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    ☆ 易学    《易の三義 》   陰陽学の「 女性の生き方 」                                            女性たちよ、整然と秩序の中へ、お戻りになってください!

    Category : 易学
    水芭蕉のせせらぎ

    尾瀬・大清水 水芭蕉の群生と湧き水










    前回までのテーマ『 時が主役 』は、まだ続く予定ですが、

    今日はインターバル【interval】をとって、

    陰陽学の「 女性の生き方 」編の記事をひさしぶりにアップします!






    と言うのは、

    恋愛や家庭内のご相談で、一番増えているのが

    男女平等的な考え方の食い違いに関する内容です。


    たとえば、「彼が、私が働く事に理解を持ってくれない。」

    又は、「夫が、共稼ぎの生活の中で、家事を手伝ってくれない。」

    「帰宅が遅い夫は、育児を手伝ってくれない。」等です。






    要は、女性が社会進出をして働くことが、

    自己実現とまではいかなくても、

    経済的に負担を担って働く事で、

    男性と対等に扱われるのが正しい、という

    女性側の主張が当然のように出て来た、

    そういうことでしょう。



    近頃は、どうも、

    そういう周辺の問題?迷いが、多くなっているようです。

    二重も三重も、迷いと倒錯が入り乱れて正常な姿を失っている・・・・・





    まず、悩みの当事者が、家族の相手を攻める言葉は、

    無関心であるとか、無理解であるとか、果ては愛情がないとか、、、

    相手の社会性を疑うような意味合いを帯びていますが、、、





    要は、”相手が~~してくれない、” ○○してくれない、クレナイ、、、

    暮れない族の問題なのです。  (笑い)

    クレナイ族シンドローム ?  



    この原因は、 

    ひとつには年齢相応の社会性成熟度に対する、

    その未熟性の問題です。

    社会の縮図である家庭が、

    自分の要求する主観的な愛情という一本槍の秩序だけでは、

    成り立たないという事が、解っていない!


    人間が成熟しにくい家族構成=核家族

    という最小単位の家庭生活の中で、

    社会性を磨く事ができないまま育った二人が,

    又、核家族を営む、、、


    その結果、

    家事や育児の分担という些細な事から、

    家庭不和や離婚にまで発展するという社会性というのは、

    単に、

    短絡的と言うよりも、今の未熟社会がそのまま投影されていて、

    人間関係にこなれていない?

    万年少年、万年少女の儘の周辺に起こる迷いや問題です。


    それにも増して、国の場当たり的な施策が、余計迷路を作っています。

    これに関しては、また別の機会に、、、




    国も推進している女性の社会化の流れは運命学的にはどうなのか?

    という事は、

    これもまた別の機会に記事にしたいと思っていますが、

    これには、大いに問題があって《すべての女性が働いた方がいい!》 

    なんて! 

    とてもすべて一律に、賛成することはできません。

    今のままの世相が続く事は、

    もっと「生の衝動」を弱める、

    大げさに言えば、民族の消長に係わる問題なのです。




    が、今日は、

    ご夫婦の現実的な問題としてだけ考えてみましょう。



    これは本当にケースバイケースで、女は、、、男は、、、と、

    一概にすべてをひとククリにして理屈で片付けられませんね。



    人によって、違う。男といっても、それぞれです。

    当然、女もひとククリにできません。人に依って違うでしょう? (笑い)


    今の私たちは、個人による違いに鈍感になっています。

    ”男は、”、”女は、”という捕らえ方をしてしまう癖が有ります。

    これも、戦後教育の表面的西洋化=西洋かぶれのせいです。


    というのは、

    まさに戦後の悪・平等的な教育を受けて、

    皆が同じであると云う事を前提に、

    物事を考える癖がついてしまっているように思います。


    政治的ないわゆる法制度の下で、

    憲法の保障する権利や義務関係は、

    それでいいのでしょうが、

    哲学的思考や、道徳的生き方を追求する時、

    人間の本質的な問題にタッチする場合は、

    それでは、間違いを犯してしまうでしょう。




    間違いを犯すとは、心のなかに苦しみが発生するということですよ!


    その使い分けに慣れていないまま、哲学や道徳が力を失った社会で、

    失われた それらの空洞を

    経済の下僕である政治が肩代わりをしています。

    人間生活の営みを、

    すべて政治的な概念がリードしている昨今の現実は、

    人間が作った概念で人間を抑圧する社会の現出です。



    わたしたちは、


    一人ひとりにある差異に目をつむる生き方を

    しなければいけないと脅迫的に思い込んでいるようです。

    差別になるのではないかという、強迫観念に縛られています。


    これは、戦後の日教組の進めた教育のせいかもしれません。

    自然は変るけれど、

    人間は、いつも変わらない強い存在である。

    そういう前提で世界を眺めていませんか?

    人間には差異がない。

    平等なのだから、、、と言い訳をして、、、



    温暖化もそうです。

    地球は、変わっていって危険だけれど、

    人間は強いまま変わらない。

    だから、自然との関係は人間上位で変化がないはず・・・・


    このように日本人は、西洋の二元論を取り込んでしまって、

    常に人間中心の自分に都合のいい尺度を正しいと、

    思っている、、、



    これは、完全なる倒錯ですよ。

    この矛盾の波形は、

    いつか大きな津波となって社会を押し流すに違いありません。




    現代は、


    人間は自然の一部と言う東洋の思想を置き忘れたまま、、、

    人間は自然の外で、自然を人間の外部のものとして眺めている、、、。



    自然と人間、

    西洋の二元論は、

    人間と自然の真の関係性すら解明しないまま放置して、

    しかし、

    人間に限っては、人類は平等=ほぼ皆が同じだと、?


    平等と同じとは違います。



    その次に、人類は平等=ほぼ皆が同じ人間なのだから、

    男と女に分けても、

    この男と女の質の違い、真の関係性すら解明しないまま放置して、


    男同士は平等=ほぼ皆が同じだと、? 

    女同士は平等=ほぼ皆が同じだと、? 

     と、片付けていませんか?

    曖昧なまま片付けているから、

    個性という定義もあやふやなのでしょうね。

    実際はわからないまま、しかし、わかったふりをして、、、、

    それが、常識のように!振舞う。
     

    時代の思潮は欺瞞性を帯びています。






    西洋二元論では、自然と人間。 男と女。 

    ただ対立的に捉えるだけで、

    その幸せな関係性は解らないまま、放置されているのです。

    調和点が未だ見出されていない、、、 

    ご存知でしたか?

    だから常に、問題があると関係が緊張するのでしょう。





    しつこいようですが、

    人類は平等=ほぼ皆が同じ人間。 ではないのです!

    男同士は平等=ほぼ男は皆が同じ。 ではないのです! 

    女同士は平等=ほぼ女は皆が同じ。  ではないのです!


    はなはだしい勘違いです。


    男女が平等に社会へ出て働く時は、

    機会均等に受け入れられ、

    男女はお互いが平等に家事と育児をするべきである。




    この欺瞞に溢れた文章のどこが、おかしいのか?

    見つけた方は、笑ってください~!






    私が、東洋的な学問に目覚めて、

    いろいろな事を学びだした頃、

    新鮮な思いで受け入れた事は、

    「こんなにも、人間は、一人一人が違うと云う事が、

    なんの遠慮もなく事実で、

    それが大前提なのだ!」と

    云う東洋の人間を捉える認識論でした。


    東洋学の世界は、外から見たら難しそうに見えますが、

    一度その中へ入ったら、その世界は広く自由で、

    個々の存在感が生き生きと認められる個性豊かな人間観でした。


    女よりもやさしい男がたくさんいて、

    並じゃない強さの女もゴロゴロいます!

    それを認めた上での理屈であり、それが前提の知恵そのものなのです。



    ここまで、個性を出していいのね!

    ここまで、違うって示されているのね!

    その原因は、易経に代表される、

    変化に関する学問といってもいい位の深い、

    広い知恵が、人をあたたかく包み込んでくれる仁愛の宝庫です。



    そして今までの思い込みが、なんて狭く、単純なものだったのかと、

    それが西洋思考の常識の狭さです。 


    ほら!

    あるパターン以外は、外れている存在とか?

    知らず学問の合理性で分けて、

    狭い枠に分割します。

    それが、網の目のように作られているのが学問です。

    新しい事象が出てくれば、また新たな枠を作って説明する。

    その繰り返しです。



    しかし、


    易経は、変化の書という意味でしょうか、                         

    学問的には、The book of changes と翻訳されるだけあって

    それが大前提ですから、

    初めから変わったものばかりがあるのが常識です。


    自然のあらゆる物の存在は、有機的に変化をしているのが普通です。

    完全に変化が止まっている存在はないのです!


    この自然の中にあるものは、

    すべてが、

    死して、なお、変化を続ける。 

    生きるという事は、そういうことです。




    だから、ただ今、変化中の存在ばかりなのです。


    科学は、止まったある位置、

    止まったある時の詳細ですから、、、

    西洋的思考は、変化し続ける『時』が抜け落ちていますね。

    科学の知識や分割では、いくら寄せ集めても真実から遠ざかるでしょう。






    たしかに、

    易経は時空に亘る変化を哲学するものです。        

    『 易 』 は、宇宙の運行を時間軸に移り変わる変化を追求し、          

    ある時の空間の多方面からの見方の変化を追求します。



    易の三義の第一の意味は「 変わる 」 ということです。               

    その変転してやまないそのものを(化)といい、

    自然も人生も絶えず変化する。これを大いなる化と言います。

    『 大化の改新 』です。 



                  
    しかし

    「 変わる 」 ということは、その根本に変わらないものがあって初めて

    変わるのですから易の第二の意味は 「 不変 」 です。                                    

    自然は原則に基づいて変わっています。

    その自然の変化を洞察し自覚する。

    その変わっていくことに

    自分から積極的、意識的に参加し、共に変化する。

    これを 「 化成 」 と言い、易の第三の意味です。 
       


    結論から言いますと、どう変わるのがいいのか?

    『天』の気を享けて『天の道』を謳歌し、生の肯定へ至る変化です。

    当然、『時』の本質の不滅のものへの具現化です。

    『時』を継ぐものが喜びの変化と言ってもいいでしょう。               
                      
    それは、秩序とも言えるかと思います。


    そして、

    易のすばらしさは、この現実をあくまでも対象にしていることです。


             

    この現実、そう、変化するのは、宇宙や自然だけではないのですよ。      

    地球の自然だけではないのですよ。  

    全く、人間も変化しています。                                                     



    男と女をひっくり返したような生き方は、だめ!




    男と女の役割、それは、ひとつの秩序です。

    この秩序を犯せば、

    陰と陽のアンバランスは、さまざまの現象を引き出します。             

    たとえばその内の一つ、男性的な活動性の高い女の子が生まれ、

    逆に、やる気の乏しい男児が産まれて来ます。

    最終的には、男性が女性をほしいと思わなくなり、

    女性が、子供をほしがらなくなります。


    個人的には、それでいい、と。個人の自由でしょう!と。

    しかし、それでは、あまりにも身勝手に過ぎませんか?

    卑近な政治的な例で申し訳ないのですが、

    あなたの老後の年金になる税金は、


    誰が払うのですか?


    他人が生んでくれた子供たちが、あなたの為に払うのです。


    そういう政治程度のルールだって、秩序が前提です。

    秩序は皆が守らなければ破綻します。


    あなただけの破綻ではなく、全体が破綻します。



    わたしたちは、太陽の秩序によって生かされています。

    太陽が秩序を少し変えただけで、全生物は死滅します。


    均衡なる秩序の上の生であることは、事実です。

    私たちが均衡を破り、秩序を犯すことは、

    未来を暗くすることにならない?




    赤ちゃんを見ると、未来が見えます!



    赤ちゃん誕生で、命名を依頼されて鑑定をしますが、

    近年、そういう傾向を感じています。


    生まれる子供の運命の分布も変わって来ている!!                                                                                                                                           

    このことは、今まで折に触れて言ってきました。

                                                   

    まず、現代は陰の大過が考えられます。

    大過とは、過ぎて及ばざるが如し。女の大過です。


    内面的に女性が女の本質を失う・・・

    外面的に女性がケバクなって女を装う・・・


    中身がなくなると外面を作ろうとするのですね~ (笑い)



    女性はやさしく、かしこく、かわいらしく、 

    整然と秩序の中へ、お戻りになってください! (笑い)

    それが、貴女の夫と子供たち、子孫の繁栄の基なの。
                                

    貴女がたくましい 「 根 」 になることを祈っています。
















    青字の部分は、安岡正篤 著の『 易と人生哲学 』のなかから引用、参考に

    させていただきました。

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。







    テーマ : 家庭と仕事
    ジャンル : 結婚・家庭生活

            

    M町/ ☆ 易学  「小陽」「老陰」、「小陰」「老陽」  仏法の識 西洋の意識

    Category : 易学
    今日から溜まっているコメントへのお返事をさせていただきます


    また、M町の記事を復活します。

    正直、ほっと致します。 (笑い)

    今日だけは、冒頭になりますが、次回より後半になります。



     


    以前のブログ記事に載せた

    代官屋敷の閂(かんぬき)門の写真を紹介します。




    代官屋敷閂門

    上の写真は正門部分です。

    狭いように見えますが、幅は約5mあります。



    その下は、表門の全体図面です。 

    代官屋敷表門


    表門は、天保14年(1843)に建てられたものと推定されています。

    民家の長屋門としては、左右が55,8mもあり、日本最大のものです。 

    長屋の間取りは、物見、男部屋、米倉等で、二階建、入母屋造。



    代官屋敷そのものの母屋の写真は、残念ながらありませんが、

    宝永5年(1708)から享保19年(1734)の間に建てられたものと考えられて

    います。

    間取りの最大の特色は、上手の前面に突出した角屋を持つことで、

    その遺例としては最古のものです。

    当家は、南北朝時代に南朝方に仕えていた北畠顕家の子孫で、

    現在第14世の御当主が、お住まいになっています。






    すこしM町の事を復習します。

    覚えていらっしゃるかしら?



    中国では皇后の為の役所を「私府」と言い、その任にあたる人を「私官」、

    実際の仕事をする人々を「私部」と言っていました。


    「私」という字は「后」と同じ意味で、「きさき」と読みます。


    第30代・敏達天皇当時、

    政治の最高の要職にあった大臣(おおおみ)の蘇我馬子と

    大連(おおむらじ)の物部守屋は、互いに権勢を争っていました。

    敏達天皇の四年、11月に廣姫(ひろひめ)皇后が亡くなられた時、

    蘇我馬子は、自分の姪の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやのひめ)を新皇后にすることに成功します。



    それに対抗する策を考えていた物部守屋は、

    敏達天皇が新皇后の御領地として

    良い稲作地を求めておられることを知り、

    良民で、田も肥沃なM町の地を、天皇へ献上する事を申して、

    敏達天皇六年(577年)の二月、詔が宣せられ、

    皇后領地になったのです。




    その後、敏達天皇が崩御され、

    592年に豊御食炊屋姫が、第33代・推古天皇になられたことにより、皇后領田は天皇直属の三宅、又「やまとのみた」と

    呼ばれるようになりました。

    今でも、近くには、

    「官田」という天皇直属の田という意味の地名が残っています。



    これだけの由緒ある伝統が息づくM町周辺の事を、

    全部知ったのは、ここへ生徒が出来て町の存在を知り、

    時々訪れ、数年が経ってからでした。




    現代の時空から途絶したような町並みの中で、

    静かに生き生きとしている精彩を放って生活をしている人々。



    それらは、古い日本の残滓のようで、

    現代の新しい物より、よっぽど根っこを持っている古い物。



    古いのに、なぜ? と自問自答していました。




    当時20代の若さだった私のそれまでの知識が、

    一気に崩れて行くような、心地よいショックを受けて、

    自分の中のガラクタの新しい物を捨てて、

    M町で拾った古い物を、私の感受性のひだに、畳んで仕舞ったのです。 


    戦後教育の華々しい西洋化のモダニズムを身に着けていることが

    とっても、恥ずかしかった。



    そうです。恥をかいたと言う事なのですね。

    恥をかいた時、人は自分の思考や意識をマヒさせるのです。

    自分より強いものに出会う事が、必要なのですね。  ほほほ。





    何の力だったのか? 

    おそらく私の無意識が、私を、そこへ連れて行ったに違いない。



    運命だった。 そう思っています。




    どうしようもない相手に対して恥をかいた。

    その理由は、どうしようもない深さと豊かさでした。

    物質的な ?   いいえ!


    体の芯から出てくる豊かさです。 凛とした灯火のような、、、、、

    人々は、決して奢らない、つつましやかな理屈をしゃべらない人達でした。





    豊かさの反対は、貧しさです。


    貧すれば鈍する。

    小人(しょうじん)窮(きゅう)すれば斯(ここ)に濫(らん)す

    (論語 衛霊公から)



    (人は、必ずしも「窮すれば通ず」と、活路を見出すとは限らない。

    窮すれば善悪の判断も出来なくなり、逃げる者は良心を捨てて、

    道を択ばず、自分の身を守る為なら悪い事をする。)



    現代の我々は豊かだから、鈍したり、濫する方ではないと ?

    どこか自惚れた解釈をしているわね。  あはは!


    だから、貧しくなる事だけは避けたいと必死になって欲しい物を買う。 


     ほほ~



    近代化の末の爛熟した物質文明の恩恵を受けて育った私も、

    ささやかながら欲しい物は手に入って、浅はかにも豊かだと?  あはは。

    中産階級のつもりでそっくり返っていたかもしれません。 (爆笑)


    M町を知れば知るほど、自分が貧しいと、何も持ってはいないと、

    何をして来たのだろうかと、惨めな気分を味わいました。



    そして、ここで、現代を斬り返す刀を手にしたのです。 あは!






    鈍する。濫す。

    現代人とは、

    そもそも今の世に生きる自分は豊かだと錯覚をして、自惚れて、

    鈍する、濫するを他人事のように思い込んでいるのではないのか? と。




    現代の醜い豊かさのまがい物を捨てて日本の2000年の昔へ戻ろうと、 

    しかし、それは東洋への回帰への 第一歩だったのです。


    なぜなら、M町は、朝鮮半島からの渡来人が、

    神武天皇の命で移り住んだ町だと言う謂われだったからです。

    そこから、日本の歴史を辿ると言うよりも、東洋への回帰、




    東洋の中への彷徨が、始まったのです。





    韓国で「ウリ党」と言う政党がありますが、「我達の党」と言う意味です。

    ウリ・ナラというのは我達の・国と言う意味です。


    「ナラ」は国を意味し、漢字表記で、「奈良」です。

    奈良は、わが国の古代の首都でした。

    この事から、どれだけ我が国と朝鮮半島が深い関係だったか...




    奈良から発掘された、5世紀頃の木簡製の戸籍を調べると、

    90%程度が渡来人の姓であった事がわかります。 


    孝謙天皇の御世、

    道鏡事件を起こした宇佐神宮の周辺の平安時代の戸籍は、

    8~90%が渡来人の姓です。




    宇佐神宮は、元々は、八幡宮(はちまんぐう)の総本山で、

    八幡は、ヤハタとも読み、秦(ハタ)氏のハタと通じる名前から分るように、

    宇佐神宮、八幡神社は、渡来系秦氏の神様です。


    秦氏とは、桓武天皇が平安京に遷都する時に頼った氏族、

    開墾開発していた京都の土地を、都として献上したという氏族です。 






    渡来人と言うと、私たちが学校で習って来たのは、

    朝鮮半島や大陸から、その先端技術をもたらす為に来て貰った、

    と言うイメージですが、


    8~90%が渡来人だった当時のありさまは、

    それらと全く違う認識が必要になるはずです。

    焼き物や織物の助っ人的人材の渡来だけではないはずです。



    この頃の大陸や朝鮮半島は、春秋時代の動乱が起こっていて、

    その中の負け組み氏族、亡命氏族、その領民などが逃げて来た。

    稲作と共に日本列島、特に九州、出雲に向かい列島に侵入して来た。

    大挙して日本列島に移住を行い、先住民を山に追いやってしまった。



    そうでないと、

    渡来人の割合が、8~90%と言うのは考えられない。




    そして、その子孫が、私達ではないのか?

    ここにも、今の学校教育で教える内容とのズレがあるのです。




    秦氏は、常に海から来て、その地の開発に着手した。

    関東では、神奈川の地もそうです。

    これは、またの機会に記事に書きたいと思っています。


    では、M町の記事は、ここまでで、次回へつづきます。








    さぁ、コメントへ行きましょう。

    実は、5月7日に、メールでいただいていましたのに、

    お返事が遅れました事をお詫び致します。①②③ は私が付けました。




    ① 三島由紀夫氏は「人間には自然が残っている」との言葉を残されて

    おりますが、この自然を無意識と解してもよろしいのでしょうか??


    ② 輪廻転生するのは、魂などではなく、意識であるという仏教に一宗派

    がありますが、これは成仏できないことを意味するのでしょうか???

    これらの疑問が浮かんできました。


    ③ 私の書くものはロジックを重視していますから、

    批判される対象となるのでしょうね。

    確かにロジックによって人に意識を差配したいという気持ちが

    どこかにあるのだということなのでしょうね。







    今までの記事の流れから言いますと、

    東洋思想の啓蒙がブログの目的のひとつですので、

    なるべく『陰陽』で、お返事を書きたいと思います。




    ・東洋的概念の『陰』を分かり易くするのに、

    無意識と言う西洋的概念を使い、

    ・同じく、『陽』を意識できる現象世界をとして

    意識と言う言葉を使いました。

    厳密には、その中身の概念は同じと言う訳ではありませんが、


    しつこく言いますが、中身は同じものではないのですよ。

    便利だからそうしましたが、便利と言うのは、落とし穴がありますから、

    思わぬ矛盾と間違いが、先になって出てくる可能性があると言う事です。


    ご了承ください~!


    じゃぁ、先へ行きますね。



    『陰』と『陽』は、二つの象です。


    この二つは、次の、四象に分かれます。


    『陰』が、「小陽」「老陰」に分かれ、


    『陽』が、「小陰」「老陽」に分かれます。



    よく、陰、陽、の字がどう組み合わさっているか、ご覧になって!



    何故、『陰』に少陽が、『陽』に少陰が、あるのかしら?


    不思議でしょう?

    『陰』に少陰、『陽』に少陽があるべきじゃないの?  あはは。


    陰は、老陰と少陰である。

    と言うように『陰』同士、似たものを一緒にまとめるのなら

    分かりやすいですね !!  (笑い) 



    しかし、それでは、ただ細分化されるだけでしょう?

    西洋の二元論は、そうですが、


    陽は陽、陰は陰と、まとめて二つに分けないのが東洋的なの!

    東洋は、二者の間を対立させずに、

    しかもバラバラにした以上のエネルギーが生じるように

    巧みに構成された面白さがあります。




    磁石の+-と同じなの。

    違うモノ同士が、くっ付き合うのです。 影響をしながら、

    それが調和・バランスです。



    陰に少陽があって、陽に少陰があることで、

    陰陽論は、西洋の二元性論理とは異なっていることがわかります。 




    少は、若さ、未熟さから次の段階へ変化をしていく状態。

    老は、その反対、成熟、成り上がった状態を表しています。 









    これで、『陽』が、男である。

    『陰』が女である。  と言う事から、



    あ、女も『小陽』、すなわち未熟な『陽』を持ち、

    男も『小陰』、すなわち未熟な『陰』を持っているのが分かります。



    そして、もっと面白いのが、


    『陽』は、老陽、老陰、と謂う二象になり、

    そこに属する「乾(天)」「兌(沢)」「坤(地)」「艮(山)」などは、

    余り変化しないものになっています。



    『陰』は、老陰、少陽、と謂う二象になり、

    そこに属する「離(火)」「震(雷)」「巽(風)」「坎(水)」などは、

    変化しやすいものになっています。


    ほら! ここでも絶妙でしょう ? 



    現象である『陽』=男性の方が、変化しない。


    本体である『陰』=女性の方が、変化しやすい。


    今までのイメージとは、反対の要素が出て来ています。



    確かに、男は動じない。  女はフワフワ秋の空です。  あはっは。 





    しかし、これだけではありません。

    西洋的学問体系の中のユング心理学においての

    アニマ(男性の内面の女性像)、

    アニムス(女性の内面の男性像)の概念より、


    一段と奥へ入ったこれらは、常に二つに分かれながら、

    ある特性で、それぞれを陰陽で分けながら、

    その切り口がそれぞれ時系列で異なって行くと言う点において

    優れていると思えるのです。  




    もう、3Dを超えている !  あは!




    ついでに言いますと、

    人類や民族に共有される普遍的無意識・集合無意識

    (collective unconscious)を想定したユング心理学は、

    かなり仏法の、それも天台仏教に迫ってはいる、志向しているものです。




    これも、また、いずれ記事に出来たらと思っています。




    ① 三島由紀夫氏の「人間には自然が残っている」との言葉ですが、

    特に三島氏は、陽明学を革命哲学として支持していたようです。


    日本の近代化=西欧的合理主義の移入

    を行った明治初期の政治家たちの軽薄さが、

    今もなお、日本の社会の底に潜んでいて、

    =それは無意識のうちに朱子学的伝統を引いている事なのだ。

    と言っています。





    ここは、正しいと思いますが、

    氏は、陽明学をニヒリズムとしています。

    陽明学の、価値の否定という概念は含まれていない太虚という語を、

    (本来は老荘思想のもので唐代に仏教的意味合いが付加され後に

    儒学思想の中に取り入れられたものです。

    「宇宙の根元」と言う意味です。)

    ニヒリズムの虚無と同義に見ること等は、

    いくら表面上類似している語句だからって、

    氏のおっちょこちょい、我見に過ぎないと思います。  ほほ。


    これは、誰でもが犯す間違いですが、

    私達は、西洋と東洋を理解する時、

    言葉の概念をより正しく、そのままの概念で受容するように

    しないといけない。

    だから氏が、自然と言った概念は、真に何だったのか?

    厳密に言えば、何とも言えなくなってしまいますが、、、  あは!

    創作とは、彼の無意識の井戸からの創造力の水を汲み上げる行為です。

    そう言う意味では、おっしゃる通りに近いと思っていいのかしら?

    ある文明文化の下で歴史や伝統から生まれた概念を持った語句を、

    他文明文化の下に移して使う事は、ムズカシイですね。



    黒船の来航時、

    幕府は江戸時代の幕藩体制のお抱え御用学者たちによって

    偏狭な主知主義に陥った朱子学しか持っていなかったのです。

    普遍性で負けていた。

    その時点で、

    すでに思想戦に負けていたのに、

    それを何時までも後生大事に日本人は持っている。

    偏狭だ! 氏はそう言いたかったのでしょう。



    徳川幕府を守護する為の、徳川家が採用した特別注文の思想では、

    世界の列強に通用しなかったのですね。

    するはずがありません。

    徳川家に都合のよい朱子学は、

    世界に対して太刀打ちができない代物だったのです。


    あたりまえですよ~


    しかし、その反省ができていないから、

    日本の社会の底に潜んでいる朱子学的伝統を引きずりながら、

    21世紀も、わが国は国家経営をしています。

    制度をいくら近代化したとしても、思想自体は進歩していないのです。

    ははは、うまくいくわけがないわ。

    欧米列強を思想において、超える事はできないわ! 

    日本は近代化で、捨てる所を間違いましたね、、、、、



    腐った果肉を残して、種を捨てたのです。


    日本は、おかげで臭いのです。。 。


    だれか、捨てずに種を持っている人は、いませんか?  




    ② 輪廻転生するのは魂などではなく、

    意識であるという仏教の一宗派があります。

    これも、①の場合と同様、

    西洋的思想の語句と東洋的思想の語句が入り乱れて使用された結果、

    言葉が混乱しています。


    ・魂=肉体を離れた精神、これは古代の神道から、

    そして神をたましいと読む時もあるようですが、

    古代ギリシヤの霊魂とか、

    仏法では精神と肉体を一つと観るので、

    魂が成仏するとは言わないはずです。



    意識というのも、西洋的概念の言葉である事が多く、

    仏法では、経典の進化によって主観的認識体験の総称として、

    意は意根(六根のひとつ)の略、意業の略で使い、

    心の働きの中心を識と云うように、

    別々の意味で使うのが多いと思います。

    これらはそのまま西洋の意識と=ではないと思ってください。


    仏教は、釈迦が、もしくは後世の弟子たちが、

    その時代や社会や衆生の受容力に応じて

    タイムリーな教えを説いた部分も含みますから、




    100~2000年の時が経ってしまえば、

    衆生の受容力の発展や時が

    その法の効力を無効にしてしまう経典もあるはずです。

    つまり過去の残滓にしか過ぎない経典もあるはずです。



    たとえば、初期の頃は、

    知識人、頭のいい人、悪人、女は成仏が出来なかった。 

    女は地獄の使いであるなどの教えです。


    それを邪義と退け整理したのが中国の天台、日本の伝教です。

    この為に、

    それぞれ皇帝や天皇の前で、法論対決をした訳です。

    両者は、両国の既存の仏教を論破した事になっています。

    この時点が、仏教理論が、そのピークに到達した時と思います。 




    仮にその立場から観ますと、

    魂や意識の成仏はないはずです。

    仏法にとって精神だけの成仏とは、

    西洋の二元論のように

    心と体を引きちぎる邪義になるのだろうと思います。

    人を片側からしか観ていない邪義です。

    天台、伝教の仏法理論上では、三身が説かれています。


    このように何百年前に論破された(笑い)御宗旨にしても

    現在、信仰としては残っていますが、法理論上は破綻をしています。

    当然、正邪の上からは問題があり、なのですが、 

    庶民はたくましいのですね ? あはは!

    事実、

    女が成仏を許されない経典をより所の経典としている御宗旨でも、

    女性の信徒等は、それらに関係なく信仰の心を維持しています。

    なんと申しましょうか? 

    人の心や、世の中は、いつの時代もですが、

    正しい正しくないだけで済まされない領域があるのですね。  あはは。

    あらゆる存在の分布は、白から黒へのグラデーションです。
     



    また、極楽往生と言いますが、

    極楽が説かれた教典では、女性は極楽にはまだ、行けませんでした。

    だから、極楽とは、男しか往生できない。

    つまりは、男湯みたいな所なのですが、それを知ってか知らずか?


    あはは~ 男たちは、修行をして行きたがったのですね。

    たのしいです~? 庶民は、今の政治に対してもそうですが、

    誰もそれに気がつかない? あはは。

    勝手に解釈をしているのですね。  

    真剣に考えたら笑ってしまう現実があります。(笑い)




    しかし、真理と云う次元から云うと、深刻な問題なのですね...



    ③ ロジックを重視しているから批判される対象となると言うのは、

    まったく気になさらないでいいと思います。


    と言うのは、

    男性ですから、『陽』の活動をするのが本分です。

    意識を活発に活動させて競争、ロジックの戦い、効率を求めて勝ち抜く。

    そういった社会活動性と指導性が『陽』の仕業です。

    男性諸氏の役割でございます。  あはは。



    それがなければ、社会が気力を失う。意気消沈する。

    どうぞ~!がんばって好きなロジックを構築し、

    戦うべしです。


    あはは、嘘を奨励する訳ではないのですが.....


    あ、すべては嘘、『陽』は最後は、偽そのものです。

    だから、、、、、あはは。





    『陽』の世界と言うのは、常に引っ掻き回しておかないと駄目なのですね。

    お疲れでしょうが、

    世の中を正しい見方でリードする為に言論で雷を落とし、

    正しさが弱肉強食で、悪を潰して行けばいいのです。



    でも、常にご自身の中の小陰を光らせてください。

    でなければ、女性からの支持を失います!  ほほっ!





    しかし、女性の場合ですが、

    社会活動性で勝とうとしない方がいい。

    なぜなら『陰』の実を失ってしまいます。

    それは、

    命の栄え=子孫の繁栄、葉の茂り=夫の実力に欠けが出て来るのです。



    あくまでも女は、『陰』=根としての役割に徹する事です。

    貴女が欲しいと思ったものを、

    夫や息子が、求めもしないのに持って帰ってくれます。


    自分の欲望で、他人を押し分けて手に入れなくても、です。





    それが、天恵、陰徳の報いです。

    それが、できるかどうか?   

    貴女の精進にかかっているわ。

    さぁさぁさ~ぁ!

    女は、一番しあわせになれる立場なのよ。  あはは。


    よくよくお考えになって、女の分を超えないようになさって!


    あはは。


    長い記事にお付き合いくださって

    感謝いたします。


    よき一週間をお過ごしくださいね。






























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    ☆ 易学       《 水火既済 ・ 火水未済 》   ー 成功 ・ サクセスとは ー

    Category : 易学
    8月20日 午前4時30分  2回目のご来光 (富士山)

    <下山途中の写真3枚>


    8月20日2回目のご来光


    八合目の稜線の向こう、勾玉のような形が山中湖です。

    富士登山3日目、

    いよいよ、下界へ戻らなければなりません。

    前日とは打って変わって、墨絵のようなご来光でした。







    写真をクリックください。 




    富士吉田下山道 

    下りの所要時間は、

    頂上から5合目まで2時間。


    下山



    雲は、地上から湧いて来る ―――――――


    ご来光の光りが、

    天空を染めはじめて、

    太陽の熱が『天』を温めはじめると、

    『土』中の水、  山や森の地中深く蓄えている水分と、

    『木』中の水、  木々の葉や木肌に蓄えている水分と、

    『水』中の水、  湖や川や海の水分と、

    あらゆる処の水が、水蒸気となって『天空』に湧き上がって来ます。


    ヴェールのような靄(もや)が、かかった景色を目の前にして、




    水が作ったこのヴェールの下に、

    どれだけの命が生かされているのだろう。

    『天』の気と、

    『地』の気の、エネルギー交換。

    東洋の叡智、感応の妙と云うものを思い出していました。  






    この天地の間で起こる五行の上下のエネルギー交換。

    宇宙天体の『火』太陽エネルギーが、

    『天』の気と『地』の気を、『道』と『理』に即して還流させる。

    木々や土中の水分が、液体から気体へ変化を遂げ、対流を起し、

    『天』へと昇りはじめる。


    上下の気流のちょうどの処に、水は雲となってとどまる。

    ちょうどの処とは、調和点なのです。




    このおびただしい『水』に守られて生きている、

    ― その命の中、

    ― その細胞の奥、

    ― その見えない感じられない、無意識の領域で、

    命を新たに代謝する触媒として微量な『金』ミネラルが働いている。



    その『金』は、水や植物と云う食物から取り入れられたものだった。

    我々の肉体は、自然にある五行の材料で日々作られているのです。




    仏教では、この肉体を『仮体』・けたいと言います。

    かりのからだ、、、 そう、

    自らの過去世からの業因である『因』と『縁』により、

    自らの今世の現象としての命の入る器(うつわ)、

    永遠の仏の命を宿す法器(ほうき)、

    この自分にふさわしい宇宙の素材を集めて仮和合(けわごう)したもの、

    これが、仏法的肉体観です。



    東洋は、肉体的な事実からも、我 即 宇宙なのです。





    昔からの東洋人は、

    意識が、うわっつらを撫で上げただけの皮相の西洋・キリスト教的学問、

    意識が、自然を切り刻んで知識化したパーテーションの寄せ集め学問、

    天文学、気象学、栄養学、物理学、などがなくても、

    あるがままの自然をダイレクトに命の内奥へ受け入れる事で、

    無意識から湧き上がるように、

    宇宙と我が、一つの全体である事が分っていたのです。




    これらの全体として統一された自然の有りようが、

    ある時は、豪雨、台風、竜巻、津波、農作物の被害の現象と現れて、

    ある時は、慈雨、そよ風、陽光、農作物の豊作の現象として、

    我々の眼前に『陽』の世界へ現れて来るのです。

    現在の、海水温の上昇、回遊魚の異変、旬の魚の不漁も、然りです。

    この事ですら、今は、科学が多少、説明をするようになっていますが、

    まだ、全体観には及んでいません。



    これらの現象と我々の『陽』の活動は密接に結びついています。



    この事に数千年も前に気づいた東洋の叡智、宇宙観は、

    自然・環境・宇宙と共に我々の生存はあると言っています。

    ともに生きている。

    死して、現象世界からそこへ還って行く。

    東洋的叡智は、見極めていたのです。

    東洋的宇宙観は、自然を傷めつけません。

    なぜなら、我々は、宇宙そのものなのです。






    それに比べると、現在の地球を蔽う西洋、キリスト教哲学においては、

    自然の造作は、神の御手に係るものですから、

    自然は、神の所有する物です。

    自然の変化は、神の御意志。 思し召しです。

    自然は、我々の存在とは、かけ離れた処にあるものです。

    故に、神の思し召しにゆだねる。

    神とは、あなたと私以外の他者、第三者なのです。

    西洋の言葉は、人称代名詞が独立性を帯びていますね。

    一人称のI、二人称のYOU,特に三人称のHE,

    こう云う処からきているのかも知れませんね!    あはは。




    余談になりますが、

    自由主義経済の拠り所は、この神の思し召しでした。

    ★ アダム・スミスの思想によれば、

    勝手に利己的に行動する人間同士が、

    それぞれ、市場において自由競争を行う事によって、

    人間が意図しない結果として「見えざる手」= 神の思し召しの

    おかげで公正で安定した社会が成立すると考えた訳です。


    それが、どうですか!  

    リーマンショックで破たんしました。

    その結果が、

    実体経済を越えた処の金融資本が、地球上を席巻しています。

    我々の生活が、金融の魔手に握られているようなものです。

    この結果を惹起させた思想的背景が、キリスト教思想なのです。

    そもそも神の思し召しと云う、

    この宇宙に実在するかどうかさえ分からない観念的なロジック。

    西洋の意識文明は、いつもこうです。

    これでだめなら、また新たな◯◯主義を作る訳です。

    単なるパーテーションにしか過ぎないロジックを、

    真理のように全体に当てはめようとする過ちです。


    資本主義は、

    もうすでに敗れ去った共産主義と同様、

    キリスト教と云う母体から生まれたロジックです。



    ご注意あれ !  我々をしあわせに導くものではない。


    同様に、キリスト教哲学を根底にした近代合理主義による

    今の学問では、人間と宇宙と自然が見事にバラバラにされています。

    東洋的学問では、一つの全体で捉えられる宇宙観が、

    西洋的学問では、もののみごとに辺々に切り刻まれています。


    意識が、真理を追究できるなんて、以ての外です。


    神性や仏性を凌ぐほどの知性を人間は獲得をしたのだと

    どこまでうぬぼれたらいいのでしょうか?





    現代知性が自然をバラバラに解体したのではないのですか?

    近代合理主義の云う学問の中の自然は、

    もうすでに、ほんものの自然ではなく、

    合理=理的に解剖され尽くした自然のバラバラ死体の標本です。


    私達がテレビで見るシゼンの映像は、すでに自然ではありません。

    私達が雑誌で見るシゼンの映像は、すでに自然なんかではない。

    カメラマンの意識を通したシゼンと云う一つの概念にしか過ぎない。

    学問が、いかに綿密に知識を使って自然はこうだ、と説明をしようと、

    それは、全く自然の部分観でしかない ―――――

    真の自然ではなくなっている ―――――

    説明すればするほど、概念化され、真の自然からは遠ざかる ―――



    自然は、人間の意識が作った概念で成り立っているものではなく、

    合理=人間の意識が作り上げた観念的な論理の上にあるものではない。

    自然は、もと、もと、もと、もと、

    前頭葉が意識する以前、

    意識が概念を作る以前、

    意識が、脳のシナプスに観念的論理性を結ぶ以前に、

    人間が出現する以前に存在していたのですよ!



    そのように考えると、

    私達は、誰かの五感・意識が捉えたシゼンの概念に囲まれてしまっている。

    シゼンを自然だと認識をしてしまいそうになったら、

    我々は、自分で、自分を、

    ほんものの自然から隔離してしまう事になってしまうのです。

    お気づきですか?



    さように近代化は、人間を自然から、隔離した。

    近代化で、人間は、ほんとうの自然を失ったのだ。

    たしかに、そう言われる所以です。

    別の言い方をすれば、

    便利さは、その原意、原型、真実ありのままを失う事なのです。

    自然本来の不便さを厭う事は、我々の退化につながって行く。

    便利なグッズを揃えれば揃えるだけ、、、お分りですね ?






    さあ、ここからが本記事になります。


    今日の記事は、


     ☆ 易学 《 水火既済 ・ 火水未済 》







    近代化は、人間をほんとうの自然から、隔離した。

    その結果、我々はどうなってしまったのか?



     That's a question . ahaha !!!


    この問いを、

    易学の、「水火既済 ・ 火水未済 」と云う二つの卦から

    考えてみたいと思います。





    まず、本当の自然を自分の感覚の中から失ってしまったら、

    それまで、自分と一体であった自然観が薄れていきます。

    自然を見ながら我を振り返り、我の為すべき事を『天』を仰いで窺う。

    いわゆる「お天道様」が見ている、と云うような感覚がなくなる。

    「お天道様」に調和をして行く生き方の喪失が始まります。


    それは、何に変わって行ったのか?


    「お天道様」を窺う代わりに、日本人の物差しになったモノ?

    何だったと思われますか?



    いろいろな言い方があるかも知れませんが、

    西欧的な暮らしが出来るようになる欲が出て来た。

    美しく云えば、憧れです。

    それらを手に入れる為には、自然との調和なんて、どうでもいいわ! 

    自分の欲の節制なんて、とにかく、目標に向かって突進をする。  

    ある時は、

    電化製品、マイホーム、マイカー、など、

    あるいは、英会話、留学、海外旅行、高学歴、LOVE、恋愛、など、

    キリスト教文明の上澄みである物質文明の満足、

    功利主義による経済的利益の欲求、高給取り、豊かな財産、


    これらは、いわゆる戦後のアメリカンドリームへの憧憬、

    映画のサクセスストーリーを真似て、その実現、

    ここで、戦後施策の3S政策などが利いて来る訳です。


     あはは。




    キリスト教の説く天国の現世版の実現、

    欲望肯定の自己実現、生きざま実現、

    そう、成功。 サクセス!なのだ!    あはは。

    成功こそが、人生の目標になって行ったのです。



    目に見えない無意識の世界の調和より、

    意識で感じる事ができる成功こそが、今世紀最大の人間の夢。



    日本人は、真似が巧いですから、すぐ真似できるのですね!


    世界の思潮の流れは、欲望の拡大から消費の奨励、

    経済成長への熱望、 功利主義の台頭、

    はっきり言えば、「苦」を避け「楽」だけを求める意識です。

    意識の絶頂感を、見たくて聞きたくて味わいたくてたまらない、

    他人が、そうしているのをうらやましくてたまらない、

    ムラムラと餓鬼道の心をむき出しにして、   あはは。

    他者に勝ちたいと云う修羅道をまっしぐらに、   あはは。

    歩むことになった訳です。


    ああぁぁ ――― 、深淵なる学問の精神もどこかに吹き飛ばして、

    あくまでも成功を実現する道具に化した学歴の為に、

    功利的に、イソイソとお勉強に励むようになった訳です。

    日本は、上昇志向の中間層が一杯いるのですね。

    しかし、これじゃ、他人の真似しかできないわね。



    アメリカは、ここが違う。

    すごい天才がゴマンといるのです。

    誤解を恐れずに言いますと、

    アメリカは、人間の能力でヒエラルキーの最上部と最下層に、

    人間が分かれているような気がします。

    当然、アメリカの最上部は、世界の最上部になります。

    そう云うトップのアメリカを目指して、憧れて、やって来た。


    福沢諭吉の「学問のススメ」が後押しをしました!

    あ、福沢諭吉先生には、好かれないと、、、

    ご機嫌を損じたら困りますよね!     あはは。  

    こうして、いつか、つつましやかな自然への調和感が、

    自然をシゼンに造り替えてでも、我の夢の実現を!

    情報社会で、言葉もかなりのテクを身に付けた結果、  

    いつのまにか、欲望が、「夢」と言われるようになっています。

    成功を追い求める畜生道へ、ヘンシン! マイシン! あはは。



    いいのですよ、 あはは。

    このエネルギーは、経済推進には必要なのですから、、、



    近代化以降、日本は武道が廃れつつありますが、

    餓鬼道、修羅道、畜生道、と三悪道が流行っているようです。  ほ。


    あとは、地獄界の実現するのを待つだけの身なの?  こわいわー。

    我が身が、悪道に落ちても構わないほどに、

    左様に、成功とは、

    「男もすなる、成功といふものを、女もしてみむとて、するなり」

    男がすなるように、おなごもしてみたい、と、

    成功をしてみむと思うおなごも増える程に、

    成功とは、すばらしきものなのであろうか ???      


    人間の意識が熱望する「成功」とは、なんぞや?

    いかに?    あはは。







    『易』に、

    A.「水火既済」・すいかきせい 

    B.「火水未済」・かすいびせい   と云う卦(け)があります。



    この二つの卦が、現代文明の「成功」と云う概念の

    空虚さを暴いているのです。





    ・Aは、水が上で、水が燃え盛る火を消す。 

    既済=すでに終わった。

    あるべきものがあるべき処に納まった。

    形としたら正しいのです。

    既に窮まった完成、成功の姿です。


    水が火を消す努力をした結果、成功した。

    ここまでなら、成功が目的の西洋的捉え方と同じ程度です。

    西洋においては、完成や成功が最終的な目標であります。


    これでは、あくまでも時間軸の上での認識が欠けています。


    時間が把握されていない西洋のキリスト教思想は、

    最後のあがりとしての天国の提示で終わりです。


    天国に行ったら、ずっ~とそこで暮らすの?

    成功の後は、どうなるの??? 
        あはは。

    西洋は、そこまでの定理がない。


    ここで、東洋における易、

    易が時間軸の学問と言われる知恵を外すわけにはいきません。



    東洋の叡智は、時は巡り、成りあがった成功は、

    必ずボロが出始め、次は「乱れ」を予感させる卦として、

    易経63卦目に「水火既済 」があるのです。




    事実、絶家する家系の最後に、

    世間的な成功者が現れる事が多いのです。


    成功者の子孫運は、まったくないか、

    女児のみの事が多いですね。

    有名な所では、アメリカ大統領、ブッシュジュニアも、クリントンも、

    オバマさんも、子供は全員が娘だけだったはずです。

    惜しい事に、イチローも、子供はおりません。

    彼のDNAは、息子に遺してほしいものだと思うのですが、、、

    成功をした女性は、結婚をしても子供がいない例が多いですね。


    成功者だから、経済力があるからと言って、

    息子が、5人もいるなんて、めったにないですね。

    小泉さんは、3人の息子です。

    しかし、お孫さんはまだ一人も生まれていません。

    野田さんも息子が3人です。 彼は恵まれていますね。




    ここが、非常に東洋的と言いますか、成功が終わりではないのです。

    東洋では、成功が目標ではない。

    東洋的双六は、成功が上りではないのです。

    東洋の易は、完成や成功が整った後には、

    その形が崩れる乱調を読み取り、その後の時間軸を示唆します。



    なにしろ、時間軸は永遠なのですから.....

    その為に、63番目「水火既済」の後に、64番目「火水未済」。





    ・Bは、火が上で、火が燃えて水を沸騰蒸発させる。 

      未済=未だ済まず。

    いまだ終らず。 未完。 終りなき変化。

    これからの未来へ向かっての 無限の歩み と云う卦です。

    「火水未済」は易経64卦の最後の卦です。



    実は、ご来光が魅力的なのは、

    ご来光の光は、未だ日が昇らず(未済)ー(未完)ー(無限) 

    への時空を示唆する象徴として無意識に通じるからでしょう。




    乱調を予感させる「水火既済」の卦の後、

    64卦の最後に未完の卦の「火水未済」が来る。

    太陽が全ての地上の水をいまだ蒸発させていない未完である。

    それで、易経は終わります。 


     


    ここに、 易の真骨頂、易の説く時の本質が滲み出ていますね。



    易経63卦から最後の64卦へ至る二つの卦は、

    成り上がりの後のほころび、乱調、衰亡への予感から、

    無限への第一歩。 歩みの始まりへの切り替えるリセットが、

    易の説く『時』の極意ではないのか。





    自然の時間設定は、永遠なのですね。


    これは、この世界の『時』のルールです。

    成功を目的にする事が、この世のルールではない。
       あはは。


    永遠のつもりで今の一歩を歩みなさい。

    目先の成功に振り回されてはいけない。

    その覚悟を求めているのです。



    しかも、『時』は、いつも同じ『時』ではない。







    現代文明の欺瞞、自由で平等の幻想を抱き、

    その錯覚の中に居れば、

    欲望を出さない方がソン!のような ?    あは。

    そうなれば、だれしも、自分の欲望を正当化したいですから、

    他人の欲望を認めて、自分が我慢を強いられるのはイヤですから、

    そこで、派が生まれ、論争が合こり、正義でさえいろいろバラバラです。

    そこから戦争が生まれるのです。


    現文明を作り上げた前頭葉の能力にしたら、

    自らの主張の「成功」の為には、

    欲望肯定の都合のいいロジックを作る事なんて簡単な事です!



    シリアがそうです。


    アフガンがそうです。


    アメリカの作った映画に反発をするアラブがそうです。


    日本の国内だって、そんなものでしょう。  あはは。



    尖閣も、今、アメリカとの安全保障の範囲であると云う国防長官の

    発言で中国側との均衡を保っているかのようですが、

    日本と中国が、いつそうならないとは言えない。






    人間の意識は、人間が人間を殺戮する事すら、

    都合のよいロジックを作り上げてまでも正当化して来ました。




    その先は、どうなるのか?


    自然から遠ざかった部分から滅びるのです。

    この当たり前の事が、ここまで意識が作り上げたシゼンの中にいると、

    分からなくなるのですね。



    シゼンを自然と間違って受け入れて、

    意識主体で、無意識の自然との均衡を失う事は、




    あなたが、あなたの愛しい子孫を失うと云う事です。


    これが、近代化された現代の先進国の少子化の原因です。

    つまり、人間の営みが、自然ではなくシゼン的になっているからです。


    運命学の基本は、あらゆる均衡を尊びます。

    均衡は、バランスです。



    命の為には成功より、調和です。


    これは、間違いありません。

    自然には、成功と云う止まった時は存在しない。



    意識に騙されてはいけません。

    あなたよりも上位の意識が、あなたの意識を使役しようと、

    ほら! 成功の匂いをちらつかせて騙そうとしている。




    あはは。 ご用心なさってくださいね。



    長い記事を最後までお読みくださって、

    感謝申し上げます。

    何かの岐路に、ご参考になさってくださいね。   ほほっ。




    やっと、秋らしくなり雨も降って来ました。

    『天』に見放されていないのですね。   ほっ。


    よき一週間をお過ごしください。

































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    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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