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11/27 10:46 |
『老子』58章「光而不耀」 意識に囚われない生き方 1 ・ 女性の生き方についてCategory : 孔子・老子・他
![]() 中國山水 ひさしぶりに音楽を~ ユンディ リ / Yundi Li の ショパンNocturne Op. 9 No. 2 です。 『天武天皇系流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学』の インターバル、 今日も、2件のコメントへのお返事です。 いずれも拍手コメントへいただいたものを紹介します。 ★☆“ 息子の方の孫は13年間の不妊の末に女の子を授かりました。 ........... 中略 ............ 家という意識がだんだん薄れてきますね。” そうですね~。 全文を掲載する事は控えさせていただきましたが、 とっても重い何かを、受け取らせていただきました。 すべてを、今、お返しする事は、できませんが。。 。 コメントをありがとうございました。 なにより、 めでたく授かった孫姫さんをお囲みになって、 幸せそうなご長男のご家族の笑顔が浮かんでくるようです。 ひとまず、よかったですね~! もうひとつ、ご紹介をします。 ★☆ ” 独身時代、占いで 「一人で生きていけば社会的には大成功、女性にしては強すぎる」と 言われました。特に姓名判断はそうだったようです。 短大卒業後11年間、幾つかの仕事をし、結婚後は専業主婦です。 (子供は男児が2人。) 今でもふと、自分は外で働く方が向いているんだろうな、と思います。 一人でいる方がきっと“より”自分らしさを発揮できる...そう思うのです。 習い事や社会活動を始めると、必ず人から仕事を勧められ、 時には離婚を勧められたりもします。 そんな私ですが、何故か 「自分の家庭を築きたい、いずれしっかり子育てをしたい」 その思いが子どもの頃から強かった... よくわからないのですが、 「今生のテーマをそう決めて生まれて来たのだろう~」と、 からだの内側からそういう感覚がわき上がるのです。 女性が本当に自分の力を試したいなら、本来裏側に回るべきだと 思います。 今の時代だからこそ。 世の中のことを考えればなおさらに。” いまさらながら、正直なコメントを読ませていただきまして、 女性は全体的であり、本質的であり、没我的である事を思います。 これこそが、無意識から溢れるエネルギーの源、陰の本体の働きです。 (没我=我を忘れること。無私無欲になること) 易しく言いますと、 女は金銭や自己の出世や効率や名誉や利得に価値を置かないのです。 男性の興味とはまったく違うのです。 (男性へ、あら! ごめんなさい~、あは!) だからこそ、 男の競争相手にならないで、妻となって支える立場になれる。 不思議な存在です。 女が、真にこの本質を全うするなら、 且つ、生まれながらの容姿姿態が魅力的なのですから、(あは!) ギリシヤの古人と言わずとも、 女性を美の女神と讃える気持ちは理解できますワ! (笑い) ” 今でもふと、自分は外で働く方が向いているんだろうな、と思います。 一人でいる方がきっと“より”自分らしさを発揮できる... 非常に大事なポイントです。 引く事、隠れる事の賢明さです。 そういう自己を自制しているのは、自己の内面の知恵です。 他人を意識した自己弁護的な理屈ではない。 嘘ではない。 数値化したデーターに影響をされた結論ではない。 つまり自己を相対化した結論ではない。 引く事、隠れる事には大賛成です! (笑い) 自分の生き方に対して、社会的にどうこう評価を求めない。 相対的評価に左右されないからこそ、 自分の産んだ我が子は、どんな子だって可愛いのです。 生命の側の価値観に沿って、 自律的に、自立性を保って生きる事こそが、女性の特権です。 (まぁ、裏返せば、それが極端に出た場合は、男性からはわがままとか、 世間知らずとかいろいろ評価はあるでしょうが、あはは。) このような主張で、女性本来の生き方ができるという事は、 いろんな意味で、恵まれた運を持っていると言う事ですよ。 自分の運と、ご自分の周りへ、どうぞ、感謝をなさってね~! このあたりは、私も自分の身に引き当てて、 非常に良くわかります。 進学塾の経営を止める時、ほぼこういう動機で止めました。 周りは、誰も理解をしませんでしたよ。(笑い) もったいな~い! どうして止めるの? ? 馬鹿だね~! おばか扱い? でした。 あはは。 何ヶ所かの教室と、生徒数がピークでしたから、 社会的な価値は、経営となれば、利益があるのに勿体無い。 そういう物差しで見るわけです。 女性の価値観は、それらとは違う事が、できるのですね。 しかし、受け入れた生徒を途中で放り出す訳には行きませんから、 3年後を目標に、新しい生徒は取らないまま、自然減をしながら、 在籍の生徒の受験の責任を終わらせて、すべての教室を クローズしました。 その時の気持ちは、晴れ晴れとすっきりと、日本晴れでした。 まったく後悔はしておりません。(笑い) ある意味、本当に運があったのです。 実は、 止めようと決めて、初めて回りの他塾の経営の状態を見回すと、 私の所だけが、独占的に繁盛をしていた! 状態でした。 ある地域は、100%の子供が、通って来ていました。 他の塾は、私の塾の煽りで、生徒を奪われていると思われていたらしい。 それには、今思い出しても、申し訳なさを感じます。 恵まれすぎるという事は、知らず知らずに他を犠牲にするのですね。 全体運で見れば良い事ではありません。 周りの経営者は、どんな気持ちだったでしょう。 私が、止めてホッとされたというのが本当だと思っています。 初めから金銭や欲得や順位や名誉や利得といった物の為に、 始めたわけではなかったけれど、結果そうなってしまった事に 賢明ではなかったと反省をしています。 (笑い) 今後も、絶対に“ 金銭や欲望”の原理では仕事はしない。 そう決めています。 でき得れば反対に、“ 金銭や欲望”では解決しない問題を、 運命学をもって解決をする道を究めて広めて行きたいという目的に。 当時設立した会社を役立て利用しようと、今に至っています。 今日の記事は、 『老子』58章「光而不耀」 意識に囚われない生き方 1 ・ 女性の生き方について 『老子』58章に、 「光而不耀」 光あれど耀(かがや)かさず。 というのがあります。 説明をしなくても、大意はご理解いただけると思います。 光耀く力を持っていたら、わざわざこちらから「光れるのよ~!」なんて、 (笑い) 光をキラキラ人前で照らし出す必要はない。 光る(力がある)から、引くと言い、隠れると言うのです。 たとえば、岩穴に隠れた(アマテラスみたい?!)ままでも、 岩穴の戸口から光は、かすかでも必ず真っ直ぐな光となってもれて来るでしょう。 その洩れて来るというのなら、自然です。 自然は、止めようがありません。 光が大きければ、必ずもれます。 その洩れるというのが、必ず、貴女の子供か、お孫さんか、誰か子孫が、 貴女が隠れた分、代わりに正しく評価を受けるという事です。 それが、正しく因果応報です。 すべての真価は、 他人やその時点の社会が決めるわけではありません。 正しくは、『天の道』・『時』の審判に拠ります。 もうひとつ老子を、 先ほどの「光而不耀」の続きに、「禍福倚伏」・かふくいふく とあります。 禍(わざわい)と思って慎んでいたらそれが福の元となり、 福と思って雲の上にいるような気分でいたら、 それが禍の起こる前兆だった。 そのように禍と福とは、お互いの傍に、伏せて寄り添っているものだ。 『天』は、『自然』は、行き過ぎる事を嫌います。 丁度の所で、頃合を見るという事、引くという事も大事です。 自分が恵まれていたら、その伏流水を、次世代へ送る事も賢明です。 息子さんが栄えるには、陰徳が大事になってきます。 そして家系の男系を守る事が必須ですね。 そうすれば、 男系のご家庭で生まれ育ったお相手が、お嫁に来る事にもなります! それも、貴女の生き方の縁です。 同じ陰徳を積んだ母親に育てられたお嫁さんに縁ができるからです。 、、、それが、運を作るとも言えます。 女の子をお持ちの場合ですが、 社会的に目立つ事を、両親が、殊更推奨しない方が、いいでしょう。 特に、母親が手放しで喜ばないように。 両親が、バランス感覚を持ち、いっしょに踊らない事です。 力を誇示しない、つつましやかに、、、難しいですね! あはは。 今日のコメントの底流に流れている、無意識の水流、 伏水流である「家」と言うものについて、 いつか記事のテーマに取り上げなければと思っています。 長くなりますので、これは、また、次の機会に。 次は、『天武天皇系流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学』 へ戻ります。 藤と橘について、 聖武天皇の皇后・光明皇后の両親である 藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)についてです。 おたのしみに。 来るべくして来る『時』を、 感謝しながら、瞬間瞬間、迎え容れたいものです。 よき時を、お過ごしください! -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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09/30 18:21 |
『老子』44章「止足の戒」 意識に囚われない生き方 2 ・ ご相談へのお返事Category : 孔子・老子・他
![]() 中國山水 暑さ、寒さも彼岸まで、 肌寒い時もあり、めっきり秋らしくなりましたね。 今年の夏は、熱帯の気候とも思える気温が続いたので、 この秋が、待ち遠しかったと思います。 でも脅威は、台風です。 『天』は、いろんな便りを出してくれますね。 次の便りは、なんと書いてあるのかしら。。 。 今日の記事は、 『老子』44章「止足の戒」 意識に囚われない生き方 2 久しぶりに、老子を書きたいと思っている処へ、 コメントでご相談がありました。 内容的に、今回の老子とリンクしていますので、 ご本人の了解の上で引用し、そのお返事と致します。 ご了承ください。 では、『老子』44章「止足の戒」原文と書き下し文。 1. 名與身孰親 名と身と孰(いず)れが親なのか? 2. 身與貨孰多 身と貨と孰れが多(まさ)れるのか? 3. 得與亡孰病 得ると亡(うしな)うは孰れが病(うれい)あるのか? 4. 是故甚愛必大費 是故に甚だ愛(おし)めば必ず大いに費(つい)え、 5. 多藏必厚亡 多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く亡(うしな)う。 6. 知足不辱 足るを知れば辱(はずか)しめられず、 7. 知止不殆 止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず。 8. 可以長久。 以(も)って長久なるべし。 1. 評判と云う虚像である名と、この生活をしている実像である身、 どちらが血族の血が通っている私なのか?(注) 2. 命と財産は、どちらに多くの価値があるのか? 3. 獲得と損失は、どちらが憂(うれい)いになるのか? 4. 惜しむ心は、必ず過度の浪費につながり、 5. 多く貯蔵すれば、必ず損失も大きくなる。 6. 満足の中庸を知る事は、屈辱から我が身を守る事になる。 7. 欲望を止める事を知っていれば、危険に遭う事もない。 8. それで、持ち堪えて永らえられるのだ。 (注).............................................................................. 1. 名與身孰親 の現代語訳では、 名誉と身体は、どちらが切実なのか? とする訳が一般的なのですが、 親 を「切実」と訳すのは違和感があります。 あまりにも現代的な訳に過ぎると思うのです。 本来、 親は、古代において「うから」と読まれ、 親族、血縁の人々の総称、血族の意味だったのです。 どちらが、血縁、血族なのか? と聞く場合、 名は、世間での名、評判。 身はこの生きている実像である私の体。 と云う解釈から、上記の様な現代語訳にしました。 ..................................................................................... 1. ~ 2. は、 世間の虚像のような自分の名を惜しむより、我が身を惜しみなさい。 お金や利益よりも命を大切に思いなさい。 つまり、一番大事なものは、命だ。 この段階で、 命の為には、世間の虚像であるうわさや評判を捨て、 お金である利益も捨ててもいいんだ。 と言っているのですね。 < はげしいですね! > あはは。 3. になって 今さら、命が一番だと分かったからには、 世間の虚像である自分の評判を良く言ってもらおうとか、 誰もが欲しがる利益であるお金が、 増えていく事と、無くなって行く事と、どちらが憂いが増える事なのか? 普通の一般的な常識では、 名も評判になり、利益とお金が増える方がいいに決まっているじゃない。 と言いたくなるのですが、反対なのです。 あはは。 さすがと云うか、 ここで、老子は、一般的な常識を覆(くつがえ)します。 自分の名の評判など、利益やお金も無くなる方がいいんだよ。 決まっているじゃないか! と言っています。 あはは。 4, において、 我々は、自分の世間での評判を落とさない為に、ムダなお金を使う。 5, において、 たくさんの財産を貯めれば、増やそうと思って大きな損をするだろう。 (その為に、悩んで憂えて、命を粗末に扱って寿命を縮める位なら、 初めから、そんな害のあるものは持たない方が良い。) 6, ~ 7, は、中庸を説く有名な一節になります。 「 知足不辱、知止不殆 」 足るを知れば辱(はずかし)められず、止まるを知れば殆(あや)うからず むやみに評判を気にしないで自分の分を知って、足元を固めて、 実像で生きていれば、メッキが剥がされて恥をかく事もない。 欲を止める事も知っておれば、危ない目に遭う事もないのだ。 (A)オレが、オレが、と出しゃばるような態度とか、 私が欲しかった物よ! と自分の欲を全面に出したり、 自分が得! と見れば、見境なくトコトン追求するような、 意識全開の他人の迷惑など考えようとしない態度を戒めているのです。 だからと云って、 (B)決して消極的に生きた方がいいとか、 控えめに欲を持たない方がいい。 と言っている訳ではないのです。 これも、ある意味、自分を守ろうとする意識全開です。 欲に拘るのも、欲を否定するのも、 実は、欲に支配されている状態は同じだからです。 (A)はその通りですが、だからと言って、 (B)の生き方に、 拘(こだわ)ってはいけないのです。 囚われてはいけないのです。 そう云う意識に囚われてはいけないのです。 要は、強い思い込みを持ってはいけない。 もっと高みから言い換えますと、 強い欲を持つのなら、それを完璧にコントロールしなさい。 完璧にコントロールできないのなら、危険だから持たない方がいい。 欲とは、自分の五感が見て聞いて集めた情報発信です。 つまり環境から得た情報に影響された五感の営みです。 自分が損をしているから取り戻そうとか、 他人に勝ちたいとか、 今より楽をしたいから、手に入れようとか、 なにより自分が損をしたくないんだとか、 自己満足のプライドに拘るのは、 自分は大した人物であると思ってほしい、(本当はそうじゃないのに) あはは。 自分の価値を証明したいとか、 自分の優位性を示したい、見栄を張る自分がいるからです。 要は、自信のない(ちいさな自分)がいるのですね。 (ちいさな自分)を、正直にさらけ出せない弱虫の自分。 たとえば、 見栄を張るとは、自分を実際以上に良く見せたいから、 いずれにしても、酔っぱらった状態=自己欺瞞があるのです。 自己欺瞞があれば、正しい現状認識が出来ていない訳ですから、 先で必ず、破綻をする。 それで、恥をかき、危険にも遭う。と云うのですね。 (ちいさな自分)が大きな自分になりたいと云うのはいいのです。 それは、OK なの。 が、(ちいさな自分)は、大きな自分になれる知恵を知っているの? 知らないから、(ちいさな自分)なんだから、 (ちいさな自分)の云う事を訊いてはいけない。 身を誤るような事になるよ。 昔からの智者と言われる人の知恵を参考にして行きなさい。 自分に合った中庸をさがしていきなさい。と云う老子の注意なのです。 (ちいさな自分)の意識の奴隷になってはいけない。 それはそのもの環境に支配されている事になるからです。 それでは、同じところをグルグル回るだけになるからです。 なにの云う事を訊いていけばいいのか? それは、知恵なのですね。 『天』の道に沿った、『地』の理に沿うと云う事なのです。 そうすれば、 8, 以(も)って長久なるべし。 長くしあわせで暮らせる。 長寿で生きられると云うのです。 ここで、今回のご相談に移ります。 お久しぶりです。腎不全で三児の母の***です。 私が迷ったときは、ここに来て、読み返して、 考え直すようにしている、大事な道しるべにしています。 ちょっと今、迷っていることがあって大事なことだと思うので、 どうかまた道しるべになっていただきたく、書き込みます。 先週、義父が台風のための養生をしていて二階から落ち、 脊髄損傷の重症で、一生車椅子生活になりました。 今、実家から二時間以上かかる脊髄専門病院に入院しており、 半年はリハビリなどしっかりしてからの退院になるようです。 主人は男三人兄弟の長男です。 職業は、外科医師で、医局に所属しており、転勤は一生続きます。 夫の地元の近郊を転々としておりましたが、 おそらくあと二年ほどはいるのではないかと思っていた処、 昨年より実家よりも遠い◯◯県に来ました。 次男は、独身で、主人の実家に同居です。 三男は、昨年結婚、まだ子供はいません。 会社勤務で、今後転勤のある職業です。 現在、義父のめんどうは、同居の次男の弟が、入院している病院まで、 お母さんを連れてよく行き来してくれています。 三男も、1時間ほどかかる自宅から土日には顔を出してくれています。 義母は、もともと精神的に弱いところがあり、 私たちが結婚したのをおばあちゃんに反対されたのがきっかけで 精神安定剤を飲むようになったと10年間ずっと言われてきたので、 私の病気にも心無い言葉をかけられたことが多く、 正直、距離をおきたいな、と思うことも多かったです。 私が病気判明したときも、義父は、困ったときはお互い様だからね、 と子供を預かってくれて入院することができました。 実際よく面倒見てくれたのはお義母さんですが、 お義父さんの言葉があってお義母さんも見てくれた処があると思います。 主人の両親はつつましく暮らしていて、あまり財産もありませんでした。 義母が同居してきた姑、主人のおばあちゃんですが、 ちゃきちゃきと働き者で頭のいい人でおばあちゃんのおかげで、 うちの主人は医者になれたのだと思うところがあります。 認知症になってからは、老人ホーム代はうちの主人が長年支援しておりま した。我が家も子供が三人になり家賃も高く、中断したところでした。 実家は、かなり古く変に建て増しを繰り返していて、 ここを車椅子仕様にリフォームするというのが難しい感じです。 10年の恩返しのためにも、私たちが近くに戻って、 中古の家でも購入してリフォームして、なども考えます。 そのあたりに異動をお願いすることは一度きりでは可能ですが、 2,3年で夫は転勤になります。 単身赴任はしないと決めて10年間で7回も引っ越して来ました。 夫と一緒の生活は大事にしたい気持ちがあります。 ただ、夫の仕事は、実家から通勤できる場所にはありません。 次男の仕事は地元で転勤はありません。 今後、どうしていったらいいのでしょうか。 やはり基本は長男の考え方でいったほうがいいのでしょうか。 その場合、仕事を変わるということまで考えるべきなのでしょうか? ゆくゆくは、お墓を継いで守っていくのはやはり我が家というふうに 考えていったほうがよいのでしょうか。 大変な事になりましたね。 まず、大事な事、お伝えしなければならない点を書きます。 ・まず、あなたの一家を守ること、これを一番大事になさって。 ・単身赴任はさせない。その覚悟をあなたが持つことが大事ですよ。 どこまでも、付いていってください! あはは。 ・御主人のお仕事は、止めないように。全うさせる事です。 すべて、今のままを維持する事が第一です。 ・当座は、実家で同居の二男さんへ任せるかたちがいいでしょう。 信頼して任せる、二男さんの親との縁、運命の問題でもあります。 ・家をどうするかは、 二男さんからご相談があってからでも遅くはないはずです。 実家は、義母上と二男さんの生活の場ですから、 別の場へ引っ越すなど慣れない土地での生活は無理でしょう。 一番、いいのは今ある家の一部を壊して、義父の寝室、水回りを バリアフリーにリフォームするのを地元の工務店へ相談なさって。 とにかく、二男さんと義両親の生活の場を守る事です。 ・兄弟で、誰が何を負担するのか? それぞれの運命もありますから、平等とはいかないのが普通です。 直接面倒がみられない長男、三男が資金的な面倒を見て、 二男さんの結婚が決まるまでは、直接面倒を見るのをお願いするとか、 3人兄弟さんの話し合いの上で、ですね。 そうすれば自然に、ご長男のあなたの御主人が頼られます。 その応援をする事があなたの仕事ですよ。 これは先の事ですが、二男さんが最後まで同居をしてくれたら、 実家は、二男さんへ差し上げるとか、 先々、施設へ義父を預ける事も選択肢、 そう云う事も含めて、3兄弟で相談をしてもらう事が大事です。 ・一番重要な事は、これは、 父親を守り、母親の世話をする3兄弟の『孝』の問題です。 三兄弟に立派に親孝行を成し遂げてもらうように見守りましょう。 これが、『陰徳』です。 あなたの家系の基礎を固める事になります。 でも、決して無理はなさらないように! 生真面目なあなたは、無理をしそうですね? あはは。 あなたが、御主人のご実家の事など、 ありのままを正直にお書きなので、申し上げますね。 財産もない家庭から、 男系の新たな初代継承運のある男児が生れます。 貴方の御主人のご実家、3兄弟、からですが、 命式を観ないと決められませんが、そう思います。 例えば、現在の総理、野田さんは、一自衛官の息子です。 父親も農家の6人兄弟の末っ子。 母親も農家の11人兄弟の末っ子です。 おそらく貧しかったであろうと思います。 真実は、貧しさから芽生えます。 野田さんは、松下政経塾に第1期生としての最終面接時に、 松下幸之助塾長に笑顔で迎えてもらったそうですが、 塾長の目は笑うどころか射抜くような怖い目つきで 〈キミの身内に政治家はおるか?〉と尋ねられ、 「まったくいません」と答えると、 〈そりゃ、エエな。ところでキミの家は金持ちか?〉 「どちらかというと貧乏です。」と答えると、 『なお、エエな』と松下幸之助氏に言われたそうです。 いわゆる、貧乏育ちの方が我慢強い。忍耐ができるのですね。 楽を求めない。苦労が当たり前なのです。 貧乏と云う事は、男性の生産性がない、弱いと云う事ですから、 『陰』の衰微と共に、『陽』も弱っている家系なのですね。 弱い夫や父親の代わりに、妻や娘が働くと云う家系になります。 これは、そうした方が経済的には、解決が早いようですが、 家系としたら『陰』がますます衰微します。 終には、絶家します。 国も同じです。 『陰徳』がなくなれば、形(現象)はなくなる。 家が、家系が、国が、消えるのです。 しかし、女性がしゃしゃり出ないまま、 そのまま苦労の中を『陰徳』を積む事で貫き通すとすると、 家系が、絶家の寸前で止まった段階で、 何代か辛酸を舐めた後に、新たな初代男系が生れます。 『天』・時の淘汰に耐えた姿です。 御主人の家系もそうだったのではないか? 周りよりも貧しく、それでも真面目に生きた家に、 決して要領や嘘で生きなかった我慢強い家に、 ご褒美としてこれから家系を盛り返す力を持った男児が生れて来ます。 初代になる長男は決して楽な人生ではありませんが、 さまざまな困難を逃げず、耐えて真面目に努力をし、乗り越えて行けば 長く苦労に耐えた家系が、彼の代で勃興するのです。 自分の病気を押してでも子供を産んだあなたは、ふさわしい妻です。 絶家の家系を観るのは、辛さを感じずにはいられませんが、 男系の出発の家系を観るのは、まさに、ご来光を見るようです。 歓びがありますね。 あなたの御主人が、復活男系の初代なら あなたの息子は2代になります。 家系が大事なら、絶対に子供に贅沢をさせてはダメです。 自分の五感の満足だけを求める人間になります。 これは、『陰徳』を引き出して使うだけ、 直ぐになくなってしまいます。 ここが、要注意ですよ。 1. 名與身孰親 名と身と孰(いず)れが親なのか? 2. 身與貨孰多 身と貨と孰れが多(まさ)れるのか? 身は、『陰』です。 名や貨は、『陽』です。 身よりも、名や貨を大事にして、 それらが家系の宝になってしまえば、 そこで、家系は女系へと移って行きます。 男系は、貧しい方が良いのですよ。 あはは。 国でも、まだ貧しい方が、ハングリーで国民が団結しますね。 後進国の方が、未来があります。 先進国は、女系の国に成り下がっているとも言えます。 女系の家系が溢れている日本より、 まだ中国や韓国の方が、ハングリー、 男性が家族を養おうと一生懸命で、男系ですね。 日本の若い男性は、年増の女性と一緒になって食べさせてもらおうと? あはは。 お墓の事は、また、記事にする事もあります。 墓石屋が占師と組んで吉相墓と言って、 一千万、二千万、とか吹っかける業者には騙されないように。 ほほ。 占師もそれぞれの人間性です。 何かと組むと云うのは、何にせよ半端ですわ。 「 知足不辱、知止不殆 」 足るを知れば辱(はずかし)められず、止まるを知れば殆(あや)うからず 恥をかかないで、危険にも遭わないで、永らえて行こうと思ったら、 自分に丁度の処で、つつましく生きて行きなさい。 中庸と云う生き方を求めて行きなさい。 あれこれ世間(現象)を見聞きした自分の五感の満足を求めても、 満足と云うのは、有り得ないのです。 それよりも、 周りの他者の満足を、おもんばかっていきなさい。 そこに、あなたの価値観を置いていくように、 と云う事なのですね。 身体、命、を大切にして、 名を惜しむ心、多く貯蔵する事、を避けていきなさい。 満足の程度をどこに置くのか? それに合わせて自分の欲望を止める事を知っていきなさい。 環境に染められる五感の変化を自由にコントロールして、 過去を振り向く意識に左右されないように、 自分の意識にこそ囚われないように、 それまでの経緯(いきさつ)、 今までの前提をすべて消去して生きるように。 老子は、そう言っているように思います。 僭越ながら、私なりに解釈をしてみました。 あはは。 昔の老子も、古くはないのですよ。 何かのお役に立てられれば、、、幸いでございます。 よき一週間をお過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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12/09 17:01 |
