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03/05 19:55 |
《近代化の影 1.》 『ラベッツ博士の科学論』/わが国の近代化のジレンマ (コメントより)Category : 運命学と近代化
![]() 那須高原・大雪 今日は、前々回の記事にいただいた2つのコメントからの記事です。 一つ目は、『ラベッツ博士の科学論』を紹介するコメントをいただきました。 二つ目は、『わが国の近代化におけるジレンマ』と題するコメントをメール でいただきました。 少なからず激しい記事になるかもです。 (笑い) 『 非常にまじめなブログですね。 科学の事を書かれていますのでジェローム・ラベッツの本を紹介します。 【 批判的科学 】で知られる科学社会学者です。 現代科学は、「客観性」と、「確実性」を失いつつあります。 今の世界的な無謀な自由経済状況の下では、 すべてが正しくあるのは困難に違いないのです。 ノーマルサイエンス(通常科学)と呼ばれる、昔のままのイメージが通用す るのは、教科書と実験室の中だけです。 型どおりの研究活動をする科学を言います。 現代科学においては、環境問題を起こしているのは科学技術です。 遺伝子操作に見られるように、 科学技術から科学政策といった区分をきっちり区別をして、 「無知と不確実性」への対応をしないと何が起こるかわからない時限爆弾 を抱えているような現状に対処するのが喫緊に急がれる壁です。 このような科学技術は、 科学者でさえ「意図しない科学的結果」を、もたらします。 今の科学においては、「専門家の知識がベストである。」という、 信用性は当てにならない。 これを、ジェローム・ラベッツは、先のノーマルサイエンスに対比して、 「ポスト・ノーマルサイエンス」と呼んでいます。 科学者のピア・コミュニティ(同僚集団)の必要性と、それに加えて、 非専門家を加えた「拡大ピア・コミュニティ」をつくり、 そこには、普通の市民の参加を呼びかける事を推奨しています。 科学者が、自分の自己満足や、名誉欲の為に暴走をすることに 歯止めをかけようとしているのです。 科学のすべては新しく、それに対処する刺激的な問題提起をしている。 是非、一読をお薦めします。御代川貴久夫:著 (こぶし書房)』 このブログへお立ち寄りいただき、情報をお伝えくださった事に、 感謝申し上げます。 そうですわ! 私たちは、普段、科学と言えば、 教科書と実験室の中の科学を思い起こしますね。 でも、たしかに 「無知と不確実性」の袋小路へ行き着いた個人主義の社会の中で、 科学だけが、優等生で昔のままだなんて誰も信じられないですね。 実は、5,6年前になりますが、 運命鑑定の相談にやって来られた女性の相談内容から、 今回ご指摘の科学の行く末に対する不安が溢れて来て、 未だに消えずに、、、 今、それを思い出している処です。 さる大学院の男性教授と、研究者の女性2人と計3人で、 遺伝子組み換え技術の特許でベンチャー企業を立ち上げた直後、 男性教授と、もう一人の女性の関係の為に、 男性教授を信頼できなくなった。 ベンチャー自体から遠ざかりたいが、 特許の共同権利等、研究目的もあって、 どうすればいいだろうかと言うような御相談でした。 学業、学問優先で、社会性や組織の人間関係の経験がない若い優秀な 人材が、時代の先端技術の開発を、競争心や夢を煽りながら、 ベンチャー企業という経済活動、行動に出て行けば、、 「意図しない科学的結果」に出会うだけでなく、 「意図しない人間関係」、「意図しない利害関係」にも出会うわけです。 両刃の剣である先端科学の研究成果、そのベンチャーを立ち上げて、 一体全体、誰が、ガバナンスをするんだろう? そこではモラルハザードは、どうなっているのだろう? ...と。 あはは。 時代の最先端を行く技術とすばらしい頭脳、機会に恵まれている反面、 複雑な人間関係等に見られる未熟な一面を垣間見て、 今の教育に於ける知情意のアンバランスさの現実に、驚きと共に、 やはり! と言う得心を覚えたものでした。 研究結果の特許商品の中身にまで不安を覚えた事があります。 知識の集積は、まったく徳性とは比例しません。 規制改革に伴う、自由な経済活動の流れで、欲望の為すがままでは 困惑する状況も生まれるのであろうと、半ばあきれた記憶があります。 おかげさまで、科学者のピア・コミュニティ(同僚集団)や、 非専門家を加えた「拡大ピア・コミュニティ」の必要性は、理解できます。 しかし、そういったもので解決できるのか? 現代科学の「無知と不確実性」を生む深層の奥底には、 いわゆる西欧の”近代化 ”が関連しています。 次の「わが国の近代化のジレンマ 」と言うコメントともリンクしますが、 近代化は、 過去の伝統的な価値観を世俗化し、相対主義を台頭させました。 キリスト教文明を生み、そこに基盤を置く西欧の近代国家において、 宗教離れの進行=バチカン・キリスト教会への求心力の失墜があります。 言い方を変えれば、キリスト教において、 教会の伝統的な絶対価値観が揺らぎ = ”神の権威が失墜 ”した のであり、現代科学や社会規範をリードできる力が、 神に無くなったと言う事です。 キリスト教思想の土壌という母体から生まれた産物、 共産主義や資本主義、(共産主義は、もう決着が着いたものの、) 近代合理主義から派生した科学が、勝手な暴走を始めて、 母なる教会の言う事を訊かなくなった。 キリスト教そのものの西欧における無力化を示しているのです。 現ローマ法王も、 西欧世界で生命、家族倫理、宗教心が希薄化した事や、 神に従わない人々が、人権や自由や平等には従うと言う現実に、 新たな神が現れたと、嘆かれていると言うのを、 過去に記事に書きました。 近代化による伝統的価値観の世俗化、これは日本や西欧だけの事です。 世界の他の地域は、アメリカでは、宗教的保守派が政治に存在感を示し、 むしろ宗教の影響力は強まっています。 イスラム圏からアフリカ、南北米、東欧、南アジア、は宗教復権が 進行中です。 ロシアや東欧は正教会の復権が進んでいます。 と同時に、宗教間、宗派間の軋轢が増しています。 科学を暴走させるスキを与えた近代化とは、何だったのか? 人間の意識によって生み出された新しい観念的な価値である (★1.個人の人権、自由、平等観)等が台頭する事によって それまでの伝統的な絶対的価値であった (★2.宗教、家族倫理、社会倫理)等の相対化を起こした。 それは、つまり ★1と言う新参者が絶対的価値になり、★2に置き換わったのです。 それは、すなわち、 ★2の今までの普遍的とされ伝統ある絶対的な価値が、 政治経済と対等な道具に、配下に、家来に成り果てると言う事です。 それが、相対化と言う事です。 しかも、まだあります。 ★1の価値観は、 人間の意識が作った意識上の観念による抽象概念でしかありません。 ★1の価値は、この宇宙に元々存在していたのか? さぁ~? だれもが、 これ等の価値(個人の人権、自由、平等)の実現が可能なのか ? この宇宙の、自然の摂理に反するものが実現する目途はありません。 なぜなら、この世界は、人間の理性が作ったオモチャじゃないのです。 近代化のロジックは、 世界的に共感を呼ぶプロパガンダである事には、間違いないようですが、 新興宗教、その教義のようなものです。 洗脳に成功し? なぎ倒した国は、西欧と日本のみです。 片手にこの教義を持ち、もう片手に武器を持ち、広まった宗教です。 その証拠に、これを信じた人間は、生命よりも大事だと思い込み、 ★1の獲得の為に、血を流し、戦うようになります。 ★1の概念は、生命の犠牲を要求する絶対価値観に登りつめています。 人権と自由と平等を教義とする宗教の本尊は? それは、人間の欲望が本尊でしょうか? あはは。 現代科学の「無知と不確実性」を、生み出した元凶と言えるでしょう。 調査捕鯨を邪魔するシ-シェパード、あれも一つの宗派でしょう。 (笑い) 命あっての体、体の部分であっての脳の前頭葉、 その前頭葉の機能の一つである理性が作った価値に命を賭けるなんて? まさに、倒錯! これが西洋的思想の真骨頂です。 (笑い) 東洋思想では、欲が作った単なる妄語(根拠もなくみだりに言う言葉)。 しつこく言いましょう。 体が光を受けて地面に伸びる影。体と影、どちらが主体ですか? 影を獲得する為に、体を失ってもいいのですか? ? 実態のないものに、自己存在のすべてを賭けて戦うのですか? それが、近代化以降の世界です。 近代化は、 人間が自己を見失い迷路に入った代償に、 利便と物質をもたらし、 次は、その利便性の権化である物・兵器で生命への攻撃を準備し、 その次は、生命維持の物質・食料の奪い合いです。 物質文明の終点、その戦いは、もうすでに始まっています。 人間は、簡単に自分が作った言葉と観念の奴隷に成り果てるのですね。 最後、その為の戦争を始める。 65年前もそうでした。。。 このブログの読者には、もう、お分かりの事と思いますが、 意識は、『陽』であり、その行き着く先は、「偽」であり、 その「偽」の実態は、生命よりも観念を尊ぶ愚かさです。 実在の生命よりも、非実在の観念を守る野蛮です。 生命の尊厳の軽視、その本領発揮の具現する現場が、「戦場」です。 そこが、『陰徳』を捨てた『陽』の現場であり、果てなのです。 近代合理主義が、”意識 ”を主役スターにして、 近代化と言うfeature program・特別番組を放送し続けています。 我々は、近代化の成れの果てまで見続けて、 The End の地獄を眺めたくはありません。 科学と言う人間の意識が作り出した巨大な道具を、どう使っていくのか? それを、解決しなければいけない時点に立っているわけです。 しかし、 キリスト教思想を母体として生まれて来る哲学では、解決は無理です。 今の上塗りのロジックにしかなりません。 もっと巧妙になるだけ... ”広く深い東洋の叡智を探索しなくてはいけない。 ” 次は、 わが国の近代化のジレンマ と言うタイトルでいただいたコメントです。 『我が国の特殊性は、 アジアで唯一近代化(西洋文明の受容)を成し遂げた事にあります。 すなわち、欧米に近い存在になったという事だと思います。 従って、欧米への批判は、そのまま我が国への批判にもなり、 我が国近代化の肯定は、欧米の肯定にもつながる事になってしまいます。 明治維新において、自国の伝統や歴史を守ろうとすることが、 自国の伝統や歴史の解体につながるというジレンマ、 それを自ら紡ぎだしているという現実は認めるとして、 ではどこに還れば良いのか。 近代を捨てることは、 国際社会を破壊するということにも留意しなければならないでしょうしね。 これに対する答えを導き出さなくてはならない時期には来ているのでしょうね。』 そうですね。 近代化のもたらした世俗化が進行しているのは、西欧と日本だけです。 世界の中の特殊です。 まず、成果ばかりではなく、人間生活のあらゆる側面において、 近代化とは何か? それは、世俗化であった事を認識するべきです。 もうすでに、その本質は書いたつもりです。 ここでは、西欧と日本を切り離して、世界の特殊なケース= 日本の近代化を考えてみたいと思います。 まず、いわゆる明治維新の近代化から141年も経って、 何の見直しもせずに来ている事を異常と思いませんか? 歴史的経験や伝統文化、経済の現状等、見直しが始められるべきです。 アメリカにおける近代化論は、 何度もその論理が組み替えられています。 歴史叙述における強国論や覇権の盛衰、文明論や諸文明の拮抗・対立、 あるいは歴史終焉論というふうに、いろいろ姿を変えながら、 いまだにまだ根強い影響を与えつづけているのが現状です。 近代化論を見直し続けたアメリカは、やっぱさすがです!よ。 それと比べると、我が国は、 実体のない言々区々を連ねた借り物の近代化論理の貧弱性、 じつは、明治維新前後の近代化論のまま、見直しも反省もないままに、 近代化=進歩だ=よい事だ。と、思い込んでいるようです。 そんな馬鹿な~! 一方的に良い事なんて、この世には有り得ないでしょう? 人間が作ったものは、善と悪とが表裏にあり、 時とともに、その価値は減ずるもの。 それが、東洋の考え方です。 だから、常に点検をし、反省をし、時代にあった中庸を目指すのです。 近代化の結果としての、宗教心の希薄化、道徳や家族倫理の崩壊を、 その現実を日々感じていながら、それが、解っていながら、 (明治維新=)近代化=進歩=良い事と受け入れたまま、142年間も! それをしなかったのは? 誰ですか? それに対する言い訳は、いつも同じ、 「欧米的な国家を作り上げていく事こそが、日本に必要だった。 それが近代化論の最も重要な目的だった。」 それはそうだったでしょう。 しかし、為した事がすべて正しいのか?とは、全く評価は別です。 日本人は、井の中の蛙、世間知らず、 何事も信じるお人よし。 進歩、近代化、これはぜんぶいい事! 役に立つ事! ?? まるで、神か、仏が、我々に与えたもうた~モノ。 すべて善で正しい。 こう片付けるのが日本人の癖ですか? あはは。 冗談ではないわ! (笑い) 進歩も近代化も、ぜんぶ人間の意識の作り物、 フィクションです。 西洋思想に備わる特徴を、灰汁や毒素も含めて、 深く取り込み過ぎた現実、 それが日本にとっての近代化の結果だったのでしょう。 取り込み過ぎた結果が、 日本人に Ambivalent(相反する意見を持つ)な態度を持たせたのです。 ご指摘の近代化のジレンマは、日本人にとっては、 自己恒常性を保つホメオスターシスの機能としては正常ですね。 西洋文明という竜巻ハリケーン台風が、 西洋のゴミを寄せては反す濁流を、日本は飲んではいけない! 高熱を出して、吐き出せ~! デトックスしよう~! あはは。 近代を捨てる事はないのです。折角の研修期間を! (笑い) 日本のように真っ先に近代化に成功したと自慢や満足をした国は、 褒め殺しに嵌っていると自覚をした方がいいのではないかしら? 近代化の西欧を除けば、唯一の珍種モルモットと同じですから、、、 あは! これからどうなるのか? 特異な実験結果が注目される国でしょうね。 (笑い) 刀は、切っ先から刃毀れをするのです。 物は、磨いだ繊細な極まった部分から壊れます。 絶頂のつもりが、それ以上の進歩が出来なくなり滅ぶのに似ています。 ”旺ずる極みは、衰 ” これが、東洋運命学の考え方です。 常の繁栄を求めるなら、 極みの一歩手前、中庸を求める方が利巧でしょう。 時代の先端の生き方は、男女共、慎んだ方が賢明です。 国も同じです。 東洋には、人間だけの自由、平等、権利と言うような概念も言葉もなく、 それを絶対的な価値とする観念の遊戯はありません。 この世界に元々存在する普遍的価値それ自体が、 自由、平等、権利と、 バラバラに独立して存在するものではありません。 東洋的な宇宙、自然観のなかでは、 すべての価値、存在は、 複雑な関係性の中で均衡を持って調和をし循環をする。 その中の序列であり、差別であり、調和をした存在です。 しかも、その調和は、 ひと時も同じ時はなく、時と共に変化をし、 生と死ですら調和のリズムの中にあります。 西洋の思想は、この時と共の変化を観察する側面が抜け落ちています。 やはり狩猟民族の思想です。 獲物を取りに行く基点は、食を欲するから。 獲物の姿を見た時に、欲望して、狩をすればよかった。 己(おのれ)の欲望に従えば良かったのです。 西洋の価値の獲得は、時、季節ではなく、自己の欲望が出発点です。 価値が、時と共にどう変化をするかと言う観察眼が抜けています。 反対に、東洋においては、己が中心ではない。 『天』や『公』の秩序に則って「私」や「欲」を制する智恵、叡智です。 この智恵で、西洋の思想をろ過し、狩猟文化の灰汁を抜くべきです。 ゆくゆくは、西洋の思想を道具に見做し、使いこなすノウハウを、 東洋思想から汲み出して行かなければ存在の意義はなくなるでしょう。 隣国中国が、現在台頭し栄えるのは、 苦節を耐えて来た民衆がいたからです。 儒教は、社会的には忘れられているかもしれませんが、 中国や朝鮮では、「忠」よりも「孝」が大事だと言う歴史がありました。 『孝教』において、道徳の根源、宇宙の原理として形而上化されている 『孝』を、単純に通俗道徳の親孝行で解釈すると破綻をします。 中国においては、近代化が遅れたおかげか、 『孝』の本質が、 まだ人々の心に生きている様子が、その姿に伺えます。 その本質がある限り、『天』=『時』は、中国を恵むはずです。 しかし、空前の繁栄を驕り、人々から「孝」の心が蒸散して行けば、 大国中国は、貧に戻る。 一国は千路に乱れ千国に分裂するはずです。 日本においては、朱子学伝来以後、「孝」よりも「忠」が大事だとされ、 武士道のイデオロギーとして利用をされました。 戦後においても、武士道の「忠」を是とした精神的エネルギーは、 日本の経済発展の為の組織、機動力に貢献したのでしょうが、 「忠」の下に置かれた「孝」は、 戦後の民法の改正、家父長制度の廃止と共に、 今の世相の如く、形も中身も廃れ切ってしまっています。 日本の近代化も、『孝』を失わなければ上出来だったのに... 今は、無慚にも、それらの価値が相対化され無価値と見なされ、 現実に、無縁社会が忍び寄って来ています。 国は、相手国から兵器で攻められなくても、 自己の体内から、ホメオスターシスを崩して滅びる。と言う例を、 日本は証明しようとしているようです。 みなさまも、我が家の近代化はどうだったのか? 祖父母の頃から遡って、思い返してみてほしいわ! 『孝』の貫かれている家族ですか? 長くなりました... 近代化については、引き続きシリーズにしたいと思います。 ご家族で、よき週末をおすごしくださいね。 参考:「現代日本文明論」 上野影文 RBA新書 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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07/24 10:18 |
《 近代化の影 2.》 自由 と 平等Category : 運命学と近代化
![]() おいしそう~ でも食べられない・・・夢のなかのアイスクリーム 今日は、ひさしぶりの《近代化の影 》のシリーズです。 その2.になります。 3月5日の《近代化の影 1.》から、約4ヵ月ぶりです。 長い記事になりそうな予感が、 あはは。 何度かに分けて、お読みになってくださいね。 わが国の近代化以後に、 西洋の言葉を翻訳して入って来た言葉に、自由 と 平等があります。 元々は、「自由、平等、友愛」( Liberté, Égalité, Fraternité)、 その起源はフランス革命にあり、革命期のスローガンの中の1つで、 フランス共和国の標語です。 友愛は、あの~鳩ぽっぽさんの家系の標語? と、思ってたりして、、、! あは。 ちょっと世界史的に復習をしますと、 あの有名なマリーアントワネットをギロチンに架けたフランス革命後、 1789年8月26日、憲法制定への第一段階として採択された フランス人権宣言の中に、これらの言葉はあります。 人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、 所有権の神聖など 17条からなるフランス革命の基本原則を記したものです。 (以下~★★まで、ウィキペディアを参考 ) 自由については、こう定義しています。 自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行う属人的な権利である。 それは自然を原則とし、正義を規則とし、法を防壁とする。 その倫理的な限界は、この格言にある通りである。 ――己の欲せざる所は人に施すなかれ。 平等については、こう定義しています。 平等とは、保護を与えるにせよ、罰を与えるにせよ、 法は全ての人間に対して同一であるということである。 生まれによるどのような差別も、また権力のどのような世襲も 許されない。 ちなみに、友愛は、そんなに強く私たちに印象を与えないようです。 それは、 自由と平等が自分たちの権利であると喜んで受け取られた一方で、 友愛は、他者に対して負う義務=倫理的な臭いがありますから、 単純に 喜びと共に受け入れられない心の側面があるのかもしれませんね。 人は、倫理的なことはお好きじゃないのです? ほほ! ★★ 現代人は( 私も含めてですが、、、ほほ。) おしゃべり好き、 しゃべり過ぎ、意味のない会話が多いですね。 意味もろくに分かっていない言葉を知ったかぶりをしてしゃべります。 あはは。 かえってお互いの意志の疎通を阻害してしまう時もあり、誤解も生む。 逆に、何もかも言葉にしない方が、いい場合もある。 チャップリンは無声映画を、こだわって、多くの作品を製作しました。 その理由は、 「英語は、英語圏の人にしか伝わらない。」と言ったそうです。 そのように言葉は、ある規定をします。 言葉の意味を深く考えもしないで使っている知らぬ間に、 その言葉の世界の中へ私たちを無理やり閉じ込めます。 私たちの日常の生活をすら、縛ります。 たとえば、 人間は、自由で平等である事が、偏って美化され拡大解釈され過ぎて、 他人よりも少しでも不自由を感じた時、不幸感にさいなまれたり、 あは! 自分のわがままを通す為に、平等である、とか 子供のような主張をしたりします。 履き違えもいいところなのですが、 自由 と 平等 と云う言葉があるからだけで、 単純にどこにでも、その実体がある。と思うのは間違いです。 くりかえします! 言葉だけあって、 この天下( 宇宙・自然 )に、その内実の存在(実体)がない 虚しい言葉が多いと云う事に、 お気づきですか? そして、 常に実体をともなう言葉なら、 それを一生と云う時間を費やして追いかけても価値がある、 仕方がないところですが、 元々実体がないものを、あると信じて生きるとしたら? むなしい、無駄な時間だと言わざるを得ません。 その虚と実をわきまえて、この言葉を使っているのだろうか? と云うのは、今の私たちが、当たり前に憧れたり、目標にしたり、 実現をしようとしている世界が、本当に実在するのだろうか? 本当に実在しないものに対して、 私たちは、努力をし、時を懸けて、時には、命までを掛けて、 手に入れようとしているのではないか? 実際に、言葉に内実を込めるのは人間なのですが、 ええ、まぁ、その人間が、存在が薄くなっているようなので、、、あは! 今の世相を見るにつけ 頭の周りを飛ぶ蚊のように気になっております。 ちょっと横道に逸れたお話をします。 私の知人に、大メーカーの工場長をしている男性がおります。 ずいぶん前ですが、こう質問をされた事があります。 「 なぜ、工場に”安全第一”と掲げるのか? 分かりますか?」 私は、自分でも、面白くも何もないと思いながら、 次のように、答えました。 「 安全が一番大事だと云う事だから? 」と。 あはは。 その方も、あはは~と笑いながら、こう言われました。 「それはそうだが、工場と云う場所には、もともと安全はない。 その場に一番欠けているものを表わしています。 だから、それを意識して作り出すようにするためです。 工場と云う場所は安全が存在する場ではないから、 わざわざ標語を掲げる必要があるのです。」 私、「 あ、なるほど! そうですね! 」 お分かりになりますか.....? 有史以来、 人類はいろいろな政治形態を経験して来ましたけれど、 未だに、”自由 ・平等 ”と唱えなければいけないと云う事は、 現実のこの社会に、それが一番ないものなのだ、と云う事です。 ひとつのロジックです。 この世には、不自由と不平等が溢れるばかりにあって、 自由と平等は、この世に一番欠けているものだから? 本当に欠けているのか? 実は、もともと無いのでは ? そんなものは自然にないのだわ! さぁ、大変です! 自由と平等がないなんて! あはは。 一度、お考えになってくださいね。 あるのか? ないのか? 寝苦しい夜だから、アイスクリームが食べたい。 夢の中に出て来たアイスクリーム! 夢の中のアイスクリームなんて! 食べた事がないから、、、 食べたいと思うのでしょう。 そう、とっても美味しそう! けれど、 でも、本当に自由と平等を食べて、その味を、知っている人はいない・・・ 食べようとすると消えていく、、、、、 つまり、不自由と不平等が溢れている(この世)の実感から、 人間の意識が作った、いかにも西洋二元論らしい言葉です。 Aである。 非Aである。 そのどちらかだけを引っ張り出す。 不自由より自由の方が、差別より平等の方が、受け入られやすいし、、、 そう云うスローガンは、内実より、耳が、受け入れてしまうわ! 心が! ね。 そういった観念的な、夢見る言葉は、ゴミほど多いでしょう? あは! 常に、西洋的言葉は、対立するロジックを作り、言葉で遊ぶのですね。 西洋文明は、人類の想像力の結晶ではないかと... どうしてこうなのだろう? あまりにも上手くお話をするから、嘘だって見分けがつかない。 話せば話すほど、真実から遠くなるのが、分からないのかしら? ほら! 自由には、義務が裏表にあるのだとか... 自由と平等とは、同時に成立しない。とか... 本当に論争が好きですね。 このブログの目的は、 西洋文明の大波に洗われている日本の今の現状を、 このままでいいのだろうか? 大きな穴が開いたような不安を抱えて、 何とかしたいと思って記事を書いています。 それは、おおげさな思想の問題と云うよりも、 我々の生活の問題であり、個人的な人生に表われる姿であり、 真の満足感の追求なのです。 アメリカやヨーロッパの人々の考え方、生き方を批判する目的ではなく、 西洋思想の「根」= キリスト教自体を受け入れないで 西洋的思考方法「花」だけを利用している半端な日本人に対してです。 なぜ、西洋文明の波に洗われている事が良くないのか? それは日本が、明治維新で西洋化を受け入れた時に、 キリスト教そのものを受容して、その信仰を深める事で、 日本の西洋化を進めていったのなら、 あらゆる分野がキリスト教思想の反映した社会に切り替わり、 社会や家庭における道徳が、 キリスト教徒としての道徳を守らざるを得ない社会になったでしょう。 後々、ほんとうに日本にとって不幸な事は、 その当時の明治政府が、 欧米列強の一神教のキリスト教に対抗して、 政府の組織の中に、国家神道という新しい宗教を作った事です。 そして、キリスト教と云う宗教を除外した 科学技術や進んだ知識だけを西洋から取り入れるという 日本にとって二重構造になる近代化を行ったわけです。 これは真の意味で日本の西欧化を計るというよりも、 西欧の都合のいいところだけを利用したハウツーものです。 つまり、このやり方は、低俗なの。 恥ずかしいくらいです。 日本は、過去の歴史においては、もっと正々堂々としています。 朝鮮を真似る時には、朝鮮から儒教を取り入れ、そして漢字を用い、 あるいは、政治制度を真似る時には、 仏教を学び、仏そのものを受け入れて来ました。 だからと云って、日本が キリスト教的社会になれば良かったと、そう思っている訳ではないのです。 明治維新以降の日本は、欺瞞的です。 素裸は、日本の伝統的な神道と天皇を利用した新興宗教の国家神道。 その上に、西洋文明の技術と学問を盗んで装って来たわけです。 例えて云えば、 頭は鉄製なら、からだは木製、手足は石で作ったのです。 まったくの支離滅裂、人だったら、健全な人格と言えないでしょう。 人付き合いでは、こういう人なら警戒をします。 そんな状態ですから、わが国は大戦へ突っ込んで負けます。 それはそうでしょうね! まともな事ができるとは思えない。 自己欺瞞は、返ってまわりの渦に巻き込まれます。 本当の自己を失っている。嘘のかたまりなのですから.. 。 心身が統一されていないから、何の判断も間違ってくる。 だから、戦う前から負けは決まっていたはずです。 その上、GHQの占領政策で、 戦争を起こした危険な宗教、思想だと云う事で、 急ごしらえの国家神道なる似非宗教は禁止されました。 これは、仕方ないでしょうね。 外国の戦勝国からなる占領軍に解体されて消える宗教なんて、 初めからタカが知れているのです。 日本人の心の根にはなれなかったのです。 宗教と云うからには弾圧を逃れてでも信仰を貫いたキリシタンのように、 地下に潜っても、信仰を捨てないのが本当です。 我々に、国家神道は残っていますか? ないですね。 その程度のもので、戦争をしたのだから呆れます。 日本は、上に揺れ、下に揺れ、揺れてゆられて、、、 過去の精神的な伝統を失い、心が空っぽになりました。 今現在は、頭・精神=『陰』のないまま、 制度や法律=『陽』のみで国を何とかしようとしています。 ーーーーーー なんとかなりませんね。 今は、政治も経済もあてどなく浮遊しています。 外交だって、そうです。 自己の価値観は、自己の信条体系です。 つまり自己の良心です。 良心がある人と人とが、初めて認め合えるのです。 そこに真の人間関係を築く可能性が生まれるわけです。 認め合った土台の上に、お互いの利益を守る事ができるのですよ。 自己の価値観を失った国家が、どう云う外交をするのですか? 日本は、国益を守る事などできるはずもないでしょう。 まるで木の葉のように、他国の国益の波間に翻弄されるだけでしょう。 わが国は、頭が無い国ですから、目や耳という五感のない国体で、 手や足で何をまさぐっているのでしょうか? お金だけをまさぐっているのでしょうか? 薄っぺらい、吹けば飛ぶような... それに引き換え、 真の信仰の新天地を求めたピューリタンの信仰を持つアメリカの建国に、 わが国は、国家の骨組みから劣ってしまった。 フランス革命で、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、 所有権の神聖などの基本原則を明文化した(意識化した)フランスも、 その建国の筋は、ハッキリとしています。 わが国は、国が拠って立つ理念の普遍性で負けているのです。 なにをやっても、これじゃポチか、丁稚にしかなれない! 日本の歴史や伝統から見ると、今の日本は中味と外が違うのです。 今は、その中味すらも崩壊している。 個人だって、その未来を作っていくのは、中味の深さです。 中味のない国の政治は過去に囚われて、自分の未来を作れない。 だから、何も決められないのです。 西洋の衣を着て、中味は空洞。 142年前に、わが国は、頭で近代化の学問を、手にそろばん(経済)を、 (そう云えば、福沢諭吉の学問のススメには、これからの時代は、 学問とそろばんだと、そう書いてありましたっけ ) これは、生きていく為には、最低の手段の選択です。 衣食住の為に、心を捨てろ、と。 ひどい、、、 心は、根無し草=廃墟である事を選択したのです。 3.11の津波の惨状は、 我々の本質の中に、すでに142年前に、実現をしていました。 心の眼は、眼前の荒涼とした惨状をずっと以前から見て来たはずです。 あろうことか、 現代でも、知識人と言われる人は、武士道こそが日本の魂であると、、、 しかし、 明治からの知識人に武士道をほめ称える資格があるのですか? わが国は、 その空洞を、キリスト教で埋める気はさらさら無いようです。 江戸時代の檀家制度で形骸化した仏教に戻っても仕方がない。 国家神道と云う官製の新興宗教は、お払い箱になっている。 だから、日本が西洋文明の波に洗われている事が、困ることなのです。 これは、自己欺瞞以外の何者でもありません。 自己欺瞞の本質は、自分を取り巻く現実の因果関係において 自分の責任を切断してしまい、 自分に都合の良い想像上の架空の幻想を脳の中に作り続ける事です。 その観念の中で行ったり来たりを繰り返すだけです。 ゆえに、真の現実感を失います。 ゆえに、真の現実対応ができません。 すべて、自分さえ良かったらいい勝手な意識の仕業なのです。 無意識に蓋をし、都合の悪い事だけを無意識に押し付けます。 個人における自己欺瞞は、個人の人生の破綻に行き着きます。 国の自己欺瞞の先は ? どこへ行き着くのでしょうか? あろう事か! 日本は、『陰』、無意識の世界を大事にしない上に、 無意識に、イヤな事だけを押し付け続けています。 (まるで、身勝手な男の論理の押し付けみたい~! あはは。 これじゃ、夫婦関係は破綻をします。 離婚するかも...?) 国の社会破綻。 国民を守れない。 国益を守れない。 国境を守れない。 世界の中で存在が破綻します。 ただ、うつむいて技術だけですか? しっかりして! 日本! 前置きが長くなりました。 やっと本文です。 欺瞞が満ち溢れている日本に流布している西洋文明の言葉、 ” 自由と平等 ”についてです。 ほっ! もう、自分の正体すら分からなくなっている日本中で、 気楽におしゃべりにも出てくる自由と平等とは、 一体、何なのでしょうか? 今は、なんだって自由でしょう? だれだって平等なんだから ! この状況を、言葉の内実の混乱と言わずして何と言うのか? 言葉が、軽く使われて、 まるでゴミのように捨てられている我々日本人の日常です。 ヨーロッパにおいては、前述のように歴史があり、 キリスト教の神や王権の呪縛からの自由であり平等であったのです。 西欧の自由と平等には、それなりの実体があります。 二元論の範疇に押し込んだ、自由 と 平等ですが..... 人として生まれ、その人が集まって社会を作り生きていく時に、 人が、人のためにルールを作ります。 それが憲法、 それは、人間が人間の為に作るのですから、 人をみんな同じように扱う事が、大前提になりましょう。 しかし、そうは言っていられない国や法律はあります。 つまり、 権力者のエゴや欲望の達成の為に、不平等なルールが勝手に作られて、 権力者以外の人を差別、利用し、搾取する法律が存在します。 今の地球上にも、そう云う段階の国があります。 そう云う段階から、次の段階へと進むステップに、 たしかに、言葉で云う処の自由 と 平等の言葉は掲げられます。 安全のない工場に、安全第一、と云う標語が掲げられるようにです。 人間は、人間に虐げられ、人間に傷つけられ、人間に差別されて、 苦しみ、悩み、戦って、 観念の中に、やっとこの世に欠けているものを、 発見し、言葉で表わす事ができたのでした。。 。 苦しみの果てに、自己を救おうとする意識が生み出した概念です。 それも、まだ、観念の中、 意識の作った本の題名、第一章が書かれたばかりです。 人間の脳の前頭葉が、シナプスをつないで探り当てた言葉です。 これらは、東洋的な観点からは、部分的な知見にしか過ぎません。 簡単に言うと、意識が作り上げたものは、 それだけでは、現実には存在する事はありません。 存在をすると一応の仮定をして、あるロジックを構築したものです。 梯子をはずされた。その梯子なのです。 ロジックとは、梯子を登るための梯子、またその為の梯子。 梯子、はしご、はしご、梯子の為の梯子、、、 何の為のはしご? 天国への梯子でしょうか? 東洋の思想の中には、自由、平等、このような概念はありません。 自然と人間が、一体で、その調和の姿を中庸と云い、 その為には、 人間の欲望を『天』と調和する処まで節する事を知恵と考える体質には、 人間が自由と平等である状態など必要ない。 望んでいないのです。 西洋の、ある、とか、ない、とかの概念とは違います。 あの地震と津波の力は、ものすごいエネルギーでした。 『陽』となって具現しました。 しかし、今はひっそりと、眼前にはありません。 台風もそうです。 『陰』となって意識には捉えられません。 地震や津波が、現象となって出て来ていない。 つまり、無意識の世界の中へ隠れている。 これで地震や津波は無い、とは言わないでしょう? 地震や津波のエネルギー、これは存在します。 観念の中の、意識の中だけの、夢の中の力ではなく存在します。 自然とは、そう云う存在である。 東洋における本来の自然観から、 『陰』の世界からありのままの自然を観れば、 存在する「生命」のレベルでは、もの皆、すべて平等であるけれども、 『陽』の世界では、あらゆる生物や物は、一切が、平等ではありません。 『陽』は、差別相のある世界なのです。 現象世界です。 その姿、形、種類、生命活動における条件は、バラバラ、さまざまです。 命が存在する場所、土地、気候、温暖、等、 個々には、序列があり、差別があり、長幼があり、能力の差があります。 平等ではない。と云う事が、『陽』の世界の常識です。 その差別相を表わしている世界が、『世間』である。 この世である、この生きて行く社会である。 植物においても、種が落ちて芽を出す土地でさえさまざま、 『天』から与えられた性質、姿、力は、決して同じではありません。 差別、序列が当たり前なのです。 その表に表れた差別相、それが現出しているこの世のありさまを 仏法では、『世間』せけんと言います。 「間」とは、個々の差と差、その違いであります。 この世は、あらゆる差別相を表わしながら生きて行く場所である。 それが、「世」です。 あらゆる思い通りにならない不自由な苦しみ、 人がこの世の中で受ける差別の苦しみ、 これらを、東洋の叡智、仏教では、『苦』と言います。 四苦八苦、あらゆる『苦』です。 これは、本当に、私たちの命(心と肉体)に存在しています。 観念の中だけにあるとか、偽の存在ではありませんね。 現実の体や心=命を痛め、苛め、傷つける実体を持つものです。 東洋では、この苦からの開放を、目指しました。 このあらゆる苦からの開放された状態を、仮に丸い球体とします。 ある側面から見た球体の観察観が、 ――――― 西洋的価値の「自由」かもしれない。 また別の側面から見た球体の観察観が、 ――――― 西洋的価値の「平等」かもしれない。 だから、部分知と申し上げたのです。 東洋から、西洋を観ると、そう捉えられると思います。 これこそが、東洋の叡智です。 フランス人権宣言にある自由と平等とは、 自然に基ずく「法」に限定されるとしています。 今、 真実そうに見えても、いつ崩れるかどうか、わからないもの。 ”人権”と云う概念も、そうです。 日本国の憲法に書かれた言葉であったとしても、 日本が、国力が衰えて、衰退をし、 どこか大国が侵略をして来て、併合とか、 日本がその国に支配をされる事が起これば、 日本人の人権、自由、平等、なんて吹き飛んでしまうでしょう。 いかほどのものでしょうか? 圧倒的な、あの地震と津波の力のような 元々自然に存在するものではないのです。 今の日本国の認める自由、平等、人権などの制度は、 そう、あくまでも制度の上の自由、平等、人権です。 人が定めたものは、作り上げたものは、 『時』、時代とともに、人にツレ、と云う様に、 人がどう云う意識を持つかによって変化をするものです。 人の作った概念は、自然の前では、無力です。 西洋の言葉は、人類の苦闘の歴史かもしれない。 が、『陽』の範疇のものでしかないのです。 常に繰り返し記事の中で書いている事ですが、 『陰』の本体のバックアップなしでは、 無意識の世界の力の存在を認める事なしでは、 すべての『陽』は、形骸化をし、効力を失います。 つまり、それらは即、嘘になるわけです。 故に、『偽』に通じると言います。 そうすれば、これらの事は、生活に、人生に直結します。 何かを真に求めても手に入らない。 しあわせは、手の指の間からこぼれていってしまいます。 根無し草的生き方=見えないもの『陰』を失った生き方、 をあらためる事が、非常に大事になってきます。 中身もよく知らない自由と平等と云う言葉を 私達が、家庭の中へ、家族の中へ、人間の中へ、 知ったかぶりをして口先だけで、持ち込むべきではないのです。 友愛こそ、持ち込むべきでしょうね。 あはは。 よろしくおねがいします。 我々は、近代化の研修を142年間も受けて来ました。 もう、そろそろ研修も終わりにしたいものです。 長い記事にお付き合いくださって、 最後までお読みいただきました事に、感謝申し上げます。 よき週末を、お過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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08/14 10:12 |
《 近代化の影 3.》 ー 西欧のお茶目 と 西洋功利主義 ーCategory : 運命学と近代化
![]() どこへ続く道 今日から、お盆ですね。 今日は、7月31日にメールでいただいたコメントへの返事を 中心とした記事になります。 テーマは、西欧のお茶目 と 西洋功利主義。 まったく意味がわからない! ? あはは。 全体が、謎めいてすこし難しくなるかも知れません。 ほほっ。 文字面は理解しにくいかもしれませんが、 文字を追って行くだけでいいので、お読みいただいたら あなたの無意識へ、入っていくようにしてあります。 行と行の間に、大事な物をはめ込んでありますから... 言葉や知識にならなくても、 それが、あなたの無意識へ掬い取られたなら、それだけで幸甚です。 さいわいです。 ご了解くださいね。 ほ。 まず、コメントのご紹介からです。 編集で、①、②、③を付け、少し割愛致しました。 ① 欧州には嘘っぱちでしかないと見破られても、 キリスト教とギリシア哲学の融合という素地を 必死で守ろうというお茶目な面を感じます。 ② わが国には「禅の精神と教義を待たぬ神道がありますが、 それを同じ土俵の上で勝負しているように感じられますね。 ③ 努力して云々などは共産主義、市場経済至上主義同様の 設計主義が見られます。 これが、日教組がこれらを大切にする所以だと思いますが。。 設計主義は正しいのかという命題に対して御することができるのは、 我が国のような存在しかないものと思いますが、それ故に、 戦後とりわけ我が国の秩序破壊を徹底的に行ったということなんでしょう。 コメントのお返事で、冒頭から唐突なのですが、 「言葉」と云うものについて考えて見なければいけないと思っています。 「言葉」については、またキチンと記事にするつもりですが、 今日は、簡単に、次の点だけ扱いたいと思います。 言霊 と云って、言葉そのものに魂があるとか、力が具わっているとか、 云いますが、近代化以降、その霊力は衰えて来ていると思っています。 つまり、言葉の意味する内実が、中身がなくなっている... つまり、その、、、今の日本人の言葉の現状は、 もともとの、東洋的思想の言葉の入れ物の中に西洋的思想の内容が、 摩り替わって入ってしまっていると云う現状です。 その原因は、 いままで繰り返し書いて来た訳ですが、 142年間の日本が近代化の研修を受けて来た功罪にあります。 きょうは、その罪の方について少し記事にしながら、 ① の西欧における ”お茶目な面”を、いっしょに感じてみましょう。 ② もその中に自然に入って来ると思います。 ③ は、割愛させていただきますね。 よろしく! キーワードは、ヤドカリです。 あは! ”お茶目な面” 常々、私も、西欧についてはそう思っていました。 その前に、確認したいのは、 ★ 日本の近代化は、 西洋文明の学問や技術、知識だけを取り入れたと思っているが、 実は、それでは済まなかったと云う事です。 そして、同時に、 ★ 142年前の近代化から昭和20年の敗戦で、 私たち日本人の頭と心が、からっぽになった!のでしたが、 空っぽになっただけでは、現実は済んではいないと言う事なの。 戦後の66年間に、その穴へ何が入ったのか? ★なぜ、運命学のブログで、ここまで近代化に拘るのかというと、 今の日本には、近代化の結果として、 『陰徳』を消去している現状があり、それを憂うからです。★ このブログで難しい記事を書かねばならないのは、 すべては、ここに理由があります。 終戦記念日が、又、巡って来ます。 いつもこの頃に、世間に出て来るのは、 日本が、その時に、どうするつもりだったのか、、、、、と言う、 緻密な政治における歴史の調査による論調です。 ○○と云う政治家がああだった。 こうだった。 。。。と。 しかし、振り返って、私の頭の中を占めるのは、 そんな当時の政治家がどうしたと云う卑近な事例から見るよりも、 『因果応報の時』が、主役で、 『時』が、すべてを伏線に仕込んで、今があると思えるのです。 142年前の明治維新は、 徳川の鎖国を、《 欧米列強の圧力 》によって開国させられた。 そして、また、 明治維新から76年経った = つまり、 今年から66年前の第二次世界大戦の敗戦処理で 国家神道と云うわが国の頭と心の中身を、 そっくりそのまま、《 また、欧米列強の連合軍の圧力 》によって、 お払い箱にさせられた。 実は、 この事が、明治政府において準備されていたとしか思えないのです。 えぇ! 当然、 維新の政治家が、意識で解っていたと云う事ではなく、無意識です。 明治維新と云う現象を生み出した無意識界に存在するその原因が、 無意識に戦後の喪失を準備していたとでも言いましょうか? (ちょっと、むずかしくなりました...ね。) 明治維新の時点で、76年後の(日本の頭と心が空っぽになる事を) 明治政府が解っていたのだ。 と、云うのは、 ざっくり言いますと、 戦勝国である欧米列強の連合軍が、 わが国の頭と心の中身を、そっくり全部を、お払い箱にしやすいように、 過去の日本の精神性=わが国の頭と心の中身=仏教寺院と神社を、 グチャグチャに打ち砕いて粉々にして、 国家神道と云う風呂敷に、、包んでしまっていたのですね ! なんと用意周到な! あきれる馬鹿、ではない! あは! あきれるばか・りの予知能力というのか、 今の日本の頭と心の空っぽを実現する為に、 その為の下ごしらえを、明治維新に完璧にやってのけていたのです! 明治政府が、国家権力総動員でやった事です。 なかなか、こう云う事は、企ててもできる事ではない。 これこそが、『時・天』の企てでしょう。 過去のある因に対する応報として現象化したのです。 なに? どう云う因? 不思議な(意識で捉えられない)事です。 国家神道と云う風呂敷に、頭と心の中身の全部を、包んだ。とは? 具体的に云いますと、 明治維新からの狂気です。 国家権力による神祇官再興・祭政一致という幻想です。 明治政府は、 西欧列強が一神教と云うキリスト教の信仰を持っている事が、 彼らの強さの土台にある。と見抜いたのですね。 そして、この強さに対抗する為には、 日本古来の八百万の神の従来の神道では弱いと思ったのですね。 そして、仏教の思想を用いる事もあり得ない。 なぜなら、明治維新の思想的バックボーンは、 朱子学派=後期水戸学や、後期国学の「尊王」「勤皇」の考え方でした。 しかし、「尊王」「勤皇」と云っても、 明治天皇は若年であり、 維新政府の政治思想基盤は、「尊王」「勤皇」しかない脆弱さ、 政府の権威を確立する為には、 天皇を絶対化するしかなかったのでしょう。 何らかの強いイデオロギーが必要であった。それなのに、 主知主義化した朱子学派=水戸学派と、 朱子学を含む儒教を排斥する後期国学しかなかった。のです。 両者は、「尊王」「勤皇」で、一致しているだけでした。 しかし、それが明治維新を実現するバックボーンにはなったのです。 後期水戸学は、臣として仕える頂点は天皇である。 将軍ですら、天皇の臣である。と云う考え方であり、 国学者である賀茂真淵や本居宣長は、儒教を漢意(からごころ)とし、 仏教を外国から来たものとして排斥し, 『古事記』や『万葉集』『源氏物語』などの古典を通じて 古来の神々から連綿と続く古道というものを追求し、 その真の姿が天皇に受け継がれていると云う考えです。 ここで、私見を挟ませていただければ、 国学者の儒教を漢意(からごころ)=中国の教え、と云うのならば、 国学者が使っていた漢字は、どうなのか? 漢字こそが、漢意(からごころ)そのものではないのか? また、『古事記』『万葉集』『源氏物語』などの古典を日本の物と言っている が、表記は漢文、もしくは漢字が混じっている。 又、『古事記』や『万葉集』の著者については、 朝鮮語、中国語のネイティブスピーカー、=つまり、 中国や朝鮮半島からの亡命者などが書いたものではないか と云う研究も出て来ている。 「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」著者の藤井游惟氏の研究 厳密に言えば、 わが国の文化で、他国の影響を受けていないものがあるのか? 『源氏物語』においては、紫式部が、仏教の法華経の信者であった事、 その底流に流れる無常観こそが仏教からのものである事が解っている。 国学者のその主張は、少し見当違い。と思っています。 まぁ、そう云った朱子学を受け継いだ水戸藩の学問や、後期国学派が、 わが国の近代化を目指して行く日本固有の精神規範に成れたのか? 成れて日本人の頭と心が空っぽにならなかったのなら、 文句ないのですよ。 日本固有の精神規範に成れていないから、今の憂鬱がある訳です。 西欧列強と伍して、やって行く事のできるイデオロギーだったのか? それは、まったくの見当はずれだった訳です。 後期国学派ですら、日本を守れなかったのです。 いや、逆に、日本固有の精神規範を失う事を促進したのです! この歴史の結果から学ぶ事は、力のない、中途半端な、 つまらない物は舞台に出て来ないようにする事です。 結局は、それらを復古すると云いながら、その衰亡のリズムに合わせて、 日本国自体が、戦争をし、負けたのです。 維新政府は「尊王」「勤皇」の先を見て、 日本の西欧列強からの生き残りと、 維新政府の政治目的の実現のために、 天皇の絶対的な優位性を 確立するための理論作りをせざるを得なかった。 「祭政一致」の「王政復古」という形で、 彼等(水戸学や後期国学者・国体神学者)を利用したのです。 維新政府にとって宗教は、政治の中に入るものだったのです。 裏を返せば、 江戸時代末期に滞留していた水戸学派、後期国学派の思想は、 最後の衰亡の花火を揚げたのです。 つまり、「祭政一致」の「王政復古」として実現の花火です。 『陰徳』と結んでいない、滅亡の前の『陽』の現象は花々しいのです。 絶家のそれとおなじように....... このような天皇を神とする神道国教化の下準備として、 明治政府は、神仏分離政策を行いました。 1868年、明治新政府により出された神仏分離令です。 その意図は、 単に神を仏から分離し、仏を廃するという意味ではなくて、 記紀神話や延喜式神名帳に記された神々に、 歴代天皇や南北朝時代の功があった臣下を 神として加えるのが目的であり、 その最底辺に産土神を配し、 それ以外の神仏は排斥、廃滅の対象とするというのがその目的です。 これをきっかけに全国各地で*「廃仏毀釈」運動がおこりました。 * 仏法を廃し、釈迦の教えを放棄する事。 明治政府の神仏分離令に基づく寺や仏を排斥する事。 地方の神官や国学者が扇動し、 一部の過激な神道家と徳川時代の仏教の檀家制度の下で 寺院に搾取され我慢をしていた民衆がこれに追随し、 第二次世界大戦の敗戦まで、 各地の寺院や仏像、仏具の破壊が行なわれました。 これは、一体どういう思想でそれは行われたのだろうか? その主体は、誰だったのか? 一時的であったにせよ、その破壊のエネルギーの源は? 今の時点で結果として思い浮かぶのは、 いろいろな疑問が沸き起こって来るなかで自明なのは、 唯一神道家、平田派、後期水戸学などの影響を受けた 後期国学者たちの狂気の沙汰、結果であったであろうと云う事です。 最終的には挫折した行動にせよ、 勢力としたら極一部の神道家や国学者の狂気が、 一時的にせよ、どうしてそこまで全国に波及していったのか? また、なぜ その狂気が許されたのか? それは、 国家神道の製造、成立の為の国家権力であったろうと思います。 画して、明治政府は、 明治維新から76年後の敗戦により、 戦勝国である欧米列強の連合軍が、 わが国の頭と心の中身を、そっくり全部を、お払い箱にしやすいように、 過去の日本の精神性=わが国の頭と心の中身=仏教寺院と神社を、 グチャグチャに打ち砕いて粉々にして、 国家神道と云う風呂敷に、包む事に努力をし、鋭意務めたのです。 すなわち、 政治とは冷徹で狡猾で浅ましいものです。 自己の政治権力の確立の為には、役立つものは全て 政治的に利用します。 真のヒエラルキーの上も下もなにもない。 ぐっちゃぐちゃです。 味噌も糞もいっしょ! 現代のみそもくそもいっしょは、ここから始まったのかな? これこそが、『陰』を失くした『陽』そのものの政治の実態です。 自我の存続の為には何でもする。 周りを犠牲にするのです。 死を恐怖とする臆病な意識がする事は、こんな事です。 これが、人間の前頭葉に与えられた役割なのです。 人は、前頭葉だけでは、死に絶えるまでの闘争をするでしょう。 意識だけなら、救いはないでしょうね。 国家が、自己のエゴイズムの為に すべてを利用をして造った風呂敷包み、 その中には、わが国の、それぞれの時代の天皇が、 外国から学び取り入れて来た培った精神があった。 儒教も、仏教も、我々の国民性を培った大部分の頭と心の中身でした。 それを、ぐっちゃぐちゃに壊して廃棄して混ぜ合わせたもの。 その風呂敷包みを作ったほどの維新政府の国家権力が、 たったの76年後に、 それ以上の戦勝国連合国権力によって、叩き潰されるとは!!! そして、頭と心の中身を包んだ大風呂敷(国家神道)を、 失う事になろうとは....... 『時』のみぞ知る。 これは、『時』が、用意周到に仕組んだ伏線としか言いようがない。 よって、日本には66年前の風呂敷の糸屑が残っています。 西欧の一神教に負けた日本の国家神道の残滓です。 よって、66年前から日本人の頭と心は、 中身を失って、、、、、、 空っぽになった穴が! 大穴ができたのです! あはは。 からっぽの穴がいつまでも空っぽのままであると云うのは、 実にむずかしい。 空っぽになった穴には、何かが入って行く。 大抵は、ホコリやゴミが、吹き寄せられて溜るものなのです。 さぁ、日本人の頭と心の穴には、何が溜まったのでしょう? ★それまで積み上げた善悪という道徳的な価値なんか、 どうせつまらない! しょせん苦痛や快楽という感覚的なものさ! と、云って欲を制する道徳から、 快楽をもたらす行為こそ、それは善であり、 苦痛をもたらす行為こそ、それは悪である。 と云う功利の価値観に置き換えたのです。 ★社会のあらゆる人権者に対して平等に適用されなければならない。 と云う個人主義を生み出した訳です。 ★社会における個人の持つ快楽(=善)の総量が最大で、 苦痛(=悪)の総量が最小となる社会が 理想の社会である。 ★他者を害しない限り何をしてもよい自由。 これらを原理とする功利主義と云うヤドカリが、来たのですよ! この現状は、よくおわかりですね! 私たちの目の前の惨状、 心を痛める現実そのものです! このヤドカリ君が、棲みつきやすいように、 142年後の今の現実を、実現する為に、 明治維新は、日本人の頭と心に詰っていた中身を、すべて、 国家神道なる大風呂敷に、ご丁寧にも包んで、 敗戦と云う現象を最後に、GHQに捨てさせた! 殻を借りて住み着くヤドカリ君が、 日本人の空っぽの頭や心の中に住み着いたのですね。 そう! 近代化で、西洋の学問や技術や知識と共に入って来た。 気が付かなかった? だって、何がって、 それは学問だし、科学だし、西洋の知識でしょう? たしかに、そうなんだけれども、 そんな単純じゃないのよ。 技術を受け入れたり、知識を吸収するにつれて、 西洋の概念がヤドカリのように私たちの日本人の頭、心の中へ ホコリや塵(ちり)のように溜まりだして、 はや、142年。 あ・れ・か・ら・142年! ヤドカリが、穴の真の主人のようになりかけていますが、、、 その卑近な例として、 前の記事に、(自由と平等)を扱ってみたのですが、、、 つまり、東洋的思想を捨てた空っぽの日本人の頭と心の中に、 西洋の学問や技術や政治制度の外側の部分だけではなくて、 西洋のお茶目な心の部分です。 それが、入り込んでしまった!!! 日本人にはなかった価値観を、脳は一生懸命に受け入れて、 意識を生み出す前頭葉は、必死に生き延びる事だけに 齷齪(あくせく)して来た結果です。 さほどに、前頭葉も、お茶目ね! シナプスをつないで、生き残る術を必死に探して66年です。 それが、何が? もう、なにが自分をコントロールしているのか分からないまま、 自分は日本人だって事も忘れている? 日本列島に住んでいるけれど、何人だったっけ? ・・ あはは? ヨーロッパと云う所は、 見せ掛けはキリスト教一本のように見えて、 実は、その下にはヘレニズムの神々が隠れているのですね。 キリストが現れて、と云っても、 彼は、自分で、自分は神だなんて言ってません。 また、キリストはヘレニズムの神々の子ではない。 血統が違うのですね。 じゃぁ、その関係は? となって、 どっちが正しい神なのか? と、 西欧社会は、 実は、”無神論”と云うロジックも厳然と論じられる社会でもあるのです。 そこは、前に記事に書いたと思います。 それにふれないで(どっちつかず?のまま) 聖書に手を触れて宣誓をする。 厳密に言えば、おかしな、 でも、清ましてそれをやる所など、無邪気というのか、 絵本の中の出来事のように、シャーシャーとやるのね。 チチンプイプイ! とね。 あは! そこが、かわいいなぁ~と思うと仰るのでしょう? コメントの①の部分に共感です。 そのヨーロッパというところは、キリスト教でいろいろ儀式をやりながら、 頭の前頭葉では、人間の脳を使って多種類のロジックを生産するのです。 そして、世界中に、撒き散らしては、世界を巻き込む。 そこが、実にうまい! セールスがうまいのですね! あはは。 と、そんな感じで、 たぶん、キリスト教だけでは飽き足らない人間の脳が、 またまた作り出した ヨーロッパの近代化に影響を与えた西洋功利主義。 それが、ヤドカリ君の正体です。 その旋風の嵐を受けて、 世界中が功利と云うものに目覚めるわけですが、 さぁ、地球をもっと利用をして! 彼らお得意の、征服、支配、狩猟民族の本領を発揮しようぜ! あはは。 その時、日本は徳川さんのお家を守る為だけの朱子学を、 士農工商と云う身分に押し分けられて、 馬鹿まじめに捧持して鎖国で生きていたのです。 世界を席巻するエネルギーに満ち溢れた狩猟民族の雄たけびに 勝てるわけがないでしょう。 国の門戸を開かされて、どっと雪崩れ込んで来たのが、 西洋功利主義の媚薬の仕込まれた学問、技術、制度だったのです。 民間でもそうです。 福沢諭吉の”学問のススメ”など、この功利主義の臭いがします。 その時に、 日本は、自国の伝統、文化、 培った道徳など国と国民が拠って立つ所のすべての宝物を、 みずから進んで国家神道に包んで、捨てる準備をしていたのですね。 そう、76年後、敗戦で捨てる準備をしていたのです。 無意識に、すべて捨てなければいけない。 そう自覚をしていたとしか思えない。 それか、天バチです。 ほほっ。 しかし、意識では何も知らない日本人。 そうしたらどうなる?と意識でさえ考える事もなかった日本人。 西洋功利主義的発想では、結局己を抑制することができない。 できなかったのです。 日本は、近代化の特殊モルモットと言いましたね。 世界に類例のない純粋培養の近代化を成し遂げたのですよ。 大成功? 西洋功利主義的発想で、はびこる拝金主義や物質主義。 それらのアンチテーゼをすべて失った、引き換えの近代化でした。 フルカウントの最後のバッターみたいなものです。 なぜか? 西洋では、バチカンの権威が失墜したとか、 法王が悪口を言われながらでも、 拝金主義や物質主義が、キリスト教(的)信仰によって、 カバーされて、人間らしさがまだ、守られているのです。 つまりどう云う事か?と言いますと、 欧米においては、 社会的思想と個人的道徳が分離しているのです。 ここが、西洋二元論の隠し技? 精神と肉体は、別物である。 と云う通りの事が実践されているのです。 ある意味、欧米は、終始一貫している訳です。 しかし、日本の近代化は二重構造だと言いましたね。 日本は、近代化(西洋功利主義的発想)は受容したが、 (キリスト教的)個人的道徳は受け入れていない。 すべてを捨てて西洋功利主義だけを受容をしている。 純粋西洋功利主義の実践国です。 ほほっ。 実に、西洋功利主義が完全に実現されたのは、 この日本国なのである。 西洋功利主義の行き着く先も知らないで、 この国に生まれた赤ちゃんは、悲惨です。 拝金主義のはびこる、退廃した世の中の空気を吸ってしまいます。 そう、功利主義者たちも、当時から道徳で調整をする必要がある。 と警告をしています。 実に、見事に、日本の近代化は、純粋です。 そう、純粋に拝金主義と退廃した悲惨な世の中を実現しつつあります! 今となっては、日本に、賢人がいなかったのでしょうか!? おろかな西洋かぶれしかいなかった? ! これを救うのは、国を挙げての道徳運動しかない。 是非に急ぐべきは、社会的倫理の構築。 これこそが、急務なのです。 このままでは、日本人が、崩れます。 このままでは、日本国が、崩れます。 自分の頭と心の穴の中に棲んでいるヤドカリ君を、 追い出さないといけません。 茶目っ気いっぱいのヤドカリ君ですが、 ごまかされてはだめですよ。 夏の暑い日、長い記事を最後までお読みいただいて、 深く感謝申しあげます。 コメントのお返事と、次回の更新が、 遅くなるかも知れません。ご了承くださいね。 よきお盆休みを、お過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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11/19 20:53 |
《近代化の影 4.》 ー 超近代の先 ー ( コメントへのお返事 )Category : 運命学と近代化
![]() 9月30日 尾瀬ヶ原 牛首にて、草紅葉の色づきから始まる秋。 ![]() 尾瀬ヶ原は日本最大級の高層湿原で、原始林に囲まれ、 至仏山、燧ヶ岳の山の雄姿を前方と背後に眺めながら歩けます。 高山植物を見つけた時には、幻想的な美しさにハッと息をのみます。 よろしければ、音楽をどうぞ! 「自律神経にやさしい音楽ー森の中で」 お耳障りな方は、そのままどうぞー! 今日は、3か月ぶりの《近代化の影 4.》 の記事です。 ちょっと難しい記事かも知れませんが、 社会にうごめく鬼神を見抜く目を養う一助になるはずです。 前回は、 8月14日の《 近代化の影 3.》 西欧のお茶目と西洋功利主義でした。 もう、2か月も前になります9月10日に、 ポストモダンと題して、 次のメールコメントをいただいておりました。 ① 近代という時代が終焉したの認識は、 多くの方が認識されていると思いますが、 その次の時代がポストモダンではなく、超近代というものに変貌している のが現状のように思えます。 となれば次に来る時代というのが、 超超近代ではないかと想像してしまいます。まさに空想域の話ですね。 ② ですから今後は、さらに地に足のつかない思想が、 欧米を中心に巻き起こってくるような気がしますね。 ③ 我が国はポストモダンとして早急に江戸文明の再評価をすべきでしょう。 そこには西洋人が愛すべき国、残すべき国とした姿がありますからね。 ①②③ は、編集で付けました。 今、冒険的にでも、こう云う江戸文明の再評価をすべきだと言われるのは、 勇気があって、余程のそれらに対する自信がおありなのだなー と 感じております。 あは! ① の部分については、 ポストモダンではなく、超近代というものに変貌していると云う事ですが、 この点については、 ★と、★★の2点を確認を通して、、、お返事にしようと思います。 ★ は、 近代合理主義は、 近代自然科学の合理的な自然認識に基づいて、こそ、 近代社会の形成も可能になりました。 具体的には、古代・中世の形而上学的思考から人間を解放した、 その解放された近代自然科学的認識を基にして、 社会を分析、適用することによって、成り立っています。 ある意味、社会科学としての経済学などが形成されたようにです。 それが、今となっては、批判されるものになってしまったと思います。 その事は、間違いありません。 近代化の誤謬は、未だに拡大され多方面に続いています。 人間の前頭葉は、これでよしと云えば終わり、 ほっ。 不断の歩みを進まなければならないのですね。 前回のテーマの半分、西欧が、勝手にお茶目をする分は、 どうぞ~お好きにすればいいと思うのですが、 日本は、すぐに乗せられるお調子者の愚図ですから、 功利主義だけでは、困ります。 はぁー。 現に、今の日本は、西洋功利主義に飲み込まれて、 その巨大な胃袋の中をウロウロし、 クチャクチャ咀嚼され、ドロドロにされて、 元の日本の原型をとどめない位までに消化分解が進んでいる? あはは。 元の日本を構成していたアミノ酸も、バラバラに切られて、 未だかって見た事もない変種のタンパク質へと合成が進んでいる? あとは、消化カスとして排泄される? ははは。 そんな状態かと思います。 眼前には、 人間の感覚器官に絶対的な信頼を置く物質文明、 理性の尊大な思い上がりの景色が広がっています。 しかし、近代化には、 ひとまずは、ひとつの自然認識形態の変貌があった。 人の五感における認識の形を整える事には、功績がありました。 功績と云っていいのか? あはは。 大きなパラダイムの転換とまでは言えないけれど、 それだけの西洋の精神史における変化であったのです。 それは、認めましょう。 ★★ へ進みます。 しかし、 五感を含む六根による感覚器官の認識方法は、 近代化の起こった千数百年も前に、 東洋の仏教の智慧は、きびしく批判をしていました。 五感で、正しく物事を見る事はできないと。 それは、現象に囚われた迷いの内であると。 感覚の認識=六窓のサル程度の認識では、 =環境に支配され、自分の感覚に振り回される認識でしかなく、 感覚に頼る限り、無常である。 故に、不動の幸せは実現できない。 そう、書かれていると 無意識の不思議 2 で申し上げました。 感覚器官で実相が、分かったつもりになる事が、 大きな誤謬であり、不幸と禍(わざわい)の根源である。 浅はかな迷いのレベルを出ていないと、断じています。 くりかえします。 東洋では2000年も前に、 理性の認識=六窓のサルの認識程度は、 仏教の経典で「その程度のあさはかな認識に振り回されるな」と、 感覚器官の認識を真実だと受け入れる事は、邪義であり、 増上慢に過ぎないと警告されています。 つまり、意識では無意識の世界の実相を掴む事はできない。 東洋で2000年近くも前に否定をしたレベルに、 やっと西洋が近代化でたどり着いた。 それが、 明治維新が、近代、近代化と大騒ぎした骨格です。 当時の日本を代表する思想家たちは、それを見抜けなかった。 事実、自前の東洋のすごさを知らないかった? としか、思えない!!! と云う事は、自前の東洋の叡智を、 真に体得していなかった! と云う事になるじゃないですか!! えっ? あはは。 そんなことより、 西洋の大砲の音と、蒸気船に驚いたのでしょうね。 ほほ。 人は、目で見える物を見せつけられると弱いのですね~~。 あはっー、 現象に幻惑されたってことーーー? 裏を返せば、ここが、西洋の強さ、 西洋と云うのは、たいした中身じゃないのに、世の中を席巻するのです。 中身よりも宣伝が上手と云うのか、、、、、 彼らは、【物=えもの】を見せびらかすのです。 さすが、物質文明の申し子! 神の子たちです。 日本は、いつもこれでやられています! 武器を持つ狩猟民族に農耕民族は負けるのです。 だって、農耕の鋤(すき)や鍬(くわ)だけ、 それしか持っていないのですから、、、 西洋文明と云うのは、 元々が物質文明だから、獲物の分け前をちらつかせながら! ほっ。 その狩猟の正当性に、皆を従わせる為に、 理性的・reasonな言葉を並べてロジックを作るのが得意です。 まさに、日本の現代文明そのものでしょう? さも理性的・reasonな言葉を並べてロジックを作るのが得意な人が、 人材です。 それらは、読み書きそろばん、学歴で身に付くものです。 霞が関文学、その文学者の官僚たち、 神の子? ああ。 さも理性に訴えるようにして、 欲望の原理で、人間の欲望を掻き立たせて、 情動・emotion・エモーションを極まらせる。 うまいのですね! 歌や踊りで、リズムを繰り出して、 そう! ミュージカルの原型です。 どうでもいい事なのに、大騒ぎをする! させる! あはは。 そう! いい気分にさせて殺戮は正義だと認めさせるのです。 これは、宗教行事のイベント、儀式の盛り上げ方などに 影響をされているのでしょう。 結婚式のハデハデしさなど、そのままです。 あぁ、そっくり! 選挙活動が、そっくりです! 西洋の拡販、宣伝力の実力は、 キリスト教の宣教活動の歴史と伝統に培われ、 負っているところが多いのではないかと思います。 キリスト教の宣教活動=新約聖書では 『マタイによる福音書』28:20で イエスが弟子たちに対して世界中で教えを伝えるよう派遣する場面がある。 そもそも宣教活動自体が、キリスト教を伝える為に、 単にキリストの教えを伝えるだけでなく、 派遣されたそれぞれの国や地域の文化や思想に適合した形で 地域の経済的発展や教育水準、衛生水準の向上に取り組む事を 常として来たのです。 伝統的なキリスト教の教義ではこういった行為は、 新しい信徒の獲得という見返りを求めることなく、 愛と奉仕の精神で、 純粋な利他的行為として行われなければならないとしている。 キリスト教の、こう云う二元論的理性と感性を用いた 情動的・emotionalな面に働きかける方法の方が、 動きがあって感覚的にも効果的で、 我々の五感、前頭葉のシナプスに引っかかりやすい! 捉えられやすいのでしょうね。 東洋の精神と肉体は一つであると云う真理は、 おごそかで、 静的であり、 しかも無意識界にあります。 現象界に、目で見えるように存在する訳ではありませんから、 感覚では捉え難い為に、 意識からは、当然の如くに無視をされるのです。 現物を見て触る、 臭いを嗅いで味覚に訴える、 五感への訴求効果がある西洋的な宣伝活動は、 近代化の大波として諸外国や、日本を飲み込みました。 それは、続いています。 意識中心は続いています。 超意識ではない。 超近代なんかではないはずです。 近代自然科学的認識を基にしている事には変わりがない。 ② の部分について 今後は、さらに地に足のつかない思想が、 欧米を中心に巻き起こってくるような気がしますね。 ほんとうにそうですね! 西洋かぶれがいいと思っている知識先駆者?は、 直ぐに大騒ぎをして宣伝したがるでしょうね~。 古代・中世の形而上学的思考から人間を解放した、 西洋に起こった近代自然科学的認識を基にした 近代化ほどの何か、が出て来たのだろうか? あたらしい何か? もっと人間をしあわせにする何か、 それらが、私たちをもっと開放したのだろうか? 何か転換が起こったの? いいえ、何も、起こってはいない。 意識を主流にする思潮が幅を利かすばかりで、 世の中が、いよいよ混濁として来たのが、はっきりしただけです。 批判をして超を付けるのであれば、こんな気楽な事はない。 西洋のお茶目が、キリスト教の基盤の上で、 好きに理性のジグソーを弄んでいるだけではないの? 近代合理主義に懐疑的な主張を主にして来た人々=評論家なども含めて、 強引に批判をするだけでいいと感じていた人々は、 では、それに代わる何があるのかと云う点になると、 なにも、なかったはずです。 おなじ近代合理主義を以って批判するだけで、 まったくの役立たずです。 しかも、批判をする側も、される側も、 商売としたら何かがないとメシの種にはならないからですね。 そんな程度のロジックにイチイチ関わっていられません。 案の定、 世界が今の処、ガタガタしながらも続いているのは、 だれかが、得をしている。 利益を得ているからです。 えぇ、 その人たちが、現体制を守っているのです。 人間の感覚を、思い通りに操れる、 そして、それで得をする人たちです。 その人たちのせいか? その策略なのか? これが、経済活動の狙いですか? 飼っている家畜のように、 人が、目を皿にして餌場を求める。 餓鬼界の貪欲で物に手でしがみつき、 餓鬼のように争う事が当たり前だと言う。 そして、決して膨らまないお腹を膨らまそうと、 感覚を通して、我々を操縦しようって魂胆ですか? それが、経済? 経済学? 学? ですか? 笑うしかない。 これから先、余談を許さない状況が生まれつつあります。 その証拠に、 日本だけではなく、 この状況においてもやっぱり先進国? あは! すばらしい先進国・EUにおいて、 現代における西洋文明の築いた富は、 他者の飢餓の上に作った富であったと云う事を証明をしています。 そして、日本民族の、自らの魂を失った民族の、 我々の衰亡の姿が刻々と浮かび上がるような気がしています。 具体的には、 先進国において、未来のある有能な学歴がある若者でさえ、 先の見えない閉塞感が溢れ、もはや格差の広がりが現実化し、 それをうらやましいと妬みながらも気力をなえさせている若者、 自分はダメでも子供の為に苦労をする大人たち、 目に見える世界=『陽』の現象世界の姿の評価だけに 翻弄される人びとの群が溢れています。 誰もが、 この現状を心の底からこれでいい、正しい、善いと思っていません。 しかし、体がすでにそっちへ傾いてしまって、 じっとしておれない、心が落ち着かない人々が増えています。 皆が、餓鬼道へと、 赤鬼、青鬼になれって訳ですか? これで、なにが超なのだろう? ほんとうに、次から次へと、まるで伊達男の帽子のように、 西洋は概念を作ってかぶって遊ぶのが好きですね。 本当の〝超”とは、なにだろうか? 意識の西洋が、無意識の東洋を認める事です。 これを、いずれ認めさせなければ....。 ③ の部分の〝江戸文明の再評価”について、 江戸時代に日本を訪れた外国人の記録を見ると、 その当時の日本人の優れた礼儀、清潔さ、心の豊かさ等が、 賛美されています。 それが、過去から培った日本の精神性の高さ、美点ですね。 それらの価値を再評価する事は、絶対に必要です。 もっと、国を挙げて行うべきですね。 でも、それが、そのままこれからの日本の神髄になるかと云うと、 Come back to the Edo era !! (江戸時代よ、カムバック!!) とは、行かないですね。 まさか、復古主義でもないし、むずかしいですね。 ほっ。 それよりもなによりも、 西洋の近代化の到達した認識方法は、仏教の認識方法の足元にすら 達していなかったのに、 それが、江戸時代の日本を席巻したのは、どうしてか? の疑問が残ります。 これは、ある意味、中身が無くても、人間の五感は騙せる。 と云う証明でしょうね。 自己の感覚や感情に溺れる人は、騙されるのです。 =六窓のサルの批判が正しかった。 単純に言えば、そのノウハウを持っていた西洋の勝ちなのです。 しかし、思い返せばくやしい~ あはは! 西洋の持つ思想よりも深い叡智の仏教を持っていながら、 近代化の「西洋製の張りぼての虎」に騙された事に対して、 取り返しがつかない現時点で、 痛切に反省をしなければいけないのは、 仏教有縁の、日本において、 武士階級は、朱子学、禅宗の教えを学んだはずであるのに、 仏教の高みから、その哲学から、 西洋の近代化の実態を見抜く事すらできずに、 みずから六窓のサルの批判を当てはめる事すらできなかった。 反省すらできなかった事実です。 仏典が教え警戒する、六窓のサルに陥ってしまった事です。 あはっはっ!! この事は、何を意味するのか? 江戸時代の、仏教が、もうすでに形骸化し、 仏像のみ、経典のみ、高僧のみ残って、 仏の魂が、抜けてしまっていたのか? そう思わざるを得ないのです。 本当は、ここまで言いたくはないのですが、 ほほ。 でも、朱子学も犯人でしょう? 儒教から派生した朱子学派の事は、いつか、かならず、 はっきりさせなければなりません。 これは、また、記事に致します。 今日は、省きます... 日本の江戸時代の仏教・朱子学を含む思想界が、 あまりにもダラシナイ。 だらしなかったのではないの? あ、そうじゃなくって、 朱子学らしい滅びの結果、当然の結果ですよ。 中国の清も、朱子学でした。 朱子学は、徳川と愛新覺羅(あいしんぎょろ)を滅ぼしたのです。 孔子や釈迦の智恵を汲み取ってはいなかったって 事じゃないですか? あぁーです! もう、任せられないなーー だから、清と日本は思想戦で西洋に負けたのです。 思想戦に負けた、その精神次元が物理的に具現したのが66年前です。 物事は、無意識界が意識界に物理的現象として表出する。 その順です。 すべては、無意識界で決するのですよ。 現象として五感に触れるようになるのは最後です。 もうすでに完了した。それが現象です。 眼で見えるようになってからでは、すべて遅いの。 病名がつくと、もう遅いの。 当時の思想界は、何をしていたんだ? 真の戦争を起こした罪は、そこにあるのだと思う。 現在の日本のあらゆる先端は、 その先に何があるのか? 指導者も分からないまま? まるで、崖に向かって走り出したって ? と、 思うしかない鬼気迫る展開、修羅場、その連続ばかりです。 野田さんが、その当番をしているようです。 彼は、目の前で起こっている事だけに反応しているでしょう。 現象世界に振り回されているだけじゃないですか? だって、地球上の資源に限界があり、 原子力発電がなくては経済も止まると云うロジックで、 抜き打ち検査はしない、できない現状で、 決定的なのは、原発の管理ができる人材がそもそもいるのか? もっと、恐いのは、地震がいつやってくるのか? 我々は、安売りスーパーで、安い安い!と喜んでいるけれど、 世界中から買い集めてくる食糧の買いたたきは、 もう、日本離れが進んで、いいお客さんなんてランクじゃないし、 それは、例えば、一番安く買うくせに、一番注文うるさく云うのだとか、 たとえばですが、 3cm~6cmのサイズでエビが10尾で1ドルと云う場合、 日本は、6cmのエビを10尾にしてくれと云うのだそう、 現地では、3cmや4cmのエビでも、 いちいち注文を付けない中国やブラジルの方へ売りたいとか、 世界のあちこちで日本は嫌われているらしいのです。 日本の商社は、あくど(悪道)過ぎなくはないですか?? こんな事をしていたら、 食糧難になった時に、一番先に切られるかもよ? こう云う風に、先が見えないまま、無理やり進むというのは、 普通、おやめなさい! と云う事ですよ。 それを押してするのは、好き勝手か、駆け落ち! ほほっ。 暴挙、愚行そのものです。 飢餓への迷いと不安を原動力にして、 何が正しいか? 何が真実か? が見えていないのに、進むと云う。 本当に進んでいるんだかどうだか? 穴を掘っているのかも知れないって考えないのか? 近代化には、正義も、真実も、なかった。 ほ。 ただあったのは、飢餓感。 餓鬼道に落ちて、鬼になるには、道徳も邪魔だった。 ちょん髷を切り落として、 キリスト教の花飾りを、頭に載せて、 先進国相手に商売ができるように、 恰好だけから仲間入りをさせてもらっただけでしょう? 我々のDNAに組み込まれた魂である 1000年以上続いた東洋思想の文化の土壌の上に、 キリスト教文明の上澄みの灰汁を、毎日、掛けつづけ、、、 本来の西洋文明の魂である キリスト教の根を移植するように受け入れた訳でもなく、 耳や鼻や肌に心地よい、 手で掴み取れる枝や葉や花の部分を刈り取っただけの装飾を付けて、 屍に飾る〝死に装束”のように、 狂人の〝祭り装束”のように、わが身を窶(やつ)して来たのです。 いったい知性というものはどこに? 智慧というものはどこにいったのか? 信じれるものも、ないままに? 十代の世代が、インスタントセックスに堕ちているのも、 近代化を無節操に受け入れた結果として、 体を物と扱う世代が生まれ育ったのです。 ある思想を受け入れて、 その思想の無意識界での絶対評価、その功罪が、その正邪が、 それが現象化するには、30の倍数年かかるのですよ。 60、90、120、150年のように、、、 これを、どう取り返すのだろう? それでも、 この混濁の世紀の向こうに、 贅沢な事を夢見ています。 近代化を超克する次の超・超・超近代化は、 もう、西洋からは、何も来てほしくありません! 東洋が、自前で、自らの精神性の伝統から生み出した 真の意味で人間の生命(心と肉体)を解放する思想を発信したい。 そして、西洋と東洋の思想の融合を実現できたらと願っています。 あっー! なんと大きな初夢でしょう? ほ。 では、 よき一週間を、お過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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ある近代化 ・ ブータン王国 - ワンチュク国王の国会演説から ーCategory : 運命学と近代化
![]() 今月の15日から20日までの間の、 日本に滞在中、 現王朝の5代目、ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王夫妻が 残して行かれた爽やかなオーラ。 連日の報道で拝見をさせていただいた 久々に心温まるニュースでした。 その表情の平安さ、存在感、 それについて少し書いておきたいと思います。 ちょうど我が国の近代化について苦々しい記事を書いている時期に、 内心救われたような心を持つ事ができました。 普段から、このブログをお読みになっていただいている時に、 東洋と運命が、どう関係あるの? まして、国の近代化と自分の運命が、どう関係あるって云うの? と、疑問に思われていたのではないかと... ほほっ! 今回は、それに対してのよいお答えになると思います。 国が、自分の歴史や伝統を、どう扱い、どうしたのか? それは、どう云う思想を以ってしたのか? 国がして来た事が、 我々を、自分を、どう扱い、どう遇して来たのか? その思想の何が、我々をここへ押し込んでいるのか? それが、人間一人の運命を、どうねじ曲げるのか? 我が、巻き込まれると云う事は、 我が子が、巻き込まれると云う事です。 ここにこそ、運がいい、運がよくない、 その差が存在するのですよ。 それ故にこそ、努力が活きるのか? 努力が活きないのか? 自分の運命と、国が我々をどう扱うのか? は、密接不可分です。 逆も言えます。 我々が、自分の運命をどう扱うのか? が、 国が思想をどう選び、変え、我々を守るのか? 守らないのか? 密接不可分なのです。 要は、この国には、運の悪い人ばかりが生まれ集まるのか? 運のよい人間が集まり来て生まれ出るのか? そう云う事になりましょう。 そして、 ブータン国王に関するコメントや、 ブータン国の近代化についてもコメントをいただきました。 ご紹介をします。 文章は、編集で短くしています。 ご了承くださいね。 『 今日の記事は何度も書かれた今までのまとめのような気が致します。 日本はいまのままではいけないという注意と取りました。 昔のよさを大事にしないといけません。伝統です。 今回の日本を訪問していただいたブータンの王様は、 着ているお着物といい、しぐさといい、 他と比べられない しっかりと伝統が感じられて信頼感を残されましたね。』 もうひとつ、 『 >近代化には、正義も、真実も、なかった。 ほ。 >ただあったのは、飢餓感。 自分でもえらそうなことは言えなくて恥ずかしいのですが、 このくらいの反省がなされないといけないのかも知れませんね。 >自己の感覚や感情に溺れる人は、騙されるのです。 そうですね。 戦後の日本は自分がどう感じているのか、 どうしたいのか、という個人を尊重する 風潮はたしかにありました。 ここで大事なのは、どういう自分なのかということが、 おざなりになっているのですね。 もう、目覚めてもいい時期なのでしょう。 日本人よ、目覚めよ! このままでは自惚れた日本人ばかりになってしまいそうです。 今回のブータン国王の来日で、こう云う近代化もあるのか と驚いています。 真に自分を見失わない国の尊厳性をみた感じがしています。』 今日の記事は、 ある近代化 ・ ブータン王国 ワンチュク国王の国会演説からです。 ある近代化、日本とは違う近代化です。 近代化と云うも、こうもあり方が違うのか? それを、ご自分で比べてみてくださいね。 ブータン王国、Bhutanと云う国名は、 昔のインド人が、チベット地方を呼んでいた呼び名です。 ブータン王国の国語であるゾンカ語では、 ドゥク・ユル(Druk Yul) 。 ドゥクは龍ですから、龍の国 と云う意味です。 若きブータン国王夫妻の爽やかさは、 日本のきものに似ている地味で質素に見える民族衣装にも表れていました。 黄金やダイヤモンド、たくさんの勲章を身に付ける訳でもなく、 日本の紬のような、、、紬は、どんなに高級でも普段着です。 博多織のような、沖縄の紅型? 織物のような なんとなく普段着に近いような見た目のお衣裳は、 親近感を抱かせるものでした! その民族衣装を身に着けた国王の御振舞と佇まいは 自己を何によっても飾らずに、堂々とされる事自体、 内面に自信と信念をお持ちなのだと、 説明をされなくても誰もが納得させられてしまう威厳がありました。 謙虚でありながら、堂々と威厳に満ちているそのお姿は、 すがすがしくありましたね。 歴史を、見てみますと、 チベット仏教国同士として、 チベット・ダライラマ政権とは、仲がいいのかと思いきや、 1617年~1714年 の約100年間に、 チベット・ダライラマ政権から、10回以上の攻撃を受けています。 1864年 イギリスとの戦争が勃発し、敗北。領土を喪失。 1907年 現王朝のワンチュク家が支配権を確立。ブータン王国の成立。 1910年~1949年までイギリス保護下。 1971年 128番目の加盟国として国連へ。 1972年 現国王の父、ジグミ・シンゲ・ワンチュクが第4代国王に。 1999年 国内テレビ放送開始。インターネットの利用を許可。 2006年 第5代現国王が、即位。 2007年 初の普通国政選挙を実施。 2008年 新憲法を公布。 民主的な憲法を公布されてから、まだ3年なのですね! この緩やかな近代化には、 日本の近代化から30~60年遅く進んだ理由がありました。 急速な欧米化を推し進める事によって起こる弊害から、 国としてのアイデンティティーを守る事が優先されたのです。 強大な国王の権限を縮小する民主化政策の推進として、 絶対君主制から立憲君主制への移行、 普通国政選挙の実施、新憲法の公布、 といった革新的な政策を進める一方で、 国際社会への参画の推進を進めながら、 急速な近代化で失われる自国のアイデンティティを憂えて、 農業政策と水力発電の強化、森林資源や自然環境の保護の 政策を行いながらも、 「急ぎ過ぎない開発」をあくまでも主眼として、 国の伝統的礼儀作法を失わない為に、国民に対して、その順守と 男性は「ゴ」、女性は「キラ」と呼ばれる民族衣装着用の義務付け、 ゾンカ語の国語化などを計ったのです。 来日された国王のお父様に当たられる第4代国王は、 僅か16歳の若さで即位され、 その後約34年の在位期間中に現在のブータン王国の礎を 築き上げたと称えられる名君です。 1972年に、GNH(国民総幸福量)と云う概念を提唱されました。 GNH(国民総幸福量) 「国民全体の幸福度」を示す尺度。 我が国などがGNPと云って示す国民総生産のような経済尺度で、 金銭的・物質的豊かさを目指すやり方ではなく、 精神的な豊かさ=国民の心の幸福を目指すべきだ。と云う考え方。 ブータン政府は、国民一人一人に面接をして、 1.心理的幸福 2.健康 3.教育 4.文化 5.環境 6.コミュニティー 7.良い統治 8.生活水準 9.自分の時間の使い方、 の満足度を調査する。 あぁ、ここまで読むと、いわゆる先進国の欧米、日本と、 ブータンのどっちが本当の先進国か? 考えてしまいますね! あはは。 この前国王の素敵なエピソードを紹介しましょう。 昭和天皇の「大喪の礼」で来日された時、 2月の寒い雨の日、宮内庁の職員がコート着用を勧めると 前国王は、「天皇陛下に失礼ですから」と辞退をされた。 式典の後、 世界各国の首脳が、日本からの経済援助を求める弔問外交を繰り広げる中、 直ぐに帰国される国王に、新聞記者が尋ねると、 「天皇への弔意を示しに来たのであって、金の無心の為ではありません」と お答えになり、帰国後には、一か月間の喪に服された。 ![]() 少し長いのですが、国会での現国王のスピーチを全文載せます。 天皇皇后両陛下、日本国民と皆さまに深い敬意を表しますとともに、 この度、日本国国会で演説する機会を賜りました事を、 謹んでお受けします。 衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、 ご列席の皆様。 世界史においてかくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会の中で、 私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、 ひとりの若者として立っております。 皆様のお役に立てるような事を 私の口から多くを申し上げられるとは思いません。 それどころか、 この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私の方です。 この事に対し、感謝致します。 妻ヅェチェンと私は、結婚のわずか1ヶ月後に日本にお招きいただき、 ご厚情を賜りました事に心から感謝申しあげます。 ありがとうございます。 これは両国間の長年の友情を支える皆さまの、寛大な精神の表れであり、 特別のおもてなしであると認識しております。 ご列席の皆様、演説を進める前に、 先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府および ブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉を お伝えしなければなりません。 ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、 何十年もの間、偉大な日本の成功を心情的に分かちあって参りました。 3月の壊滅的な地震と津波の後、 ブータンの至る所で大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、 日本国民に慰めと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、 ささやかながらも心の籠った勤めを行うのを目にし、 私は深く心を動かされました。 私自身は押し寄せる津波のニュースを為すすべもなく見つめていた事を 憶えております。 その時からずっと、私は愛する人々を失くした家族の痛みと苦しみ、 生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者たち、 そして、大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い 同情を、直接お伝えできる日を待ち望んで参りました。 いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。 しかし、仮にこのような不幸から、 より強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、 それは日本と日本国民であります。 私はそう確信しています。 皆様が生活を再建し復興に向け歩まれるなかで、 我々ブータン人は皆様と共にあります。 我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは 心からの真実味のあるものです。 ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は、 常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。 両国民を結びつけるものは家族、誠実さ、そして名誉を守り、 個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、 また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。 2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。 しかしブータン国民は常に、 公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いて参りました。 私は、若き父とその世代の者が何十年も前から、 日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。 すなわち、 日本は、当時開発途上地域であったアジアに 自信と進むべき道の自覚をもたらし、 以降、日本の後について世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に 希望を与えてきました。 日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。 このグローバル化した世界において、 日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範で あり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。 世界は常に日本の事を大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、 歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、 そして秀でる事へ願望を持って何事にも取り組む国民。 知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民 であると認識してまいりました。 これは神話ではなく現実であると謹んで申し上げたいと思います。 それは近年の不幸な経済不況や、 3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。 皆様、日本および日本国民は素晴らしい資質を示されました。 他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして 悲嘆をもたらしたであろう事態に、 日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、 静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。 文化、伝統および価値に、しっかりと根付いた このような卓越した資質の組み合わせは、 我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。 すべての国がそうありたいと切望しますが、 これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。 このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、 何世紀もの歴史から生まれて来たものなのです。 それは、数年、数十年で失われる事はありません。 そうした力を備えた日本には、 非常に素晴らしい未来が待っている事でしょう。 この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、 世界で最も成功した国の一つとして地位を築いて来ました。 さらに注目に値すべきは、 日本がためらう事なく世界中の人々と自国の成功を 常に分かち合って来たと云う事です。 ご列席の皆様、 私は、全てのブータン人に代わり、心から今、お話をしています。 私は専門家でも学者でもなく日本に深い親愛の情を抱くl ごく普通の人間に過ぎません。 その私が申し上げたいのは、 世界は日本から大きな恩恵を受けるであろうという事です。 卓越性や技術革新がなんたるかを体現する日本。 偉大な決断と業績を成し遂げつつも、 静かな尊厳と謙虚さとを兼ね備えた日本国民。 他の国々の模範となるこの国から、世界は大きな恩恵を受けるでしょう。 日本がアジアと世界を導き、また世界情勢における日本の存在が、 日本国民の偉大な業績と歴史を反映するにつけ、 ブータンは皆様を応援し支持して参ります。 ブータンは国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけでなく、 日本がそのなかで主導的な役割を果たさなければならないと 確認しております。 日本はブータンの全面的な約束と支持を得ております。 ご列席の皆様、ブータンは人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。 国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心を捉えて離さない歴史が、 ブータン人の人格や性質を形作っています。 ブータンは美しい国であり、 面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に 数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を 反映しています。 手付かずの自然が残されており、 我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。 ブータン人は何世紀も続けて来たように、 人々の間に、深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。 今日のめまぐるしく変化する世界において、 国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち、 先祖の価値観によって導かれる社会。 そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、 私は最も誇りに思います。 我が国は有能な若きブータン人の手のなかに委ねられています。 我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。 小さな美しい国ではありますが、強い国でもあります。 それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。 我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、 日本からは、貴重な援助や支援だけでなく、 力強い励ましをいただいて来ました。 ブータン国民の寛大さ、両国民の間を結ぶ、より次元の高い 大きな自然の絆。 言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によって ブータンは常に日本の友人であり続けます。 日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。 それ故に、日本政府、およびブータンで暮らし、我々と共に働いて来て くれた日本人の方々の、ブータン国民のゆるぎない支援と善意に対し、 感謝の意を伝える事ができて大変嬉しく思います。 私はここに、両国民の間の絆をより強め深める為に 不断の努力を行う事を誓います。 改めてここで、ブータン国民からの祈りと祝福をお伝えします。 ご列席の皆様、簡単ではありますが、 (英語ではなく)ゾンカ語、国の言葉でお話したいと思います。 「(ゾンカ語での祈りが捧げられる)」 ご列席の皆様。いま私は祈りを捧げました。 小さな祈りですけれど、 日本そして日本国民が常に平和と安定、調和を経験し そして、これからも繁栄を享受されますようにと云う祈りです。 ありがとうございました。 ![]() 謙虚であること、 誠実であること、感謝すること... 常に合掌をし、頭を下げ、感謝の言葉を... 相手の心を対等に見て尊重される。 それを、仏教徒らしく身口意の三業で為さるその姿、 自己の全存在を賭けて行う、その意(識)の中にこそ、 無意識の存在をわきまえたお振る舞いが覗(うかが)える。 そこに、崩れない幸せがあるのだ、と言われているようです。 国王は、すばらしい、『少陰』の輝いた男性でしたね。 ほ。 そして、人の意識では掴めないけれど、 その先にこそ、よろこびがあるのだ、と言われているようです。 人の尊さを実践されているのを目の前にした感動でした。 日本の事を、あれ程までに尊重をしていただきましたが、 振り返れば、 物質文明のチリと汚濁の中で、 捨てても捨ててもゴミが出て来る生活、 無駄なものが溢れ返る生活、 そろばん勘定を抜きに生きる事ができそうもない日本にいて、 日本のやって来た近代化の後始末さえできない現実に、 茫然と暮らしている、、、 その同じ地球で、 人の幸福度を国の指標にする人の暮らしがあると思う事は、 私たちに大きな支えとなって、励ましになったように思います。 ヒマラヤの秘境と呼ばれる処の小さな国ーーーブータン。 やっぱり、アジアだ。 そう、西洋ではなかった。 あはは。 『陰徳』 自分の行動の感謝も見返りも求めないで、他者の幸せを願う善行であると、 見返り、 本当の誇りを持っていれば、そう云うものは、なくてもいいのでしょう。 家族の歴史=先祖への尊崇。 守られて来たものへの敬愛。 本当に、大事なものを、大事だと、 心から、大事にしましょう。 ひさしぶりにM町の事を思い出しました。 よき、一週間をお過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2011
12/04 14:43 |
《近代化の影 5.》 ー 排除される 『陰』の存在 ー ( コメントへのお返事 )Category : 運命学と近代化
![]() 10月28日 谷川岳(標高 1977m 群馬、新潟の県境)中腹の紅葉のようすを 天神平までの谷川岳ロープウェイの窓ごしに携帯で撮ったものです。 外気温 5℃。 真正面は、阿能川岳、三岩山。 画面の中央下方の四角い黒い影が、私の乗っていたロープウェイの影。 また、いつか、谷川岳の天神平、天神峠の景色へ、案内しますね。 今日は、 《近代化の影 5.》 ー 排除される『陰』の存在ー として、コメントへのお返事を書かせていただきます。 前々回の いのち(自然と健康)を脅かすもの 2 ○食品添加物の記事に いただいた拍手コメントから始めたいと思います。 『 子育て中の○○○です。 頑張ります。 子どもたちにきちんとした食物与えていきたいです。 優先順位を間違えないようにして 正しい食物にお金を使っていきたいです。 母の役割は大きいですね。 3月に生まれた次男の名前に「仁」を使いましたので 前の記事もとても嬉しい気持ちで読みました。 次の世代を育てていく専業主婦は、 生産性のない誰でも出来ることじゃないですよね。 誇りをもって、大事な子どもを、次の世代を、育てていきたいです。』 Hネームは、編集で○○○で伏せてあります。 ご了承ください。 いただくコメントは、どれもそうですが、心が伝わって来ますね! 次の世代を育てていく専業主婦は、 生産性のない誰でも出来ることじゃないですよね。 そうですよ! そのとおりですよ。 『陰徳』に守られている自分の人生に自信を持ってくださいね。 誰でも出来ることじゃないですよね。 そうですよ。 いつの世もそうでしたが、 女性が、 生活の不安もなく生命を守り育てる役割に専念できると云う事は、 自分にふさわしい『陽』の働きに守られると云う事です。 ただしく男系の家系でなければできません。 貴女だけの、ご主人様だけの力ではなく、 その家系に深い『陰徳』があるからです。 もちろん! 貴女ご自身の『陰徳』でもあります。 授かった我が子を、自分と夫との子供と云うだけではなく、 ご先祖から続く子孫を儲けたのだと、 そう信じてください。 その点においては、どんな事があろうと、 貴女の家系と、婚家の家系の御先祖へ 感謝申し上げてくださいね。 御主人の御両親に対しては、 感謝と喜びで、我が子を会いに連れて行き、 また、必ず、ご先祖のお墓参りに行かれますように。 一家そろってが、むずかしければ、 貴女と子供さんで、 または、貴女が一人で感謝を届けてください。 それが、貴女の役割なのですよ。 いい枝振り、葉を茂らせ、花実を得ようとすれば、 根にこそ栄養を、与えますね。 ご先祖様は、家系の根です。 根に栄養を、それは感謝と報恩です。 心を込めて追善を注いでください。 それが、 いのちの継承の必須条件です。 ご自分が、恵まれていると云う事を自覚されて、 信念を強く持って生きてくださいね。 『陽』の社会活動性で、しっかりと、貴女の家族を守る ご主人様へ、思いやりといたわりを! あはは。 貴女のしあわせを大事になさってくださいね。 拍手、コメントありがとうございます! コメントにありますように、 現代は、 専業主婦である女性や、 若い女性が、自分の人生の在り方を考える時に、 女性本来の生き方であったはずの役割に、 疑問を持たなければならない社会、 自信を持って生きる事ができない社会です。 生産性のないと云う言い方や、 それに類する表現を気にしてしまう、不安に思うと云う事、 それ自体が、 現代の思想のゆがみを表しています。 その社会が、基軸に据えている思想はなにか? それは、近代合理主義と云う、 近代化以降の社会の価値観から出て来るものです。 かように、思想と云うものは、 社会に広がって、時間が経てば経つほど、深い影響力があります。 人間の自然のありようを歪め、心身をむしばみます。 必要のない抑圧感や、迷いを生じさせて、 不幸感を抱かせるからです。 真の仏法では、それらを邪義、邪法と云います。 正しい人間のありようを犯す思想を、〝鬼神”と呼ぶのでした。 鬼は、外ー! 鬼は、我が家から、追い出さなければいけません。 あはは。 運命学のこのブログが、 近代化のありようを批判するのも、この理由です。 現代の思想とは、 近代化に遅れていると云われる国を除いて、 地球上のほとんどの国が、巻き込まれている思想です。 近代化で取り入れざるを得ない西洋思想の事です。 その近代化を遅らせながら取り入れている国として、 先のブータンを、前回の記事で取り上げたところです。 そのブータンも、これからどうなっていくのか? 一つは、注視していかなければならない問題です。 直ぐにゴミになる商品を大量生産し、 人がそれに飛び付くように広告代を使って宣伝をし、 売る、買う。 それが、消費と云い、お金が動く事を経済を動かす、と言う。 そう云う物質文明を生み育てた思想が、 キリスト教文明が生んだ物質文明、近代合理主義です。 その証拠に、 生産性と云う言葉ですが、 過去4000年の歴史を持つ東洋哲学には、 そのような概念はありません。ないのですよ。 これに関しては、また、詳しくは、機会があれば記事に致します。 生産性と云う言葉は、近代化から生まれました。 人間の五感が捉えられる=意識できる =見て聞いて臭って触って味わえる意識できる事柄、 それだけを存在する物と認めて、 この世のありようを説明していこうとする事を、近代合理主義と言います。 生産性と云う言葉は、 近代合理主義のもたらした近代的学問の経済学から、 その中から生まれた言葉です。 生産性=productivity とは、経済学で云う 生産活動に対する生産要素(労働・資本など)がどれだけ役立ったか? 生産物にどれだけ寄与したか? 一定の資源からどれだけ多くの付加価値をうみだせるか? 逆に、一定の付加価値を、どれだけ少ない資源で生み出せるか? という効率の程度の事です。 近代化によって生まれた学問は、いろいろな知識や言葉を作りました。 さも、それらの言葉が、真実であるかのように...? あは! この世の真実も掴んでないくせに、、、です。 なんと生意気な思想なのでしょうー ほ。 我々の目や耳や鼻や味覚や触感や心であっても、 その感覚が頼りになる部分はあるでしょうが、 それだけで物の本質、命、宇宙、自然、のすべてが 解るわけがないのです。 解る訳がないのに、近代合理主義は、解ると決めました! その大きな過ちは、 意識に掴む事ができない無意識の領域を無視した事です。 そんなばかな! と誰も気が付かなかったのでしょうか? 欧米の知性と言われる偉人たちは、見抜けなかったのでしょうか? あ、そうか! 欧米の知性がこれを作ったのでした! ほ。 なんだーー。 でも、 なぜ、西洋の偉人たちは、気が付かなかったの? 少し難しくなりますが、これに関してちょっとだけ、 記事にしておきます。くわしくは、また、、、、、 欧米の社会は、元々が父権社会なのです。 解りやすく云いますと、男性の意識が支配する社会です。 もっと、砕いていいますと、 欧米は、女性が大事にされるとか、レディファースト等の言葉が ありますが、家系のおさいふは、夫が持っています。 獲物を捕って来たホストが、家族に晩餐を振る舞うのです。 夕食のテーブルの席で、 皿の上の丸焼きの肉を切り分けるのは、主婦ではなく、夫です。 欧米から生まれた自由主義、個人とプライバシーの尊重といった 個の独立性を強調するドライな基調は、父性と云われるものであり、 そこから、自然発生的に生まれたものが、近代的自我です。 近代的自我と云うのは、 自立した個人が、自由意志で、自由に行動し、生きる事を理想とします。 個々人が、バラバラでいられると云うのは、 父性の強さが確立された社会の中で実現します。 だから、近代以降の西欧やアメリカは、それを実現したかった。 させたのですね。 その一連の流れの中で、他の観点が無い訳ですから、 気が付きようもない。 逆に、社会の一体感や融合感を重んじて、個人個人が集団に属し、 全体が一丸となって動くようにするのを、母権社会と云います。 日本の農耕的社会で育まれた人間関係等、ウェットなのです。 ですから、おさいふも、 一家の母であるその家の主婦が握っています。 ほほ。 日本、中国、ロシア等の国は、欧米と比べると、 個人を集団の中に一体化する母性が優位であると言えます。 欧米は、父権と云うだけあって、能動的です。 日本や中国、ロシアは、母権と云うだけあって、受動的です。 母性は、父性の西欧近代的自我に反します。 西欧における近代化は、 =近代的自我の確立は、 結果が、母性の抹殺と女性を抹殺する流れを作った思潮である、 と言い得るのです。 日本は、明治維新の時に、 西洋の近代化が、そこまでのものと分かっていなかったのでしょう。 ウサギを追って森に入ったが、 周りの藪を見る余裕は、なかったのでしょう。 大砲や、武器を作る技術を取り入れるだけが目的と、 物だけを欲しがる餓鬼道では、 人の道のありように高低浅深があろうなどとは、 考えが、及びもしなかったのでしょう。 福沢諭吉のように、 これからは、そろばんと読み書きだと、 その程度の理解だったはずです。 近代化のその背後に、功利主義が忍び込んでいようとは? あはは、 知る由もなかったはずです。 ましてや、ましてや、 個人の自立や、父権社会の風土を受け入れる事になろうとは、 考えだにしなかった。。 。 そう思います。 蒸気汽船や、大砲を見て、驚いて、おったまげて! それらの技術を学ばなければ、時代に乗り遅れると思った。。 そうだったはずです。 しかし、一つの思想を受け入れると云う事は、 知らぬ、存ぜぬ、と言った処で、 その頭の髪の毛のフケから、足の爪の垢まで、味わう事になるのですよ。 あはは。 これを、東洋的に運命学的に、言い換えますと、 近代化は、意識による無意識の排除であり、 『陽』による、『陰』の存在の排除です。 『陰』の排除の上に、今の社会は成り立っています。 すべての『陰』が、痛み傷つき、泣いています。 それは、女性の本体の『陰』であり、男性の『少陰』でもあります。 このゆがみの上に、近代の学問は成り立っています。 近代の学問は、すべて近代合理主義=人間の五感に基づいて 計り、測定します。 つまり、だれもが、同じように意識できるように すべてを数値化し、比較するのです。 まず、誰もが、見て聞いて解るためには、 論理性で文字にできる物、 数字に表わせる物、 重さ、長さ、濃度、%、などで計測出来る物、 いわゆる感覚で拾える物です。 それらの論理性を追求して体系的に積み上げた物=学問 =近代科学です。 この近代科学が生み出した言葉は、知識は、膨大です。 それらは、 「物」を増やす事には、貢献をしました。 人の命、生きとし生きるものの命を「物」と見る事が得意です。 これが、 いわゆる物質文明の謳歌か? 「物」で極まっている世の中です。 五感で感じた事に執着して、 それを数値化、データー化し、それが真実を表しているとする事は、 一時の現象効果に我々が囚われた事になる。 「物」は、必ず壊れます。 無常をまぬかれません。 我々は、この文明の中にいる限り、 無常の世界の住人に成り果てるのです。 私たちは、未だに無常の中で呻吟しているだけです。 命のうめき声が、泣き叫ぶ声が、聞こえて来るようです。 しかし、自然の本質は、現象の奥は、常住です。 この正しく自然を掴む事ができない意識偏重の 近代の渦の中にいる限りは、 自然の本質の外へ、自らを置く事になります。 つまり、 我々が、自ら、この自然の外へ転がり出る事です。 つまりは、自然の恩恵を受ける事ができない。 命が、正常に機能しない。 命が、命を産みだす事が、できない。 そのゆがんだ思想の濁流が、色濃く現代を染めています。 明治以降の142年間の近代化で作り上げた社会の中で、 『陰』の存在である=自然の命を産み、育てると云う 女性でしかできない その生き方の存在の価値でさえ、 値打ちがあるとか、ないとか、口を突っ込み、 本来は、数字で計ったり、比較をしたりできないものを、 さも、 物差しで測って、工場の製品の価値を評価するのと同じように、 物として見て、 比較評価しようとしている気配を 女性の多くが感じているのでしょう。 いや、男性とて同じことです。 役に立つ事のみが、要求される社会。 役に立つ者のみが、評価される社会です。 つまりは、狩猟社会の中で、 大きな獲物を捕って来れる者のみが威張っていられる。 その原理です。 教育は、人を育てるのではなく、 いかに威張れるようになれるかと云う技術を身に付ける場に 堕ちています。 この社会の中で、 すべての場で、すべての人は病み、自己存在が分らなくなっています。 その中から、 知識欲のある、人よりも目先の利く親は、 いち早く、男性と同じ価値観の上で生きる事が、娘の幸せだと思って、 そう、人よりも先手を打っておこうと、 男女平等だから、 貴女は、男に負けないような女になってほしい、とか そう育てる事が、正しい人間の生き方のように錯覚をしています。 時の先取りをしたつもりでも、、、、、 勝ったと思い込んでいる場合じゃないのですよ。 それだって、結局は、 近代合理主義の作った同じ土俵の中でしかなく、 迷いの中、にしか過ぎません。 もっと悲惨なのは、女自らが、経済学のドグマに嵌まり、 『陰』を捨て、男と同じになる目的で『陽』の世界へ入る事です。 結婚をしようとしない。 子供を儲ける事が、人生の効率にとってどうだとか... また、子供がほしくてもできない。 これは、男女共に言える事です。 えっ! えー、 そこまで? それはそうでしょう? われわれの体こそ、自然の営みであり、無意識の本体なのですから、、、 心は体を規定し、 体は心を変えるのです。 影響し合うと云うよりも、心と体は一体のものだからです。 頭と心が、完全に近代化をしているのに、 体だけが、自然のままだなんて? そんな勝手は通らないのですよ。 これが運命学で云う女系化、絶家の原因のひとつなのです。 これをみなさまへ、ご理解いただきたくて、 このブログを書いている次第です。 キャリアウーマンだとか、 女性の社会進出の成功者だとか、なんとか、かんとか、 時代にアンテナを張って、センスがいいのを誇るつもりで、 その大きな混濁した流れを泳ぎ切って、 先頭集団で泳いでいるつもりでも、 すべては、意識のるつぼの中、無意識の自分を見失っているのです。 時代の勝利者どころか、 近代合理主義の奴隷に過ぎない事に気が付かれますように。 時が、もてはやすもの、 それは、必ずしも正ではない場合が多い事を、お忘れなく。 それを、また、国を挙げて政策にするなんて、 まったくの狂気です! 浅はかな政治家は、目の前しか見ていない。 『陽』の大過を促進する政策で、国に『陰徳』が無くなっているから、 『陰』が表出する事ができないのです。 現代の闇は、深いですね。。 でも、大丈夫 ! 空には、太陽がありますもの。 月もあります。 天は、宇宙は、変わっておりません。 ほほ。 まだまだ、望みはあります。 西洋の押せ押せには、負けられません。 父権社会の押せ押せには、母権社会の東洋がお返しをしたい。 それが、順番と云うものでしょう? あはは。 『陰』の本体は、宇宙にあります。 ほっ。 『陽』は、地球上の人間の意識にあるだけです。 ほっ。 東洋の真実は、意識では捉えられないのです。 目で見えないから、広まるには困難なのですが、 「物」ではないから、手でも捉えられない。 都合のいい事に、 西洋に捕って奪われる事もありませんね。 ほほっ。 すべては、ひみつ。 大事なものは皆、そうです。 次回は、 女性の生き方 ・ 『陰』について ② 木根道・きのねみち の記事を予定しています。 おたのしみになさってください。 よき一週間をおすごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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04/15 23:00 |
《近代化の影 6.》 ー 永遠の生命観の欠如 ① ー / 米国の研究からCategory : 運命学と近代化
![]() 薄紫のカタクリの花 今日は、今年初めての《 近代化の影 7.》の記事です。 今年の年頭に、1月23日の記事で、 昨年から、メールや拍手でいただいたコメントへ、 未だにお返事をしていないものが多くあると書きました。 今年の6月位までは、そのお返事の記事にしたいと思っている とも、書きました。 でも、もう4月の半ば? あは。 大丈夫なのかな? と思いつつ...。 実は、一年以上も抱えているのもあるのですよ。 ほっ。 投稿者の方には、気長にお待ちいただいている? もう、お忘れではないかと? あはは。 さっさと、進められないのは、 その理由の一つには、私のブログの立ち位置が東洋だからです。 きわめてこれは特殊だと、自覚しております。 ほほ。 東洋のアジアの日本に居て、東洋的なる事が、特殊とは? はは。 この事を、皆様にも思いを馳せてみてください! 東洋的である。 その事が、特殊であると認識をするーーー 今の日本の、不可思議なる現実です...。 そこまで、私達の足元が無くなっている。 どうしても、ブログの中の主張の軸足が、 今の社会の一般的な価値観=西洋合理主義による近代化以降の 考え方と本質的に違います、、、。 これは、やっかいな事なのですよ。 あは。 同じであるならば、お返事は簡単なのですが、、、 今の社会のゴミのような雑多な意識のホコリを押し分けて、 東洋の地面が出るまで掘り下げねばなりません。 しかも、そのゴミだと認識する概念に、多くの日本人はすがっている!! 心地いいものを感じたくて五感でさすらっているのですね!! 心地よくならない対象は間違いだって云う認識すらあるでしょう。 もっと、この傾向は強まって行くでしょうね。 現代は、すなおに率直に、東洋を語る事すらむずかしい? 書きにくい状況が出来上がっています。 母国の伝統である思想が、分かり難くて伝わらないのです。 これは、根本が失われている異常な状況です。 その中で、 東洋の思想体系を復権したいなんて! 思っているものですから、、、 それで、東洋的な香りのするお返事にしたいので、下ごしらえをします。 記事の下ごしらえとは、 東洋的考え方を分かりやすくする為に、 西洋的意識が作り上げた数々のロジック、 二元論だの、合理主義だの、意識の作為した雑多なロジック、 功利主義だの、物質文明だの、の、 現代で当たり前になっている西洋製の人工物のボロをあばく事です。 今は、こう云う雑多なゴミを整理しないと『自然』が出て来ません。 もう、だいぶ壊しましたので、楽になりました! あはは。 今の世で、 私たちが常識だと受け入れている西洋製の理屈を根底から疑い、 西洋思想の意識が造った人工物の矛盾点や浅はかさを暴露して、 ある時は否定し、くつがえす事をやった上で、 これが、東洋の叡智だ! と、 お返事をさせていただきたいと思っています。 近代化で、言論の自由は保障されていますので助かります。 このFC2ブログは、アメリカの会社なのですよ! あっはあ。 この自由に! 乾杯! FC2へ幸あれですね。 では本記事へ、NHKテレビの耳触りな情報からです。 先日、4月13日金曜日の夜7時半、NHKの特報首都圏で 「終活」と題して、人生のエンディングノートなどを取り上げていました。 首都圏にお住まいでない方は、ご覧になっていないかしら? 個人主義化した社会の弊害としての個々バラバラになった生の実態と、 それを補ういろいろな試みを紹介して最後まとめるのかと思いきや! 最後の結論のとんでもないまとめ方に呆れてしまいました。。 最後に大学教授がした話、 「これからは血縁ではなくて、墓友のような他人のつながりへ、、、」 これからは、自分の死後、その葬送すら当てにできるのは血縁ではない、 共同墓を買った者同士のつながりだと、はっきり述べていた事です。 ハカトモ? 耳を疑いました。 いつ、そんな言葉ができたの? 本来、親の追善供養は、血縁者、特に子が為すもの。 これこそが、『孝』の徳性としての行いではないですか? 血縁を頼ろうとする人が、現実は少なくなっている。 その原因は、_______ではないだろうか? と、 ______を追求するのが、学問の役割ではありませんか? 大学教授からして、この現実をこのように問題提起できないのですね。 『孝』の頽廃が、ここまで来ているのかと呆れました! ここで、気持ち悪いと感じた疑問点は、 今の日本のマスコミや知識者は、見事なまでに西洋二元論に染まって 自国の伝統だったかのように使いこなしているのはいいのですが、 墓友を主張するには、血縁を否定するしか方法を知らないのかしら? 血縁も大事だけど墓友と云うつながりが出て来た。と云うように、 基本の上の+1(プラスワン)思考ができないものなの? その上、 どっちが本質なのかを、無視したまま、 『孝』の徳性の結び付きである親子の血縁と、 共同墓の便宜上のつながりを並列させるのですね! 人類が営々と築き上げて来たのは、どっち? 基本はどちらなのか? が、抜け落ちたままの流れでした。 60代と思われる嫁いだ一人娘を前にした80代の老いた母親へ NHKのインタビュアーがした質問は、 どっちが便利? どっちが煩わしくない? 老母は、笑いながらハカトモの方だって答えていました。 ?―――― 登場された母娘さまへは、申し訳ないのですが、 一人娘と云うのは、絶家の基本パターンです。 確かに、絶家と観る運命学からは、 親の最後の形が、こうなる。と云うのは分かっています。 これは、そうなってはいけないパターンなのです。 それが、増えて行っている.....。 絶家の現実の増加が、こう云う葬送の風俗を生んでいるのです。 根本の原因は、そこにあります。 が、この国のマスコミも学者も、それが説明ができないのですね! そして、やっぱり、経済で解決をするのです! 『陽』が、『陰』を排除しています―――― この国では、野辺送りのマニュアルまで企業が進化発展させて、 それをマスコミが協力して社会化をすすめ、優位に強要をするから、 『陽』の効率の物差しを当てた答えが良い答えなのですね! これじゃ三位一体で国民を食い物にしている構図ではありませんか? だれも国民のしあわせを守ろうとは思っていないと云う事ですか? 老母は、老娘に『孝』は必要ないと拒絶しているのと同じです。 それを、マスコミと企業と社会が後押しをするのですね! あきれる構図です。 社会貢献と云う企業理念は内実が、空っぽなんだ!。 これで、我が国の子孫が続くと? 国が栄えるとでも? 恐ろしい事です。 鳥肌が立ってふるえました!! 『陰』は、ブッ飛んでいます――――☆*! (千の風になってぶっ飛んでいったのでしょうか?) あはは。 本質を抜いて、魂を抜き去って、すべてを平等に並べて! 味噌も糞(くそ)も一緒に混ぜて、 そして、決して比べてはいけないものを同列に並べて、 効率を比較して、便利さには変えられない! と、いとも簡単に!!! 時代に都合のいい、楽に迎合した、本質を無視した理論を作り上げる。 それが、常識になる。= 『陽』のうそ。 もう!迷いの中から迷いの中へ、転がり落ちて行っている、、、 この国は、おわってる――――――――――― そう、この国の底は、もう抜けているのかも知れませんよ。 どうしてこう云う風になるのかと云うと、 無意識を排除して、五感の中だけでシャッフルするからです。 小賢しい『陽』の知識が、普遍な『陰』の智恵を駆逐している。 これが、日本の近代化以降の特徴です。 言わずもがな、時代の波間に浮きつ沈みつ、隠れながら出て来る、 相変わらずの女系宮家、女系天皇の議論もそうです。 目の前にあるものだけで全てと判断をして行く意識の愚かさです。 自分の五感で見た聞いた事を基準に対象物を見ていくからです。 それでは、すべての認識が間違って来ます。 つまりは、盤石な基軸を持っていない民族の憐れさなのです。 ★ ここで、ひとつの米国の研究を紹介します。 ミシガン大学のHannah Faye Chua氏らは、 米国人と中国人に同じ写真を見せて眼の動きを観察し、 背景と対象物に対する視線の向け方が異なることを見出した。 これは、認識(判断と記憶)処理における文化的な差が、 最初の段階である目視パターンの差に由来している事を示唆する。 米科学アカデミー紀要(PNAS)誌電子版に2005年8月22日に報告。 西洋人と東洋人では映像の見方や記憶の仕方が異なる。 異なる文化を背景に持つ人は異なる認識の仕方をしている、 文化的に異なる人々は、たとえ環境を共有していても、目の前の現象の 異なる面を見、異なる方法で記憶している可能性がある。 本論文の原題は「Cultural variation in eye movements during scene perception」(大西淳子、医学ジャーナリストによる) 詳しくは、日経メディカルオンラインへどうぞ。 おそらくそうでしょう。 西洋は、現世を注視する時空観でしょうね。 現世の前後を考えていませんね。死んで天国へ行けば、それで終わり。 このキリスト教の上澄みの濁流を飲んで、死者は天国から見守っている、 と、日本の普通の大人たちは云うようになりました。 本当に、信仰から言っているのならばそれなりなのですが、 お葬式は、仏式で行いながら、 この支離滅裂さ。 あは。 仏法の経典には、どこにも天国と云う言葉はありませんよ。 魔の住む天界、と云う言葉はあります。 おそらく哲学的には、天国と天界はタイの場所でしょうね。 天界は、仏界よりも4番目に低いランクに位置しています。 笑うしかない迷いの中の私たち。 そう云えば、一時、流行りましたね。 ”千の風に乗って~~” ”私は、お墓にいません。” あはっは。 はかない歌詞だな、と思い、聴く事ができなかったわ。(墓無い?) とどまる足元の大地を失う、不安定さです。 東洋の叡智、永遠の生命観の欠如の序章の始まりと云う印象でした。 それが、もう、ひたひたと忍び寄って来ているのですね。 もともと、東洋は、現世の前と後を注視する時空観です。 前世、現世、来世、とつながって行く時空です。 我が子、その子、そのまた子、が生きる時空こそが、来世です。 自己の存在を、 現世だけの、自分だけの欲の為だけでなく、 自己の全存在から発する永劫の未来への営みの出発点であると云う 存在観を教えてくれる東洋の叡智の方が、心惹かれるのですが、 いかがでしょうか? わざわざ、不慣れな、 狭い時空観の西洋的観念の中へ入る事もないのです。 東洋には、『久遠』と云う実在があります。 (あえて、言葉とは書きません。) のびのびとした久遠の昔から、永遠の未来に至るまで、 東洋は、広く広大な宇宙そのものです。 東洋人が、西洋人の上辺だけの真似をしていいものだろうか? それで、東洋人として受け継いだ真価が、活かされるのだろうか? 真似をする事で、民族として、幸せになれるのだろうか? 民族とは、とりもなおさず、あなたの家族、子孫の事なのですよ! 永遠なら、為すべき事が変わって来ますね? 永遠でないなら、しなくていい事もあるじゃないですか? 永遠を失う事は、未来を失う事、 未来を信じない処に、子供は生まれたくないでしょうね。 日本の少子化は、そんな処に原因があるはずです。 ちょっと、今日の記事は難しかったかも知れません。 ――永遠の生命観の欠如 ②―― は、 いつか、また、次回の《近代化の影 7.》へ続きます。 ながい記事を、最後までお読みいただいた事に、 感謝申し上げます。 今日の記事が、わが身を西洋文明の時空の切れっぱしにはさまれて、 身動きが取れないようにならない為に、 あはは。 少しでもあなたと、あなたの子孫を守る術(すべ)になれば、 幸甚でございます。 よき、一週間をお過ごしください! -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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09/15 18:09 |
〔 近代化の奈落 1.〕 画一性 ・ みーんなおなじ コメントへのお返事Category : 運命学と近代化
富士吉田登山道 8合目付近の岩場 (標高3040m)
![]() 写真をクリックください。私のすぐ後ろに登山者が続いています。 中央右寄りの下界の白い所は、河口湖です。 登山道の鎖は、掴まっては歩きません。 いつ抜けるか分からないので危険なのです。 黙々と、富士山の頂上を目指して溶岩の固まった岩場を登っていると、 時々歩みが止まります。 先の方が、一人しか進んでいけない狭い岩場にさしかかって、 前の一人が登りきるまで後続全員が立ち止まって待つからですが、 そうすると長い登山者の渋滞ができます。 その時、手早く携帯を出して写真を撮る! 登山列が前に動き出さないうちにです。 あはは。 渋滞で写真を撮ろうと振り返ると、 空には、毎回違った雲の景色が広がっていました。 早朝、山小屋を出発した頃は、濃霧がかかっていたので、雨 ? 雨具をザックの上に出しておいたのですが、 瞬く間に、まっ青な空に変わり、 次の渋滞の時には、入道雲が背後に広がっていたり、 この『天』の気の素早さは、豹変、疾い、と云うスピード感だと、、、 たとえば、風林火山の 「疾如風」 疾(はや)きこと風の如く、の疾(はや)とか、 又は、『易経』革卦 の 「君子豹変」 君子は豹変し の豹変を、 富士登山中も思い出すなんて、我ながら東洋的だと! あはは。 「君子豹変、小人革面」 君子は豹変し、小人は面を革む くんしはひょうへんし、しょうじんはおもてをあらたむ 出典は易経の革の卦で、時局が行き詰った時の革新の方法。 君子(行いが正しくて徳のある人)が過ちを改めて善に移るのは、 豹の毛が、夏や秋頃になると一新されるように突如としてすばやい。 小人は、君子豹変に従って感化され、自然と面を革(あらた)める。 時期の宜(よろしき)を得て果決断行することの重要性。 『天』自然は、一時も休んでいない。 刻々とエネルギーの循環を全(まっと)うしているのですね。 現実生成に没頭して、徹頭徹尾、生き生きとしている。 ところで、富士登山の消費カロリーは、いくら位だと思われますか ? ザック等、装備品重量を含んで、全重量が70kgとすると、 7677kcal なのだそうです。 ちなみに、フルマラソンの消費カロリーは、約2400kcal だとか、、、 今日の記事は、 〔 近代化の奈落 1.〕 画一性 みーんなおなじ いただいたコメントへのお返事の記事になります。 今までの 《 近代化の影 》シリーズが終わった訳ではありません。 《 近代化の影 》は、どちらかと云うと、 西洋的思想に駆逐された東洋の復権、いわゆる思想的な記事です。 今回から始まる〔 近代化の奈落 〕シリーズは、 もっと身近な、我々の生活や心が近代化によって陥った落とし穴 = 奈落、 その具体的な現代の問題を書いていきたいと思っています。 奈落? 地獄ってことでしょう? そうですよ! 今、我々は奈落の何丁目にいるのでしょうか? 地獄と思えば、ここから何としても這い出さなければいけません。 でも、天国と思えば、このままでいいと思うでしょう。 あはは。 ほら、これだけ意識の知覚(認識)は違って来る訳です。 あなたは、どちらだと思うのでしょうか? 前回の記事で すべてを画一化する、 これが意識の害悪です。 と云うよりも、意識は画一的にしか対象を掴めないのですね。 それに反して、無意識の領域から見る我々は、 ひとりひとりが、違う。 まったく違う立場と役割を持って生まれて来ているのが 運命学からは見える。 無意識では、人間は皆違います。 真実、人間は固有の命を帯びています。 と書きました。 それにいただいた拍手コメントを紹介します。 >人間は固有の命を帯びています。 「こりゃ、違和感あるなあ」 などということをしようとしても ぎくしゃくして全くうまくいかないのも こんなところから来ているんでしょうねえ。 なるほど、「こりゃ、違和感あるなあ」ですか、、、 あはは。 無意識の閃(ひらめ)きが我を襲う、 それを違和感と感じるって事なのかしら? 本来の自然な「自分」だと思っている自我意識があって、 これが、天台の九識の第六識なのでしょうが、 五感の感覚器官に囚われている自分を見張っているのですね。 第六識は、五感で得た認識を内面的に捉え直す思考、感情などの働き。 夢を見たり、過去や未来を想像するなど。 第五識までの働きとは関係なく自立的な作用も含む。 2011年10月23日の記事、 無意識の不思議 7 天台の『九識』/無意識の普遍性 (因果応報) より その第六識の自我に断わりもなく、 第五識の「偽りそうになる自分」がいる。 第六識が、五感に振り回されている第五識・いわゆる意識を突っついて 〝 おいおいそれはおかしいだろう?” と教える。 あはは。 それで、意識が気が付いて、ぎくしゃくするのですね。 「偽りそうになる自分」とは、 五感の感受性のままに 周囲の環境に支配されそうな自分です。 変化をして止まない現象世界『陽』に振り回される自分。 つまり、我々の環境とは、『時』と共に移ろう現象世界です。 その 環境の刺激の『縁』に支配されて、 いつのまにか自然な自分を見失ってしまう。 『陽』の現象世界の中に、 五感に拠る意識の画一的な世界の中に、埋もれて行くのです。 そこは、みーんなが同じ世界です。 みーんなが、物として扱われる、確かに平等な世界です。 みーんなが、平等だから安心みたいですが、 上位の意識が、下位の意識をあやつる欲望の熾烈な競争世界であり、 意識が作る見えない格差が絶えず生まれる世界なのです。 画一性なのに、格差が生まれる? そう、画一的だからこそ、格差をつける必要があるのね! 我こそ勝った!と自己満足したい意識があるからです。 そこは、偽善で作った皆が平等と云う地獄でもあります。 このコメントのように、 ぎくしゃく と感じる事ができると云うのは、 その『縁』に接して自分を見失うどころか、 自己確認をしてしまうのですね! この感受性は、すごいですね。 この前提には、 自然な「自分」の状態が、常態化していないとダメだわ。 ぐっと難しく言うと、 第六識より深い無意識に根を下ろした「自分」の存在がないとダメですね。 それを不断に保つ自我意識の強靭さ。 ある時は、環境に支配されてしまう『縁』を、 自分の本来じゃない姿に染めようとする『縁』を、 自分を取り巻く環境から、自分に合わないとして拒否し、 捨て去る勇気と知恵があるって云う事です。 少なくとも、自己欺瞞の状態 = 酔っ払い状態、 では無理と云うものです。 あはは。 酔っ払いは、酔っているのに、おれは酔っていない! と言うでしょう? あれです。 あはは。 = 五感の刺激に振り回されて、 自然なありのままの自分を、「偽ってしまった自分」がいる。 「偽ってしまった自分」が、自然なありのままの自分をウソまでついて隠す。 何の為に ? 隠すの? あはは。 勝ち組の中で皆と同じだと思いたいから。 思いたいから? ウソでも思いたいから..... それか、一人が恐いから!?! あはは。 この状態を、自己欺瞞の状態と言います。 逃げているのね。 真実から逃げている。 真実から逃げて、 酔っぱらった自己欺瞞状態を、一度「健全」だと思い込んだら その上に、もっとウソを重ねて重ねて行くしかない訳です。 -――――― これを、不幸とも、言います。 この不幸の中にいると、無意識とは断絶します。 つまり、 自己欺瞞状態では無意識からの閃きは無いと云う事ですね。 -――― つまり、しあわせにはなれない。 しあわせとは、『陽』の世界の有名やお金持ちや贅沢の追及ではない。 自己欺瞞を排して、ありのままの自然な自分の状態で安定する事です。 しあわせは、『陰』で決まります。 汲めども尽きない『陰徳』が、本人になければ、 どうか、家系に『陰徳』の井戸が掘られていますように、 井戸は、嫁が、母が、祖母が、女が掘るのですよ! それが、女の役割と云うものです。 正しい事が、目先、必ずしも勝つとは限らない『陽』の世界で、 仁義なき? あはは。 現象を追いかけて生存競争をするのが、男性の役割です。 このお互いの役割の分担こそが、画一性を抜け出す一歩です。 ほほっ。 平等もそう、自由もそう、民主主義もそう、 皆、幻想なのに、 私達は、おとぎ話を信じて、ここまで来たのですね! あはは。 軍国思想にだまされ、今度は近代合理主義にだまされですか? 西洋思想は、頭の中で、本の中で作られただけのものです。 『陽』である西洋思想の意識が仮設した民主主義ロジックを成熟? させると、 みーんなが、画一性の中で横一列に並びます。 国民目線の御前では、専門家の見識も、国民の批判にさらされます。 玄人を引きずり降ろして、素人と並べ、 尊き貴さを引きずりおろして、卑しさに並べるが如くです。 玄人と素人の境、 尊き貴さと卑しき我々の境が、 物事の境目が、限りなく分からなくなって行くのが、 これが、成熟した民主主義の姿なんだって ? 御存知でしたか ? あはは。 尊敬語や謙譲語も、どこかに消えてなくなって、、、 身内や自分の事を言う時に使う言葉だったの ? あはは。 いいんですよね! みーんな同じだって学校で言っていたし、 えらそうな人だって、大した事ないって! 大人はずるい人ばかり、 うちも、お父さんより、母親の方が威張っているし、 尊敬に値する人って世の中にいるのですか? 尊敬語ってどう云う時、使うのですか ? あは――。 人権としたらみーんなが同じ権利。 選挙も一票づつでしょう。 国民目線、おおいに結構な事ですが、 これは、気楽な批判者、傍観者としての立場をかこつ事もできます。 最後、責任を取るのは、されど、専門家、玄人なのです。 その事を、尊敬しなくてもいいのかなあ? 無責任に国民が、批判する事ができるようになるのが、 それが、民主主義だったのだろうか? ★ なお、もっと悲惨な結果になるであろうと思うのは、 無意識を否定した近代合理主義の 意識のロジックの中には、 『時』と「地政学的な要素」= 「国土」の役割が入っていない事です。 西洋の哲学は、頭の中で作っているから、皆そうです。 客観世界、「国土」の役割を明かしていません。 キリスト教は、『時』を重要に説いていません。 『時』の概念が抜けているのは、何度も指摘しています。 『時』を重大に扱うのは、易経をはじめ、東洋の思想の方です。 五感から生まれた意識は、 五感の過去の経験が集積した現在しか捉えられないから、 それは、無理もないのですが、思想の欠点そのものです。 それが、そのまま我々の現在における苦となって具現している 現状は困ったものなのです。 一生懸命生きても、どこか苦しくなるのね。 意識の偏波さ、偏狭さからです。 意識は、自分の感覚器官の情報を拠り所にするだけあって、 厳密な意味での客観性がない。 ゆえに、客観世界の「国土」の役割など解ろうはずもないのです。 まったく、理性そのものが、一人間の感覚器官に拠っている訳ですから、 純粋理性などはないと。 感覚と前頭葉の空間の中だけにある意識は、 地政学的な要素をロジックに取り入れる事すら感じなかった! あー、なんと単純な、ロジックの中で現代人は生きているのか? 呆れるばかりです。 そう云う世界観を取り入れたのが近代化だった! あっはあ。 そうでしょう? 沖縄や、地方が問題になっていますが、 おなじ国民として、その人間の権利を主張するのは論理的にはいい。 しかし、「国土」、どの地域も全部を同じように扱うのが平等ですか? アメリカも、アフリカも、アジアも、どの地域も同じなのか? 具体的な現実の世界情勢の中で、 どこも、同じようになろうとしたらどうなるのか ? 沖縄と北海道は、同じに扱われる正当性は、どれくらいか ? 国の特殊性、沖縄の特殊性、地方の個性、地政学的特徴があるはずです。 それらを無視して、無いものとして、 東アジア情勢や、世界の資源の争奪戦、日本の置かれている状況、 その上で、平等に扱う事が今の時に、適正なのかどうか? これは、今までのロジックでは乗り越えられないかも知れませんね。 本来の民主主義は、それぞれの立場を自覚した人間が、 そこでの自らの苦役を避けずに、愚痴も言わずに、 その役割を果たしていく事が前提であるべきでしょうね? それが、どこの地域であろうと、どこの誰の真似もせずにです。 それらは、 これからの政治が、決めなければいけない事ですが、 どう決めるのでしょう? 決められない。 みーんなが同じと主張しながら、誰も何もひき受けようとしないからです。 戦後、67年経って、振り返ってみて、 第二次世界大戦直後のアメリカによる日本占領政策は、 3R・5D・3S政策などがありました。 3R政策、3つのR、 Revenge(復讐)、アメリカへ対する復讐心を日本人から摘み取る。 Reform(改組)、日本の社会構造を組み替える。 Revive(復活)、改革したうえで独立させる。 5D政策、5つのD、 Disarmament(武装解除)、日本軍の解体。 Demilitalization(軍国主義の排除)、国家神道の解体。戦争の放棄。 Disindustrialization(工業生産力の破壊)、軍需産業工業力の解体。 Decentralization(中心勢力の解体)、財閥、内務省の解体。 Democratization(民主化)、日本の歴史的・民族的な思想や教育を排除。 3S政策、3つのS, Sex(セックス)Sport(スポーツ)Screen(スクリーン)産業を流行らせる事で、 日本国民の大衆の関心を政治に向けさせない為の愚民政策のひとつ。 SEXは、性風俗の奨励、自由恋愛の奨励、見合いを止めさせ恋愛をさせる。 SPORTSは、神道の武道を止めさせ野球などのスポーツを流行らせる。 SCREENは、映画、テレビ、音楽の娯楽を奨励し、安楽を与える。 ああ、この時から、すでに画一性の網は、張られていたのですね! この占領政策は、アングロサクソンのアメリカ白人が、 奴隷制度から解放された黒人にした政策と全く同じだそうです。 彼らは、まず、相手を骨抜きにする為に、喜び、安楽を与えるのです。 安岡正篤先生が、 「日本を全く骨抜きにするこの3R、5D、3S政策を、 日本人はむしろ喜んで、これを受け入れ、これに応じ、これに迎合した。 あるいは、これに乗じて野心家が輩出して来た。 日教組と云うものがその代表的なものであります。 そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、 こういったものは皆、この政策から生まれた訳であります。」 『運命を創る-― 人間学講話』 1985年 プレジデント社より まさに、アメリカの手の内に嵌まって、 その結果もたらされた日本の現実、 その事に気が付かない、知らない世代も多いでしょう。 戦後民主主義の育て損ないなのか、 西洋合理主義のロジックの持つ元々の欠陥なのか? これらが、破たんをして行く様を見せつけられているようです。 何事もそう、初めは、そうとは思わなかったでしょう? 日本は、歴史や伝統を捨てるように仕向けられてきました。 そこまでの、前頭葉の中のシナプスを切ってしまったのですね。 民族としての意識の継続が為されていない。 意識は、前頭葉でシナプスがつながっていない事は、気が付かない。 あるのに無いと云う認識をするのですね。 つまり、何度も頭をぶっつけないと分からないのです。 ああは。 原発、資源、領土、、、、、、 竹島問題も、尖閣問題も、北方領土問題も、領土問題と言いますが、 領土の取り合いの前に、それぞれの国の意識の問題です。 それぞれの国の、無意識や意識の伝統の継承が勝負なのです。 いずれ正義が勝つ? 馬鹿な事を言ってはいけません。 ある意味、どちらが正義かなんて ! そう云う問答は、『陰』の領域の価値観であって、 『陽』は、それで勝負がつく世界ではありません。 『陰』を無視する『陽』の世界に、正義はありません。 『陰』のバックアップがある『陽』意識だけが正義で勝つのです。 さぁ、相手国、韓国と中国はどうなのでしょうか? 『陽』の世界の掟は、弱肉強食の原理です。 いいですか、弱肉強食です。 自然は、そうです。 草も虫も動物も、『天』に従った方が生き残り、弱者は淘汰されます。 『陰』、『天』に逆らった者は、淘汰され行くのです。 人間ですら、そうなのですから。。 。 『陰』を捨てた国が、どうなるものか... 自国の過去の歴史や伝統、神話を語る事もせずに、 陰徳を捨てて置いて戦後67年間、 自国の歴史に対してどう意識して来たのか? それを、徹底して国民の意識に、教育して来たのか? 前頭葉にシナプスをつなぐように努力をして来たのか? どう云う認識を67年の間に意識させるように歴史を教育して来たのか? その結果が、『時』を経て、現象として現れるのだから、 都合の悪い現象が出てから、過去を消す事は無理なのです。 日本は、軍事でも負けましたが、 それは、意識があまりにも劣悪だったからです。 国家神道の劣悪さを、今でも本当に反省をしていません。 朱子学で行った明治維新の反省も行っていない。 いわゆる思想的な総括が終わっていないのは、 まだ思想として国の中枢で生きているからです。 さほどに、一度、国の中枢に取り入れた思想とは恐いものです。 占領軍だって、それを完全に排除する事はできなかったのです。 -―― 日本は、自己欺瞞の臭さが立ち込めていますね。-―― 国にも、家にも、企業にも、 それぞれの歴史や伝統に基づいた意識があります。 その意識が潰えた時こそ、国も家も企業も、その存在理由を失います。 国は亡び、家は絶家になり、企業は整理されます。 跡形もなく、、、です。 個人にとって、 なぜ、家の継承、お墓の継承、いのちの継承が大事か? お分りになりますね? その背後にある無意識の継承、 表に表われる意識の継承がなければ、 それに支えられた他者との戦いでは、負けるでしょう。 負ける事はかまいません。 しかし、子孫が荊(いばら)の道へ、 困難の泥沼へ入って行く事だけは避けてやりたい。 個人の負けの集積が、国の負けにつながります。 個々の家庭が、最少単位です。 どうか、しっかりと『陰徳』をお積みになってください。 それも画一性の中で、泳いでいたら無理と云うものです。 しっかり、家庭と云うものを、家族と云うものを守ってください。 運の向上とは、そこが原点です。 自分だけの欲望の満足など、運を壊す事の方が多いでしょう。 目に見える『陽』の世界を追いかけるより、 見には見えない『陰』の徳分をしっかり積み上げてくださいね。 長い記事を最後までお読みいただきまして、 感謝申し上げます。 暑さが、まだ異様に残っております。 ご自愛のほど、よき一週間をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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10/09 15:16 |
《近代化の影 7.》 永遠の生命観の欠如 ② 現代の幼稚な時空観Category : 運命学と近代化
薄暗い照明の中で、携帯カメラをかざす人、何をする人ぞ? ![]() 10月2日、家系鑑定の訪問先、北九州、博多のK氏宅から東京駅に 新幹線で帰った日の夕刻の事です。 帰宅ラッシュで込み合う東京駅の構内です。 実は普通なら、そのまま駅舎の外には出ないで、 自宅方向の乗り換えへ行ってしまうのですが、 07年5月に開始された東京駅舎の5年間の復元工事が完成して、 10月1日に開業とテレビなどが、2,3日騒いでいた事もあって、 昨日の今日でしょう、 見てみよう! あはは。 心なしか、丸の内へ急ぐ人の波が出来ていました。 ![]() みなさま、やじうま? ヤジ馬根性、ここにもあり! あはは。 物珍しく新装になった駅構内を歩いて丸の内出口へ急ぎ、 出ようとした手前で、 出合った光景が、上の写真でした。 まあ! すばらしき野次馬の仲間たちよ! あはは。 わたくしも、同じく一枚! パチリ。 ![]() 撮ったら、なんだか ? ほほっ。 まあ、いいやいいや、 あはは。 レリーフには、方角を示す干支・えとや、豊臣秀吉の兜(かぶと)などの 飾りなどもあって、和を感じさせる装飾が施されているようです。 でも、葬祭セレモニーの会場の天井のような? 奇妙な? ほ。 あるかどうかも分からない天国風の無国籍空間? あはは。 振り返れば、東京駅が開業したのは、98年前の1914年(大正3年)12月。 日本が近代化をして、明治元年から46年経った時です。 駅舎の設計を担当したのは、 以前の記事で紹介をした事もある辰野金吾氏。(1854~1919) その駅舎は、1923年の関東大震災では、無傷でしたが、 終戦直前の1945年5月、米軍機の空襲でドーム屋根と3階が焼失します。 ![]() もうすでに、夜のとばりが下りた丸の内出口を外に出ると、 ほら、緑色の出口の処、 携帯カメラを天井に向けて手を挙げた人の影が、見えるでしょう? そう云えば、空襲の応急手当の工事では、3階部分が破壊されたまま、 今まで見慣れている東京駅の姿は八角形の屋根だったのですもの、 この外観では、なつかしいと云う気持ちにはなれません。 左右300mもある駅舎全体の姿を見ようとしても、 東京駅舎のすぐ傍まで迫っている超近代的な高層ビル群が邪魔をして、 もう精一杯、後ろに下がっても駅舎の端から端が、一望できない! 全体を観る展望が、都市計画の最初からないのですよ! まったく、この支離滅裂さ、 丸の内広場にも、たくさんの野次馬さんが、、、あはは。 ほ―――― っ。 東京駅開業の1914年は、第一次世界大戦の開戦の年です。 日本は、これからが正念場。 国内的には、経済の為には脱原発なんて非現実的と云う論調に加え、 対外的には、何よりも安保の同盟国のリーダーアメリカから、 脱原発をしないように止められた事は、あらたな事態です。 ここ100年単位の 日本の勢いや先に進んだ事などは、 永遠と云う時から見れば、実に取るに足らない事です。 今日の記事は、《近代化の影 7.》 永遠の生命観の欠如 ② 前回2012年 4月 15日の 《近代化の影 6.》 永遠の生命観の欠如 ① / 米国の研究から はや、半年が経ってしまいました! この続きの記事になります。 もう、お忘れでしょうが、その記事の中で次のように書きました。 東洋的である。 その事が、日本においては特殊であると認識をするーーー 今の日本の、不可思議なる現実です...。 そこまで、私達の足元が無くなっている。 どうしても、ブログの中の主張の軸足が、 今の社会の一般的な価値観=西洋合理主義による近代化以降の 考え方と本質的に違います、、、。 これは、やっかいな事なのですよ。 あは。 今の社会のゴミのような雑多な意識のホコリを押し分けて、 東洋の地面が出るまで掘り下げねばなりません。 しかも、 そのゴミだと認識する概念に、多くの日本人はすがっている!! 心地いいものを感じたくて五感でさすらっているのですね!! 心地よくない対象は間違いだって云う認識すらあるでしょう。 心地よい快感が得られる現象を求める、追いかける。 あらゆる『陽』の全盛です。 ツイッターやネット上は、今も、今、今、今の意識が溢れています。 これだけの意識に囲まれながら、 永遠が取り出せない、 ない。 もっと、この傾向は強まって行くでしょうね。 目の前の苦を避け、不便を厭い、イヤな事を遺棄する。 そして、楽だけで、この世を過ごしたいと思っているみたい。 まさに、観念の中にしかない天国の追及です。 前頭葉の中、意識が楽だと認識をする天国の追及です。 なぜなら、西洋文明には、無常観はありません。 この世を無常だと認識する客観的立ち位置(常住観)がない。 キリスト教哲学には、完全な永遠と云う時観がないのです。 日本人も、こう云うタイプの人間が増えて来ましたね。 刹那、刹那に、五感の楽を味わって、無常観などどこ吹く風です。 快感が正義で、傷つける事や差別が悪になっていますね。 本当の正義が分からなくなっています。 永遠の時 = 常住(じょうじゅう)から見れば、 『陽』すなわちこの世、現象界は、必ず壊れ、無常をさらします。 それはすなわち、 この世『陽』がもたらす「楽」の裏には「苦」が張り付いていると云う事です。 現象の本質は、多様性です。 その多様性には、苦楽共が含まれます。 苦の後ろが楽、苦の無い楽などあり得ないのです。 その事が西洋文明であるキリスト教哲学には説かれていない。 苦は、試練としては説かれていますね。 キリスト教史学者であるバード・アーマンは、 その著書『破綻した神キリスト』(柏書房 松田和也訳)において、 原題 「God's Problem--How the Bible fails to answer our most important question=why we suffer」 現代人に納得ゆくようには、聖書はこの苦の問題に答え切れていない。 と言っています。 なぜ、キリスト教は、苦の問題に答えきれないのか? 永遠の完全な『時』が提示されていないからです。 『苦』の真の解決は、永遠の『時』があってこそ可能なのです。 『時』も『苦』も半端な哲学が、現代文明の特徴です。 我々日本人は、東洋でありながら、 東洋の叡智である常住観(永遠の時)の立場を捨てて、 永遠の時からしか眺められない無常観の景色も知らない西洋の キリスト教的教理の時空観の中へ捕えられているのですよ! おわかりですか? 要は、キリスト教の方には申し訳ないのですが、 東洋の叡智、仏教の方が時空観においては、数段優れている。 問題にならない位、話にならない位に勝れているのです。 と、云うことは、 我々は、大学の数学を捨てて小学生の算数の世界へ落ちた! あはは。 例えて言えば、そう云う事なのです。 そもそもが、わが国が近代化をしようとした時、 取り入れる西洋的思想が、 どう云う死生観をもつ思想なのか? 人間と自然をどう、枠に入れる思想なのか? それすら確かめもしないで、いそいそと西洋化した我が国。 我が国の、政治家と知識人の愚かさです。 今までの記事で、 私達の住まう時空観は、 キリスト教哲学を根底にする近代合理主義の下だと、 我々は、西洋的自然観の中に在る。と書いてきました。 西洋では、人間や自然は神が創ったモノ。 近代合理主義を受け入れた日本においても、 我々は、東洋的自然観を失い、好むと好まざるとに係らず、 このキリスト教宇宙観の『空間』の中に生きています。 『時』も、そうです。 現、キリスト教文明の申し子である近代合理主義の『時』は、 意識が捉えられる範囲の『時』です。 過去の思い出から現在に至るだけの『時』ですね。 つまり記憶力と想像力のタマモノが、西洋の観念的な『時』です。 なぜなら、未来は目の前にない。 現象化していないものは、 我々の五感で、意識では捉えられませんから、 未来への想像力、実感が湧いて来ないのですね。 その証拠は、今の現代の地球的行き詰りを見れば分かるはずです。 近代化以降のキリスト教時空観、 近代合理主義の政治や経済や学問で、この世を大系化し、 それを生きる事によって 我々は、どう云う世界を現出してしまったのか? 地球を席巻するキリスト教西洋文明の影響により、 自然を、人間とはかけ離れた存在、コントロールする対象にしました。 意識が作り上げたあらゆる『陽』の成果を以って、 自然をコントロールする機械文明を最優先するという立場です。 ある意味、道具を開発した人類の延長上です。 その結果が、 生産力の増強、所得水準の向上、 『陽』の現象のみを追求するようになって来ました。 成長と云えば、何かが多くなって増える事ばかりなのですね、 これが、増え続けるとどうなるのかと云う苦を受け入れる素地がない。 意識は、解決できないモノを無視する癖がありました! イヤなモノは見ないのです。 これが、福島の原発事故の本当の原因でした。 ・原爆や水爆を、どこかの国が使用すると地球はどうなるのか? ・このままCO2を出し続ければ、地球がどうなって行くのか? ・先進国が当たり前に使っているトイレットペーパーを、 中国やアフリカや未開な奥地の部族までが使いだすと、 紙を作るパルプの為に地球上の森は、何年で無くなるのか? 実は、この事を中国人の知人に言った事があるのです。 あなたの国の13億の人が皆、トイレットペーパーを使うようになると、 地球は砂漠になるけど、これはどうしたらいいだろうか?って。 そうしたら、人種差別でしょう? って、 あはは。 ・インターネットの発達のお陰で、世界中の人が皆、東京やニューヨークの 生活を知って憧れて、同じようにすると地球上の水はどうなるのか? これは、人種差別ではありませんよ。 皆がそうなりたいと思う事が、 夢や欲望を実現させる努力が、 地球自体を、非常に危険な状態に陥れる事に直結するのです。 と云うか、人類が総絶滅の危機に陥ってしまう。 西洋流の経済発展が成功だなんて!??? もう、止めるべきです。 ―――――― こんな事やっていて、 伝統を残しながら部分的に近代化をしていくブータンの方が、 やっぱり1000年先まで生き残るのではないだろうか? ―――――― これは、すなわちキリスト教理の偏り、癖、未熟な哲学が生んだ 苦を直視しない意識文明。 西洋機械文明、物質文明の限界点なのです。 東洋には、「中庸」と云う、 自然と調和する為に、人間の欲望を後ろへ引く平衡感覚があります。 そして、その平衡感覚こそが = 道徳です。 これが、これからの生活レベルの道徳ではないか? 実は、この道徳と云うその奥に、ふたつの扉があるのね。 ひとつは、”因果応報”の扉。 もうひとつは、”永遠のいのち”の扉なのです。 この二つは、『時空』にわたる永遠性の別名です。 このふたつの扉の後ろには、またひとつの扉があります。 それには、今、触れる余裕はありませんので、省きます。 『時空』にわたる永遠性の別名、”因果応報”と”永遠のいのち” この、もともとの東洋的な叡智を失念、捨て去って来た事が、 現代文明の病につながっているのですよ。 また、詳しくは、機会を見て、、、ほほっ。 最後まで長い記事をお読みいただいて、感謝でございます。 よき一週間をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2013
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〔近代化の奈落 2.〕 近代的自我が落ちた穴 --------- 感覚礼讃Category : 運命学と近代化
![]() 最近は一年中、苺が食べられるようになりましたね。 苺が、本当は何時が旬な果物なのか ? 分らなくなっています。 こう云う形でも、我々は自然を失って行っています。 いつでも食べたい時に食べられるように便利にする、、、 本当に、私たちの為を思っているのかどうか?さえ疑わしい、、、 なんともお節介な!時代に生きています。 これが止まらない経済、商業性の追及です。 I can't stop it ! ですね ―――――― あはは。 これこそが、 感覚器官・意識を満足させる欲望を中心に据えた世界観です。 感覚・意識を中心に据えた合理主義下の世界観が実現された姿です。 実体は、飽くなき欲望の満足です。 それとは反対に、 苺の旬を過ぎれば、苺の盛りの名残りを惜しみ、 一年後の苺の旬を心待ちにする。 欲望を抑えて、『時』に調和をする。 これが、『天』・自然を中心に据える世界観です。 結果は、『陰』・自然に調和する中庸の生き方に通じます。 どちらの世界観がいいの ? このお答えになる鍵コメントを、11月 7日にいただいておりました! 11月 4日の記事 いのち(自然と健康)を脅かすもの 6 牛乳 (癌とオスのメス化) へいただいたものです。 一部ですが、公開をしてご紹介をします。 ご了承くださいね! >2003~2004年のたった2年間の情報量が、 >人間が歴史上作り出して来た文書の情報量を超えてしまった、、、 、、、とか。 情報が溢れかえっていることにも嫌悪感のような違和感のような感じを 持っています。 実際には、ネットで助けられたこともあるし、cosmosさんとの出会いも ネット上ですから、完全否定するつもりはないのですが、 どう考えても行き過ぎの様な気がしています。 一番恐ろしいのは、 この流れは人間の手では止められないだろう、と感じられることです。 資本主義も原発も同じですが、人間の手で生み出されたものなのに、 手が届かなくなってしまった。 こういうもの達は、コントロールできないところまで突っ走ってしまうのが 本当に恐ろしいです。 限界に挑戦するかのように生きて来た人間達ですが、 <出来るけどやらない。知っていても言わない。届くけど触れない。> こういうことがあって良いと思います。 引く勇気、隠す美、留まる智恵、とでもいいましょうか。 例えば、「悪」が明るみに出て来ることは悪くないと思うのですが、 全てがクリアになることが良い訳ではないと思うから。 そう書きつつ思ったのですが、 知らなくていい事がどんどん出て来る一方で、正しい情報が出て来ない。 何が悪で何が善なのか? 更にいえば、「何を明らかにし、何を隠すのか」 その線引きは誰がするのか、等...。 ・・・難しいですね。 難しいですけど、その中で「如何に」生きていくかが、 まさに命を繋いでいくことですね。 これは本当に意識(陽)の範囲では語り尽くせないことだと思います。 だから今こそ「東洋の世界」に帰らなければならないのだと思います。 ・・・・・・・・・ いつも丁寧なコメントをお送りくださってありがとうございます! 最近は、コメントに教えられています! ほほっ。 もうひとつ、前回、取り上げましたコメントをくださった方から、 そのレスポンスが届きました。 これも鍵コメントなのですが、一部、ご紹介します。 こんばんわ。 お忙しい中、小生の質問にお答え頂き大変幸甚にございます。 本当にどうもありがとうございました。 日に日に東洋哲学の物の見方が体に染み渡っていくのを 感じております。 小生の感覚ですが、要するに、 東洋哲学の中心を貫くのは「時のめぐり」なんだと思います。 それは個人の人生や国家まで、森羅万象を司る自然の摂理であり、 全ては「時のめぐり」の産物だと感じます。 同時にこれを成り立たせているのは「陰徳」に支えられた、 「調和」なんですよね... ところが、西洋哲学のように「陽」、つまり「理性」や「ロジック」 のような意識上で、分析し体系づけて世界を捉えていると、 昨今にみられるように「~主義」や「~論」、卑近な例では、 「こうすれば~が出来る!」、「人生を幸せにする~メソッド」、 「努力すれば~」や「何でもなりたい物に~」など、 ◯◯のようにしたいから × × という方法論を導入すればいい、 のような一直線的な人生観に行き着いてしまい、 東洋哲学のような「時のめぐり」、「陽徳や陰徳に支えられた調和」という 境地には辿り着かないんですよね。 社会的な地位、学歴、努力、外見や意思が、 必ずしも人を幸福に導かない訳が分かったような気がしました... 私事ではありますが、不思議なことに最近は今になって、・・・ ・・・・・・数年前では考えられない位の体の変化に驚いています。 本当にご縁と言いましょうか、「時のめぐり」とは不思議なものですね。 どうもありがとうございます。 厚かましいお願いとは承知ですが、今後とも宜しくお願い申し上げます。 ・・・・・・・・・・・ いや~! 大学生で、大したものですね! あはは。 ここまで東洋に習熟されましたか、、、 脳の能力は、若い方が良いのかも知れませんね! 先が楽しみですね。 一応、、、、、『時』で大丈夫です。 しかし、まだ奥が、その奥があります。 ほほっ。 と云うのは、『時』すらも、人間の意識が取り出した概念です。 たぶん、こうであろうと、人はこの世界を観察中だったのね、、、あはは。 その成果が『暦』だったのです。 しかし、現代人は、その『暦』すらも投げ捨てて、『時』の意味を失い、 体に開いた5つの穴 ――― 五感から入る情報に我を忘れています。 それが、意識です。 5つの穴から我欲を出してこの世界を覗いて見ているだけです。 意識に夢中になって、その寄せ集めの学問で、いくら外を覗こうと、 まだ、IPS細胞を見つけてもその応用は、、、まだ、 まだ、まだ、、、、、 肝心の『時』すら意識・西洋哲学は、解き明かせていないのですよ。 人間の意識は、まだそこまで! ただ、分らないまま『陰』・その恩恵に浴しているだけです。 『陰』への感謝も忘れてです。 あはは。 それどころか、近代合理主義は、その『陰』すら無視をして、、、 なんたる事かと!呻吟(しんぎん)をしている処です。 無意識と比べると、 意識のなんとちっぽけな事か! それを再確認して、謙虚に、生きて行かざるを得ない状態ですね。 こちらの方こそ、どうかよろしくお願いします。 --- 呻吟 = 苦しんでうめくこと。 前置きが長くなってしまいました。 いよいよ、これからが本論です。 今日の記事は、 〔近代化の奈落 2.〕 近代的自我が落ちた穴 ----- 感覚礼讃 まず、奈落、 これは、地獄の事です。 あはは。 近代化で落ちた地獄のありさまについての記事です。 ほっ。 次は、近代的自我。 日本人が、太古の昔より心の中に温存して来た我ではなく、 もう、西洋的意識が小麦粉を練ってこねくり回したような自我の事です。 その影響が、キリストに何の関係もない東洋に生まれた我々にも、 すっぽりカブセられていると云う、おそろしさ! 奇妙奇天烈感! この上なし。 押し付けられた西洋製の借り衣装です。 願いは、このピエロの様な近代的自我と云うお仕着せを脱ぎたい! 脱いで、元の、本の、素の私に戻らなければ、、、 あっはあ。 それが、本当の自我の回復であろうと信じております。 ほほっ。 前の記事に書いた事ですが、 西洋における神と人間との事件に巻き込まれて、 こんなドサクサの旅姿? になってしまったのです。 あはは。 もとはといえば全部、西洋の事情です。 我々は、狩猟民族の東洋遠征の狩で生け捕られたヒツジでしょうか? サルなのですか? もちろん我が国の内的要因もあります。 これについては、別の機会に、 ヨーロッパにおける近代化の土台になったデカルトの言葉 ” 我想う故に、我在り ” に象徴されているように それまで、 キリスト教の全知全能の神中心の世界観に対して、 誰もが自我を中心にして世界を見る事ができなかった時代に、 (私・自我)こそが、世界認識の起点である! その私の実在を疑う事はできないだろう! " 明晰な知の基礎 " としての(想う) = 近代理性の出発点として 導いた『方法序説』のデカルトのこの命題は、 当時のキリスト教の中世暗黒的風土に取りましたら、 間違いなく、衝撃的な、天地をひっくり返すような発想の転換でした。 これは、神に縛られて自由ではなかったキリスト教思想下の人間が、 神の云うなりではなく、人間自体が考えて行動を決めたい、 もっと、神の下から抜け出して自由になりたい、 その足場として、人間だって想うんだ! これを出発点にしよう! と、した訳です。 発想は、斬新なような? しかし、、、 これが、デカルト第一の勘違い! " 想う " ―---- 意識を引っ張り出した大間違いです。 前回、笑った処です。 デカルト第2の勘違い、失敗は、後で、、、 あはは。 ずっとブログを書いて来ていますと、 同じ言葉ばかり書いていて、少し食傷気味になっています。 近代化、意識、感覚器官、、、 あはは。 すこし、違った言葉を使いたいなあ、と思うのですが、 そうも行かない現実があります、 世の中に溢れている合理主義的な思潮が気になって。 気になる・・・・・・私は足場を東洋に置いております。 そのおかげで、かろうじて濁流に流されないでおります。 それゆえ、東洋的なものには敏感です。 で、見逃せない事がありました。 同じF2ブログの中で、相互訪問をしている友人のブログの中に見つけた 次の言葉でした。 知識や教えだけでは越えられない 感覚的体験をとおして歩む道 普段、スピリチュアルな詩と外国の美術的なブログだったので、 ちょっと普段とは違う、感じを受けました。 東洋? このかすかな東洋の匂いは、 ヘルマン・ヘッセの「シッタルーダ」がkey word だったので、 合点が行きました。 西洋的な中に、(★注)キメラの如く東洋のフィーリングがありますね。 (★注)キメラ = ギリシヤ神話に出て来る ライオンの頭、蛇の尾、ヤギの胴をもち、口から火を吐くと云う怪獣。 生物学で、異なる遺伝子型の細胞が共存している状態の一個体。 でも、感覚的体験をとおして は、東洋とはちょっと違うな? まさに、現代感覚。 いい機会だから、 この記事の感想を記事にする了解を、去年いただいておりました。 このブロガーの方ではなく、他のブログでも、 普段、気になるのは、 今の合理主義的な思潮の蔓延する社会の中で、 明らかに脱原発や経済偏重の社会や政治を批判している側の 個人が発している表現や立ち位置の問題です。 どう云う事かと云いますと、 近代国家の政府や資本主義下の企業は、合理主義あっての存在です。 骨を切られても合理主義を否定する事はしません。 近代合理主義下の知識でメシを喰っている人たち、 学問で権威を与えられている学者たちもそうでしょう。 しかし、個人の立場は、ある意味自由に物が申せますから、 この社会をこのままにしていたくなくて、 脱原発、経済偏重、政治の無能さを克服した社会にしようとするなら、 自分が、まず合理主義下にいる自分を客観視できる立脚点を持って、 合理主義の外へ出ないとダメだ と、云う事に気が付かれている人は少ないのですね。 ちょっと、くさ~い例えですが、、、 ほほっ。 自分は、合理主義と云う便利なお風呂に浸かりながら、 " このお風呂は、どこか汗臭い!!! " と文句を言っているような! 自分も汗を出しながら、、、臭いのはイヤだ! と、、、 あはは。 原発はイヤ、非正規労働者はイヤ、 経済偏重はイヤ、などなど、 目先の現象群に文句や注文を付けた処で、この思想から出なければ、 それらは、無理だって云う事に気が付いていない。 そもそも、我々現代人の念頭には、まず、 心と肉体はバラバラで別々の物と云う思い込みがあって、 ちょっと、臭いけど体には影響はないって、 あはは。 物は不足していないから、まだ大丈夫だって、 あはは。 それは、それで、このお風呂が快適なのね。 あっは。 リモコンで便利だし、経済的で安いし、飢餓から守られているし、 ツイッターやフェイスブックで世界は一つ! あはは。 それこそこのお風呂が無くなれば大変だし、、、 ほほっ。 みんなが、大概居心地のいい合理主義を 改めようとは思っていないのね。 それで、眼前の不満だけをああだこうだと言っている。 つまりは、キリスト教製の合理主義の手の平の上で、 自分の5つの穴で、眼前の苦と楽の仕分けに夢中で、 なぜ、この苦が生れて来るのか掘り下げる暇がない! ! 合理主義の手練手管に踊らされているのが分らない??? 自分の、、、、、感覚の満足の追及をさせられているのよ。 これが、今の文明の正体! 個人個人が、ある意味の感覚主義に堕とされているのですね! このように、 思想を取り入れると云う事は、 心も体もその思想の通りになる、と云う眼前の光景に唖然とします。 心より体に現れる現象の方が、 我々の感覚器官・目で捉えられるようになるには時間がかかります。 体に現れる時は、もうすでに手遅れなのね。 病気と同じです。―------- 近代化の自己喪失病と云う 全身転移には、約3世代に亘って、 約100~150年位経って、 爛熟の合理主義の時代で生まれた赤ちゃんが大人になると完成します。 なにが完成って? 『時』を無視して快感追求の感覚こそが、真理だ――――っ?! 『陰』を捨て去った意識こそが、全知万能の神だ――――っ!? と云う近代合理主義製の人間の完成です。 丁度、日本は、今から怒涛の様に、そう、津波の海の様に、 合理主義を体現した生っ粋の人間ばかりになるはずです。 うれしいですか? かなしいですか? 思潮(心)が、それを体現した人間(肉体)を創造するのです。 つまり、合理主義の具現化、現象化のプロセスが、今の世の中です。 原発や経済偏重や非正規労働者の出現(肉体現象)など、 あらゆる今の社会現象は、 都合のいい事だけを見ようとする意識を神の位置に置いた過ち、 その合理主義(心)の世界観が実現している結果(肉体)なのだと、 誰も気が付かないのでしょうか????、、、? それどころか、人類は進歩をしていると得をしている人達は言います。 合理主義下の専門家が言う事だから、信用できなくて、 意識が知る範囲の、正しいって事でしょう? 本当に、正しいとか、安全ではないのよね??? ! そう! 感覚や意識は、個人でバラバラなんだから、 誰の意識が、正しいなんて言えないでしょう? 無意識を捨てた段階で、我々は、絶対性を捨てた訳だから、 これが当然の帰結なのです。 こう云う社会が、到来するのではないかと危惧しています。 ここからが、我々にとってのデカルト第2の勘違いについて。 そもそも、近代合理主義は、 キリスト教に " 臭い " と文句を言いながらも、 キリスト教のお風呂から出ないまま生まれ出た思想です。 お風呂から出ないままとは、 デカルトは『神の存在証明』によって 究極的な存在と知識の基礎を神に求めると云う事をしました。 つまり、自分の命題の箔をつけるのに神の保証を付けた訳です。 おそらく、想像に難くないのは、 教会の承認がなければ彼の命題は世に認められなかった。 神の御名の下の意識、 神の許したもうたお墨付きの意識、 人が " 想う " の格上げを神殿に奉納する代わりに、 神に忠誠心を示し、教会・神と取引をし、和議を結んだのです! 当時のヨーロッパにおける状勢の影響に染められている意識。 意識を中心にする世界観とは言っても、 聖書の世界観の中にお行儀よく納まったキリスト教的意識です。 私たちが受け入れたのは、キリスト教的意識だった! それに、どれだけの日本人が気が付いていたでしょうか、、、 そんな事、どうでもいい! じゃないのですよ。 ――――― ここからは、日本人の軽薄さが招いた奈落への転落です。 東洋の世界観から余りにもかけ離れた ―――――――― 驚天動地のキリスト教的世界観を背負った意識を受け入れた日本人。 故に、直接キリスト教の神を信じる人間ではないのに、 国が、産業富国強兵で近代化を急速に受け入れたとしても、 国民である我々が、見えない放射線の照射のように キリスト教の神が持つ全ての性質の影響を受けざるを得ないのです。 ここが、思想のおそろしい処、意識もなく染まって行きます。 思想は想念ですから、無意識下へ入り込むのですね。 我々の意識は、イヤでもキリスト教の枠内で生きさせられている。 神が創ったこの世界と云う二元論を骨の髄まで沁み込ませて、 いつのまにか、自然と人間とはベツベツだと云う観念に染まって、 自然と我とは一体と云う東洋の知恵を失くしている。 平気で自然を物として扱い、経済の為なら自然を破壊しても平気になり、 心と肉体は不二であると云う生命観を忘れ、 心と離した肉体を、物のように感じて生きている。 もうまるで、どっぷり浸って漬物の出来上がりですね。 あはは、 こう云う状況下で、 近代合理主義の外に出るとは、どうすればいいのか? まず、近代合理主義の思想を知る事、そして、 その影響を、客観的な観点から見られる立ち位置に立つ事です。 ーーーーーー 客観的な観点に立つとは、 前回の記事で、山岳ガイドさんから聞いた西洋と日本の自然観、 登山観の違いを書きました。 まず、受け継いだ処の信念としての伝統的な登山観を持つ事が、 この山岳ガイドさんにとっては、わが身を守る事になっています。 近代化とは、どんな事なんだ、と云う事が身近な事から分るのです。 無制限に近代化を受け入れて西洋化すると云う事が、どう云う事か、 自分の大事な山を守ると云う観点から観えて来るのですね。 キリスト教的自然観では守れない事が分るのです。 そして、自分の中で、近代化を食い止められるように努力をする。 それを、身近な処から実感を伴って他人へ伝える事ができる。 それで、自分自身を自己喪失から身を守る事になるのだと思います。 この効果が、どう人生に出て来るのか? 次回からの記事で、少し書いてみようと思っています。 今日は、演劇と云う芸術の観点からヒントを一つ書きましょう。 昨年襲名した四代目市川猿之助氏が、 現代演劇についての中で、こう述べています。 「現代劇の限界は、 ① 歌舞伎に登場する魑魅魍魎(ちみもうりょう)や怨霊などを 近代的な合理主義で切り捨てたところ。 ② 現代劇の登場人物は、一幕から三幕まで同じ性格ですが、 歌舞伎は全然違ったりする。 自分自身も昨日と今日では違うし、そっちの方が本当。 現代劇は逆に浅いですね。」 ①、②、は編集で付けました。 ① はその通りですね。 人間の存在の無意識の部分です。言葉で表せない部分です。 それが、日本の古典では怨霊や幽霊、亡霊として出て来ます。 現代劇は、無意識を排除した合理性の上に作り上げたものですから、 摩訶不思議な部分をそぎ落とし言葉に力点を置くのですね。 ② もそう。西洋の思想には『時』の要素がありません。 合理主義の『時』を知らない性質、癖のままに、 『時』が止まった空間の中で人物が蠢(うごめ)くのです。 筋書きが読める。予想できてしまう単純さがあるかも知れません。 このように、『時』を経て伝統を守り続けて来た歌舞伎役者ならではの 近代化後の演劇を観る目があるのですね。 おもしろいなと思いました。 近代化以前の伝統を受け継いで守っている人には、 近代化の姿のいびつさが、喉に小骨が引っかかるように気づく。 ちょっと待てよ! と、 近代化って、西洋化って、良い事ではないな! 私も同様です。 自分が何がしかの東洋的な伝統に足場を持つ事が大事ですね。 現在の我々を取り巻く " 意識・感覚礼賛 " の合理主義を責めずして、 自分の中の合理主義を反省せずに、 目の前の現象だけを追求しても、それはつぶやきにしか過ぎず、 そう! ほんとうにツイッター! 本質を観ずして目先の文句を言うだけなら、 敵もさるもの! どんどん現象が誤魔化されて、尻尾が掴めなくなって行くだけです。 まさに、念仏で響く哀音。 このぬるま湯に浸かって " 南無ゲンパツハイヤダ!" って、 念仏を唱えても現実は変わらないでしょう。 " 南無ケイザイノタメニサイカドウスル!" と云う政治家の方が 徹頭徹尾、合理主義を貫いている点では、余程、理は通っているし、 それは、間違いなく実現、現象化するのですよ。 たぶん、これに気が付かないのは、 その大前提には、我々一人一人の 自己の感覚への(大)肯定感があるのですね。 つまり、自惚れと、言っておきましょうか、、、 お互いの感覚を認め合う事と、それが正しいと認め合う事とは違う。 時代の相対化の風潮と共に、そこの勘違いがある。 私の感覚こそが ! 純粋なんだとか? あはは。 私の感じている中に、真実がある! あはは。 ありえない。 アリエナイ! 感覚が純粋なんてありえないのですよ。 我々の脳が、本人に快適なように操作しているから、 私達は、自分の脳に騙されているのです。 あはは。 これを、運命学から云いますと、 それぞれの命式から出て来るのは、個々の人間の意識の違いです。 運命とは、意識の癖が積み重ねた選択の結果の集大成なのです。 先天的に感覚は、癖を帯びているモノだと思います。 生れたばかりの新生児も、もうすでに癖を持っていますね。 なにかお祖父さんのような智恵を持った目付きをした男児もいれば、 なにか大人を見透すかすような表情の姉御肌の女児もいるわ! あはは。 2011年 10月 30日の記事、 無意識の不思議 8 意識と無意識の本当の素敵な関係は? に、意識の願いは、楽になる事、と書きました。 意識は、徹底的に苦を避け現代文明を作り上げた訳です。 感覚器官を通した楽の追及が、意識の使命です。 意識は感覚器官を通した情報を、自分に都合よく脳で修正する事が、 分っています。 その意識の欲望の満足を達成すると云う使命感のせいで、 マグロもウナギも絶滅危惧種になりました! 次は、ハマグリもみたい? 原発でエネルギー不安から、CO2の問題は棚上げです。 それでも止められない意識になんか、 とてもじゃない! 真理など任せられませんね! そもそも、仏教における感覚器官の扱いは、 五感に意を加えて6つの識 = 六根(ろっこん)と言い、 我々衆生が、この六根で感じた事に囚われ執着する事は、 「我」に固執して仏教の智慧が入る = 悟りの邪魔になる、と説きます。 それで、まず迷妄や惑いで汚れた六根を清浄にする必要があるのです。 決して、感覚的体験をとおして歩まないようにしてくださいね! 近代化以降、日本人は、 人権と云う概念を受け入れ、平等と云う観念を飲み下した頃、 自己の五感の感覚器官からの情報を、神や仏の位に祀り始めたのです。 人間が中心で、その中でも感覚に楽を与える事が生きる目的になった。 あはは。 誰もが苦を遺棄するようになったのです。 『天』と『地』の間で『人』は生かされている事を忘れ、 『陰』と云う自然を捨てたのですから、 当然、社会の中から道徳的規範が希薄になったはずです。 道徳規範を捨てる事が、自由の実現だったのか? それが、個人の尊厳なのか? ブータンのように、自国の仏教の世界観の上に、徐々に、ゆっくりと、 国民の幸福度を測りながら近代化をして行く方が、賢明であったのか、 その答えは、これからの社会現象として惹起して来るはずです。 いいえ、もうすでに、起きているではありませんか! 国と云い、社会と云っても、 男女の健全な結婚、子孫の繁栄、 幸福な家の継承失くしてはありえません。 家庭、家族がなくなり、これらの機能のすべてを国や税金で賄う時、 私達は、どれだけの税金を払わなければいけないのでしょう? そこまでの国力を、経済力を持ち得るのでしょうか? 2月4日から新年が明けました。 宇宙の時が、新たな巡りに移って行きます。 感覚より、もっと上等なもの、それを今年は手にしてくださいね。 次回の記事から、( 命の継承と運命 10.)のシリーズになります。 ほぼ、1年ぶりかな、、、 ほほっ。 毎週末は、ほぼ山梨に行っています。 しばらく更新は、不定期です。 よろしくおねがいします。 よき一週間をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2013
05/26 13:59 |
〔近代化の奈落 3.〕 『陽』・ 有用性だけを選んで自然の外へ転がり出た我々Category : 運命学と近代化
近鉄ハルカス (大阪阿倍野・天王寺)
![]() 先月、吉野山へ行く為に、半年ぶりに降り立ったJR天王寺駅から、 交差点向いの近鉄電車の阿部野橋駅へ行く時に目にしたのが、 あざやかな青空にニョキニョキ建っているビルーーー ビルの上にビルを積み木のように積み上げたような不安定な外観! まるで現代人の立っている足場みたいではないですか? あはは。 今にもバランスを崩して落っこちそうな、これが、 日本一の超高層ビルになる ----- 日本初のスーパートール (高さ300メートル以上の世界クラス超高層ビルの呼び名)である 「あべのハルカス」だと、、、後で、、、聞いて知りました。 来月、6月13日に先行オープンする予定だそうです。 日本初のスーパートールとしての新しい試みは、 ・屋上庭園に降った雨水やホテルのバス排水等を処理して中水を作り、 ビル内のトイレの洗浄水として再生利用する。 ・ビル全体から出る生ゴミ等を使ったバイオガス発電の国内初の実施。 ・冷房で発生した排熱エネルギーをホテルやオフィスの給湯、暖房に利用。 ・CO2排出量を標準的ビルよりも約25%(年間約5,000t)削減、 等の努力がなされているようです。 しかし、どんな工夫がなされていようと、 率直な感想は、 これからの地球に、こんな建物、必要なのだろうか? 何十年後か、メンテナンスを任せなければならない未来の大人達、 今の子供たちへ残すべき価値があるのだろうか? ----- もやもやとした疑問が頭にもたげて来てしまいました。 ほ っ 今日の記事は、2013年 2月 6日以来の 〔近代化の奈落 3.〕 『陽』・ 有用性だけを選んで自然の外へ転がり出た我々 関西の建物考から、 今流行(はやり)のフランスの思想家ジョルジュ・バタイユの視点を通して 本題の方へ入って行きたいと思います。 なるべく分りやすく記事を書こうと思いますが、 難しい処は読み飛ばしていただいて、 ほほっ。 意のみをお汲み下さるようによろしくお願いします。 ーーー しかし、関西は、行く度に、新しい建物に驚かされます。 関西の建物は大胆です。 歴史的に、本物を味わっていたと云う自信からでしょうか、 キワモノ(際物)めいたものがそれなりに落ち着く風土です。 関西の新しい建物は、冒険心や遊びがあるユニークなのが多いですが、 古いのも十分ユニークです。 ほほっ。 たとえば、 707年の平城京の大極殿 752年の奈良の大仏殿 天平の人々の度量のスケールに、現代の我々は未だに負けています。 それは、1000年以上の時を越えて何か新しいモノを感じさせます。 京都へ行く時には、古い街へ行く気はしません。 いつもなにかしら新しい事が起こっている、 今度は何?と云う期待感がいつもあります。 帰りには、それらの息吹を嗅いで持って帰る事になります。 それで、何度でも行ってしまう事になる訳ですが。 あはは。 時の経過に耐えて来たものは、つまり天人地に通じるものです。 平成12年の大発見で分った建物もあります。 659年(斉明天皇5年)、 『日本書紀』によれば、 古代における国家的な事業として天津神(または天皇)の命で、 出雲国造に命じて修造させたと云う出雲大社もそうです。 神殿の遺構、柱の根本部分が3本も発見されました。 平安時代末から鎌倉時代初め頃に造営された神殿のものと判明します。 ![]() 出雲大社復元図 (原図 張仁誠氏 復元 工学博士・福山敏男氏と大林組) この復元図を見れば、十分ユニークな建物です。 どこか、鳥肌が立つような建物です。 当時の人々の目指す思いの高さが覗えるようです。 発見された3本の柱は、 出雲国造千家家に伝えられて来た建築平面図とも言うべき 『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』に描かれた柱で、 1本の柱は、3本の木を鉄の輪で1つに束ねた柱の太さが1丈(3m)、 その柱が9本あって、高さ16丈(48m)の木造建造物を支え、 地上から宮までの引橋の長さが1町(約109m)と記されています。 お猿さんとお馬鹿さんは、高い所に登りたがるとか? あはは。 この、1町もある引橋を登ってみたい気がして来ませんか? なぜか、信仰心よりも、原始的な冒険心をくすぐられます。 あはは。 お馬鹿さんが登ってみたくなる<大階段>ですが、 京都駅にもありましたね! ほほっ。 1994年の平安遷都1200年記念事業の一環で改築なった 現在のJR京都駅にあります。 京都駅駅舎の1階の入り口を入ると、そこには、 駅全体のエネルギーが包み込んで来るような空間が広がっています。 空間と云う文字通り、空まで吹き抜けた空間です。 駅舎の1階から右手側・東西へ渓谷状の大階段が設けられていて、 巨大な吹き抜け空間が、屋上まで続いています。 大階段の段数171段の途中は、駅舎の各階の店舗へ通じていて、 11階建てビルに相当する35mの高さに、全長70mの階段です。 ええ、引橋の1丁(109m)には39mも及びませんけれど、、ね。 ![]() 京都駅舎が改装なった、約20年前、京都を訪れた時ですが、 初めてこの大階段を見上げて、、、登ってみたい! お馬鹿の衝動に負けて登った記憶があります。 ほほっ。 あいにく雨降りの天候だった為に、階段の途中からは外と同じ! 天から降って来る雨に、傘をさして屋上まで行きました。 同じような2,30人の仲間が、星空も見えない雨の屋上で佇んでいましたっけ。 ![]() 大階段の途中から見下ろした1階のコンコース。 入り口は左側。 空のある屋上から1階を見下ろせば、もっと人が小さく見えます。 建築は思想、と言われます。 人の持つ思想が、建物の形や質を規定し、 建物の持つ思想性が、その建築物を使用する人間に吹き込む。 実際に、階段を登ろうと云う行動を起させる建築物は珍しいです。 ちなみに、 大階段は、非常時、そのまま各階からの避難通路として使われます。 いいですね! 駆け下りればすぐに外に出られますから、、、 山登りをする私としては、毎日駆け上がりたい気もします。 足慣らしとしては、とてもいい場所なのですよ。 ほほっ。 この駅ビルの設計は、 日本の鉄道駅舎としては異例、 国際指名コンペ方式で行われ、7名の複数の建築家が指名されました。 原広司、安藤忠雄、池原義郎、黒川紀章、ジェームス・スターリング、 ベルナール・チュミ、ペーター・ブスマンの7名です。 設計審査の結果、原広司、安藤忠雄、スターリングの3案に絞り込まれ、 さらなる協議を経て、原広司の設計案が最終案として採用されました。 ------- 奈良の吉野山へ行く起点、大阪の天王寺、近鉄の阿部野橋駅へ戻ります。 旭屋書店のあった阿部野橋筋のアーケードの商店街も、 大阪市立大学の医学部付属病院の裏通り、戦前の街並みも、 すっかり街は変貌し、完璧に過去は消えていました! すべてが過去にも、どこの外国にもないだろう建物群。 無国籍空間の街区の出現です。 最近は、こう云う味わいのない無国籍街区が出現し増えています。 おそらくですが、こう云う街区の区画整理を伴った大規模再開発をするのは、 施主、設計者共に公共的な自治体であろうと思います。 予算執行の経済性の効率を追求する事しか頭になく、 何らかのデザイン性へ偏らないようにしつつ、 伝統を守る為の経費と手間を省き、 生物としての人間が生きる空間として 最低必要であろうと思われる無駄(無用性)が、切り捨てられています。 つまりは、無難に、合理性を優先した画一性が当たり前! と云う常識の社会へ我々が完全移行してしまっているのですね。 まさに、雑草が生える隙間もないコンクリで埋め尽くされた街区には、 マス目にはめ込まれたような公園が申し訳なくあるだけで、 もう、昔の原っぱなんて、夢の又夢、路地さえもない! ◎ これが、バタイユの云う基本的な枠組みの一つ、 「有用性を目指す、計画的で、論理的、言語的、個別的な社会」の 生産の為の消費と云う経済圏の中にいると云う事なのでしょう。 ーーーーーまさに、人間の意識『陽』だけが支配した社会。、、、 もうひとつ、、、、、今から10年も前、 と、関東の、とある大きな市街地の駅に降りたった時の事です。 駅前のビル群が、装飾の為か、オレンジや緑色に塗られていました。 その違和感に、、、っと驚いて、、、、、 何が、この街に起きているのか、とっさに考えたのは、 ここは、アメリカの西海岸? と思うほどでした。 あはは。 それはそうです! そのビルの1階の銀行は日本のそれでしたが、 駅前のファストフード店は、皆、見慣れない外国のそればかりでした。 これは、また、なにかのコンセプトがあるのかしらん? そう思って周りを見回すと、、、 駅前ロータリーの隅に五重塔らしきモノを発見、 あはは。 全体が分厚いコンクリで作られ、色はペンキで茶色に塗られていました。 思わずここは、日本なの? そうよね、 そう、息を飲み絶句をしてしまった経験があります。 こりゃ~おふざけでなければ、 あれ、あれでしょう? 昔の外国の雑誌などで紹介された、、、ジャパン、、、 ゲイシャガール、フジヤマ、のレベルの日本。 本質的な理解までには至らない通俗的にアレンジされた日本の形、 それが、もう日本国内で、駅前に平然と出て来るのね! あー、もうー、これは、 我々国民の感覚がそこまで来ていると云う事なのでしょうね。 これを、 将来的には、我々の子孫は、 日本は〝こんなものサ”と受け入れて行くのでしょうか... 、、、街の景色や風景が、 だんだん縁も所縁もないものに変貌していくようです。 魂を失った民は、 魂から滲み出る形や質を忘れていくのでしょうか? 建築は思想と言うのなら、 思想は物の形を生み、質を規定し、拘るのです。 建築物の形や質は、 その建築物を使用する人間が満足するモノになっていくのです。 日本のエキスが蒸散してしまった無国籍な現場は、 もう、命を懸けて守ろうとする思想が我々の中にはない事が はっきり表われ出た現象の形、質なのでしょうか? 近代合理主義のよる近代化以降、 役に立つ者、物だけを人間の意識が合理的にチョイスして、ムダを省く。 この有用性の追求が正義である。と云う思想を守って来た結果です。 でも、もう、 有用性の追求も程々にしなければ、いい加減にしなければ、 不合理な無用性を切り捨てて計算し尽した社会など、 希望も喜びも、歓びも、悦びもない社会になるでしょうに... ◎ また、、、バタイユに触れておきます。 彼が、晩年、持ち出した「非-知」と云うキーワードですが、 「知」を超えた無益で無制限のモノ、と云う意味です。 彼は、「知」を生に隷属するモノとして捉えており、 (ここは東洋の『陽』そのものですね) この「知」や「知」の判断する有益性を超越するものを、 無益で無制限のものだとし、この過剰が人を生き生きさせるのだと。 (これは、東洋の『陰』を志向していたと思います。) 彼は、西洋にはない『陰』を探っていたのです。 つまり、彼の基本的な枠組み、先に提示した別のもう一つ、 「有用性を無視し、計画も論理もない、個が明確化していない動物の段階」 と彼が云い表わしたモノこそが、 東洋の『陰』を志向しているものなのでしょう。 彼は、それを、生産を目的としない消失、非生産的消費、 エロティスム、禁止と侵犯、聖なるもの、供犠、虚無、死であると。 東洋的な最重要なファクターである『陰』ですが、 バタイユの云う 〝聖なるもの” と云う表現は、不適当です。 〝聖なるもの”と云えば俗性を排除します。 聖と俗、誰がこの区分けをしたのですか? いかにも二元論の西洋思想らしいものです。 当地の知識者は、聖を、俗ではない、と云う以上のイメージを知らず、 その実体は何かを知らないまま、 単なる観念的な聖なるものへの憧れがあるようです。 ◎ 東洋の最重要なファクターである『陰』は、 他の何かを排除して成り立っているようなものではありません。 バタイユが、ここに、この言葉を入れる事自体が、 あやふや、迷いが紛れ込んでいる、いかにもクリスチャンと云う 二元論の迷路の中で行きつ戻りつ迷う子羊の弱さを感じさせるものです。 そう、東洋の『陰」から観ると、 他にも、雑だなと思うものも入っていますね。 あはは。 人間の中には、収まりきれぬ過剰な力が働いているが、 それはどこから来て、どこへ行くのか、 それがバタイユが最初に掴んだ根本的な問いだったのです。 彼の云う〝人間の中には、収まりきれぬ過剰な力” こそが、 東洋の『陰』に当たるのだと思います。 それ程、バタイユは、自分の人生で悩み苦しみ『陰』を捜したのね。 それでも西洋人の彼には、『陰』の概念すらが掴めなかったのです。 彼の思想の全貌をここに書く訳にはいきませんが、 彼の思想は不安が生んだ思想と云われています。 それはそうでしょう。 どんな頭の良い人間でも、意識に死は解らないはずですから。 彼は敬虔なクリスチャンでした。 天国しか明かしていない教理では、不安は消えなかったはずです。 しかし、彼は礼儀がある人ですね。 親は無宗教なのに、子供の時に自分から進んで洗礼を受けたと云う キリスト教に対しては、少しの否定もしていないようです。 いつも思う事なのですが、 東洋に生れて、『陰』と云う最重要に出会ったと云う事は、しあわせです。 ーーーーー ここからが本論です。 ≫≫≫≫≫『陽』・ 有用性だけを選んで自然の外へ転がり出た我々 ◎ 最後にもう一度、バタイユから、 ーーーーーー 太陽がすべてを与えている。 地球上の命とは、太陽エネルギーが変換された現象にしか過ぎない。 太陽は自らを破壊して地球へエネルギーを与える。 太陽エネルギーの過剰から新たな命が、生まれる。 命の本質は増殖。増殖が余剰を生み出す。 その余剰を消失し尽くす事が人をいきいきとさせる。 そして、地球は、それに頼ってしか生きられない閉鎖空間。 だから地球上で消費できるエネルギーの総量は決まっている。 ーーー バタイユの云う 太陽エネルギーの過剰から新たな命が、生まれる。 命の本質は増殖。増殖が余剰を生み出す。 その余剰を消失し尽くす事が人をいきいきとさせる。 ここが、彼らしい言い方ですが、東洋の『陰』そのものですね。 しかし、東洋の『陰』は、太陽そのもの、それだけではありません。 が、今は、それを追求したいのではありません。 バタイユは太陽エネルギーに余剰を生む『陰』を志向して、 太陽エネルギーに頼る地球は、 消費できるエネルギーが限られている。と観じたのです。 ここは、重要です。 ここは、学ばなければいけませんね。 欲望に根ざした『陽』の教理を身に付けたバタイユが、 『陽』の限界を観たのですね。 『陰』は、無限だけれど、 地球上の『陽』の活動性は有限であると理解したのですね。 しかし、意識・『陽』には、 地球上の消費エネルギーのコントロールができないようです。 なぜなら、意識は欲望に支配されているから、 これが、今の地球上の深刻な問題点なのです。 この事を、よく覚えておいてくださいね。 決して我々は、昔の王様のような豪華な贅沢はしていないのに、 われわれを生み育む「地球の限界」はもう超えているのですよ。 我々人類は、地球1,5個分の食料や資源を消費しながら 暮らし続けているのです! 現在の世界中の資源消費は、地球1,5個分。 今、現在、人類は、地球1.5個分の食料や資源を消費しながら 生きている。 暮らし続けていると云う事になります。 日本の国家財政も、借金しながらの赤字経営ですが、 人類は、未来の人類が使うべき資源を取り崩しながら生きています。 何の事はない、 科学文明で我々は豊かになったと云いながら、 未来の人間の分まで地球の資源を使っているだけなのです。 地球の資源を余分な処まで使う能力を身に付けただけなのです。 それが、人類の進歩と云うものの中身だったのですか? なにが、優れたノーベル賞ものがあったとしても、 結果、そうなるではありませんか。。 。 科学文明とは、資源を他人の分まで侵略して使う技術だったのか! 何の事はない、 仕事もしない子供が大人の真似をして、 お金の使い方だけが大人以上になっただけなのです。 経済発展とは、資源を他人の分まで搾取して買う力だったのか! この地球の過剰利用は、1970年代に始っています。 世界人口の増加、新興国の一人当たりの自然資源利用の増加が原因です。 地球の利用できる総資源を、今現在の世界の総人口で割ると、 一人が利用できる指数が出せます。 それは、≪一人当たり1.8ヘクタール≫ これが、≪持続可能な地球資源の利用許容量です。≫ 現在の世界中の資源消費平均は、一人当たり 2.7ヘクタールです。 すでに世界平均は、一人当たり0,9 ほど限界を超えています。 未来の人類の分まで借りて、豊かさを享受するって? これはなに? 地域別では、アメリカは、7,2ヘクタール。 EUは、4ヘクタール。 化石燃料(ガソリン)や食料の消費が激しい先進国は高いのです。 日本は、なんと、一人当たり4,2ヘクタールに達しています。 許容量は、1,8 ヘクタールでした! その差、2,4 ヘクタールはどうすれば無くせるのでしょうか? 日本人は、一人当たり持続可能な許容量の約2,3 倍の資源を使っている! 現在の消費資源の4,2 を半分に減らしても2,1 でしかありません。 約、半分以下のレベルまで落とす必要があります。 我々の生活において、煽られた消費をするべきではなく、 生活パターンを変えていく必要があります。 これは、みなさまでお考えになって、いい案があればご提案ください。 次に、この続きを記事にする時の参考にしたいと思います。 そうしなければ、 このまま2030年代まで行くと、 人類の環境負荷は、地球2個分まで拡大します。 これに関しまして、もっと詳しくは ⇒ リオ+20 国連持続可能な開発会議へ アベノミクスで、消費! 消費! 目先の経済は、確かに株も上がり利益は出ているけれど、 我々が消費行動を見直す事がなかったら、 このまま行くと地球上の人口は増え、資源が乏しくなった地球で、 我々の子孫は、どう云う暮らしをしていくのでしょう? 決して今のような便利なものが溢れた暮らしは、無理ですね。 特に日本は、資源もない島国で、どうするのでしょうか? 全国民が、世界中へ出稼ぎに行く? あはは。 それよりもう、移民になったりして、、、 世界中も、資源不足なら自国民を賄うのに精いっぱいでしょう。 これでいいのか? 日本人? 1000年の後、日本列島に日本人は住んでいるのか? 日本人は、命懸けでここに住み続ける思想を持っているのか? もう、スーパートールなど建ててはしゃいでいる場合じゃないわ。 経済先進国、技術立国、経済力が第一なのだ、と云う正義を掲げて たどり付いた彼岸が、このざまです。 資源を先付で使い果たすと、一体どうなるのですか? 経済力は、資源あってのこと、地球があってのこと、 さすれば、次は、何が正義だと言うのかしら? 時の経過に耐えられない正義は、つまり悪に通じるのです。 時の経過に耐えられない真実は、つまり虚偽に通じるのです。 人間や建物を、あたかも小枝やチリの様に、 吹き飛ばす自然の圧倒的な存在感、 これを忘れてはいけません。 『陰』・自然は、愚かな人間がそれを忘れただろうと、思い出せと、 竜巻を、起こしつつあるのかも知れません。 福島原発を破壊したのは、地震や津波じゃない! 地震や津波を起したのは、太陽なのですよ! これを、無視しよう、 自然なんかに負けられるか! 自然を支配しようではないか! 人間中心の自然に支配されない世界を築くのだ! その為に役に立つ者、物、モノだけに価値があるように 有用性をあたかも正義か神かと重用する世界観を立ち上げ、 そうして作り上げた便利、安全、効率追求の世界が、 これが、近代合理主義の作り上げた自然を隔離した空間、 人間の思考内に限定される人工の空間なのです。 有用、無用を、人間の意識の都合に合う物差しだけで判断をし、 有用性だけを尊び、人間の能力を偏差値で測り、 無用なモノを排除して来た挙句が、 我々が、地球を台無しにしつつ、自分の居場所すらも失いそうな、 自ら地球の自然から転がり出た姿でしょう? 地球の資源の、効率的な使い方を定められずに、なにが経済の発展ですか? 近代は、人間を、本来の自然から隔離した。 そう云われる所以です。 『陰』の本体は、宇宙にある。-------- そのものです。 『陽』は、地球上の人間の頭の中、意識にあるだけです。 ほっ。 バタイユが、「知」を生に隷属するものとしたのは納得です。 しかし、hitokoto イヤミを言いましょうか、 あはは。 東洋のこの地に、『陰陽学』なるものがあって、 西洋の及びもつかない『陰』の存在を3000年前から東洋は知っている。 にも係らずに、当地の新し物好きの知識人達は、 バタイユの迷いの結果を、大事そうに抱いて研究をしています。 西洋が生んだモノなら、何でも東洋より勝れていると云う偏見が この国のすみずみにまで行き渡っているようです。 あはは。 近代化以降、西洋に学ぼう! もうこれもいい加減にした方がいいですね。 あはは。 西洋から来た有用性賛美、計画性優先において、 我々は、福島と云う社会破綻に巡り合ったのですから。 まあ、地球もこのままでは、ダメになりそうですが、 同様に、このままでは、当地の「知」を持つ人たちからは、 新しいものは何も生まれない処か、 また、同じ社会破綻を別の局面で引き起こすでしょう。 ほっーー まっ、最後は、いやらしい、嫌味になってしまって、、、 あはは。 ごめんあそばせ、、、 ほほっ。 次の記事は、〝コメントのお返事”シリーズに戻ります。 次の更新まで、よき日々をお過ごしくださいね。 参考:「バタイユ 聖なるものから現在へ」 内田 裕著 名古屋大学出版会 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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11/11 16:42 |
《近代化の影 8.》 『陰』を殲滅する近代国家の相貌(そうみょう)Category : 運命学と近代化
いままでの過去記事の一覧は、プロフィールの上の TITLE LIST ↑
からご覧いただけます。 TITLE LIST の部分をクリックしてください。 <3ページあります> 美ヶ原牧場 ![]() 写真をクリックしてみてください! 変った牛さんでしょう? 色が、、、黒じゃなくて茶色、、、 何時行っても(今年は、春、夏、秋、)この位置で草を食んでいて、 牛の世界も牧草地の縄張りがあるようです。 おだやかな秋の夕暮れと虫の鳴き声、静かな秋を味わう、、、、、 なあんて秋が、今年はどこかに吹き飛んでしまって、この一か月は、 大型台風の襲来、 大島の土砂災害、 27,28号の双子のタイフーンの襲来、 夏以来の異常気象を起す『天』の現象を目のあたりにする日々でした。 一日おきに暑さと寒さで三寒四温ならぬ三暑四寒? さすがに11月に入ってからは、もう訪れる冬を感じさせますね。 最近は遠出が多く、 とうとうジムには一度も行けずじまいで一か月が終りました。 今年もあと1か月余り、ますます時間が駆け抜けていきます。 みなさまも、体調にはお気をつけて ! 福島の原発は、4号機が燃料棒を取り出す作業に入るとか、 人類存続がかかっている過去未体験の作業だそうです。 作業員の方々の安全が気になります。 どうか、無事故で。 ヒューマンエラーが起きないように、、、祈りましょう。 大雨をもたらした台風が来ている間は、その話題で持ちきり、 TPPも脇に追いやられ、 福島原発の汚染水もどこかに消えてしまいました。 そして、世界一になった上原投手の話題に湧き、 その次の週末は、日本シリーズの優勝、楽天の優勝でしたね。 またまた、TPPも福島も小さな扱いです。 どこかに忘れられるでしょう。 ★ 今、列挙した出来事を、意識は、全て同時に認識する事は無理です。 五感は、今、現在の限られた範囲の事しか掴めませんし、 しかも、空間的にも限定されています。 意識が、さまざまな事を同時に意識しようとすると、 それは、気が散漫だ! と云う事で、良くない事になっています。 意識の能力として求められている事は、 まったく逆、 目の前の事に集中して! 気を散らさないで! 他を排除して、一つの事にどれだけ集中するか、なのです。 一点集中! 他を、堂々と無視をして捨てる事なのです! あはは。 ホントにそうだ! って思いませんか? このブログでず~っと言って来た、 意識だけのキャパで作り上げた近代合理主義が 無意識のゾーンを平気で捨てている、、、、、 意識は、ほんとうに! 気が付いていないのかも知れませんよ! あまりにも眼前の現象に囚われた五感に集中し過ぎて! この状態は、 まさに、意識の得意中の得意の事なのですよ。 意識は、他の関心を捨ててのめり込む能力が要求されます! のめり込む・・・・・この同じ状態を追求するのに、 無意識の存在を認める東洋と、 無意識はない! 意識で十分! とする西洋では、その結果は違います。 昔の武士道の剣術や茶道、◯◯道を修行しますと、 修行した道は違えども、道を究めた者ならではの境地があります。 それは、東洋的な道を究める修行と云うやり方は、 ◯◯道の技術習得を無意識までの浸透による勘を養い、 同時に人格の陶冶と云う功徳が顕われたからです。 そこが、『陰』の智恵を認める東洋の深みなのですが、 意識で追及する近代科学、西洋二元論に立脚する学問において、 自分の専門をやり続けますと、、、 やがては、専門バカと云う言葉が、、、失礼! ほほっ。 自分の専門以外の領域は、まったくダメ! な人間になるように思います。 他の分野でも、 スポーツバカ、理系バカ、役人バカ、先生バカ、、、、、 あっら、ごめんなさいませ! ほんとうのバカ! (あらっ、はしたない事を、、、あはは。) が、できあがるようでございます、、、、、、、 この中で、先生バカは、よく分ります! あはは。 たかが20代で進学塾を成功させた私は、 威張る気はサラサラなくても御父兄の皆さまから〝先生”と立てていただき、 進学や教育の知識などは思った事を述べて来ました。 その時の御父兄は賢い方ばかりで、非常に盛り立てていただきました。 丁度、10年位経った頃、まだ30代の華の頃でございます! ほほっ。 なんだか、年齢にそぐわない立ち居振る舞いをする我に気付きました。 そう、世間知らず、、、 たちどころに、穴があったら入りたい!!! そう思って、真剣に天職だと思った仕事を、畳もうと思った次第です。 こんな事をしていたら、カタワになる! 人間として不具者になると、、、 (こんな言葉、使っていいのかな? ほっ。) じわ~っと自分がバカだと気づく事は、ツラいものがありますわ。 今も、なにやら先生と呼んでくれる職業ではありますが、 人生の荒波の羅針盤を指し示すのは、進学技術を教えるより大変、 人生の喜怒哀楽のお相手をしていますので、鍛えられますの。 ほっ。 今は、教師や医師と云う職業の人を見ると、 過去の私の同病に罹患しているのが、よく見てとれます。 あはは。 先生と呼ばれるその安定感の中で安住をしていますと、 全体智に疎くなりますね。 これも、命式の五行の周流と関係があるようです。 現代学問の世界は、専門が細かく多岐に渡っていますから、 隣の研究室は何をする人ぞ? 解らないそうです。 ほほっ。 狭い専門領域で一つの新説が出たとしても、 他の専門からでは、それはおかしいと思いながらでも言えない。 しかも、なお、、、 すべての事象は、『時』と共に移ろって行きますから、 あらたな刺激が五感を捉えると、もうそれだけ、 専門性だって、すぐに古くなる。 あれよ、あれよと移ろって行く、、、虚ろって行く、、、。 意識の実態とは、自分の五感の今の現実に縛られ続ける。 不自由な身の上、なのです。。。 ほほっ。 (下線部を、よ~くご記憶くださいね!) 逆に、意識は、本質が分からないから、つれづれの歌や詩が詠めるのです。 人間は、楽を欲しさに錯覚をし、快を求めて誤解をし、 そして直にそうした我すらも忘れる動物なのです。 ええ、認知症ではない健常な人間の日常ですわ。 ほほっ。 今まで何度も意識の癖について書いて来ました。 この意識の癖は、意識が作り上げた最高の権力機構である、 近代合理主義を基盤にした近代国家の癖でもあると云う事です。 ★ 意識の欠陥が、そのまま近代国家の根幹的な欠陥として現れる。 当然、立法される法律の精神や、 制度の仕組みに反映され、 司法の判決に、近代国家の意識の欠陥が、相貌として現れる。 これが、今日のテーマです。 その事を、今日は、昨今の時事から取り挙げてみたいと思います。 本論に入る前に、 今日の記事では取り上げる余裕はありませんが、 近代国家に関する疑問を書いておきましょう。 その不自由な意識が作り上げたものが、 現代科学の学問全体、政治、経済、司法、etc. 意識グループの『陽』の現象界の現象達なのです。 それらを牛耳る最高権力機構、、、、、、、近代国家なのです。 まず、国家、国民、権利などなどの言葉、 これらは人間の意識が作り上げた諸概念です。 どう云う人間が作ったのか? 次の2ステップです。 1.西欧で近代化思想を築き上げた人達の前頭葉です。 それを、日本の近代化をする時に、 2.西洋のそれらの諸概念をどう受容するかと云う時に、 当時の知識人達の思い描く近代国家像に従って、 西欧の国家や国民と云う言葉を翻訳と云う作業で日本語へ移植したのです。 その翻訳作業は、知識人の前頭葉の創造性に掛かっていたのです。 もともと、東洋の思想の中には、それらの緒概念は無かった!!!為に、 新しい概念を込めた言葉を作り出さねばならなかったのですから、、、 そう云う2つのステップを経て、 例えればエスカレーターとエレベーターと云う人間の意識を乗り継いで、 欧米の思想の諸概念が、日本の今、我々の人生を捕獲している訳です。 近代国家、国民、権利などの諸概念、言葉群に、 我々の存在は、捉えられているのですよ。 確認の為に言っておきますが、これらは全て意識が作った現象群です。 かならず、いつかは消える。 エネルギーが無くなれが衰微するモノです。 もっと、厳密に云いますと、 『陽』のこれらは、『陰』の息吹が吹き込まれなければ滅ぶものです。 むずかしいでしょうか? ですから、近代国家自体が、壮大な現象なのです。 不自由な意識に概念化された作りものです。 いつか、壊れるでしょう。 その人為的な不自由な意識が前頭葉で作り上げた組織が、 『陰』に本源を持つ生身の自然体である国民の我々を幸せにするとは? 自由と平等を与えるとは? どう云う事なのですか? 『陽』の偽物、 意識の作り物である近代国家が、 『陰』の創造力の本体である命ある我々に、そんな事、 言える立場なのでしょうか、、、 いい加減な事を言わないでほしい! 明治の人は、恐らく近代化とは、真にどう云う事か、 分からないまま取り入れたのでしょう。 無意識を捨てた意識が作り出したロジックで出来た法理論が、 無意識の当体である我々をどうやって近代国家の国民にするのか? 矛盾の矛(ほこ)と盾(たて)より、矛盾な関係とは思いませんか? なんだか、近代合理主義の世界は、欺瞞渦巻く世界ですね~! あはは。 もう一度言いましょう。 この奇妙さは、 近代国家の規定する国民や権利と云う言葉。 国民ってだれなのですか? その実体は? もっと、言いましょうか? (しつこいかな?) あはは。 西欧から、近代化を受け入れて、日本を近代国家にしよう! では、それにふさわしい国民をどう作り出すか? では、こう云う国民にしよう。 と云う前提があっての近代国家の我々なのです。 我々は、近代国家にはめ込まれた国民なのですね? あはは。 実際の東洋思想に淵源を持つ我々の生身の人間の集団と、 『陰』を蹴飛ばした近代国家が国民と呼ぶ人間の集団とは、一致しません。 ここで、近代国家における国民とは、だれの事ですか? 近代国家にふさわしい国民と云う幽霊は、どこに? その実体はどこにあるのか? この方程式の解は、まだ出ていません! ちょっとムズカシイのですが、いい機会ですから続けて書きましょう。 つまり、この国に住むと云う事は、 近代国家にふさわしい国民として振る舞う作法がいるのです。 ほほっ。 誰が決めたのか? 明治、当時の社会的影響力のあった知識人、 代表的な人物が、福沢諭吉、中村正直、、、 彼らの前頭葉が作った近代国家にふさわしい国民と云うロジック、 そのロジックに閉じ込められた我々が、21世紀に存在する。 我々は、真の国民で居られる国が無いのです。 それだけが、現実の中で真実です。 真の国民でいたいのに、仮の国民の扱いしか此処にはないのです。 此処とは日本です。 ニセモノからはみ出した苦しみが出て来始めたのです。 原発もその一つです。 脱原発は、近代国家にふさわしい国民の仮装を脱ぐ時かも知れませんね。 ロジックに閉じ込められて、そのふさわしい役割をする我々、 もう、原発の放射能まで付き合わなくてもいいのではないですか? これ以上、付き合っていたら全員、死の灰を被らなくてはならなくなるわ。 ロジックと言うのは、仮の、権(かり)の、方便ですから、 方便の方便による方便の為のウソに我々がハメ込まれて在るのです。 近代国家が製造する『陰』が抜けた人造人間に少しづつ追い込まれて行く。 しかし、我々の生きている存在は、方便ではない生身ですから、 それは、きっと苦しい過程なのですよ。 これらの問いについても、 いつか、近代化の奈落シリーズで記事にしなければと思っています。 そもそも、近代国家と云う概念は、おそろしいと思っています。 西欧の、たった数人の男たちが考え出した方便の上に、 我が国の、当時の数人の知識人の前頭葉が翻訳した言葉の方便の上に 我々の命を、先祖を、子孫をゆだねる訳にはいかない。 よくよく、そこの処を考えて為政者は政治をなさらないといけない。 司法もそうです。 意識が作為した最高権力を背景にしても、決して思い上がってはイケナイ。 そう、思います。 『陰』は、この意識の作った最高権力と、最後、戦う事になるでしょう。 武器を持った? いいえ、もっと熾烈な、思想戦、ですわ。 『陰』は、武器を使いませんが、 意識は、あらゆる武器を使うでしょう。 チベットや、今新たにウイグルが、 大国の意識による、少数部族への弾圧と云う形で出て来ています。 これが、道徳を持たない国家権力の正体です。 これを克服しないと、真の意味の『陰』の回復はできません。 人間は人間らしく生れない、生きられないのです。 さあ、話の筋を元に戻しましょうね。 ほほっ。 しかも、意識にとって、 今と云う現実は、自分も環境も、常にクルクルと変化し続けるのです。 そう、意識は常に一つの事(今の現実)にしか夢中になれない。 意識は、長期的な展望、もっと言えば永遠、や 物事の本質、真実を、捉える事には不向きなのです。 できないと断定してもいいでしょう。 ああ、そんなバカなオロカな クルクル変わる今と云う刹那にがんじがらめで不自由な近代国家に、 『陰』を捨て去った近代国家に、 我々の命を守らせるとは? 命は、いったいどうなるというのでしょうか? では、これらを前提にして、本論へ行きます。 もしや、ここまでで読むのにお疲れになられたら? また、訪問し直してくださって、 後日、本論をお読みになってくださいますように、、、 よろしく、、、 今日の記事は、 《近代化の影 8.》 『陰』を殲滅する近代国家の相貌(そうみょう) ちょうど 1年ぶりの近代化の影シリーズになります。 佐伯啓思京都大学教授の「反・幸福論」に、 “ とにかく「縁」や「しがらみ」という面倒なものを 断ち切ろうとしたのが戦後日本だったのではないでしょうか。 戦後の民主主義にせよ、個人主義にせよ、都市化にせよ、、、、 「近代市民社会」なるもののしごく当然の結果が、 「無縁社会」なのではないでしょうか。” とあります。 あっら、今日は、お断りいたしますが、 「無縁社会」がテーマではありませんのよ。 ほほっ。 「無縁社会」自体は、そんなに難しい事じゃない。 我々の身近に起こっている眼前に展開されている身の回りの社会の事です。 一般庶民が、近代化の合理主義の下で、 自分の生活や人生を変化させて来た卑近な事象の究極の姿が、 「無縁社会」と云うものです。 昨今の未婚率の問題、 離婚の増加、シングルマザーの増加、親や目上を尊敬しない子供達。 いわゆる家族や家族道徳の崩壊の問題です。 それらは、このブログで取り上げて来た、これからも取り上げるだろう 無意識界からの創造性そのものの命の継承の問題、 それが、昨今衰弱して来ている証拠としての絶家の問題です。 そう、その前に、こんなデーターが出ています。 日本性教育協会の「青少年の性行動全国調査」によりますと、 大学生のデートやキスの経験率が男女とも減って来ているそうです。 おやおや、今の世の雰囲気では、昔より簡単に御盛んそうですが、 現実はそうではないのですね! あはは。 余計なおせっかい、いらぬ心配は結構だよ、と言われそうですが、 これは、生きる力が弱って来ている証拠ではないでしょうか? それと、今の世の中は、男性にキツイですね! あるいは、受験などの社会の締め付けが強いです。 また、男子の自立の問題もありますね。 母親に心配はかけてはいけませんが、 母親のお気に入りの息子になってはダメですよ! あはは。 多大なる母に飲み込まれてしまいます。 さすれば、結婚もできなくなりますよ! この事はいずれ記事にする予定ですが、 これも、合理の世界を突き詰めていくと生命力の衰微に行き着くのです。 これが、国家レベルで起こるとどうなるのか? 近代国家による『陰』の殲滅の問題です。 国家の最高権力が、立法や行政や司法を通じて『陰』を殲滅する。 いよいよ、 近代合理主義の思想としての『陰』を殲滅する相貌(そうみょう)が、 国家の法律として顔を出し、手足を出し、口を出して、 『陰』を苛め虐げる局面に入って来た観をゾクゾク肌身で観じております。 もう一度、先ほどの佐伯啓思京都大学教授の「反・幸福論」の、 “ 戦後の民主主義にせよ、個人主義にせよ、都市化にせよ、、、、 「近代市民社会」なるもののしごく当然の結果が、、、、、” いまの、あらゆる現実の問題を呼び起こしたのではないか? 今は、あらゆる事柄が問題です。 そもそも戦後の民主主義、個人主義、中心へ中央へと云う限りない都市化、 地方を置き去りにした中央集中化、 国民? 消費者? これらの言葉も正体を見極めないと、 再び! 気になって仕方がないのです! あはは。 国民、 民衆って、そもそも誰のことなの? お人好しで、ぼんくら、奴隷を意味する現代語ですか? ほほっ。 知らぬ間に、物質至上主義が、意識至上主義が、言葉の中身を盗みます。 真面目な日本は、近代化のマスターに血道をあげて142年です。 いやはや、 我が国は、 近代化先進国の欧米をしのぐ近代化の応用局面に入ったようです。 前にも書きましたが、純粋近代化は世界広しと云えど日本だけです。 欧米では、キリスト教会自体が、まだ国民の中に影響力を持っています。 あまりに近代合理主義へ傾くと、宗教性がブレーキを掛けますが、 日本には、そのブレーキがない。 ないのです。。。 ノーブレーキで近代合理主義を走る、爆走する日本。 日本は、近代国家です。 近代国家と云うものは、人間の意識が作り上げた最高の造形物です。 近代国家では、国家に、国民が絶対に逆らえない「国家意識」、 国家権力が存在します。 現実的に我々の命や財産を守ってくれる代わりに、 我々が国の統治者に与えたのが最高権力です。 それを与えられた地位が、大統領、国家元首、総理大臣です。 いわゆる最高権力者です。 近代国家は、無意識を国家経営から排除しているのが特徴です。 それは、あれよ、あれよと虚ろって行く意識に、 我々は最高権力を与えて、 我々の全てを託して生きていると云う事ですよ、、、 ほんとうに、意識と云うものは、 幾ら危険だと言っても云う事を聞こうともしない。 未来どうなるかが見えないのです。 最後、絶滅する危機でもあって頭を打たなければわからない。 誰かが、もっと犠牲にならなければ法整備が進まない。 まったく『陽』の権化である行政の癖もそこからです。 そう、『陰』を捨てた近代国家がもたらす害悪です。 『陰』・自然、命に刃向かう近代国家の本質が、 それが、やっと無意識界から、この意識界へ現象化し始めた、、、、、 そう思う事象が、続けざまに出て来ています。 この事は、わが国が近代化を取り入れる努力をし始めてから、 おそらく、もうすでに近代合理主義をマスターしたと云う事でしょう。 日本が、この思想を自分の物にしたと云う証拠なのでしょう。 我が国が、欧米から近代合理主義を学ぶ立場から、 近代合理主義の完全なる履行者になったと云う事です。 近代合理主義者として一人前になったのです、、、 あはは。 そう、近代合理主義の免許皆伝。 そして、国の運命を掛けてその思想を実践し始めたと云う事なのです。 この事は、3.11の福島の原発事故以降、 日本人の我々が、少しは変わるのではないか? と思った事が、 その期待が、見事に木端微塵(こっぱみじん)に砕けたと云う事ですね。 まったく困りました! 3.11以降の日本の在り方として、 もちろん、国の在り方を批判、反省する論調は出て来ていましたが、 近代合理主義を外から観る言論はなかった! ず~っと捜しましたが、 3.11を起した原因側と同じ思想の中での論調でした。 要は、方法論に終始していたと云う事です。 すべてが、近代合理の狭い井戸の中で吐く息ばかりでした。 そんな息は、吐けども吐けども、 国民の持って行き場の無い気持ちのはけ口に利用されただけ、 選挙などの結果は、どうせ矛盾のある社会なら、 その手練手管で上手の、そう云った意味で大人の自民党へ戻った。 脱原発よりも科学技術で安全を保障させる方を選んだのですね。 狭いお盆の中で、もう、出し殻になったお茶っ葉で、 もう一度、お茶を入れ替えようと! あはは。 安全を科学技術で保証できるのか? それすらも確信を持てないまま、 結果、原発を産み出した近代合理主義を推し進めるしかなかった。 ついに、ミイラ取りが、ほんもののミイラになったのですね! ほっ。 ここに近代合理主義の伝道者としての安倍総理があると思っています。 彼が世界中に原発セールスへ出かけるのも、 その使命感からです。 まさに、近代合理主義の伝道者としての振る舞いであり、 それが、彼の戦後レジームから脱却の実践、為せる業なのです。 これからは、アメリカを近代化のお手本としないで、 日本、自らが、世界へ近代化を実証して行こうと云う自立を目指している。 そう理解すると、非常に分かり易いでしょう? しかし、近代化の実践者として一人前を目指すとは? ――――― 恐い事ですね。 ――――― 日本は悪路へ踏み込んだのです。 なお、ポストモダン、超近代と云う言葉がありますが、 いずれにせよ世界の現中心思潮は、意識中心である事には変わりがない。 真のポストモダン、超と云うからには、意識中心を克服するべきです。 世界的に意識中心思想が続く限り、 このブログでは、依然として〝近代化”で通していくつもりです。 ここで、ちょっと異次元な話を挟みます。 運命学的な見解から少し述べてみます。 ここが、私には政治の話よりも専門です。 ほほっ。 安倍さんは、後継ぎ運がありません。 子供はいません。 幹事長石破氏も御子息はなし、東電勤務の一人娘さんだけです。 三役の一人、総務会長の野田聖子氏も、 もう一人の三役、高市早苗政調会長も、明確な後継ぎ運がありません。 政権与党の中軸を担う人達が、命の継承運が弱い、無い。 と云うよりも、絶家の家系の人たちだとお見受け致します。 これは個人情報暴露の批判でも、悪口でもありません。 公人の立場で知れ渡っている情報です。 こう云う話題は、おおやけ、特に合理の為には排除する事柄です。 思想とは別、個人的な事と切り離す話題なのでしょうが、 運命学に取りましては、ここが、根幹、最重要な要因です。 『陽』である現象界に出ている現象の原因は無意識界に存在します。 同様に、我々一人ひとりもしかり。 この事について詳細を述べる余裕はありません、が、 読者のみなさまは、もうすでに、その見識をお持ちだと思っています。 ここのポイントは、 福島をアンダーコントロールと世界を煙に巻いて、 その口で、他国へ原発セールスをする日本、 近代国家として一人前に脱皮した、、、、、不幸ですね。 これでいい訳がない、、、、、、 そして、もう一度、思想と云うものについて書きます。 ここでも、肉体と精神を別物と捉える二元論の時空に生きる我々には、 思想は思想と、我々の存在から切り離す癖が付いていますが、 これは、*注東洋の知見の方が、はるかに上、上物です。 東洋の生命観、色(肉体)心(精神)が一体である、と云う事から、 思想性は、人間の在りようを全て規定するとします。 *注(仏教においても初期の発生段階の思想の中には、 肉体と精神を切り離す学派、宗派があるにはあるのですが、 後に原理的には、それらは、方便、権教として切り捨てられています。 しかし、信仰として拠り所・宗派として、依然残っているのもあります。) 思想の影響とは、概念や観念の領域だけに止まらず、 ひとつの思想に抵抗する事もなく≪疑いもなく≫進んで染められた人間の 人生そのものの上に、強く影響を与えます。 その思想の本質が具現して来るのが、約、30~60年後の姿です。 これは、一般的に教育学で云う処の、 一人の人間がどう云う親に、どう云う育て方をされたのか、 環境そのものを吸収して、その結果が20才を過ぎて人格として出来上がる、 と云う事と全く同じです。 運命学では、それとはちょっと違う、 もっと、深い処の関係性を命式上で観る事ができます。 ほっ。 いずれにせよ表層的には、次の様に云う事は間違っていませんね。 我々は、知らずに空気のように吸っている思想によって意識が染まり、 知らずに剪定をされ、思想の規定に沿った姿に育てられるのです。 さほどに、思想と云うものは恐いものです。 人間とは、思想に漬け込まれた〝漬け物”状態だと思ってください。 どんな思想に漬け込んだら、どんな人間ができ上がるか? みなさまは、どんなお漬物になりたいですか? あはは。 赤カブの酢漬け、 野沢菜の漬け物、 はりはり漬け、 はては、京の千枚漬け、 あ、奈良漬けもありますよ! あっ、そう、ヌカみそ付け? あはは。 物質文明が、日本に根を下し、 我々がそれを謳歌するようになって、 人の意識が、知らずに、人を物と扱うようになっています。 自分の意識が満足しないのは、他人のせいとばかりに、 他人の命を、自分の欲望を満足させる道具にならなかったと云うだけで、 役に立たない道具を捨てるように傷つけ、殺め、 物のように切り刻み、捨てられた死体が見つかる事件が、 それも、肉親、親子、職場の人間関係で頻繁に起こっています。 これは、社会の基軸となる憲法、法律、社会機構の中から、 『陰』が排除され、合理性だけを求めた結果ではなかろうか? 合理性のシャワーを浴びて社会を構成して来た我々の業態の中に、 『陰』を重んじる生活実態そのものが消えて来ている結果ではないか? 文字や言葉では、 だれもが、生命の尊厳、人権の尊重と云いながら、 意識の特徴である、今、目の前に在る危機だけを回避する事に堕し、 命に報恩感謝する実践としての『孝』の徳目が消え失せた証拠ではないか? と、、、運命鑑定をする中から感じる日々です。 ますます、便利になって効率的になって近代化が進んで行く! 進んで行く! と云うのは明るい兆しを感じる言葉なのですが、 これが、まったく暗い。 近代合理主義下では、まったく先が見えません。 進むとは、命が脅かされるのが深刻になる事だったのか? どうも、命の継承が困難になると云う事だったようですね。 ここで、 東洋的な知見から、一つのアンチテーゼを書いておきます。 『陽』が『陰』を踏みにじり感謝も報恩も蒸散した国土には、 災害が起こるようになります。 徳性になんの価値も置かなくなった人の住む大地は、 不徳の人間にとっては、安定感を得るものではなくなるでしょう。 全ての事は、我即宇宙ゆえに、 我の色心の業態が宇宙『天地』へ感応するからです。 大地とは、『陰』そのもの。 天から降る『水』は『陰』そのもの。 『陰』と一体に生きようとしない人間の不穏さが宇宙に響くのです。 宇宙即我、 です。 我即宇宙、 です。 それを前頭葉が理解しようがしまいが、です。 感謝をしない人間の傲慢な業態が、『陰』の本体に感応をして、 傲慢さそのものの本質を『陽』・現象界へ表出、現出するのです。 『陽』である現実世界は、 すべて此方側の『陰』無意識界に貯めた業因の合わせ鏡です。 これを西洋二元論の言い方を借りますと、 無意識界の業因が、心身両面に亘って『時』を経て実現するのです。 故に、災害は、『孝』を失った国土に起こって来ます。 これは、オカルトでもスピリチュアルでもなんでもありません。 西洋は、二元論。 自然と人間は別々、切り離して存在するとしますから、 人間と、自然の関係ががバラバラなのです。 二元論に囚われている意識には、理解不能な真実の姿です。 前頭葉を幾ら駆使して科学が探究しようが、 この宇宙は、合理な世界ではありませんから、 五感の情報しか集められない意識には、分からない事なのです。 醜い偏狂な二元論の谷間を這い上がらなければ見えない景色です。 近代国家は草原の虎に非ず。机上のハリボテの虎です。 氏素性を、しっかり見極めてください。 思想の影響と我々、 我々の体から、近代合理主義の埃を払い落してください。 東洋からのアンチテーゼ、 我々は、どうしなければいけないのかお考えください。 できれば、東洋からのアンチテーゼの中に身を置きながら、、、 それこそが、東洋人としての矜持であると、、、 その意識の癖が表われている最近の時事を、二つ取り上げてみます。 ひとつは、政治。 ★安倍総理が言い放った、under control アンダーコントロール あれには、あきれました。 ほほほっ。 オリンピック欲しさに、あれだけのウソが言えるのですね! 欲しいものはどんな事をしても手に入れるボンボンのお育ちなんだな、 オリンピック誘致を成功させる為には、 コントロールしていると見栄を切る! 欺瞞の言葉を口にしてでも欲しかったオリンピック! 非常に脆(もろ)い身震いを感じる世界です。 この人は、何が何をコントロールするって分かっているのか? いわずもがな、人間様の意識が、原発の汚染水をです。 意識が汚染水をコントロールできるのか? 安倍総理が解っていて、そんなウソを言っているとは思えない。 と云う事は、本気で次の3つを信じているのでしょう。 1.意識学問・科学技術が、汚染水をコントロールできる。 どんなものだって科学がなんとかしてくれる。 もうひとつ、東電には任しておられない。 2.自分は総理だから、国会で過半数を取った与党自民党とともに、 国家予算を投入すればできない事は無いはずだ。 3.国権の最高権力を以ってすれば国会と行政府の長である自分が、 できない事は無い。 意識のこの疑似自然空間の中で醸成された、 この3つの驕りからでしょうね。 もう、どうしようもない近代合理主義の伝道者です。 とほほっ。 人間の意識が作った現象達(科学、経済、政治)で、 自然『陰』をコントロールすると云うとんでもない発想! それは、 汚染水タンクから漏れ出る汚染水なら何とかなるでしょうが、 そもそも、その汚染水タンクを満たしているのは、 メルトダウンした燃料棒が落下して、 高濃度の放射線物質が浸潤する原子炉直下の地盤を、 核燃料の大量の放射線物質を含んで、 海へと流れる山側からの地下水ではありませんか? 地盤の中を伏流水でながれる ―――――― 地下水 2013年 2月 17日の記事、 ( 命の継承と運命 10.) 陰陽の波打ち際 (女ばかりの孫) にも、書きましたが、 地中から湧き出る地下水こそが、五感で捉えられる陰陽の波打ち際、 『陰』そのものの創造力から湧き出ているもの、 意識が為す人為的な営みではないのです。 たとえれば、『陰』そのもの、 その無意識界がコントロールしている『陰』を源に発する地下水を 現代科学の知識が、コントロールする? あはは。 ( できる訳がないでしょう?) 近代合理主義の思想自体をよく分っていない。 近代の世界の中に居ると云う事は、 本当の自然を遠ざけ、疑似自然の中にいると云う事すら、 気が付いていない一国の総理大臣! 近代合理主義を信じて疑わない我が国の総理大臣! おそらく、科学技術を以ってして、国家予算を注ぐ覚悟をして、、、 近代国家日本は、 安倍総理の虚の言葉を補完する為に、国家予算を投入するはずです。 さすが、近代合理主義、物質文明、資本主義下の近代国家日本の総理ね! まさに、東洋の中庸を忘れた、近代意識、近代理性、近代科学を信ずる 近代的自我に裏打ちされた政治家の薄っぺらさです。 しかし、合理主義社会の中で、ある程度の地位を持ち、 その優秀な意識のおかげでメシを喰っている人たちは、 これでもダメとは言わないはずです。 さすが総理だ! 国が責任を持ってやると云う決意なのだ、と、、、 日本が肩に背負い込んだのは、東京オリンピックだけではない。 欺瞞や嘘は、必ず地獄へと打ちのめされる日が来ると云うのに、 この軽はずみは言葉で、どれだけの重い荷物を日本は背負った事か、 日本が潰れなければいいのですが、、、祈るのみです。 もうひとつは、司法。 ★9月4日最高裁大法廷で非嫡出子(婚外子)の相続分の違憲判断 これは、難しい話ではありません。 簡単に書きます。 非嫡出子に、正規の婚姻関係のなかで生まれた嫡出子と同じ 財産分与をする事が、おかしいと云うのではありません。 財産をどう分けるか? そんな事は、どうでもいいのです。 最高裁大法廷と云う処は、財産分与を決める処なのか? まさか、家庭裁判所がするような判断を下したからです。 最高裁大法廷が、法的に平等か不平等かを判断する処だとすれば、 ただ、単純に相続財産の分け前を同じにすれば、 それで平等を認めた事になると云う、方法論がおかしいのです。 平等でないものを平等であるようにする方法論が、 相続財産を同額にする事であるとは思えないからです。 あるいは、別の言い方をすれば、 嫡出子と非嫡出子の相続割合が同じではないのが、 憲法の規定に反すると云う訴えを、そのまま平等か不平等かと云う 言葉の二者択一のまな板に乗せる事が正しいのかと云う状況判断です。 その上、揃いもそろって全員の裁判官が、 それはおかしい(違憲)と判断をした。 その事も異常ですね。 揃いもそろって、裁判官全員が、安倍さんと同時期に、 近代合理主義の免許皆伝をしたような?意識偏重の判断を出し、 実に妙な気分になります。 あはは。 実に哀れです。 そう判断した意識機関が哀れです。 司法も尊敬できない。 国民は、そう思ったと思います。 そして、即、仏法で云う処の地獄だと直感したのは、 尊敬できない司法の決定に従わざるを得ない我々の弱い立場です。 国家権力とは、そう云うものです。 平等とはすべてが均等と云う事ではない。 平等とは、外から見える姿が、同一の事ではない。 平等とは、画一性でもない。 今回の違憲判断を知って、最初に思った事は、 ついに日本は、知らない内に共産国家を目指すようになったのか? あはは。 分配を同じくする事を目指そうとするのか? ソビエトが失敗したのを知らないのか? ほほっ。 できない事をしようとする暗愚。 なんでも、同じ。 なんでも、、、、、なんでもとは、なになのか? 同じ、、、、、どうあることがおなじなのか? また、それを誰の意識が決めるのか? こう考えると、 非常に曖昧模糊としたどんよりした空気に包まれます。 そう! 意識がマヒしたような? あはは。 賢明なる明晰な真実ではないからでしょう。 あはは。 平等と云う答えが2としたら、 1+1しか知らないのか? -3+5=8-6=-7+9=157-155=・・・・ 限りなく2と云う答えは出て来る。 1+1と云う幼稚園のような算数でしか満足できない社会と云うのは、 社会全体の幼児後退です。 また、世論に迎合しようとする最高裁も、しれたもの。 これで天下が治まると思ってか? 智慧の無い悪世、世も末です。 財産額で、平等を証明する世とは、金権主義、物質主義そのもの、、、 嫡出子と同額の遺産分与を受けて非嫡出子は本当に満足なのか? 非嫡出子が、平等に与えられなかったのは資産ではないはず。 その父の愛情そのもの、その生まれの不遇さを埋める何かが、 欲しかったのではないのか? そう考えると、もしや非嫡出子の友人がいたとして、 あなたは、友人の為に、その同額の資産を手にした満足を、 喜んであげられるか? その友人を生涯の友として尊敬できるのだろうか? 人を裁く場所での真の平等とは、 人の前後、左右、上下を見回して普遍性を帯びた智恵でなければ ならないはずが、それらを感じられません。 普遍性の方途をリードできない司法の「理」のなさ、 知はあっても「智」のなさ、 『陰』の喪失を、『陽』の偽性を露わにした限界を観じました。 本来の人間が定める法と云うものは、 限りなく自然法に沿ったものでなければならないと思います。 時代や場所によって変化しない普遍性、 人為では変更できない不変性、 影響を受ける人間に与える合理性など、 相続額を同じにする事で、皆がしあわせになれるのか? この違憲判断において、 なぜ、平等がそこまで注目されなければならなかったのか、 婚姻外の男女関係は生まれた子供には無関係だと言い切る司法は、 本当に正しいのか? それらの問いに出した近代国家の無意識を捨てた司法の答は、 納得が行かないままの処を残しています。 『陰』を切り捨てた意識の造作物だけの程度、 司法の程度が知れた値打ちがないモノでした。 この程度の司法が、死刑をも宣告するのですよ? こんな事で、反省する事はないのだろうか? 非常に、大きな疑問、 この国ではもう何も頼れない。 それを自覚しただけでした。 あはは。 もう、これでは、 道理を信じて自分の思う正しい生き方をするしかありませんね。 だが、注目しておかないといけないのは、 このように、近代合理主義に染まった人間や国家の所為は、 真に人間としてまっとうに生きた人間を深く疎外をし、傷つけます。 おそらく、この判断で一番深く傷つくのは、 これから、この判決通りの遺産相続が行われる事で、悲惨なのは、 女道楽で愛人に子供を産ませた夫に、黙って我慢をし、 子供達を育て、家を、家業を守って来た正妻です。 正しく妻として母として不幸な女を乗り越えた正妻です。 つまりは『陰』たるべく生きなければならなかった女性です。 それをやり遂げた一人の女性です。 その事を考えると、やりきれない思いになります。 資産を残すほどの稼業なら、 夫の勝手を我慢し家業を手伝った正妻の内助の功、 その母を見ながら反抗もせずに父の仕事を盛り立てた子供達です。 時には、自宅が資金繰りの為の銀行の抵当になった修羅場も潜り、 こうした目に見えない正規の家族たちの苦労があっての資産でしょう。 夫の死後、子供夫婦と一緒に暮らすべく正妻の老後の家は、 婚外子へ渡す財産の為に処分をしなければならないようになるはずです。 ここで、苦しむのは、 若き日に愛人を作って子供を産ませた夫ではなく、 全てをひき受けてひた向きに苦労を受容した『陰』である正妻なのです。 道理を踏み外した夫が資産を残せた陰徳は、だれが積んだものなのか? 一番、苦労をしたのは誰なのか? ーーー 意識の傲慢な所作は、必ずこの貴重な『陰』を殲滅します。 我々のような、ほとんどの庶民の場合は、 夫は婚外の女に子供を産ませるような余裕はなく、 しかも、死後、分ける程の資産も残さないはずですから、 関係ありませんが、、、 あはは。 いずれまた、( 命の継承と運命 )シリーズで、 不倫の結果生まれた子供がどう云う運命を持って生れて来るのか、 その母親はどうだったのか、書こうと思っていますが、 不倫をする行為自体が、 『陰』の創造性を阻む女系化への結果であり原因なのです。 東洋的智慧で、何が正しい判断なのかは、 真の意味のお裁きは、「天・地」の道理が行います。 ほほっ。 運命学で云いますと、 嫡子か非嫡子か、きちんと運命上に違いがあるのですよ。 冷たい言い方のようですが、 道を外れた親の子と、そうでない親の子と、 厳然たる違いが、その後の家系に違いが出ます。 違いがなければおかしいでしょ? 意識が作った法律には、それに適応する智力がないのです。 意識自体、それに対応する能力を持っていない。 人間を司法で裁く事はできません。 なぜなら、近代化から生れた言葉群をいくら並べ立てても、 ロジックを構築して法律や制度を作ったとしても、 それらにそもそも真実は宿ってはいないのですから、、、 人間を幸せに導く力は無い。 しかし、無視をしてもいいと云う事ではないのですよ! この国に住む以上は、人法に従うのが、仮に方便であれ道理です。 そう云うものであると云う自覚をした方が良かろうと云う事です。 意識に真実が宿っていない事に、まだ気が付かない方が多いですね。 気が付いた方は、人が良い、正直な人が多いから、 まともな人は苦しいはずです。 言葉の中身が抜けている事を薄々感じて腹を立てて苦しむはずです。 目の前にあるものが、実際の生身の心身から遊離した感覚を覚え、 頼るべきモノの存在自体が、 破たんから出発しているのではないかと云う疑いの為に、 天地の間に生きていると云う人間の一番必要な安定感がないのです。 ここが、善を説きながら、悪法たるゆえんなのです。 そう云う不適応を起こすだけでなく、 そのストレスによってなだらかな感情や、平安な気持が続かない。 『陰』を無視する近代国家の害毒は、 我々の心身の拠り所、根源を無視する制度となり 人が善意や正義に信頼を置く道理を軽んずる法律となるはずです。 地球規模の、目の前の浮き沈みの現象に乗せられて、 人間の観念から生れた泡のような情報に右往左往し、 便法を本質と取り違え、今の大事な時をつぶし、 いつのまにか、そんな事に自分の(命)を賭けている我々、、、、、 薄氷の上を歩くと云う表現がありますが、 それどころか、我々は、 今にも砕け散る他人の意識が作った情報の切片の上を歩いているのです。 意識の目指す、近代的自我意識の作った近代国家。 当然ですが、近代国家の限界やひずみや矛盾は、 意識が持つ欠点と同様、国家レベルでもっと大規模に出て来るはずです。 そこから、 自分の心身が、信じていた言葉や頼るべき法律や制度からの 深い疎外感が生れているのを感じるでしょう。 この怒りにも似た言葉にできない苦しみを、 仏教では、 瞋(じん)と謂います。 深く怒って苦しむ事です。 苦しむ人のいる場所を地獄と謂います。 地獄の境涯を持つ人の住む国土には、災害が襲って来ます。 これは、東洋独自の観点ですが、 環境と我(自分)とは同じ根。 我も環境も、同じ根から出た現象です。 災害が、頻繁に襲う国土に、とうとう日本は堕ちたのです。 先祖から受け継いだ太陰の土地を放射能で汚したのは、 誰でもない、近代化で自国の徳性を捨てた我々ですよ。 最後に、もう一度、この事を繰り返しておきます。 2011年 5月 28日の記事、 (東洋的教育法) 学問の知識で人生を考えてはいけない 13 にも書きましたが、 全ては、 日本の国土から『孝』が抜けて行っている過程で起こっている事です。 うさんくさいと思われるでしょうが、 東洋的見地から云うとそうなるのです。 「孝」を国土から失う。 現実を表わすのに、的確な表現です。 時代はひとを蝕んでいます。 そろそろこの思想に幕を引かなくてはいけません。 その為に、今、一番するべき事は、 意識の傲慢さを反省するべきです。 意識(政治、経済、科学、司法)グループの傲慢さですね。 『陽』の世界の最高権力者、 それが『陰』を潰す元凶になるのですよ。 チベットしかり、ウイグルしかり、アラブも、、、、、 今日の記事はむずかしかったでしょうか? あはは。 読み飛ばしてくださいね、、、 ほほっ。 読み飛ばしたら読む処がない!? あはは。 個人として、今の近代合理主義下において我々ができる事は、 意識の傲慢さを反省する事です。 『陽』への偏りを糺すのは、反省、内省です。 謙虚さ、感謝、反省、内省は、『陰』そのものなのですよ。 中庸に戻るとは、そう云う事です。 特に、女性が反省をしなければいけません。 なんだか、結論は修身になってしまいましたけれど、、、あはは。 反省なら、一介の人間は、だれでもできる事です。 しかし、権門のやからには、守るものが多くてできないのです、ね。 あはは。 素直さがあれば実行できる事です。 ほっ。 反省と内省で、新しくなっていくご自分を意識してください。 いままで、丸いと思っていたのものが球体だったなんて、 分かったりする事もあるのかもしれませんが、 それもそれなりにいい事ですね。 ほほっ。 次の更新まで、お元気で! 素敵な毎日を、、、ど~ぞ! -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2014
03/06 18:43 |
〔近代化の奈落 4.〕 近代家族の地雷 未婚 非婚 少子化Category : 運命学と近代化
涸沢へ出発!
上高地 大正池からの北穂高連峰 ( 昨年9月30日) ![]() もう、5ヶ月も前になる昨年の涸沢(からさわ)へ行った時の写真を、 これからの記事で数回に分けて紹介します。 初秋の涸沢の気温は、 夜明けは氷点下に、日中の気温が4℃位になります。 今の、冬の気温です。 2月 8日、14日ごろ九州や東日本に大雪が降りましたね。 あの時の寒さが、標高2310mの涸沢だと、9月末なのです。 午前中、夏の姿で蒸し暑い新宿を出発。 午後1時ごろ、上高地のバスターミナル着、 さすが上高地、空気がさわやか、大勢の人、人、人。 今日の宿、徳沢園を目指して大正池(梓川)右岸を歩くと、 左手に北穂高連峰が見えて来ます。 【上の写真】 この穂高連山頂上の真裏が、目指す涸沢(からさわ)です。 上高地バスターミナルから歩きだして、1時間で明神を通過。 明神岳を左に仰ぎながら、さらに1時間で徳沢園に到着。 この日の歩行距離 ( 約7km 標高差約60m 2時間) 徳沢園では、9月末なのに、もうすでに全館が暖房でした。 各部屋にはストーブが置かれて、もう、すっかり冬支度。 全館、京都の老舗から取り寄せたと云うお香が焚かれていました。 徳沢園の前庭に広がるキャンプ場 【下の写真】 朝夜は冷えるだろうに、若い人が頑張ってテント泊をしているんだろうな? ![]() そこはかと秋の気配が、、、と云うよりも、冬がヒタヒタと、、、 徳沢は、涸沢・穂高連峰の他、槍ヶ岳・常念岳・蝶ヶ岳などの 名だたる山岳への登山道の中継点、交差点です。 この辺りは、電気が来ていないのですね! 昨年の嘉門次小屋もそうでしたが、山小屋は自家発電です。 部屋にテレビはなく、夜は9時で消灯です。 水は井戸水、携帯電話はつながりません。 郵便屋さんもここまでは来ないそうで、森の中の夜は外灯りもありません。 ----- 猿も出るそうです。 いわゆる〝便利幻想がない、素敵に不便な場所”なのです。 常に進歩しなくてもいい場所! ほほっ。 夕食の後の宵闇は、 まだ夏草の風情が残っていて、 草木の匂いに誘われるように外に出てみたのですが、真っ暗闇。 寒い! 見上げると天空の手が届くような近くに星々の瞬きだけがありました。 夏草と、秋の紅葉前の木々と、冬の冷気が同居する不思議な森。 こんなに星がイッパイだから、明日はきっと、晴れるわ! ほっ。 この1年間の山行きは、一度も雨に降られていないのです。 早朝、 窓の外は小鳥達のさえずり、川べりに聳え立つ北アルプスの山々、 此処は、いつもいる場所ではないんだと教えてくれるようです。 そうだ、此処には排気ガスも騒音もない、 気兼ねなく深呼吸ができる、、、 そう意識する前に、 無意識が、自然に対応する体をスタンバイさせているのがよく分ります。 この感覚よ、この感覚が、山で呼び覚まされるのが、よく分ります。 森の中へ入って行くにつれて、「 細胞の目が醒める!」 あはは。 細胞に目があったならの話ですが、、、 それ位のシャキッとした感覚を抱きます。 事実、そうなのです。 山では、メガネをはずしても目が良く見えるようになります。 これは、体の深部からの血行が活発になるからでしょうね。 非常に心地いい! 都会生活で便利に馴らされたワガママは消えています。 自然に迷惑をかけないように、山では勝手はできないのです。 登山と云う山への侵入を、自然にあたたかく受け入れてもらうには、 足るを知る。自然との丁度の程々の処が人を謙虚にします。 昔から、修行と云えば山に籠もると云う行動は納得ですね! また登山をする人が、よく言うのが、 危険の予感と達成感は表裏一体だって、、、たしかにそうですね。 必死で行動している時がハイライトなのです。 こう云うハイライトが、便利で効率化された都会の日常にはない。 その代わりに、資本主義が売ろうとする 他人の意識が作り上げた大量生産の雑多なニセ物の快楽は、 我々の身の周りにゴロゴロあります。 そう! 近代合理の贋物の快楽ばかり、 我々は、近代合理主義に酔う事によって命と同等のものを失っています。 まず、我々は、自然を身近な処から失っています。 5,6分も走れば、川を越えて、背後にあった不動の山、 20分も下れば、磯の香りがする浜辺は、生活圏にはありません。 それは、つまり、我々のなかの生物としての能力が消失していっている事、 お気づきでしょうか? 時代は、その事を無視しています。 そう云う狭間で、掴む情報は、 自分の欲望の満足を充たす事が、生きる事だ、人間としての能力だと、 それ以上の価値は、この地球上にはないのだと錯覚をさせます。 自然と人間とは別々、自然は人間が支配する物、 と云う西洋二元論が当り前になっている時空の中で、 その事を分らせない雰囲気があります。 その事に気が付かせない圧迫感があります。 今の状態が、当たり前だと云う時代の常識の押し付けがあります。 そう、感じられませんか? だって、そうしておかなければ、立ちどころに存在できない物が、、、 出て来てしまいます。 近代合理主義の構造体そのものが、瓦解するのです。 だから、時代のバリアが目に見えない様に張り巡らされています。 近代合理主義が、お追従(ついしょう)で言う、 自然はいいものだ、大切にしよう、共生しよう、 意識が、お飾りに語る言葉には、うんざりします。 偽善です。 それらは意識が都合の好い時に身に付けるファション性を出ず、 あくまでも、意識にとっての自然は、 対価を得て商品として売る物、 何か追いつめられると、意識が真っ先に犠牲にする物、 自分の対岸の物でしかありません。 我々が、自然を、詩に書き、絵に描き、癒しの場として【利用し】、 飾りを付けて語る事で自己満足をしている内に、 自然は、我々から遠くなっただけはなく、 自然は、狂い出しています。 大地震、津波、竜巻、大雪、集中豪雨、 これらの自然災害は、間違いなく『天』からの便りです。 これらの『天地』のエネルギー、 全ての生物を生み、生かし死へと運ぶ無意識からの本然的生のエネルギー その無意識界を無視する人間の意識の傲慢さが、 必然的に呼び起こす因果応報の現象に気が付かないのですね。 それは、そうです。 これだけの大自然からの通知、警告だと云うのに、 誰も、何も気が付かない。 無意識界の存在を無視をしているからです。 振り返って行状の反省もせず、(反省こそが『陰』なのですよ!) この大自然が、あまりにも猛威になったからだと、 全てを自然のせいにして片づけ、目を逸らさせています。 そして、更なる科学の技術を期待させるのです。 そちらに、我々の関心を持って行くのですね。 科学の技術革新で、これ以上、自然をどうすると云うのですか? 技術革新して、もっと自然を支配しようとでも謂うのですか? あはは。 膨大な生を動かす無意識界からの1切片でしかない意識の集大成が、 科学だとしても、あくまでも意識の範疇の中でしかない科学が、 そのたかが全体の1spot でしかない科学が、 どうして無意識界からの現象を止め、抑え、防ぐ事ができるのか? この傲慢をいい加減にしてほしいと思います。 まったく理解できません。 更なる科学の技術革新で、更なる自然を支配していけば、 もっと現状は悪くなるでしょう。 余りにも、科学を含む意識連合は、無意識・自然に対して無知、愚か、 余りにもあまりにも無力なのです。 とにかく、近代化の純化路線を遂げた日本は、 近代合理主義から来る自然に対する傲慢を捨てる事です。 この日本列島に日本人がずっと住み続ける保証はありませんわよ。 日本人が本来持っていた自然観に立ち返るべきですね。 それを、世界中に、広める使命があるのではないかと訴えます。 クールジャパンより、もっと本源的な、最重要な事柄です。 他の先進国は、いろいろな近代化の抵抗勢力を内部に抱えていますから、 それはそれで、純化した近代化に至らないで救われています。 近代化の大元、アメリカにおいては、 確か、昨年中に生まれた新生児の総数で、 初めて白人よりも、白人以外の人種の出生数の方が上回りました。 この勢いは、ますます堅調になって行くでしょうから、 昨年生まれた新生児たちが20歳になる2034年頃以降、 アメリカは今のアメリカではない、白人は後退しているでしょうね。 これは、私の持論ですが、 近代化を進めれば進める程、生物としては虚勢をされる。 はっきり謂うと、種族保存能力が萎えるのです。 本来、人間は自然を捨てて無視をして生きて行く事はできないのです。 自然の中の人として、立ち戻るべきです。 自然を失う事は、自分の命を粗末に扱う事、命の炎を消す事なのです。 軽薄な! そんな事すら知らないで今に、至ってしまっている、、、 その事をもっと率直に認めて現在を反省するべきです。 そして、自然の一員としてのルール、自然に対する道徳からリスタート、 やる治すしかありませんね。 その方が、気候変動によって起こる自然災害の被害の損失を、 毎度、毎度、地方公共団体が、国家が、救済する為に拠出する予算よりも、 どれだけ安上がりか! ほほっ。 でも、これはなかなか推進されないでしょう。 なぜって、そのプロセスで、誰も、儲からないからです。 あはは。 風が吹けば桶屋が儲かる式の自然災害の利権構造にとれば、 それはおもしろくないかも知れませんからね! ほほっ。 人間は、自然の中で揉まれるべきであり、鍛えられるべきです。 人間は、五行のエネルギーによって進化する存在であり、 プラスティックに囲まれては、人間は生きてはいけません。 五行からのエネルギーを遮断されてしまうだけです。 このまま人工物の中で、自然から隔離された場所に居てはダメです。 いいですか? 自然が失われたのは、山や川や森や木々だけではないのです。 我々の命の継承そのものも自然ではなくなっている、、、 近代化によって変わったのは、 工場での大量生産の為の資源獲得の為の自然破壊だけではありません。 人間の命に不可欠の自然を、 近代合理主義は物として人間から切り離しました。 。。。。。ここから、少子化と云う現象が立ち昇って来るのですよ。 え、それって、論理の飛躍じゃないかって? いいえ! ぜんぜん飛躍ではありません。 ほほっ。 そことあそこが ! 意識でつながらないから、分らないのです。 つながらない部分こそが、無意識界、『陰』に当ります。 意識などに全貌が見えるはずがない。 ほほっ。 そここそが、近代合理主義の盲点なのです。 この世の全貌は、意識などには分らないはずです。 その為には、なるべく自然の中へ入って行く事をお勧めします。 山の天気も数年前からみると、変って来ています。 山は、午後は天気が崩れるので早々に下山をします。 なぜなら、太陽の熱で下界の水分(川、湖、海)が、 ガスって(蒸気となって)山を登って来るのが夕方でした。 そうなれば、道に迷う、雨になる、いろいろな事が起こるからです。 しかし、最近は、下界の気温が高い為に、 ガスって来るのが早くなっています。 午後に頂上に立っても、周りはガスって何も見えません。 頂上からの景色を見るのなら朝の内に登頂しないと、 地上の蒸気が、山へ到達する前に頂上へ行く必要があります。 あなたが今朝、飲んだ水は、2日前、天空に雲であった水蒸気なのです。 あなたが、午後、その水を排せつをすれば、 下水から川を経て、太陽エネルギーで、再び、山へ登って来ます。 そして天空に戻る程なく、又、雨になって下界へ降りて来るのです。 山では、この水の移動が手に取るように目で見えます。 地球の木・火・土・金・水の周流が変動をしている。 山は、天地のエネルギーの変化の気配を体で感じる事ができます。 自然の中に、2週間おきに行くと、いろんな事が分かります。 自然の中に住んでいる人には、もっと分かるはずです。 そして、五感では掴めない無意識の領域の事まで、 こう類推する事もできるのです。 ならば、我々の体内の木・火・土・金・水も変っているはず、、、 それは、どう云う変化で顕われて来るのだろう? 自分の体の中から聞こえる声を、変化を、聞かなければ、 頭ではなく、まして耳でもなく、 自分の体のすみずみの変化を訊かなければいけない。 全身の均衡を失っている体の悲鳴を聞かなければいけない。 テレビもパソコンもスマホも視覚への大量な刺激です。 その間、耳や鼻や舌や皮膚は眠らされているのですよ。 昼間っからね、、、 これじゃ、全身の血液は偏るし、神経系の均衡は崩れますよ。 これは、生物の本来の生ではない。 人間を本来の生物の生から遠ざけたのは、科学文明です。 知性はなにの為か、定義しなおさなければなりませんね。 人間の知性、科学は、大自然から人間を守る為に 便利で快適な空間で人間が住む場所を囲って、自然との距離を開けました。 このビルのず~っと向う側、あの空の下、 川が、山が、大自然が、刻々と変化をして行く様子が、 手に取るように分からなくなってしまいました。 そりゃ、天気予報はテレビやネットで知る事はできますよ。 でも、天気図を頼れば頼る程、自然からは遠ざかるのです。 肌に感じる微風から、雨を予見したり、 雲の動きから、明日の天気を感じ取ったり、 髪の湿り気から低気圧が近づくことを感じたり、 そう云う人類が生きて来た中で、鍛えて脳に顕在化させた能力は、 衰退していくのですね。 近代化の影響を、我々の外側で、地球と云う広がりの中で見てみると、 今まで書いてきたような光景が、眼前に広がっています。 次は、 我々にとって、もっと身近に目を巡らせてみてください。 もっと、身近な、しかし、深刻な近代化の弊害、 近代化の地雷が仕掛けられている場所、 あなたの事、あなたの家族の事、 あなたが生れて来て、受け入れざるを得なかった家族、家族形態です。 今、普通だと思っている家族形態は、 実は、我々の前の世代が、そうしたくて作り上げた形ではないのです。 と云う事は、将来に向って変えて行く可能性もある事なのかも知れません。 あるいは、変えていくべき形態なのかも知れません。 これも、間違いなく、 近代化の大波によって、押し流された結果の家族形態なのです。 では、本論へ行きます。 今日の記事は、 〔近代化の奈落 4.〕 近代家族の地雷 未婚 非婚 少子化 2013年 5月 26日以来の近代化の奈落シリーズの記事です。 思いっきり、はっきり書いてしまいますと、 近代化の行く末は奈落です。 あはは。 いわゆる、 ユングの云う*注 リビドーを衰退させる方向なのです。 *注 リビドー = 生物としての全ての本能のエネルギーの力 これを、ユングは、Libido(リビドー)と言いましたが、 無意識を源泉とする生の本質的な力の事です。 近代化は、自然破壊や自然災害と云う側面だけでなく、 実は、もっと大きな問題がある、、、 それは、 我々の家族を近代化してしまったのです。。。。。。 それは、 個人を近代化してしまった。。。。。。事と同時にです。 それは今や近代的自我となって満開を迎えています。 ほら! あそこにも、ここにも、 ほほっ。 その結果、日本人が堕ちた奈落が、無縁地獄と云うものです。 社会的にも、老人の孤独死が発見されるなど、紙面をにぎわせていた頃、 無縁社会と云う言葉が生れたようですが、 この記事では、無縁地獄です。 無縁地獄とは、独居老人の事だけではなく、 年令に関係なく未婚 非婚 少子化と云う形態で顕われて来ているのは、 近代化によって伝統的家族が崩壊し、 近代家族に変貌する事によって、命の継承の危機を起したのではないか? と云う事が今日の記事から暫くの間、書く予定の記事のテーマです。 この事は、当初からこのブログがメインテーマにしている事柄です。 本論に入る前に、 まず、<近代家族>と云う言葉について説明を簡単にしましょう。 18世紀半ば~19世紀にかけて産業革命(くわしくはここへ)以前は、 いわゆる伝統的な家族形態でした。 一軒の家に、 父方の祖父母、両親、両親の兄弟、子供達の大家族で住んで、 稼業の第一次産業(農業、漁業、山林業など)に従事して生計を営む。 家事全般、子育て等も、大家族全員が協力をしているのが普通でした。 働く場と生活の場が同じ、あるいは直ぐの所にありました。 でも、この時に、 今の父親たちが、イクメンを推奨されているように、 全ての父親が、母親と平等に子育てをしていたかどうかは別です。 恐らく、大家族中で、 父親は、男性陣(祖父、叔父、兄弟)と共に家業に従事していたはずです。 母親を手伝ったのは、女性陣(祖母、叔母、未婚の兄姉たち)でした。 彼女たちが家事や弟妹の世話をすると云うのが普通だったはずです。 それが、産業革命以降にそれが近代家族へと変貌をして行きます。 資本主義経済で機械化された大工場(職場)が大量生産の為に、 多くの労働者を必要とするようになりました。 その為に、田舎での貧しさから抜け出したい若い世代が、 都会に出て働くようになります。 都会で働いている男女が結婚をすると家族は2人しかいません。 2人で暮らしたいからそうしたと云うよりも流れからです。 夫は工場へ働きに行き、妻は家庭で家事、子育てをするという 役割分担の生活様式が自然にでき上がりました。 男女の性別分業によって、専業主婦と云う言葉が生まれたのです。 ここで、夫と妻だけ、夫婦と子供だけの核家族と云う言葉が生れ、 職場と住居が別々と云う意味で職住分離と云う言葉が生れました。 この家族形態の近代化による変貌は、 我々が望んで変貌をした形、結果ではないのです。 だから、 個人の基本的人権を基礎とする核家族、職住分離、男女平等、 の実現を志向する現代の家族形態は、 人間にとってどう云う家族形態が良いのか?と云う議論や問題を 置き去りにしたまま無頓着に変質変貌を遂げた結果なのです。 このように家族形態を大きく変えた原因は、次の2点です。 1つは、社会的には、主役は経済だったのです。 資本主義、大量生産の大規模工場の出現と云う 社会の産業構造の変化が、家族システムと家族構造を変容させました。 2つは、個人的には、主役は個人主義でした。 近代化による個人の人権の尊重、男女平等観等の思想の浸透もあり、 このブログで云う近代的自我の形成が、家族形態の変貌にも 多大な影響を与えて来ました。 特に、日本においては、 前近代の徳川の封建制度で、 朱子学派が儒教を歪めて押し付けて来たお殿様への忠誠! それを支える家への忠誠、家族集団への忠誠、親への忠誠と云う 旧来からの抑圧が過酷過ぎた事もあって、 そう云う桎梏からの解放を願う気持ちが余計に近代家族へ走らせ 国民が、この変貌を家制度からの解放として受け入れたのです。 この頃の時代は、 政治は民主主義、男女平等、などの 近代合理主義の敷衍された生活を実現する事が、 我々人間が幸せになれると信じる機運が横溢していた のです。 その気運の真っただ中で青春時代を送り、 近代化を全身全霊で浴びた世代が、団塊の世代です。 その団塊の世代が若者だった頃は、 -------- そう云う考え方に乗らなければ時代遅れになる。 近代化=絶対の価値観として日本中が吸収をして行ったのです。 実際に、都会へ出て来て高学歴者になった者、 時代の思想である近代合理を意識で理解できた頭脳を持つ若者は、 近代化システムで発達発展していく世の中の流れに乗ろうと思えば、 先陣を切って我先にと泳ぎ出せたのです。 しかも運が良い事には、 戦後の世界で、何もない原っぱから、右に上がるしかない時代を、 ハングリー精神を持って思いっきり今の社会を構築しようとして来た 達成感を味わった人たちなのです。 団塊の世代が自信満々なのは、そこから来ています。 日本の一番いい時期だったせいもあって、 伝統の破壊、家族の変貌についての批判は社会的になかったのです。 核家族こそ理想的な家族で、家族の平等も当り前、友達親子など、 旧来の家族形態を完全否定する風潮が蔓延していました。 それが問題視しされるようになったのは、 核家族の子供達が成人してからです。 団塊の世代の親子関係がウマくいっていない現象は そこここで謂われるようになりました。 近代家族の弊害や伝統の破壊から来る家族道徳の崩壊の問題、 核家族がどうだ、と云う議論は、変貌の後、その頃から起こったものです。 この世代の親子関係には、 あらゆる問題点が社会現象のように溢れて来ました。 自由に自主性を重んじられて育てられた子供が、結婚をしない、 結婚をしても子供ができない、 ・ 生れた子供は二人とも娘で30過ぎで未婚、 ・ 大学院まで親のすねをかじった長男が、 兄弟にも親にも10年も音信不通、40になるのに結婚をしていない。 ・ 苦労をして育て上げた娘たちに、 おかあさんはどうして主婦なんかしているの? どうしてキャリアをあげなかったの? と馬鹿にされる母親。 ・ 恋愛して子供ができた、結婚をした、離婚をした、 そう云う娘が乳飲み子の孫を2人も連れて出戻って来ました。 もう結婚はイヤだといい、今は親が養っていますが、 この子たちが、将来どうするのか心配です。 ・ 結婚をしても、自分の役割がまったく分っていない夫、 自分のお給料を全部、車に注ぎ込んでしまう、、、など、 もう!こう云うお相談が、ここ10年以来、溢れております。 近代化の全課程修了で満足!満足!の両親の元へ、 その満足が当たり前!で、努力なしでその満足を維持したい! 実家にいつまでもパラサイトする娘や、 自立をして出て行くと、その自由の身分の方が大事で、 実家も親も忘れてしまう糸が切れた凧のような息子、、、あはは。 近代化を体現した近代化製ゴジラが生れて来た! と云うお話でございます。 あはは。 それで、なんとかしないとと思って書き出したのが、 このブログでございます。 ほほっ。 このブログは、それらの原因を近代合理主義と云い切っています。 後は、運命ですね。 しかし、世の中は、はっきり原因を言いません。 近代合理主義と云えば、お困りになる方が大勢、偉い方々の中に、 居る訳でして、 あはは。 個々の親子関係、育て方、そちらの方へ気を逸らしております。 母親一人が悪いなんて、責任をとればいいなんて、 そんな、なまちっろい問題ではございませんのよ。 ほっ。 たしかに、母親、それを含む家系の問題ではあります。 そこは、運命学のテリトリでございます。 ほっ。 いいですか? 気が付いてください。 自然が失われたのは、山や川や森や木々だけではないのです。 地球だけがおかしいのではないのです。 天候や地殻変動と謂われるものは環境で起こっているだけではないのです。 我々が、壊して来た自然は、山や川や森や木々だけではないのです。 我々が、壊して来た自然は、我々そのもの、命そのものなのです。 無慚な姿に変貌をして来たのは、山や川や森や木々だけではないのです。 無慚な姿に変貌して来たのは、我々の生物としての生命力なのです。 無慚にも自然の秩序を失って来たのは環境だけではないのです。 我々こそが、自然の命の営みの秩序を失いつつあります。 いや、それはないよ、 自然だけだろう? と思えるのは、 それは、狭い範囲の概念、意識が作った二元論のマジックです。 人と自然は別、 自然は人間が支配する物質でしかない。 精神と肉体は別。 この窮屈なロジック! この21世紀の現代科学や政治経済を支える西洋二元論、 この前提は間違っています。 その根底には、キリスト教教理があります。 この事は、今まで何度も繰り返し記事にして来ました。 自然をどうしようと、自分には関係ない! 自分の意識が、知っている事がすべてだ。 これを純化して取り入れ、完全近代化を成し遂げた日本を見れば、 近代合理主義が、どう云うものか分かると云うものです。 ----- いいですか? この地雷が、近代家族の中に仕掛けられているのです。 これらに反して、東洋にはアンチテーゼが存在します。 東洋における叡智の最高峰は、≪ 最高峰と断っていますよ。≫ 自然観、宇宙観において、 ≪すべての東洋の思想がこう謂っているのではありません。ほっ。≫ 人間と自然は一つのもの。 物質(肉体)と精神(心)は不二のものである。 つまりは、 自然を壊す事は、人間を壊す事である。 自然を失う事は、人間である事を失う事である。 人間である事を失う事は、つまり、 我々の命の継承そのものが自然ではなくなるのだ、、、、、、 生物としての存在の危機であると云う事なのです。 端的に云いますと、 地球をおかしくしている近代以降の知性に因る自然破壊は、 まったく同時に、我々の命の自然をも破壊していると云う事です。 もっと、的を狭くピンポイントに絞りましょうか? まったく同時に、我々の生殖機能をも破壊していると云う事です。 先ほどのリビドーを衰弱させていると云う事です。 それなのに、 物質文明の支配する現代社会は、 それらの解決を、いかにも物質文明らしいやり方で、 少子化を保育園や、女性の地位の向上で何とかしようとする低俗性に とどまったままです。 誰も、 東洋の地の日本に置いても、だれも、 近代合理主義の欠点、矛盾点に気が付き反省すら出て来ません。 それは、多かれ少なかれ、 今の現文明、 近代合理主義の恩恵、物欲の満足を追いかける事で事足れりの感を 我々が持っているからなのでしょうが、 この一番の被害者は、男性だと思っております。 いいえ、私は特に男性の味方と云う訳ではないのですが、、、 ほほっ。 でも、まず、女性が女らしくなくなっている現代社会は、 『陰』の徳性の欠如が起こりますから、 『陽』である男性が、男らしくいる事がむずかしい社会です。 あっ、女性に責任転嫁をしている訳ではありません。 しかし、男性達は、元の役割の位置にそのままですが、 女性たちが、その役割から移動しようとしている、、、 まるで男女を画一的な一つの性にしようとするかのような、 男性が男の性に誇りを持てる生き方ができなくなっている社会、 若者が、将来へ明るい光を感じられない社会だと言いたいのです。 これは、 物質文明の支配する現代社会が到達するべくして到達した極みの 意識だけを重用する『極陽』の現象化が社会をおおっている。 と認識をしています。 『極陽』なら、『陽』の現象化が盛んになるはずではないか?って 『陰』がいたぶられて、『陰徳』が衰微する訳ですから、 『陽』の炎は盛んにはなりません。 消えそうです、、、、、 『陽』の衰微する兆候が、あちらこちらで、出て来ます。 ◆ 通俗的な象徴で云えば、それらは、家庭では女性上位、 年増の妻に弱い夫、女房の方が収入が多い、 姉ばかりの末っ子の男の子、 まともな男性がまともな職業に就けない社会、 一家の主の収入が伸びない経済、等々です。 ◆ もっと、卑近な例を申し上げれば、 どうも、近代化の流れに上手く乗って生きて来た人や、 言い換えれば、 今の時代の正解に合わせて100点満点の合格点を出して生きて来た人が、 人としての一番具わっていなければいけない事をmissingしている。 いわゆる団塊の世代を想像してください。 子供の喜び事、孫に出合えない老夫婦が、多くいらっしゃるのです。 孫がいてもおかしくない年齢になっても、友人間での話題に、 うっかり自分の孫の事は出せないと気を使わなければならないそうで、 それだけ孫がいるのが普通と云う世の中ではなくなって来ているのです。 ★★ここで、各種データーを紹介しましょう。 内閣府の少子化に関する国際意識調査による異性関係の国際比較~ 9種類の情報録があります。 ご覧になってください。 異性関係、セックスレス、妊娠中絶等に関する国際比較です。 興味本位ではなく、このデーターの奥にある ユングの云うリビドーがどうなのか? を感じてみてください。 我々日本人について、果たしてどう思われるでしょうか? ◆異性関係の国際比較 ◆合法人工妊娠中絶の国際比較 ◆国内における未成年の人工妊娠中絶(推移と地域状況) ◆世界各国の所得水準と出生率との相関 ◆有配偶者のセックスレス夫婦の動向 ◆主要国の性行動比較 ◆世界各国のセックス頻度と性生活満足度(41カ国) ◆世界各国のセックス頻度と性生活満足度第2版(26カ国) ◆世界各国のセックス頻度と睡眠時間 社会実情データー図録から引用しています。 ユングの云うリビドーが、無意識界を本源とする本能とは、 東洋の『陰』の意味に通じる概念ですね。 日本人は、どんなに、命の自然から離れてしまった事か。。。 『陰』・自然から離れている実体が覗えますね。 何事にも真面目な日本人は、 近代化にも真面目に取り組んで来た。 個人の生活の全てを犠牲にしてまでも、 社会の、会社の、家族の近代化を進めた ――――――――― と云う事が、 反って、まともに近代化の弊害を受けているようです。 しかし、我が国の社会は、 そのレール(軌道)を踏み外している事に気が付いていない。。。 その結果として、 間違いなく言える事は、 只ならぬ様相を帯びて来ていると思うのが、 未婚の人が増えている事と、 結婚をしても子供が授からない夫婦が増えている事と、 年をお取りになって、生活は悠々自適な生活をしているにもかかわらずに、 子に子が生れない = 孫ができない老夫婦が増えている事です。 長年生きて来て、人間としての生きざまの努力を積み重ねながら、 これは、ひょっとして、知らぬ間に、 取り返しのできない不幸になる為の努力をして来たのではないか? と云う疑問が湧かざるを得ないのです。 学歴や収入や家や車や地位は意識の努力でなんとかなっても、 高学歴でも、高年収でも、蓄財では買えない物が、ある。 よく子供の頃、お金で買えないものがある、と教えられたものです。 それは、なあに? と云う場合の答えは、心だったように思います。 だって、その頃は、 家族や家庭は当たり前に個人の周りに存在するものだったのです。 今の時代、 心もお金で買えるような? 時代になったような? あはは。 今、お金でも買えないものは、家族、家庭なのですね。 つまり、その構成人である配偶者、子ができないのです。 これらは、意識のテリトリではないのです。 学問、経済、知識、学歴、計算でも、評価でもない、 まさに、無意識のバックアップが要るものばかりなのです。 だから、不妊治療においては、 先進の医療に頼っても、できない人はできないようです。 受精卵を作る処までは、科学でできる。 しかし、あくまでも受精卵が母体の子宮に着床するのは、 これは母体の能力ですから、自然任せですから、 自然が拒否をして、着床できなければ、妊娠はできません。 不妊治療をして、妊娠できなくて、子をあきらめた人の なんと! 多いことか... まあ、いろいろあり過ぎですが、 そろそろまとめなければ、、、、、 あはは。 ■ 最後に、絶家になる法則をお伝えしましょう。 まず、絶家は、陰徳を否定した行状が積み重なった結果です。 特に、『仁』、『義』、『礼』が欠ける事によって、 『智』を失い、『信』を破壊するような行状です。 これらを、堅い言い方ですが、家族道徳と云います。 家族間の道徳です。 たとえば、、『仁』、『義』、『礼』を守っていればいいものを、 守れない状況ですね。 それぞれの家系、家族間の歴史の中で、何かがあったのでしょう。 その原因が、探るのが命式です。 時代、社会の変化を何の抵抗もなく取り入れる事によって、 それがどう、我々の経済に影響するか? あはは。 経済だけを気にしていたらダメですよ! ほほっ。 と、まあ、そう云う事でございます。 近代合理主義が、経済第一の思想を運んできました。 楽だ、楽だ! と取り入れたあれやこれやが、 それらは必ずしも、徳性を保つやり方ではないものを 我々の生き方に植え付けたかもしれませんね。 近代化された楽な生き方の中で、 どうか、未婚 非婚 少子化 と云う地雷を踏まれませんように、 賢い生き方を求めてください。 あなたと云う子孫へたどり付くように、 過去、どんなつらい時も耐え、 死のうかと思う苦労の中で、あなたの両親を育ててくださった、 あなたにたどり着くまで必死に生きてくれたご先祖、 そのご先祖の思いを継ぐような生き方を、 是非、あなたの子供さんへ伝える事、それがあなたの役割です。 感謝と共に、役割を忘れず、 徳を積む生き方をなさるようにお祈りをしております。 やっと、終りました。 やれ、やれ、、、、、 あはっ。 最後までお読みいただきまして、お疲れ様でした。 感謝申し上げます。 あ、そうだわ、 ここまでお読みいただきましたお礼に、 浅田真央さんの今回の事を、 運命学的に御教えしたかったのですが、 長くなり過ぎるようなので、次回へ廻しましょう。 では、次の更新まで、 あなたの『時』を大切に、お過ごしになってください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2014
09/29 13:26 |
《近代化の影 9.》 天変地異の原因論 東洋の生死観 /イスラム国Category : 運命学と近代化
涸沢から下山、3時間で横尾通過
![]() 屏風岩の向こうに前穂高岳のピークが見えます。 もうすでに、奥穂も、涸沢岳も、北穂も見えなくなって、、、 梓川の上流、横尾大橋からは、 前穂(前穂高岳)のピークだけが、くっきり見えます。 前穂高岳は、涸沢では一番左に位置していますが、 今までの写真には一度も写っていません。 ----------- 名残り惜しい、 また、いつか! かならず、、、 穂高に逢いに来よう、、、、、、 後髪を引かれながら前穂のピークを見上げます。 山は、生きているのです、、、、、、 穂高は生きている、、、 その息吹、その神秘的な実感を全身に浴びながら、 ふるさとの年老いた爺様に甘えたような思いを抱きながら 名残惜しい心境での下山でした。 横尾大橋から見る前穂高岳と梓川の上流を上高地の方へ向かって ![]() ありがとう、 穂高! 穂高よ~~ さようなら~ この梓川の左岸を一路、上高地へ、 途中、温泉に寄って、約4時間バスターミナルまで歩き続けます。 この辺りの森の中は、まだ夏山、、、、、紅葉の前でした。 周りは、普通の山の景色になってきます。 穂高が見えなくなる地点を境に、 涸沢で止まっていた時計が動き出します。 、、、、、横尾、徳沢、明神、上高地、、、新宿、、、 新宿につく頃には、 下界をすっかり忘れていた事に気が付きます。 ほほっ。 今日の記事は、 《近代化の影 9.》 天変地異の原因論 東洋の生死観 /イスラム国 下界 ーーーー この言葉を自覚的に使うようになっていたのは、登山、 それも登山からの帰路の途中でした。 ■ 五感で感じたことを賢(さか)しらに主張し合う現象界、 まず、一番に気がかりなのは、 上位の意識の自己中心性に翻弄される現象界のありさまです。 なにが賢いのか? 分らなくなってませんか? この原因の一つは、マスコミじゃあない? ほほっ。 マスコミと云っても、人間のする稼業ですから、 従軍慰安婦や、福一の撤退の「朝日」を筆頭に、 我こそが、正しいのだ! と、それぞれが言い続けています。 正しい事がゴマンとあるような? 書きっぷりです。 マスコミとは、今のジャーナリズムとは、 『陽』の現象界の『偽性』の最たるものでしょうね。 欲が引っぱる一片の意識に拘り、 意識 対 意識の闘争が繰り広げられる世界です。 意識と意識が束の間、くっつきあって、そしてまた、乖離する。 自分の意識を、今、どう守ろうか? 近代的自我は、その一点だけを一番大事にしています! 今まで何度も書いて来ましたが、 意識は、現在と自分、それだけを守ろうとするのです。 過去の経験を力にして、 だから、意識には経験が大事なのです。 特に、意識を力にする男にとっては、体験が大事です。 絶対的真理の存在を捨てた近代的自我は、 いわゆる自分の意識以外の信じられるものを失っています。 自分が自分の絶対者になるしかないのですね。 ほっ。 自己の意識を絶対正しいと思い込んでしまう、、、 、、、、、、 思い込むしかないのですね。 ほとんどの人が唯我独尊に陥っています! 自分の行動を絶対的に肯定する強い自我構造です。 これは、命式でも簡単に観て取れます。 しかし中には、強い自我構造を持っていない人もいる。 もちろん、五行周流のバランスを持った命式の人もいる。 これは、運と云う無意識界の次元の差別です。 今の若者は、そして、今の子供達は、 幼少の頃から、自主性を育む教育と云う触れ込みで、 ほほっ。 あなたは、どう思うの? どうしたいの? と訊かれ続けて、、、 子供のつぶやきの段階から尊重されて来ます。 でも、本当に子供を尊重している社会なのか? 大いに疑問を持っております。 母親が自分のキャリアを継続して働く為に、 生まれてすぐの赤ん坊を保育所に預けるのが当たり前なんて、 考えられない時代もあったのですよ。 保育所へ子供を預ける事自体が、 育児を大切に考えていない母親だと見られてしまう時代、、、 同じこの社会の中に、あったのですよっ。 ほほっ。 時代が変われば、価値観も変遷していくものなのですね。 しかし、育児の中に占める母親の値打ちは不変だと思うのですが、、、 さあ、どちらが正しいのか? 時代と云うものは、無責任に、こうも人間を翻弄するのですね。 その影響や結果が我が子に出てから親は気が付くものです。 我が子の人格に、どんな影響があったとしても、 その時の為政者が、遡って責任を取れる訳ではないものを、 よくも、指揮棒を右の端から、左の端へ振り子のように振れるものです。 安倍さんは、生れたら直ぐに保育園に預けられたのか? 岸元首相の娘である安倍さんの母親は、 息子を生むと直ぐに、働きに行ったのでしょうか? ほほっ。 なんでも、経済の御為なら! あはは。 何でも言い換え、やってしまうものですね! とにかく、一応今は、社会全体で、 個人の尊重と云う錦の御旗の下で、 表向きの建前で、それを認めるフリをしています。 振り、です。 中身まで、そうなのか、どうなのか、知りません! ほほっ。 とにかく、とても本気だとは思えないもの! あはは。 的を外れていると思う事が多すぎるのです。 学校と云う組織も難しい対応をさせられている、、、 そう感じています。 モンスターペアレンツ、いろいろ人権団体が、ありますからね。 で、生れた当初から、赤ん坊は、 自由に自分が何がしたいのか?を意識して大きくなります。 近代国家の中では、自由と云う言葉が躍っていますね、、、 たしかに、その恩恵はあります。 近代国家である以上、意識で規定できる部分においては、 中国や北と比べれば、恵まれているに違いありません。 近代国家の枠組みの中で、制度では、実現をしています。 しかし、意識が関われない無意識の領域に根があるもの、 それこそが、『陰』が司る、生れながらのもの ------- それが運と云うものに当たる訳ですが、 その領域に置いては、我々は、まったく自由ではありません。 生れた場所、生まれた家、両親、選べないものばかりです。 運命学的に観れば、個々の命式の違いによって、 慮ってやらないと自主的に成れない人もいれば、 自由にさせようとしても誰かに従う事しかできない人もいて、 自我が強くて何でも自分で決める子もおります。 あは。 そう云った違いを無視をして、十羽一絡げ! あはは。 人権とは、現場では、 全員を画一的な同質な人間として見なすと云う事です。 そうして、 両親も先生も誰もが子供の人権を尊重して、子供を叱らなくなっています。 叱られ馴れている子がいないのですね。 こうして、近代化以降の社会は、 自分の意識を尊重すると云う片側だけの面を伸ばしています。 その長所、短所は、あらゆるところに出ています。 昨今、建設会社の人手不足が問題になっていますが、 最近、その業界の経営者にお話をする機会があって、 原因は何なのですか? 福島の復興? オリンピック? と尋ねました。 答は、高齢化を埋める若者が続かないのだそうです。 怒られたら、叱ったら、それで辞めて行くのだそうです。 命に係る危険がある建設現場では、 それを防ぐ為に、先輩や上の者が大声で怒鳴る事だってある、 それに耐えられない者ばかりで、、、 一声、怒鳴れば逃げて行きます。 その社長は笑いながら言っておられました。 韓国などでは2年間の徴兵制にも耐えられない若者や 入隊後に問題行動を起こす若者の兵士が多いのだとか、 一言で云えば社会性の欠如なのですが、 自分を支えている膨大な社会の厳愛の手が見えないのです。 他者を意識をして感謝をした事がない! いわゆる、これが『孝』の欠落です。 自己の意識には敏感なのに、 肝心のもう片方、他者の意識を意識すると云う経験が未熟のまま、 社会へ出て行って、それでダメなら、親に養ってもらえる、 先進国の中流意識の親に育てられた、こう云う若者達が増えています。 しかし、日本だから甘んじていられますが、 経済成長率の低い国ではとても生きてはいかれません。 ほっ。 自分がなんとか生活できれば、それでいいじゃないか、、、 おいおい。 社会自体は、まだ男性社会であるのに対して、 家庭や教育現場は厳愛の父性が欠如しているようです。 女系の家庭なのでしょう。 ここにも多大なる母性が、しのびよっています。 男性・性を潰す女、母親の中の太母です。 この現象が起こるのは絶家の女系に男児が生れた時、 ほぼ最終章の姿なのです。 男性の『陽』の力 ・ 社会における生産性が滅失して行っているのです。 『天』の道? 『地』の理? 道理なんて古くない? 何言ってんだか? 東洋ってさ~ 知らない。 そう云う日本人が増えています。 それはそうです。 自分の外部、遠くかけ離れた『天』や『地』に関心は持てないのです。 近代化とは、自分が、どう思うのか ? ---- 自分の内面、それだけを確かな拠り所にして、 あらゆる基準にしている人格の大量生産です。 つまり、それは 自分以外には関心がない! まして、資本主義下ですから、自分の利益しか関心がない。 --------------------- 公が抜け落ちている。 私的なワタクシが、充満している世界なのです。 宇宙大まで膨張しているのです!!! あはっ。 ほら! あの号泣した兵庫の県会議員の方も、 公的な立場に居ながら、まったく公の存在が分っていなかった、、、 何かに守られて甘えて、 頭を打ったことが無く、壁にぶち当る処まで行った事も無く、、、 ただただ、 この社会の一かけらの責任も負おうとはしないのです。 これは、絶家に生まれた呑気な男の特徴でもあります。 ほほっ。 守られた状況は享受するが、 自分はあらゆる責任から逃れようとする。 先進国の人間が辿る一つの崩れゆく途中の姿なのですよ。 ■ もう一つ、大事な意識の欠点は、 意識ばかりでは連帯ができないのです、、、 夫婦、親子、家族、 これが、ひどい。 親族、家系、 これは、もっとひどい。 これが、これからは、地域、国、、、国家へ現れて来るでしょう。 連帯とは、本当の処、命懸けと云う事ですよっ。 命と云うのは、絶対性の裏付けの要るものです。 無意識を排除して、絶対界を捨てた意識中心の今の社会の中で、 本当の命懸けって、ありえないのです。 今は、資本主義ですから、かろうじて利益の為には寄り添って? 纏まってはいるような? これもフリですか、、、、、 ほほっ。 意識は、狭い一点だけが得意です。 いわゆるセクトを作って行くものなのですね。 ワイドでしようとすれば、漏らす、取りこぼしが出る事が欠点ですから、 漏らされる、取りこぼされる、場所や人が間違いなく出て来ます。 意識だけでは全体の連帯は到底無理と云うものです。 近代合理主義の世界は、無意識の無視ですから、 近代合理主義に染まると云う事は、 無意識からの括り、我々の中心部分、絶対界、命の根源、自然、 家系、家族を、我々は無視するようになります。 今、近代国家に置いては、単位は個人です。 一人の人間の意識を基礎単位としているのですね。 人間は、個人で成り立っているが如き風潮が、現代の常識です。 親なんて! 家族? 先祖なんて! 家系って! 古き封建的因習深い言葉のように、合理主義からは弾かれています。 かろうじて個人の自由意思でする婚姻と、その制度、 その結果の単一夫婦と子供だけの家族単位は明確ですが、 この単一夫婦と子供が、それからどこへ行くのか? 近代国家の合理主義下では、未来が明らかにされていません。 これは、明らかにしてほしいと願って、、、 ここで、苦情を言っているのではないのですよ。 ほほっ。 無理なのは分かっていますので、近代合理主義に期待はありません。 なぜなら、意識にとって未来は見えない。 と何度も書いて来ました。 哀れな意識は現在と自己しか見えない。 それ以外を守ろうとしないのです。 そこが、五感の限界、テリトリなのですから、 近代合理主義では、明らかにできないと云うのが正直なのです。 あは。 大事な事は、 近代合理主義が無意識を排除した結果が、 どう云う現象を我々の人生に顕して来るのか? その影響です。 今、それを問題にしているのです。 意識で操作できない無意識界の先祖や家系を放置し、曖昧にしている、 その近代合理主義の相貌(そうみょう)が、その事実が、 人間の誰もが望む家系継続の本質を失わせ、 どうでもいいもののようにカモフラージュして、 合理主義下では先へは続かないのだと云う事を確認してほしいからです。 それを避けるにはいかにするべきか? それは、又、別の機会に致します。 何分、長くなり過ぎていますので、、、 ほほっ。 繰り返します。 今の近代合理主義下での結婚と云うイメージには、 自由な個人の婚姻と云う規定以外、 生を受ける時に人間として付きまとう無意識界の縛り、絆が、 意識上で排除され、これらの社会での役割が欠落しています。。。 これが、意識の得意技! 漏れと取りこぼしです。 ほほっ。 無意識界の本来の使命を帯びた家族や先祖の意義を漏らしたまま、 それで十分と云うのでは、 近代国家の枠組みの中で、生きている我々の人生において、 本質を捨て去った思想に染められた結果、 無意識に本源を持つ血縁や家族の絆は、分解、消滅するでしょう。 近代化した先進国の実際を見れば、寒気がします。 これも近代国家の欺瞞なら、次も欺瞞です。 表向き女性を社会化して出世させるのは女性の為と云いながら、 実は経済の為に女性を働き手にしなければ経済がモタナイ、 そのウソ、カラクリ、欺瞞の中で、 ますます、この本質は滅失され翻弄されて行くはずです。 この風潮は更に、脱家族化へ進んで行くはずです。 本来、社会とは男をしっかりさせないとダメなのです。 命懸けで国土や家族を守れるのは、男です。 その役割が男に在る。 力ある男をどうしたら増やせるのか? その事の方が大事です。 女が働くなくても十分、子育てに専念できる、 そう云う環境を作るべきなのです。 これからの国や世界の指導者が、 『陽』の旺じた首都東京や、先進国の中から出て来るとは思えません。 やはり、次の人材陣は、『陰』を潜在的に残している地方から、 世界的には後進国から、生まれ出て来るはずです。 人間は、飢えから立ち上がるのです。 人間が強く育つには自然のありのままの貧しさが必要です。 貧しさを逃げて、ウソの繁栄の都会へ来てはいけません。 そのいい例が、徳川です。 家康は、江戸の将軍家の胤が尽きたら、 尾張や、和歌山の海べりから将軍を連れて来るように、 諮って御三家を地方に置きました。 将軍家の血筋の予備としての性格が御三家の役割でした。 徳川家が、田舎にサブ(分家)を置くと云うのは、正解でした。 将軍を生んだ女たちは、みな素朴な自然な健康美だったはずです。 そう云う女が、強い子を産むのですよ。 ほほっ、 家康は、賤しい身分の庶民の女を多く側女にしました。 公家の娘ばかりを集めた秀吉とは違いますね。 ほほっ。 徳川家が京の公家から迎えた御台所は、子を為していない。 田舎の自然な女の生命力が、血筋を繋げたのです。 しかし、徳川幕府は、それよりも田舎者に滅ぼされています。 山口や鹿児島や高知と云う日本の国土の端っこ! その向うは海と云う、大洋に接した岸辺を持つ、 最果ての土地から、次の時代の力が芽生えたのです。 御三家のあった土地よりも地方です。 ほほっ。 我々も、将来を見越して、よりもっと遠くに I ターンしますか? 最果ての海辺や、山の奥へ、分家を置きますか? ほっ。 日本の若者たちよ! 東京になぞ出て来ないで! 滅びる因ですよ! ほほっ。 地元で地元の飾らない娘を嫁にして丈夫な子を育ててください。 日本の柱になるように育ててください! ほほっ。 いいですか? 意識『陽』を強調し過ぎると滅ぶのですよ。 旺ずる極みは衰 と云う事は、衰から始める事が肝要かと? ほほっ。 その内、意識で作り上げた近代国家という括りもあやしくなるでしょう。 最低、国家として纏まる、と云う事すらが失われかけている、、、 そう云う現象が、現れて来ました、、、 多くの欧州の若者たちがイスラム国に参戦しています。 今や、構成員は3万人を越えています。 そこでは、男たちは、イスラム国への忠誠をを誓うらしいのです。 忠誠、この言葉を日本の若者は、どう受け止めるでしょうか? これは、ある意味、絶対界の復権です。 兵士と結婚をする女たちは、ニカブと云う目だけを出す衣装を着て、 誘拐された娘たちや10代で欧州から駆け付けた娘たちです。 集団で生活をし、子供を育て、、、 兵士である夫とは、遠距離恋愛で結ばれた訳でもない、 ほほっ。 なにやら、全てが、近代化の逆、旧習へ、復古へ、 なにやら、近代化で失ったものを拾い集めているような、、、 なぜ、なのか? 欧州の先進国と云われる豊かになった国には、 恵まれた現状を守ろうとする意識が上位に存在します。 ゼロから新たな危険を犯して挑戦をしたい冒険心を持つ若者の意識を 封じ込めて潰しているのでしょう。 苦しかった過去を振り返りたくない欧州の老人、大人は、 若い冒険心に逸(はや)る彼らの為に、 もう、これ以上は自らの危険を冒したくはないのです。 ええ、もちろん言葉にも、意識にも、それらは出てはいないはずです。 そう、無意識の本心を偽善で隠して、 しかし、一切の深い動きは無意識が決します。 無言で伝わるものこそが本当なのですよっ。 ほほっ。 無意識は、若者へ伝わるはずです。 当然、これが、社会の底流に流れて、 経済や政治の社会全体の閉塞感となって強く現れているはずです。 経済格差、人種格差、教育格差、社会への不満や疎外感、 欧州は、近代化の先鞭をつけた国家です。 その近代国家は、自由、平等を保証する彼らの母国です。 しかし、現実、若者が入り込む自由も平等もないのですよ。 意識の作り上げた思想が、意識以上になる事はない。 事実としての自由と平等を意識が生み出せる訳はないのです。 自分の意識が、花! と云えば、目の前に花が現れますか? そう云う奇跡は起こらないはずです。 ほほっ。 初めから人間の意識の観念的な言葉だけの自由と平等です。 しかし、意識はセクト、部分的には意義があるのです。 確かに、制度としての自由を我々に与え、 平等で安らぐ人々も生まれたはずです。 しかしそれは、誰かが犠牲になって支えているものかも知れない。 あなたも、隣人が自由を味わう為に我慢をした経験があるはずです。 ほら! 人の智恵がなければ、制度は生きないのです。 母国に、自由と平等が自分たちにはない、と見抜いた若者達にとれば、 ” 母国は腐敗している。” と映り、 近代国家の絵空事の言葉だけの自由と平等よりも 自分達を救うかも知れない ” イスラム法に則って生きる。” と云う心情を生む事になったはずです。 自棄(やけ)っぱっちも無いとは言えない。 先進国に住みながら意識的高等教育を受けられない若者に取ったら、 先進国でまともに結婚をして子供を育てようとしたら、 高学歴でなければ社会が受け入れないでしょう? その為に、キライな勉強をしなきゃいけないけど、できない! あは。 こんな先進国から逃げたい! と切実に思ったら、 兵士になって戦って死ぬかもしれないのに、 それしか生きる道はない、、、家族まで連れてイスラム国へ、 と広がっているようです。 世界中から3万人も参加しているイスラム国の何が魅力なのか? それについては、 インドネシアのある若者は、イスラム国を支持する地下組織から、 妻2人(一夫多妻です)と8人の子供の生活費、渡航費の支援を受け、 シリアに渡ったと云う記事が載っていました。 実に、男が男たらんとする甲斐性を叶える条件を与えるのですね。 先進国の生活保護とは、どっちがいいのでしょう? ほっ。 (イスラム法)に則って生きる。 ーーーに則って、 ーーーのここが、近代国家において、最大に欠けている処なのですね。 ここが、人間が、根底から欲している処なのです。 無意識の領域、 宗教性、絶対性の世界なのです。 自己の死までを任せられる、自己の絶対性の獲得です。 真に、命を賭けて何をなすべきか? これが、本当に手に入るのなら、 近代合理主義社会で得られるサクセスは安っぽいですね。 ほほっ。 が、このイスラムの神の絶対性が、真実なのか? 仏教徒である私には、疑いこそあれ確信がまったく持てませんので、 イスラム国へ行く事には共感はできないけれど、 近代合理主義社会にウンザリしている心境は理解できますね。 決して、残忍なイスラム国を肯定できる立場にはありませんが、 今の近代国家だって、国として成り立つ為には、 多くの敵国の人間を犠牲にしています。 中国だって、毛沢東と蒋介石の内戦において、 イスラム国以上に多くの自国民を殺したのです。 先の大戦でも、日本が被った広島、長崎の市民への原子爆弾、 あれ以上の残忍性はないと思っています。 東洋的『陰』の世界を本質と観る観点から、 こうも観られるのではないかと云う事を記しておきます。 イスラム国への世界的な若者の参加は、 無意識を捨て去った近代合理主義による近代国家の醜さ、 その命の本源、無意識に関わる欠落を補おうと、 人間の本来の無意識的エネルギーが生んだ これは、『人』界における 近代合理主義へ対する必然的なエネルギーだと解する事もできます。 それに対する老獪な先進国が、 みずからの国家を成り立たせた時に、 どれだけ人民を殺戮したか? 自国の過去の悪事は、サラリと忘れて、 ほほっ。 イスラム国が、自国民のジャーナリスト等を処刑し、 アフリカで住民をテロで殺したからと、 イスラム国を空爆をしていますが、どっともどっちなのですよ。 ほっ。 意識は、いつも、こうなのですよ、、、 オオゴトの悪事の後は、素知らぬ顔をして、 些細な事で善人ぶるのです。 あはは。 脛(すね)に傷ある大国同士が、 こぞって空爆をして、イスラム国を殲滅させようとしても、 それで、我々の属する近代国家の欠点が、 帳消しになって無くなってしまう訳ではありません。 あはは。 地球上で先進国である近代国家とは、 さほどに醜く幼稚で、 イスラム国と同程度に見えてしまうのです。 あはは。 占い師ごときが、口を挟む事ではありませんが、 ついつい、意識の欠落部分が見えてしまうものですから、、、 ついでに、言ってしまいましょう! あはは。 私が仏教の智慧に少しは縁をしているから、 こう思うのか? 分からないのですが、 他より先進と云う自負があるからには、 先進は経済だけではない、智恵も度量も先進であってほしい、 相手も救い、自分をも救う、 そう云う方法が取れないものでしょうか? あくまでも近代合理主義下の意識は、自分を正当化しようとします。 敵を悪と決めつけるロジックを構える近代合理主義、 愛と慈善を説きながら、その裏腹な歴史ばかりを刻んで来た、 その母体であるキリスト教の好戦的な教理。 いつまで経っても、 自前の哲学の狭さに気付かない西洋の自惚れの強さ、 近代知性に飽き飽きとしています。 もう、 ゲップ! が出そうです! お行儀が悪くて、、、ごめんあそばせ! あはは。 ーーーまだ、あります! 下界の事、、、 『人』界の事は上で書きましたね。 ほほっ。 あと、『天』、『地』の事を。 あはは。 地球上のそれぞれの国の意識が、 何んとしても我こそは上位の意識たらんとして角を突き出して、 下位の意識を飲み込む事に躍起になっている地球上の世界、 武器や兵器がなければ平和に暮らしていけないとは?! とほほっ。 その『人』界に呼応するように『天』の気は激しく狂い始めている。 近代合理主義の虚構性、偽性に気付かず、 その思想性で以って、地球、自然へ挑もうとする我々の歪みを 無意識界が、糺(ただ)そうとするエネルギーが、 『天』の気、天気の狂乱、 気候不順、です。 『地』には、 大地震、大津波、大雨、洪水、河の氾濫、山崩れ、火山噴火、 これらの原因は、東洋的見地からは分っています。 自然に反抗をする? 自然を支配する? これらの観念を西洋が近代化と共に地球上に押し広げました。 これを前提とした人間活動が、当たり前のように行われています。 経済も、政治も、この観念を実現する為に正当化されています。 我々の意識を染めたこれらの西洋の観念が正しいと思われますか? いいですか? 意識『陽』を強調し過ぎると滅ぶのですよ。 工夫も開発もいい加減にしないと! 便利も効率もいい加減にしないと! 枝葉が盛んになると、樹木は枯れます。 工夫や便利と云う枝葉ばかりを求め続けると 本質が消えて行って、ウソになるのです。 これって、日本の白物家電がアジアで売れなくなりましたね? いろいろ便利にし過ぎて、価格が安くできなくて、 韓国の安物に敗けたのです。 あはは。 ウソは存続できません。 これは、いくら便利だって説明しても、 消費者が求めているのは、その家電の役割と安さです。 説明しなければいけないと云うのは、余分ですから、ね。 まず、実質。 これが、本当です。 付加価値を付けて高く売るなんて、いつまでも続きません。 飽きるのです。 どうせウソなのですから、、、 ほほっ。 これで、ホッとなさる方が、いらっしゃるでしょう? あはは。 ああ、馬鹿正直でよかった!って。 ほっ。 そうなのですよ。 馬鹿正直で行ってください。 その果報で、あなたの孫が栄えます。 ほほっ。 企業理念と云うものがありますが、 企業がどんなに発展をしようとも変るべきではないのです。 企業の骨格となる理念が工夫で変り、便利な言葉に変れば、 その企業の目指す本質が変ったと云う事です。 だれも信用をしなくなります。 工夫を兎(う)がち、便利に媚びた方便の中には、本質はありません。 企業が、その存在の本質を失うと、社会に存続する理由がなくなります。 社会が必要としなくなった企業は滅びます。 ウソをつく、真に役立たずは、滅びるのです。 『陰』の徳性を失った『陽』の現象は消失します。 これは、まったく家系の原理と同じです。 大雑把に例えれば、 『陰』は、真っ黒な炭、石炭、原油、エネルギー資源です。 燃える物が無くなれば、炎と云う現象『陽』は消失します。 世界中の大国が、エネルギーを求めて国益を図る。 それが、根本だと重々、分かっているからです。 -------------- ここから、ちょっとムズカシイ事を書きます。 ムズカシイ! と思われたら、 読み飛ばしていただきますように、、、、、、 ほほっ。 できればあなたの無意識へ入れておいてください! そもそも東洋的見地は、 この『天』も宇宙もあの世もこの世も一つのものです。 ほひっ。 これら、すべてが、 この小さき身の中、我の中にすべてがある。 これが、分かれば、 東洋の智恵の中であらゆるものは観えて来ます。 --------- そう、死すらも --------- 次なる生として、、、 死は生と不二になります。 そこでは、 詩(うた)や詞(し)では表現し切れないものがあります。 文字や芸術などでは表わし切れないものが溢れています。 -------- 自己保存の為に間断なく環境に振り回されて、 泣いたり、笑ったり、喜怒哀楽に飲み込まれている意識が、 想像する事すらできない叡智が溢れています。 この地点から観ると、 我々が一般的に当たり前と受け入れている常識が、 実は、近代合理主義の幻想による蜃気楼なのだ、と云う事が ヒシヒシト分って来ます。 そもそもが生と死、 あるいは、時間と空間、 このように分けて考えると云う思考方法は、 近代合理主義の産物なのですよ。 そして、有と無、 そもそも、 有ってなによ? 現象を見て有と云うのかしら? あはは。 無って、意識にとって無でも、無意識の領域では有るって事、 西洋哲学は、ぜんぜん分っちゃないんだわ! あはは。 これらを生み出した西洋思想の概念のチリや埃にまみれて、 東洋の叡智はどこへ行ったのか? 分からなくなっています。 もう、危機的な状況なのです。 えっ? なにが?って、 それが、地球の状況に現れているはずです。 近代化以降の人間は、 この一点、これが分らない故に、 目先の意識が囲った世界だけを見るエゴが捨てられないのですね、、、 自分に都合よく、ね。 ほほっ。 その結果が、天変地異、気象の極端化と云う 今の現実を招いている事を知らなければなりません。 ーーー下界の事、 気になる問題点を洗いざらい書いてみました。 振り返れば、やっぱり、涸沢は特別だったのです。 涸沢のように自然の気が、 そのままの自然の気が満ち満ちている場で、 人の意識ではどうしようもない自然の力が暴露しているような場で、 人間は本当に、何もできない。 その事が実感として分かる場所です。 意識が空想するように、鳥になって飛ぶこともできない、、、 熊に追いかけられても全力疾走で逃げられない、、、 ほほっ。 あんな岩場では、ゴツゴツした岩盤の上で、 転倒しないようにバランスを取るしかないのですから、、、 あはは。 頼りは、自分の体温と足、 リュックで自分が運び上げた食料と水だけです。 そのどれがなくなっても、命の危機です。 この山は、いつ騒ぎ出すのだろう? どうか、ここにいる間は、おとなしくしていてください! そう、心で祈っている瞬間もあるのですよっ。 あはは。 その絶妙のバランスの中で生かされているのです。 ありがたいなあ、って だから、今回の御嶽山の噴火のように、 不安定な登山道では逃げる事もできなかったはずです。 あくまでも、自然とは人間を凌駕する存在なのです。 人間はどうしたらいいのか? いつも自然に対峙して考える事です。 今回も、無事にお帰りになった方は、本当に良かった! 不幸にも死亡が確認された方が、多く報道をされています。 おケガをされた方も、大勢いらしたようです。 心よりお悔やみ、お見舞い申し上げます。 火山灰に覆われた山頂をテレビで見ながら他人事ではない! 思わずテレビ画面に手を合わせてしまいました、、、 でも、遭難した方は、誰も山を恨みはしないと思っています。 山は、それほど素晴しいのです。 が、必ず登山保険を掛けて覚悟をして行きます。 それほど危険なのですね。 息子や夫や家族を失われた家族の方の心を思えば哀しみで、 やるせない気持ちが一杯になります。 自然の一部である人間は、本来、どう振る舞えばいいのか? それを、登山では学びに行っているつもりです。 涸沢は、自然における人間の本来の位置を知らされる場でした。 ええ、自然の中の人間の正しい立場です。 人間の意識の軽薄さ、傲慢さ、自惚れや不遜に気が付いて、 それらをすっかり拭い去った立場です。 ほほっ。 それを平凡な人間に、気付かすほど、山は偉大です。 単に、山容の威容さ、峻厳さに打たれただけではありません。 惰弱な我が身を、ひ弱な筋肉しか持っていない我を、 ほほっ。 ここまで引き寄せて、全力で登らしめる山の魅力! ほほっ。 山を登る時には誰だって生真面目になります。 山が引き出す、この生真面目さがいいですね! ほほっ。 そうせざるをえないからですが、、、 あっは。 一瞬でもふざけておりますと、 急峻な崖を滑落してしまうのですから、、、、、 ほほっ。 危機に対応するのは無意識です。 今の目の前の難関や危険を越えて、 なんとしても生存させようと必死に助けてくれるのは、無意識です。 無謀な冒険をしたがって逸(はや)る意識を、 必死に無意識がバックアップしているのが分かります。 どんな事に出逢っても、なんとか私の命を生存させようと、 無意識が、普段の私の力以上のもので支えてくれているのが分かります。 これが、潜在能力と云うものなのでしょう。 普段、眠っている脳の部位が活性化して、 自覚をした事のない未知なる自分が、生まれ出て来るようです。 この無意識に支えられた意識との一体感が、登山の醍醐味です。 西洋二元論で、精神と肉体をバラバラにされる近代まで、 ―――――― その西洋の観念を当たり前の如く受け入れて、 ―――――― 近代的自我が楽ばかりを集めるようになるまでは、 本来、人は、こうして生きて来たのではなかったか、、、 意識がエラそうに無意識を遠ざけることなく、 生のみを異常に賛美をして、死をことさら厭(いと)い隠す事なく、 生は死だと、自然の中で全てを受け入れていたはずです。 長い長い年月、 人類は、こう云う空気を吸って生きて来たのだと分かります。 PM2,5や排気ガスを吸って生きて来たのではないのですよっ! あは。 我々の意識が、自然の中で自然の一部となって自然と対峙する時、 一瞬の意識が瞑滅(めいめつ)する事によって、 我々の意識が無意識界に浸れます。 自己意識に振り回されない我の実現です。 そして、あらゆるものが一体になります。 その深い息吹きに触れるのです。 つまり、原初、人の意識は無意識に直結していたはずです。 無意識に直結した意識が、人類を進化させたはずです。 この意識と無意識の関係が、本来あるべき姿でしょう。 まさに、意識と無意識のバランスです。 これが東洋の叡智、 中庸と云うものです。 東洋の古来からの智恵、 人間は自然の一部でしかなく、 無意識の領域であらゆるものは一つである、 と云う実相を覚知するならば、 自然に調和する事は、 = 我自身に調和する事になります。 欲望の我が、我の中の無意識ゾーン『陰』に向き合うのです。 そして、調和しようとする。 これが、東洋の謂う我即宇宙、宇宙即我です。 西洋にはない叡智です。 地球温暖化、地球資源の枯渇、資源の奪い合い、、、 人類が生き延びようとするなら、この叡智を受け入れるしかないのです。 自然に調和する・・・・・・・これが唯一の正義です。 ならば、今の世が、どれだけ悪に満ち満ちているか. . . お分かりなりますね? あはは。 あなたも私も、、、どれだけ大悪人か。。。 とほっ。。 本当は笑いごとじゃないのよ、、、 『天』は、絶え間なく動いています。 『地』は、我々『人』を乗せて、絶え間なく自転をしています。 『地』の神は、『天地』の道理を弁えない不孝者を乗せたくはないと、 不孝者が集まった『地』を大震動させて、 不孝者を『地』の上から振り落そうとするのだそうです、、、 遙か昔ですが、東洋に関心を持ち始めた頃、 手にした、私が信じる仏教書で読んだことがあります。 不孝者には安定、安楽と云うものがないのだそうです。 これは、いくら真実の教えと信じていても、 東日本大震災の後には書けませんでした、、、 ほっ。 現実が、、、あまりにもお気の毒で、、、 不孝者とは、両親を大事にしないと云う事ではありません。 無意識界を見通して捉えれば、 我々の親とは、命の本源である『陰』そのものです。 あらゆる命を生み育む宇宙根源の力です。 陰徳を無視した我欲優先の経済活動は、不孝な業ですね。 近代合理主義自体が、大不孝者だと言っている訳です。 うまく表現した言葉が、 ほら! あれ、 石原前環境相の発言の! あとは ”金目” の問題、、、 あはは。 ご記憶がありますでしょう ? ”金目” を与える方も、貰う方も、不孝者です! 双方が、 陰徳を無視している欺瞞に気が付いていない、、、 ”金目”こそが、不義であり、不孝なのに、、、 あらゆる矛盾を、金目で解決しようとする人間の貪欲は、不孝です。 『孝』に反逆する業が、不孝です。 おわかりですか? ほほっ。 『天』も『地』も、物理学では、物質扱いですが、 東洋に置いて、それらは、決して物質ではなく、 『人』の気に感応をすると中国では考えられていました。 御嶽山の突然の噴火、 地球は、単なる物ではありませんわ。 生きているのです。 生きもの、、、、なのですよ。 我々人間より無意識界の根源の力を直截的に顕す生きものです。 よろしくおねがい致します。 ほほっ。 そんな事はないさ! あはは。 そう思われるのも一理一考ですが、 しかし、昨今の『天』の気、 『地』の気を観る限り、 我々『人』の所業の報いと、科学的にも考えられるようになっています。 二酸化炭素と地球温暖化、 人間の貪欲が自然のバランスを破壊しているのです。 そこまでは解った科学も、 しかし、色界の中の科学には、それ以上が分らないはずです。 解決策については、どうしようもないのですね。 科学者が、頭のいい人だと認識されるこの世界の価値観は、 かなり色界(物質界)に偏っていると謂わざるを得ません。 あ、いいえ、科学者は頭のいい方ばかりと云うのはその通りですね。 近代合理主義は、その色界を従える欲界の主ですから、、、あはは。 この現状を変える術は、能力は持ち合わせていないのです。 困った事です。。。 これからの地球を守るには、真に、東洋的な智恵が要る。 その事を書く事が、このブログの目的でございます。 ほほっ。 是非、少しでもご自分の故地、なつかしいふるさとの東洋です。 日本人が復権しなくて、誰が東洋を気にするものですか!? 世は、キラビヤカナ西洋へ、西洋へ、草木もなびく、、、 あはは。 どうか、東洋の叡智へ、心を止めていただきますように、、、 そして、全世界へ東洋の良さが広まりますように、、、 次の更新まで時間はたっぷりあります! ご自分の中で深く思索を、巡らせていただきますように。 では、ごきげんよう! -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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04/13 22:58 |
〔近代化の奈落 5.〕 我々の中の東洋的世界観の崩壊から来る 混乱Category : 運命学と近代化
陰陽太極図
![]() 上の図は、有名な易学の陰陽太極図です。 どこかで見た記憶がありませんか? 現在の韓国やモンゴルの国旗の中に使われています。 あぁ、、、と気が付かれた方もいらっしゃる事でしょう。 易学の陰陽太極図と謂うものは、 いわゆる古代中国において【東洋的直観で見出された世界観】、 宇宙観と謂ってもいいものです。 我々が生きている、この世界の存在の本質を説明している図です。 えっ!? 宇宙って、、、、、本質って、、、、、 言葉だけ大袈裟ね! だから、東洋ってうさんくさいのよ、、、 って 思われませんように、、、 あはは。 陰陽大極図について詳しくは、後ほど. . . . . 今日は、2014年 3月 6日以来の 久しぶりの〔近代化の奈落〕のシリーズの記事でございます。 同シリーズで近代家族に付いて書いてから早、1年が経っていますのね。 シリーズが久しぶり、って言いましても、 もう、記事の更新自体が4ヶ月ぶりです! ほほっ。 早いもので、前回の更新の暮れから アッと云う間に桜花爛漫の春になってしまいました、、、 あはっ。 読者のみなさまにはお待ちいただいて申しわけなかったのですが、 多忙な上に、こんな事情がありました。 と、云いますのが、 今年第1回目の記事は、 女性の読者の方々からのコメントへのお返事を書く予定でした。 女性が、働くのをよしとするか、どうかと云うご質問をベースに、 もう一つは、シングルマザーの方から、家系の絶家の問題と、 ご自身の生き方を含めた今の社会のお尋ねでした。 それが、こんな事を唐突に云いますと 言い訳がましく聞こえるかも知れませんが、 どうも、私の無意識が、それを書かせないのです! ほほっ。 どう云う状態かと云いますと、 PCに向ってキーボードを打つ手が、 なかなか予定稿へ行けないような文章を書いています。 ほほっ。 私の意識と、手が一致していない! 実は、私には、運命鑑定と云う意識の奥を見つめる仕事柄、 よく、ある普通の事なのです。 が、 今回は、重症、且つ極端に出てしまいました。。。 こう云う事がありますので、 お返事に関しては、次に書きますと云うような、 時期はお約束はしないようにしていますが、、、 またか、と思いつつ、、、困っちゃうのですね。 ほほっ。 意識は、良く云えば責任感、社会性と云うものを身に付けていますから、 こうしなければと云う事が、当たり前に、 自分の行動や予定を縛るものとして在ります。 女性の生き方についてのコメントへお返事を書こう! 私の意識は、そう捉えて、その切り口から書こうとします。 それが、普通の行動、常識です。 私の脳(意識)は、読者の方へのお返事を書くつもりなのです。 しかし、それをしようとPCへ向かうと、 手や体の方が、脳より奥から操作されている! ほほっ。 ダイレクトに無意識の指示を訊いている、、、 、、、そのようなのです。 あはは。 無意識は、その時、その場の条件には縛られませんから、 意識が捉えているよりももっと奥の真実を知っているのです。 それを、手がキーボードを叩こうとしている、、、 それは、どう云う事かと云いますと、 脳(意識)が自分の健康上のトラブルに気が付く前に、 体はずっと前から、その兆候を知らせてくれるのと似ています。 我々は、体がおかしいよ!とシグナルを何か出してくれているのに、 忙しくて今、病気になったら困ると云う都合から、 わざと気にしないように放置してしまう事があります。 その間に、病気が進行をしてしまい、 意識が無視しようにも無視できない症状になってしまって、 やっと病院へ行く、、、が、もう手遅れになってしまっている。 又、身に危険がふりかかって来た時に、 脳(意識)よりも早く、とっさに身をかわす事ができるのも無意識です。 意識が気が付いてからでは、遅いのです。 後から、一部始終を脳(意識)が気が付いてぞ~っとする、 あれですね! これが、意識よりも先行して分かっている無意識の賢さです。 それに比べて意識の馬鹿さ加減は、 五感にとってどうしようもない位の現象にならないと認識できない、しない と云う事でしょうね。 意識には、いろいろ都合があるからです。 ほほっ。 大きく言えば、時代の雰囲気、流れや、 自由とは言いつつ国の法律だって無視をする訳にはいきません。 国法を犯そうなどとは考えもしないでしょうが、 自分や相手の立場、見栄や外見もあるでしょう。 あえて解かっていても、そう思い込みたくないとか、、、 あはは。 つまり、意識は、真実を見つめる事ができないのです。 人とは、そう云った物にガンジガラメにされて生きているものです。 要するに意識は、欲望を離れて独立する訳には行かないのです。 これで、よく分かりませんか? 意識中心の近代合理主義が、自由を特別扱いするのが? あはは。 自由でない意識が自由に憧れている、、、 その点、無意識は自由そのものなのですよ。 ほほっ。 身体の生命維持装置は、 血圧や呼吸、内臓なども自律神経系で無意識に統御されています。 だって、五感からの情報で意識が生命維持を統御していたら、 意識が忘れていたから呼吸を止めていたなんて! 命がどうなるか分かったモノではありません。 ほほっ。 何者にも支配されない無意識は、 我々の意識に関係なく、第一義に生命を守っています。 異論はあるかも知れませんが、 私は、直感的に分かる方が、 脳(意識)より早く事実を掴み、 また非常に本質を捉えていると思う節も知っています。 運命鑑定など、まさにそうですから、、、 本に文字で書けない事だらけなのです。 しかし、記事を書くと云う行動の場合は、 手は、意識で動かす随意筋です。 それを動かすのは、主に脳(意識)だと思っていたいのですが、 どうも違うようです。 私が書きたいと云う脳(意識)を手が無視をするとは、、、? 誰の手なんだ? 何度も自分の手に向って叫びたい気持ちになりました。 ずっとそんな状態で、 意識の計画や予定などには無関係な文章を、 どんどん手が、キーボードを叩いて来るのです。 後、どうまとめるのか収拾がつかないまま、、、 毎日、書く文章の焦点が変化をして行きます。 そうして、2カ月くらいがあっと云う間に過ぎて行きました。 自分の意志で行動を決められないって云うのは、 本人はとっても不幸なのです。 これが、自分のブログ内の事ですから、狭い影響で済みますが、 締切などがある作家だったら、どうなんだろうと思います。 毎日、記事にできない下書きを書いた後、 ーーーーーーー こう自問自答するばかりでした。 (私の無意識へ向かって) 一体、何を書かせようとしているのか? ほほっ。 毎回、私の場合は、書こうとするものよりも、 こうして降りて来るもので記事ができあがっています。 書き上がればテーマが全く違うものになっている事などザラです。 しかし、今回は、降りて来るモノが多すぎて!!! PCのキーボードの前では、あらぬ方向へ記事が膨らむのですね。 もう、記事にしたら10回分の更新できる分量を書き終えているのに、、、 じゃあ、毎日キーボードで書いたものをアップすればいいのでは? と思うのですが、 毎日ポイントが広がって、多すぎて、、、 仕方ないから、テーマを無理やり決めてまとめようとすると、 その下で、またもや違う文章が湧くように出て来て、 手は、キーボードを、そっちへ向いて叩いている、、、 あはは。 無理やりまとめようとすると、余計に無意識を刺激するようで、 どんどんそっちへ、そっちへと広がるばかりなのです。 ほほっ。 これじゃトコトン、 無意識が書きたいと思っているものを全部吐き出させるしかないなぁ~ 今度は、もう勘念をして毎日、少しづつですがキーボードを叩いて、 こうして、3ヶ月目が過ぎた頃でも、 無意識の指図を受けている手は叩き終えていませんでした! いつ終わるのか? これじゃ、切りがないと思って、 一時、ブログの原稿を書く事から離れて見たりしましたが、 集中力を途切らすと、 読み返せない位に増えた膨大な下書きの量の多さに、 今度は、どのあたりに、何を書いたのか捜すのが大変なのです。 もう、 これは、ある種の地獄だな? あはは。 自分の手が、勝手に打ち出した記事の原稿の大波の中で、 方向を見失って溺れかけているのですから、、、 大袈裟ではなくて、ほんとうに、これで向う岸へたどり着けるの? あはは。 なんだか、たかがブログなのに命懸けになっていましたのよ。 もう、この頃は、自分の意識で “こう書こう!” などと期待する事を諦めていました。 ほほっ。 いつになったらまとめられるように落ち着くのか? もう、これ以上、管理できない程の下書きを書くのを止めようと、 それで、 今度は、全ての下書きを内容に応じて分類し、 名前を付けてインデックスを作るという作業へ、、、 将来記事を書くときに役に立たせないと無駄と云うのか、 もう、何をしているのかしら? この忙しいのに、、、と、 トホホッ。 それにも、すごい時間がかかってしまいました。 あはは。 詰まるところ、すべてを資料化してしまいました。 しかし、 今までの経験から無意識は信頼できると云う事は分かっていました。 もうこうなったら、無意識に謙虚に向き合ってみるしかない、 そう思った時、 無意識からの便りが届きました! それを無理やり言葉にするとしたら、 次のようなものになるはずです。 これを認めたくなかったのですよ! だって、認めたら書くしかないじゃないですか。 ほほっ。 やはり、私の意識は「苦」から逃げようとしているのですね。 まったく覚悟ができていないわ!? あはは。 東洋の真髄を理解するには近代合理主義が邪魔になっている。 近代合理主義の概念を含む言葉を区別し、 その実体のない言葉の空虚さを明解にさせた方が良い。 そして、東洋的世界観の崩壊から来る混乱が日本の底流にある。 近代合理主義の限界と、その空疎から来るニヒリズムが世界にある。 そこから今の世界や社会の混乱が起こっている。 ーーーーーーー と、まあ、こんなものでしょうか。。。 しかし、これは深刻です。 近代合理主義の限界と、その空疎から来る、、、 って、、、、、これって、実は、 う~~ん! ★飴と理科の国に関する事じゃないですか! あはは。 いやぁ、手におえない! 世界政治なんか、私のテリトリを超えています。 しかも、、、、、、、 はーー 世界観っ! そこから、書かなくてはならないのか! とも思いましたよ。 あはは。 もともと、拙ブログは、運命学のブログですから、 運命学の内容を書くのが目的なのですが、 なかなか、そうばかり言っては居られない状況なのですね。 ほほっ。 それで、無意識の重い御託宣?に従って、 世界観から書き始めようかと、 イヤがっている重たい腰を上げた次第です。 このイヤがっているのは、私の意識ですね。 あはは。 その気持を押して、覚悟を固めるのに、2, 3 週間かかりました! 世界観をテーマにするなんて、これは、大変な事なのです。 まず、何処からはじめようかと、、、 男の本質と、女のあるべき姿と云うテーマは、ぶっ飛んでしまいました。 あはは。 この後、書きたかった運命学の記事も後回しにするしかないようです。 以上の様な、実に困った経緯があって、 それで、今回、〔 近代化の奈落 〕の記事を、 書かなければならなくなりました。 ほほっ。 そうなのです、我々は地獄に落ちているのですよ~って、 あはは。 今回の予定稿だった男性の本質から女性の働く事の良し悪し、他、 すべての事象は、 根本的には、世界観の相貌(そうみょう)から現ずる事だったのですね。 女がどうのこうの、男は? それらの諸事は、すべて、 どう云う世界観に属しているのか? そこから出て来る現象でしかなかったのです。 これが、 今回、無意識が私の手を通してキーボードで、教えてくれた事です。 諸事を書くな、 根本を書け! そう云う事だったのですね。 今、振り返って思うに、 昨年から今年にかけて 無意識が私の中へ意識化させようとしたものが多過ぎたようです。 世の中のうわべの情報は、大差ないみたいに流れているけれど、 実は、このうわべの平静さを装った情報の下に、 渦を巻いている混乱が隠されているのです。 そう気が付いて、無意識が私の手に書かせて来た内容を見ると、 それは、戦慄が走るような事柄が含まれています。 何時か、これらを少しづつ記事としてアップしようと思っていますが、 どうなることやら、どこまで公開していいものやら、 又、悩む事になると思います、、、 ほんとうに、 今回の更新は、、、 とほほ。 と云う気分でした。 ああ、やっと、本題に入れますわ。 今日の記事は、 〔近代化の奈落 5.〕 我々の中の東洋的世界観の崩壊から来る 混乱 はっきり申し上げますと、 【本質】を見失う処に、混乱が生れます。 【本質】の存在する場所、 【本質】の住所である『陰』を無視した近代合理主義に、 【本質】は元々なかったのですから、 いまさら、見失うなどと云うのは、おかしな表現なのですが、 ほほっ。 ーーー もうすでに、今の世界は混乱しています。 これは、後から少し書きますが、ニヒリズムです。 近代合理主義がもたらしたニヒリズムです。 ニヒリズムについて詳しく知りたい場合は、ウィキへどうぞ! 願わくは、なにも西洋を排斥したいのではありません。 求めるものは、この世界の本質であり 求めるものは調和なのです。 西洋と東洋の調和です。 今は、西洋の一人勝ちですから、 せめて地政学的には東洋の地であった日本くらいは、、、 東洋的世界観でやったらいいと思うだけです。 ほほっ。 せめて、我々の祖霊の住むこの地だけは守りたい。 それは当たり前の願いではないでしょうか? 読者のみなさまが、本当に日本人でいてよかったと思うなら、 本当の日本人になりたいと思うなら、 その為には、みなさんが、 ひとりひとりが、東洋に付いて通(つう)にならなければなりません。 東洋の通になるーーーーーこれは日本人である限り当り前です。 なんと、今は、西洋の通の貌をした日本人が多いのでしょう。 それが、誇らしい、威張れる、自慢できる、そう云う時流なのですね。 その時流に意識が迎合している。 賢い人の意識ほど、時流に乗るのが上手なのです。 時流と謂えども、それは現象でしかありません。 【本質】ではありません。 必ず、時によって淘汰されるものです。 こう云う時流は終わらせなければなりません。 そして、 真の意味で、東洋と西洋の融合を成し遂げなければなりません。 よろしくお願いしますね。 ほほっ。 その為にも、 まず、気が付いていただきたい点は、 今の日本は東洋的世界観とは一かけらの妥協もない 自然を人間以下の物質にしか見ない西洋のキリスト教理の世界観の中で 成り立っています。 まず、先に、これに気が付いてもらわないと、 近代合理主義の正体を暴く事にはならないのですね。 それは、つまり、 東洋的な世界観が分からないという事と = なのです。 分からないという、失礼な書き方を致しましたが、 近代合理主義的には理解できるが、 東洋的にはお分りにならない。と云う事です。 解かると、分かるの、違いです。 解かるとは、合理的に理解する、、、 分かるとは、合理ではなく、物の立て訳ができるようになる。 【本質】か、方便なのかの分別ができるようになる事なのです。 東洋は、東洋の意味内容を持つ言葉で表わさないと、 東洋の心身を持った人間を通さないと分からないものなのです。 ああ、めんどう! あはは。 とにかく、間違いないのは、 どうか、体の血管の中には東洋の血を流してください! 近代合理主義の幻想のロジックの中で我を見失わない為には、 なにが近代合理の災禍なのか、 見極めなければなりません。 その拠り所に、東洋的大きな世界観を知っておく事は大事です。 と云う事で、まず、 この、おおいなる東洋的世界観を知っていただきたいのです。 その結果が、 大いに東洋の優秀性に自信を持っていただけたら幸いです。 その懐の奥の深さと広さをお感じになられましたら、 東洋の復権にご協力を、、、、、、 あはは。 どうぞ、どうか、 東洋のこの日本に生まれた誇りをお持ちになっていただきますように、 我々の世界観の混乱 o。.。o○o。.。o○o。.。o○o。.。o○o。.。o○o。.。o○ ところで、現在の日本に、 確たる世界観があると思われますか? 我々は、約、148年前、 まだ、たった148年前です。 和服を洋服に変え、和食を洋食に変え、 家宅も何もかも近代化で生活様式を変えました。 それからの日本は、ただ一本道、 我先にと、日本の伝統を忘れようとしているようです。 それらは、我々のDNAに刻み込まれた文化と伝統を失った事なのです。 こう云う生き方をしていると云う事は、 何かあった時に、 我々は自らの内のDNAに逆らうと云う結果になります。 せっかく、蓄えて来た体内の蓄積を無駄にすると云う事です。 我々が、何かあった時に、 我々の中に眠るDNAは我々を助ける事ができないでしょう。 現在の我々が、内なるDNAに記憶された世界観とは、 懸け離れた世界観の中で生きているからです。 そして、 それが、内なるDNAに記憶された世界観を否定しているからです。 さほどに、 文化と伝統は重要で大事なのですよっ。 しかし、それ以上に、一番の欠陥は、 この世界をどう捉えるかと云う 我々の存在の価値を決める世界観を、 まったく変えて生きていると云う事にすら、普段気が付いていない事です。 その変化が、我々の深い所で起ったものだから、 無意識界で起こった事だから意識ができないままに、 その事に、気が付かないままに生きている事です。 気が付かない ・・・・・・・・・ これが意識の最大の欠点です。 無意識を無視をし、 『陰』のなんたるかを知らない近代合理主義に騙されて、 我々は、近代化を受け入れたと同時に、 いつのまにか、、、、、、 東洋的世界観を西洋的世界観にすり替えてしまったのです。 西洋はカッコいい~ あはは。 それに比べ、昔の日本ってカッコ悪過ぎよ~ ほっ。 ただ、その意識の満足性の為だけに、 東洋の真髄を捨ててしまったのです。 それに、まだ気が付いていない。 現代においても、近代化の洗礼を浴びても、 西洋、キリスト教圏においては、 彼等の世界観は、歴史的にも地理的にもずっと、変らずのままです。 しかし、 アジアの日本列島に住む我々の世界観は昔のままではありません。 グチャグチャになっています。 グジャグじゃです。 ぐジャグじゃです。 グじゃ愚邪です。 ほほっ。 西洋、キリスト教圏の人々がした事のない、 そこまでの犠牲を払ってまで、 自前の世界観をグチャグチャにしてまで、 近代化と云うのはする価値があったのだろうか? いち早く、西欧化した日本がアジアの勝ち組なのだろうか? 飴と理科のロジックに抵抗し、 独自のロジックを構築する支那と半島の北がおかしいのか? 飴と理科のロジックの中には、 これからも入らないイスラムが不健全なのか? よく、考えてみる必要があるのではないですか? これから、300年単位で眺めて、日本は勝ち続けられるのですか? これから、1000年後、日本列島に日本民族はいるのでしょうか? 現実に、 もうすでに、 ーーーーー 空間的に 地理的には東洋に住む我々が、 必ずしも東洋的世界観の中で生きている訳ではないのです。 ーーーーー 時軸においても 歴史的には東洋的世界観の中で長く生きて来た我々日本民族が、 現に、東洋的世界観の中で生きている訳ではないのです。 そう云う状況下で、 日本人である我々が、 東洋的世界観を知る事は大変に難しい環境になっています。 東洋的思想は、非合理の烙印を押されて打ち捨てられております。 我々は、どう云う世界観を持っていたのか? 我々は、どう云う世界観を失って来たのか? 我々は、どう云う世界観を踏み付けているのか? そして、その上に、 現在、我々は、どう云う世界観を生きているのか? 我々にとって、今、最重要な事は、 我々の生きている社会の 近代合理主義の持つ世界観の相貌、癖を知る事なのです。 なぜなら、 その世界観の相貌、癖が、 我々の人生の相貌、癖となって現象化しているからです。 ーーーーー ★ 我々が使っている言葉一つをとっても、 今の世界観から、その世界観を反映した言葉の意味が生じて、 我々は、その言葉の意味に自分の人生を賭けてしまっているからです。 ほんとうに、近代化以降の、この言葉群で大丈夫なのですか? 近代化以降の我々が、 金科玉条のように信じて体を張って守ろうとしている 自由、平等、人権等の 言葉の持つ概念の空々しさ、 それに気が付かないと、 あらゆる問の答えは見つからない、分からないはずなのです。 ロジック(方便)と真実を見分けられなければいけません。 そう云う意味で、 キリスト教理的な西洋思想の言葉になってしまっている 現代の日本語の意味内容にも、注意をしなければならないのです。 現在の日本に置いては、 西洋合理主義の世界観の下での教育が為されております。 我々が、学校教育で身に付けさせられている知識は、 西洋的世界観から派生した概念や言葉でございます。 つまり、『陰』を無視した近代合理主義の教育大系の中には、 『陰』そのものを無視した教育しかない訳です。 『陽』ばかりの知識を教えるしか能がない主知主義的教育を それを親から子へ孫へと三代続けるとどうなるのか? まず、足が消えて、、、 生殖機能のある下半身が消えて、 次は、、、 知識のみを詰めた肥大した頭だけが、、、 あはは。 戦慄を感じています。 ほーっ。 日本列島に、日本人の魂を持った日本人はいなくなるでしょう。 その前に、 空き家が増えているだけではなく、 【本質】が、無くなっているではありませんか、 家の中味が、、、家族が、、、子孫が、、、 人間がいなくなっているではありませんか、、、 絶家が、おびただしく増えている現状を御存知ですか? 間違いなく キリスト教理に基ずく西洋近代合理主義が、我々の常識でございます。 もうすでに、近代合理主義の合理的な思考が、 我々が、あらゆるものを判断する物差しになっていますね。 もうしっかり我々のツールになっているのです。 イヤ、道具どころか、規範? ルール? 我々にとって命懸けの杖!になっているかも知れませんね。 あはは。 我々が使っている言葉は、キリストの神の世界観から生まれた言葉です。 何から何までがそうです。 キリスト教理の世界観の中で 我々は、キリスト教理が分割した物質と精神の世界、 見えない世界は排除し、精神は置き去りにされたままです。 片一方の物質の世界をたどりながら研究すると云う科学、 到底、神には成れない人間の肉体と物質だけを、 その対象とする科学、 置き去りにされた精神、心。 なのに、人間の五感を頼る意識だけは認めると云う! この近代合理主義の身勝手さと幼稚さに辟易とします。 その幼稚な2元論の空間に閉じ込められているのが我々です。 そこで、方便の自由と平等に命を賭けさせられて! ポイントを集めるように物を買って集めて、経済に貢献して、 それが、真実生きると云う【本質】だなんて? 馬鹿馬鹿しくって、 ゲームじゃないのだから、 そんな処? そう、それが、 キリストが創ったと云う神が支配する世界観の中です。 ええ、今の近代合理主義では、 人間の意識が、神に代わって物質である地球の支配権を持つとか、 物質的欲望を叶えた人間が成功者だとか、 もう、もう、ボードゲームの人生ゲームそのもの。 でも、 これが、我々の人生を考える時の間違いない土台なのですよ。 それでいいじゃない。 日本人がインターナショナルになれたって事だよ。 世界人、地球人に進化したって事だよ。 と開き直ってしまえばそれはそれで終わりなのかな? ほっ。 たぶん、その辺に普段の我々は居るのでしょうけれど。 それらを全否定する訳ではありませんのよ。 お昼寝のうたた寝の寝言は、その辺ですね。 あはは。 でも ほんとうにそう? これでいいのか? それがそれだけじゃないから、 それがそれで終らないから、こうクドクド書いている訳です。 ほほっ。 かって、【東洋的世界観】の言葉だったものが、 近代合理主義の中で中味の魂を抜かれて、 近代合理主義を擁護する言葉になっている。 例えば、【寛容】と云う言葉だって、 我々は、簡単に心が広い事だって使っていますが、 仏教でいう寛容と、西洋合理主義の中で使う時は中身が全く違うのです。 つまり、智恵の言葉が、合理のレベルに堕ちているのです。 それを発見するのは悲しいですね。 ああ、東洋が、心の追いはぎに遭ってしまった、、、と。 ほほっ。 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 我々が頼りにし、信じて受け入れている西洋的世界観とは、 言わずと知れた近代合理主義の世界観です。 それは、すなわちキリスト教理の世界観なのです。 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 我々は、どう云う風に 東洋的世界観を踏みにじり、その土台の上に 西洋的世界観を積み上げようとしているのか、 148年前の明治の賢人たちは、 積み上げられると思ったのでしょうか? 西洋の上に東洋の世界観は積み上げられません! 大は小の上に積み上げられない。 小さい世界観は、大いなる世界観の上に積み上げられますけど、 『陰』を無視し、排除した近代合理主義の上に、 『陰』に【本質】を置く東洋的世界観は、乗せられないのですよっ! 積み木で遊ぶ子供だって、直ぐにわかる事ですよっ! キリスト教理にいかに支配されているか、 それをおかしいとも思わない例を挙げてみましょうか、、、 ーーーーー ★ 例えば、本屋さん、図書館などへ行きますと、 東洋の事を扱った内容の本も確かにあります。 が、 キリスト教理の世界観の中に立って、その中から生まれた 【権利】や【所有】や【契約】や【自由】や【平等】や その他さまざまなキリスト教世界観から生まれた概念を持つ言葉で 合理主義的な学問大系の中で論じられています。 それらはつまるところ、 いくら東洋を語った処で、 東洋的世界観を知らないまま、 西洋合理主義の頭で、言葉で、東洋の事を語ったものです。 それらはイミテーション東洋でしかないのです。 現代の近代合理主義の言葉の意味では、 東洋を正しく言い表す事はできません。 キリスト教理の枠組みの中である西洋的世界観からできた言葉では、 東洋を正しく伝える事はできないのです。 しかし、世間には、 近代合理主義の言葉で解説した東洋が溢れています。 この世においては近代合理主義的な方法論が、 一番真理に近づく方法だと言わんばかりにです。 こう云えば、次のような反論が出て来るかもしれませんね? 学問が東洋をどう切り刻もうと、それは勝手でしょう? それが、学問の自由なのだから、、、と。 あはは。 このように、何事も自由と平等で仕切ってしまうから、 本質が失われて混乱が起こって来るのです。 頭がいい人達がどうしてわからないのでしょう? キリストの神の言葉で東洋を説明されても、 我々の東洋を汚す事になるのが分からないのでしょうか? これらは、近代合理主義が東洋に対して無知だからです。 西洋の哲学者は、 東洋などに哲学があるなどとは思ってもないはずです。 哲学はキリスト教理だけ。 それだけが唯一思想なのだ、と。 それほど、強い矜持を持っているはずです。 『陰』を否定する近代合理主義が、 『陰』を本質にもつ東洋的世界観を分る訳がないのです。 無知ゆえに、許される事もあるかも知れないが、 はたして、これは許される無知でしょうか? 地球が壊れてしまったら、無知だったから? 許される事ではありません。 我々の問題点 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: それは、こう云う事です。 何度も同じ事を書きますが、 今、我々が物事を判断する物差しに使っている合理的な思考と云うのは、 すべての部分が、キリスト教理だと云う事です。 myものさしがキリスト教製? とほほ。 その上、今の日本の現状は、 myものさしが、まさか、元祖キリスト教製だとは? みなさん、自覚があるのでしょうか? それどころか、 若い世代にすれば、これは国産?だと思っているかも? あはは。 つまり、我々の一生、人生、命を懸けた my ものさしは、 近代合理主義だと云う事です。 近代合理主義が行き詰れば、我々も道連れですよ? じゃ、もう、そろそろですよ。 あはは。 世界観の重要性:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: どんな世界観を自分の常識とするか、と云う事は、非常に大事な事です。 何故かと云うと、 知らず知らずに、その世界観に合わせて物事を観てしまうからです。 そう、あなたは、それに沿って人生を決定していくはずです、わ! 個人なら、自分の枠内で済みますが、 これが、政治家や科学者なら、どうなるの? ほほっ。 そういった例を一つ紹介しましょう。 前回の記事に書きましたヨーロッパにおける17世紀の科学革命以降、 科学者は、 キリスト教理から独立して学問的真理を追究する事になっています。 近代合理主義では、そうでなければならないのです。 しかし、本当にそうなのかしら? あはは。 近代合理主義の枠組み自体が胡散臭いものなのに、 そんなにきれいさっぱりキリスト教理を断ち切れるものかしら? 当然、疑っておりましたら、 やっぱり、こんな事があったのだそうです、、、 それを、紹介する前に、、、 西洋のキリスト教圏は、ある意味、単一世界観です。 キリストの神が、この世界を創った、、、ここから始まります。 西洋の人々は、いまだに、、、 キリスト教理以外の世界観を知らないでしょう。 というよりも、他に世界観があるとは思っていない! ほほっ。 東洋に、まず哲学はないと思っているはずです。 だから、知ろうとしない。 というよりも、他の地域の文化文明より、 自分たちのものに優位性をたっぷり感じているからこそ、 他に学ぶ必要はない! この世界は、キリスト教理の通りだと、 キリスト教理こそが真の哲学だと思い込んでいるはずです。 キリスト教理は真実であると、疑わずに思い込んでいる。 だから、ずけずけと自分たちが正しいとロジックを押し付けて来るのです。 そのつもりはなくても、そう感じられますね。 日本人は奥ゆかしい、遠慮ばかりをしているし、 あはは。 だから、科学者であっても、 この世界は神が全て創造したと云うキリスト教の世界観を、 本当にいじらしい位に信じているのですね。 疑わずに、、、非常に純粋培養な、、、井の中の西洋蛙、 あはは。 その点、日本人は何でもござれ、です。 昔から、古来の神道。 儒教、道教は、中国から。 仏教は、インドから。 日本こそ、島国で井の中の蛙と言われておりますが、 日本は古代から、非常にインターナショナルな思想圏です。 今は、おまけに、西洋のキリスト教理に根ざした近代合理主義まで、 慌てふためいて取り入れてしまってめちゃくちゃです。 あはは。 おまけに仏教は、小乗から大乗までの種類があり、 経典における教えの程度も、五時八教と謂われる立て訳があり、 始成正覚(しじょうしょうかく)から久遠実成(くおんじつじょう)まであって、 あるいは死後の世界も極楽から寂光土まで、さまざまです。 このように、仏教の説く世界観は、 縦にも横にも、奥行きもさまざまなバージョン展開があります。 ほほっ。 それを、どれが一番なのか? 知恵のない凡夫が迷いながら選択しなければいけないなんて! それに誤りがあったら仏に成れる処か、地獄へ落ちるなんて! 実にハードでドラマチック、階段状に重層的な教えです。 一番イージーな解釈ですが、 時折、仏教は他力だ! なんて云うのが繰り返し出て来ます。、 そう云う本、沢山書かれていますね。 あは。 西洋的に単純化したいのでしょうが、 そもそも、他力自力と分ける事自体が仏教的じゃないのです。 西洋の二元論に通じるロジックを感じさせます。 本物は他力も自力もあったものじゃないのです。 仏教は、他力だーっ! と言っているレベルでは、 まだまだ方便のレベルなのですね。 あはは。 運命学の鑑定家が言うのもなんなのですが、 どの宗派に出逢うかって、運命そのものですよ、、、 ほほっ。 それに比べれば、 イスラムも、キリスト教も、単純単色単一でよろしいようで、、、 ほほっ。 そのように、日本人は豊富な思想圏に生きて来たおかげか、 我々は、唯一なものを信じる事に畏れと、たじろぎを持ちます。 それを曖昧さで表現する節があると思っています。 イミシンなのを知っているから、島国だし、みんな仲良く! ほほっ。 だから、八百万と云う言葉は便利なのです。 ほほっ。 差別を付けないで、皆を認めようと云う魂胆なのでしょう。 なんでも受け入れる日本人は、 キリスト教一本の西洋人にすれば、 主体性のない意思のない曖昧さそのものでしかないでしょう。 そう云う点では、西洋人の方に分がありますね。 だから、近代合理主義に舐められているのですよ。 でも、日本人は舐められているとは思っていない? あはは。 では、ここで、ご紹介するのは、 自分の世界観に振りまわされた科学者の話です。 日本で学問をする時には、 科学者は、自己の世界観と謂うものをどうしているのか、 八百万と云う建前と曖昧さで、脇に置いて忘れているのでしょうか? 西洋は、 個人の信仰をはっきりさせていますので、 当時のヨーロッパの学者たちは、そうもいかなかったようです。 (以下は、Science Secrets より) 心にキリスト教理を信じ、その世界観を抱え、 現実の学問的事実に、それをどうしようかと悩んだのだそうです。 学問的事実と、聖書の中のキリスト教理の整合性です。 地質学者が、 古い地層から、現在の生物ではない化石を発見すると、 これらは神が造った生物であるが、 現在まで生き続けていないのはどうしてだろう? と疑問を持ち、 それについては、 過去に大災害が起こって全てが死滅したに違いない! と考えたのだそうです。 ほっ。 こうして、キリスト教理の世界観の中で学説ができ上がる訳です。 今、いない生物については、それでいいのですが、 その反対に、 神が、この世界を創る時に創造した今の人間や哺乳類が、 古い地層に化石となっていないのはおかしい? あはは。 これは、大変な疑問ですよね。 キリスト教理では説明するのが無理なのです。 そこで、こう考えたと云うのです。 当時の博物学者たちは、 「大災害が生物を全て死滅させる度に、神は新しい種を創造したのか?」 と、頭を悩ませたのだそうです。 あはは。 これがサイエンティストですか? 科学的な追求が、普遍性の無いキリスト教理とぶつかる訳です。 人間としては悩むのでしょうね。 ほほっ。 キリスト教の世界観をまるっきり真理だと信じている信仰者としての 思い込みが、科学者を、こうさせるのです。 科学者でさえ、社会の一般常識や 信仰の世界観の外には出られないのです。 科学者と云えども、キリスト教理に合わせた説明をしたがる。 合わせると云うよりも、その世界がそうであると信じている訳ですから、 その世界観をはみ出た発想ができないのです。 つまりはキリスト教理の世界観に問題があると云う事なのでしょうが、 信仰者である科学者は、そうは言わない。 神へ合わせる。 これは、神の世界観に縛られていると云う事です。 さように、科学者と云えども人間です。 科学者の意識は、その世界観に縛られてしまいます。 この後、ダーウィンの進化論が出て、 生物は大災害で死滅したのではなく、 生物は徐々に変化をして行くと云う説で落ち着きます。 ダーウィンの進化論を証明する物的証拠、化石等は何もありません。 それらについては以前の記事で取り上げたばかりなので、、、 さように、意識はおぼつかなく、、、 ほほっ。 まるで幼子、小児性まるだし、、、 されど、権威に包まれれば誰も文句は言いません。 まして、これでご飯が食べて行ければ、、、 ほほっ。 それを、守るのも『陽』でございます。 『陽』は、さように世界観と権威に縛られている、、、あはは。 しかし、我々は、 こんな科学が、あるいは、 この程度の世界観しか持っていない近代政治が、 我々の未来を何とかしてくれると思っていませんか? 難問を解決してくれるのではないか? と云う期待を持っていませんか? 無意識を無視した意識の集積体である政治や科学の世界観が、 創造的に未来を指し示す事は無理です。 科学や政治がダメだと言っているのではありませんわ。 その属している世界観、基盤にしている世界観が、ダメなのです。 このままじゃ、テクノロジーの未来は、人類の明るい未来ではありません。 原子力がそうです。 原子力を管理できない世界観しか持ち合わせていない政治もそうです。 ほほっ。 これは、人類の限界ではないのですよ。 あまりにも、我々人間と自然を結ぶ世界観が無い キリスト教理を母体に発達した近代合理主義の限界なのです。 真の普遍性を持った世界観を持つ事、それが一番強いのです。 西洋的世界観の限界 ーーーーーーーーーーーーーーーー----ー☆ これは、もう書く必要がないかも知れませんね。 ほほっ。 西洋近代合理主義の世界観は、意識で解る範囲です。 それが、陰陽学で謂う『陽』の世界です。 東洋の世界観は、その『陽』だけでなく、 意識が掴まえられない『陰』の世界も堂々と認めております。 そこにこそ、存在の本質があるのだと。 ここが、西洋と東洋の隔絶した世界観の違いです。 西洋近代合理主義は、『陰』を否定していますが、 科学は、未知の世界があると言っています。 この表現は、意識から見た言い方であって、 東洋にとって、それは未知の世界ではないのです。 『陽』の現象を生み出す本体として『陰』を、 東洋的世界観は取り込んでいます。 強いて謂えば、 科学が謂う、その未知の分野が『陰』に通じるかも知れません。 しかし、科学は、 人間の意識が合理的に解らない限り無い、と言う。 非常に意識側に偏重したロジックです。 まさに、方便そのものです。 その、たかが方便のロジックで、 人間の命や地球と云う大自然を支配しようと言う!?? 近代合理主義とは、なんと! とんでもなく!意識に限りない傲慢を許したロジックですね! 東洋で云う処の「天」、 「天」をここまで馬鹿にし、逆らったロジックを掲げていれば、 「天」自然は、決して人間の味方にはならないでしょう。 それゆえ、我々の地球号の危機が起って来たのでしょう。 もう、西洋的世界観では、地球を救えない処まで来ているようです。 近代化にも功績と言われる面も確かにあります。 前回の記事に書きました17世紀の科学革命と呼ばれるものから、 近代科学の発展による18世紀半ばから19世紀 にかけて起こった 工場制機械工業の導入による産業革命、 これらが、近代化の功績と呼ばれるものです。 また、現代の科学文明を生んだのは、西洋近代合理主義です。 この300年間、その科学文明が生んだのは、 人類が【意識の楽】を求めて築き上げた物質文明です。 現代の物が溢れる有り難さは、そのお陰です。 しかし、ほぼ21世紀までの2000余年の歴史の中で、 そのたった300年間の、お陰のせいで、 地球を絶望的だと云われる状態までにしてしまったのです。 ーーーーー これは、人間が自然界に起こした混乱です。 紹介したいのは、気候変動についてです。 ・ アメリカの研究チームによると、地球温暖化によって、 気温が高いと大量に汗をかいて体内から水分が奪われるから 尿路結石などの結石患者が増えると云う報告がありました。 ・ また、2050年代になると 熱中症で亡くなる人が現在の倍になるそうです。 ・ 米科学誌「原子力科学誌会報」が、 世界終末時計を2分進めたと発表しました。 終末時計とは、 日本が広島、長崎に原爆投下された2年後の1947年に、 注意喚起の為に終末時計のプロジェクトが始まったのです。 それ以来、 世界が核戦争の危機的状況になれば針を進め、 核戦争の心配事が減れば針を戻すと云う事を繰り返して来ました。 近年、核戦争だけでなく、 気候変動が判断基準に取り入れられ、 今回、2分進めたと云う事は、気候変動で危機的状況が迫り、 人類の滅亡を示す午前0時まで残り3分と云う状況になったと云う事です。 I PPCの第5次報告書では、 農業分野で適応策を講じなかった場合には、 世界的に主食の穀物の収穫が落ち込み食料不足になると言っています。 2050年と云うと、後35年です。 今、12才の小学6年生が、47才の働き盛りになります。 今、生れたばかりの女の赤ちゃんが、母親になっている年頃です。 それなのに、、、、 現代の政治、経済が、 地球の現状である、地球温暖化、地球資源の枯渇等々に対して、 それらを止める事ができないようなのです。 これらは、間違いなく現代文明の行き詰まりと破綻を証明しています。 東洋的世界観 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: では、いよいよ東洋的世界観へ それが、冒頭の陰陽太極図です。 易学の陰陽太極図は、 古くは、道教などにおいても重視されたものですが、 今さら、易経や道教をお勧めしたいのではありませんわ。 ほほっ。 我々の忘れ去られた東洋共通の世界観を表わしているものとして、 我々東洋人の先哲の智恵による遺産として掲げさせていただきました。 と云うのは、 易学の陰陽太極図は、西洋的世界観とは全く違う東洋的世界観を 文章で説明を読むより、ずっと分かりやすく明示しています。 易独特の世界観を知る事は、東洋的な世界観に近づく事になります。 東洋的な世界観に近づく と云う言い方? これは、 我々は日本に住みながら、 東洋的な世界観に近づく、、と云う事は、 ほほっ。 我々は、現在、東洋的な世界観から遠くにいるという事です! このように、 東洋的世界観は、東洋人の我々にも存在を忘れられて、 とうとう地球上から無くなりつつあります。 特定の個人や団体をのぞいては、ね。 たとえば私の様に東洋的運命学を職業にしている場合、 運命学の属している世界観を正真正銘信じておりませんと、 鑑定依頼者を裏切る事になります。 そう云う意味で、 私は、東洋的世界観を保持し信頼しています。 それ故、近代合理主義のボロが見えてしょうがないのです。 個人の信条で東洋的世界観を持っている人間でない限り、 日本に住んでいると云っても、 東洋的世界観を持っているという訳には行かなくなっています。 その反対に、近代合理主義の世界観の中で生きていれば、 まったく近代合理主義の西洋的世界観を外側から観ると云う事は 不可能だと思います。 この事実から、日本は東洋の地に在りながら、 もうすでに、その国体は東洋ではなくなっているのです。 現在の我々の世界観::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 今まで何度も書いて来ましたように、 我々は、148年前、 西洋のキリスト教理の世界観を強制インストールされて ただ今、さらに近代合理主義のソフトをバージョンアップ中です。 我々の頭の中で、 東洋の民の世界観は、西洋のキリスト教理の世界観で上書きをされて まったく無いのも同然です。 我々は東洋の地に住みながら、 頭の中は、西洋のキリスト教理の世界観のゲームソフで動かされ、 まるっきしクリスチャンモードの仕組みになっています。 それでは、易経の世界観へ入って行きましょう。 易経の世界観 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 易学の占術とは、 全宇宙の森羅万象の有為転変を観ずる占術ですから その元になる、我々を含むこの世界を知る事から始まります。 この図をご覧になってください。 白と黒の巴(ともえ)の模様に、 それぞれ反転した小さな丸の点があって、 古来より、魚の目に似せて見て取れる処から陰陽魚とも謂われますが、 なんと! この図柄はタダの模様ではなくて、 この中に、 科学も解明していない全宇宙が描かれていますのよ! ほほっ。 えっ? 見てもなんのことやら? ですか、、、 ほほっ。 この図柄の外側の◯、 ◯が、、、、、太極 = 全宇宙 ! 正円◯を一つ画いて、これが全宇宙だなんて! あはは。 なんとも痛快です。 近代合理主義の現代科学の知識が常識である今の社会では、 宇宙とは、 膨大で不可解で何やら捉えられないものの代表になっています。 その不可解を東洋では『陰』と見抜いた訳ですが、 近代合理主義は、意識では分からないモノは無い! のだそうです。 ほっほっ。 それを科学の目で探索をして少づつ理解をして行く、、、 そうなっていますが、、、 こんな方法で、何時か全てが分かるのでしょうか? 科学が分かるのは部分にしか過ぎません。 部分は部分なのです。 皮膚や毛や爪や大きな鼻をくっ付けてもゾウにはなりません。 しかし、 そう云う近代科学の帰納法的な考え方に慣れている身には、 それらをすべて飛ばして、 ◯ が宇宙。 こう、云い放つ 東洋の洞察力の大胆さとアングルの広さ! これが東洋の演繹法と謂う凄みですね、、、 ◯ 易経の謂う全宇宙である◯の中にある二つ巴(ともえ)模様、 それは、 太極の中を二分する白の『陽』と黒い『陰』が生じている様である。 生じている、、、 静止図ではありませんのよ。 ほほっ。 常に動いている。 エネルギーの動態図です。 そう云う図でございます。 中国、明の時代、趙撝謙が著した『六書本義』には、 陰陽太極図と云う名前ではなく、 「天地自然之図」という名前が使われています。 東洋は人工的なもの、 例えば、人間の意識(大脳)が造った人工的な概念や工作物と 大宇宙自然と云うものをはっきりと区別をします。 そう云う意味では、「天地自然之図」の名前の方が、 分かりやすいかも知れませんね! 分かりやすいって? それでも、なんだか、わからない? あはは。 上の図を、もう一度、ご覧になってください。 単純、率直にこの図を説明しますと、 黒い勾玉の形の部分が、 『陰』 白い勾玉の形の部分が、 『陽』 です。 今まで、何度も記事にして来た事ですが、 『陰』と『陽』の、 それぞれの範疇について、簡単な説明をしましょう。 『陰』と『陽』の下が、それに属する要素です。 また、たとえば、 『陰』の下の自然本体に相対峙するものは『陽』における現象と云う風に、 『陰』の下の死に相対峙するものは『陽』における生と云う風に、 『陰』 : 『陽』の組み合わせとなっています。 『陰』 : 『陽』 自然本体 現象 死 生 天然・自然 人工物、言葉、技術、法律、 (大地、山、川、海など) 概念(自由、権利など) 国家、権力機構、権威、 社会機構、 暗闇 ・ (黒) 光 ・ (白) 無意識 意識 女 男 絶対性 相対性 真理 偽 創造性 破壊性 内包的(含蓄) 分裂(分離) 太平 戦争 結び(協力) 解く(競争) ざぁっと、これ位でいいでしょう。 いかがでしょうか? ーーー まず、東洋は、どう云う世界観かと謂いますと、 まず、「見える世界」と「見えない世界」で成り立っていると云う事です。 そして、それが、 ーーー 一つである。と云う事です。 仏教的な大きなテーマに、我即宇宙と云うのがありますが、 我と宇宙が一つ。 東洋は、すべてが一つになるのです。 だから、我々凡夫が、仏に成れるのです。 キリスト教では、決して人は神には成り得ません。 神は神。 人間は人間。 あくまでも、別々なのです。 これが、 キリスト教理の西洋的二元論における 無関係にバラバラにされた存在同士の関係です。 この事を肝に銘じておいてください。 なにやら、哲学的な概念を説明するには、 頼りない表現でしかないようですが、 東洋的な真実は、『陰』ですから、 そもそもが、『陽』である言葉で説明すると云うのがおかしいのです。 陰陽太極図は、 東洋思想が、その事を直感で洞察している事を示すものです。 具体的には、この図の 黒い勾玉の形の部分が、「見えない世界」 ・ 無意識界 ・ 『陰』 白い勾玉の形の部分が、「見える世界」 ・ 意識界 ・ 『陽』 この黒と白の抱き合ったような関係を、相対峙するといい。 ーーー 西洋二元論のように、別々に存在すると云うのではなく、 相対峙するとは、相対的、お互いがなくてはならない、 片方が欠けたら存在はないと云う事です。 つまり、易経の陰陽太極図は、 この全宇宙と云うのは、 『陽』と『陰』の世界の調和する事で成り立っている。 と謂う東洋的世界観、存在の【本質】を表わしている図なのです。 この【本質】を見失う処に、混乱が生れます。 近代合理主義は、初めからーーー 混乱主義だったのです。 すべてを、合理で図ろうなんて、狂っていたのです。 ほぼ21世紀までの、人類の2000余年の歴史の中で、 そのたった300年間で、地球を絶望的だと云われる状態までにした これは、 人間自身の住む領域を混乱に陥れた思想そのものです。 世界観の混乱から起きる混乱 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 我々は、自覚をしなければなりません。 現在の我々の体内には、東洋ではない西洋の血が流れ通っています。 それは、キリスト教理の血、そのものなのです。 しかし、 我々は、キリスト教徒ではありませんから、 死後は天国へも行けないイミテーションキリスト教徒です。 ほほっ。 東洋の世界観の代用に西洋の世界観を使う イミテーション東洋人でもあります。 日本民族は、行く当てのない、安住の地のない民に成り果てますか。 この現実にふと我に返る時、こう叫んでみたくなるのですが、、、 いったい、日本はせいようなのか? 日本は、とうようなのか? ほっ。 にほんは、なになのか? あは! いかに西洋化しても、西洋にもなれず、、、 もはや、東洋でもない、、、 自らの魂を踏みにじって近代化を成し遂げて、 いったい、日本は、どうなりたいのか? 素顔を厭うて、整形をして厚化粧を塗った女のようです。 あはは。 さほどに、 世はイミテーションな東洋が溢れています。 イミテーション西洋先進国ぶって、 ほほっ。 知らない間に、東洋の我々が、 彼の十字軍の行進に加わっているのが分からないのでしょうか。 近代的知性と云うフォークで刺し抜かれた東洋、 我々の東洋の智恵と云う宝が、、、 無慚な姿で粉々になって! 捨てられたゴミ箱の中でしか見つけられないのでしょうか?! それらを思うたびに、悲しくなります。 これは、間違いや、過ちなどではありません。 混乱なのです。 オーバーではありませんよ。 ほっ。 これらは混乱なのですよ。 これから始まる混乱ではありません。 もう、始まっている、、、混乱が、、、、、 日本が努力をしても、 判断や見通しが混乱していくのではないかと恐れております。 苦しむのは、我々国民です。 その原因は? 日本が持っている現在の世界観が混乱しているからです。 日本人が一生懸命考えてやって行ったとしても、 ますます混乱していく、、、何が何やら分からなくなる、、、 なぜか? 我々日本人は、 主体的立場に立てる、自前の魂を持っているのか? その答えは、 no! です。 日本は、キリスト教の神のロジック(近代合理主義)の中では、 主体的に応用する立場に立てません。 首から下の役割、その重労働に耐える役割です。 具体的云えば、相手の価値観を補強する奴隷になるしかない。。。 近代化以来、その道を歩んで来たのです。 どこの国にも、その国独自の価値観、 風土や土壌に根を持った文化と云った物があります。 我が国の歴史において、我々の先祖たちが為して来た事です。 東洋の『陰』の智恵を積み上げて来た我が国は、 それらをすべて捨ててはいけなかったのです。 我々は、その東洋の『陰』に根ざす文化を捨て、 キリスト教を畑として成った物質文明を受け入れました。 文化に比して、 文明自体は、『陽』の集合体です。 風土や土壌を持ったものではありません。 ですから、物質文明はどこへでも、日本にも上陸し、 アジア全域へ、これからはアフリカも巻き込むはずです。 我々は、古来からの日本民族が積み上げた『陰』の文化を捨て、 『陽』のキリスト教文明を選択したのですよ。 それは、飴と理科から持ち込まれました。 どう云う事かと謂いますと、 飴と理科の建国の理念であるピューリタン的思想です。 御存知のように、 自らの責任において自らの力を最大限に発揮し成果を上げる。 その為に、 自由経済で市場競争を拡大し、競争によって自立と自助をはかる。 個人の自由の大きな意味を与えたのが飴と理科の建国精神です。 ケッコウナ事ではありませんか! あはは。 自立と自助を見習って、それの何が悪いの? って言われそうですが、 ほほっ。 日本は、これだけを見習って追従した訳ですが、 実は、飴と理科には、聖書中心の原理主義的なキリスト教の力があって、 中絶絶対反対、進化論反対などを主張している 反近代合理主義的な勢力が存在します。 その上、 地域における人々の連帯と、 キリスト教会における人々の暮らしの絆、 いくら自由と平等と云いながら、 日本の様に何もかも失って、ふわふわと舞い上がる個人だけじゃない、 飴と理科の社会で最低の個人生活の道徳的規律を保っているのですね。 つまり、西欧と飴と理科にとれば、 近代化によって、自らの文化を捨てた事がないのです。 その上で、飴と理科は、近代合理主義の旗印の基軸として、 自由主義、民主主義、市場経済などを絶対と見なしています。 絶対的価値!とみなしているのですよ! (日本にその覚悟はあるのでしょうか? あはは。) その上で、 それらの絶対的価値観の世界展開をしよう! と云う意図を持っている訳です。 そして、それを広げて行く先に起る脅威に対しては、 積極的に戦争で以って対決して行こうとする用意があるのです。 (日本にその同じ道を歩む覚悟はあるのでしょうか?) ーーーーー それに、引き比べ、 日本は、文化を捨てた丸裸で個人主義、自由主義をやっています。 個人生活の道徳的規範は、どこやらに忘れて、、、 ほほっ。 東京の様な近代的大都市を作り上げる事に集中して来ました。 近代的大都市なんて、物質文明の極(きわみ)です。 『陽』の極みなのです。 旺ずる極みは衰。 一極集中で、日本中のエネルギー吸って滅びの現象化です。 飴と理科の理念は、その絶対的価値観を拡大する事です。 それが、キリスト教理から照らして絶対的正義なのです。 飴と理科にとって先の大戦の大義は、その正義の為の戦争でした。 そのロジックにおける日本の立ち位置は、 飴と理科が絶対的価値観を世界展開しようとするのを邪魔した脅威、 先の大戦を起こして正義である飴と理科に対抗した悪者、です。 ですから、 支那や半島からの日本への断罪は、 飴と理科の正義を宣揚する為には、絶対に必要な事なのです。 将来において、これは決して変わる事はないでしょう。 つまり、 飴と理科を中心とする西洋的世界観において、 日本の、その役割とは? 飴と理科の正義を永遠に支える役割なのです! これで、承服できますか? ? ? 日本が先の大戦を詫びれば詫びるほど、 飴と理科の正義が宣揚される構造です。 この構造に、日本は自ら、選択して、 東洋的世界観を捨てて飛び込んで行ったのですよ、、、 これが、日本の近代化の実体です。 これから日本の進む道は? この現実の解決策を志向する論調も出て来てはおりますが、 その頭の中の回路は? やはり近代合理主義なのです。 これで、真の日本の良さを発揮する事が出来るのでしょうか、、、 これでいいのですか? これが、どう云う事を意味するのか? ここが一番大事な点なのです。 これが、一体我々の人生に、これからの日本に、 どうかかわって行くのか、 いいえ! もう、未来形ではないようですよ。 今まで、心身共に近代化を取り入れて、見た目、こう変わったと、、、 分かる範囲の変化を問題にして来ましたが、 これからは、それが、我々が身の奥まで取り入れた近代化の世界観が、 これから、我々をどう云う風に苛(さいな)むのか? と云う問題になっていると云う事です。 もう、『陰』を無視した近代合理主義病は身の中へ入り込んでいます。 熱を出して、高熱です。 体中にどんなひどい爛(ただ)れが出るのか、 もうすでに、そのサイクルの時が至っています。 物質文明が栄えると云っても、 物質自体が、地球上の限られた資源なのです。 その限界は、おのずと身近な処に表われて来るはずです。 その欲望の満足を得られる人は、限られるはずです。 「物質」で欲望の満足を得ようとする文明の中で、 その物質的満足が得られない人間は、 他人が豊かさの中で意識の充足を得ている横で、 孤独な飢餓を感じるでしょう。 そして、餓死しなければならない。 それ程の「苦」があるでしょうか? これが、自由と平等、人権を目指した近代合理主義の 物質文明の行き着く先です。 また、それらの究極的な差別は、 尊厳と卑猥の区別を付ける品位を失わせるはずです。 尊厳を毀損し、卑猥を尊ぶ狂気が当たり前の社会になるでしょう。 具体的には、 自己の意識の都合で、他者を殺める事が悪ではなくなるのです。 なぜなら、 自己の意識よりも尊い存在を知らない人間は、 自己の意識の尊厳が、あらゆるものに優先するからです。 これらは、すべて『陰』を無視をし、 自らの文化を疎んじて捨てて、物質文明に走り、 目に見える価値だけを重んじ、感覚器官の満足だけを追いかけて来た 近代合理主義の悲惨な結末として起こります。 これは、日本に重く起るはずです。 なぜなら、少なくとも西欧はキリスト教文化を温存しています。 後進国だったアジアも、自国の文化を温存しています。 日本だけが、丸裸なのです。 恥ずかしくありませんか? 公衆の面前で、丸裸だなんて! あはは。 『陰』を無視した近代合理主義病の病原菌を、 我々の中からひとつひとつ毛抜きで抜く様に取り出して 中味を入れ替えて行かないと、日本が、東洋が蘇らないのです。 かなしいですね、、、、、 ほほっ。 さぁ、どうしよう、、、 その為には、近代合理主義をひっくり返さないといけないのです。 どこで、ひっくり返すのか? 我々の意識の中で、近代合理主義を信じる事を止める事です。 自らのDNAに潜んでいる東洋の智を思い出す事です。 人間は、生まれ落ちた国土の人達が信じている世界観に染まります。 言い換えると、人はいずれかの世界観に頼って生きるのですね。 だから、いい加減ではダメなのです。 もっと、詳しく言いましょう。
近代合理主義を受け入れた時、 無意識を無いとするシステムチェンジで消されてしまったのです。 どんな事も全て、簡単に【意識】で放棄するべきではないのです。 本心命懸けで、先達たちが生きてきた歴史を捨ててはいけないのです。 今、現代の我々が、 我々の先祖たちが知りもしなかった近代合理主義を知ったからって、 知識者ぶって、それを以ってして、 先祖たちが為して来た事を、非合理であるとか、 合理においては過ちであったとか、 西洋の神のロジックに染まった我々の意識で、 批判をし、簡単に捨ててはいけないのです。 よく、考えてください。 異教の神のロジックで以って、 我々の先祖を、鞭打つ事になるからです。 金縛りで、吊り下げる事になるからです。 先祖たちが築き上げた伝統や文化を打ち毀す事は、 我々が、立ち直る時の土台を失うと云う事です。 西洋と比べるとカッコウが悪いとか、ダサいとか、論外です。 日本がとことんダメになって社会を組み立て直す時、 我々から力を引き出してくれるのは、そのカッコウ悪さなのですよ。 ほほっ。 ここまで、お読みになって、 飴と理科の国との問題は、外交問題だと思っていた、って? ほほっ。 互いの世界観の混乱の問題とは思っていなかったでしょうね。 何もかもが、文章で書き表せたり、目で見える世界だけではないのです。 書類で書き表せる問題と、そうでない問題と、 きちんと分けるべきでしょうね。 目前の現実的な交渉で、 相手の要求を受け入れざるを得ない利害問題と、 我が国の伝統に関わる思想の問題とは、 きちんと分けるべきなのです。 利害問題に置いて、 相手の無理やりな要求を受け入れても、 自分の生命線は、断固として譲ってはいけないのです。 もっと、具体的に言いましょうか? 自由主義、民主主義、市場経済のリーダーシップをとる国と謂えども、 その価値観に無条件に従う事は止めなければなりません。 日本を国足らしめている根幹からが揺らぎ、混乱していくからです。 我が国が大事にして来た文化や東洋的価値観は、 合理的には説明できないからです。 なし崩し的に、我々の世界観を捨て、 異教の世界観を受け入れて来た事のズレは、 これからどんどん大きくなっていくばかりです。 信念を捨てた人間が、どうなっていくのか? 信念のない人間は、どんなに愚かか、子供に教えませんでしたか? 子供には教えられても、自分では実行できないのです。 あは。 日本は、非常な窮地を越えて行かなければならないでしょう。 なにしろ、自分の魂を捨てた罪を償わなければなりません。 それを、失地回復するのに、又どれくらいの苦労があるのか? これから大人になった時に、 その対応をしなければならない今の子供たちに、、、 申し訳がない事をしている、と云う思いがあります。 つまり、西洋的世界観の中で、 日本は、 自国の存続を賭けた生き方を全うする覚悟があるのか? 今、 そう自問自答しなければならないのです。 その時に、西洋的世界観の中で全力が出せるのか? 全力が出せない様なら、日本はその時に終わってます。 ほっ。 そして、飴と理科の国と、真に対等な関係になるには、 わが国が、西洋的世界観から抜け出なければならないでしょう。 それは、同時に、 飴と理科を旗印とする近代合理主義のロジックから外れて 近代合理主義における絶対的価値観から解放される事です。 そうしなければ、わが国の真の失地回復はできないのです。 その時、初めて 先の戦争は何だったのか? 飴と理科の正義のロジックを外れて初めて、 問い直さなければならないでしょう。 そうしなければ、わが国の歴史は続きません。 捨ててはいけないモノを捨てたと、 それは、失敗などではなく、混乱を引き起こしていると、 そう自覚して、日本に起っている事をもう一度よく見まわしてください。 何時か必ず、 我々は、自分の元の東洋的世界観に戻らなければならない、と 反省するときが来るはずです。 それが、我が国の『陰』なのです。 時、はや遅し。 と云う事もあります。 革(あらた)むるに、憚(はばか)る事勿(なか)れ。 と云う事もございます。 日本の、今の危機は? これから将来に起って来る危機は? 危機は、根本的な根の所から起こって来るものだから、 これらの根である、歴史的に見ても東洋的世界観を無視をして 解決する事はできないはずなのです。 よく、お考えください。 個人の人生の諸問題において、 避けられない問題の根は、辿れば自己の中にあるものです。 最終的には、自己の中でどう対処し、どう覚悟していくか、 過去の自己との対決からしか前へは進めない様になっています。 そして、倒れそうになった時、 立ち上がる為に、我々が杖にするのは、 今までの自らの内へ積み上げた『陰』の智恵です。 それを、決しておろそかになさらないようにしてください。 西洋的世界観と東洋的世界観の、 その違いを知る事が、非常に大事になって来ます。 余りに長くなりましたので、 近代合理主義が熾(おこ)して来るニヒリズムについて、 書くことができなくなりましたわ。 また、次回? ほほほっ。 無意識に任せて、書けるようでしたら書きましょう。 では、次の更新まで、ごきげんよう! お元気でいらしてくださいね。 最後に、 長い記事を最後までご覧いただきました事に 深く、感謝申し上げます。 参考 : Science Secrets 青土社 アルベルト・A・マルティネス -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |