容、及び東大寺の盧舎那仏に御物を奉献した


    事が、この五人の発案で為されたと云うのが、由水常雄氏の見方です。 




    その五人の署名とは、


    (光明皇后の甥で孝謙天皇の従兄)
         藤原朝臣仲麻呂は中衛府の軍務長官。


    (仲麻呂の従兄)藤原朝臣永手は大倭守の長官。

        
    (巨万は、高麗・コマ)巨万朝臣福信は、中衛府の軍務次官。


    (鴨角足)賀茂朝臣角足は、兵馬を管理する馬監。
      

    (和気広虫の夫で和気清麻呂の義兄)葛木連戸主だけが、上級官吏。     


    この五人は、各地域の最高幹部であり、特に、軍事顧問なのです。 



    正倉院御物の、目的は? 


    政権の軍事顧問が亡き天皇の兵器や武器を集め納めたものなのか?


    これは、何を意味するのでしょうか?




    また、聖武天皇の移り住んだ平城京、難波宮、恭仁京。

    そして、全国に作られた国分寺国分尼寺を想像する時、


    それらを、すべてを日本人で作る事は、不可能であり、


    大工だけでなく、瓦を焼く、石切り、中国人の技術者を抜きにしては


    考えられない、、、


    結果として、中国人が多く住み着いていた場所に国分寺を作った。


    その目的は?


    絹の産地における、交易の為の絹の天皇家と中国人との取り合い、


    飛鳥時代には、想像する以上の中国人が日本のあちこちに住んでいた、


    その時の、中国とは、唐です。


    それに対する懐柔策だった、、、。 



    という説もあるようです



    先に、持統上皇が、夫の心酔した道教の思想に基づいて、


    天皇陵を八角墳へ改造することを命じ、、、。と書きました。


    持統天皇の夫とは、天武天皇。


    八方位で世界を表す道教の思想に基づく八角形の墓。 




    天武天皇の時代は、儒教より、仏教より、道教が受け容れられて

    いたのか。。

    では、飛鳥人は、何を、心から信じていたのか?

    真実は、判りません。

    しかし、私達が歴史で習った様な仏教一辺倒ではなかったようです。



    推理作家の松本清張氏が、東大寺二月堂の修二会=お水取りの松明の火

    の特徴を、BC1500年~BC1000年頃、古代ペルシャで起こった拝火教

    ゾロアスター)の影響があると指摘をされています。 

    前にも言いましたが、


    古代の飛鳥は、オリエンタル都市だったに違いありません。


    当時、流行った疫病や天変地異を、神道で祈ったり、

    仏教で調伏を祈願をしたり、

    何かがあると、あれをやったりこれをやったりしていたようです。



    おそらく、持統天皇が、跡継ぎの悩みを解決しようと、

    道教に頼ったおかげで、


    それまでの歴代の天皇のお墓を八角形に改葬したのか?


    しかし、

    依然として跡継ぎの悩みは、受け継がれ、ずっと付きまとっている。


    どんな権力を行使し、惜しみない努力を以ってしても、


    皇位継承者としての健康で強い皇子の存在が実現できなかったのです。





    当たり前です。権力は、『陽』の事象であり、


    命の正しい継承は、『陰』そのものに因るからです。



    『陽』の事象が、『陰』そのものをコントロールする事はできません。



    影が動けば、体が動く? そんな事は聞いた事が、ないでしょう?


    体が動いて、初めて影が動くのです。


    『陰』は『陽』の本体なのをお忘れなきように、あそばせ!





    命と、権力とは、対極にあるもの。


    だから、つい140年前まで、権力の交代は権力者を殺す事でした。





    だから、世界の覇権の奪い合いも、戦争であり、兵器なのです。


    こうして見る時、聖武天皇が武器兵器を大事に持ち歩いていた、


    この点で、聖武天皇は、まぎれもなく『陽』男だった!!のです。


    『陽』は、男、知識、競争、権力、戦争、命の略奪です。 






    その対極にある、『陰』とは、何なのか?


    なぞなぞです。  皆様でお考えあそばせ~  あはは。





    今日は、”基皇子の死去”まで。


    続きは、安積皇子の誕生からです。



    これから、すべてが暗転してエンディングへ転がっていきます。。。


    どうぞ、おたのしみに.....















    今年最後の、墓参旅行へ、今夕から出発します。

    コメントのお返事が遅くなると思います。

    よろしくお願いします。














    参考文献:由水常雄著  『正倉院の謎』  中央公論社

    参考資料:応請矩明氏 橿原日記

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。




    テーマ : 歴史上の人物
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    傀儡 1 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その10

    Category : 運命学と歴史
    吉野


    持統天皇がよく行幸をされた 奈良・吉野















    今日は、★★安積皇子の誕生からです。






    その前に、ちょっと、ちょっと、前置きを、、、。 (笑い)






    多くのご相談者の人生の問題、悩みについて、運命鑑定をしていますと、

    その悩みの原因が、運命的などうしようもない出来事というよりも、

    ご本人の物事に対する捕らえ方=認識の誤りにある事が見えてきます。



    その間違った認識を正しいと勘違いしている事こそが、

    人生や生活面の苦難を作っていると言う事が、見えてきます。






    人は、自分や、自分の周りの事象について、

    好き嫌いや、感情に依るだけでなく、

    真実のありのままを観ようとする姿勢が大事です。




    正しく認識をするという事がとても大事です。 

    それなくして、自分の幸せはありません。






    それをいい加減に扱って、事実を知ろうとしなければ、 

    それ自体が、自分を迷いの中に閉じ込めると言う事です。

    迷う自分に馴れて、いい加減に扱うのは決して良い事ではないワ!

    周りを軽く扱うという事は、自分を軽く扱うと言う事ですよ。





    何事も建前ではない実際の姿を知る必要があります。


    誤った認識を正す事で、物の見方が変わり、

    障害物と思ったその奥が見えるようになります。 

    そうすれば、、、

    自分の周りの世界を、

    もっとhappyに受け入れられるようになれます、、、。




    そう、自分が変われば、周りが変わるのです。

    正しい認識を持つ事が、本当に大事です。



    たとえば、

    多くの人は、自然、宇宙に対する認識では、だいたい似ています。

    しかし、政治や仕事、結婚などを

    共通の認識で統一するのは難しいですね。


    その一番、多くの人と認識を共有できたらいいと思う物が、

    国を同じくする同士の母国の歴史ではないかと思います。

    祖国のありのままの歴史の共通認識を持つ事が、

    なぜ重要性なのか?は、


    現在の世界や日本の社会が抱えている問題の根っこの多くは、


    個人の精神が抱えている問題に結びついています。


    そして、その問題は、時間的にさかのぼりますと、


    その国の遠い歴史の中に同じ根っこが続いています。 




    今の日本に住む、あなたの個人的な問題の根っこは、


    現在の日本の問題を凝視する所に現れ、


    日本の今を作り上げた過去の歴史の中につながっています。


    古きは、新たであり、新しきは、昔なのです。



     

    言い換えると、

    自分のささやかな幸せを守るためには、

    社会の奥に潜む巨悪を知り、

    社会の底に流れている昔からの悪と戦わなければ、守れないのです。 


    だから、私達は、

    自分の為にも国史は知っておく必要があるという事です。

    知る事で開放され、知る事で許し、乗り越えられる壁もあります。

    その歴史は、

    できるだけ当時の人間の息吹が感じられる生々しさで、

    通じる心が自分の中にもある事をリアルに体感できる歴史がいいのです。

    学校の歴史教育も、そういう歴史が語られる事が本当は必要です。

    若々しい柔軟な心の内に、

    将来の人格形成の基になる母国の歴史が、投影されていけば、

    将来の世界へ貢献できる社会観、歴史観を培ってくれ、

    私たちの精神の中に、同じ民族の血脈が流れ、受け継がれ、

    国が栄える事、人々が幸せに豊かになる事へ

    つながって行くのではないか。


    リアルな歴史を自分たちで探して行く努力は必要ですね。


    今の日本は、日本史を必須教科にしていませんね。

    ------- 大事と思っていない。


    本人自身が大事と思っていない国柄を、世界の誰が、

    重んじてくれますか?


    自分の国の歴史を必須にでき得ない国柄とは、

    いずれ、周りから値打ちのない国として扱いを受けて

    抹殺されるはずです。


    あははっ~! さもなくば道具扱いです。

    小商売の道具。。  。





    前回の記事に、

    次のようなコメントをいただきました。 


    道教の影響・・・この時代、

    儒教よりも影響力が強かったのですね。


    また、ゾロアスター教の影響も・・・興味が絶えません。


    そして、次回は「陰」の答え合わせから始まるのでしょうか・・・。 





    あは! そう言われるとしない訳にはいかないかなぁ~?!  

    あぁ、長くなりそう~(笑い) 

    今回は、余裕がないのでお許しくださいませ! 

    このシリーズが終わって、必ず取り上げたいと思います。

    よろしくお願いします~!




    ちょっと原理原則だけ、申し上げて置きますね。



    『陽』は、意識できます。

    知識ですから言葉で表現できます。

    『陰』は、意識できません。

    言葉で表し難い、表現し難いものです。

    言葉で書いても、

    その認識の違いが誤った理解を生むかもしれません。


    ある時に、『陰』は、こうだと書く場合もありますが、

    文の上に現れる表現よりも、

    いろんな文脈から伝わる物からお察しくだされば

    見えない物を手探りで探すという苦労で、

    『陰』が掴めるかも?です。 










    では、本文へ



    国の一番の不幸が、襲って来ます。

    国の一番の不幸とは、皇太子の夭折です。


    不幸な事柄が起きれば、次の不幸を食い止めようとするのが普通です。

    それが、なぜか?


    知恵者の不比等を失った藤原家は、

    その息子達の藤原4兄弟と三千代で

    この不幸を、より拡大する方向へ物事を進ませてしまうのです。


    大きな出来事として、次の二つがあります。


    一つは、☆2.光明子を無理やりに皇后に立てた事です。


    二つは、10歳の☆3.阿倍内親王(=女児)を皇太子に立てた事です。


    どちらも、当時の社会の道理に反しています。

    藤原氏の私欲の為でした。

    どちらも、藤原氏、三千代の思うがままに物事を実現させていきます。

    つまり、横暴により物事を突貫工事したのです。 横紙破りですね。



    人生、望みを実現させたからといって喜ぶのは、

    まだ早い、じゃなく

    これは、凶事だと受け止めるのが謙虚で正しいのです。

    大木の枯死する前の狂い咲き。

    そう受け止めるのが運命学の観方です。

    大木が壊死するのは、根っこからです。

    根が枯れ始めたのは見えません。

    数年をかけて根は力を失っていきます。 





    根が再生不可能なのを知って、

    それから大木は、幹や枝でできる事、持てる力を振り絞って

    枝という枝に次世代の種の保存の望みを賭けて花を咲かせます。





    花は咲けど実は実らず.....






    異常に異様に多く、たくさんの花です。

    それが、社会的に見たら、

    ほんの短期間の”成功”と言う姿でしょう。

    人間の、自分の浅はかな五感に騙されてはいけません。 





    自然の山の中の木なら、

    「今年は、花が特にきれいだなぁ。」

    と眺めて印象に残るそうです。

    翌年、同じ所を通る時に、

    大木が枯れて倒れているのを発見をして、

    その大木が、昨年、

    通りすがりに異様に花を付けていたという記憶を

    思い出すのだそうです。

    人間も、植物と同じです。


    花が異様に満開になってからでは、遅すぎるのです。

    なぜなら、それは衰微の前兆だからです。




    権力の美味に慣れた藤原氏と美千代は、

    どんどん道理を犯して行きます。


    もっと!もっと!と

    熾烈な権力闘争を繰り広げるわけです。





    728年、★1.聖武天皇と、☆2.光明子との間の

    第一皇子、★4.基皇子が生れて直ぐに立太子をしたにもかかわらず、


     、1歳になる前に病気で亡くなります。その同年に、


     *県犬養広刀自と、★1.聖武天皇 の間に★★第2皇子が誕生。


     、 これが★★安積親王・あさかしんのう(728~744)です。

     

      
     *県犬養広刀自 = 橘美千代が、自分の出身氏族の県犬養から入内を

                  させた娘です。





    第一皇子が亡くなったなら、

    皇太子には第2皇子をと思うのが普通ですよね。

    それは、失う物の何もない庶民の考えなのです。 あはは。 




    権力を掌中に入れていた藤原氏に取れば、

    藤原の血が流れていない皇子が天皇になる事は、

    絶対に許されない、あってはならない事なのです。


    「このままでは皇太子の座を安積親王に奪われてしまう」と、

    考える藤原四兄弟にとって、

    広刀自が産んだ安積親王の存在は、邪魔者でしかありません。





    しかし、


    いくら藤原四兄弟でも、

    切っ掛けがなければ、安積親王に手は出せません。  

    手が出せる機会を、

    虎視眈々と狙いながら、あの手この手の策謀を練ります。







    その一つが、☆2.光明子が生んだ☆☆3.阿倍内親王(女児)を 


    728年、、わずか10歳で皇太子に立てます。



    ①②③
    の出来事が、同じ年に起きた事自体が異様です。


    ★4.基皇子が、亡くなった為に、

    いかに藤原四兄弟と、美千代が慌てたか!その様子が読み取れます。




    誰が為の行動か?


    藤原氏が、自分の氏族の血を引く天皇の実現の為です。 

    自らの繁栄の為の、権力の絶対掌握の為でした!

    その布石の第一歩。 呆れるほどの執念です!



    これは、”無理を通せば、道理が引っ込む。”権力闘争の典型例です。




    (あぁ、こわい) 



    権力の行使で、血統の継続ができるものではないのです.....


    こうして第2皇子の存在を無視して、

    女である内親王を皇太子に立てると言う

    歪んだ継承を無理やりに実行する。

    悲劇が悲劇を生む構図を自ら構築していくのです。。。 






    権力が人間の持てる最高の力だと、誤った認識をするのです。



    仏教も、儒教も、道教も、どこにもそんな事は説かれていないワ!

    まったく正反対の教えばかりですよ。

    どれも権力を嫌っています。

    まったくわかっていないなぁ~。




    ひょっとして、不比等の作った神道の教えでしょうか?


    神格化された天皇なら何をやってもいいのだと...?

    神だから権力を行使して欲望を達成してもいいのだと...?


     (お~こわい! もっと、もっとこわいことが...)


                                     

    藤原四兄弟は、それだけでは満足をしませんでした!

    もっと自分達の政治的権限を永続させる為に、、、
       


    10歳の☆3.阿倍内親王を皇太子に立てただけでは

    満足しませんでした。

    なぜなら、

    ☆1.聖武天皇が死去して、

    皇位継承権を持つ長屋王が次の天皇に即位をしたら、、、

    藤原氏の栄華はなくなるからです。


    そうならない為には、

    「光明子を皇后にして、天皇亡き後、天皇の代行者にしよう」と

    踏んだのです。 

    欲と言うものは、果てしがないのですね。 


    次に、四兄弟は、藤原出身の光明子を皇后へしようとします。 

    もちろんこの藤原四兄弟の横行ぶりには、

    大きな二つの障害がありました。



    一つには、

    政務を担当していた長屋王は、

    ☆2.光明子の立后に反対でした。


    二つには、

    皇后になれるのは、当時、皇族のみと決まっていました。



    理由は、皇后という立場は、

    夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるので、

    律令そのものに、皇族しか天皇になれない決まりがあって、

    皇族でない女性は立后されないのが当時の慣習だったのです。

    夫人や嬪としての位しか無理だったのです。 



    光明子は臣下の不比等と三千代の娘で、皇族ではありません。




    位から言えば、皇位継承権の順位は、長屋王、その妻の方が上位です。

    それを飛ばして、

    皇族でない不比等と美千代の娘が皇后など、とんでもない!

    皇位継承権の高い順位にいる長屋王にとっては、もっての外!

    だったのです。




    長屋王の方が正しく、これは律令の規則、道理でした。



    しかし、それを認めて、諦める藤原氏ではありません!  


    藤原四兄弟は、 ★4.基親王の死を利用して、

    長屋王を粛清する機会を見逃しませんでした。  



    ★4.基親王の死は、長屋王の呪詛によるものだと言う噂を流します。


    ☆1.聖武天皇に長屋王の罪を訴え出ます。


    ★4.基親王の死を悼んでいた☆1.聖武天皇は、心を動かされ嫌疑を確かめさせます。


    藤原宇合率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を取り巻くと、

    長屋王は服毒自殺をします。これが、 

     
    729年、長屋王の変です。  
      

        反対勢力の筆頭、長屋王が居なくなって直ぐに、
        ☆2.光明子は非皇族として初めて、


    729年、☆2.光明子が皇后になる。701~760



        ☆2.光明子
    を以下、☆2.光明皇后と書きます。


      

    それから4年後、孫の★4.基皇子が亡くなった不幸はありましたが、

    15歳に成長をした皇太子の☆3.阿倍内親王を見届けて、


    733年、美千代が、68歳で死去します。死後に従一位が与えられます。 




    736年、美千代の死の3年後、美千代の橘の姓は、


    美千代と前夫・美努王との長男・橘諸兄(もろえ)が継ぎました。



    橘諸兄へ橘姓を賜った時の☆1.聖武天皇 のお歌。(万葉集)




    橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木



    橘は実まで、花まで、その葉までも、枝に霜が降ることがあっても、

    枯れるどころかますます栄える常緑の木である。 







    737年、不比等の息子四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が全員、

        天然痘に倒れて死去します。

       
    この藤原4兄弟の姉妹である光明皇后は、

    これを長屋王の祟りだと考え恐れおののき、

    次に死ぬのは自分だと恐れたのです。


    このような時、天皇家の打つ手は、祟り封じの儀式です。

    神道による「長屋王の怨霊」の祈りは、

    猛威を振るう天然痘の前には通じずに、

    仏教による怨霊鎮魂で一応天然痘は沈静化し、

    光明子の命も無事でした。


    この事件を機会に、

    天皇家と日本は大きく神道国家から再び仏教国家へと動き出します。 





    朝廷のほとんどの官僚が天然痘に倒れて死んだ中、

    助かった役人の中で橘諸兄が一番の高位であったと言うわけで、


    738年、橘諸兄が大納言になります。

    741年、国分寺建立の詔

    743年、東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出す。  

    744年、☆1.聖武天皇の残った唯一の皇子★★安積皇子が16歳で急死

         します。 

        藤原仲麻呂に毒殺されたという説があります。


    741年、恭仁京へ、743年、紫香楽宮へ、744年、難波宮へと変遷し、

    745年、やっともとの平城京に戻る。 

       



    749年、娘の☆3.阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位。

        史上初の男性の太上天皇となる。

       
    756年、☆1.聖武天皇 56歳で崩御。   
             



    よくぞ、56歳まで生きられた。と言う感想を持ってしまいます。



    曾祖父・天武天皇の崩御は、65歳でした。


    それ以来、女系化した家系の中で、

    男性の皇位継承者が夭折を繰り返す中、

    聖武天皇が、初めて壮老年期まで生きられた男性の天皇です。

    それと同時に、系列の最後の男性の天皇になります。


    ご立派な御生涯だったからこそ、

    女系のなかでも長命であられたのでしょう。



    身近な帝王学の見本である父・文武天皇を、6歳で亡くし、

    母親は精神をわずらい、37歳まで対面をしていません。

    自己のモデリングとして学ぶべき見本になる父・天皇がいない、



    おそらく、そういう意味で、

    ご自分の男らしさの確立に、ず~っと悩み続けられたのではないか?

    内面の男らしさを実現なさらないまま来られたのではないか?






    女系化した家系では、このように男性性が発現しにくくなります。




    お可哀相に、その代償のシンボルとして、

    自己の内面の男の性のシンボルとして、

    常に武器・兵器を持って、遷都と行幸を繰り返されたのではないか?

    これは、心理学的な分析ですが、


    運命学の見方において観ていきましょう。




    女系化した家の構成員においては、役割が転倒します。

    女が、男性化、社会化し、政治や経済を担い、

    反対に男性の社会における完全な社会化を達成する事が困難です。 

    天皇家と庶民の違いこそありますが、

    これは、女系の家系で、絶家に至る最後の男性が辿る同じ道なのです。 






    本来なら、男性性の本番である政治の舞台の真っただ中で


    活躍するべきはずが、


    皇后側の実家・藤原氏に握ぎられた政治の実権のありようは、


    ご自身を傀儡の如くに思われたのか?


    天皇としての自負心が高ければ高い程、それには満足ができないはず、


    まず実質としての役割から自ら外れた聖武天皇にとって、


    御自身の心の拠り所として、仏教を求められたのか?


    ご自分の中から、光り輝く新しい時代を切り開く為に、


    毘盧舎那仏の像立は、ご生涯の成し遂げねばならない目標だった。



    ならば、私は、

    聖武天皇がご生涯を掛けて信じた

    毘盧舎那仏に大疑を起こして、聞いてみたい。



    何故に、聖武天皇の系流が、強くたくましい皇子の跡継ぎに恵まれ、

    結果として、今の代まで続かなかったのか?

    他のだれびとも真似のできない仏教を信ずる力、行ずる力を

    具現された聖武天皇ですら、

    その願いが、叶わなかったという事は、

    毘盧舎那仏には、結果、その仏としての力はなかった!



    と、思わざるを得ない。


    毘盧舎那仏は古佛(役に立たない)ですね! あはは。


    なぜなら、大旦那の聖武天皇の願いを叶える事をしないなら、


    他の誰の願いを叶えるのですか?   




    人と生まれて、功なり名を遂げて、最期の人としての望みは、

    自己を継ぐ若い命です。

    私の所に集って来る、ご相談者の家系の場合において、

    祖父、曾祖父である男性が、ご自分で心中を吐露される事は

    珍しいですね。

    簡単には、お口にはされない。 しかし、、、、、、

    しかし、その配偶者である奥様が、代弁をされます。


    『主人は、跡継ぎが居ない事を、ずっと申し訳けがないと、、、

    寂しい事だといつも言っています。息子が3人もいて、

    どうして孫が一人も生まれないのでしょうか? 』 




    最近、こういう驚くべき事象のご相談が、多くあります。

    運命学の絶家に至る事象として多く見られます。





    2代、3代、女系化した家系に、この後、強い男児が続く事はまれです。

    たいていの場合、ひとり娘、娘が二人続きます。

    それが、最後の子孫になるようです。


    いわゆるピリオッドを打つ為に生まれて来たような...娘です。 





    そして、現実には、家系の最後の『陽』の開花の現象をみます。


    女性の社会化、職業的成功、

    独身貴族、子供がいない結婚生活等の形が、

    いわゆる、子供が生まれない、

    生まない事があたりまえの人生を営む姿が、


    わが子供の人生に展開されています。









    そして、象徴的なのは、孫の顔を見る事ができません。

    我が子が、結婚をしない。しても子を成さないのです。 








    あれだけの、持統天皇、橘美千代の為した懸命な努力は、


    どこへ行ったのか? 何の為だったのか?


    あの策謀の結果は?




     



    きびしい、『時』の裁定です。



    どのような場合でも、半端な人間であるわれわれに正義があるなんて!

    あり得ません。

    あると思うのは、思い上がりでしかないでしょう。

    しかし、『天』は、正義の本体です。

    『天』は、『時』であり、

    その『時』は、同時に『宇宙の運行』であり、

    『宇宙の空間』そのものの配置です。

    それは、私たちの意識し易い『時』として道理を指し示します。






    このブログの読者の皆様も、

    ご自分の『空間』を見回して検証をなさってみてください。






    『時』を経て、何が具現されているのか?

    『天』の摂理が、何を示そうとしているか?


    おそらく、何かが、、、気が付かれるはずです。







    年末、年始の厳かな時期に、

    大きな宿題を出してしまいました!! あはは。




    これが、今年最後の記事更新になるかもしれません。



    次回は、

    いままで頂いて溜まったコメントへお返事を書かせていただきます。



    又、その次は、いよいよ、

    聖武天皇の一人娘、内親王から皇太子になった最後の女帝、

    孝謙天皇=称徳天皇の最後まで。


    このシリーズの大詰になります。






    ことしは、いろいろお世話になりました。


    コメントを、毎回欠かさずお寄せくださった方、

    本当に、ありがとうございました!!


    毎回、ご訪問いただいた方、

    支えてくださった皆様へ感謝のお礼を申し上げます。



    来年も、また、よろしくお願いします!



    良い、お年を!































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    国の成り立ちの歴史について/記紀への疑義 (コメントのお返事) 

    Category : 運命学と歴史
    あけましておめでとうございます!




    伊勢神宮の外宮から内宮へ至る道の両側に立てられている無数の石灯篭。

    そのひとつひとつに、ユダヤの紋章である「ダビデの星」が刻まれている。(写真参照) 詳しくは、ここへ




    ダビデの星












    今年も、宜しくお願いします。


    今日は、昨年中にいただいたコメントが溜まっておりましたので、

    そのお返事から始めたいと思います。


    まずは、


    日本の国の成り立ちに触れる次のコメントからです。




    天皇家の歴史を振り返ると、我が国でなぜ哲学が生まれにくいのか、


    弁証法的ロジックが理解されにくいのかというのがわかりますね。


    中国大陸からの影響ではなく、インドの影響をもっと強く受けていれば


    どうなったのでしょうね。


    歴史を記す中国の影響を強く受けた結果が「記紀」であったのは


    間違いないところでしょうね。 




    その通りですね!


    このいただいたコメントの中には、大変な広い問題が提起されていて

    一度に全部お答えしようと思っても、長くなって無理のようです。


    ☆ 我が国でなぜ哲学が生まれにくいのか、

    歴史を記す中国の影響を強く受けた結果が「記紀」であった。


    に絞らせていただきます。



    丁度、この記事を書き出した昨日、新聞紙上に、

    大きく!


    ”天武天皇が、「列島改造」か ”


    の文字が、踊っていました!

    白村江の戦いの後に、群馬から熊本までの道路が造られたと言う、

    駅路(軍用道路か?)の遺構の写真と共に、


    まるで、天武天皇が存命中であるかのような記事に、びっくり!


    いつもそうなのですが、

    ブログの記事を書いていると、

    その時に、記事に関連した人物の話題が新聞に載ってくる。

    いつも何か不思議な時を、感じさせられます。






    昨年の最後の記事に、


    人は、自分や、自分の周りの事象について、

    好き嫌いや、感情に依るだけでなく、

    真実のありのままを観ようとする姿勢が大事です。


    それをいい加減に扱って、事実を知ろうとしなければ、 

    それ自体が、自分を迷いの中に閉じ込めると言う事です。


    迷う自分に馴れて、いい加減に扱うのは決して良い事ではないワ!

    周りを軽く扱うという事は、自分を軽く扱うと言う事ですよ。





    人の個人的な問題の根っこは、社会の諸問題の根っこに通じている。

    そして、それは、時間軸をたどれば、

    古い母国の歴史の中に同じ根がある。



    と書きました。 






    一年の初めですから、

    個人の問題も国の問題も、根っこはつながっています。

    今と言う時は、過去、昔につながっています。


    コメントにもあるように”我が国 ”の視点で、その昔の日本を、

    歴史を正しく認識をする試みをやってみたいと思います。


    なにが、正しいのか?は、解かりかねま~す。      あは!

    真実を追究する試みだけは、失ってはいけませんから。

    探偵になったつもりで、歴史を推理する。


    たのしみましょう~!   あはは。


    どの位の長い記事になるのか?

    見当もつきません!  どうか御覚悟を! (笑い)



    ●わが国民性を振り返ると、


    何にでも右往左往してしまう日本人。

    領土問題には、カラキシ駄目で、形だけの抗議をしたのか、しないのか、

    判らないまま、うやむやにして、怒りを表すマナーさえ解らないみたい。

    教科書問題もそう! 対外的に自己の主張ができないですね!

    対外世界に接する行動の訓練が、からっきし駄目です。



    原爆を落とされても、怒りを相手国に訴えられないまま、

    もう60年も、いやだ~もういやだ~と言ってるだけ。

    何時まで経っても幼児性の内語の世界です。 


    国を追われて奴隷になって、世界を放浪して、それでも

    自分の国を作る為に必死になったユダヤ人とは、大きな違い!

    日本は、たった一回の大戦に負けて、

    自分の誇るべき何もかもを捨ててしまっている。

    考えようによったら、こんな順な扱いやすい国民はいないでしょうね。



    疑いもなく、誰にでも付いていく。お人よしなのでしょうか...


    あ、ユダヤ人と言えば、


    日本がいわゆる大和朝廷として統一されるよりも前、

    古代イスラエルの「失われたユダヤの10支族」が、

    日本に来たという説があります。詳しくは、こちらをどうぞ


    日本人とユダヤ人は、

    共通の先祖を持つ兄弟民族であると言うのですが、

    それについては、

    冒頭の伊勢神宮ダビデの星の灯篭の写真の所から

    ご覧になってくださいね。


    少し簡単に触れておきますと、紀元前1世紀前後、


    皇室は、扶余、高句麗、百済系と同じように

    大陸北方アジア民族・ツングース系民族に

    出自が求められる氏族であるとしたら、

    失われたユダヤの10支族が、

    大陸北方アジア民族・ツングース系民族になって、

    朝鮮半島を越えて日本列島に入って来たのと重なるのです。


    皇室・物部氏・尾張氏・出雲臣氏・天若彦神族・中臣氏・大伴氏・忌部氏

    などは九州島に入り、


    山陰の出雲に入った者が、スサノオ神族・アジスキ高彦神族などです。


    『記紀』の国生み神話とは、

    イスラエルの失われた支族による倭国侵略(国取り)、

    又は、倭国騒乱の歴史である、と言うものです。



    たしかに、皇室の天孫降臨説は、

    もとを糾せば、天神が高山に天降りすると言う、

    ツングース系神族としては、ごく普通のことなのです。


    たとえば、高句麗の始祖スム王は、

    天帝の子孫に相応しく忽本の西城山上に都を立て、


    『三国遺事』の駕洛国(後にも出てきます)記では、

    六伽耶の始祖たちが天降りした地は亀旨(くし)の峰だと言う。 





    シルクロードは、紀元前ローマ帝国と秦漢帝国の時代から、

    ありますから、

    東西交易でのシルクロードの終点としての日本には

    様々な勢力が、やって来たのでしょう。


    ロード(道)があれば、文化や人もやって来るでしょうが、

    あらゆる侵略にも便利だったはずです。

    シルクロードの西端であるイギリスは、

    アングロサクソン系のエグバートが829年に統一、

    その後のデーン系(デンマーク系)や、1066年のノルマン系の侵略が

    あった事が歴史上分かっています。

    シルクロードの東端である日本も、

    朝鮮や中国大陸を経て何らかの侵略があったとしても、、、

    何の不思議ではない、あったとする方が自然です。


    Joseph Eidelberg氏は、イスラエルが語源と思われる大和言葉が 

    日本には3000語もあるという。




    音も意味も同じものには、

    ばれる、たべる、映える、凍る、枯れる、曲がる、傘、物、蜜、辺り、壁、

    火傷(やけど)、匂い、許す、憎む、商う、書く、被る、住む、訛る、困る、

    どけ、何時(いつ)、ありがとう、

    よいしょ、どっこいしょ、等。  



    少し変化、大和風に訛ったと思われる言葉には、(イスラエル語:和語)

    マツァ:餅、ミガド:帝、ナギ:禰宜、ハデクハシェム:辱め、ハルク:歩く、

    カム:神、エフォダ:お札、ハカシャ:拍手、ハヤ:早い、ホレル:掘る、

    ナシ:主、コメツ:供物、ナハク:泣く、ナケル:除ける、

    ユルシュ:許す、等。



    また、日本人もその意味や語源が理解出来ない掛け声など、

    エッサ、エッサ、エンヤラヤー、

    弘前ねぷた祭りの「ヤーヤードゥ」、

    青森のねぶた祭りの掛け声「ラッセラー、ラッセラー」、等。

    イスラエルの人々には理解できるのです。


    諏訪神社の大祭、祇園祭のルーツ、聖書に隠された神道のルーツなど。



    川守田英二博士は、

    東北地方に広く伝わる夏祭りの踊りの歌「ナニャドラド」の歌詞は、

    全てイスラエル語だと断じています。



    非常に興味深い情報ですね!


    ふたたび、日本の現実に戻ります~! (笑い)


    老若男女を問わずに、自分に自信が持てなくて、、、

    外国大好き! 金髪・青い目が、やっぱりいい!!

    デッカイ二重の目や大きなおっぱいになりたい! 

    プチ整形だなんて。

    TDLやサンタやハーロウィンは大好きだけど、

    本物の自然の海や山は恐い、、、

    そんな子供に育ててしまって、

    誰が、命がけで母国を守るのでしょうか?


    精神が、浮かれ遊んでいる原因はどこから? 



    占領軍の監視と宣伝で作られた「歴史」からと言えば言いすぎかしら? 


    そう! 歴史は侵入する覇権者によって都合よく改竄される。

    削除されるのです。 

    かように歴史は、勝者の言い分である。
     



    その事を、頭のどこかへ置いておいてください。






    哲学が生まれる土壌がない...のは、


    これらは、ほとんど、

    国の成り立ちの真の弁証法的ロジックを持たないからだと思っています。
     

    実は、

    あるのに、知らされていないからです。 
     


    ヨーロッパと同じ侵略の戦いの歴史があるのに、

    それらが消されて、

    元から、今の国があったように錯覚をしている。。 。

    させられている。





    今日の日本国家は記憶を

    失って漂っている。

    五体が受け止めた記憶を

    喪失している国家に正しい現実感はない。 






    リアルな世界の出来事として

    侵略の傷を負っている歴史を抱き、忘れないからこそ、

    その傷みを癒す為に国家戦略が生まれるのであって、

    何もかも隠蔽し、廃棄した歴史を守っていて、

    それで、どうして国境を守り、国家を守る戦略が生まれるのですか?




    おめでたい”裸の王様”?! あはは、 

    笑うしかないワ~! 




    歴史というものは、

    誰の命令で、

    どこの誰が書いたのか?

    その中で誰が一番偉そうに書かれているか? 


    等を、精査しながら読まないと、騙されてしまいます。
     


    また、いつの世も成り上がった国は、国の威信の為に、

    いろいろなデフェンスを構えます。 



    それに加えて、時代背景です。




    その時代の権力者である利害関係者が

    生存している時に書かれた歴史は、真実が書かれる事はありません。

    現に、今、日米安全保障条約と占領軍が作った

    日本国憲法が効力を持っている段階で、

    すべてを明らかにする事はできないでしょう。





    たとえば、

    今の日本では、140年以上経っても、

    まだ、明治維新を美化した本が商売になる世の中らしいので、

    明治維新の思想的欠陥を総括するのは無理です。



    維新の思想的な力となった主知主義的朱子学の総括を

    するべき人が、なさるべきと思っていますが、

    まだ、

    その時は至っていないようです!





    勿論、

    明治政府の国家神道の核心部分は、


    いまだタブーが残っています!





    国の成り立ちの歴史、

    特に我が国の古代史は、タブーの塊です。 


    戦前のように日本書記や古事記に書かれている事を、

    そのまま受け入れると、

    天皇は現人神で、国家は神国であり、

    日本民族は古代から変わらず続く単一民族であるとなっています。

    日本列島に土着した縄文人に、

    大陸から弥生人が渡って来て、今の日本人の原型ができた、

    と言うのが、歴史の常識です。



    その常識を覆す事は、

    皇室の血統や、その出自についても、

    従来の定説を覆すような事になるやも知れません。


    だから、これまでの専門的な先生方は、

    古代について意見を言い出す事をはばかり、

    学校教育では無難な表現しかできない。

    と考えられます。

    古代日本において、

    皇室の先祖も現在の日本も、

    その基礎は渡来人のお陰であるなんて言う新説は、

    長らく封印されて来たのでしょう。



    事実は、どうなのか?

    それは分からないにしても、もしか、そうだったとしたら、

    何か不都合でも、あるのでしょうか?


    世界の国々には、

    そういう(民族の寄せ集め)建国の歴史はいっぱいあります。




    宮内庁も、やっと古墳の考古学調査を実施しようかとか? 

    しないとか?  あははっ~! 


    あらゆる重い権威が、

    逆さ吊りになって

    我々の頭上にぶら下っていますワ!

    【ダモクレスの剣】となって頭上に落ちてくるまでに、

    間に合うのでしょうか? 






    だから、そういう方面は当てにしないで、

    ご自分の良心のモチベーションで頑張っている在野の研究者の本、

    ブログで公開をしてくれている情報を

    丹念に読みながら、

    原典を紐解いて、

    自分で古代史観を作り上げるしかないように思います。 


    国民ひとりひとりが、

    自学自習! 自立自尊! しかないですね。

    もう、如何なる権威の誰にも教えられたくな~い。  



    『日本書紀』も書かれて1500年ですか、 

    やっと、、、


    戦前の権威的な人々がお亡くなりになってしまい、

    そういうチェックが、

    そんなにうるさく入らない時期になっていますので、 


    調べる側もそういうシガラミのない戦後世代に移り、

    個人においては、

    この辺の事は、まったく自由に、

    研究できるようになっているようですね~。 


    古代史が、本当の裸体を見せて来るのは、これからなのです。 

    楽しみが残っています。

    かならず、

    いつか古代史の封印が解かれるでしょう



    我が国でなぜ哲学が生まれにくいのか、と言うと、


    ひとつには、”万世一系 ”という建前を守るロジックが

    ドーンとあるからです。

    それは、

    つまり他の国にはない伝統でもあります。




    アメリカなどは、

    それがきっと羨ましいのでしょうね。

    古い伝統がありませんから...


    しかし、伝統がないだけ、

    守る物も、失う物がない訳です。

    何でも言えるのかも? 

    ヨーロッパもそうですね!

    王朝が変わっていますから、

    前政権の権威は、いともたやすく次の征服者に

    破壊をされて来ました。


    その度に、新たな思想が入り込み、

    正当性を認めさせる為に

    征服した民族の神が、

    征服された民族の神を壊してきました。


    アテネのアクロポリスの丘、

    神殿の大理石は完璧な修理をされないで、壊されたままです。 

    それが歴史です。

    立派なままを復元をする? あはは、似非の歴史ですよ!


    紀元前424年、

    戦いで常に勝利を願うアテネの市民は、

    勝利の女神がどこへも行けないようにと

    翼を切り落として、この神殿に祀った(閉じ込めた?)

    と言われています。


    そのパルテノンの祭神・10代の美しかった女神像は、

    どこへ?

    彼女を飾っていたルビーやサファイヤと一緒に持ち去られたままです。




    キリスト教もそうです。 

    王権が新しい神を造ったり、、、あはは。

    これが、この世の人間界の当たり前の姿です。

    過去に侵略されなかった国家なんて、


    あるものですか!




    ヨーロッパには、

    基底に堂々たる「無神論」があるのですよ。

    え! 

    キリストは? 神でしょうって?  あはは。

    無神論の上のキリストです。

    ヘレニズムの神々の上のキリストの存在です。 

    ヘレニズムの神々は、キリストによって侵略をされた。

    その事実のままですよ。



    その事実のままが、重要なのです。

    征服をしたからといって、過去がサラになるわけではない。

    過去の時が、厳然と存在した事は、誰人も消せないのだから。



    日本は、建前上、

    王朝の交代も何も無い事になっています。

    武士が征夷大将軍になっても、

    天皇は変わらず存在しましたから。 





    これは、普段思っている以上に、とても重い存在です。

    だから、

    それ以外の思想を、哲学を造る必要がなかったのでしょう。

    守っていさえすれば良かったのです。


    裏を返せば、それをはみ出る哲学を造る事が、できなかったと思います。


    それが、1000年以上も続けば、習い性になって。。。



    五体や五感に響かない建前を持たされ、

    感じた事を秘匿する性分。

    本音と建前との解離性を、うまく混ぜ合わせたワっの精神? あはは。



    今日の日本国家は、

    遥か生い立ちの記憶を失って漂っています。

    五体が受け止めた記憶を喪失している国家に

    正しい現実感はないはずです。



    故に、相手を見据える外交ができる訳がないのです。 



    それについて、「倭国の謎・知られざる古代日本国」の中で、

    相見英咲氏が、次のように書かれています。


    「 4世紀、10代崇神天皇の時、

    皇室はついに〈倭国=日本国)の主人になった。

    この皇室=大和朝廷の考え方は一風変わっていた。

    前代の王朝の非を鳴らして自らの正当性を主張するのではなく、

    自分の氏以外の<倭王=日本国王)など一切存在しなかった、

    という考えを展開した。


    即ち一方では、

    前代の王家邪馬台国の情報を後に伝える事を禁止し、

    また一方では、

    倭王ではなかった九代開化天皇までの事業を廃棄し、

    これらの伝承も許さなかった。


    そのために、7,8世紀の人々、

    日本書紀の編集者たちは、

    『魏志倭人伝』の卑弥呼が誰やらさっぱり分からず、、、」


    「皇室・朝廷にとって大事なことは、

    〈倭国=日本国〉は、これまで唯一皇室が統治してきたし、

    今後も唯一皇室が統治し続ける。


    という考え方を疑問の余地のないものとして

    普及徹底させる、ということであった。」


    それ以来、我々は、藤原不比等も含めて、

    現代に至る国民みんなが、

    「4世紀の皇室・大和朝廷の術中にものの見事にはまったのである。」





    この建前の骨格をライブで生きて、解っていながら、


    藤原不比等は「記紀」でそっくり踏襲し、

    そこへ新たなる改竄を加えて、

    前以上に国の生い立ちの根幹を分からないようにした。

    それを、後世に残したのです!





    何と言う罪つくりな.....

    それが、「日本社会」の原型になってしまった。

    彼と仲間が加えた改竄は、出自・百済の威信を守る哲学止りで、

    残念ですが、

    後世の我々の事なんかは、眼中になかったはずです。


    唐に対する国体を繕うだけで、手が一杯だったのでしょう。

    おそらく、きっと、

    後世が、ここまでグローバルになるとは、

    彼は、思っても見なかったのだろう。 


    それ故、いまだ、

    我々は、彼の仕事に縛られて、この煉獄にいます。





    運命学的に言いますと、

    そのゆがんだ認識が、

    正常なリアルな五感の感受性に誤差を生み、

    その齟齬が堆積した坩堝の中で醸成されたクサヤのような香りが、

    現在の日本の国の運命を形作って来たのです。
     




    いいにおいですね~! まるで天上を模したような! あはは。


    この世のものとも思えない現実離れした平和憲法を背負わされて、、、

    天使が守ってくれると思っているのでしょうか?  (爆笑)

    自分は、自分が守るしかないのですよ。 



    運命とは、 

    自己の過去の認識の集積と

    現在の瞬間の自分を受け止める認識、


    自己の瞬間、瞬間の出した認識の問いに

    返される認識の答えなのです。




    透明な見えない神から、与えられるものではありません。

    自分が発した認識=問に対する自分の認識=答えです。 






    確かに、天武の血を全く受け継がない桓武天皇が即位をし、

    100年ぶりに天智系が復活した時点から今上天皇までは、一系の流れです。


    しかし、桓武天皇以前については、どうなのか? 


    疑って見ると言う事が、意識の持つ重要な機能ではないのか!

    それが、学問の使命なのではないか?





    「記紀」の問題についてですが、

    「古事記」は、天皇や関係者に見せるための本で、 

    「日本書紀」は外国、特に対中国=唐の皇帝に対抗する為に、

    中華世界の柵封体制からの独立宣言書として書かれた『国史』です。


    藤原不比等や白村江の戦いの亡命百済貴族が紀の最終編纂者である、

    と云う立場に立っていますが、


    書紀編纂の思想は、九州の倭王朝の否定です。




    いわゆる大和朝廷が列島の唯一の王朝であると言う

    近畿王朝支配説が、明治以降支配的になっています。


    これにより、

    倭国の王が「天皇」という称号を使う事を、唐に「黙認」させた、

    と言う点において、

    努力の甲斐があったと言えるのかも知れません。





    日本が、初めて日本と名乗りだした頃、唐は、どう見ていたのか?

    『旧唐書』倭国・日本国伝の原文を、ここからどうぞ! 



    『日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。』 



    日本国は、倭国の別種なり。

    その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。

    あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、

    改めて日本と為した。


    あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。 


    そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、

    中国はこれを疑う。

    また、その国の界は東西南北に各数千里、

    西界と南界いずれも大海に至り、

    東界と北界は大山があり、限界となし、

    山の外は、すなわち毛人の国だという。




    古事記は、

    平安時代には、宮中深く保管されて閲覧禁止の書でした。


    禁止をしたのは、桓武天皇であると考えられています。 



     「日本書紀」の問題点を挙げてみます。 





    ● まず、不自然なのは天智天皇の墓所が書かれていない事です。


    持統天皇の父ですよ! 

    分からないはずはないのに、どうして?

    天智天皇の墓は、京都の地図で、山科に現存します。

    「扶桑略記」に三井寺伝承として、

    「天智天皇は、ある日、馬で狩に出かけ、いつまで経っても帰らないので

    探した所、山科の山中に天皇の靴が落ちていた。

    そこで、そこを天智天皇の墓とした」と言うものです。

    この事から、

    天智天皇は、誘拐され、殺された事になるが、遺骸は出なかった。



    ● 日本書紀が、歴史書として欠けている大事な点は、


    1. 「日本」と言う国名の起源 

    2. 天皇の起源、

    3. (注★)倭の五王(宋書倭国伝)、
     
      邪馬台国(魏志倭人伝)の歴史が破棄されている事です。 

      (注★)

       413~502、東晋、宋に「倭国王」として冊封された倭国の五人の王



    478年、倭王武・雄略天皇が、

    日本を統一した先祖の事を書いた中国南朝宋の順帝に対する上表文は

    立派な漢文だそうです。

    だから漢字伝来はそれ以前と言う事になります。 

    と言う事は、

    当時もそれなりの歴史書が書かれていたはずですが、残存していない。

    倭の五王のような重要な事象も、

    記紀のどこにも記載がありません。


    それは、つまり、

    ● 紀記の編者達は、これらの事を知らなかったか、

    知っていて無視をしたと言う事です。 





    ● 日本書紀の編者達は、

    前方後円墳、銅鐸文化についても伝承を何ら持っていなかったようです。





    謎が、多いのです。


    前方後円墳が作られた時、

    日本書紀の人々は大和には居なかったのか?

    大和は銅鐸圏ですが、

    その大和にいながら銅鐸圏を知らないという事は、

    銅鐸祭祀が廃止されてかなりの時間が経ち、

    それ以後の渡来者であるか、

    知りながら都合が悪いので記述しなかったかの何れかです。




    なぜ?都合が悪いのか?



    蘇我氏滅亡後の祖先の歴史をあれほど詳しく語る編者達は、

    考古学発掘の結果と全く異なっています。 

    編者達は、銅鐸祭祀廃止後に渡来して来た人々と考えざるを得ない。

    奈良に元々居た人々と、つながっていない。




    土中から発見される状況によりますが、

    誰かに破壊されたのか?

    破壊される前に恐れて隠匿したのか?

    稲荷山鉄剣などの銘とも日本書紀の記載は無関係です。

    やはり、編者達は大和での歴史を持っていない人であろう。




    代わりに、自分達の権威付けとして各種神話を創作したのだろうか? 




    書紀の編者達は、

    倭国の以前の伝承と自分達の伝承を一つにつなぎ合わせ、

    あるいは、天武天皇系列の正当性を取り繕う為に

    周辺の歴史を素材として利用し取り込み、

    それまでの国や外交を殆ど知らない人が、それまでの国の歴史

    や政治に長けた古い人々を追い出して権力を奪取したのではないか?




    なぜか、天武以前の歴史書は、全部破棄されたようです。





    日本書紀は全31巻ですが、

    現存する日本書紀は全30巻であり、

    神武から持統天皇までの系図が載っている31巻がないのである。


    なぜか?




    桓武天皇が、

    「過去においては、臣が天皇になっているので正しくない。

    したがって、日本書紀の31巻を焼き捨てよ。」

    という命令を出し焚書させた。


    しかも、日本書紀の何箇所かを変更・削除したと言う事です。 


    桓武天皇は、772年に天武の孫や聖武の娘を捕らえ流罪として、

    天武系の血筋を根絶やしにしています。


    平安時代、桓武天皇が天皇家の菩提寺とした泉涌寺でも、


    歴代天皇の中で

    天智天皇の次は、光仁天皇、桓武天皇となり、

    天武系の天皇は完全に皇統から外され祭祀をされていません。 


    天武天皇の経歴、年齢だけが

    はっきり書かれていない。

    おそらく、

    日本書紀の編者達は、天武天皇の誕生日を知らなかったのでしょう。

    編者たちが集めた皇室に残る資料の中に、

    天武天皇の誕生日を書いた物がなかった?




    それより、もっと素朴な疑問を、あげてみましょうか。たとえば、


    ● 聖徳太子への疑問

    ① 本当に実在したのか?

    ② 優秀な人物が、どうして天皇になれなかったのか?


    ● 645年の大化の改新の疑問

    ③ 蘇我入鹿を殺しただけで、そんなに世の中が変わるのか?

    ④ 中臣鎌足は、当時の世の中でそこまでの力があったのか?

    ⑤ 大化改新は、本当にあったのか?

    ⑥ 藤原鎌足は、本当に実在したのか?


    ● 663年に白村江の戦いの疑問

    ⑦百済の任那、そんなちっぽけな領土の為に、

    わざわざ負けに行くような戦に、なぜ行ったのか?


    これが、私の白村江の戦いに対する長年の疑問です。 


    ● 「壬申の乱」って、わからないなぁ?


    ⑧ 我が国の歴史は、

    すべて、天皇家の血の争いによったものである。

    という認識が、正しい事になっていますが、

    そうでしょうか?




    ただ、皇位の奪い合いで戦争になったという捉え方は納得できないワ。


    この辺りの事になると、学校教育で習ってきた物では歯が立ちません。


    時系列で言えば、縄文、弥生から、突然、急に出てくる

    「大和朝廷の統一」、「聖徳太子」、「大化の改新」などの

    事項を無自覚的に教え込まれていますね。

    それが20世紀の歴史教育でした。


    このまま、 21世紀にも、

    このような扁平な歴史教育が続くのなら、

    日本の常識、世界の驚き、となってしまうでしょう。


    これじゃ、

    ほんとうに、りっぱな”井の中の成人蛙”に成長しますね! あはは。




    今の日本史には、なにかが、隠されて誤魔化されている?



    戦争をするには、

    なぜ 戦争をするのかという理由が必要です。

    大国は、目先の戦いだけを考えて戦争をしないはずです。

    その先の事までを読んだ企みがあったはずです。 



    なにか、こう言う軸をもって見ていかないと

    記紀の編集者達の欺瞞のベールに騙されそうな恐怖を感じています。



    今のままの歴史では、何故か、現実感覚を失いそうになります。

    井の中の蛙シンドローム?

    そのシンドロームに浸って、私達はノホホンと構えていますが、、、  


    大きな事件は、かならず流れがあります。

    流れを見失ったまま、単なる事件として見てしまう。

    この認識の甘さが、国の不運を呼び込むのです。 





    645年の大化の改新、663年に白村江の戦い、672年の壬申の乱は、

    一連の物として捕らえた方がいいのではないでしょうか?



    一番、不可解なのは、やっぱり『白村江の戦い』です。



    大国、唐の企みを見据えていなかった我が国は、

    百済救援の為だけに?(そう教えられていますね?) あはは。

    白村江で敵軍が待ち構えている所へ攻め込み、

    逃げ道も塞がれて、ろくに戦わないで、

    全滅に近い状態であったにもかかわらず、

    不思議なことに帰国する船は、ちゃんとある! 

    おまけに

    百済の亡命王族、貴族、高級官僚をいっぱい乗せて帰って来ます。  




    負けたと云いながら、船に乗って帰国をする。

    おかしくは、感じませんでしたか?



    彼等は、戦勝国唐の要求で、

    日本の戦後賠償の敗戦処理の結果として、

    大和朝廷の高級官僚として雇われる為に日本へ、

    亡命させられた人々です。

    当時の天智天皇は、その為に階位を増やし対応しました。

    その後、彼等は、

    記紀編纂の重要な人材として不比等の下で活躍するわけです。 




    日本書紀の記述を信じるとして、白村江の戦いは、


    659年~661年 にかけて 第4次遣唐使を派遣した後、 

    660年、にすでに、唐と新羅の連合軍に百済は滅亡している。

        にもかかわらず、
       
        斉明天皇が、筑紫に朝倉宮まで建てて,子供の皇子、皇女を連れて

    逗留をして、計5~6万人の兵力を、3回に亘って、3年を費やし、

        任那を奪還をする為に、戦争をします。

    (いくら船でも奈良盆地から九州へ本当に行ったのか?これは書紀で否定をした北九州倭王が戦ったのではないか?と言う疑問がある)


    661年、日本軍は、三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸します。

        5月第一回目●1万余人を投入。船舶170余隻で、朝鮮半島に

        上陸をします。7月24日、斉明天皇は、そこで急死(毒殺?)

        にもかかわらず、その翌年、

    なぜ? 諦めずに百済を救援に行くのか?

    (このモチベーションの高さに、呆れるくらい納得できません。大和に帰れば反対派が待っていて自分達が失脚させられるのに!)


    662年、3月第二回目●2万7千人を投入。

    (ここまでやると、もう要請を受けたからの救援とは思えない。それならモチベーションの高さが続くかしら?)


    663年、白村江の戦い 第三回目  ●1万余人を投します。

    (ここまでやるのは、自分たちの本貫地を守る為だと言うのなら、納得できます。)


    663年、8月28日 唐と新羅の連合軍に、百済と日本軍は敗れます。 

    663年、9月24日 日本軍は撤退します。


    百済国は、もう3年前に滅亡しているのに、これは、何だったのでしょうか?

    国を奪回して、再建するつもりだったのか? 




    日本書紀の「軍船。170隻を、、、」とありますが、170隻をそろえるのは

    大変! 造船したのなら、随分前からの準備が要ります。

    戦いの前に、3、4次の遣唐使派遣をしながら、

    一方で、戦争の準備をしていたのか?


    それなのに2年後、また、第5次遣唐使を行っています。


    以上の事から、余裕も、国力もない日本が、

    百済まで戦争に出掛けた理由の説明が、つかない。


    第5次遣唐使! 

    おそらくこの遣唐使は、朝廷が中国に派遣したのではなく、

    船の建造や航海術に長けていた中国人が、

    主体になって行ったものでしょう。 





    私たちは、白村江敗戦後の動乱は、教育で詳しく教えられていない。



    日本書紀に最も多く登場する「郭 務ソウ」と言う

    唐から敗戦処理の為に日本へ派遣をされた人物ですが、

    裏づけに唐の記録(資治通鑑)を見ても、

    これだけの人物が、全く記載がない。


    これも創作なのか?


    また、百済人を全国、秋田の方まで受け入れ入植させます。

    日本の領土のあちこち、対馬等に、百済人の手で、

    唐が使う城を作らせます。

    唐から、日本に派遣されていた軍人が、

    日本占領軍司令官として戦後処理を行います。


    その軍人が、後の天武天皇と考えられます。 





    鈴木 治氏は、「白村江」の著書の中で、

    日本は、唐・中国側に翻弄され、

    唐の戦後処理の目的は、天皇の傀儡化だったと???



    その時の、

    傀儡政権の天皇が、天武天皇だった!と書いています。






    また、中大兄皇子が5人の娘を

    大海人皇子・天武天皇へ嫁がせていますが、

    本当の兄弟ならば、これほど兄が弟に気を遣うでしょうか?

    また、藤原鎌足も2人の娘を大海人皇子に妃に出しています。

    これは、中大兄皇子と大海人皇子は、兄弟ではなく、

    663年、白村江の戦いの予兆の緊張した状況における

    大海人皇子と言う人物を慰撫し、

    機嫌取りに差し出した人質ではないかと言う説もあります。

    その時の大海人皇子の本当の身分は、

    新羅の王族、または軍人であろう、と言う説です。



    そもそも、

    朝鮮三国の力を背景に

    大和朝廷を傀儡にしていた豪族の蘇我氏が、

    百済の王族である斉明天皇と、高句麗の王族である舒明天皇を担いだ?

    と言う説もあり、


    中大兄皇子は、九州にいた百済王の子の余豊璋だと言う説もある。

    その理由は、7世紀のそういう蘇我氏の権勢に対抗し、

    中大兄皇子は反蘇我、親百済派で復権を狙う立場であったのと、

    同時に、当時、

    日本に倭・百済同盟の人質として、

    百済の王子、豊璋(ほうしょう)が来日中であった、

    この両者の立場が重なってもおかしくはないと言う説です。 




    すべてを、大和朝廷を中心に考えると不自然さが目だって来ます。

    いずれにせよ、

    斉明天皇の大和朝廷の本貫地が、百済国だったとすれば、

    百済派が、後々、朝廷において失脚をするかも知れない事を恐れずに、

    「白村江」を戦ったという理由が見えて来ます。 




    『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―

    「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会の

    藤井游惟氏の言葉を借りると、

    『日本書紀』α群を書いた人物の固有名詞は解らなくても、

    それを書いたのは中国語ネイティブスピーカーであり、

    それ以外の「上代特殊仮名遣い」が現れる借音仮名文書を書いたのは、

    朝鮮語のネイティブスピーカーであった、

    ということは

    言語学的・音声学的に完全に証明できます。



    ということです。      


    以上「日本史の宝石箱」オリエントの都アスカへの道列島古代史学より引用



    中国語ネイティブスピーカーと、朝鮮語のネイティブスピーカーが、

    書いた『日本書紀』とは、なにぞや?  あはは。





    とに角、白村江の戦いから壬申の乱までは、

    大唐の帝国主義が、朝鮮三国と日本を巻き込んだ流れであり、



    日本からのベクトルとしては、

    唐の属国から抜け出ようとする百済派の動きではないのか?

    それに失敗したのが、「白村江」であり、



    その大陸・半島勢力図を、

    属国であった日本国内の勢力図に写したのが、「壬申」ではなかったか?



    その結果が、

    新羅は、唐を主宗国とする柵封国に入り、

    倭は新羅の属国になった。


    と言うより、唐が新羅を使って日本を統治したのです。

    柵封国は、主宗国の年号と、漢字を用いるのが義務つけられる。


    その証拠として、

    栃木県那須にある「那須国造碑」とも呼ばれている物があります。


    その碑文には、冒頭3行に漢字を用いた和文脈で


    永昌元年(689年)とある。

    それは、日本国の持統天皇3年にあたります。


    「永昌」は、

    唐の高宗の皇后、中国史上唯一の女帝である

    後周則天武后の元号です。

    我が国の天武天皇を経て、持統天皇3年において、

    唐の元号が、大和から遠い栃木の那須で使われていた!

    と言う事です。




    故に、以下のような仮説が成り立つ。


    天武天皇の血統は、親新羅正統王族で、

    本貫は新羅任那王家、王族の名は金官(カシ‐パラ)伽耶の

    「金庾信」の系図が出自であり、

    金官伽耶とういう国名は、駕洛国の新羅法興王の時代の名前です。


    この王族の名前が、日本初代天皇神武が即位した宮を

    『日本書記』で橿原宮(カシハラ)、

    『古事記』可之波良(カシハラ)と言うのに通じる。


    また、倭王朝と駕洛国の両国は、その通婚図が似ている。

    女帝を平気で認めることなど

    新羅任那王家と倭国王家は同じような傾向があって

    天武天皇系の朝廷は、駕洛国系の国家であった。





    日本(天武朝)の本貫は明らかに、

    金管伽耶=加羅=駕洛国とも言う別名任那であると言う仮説が

    成立する。





    ●また、大化の改新が、

    新羅の歴史『眦雲(ビドン)の乱』にそっくりである為に、

    大化の改新は、創作である、という説があります。




    ①日本 : 新羅の登場人物6人が同じような位置にいます。
     

    皇極(後に、斎明) : 真徳(王が死去した後、善徳とした。)

    斎明女帝    :   善徳女帝は同じように皇子たちに助けられた。

    斉明女帝の死後、
    天智(中大兄皇子)即位 : 真徳女帝の死後、金春秋(武列王)即位

    斉明(皇極)  : 金春秋(武列王)の治世期間654~661とぴったり重なる

    中大兄皇子(日本)  :  金春秋(新羅)は、それぞれ天皇・帝になり、

    日本の「中臣鎌足」 : 新羅の「金庾信」は天皇の支えとして大活躍する。





     ⑧ 4者の出会いもそっくりである。 

    ・「中臣鎌足」は、蹴鞠会で中大兄皇子に接近 = 「金庾信」は、金春秋と

      自宅前で蹴鞠をした。

    ・「金庾信」の系統の方々の系図をそれと悟られないように命名の際に記

      したのだと思います。

    ・「金庾信」は倭王朝の任那付近の同族なのです。

    ・「金庾信」の父は、「金
    玄」 :  「中大兄皇子」の父は、「明天皇」

    ・「金庾信」は、ひどんを誅殺して真徳・善徳女帝の下で、唐にならって律

      令制度を導入し国を整える。 : 「中大兄皇子」は、皇極・斎明女帝の

    下で、唐にならって律令制度を導入し国を整える。 





    中国語ネイティブスピーカーと、朝鮮語のネイティブスピーカーは、

    彼らが知っている事を利用する事しかできないのですから、

    おそらく、彼らは日本書紀を編纂する時に、

    国から持ち出した新羅任那王家の歴史書を参考にしたに違いない。


    聖徳太子、中臣鎌足、は言うに及ばず、

    その当時の天皇の名前も例えば、

    舒明、皇極・斉明=宝皇女、孝徳などは、

    状況証拠からも新羅の王族の書き換えである、と言う説です。 


    天武天皇がまとめた「帝妃及び上古の諸事録」にも、

    駕洛国の初代の王から「金庾信」家と

    婚姻関係になった金春秋の記録まで載っている。




    つまり天武朝は、

    外見は、大和にいた天孫族として朝廷の正統派を装い、

    本質は、唐を主宗国とする柵封国・新羅の属国である。

    朝廷の中は、金管(カシパラ)伽耶=加羅で、駕洛国の手法を取り、


    日本書紀や古事記を編纂していたのは、

    大陸や半島に出自を持つ、中国語ネイティブスピーカーと、

    朝鮮語のネイティブスピーカーの亡命貴族や官僚である。




    天武天皇の出自の金官(カシパラ)伽耶と言えば、

    新羅に併合された滅亡国であり、

    百済とは敵対し戦闘も行った歴史もある。


    と言う事は、天武朝を支えていた政府官僚は、敵対していた2つの派、


    1.新羅から派遣をされた元金官伽耶=駕洛国派と、 

    2.白村江敗戦で母国を失って後、大唐が占領政策によって日本の朝廷

    へ押し付けた、その時に階位を授かった亡命百済国派である。




    学会の定説は、

    新羅との関連は伏せられ、潤色であるとなっています。

    しかし、大化の改新の詔で、

    日本の律令制が導入されたとなっているのは、

    大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明しており、

    この事は、史学会でも常識です。



    もうひとつ、

    日本書紀に、日本の初めての年号を「大化」であると創作している。

    実際は使用されていなかった。

    「大化」は、編者が、朝鮮語のネイティブスピーカーが、

    同時期の新羅の元号「太和」から引っ張ってきたのだろう。 

    「大化」も「太和」も、韓国語の読み方は同じである。


    日本の初めての年号は「大宝」701年である。 





    ●それらを含めて、書紀の改竄について考えてみますと、



    「天武天皇から命じられて、

    書紀を編纂をしたのは、藤原不比等の下に上記の2つの派の人達です。

    編纂を始めた時期においては、新羅、唐寄りの記述が当然多い。 


    目的は、対外的には、唐に対して九州の倭王朝の否定。

    いわゆる大和朝廷が列島の唯一の王朝であると言う宣言です。

    今では、当たり前になった近畿王朝支配説です。 


    国内的には、天武天皇系に皇統の正当性を与える為。

    国造り等の古くからの伝説(ユダヤが入って作った?)を利用をして、

    この国の歴史として書き換えた。

    『古事記』の神話に結実させたのではないか? 



    686年、しかし、天武天皇が崩御した後、

    720年、日本書紀の完成までの34年間に、

    藤原不比等や亡命百済貴族の末裔達が、

    自分達の百済出自の保身の為に、

    古くから親百済派による大和朝廷であったかのように

    改変捏造していったのではないか?

    新羅寄りから百済寄りへ傾いた記事が多くなる。

    天武天皇朝を批判した外交記事などがあるのは、そう言った事からだろう。



    ● 最後にもうひとつ、中臣鎌足に大織冠や藤原の姓が与えられた怪。


    白村江の戦いで、百済派は壊滅し劣勢のなかで、

    中臣鎌足に大織冠や藤原の姓が与えられることは考えられない。

    中臣鎌足の存在自体が捏造であろうと言う説があり、


    父親が大織冠と藤原の姓を賜ったとしたのは、

    藤原不比等の出自に箔をつけるための創作ではないか? 

    と言う説もある。


    その程度の事は、不比等自らが日本書紀編纂の過程で、

    いとも簡単に書ける事ではないのか?


    何よりもまず、この頃、不比等は、最高権力者になっていたのだから...





    白村江の戦いに、今の日中間の問題がそのまま見えるような気がしています。


    白村江の戦いとは、どんなものだったのか?

    唐は、白村江や、百済が欲しかったのではないでしょう。

    おそらく百済の次は高句麗で、次に朝鮮半島全域、そして、

    日本侵略を目的に入れていたと思われます。なぜか?

    傀儡政権を樹立したかったのだと思います。

    では、傀儡政権を作ってどうするつもりだったのでしょう。


    全国いたるところに中国人が住んで、日本の絹を買っていました。

    シルクロードを経て西域で売る絹です。

    外貨獲得、経済の為です。

    中国にとっては、日本の良質な絹が、無くてはならなかったのです。


    今の中国の、アフリカなどへ資源を求めて外交をして行く姿に重なります。





    それに引き換え、我が国は、

    何の戦略もない外交は、大国のエゴに取っては、池に浮かぶ木の葉の

    ように翻弄をされるはずです。 



    唐は、倭国を占領をするまでもなく、

    自らの手を煩わさないで、

    日本国内を、滅亡百済国人を手先に使って、

    唐の思いのままにしたようです!

    その方が、唐にとっても楽なこと、この上ないでしょう? 



    半島の敵や、かっての味方の国の人間を編者に迎え入れさせられて、


    大唐に日本を認めさせる為の歴史書を、編纂した。


    また、唐の律令を全面的に取り入れる事で、


    戦後、国を作り変えた事です。



    えっ!


    つい、60数年前、同じような記憶がありませんでしたか?


    過去の歴史を書き換えられて、


    国を新しく作り変える為に、


    何を取り入れる事で民主化をさせられたのでしたっけ?


    手に握らされたのは、何でしたっけ?


    だいたい、大国と戦争をして負ければ、こうなる。

    こうさせられるのです。 あは!







    白村江の後、日本の絹は唐を経て世界中へ広がりました。


    60数年前、やはり、日本は経済で立ち直ったのでした。


    大国は、単に戦争をするだけではない。

    先の先を見越して、戦争をすると言うより、世界観を持っています。

    拠り所にしている思想の普遍性に、最初から負けているのですね。

    あらゆる展開のなかの一部に戦争を位置づけています。 




    単に向かってくる相手がいるから戦争をしているのではないのです。


    ところが、日本は、窮して戦争をしてしまう。。 。

    拠って立つ思想もなく、戦略もなく、

    外交で攻められるから戦う?

    食べていけないから侵略をした。。  。


    餓鬼道で、戦争に入って行く訳ですから、

    これでは、初めから、戦争をする前から負けなのです。 



    大国にとっては、兵器だけでなく、思想と言う武器もあります。



    日本の多神教の神道よりも、

    一神教の方が、分があったと言う事です。




    そこのロジックの詳細な、

    哲学的総括も、分析も、精査もしていない。

    まだ、その時が、できる時が来ていないと言う事なのでしょうね。




    そもそも、「白村江」を動乱として捉えていたか?

    そう捉えていたら、もっと、学べる事が多かったのではないか?


    自国の歴史として、あらゆる事を、きっちり教えるべきですよ。 

    形だけのノッペラボウな建前の羅列と年代では、

    過去の反省も、未来への戦略も生まれません。


    当然、国を思う土壌も、国を守る覚悟も生まれないでしょう。



    TDLの人造物のなかで感じる悦楽と同等の、

    それくらいの程度の知識が残るだけです。

    人間は、理性でどう認識するかで、行動が違って来ます。

    それによって未来を決める事ができます。 


    さぁ、過去を、歴史を、どう認識するかです?



    翻って、現在の天皇制を確立をして日本国誕生を果たしたのは、

    実に、「白村江」後からです。

    非常に重要なポイントだったと思います。



    それが、たとえ、唐や、新羅の写しのような出発であったとしても、

    万世一系でなくても、構わないのです。

    桓武天皇以来の今に至る天皇制を維持し、

    ここに、今の日本の姿があるのは間違いがありません。


    その時から我々日本の先人の方々が歩んだ艱難辛苦は、

    想像を絶します。

    私達は、それらと、もうひとつは日本の運が良かった事へ、

    心からの感謝をしなければいけませんね。



    その苦難のありのままを知り、学ばなければ未来はないですね。



    相変わらずの「井の中の蛙」のままでいる事は、

    日本を、柵封で囲われた国、傀儡化した国家にさせるかもしれません。


    リアルな国の攻防の歴史を知らずに、放っておく事は、

    身近で起こりつつある危険の前兆を、前もって感じられない。


    感受性が鈍磨になると言う事ですよ。

    すばやく、正しく認識できないのです!

    そして、リアルな国防の意識を持てないのです。



    正しい歴史認識が、本当に必要です。

    いずれ日本も自らの武力で持って自衛するべきでしょう。

    この世は、自立独立できない存在は、自然淘汰される掟です。

    植物も動物も、国も、存在する理由が無くなれば、同じです。

    その時、隣国の傀儡になるか、大国に吸収されてしまうのです。

    革(あらた)むるべきは、現実感のない欺瞞的な歴史です。



    自然は、いかに華美豪華であっても、欺瞞な生であれば滅ぼします。

    自然は、いかに質実か、真実かを試して、その生を育みます。



    日本の、この馬鹿さ加減を何とかしなければ...

    今年も挑戦して行きたいと思います。






    お正月気分も抜けてしまったかしら? あはは。


    長い記事にお付き合いくださってありがとうございました。

    おつかれさまでしたぁ~!



    次回は、”女性の生き方・陰 ”について、

    身近な内容のコメントにお返事をさせていただきます。


    よき一週間をお過ごしくださいね。


    おたのしみに...


























    参考文献 :記事の中で紹介をしたものは省く

    「歴史とは何か」 岡田英弘著 中公新書
    「皇室の真正系図と記紀神話」
    「倭国の謎・知られざる古代日本国」相見英咲氏著  講談社選書メチエ
    「日本の中のユダヤ文化」 久保有政著            
    「大和民族はユダヤ人だった」 Joseph Eidelberg著
    「『三国史記』の原典的研究」 高 寛敏著 雄山閣出版
    「倭の正体」 姜 吉云著(カンギルウン比較言語学)

    参考資料 :『倭国、大和国とヘブライ王国』『新説・日本の歴史』

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。





    テーマ : 歴史上の人物
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    傀儡 2 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その11

    Category : 運命学と歴史
    長谷寺礼堂の床錦


    長谷寺礼堂の床錦











    今回で、このシリーズは最後になります。

    今日は、天武天皇家の最後の一人娘の生涯を、

    記事にさせていただきます。


    いつもどおりに、前置きを。  (笑い)


    歴史という物は、過去のものです。


    しかし、我々とは、『天』の下、『時』で結ばれています。


    『時』の現在の端と、過去の端は、同じ『時』です。

    本質は、変わらない。

    今の中に過去があり、

    その過去の中に現在の因があり、今がその結果です。






    まともに、『天』の下、正面に向き合えば、

    過去は私たちの中へ流れ込んで、体中から生きていく知恵を貰えます。


    近代、現代という『時』の汚れやゆがみを弾いて見ると、

    流れて来た『時』が、そこには横たわっています。

    そして、『時』こそが、すべてを育んで来た事を知るのです。 






    自分の共感できた歴史の一ページは?

    めくって探してみましょうか.....





    今の教育の歴史は、唯物的で無味乾燥です。


    過去が抜け出した”ぬけがら”を拾っているようなものです。

    サンプルにもなりませんワ!  あはは。


    青春の多感な時に、抜け殻を与えられる虚無感は気の毒です。



    それは、日本固有のものだと思います。






    理由は、精神史が断ち切られ価値観が変わっているからです。

    特に、66年まえの敗戦の時が際立ちます。


    精神史を抜き取ってしまった”だしがら”の歴史です。


    他国からの侵略は、なかった。

    侵略されるような国ではないのだ。

    為政者が、自分の権威を絶対化する為に作り上げた虚構。 




    これって、

    今のバーチャルより凄いじゃないですか?  あはは。

    その化けの皮が剥げたのが、つい66年前です。




    そして、今、


    まわりのあらゆる国境線に、世界の価値観との違いが露呈しています。

    侵略には、どう対処したらいいのか?

    日本は、まるで”カマトト娘”のように、驚いた振りをするしかないのです。 




    そんな、ひどい~! 
    ゆるせないわ~! キャァー     


    あはは。




    侵略が、隙あらば当たり前という露骨な歴史を持つ世界の列強とは、

    日本は、対等にはやって行く術(すべ)を持っていない。 




    という事は、わが国は、母国の歴史から、何を教訓にしたの?


    ひょっとしたら、我々は、母国の歴史を陳列棚に並べるだけで、
    教訓を得るつもりがないのでしょう。
    だって、すべてが皇国史観、
    民主主義の今だって、それは底流に流れているのです・



    単一民族の、唯一の王朝が続く国にとれば仕方がないのかも知れません。









    今の歴史は、唯物史観。

    それを駆使して、
    精神史を掘り起こして、

    過去の母国の人間に、迫らなければ意味がありません。


    歴史を知る事で、反省ができ、分相応を自覚をして、

    今の私達の命に、力と知恵が漲(みなぎ)らなければ、それは嘘でしょう。 

    母国の歴史とは、常に、そうでなければおかしいでしょう? 




    やっぱり!  単一民族のケッコウナな国だと云う点だけに
    自惚れていてはイケナイのですね。    ほほっ。







    では、先へ進みましょう~!


    わが国の歴史には、

    精神史を掘り起こす、事が、いつも抜け落ちていますね!


    たとえば、高松塚古墳キトラ古墳について、玄室に方位四神像、

    高松塚古墳内の女性像、

    キトラ古墳の星辰図が、

    それぞれ描かれているとは、

    一般に報道をされて私たちは、知ることができます。


    が、しかし、どうでしょう? 


    その表す所の精神史については、詳しく述べられていない。
    それを、それぞれ言い表すと次のようになります。






    七C末~八C初めに作られたとされる高松塚古墳

    およびキトラ古墳の玄室には、

    共に
    道教の方位四神像が描かれています。 


    高松塚古墳内の女性像は、
    高句麗の古墳壁画に酷似しており、

    キトラ古墳に描かれた星辰図は、
    高句麗で観測された天空なのです。


    二つの古墳は藤原京中央のほぼ真南ラインにあり、

    天武・持統・天武帝の皇子たち文武帝陵・(大津と草壁か)もここにあります。


    この事は、天武朝は
    新羅経由の高句麗の文化で満たされていた証拠です。 




    ほら! 仏教だけではなかったのです!

    本来、こう知らされなければいけないのに、いかがですか?

    暗に、仏教が興隆していたかのように誤魔化されています。

    どう言う意図でしょうか?



    かように、わが国の歴史は、分からなくなっています。 


    報道や表現の自由が保障されているわが国で、です。  あはは。


    めんどうくさいから?

    細かい事まで国民大衆に知らす必要はないからですか?

    専門家と学識経験者以上が知っていればいいからですか?


    意識で作った近代国家の法律、ルール、
    これを敢えて、『陽』の偽性の賜物と言っておきましょうか、 ほほっ。


    それにおいてさえ、
    次の様に言う事ができるはずです。


    国民は、自国の歴史のあらゆる事を知らされる権利があるはずです。


    さほどに、抜け道の多いのが、『陽』である法律、制度です。

    法律や制度は、運用する人間に依って功罪があるのです。

    おなじ法律や制度が、人を殺しもし、生かしもするのです。

    故に、法律や制度では、人間は等しく平等に幸せにはなりません。












    では、本論の方へ進みましょう。



    そうそう、

    政務から逃げていた聖武天皇が、男で初めて太上天皇になり、
    聖武天皇と光明皇后の娘☆3.阿倍内親王  が、
    749年、48・☆3.孝謙天皇在位749年~758年、として即位します。 




             ☆ 46・孝謙天皇 (女帝) 《在位9年》






    752年、東大寺大仏開眼供養会を挙行する。

    753年、盧舎那殿の前に戒壇を立て、皇太后・天皇と共に登壇して鑑真より

         菩薩戒を受ける。
        
        母の太皇太后宮子が崩ず。 


    756年、聖武太上天皇が崩御。

        崩御にあたり天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残す。


    古代より皇位継承の際の混乱を避ける為に、

    「天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という

    不文律がありました。

    女性天皇は、結婚する事は許されない訳ですから、

    もちろん子供も産めません。

    だから、女性天皇の子供が皇位を継ぐという皇位継承は、あり得ません。 




    ☆3.孝謙天皇の後の皇位継承をどうするのか?

    この大変な閉塞感が、

    聖武天皇の晩年の心の中に、

    ☆3.孝謙天皇ご本人の胸の中に、朝廷の貴族の中にも漂っていたはずです。


    ☆3.孝謙天皇の後の天皇の座を巡って、

    いろいろな思惑がうごめいていたはずです。 





    それを見越してか、聖武天皇は、

    ☆3.孝謙天皇の後に、天武天皇の2世王・道祖王を立てたかった。


    それは、娘へ譲位をした父天皇としての責任からでしょう。

    自分が藤原の傀儡として天皇の位にある事を良しとは思わなかったはず、

    娘の幸せをも考えて遺言をしたのでしょう。


    しかし、聖武天皇は、自分の死後、

    ☆3.孝謙天皇が自分の遺言通りにすると、信じていたのでしょうか?




    一人っ子のわがまま娘、☆3.孝謙天皇は、世間知らず、

    という相場通りの事をやってのけたのです!    ほほっ。


    時代も違えば、身分も違う! 
    しかし、人間は同じです!
    そういう意味では、彼女は正直な可愛い女だったのでしょうね。
    なにしろ、彼女は、天皇と言う位に立った人ですから、
    その我がままたるや、私達とは桁が違います。     ほほっ。




    両親(☆1.聖武天皇☆2.光明皇后)の死後、

    前代未聞の事を次々とやってしまいます...


    ●一つ目は、

    ☆2.光明皇后☆3.孝謙天皇の二人から寵愛された藤原仲麻呂です。


    藤原仲麻呂は、

    ☆2.光明皇后の皇后の兄(藤原四兄弟の一人・武智麻呂)の息子。

    つまり、不比等の孫です。

    ☆3.孝謙天皇の従兄弟に当たります。



    ☆3.孝謙天皇は、その仲麻呂を寵愛し、

    「親の心、子知らず」それを知ってか知らずか?  
    彼の勧めるがまま、聖武天皇の遺言も無視して、
    757年、天武天皇の孫(天武天皇の皇子・舎人親王の七男)を立太子します。


        後の第47代・淳仁天皇です。





    ●二つ目は、弓削道鏡(注★)です。

    父・聖武天皇の遺言も無視して、

    淳仁天皇を立てた後すぐに、☆3.孝謙天皇の寵愛は、僧・道鏡へと

    移って行くのでした。



    このあたりが、いかにも女性の権力者の気分のまま?  あは!
    感情的に流される欠点が出ているように思えますね。




    (注★)☆3.孝謙天皇、後の称徳天皇に取り入り、寵愛を受けて、

    それまでの天皇の愛人だった藤原仲麻呂を失脚させた後に、討ち、

    太政大臣禅師となり法王となって位を極め、

    さらに神託によって皇位に就くことを望んだとされる。








              ☆ 47・淳仁天皇  《在位6年》



              

    758年、☆3.孝謙天皇から譲位を受け、47・代淳仁天皇に即位。

          政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、

          仲麻呂の後見人である☆2.光明皇后が強い影響力を持っていた。


          上皇になった☆3.孝謙天皇とは、僧・弓削道鏡との関係を

          注意した事で対立をするようになる。


    760年、祖母の美千代に正一位と大夫人の称号を贈った。

    764年、恵美押勝の乱

        淳仁天皇は「仲麻呂と関係が深かった」と言う理由で廃位を宣告され、
        ☆3.孝謙上皇の軍によって包囲され、

        親王の待遇をもって淡路国に流され、逃亡して捕まり32歳で亡くなる。


    ☆3.孝謙上皇と、弓削道鏡の二人は、
    天皇の外戚(母方の実家橘家)からの政権奪回に乗り出し、
    46・☆3.孝謙天皇が、仲麻呂を討ち、淳仁天皇を廃し、
    自らが重祚し、第48代・☆3.称徳天皇として返り咲きます。






         ☆ 48・称徳天皇 (女帝) 《在位6年》






    764年、第48代・☆3.称徳天皇、在位764年~770年

    あろう事か、今度は、その道鏡を天皇にしようと・・・道鏡事件が起ります。


    769年、大宰府の宇佐八幡神の神託として道鏡を皇位につけるべきと奏上。

    しかし、念のため宇佐八幡の神託を伺うこととなった。

        藤原氏は当然、工作したであろう。

        そのおかげか道鏡への譲位を否定する神託を持ち帰る。


    世間知らずの☆3.称徳天皇が道鏡の甘言に乗ったのか? 


    道鏡が、もし天皇になっていたら、彼も僧であり後継者はいない。

    道鏡の後すら想像できない。 

    どうするつもりだったのか?

    日本歴史最大の危機だったのですね。 


    ☆3.称徳天皇と道鏡の関係か? 
    道鏡の野望か?




    いゃ~そんな可愛いものではないでしょう。
    もっと、ドス黒いものです。
    彼女の次の天皇の座を巡って、
    三つ巴の権力闘争の大きな渦があったのです。 
     


    まず、第一の渦は、☆3.称徳天皇自身の政治改革。

    両親を見ていて、藤原氏の傀儡であった父・☆1.聖武天皇のように

    第二の傀儡にはなりたくないと言う”わがまま娘”らしい野望がありました。


    二つ目の渦は、

    聖武天皇が仏教に帰依するあまり、朝廷以上の力を持った仏教界。

    仏教の興隆を背景に、調子に乗った奈良の仏教界です。

    道鏡を異常な程に寵愛した称徳天皇を利用して、

    仲麻呂を失脚させた仏教勢力の実力。

    天皇の権力さえも仏教勢力の支配下に置こうという権力欲が、

    思惑があったのです。


    三つ目の渦は、
    それを巻き返そうとする藤原氏です。


    失脚した仲麻呂は藤原4兄弟の不比等の長男・武智麻呂(南家)の息子です。
    残る兄弟3人のうち四男・麻呂の(京家)は、後継者がなく、すでに失脚。
    次男・房前(ふささき)(北家)
    三男・宇合(うまかい)(式家)が残っていました。


    藤原氏は仏教界の野望を絶対に阻止したい考えだったはずです。




    奈良の既成仏教勢力 対 藤原氏の房前(北家)・宇合(式家)の
    権力闘争の構図です。
     
    それに加えて、
    一つ目の渦、☆3.称徳天皇です。



    ☆3.称徳天皇自身自分の母親が藤原氏にもかかわらず、

    当時、実権を持ちつつあった藤原氏を排除しようという

    果断な政治改革をした所が、藤原氏の反発に会った。


    しかし、彼女には頼る身内もだれも居なかったのです。

    現実問題として、まず、後継者が居なかった。

    自らは巫女天皇であり子供は産んでいない。


    弟の基皇子は早世し、

    聖武のもう一人の皇子である異母弟安積皇子も消され、

    聖武の直系は居らず、

    聖武が皇太子とした道祖王は陰謀で廃され、

    その兄弟の塩焼王は仲麻呂の乱で擁立されようとして斬殺され、

    船王もそれに与して流されている。


    大炊王(淳仁天皇)は自らが廃して、

    三原王は死んだ。

    他の皇女は結婚している。

    天武の孫世代は壊滅状態であり、もうだれもいなくなっていた。

     



    天武・持統直系は少なくとも断絶でした、、、、、。



    自分が政治改革をしようとしても、もうすでに味方がいなかったのです。






    そう云う彼女が、今まで頼って来たのは、


    最初が、寵愛した藤原仲麻呂であり、

    次が、彼女が法王にまでした弓削道鏡でした。

    しかし、権力を持った世間知らずの彼女に、

    心から信頼にたる人物はいなかったのです。 


    それは、間違いなく彼女を利用する人間ばかり、

    しかし、その事を嘆いてはいけません。




    それが、そう、
    『陽』そのものに生きた本質だからです。








    だからこそ、陰徳のない女性は、幸せにはなれない。 

    と申し上げるのです。


    つまり、
    女性が、いくら権力を持っても幸せにはなれません。
    うぬぼれの強い女は、いつも之に引っかかるのですよ!
    おきをつけあそばせ!




    度重なる権力闘争の粛清の結果、兄弟もなく、身内もなく、
    天武天皇の子孫たる親王、王がいなかった。 



    この行状から、この時代の権力が、仏教をどう考えていたのか?
    まったく心細い想像しか浮かびません。
    仏教こそが、この権力の魔性と戦うものなのに、
    国家鎮護を願う時の国の権力者がこうなのですから、
    その事から、
    この時代の仏教が、釈迦仏教の方便から抜け出ていなかった、、、
    としか、申し上げられない、、のです。




    ついに、
    最愛の間柄であった道鏡の裏切りもあって、
    こんな我がまま娘は、煮ても焼いても喰えない!?
    最高権力者がそう判断したのでしょう。
    もう、時の権力者にとって、もはや邪魔者でしかなくなった

    ☆3.称徳天皇は、今の名古屋付近の藤原百川の家で毒を飲まされました。



    権力だけが欲しい『陽』にとれば、

    自己主張をし出した、わがままな、役に立たない傀儡は要らないのです。 





    ーーー 必要なくなれば、役に立たない物と一緒です。





    ☆3.称徳天皇は、病に臥せって、100日余、

    この間、医療行為を施されず見殺しにされたと、

    看病の為に近づけたのは女官の吉備由利だけで、

    道鏡は崩御まで会うことはなかった。


    「逆説の日本史」で井沢元彦氏が、主張されています。





    1ヵ月後に平城京で、


    770年、孤独な☆3.称徳天皇が崩御します。 








    ☆3.称徳天皇は、聖武天皇☆2.光明皇后の娘です。






    藤原不比等と、橘美千代の孫です。



    それだけの権門の地を引き継ぐ娘が、
    どうしてこう云う最後を迎えなければならないのでしょう、、、





    人の生き方の総決算は、孫の代に報われると言います。

    また、自分の孫に出会えるかどうかは、その人の徳の結果とも言います。 







    最後に、天武朝における

    中国の唐、朝鮮半島の政治的な影響力については、

    次のように述べられるかと思います。


    道鏡事件の神託を出した宇佐八幡宮は、
    もともと豊前に鎮座する古神ですが、

    聖武朝の時に畿内に飛来をして、
    東大寺大仏造立の難工事の際、
    天神地祇を率いて援助をしたとなっています。

    これが、東大寺の鎮守神・手向山八幡宮になります。 






    その意味は、こう云う事になるのでしょう。



    新羅系の宇佐神が同系の天武王統の聖武帝を助けたという事実です。
    同時期に、中国から難渋を重ねて鑑真が渡来していますが、
    これは、新羅勢の妨害で難路を取らされた結果でしょう。






    聖武帝の後に、なぜ藤原仲麻呂が、台頭できたのか?


    それは、唐や渤海(高句麗遺民の国)と手を結んだおかげです。
    唐や渤海の国力に背後を守られて、
    親新羅の橘諸兄・奈良麻呂父子、吉備真備・僧・玄ボウらと
    対抗できたのです。
    結局、恵美押勝の乱として鎮圧され、道鏡の世となりますが、
    道鏡自身の出自は、あの蘇我王統です。




    東大寺に対抗する西大寺も建立して、

    769年、宇佐八幡神はついに道鏡を皇位につけよとの神託を下します。

    しかし、これを和気清麻呂が宇佐で聞き直すと、

    全く逆で「天皇家以外の者を皇位につけてはならない」と言う事であった。



    これに激怒した称徳女帝は、
    和気清麻呂を遠流に処す訳ですが、
    後、女帝崩御ともに、今度は道鏡が配流され、清麻呂は召還されます。



    このゴタゴタの本筋と言えるものは、


    天武朝の断絶後、最後の称徳女帝の「その後」に、
    天智帝の孫・光仁帝が即位して、その子が桓武天皇になるわけですが、
    桓武天皇の母が、百済王の血を引く王族であったと言う事に、
    「新王朝」のめざす流れがあったと、見る事ができるのでしょう。





    道鏡事件と言うものは、

    仏教勢力と、藤原氏、唐・新羅派天皇の三つ巴であり、

    また、それをそれぞれ背景とする、

    蘇我・天智・天武系の三つ巴の王統権力闘争であった。



    それは、日本の中での「朝鮮」勢力の権力闘争だったのです。



    具体的には、

    「高句麗」であり、「新羅」であり、「百済・加羅」であり、
    それらの弱肉強食の戦いそのものの
    権力の消長の姿であったと言えると思います。






    そのように、歴史は、学びの宝庫です。



    女性の特質・『陰徳』に光を当てて歴史を見るのもおもしろいのです。







    これで、このシリーズは終わります。

    いかがでしたか?


    いかに華やかに栄えているかに見える家も、

    わずか3代で、滅びてしまうのです。

    その『因』は、『陰』の衰退、女性の『陽』化です。


    それぞれ、たった一人の女性の生き方です。

    家系を滅ぼすのも、たった一人の女性の生き方で彼のです。
    家系を盛り立てて行くのも、おなじく、
    たった一人の女性の陰徳で可能なのですよ。
    その事を、今回はご記憶くださいね。







    よき休日を、よき『時』をおすごしくださいませ。













































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    どうぞ宜しくお願いします。



    テーマ : 歴史上の人物
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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