『老子』56章「和光同塵」 意識に囚われない生き方 3 ・ 有名(ゆうめい)無実Category : 孔子・老子・他
![]() 中國山水 今日の記事は、 『老子』56章「和光同塵」 意識に囚われない生き方 3 ・ 有名無実(ゆうめいむじつ) 「和光同塵」わこうどうじん------ 非常に有名な一節でございます。 ★ 老子を取り上げるのは、これで3回目です。 老子の思想にあるものと、四字熟語「有名無実」のコラボ、 老子の思想と、仏教の「有名無実」のコラボを、 いつか、やってみたいと思っていました。 ブログの読者のみなさまには、今まで『陰』『陽』を通して、 身近かに感じていただいているものです。 いつも、ザックリ『陰』と謂っている世界が中心になります。 ここが、東洋思想の本領地、本貫地です。 『陽』に相対しての『陰』は、 いままでの大雑把な一括りでいいのですが、 『陰』に焦点を当てると、ザックリひとまとめとはいかないのですね。 『陽』は、ひとまとめでもいいのですよ。 それを、分かり易い例えで比較しますと、 『陰』全体を、東京ドームとします。 (ありえないですが、、、ほっ。) 『陽』の現象界は、東京ドームの空気中に浮かぶホコリの一つ、 よほど日光を当てて見ないと分らない位のものです。 無意識界に対する意識界の存在は、その程度です。 実際は、ホコリ一つにも当たらないのでしょう。 我々は、自分が生まれ出たその母体である『陰』をそっちのけで、 見えないホコリ一つにも当たらない現象界で必死に生きている訳です。 一つのホコリ位の狭い現象界で、 みんなが押し合いへし合いモバイル端末を持って、 なんと滑稽な習慣を作ってしまったのでしょう、、、 わざわざゲームに熱中しなくても、 、、、自分の身口意がやった事の結果を背負うと云う、、、 ほっ。 逃げれば、逃げただけの数のオバケが追いかけて来ると云う、 我々が、まさに障害レースをしているのですよ。 あはは。 オバケの数を、どうしたら減らせるか? その事を解決する方が先のはずなんだけど。 オバケを背負ったまま自分が死んだら、 オバケは子供へ乗り移って子供が受け継いで、 最後、オバケが増え過ぎて背負えなくなったら負けなのよ。 この世に、誰もいなくなってしまう。 ----- 絶家です。 そう云うゲームを実際に、やっているんだから! ほほっ。 笑いごとじゃない。 我々が意識できる世界は、無意識全体の領域から云うとそんなものです。 その微細な意識できる世界を本物と思って、そこで勝負を掛けて、 中国が防空識別圏を、 普天間基地が、 特定秘密、、、、、、、 ほっ----- っ、、、 ため息がでます!!! 一つ一つに対症療法のような事をしないで、 どうして、そんな現象ばかりが出るのか、考えてみたらと思います。 宇宙ステーションだって、そのチリの中の事です。 あはは。 もう宇宙の利権争い? 馬鹿じゃないの? 『陽』が、どんなに狭隘な世界で命懸けで競争を必死にしている事か! 『陰』が、まだよく分らないんだよと仰るかもしれませんが、 無辺に無窮に広がるこの世界こそが東洋の神秘です。 ★ 老子が、彼の思想の中で〝玄”と謂っている世界です。 西洋の思想家が、想像だにできない世界が、そこに在ります。 西洋は、ここまでの世界に到達する前に、 「楽」を求めて天国と云う休憩所を作ってしまったのね。 あはは。 今や、休憩所ではなくて、目的地化していますが、、、ほっ。 老子の思想は、『陰』の入り口を指し示す道標と思っています。 入り口だと言っているのではありませんよ! ほほっ。 入り口を指し示す道標です。 まだ、入り口に至らずです。 これらの事を、 できれば、今回と、次回に分けて記事にしたいと思っています。 きっと、今までにない長い記事になる予定です。 適当に途中で切って、何回かに分けてご訪問ください。 よろしくお願いします。 東洋思想のプロローグの始まりの匂いを嗅ぐ、 その、おつもりで、、、。 ほほっ。 まず、今日は、老子の思想と四字熟語「有名無実」を、 1.「ブッダ」の尊称と釈迦について、 2.「老子」の尊称について、 3.「有名無実」について、 それらを踏まえて、今日の本論、『老子』56章「和光同塵」へ 行こうと思っています。 次回が、老子の思想と「有名無実」の仏教的解釈です。 計画通りに行きますように、、、、、、、ほほっ。 老子は、 『老子道徳経』を書いた人物とされていますが、不明な部分が多く、 老子と云う人物が実際にいたかどうか、実在は疑問視されています。 ----- 古代インドで、「ブッダ」が「覚者」を意味する様に ----- 古代中国で、「老子」とは「偉大な人物」を意味する尊称でした。 この「ブッダ」「覚者」や「老子」の尊称について、 ついでに釈迦について、ほんのサワリになりますが、 次回の記事の為に少し書いておきます。 「ブッダ」について、なにを思いだされますか? 「ブッダ」は、仏教を始めた人で、仏になった。 インドで生まれた。 仏像になって寺院に祀られている。 一応、その通りでしょうが、すべてではないのですよ。 ほほっ。 実に、意識が捉えられる限界はここまでなのです。 意識はそこまでしか手を出せない。と云う事でございます。 一般的に、我々が知っている「ブッダ」についての知識は、 おそらくよく知っている方にしても、 通俗的な領域を出ない、と思っています。 これは、我々の知識を馬鹿にすると云う事ではなくて、 感覚器官の情報に制限された近代合理主義の世界の時空の狭隘さ、 限界が原因なのです。 それは、まず第一に、 現在の学問、史学は、唯物的史観で成り立っていますから、 物的な証拠集めが最重要なのです。 これは、犯罪で犯人を特定する証拠集めと同様です。 そして、それに基づいて、 日記に書くように、いつ、どこで、誰と誰の子供として生まれた、 それから、どうして、どうなった、なにをして、亡くなった。 亡くなったら、あの世の事は意識には、解りません。 意識には理解不能ですから、死んで仏になったの? あはは。 一番肝心要の事柄が、曖昧で、想像の域を出ないのです。 学問が、「ブッダ」に関する全てを片づける事ができない。 「ブッダ」は仏教の創始者ですから、 取りあえずは無意識界が対象になるのですが、 学問は、無意識界の領域は、無いとして放置する。 無意識の領域とは、神仏の領域もアリ、の世界なのですよ。 近代合理主義が非合理的と捨てたものです。 だから、学問では「ブッダ」全てを網羅する事ができないのです。 現代科学は、 意識で捉えられないものは、非科学的なオカルトのレッテルを貼ります。 曖昧で、想像の域を出ない、、、 その隙間に、スピリチュアルの必然性があると思っています。 キリスト教理の二元論が産んだ双子、 一人が近代合理主義の物質文明、もう片方がスピリチュアルです。 近代合理主義の物質文明の欠陥を埋めるべく生まれ出たのです。 その存在は、二元論の世が続く限り、です。 学問も学問です。 真理を見つける。と言う。 どこで? 見つけられるのでしょう? 意識で、意識界だけを探索して、 真理が存在する無意識の領域を無視して、よく言えたものです! 一片のチリの世界などに、真理はあるものですか! ほっ。 科学とは、五感で掴めるものと、 掴めないもの、との間に、 ボーダーラインを引いて回る事ですか? そのボーダーラインの外側は、無いものとして無視をする。 そのやり方で、この世界を狭くして来たのは、 どこのどいつですか? 「ブッダ」も同様に、インドに生まれて、、、、仏になった。 近代合理主義下では、 これを積み上げる事が、仏教を知る知識、歴史になります。 意識にとっては、これ以外には、在りません。 仏教の教えそのものより、理科的に観察をする訳です。 これそのものが、 意識が、築き上げた知識と云う砂の上の楼閣です。 近代合理主義に生きると云う事は、 砂上の楼閣と共に、 我が存在も滅びてもいいと、 意識が作り上げた砂上の楼閣に我が存在を賭ける事です。 我が命を賭けると云う事は、 我が子孫も、もろともと云う事になりますね。 よく、考えてみれば、 我々の命は、近代合理主義から戴いたモノではないのに、です。 命の川上を捨てて、自分の命をムダに捨てているのです。 近代合理主義を命に染めると云う事は、恐ろしい事です。 これが、『陰』の否定、 命の川上を尊敬し感謝をし恩を報ずると云う『孝』、 『孝』の無視でなくて何なのでしょう? この事に、本当に気が付いて欲しいと思っています。 かように、 いつも云う、『孝』の抜けた国土とは、日本の事です。 無意識の領域のあるものを無視するだけなら、まだましです。 意識の大罪は、 無意識に本領のあるものを意識で整理する事です。 科学的に、 学問的に、ね! ほほっ。 学者が仏を!!! 五感に基づく意識、理性で説明をする。 できると思っているのでしょうか? そして、理解をしたと思うから、本にするのでしょう。 本で、幾ばくかの糊代をいただく訳です。 当然ですが、職業の自由はございます。 表現の自由も、言論の自由も、 ああは。 何を書かれようと他人の生業をとやかく言う謂れはございませんが、 悪とは申しません。 が、仏を、自分のメシのタネにする! この事は、全身がイタイ! と悲鳴を上げます。 (意識の世界)の学者が、 (無意識の世界)の仏を、言葉で解説説明、言葉で解剖をする。 近代合理主義で、(無意識界)を排除した学問で、 東洋の神秘が分る訳がないのに、です。 西洋哲学の言葉で、 東洋の智慧を表現する事ができるとは思えないのです。 私は何者でもありませんが、何者でもないからこそ、 守る権威も、地位も、近代合理主義からの利権がないからこそ、 このチグハグサは痛い程分かります。 仏には、自分の糊代を削ってでも、ご供養を捧げたい。 それが、ブッディストとしての矜持です。 無意識を無視をして意識を中心に据える秩序の破壊、 意識と無意識の立て訳が分かっていない無秩序、 人と云う立場で、仏を講釈する無法、 痛い! 非常に全身がイタみます。 そう、仏教の中身は、無意識の領域に存在します。 仏の悟りは、無意識界に、存在しているものですから、 言葉で書いた本を読んで理解する世界ではありません。 言葉は、『陽』の現象そのものです。 『陽』の現象如き言葉に、無意識界を説明できる訳がないのです! 「ブッダ」は、と云う説明に、 近代合理主義と云うものは、 史学的に、理科的に、 こうだ、ああだと、言葉を尽くして説明をします。 これが、近代合理主義下のバカ知識です。 ほほっ。 肝心要の仏教的立場については知る事も述べる事もできません。 「ブッダ」を歴史的に知って何の役に立つと云うのでしょう。 仏教の流れの中でこそ、その意義があるのです。 近代合理主義の世界は、こう云う価値のすり替えを平気でやりますね。 「ブッダ」を、仏教上の位置づけでは、、 「始成正覚」(しじょうしょうかく)の仏と謂います。 此れは、華厳経と云う経典の巻一に、 「--- 始めて正覚を成ず」とあり、 釈迦は今世において仏道を始めて仏になったとある処からなのですが、 短に、仏と云う言い方では、いつの、誰の為の、 どう云う身分の仏なのか? 漠然とした仏では、役割の詳細が分かりません。 そこまで、仏教と云うものは厳密なのです。 そして、◯◯仏と云うものが大勢居るからなのですが、、、 あはは。 「始成正覚』の仏とは、ゆえに、 永遠性の時軸を持っていない仏と云う意味があります。 詰まる所、 釈迦在世(インドに釈迦が生きていた時代)の人々を対象に法を説いた。 その為の仏だったと云う括りの意義を持つ名前です。 これから観ると、釈迦が無くなった後の世の我々とは関係が無い、、、 我々の仏ではない! あはは。 大変な事なのですよ。 アダやおろそかにはできない重要事項です。 この身分が、難しいですが、法華経迹門(しゃくもん)まで続きます。 と、云う事は、 それまでの釈迦が説いた法は、釈迦在世の人々の為であって、 遠く時空を離れた我々を対象としている仏の法ではない。 と云う事になります。 でも、俗っぽい事を云いますが、 その時の経典で宗派を成立させている仏教寺院が多くあります。 釈迦の仏としての呼び名では、又は、 *インド応誕(おうたん)の仏とも言います。 これも、そうです。 活躍する場所が、括られているお名前です。 全世界、いや日本は、入っていないお名前ですね。 注: *インド応誕の仏 = (釈迦が説いた教えである仏典には、 単なる仏と云っても釈迦以外に、数えられない程の数が説かれています。 それらの無数の仏群と区別する呼び名です。 インドに生れたガウタマ・シッダールタが、王子の位を捨てて王城を出て、 出家をして修行をし始めて成った仏と云う意義(始成正覚の仏)で、 いわゆる、我々が通俗的に知っている釈迦の事です。) インド応誕と断る名前が付いていると云う事は、 インドに存在した時に限った仏と云う意義があります。 つまり、我々が一番知っている「ブッダ」は、 「始成正覚の仏」、「インド応誕の仏」であり、釈迦とも謂われます。 正式には、サンスクリット語で शाक्य (シャーキャ) 音訳で「釈迦」、〝力ある者”と云う意味です。 意訳で、能忍、能寂、など。 釈迦牟尼(しゃかむに)の略語です。 牟尼と、尼の字が付いているからひょっとして女性? かと思えば、そうではなく、 ほほほっ。 「釈迦」とは、釈迦族と云う出身部族名であって、 それに続く「牟尼」は聖者・修行する者の意味です。 本来は、人の名前ではない。 つまり「釈迦族出身の聖者」という意味の尊称です。 ここまでで、どこにも仏と云う呼び名はありません。 釈迦は、自らが仏であると名乗った訳ではありません。 まして、自分こそが宇宙の最高の仏などとは言っていないのです。 又、自分の仏像を作って本尊にしろと言った訳でもありません。 すべて、後世の弟子たちがやった事です。 仏と云う尊称も、弟子、信者がそう、呼んだのです。 次は、「老子」と云う尊称について、 「老」と云う字は、日本語の中では、老いぼれた、、、 ほほっ。 などのように、若さを失い心身の力が衰えて価値が無いイメージ、 意味などを持つ語です。 中国のお酒「老酒・ラオチュウ」と云えば、 古くなって味が落ちた酒ではなく、 長期間の貯蔵によって香りと味がともに円熟した黄酒(醸造酒)、 一般に貯蔵年数の多い紹興酒の事を指すように、 「老」には、古いと云う事への尊敬の意味があります。 老子も、周りの人たちが尊敬の意味を込めてそう呼んだのでしょう。 ここで、ひと段落しましょう。 長いので、お疲れでしたら、 また、出直してくださって続きを読んでいただきますように、 なんだか、途方もなく続くような気がします。 ほほっ。 次は、「有名無実」について、、 これも、全部書こうとしたら、もう、大変です。 あはは。 四字熟語の有名無実(ゆうめいむじつ)は御存知ですね? これは、中国の春秋時代の歴史書「国語(晋語)」の由来です。 世間に名が知られていても実質が伴わない事を謂います。 この熟語の、前半の「有名」は、 普段、我々が使っている「有名」(ゆうめい)と云う言葉です。 これは、誰でも知っている、 そう! 有名です! ほほっ。 後半の「無実」は、「有名」ほど有名ではないのです。 ほっ。 そもそも「無実」ってどう云う意味なの? あはは。 この「無実」は、悪事をしていないと云う意味ではありませんのよ! もしそうだったら、 この四字熟語の与えるイメージは、 有名である事は、罪がない事である。 なあ~んて、なってしまう? あはは。 有名人っていいなあ、と云う人間のどこか浅はかな気持ちすらを 肯定してくれる? 四字熟語になってしまいます! じゃ、有名になろうとする事は良い事なのだ、、、あはは。 とんでもない誤解です。 あはは。 でも、その方が、反って、「有名無実」と云う四字熟語は、 「有名」と「無実」が引き離されずに、広まったかも知れません。 「無実」が、「有名」を讃えているのですから、、、 あはは。 こうなれば、「有名」は、もう、完璧に強い言葉になっていたでしょう。 軽佻浮薄な現代の風潮に合っているかも知れませんわ、、、 ほほほっ。 翻って、現代文の中では、 「有名」の方だけが、一方的に使われる頻度が高くて、 「無実」を切り捨てて独り歩きをしています。 「無実」が、「有名」と一緒に使われる事は、ほとんどありませんね。 邪魔なのです。 なぜでしょう? 「有名」は、人間の欲望にとって、心地よい言葉なのです。 特に、意識が作為するこの『陽』の現象界において、 他を差し置いて有名になる事は、『陽』の真骨頂なのです。 そう! 『陽』の旺ずる極みの一つの姿でしょう。 競争社会の中で勝った成果としての現象であり、 この世が、現象界とはつゆ知らず、 勝ちたい欲望が果たされた、 人間の欲や願いが実現した状態なのですね。 ほほっ。 だから、「有名」と云う言葉は、 憧れや羨望が入り混じった人々の意識のおかげで、 「無実」を置いたまま勝手に拡散して行く力を この世の中に有していると云う事です。 でも、これは、四字熟語ができた意義からは遠ざかっている。 だから、結果から見ると、この熟語の通俗化、と言えるでしょうね。 一方、「無実」は、拡散する事はありませんでした。 それは、そうです。 そもそもが、「実」は、何なのか? その原点を知る事は、難しいからです。 また、権力者にとって都合の好い政治をしようとすれば、 「実」を知った僕(しもべ)は邪魔です。 思い通りに云う事を訊かせられなくなるでしょう? それを国を挙げてやったのが、 朱子学を国を治める思想とした日本の徳川、中国の清でした。 朱子学派は、 儒教としての最高徳目『孝』を忠や義に変えたのです。 幕府や皇帝に「忠」や「義」を尽くすように、 「実」の中身をすり替えたのですね。 権力者にとって都合の好い「偽・ニセの実」に変更した。 ええ、もう本当の「実」ではありません。 「不実」です。 そのように国民の真面目な性質を利用して、 国が「不実」を掲げ、 結果は「無実」な国へ堕ちて行った。。 。 外国の力に屈する処まで腐敗したのです。 そう云う絶対王政や独裁政治を経て、 今、民主主義の時代と云って「実」が有りそうに見せながら、 そもそも近代合理主義自体が、 肝心要の「実」である『陰』の世界を捨てて無視しています。 時代が、「実」を捨てて否定をしているのですから、 「実」がどこにあるのか分らない時代へなってしまっています。 きらびやかな「楽」や〝真ともらしさ”を喧伝する意識グループに 残念ながら「実」は、何処にもないはずです。 今の世に、誰もが「実」は有ると思いたい。 しかし、近代合理主義が「実」の世界に蓋をして否定をしています。 しかも、誰もが、それに気が付かない。 民衆と云う者は、めんどうな事はイヤですから、 ほほっ。 釈迦が誰の為に説いた経典なのか、確かめもしない。 どの経典も、宗派の違いも無頓着に、同じだと思っていたい。 近代合理主義が、どう云う思想なのか、知りたくもない。 あはは。 気が付かないまま、無事に生きれたらいいじゃないか! あはは。 それも、一つの考えです。 しかし、 正しい知識を身に付けないと、それは智慧には結びつかないのです。 未来へ発展する為には、正しい認識を! 浅い知識は、 智恵になるどころか、我々を、その浅く低い所に縛り付けます。 そして、我々自体が淀んで腐ってしまいます。 それが、個人であれば、早世、夭逝。 それが、家系であれば、絶家です。 それと、民衆がバカな方が、いつの世も、 為政者には、やはり今の政治や経済には楽なのです。。 。 これらの意識グループには、未来は見えないのですから、 今の政治で得をしている人々にとれば、 じつに、「実」を知る人間は、邪魔のはずです。 今回の秘密保護法の状況を見ていると、 民主主義と云う政治形態だけではどうにもならない。 実に、国家が、堂々と国民に秘密を持つ国家とは何ぞや? それならそれで、その前に、 国民の一人一人が「実」を知らなければ意味がないのです。 それも、事が起こってからではダメです。 常日ごろからの「実」を知る努力が要ります。 それを努力させないように、好い頃合いに、ホメてダマして、 モバイルの端末を与えて、国民総出でゲームで遊ばしておけ! と、 歩きスマホで、思索をしない大人ばかりにして置けば、 あはは。 政治家は、楽なのでしょうね。 国民は、反対する知慮を持つヒマが無くなるからです。 意識全盛の時代です。 意識はいくらでも、上位の意識が、 下位の意識へ目先の楽を与えて邪魔をし、騙す事ができます。 楽を求める意識こそが、騙されるのです。 そう云う意味で、便利と効率を求める先には、「実」はないのです! 意識の狂騒(競争)の果てには、「実」はありません。 この事を、本論の『老子』まで覚えておいてください。 まさに、今は、「無実」の時代です。 実に民主主義を徹底させる為にも、 我々一人一人が「実」を知るひとりひとりになるしかないのですよ。 いくら、グローバリズムと云っても、 日本人がグローバル人になる訳ではありません。 みずからの伝統と東洋の矜持を失ったら、 我々は、地球上の彷徨(さまよ)い人です。 母国の山河を失うまで、便利と効率を欲しがりますか? あはは。 ところで、 「無実」の「無」と「実」は、 反対語の関係ではないでしょうか? 「無」に似ている語に、「虚無」があります。 その反対語は、「充実」ではなかったでしょうか? 「無」の意味が「実」の意味を完全否定しています。 その「無実」が「有名」を完全否定しているのです。 ここまで、「有名」を否定するのか? ここまで、ダメ押しをされますと ドキン! と意識は、緊張します。 あはは。 意識は、快『楽』を求めていますから、 快楽を求める事を否定される事が、一番キライです。 意識は邪魔をされたように感じるでしょう。 「有名」をそんなに否定する事はないだろう? ほほっ。 それでも覚悟ができない愚かな我々の欲望は、 「有名無実」の四字熟語の「無実」を取り払って、 「無実」って、なに! 見なかった事にしよう! あはは。 (意識が、無意識を無視しているように、) かくして、 「有名」は、簡単に一般大衆に受け入れられて行きました。 「無実」を無視をして「有名」の方だけ流行ったのでした。 あはは。 人は、有名が、お好き! まさに、これが、俗世間の常識ですね。 「無実」は、ツラいですね。 モテてない! ほほっ。 俗世間から浮いています、、、 あはは。 これこそが、「有名無実」の四字熟語の通俗化と云いますか、、、 歌は、世につれ、人につれ、と云いますが、 言葉も『陽』そのものですから、近代合理主義の世につれ、 言葉の内実が磨滅し、すり減って行ったのです。 近代合理主義は、元から「実」(じつ)を捨てた思想ですから、 「実」(じつ)と云う意味が、もうすでに、 我々には解らなくなっています。 意識が、無意識界の本質を覆い隠して、 「実」のない合理の近代化以降の世界では、 方便ロジックの合理さえあれば、 正は、外に見せる為に装うものになり、 悪は、内にあるのを感づかれないように言葉を尽くして隠すもの、 恥じも外聞もなく、目的は、利さえあればいいようになっています。 もう、お気づきと思いますが、 「有名」 = 「無実」 を理解するには、 その前提として、分っていないといけない世界があるのです。 それを、 『陰』とまでは申しませんが、 無意識までとは申しませんが、 現に目の前にあるものの奥、肉眼で見えないもの、 その物を、もの足らしめている力を感ずる智力が必要なのです。 決して学歴で云う頭の良さではありません。 子供ですらウソとマコトを見分ける、あの敏(さと)さです。 人生の経験はなくとも、、、言葉はなくとも、、、 自分にとって何が本当に大切なものなのか? そこで、初めて、「実」の意味が腑に落ちるのです。 「無実」が、「有名」の後に付いている意味も府に落ちます。 だから、 「無実」=「偽性」を感じる智恵がなければ、 とうてい、「有名無実」の熟語を使う技量は持っていないはずです。 もうすでに、 モダニズムの時空にある日本人に、その技量はないかも知れませんね。 「無実」の「実」の意味さえも分らないまま、 「有名」を追いかけて生きてしまうでしょう。 このブログの読者のみなさまは、次の事もお分かりですね。 東洋思想とは、「有名」の向こう側にある「無実」の意味を知る事です。 ★ 「有名」は、意識が捉える現象世界の『陽』の陽炎(かげろう)、 五感で捉える現象そのものなのです。-----------------『陽』です。 ★ その反対に、「無実」であるかどうかの判定は、 目で見えない世界ですから、言葉や理屈で説明では表現できない。 五感で捉えられない本体。--------------- 『陰』そのものです。 「有名無実」とは、 『陽』が旺じた極みは衰になる、と云う事です。 『陰』が衰えれば『陽』の現象は消え、実は残らない。 「実」を疎かにして「名」を重んじれば、当然「実」りはないのです。 『陰』を軽んじ、『陽』の現象ばかりを追いかける事は、「無実」です。 --------- これは、この世に拘って、 『陽』の現象界に閉じこもって観る限り、すべては無常である、 と云う仏教の無常観に通じます。--------- 『陽』意識を中心に据えた近代合理主義が、 『陰』無意識そのものを捨てたように、 我々の意識は、意識では捉えにくい「無実」の意味を無視して、 パッと見、意識にとって直ぐに解る「有名」だけの語をいいように使う。 よくも悪くも、都合の好いように「有名」を利用するのです。 これこそが、意識の都合よさ、勝手、ウソつきの本質を持つ『陽』の癖、 これが、我々の前頭葉、脳のやり方なのです。 しかし、こう言った処で、 人類が生き延びて来たのは、『意識』の発達のおかげ、 なぜなら、、、これが、 競争世界の生存狂騒(争)に打ち勝つ為に潜り抜ける経験から 『陽』が身に付けて来た脳に蓄積しているテクなのです。 -------- 都合に悪いものは、切り捨てる。 -------- 都合のいいように、真実を隠して捨てる。 これらは、現象界を生き伸びる『陽』が必死に身に付けた癖です。 しかし、忘れてはならないのは、 その癖で、意識に本質や真実が掴めると思ってはいけない。 ここが、近代合理主義の大罪なのですから。 もっと、言えば、いつかは消えゆく現象に、 あなたは、命を、子孫の命を賭けますか? その空しさに耐えられますか? 欲望を達成した満足をいくら得ようが、 「有名」を幾ら達成しようが、 それが「無実」である事を知るべきなのです。 ------------------------ 子孫繁栄に、まったく逆行するものです。 本質も真実も蓋をしてしまう『陽』の『偽性』・欺瞞に 生き延びる為の手段は、任さざるを得ないのですが、 我々の命や地球を任せる訳にはいかないのです。 現代の闇を作り出しているのは、 無意識を否定した意識グループが、 我々の無意識を本体とする命や地球上の自然全て仕切っている事です。 それが、近代合理主義の醜さです。 この思想は、進めば進むほどその闇は濃く深くなる。。 。 なぜなら、この文明においては、 「楽」を生みだす「苦」を避け、 将来の「大苦」となる「楽」だけを追い求めるからです。 楽だけに囲まれる天国思想。 近代合理主義の掲げるこの幻想の天国思想こそが邪悪そのものです。 便利さを追求すれば、天国へ至るのですか? 効率こそが、天国への近道なのですか? ほんとうですか?? 便利さと効率の追求の結果は、原発だったのではないですか? 原発は、天国を実現すると云って作ったのですよ。 あはは。 ウソだって分ったのに、まだ作ろうとしている! この辺で、一息を入れてくださいね! あはは。 まだ、まだ、本論は、これからでございます。 ほほっ。 長々と書いて参りましたが、 以上の事を、踏まえて、 合理主義で知る釈迦と云う知識の浅薄さ、 「有名」は「無実」。 これで、 ようやく本論の 『老子』56章「和光同塵」へ進みます。 あっ、憶えててくださったかしら? あっは。 意識の狂騒(競争)の果てには、「実」はありません。 ほっ。 やれやれでございます。 今日は、テーマが多くて書くのも大変ですが、 読者の方々も大変です! ほほっ。 本文の1節ごとに、1~12の番号を付けます。 今日は、前半の部分 1.~ 5.だけです。 それだけで、十分長くなると思います。 後半の 6.~12.は次回へ廻したいと思います。 『老子』56章「和光同塵」 の原文の(前半)と書き下し文。 1. 知者不言,言者不知。 知る者は言わず、言う者は知らず。 2. 塞其兑、閉其門、 その兌(たい)を塞ぎ、その門を閉じ、 3. 挫其銳、解其分、 その鋭を挫き、その分を解き、 4. 和其光、同其塵。 その光を和し、その塵に同じくす。 5. 是謂玄同。 これを玄同と謂う。 1. 「知っている者は言わない。知らない者が言うのである。」 ここは、おもしろいですね! ほほっ。。 (本質や極意を)知っている人は、 それが言葉では表せない事が分かっているので、言わない。 『陰』の真理を、『陽』の言葉などで表せないのです。 『陰』が何かを覗(うかが)った事のある者は、 『陽』の言葉で言い表す事はできないのを知っているので、 わざわざそれを言い表そうとはしないのです。 二元論の言葉で、無意識界の事は表現できません。 それが分った人は、自然に、そこは伏せて黙ってしまう。 言葉自体は、人間の意識が作った『陽』です。 言葉自体は、無常の範疇の物です。 中身も変われば、形骸化し廃れる事もある。 言葉に真実があるのではなく、 言葉を発した人の奥に、どれだけの実体があるのか? また、言葉の受け手、読み手の存在自体もかかっています。 近代合理主義の現代と云う世の中は、 『陰』の廃れた言葉のみが、人の口と耳の間を、目と目の間を、 空しく飛び交っている。空中遊泳しているのです。 だってそうでしょう? もう、原発の安全と云った処で、 我々には、〝安全”と云う言葉の中身が分らなくなっている! あくまでも、真理に対して意識は、欺瞞を帯びているものなのです。 智恵こそが真理に近づける、これがこの前提に在ります。 2. 「その兌(たい)を塞ぎ、その門を閉じ」 ここも、おもしろいですね! 兌とは、穴です。 五感の耳や目や鼻や口の穴! ほほっ。 穴を塞げ! と云っているのですね! あはは。 おっ! いい匂い~ おいしそうだな、 あはは。 我々の欲望の縁は、五感から入って来ます。 それを閉じろとは? ためしに、みなさん、ご自分の両手で、目や耳を塞いでみて、、、 どうですか? ほほっ。 つまり、そう云う状態、 あはは。 ------ 自分の五感を閉じて、欲望に囚われない様にならないと、 ------ 何が「実」なのか見分けがつかないのです。 ------ 意識中心では、真実、本質は掴めない。 門を閉じ、、、、、門とは出たり入ったりする、 何が? 目や耳や目から得るもの、、、刻々と入って来るあたらしき知識、 それらを閉じよ! ------ 自分の知識に惑わされず、知識に振り回されるな! ほら、先ほどの釈迦の知識、 我々の処へ届いた知識には、俗のホコリがまぶしてありました。 その知識を疑う事なしに「実」には至る事はできないのです。 3. 「その鋭を挫き、その分を解き、」 その鋭(光っている自分の才能)を、 地面に折り曲げて挫(ひざまづ)くように鈍(にぶ)くして、 自分の到達した意識の積み上げを崩すのだ。 (自分の才知を頼らずひけらかさずに、自己に執着するな) 今まで自分が努力をして築いて来た処世術やノウハウに拘らず、 自己顕示欲や自負心を頼ってはいけない! 4. 「その光を和し、その塵に同じくす。」 光を和す、、、、、光を和らげる。 自己の光を和らげて、チリと同じに成れ! なんと! 激越な命令なのでしょう! ほほっ。 ホコリまみれになれとは? 有名になる事とは、まったく違う?! これはどう云う事なのでしょう、、、 どんなに鋭い光を放つ智恵を持っていたとしても、 ------ その智恵の光を和らげる事が大切である。 環境に振り回される我々の意識が、さまざまな観念を作り出し、 そこから生れるあらゆる苦しみがうごめく現実の社会。 その『陽』の現象世界、狂騒(競争)の修羅場です。 そこに、勝利者は少なく、 傷付いた敗者がうごめく暗い地獄のはずである。 そこを、あまりにも眩しい光で照らすと、 チリにまみれた曇りに馴れた地獄の人の目には、 智恵の光は、眩しすぎる。 それでは、逆に受け入れられないだろうから、 自己の才知を塵にまみれさせて目立たない様に同化しろ。 自己の智恵を周りの埃やチリと同化して、そうして 我々の住む社会、地域、周囲に溶け込んで行け! と云うのです。 まったくこれは、目立つ、有名になる事とは真逆です! 決して、目立ってはイケナイ。 光を放つ存在として視られてはいけないのです。 そして、これは、単に周囲に同調して行く事ではないのです。 塵にまみれて地獄の人の目にまぶしくないようにしながら、 光を放つ発光体としての自己を失ってはいけないのです。 これは、むずかしいですね! ほほっ。 そこが、「その光を和し、」の意味です。 和した光を内に秘めて、地獄の様な現実社会に同化して行けと、、、 これそのものが、修行ですね。 あはは。 そこにしか、しあわせはないのだ。と云う事です。 西洋と、ここが全く違います。 「楽」しかない天国、 「楽」だけを集めた天国に憧れるなんて、これっぽっちもない。 ここが、東洋のすごさ! 宇宙即我、 我即宇宙の真骨頂なのです。 この現実は我、と云う一体感、 あくまでも、自己の現実を大事にせよ、と。 西洋のような天国に逃げて、現実の苦を逃避した処に幸せはない。 と云う事です。 5. 「 これを玄同と謂う。」 そうすれば玄と同じになれる、と謂うのである。 玄----- 老子、荘子が説いた道家思想における万物生成の根源 「道・タオ」とも云う。 玄色 --- 天の色、赤みを帯びた黒色 ここで初めて、真実と一体になれると云うのです。 ふっ。 ここは、痛烈なる意識世界の価値観へのアンチテーゼなのですね。 現象世界での価値観、 有名になるとか、偉くなるとか、お金持ちになるとか、 賢いと言われるとか、知識人として認められるとか、 政治家、経済人、学者としてどうなるとか、 もろもろのそう云った現象世界の火花に囚われる事が 人間としての本当の価値を決めるのではない。 と、言っているのですね。 穴を閉じろと! あはは。 意識を閉じろと! 五感の満足だけを求めるなと! これは、近代合理主義の真反対ですからスッキリします! ほほっ。 もしか、自らに才知が有るのなら、 その自らの才知を現象世界の比較や評価の対象にせずに、 その社会の一番、塵(チリ)の様な存在と同化して、 差別なく俗世間と交わる事こそ大事である。 その中で、静かな光として地獄の昏さを照らす事が重要である、と。 それが、 老子の場合は、無為自然の「道・タオ」と一つになれと云うのです。 老荘思想と云うと、 世間では、白い髭に白い着物の長い杖を持った浮世離れしたお爺さん (仙人)が雲に乗って天を飛んでいるような? あはは。 イメージですが、ここを読むと、そんなものじゃない! ほほっ。 天国憧憬の甘えた思想に寄っかかった我々よりも、地に足が付いて、 深い慈愛に満ちた思想だと云う事がお分かりいただけるでしょうか? 地獄の底まで自分の力を隠して降りて行け! と。 とても現代の軟弱な我々にはできそうもない事を、 それこそが「実」の生き方だ!と 叱咤激励してくれているのが生々しく伝わって来ます。 「有名無実」は、名のみあって実がない。 つまりは、名目上(意識)で捉えているものは実質的なものはない。 からっぽ! 目や耳や、体の穴を閉じろ! そこまで言われて、、、 「有名」が、「無実」だなんて! そんな正直な事、言えないですよね! あはは。 〝有名な方よ~” とは誉めても、あなたは中身がないんだなんて、、、 そんな辛辣な事! ほほっ。 日本人は、奥ゆかしいですから、(おほん!) お相手に、そんな失礼な事、言えませんわね。 あはは。 最後、Q&Aでやってみましょうか? あはは。 Q: 名前があるとは、どう云う事なのか? A: その名前が『陽』の現象界で旺じた姿を現じているのです。 『陽』が旺じているのです。 Q: 意識で捉えた物が無実、 中身がないとは? A: 『陽』が旺じる極みは衰。 「有名」の実体は、衰。 『陰』の創造性が枯渇して来ているのです。 すなわち、内部の崩壊。 実(じつ)が無くなっている。 偽であり、虚なのです。 「有名」になった瞬間に、本質は衰なのです。 Q: えっ! そんな~? そんな事ないでしょう? A: 意識がワァーワァー、きゃーきゃー喜ぼうと楽しもうと、 満足をしようと、 そこには、現象界には、本質も真実も、ないのです。 意識である五感は、現象の奥の「衰」を捉える事ができない。 だから、人は人に騙されるのですよ。 有名であれば、立派なのだから、中味がありそうで、ない。 名があると云う事は、実がない。 名があればあるだけ、実はない。 とほほっ。 それを、有名無実(ゆうめいむじつ)と謂います。 有名、 って、良い事? と思われていたかもしれませんね? ほっ。 無実がなければ、その通りのイメージです。 イメージですよ! 意識はイメージで騙されますから、、、 もっとも通俗的には、目立ちたい! と云う自己顕示欲を満足させる有名と云う言葉は、 若者の、目立つ為には何でもする。 と云う昨今の行動を生んでいます。 現に近代合理主義が爛熟した21世紀の今、 我々の目の前にあるのは、 我々を欲に狂騒させる欲望の肯定の上にある経済至上主義と、 その為に弱き意識を脅す為に持つ大国の大量破壊兵器、 今は、その論理に則って北朝鮮など経済的に弱小な国まで、 自国の存在をなぎ倒されない為に、核武装を着々と進めている。 しかし、大量情報伝達・マスコミ、知識偏重社会は、 それをどうしようもできないのです。 宇宙自体を意識で探査する物質の世界としか見ない科学。 知識は膨大に膨らみ殖えるけれども、その中に智恵は一つもないのね! もうひとつ、 意識の思い上がり、勘違い、その傲慢さを言いましょう。 人の理性は、堂々と、 〝人類は生物界の頂点にいる” と勘違いをしています! これは、意識が作り上げたロジックの一つでしかありえません。 つまり、『偽』。 人は、決して、生物界の頂点に立ってはいません。 人と自然を切り離し、 人の方が自然の上位にいると云う傲慢を生みだす二元論、 二元論は、その事だけで、十分邪悪です。 有名と云う欺瞞のマントを着なければ落ち着けなくて、 他者を支配しなければ安心できなくなるのは、 人間は、自然の中で孤独を感じているのです。 その恐怖から逃れる為に、名を欲しがるのかも知れません。 有名など、かなぐり捨てて、 自分の立つ足場の 真下の地獄の底まで自分の力を隠して降りて行け! そこは、あなたしか、降りていけない処だから、 たった一人で、自らの放つ光だけを頼りに降りて行け! 自らの放つ光、 それが東洋の叡智です。 自分を掘れば、湧き出てくる自然からの湧水です。 この湧水は、どこまでへも入り込んでいくはずです。 細い水の流れになって、絶えず岩盤を潜って下りて行くのです。 きっと、地下幾ばくか降った岩盤の下には、 あらゆる方向から流れ来た細い水の滴が集まって、 一つの大きな水脈になって、地中深く滔々と流れているはずです。 老子の思想と、四字熟語のコラボ、いかがでしたでしょうか。 長編の記事を最後までお読みくださった事に、 深く感謝申し上げます。 ひょっとしたら、来年に持ち越すかもしれませんが、 年内に、もう一度更新を、と思っています。 さて、どうなることか、、、、、 ほほほっ。 その時まで、今年の残り少ない日々、 大切に、良き日々をお過ごしくださいますように。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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02/06 23:09 |
『老子』56章「和光同塵」 意識に囚われない生き方 4 ・ 有名(うみょう)無実Category : 孔子・老子・他
![]() 中國山水 今日の記事は、 『老子』56章「和光同塵」 意識に囚われない生き方 4 ・ 有名無実(うみょうむじつ) 昨年の同題名の記事からのつづきです。 お気づきですか? 今回は、前回とは、有名無実の読みが違っているの? 前回は、有名(ゆうめい)無実と、ふりかなを振りました。 四字熟語なのに、広く知られている普通の読みなのに、 わざわざ、難しくもないのに?? ふりかなを?と思われたはずです。 実は、今日の記事の伏線でもあったのです。 一般と仏教では読みが違うんだって、念を入れて、、、 ほっ。 仏教の中では、有名(ゆうめい)ではなく、 有名(うみょう)と云う読み方を致します。 と云う事で、 今日は、老子の思想と、*仏教の「有名無実」(うみょうむじつ)の 言葉のコラボ記事です。 注: *仏教 = 仏教と云っても、宗派によって違いがあります。 いつもそうですが、 今日の記事は、堅い! ですね! あはは。 普段の『陰』『陽』より、一段と難しいはずです。 きっと、そうお感じになるはずです。 ほほっ。 ええ、今日の老子も、むずかしいですね。 あっは。 近代化された我々の前頭葉にとれば、ホントむずかしい。 肥大化した意識には、見当もつかない事ばかりでしょう。 仏教の根幹に触れそうになる部分、 そして、老子が遺してくれた智恵、 そのいずれも、めったに記事にする機会はありません。 仏教の、ちょっと本格的な記事になると思います。 現代のさまざまな矛盾点を、書き連ねてみようと思います。 あ~ぁ、また、、、長くなりそうです。 うまくいくかなぁ~、、、 ほっ、ほっ。 その前に、 普段、我々は、宗教的な教理も深く知らないままに、 マスコミや学者から伝聞された知識でイメージを脹らましたり、 そのまま知ったかぶりで使っている言葉が数多く有ります。 元々の言葉の内実とは真反対の意味なのに、 まったく庶民が、自分たちに都合が好いように解釈をして、 それが、世間に当たり前の如く流布している現状を思うと、 もう、身震いするほどです。 どうでもいい事はそれの方が良い事だってあるし、 庶民らしい逞しさが、そうさせると云うのも楽しいのですが、 事が、宗教、哲学になると、それを信じる弊害が、、、 おそろしいですね。 身近な歴史認識や、近代国家の利害対立だってそうでしょう? 韓国の慰安婦問題や竹島の領有権、 中国の南京大虐殺や尖閣諸島、 いや、これより、そもそも戦勝国の裁いた東京裁判。 大勢が大声で言った方が、勝! みたいな? あっはあ。 ええ、たしかにそうなのですよ。 この世は『陽』の現象界、 特に近代合理主義の現地球上は、 絶対界があるのに見ざる言わざる聞かざるで、無視をしていますから、 そう云う申し合わせの上で、作為的に作り上げた世界観なのですね。 ある意味、人類の初めての試み、 絶対的な価値観を捨てた完全なる相対世界を作り上げたのです。 はっきり言って、今までの人類が生きた事もない異様な世界です。 近代合理主義の相対世界と云うのは、 ある意味、皆が平等、自由に利害を主張し、話し合って決める、 と云うのが原則なのですが、 そんななまっちょろい! と、 ある時には、殺し合って決めると云う事になるのですね。 事実、そうです。 それぞれの立場での、バラバラの意識が、 その意識に都合のいいロジックで争う訳です。 爭う限りは、声が大きい方、力が越えている側、武力がある方の勝です。 正しい方が勝つなんて、現象界ではそうそう単純ではないのですよ。 正しいって、どの時点での事? 今、直ぐの事がボタンを押したみたいに答えは出て来ないし、 過去の無意識の溜めこんだ因果の現象かも知れない、、、 意識は、目先の現象だけを追いかけるしかないので、 強いと云う事が、正しいと云う事になってしまう。 それも、次、どの時点で引っくり返るのか? あは。 皮相的な現象面だけを見ていたら、もう、狂っている、 意識の勘違い、ネジれた倒錯の世界です。 意識は、 正悪の根拠の「実」を見ない、言わない、聞こうとしないのだから、、、 せめて、意識は数字化する、統計で見る、それしかない訳です。 もうひとつの、相対世界の特徴は、『時』には敵わないのです。 『時』に翻弄される。 それをくい止めようとしているのが、科学。 若返りとか、その何んとか細胞とかも、そう! ほほっ。 ノーベル賞を与えたり、ビッグニュースになったり、 本当に、意識が『時』を征服したいと思っているのが分るわ。 でも、本当に重要なのは、そんな事じゃないのよ。 『時』は動かせないのだから、、、 つまり、現象は時間軸で見ればクルクル変わる、 つまり、仏教が云う処の無常そのものなのです。 その無常である現象界での競争に、命をかけているのが『陽』です。 そこでの大いなる欺瞞は、 『陰』の絶対価値観を捨てた近代合理の『陽』の国家群が、 我が国こそが、〝正しい!〝と主張する事です。 相対世界で、正ですって??? あはは。 欺瞞もいい加減にしてほしいですね! 何の絶対観ゆえに正しい! と云うのでしょうか? ほほっ。 相対化をすれば、絶対の正しさなんて、無いはずなのです。 この近代合理の思潮の中では、絶対正も絶対悪もありません。 あると思っているのは、幻想です。 だから、人間の理性が作文した刑法で、人間を死刑に処するなんて、 決めていいのかと言う大きな問題もある。 人間を死刑にできる程、人間の意識はエライのですか? 近代国家と云う人工の囲みの中で仮に決めた決め事にしか過ぎない法、 その法に、ここまでの権限を与える事は、果たして正しいのか? ほらほら! そうなるでしょう? だから、見ざる言わざる聞かざるなのよ。 ほっ。 ほらほら! 現代人は、普段は、こう決めつけて考えないようにしているのよ。 どこかを誤魔化しながら、欺瞞を見ないようにしている。。。 民主主義だって、 多数が正しいとは限らない。 少数が、間違っているのかと云うと、そうではないはずです。 いい加減、いい加減なのよ。 近代合理主義は、合理と云いながら、アバウト。 だから、近代合理主義の思潮の下で出来る事は、 お互いが都合を主張をする、それで、譲り合うしかない。 それが、民主主義で、近代合理のはずです。 それでいいじゃないですか? あは。 だのに、近代国家の国同士が外交でやっている事は、 ぜんぜん合理じゃない。 民主的ではないのです。 どっかで、自分の側を、正しいと飾るのね! ウソでも、武力で押し通そうとする訳です。 おかしいと思いませんか? つまりは、ですから、、、近代合理は矛盾だらけ、キリがないわ。 あはは。 ついでに、靖国問題。 時が解決するでしょう。 靖国は、絶対ではありませんから、 現在の双方の拘り自体が、時と共にいずれ古くなります。 どうしてああ云う言動をしたのだろうと云うようになると思います。 いずれ、靖国は存続できなくなるからです。 理由は、今後戦争をしない限り、新たな戦死者が増えない限り、 そうあってほしいものですが、そうであればそうである程、 あそこをお参りする遺族は増えないでしょう。 よく、お考えになってください。 あの神社は、 増えない方が良いと思っている人達に支えられているのですよ。 これから先、平和が恒久的に続けば、支える人はいなくなる。 未来志向で、発展興隆するとは思えません。 『時』が経てば、ご遺族は、高齢になりだんだん少なくなられます。 一神社としてどうやって維持経営して行くのか、、、、、 これは、もう、計算で予測可能なはずです。 国の為に戦死した方が眠る神社とは謂えども、 れっきとした一宗教法人ですから、国営ではないのですから、 国は維持経営の為に予算を与える事はできません。 それを、その時点でどうするかは別問題です。 何らかの形に改変せざるを得なくなるでしょう。 そもそもが、国の秀才や優秀な人間が頭を集めて作ったはずが、 いずれは今のままが維持できない構造が孕んでいた、なんて、 そう云う構造に作った事が不思議です。 未来永劫の鎮護国家、戦死者の鎮魂を考えたのだろうか? 本当にそう云うものがあって、祈りが根本にあったのなら、 平和が続けば、弥栄え、 遺族がゼロになっても、弥栄えるものが仕組まれたはずです。 しかし、そうではない。 『陽』の世界は、 同じ現象が、永遠に続くモノではないのですよ。 ほっ。 しかし、爭う時は、 このままが、永遠に続くかのようにロジックを構える。 そうしないと、喧嘩はできませんからね。 あはは。 喧嘩は、相手を潰せる自信が出来た時にしかしません。 ロジックの中身じゃないのです。 その思う壺に、嵌まらないようにした方がいいですね。 『陽』の世界は、力と力の現象のつぶし合いの世界ですが、 そうそう焦らなければ、全ての現象は、 いつか、必ず、消えます。 一つの勢いが、まず、3年、 10年続かないのです。 100年続けば、中味が腐りだして100年、崩れるのに100年かかります。 そうそう、エネルギーは一つ所に止まって停滞をしないからです。 木・火・土・金・水の気は巡り、絶えず周流が起こります。 毎日の天候の様に、『天』は瞬時も止まる事なく動いています。 365日、同じ天候の日は無いのですから、 3年後、同じ人が居ると云う保証はなにもないのです。 そう云う事から、見えて来ませんか? 一番の正しい人は、『時』を自分の味方にできる人です。 それなのに、それを忘れて、 人は、今の自分を絶対化するのです。 そして、言い訳をして、今の自分を飾って維持したいのです。 こう云う病気なのでしょうか? あはは。 人間は、どこまで『偽』が好きな動物なのでしょうか? 人間は、自分を飾るのが好きなのですね。 あはは。 それは、表に出せない恨みや嫉妬や欲望があるから、 それらを根拠にして物事を動かそうとする時には、 それらを〝正しく・美しく”と飾るのです。 そうして自分の方が正義だと、ウソばかりをつきます。 この『天』を騙せると? 思っているのですね! ほっほっ。 国家も個人も似たようなものね! あはは。 ほんの生きている刹那の自分の意識を満足させる為に、 未来までをも巻き込んで、ウソをつくのです。 戦後65年、まだ巻き込まれていますでしょう? ウソは広まります。 楽の為なら、欲望はウソをついて団結しますから、、、ね。 本当の正しい事が広まると困る人が大勢いるからです。 あはは。 ゆえに、真に正しい知識と云うモノは広まらない。 広まるどころか、覆い隠されて出られなくなります! 尖閣だって、竹島だって、 あはは。 まったく真実を伝える歴史が無いように、です! あはは。 他国の事ばっかりではありませんわ。 日本もです。 今年度より、我が国は、やっと日本史を高校必須科目にします。 今までは、日本史を教えていなかったのですよ! 今更ながら、やっとです。 ひとまず、ホッとしましたが、また、新たな不安が、、、 どう云う歴史を教えるつもりなのか? ほほっ。 この『陽』の闇は深くて、、、、、、 では、 今日の記事に関する重要な語句で、深い闇を、、、 その言葉の意味が、もう何百年も、1000年以上も 源流の意味が、正しく広まっていない例をあげてみます。。。 ・ たとえば、キリスト教の天国 クリスチャンが死後、行くと謂われる遠い天の国。 思いを叶えた喜びだけが溢れているそうです。 ほっ。 この思想に現代の我々は染まってしまって、クリスチャンでもないのに、 日本人は、いつの間にか、死んだ人が天へ行ったような事を云います。 例えば、 夫が天から見守ってくれていると、、、 亡くなっても、あの子は、天で遊んでいると、、、等です。 ≪クリスチャン以外は、幾ら憧れても天国へ行けないそうですよ!≫ 行けもしない天国を、気休めに言う日本人の寂寥感! ほっ―。 当て所(ど)ない死後の世界の迷い人、天国をさがす日本人! ほ。 ・ 仏教で云う極楽、= 『西方極楽浄土』 西の遠い方角にある、浄土宗の本尊、阿弥陀仏の住む土。 あらゆる苦が無い世界で、ただ快楽だけがあると!説かれています。 あらっ、なにの努力もしないで、 欲が満足した後の快楽だけが与えられるなんて! 素敵な処じゃございませんか? ひゃひゃあ。 なにやらキリスト教の天国と、似てる? でも、欧米化をした現代では、天国の方が人気がありますね。 ほほっ。 極楽なんて? 行きたくないわ、、、って。 あはは。 ただし、です。 浄土宗系のお葬式は、死者をここへ送っているのですよ。 ほっ。 あなたの家の御宗旨でお葬式をすれば、そう云う事です。 あはは。 もっと大事な事があります。 極楽は女人禁制で、男だけしか行けないのです。 ほほっ。 なぜなら、 仏教で、法華経以前の経は、女は地獄の使いとしています。 修行をする男の煩悩を起して邪魔をする存在であるとされています。 たしかに! あはは。 阿弥陀経(の経法レベルに置いては)における女人の扱いは低く、 仏法の修行すらできませんでした。 男性だって、種々の戒律があり妻帯をしなかったのですね。 女人を断つのです。 ですから、男女別々、銭湯のような仕組みになっています。 ほほっ。 女性も成仏できるとしたのは、女人成仏を説く法華経からです。 そして、行く処は極楽ではなく、常寂光土と云う処に変ります。 このように、経が違えば、仏の住む土もランクアップします。 ですから、昔から、お婆ちゃんたちが、ナンマンダブと言いながら、 死んだら極楽へ行くと信じているのは、あれは無理なのですね。 可哀想~~に。 どうして、そう云う宗派の教理上、明らかな事を教えないのでしょうか? 後ほど出て来ます天台大師は、 この阿弥陀仏の住む極楽浄土を、 四土(常寂光土、実報無障礙土、方便有余土、凡聖同居土)の内の 最下位の凡聖同居土として分別しています。 要は、阿弥陀仏の浄土は釈迦の教えの中でもランクが低いと 天台大師は謂っているのですね。 浄土宗、阿弥陀系と云うのは、まだ仏教の導入部なのです。 だから、まだまだ高度で緻密な世界が展開されていないのです。 四土につきましては、難しいので今回は説明を省きます。 ・ 『常寂光土』(じょうじゃっこうど) これは、天国や極楽と比べれば余りポピュラーではございませんね。 一般には、知られていない仏教語ですが、 天台によると、最高の浄土なのです! 此処へ行きたい、と思っていますが、、、 あはは。 あはは。 と云うのは、此処は行く処ではございませんの。 ここだから。 ほほっ。 今あるこの世界です。 この現実の世界が、そのまま常寂光土なのです。 法華経の本門寿量品で初めて明かされた仏の住する国土の事です。 むずかしい~? そう、だから一般的に広まりにくいのですよ。 あはは。 これは、天国や極楽のように、どこか遠くにあるのではなく、 なんと! 自分が住んでいる場所、この世だと謂うのですから、、、 余程の自信がある証拠か? そう、初めてこれを知った時、 その確信に触れてショックを受けました。 まるで目が覚めるような、、、 ほほっ。 物事は、本当を知ろうとすれば、大変です。 その苦労を厭っていれば、掴まされるのはガセなのですね。 この3つの語句を比べてみると分かるのですが、 キリスト教の天国や、、、仏教の浄土宗の阿弥陀教の極楽の存在は、 あるのか、ないのか、はっきりしない、、、 ほ、ほ。 ごめんなさいね! 浄土宗やクリスチャンの方々。 私のブログ内ですので、納得するように書かせていただきますね。 あしからず! (この、あるのか、ないのか、はっきりしないと云うのが、 無意識界の事なんだからと云うのは、ちょっと違うのですね! この存在では、余りにも観念的。想像の域を出ていないのです。 あらゆる事に普遍性がつながって行かないのです。) しかも、天国や極楽が、 この世を嫌って遠くの方へ在ると云うのは、現世逃避的だし、 なにやら子供だまし、の感を強く感じますね。 なんの事はない --------------- この世の現実を放棄させて、目をつぶれと、、、あきらめろと、 現実を改変する力量、自信を感じさせない内容だと、、、 人を救うと云う宗教が、これでいいのか? って、、、 あはは。 だから、天台が四土の内で最低のランクだと言ったんだって、 納得だなと思います。 それに比べれば、 この現実の世が、そのまま寂光土であると明かした点で、 『常寂光土』は、非常に画期的で天地雲泥の感があります。 『常寂光土』については、 このブログの一番最初の記事である 寂光について... に少し書いています。 これ以上の事は、 意識が覚知も想像もできない無意識界の事ですから、 意識の低いキャパで、あれこれ語る事はふさわしくないと思っています。 老子も、 知者不言,言者不知。( 知る者は言わず、言う者は知らず)と 謂っていましたね。 ほほほ。 せめて、これ位の処で、 凡夫には窺う事しかできませんが、、、 想像する? いいえ! 勝手な想像はダメですね! ほっ、 過ちの元です。 あくまで、想像は意識のキャパですから、、、、、、 勝手な想像を止めて、 極力意識を抑えて、密やかに、窺うように、、、です。 あはは。 今日の記事は、書きながら難しいなあ、と感じています。 できるだけサラッと読めるよう努力を致しますが、、、 読者のみなさまへは、とっても失礼な言い方になるやもしれませんが、 分らないままに、目を泳がすだけでも読み飛ばしてくださいますよう、 切にお願いを致します。 あはは。 それもむずかしい? たぶん、一度お読みいただいたとしても、 腑に落ちるよりか先に、お忘れになってしまうかも知れません、、、あは。 それはそれで大丈夫なのです。 ほほっ。 ひよっとしたら文脈に目を泳がすだけでも、 字面だけでも追いかけてくださったら、 意識には抵抗があって忘れてしまっても、 あなたの無意識に入ったものは決して失われる事はないのです。 それが分っておりますから、承知の上で、 あなたの無意識、未来へ向かって、記事にさせていただきます。 (ここが大事なのです。) 無意識は過去・現在・未来です。 つまり、永遠です。 意識は過去より来る現在です。 その狭い現在に留まろうとします。 希望を失くしてうつむくしかないのです。 そして、現状を守ろうとする姑息性、保守性です。 またまた、意識の悪口になってしまいますが、 ほほっ。 意識は、過去の延長としての現在の自分の楽だけにしがみ付いて、 新たな創造や改革は、意識からは生まれません。 全ての発見や、創造は、インスピレーション、無意識からです。 真の未来を作るのは、無意識なのです。 現代の袋小路は、意識ばかりを重用する思潮が原因です。 そして無意識を捨てるから、行き詰るのです。 だから、現状の肉体を保存する医学ばかりが科学されます。 欲々(よくよく)しい意識だけなんかどうでもいいのです。 あなたの無意識との関係こそが重要なのです。 新たに転生するのは、 あなたの無意識の内容そのものなのだからです。 あなたが、私のブログで出会った内容を忘れたとしても、 あなたの無意識が、それを、ずっと抱え続けて行きます。 意識に、腑に落ちるようになるには、 『時』を積み重ねるしかありません。 でも、個人差がありますの。 この『陽』の現象界においての『時』は、 意識が捉えられるtime が一番分かりやすいですね! それは、数日か、数週間か、半年か、1年か、3年か、大運の10年後か? 果ては、30年運に拠る季節を待って30年後か、60年後か、90年後か? あなたの死後かもしれません。 あなたの子供か、孫か、3代先の子孫か、7代先の子孫か? これは、オーバーではなくて、遺伝子と同じですね。 必ず、つながって行くものです。 でも、、、 今、すぐに役に立たないじゃない? と言われても、、、 それは、無理と云うものです。 ほ、ほほっ。 ちょっと理屈を云いますと、ね! あは。 感覚器官で捉えている〝今”をフィーチャーする意識が、 今、すぐ損か得か、即時の合理性を求めても、ねえ? それは、騙してくれと云うようなものなのですよ。 ほほ。 特に、この傾向が、今の近代合理主義の思潮では強いのです。 もっと、私を騙してほしいと云う思想です。 もっと、もっと、だましつづけてほしいって、、、 あはは。 現代の我々を取り巻く世界は、 クルクル変わる意識の性向を、正しいと認めた思潮ですから、、、 我々の意識は、 今、目の前で、自分を利する情報を集めようとします。 今直ぐに! 意識は、安心できる〝楽”を求めていますから、 自己利益が叶う! と認識する論理でないと受け入れにくいのです。 目で見えない、計算できない事は、分らなくなるのですね。 ------------ そう云う意味でのムズカシさ、、、 意識にとっては、 今、目先の満足に役には立たない事は、 = むずかしい! のです。 だって、意識は、過去から現在までがテリトリですから。 あ、でも、 その奥の無意識こそが、 実は、我々を幸せにするのだと云う事が分っていれば、 意識が、何を邪魔しようがガードしようが、 ほほっ。 ス―――ッと意識を透過して無意識へ入っちゃうのです! あなたはどちらでしょう? 運命学で云えば、これらも命式で分るのですよ。 命式の中に、④と⑩ がある場合は、 意識と無意識の境界がストレートにつながっている方が多いようです。 (④⑩も、まだ、ブログ内では記事にしておりません。 お勉強中の方は、④⑩を当ててみてください。 いずれ不思議な命式シリーズで記事にする予定です。) 人間は、どんなに優秀でも意識だけでは生き延びてはいけません。 生き延びる叡智は、目に見えない部分『陰』です。 --- 誰の意識にも捉えられない処に在ります。 上のピンクの文字の部分、↑ ここを憶えていてください。 老子の「和光同塵」後半の部分、 ★ 印の処まで覚えておいてください。 前置きが長くなりました。 では、すこしづつ本論へ。 有名無実(うみょうむじつ)についてです。 この言葉を、仏教の意味において、その淵源から詳しく書くとすると、、、 百科事典ほどのボリュームになるやも知れません、、、 それも不可能な事、、、そうも行きませんので、、、、、 ほっ。 とにかく、いかに簡単に書くかを心がけてみますね。 あはは。 有名無実(うみょうむじつ)を簡単に云いますと、 ◯◯仏、と云うように仏の名前が付いているのが多いけれど、 それは、名のみであって、 その中味、仏としての実体はない。 つまり、肝心要の仏としての力が無い。 衆生(命あるもの皆)を救う仏力・法力はない。 こう云う事です。 つまり、◯◯仏と云う名前だけで騙されてはイケナイ。 四字熟語の有名無実について、 この世界の事物で、名が有るモノは、内実がない。 と云うような事が、実は、仏にも当て嵌まると云う事でございます。 この事はどう云う事かと云いますと、 前回の記事にも、少し書きましたが、 釈迦が説いた(とされる)仏説には、 日本古代の神道で云う八百万(やおよろず)の神どころか、 未来世に仏になれると云う授記を受けた菩薩や *比丘、比丘尼(びく、びくに)までを含めると、 ◯◯仏、 ●●仏、 ××仏、、、、、、のように、 仏教と云っても、沢山のほとけさんがウジャウジャいるのですね。 *比丘、比丘尼 = 仏法における仏・法・僧と云う三宝(さんぽう)の中の宝の一つで、僧の集団の事。 比丘は、男性僧、比丘尼は女性僧の集団。 それを簡単に紹介ているウィキがここあります。クリックしてどうぞ! もう、スクロールするのが大変な位です。 ほっ。 いかがですか? ほほっ。 書き切れないほとけさんと云うのも、他にもっといます。 では、それらは、どう違うの? 近代合理主義に馴れた頭、意識には難しいですね。 ほほ。 しかし、これが、釈迦が予言をした末法思想の意味なのです。 末法とは、釈迦の説いた仏教の内実が抜けて行って法力を失い、 教えが形骸化して仏力を失った仏だけになる。 名前だけの仏群が残る。と云う事なのです。 末法思想 = 詳しくは、ここへどうぞ! 詳しくは、又、東洋の思想シリーズで記事にしようと思いますが、 現在の大勢のほとけさんの名前を見せられて抱く不明瞭感は、 なにか、分かりにくい、難しい、 仏教の中身が秩序立って整理されていない感がします。 この事自体、仏教の形骸化、内実が伴っていないと云う事なのでしょう。 初歩的な疑問なのですが、 社長だって、 一口で社長と云っても、いろいろです。 ほっ。 上場会社、個人商店などの規模や、 資本金、有利子負債等の会社力があるように、 仏だって、 一応、仏と云う呼称が付けられているけれど、 その実力は? と、聞きたい位です。 あはは。 会社なら、就職や投資をする時には、会社四季報を見ます。 そうでないと中身が分らないでしょう? それを、乱れに乱れた教理と本尊群を、 釈迦の教理に沿って整理、整頓したのが中国の天台大師です。 各経典、種々の仏の四季報のような著書を著しています。 ほほっ。 「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の天台三大部です。 世界史で習った方もいらっしゃるでしょうね。 あ、念の為に云っておきますが、 これほどの天台も、ご自分が仏だとは一言も言われておりません。 それより、末法の仏の出現を預言、待望していました。 東アジアの仏教は、ヒンズー化、道教化はしていますが、 それでも、日本ほど多種多様な本尊を造立して乱立させ、 1宗派が何種類もの本尊を飾ってゴチャゴチャしてませんよ。 日本は、本堂や仏壇に、曼荼羅に釈迦像に菩薩像3つとか、 お雛さんの段飾りみたいです! あっはあ。 日本のこれって、何なのでしょう?? まったく理解に苦しみます。 日本は、多神教。 その通りです。 仏教の中に現れる神は、これまた、たくさんです。 しかし、、、、我々凡夫は、迷います。 もったいなくも、、、 これと同じようなお気持ちを持たれた天皇が居らしたのです。 平安朝を開かれた桓武天皇です。 これに関しては、 2010年 10月 16日から約2カ月ちょっとを掛けて書いた記事の、 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学 その2 において、この辺りの事は詳しく書きました。 詳しくは、そちらをご覧になってください。 -------- また、なぜ宗派がいろいろあるのか? と云うご質問を ブログの読者の方からいただいております。 それにつきましても、この記事内に詳しく書いてありますので、 是非、この機会にご覧になってください。 先ほどの桓武天皇の業績について、 中国、隋の煬帝 ・ 天台大師 から 日本、桓武天皇 ・ 最澄(伝教大師) へ 中国の南北朝時代に、 南の揚子江流域の3宗派と、 北の黄河流域の7宗派 = いわゆる南三北七(なんさんほくひち)という10もの宗派が、 当時の中国仏教界の中に乱立しているのを 憂えた時の皇帝、隋の煬帝が、 10宗派と論争をして論破をした天台大師を擁護をして、 正しい仏教は何であるかを宣揚されました。 天台大師が10の宗派を論破でき得た論拠は、 釈迦の一生の間の 化導・けどう(民衆を導いた)をした『時』代を五つに分け、 又、一生の間に説いた教えの内容の全体を八種類に分けて、 -------- いわゆる『五時八教』と云うものを自ら立てて、 釈迦の全ての経典の浅深優劣を明確に示して、 10宗派の僧侶と法論を対決をした訳です。 10宗派の僧侶たちは、仏教の一切経を読んだのかどうか、 その内容の高低も浅深も知らずに、 経典に権実、本迹の違いがある事も、 正邪すらも知らなかったのです。 知らなかったからこそ、我こそ正しいと乱立できたのでしょう。 釈迦一代の一切経を読破した天台大師は、 その乱立した10宗派を糺し、整理をします。 煬帝の御前で法論対決をした結果が、そうなったのでした。 それを、遣隋使から伝え聞いていた当時の日本の天皇が、 第50代・桓武天皇です。 桓武天皇は、 それまでの平城京における天武天皇系の血統が途絶えた故に、 元の天智天皇系から天皇になられた方ですから、 それを機会に、それまでの天武朝の朝廷政治の改革を断行します。 まず、772年に天武の孫や聖武の娘を捕らえ流罪として、 天武系の血筋を根絶やしにしています。 古代からの天皇は、 古代神道、道教などの影響を受けた葬送、墓所を造っていますが、 桓武天皇は、 仏教で葬送を行い、泉涌寺を天皇家の菩提寺とした方です。
天武系の朝廷に影響を行使するまでに勢力を伸ばしていた 平城京の仏教各宗派、各寺院の政治介入を排除し、 その権門勢力の力を削ぐ為でした。
それまでの権力を持った平城京の既成仏教界を奈良へ残し、 平安京まで、腐敗した奈良仏教界の影響を及ぼしたくなかったのです。 これは、桓武天皇が日本の仏教界を正しく刷新する目的の為でした。
桓武天皇は、我が国の仏教界の乱れを 宗教上の教義として、その正邪を糺す事で刷新しようとしました。 天武系の朝廷政治に権益を持ち、腐敗した奈良仏教界を抑えて、 日本に、正しい釈迦の教えを確立しようと願ったのです。 その為には、中国の天台の教えを日本に持って来なければいけません。 それを、桓武天皇は最澄に命じます。 最澄が、遣唐使として入唐したのが、803年です。 この年は、 釈迦が予言をした*末法の時まで、あと269年の時点です。 まだ、釈迦仏法の力が完全消滅していない時期に当ります。 *末法の時 = 「周書異記」にあるように 釈迦の入滅を周のバク王52年(前949年)とすると、 日本の後冷泉天皇の永承七年(1072年)が末法の初年になります。 今年、2014年は、末法の初年より942年経過しています。 後、58年で末法1000年の節目になります。 我々は、今、 釈迦の予言通りの有名無実(うみょうむじつ)の時点にいます。 『有名無実』(うみょうむじつ)の「実」について、 まず、仏教的な「実」とは、なにか? よく考えれば、仏教ほど「実」を重んじる宗教はないのです。 このように、桓武天皇によって糺された日本の仏教界が、 末法と云う時に入って、今現在、どうなっているのか? そう、みなさんが生れて来て、見て、知ったこの日本、世界の状態、 よくよく御存知のこの状態、現実です。 東洋の「と」の字もない、この日本の状態、 『陰』を捨てた近代合理が跋扈する、この状態、 日本人の何割が、仏は存在すると信じているでしょうか、、、 確かに、寺院には仏像は残っています。 観光で拝観料が取れる寺院は、それなりに整備がされています。 しかし、仏教はさびれつつある、、、これが、事実です。 この状態を、「有名無実」(うみょうむじつ)と云います。 かの桓武天皇が、中国の天台に習って導入した甲斐も無く、 ただただ仏の名前だけが末法にはあるけれど、 仏としての実体が無くなっていると云うのですね。 道徳どころか、 末法は、根本法が失われて行く訳ですから、 我々、庶民にしましても、 何が尊いのか、何が賎しいのか、分らないと云う事です。 そう云う時代、世界、がまず、ここにある。 そして、 『陽』の現象界だけを認める思潮の中で生きる我々の意識がある訳です。 そう思えば、 まさに、末法とは、 『有名無実』・うみょうむじつの実態とは、 『陰』の世界を捨てた近代合理主義の近代化が、 形骸化した仏教を飲み込んだ構図、世界だと、 捉えたらどうでしょう? 釈迦仏法が衰微するプロセスを辿るように、 我々の先祖が持っていた外来の思想を吸収咀嚼する力、 相手を飲み込んで来た逞しさが低下すると共に、 近代合理主義の思潮の中へ飲み込まれて行ったのです。 残念ながら、釈迦仏法に関する現況は、そうであろうと思います。 民族を滅ぼそうとしたら、 なにも武器を取って攻め込まなくても、 中国がチベットでしている事を見ていたらよく分ります。 チベット固有の国民性、文化、宗教の独自性を奪い、 自然環境の破壊を引き起こし、中国軍の男性をチベットへ送り込みます。 チベットでの人口は、チベット人600万人に対し、中国人は750万人です。 経済開発・社会開発という口実で、集団転居をさせられる移住政策は、 チベットの男性の生活力を奪い結婚をできなくするのです。 中国政府は、チベットの女性と漢民族の男性との結婚をすすめ、 ある意味の民族洗浄をして行きます。 その方がしあわせになれると云う価値観を推し進めていくのです。 民族は、こうやって30年もかければ無くなります。 ある民族のDNA、人間がいなくなる前に、 その前兆に、文化や伝統が破壊され消失して行きます。 道徳を失った意識はどうにでもなります。 人から生きる規範を失わせて、文化を破壊し、 豊かな食事と衣服と住居が有る物質文明へ漬け込んだら、 人々は雪崩を打って、そちらの方へ行くはずです。 意識の、そう云う特性を知った上で、ある民族をコントロールすれば、 武器を使わずに一国を飲み込む事は、簡単です。 真の戦争とは、武器戦争ではなく思想戦の事です。 敵にミサイルを落とす事ではなく、相手の自尊を叩きつぶし、 その生活の根拠となっている文化を形骸化する事です。 見えない処の闘いなのですよ。 見えるスマホの画面でゲームに勝つ事じゃないのです。 ほっ。 特に、これは『陽』である男性の領分の闘いです。 ここが、男の本分なのです。 少子化だから、年金保険料や所得税を払う人数を増やすには、 女性を働かそうとか? 頭数ばかりを国は数えています。 女性が喜んで受け入れられるようなロジック仕立てをして、 政府は、お膳立てに躍起です。 ほほっ. しかし、この闘いは、男性でなければだめなのですよ。 何でもそうですが、 本質は、世に広まる事によって、本質を失います。 言い換えれば、本質は、通俗化する事によって広まるのです。 言い換えれば、通俗化した部分には、 本質は、無い。 だから先ほどの天国や極楽、と云う広まって通俗化した知識は、 本質を失い、滑稽な程に意味そのものが変っているのです。 だから、本質を守ろうとすれば、 常に本質原点に帰る運動が必要になって来る訳です。 常に『陰』に帰る必要があります。 それを忘れると、疎かにしますと衰微します。 本質が見失われて、枝葉にエネルギーが拡散します。 『陰』が見失われて、枝葉の学問の知識ばかりが拡散します。 源流の湧水『陰』が枯れると、川は亡くなります。 川と云う現象が大地から消えるのですね。 だから、『陰』を無視する近代合理主義ではダメなのです。 絶家も亡国も、同様です。 川と云う現象が大地から消えるのです。 絶家も亡国も、その家の、その国の『陰徳』が枯れ、男が破れる事です。 国も家も栄えるには、『陽』の現象界での力が要ります。 故に、男は強くあらねばならない。 立てなければならないのです。 この『陰』と『陽』の違いを余韻に残しながら、、、 ほほっ。 いよいよ、最後です。 だから、本質を守ろうとすれば、 常に本質原点に帰る運動が必要になって来る訳です。 常に『陰』に帰る必要があります。 ------------ 常に『陰』に帰る生き方とは、、、 『老子』56章「和光同塵」の後半です。 本文と、書き下し文 6. 故不可得而親、 故に得て親しむべからず、 7. 不可得而踈 また得て疏(うと)んずべからず。 8. 不可得而利、 得て利すべからず、 9. 不可得而害 また得て害すべからず。 10. 不可得而貴、 得て貴ぶべからず、 11. 不可得而賤。 また得て賤(いや)しむべからず。 12. 故為天下貴。 故に天下の貴(き)となる。 「和光同塵」・ 自らの智恵の光を和らげて、チリと同じに成って この『陽』の現実世界の中へ溶け込んで行って玄と同じになる。 それを実践している人を、 大衆の中から捜そうとしても、それは不可能であると謂うのです。 おもしろいですね! あはは。 「和光同塵」を実践して玄と同じくなった人との付き合いは、 どのようなものか? この事について次の様に書かれています。 6. 「故に得て親しむべからず。」 仮に、和光同塵を実践している人と知り合ったとしても、 もっと親しもうとしても、それは無駄であるからやめなさい。 7. 「 また得て疏(うと)んずべからず。」 仮に、和光同塵を実践している人と知り合ったとしても、 疎んじてやろうとしても、できないから止めた方がいい。 8. 「得て利すべからず、」 仮に、和光同塵を実践している人と知り合ったとしても、 利用しようとしても無理だからしない方が良い。 9. 「また得て害すべからず。」 仮に、和光同塵を実践している人と知り合ったとしても、 害してやろうとしてもできないからしない方が良い。 10. 「得て貴ぶべからず、」 仮に、和光同塵を実践している人と知り合ったとしても 貴んだりしても意味がないからする事もない。 11. 「また得て賤(いや)しむべからず。 仮に、和光同塵を実践している人と知り合ったとしても、 賤しんだりしても意に介さないから意味がない。 12. 「 故に天下の貴(き)となる。」 和光同塵である人物は、天下に恥じない貴と云うものなのである。 と云うのです。 どう云う事かと云いますと、 『玄』と同じになった人に対しては、 馴れ馴れしくしても、それ以上に親しくなれないし、 疎遠にしようとして無視しようとしても、妙に気を引く処があったりして、 利用しようと思ってイイ話を持って行っても、そうそう乗って来ないし、 妨害してやろうと足を引っぱっても、怨む気はないみたいだし、 ヨイショしても、その効果はないし、舞い上がらないし、 非難して悪口や陰口を言っても、なんら気にしないようだ。 と、言うのです。 つまり、他人の意識では、動かし難い人物であるという事です。 親しみさえ、意に介しない。 まして、反対に疎ましくしても、気にしていない。 利害や損得でも振り回されない、 毀誉褒貶では動じない、 意識レベルでは、心を動かさない人物なのです。 つまり、玄と同じになった人、 和光同塵を世間の中で実践して生きている人は、 他者からの働き掛けではコントロールする事ができないのですね。 頑固や偏屈とは違います。 あはは。 いかなるものにも動じない自分を持っている。 他人の意識どころか、自身の些細な欲得では、でも、動かないのです。 故に、賤(いや)しくないのです。 自分の意識と欲望をコントロールできているのですね! では、何によって動くのか? 老子が謂うには、『道』(タオ)です。 自然の有りようの本質に合わせて生きている。 自然の摂理に従う智恵で生きているのです。 お金でなく、名誉でなく、人気の為でもない、儲けの為でもなく、 誰にへつらう訳でも、媚びる訳でもなく、ホメられたい訳でもなく、 賞が欲しいから、 メダルが欲しいから、、、と云う欲望はなく、 自分が玄と同じであると云う立場を保っている人であるから、 ゆえに、天下において、最も貴い人と成るのである。 和光同塵である人物は、世間の器などには入りきらない、 他人の意識などでは、図る事のできない、 世間で云う処の偉人、成功者とは全く違う人物であると謂うのです。 そして、 もし、和光同塵を実践し、実現している人物であれば、 そう云う事すら世間にも知られず、 本人には、何の気取りも無く、傲慢な素振りもなく、 平々凡々と暮らしているはずであるから、 これは、己(おのれ)の分においての貴であると、、、 『陰』の本体における創造性の本然的な貴である。 初めの方で、覚えておいてくださいと云った文ですが、 この本然的な貴と云うのが、そこに一致します。 ★ --- 誰の意識にも捉えられない処に在ります。 自分と云う位置付けを、 誰の意識にも捉えられない処に置いてある訳です。 自分すらも犯せない、 まして他人などが、この人物をどうしようとしても 決して犯す事ができないのです。 ------ それを、貴と云う。------ 実は、これが、『陰』の働き、女性の本分なのです。 えっ!? 男性は? って それは、、、 男性もそうであればこの上ないのですが、 先ずは、男の本分は、生きる糧を稼ぐこと、 あはは。 この現実の社会の中で、負けないで戦う事ですよ。 ほっ。 山本周五郎の本などに出て来る女性は、 江戸や明治の、女性の人権なども認められていない時代の、 男女平等でもない夫婦関係の中で、 名も無い普通の庶民の女ですが、非常に芯がある女性達です。 その名も無い庶民の女たちが、周五郎の小説の中では どこかで家運隆盛、子孫繁栄を、≪ 目立たぬように ≫ 役に立って行く訳です。 自分の役割を、周りに関係なく、果して行く女たちです。 それは、当たり前の事でした。 近代合理主義は、この役割と云うものを壊しました。 あさはかな、皆平等と云う皮相的合理のウソを広めた訳です。 これも、都合が好いから一斉に、広まりましたあ! あはは。 今の、若い女性に、こう云う話をしましたら、 とんでもない! あはは。 と、排斥を喰らってしまいそうですが、 この時代の女性には、「実」がありました。 だから、ゆえに、その子孫である我々が、生れているのです。 今の近代合理主義は、「実」を無視した思想ですから、 この『陽』の現象界は、「実」が転がっていない世の中になっています。 その中で、幾ら現象の花を咲かそうと、「実」は残せません。 現代人は、心底「実」の味を味わった事すら無いのですから、 「無実」の意味も分らないのは、当然です。 それで、有名と云う現象こそが「実」だと勘違いをして、 名に頼るしかないのです。 看板とラベルに騙されるのですね。 しかも、「実」は、目の前の利益になりませんから、 両手にいっぱいの「利」の方が良いに決まっている! ほほっ。 無いと蓋をした「実」の代わりに、 心だの、感じるだの、好きだの、嫌いだの、スピリチュアルだの、 ハートだの、愛だの、と主観で好き放題を言う事が、 自分らしさであり、個性だ、精神性だと大きな誤解をしています。 非常に幼稚性が大手を振っております。 国も女に働いてもらいたいので、煽いでおりますが、 さあ、その行き着く先は、、、 「実」より、「楽」がいい。 こう云う現代と云う時代の欺瞞をどう捌いていくのか? みなさまの本物を知る知識と智恵に掛かっています、、、 そして どうかホコリにまみれて下さい。 ほほっ。 まさに、物だけは溢れているようですが、地球上は地獄の様相です。 日本だって、板子一枚下は地獄。 そこへ、あなたの柔らかな暖かい光を、 この世の地獄へ、 静かに、静かな光を、、、、、、 ああ、やっと書き終えました! 長編の記事を、最後までお読みくださった読者の方へ 心から感謝申し上げます。 ありがとうございました! 次回より、 運命学を中心にした記事、命式の事、 命の継承シリーズの記事へ移行して行きます。 そんなに長い記事にはならない予定ですので、 すこし、早めに更新ができるかなと思っております. どうなることやら、、、 次の更新まで、インフルエンザに気を付けられて、 あなたのいい時をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |