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    ..。☆* 思い出の暖炉 。..*☆゜ 五行学の火の徳は、『礼』 

    Category : 東洋思想
          だんろ

          思い出の暖炉











    チャップリンのライムライト を どうぞ~





    火といえば、暖炉、

    京都の伏見にあるモンテッソーリー幼稚園の

    玄関ホールにある暖炉を思い出します。



    ヨーロッパでモンテッソーリー教育を学んだ園長の発案でした。




    幼児が登園する朝、

    家庭で、叱られたり、我慢したり、泣いたりしたストレスを、

    教室へ入る前に、気分を切り替えさせたいという祈りの発案です。





    パチパチと燃える薪の炎をみつめる事で、

    火が心を癒して、

    はつらつと園内で遊んで欲しいという、、、



    そういえば、登園すると、

    玄関でじっと火を見つめて動かない幼児が、よくいました。


    いつまでも、いつまでも、、、

    ほっぺから、頭から体まで、暖まって、そのまま放っておくと、

    幼児は、気がついたように、元気をだして、

    明るい笑顔で、自分からみんなの中へ駆けて入っていくのです。


    誰が声を掛けるより、先生の励ましより、

    子供は、自分で元気が復活するのですね。



    対象は、火でもなく、流れる水、

    その水の音でも良かったかもしれません。


    通り抜ける風、風のここちよさでも、

    よかったかも知れません。


    自然に触れるだけで、人の命は癒されるのですね。



    ちなみに、『火』は東洋の五行学において、

    「礼」の徳にあたります。人としての振る舞いです。




    そして、邪心、不義、邪悪を鎮めます。

    今でいう、邪悪の焼却、消毒ですね。



    衛生、清潔、正しく命を守り、人の命を崇める思想の始まりです。


    人類は、


    太古の昔、


    火を手にしてから


    動物とは違う運命を始めました。 


































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    .。.:*:.。..。 思い出の 海 .。.:*:.。..。.: 五行学の水の徳は、『智』 

    Category : 東洋思想
    2011.2..17



    海のなぎさ 潮騒の音 をどうぞ~!











    今日は、五行学の水の徳・『智』についての記事です。


      


    波の音には,

    1/ f (エフぶんのいち)と云う揺らぎがあります。


    周波数が高くなると音のエネルギーが小さくなって行く                    

    規則性の音と不規則性の音が程よく調和したリズムが、                                           
    人を心地良くしてくれます。



    それは、耳で聞こえない超音波も含み、                                       
    人がリラックスした時に表れる脳波・アルファ波を活性化するからです。
                                  



    このゆらぎは、

    耳ではなく、皮膚や骨を通して体のなかに入ってくるのですね。                      
     
    五感以外からも人の脳は刺激を受け取っている訳です。
                                                      



    音楽は、耳から、

    色彩は目からと云う訳ではなくて、

    人間は、もともと、

    自然からの刺激を身体中で受け止めています。

    そして、生きる力を養っています。




    目に見えないエネルギーで生物の生命は生かされ、

    生命力を与えられているのですね。


    あたりまえですが・・・ 







    大人になって都会の中に住んで、幾久しく、

    今は、自然の山、海に接する機会は、めっきり少なくなりました。


    しかし、自分の胸に意識を当てて、

    心の中をのぞいて見ると、

    真っ青な空が広がり、

    その下には、濃い深い緑色の海があるようです。



    こんな事を言いますと、笑われそうですが、


    私は海、  私の体の中は空、



    そう云う感じがします。



    ほほっ。




    実は、数年前に、

    ネットで知り合ったあるブロガーのなかで、

    自分の感覚に非常に近い世界観を持っている人だな、と思った人がいます。

    だいたい、記事にしている内容も常にシンクロして、

    人間に関する深い洞察の切り口で、今の文明に決して振り回されていない。


    不思議な縁を感じるものがありました。


    何かの時、その人が、書かれていたものの中に、

    子供の頃、家から数分で行ける海で、一人で遊んでいた。

    鎌倉の海だったそうで、その頃は、空と海だけの浜辺で、

    完全に一人の世界で日没まで遊んだ子供時代だった。

    自然の中で一人で毎日を過ごした事が、自分の人格を作った。

    と云う風な文章を読みました。





    なるほど、

    子供時代に受け入れた世界が、同じだったのかもしれない。

    目からも、肌からも、毛穴からも、

    海の気配を吸い込み、

    空のさやけさを取り込んでいたんだ。

    きっと、そうだ。  そう思ったことがありました。



    子供の頃の柔軟な鼓膜で海の音を日がな一日聞いて、

    海の波の鼓動で息をして、

    自然に見守られて育った人だった。



    自然に愛されて、自然を信じて一体になった時間を持った同胞。


    空の子、  海の子、  光の子、




    子供の頃、

    毎日裏山の頂上に、駆け上がって登り、 

    そこに、ちょうど公園があって、

    ブランコを漕ぎながら、藤棚の椅子にすわったり、

    陽が沈むまで空や雲を飽きずに、毎日見ていた思い出があります。





    気が向けば、海辺へ走って行き、

    岸壁のはしごで海浜に降りて、砂や岩の間を歩き回りながら、

    さざ波の打ち際で、我を忘れて時が経つのも気がつかずに、

    日がとっぷり暮れるまで、遊んでいました。




    私は、一人で海へ行くのは恐かったので誰かいつも一緒でした。

    たとえば、海へは、地元の漁師の家の友を誘い、

    山へは、転勤族や、農家の子である友を誘い、

    ずっと海と空の間で、遊んだものでした。


    胸に染み入るような毎日の夕焼け、

    日が沈んで夜の黒い海に変わる狭間の怖い自然の気配が、

    妙な恐怖感となって襲ってくるぎりぎりまで、

    夜の海の前で、どこまで耐えられるか立って見ていました。



    自然の恐さを、確かめていたような.....


    自然は、ある所まで行くと怖い存在です。

    本当に、自然に吸い込まれてしまいそうな圧倒的な臨場感に、

    それでも、自然に対峙してみたい好奇心と冒険心があるのですね。








    引き潮で沖の岩礁まで行って、

    岩場に座って、水平線辺りの外国船の船影を眺めているのが好きで、

    時が経って気がつくと、周りは潮が満ちて!




    満ち潮の海に、沖の岩礁に一人残されてしまい

    あわてて、必死で海の中を、

    海が追いかけてくるような恐怖心を感じながら、   

    海岸へ向かって海の中をバシャバシャと、、、、、 あはは。




    自然のなかの遊びは、

    ディズニーランドのような気が利いたアトラクションはないけれど、

    ほんものの、ドキドキが、あります。






    今考えると、なんと幸せな時代だったのかと思います。                        





    この恐怖心に誘われて、自然の中へ行くのかも知れません。


    那須高原で、福島の白河へ出る道を走っていますと、

    人工物がまったく見えない、

    空と雲と、自然のままの木々と山々に取り囲まれる場所があります。

    360°そういうロケーションに囲まれて、

    大地に襲われそうな恐怖を感じます!     ふー!



     いつもぞっとします。



    たとえ冒険心の為でも、

    自然の中では、人間は、絶対に調子に乗ってはいけないのね!

    自然に対する安全は、きちんとした時間と距離をとる事だと、

    たとえば登山は、給水とカロリー補給、体温調節と休憩が大事です。

    自然の真っ只中では、

    自らの欲望と力、自然の変化に対応するバランス感覚、

    自律するしか、命の安全はないのです。




    自分の身は自分で守るんだぞ!  調子に乗るな!

    自然は、そう、教えてくれる。


                                                                                                              












    身近な自然が、住宅や工場で埋め尽くされるまで、

    生活の周りには自然そのものがありました。                                                                    
    それは、余りにも膨大にありそうだったから、大事にしなかったもの。                            
    只で無尽蔵に、ある事が当たり前と思って、大いに無駄にしてきたもの。
                            
    『陽』の利益の為に、破壊し、真っ先に無視して犠牲にしてきたもの。                                                          


    それこそが『陰』の本体、

    生命を誕生させ、育む場としての地球の自然です。




    それこそが、『 陰 』 そのものだったのです。 





    以前の五行の火の徳についての記事の中で、


    火の徳である『礼』は、

    邪心、不義、邪悪を鎮めます。

    今でいう、邪悪の焼却、消毒ですね。

    衛生、清潔、正しく命を守り、人の命を崇める思想の始まりです。 



    と、書きました。








    今日は、水の徳である『智』についてです。 



    水の徳である『智』は、

    単なる知識、知恵ではありません。


    知識や知恵や経験の積み重ねが、

    心身に蓄積されて、消化され、物事の道理や本質が見えるようになる。




    それが、『智』です。


    さらに道理や本質に従って浄化され、核心まで昇華されてから、

    物事の(原因)、(その動向)、(その結果)を予測できる

    優れた智恵となったものを、『智徳』といいます。






    丁度、水が汚れや不浄なものを洗い落とす洗浄力のように、

    物事の道理や本質を見通す智恵の力が、

    不当な考えや、無理、偏見、独善の汚れを洗っていくのです。 





    水は、愚かさや無知から来る濁悪性を洗い清める智恵の力を意味します。



    そして、水の性は、どこまでも水平です。

    そして、その水平のまま、どこまでも、流れ入って行きます。

    どんな隙間にも !!です。


    水の形は、器に従う。と云いまして、

    どんな形にも納まって行きます。


    この融通無碍(ゆうづうむげ)な本質こそが知恵そのもの。

    どんな環境にも合わせられる、自己執着のない、囚われない性質。
     


    柔軟性。


    そして、どの器に捕らわれても、水の水平と云う『天性』は失わない。 










    単なる知識や知恵(ノウハウ)では、徳性はあり得ません。




    なぜなら、知識の段階では、善悪どちらにでも加担できるからです。

    知識は、エゴイズムと云う魔性を克服していないからです。

    知恵(ノウハウ)も、そうです。



    それらは、魔性に利用をされます。



    魔性とは、自分の命の永続のためには、他者の命を踏み台にできる事です。 



    これが、『陽』の本質です。

    ゆえに、学問の知識で、人生を考えてはいけないのです。






    ”知”という字は、矢と口です。


    矢を持ち、天に誓う言葉を入れた入れ物が口です。

    矢とは武器、命を懸けると云う象形、印です。


    入れ物に入れた天に誓う言葉には、嘘がない、と命を懸ける。

    それを”知る”と言うのです。

    それが、( 知る )の原義です。


    天に誓う言葉に嘘がない事を、命で保障する。=”知る”なのです。



    嘘がないと命がけで誓える事しか、知ったとは言えない。

    嘘である事を知っても、それは、「知」ではない。   えっ!




    すぐに嘘になるものを、

    そんな簡単に”知った”と言ってはいけないのですね!  あはは。








    ここが、「知」と「智」の違いになります。


    だから、単なる知識を増やす事=学問をする事は、幸せや陰徳とは比例しない。

    そう、反比例する場合が多いのが現実ですね。  

    だから今の学問は、膨大な知る・知識の集積ではあるけれども、

    新しい学説が出れば、嘘になる。



    その知を利用して、

    つかの間の知恵(ハウツー)を売る。

    本にもマスコミにも、ネットにも、

    その類の情報が、あふれかえっているのが、今です。

    これらは、信じて買っても、すぐ不信になります。





    『時』の経過でもって嘘になるものを智恵とは言わない。

    無意識の井戸から智恵の水が汲み上げられなければ単なる雑学です。



    徳性に結びつくかどうか、そこが分かれ道です。

    「智」は、即、陰徳を積む行為なのです。

    そういう意味で、実学と言えるかと思います。



    ついでに、「智慧」は、仏教語です。

    「智慧」は、無意識の領域ですから、

    人間の前頭葉が生んだ意識、理性では、到達できず理解ができません。






    今のこの『陽』の時代において、

    女性こそが、知識や知恵(ハウツー知恵・やり方、方法)を身につけて、

    経済活動と云う陰徳の消費活動に没頭するよりも、


    智恵(道理)の武器を持たなければなりません。



    水は、器に従う、しかし、水平という天性は失わない。と云う事、

    すこし、考えてみてくださいね。




    あ、でも器が小さければ、溢れてしまいますね、、、 あは!


    このように知や知恵があり過ぎるのも、良くない。

    運命学では、水が多すぎる命式も、おばか、と言います。  あはは。

    おろかな知恵=邪知=だます、だまされやすい運になると云う事です。




    邪知に、土の徳『信』が失われる現象=不信が重なると、

    不信が社会にあふれ出すと、人をだます邪知が出てきます。

    (土の徳性、『信』ついては、いつか又、くわしく。)




    つまり、不信が、突っついて邪知を出動させるのです。

    つまり、不安定な大地が、多大な水を動かすのです。



    つまり、大地震が、大津波を起こします。



    東洋の思想は、自然と我とが一体です。

    我の意(意識+無意識)が体、自然が影。






    体が曲がれば、影が曲がる。


    それが、東洋の叡智です。




    影と云う自然は、ただ、単に、目の前に、

    海という、水という、物が有るのではありません。

    地理学で習う地形がそこに、有るだけではありません。



    人間が、産んだ物でも、作った物でもありません。

    人間の肉体を構成する元素が、そこにあり、

    この『陰』の本体の場から、産み育てられたのが、我々人間なのです。



    人間の脳の働きである意識で作った西洋学問の知より深く、

    宇宙の無意識の領域にまで、またがる広大な智恵の存在を、


    どうか、信じて、

    両手の中にすくい上げて、

    飲んでみようと、思ってください。


    それしか、魔性を乗り越える方途は、ないように思います。








    あ、雷が鳴っています。


    自然はライヴですね!



    すてきな夏の一週間を、お過ごしくださいね。





































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    .。.:*:.。..。 思い出の 花 .。.:*:.。..。.: 五行学の木の徳は、『仁』 

    Category : 東洋思想
    那須の秋


    那須の秋 (コスモス)












    今日は、五行の中のひとつ、木の徳・『仁』についてです。


    木・植物の思い出の中から記事を始めたいと思います。


    上下の写真は、那須の、コスモス。


    コスモス






    那須も、大好きな所ですが、


    コスモスには、いろいろな場所での思い出があります。


    ロマンチックな所では、

    奈良の三輪山を望む甘樫ヶ丘のコスモス。



    甘樫丘からは、藤原京跡や大和三山、

    生駒山、二上山、葛城山、金剛山の山並みが一望できるのですが、


    円錐形をした三輪山を中心に、

    巻向山と龍王山が連なる様子を表現した“大鳥の羽易の山”と云う

    言葉があります。

    まるで鳥が大空を羽ばたくかのような連山の姿です。


    いにしえの昔からの自然の面影、

    日本最古の仏教寺院である飛鳥寺の瓦屋根が見えます。







    次は、斑尾高原の近くのコスモス畑。


    黒姫高原、信濃富士の異名を取る黒姫山の裾野に、

    コスモスが咲き乱れ、

    向こうには雄大な山並みと眼下には野尻湖が見えます。



    コスモスは、薬効もあり、

    果実酒は健康の酒として昔から認められていますが、

    疲労回復、老化防止、スタミナ強化、慢性病予防などの効能です。




    コスモスの花言葉は、“乙女の純真”、”乙女の真心“

    まっすぐな純潔系の言葉だわーー!      あはは。

    “調和“、“美麗“、“野生の美しさ”、“自然の美”と云うのも。


    あー、コスモスの宣伝をしてしまったようです。   ほほっ。


    私のH・ネームのcosmosも、その花の名からと、

    宇宙の意味も掛けて名付けました。   




    花ひとつにも、人は、無意識の感触をさぐって来たのですね。

    植物には、

    人の五感の癖や意識の特徴に合わせた相性と云うものがあるようです。

    木にもあります。




    もし、北京に行かれた事があるようでしたら、

    早朝のガスがかかった北京の街並みの中、

    何車線もある広い道路に面した北京の市中の公園で、

    北京市民が大勢で太極拳をしているのを

    ご覧になられた事があると思います。




    こんなスモッグで汚れた空気の中で、どうして太極拳を?

    不思議な感じで思ったものですが、


    後々、自分が太極拳を習い始めて、分かった事は、

    太極拳は屋外でするのが普通だそうです。

    なにの為か?

    天の下、大地の上で、自然の木々の中、その中でも、

    自分の性に合った樹木の下で、

    その樹木の気を享けながら、その樹木が吐き出す気を吸う事で、

    自分の体の中にあるであろう未病を治す。



    それで元の気を養うのだそうです。  元気ですね!



    『天』の気を享けて成長をした樹木の光合成で作り出す酸素を、

    樹木の下で、太極拳を行う事で、全身に取り入れる。

    つまり、それは、

    呼吸法と精神を合わせた筋肉の動きへの集中で、

    動きの緩急による静脈血液の循環による老廃物の排泄、

    丹田(腹式)呼吸で樹木の下の新鮮な酸素を吸い込み、

    動脈へ取り込んで全身へ行き渡らせる。


    まだ、科学の生物学が発達していない時代に、

    植物の葉が、光合成をする事も、

    それで酸素を作り出している事も、解明されていない頃から、

    無意識のありようを洞察して、直感智で積み上げた、

    その理論に、驚くばかりです。



    天の気を享けた

    自分と相性のいい樹木の気を吸いこんで、

    それを正しい呼吸法で自分の気へ合一させる。

    すばらしい健康法ですわ!


    ”気に入る”という言葉は、そこからできたのかな?

    とも、思いました。




    人間より長い生を生きる木々。

    樹木の長寿を可能にする、周りの自然との調和する能力。

    長命な樹木の精気を吸って、自己の体内へ取り入れる人の智恵の歴史。

    人は、植物を食べるだけではなくて、

    植物の恩恵を、あらゆる方法で必要として来た証し。




    自然とは、無意識世界であると同時に、

    自分にとっての大きな客観世界であると言い換えることもできます。






    現象の奥の人間の無意識とつながる自然そのもの。

    =この大客観世界に、しっかり対峙したいという欲求、

    ある面では、溶け込んでいっしょに調和したいという欲求。

    そう! 自然の変化へ自在に乗っかって行こうという欲求ですね。

    この、自然に見事に溶け込もうと云う人間のパワー、


    それを見せつけられたような、圧倒感が東洋にはあります。

    その反対に、

    人間の五感を研ぎ澄ました洗練さが、西洋にはありますね。







    無意識世界=『陰』から、

    この現象世界へ生まれ出たあらゆる生命の現象化=『陽』

    としての顕現化の為に、

    それに必要なエネルギーの源が、

    東洋の五行学(木・火・土・金・水)です。 




    五行学の木が持つ、生命を助ける力=徳を、『仁』と汲み取っていく。

    『仁』は、植物の本来持つ徳性であります。





    ここが、東洋独特の達見と言いますか、

    徳性と云う価値の概念の発見こそが、

    すばらしい東洋における叡智の発露なのです。


     


    人もそうですが、植物も、動物も、生物は、

    その大客観世界において、

    『天』と『地』の間に生きる存在です。





    いのちあるもの=生物全体が、同じ境遇です。


    その『地』上における『天』からの恵みとして、

    当たり前のごとくに、食べて命の糧にして来たもの、

    とって、ちぎり、うばい、痛め苛めるように扱ってきたもの、

    それは、動物が搾取し、強奪する対象です。



    植物は、動物と違って手足がありませんから、

    採って食べようとしても草木は動物のように逃げない。

    逆に大地に根を張って、

    " どうぞ私を食べてください " と

    木が自らの命を動物に捧げているようなものです。



    この手で折られ、果実を盗み取られても

    風に吹かれているだけのように見えます!   







    ただ『天』に従って、『時』を守り、自らの役割を全うしている。

    東洋学では、この命の糧に、

    慈悲に通じる 『 仁 』 の徳を与えています。


    なるほどなぁー、思わされます。








    この観察、洞察力が、東洋のすぐれた点なのです。 
     
    その存在を、『仁』と捉えた東洋人の祖先は、

    たしかに『天』の配慮に、感謝をしていたものと思います。




    地球を取り巻く太陽系、

    その運行そのものが、実は、私たちにとっては 『 仁 』そのものです。

    『 慈悲 』 のはたらきのリズムそのものなのですよ。                          

    太陽系の運行そのものが変化したら、

    地球は生物が住めなくなるでしょう。


    『 仁 』 とは、慈しみ育てる思いやりの心といったものでしょうか。                                                                
                                                       
    愛とは、違います。

    純愛でも熱愛でもない。   あはは。

    あなたを愛す。 君を愛す。 好きなんだ。 とは、違うのね!   


    あっはは。


    きびしい言い方をしますが、

    愛の中には、憎悪の種があります。


    愛の果実が、どんなにおいしそうであっても、

    貪欲にかぶりついていけば、

    中心部分の『我欲』に、ガッキッ!

    と、歯が折れる事もあるわ。  

    あさはかな、おろかな、毒がどくどくと流れている。



    裏切られたら、なによー!  あはは。

    あいつ! くやしい~~! と泣き崩れるとか?

    あはは。 ちょっと下劣すぎます、、、、、し、



    愛と云う概念は、あまりにも『仁』より、低すぎます。

    やはり、人間の想念が、作り上げたものでしかないのです。

    こうであってほしい。(有り得ないからそう思うのです。)

    願いが込められているのには、違いがないのですが、

    せいぜい天界の喜びの範疇です。

    それこそが、キリスト教の限界。

    人類愛を盾に、戦争ができるのです。

    自己の愛を貫く為と言いつつ、不倫ができるのです。


    あー、いやらしい。

    そんなゴミのような話を、山と聞いていますので!    あは。



    とてもとても、とてもとても、

    そんな愛では、『仁』には、追いつかないわ。



    西洋文明は、どこまでも、人間の想念が結んだ虚像です。

    愛も自由も平等も、想念の中にはあるが、実在しない。

    だから余計に、ご覧の通りの実現したかのような飾りがある。

    そう見せたいと云う作為が、あふれている。

    西洋の芸術は、みなそうです。 
     

    そうなりたいのねー。       あはは。


    その欲求が溢れている事を見てとれます。。

    しかし、どこまでいっても実体がない。

    貧乏人が、お金持ちの振りをしている、、、

    かわいそうな、いじらしいくらい哀れです。




    それに比べれば、


    東洋における言葉とは、

    人間の想念を練り上げて作り出した言葉と云うよりも、

    自然のありようを眺めて、すべて受け入れ、

    深く見入って、その実体を表そうとしたものです。


    自然に感謝をする中から学んだ智恵を表します。


    自然の中にある実体性、存在を観た言葉です。


    だから、飾りが要らないのです。

    何はなくても自然の中にあるのだから、

    自信を以って、虚を捨てる。

    うそを見破り、捨てるのです。

    余計な飾りを、省こう。捨てよう。 とします。

    豊かさを持っているから、どう見られようと構わない。

    それで、わび・さび の境地が見えてくるのだろうと...




    それが、東洋の東端、日本で凝縮したのであろうと。


    日本人は、すばらしい国土に住んでいるのですよ。

    空っぽになった魂の中身を詰めねばなりません。



    『仁』というのは、自然の中に観た

    生命を絶対に守ると云う、自然の迫力、 

    絶対的に、 愛以上のものです。





    愛と云う言葉を使って『仁』を言い表すには、

    抵抗がありますね。        ほっー。


    無償と云う字が、必要かも知れません。



    『仁』=無償の愛? それでも足りないわ。


    なにでしょう?




    なにで補完をしたらいいのか?    



    『苦』です。




    『仁』=無償の愛+苦を受け入れる。    でしょうか?





    簡単に“あいしてる”なんて言えませんよ。

    だって、相手の為に、草のようになれますか?   


    草になろうと思っても、

    自分の中にある、ガッキッと音のする種が、邪魔をします。

    草にすらなれないのですから、、、、、



     ほっ。






    わかりやすく、噛み砕いていきましょうね。

    私たちの命は、沢山の命の犠牲の上に成り立っています。                          
    言い換えると無数の命に支えられて生きている。




    その事実を、

    どこまで受け止めているかと自問自答してみましょう。

    それが、あなたの他人を愛すと云う程度です。



    自らの命の依って立つ足元を知らずして、

    感謝を覚えなくして、

    他人を愛すとは、いかなる想念でしょうか?



    あはっは。


    そんな程度の愛が、巷にはあふれかえっています。


    ジャンジャン!! 君だけを~!  君だけを~!

    愛してる~~!!  ジャン!ジャン!! オウオウオ~~!




    歌いまくる音楽も、お金が欲しいだけなら分かりやすいのですが、

      愛がほしいと云うから、ややこしいのよ?      あはは。

    歌うほどの事もない、愛は、どぶの中のカビのように繁殖中でしょ?

     
    西洋化したアホウな日本にあふれる愛、

    その愛の根っこは、どこにあるの ?? ?

    根もない言葉を叫んで?  



    困ったものです。




    一番、分かりやすいのが、

    女性が一つの命を孕み、守り、育てる行為も、

    『 陰 』 の徳なくしてできません。


    効率や経済性という 『 陽 』 の価値観からは、程遠い、

    無限の無駄の上で、

    命という最上のものは守られているように思います。



    『陽』の価値観の社会の中で、

    命を育てると云う事は、

    命が、最上であるとする価値観を優先する事によって、

    ひょっとしたら失うかもしれないさまざまなもの。

    それを、命の優先性の為に喜んで捨てる事ができる。

    それに伴う苦を受け入れる。喜びで受け入れる。

    これが 『 陰徳 』 です。 
     




    『 仁 』は、

    『陰徳』の消費、抹消の結果である『 陽 』 の成果=

    経済性、効率、見栄え、成績、点数、損得などの価値観とは

    合いい入れません。                                                    


    それは、仏教の説く仏の『慈悲』に通じるものですが、

    しかし、『慈悲』そのものではありません。


    “愛もどき”があふれ、

    今のような『仁』が一番欠けている時代に生きる我々が、

    早急に取り戻さなければならない徳性なのですね。

    この徳性が、日本の国土から蒸散して行くならば、

    おそらくですが、その徳性の表出としての制度、

    医療保険制度、年金制度、等が、崩壊していくと思います。



    今、その瀬戸際でしょう?

    制度と云うものは、法律が作るのではなく、

    それを行う人の徳性に因っているのだと云う事を、

    深く考えてほしいと思います。


    すべての『陰徳』が、国土から失われたらどうなるか?

    一度失った徳性を取り戻し、その恩恵を保つには、

    どれだけの時に耐え、苦を乗り越えなければならないのか?

    それこそ『天』のみぞ知ることですが、





    みなさんに、

    東洋の叡智に目覚めてほしいと願っています。


                                        

    大宇宙の運行、自然の『仁』の働きのおかげで

    我々は、生きさせていただいている。


    その事を、深く深く感謝をしましょう。




    よき一週間をお過ごしくださいね。
































                                                   

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    .。.:*:.。..。 思い出の 「大地」 .。.:*:.。..。.: 五行学の土の徳は、『信』 

    Category : 東洋思想
    万里の長城


    万里の長城が続く中國の大地






    中国の古代からの考え方に、

    陰陽学と同じ位に古く重要なものが『五行学』です。



    今日は、五行の中のひとつ、土の徳・『信』についてです。






    土・大地の景色の思い出の中から記事を始めたいと思います。


    写真は、万里の長城を取り上げました。






    ある頃から、

    無性に、中国や韓国へ行こうと云う気になりました。

    東洋思想の発祥は、中国大陸からかも知れませんが、

    体は、朝鮮半島の左端あたり、昔、百済だったあたり、

    その辺が、ルーツなのではないかと勝手に感じています。 あはは。


    前に記事に書いた事もありますが、

    飛鳥時代の前後の戸籍を書きつけた木簡から解る事は、

    中国、朝鮮半島からの渡来人が、戸籍の80~90%を占めるとか。

    その血が、我々日本人の体の中も巡っているのでは?    あはは。




    10~20代にいいと思ったヨーロッパとは、

    求めるものが違っているのですね。


    景色や、風物は、綺麗さを求めるなら欧米諸国かもしれない。

    しかし、ある時から、それはどうでもいいことになりました。

    初めて中国へ行った頃の私の中では、西洋文明の影響は、

    遠い彼方のチリの様な程度にしか残っていなくなっていました。

    東アジアの思想空間が好きですね。


    その東端である日本、ここから、西欧を超える新たな何かが、

    生まれるはずだと、、、

    無意識が、チラッと教えてくれています、、、 ほほ。






    何もないウネウネと続く中国の山々を見て満足。  あは。

    中国へ行き始めた頃は、ちょうど東洋思想へ傾き初めて、

    訳が分かった後でしたので、余計ですね。


    あるいは、韓国の多島海(タドヘ)も。

    普通は、だれも訪問しない多島海(タドヘ)へ行って、

    その景色を知った事は、幸せでした。


    いつか、多島海(タドヘ)も紹介しましょう。





    万里の長城のある大地を眺めて、

    どこまでも広い大地、 何をしても微動だにしない大地。


    間違いなく、『人』は、『天』を仰ぎ、『地』を信じるしかなく、

    『天空』の運行に行動を支えられ、

    大地こそを当てにして、『人』は生きて来たのですね。


    むかし、『人』は、本当に『地』の上に立っていたのですね。

    欲や願いや恐れの為に、命を懸けて、この『地』を駈けたのです。

    それに比べると、

    現代人は自然と触れて、自然に学ぶ機会が減っています。

    自己意識の中の幻想的なシゼンの中をウロウロしている?   ほっ。


    万里の長城からの景色を眺めながら、

    その想像を抱いた時、

    現代が、昔よりも進んで、いい時代だなんて思えなかったな。

    確かに、便利にはなりましたよ!   

    でも、不便だった古代人は不幸だった?

    現代人は、しあわせ?   そうは、言えないでしょう。




    これが、今に至る、

    近代路線を突っ走る先進国への懐疑です。


    明治維新で、近代国家へと舵を切った我が国への懐疑です。



    「民衆」「市民」という幻想のひとくくりで表される私達。

    みんなが、均質で、同じと云う幻想。


    近代的自我を付与されて、『地』から浮き上がった私達。

    知識と意識で捉えた幻想のシゼンの中にいて、

    どこから付与されたのか? 

    六法全書に書かれてはいる、(これも大事ですが、)  ほ。

    その出所もわからない幻想の自由を本然的自由とはき違えて、

    自然を自由にシゼンへ変える権利がある!  あはは。

    垢のようなウソの積み重ねを経て、

    いったい、どこへ足を踏ん張ればいいのかさえ解らない位、

    自己の足場を、自己意識を失っている。

    意識で捉えたシゼンが、我々の周りをすっかり取り巻いて、

    それで生きているのだと倒錯している現代人の我々。




    はっきりと、これは偽善です。


    この偽善のシゼンの中で、子を産み、育てる事は、苦だと、

    『地』・母性は、もうすでに傷つき、嘆き悲しんで泣いているはず。

    偽善を綺麗さに隠して、世界中に宣教して回ったのが西洋です。

    もう、止めてほしいと、願っています。






    それを打ち消すだけの自然があるのだろうか?

    汚れた空気の北京中心部からバスで北東約70km。

    万里の長城の最も観光的に有名な「八達嶺」があります。


    紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一した後、

    各地にあった防壁、土塁を繋ぎ補強をし、長城の原型ができます。

    現存している「万里の長城」の大部分は明代に作られたものです。

    『陽』の作為、長城は、無常の彼方に消えないようにするには、

    ずっと、補強、メンテナンスが要るのですね。

    これが、『陽』の宿命です。 
          



    今日、注目してほしいのは、この万里の長城ではなく、

    万里の長城が建てられた舞台、中国の大地です。



    古代の中国人が、『信』の徳性を見た大地、『土』です。

    古代の中国人の無意識と、

    『土』の大自然の底に横たわる無意識が結びついた時、

    『土』への感謝を込めて付与した『信』と云う徳性。

    (これこそが、『人』と自然が一体であると云う東洋的な自然観が、

    前提になっています!)


    それは、『人』が『地』の『理』を正しいと受け入れたと言う事です。

    これは、その時、古代人が幸せになれたと云う証拠です。

    その喜びの感謝で観た智恵が、『信』の『陰徳』です。



    果して私たちは、古代人のように、

    自分の住む土地へ『信』の感謝をしていますか?



    車や電化製品に、感謝をしている人は多いでしょうが、 あはは。

    『土』、大地へ、ね――?      まっ!

    それだけ自然から遠ざかってしまっているのですね。

    あなたは、テレビや雑誌が知識で説明して与えるイメージを、

    本当の自然と思ってはいませんか?

    それは、自然のイメージ、あなたの中の幻想のシゼンですよ。


    もしか、そうだとしたら、



    『土』の無意識が、我々を守らなくなっているはずですね。




    信徳は、

    仁義礼智の他の4つの徳の中央に位置し、

    他の徳性をすべて兼ね備えているとされています。



    一番むずかしいのですね。 これは!    あっは。


    『人』が大地の上に立つように、

    『人』の振る舞いが、『信』の上に立ってこそ、

    仁義礼智の他の4つの徳が成立すると云うのですね。



    仁も、義も、礼も、智も、身についていない現代人にとっては、

    耳が、痛いですね!     あはは。


    『信』なくば、何も立つべからず。

    『信』もないのに、何を決められる、と言うの?

    立ち往生している民主主義は、もっと不信感を増幅するわ。









    古代人の距離感では、広いと云うよりも、果てしがない大地。

    『地』の徳、それは、土台としての絶対の安定感と、 

    行き詰る事のない無辺の広がり、大地からの豊饒な実りでした。



    長城からは、『天』と『地』しか見えないのです。




    日本は、本州の東端、山口県の下関あたりから東北へ歩いたとして、

    山からすぐ海へ川が流れ下る地形を考えれば、

    日本は、どこでも、土地が途絶えて海に落ちますか?   あはは。




    長城は、登ってみると大変な急な勾配の部分もあって、

    狭い石畳の階段を這うように登った記憶があります。

    その高所から眺める景色は、

    360度、うっすらと生えた木しかない山々が、

    地平線まで続いてあるだけでした。


    じっと目を凝らしても、山以外、何も見えない。

    ここを遊牧民が旅をして、騎馬民族がこの山を越えて攻めて来たの? 


    途方もない――距離を。



    紫禁城もそうですね。

    天安門を通って紫禁城の中へ入れば、


    紫禁城


    その出口は、

    写真のような〇〇殿と書かれた巨大な建物群を幾重も越えた向こう!

    天安門の反対側、ずーっと向こう側まで歩くしかありません!

    どこまで広いの? 

    木陰もない広く固い石畳やホコリっぽい地面が延々と続く紫禁城内を、

    ただ出口に向かって歩いたような気がします。   ほほ。


    そして、 水の気配がありません。

    ここが、どこへ行っても水があふれている日本とは違うわね。

    出口近くに、珍姫が身を投げたと云う井戸がありましたっけ。

    ペットボトルの水が、ほんとうに貴重品でしたね。   



    見渡しても、広い『地』と『天』しかない。








    最後に、東洋の叡智とも云うべき自然と人間観についてです。

    『人』と、万里の長城と、中国の大地、

    この3つを、西洋、東洋のそれぞれの自然観は、どう扱うのか? 
      


    まず、西洋近代合理主義的、資本主義的では、こうです。


    周りの外敵を防ぐ為に中国の人は、万里の長城を造った。

    これだけの山地に防塁としての長城を作った人間の技術は、

    自然の困難さを克服し、自然を凌駕できた建物なのだ。

    例えば東京スカイツリーは、工費は、何百億円。

    そこから生まれる経済効果は、何千億円。  ほほほっ。


    たしかに、その通りです、、、が、

    主・客(人間と自然)の結びつきは無く、各々、バラバラの対極に置き、

    人間中心、人間の五感を通じる意識を中心に置く視点です。

    そして、対峙する対象を、人にとって幾らの得?  

    得なら善だよ!  正義なんだよ!   あはは。

    そうささやくのが、西洋近代合理主義、物質文明の功利主義です。  







    東洋的自然観、世界観においては、

    そんな薄っぺらな意識が造ったロジックは生まれません。


    大地は、自然。『陰』そのもの。

    長城は人工物。 『人』の意識が造った物、『陽』です。 



    『人』の意識が、本当に自然・『地』に勝ったのでしょうか?



    ★ ここは、東洋思想の神髄にあたる、重要な部分です。


    今の万里の長城の存在、形ができた大元は、『人』の意識、

    『人』の支配欲、技術力の賜物と思いますか?




    西洋的な正解は、そうかもしれない。

    これは、一応(いちおう)の正解。

    見える世界での、意識が捉える世界での正解です。




    が、東洋的思考の、もっと奥では、正解ではありません。

    再応(さいおう)では正解にはならないのです。


    どう云う事かと云いますと、

    『人』をして、長城を建設しようと思わせたもの、

    五感の感じた=外敵に襲われる、のを避ける為に、

    意識に、長城を造ろうと、判断させたものは何か?






    分かりにくければ、次のように考えてみてください。


    この大地が、今と違った形、たとえばヒマラヤのような山なら、

    『人』は、長城を建てようと思ったかしら?





    それは、思っても建てられなかったはずです。


    冷厳な気候、急峻な威容、気温、など、、、

    まず、人が近づけない環境条件の中で、、、

    ヒマラヤのような山であれば、それ自体が要塞になるので、

    長城など、必要がなかった。

    意識は、そう云う判断をしたでしょうね。

    つまり、長城は建設されなかったでしょう。



    と、云う事は、どう云う事になるのかな?   



    中国の大地においては、

    外からの外敵、騎馬民族が越えられそうな山の形が、

    『人』の意識に長城の必要を感じさせ、判断をさせた。


    その山の形が、地形が、『人』の意識に長城を造らせたのです。





    では、 その領土を守る欲望の為に、

    長城の完成まで『人』の力を引き出したものは?


    『人』の支配欲と、『天』である気候の諸条件、

    長城が建つ中国大陸の大『地』の様相、ありさまでしょう。




    『人』と、『天・土』が、長城を作ったのです。

    『人』がいなければ、長城はなく、

    この『地』でなければ、長城は建設されなかった。






    『天・地』と『人』が一体で、長城が存在すると観るのですね。


    『天』の時、

    『地』の理、

    『人』の徳、 です。


    この3つが整って、物事が成就する。


    物事が成就するとは、エネルギー保存の法則のように、

    あるエネルギーが、ある場所へ集中移動して事が起こるのです。


    それは、『人』だけでなく、『天・地』だけでなく、

    『天・人・地』が、揃って、事が起こると云う観方です。




    これは、先の記事で取り上げた災害の外因と内因の関係に

    通じるものです。

    東洋の叡智の深さは、自然・『天・地』と『人』を、

    バラバラには、観ないのですね。


    そこから、敷衍すれば、我 = 宇宙 です。



    我を主体に観れば、

    我を苦しめる環境も、

    我を守り恵む環境も、すべて我から出ている。とします。



    我から出て来るとは、言葉が、そうですね。

    現代人の言葉の重みが無くなっていると言われます。

    言葉の重みが無くなるとは、『信』が失われる事です。

    『信』とは、『土』の徳ですから、、、


    大地は、何があっても動じない安定感、信頼感を失い、

    命を受け止め育む豊穣さが、大地から消えると云う事です。





    『人』の集まりである社会に『信』の徳がなくなれば、

    それを支えている『土』大地自体が、不信の的となり、

    『人』が不安を醸成すれば、その社会を見放すと言うのです。

    その大地が動きます。





    まさに、首都圏直下型とか、

    東海、東南海とか、地震の予想が、不安を醸成しています。


    それらの意識と知識が作り出す情報は、情報です。

    防災の準備は怠らずに、

    無駄な不安を膨らませないようにしましょう。

    不安が実現してしまったら、困るわ。    あはは。



    心に『信』を、『地』への感謝をもって、

    大地が驚くほどの !   ほほっ。

    我が家の中に『信』の大地を築いてくださいね。


    あなたのご家族の依って立つ大地の徳によって、

    あなたの大事なご家族が守られますように...

    祈っております。


    よき一週間をお過ごしください。






























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    【 東洋思想 1 】  東洋思想の源流としての ー古代インドの宇宙観 ー

    Category : 東洋思想
    天神平からの谷川岳

    谷川岳


    昨年の12月4日の記事に載せた写真のロープウェイで天神平まで登って見た谷川岳
    天神平からは、約2時間半で谷川岳の頂上へ。

     






    新しく【東洋思想】シリーズの記事を書いていきます。

    なにかの折々に、あなたを守る智恵になっていただければ、、、

    今日は、東洋思想の源流としての ー古代インドの宇宙観 ー




    今、慣れ親しんでいる? 現代にあふれる西洋的思考と全く違う見方を

    感じさせてくれると思います。

    今の西洋的思想の中に埋没して、二元論や物質文明を普通だなんて!  

    思わないでくださいね――――。      あはは。






    もっと東洋のスケールは、大きいのです!      あはは。

    、、、と、思っていましたら、、、


    ちょうど、10日前の新聞で、(4月25日付け)

    国立天文台が、米ハワイのすばる望遠鏡を用いて、

    最古の「原始銀河団」を見つけたとありました。


    127億2000万光年先に !!

    現在の学問上、宇宙は137億年前に誕生した事になっていますから、

    それから10億年しかたっていない初期宇宙に、

    すでに銀河の集団ができていた事を示すものです。





    これは、もうすでに、我々以上のハイレベルな生命体がその銀河に

    いたかもしれない?  今もいるかもしれない?

    そう、きっと居るに違いないわ――

    地球人よりエゴをもう少しカッコよく克服している?  ほほ。

    などと、考えさせられるようなスケールが、

    古代インドの宇宙観にはあるので、つい想像してしまうのです。





    古代インドの宇宙観は、壮大です!


    仏教の経典に出てくる三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)というのは、

    古代インドの全世界と云う意味で、仏教のひとつの宇宙観です。 



    まず、ヒマラヤ山脈のような高い山を中心に、月、太陽、四洲、六欲梵天、

    こう云うものを包摂したものを小世界といいます。= 地球的規模


    小世界が1000(あるいは百億)集まったものが小千世界といい、

    小千世界が1000集まったものを中千世界といい、

    中千世界が1000集まったものを大千世界と呼びます。


    大千世界とは、地球の様な小世界が、
    1000 × 1000 × 1000 = 1,000,000,000 (10億)集まったもので、


    三千大千世界は、それが、3000あると云うのですから、

    3000 × 1,000,000,000 = 3,000,000,000,000 (3兆あるのです!)


    また、驚くのは、

    宇宙には、この三千大千世界が、無数にあると言うのです! !!

    そんな大胆な――!  

    地球の様な星が3兆ある世界が、無数にあるって ?!

    空前絶後??      あはは。


    初めてこの事を読んで知った時、えっ―――!と

    もう、空想の世界へ入るしかなかったのですが、、、

    空想をする事も、出来ないわ――。

    どうして、そこまでの数を考えつくの~? と、   あはは!


    インドは、現代でも天才的な数学者が多く出ていますが、

    それらとこう云う時空観のセンスは、深く関係があるのでしょうね。 ほ。




    望遠鏡もない、肉眼で見えない宇宙の奥の端から端までの事を、

    よくぞ、こう云う風に宇宙の本質を掴まえたものだと!

    逆に、意識で導き出そうとするよりも、無意識界の直感や洞察の方が、

    早く、効率よく、その真理に到達したのではないか?

    これは、

    東洋的叡智の演繹法が、西洋合理主義の帰納法よりも、

    優れていると云うことであり、



    現代科学が行う帰納法の導出関係は、蓋然的に正しいだけだが、

    東洋式演繹の導出関係は、前提を認めるなら絶対的、必然的に正しい。

    と云う位の違いがあるのです。





    科学的に解かっているのは、なにしろ、現在の私達が知る宇宙は、

    太陽系は、銀河のはしっこ、

    その銀河も、この宇宙には、無数にあるようですし、

    いま現在、学者が必死になって、地球と同じ生命体が存在する星を

    探し回っている状態です....。  ほほっ。


    仏教で、読んだ限りにおいては、

    どうも、地球上に生まれた我々は、前世によろしくない事をして、

    この星に来たようなのです、、、、、、  あはっは。

    地球と云う星は、そう云う人の寄せ集めでしょうか??  あはは。





    冗談は、さておいて、

    ご覧の様に、仏教では、

    この宇宙に銀河のような星雲が無数に存在すると説かれています。



    ついでに、仏教の世界の数の単位は、もっと驚く事ばかりです。

    紹介しておきます。

    先ほどの 兆は、10の12乗(0が12個つく)です。

    スーパーコンピューター京” 御存知ですね。


    京(けい) = 10の16乗、 100,000,000,000,000,000

    あと、垓(がい) = 10の20乗、 予(じょ) = 10の24乗、

    穣(じょう) = 10の28乗、溝(こう) = 10の32乗、澗(かん) = 10の36乗、

    正(せい) = 10の40乗、載(さい) = 10の44乗、

    極(ごく) = 10の48乗などは、書くと、 こうなります!

    1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000



    これ以降は、恒河沙(ごうがしゃ) = 10の52乗 、

    阿僧祇(あそうぎ) = 10の56乗 、那由多(なゆた) = 10の60乗

    不可思議(ふかしぎ) = 10の64乗、 無量(むりょう) = 10の68乗

    大数(たいすう)= 10の72乗などです。

    小数点以下は、野球の打率を何割何分何厘何毛と言いますね。

    毛 = 0の-3乗、0,0001 糸(し) = 10の-4乗、

    惚(こつ) = 10の-5乗、  微(び) = 10の-6乗、などで、

    10の-20乗以下には、虚、空、清、淨 という仏教用語が出て来ます。


    ・これらを時間を表す数字としたら、もう永遠としか言えないのです。

    ・空間を表す別の経文の語句(今回は省きます。)もありますが、

    それらも、それこそ、どこまで広いって云うの――? と思う位!

    無辺(きりがない、端がない、)と云う概念なのか、

    人の思考を超えた不思議な空間の存在を説いています。 



    驚くしかない、これが、紀元前、3000年も前の東洋智です。


    東洋は、もともと目先だけを見ていなかったのです。


    古代インド思想に淵源を持つ仏教の宇宙観が嘘ではない事を、

    21世紀の科学が、ほんの少しですが証明しています。

    これから、もっと解明されていくと思っています。



    それは、現在に生きる我々の時空観に影響し、

    あらゆる価値観に影響を与えるべきです。



    西洋から、東洋的へ、パラダイムの転換をしなければ...。




    この地球上の限られた資源は、地球上みんなの物です。

    経済発展と云う大義名分の為のお金を廻す為の材料として、 

    資源の無駄使いや消費をやめさせなければなりません。

    私達も、止めなければなりません。





    後進国と呼ぶ他国の人びとを、安賃金で現地雇用をしたパートに

    鯖の小骨を一本一本を手で抜かせて、身を元通りに接着剤で合わせる

    仕事をさせた代物を、日本は国内に持ち込み消費者に売ります。

    そこまでしないと魚を食べない子供が多くなっているのですね。

    我が子には魚の小骨がのどに刺さらなくて安全だわーと、

    云いつつ安価で買う日本の私達がいるのですね。


    同じアジアの安賃金の縫製工が、懸命に縫い上げた安価な衣服を買って、

    日本人の自分が得をしたような気がして安心する。

    日本は、経済力があるから、こんな恩恵が手に入るのだわ!


    これでいいのかなぁ-――?

    なんだかなぁ――――?


    イイわけありませんよ!

    後進国と名付けた失礼な格差の存在の上に、あぐらをかいて、

    どこかで、日本が先進国でよかった! ? 

    他人を犠牲にした我が国の繁栄、幸福度、感覚の満足の追及、

    そんな優越感が、どこまで、いつまで? 保てると思うの?



    今にきっと、立場がでんぐり反ってしまう。

    そうでなければおかしいでしょう?



    我が国の中で、みんなが平等、男女平等と云うのなら、

    地球上みんなが、とにかく形だけでも平等なんだって、

    それを実現する為に、自分の力に見合った処まで、

    自分の満足度を、落してみたらどうでしょうか?

    そうしないと、脱原発もできませんよ。

    そうできないのが西洋合理主義、物質文明、功利主義です。

    これらは、欲望の為の合理だからです。。



    自分が、一番得な分け前を手にする合理です。

    『陰』を無視しているから、厚顔無恥で出来るのです。


    しほんしゅぎとはしれたもの、獲物の取り合いですわ!


    つまり、常に貧しき国の為と言いながら、踏み台にして

    先進国に利益を廻させる都合よく作ったロジックでしかなく、

    西洋の云う自由も平等も、博愛も、愛までもが、

    意識の中だけの言葉、観念の産物だと云う事に、

    観念の中だけにある = 現実には実現しない。

    はやくに、気が付かなくちゃ。。



    国が、ボーボー(貧乏、亡国)になる前に。 あはは。



    このように、思想の光の色を変えさえすれば、

    問題点が、ありありと浮かび上がって来るのです。


    どうも今の資本主義では、具合が悪い。と、

    そうなって行くのです。

    東洋の思想の光を当てれば、ですよ。   ほほ。

    どうも、西のおしえを根底にした経済学は宜しくない。

    だれか、東の経済学を築き上げる天才はいないのかしら?


     


    しかし、誤解を恐れずに言いますと、


    大学に行くと、西洋に染まって、『陰』が分らなくなるようです。



    この点は、安岡記念館の先生も言っておられました。



    『徳』性の価値観が消えて、(価値観と云っていいものかどうか?)

    損得、権利、効率の価値観の世界に入ってしまうからです。。 。



    思想は、左様に人を変えるものです。


    自己のDNAに全く関係ない異種の文明を、

    意識の表層部分に、道化のように、おしろいのように塗りたくって、

    過去から現在へ、そして未来に亘る東洋の生命観の存在を忘れている。



    その当然の結果として、

    近代的高学歴の人ほど、自分の命はこの世で終わり、

    という考えを持っています。

    生まれ替わるとかは、恥ずかしい幼稚な迷信だと思っているのね。

    大学の知識で説明できない事や、学ばなかった事は、ウソだと思うのね。

    知識で説明できないものを信じるなんて、

    無知で恥ずかしい事なんだ、と云う虚勢を

    どこかで身に付けてしまっているのね。



    自分の命が、どこから来たのかと云う事に根本的に無知なのに、

    知ろうとしない。


    常にナンバーワンである事を、目指さなければならない思想の中で、

    偏差値や点数で、知っているか? 知っていないのか?

    と常に比較される事におびえて自己を隠す事に慣れ、

    近代的自我と云うペルソナをかぶって、

    本当の自分を隠す癖が付いているから、

    知らない事がある自分をさらけ出せないのですね。



    あわれ ! 常にペルソナをかぶって本当の自分を隠しているから

    自分に、知らない事がある事すら気が付かないのでしょう。

    まして、学問体系は、無意識を排除していますから、

    説明できない事は、無視をすればいいと思っているのでしょう。

    自分の命が、どこから来たのか?

    と云う事を無視するのですから、

    心からの人としての感謝と報恩が湧きあがって来る訳がなく、

    その心の存在すら忘れている姿です。




    それが人として一番大事な心を失う事だと気づいてない。



    なんと、現代文明は可哀想な人間を作り上げているのだろう。

    その他大勢の人達と共同墓をつくろうとか、

    どうせ子供は看ないから、子供を当てにしない事が子供の為とか、

    そうする事が、親と子供の自由な関係だとか、

    悩まずに済む勝手な都合のいいロジックが大流行です。

    そう割り切る事が、さもカッコよい生き方のように振る舞い、

    知的な開放された人間だと思ったり、

    それがお互いが自由を獲得した証拠だとか、

    もういろいろ、いろいろ、感情を抑圧して、

    自己弁護をしながら、自惚れて、逃げて行きますね。 あはは。



    本気で泣けないのです。

    本気で望めないのです。

    弱虫になっていますね。


    生命に感謝をできない家系に子孫が生まれる訳がない。

    自分の生命がこの世で終り。と信じている人の処には、

    もはや次の命は生まれる必然性がないのです。







    そ、、、子供たちは、ゲームに夢中です....    あっ。

    なぜだか、分かりますか?

    子供たちの足元には、何も学ぶべきものがない。

    彼らが、ワクワクするようなものが、転がっていないのです。

    クダラナイものしかないから、ゲームでもしようか?



    本来、子供たちは、森の中や、暗がりが恐いけれど好きです。

    ワクワクするから、、、

    それが、無意識の感覚なのです。


    それが、どこにもない。身近にないから、、、、、

    そして、

    あるのは光に照らされたショウアップされた額縁の中の世界です。








    自国の歴史を、忘れた民族は滅びる。

    自国の神話を、子供に語れない国は亡びる。




    これも、胸にグサッと来てくださいね!    あっはあ。

    学校教育の教育現場で、将来の国を支える生徒を前にして、

    教師が、国旗掲揚の時に起立をするか、君が代を歌うか、歌わないか、

    で裁判をする国です!


    あきれた教師たち、そして、破壊されつくした『孝』。






    これらを尊重する事が、すべて『孝』の徳なのですよ。





    口先にあふれる『愛』ではないわよ。    ほほっ。




    まず、大人から

    自分のDNAの奥にある民族の故郷の思想を復活し、

    東洋的な永遠で広大な無意識の世界を、子供たちへ感じさせて、

    自信を持って、話して行かなければいけませんね。



    そして、今の日本における思想がどういったものなのか?

    鬼の思想を信じれば、鬼の餌食になり、

    悪魔の思想を信じれば、悪魔の手下になります。

    ごまかしの神を信じれば、ごまかされているのが分らなくなります。

    そう云う思想の浅深、高低を見分けられる目を養いたいものです。




    と云う事で、

    クサい近代合理の論理性を、なるべく排除しながら、 あはは。

    東洋思想のすべて網羅しようなんて到底無理ですので、、、


    すこしづつ、すこしづつ、

    私の直感による粗々(あらあら)しい独断的東洋思想の断片を、

    気が向くままに記事にしてみました。


    多少、むずかしかったでしょうか?   ほっ。

    ご了承ください。



    とにかく、最後までお読みくださった事に、

    深く、感謝申し上げます。

    では、あと、2回つづきます。


    GWのお疲れ大丈夫ですか?


    よき一週間をお過ごしくださいね。




























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    【 東洋思想 2 】   東洋思想の源流としての ー古代インドの思想史 ー

    Category : 東洋思想
    今のインド風景     村の薬局とよばれるニームの巨樹





    インドで、村の薬局とよばれるニームの巨樹


    森林インストラクターのブログからお借りした写真です。









    今日は、東洋思想の源流としての ー古代インドの思想史 ー




    インドと云えば、やはり現在でも宗教大国です。


    これは、中国と同様に、3~4000年の伝統があります。




    今の日本の我々のDNAの中に息づいて共鳴するものがあるのか? 








    今の世界の動静を見れば、、、

    西欧から始まった、近代化(★注1)下記を参照が、

    ギリシヤから端を発した経済危機でEUが行き詰まりを見せている現在、

    アメリカも膨大な軍事費を削減し始めた現在、


    東アジアの中国、それに続いてインドが、

    長い深い眠りから覚めたように『陽』の世界=現象界で、

    力を付けて来ているのは不思議な感じがしています。


    仏教は、西から東へ、

    西のインドから中国へ、それから日本へ伝わりました


    近代化の現象『陽』の波は、その逆、東から西です。

    日本の衰弱が見えて、中国が栄え、次はインドです。






    これは、運命学から私の判断ですが、

    西洋から近代化と云う『陽』の嵐が吹き荒れて東端の日本を襲った。

    そして、日本が過去から積み上げて来た民族の『陰徳』を消費させ、

    一時の炎が燃え上がったのです。

    もうその『陰徳』の底が見えて来た頃、

    次は中国の過去3000年の『陰徳』へ飛び火した。

    しかし、


    中国は、自国の『陰徳』を共産主義の『陽』で断ち切った国です。





    そして近代化の『陽』は、飛び火となって、

    インドの積み上げた『陰徳』へ引火して移って行くでしょう。

    これから当分の間は、


    インドの『陰徳』が燃えて、強い『陽』の炎が盛んになるでしょう。 







    近代化(★注): 歴史関係の近代の区分は、 

    明治から第二次世界大戦の敗戦までの間で、

    これ以後を「現代」とみます。

    それゆえ、ポストモダン、超近代、等の言葉も生んでいます。 

    しかし、このブログの中では今まで通り、

    現代と云えども近代化 = 無意識を排除した意識中心の思潮の

    真っただ中、その延長上であると云う認識をしています。

    なぜなら、現代は、未だに近代の誤謬を乗り越えていないからです



    この場合の近代化の思潮の定義は、人間を自然から隔離した思潮です。

    我々は、意識によって作られた世界の中に閉じ込められたままです。


    それは東洋の『陰』や、

    現代心理学における無意識の領域や、

    母権までをも否定し、排除し、存在しないものとして扱い、

    その枠組みの中で、すべての他の存在を規定する『陽』の思想です。

    我々は、今も、この見当違いの狭い囲み、無常の世界の中に居ます。



    つまり、その思潮が生きている時代を、このブログでは近代と言います。

    現代は、近代を乗り越えていない。 収束もさせていない。












    では、本記事、古代インドの思想史です。 




    おおざっぱに行きますが、5000年も前の思想の中に、


    ★ あなたのDNAに響くものがあるのか?

    それが、なになのか......

    さぁ、それを探っていきましょうか....。






    古代インドと云うのは、今の中国との国境・ヒマラヤ以南

    パキスタン、ネパール、チベット、ブータン、スリランカ、バングラデシュ

    を含むと思ってください。


    前2500~前1800、 これは、今から 約5000年前です。

    インダス川西岸でインダス文明は、

    世界の四大文明の中のメソポタミア文明と同じく、

    多くの都市国家において栄えていたようです。

    驚くべき事に、これらの都市国家は、

    すべて都市計画による綿密な計画と計算で建設された街でした。

    具体的には、上下水道の完備は当たり前、

    ダスターシュートも全住宅に備わっていたようです! 


    ( 現代の方が、まだまだって云う状態ですね。)


    ヨーロッパの古代都市国家では、街の中心に神殿が配置されています。


    インダス文明は、街の中心に神殿が置かれていなかった。

    さぁ、何を町の中心に置いた設計になっていたのでしょうか?


    ・ 都市の中心には、巨大な公衆浴場、、、つまり沐浴場を作った。

    身を清める為ですね!

    身を清めてから、神々に祈りを捧げていたのであろう、、、

    今のインドでも、ガンジス川で沐浴する風習が続いています。

    この精神は、日本の神社の手水の作法や、

    伊勢神宮を参拝する前に、五十鈴川の御手洗場(みたらし)で身を清める

    のはこの名残です。

    日本人の清潔好き、お風呂好き、

    そう、なにかあったら、一風呂浴びて! と云う感覚です。

    文明のルーツが同じなのでしょう。

    これは、体臭を香水で消す西洋人とは違います。


    古代インドの沐浴は、単に身体を清潔にする為ではないのです。

    ガンジス川なども死体を流したりしますから、

    塩素殺菌した水道から見ると汚水ですし、不潔な川になるのでしょうが、

    宗教的には、その川の水が、我が身を清める、と云う事になるのです。


    ここで、ちょと考えてみたいのは、

    ・ 「浄める」と云う感覚が当時の人にあると云う事は、

    反対の「穢れ・ケガレ」と云う感覚があると云う事です。

    いわゆる「晴れ・ハレ」と「穢・ケ」の意識を強く持っていたから、

    生活様式の中に、上下水道を完備したり、ダスターシュートを住居の中に

    作ったりしたのでしょうね。

    ハレとケガレを区別する意識が強かった。 

    これは、古来の日本から現代の我々も受け継いでいます。

    さまざまな場面での晴れ着と、晴れの食事。 
     

    又、清潔の為と云うよりも頻繁に手を洗いウガイをする国民です。

    ウガイは、どうも日本だけのようですね。     あはっは。

    インド人も、食事は手で食べますが、

    食事の手と、トイレで使う手は、はっきりと区別をします。


    ・ インダス文明の遺跡からは、印章が出ます。 

    サインが習慣の西洋とは違うのですね。


    インダス文明は、前1800年頃、今から3800年前に滅びました。

    1200年位続いたと云う事です。


    その後は、中央アジアから南下して来たアーリア人のインド侵入です。

    このアーリア人は、実際、どこから来たのか解かっていません。

    前1000年頃、アーリア人は、ガンジス川流域に辿り付きます。

    その間に多くの小国を作りながら、自然崇拝の歌を詠いました。

    それが、厳しい自然環境を神々として讃える歌集「ヴェーダ」類です。

    このヴェーダで神々を讃え、

    儀式を執り行う僧侶階級が生まれます。

    バラモン階級です。

    バラモン教の成立です。

    彼らは神々に仕え、祭礼の方法を独占し、

    次第に特権階級になって行きます。

    こうしてバラモン以外の3つの身分も含めて = カースト制が成立します。

    更にその下が、四つの身分の中にも入れない不可触民 です。

    = 触るとケガレがうつるから触ってはいけない人々と云う意味です。

    日本にも同じような身分差別が過去にありました。 


    ――現在のインドでは、憲法でカースト制を廃止しても、

    結婚も就職も学校もカースト制度の影響が厳然として存在しています。


    最高の身分として神に仕えるバラモン階級の中から、

    儀式、祭司中心のバラモン教に飽き足らずに不満を持つ人々が出て、

    密林の奥深くに入り難行苦行をして此の世の真理を探ろうとします。

    世間を捨てて、髪を剃り、家を出る。仏教の出家の容です。


    ヴェーダの最終部として成立したのがヴェーダの極地と云う意味の

    「ウパニシャッド哲学」です。

    ウパニシャッドの原意には、1.ウパ(近くに)ニシャッド(座る)

    =師の近くで伝授される教えの意。

    2.あるいは、ウバ(近くに)ウバース(存在する)と云う意。

    3.あるいは、AをBへウバース(存在する)すると云う概念、

    身近な現象であるAを儀式に用いて、それを支配する事によって、

    それとウバースされたBに影響を与えようとする事の意。

    などがある。


    その成立年代は、仏教成立以前 ~ 16世紀にも渡ります。

    内容は、初期、中期、後期に分けられ200編に及ぶものです。

    バラモンが執り行う儀礼行為が、神々すらも支配し,

    何らかの効果をもたらすと考えられていたのです。


    ウパニシャッド哲学における、この宇宙の真理についての特徴は、

    宇宙の根本真理・「ブラフマン」が存在するとします。

    ブラフマンが、中国人に、ボンと聴こえたのかどうか ?  あはは。 

    中国の漢字で「梵(ぼん)」または、梵天と書きます。 音訳ですね。




     
    ウパニシャッド哲学が、仏教の思想へ与えた影響について、



    ・「輪廻転生」です。

    我々は、車の車輪のように生と死を永遠に繰り返す。

    前世、今世、来世の三世の生命観に立っています。 



    が、当時の人にすれば、

    生まれ変わる事はうれしくなかったはずです。

    生まれ変わっても、此の世で飢饉や疫病にかかって苦しんで死ぬ、

    健康なら戦争に狩り出され、どうせ死ぬ、

    戦乱がなかったら、地震や干ばつの天災に遭って死ぬ、、、 


    なんとなく、今の日本人には分るような気がするでしょう?  あはは。

    ”あなたと一緒に、また、生まれ変わりたい。”なんて

    言っていられるのは、余程、悩まない体質なのか、

    今の時代が、物質文明のけっこうな時代なのですよ!  あはは。





    どう生まれ変わるのか ?

    ・生きていた間の行い = 「業・ごう」で決まる。


    前世の行いの結果によって、来世のカーストの身分が決まる。


    希望もあるにはあるのです。   あはは。

    正しい行いで生きて、次は上のカーストの身分に生まれよう!


    でもさ――、できるなら絶対に~ 生まれ変わりたくない!   

    此の世になんか、戻って来たくない!   あはっは。


    そのように生まれ変わる輪廻から外れる事を = 「解脱」と云います。


    ブラフマン(梵天)に達すれば、二度とこの世に戻って来ないとされ、

    だから、もう二度と死ぬ事もないとされ、不死を得たとされました。





    当然ですが、ウパニシャッドの修行者たちは、

    宇宙真理の「ブラフマン」を自分のモノにして、

    心と体が一体である自分の中の真理「アートマン」を掴みたい!

    と思ったのです。     


    その為には、お金持ちだからと云っても役に立たないし、

    美人の奥さんがいる事も何も助けにはならないのですね!   あはは。

    逆に、その中で自慢したり、喜んだり悔しがっているのが関の山。


    宇宙真理の「ブラフマン」と自分の中の真理「アートマン」の

    合一( 解脱 )が叶うならば、

    そんな浮世の事は、どうでもいい!!  あはは。

    クダラナイ直ぐに崩れる喜びの天界なんかに、

    執着しちゃいられない!!  なんとか抜け出そう!  ほほほ。



    あ、これには紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立した

    人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の4つの時期

    に分けた古代インドのマヌの法典の人生観があります。

    結婚もし、子をなし、財産を作って、もう役割は終わった年齢になって、

    感覚的な欲望や感情の右往左往から離れよう! と、

    自己の所有欲を否定する為に森へ籠った訳です。   

    そこからが、「林住期」「遊行期」です。


    これらが、いわゆる出家の原型、出家の意味の始まりです。


    一般に修行と云えば、楽を離れるので苦行になるのですね。  







    ここが、西洋と東洋の根本的な違いです。


    ・・東洋は、心と体がバラバラではなく一体ですから、

    頭の中で真理を観念するだけではなく、心身一体の修行をします。


    ・・西洋においては、真理は自分の外にあるのです。

    意識と云う五感で集めた材料で、真理を観念するのですから、

    つまり、五感は外へ向いていますから、外にある事になる。



    西洋は、元々の二元論から、精神と肉体はべつべつです。

    真理は観念している精神の中にある。

    精神とバラバラである肉体の中にはないのです。

    ですから、西洋哲学は思惟するもので、肉体を使って掴むものではない。


    たとえると、

    まぁ、気象観測をしているようなものです!   あはは。

    いろんなデーターを集めて机上で、紙面で真理を探そうとする。

    気象観測で、気象現象を起こしている真の原因が掴めるのか?

    ある現象の原因は、そのまた別の気象現象だったりして、、、、

    せいぜい、説明くらいのもしかできないでしょう?

    それで、根源の神が見つけられるのかなぁ―――???

      
      ユダヤ教やキリスト教は、それを神と云うのです。

      だから、神がこの世を、天地創造したと言うのです。

      じゃ、この世の外に、神がいる事になります。

      この世と、神も、バラバラです。

      ( 観念が作った、観念の中の神でしかない )

      仏教にもあります。架空の仮の仏群です。

      釈迦が、その時だけ説いて、実体がない仏達です。

      そして、

      プラトンにしたら彼のイデアなんでしょうね。 

      だから、憧れから、どうして、神へ近づいて行こうか?

      実体を掴むためには、どう向かって行くのか。 

      と云う捉え方です。

      神は、手さぐりで探しながら、向かって行く相手なのですね。


    自分の外に求めるのです。しかも、そこには実体はない!
     
      
    そう、考えたのです。 観念的と云います。

    強いて言えば、頭の中、前頭葉の中にあるのですね。 神は、、、 



    つまり、西洋文明は、神からして、

    人間の大脳のシナプスが作り上げた作品です。
     


    と、云うのは、西欧の自然は美しく神秘に満ちているけれど、

    地球は、あまねくどこでも命を育む場ではあるけれど、

    西洋の人びとは、『陰』を秘めたすばらしい人々だけれど、

    キリスト教の教理自体に、『陰』を感じる事ができないのです。

    だって、自然 = 神ではないのです。

    なにしろ、自然も神が創ったモノだそうですから、、、  はは。


    じゃ、神は、無意識の外にいる事になりますね!

    無意識の外?   あはは。 それは意識じゃないですか!!


    ならば、自分の意識の中であれこれ考えて生まれる観念に頼るしかない、

    と云う事になりますね。


    だから、西洋の人びとは、飽き足らず、

    次から次へと、...ism、...主義、を生み出すのではないか?


    つまる処、それは、

    西洋は、自分の観念の生みだした意識から出る事ができないのです。 

     




    翻って、現在の我々の足元を見れば、

    この近代化以降の西洋文明の中で、

    今の世間で一人前にやって行こうとすると、ガクレキ?

    優秀な前頭葉が必須、、、、これが、大前提のようになります!

    学歴、点数、専門性が、、、人のしあわせの必須条件のように?

    世の常識になってしまって、我も我もと、大学、院へ行くけれど、

    皆、それで = しあわせ、ですか? 


    そもそも、そんなに大卒、院卒の人数は要らないでしょう?

    だから、大学卒、院卒でも、就職先がない。


    だいたい、おかしいと思いませんか?

    本来は、人と生まれてしあわせになるのに、

    生まれた状態で、必要なものを持って生まれているはずです。



    運命学では、持って生まれた運で道理に合って生きるのが正しいのです。




    人として自然であれば本来いいはずなのです。

    その為に、外には五行がある。

    その恵みがあるのです。

    それを、

    どうしてネコもシャクシも、ナンバーワンを目指して?

    その流れの中でおぼれながら?

    その流れが、どこへ向かって行っているのか? 分っていない。


    まったく、それが今の文明です。( おそろしい~事です。)

    なぜ、おそろしいのか?

    自然を無視した人の前頭葉(意識)主体のこの現象重視の思潮は、

    次、どう云う駒が、どう出て来るバクチなのか?

    だれも経験した事がない賭けなのです。


    意識が改善すると言って開発したあらゆるメソッド、

    科学的な善意の研究の結末は、果して善果を導くのか?


    あまりにも、軽薄に物事が運ばれている。

    おそらく、これは、創造、 もっと深刻な解決不能な状態の創造でしょう。

    科学が無視をして探れない領域が余りにも広過ぎて、、、

    遺伝子組み換え、卵子提供の不妊治療、などなど、、、

    原発もそうです。

    西洋の意識が作り上げた『陽』の原型そのものです。

    人の欲が、命を殺戮する。それを叶えた象徴の『物』です。

    私の想像だけならいいのですが....。

    この『陽』の殺戮から、どうしても『太陰』を守らなければいけないわ。



    その回復は、自然への懺悔しかありません。 そして、


    自然の真理を畏敬し、

    自然と、人間の欲望の調和に重点をおいた東洋の叡智へ戻るしか、

    東洋の復権をするしかないように思います。








    話を、西洋文明へ戻しましょう。   ほほっ。


    真理は外にあるものだから、どんなものなのだろう、と

    想像を膨らますしかない。

    外を探す。目で、耳で、手で、鼻で、しかし、外にない。

    空や光を見て、あれが神かと思うような?   ああは。


    ネットでも神に憧れる気持ちが、あふれていますね!

    しかし、真実は、真理は、そんな形をしていないものなのですよ。

    逆に、自分の中にあると分からないから、

    西洋は、

    あんなに綺麗な、装飾的な芸術を生むのでしょう。

    音楽も、華奢で華麗で、まず、綺麗です。

    ドラクロアの絵でも、むごい場面ですが、表現は綺麗です。

    真理は、こうだと掴めないから、飽くまで飾り立てます。


    東洋は、反対に、

    自然そのままを先生、師匠にして自然のありようを感じ、

    自分の中のアートマンを探せばいいのであって、

    外側は、自然のまま、そのままの方がいいのです。  あはは。

    自分の中に、宇宙と一体になれるものがあるとすれば、

    自然は、そのままの方がいいのです。


    なんとなく、リラックスできるでしょう?  

    だから、なるべくと云うよりも、逆に飾り立てない!

    簡素と云うのか、素のまま、自然を変えないまま受け入れるのです。

    茶道のワビやサビ、できるだけ人間の欲が作ったものを排除し、

    捨てられるものは捨ててしまう、

    残るものが、真理なのです。

    チャラチャラ、ぎらぎら、ひらひら、は要らない。  あはは。

    静寂です。


    だから、蝉の声や、井戸の水の音が響くのです。   ほほ。





    東洋思潮の独自性、

    生まれ変わりの車輪から外れる = 不死の命を得る = 解脱の為には、

    宇宙の真理(梵)と、個人の内面の真理の合一(梵我一如)を得る。

    この思想は、

    ヨーロッパの哲学者、ショーペンハウエルなどに影響を与えています。





    梵我一如を、簡単にいいますと、

    宇宙や自然は、自分の外、遠い彼方へあるだけではなく、

    自分も、この宇宙の中の一部と捉えるのですね。

    だから、宇宙や自然にある根本真理が、

    その一部である自分の中にもあるはずだ。

    気が付かないだけで、自分の中に宿っているはずだ。と云う事です。

    どこか宇宙の果ての遠くに真理は、ある訳ではなく、

    自分の中に真理はある。と云う事です。

    当然、自分の中と云うのは、心と体が一つと観る自分です。



    今から3000年前に、化学のない時代に、

    そこまでの自己認識、自分を含む宇宙観を組み立てられた智恵には、

    驚嘆するばかりです。

    例えれば、我々の命は、その構成する分子は、

    田や畑や山や川や海や空の光や空気が動く風や雲が降らす雨や

    自然が生んだ命を取り入れて成り立っているのですから、、、。




    古代インド、前5世紀頃、

    交易や都市国家間の戦いで力を付けて来たバラモンの下の身分

    (武士や商人)からも、祭司のやり方を秘伝として独占しているバラモンに

    対して不満を持つ者が出て来るようになります。

    つまり、カースト制を批判する新興の力が、

    このウパニシャッド哲学を土台にしてさまざまな宗教を生みます。

    その中で、後世まで影響力を持ったのがジャイナ教と、仏教です。

    この二つの共通点は、

    それぞれ開祖がクシャトリア( 武士、王族)出身である事と、

    バラモンの権威を批判しカースト制を否定した事です。




    このように、混沌とした古代の思潮の中で、

    インドが、頭一つ精神性において抜きん出た訳です。



    今の時代の日本中に充満するコセコセした物差しで、

    為替で円高だ、貿易収支がどうだとか、

    経済力が抜きん出たと言っているのではありませんよ――。 あはは。







    つづきは、次回へ


    古代インドの思潮のあれこれと、

    我々のDNAに具わっている遺伝子が、

    共鳴したでしょうか?    あはは。






    でも、よく考えて、我が国は、、、まさにピエロよ!

    自分のモノでない借り物の着ぐるみを着て、

    西洋人と対等になりたくて、神を信じる振り振りをして、

    クリスマスやハーロゥインを我が物顔に取り入れて、

    日本人は、よくやっていると思うわ!      あはは。


    大いに皮肉ですが、 ごくろうさま――っ!


    だけど、民族の根っこにつながらない他国のお祭りのプレゼントや、

    将来、生きる突っかい棒にもならない異国の宗教行事やお祝いを、

    商業ベースに流されて幼い頃からの潜在意識に入れられる子供は、

    大人になって、どこの国の為に、力を踏ん張って頑張るのでしょう?


    父母を通じた民族の歴史に共鳴しない思い出ばかりのアルバムで、

    自分のDNAが共鳴して疼く感覚もなく、

    どこへ、『』を、返すのでしょう。



    自負心が折れて、自尊心がどれだけ傷つけられても

    それでも精一杯生きようとするのは、『』を知っている人間だけです。

    その強さが、現に中国の若者や、インドの若者にはみなぎっている。





    』を忘れた人間は、簡単に死にますよ。

    簡単に、負けを認めますよ。



    今の若者、子供たちから、『』を奪ったのは?

    だれ?

    この、取り返しは、どうするのですか?


    日本は、本当に大罪を犯している国だと思います。

    人としたら、まともじゃないですね。

    友人にこう云う人がいたら、困った人だな。と思いますね。


    あはは――。 なんだか哀れを誘いますね。





    ここまで、

    長い記事を最後までお読みいただきまして、、、、、

    ありがとうございました!  感謝です。

    次の 東洋思想 3で、一応の一区切りにします。



    どうか、よき一週間を、お過ごしになってください。



































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    【 東洋思想 3 】    末法時の予言 ・ 釈迦は自らの仏法の功力の消滅を予言

    Category : 東洋思想
    サンチー 遺跡(Sanchi)1989年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。


    次の4枚の写真をご覧になって見てください。

    どことなく我国の寺院や神社の懐かしい風景に似ていませんか?

    2300年前のアショカ大王が建立したインド最古の仏塔のある遺跡です。


    サンチー 遺跡

    自然のままの緑に囲まれた日本の寺院、神社の風景、石畳の参道、、、

    その風景と重なって来るものがあるでしょう?

    西洋の教会なら、ここは木もない広場になっている所です。







    サンチー沐浴池



    サンチー沐浴池

    ここで、仏塔をお参りする前に、沐浴をした池。

    周りは、いかにも東洋らしく自然林に囲まれています。

    西洋なら、石畳を全部に敷き詰めて、沐浴場などはありません。








    サンチー遺跡の代表・大ストゥーパ第1塔  



    サンチー 大ストゥーパ第1塔

    これを最初に見た時、いろんな建築様式が交じり合っている感覚に、

    頭の中がグルグル回ってしまいました!  あはは。

    まず、丸いストゥーパの屋根は、天皇陵の円墳を思い起こさせ、

    建物全体の雰囲気は、  

    まるで、アメリカの西部劇に出て来るインディアンの住居? あはは。

    てっぺんにある串刺しの様な擬宝珠は、五重塔のに似て、

    トーラナ(塔門)は、ひょっとして神社の鳥居の原型なのね!

    周りの丸い石の囲みは、神社を囲む石の柵を想起させられたのです。

    神仏混淆のイメージでしょう?     あはは。







    サンチー欄楯 ( らんじゅん )  


    サンチー欄楯

    写真のリンク先:インドing


    周りの丸い石の囲みを、裏側から見ると、そう!

    寺院や神社の寄進者の名前が刻印されている石柵の雰囲気。



    このように、サンチーの遺跡を初めて見た時に覚えた

    幻惑されたような異文化の交じり合った認識の目まいは、

    今の私の知っている知識中心に見れば、

    なるほどと、そうなるのですが、

    冷静になれば、確かに、

    サンチーの遺跡の方が断然古いのですから、

    サンチーの遺跡が、それらの寄せ集めなのではなくて、

    サンチーの古代インドの仏教美術や様式が、中国へ日本へ、

    仏教寺院や神道の神社へ、あらゆる影響を与えた事になるのです。

    そう思って唯物的に建物の様式を理解をしてみると、


    古代インドのこの遺跡は、日本の宗教的建築物の原点なのです。


    インド古代史上、最初の統一国家であるマウリヤ朝の最盛期を築いた

    アショカ王が、釈迦の遺骨(仏舎利)を安置する為に建立した

    ストゥーパ(卒塔婆)が、広々とした草原のなだらかな丘の上に立つ姿は、

    単なる古い2300年前の遺跡と云うよりも、

    さすがに、我々のDNAを刺激する存在感においては、

    平屋の建物なのに、現代の高層ビルに負けない力強い意志を感じます。

    歴史建造物は、みなそうですね。







    では、今日の本記事です。


    神への祭司を独占するカースト制の最高身分のバラモンに対抗して、

    その下の身分クシャトリア(武士・王族)の中から

    カーストを否定する仏教、ジャイナ教が生まれて来たと云う処からでした。


    仏教が、そもそもの成立した時点では、革新そのものだったのです。

    現代においては、仏教は、守旧的に見えますね?   

    古さを守っているだけでどこが新鮮なの? って、、、  あはは。



    それが、どうしてこうなったのか?

    それは、後で、書きます。 






    クシャトリアから出たと云っても、

    仏教とジャイナ教は、その成立の根っこが全く違います。


    まず、ジャイナ教から片づけましょう。  あはは。

    仏教がまだ生まれる前、釈迦が出家する頃には、

    森林で生まれたウパニシャッド哲学を基盤としながらも

    カースト制の最高身分だったバラモン勢力に対抗する形で、

    バラモンのヴェーダの権威を認めない六師外道(ろくしげどう)と云われる

    六人の思想家達(唯物論者、七要素説者、道徳否定論者、決定論者、懐疑

    論者、 相対論者)が、出ていました。

    その中の一つが、相対論者の立場であるジャイナ教です。

    つまりジャイナ教は、六師外道の中の一つでした。

      
    前563~前477、開祖はヴァルダマーナ。

    彼は、輪廻の原因になる個々人の『業』を身体にくっついた物質と観ます。

    これは、ある種の唯物的観方です。

    体からくっついた『業』を剥がすには、苦行をしなさい、と。

    具体的には、苦行と徹底した不殺生を説いています。

    そして、苦行は、基本的には断食です。

    梵我一如を手にしたらこの世で生きている意味がないから、

    断食をしてそのまま餓死する事を進めるのですね!

    死んでしまいましょう! と、、、、、  あはは。


    現代のダイエットに熱心な人は、その昔、ジャイナ教徒 ? 

    きっと、その生まれ変わりのような?     あはは。

    このように、今世、理屈抜きで一生懸命する事や、自然にできる事や、

    なかなか止められない事って、前世の業と関係があるのですよ。



    今度は、真面目なお話しです。

    インド独立の父・ガンジーもジャイナ教徒の家の出自です。



     




    次は、仏教。

    前563~前483頃、開祖はガウタマ=シッダールタ。尊称がブッダ。

    ブッダ(仏陀)は、「覚者・覚った人」と云う意味で、一般名です。

    だから誰でも悟りを開いた人は、仏陀と名乗れるのですよ。

    あなたが悟ったら、仏陀と名乗る事もできますよ!   ほほ。


    お釈迦(しゃか)様とも言います。

    釈迦族出身と云う部族名の呼び方です。

    (シャーキャーと云う部族名が、中国へ伝わった時に音訳で釈迦になった。)

    彼は、釈迦族のカピラヴァストゥ国王の皇太子として生まれました。

    ミス釈迦族の美人を、お嫁さんにもらって、男児も一人もうけます。

    なに不自由ない宮廷暮らしの中で、人間の暮らしの無常を感じて、

    次期国王の地位や、愛する家族を宮廷に遺して、出家修行の道を選びます。


    当時、彼は29歳でした。

    ここで、彼は、やっぱり王子さまだなと思うのは、

    国王である父、浄飯王(じょうぼん)は、

    息子が皇太子の座を捨てて出家するのが心配でたまらなかったのでしょう。

    自分の信頼に足る家来6人を、警護も兼ねて同行させます。


    釈迦は、同じような修行者がいる森に入って、過激な苦行をしますが、

    少しも悟れないので苦行によって悟りをひらく事をあきらめます。

    断食で痩せ細った体で森から里へ降りて行きます。

    川の畔で、休んでいる時です。 

    よっぽど痩せてお腹がすいていると気の毒に見えたのでしょう。

    村の娘が牛乳を差し出してくれました。

    この村娘の名前がスジャータです。 余計な事ですが、、、ほほっ。



    この当時の仏教は、出家仏教で、在家仏教ではありません。

    悟りをひらいて解脱できるのは、出家して修行した人だけです。

    普通の暮らしをしている在家の人たちは、解脱はできないけれど、

    出家した修行中のお坊さんに、お布施(食べ物を与える)をする事で

    よい業を積む事ができる。

    そうすれば、今度生まれ変わる時には、今より少しでもよい所に生まれ変わ

    ることができると云う教えだったのです。

    村娘スジャータがした事は、そう云う事からだったのです。

    そのミルクのお陰で、蘇生したガウタマは、菩提樹の下で瞑想を始めます。

    そして、終に悟った。覚者になった訳です。仏陀になりました。




    ここでしばし、横道へ、、、お断りをしておきます。

    釈迦族のゴータマである仏陀を「彼」と親しみを込めて呼びましたのは、

    釈迦自身、自分は、未来永劫にあらゆる衆生を救う仏であるとか、

    だから自分を本尊にして拝みなさいとか、

    まして自分の仏像を作って本尊にしなさい、 

    とは、一度もおっしゃっていないのですよ。


    これは、キリストも同じです。

    自分こそが神とは、言い残してはいらっしゃらない。 

    仏や神として崇め奉ったのは、後々の弟子たちなのです。

    弟子たちが、自分たちの止むにやまれぬ都合によってそうしたのでしょう。

    その都合とは、強い信仰心による都合も入りますが。


    私の個人的な見解ですが、

    自分が神や仏と云う自覚があって、引き続き後世の人びとを救う目的で、

    その事を言い残す必要があると覚られているのなら、

    自分の死期を、前もって悟るのが、神や仏と云うのですから、

    それをそのまま、率直に、何の遠慮もなく、信頼に足る弟子達に、

    教えとして必ず遺されたであろうと思っています。

     
    まして、ご自分の覚知した法の力が、

    末法には消滅すると予言をした釈迦においては、そうです。


    ( 末法 = 釈迦仏法が力を失い功力がない法になる事。)




    そもそも、仏像崇拝も、「偶像崇拝」の問題にも関わって来る事です。



    偶像崇拝は、高等な宗教においては常に論争になっています。

    なぜなら、真理や本質は、人形像の容にはあらわれない。


    あくまでも仏教は、目で見えない仏の法が根本であり、

    信仰の本質は法の覚知にあるとするのが本来の仏教の精神だからです。


    古代インドでは、釈迦の図像や彫刻は作られておりません。

    仏像が一般化するのは、ギリシヤ彫刻の影響を受けたガンダーラ仏からで、

    あくまでも、仏像は、仏教の本来の精神ではないのです。


    だから、釈迦は、自分の仏像を作って拝めとは言わなかった。



    後々の弟子が、守ろうとする(これは悪しき保守です。)意識が、

    権威を作り、それを形造って来たのではないのか?

    権威とは、人の意識が作ったものです。 = 『陽』の範疇です。

    人間の意識が、自己を守る為に作る人工的な価値観です。

    王や貴族などの階級、ブランドなどの金ぴか思考ですね。  あはは。


    本質を観るには、権威は要らないものです。

    特に宗教においては、

    権威が傘高くなれば、法の本質的な内容が形骸化します。

    が、人の意識のベクトルは、常に自己保存に傾き、

    その為の権威を保ち持たそうとすれば、

    人に見せる金剛に飾られた人形が必要になって来るのです。

    この事は、なんら真実とは関係ありません。


    芸術や美術を真理や本質と思ってはいけません。

    しかし、とかく人は、キンピカに、綺麗にしたがりますね。

    これじゃ、西洋文明の意識が作った世界です。


    かように、本質が失われて物事は崩れていく、、、




    その過程を、釈迦は、正・像・末の三時に分けて遺した。

    ( 詳細は省きます。これに関しては、またの機会に。。。)




    つまり、人の意識が作った物・『陽』のみの残骸が増えて来ると、

    法の本質は隠れて見えなくなります。 それを、、、


    白法隠没・びゃくほうおんもつ』 白法 = 釈迦の仏法の力

    ( 釈迦仏法の力が消滅し、隠れて見えなくなる。)

    と言い残したのです。

    その時を、末法時と言います。

    これは、人間の本質を観抜いたすばらしい覚者の智慧です。



    つまり、意識の作為・『陽』が大過すれば、『偽』が主役になると。



    『偽』が主役とは、社会の機能において、

    善を守り善へと働く機能が薄くなり、善が消滅して行く。

    善は、仮面や形だけになり、本質が悪にすり替わって行く。


    故に、『 闘諍言訟・とうじょうごんしょう 』すると言い残した。

    ( 正しい事や善が守られなくなって争い、言い合いが激しくなる。)


    その時期を、

    釈迦は、自分の死後2000年以降と言い残したのです。

    末法時(まっぽうじ)です。

    そうなると、覚知した。 知っていたのですね。

    見えないものを見て、聴こえないものを聴かれたのです。

    だから、それを言い残された。


    それを言い残した釈迦が、自分が仏であるのかないのか?

    その肝心な事を必要ならば、教え遺されない訳がない。





    私自身は、なんら守るべき何の権威もなく、

    思っている事をそのまま言って、何も失う物もありませんから、

    率直に普通の人間性で申し上げます。

    あえて、釈迦が自分が仏であると言わなかった事実からは、

    それ以外のなにものでもない、、、 


    もっと突き詰めれば、言い残す事で後世に何らかの縛りを遺す、

    そう云う危惧もあったからではないかと、人間的に解釈しています。


    キリストもそうです。



    はたして、

    弟子が、神や仏に奉った事を、彼ら二人はどうお考えでしょう?








    本論に戻ります。


    釈迦の古代仏教が、六師外道の中から生まれたジャイナ教と違うのは、

    釈迦の仏教の方が、六師外道を超えた教えだと云う事です。

    外道と云う呼び名が、それを表しています。

    外道とは、内道(ないどう・仏教)ではないと云う意味です。

    因果応報の永遠の生命を説いていないのが、外道(げどう)です。



    あ、西洋思想も外道です。

    たとえそれが、ヘレニズムの神であろうとキリストの神であろうと、

    西洋の神は、因果応報の永遠の生命観を説いてはいない。



    仏教の発祥は、開祖ガウタマ=シッダールタの生年が前563~前483頃、

    とすると少なく見ても、今から483+2012=2495年前です。

    キリストは、今年から2012年前ですから、

    仏教の方が、4~500年古い。

    キリストが誕生した時に、もうすでに古代インドは、

    西洋よりも死生観、宇宙観、生命観、時空観において勝っていたのです。


    その新興の宗教である仏教を支えたのは、

    同じく新興の力を付けて来たクシャトリアの下の身分、

    バイシャ(商人)の有力商人達でした。

    彼らの豊富な財力が、釈迦教団を支えました。

    彼らも、独占的なバラモンの支配するカースト制度を否定する勢力でした。


    そして、バラモンの権威が眼の上のコブ? だった世俗の力を持つ王族たち、

    2300年前のアショカ大王

    西暦127年頃のクシャーナ朝のカニシカ王が、仏教を保護しました。

    カニシカ王はシヴァやゾロアスター教も庇護しています。



    我々は、中国の歴史と比べるとインドの歴史についてはあまり知りません。

    中国は、かって聖徳太子の頃の宗主国であり、

    我が国は柵封されていた属国と云う関係で、

    宗主国の宗教と漢字の使用を義務付けられていた為に、

    日本は、中国のコピー模倣をやっていたので、余計です。

    その上、インドは中国ほど国の歴史記録を熱心にやっていなかった。

    どうせ生まれ変わるものを書き留めて記録してどうなるの?  あはは。

    歴史記録に興味がなかった。のでしょう。  

    目で見える物を追いかけるよりも、

    目で見えない物を基準に生きて来た。  

    そう云う一面が、精神大国インドには現在も感じます。

    傍目は気にしない。自分の内面重視ですね!    あはは。

    だから、大衆の面前で、裸の沐浴ができる。

    ある意味、うらやましい気もしますが、、、ほほっ。

    これは、『陰徳』の徳性に通じる重要な一面です。




    しかし、現代のインドにおいては、

    ヒンドゥー教が社会的、文化的な生活の基盤です。


    今日、仏教徒は、インドの全人口12億4150万人に対して

    800万人しかいません。


    なぜ、キリスト教を凌駕する時空観を持ちながら、

    釈迦の仏教は、衰退をして行ったのか.....


    古代インドの仏教の発祥においては、

    その革新性と三世に亘る宇宙観で絶大な信頼を得て勢力を持ちながら、

    イスラム教とヒンズー教のそれぞれの政権の出現によって

    弾圧を受け、寺院の破壊と僧侶等の殺戮によって

    壊滅的に衰退して行きました。

    このインド仏教の衰退の原因は、当地の仏教界においても、

    末法の時代としての説明解釈がされています。



    末法と云う時が、来たのだと云うのです。 




    すべて重要なのは、『時』です。

    すべて、『時』に拠って真実は顕れ、ウソは暴露されるのです。 



    今は、どう云う時か?

    インド仏教界と同様に言うならば、

    末法時におけるありさまの日本。    あはっは。


    まさしく時空観において仏教よりも低い外道の近代化に誤魔化され、

    グルメ三昧、他人の精子や卵子をもらわないと子が作れない、、、

    命をつなぐ食には、遺伝子組み変え、化学物質が塗(まぶ)せられ、

    体を清潔に保つには、仕方なく経皮毒を浴びねばならず、

    科学の恩恵さまさまの現状を、やっと生き抜いておりますが?


    ひょっとすると死ぬ間際には、胃瘻と云うものを

    外から直ぐに胃へ入れられて、

    いつ死ぬのかも、他人に管理されるかもしれません。 あはは。


    命を物と見る低い生命観の科学の御仕着せを、

    うんざりしながら、もう、飽き飽きしています。   あはは。

    ほ――、あまり悪態をついていても、面白くありませんから、

    この辺で,、、ほほっ。







    今回、記事の更新が遅れまして申し訳ありませんでした。

    一昨日から、富士の1~5合目登山で、

    渋滞やら五合目の寒さで、帰りが予定より遅れました。

    まだ、頭の中は富士の山中を彷徨っております。   ほほ。



    今日の記事の続きは、

    【 東洋思想 7 】以降に廻したいと思います。



    次回は、

    今までの記事へいただいたコメントへのお返事になります。




    よき、一週間をお過ごしになってください。


    あ、今日の金環食は、我々の干からびた意識へ、

    無意識からの『陰』の存在感を知らしめた

    『天』からの見せしめのショウだったように思います。


    『太陰』へ感謝をしましょう。

    大地へ感謝をしましょう。

    大地へ、  ひどく、揺れないでね。




























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    コメントへのお返事 1. 【 東洋思想 】   大事なものは意識には掴めない

    Category : 東洋思想
     
    富士山5合目、 夕暮れの景色


    富士山五合目から頂上方向を


    5月19日 夕方6時ごろ。

    雪がまだ残る5合目から頂上方向を望むが見えない。

    ( 上の稜線の向こう側に頂上がある。)


    大概の山は、上ったり下ったりしながら頂上に着くのですが、

    富士は、下りがありません!

    あの容ですから、上る、上る、一方ですが、

    堂々とした富士へ体ごとぶつかって行った心地よさがありますよ。

    雪の壁面にラクガキ、、、マリコ だって?   あはは。



    もうひとつ、


    富士山5合目の稜線


    あの富士山の容、頂上に続く斜めの稜線。もう高い樹木はありません。

    足元は、砂礫層の黒い砂。 海辺の砂浜を歩いているようなザクザクズルズル感です。


    7月の山開きまで、富士は、まだまだ冬です。

    5合目は、手が冷たくて悴(かじか)む程、さむかったです!  


    8月に、5合目~頂上で、ご来光、お鉢めぐり、の予定です。











    今回から、しばらくの間、

    今までにいただいたコメントへのお返事の記事になります。



    今日は、次のテーマで、

    コメントへのお返事 1. 【 東洋思想 】の記事へのコメントから

    大事なものは意識では掴めない 
    です。


    意識は、理解をする事はできても、その実体は掴めない。

    観念で解ったとしても、それは、前頭葉の中だけ、、、

    それでは、どんなに大事なものも知識でしかない、、、


    あ、今日は、最初からむずかしかったかしら?   あはは。


    知識は使わなければ忘れますし、、、

    戦後の教育が、知識の詰め込みと言われる所以です。

    知識を詰め込めば = 教育の仕事になるのなら、

    な~んて、教師の仕事は、楽 ? だったはずです。

    進学塾で、優秀児を教える事は、楽な事でしたよ。



    まず、今の西洋的学校教育で教えるのは、西洋的学問の基礎知識です。

    人が、研究して作り上げた知識の山を覚えさせる事になるのね。

    それらは、『陽』のカタマリですから、、、  あはは。

    時代によっては古くなり、間違いだった事にもなります。

    命を懸けて学ぶほどの事はないのです。

    一つの処世術、ないと生きにくいから、それはそうです。

     
    だから近代合理主義は、頭だけで”解った!”でいいのね。

    テストをして100点だったら、一応、解かったとします。




    しかし、東洋的には、

    人が、作り上げた知識の山を学ぶ前に、

    人が生まれる前からある自然観や道徳観や人生観のコードだけを、

    会得させました。

    いわゆる東洋学の語句群です。

    知識として覚えて、口だけペラペラしゃべっても、

    ”論語読みの論語知らず”では困るので、

    幼い子には初めから理屈は教えません。

    理屈がある事すら触らないようにそっとしておきます。

    なぜなら幼い経験のない前頭葉のシナプスが発達していない頭に、

    理屈だけを入れても曲解が生まれるだけ、、、そうなれば、

    後からの修正が大変なだけです。

    余計な枠を分らない内からハメる事もおかしいでしょう?

    棒読み、丸暗記で、ダビンチコードならぬ、東洋コードを、

    口調のリズム感と、語句の持つ音調で繰り返し暗誦させるだけです。

    ( 東洋コード= 

    儒教や仏法の経典の定められた意味を持つルール体系の一節など。 )


    ふしぎな事に、

    そのコードが口の筋肉と耳の筋肉にストックされていると、

    それからの人生の途上で、ぴったりの状況に遇うと、

    じわぁ~と、そのコードが体から心に響いてくるのです。



    勝手に口の筋肉が動いて、過って耳が聞いたように口をついて出て来る。

    その時、初めて内包されている意味が、心身に領解できるのです。

    五感だけの知識ではなく、無意識に通じる智恵としての再現です。


    知らずに身『業』として体感するのですね。

    体が、ほら! これだよ! と大脳へ知らせるのですね!

    これで、初めて本当に分かった事になります。


    東洋の精神と肉体がバラバラではないと云う事が正しいからです!


    またまた、心身一体での「 解かる 」 = 会得する為の方法として、

    古代インドからあった、修行と云う方法もありました!

    東洋は、無意識の中の大事な事を重要視して来ましたから、、、

    だから、そうする教育方法を採ったのです。 

    絶対に詰め込まない。 

    智恵としての教育法です。 これが正しいのです。

    これらも東洋的叡智と言えると思います。



    と云う事で、、、

    ―――大事なものは意識では掴めないのである。 



    それだけ、現に目の前にある西洋文明と、

    我々のDNAの中身は大違いなのです。

    お分かりいただけたかしら?     ほっ。




    では、5月22日の一番新しいコメントを紹介します。



    はじめまして。

    最近、こちらのブログを知ったのですが、

    私が今までないがしろにしてきた大事なものが、

    ギュッと詰まっているブログだなぁと感じています。

    現在の私にはわからない記事も多いのですが、

    いろいろと勉強になることを書いていただき、ありがとうございます。

    今回の東洋思想シリーズは、とても面白かったです。

    私は無宗教ですが、弟が仏教系の幼稚園に通っていたおかげで、

    お釈迦様の物語の本や漫画が家にあり、

    子供の頃にその本を何度も読んでいました。

    そのせいか悟りに興味があり、

    ブラフマンとアートマンの事は、何かの本で読んだ記憶があります。

    苦しい事があっても、この体験が肥やしとなり、

    いつかは悟る時が来るかもしれない…という、

    希望のようなものが心の中にあります。

    でも、現代社会では悟りや解脱が、ただの自己顕示欲のためや、

    ビジネスのためになっているようで、とても残念に思っていました。

    釈迦は、自らの仏法の功力の消滅を予言されていたのですね!


    >これは、人間の本質を観抜いたすばらしい覚者の智慧です。

    とても感動しました!    東洋の叡智に憧れます。





    率直に感想を述べていただきまして、

    此方の方こそ、ありがとうございます!

    感謝申し上げます―――!



    私が今までないがしろにしてきた大事なものが、

    ギュッと詰まっているブログだなぁと感じています。



    ギュッと詰まって ?    

    そう言ってもらえると、

    ほんとうに、うれしいなー!     ほほ。




    今までないがしろにしてきた大事なもの


    ――― 大事なもの。

    この世には、本当に唾棄したくなるモノも多いけれど、

    大事な尊いものも厳然とあるのよね。

    しかし普通は、

    大事なもの、尊い存在と云うのは、

    意識( = 心)では掴めそうで、掴めない。

    まったく、意識には手が出ない。




    尊い大事なものの根っこは、無意識の領域だからです。


    だから、学校教育で幾ら良い成績を取ったからって、

    人生で何が大事で尊いのか掴めていないのです。


    つまり、大事なものは、

    意識(五感)では感じられない世界にある。

    目でも、耳でも、どんなに感性豊かな感覚器官でも掴めない。

    どんなに感覚を研ぎ澄ませても、 無理です。

    逆に、感性豊かな感覚器官が邪魔をすると云う事もある。


     
    なぜなら、人が、人間に生まれて後に作った価値じゃないから、、、

    それは、人が作った知識じゃないから。

    自然界にもともとあった摂理だから。

    人間が集まって村を作る前の原野。

    風土と云う、天と地と風が吹き渡る空間だった時から、

    人が稲作を始めて、国ができる前から、

    それより前から、ここに、この世にあったものです。

    その力の調和によって人間は生まれて来たのです。

    あえて言うなら、命が出て来た処です。


    その頃は、まだ人間の欲望は自然に調和をしていた。

    調和をしなければ生きていけない状態だった。

    生命の危機を乗り越えて次第に自信を持った人間が、

    その調和を崩す程の欲望を持つようになって、、、


    自然と人間を切り離した自然観を持つ西洋文明の中で、

    徐々に、欲望が、人間より前に出て主導権を握るようになった。

    それは、技術と知識の獲得と、経験による意識の発達でしょう。


    自然を切り離して、調和を無視して暴れる西洋の意識、、、

    その際限のない欲望は『陽』の炎ですから、

    欲望に煽(あお)られて流転する心は、大事な事を覚知できない。


    と同時に、

    欲望を満たした慢心した心にも、大事な事は覚知する事はできない。






    じゃあ、空の雲の形や、きれいな虹に神のしるし= 大事なものを見るのは??   

    暴れる欲望と自然の調和には、到底役に立ちそうもありませんね。

    綺麗な絵本の夢のイメージを、無邪気に求めても、、、

    大事なものは手に入らない。

    一瞬、自分の意識・心が気持ちよくなるだけの事です。

    まるで、それは、教会のステンドグラスの神の国のイメージと同じ、

    それは、まだまだ、人の意識が作った世界でしかありません。

    そこでは、本当に大事なものは掴めません。


    その点においては、古代インド人の方が、賢かったかもしれない。



    無意識を覚知する為に、

    欲望のままに動き回る自分の感覚器官を鎮(しず)めようと、、、

    その無為無欲の静けさに入る為に、古代インド人は森の中へ入ったのです。



    大事なものを掴もうと思ったら、

    まず、荒れ狂う自分の五感を鎮めましょう。

    その奥に大事なものはあると、古代インド人は知っていたのです。




    それから、約2500年後、




    そのやり方と全く相反する現代文明の中に、我々はいます。



    我々は、欲望が叶った天界の喜びを「自分の心」で味わいたい。

    その為に、『陽』の知識を学んでナンバーワンになるのが、

    一番、しあわせになれるんだって信じてますよ。




    何の事はない! いつのまにかキリスト教の天国を目標にしているのね!

    これは、クリスマスやハーロイン、バレンタインから感染したのよ。

    異教のモノで、遊びのつもりが無意識から染められると云う証拠です。




    具体的に言いますよ!    あはは。


    外の世界からは、

    私達の五感を刺激しようと、

    人に、欲望を起こさせようと、手を変え品を変えながら、 あはは。

    私達の感覚器官へ訴えかけて来ます。 

    つい乗ってしまって?   あはっは。

    乗るどころか、あれは、好かった!って?  もう一度! あはっは。

    自分から、意識を楽で満たすものを探して

    目を皿のようにして、鼻をピクピクさせて、  

    生きているのが、現代人の特徴です――!     あはは。


    しかし、そう仕向けるのが、現代の物質文明、情報文明です。


    ただ、チョコレートを贈っていただけなのに、、、








    意識の満足を最高価値に置く現代文明は、

    前頭葉が勝れていると云うのが、今の世の最高価値です。



    意識だけを認める西洋合理主義の求める価値観のセオリーは、

    そこですから、

    今の社会を肯定し続けるには、常に意識を発達させて、

    今より上位のロジックを構築する前頭葉がいるのですよ。



    自分の欲望達成の為には、

    いかに自分の感覚器官を総動員して自分の意識を使い分けるか?

    いかに多くの知識を覚えて、それを使えるようになるのか? 

    知識を繰れる人が、成功者 ? なのです。     



    それは、ある意味、自然に勝つべきロジックを構築するだろうし、

    相手に勝つべきロジックであったり、

    一番は、社会を巻き込むロジックを構築できるかどうか、

    その為の武器になる知識を持っているかが、ポイントになる訳です。


    でも、この武器である知識は、すぐにボロになります。  

    古くなるのね。 『陽』の宿命です。

    『陽』は、『時』には勝てない。

    すぐに無常の無残な姿をさらします。

    あらゆる知識が、技術が、理論が、風化します。

    それを追いかけなきゃいけない現代は、すべて使い捨てです。 

    忙しくて、ゆっくりする暇もないわ。

    何が大事なのかなんて、後からにして! 今忙しいのに!

    そう云う声が聞こえて来そうです。   あはは。



    先端の知識を使える前頭葉力を持つかどうかの価値観の体系化、

    ピラミッド型のヒエラルキーが厳然と、出来上がっています。



    国際的な外交戦略、領土の奪い合い、

    世界にまたがる経済戦力、金融市場のあけくれ、、、

    そうそう軍隊を出せば、お互いにリスクを負いますからね。

    相手をナンバーツーへ追い落として、我が「ワン」になる!

    犬になる?   あはっは。 

    ソフトバンクとは、ちがうの。 ナンバーワン!


    どう云う力で追い落とすのかと云えば、

    思い出してみて !

    意識は、『陽』の範疇、その『陽』の極みは国家権力です。

    その上が、大国間の覇権の競争。

    それで、しのぎを削るのが『陽』の現場です。



    闘争、競争、弱肉強食、、、



    ただ生き残る為に、他に勝つ為にやっているだけ、

    欲望を満足させる現場には、大事なものなんて無視する方がいいのよ。




    これが、近代合理主義の社会における成功者です。


    でも、これは無意識界から観たら、失敗者なのですよ。

    無意識を捨てている実感を失っているだけでなく、

    その事自体が、罪悪なのに気が付いていない。



    なぜ罪悪か?

    無意識下にある尊いものを抹殺しているからです。



    上の富士の写真のように、

    富士の山の中では、富士の容は分からなくなります。

    意識の中に閉じこもる事で、

    自分が生まれて来た根本のエネルギーを忘れている。

    自分の意識中心、自分が意識の中にいるから、見えなくなっている。 



    ほんとうに気の毒に思います。






    現代社会では悟りや解脱が、ただの自己顕示欲のためや、

    ビジネスのためになっているようで、とても残念に思っていました。



    ほんとうに、そう、 その通りですね。

    とってもいい感覚をお持ちですね!

    私も、この現実を無残だと思っています。

    知識レベルですら、信頼できるモノも人もいない。

    前回述べた、これが末法時のありさまなのかと認識をしています。


    そして、大事なものを教えるのもお金。

    全てをメシの種にする根性が、物質文明に染まり切っていますね。   



    あはっは。でも、

    その点、西洋思想は、便利ですよね!   あはは。

    意識の中をかき回していたらいいのだから、、、

    西洋は、”神は死んだ”とか、 (ニーチェです)

    しかも教会には、神は未だに居る風になっていて、

    それはそれなりに、役割を持たせて、新しい〇〇ismを作る。     


    あはっは。

    いつも言うのですが、西洋は、近代化、近代合理主義を作って、

    まだ、その収拾もできていないのに、


    えっ? 次は、ポストモダーン ?   

    ポスト(過ぎ去った)なんて!  次は構造主義?

    なんだかんだ言いだして、またまた、メシの種ですか?  あはは。


    しかし、その●●主義も人の作った『陽』ですから、

    西洋においても、その『陽』の苦しさからでしょう。

    哲学や思想や〇〇主義、〇〇ismを次々考え出すのは、

    自分たちが、まず苦から解放されたいのが本音ですね。    ほほ。


    これ以上、意識の中をいくらかき回しても、

    地球上、人を救う思想は出て来ないでしょう。  



    次は、東洋の番にさせていただきたい。そう願っています。

    東洋は、意識の中なんて、そんな狭くはありませんもの。


    東洋思想のめざすリアリティは、

    我々の五感で捉えられる世界よりも、もっと奥へ迫るのですね。







    釈迦は、自らの仏法の功力の消滅を予言されていたのですね!


    >これは、人間の本質を観抜いたすばらしい覚者の智慧です。

    とても感動しました!    東洋の叡智に憧れます。 





    あら! うれしい言葉ですね。

    私も、

    過去、知らないまま東洋を横へやっていた自分がおりました。

    しかし、知れば知るだけ、この叡智に脱帽せざるを得なかった。

    東洋に惚れたのですね。  あはは。


    東洋を知れば、西洋や、今の時代が、よく分かるようになります。

    東洋には、すべてが包含されてあるようです。

    無意識を本地とする東洋は、全体を俯瞰できるのですが、

    意識の西洋は、部分部分のバラバラの展望しかできないのです。

    だから、東洋的なものは、とっても、楽しい事です。


    釈迦の仏法の功力の事は、これは、また大変な事よ。   あはは。

    また、いつか、少しづつ記事にしてみたいと思っています。

    その時まで、お待ちくださいね。




    今日は、もうひとつコメントを取り上げたいと思っていましたが、

    長くなりすぎた感じで、

    これは、これで終りましょう。

    次も、コメントのお返事です。

    古いコメントからになります。



    何かひとつでも、あなたの故郷である東洋の思想に触れて、

    強いアイデンティティのようなものを感得してください。

    東洋を知れば、その智恵になつかしさが込み上げて来ます。


    思想は人を作ります。


    けっして世間に付和雷同をなさいませんように。

    自分の核をお持ちになってください。




    よき一週間を。

    来週は、連泊で信州の山々をトレッキングします。

    更新が、ずれます。

    ご了承ください。



























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    .。.:*:.。..。 思い出の 「銅屋根」 .。.:*:.。..。.: 五行学の金の徳は、『義』 

    Category : 東洋思想


    今日は、たくさんの建物の写真を楽しんでくださいね!
    まずは、これから。    さてどこでしょう?

    銅板葺きの屋根、さびた緑青(ろくしょう)の色がきれいでしょう?

    緑青の屋根


    大阪市公会堂 (旧中之島公会堂)です。







    中国の古代からの考え方に、

    陰陽学と同じ位に古く重要なものが『五行学』です。



    今日は、五行の中のひとつ、金の徳・『義』についての記事です。






    金・金属の景色、その思い出の中から

    記事を始めたいと思います。 


    金属に限って思い出と言えば、、、

    やはり《 銅葺きの屋根 》でしょうか? 


    今までの心に残っている屋根をご紹介しましょう!!!





    写真は、大阪の中之島公会堂(現名称:大阪市公会堂)です。

    この中之島と云う名称は、琵琶湖から流れ出る淀川の中洲で出来た島で、

    現在は、堂島川と土佐堀川とに挟まれた中之島にあります。


    パリのノートルダム寺院のあるシテ島も、セーヌ河の中洲です。


    建築は、国会議事堂や東京駅、さまざまな国内の洋館建物に関わった

    辰野 金吾氏が、設計を行っています。

    街の中で、どこからでも目立つ美しい緑錆(ろくしょう)色の

    銅の屋根を持った建物です。



    緑錆のエメラルドグリーン
    の色は、

    どこか気品があって、心をくすぐられる処がありますね。




    先日のニュースで、

    大阪の橋下市長が、維新塾の入塾式を、ここで行っていました。

    中之島


    写真をクリックすると右端まで見られます。 





    大阪市公会堂の塔


    丸い塔の屋根 





    公会堂


    正面入り口のアーチにも。

    写真をクリックすると右端まで見られます。






    旧中之島公会堂


    もう一度、正面の裏側、川からです。





    さぁ、これは、どこでしょう?   

    旧日本銀行京都支店


    これは、京都文化博物館の別館 (これもいわゆる辰野式建築です。)


    屋根自体はスレート葺きですが、その継ぎ目、避雷針、窓枠、屋根のテラス、

    細やかな銅板による装飾が施されています。 


    京都には、旧日本銀行、中京郵便局、旧日本生命、旧不動貯蓄銀行など、

    銅板葺きの屋根を持つ歴史ある建物が残っています。

    (京都も、青春の街でした!)







    現在は、東洋、東洋と、東洋一辺倒! なのですが、  

    20代の初め、まったくのフランス一辺倒でしたの !    ほほ。

    フランスへは何度も、パリへ、ルーブルへ通いました。



    パリに着くと、若者の安上がり旅行、スーパーで食料品を買い込みます。

    トマトや、牛乳、パンやチョコレート、チーズやハム、リンゴにオレンジ、

    それをホテルの冷蔵庫へ入れて、朝食だけホテルでとります。

    プチバケットとコーヒーの簡単なものです。

    そして、地下鉄の回数券を持って、

    昼食用のりんごかオレンジ一つと、パンを持って出かけます。

    歩き疲れると、それをセーヌ川の川べりの石畳に座って食べます。

    地下鉄と徒歩で、パリの街の中を歩き回りました。

    パリ市内は、狭いですから地下鉄と徒歩で十分なのです。  

    帰りに、街角のパイ屋さんへ寄って、壁という壁のショーケースの

    何十種類もの美味しそうなパイを2つ、3つ夕食用に選びます。

    ホテルに帰って食べるのです。毎日、次はどれを食べようかと?  あはは。

    青春のたのしい思い出です。 
     


    パリのスーパーは、買い物にコツがあるのです。

    買い物の金額で消費税が変わります!

    初めての日、沢山の買い物をしました。 消費税が25%以上もあったかな?

    思ったより多額な買い物になって驚いてしまって、、、

    後日、トマトと牛乳だけを買いましたら、ほとんど0% ?の消費税 ? 

    あぁ、そうか!と気が付きました。


    食料品の豊富さ種類は、日本とは比べ物になりませんね。

    韓国のソウルのスーパーも、パリ並みの豊富さですが、

    なぜか、日本は、野菜、果物でさえ、1~2種類ですね。

    例えば、大根類は、青首1種類だけですが、

    ソウルは、丸いの、角いの、黒いの、赤いの、いろいろ20種類位が並び、

    それも、3束~5束位づつまとめてあるのも多いのです。

    卵も、そう。 10個づつのパックは、日本だけだったみたい、、、

    パリでも、すべて種類が豊富なのですが、特にチョコレートなどは、

    店内の一つの陳列の両側が、長い通り全部がチョコレートばかりなのね。

    その列が、次も、又次も、チョコレートばかりなの! 

    きっと、数えれば、何百種類もあるのでしょうね!

    スイス、ベルギーなど名産地がありますから、豊富で、価格も安かった。

    牛乳なども、1000mlが、60~100円位だったと記憶しています。

    パンもそう、陳列の一部だけがパン売り場ではなくて、

    パン売り場だけで一つのスーパー位の広さなの。

    そして、お昼時になると、街路で道路工事をしている男達が、みんな、

    握る所だけを紙で包んだ、チーズを挟んだ長いバゲットを手に持ったまま、

    パン屋から現場に向かって帰って行く姿が、あちこちで見られて、、、

    バゲット一つで、お腹がもつのかしら?   あはは。

    パリは、まったく飾らない庶民性がほのぼのとしている町です。

    シャレた町の中に、農業国の人の生活と芸術が一緒に溶け込んでいる、 

    そう云う印象でした。  




    ここで、老後を暮らそう、、、あはは。 本気でそう思っていました !

    パリ市内の建物の落ち着いた雰囲気は、大好きでした。 





    ルーブル美術館の屋根

    写真をクリックすると右端まで見られます。 

    ルーブル美術館の屋根




    ベルサイユ宮殿の屋根

    ベルサイユ宮殿の屋根


    ヴェルサイユ」とは「耕作のために焼いた野」という意味で、

    パリの南西22キロにあって、バロック・ロココ時代の建築の代表作です。

    広大な園庭にある噴水にセーヌ河から水を引いてあるのです。




    ちなみに、

    ヨーロッパの古い建物の屋根の色は、空の色に合わせて、

    そして、とんがり帽子風の屋根の形は、

    樹や山脈、その形に沿わせているのだそうです。


    現代建築の建物は、真っ直ぐのタテ、ヨコの線ばかりですね。

    自然を阻止する形。 自然には一番なじまない造形だそうです。



    金属を屋根に葺くと云うのは、豪華であり、高価です。

    その中で、銅板葺(どうばんぶ)きは、板金屋根のトップに君臨します。 


    金属は、案外、薄く伸ばしたりできるのですね。

    しかも軽いのだそうです。






    五行(木、火、土、金、水)の中で、

    『木』と、『金』だけが、切る、焼く、削る、、、と人為で加工できます。



    『金』は打たれて薄く伸ばしたり、火で焼かれたり、

    熱せられたかと思うと、水を浴びせられたり、鍛えられるものです。

    鍛えを受けて真価を表す事ができるものなのですね。

    鍛えられないと、只の山の中の鉱石、石つぶてでしかありません。

    そして、美しい細工を施されると、宝物にまでなれるものです。



    自己を磨く為にストレスに耐えるのが、『金』です。

    鍛えに耐える事を「苦」とは受け止めない性です。

    「苦」によって、自己を高め価値を作り上げていくのです。



    まるで屋根そのもののようですね!

    太陽の熱さ、冬の寒さ、雨、風を「苦」とも思わず、逃げず、しのぐ。

    我々がその下で生きているのを守る。 

    まるで、男、 父親の役割のようでもあります。




    ですから、


    『義』と云う字は、

    羊・ヒツジと、我・ノコギリの形、との組み合わせです。



    ヒツジの毛並や角や、ひづめなどに欠陥がないだけではなく、

    内臓にもすべてひとつの病気もない事を、示す為に、

    ヒツジをノコギリで、二つに切り離して生贄(いけにえ)として

    神に供えました。 


    ( 中途半端な人間が、純粋性を求めると云う事は、むごいですねー。

    自分は、どうだか? 分らない人間の思い上がりが、、、

    これが、このまま、原理主義的な極端なイデオロギーとして

    純正な忠義を至上とする幕藩体制を支える朱子学へ受け継がれます。)


    つまり、神などに供える犠牲としての傷のない完全性。

    犠牲としての条件において合格した!  

    犠牲として神へ差し出すのにふさわしい(正しい)生贄である。




    それを、『義』と言ったのです。




    絶対性に対する自分の偽りの無さ。

    偽りのない私心のない無欲さ。

    絶対性への我欲を犠牲にした真実性。




    『義』の本来の意味は、そこまでです。


    それが、

    「 それでよい。ただしい。」の意味に使われるようになります。

     
    義憤・・・・・・・正義の為に憤ること。

    正義・・・・・・・正しい道理。 

    『義』がある・・・正統性がある。



    このように、あるものの正統性を表す時に使われるようになります。

    その正統性とは、何だったのでしょうか?


    あるいは、そう思わせる為装の言葉として利用されるようになります。 

    『陽』の現象界は、生きる為には、何でも利用をする現場です。


    陰徳の徳性である『義』を“正義の大系”として、

    極端なイデオロギー化したのが江戸時代の朱子学です。

    それまで儒教では、最高位の徳性は、『孝』でした。

    しかし、幕府の権威の正統性と統治支配にとって便利である事から、

    『孝』よりも『忠義』を上に置く思想が権力側に必要だったのです。

    徳川幕府ご用達の林羅山(はやしらざん)と云う御用学者が、

    「孝」よりも「忠義」」が大切だという思想を公的な見解とし、

    教育思想体系を作り上げました。

    それを、全国の藩校、寺子屋で教育をしました。

    そのゆがんだ思想の名残が、まだ現代も残っています。

    朱子学の罪、大罪です。

    これについては、又、いつか必ず記事にしたいと思っています。



    このように、

    権力者が、権威の正統性を示す為に利用したのが、『義』です。 


    『陽』である = 人が作った法律、

    その法で国を治める統治方法を( 法治・ほうち )と言います。

    法治国家です。( 近代国家はみなそうです。現在の日本もそうです。)



    国民を支配し、従える為の国家に対する犠牲と忠義の純正性、

    それを求めるのに、『義』の徳性を利用した訳です。


    そこには、<『義』の大過の姿かたち> が隠されています。


    『陽』にすれば、

    『陰徳』の最高価値『孝』やそれを実現する徳性で、

    国が治められるとは信じられないのですね。 

    これは、『陽』が本縁的に持つ“意識の懐疑”です。

    生死の問題を解決していない意識が抱えている蒙(くら)く深い迷妄、

    “死が恐~い”と云うダークゾーンから湧き上がる懐疑です。




    ちなみに、徳を以って国を治める事を( 徳治・とくち )と言います。





    ★ 『陽』の権化 = 国家権力が、

    『陰』の徳性である『義』を悪用したらどうなったのか?   

    最後に少し書いてみましょう。




    『義』があるとか、ないとか、

    なにが、正義か、正統性があるのか ?


    政治の場で論議をする事は、おそろしい感じがします。

    だって、政治そのものに、正義なんてありえないからです。



    しかし、江戸時代の朱子学以来、先の敗戦まで、

    正義かどうかを、国家権力が決めて来たのですよ!?!

    その為に、国家神道をねつ造し、正当化を図って来た訳です。

    そんな正義は、ウソに決まっていますし、

    そんな所に真の正義なんてある訳がなかったのです。



    かように、

    時代、思想が違えば、コロッと違ってくるものを、  ほ。

    『陰』のバックアップもないまま、これが、絶対的な正義だ! 

    と言い張ったらどうなるのか?   

    目の前に死体が積み上がるだけでしょう。

    そう云う殺戮の歴史を、人類は過去にいくつも持っています。 

    今だって、シリアなど、権力が正義を決める処はそうなります。







    正統性でも何でもないモノを、正統な大義名分だ! 正義だ!

    と見せようとすれば、

    そこには、必ず『偽』の矛盾のしわ寄せ、欺瞞、無理が出て来ます。

    ウソをついて無理をしないと絶対性のポーズは、守れないのですから、、、



    国家権力の闘争の場に引き出された見せかけの『義』は、

    もうすでに『陰徳』でもなんでもなく、<『義』の大過の姿かたち>

    政治の道具に成り果てた殺戮の武器になります。


    いかにも、いかにも徳性に見せかけた悪徳の『義』は、

    他の仁や礼や智や信の徳性を根絶やしにして、

    それでもなお、

    『義』だけを、権力の絶対性の為にウソの正義を貫くと云うのであれば、

    その姿、その現象界での表われ方で、際だって来るのが

    『義』の徳性を生じる『金』そのものの

    ヘンシーン!の姿です。 あはは。



    『金』はヘンシーン!をして、何になるの?


    <『義』の大過の姿かたち> は、

    剣(けん)、刀(かたな)、刃(やいば)、弾丸、戦車、ミサイル兵器など


    の姿かたちになって、まともに命へ刃向かって来るようになります。


    恐いですね!。

    まさに、これら命の殺戮の道具になるのね。





    そして、

    さらに『陽』は、『偽』に『偽』を重ねなければなりません。

    この現場を、日本人は、物も言えず見て聴いて体験をして来ましたね。



    生贄、 処刑、 切腹、 特攻隊、、、、、、

    これらすべてが、いのちの殺戮の現場の具現化でした。


    どこかで、“ 正 ”の字をつけて、

    愚かな我々は、正義だと思わせられて、

    尊い命が、『大義』の御為に、名誉だと奉られて、

    結果は、命は潰されて来ました。 


    その事が、どこかで分かっているから、

    日本人は、『義』を胡散臭いと思っているのでしょうね。

    今の若い人も、年寄りだって、   あっは。

    『義』などに見向きもしなくなっています。

    それは、それでいいのです。 

    どうせ、偽物の『義』なのですから。

    本当の『義』は、ありふれたコンビニなどには売っていないわ。 あはは。


    無意識・『陰』を無視する近代合理主義の時空観には、

    『義』は、ありえないものなのですから、、、

    胡散臭い、、、正しい感覚ですね!

    どの五行も、名だけ悪用されればそれはそれはおそろしい事になります。

    『陽』の悪用を見抜く智恵、

    それをお持ちいただきたいと五行学から記事にして来ましたが、

    『金』で、終わりになりました。




    実は、

    『金』の徳性である『義』を、最後にしましたのは、

    『陽』に利用されて、命に及ぶそう云う危険性のある事を、

    最後にしつこく?  あはは。 

    書かねばならないと思ったからです。




    よ~く、おぼえていてくださいね!!!!!


    『義』があると云う事は、此の世に、この世界に、そうそうないのですよ。


    絶対に、

    『陽』である政治や経済の現場にあるはずがありません。

    正確に言えば、『孝』を実現する処にだけ、『義』はあります。


    『陰徳』の宝庫である『陰』をつぶし、

    無意識を排除した現代文明に、『義』はない。

    正義もない。




    知識だけがあって、陰徳の智恵のない所に大義はないのです。



    『義』の徳目は、

    無意識界、『陰』の徳性を実現する中にこそあるからです。



    これは、痛烈に言っておきます。







    現代文明の科学の進歩によって、

    今、我々は、『陽』の横溢、大過によって、またまた、

    命の殺戮の囲みの中におります。


    いまだ、安心はありません。



    どうぞ、御無事で!

    それを真剣に言える時代に生きていますね。  あっは。




    五行に関する記事は、

    次より、相生相剋(そうしょうそうこく)関係に入って行きます。


    東洋の智慧をお楽しみに、、、



    あ、そうだわ! ベルサイユの薔薇、マリー・アントワネットを

    処刑したギロチンも、金属製でした!

    五行の中で、『金』は、大過の時が恐ろしいものになります。


    その事を、おぼえておいてください。





    では、

    よき、一週間をおすごしください。

































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    コメントへのお返事 5. (あれから一年 2.)    Powers of 10

    Category : 東洋思想
    高村光太郎が、智恵子を迎えに登ったと云う徳本(とくごう)峠へ



    ニリンソウの群生

    ニリンソウの群生がある山道を登って、、、 








    徳本峠(2140m)から見る明神岳(2931m)、前穂高岳(3090m)

    「明神岳」は、上高地から見える穂高岳連峰の稜線の並びの、一番右側にある1峰~5峰の峰々です。


    峠から見る明神岳、前穂高岳


    写真をクリックしてみてください! 左側が、もっと見られます。

    雨だと云う天気予報で、今にも降り出しそうな雲。。。













    今日の記事は、


    コメントへのお返事 5. (あれから一年 2.) Powers of 10





    今回は、日本の科学者の言葉を、紹介しましょう。

    分子生物学の学者、青山大学教授の福岡 伸一氏の本の題名からです。


    本の題名、 『 科学者たちは、なぜ見誤るのか?』 


    副題が、  世界は分けてもわからない

           顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えて来ない!?



     世界は分けてもわからないとは、

    この世界(宇宙)を〇〇学、○○学と、分けて研究したとしても、

    たとえ、それをつなぎ合わせても、全体は、わからない。と云う事です。





    今日のヒントは、この本の中に書かれてあります

    Powers of 10 (パワーズ オブ テン)です。

    10のn乗と云う意味です。

    つづきは、後ほど.....






    今日は、前々回の記事のつづきから、、、

    ”あれから一年 2 ”の記事の中で、

    天災、災害には、外因と内因があると書きました。

    その内因について、


    コメント ① の処からでした。
    ① 被災された方々みなさんに、

    同じ内因があったとは考えにくいのですが・・?






    我々の五感で捉える世界は、たしかにその通りですね !

    そう簡単に片づけられれば、、、、、 その方が、楽だわ! あはは。




    また、同じ内因があった と云うのも、微妙な表現ですね。  あはは。

    五感では“同じ”と捉えられるのでしょうが、


    同じ花、同じ人間はいないように、

    自然は、決して同じ存在を、作りません。



    実は、自然は決して手を抜かないので、個々別々!  あはは。



    ≪同じ≫と感じられた意味を汲み取るならば、

    運命学の★位相・いそう

    = あらゆる差別のグラデーションが、≪近い≫のですね。 



    位相について詳しくは、

    右下の方に、ブログの「検索フォーム」があります。

    位相と入れて検索をクリックすると、位相を説明した記事が出て来ます。

    よろしければ、それらをお読みになってください。 






    (近代化以降の思想下に生きる) 私たちが陥る錯覚は、

    我々の感覚 = 意識で捉えられるだけが、この世界のすべてなのだ!

    あるいは、 我々の感覚 = 意識で、この世界の真実は捉えられる!

    と云うのが、現代人の誰もが陥る錯覚です! 

    自然が、自分の意識の中にある感覚です。

    近代化は、我々が自然を失った事である。と云われるゆえんです。

    その結果、我々は自然への畏敬の念を失いつつあります。     


    近代の思想である「自然は支配するもの」と云う二元論から来る私たちの

    思い上がりが、とうとう、行きつく処まで来たのですね。



    そう!、これは、とんだ錯覚なのです。

    我々の感覚器官では、ごくごく狭い世界しか捉えられません。

    福岡 伸一氏の本から引用して、

    Powers of 10 (パワーズ オブ テン)を説明しましょう。




    家具のデザインで有名なチャールズ・イームズとレイ・イームズが、

    1977年、実験的な映像を残しています。


    ある晴れた日、公園に寝転ぶカップルを映し出します。

    次の瞬間、カメラは上昇をし始め、どんどんズームアウトします。

    彼らの住む家、街、都市、国、大陸、そして地球、太陽系、銀河系、

    そして、きらめく星の洪水の宇宙にまで、、、

    息を飲んで見ていると、一度静止したフレームは、

    逆にズームインを始めます。

    銀河系、太陽系、地球、大陸、国、都市、街、家、カップルへと、

    しかし、ここでカメラは止まらないでミクロの世界へ侵入します。

    カップルの一人の臓器へ、細胞、遺伝子、遺伝子を構成する分子、

    原子、素粒子、● 核の周りを周回する粒子へ、

    それは、さながら宇宙の恒星を周回する惑星と同じに見えます。


    このようにフレームの倍率が切り替わるごとに、その倍率が、

    10のn乗で表示されていて、たとえば、

    都市全体を俯瞰できるのは10の5乗m(100km)、

    太陽系が見えるのは、10の11乗m、

    逆に、細胞は、10のー(マイナス)5乗mから見え始め、

    ー8乗mでは、遺伝子が見え始め、

    素粒子の世界は、ー16乗mで見え始める。




    この映像は、You Tube に公開されていますので、ご覧になってください。




    気が付く事は、我々のこの世界には階層構造(●の__部分)がある。

    マクロを形作るミクロな世界に、マクロな世界と同じ構成原理が

    無限の入れ子構造( ロシアの マトリョーシカ人形のような構造 ) として

    内包されている。・・・・・・・・この示唆が、

    以降のさまざまな表現や思想に大きなインスピレーションを与えています。


    もう一つ! 大事な事があります。

    チャールズ・イームズとレイ・イームズのトリックを見抜いてください!

    何だか解りますか?



    明るさです。



    我々の視覚は、光がないと役立たずですね。

    この映像は、作られたCG映像だから、どこまで行っても明晰な画面ですが、


    実際の宇宙は、撮影するのに必要な程、どこまでも明るくありません。




    それと同時に、ーn乗(ミクロ)の場合、

    顕微鏡の倍率を10倍上げれば、明るさは100分の1になる。

    つまり、解析度を上げて対象を拡大すればその視野はより暗くなる。

    拡大をしていけば、やがては暗闇で見えなくなるのです。

    と云う物理学的事実を映像では捨象してあったのです。


    と云う事は、

    我々の感覚器官の目で見る事には、限界があって、

    この世界のすべてを掴む事ができないのです。



    望遠鏡で宇宙を見るのも、顕微鏡でミクロの世界を見るのも、

    それは、すべて見られるだけの明かりがあっての事、

    その上、見えるのは、すべて、モノの部分なのです。

    その部分と部分をつなぎ合わせても世界の丸ごとは分からない。

    つまり、

    見る事さえできない。聴覚も触覚も届かない世界なのです。


    その限界の向こう側へ = 無意識の世界が無限に広がっているのです。
     






    例えれば、東京ドームの空間が全宇宙とすると、

    その空気中に浮かぶ、見えない位のチリひとつ、

    それが、我々の意識で捉えられる目で見える世界です。





    我々の五感では、この世界をすべて掴む事はできません。


    この世界の真実は、我々の五感で、感じられないモノです。

    つまり、感覚・心・意識で解るようなものではない。と云う事を、、、

    是非、体得なさってください。

    そうなられるように祈りながら、記事を書いております。   ほほ。


    この壁を突破しないと“内因”のお話は分かりません。









    今までの記事に書いて来た意識の目的を確認します。


    我々の感覚器官の発達の目的は、如何にして生き抜いていくか?

    その為に、我々人間は、前頭葉を発達させて来たのでした。

    猿との違いはそこです!    あはは。


    食べ物を手にしようと生き抜いて行く時、その瞬間、必死なのですから、

    余分なものは見る余裕がない。集中とムダの排除が行われます。

    この世の正義より真理より、何より食べ物が大事!    あはは。   

    目の前の現象(食べ物)を手に入れなきゃ死ぬだけですから、、、


    衣食足って、礼節を知る。     あはは。


    それが、『陽』の世界です。

    此の世は、無常の世界ですから、現象は、瞬く間に消えます。

    掴まえなければ逃げていく獲物を追いかけ、

    手にした食糧は、食べたらすぐに無くなってしまい、

    満腹になったお腹も、すぐに又、へってしまう、、、  あはは。

    また、食べ物を探さなくては、、、それが意識の役割です。

    効率と、競争が、当たり前になるはずです。   ほほ。


    ★ これこそが、『陽』男性の役割、生産性の向上と持続です。

    これなくして人類は生きる事はできません。

    しかし、これだけでいいとは、誰も思いませんわ! ね。

    『陰』を忘れてはいけませんわ、、、。


    意識が成し遂げたものは、

    火の獲得から、その炎、大地、流れる水、樹木の枝葉、果実、鉱石、

    これらが、五行と云われるものです。

    それらを利用した道具、畑、家、船、車、武器、携帯、人工物すべてです。


    これらは、大雨の濁流に流され、竜巻のような強風で吹き飛ばされ、

    火事で燃え、地震と津波で木端微塵(こっぱみじん)になってしまう物、

    失ってしまうものです。 すべて壊れる物です。


    つまり、『陽』・意識・我々の五感は、

    滅び、破壊され、流され、燃え尽きる物を対象にするのです。

    永遠に不滅な真理を対象にはしていません。


    なぜなら、目の前の状況からどう生き延びるかのセンサーですから、

    その光が今、地球上に炸裂している。

    地球のバランスを崩すほどにです。



    それはそうです。

    近代合理主義が地球を蔽って、無意識を排除した為に、

    意識が『陰』の領分・真理を追求し出したのです。


    科学とやら、、、学問とやらで、、、真理を追究すると!

    それも、経済発展の為ですって!!?


    ちょっと、待って!  PLAY BACK!   あはは。

    これが、とんだ倒錯、大間違いです !

    意識の大暴走です !!!!!!


    意識は、意識の役割だけなら立派なのに、、、

    意識の悪口を言わなきゃならないのは、このせいなのです。


    意識は、放っておいたら何でも、

    自分の欲のネタにしてしまうのですね――。   

    ウソの真理を本に書いて、売ろうとする ?!!


    まず、真理は、文字で書けない事すら分かっていないし、

    言葉、知識、で表現できるほどヤスイものじゃないのが分かっていない。



    そうです! 臓器どころか、卵子や精子まで取引をするのですから、、、

    いいえ、お金は介在していなくても、心の取引はやってますね。




    実は、


    ★ 真理や重要な事は、五感では掴めないようになっています。

    意識の習性を知り尽くした『陰』の智慧が、真理を悪用されないように、

    無意識下に秘しているからです。





    だから、私たちの五感で、目を皿にして探しても、

    内因を見つける事はできません。      ほっ。

    これから先は、

    五感の届かない世界へ行くつもりで、お読みになってくださいね。

    つまり、、、それは、無意識の世界へ行くつもりで、、、あはは。  

    無意識の世界の事は、まあ、窺(うかが)う、程度なら、

    こうではないかと窺う程度ならできるかなと思います。


    お互いに窺いながら、、、です。    あはは。






    では、具体的に、

    内因がある。と云うが、どこにあるのか?  その場所です。



    内因は、意識で捉えられない場所にある。

    つまり、無意識下の世界です。




    無意識下のどこに ? 






    これについては、2011年 10月 23日の記事、

    無意識の不思議 7  天台の『九識』/無意識の普遍性 (因果応報)
    に書いております。(クリックして、記事の中程あたりをご覧ください。)


    天台の『九識論』には、

    第一識、第二識、第三、、、、、と来て、

    8番目の第八識の中に、

    自身が過去から積み上げて来た善悪の業が蓄積されてあるとあります。



    私達の悲しむ声、心、行為も、

    喜ぶ声、心、行為も、

    憎しみの声、心、行為も、、、、、   すべて、、、

    身口意の三業となって、第八識へ蓄えられて行きます。


    蓄積された善と悪の業を「 因果 」として、


    それが善業なら「 因果 」の果報として楽を生じさせ、

    それが悪業なら「 因果 」の果報として苦を生じさせる源泉となる識が、

    『 第八識 』です。


    自分が、事の善悪を意識できないまま為した行為も、

    無意識の深い処にあるこの第八識が、事の善悪を区別、覚知しています。




    私たちが、普通、環境の中で、情報を見て聞いて触って、、、

    私は、、、好きだ、、、キライだ、、、辛い、、、考える、、、思う、、、感じる

    と云うのは、第五識なのですね。


    その次の第六識は、自分の五感に振り回されない自己認識です。

    やや自立した自分を意識できるようになります。

    でも、この程度では、第八識の無意識下の自己の為した行為の善悪を

    まだ、恐くて直視できない状態です。 


    エゴイズムが自己防衛をして自己に不利な事を直視させないのです。

    だって、自分が悪業をしたなんて自覚をしたら、

    自分は、もう、耐えられない! 死ぬかもしれない!  あはっは。

    なんとか、誤魔化そうとする意識が、

    自分が悪業をしたなんて云う自覚しそうな意識を捨てます。 あはは。

    普通の人間が、意識できる自我意識は、この辺までです。


    そうして、悪業をした事は、(第八識へ)隠れてしまうのです。

    つまり、悪い行為の事実は無くならないままです。    あはは。

    悪業を為した上に、無自覚にその悪業を隠して、また悪業を重ねる。


    その隠した悪業の積み重ねが、内「 因 」となって行く訳です。

    どの位、悪業が積み重ねてあるのか ?

    どの位、善業が積み重ねてあるのか ?  


    そもそも、いつからの悪業や善業が、カウントされているの ?  

    無始以来です。 ( 始まりの無い初めからです。 )

    えっ! 生れる前からの、その前からの、その又前からの、、、

    キャ――っ、   もう、止めて鬱になりそう !    あはは。


    意識は、内心は臆病だから、

    直ぐに計算をしたり比較をして、耐えられないのです。  あはっは。 

    そこが、意識の能力の限界です。


    それもあって、意識できるのは、その辺りまでになっているのでしょうね。


    ―――  ほほっ。








    この場合の災害は、昨年の 3.11 地震と津波の天災に、

    福島の原発事故が重なったものでした。



    被災地の人々が主に、その内因を持っていたと思うのはどうでしょうか?


    たしかに、その運命の位相を考えると、濃いグラデーションかも知れません。



    しかし、同じ日本に同時期に生きている我々も、

    グラデーションの差こそあれ、同じような内因を持っています。

    大きな広がりで言えば、

    原発や放射能の恐怖を他人事と思えない地球上に生きている人々もです。


    この同時期に、生まれ合わせている事も、因あっての事です。






    これから起こるとされる南海トラフ地震の予想ですが、

    内閣府の作業部会の代表でもある関西大の河田恵昭教授が、

    7月6日、大阪市の講演で明らかにしたのは、

    静岡から高知にかけて、死者数が40万人に上ると云う試算です。

    津波の死者数は、静岡、愛知、三重、和歌山、徳島、高知で36万人。

    地震では、大阪、兵庫で47000人。

    教授は、「40万人は、絵空事ではない。」と話しています。




    内因が、それを実現する外因と出会うのは、「時」の問題です。




    それと、もう一つは、場所の問題です。 



    地震や津波が起こる土地に、

    その土地に住んでいなければならなかったと云う内因です。



    なぜ、そこへ住み着いたのか?

    なぜ、そこに住んでいる家族の所へ生まれて来たのか?

    一言で言うと、『縁』があったのです。

    なぜ、『縁』があったのか?

    それは、もう、それぞれの第八識に訊かなければ分かりません。




    『内因』の積み重ねが、ある量まで達すると、

    コップが一杯になると水があふれ出るように、

    あなたに対応する自然の『外因』が呼応し、報われるのです。

    報われるとは、良い事も、悪い事にも通じます。

    科学的に言えば、エネルギー不変の法則。

    質量保存の法則。

    三業が環境に放出したエネルギーは、消えません。

    必ず次は、そのエネルギーは、あなたへ向かってやって来ます。

    これが、この『陽』であるこの世界での現象化です。

    本人が、意識もしていないし、忘れていてもです。

    それが、幸運なのか、不運なのか? 

    調和を求めるエネルギーが、意識界、現象界へどう現れるのか?

    運命学は、命式からそれを読み取ろうとするものです。


    自然界で起きる災害は、そのように、

    今までのあらゆる私達の道理に反した意識の積み重ねが、引き起こします。




    儒教には、災異説があります。 董仲舒の災異説ですが、

    古代中国では、

    自然の恵みを「天賞」と言い、自然災害を「天禍」と言いました。


    自然の摂理を、皇帝が遵守すれば国政は正しく機能し、

    天はそれを祝福して「天賞」を下す。

    逆に自然を無視する国家には, 天は災害や異変という「天禍」下す。

    すなわち、自然現象を善政か失政かのバロメーターとしました。


    (『尚書』の「洪範九疇」の第八「休征」及び「咎征」)


    周公載紀には、

    「天下太平にして、国に夭傷無く、歳に荒年無し。此の時に当たり、

    雨は塊(つちくれ)を破らず、風は條えだを鳴らさず。旬にして一たび雨ふり、

    雨、必ず夜を以てし、丘陵・高下と無く皆な熟す」


    (水旱第三十六)

    徳性のある政治が行われると、

    陰陽が調和をするので天体の運行は狂わず、

    風も雨も時節を得てちょうどの時に吹き、雨は夜に降る。と言うのです!

    大地では、高地であろうと低地であろうと、すべて豊作になると。

    内面の個人的善行が必ず外に漏れ出て聞こえるように、

    天が地上の善政に感応して幸いをもたらす。と言うのです!。



    このような考え方は東アジアの儒教文化圏では今なお生きています。


    仏教においても、

    大小の三災(水災、火災、兵災)が起こる原因について、倶舎論巻12に、

    どこに起こるかまで書かれてありますよ。

    正法を謗(ぼう)ずる=批判する事によって起こる7種類の災難については、

    仁王経巻下、薬師経、金光明経巻三、法華経観世音菩薩普門品第二十五、

    天台大師の観音義疏巻上に、詳しく書かれてあります。



    いわゆる、我々の心が自然に感応(かんのう)すると云う原理ですね。


    現代人は、このような智恵を失っています。

    現代人が最高の価値をおく意識では、

    掴もうとしても掴めない。  そこが、『陰』の世界です。

    知ろうとしても知る事ができない。



    そこの存在をうかがうようになる。


    うかがうとは、知るとは違います。




    前回紹介したニールス・ボーアや福岡 伸一氏は、

    自分の専門性の中から、その専門の限界線をみきわめて、

    人間の感覚器官の矮小性に気が付いた科学者の中の先駆者です。



    つまり、


    自分の命を産みだした、この世界の広大さ、奥深さ、無限さに

    頭を垂れるようになるのです。 



    しかし、

    西洋文明、西洋哲学、近代合理主義を信じ、頼っている

    経済界や政治家の遅れている人々は、

    この世界が、人間の意識では掴めない事がまだまだ解からないのです。


    つまり、まだ、自分の感覚で世界を知る事ができると思っているのですね!





    この前の記事で、

    近代合理主義の大きな咎(とが)は、

    この生命の出処である無意識の領域を、理性の思考から外した事です。


    と、書きました。


    この咎(とが)を、

    社会的に証明するような大失敗が福島の原発で起こった。
    とも、書きました。
     

    この事故は近代合理主義の敗北です。 




    なぜなら、

    大自然を無視して、人間の意識だけで勝手にロジックを作り

    その中での「安全」だなんて ! 言って来た訳ですもの、、、


    人間がコントロールできない力がある事を無視をして、

    その力が、土地や海を司っている事は、事実であるにもかかわらずです。


    人間の意識による近代理性の合理性が、自然に敗れたのです。






    生死の問題(自然)を乗り越えていない意識は、

    敗れた事も認めずに、何も変わった事がなかったかのように、

    分らない処は無視したまま、

    今回も≪政治的に≫安全だと言い切りました!

    こんな程度の低い意識に囲い込まれた意識中心の学問や政治に、

    我々が、人類の未来を預けると云うのは、いかがなものか?、

    意識は、意識の能力の範囲で止めるべきです。


    この意識の思い上がりを止めなければ、、、、

    量子物理学の世界から、なんと遅れている事か...???








    災害に遭われた人々の心の深層の処では、

    さまざまな葛藤が生まれているだろうと想像をするしかないのですが、

    それは、建物を復興する事よりもむずかしい、、、

    それでも、生きなければならない現実の表層を抱えて、

    痛む心の深層は、、、いかばかりか、、、




    この結果をもたらした、

    意識の思い上がりを止めなければ、、、、

    量子物理学の世界から、なんと遅れている事か...???





    今回の災害時には、被災地にいなかった我々も、

    わずかな時間差で被災者になる可能性はゼロではありません。

    今の時に生きるすべての人間に共通なのは、

    共に、近代合理主義のロジックの中に閉じ込められている事です。



    本当の自然『陰』・無意識を排除して、

    意識の囲みの中だけで、安全、と判断する事とは ????

    これは、いったい? どう云う事を意味するのでしょうか ?



    1995 年(平成7年)1月17日(火)に発生した阪神大震災で、

    大阪や神戸の数ヶ所で、

    あるオーナーの所有するビルだけが、全部倒壊しませんでした。

    ふしぎな事があるものだと思った事があります。



    何事があろうと、

    みなさまに、不思議な事が起って、

    不幸中のさいわいに恵まれますように祈っております。


    コメントの最後の部分、


    ② 人生の不公平には

    因果(無意識)が正しく働いているようには思えないのです。



    は、次回へ廻したいと思います。



    なお、来週末は、連泊で登山へ行く予定です。

    申し訳ありませんが、次回の更新は不定期になります。


    ご了承ください。


    では、よき一週間をお過ごしくださいね。


























    参考:『 科学者たちは、なぜ見誤るのか?』

        著者:福岡 伸一  (講談社現代新書)

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
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    コメントへのお返事 6. (あれから一年 2.)    東洋の 「因」と「縁」

    Category : 東洋思想
    上高地の 一位 (イチイ)の木





    一位の樹


    その昔、天皇など高位の人が手に持つ笏(しゃく)を作った木


    江戸時代、江戸で度々の大火があり、各藩の大名屋敷が焼けました。

    大火の後の各藩の大名屋敷再建ラッシュ時には、

    その建材である良質の材木の供給地として、

    松本藩の藩主が、高級銘木材の植林をした為に、

    現在でも、その名残りで珍しい銘木の樹木が残っているようです。










    先週の金、土、日で山登りに行きました。


    東京では、7月にお盆をしますから、

    翌日からは、毎日、静岡、関東近県の墓参へ行っておりました。

    暑いですね~!

    中央道も、先日は30km渋滞に遇いました。


    また、先週は、訪問鑑定で長野にも行きました。

    その時、美ヶ原に寄って、きれいな青空を写真に撮って、、、

    もう、いつ、どこへ行ったのか ? 分からなくなりそうですが、、、

    連泊の登山から帰りますと、身も心も、頭の中は特にですが、

    ホーホケキョ 沢の水、サワサワと揺れる葉の音、雨から霧から青空、

    目の奥にも、耳の奥にも、自然の中で過ごした余韻が残っていて、

    現実の都会の中の生活に違和感があります。

    10日間位は、まだまだ山の記憶の中を彷徨っています。







    さあ、今日の記事は、


    コメントへのお返事 6. (あれから一年 2.) 東洋の 「因」と「縁」






    前回の記事のつづきから、、、

    ”あれから一年 2 ”の記事にいただいたコメントの中で、

    ② のコメントの処でした。



    人生の不公平には

    因果(無意識)が正しく働いているようには思えないのです。




    なるほど ! たしかに、 

    意識で捉えられる範囲内では、それはそうですね! 

    この意識は、第五識までの意識ですよ、、、


    でも、それを不公平と思う、、、意識の為せる業ですね!


    心でそう意識しても、そのままにしておけば、

    その疑問を何時か忘れてしまい、いつのまにか意識しなくなります。

    どうでもいい、と、脳の前頭葉がめんどうくさいと無視をして、

    つまり、無意識の領域のダスターシュートへ捨ててしまいます。


    そう! 第八識にその意識は埋もれてしまうところを、

    ・・・・・・・・・・

    それを、このように因果はおかしい ? とコメントくださると云う事は、

    ご自分の意識が、

    第五識から、より深い第六識の方向へ潜行しようとしているのですね !

    いい事です。  さすがですわ !   あはは。


    真理の探究者。




    なんだか、今日もややこしい ? むずかしくなりそうです。

    記事が難し過ぎてコメントができない。

    そう云う苦情を、よくいただきます。   ほほ。

    本当に申し訳ありません。。。


    むずかしいのは、まったく当たり前で、

    なにしろ、五感でつかめない無意識の世界を窺(うかが)う、なんて事を

    やっているのですものね。

    でも、これを窺うとは、すごい事 ! すばらしい事です。

    東洋哲学の境地に立てれば、

    現代文明は、あなたの両手に抱いた小鳥のようなものです。




    では、ぼちぼち、

    行きまひょか ?    あはは。




    まず、前回の“『陽』の世界の現象は、内因と外因の一致で起こる。”

    と云う事について、今日の記事と関連がありますので、

    運命学的に説明をしましょう。




    運命学的に、ひとつ例を挙げます。


    あのう、冒頭から、痴漢の話などを、、、、、致しますが、

    お許しくださいね。

    一番、見ず知らずの人間同志が、事を起す単純な構図なのが、

    例として分かりやすいのです。     あはは。

    ビジネスや恋愛、結婚の出合いのたとえでもいいのですが、

    それらはちょっと複雑過ぎるので、、、ご了承ください。




    痴漢と云う事件が起きるには、

    痴漢をする人間と、される人間が出会わないと起こり得ません。

    どう云う事かといいますと、

    痴漢をする人は、誰彼なく出会った全ての女性を相手にする訳ではなく、

    また、

    被害に遭う女性も、誰彼なく出合った相手から被害に遭う訳ではない。



    痴漢をする人は、

    深くは第八識の自分の業に染められた無意識的な衝動に駆られ、

    その無意識の衝動を実現する為に、意識が周りの状況を把握しながら、

    それなりに状況、人、場所を選んでいると思います。 

    そして、その機会というのも探っているはずです。


    被害に遭う女性と云うのは、

    被害に遭うべく運を持っていた、、、

    その状況( 痴漢をしようとする男性 )にちょうど、合って、近くにいた、 

    その時と、場所との巡り合わせが、合致してしまったのです。


    なぜ、その時と場所に居合わせたのか?

    居合わせる内因を持っている。 

    それを「縁」が、「外因」に結び付けるのです。






    運命学の災難、遭難運は、

    災害に遭う運命、あるいは短命、怪我運、事故運、命の危機、手術など、

    病気の発病、両親に縁薄い運命、家族運の衰亡、財(妻)を失くす運命、

    性的トラブルに巻き込まれる運、いわゆる男難、女難の相、浮気運、

    元々の孤命(一人ぼっちである運命)が実現する運、

    これら、命式の中に表われているサインを読み取る事です。




    どう云う運を持っているのか ?

    それは、どれほど可能性があるのか ? 

    それは、いつ?  大事なのは、時なのです。

    そして、それらを、未然にどう避けていくのか ?

    避ける為には、どうするのか ? 



    それを観るのが、運命鑑定なのですよ。    








    つまり、痴漢とは、運命的に、

    ① 二人の命式において、起こりうる『時』の巡りが合っている。

    ② 痴漢を為す可能性と、される可能性のある運命が出合った場所。

    それらの諸条件が揃う時空間が実現して、その内実が惹起するのです。 





    つまるところ、当事者は、そうなる内因を持っていたとも言えますね。

    それぞれの命式の中のサインが、もっとも具現しやすい「時」に、

    お互いに、その相手になる外因に出会って意識化(実現)するのです。




    その時、双方に内在するそれぞれの運命が、

    ちょうどの相手の助縁によって意識界へ具現するのですね。


    これが、運命が実現する仕組みです。

    つまり、目には見えないが「内因」として持っていた運が、

    我々の五感で意識できるように 姿・形を伴った物理的現象となる。

    見て聞く事ができる = 意識で捉えられる世界へ出て来る訳です。






    願いや思いが叶う。 目的を達成する。 そのシステムです。

    ものごとが動く。 その全てがこの仕組みです。






    ここが、大事です!


    双方に何もなければ、内因がない時空間には、何も起こらないのです。

    恋愛、結婚、人の出会い、すべてそうだと思います。



    たとえ痴漢行為者の内因を持った相手であっても、

    万が一、同じエレベーターに閉じ込められたとしても、    ほほ。

    自分の運命が良好であれば、何も起こるはずはないのです。







    結論を言いますと、


    上で、紹介した運命学の遭難運のサインが

    命式の中に、ない場合は、

    たとえ、大災害地に居住し、遭遇したとしても、

    そこが本人個人の死地、害地とはなりません。

    前もって、災害を逃れられるような行動をとるものです。




    しかし、家族と云えども、運命は、各自違いますから、

    ご家族が、いつも、皆、同じようになる保証はありません。





    前回の記事に、次のような鍵コメントをいただきました。

    (一部編集、省略をして公開します。)




    友人の話ですが、

    阪神大震災の時に住んでいたマンションが全壊しました。

    築年数自体相当古かったみたいですが、むしろそれが自慢で、

    「昔、異人さん向けに建てられた由緒あるマンションなんだ」と話していま

    した。 震災の前日から、上の子どもの体調が悪かったことで、

    友人は子ども2人を連れて実家に戻っていたそうです。

    また、ご主人は、東京に出張中でした。

    住まいも家財も「全部」使い物にならなくなったけれど、家族4人は無事で

    した。 マンション住人には怪我人が多く出たと聞きました。

    この話を聞いたとき、「こういうこともあるんだ」と思いました。


    当時、私は大阪に居ました。

    自宅はかなり揺れましたが、被害は全くありませんでした。

    前日の夜まで、関東にある主人の実家に泊まりに行っていました。

    一日ずれていたら家に戻れなかった。と話したのを覚えています。

    私は父が転勤族なので、今まで数回の引っ越しを経験しています。

    あの土地に住まなかったら経験できなかったこと、

    また、あのタイミングで引っ越ししたから逃れられたこと、

    沢山のエピソードがあります。

    「その時どこにいるか」「あのときああしていたから」など...

    大きなことですね。

    年を重ねていろんなことを経験するにつれ、

    あらゆることが 「“偶然” じゃないのかも...」と思います。






    そうですね!  すべて必然なのですよ。

    貴重な体験をどうも、ありがとうございました。



    『天』の為す事に、一つの無駄もありません。 











    東洋哲学の最高峰、仏教では、これらの説明はこうなります。



    よく、「因縁・いんねん」がある、とか、

    これは「縁起・えんぎ」がいい、わるい。とか言います。


    「因縁」も「縁起」も暗い古臭いイメージがありますね。 

    本来の意味は、次のようになります。


    「縁」とは、「因」が「果」を生じる時に助ける要因です。


    花で譬えると、花を咲かせるのは、まずその種が、あっての事です。

    種がなければ、芽も葉も出て来ないし、結果の花を咲きません。

    花の種 = 「因」になります。


    しかし、種だけでは、花 = 「果」は咲きません。

    そこには、土、日光、水がなければ育ちませんね。

    これが「縁」です



    また、重要なのは、「時」です。

    種を植えて、土、日光、水があって、「時」が経って、花は咲きます。

    この「因」と「縁」が出合って和合をして、「時」をかけて、

    初めて「果」が実る。 花が咲く訳です。



    それぞれの内部に持つ「因」が、その「因」にふさわしい相手に出会う。

    それが、「縁」です。

    そして、「時」が、「因・縁」にふさわしい「果」を 運(はこ)んで来る。 


    「時」が運んで来るモノが、運(うん)です




    どう云う花になるのか?




    それは、第八識に積み上げられた、『業・ごう』次第です。

    ここで、さまざまの差が、違いが生れます。

    これが、因果応報の仕組みです。



    人間の意識自体は、透明でも純粋でもありません。

    また、一人一人が持つ五感・意識は、同じではありません。


    それまでの過去のいろんな欲望の業に染まっていますから、、、

    清浄な状態ではなく、歪み、癖、いびつさを帯びているものです。



    実は、その個人の五感の違いは、

    命式の違いから生まれて来るのが分かっています。




    これが、さまざまな運命に違いが出る理由です。





    どういう花になるのか?





    どういう花になったにせよ、その姿は、

    自分の作った業に因って、そうなるしかなかった正解の存在です。



    因果応報の答としての姿形は、間違っていないのです。

    どんぴしゃの正解です!!!!!    あはっは。




    それはつまり、


    存在の一つ一つを他と比べてどうだと云う次元のものじゃない。

    これは、他と比べる物ではなく、それぞれが絶対的な存在です。



    人と人とは、比べられる存在同士ではない。

    比べるのなら、同じ人の過去と現在、又は未来における違いです。




    因果応報のルールに則った姿形を表している訳ですから、

    そう云う意味では、

    だれびとにも絶対的な公平さが貫かれています。

    その因果律のルールにおける扱いは、全ての人間は平等なのです。




    これが、『陰』の世界における本質論、平等です。


    近代合理主義の平等観と、一緒にしないでくださいね!   ほほ。





    『天』は平等で、依怙贔屓(えこひいき)はありません。




    しかし、

    現れ出た姿形は、あらゆる位相においての差別相があります。

    この差別相が現れる世界を、仏法では「世間」と言います。


    それが、中国の陰陽学で『陽』と云う現象世界・この世です。

    この現象界・『陽』は、あらゆる差別相が現れる世界です。





    この差別相を以って、この現象界で、競争をしてしまうのって ?

    なんなの ??????

    この差別相を以って、この現象界は、不公平と言うのかしら ?

    しかし、ちょっと、考えてみてくださいって ?





    ここで、

    カール・マルクスの古典的著書

    『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』から

    有名な言葉を引用します。


    人間は自分自身の歴史を作る。

    だが、それを、自分の好きなように作るわけではない。

    自分の選択した状況の下で作るのではなく、

    過去から与えられ、伝播された、すでに存在する状況の下で作るのだ。
     





    いかがでしょうか?



    私たちは自分で思う程、自由ではありません。

    自分の意識が好きなようにしていると思うのは、勘違いです。

    たかが狭い意識の能力では、そこまでの力はありません。

    過去から与えられた「因」と「縁」、業から伝播された意識の癖、

    生れた時にはすでに存在した家庭家族状況の下こそが、

    自分の過去からの因果応報、運そのものなのです。



    もしか、私たちが、この差別相に囚われたら、

    何も真実は見えなくなります。



    意識に偏ると、現象の表面を真実だと五感が受け取るのです。

    これが、近代合理主義そのものの癖です。

    五感は、現象で騙しもしますが、楽に騙されやすいのです。



    だから、今の文明で頭がいいと云うのは、問題です。

    学歴が高くても、何が真実か? 

    まったくお分かりになっていない御仁が、多すぎですわ!  あはは。





    人間の意識は、真実を蔽い隠します。

    これは、原発の安全性の問題、滋賀のイジメの問題、みなそうです。


    しかし、自然は、日常の中に、真実を暗示しています。

    それを読み取るか、どうかは、

    あなたが日常に馴れた五感の意識を捨てられるかどうかです。


    海の沖の方から寄せ来る波立つ白波を見ても、


    きれいだな、でも、波は波なんだ。 と、

    そう思ってしまえば、そこまでです。 あはは。

    そうすると、


    海の底が見えないまま、もう次の波に囚われて、、、、、、、

    囚われて、波に翻弄されるだけです。

    囚われる自分に疲れると、波が悪いのだ! と。。。   あはは。





    これでは、永久に、

    寄せ来る白波は、大きくは月の引力が海の水を引っ張っている、からだ

    なんて、気が付かないままでしょうね。     あはは。





    何が、その波を起こしているのか...?





    何の為に、そこに月があるのか?





    ただ、『天』の目的は、調和です。


    あなたと『天』との調和だけではありません。

    あらゆるもの、すべてとの調和です。




    それが、見抜けていない科学者達は、

    地震などの予想を聞いていましても、

    どうも、自然は勝手に動くと捉えているようです。 


    学問からしたら、人間にとって自然は、勝手なのでしょうね。 あはは。

    この受け取り方こそ、西洋二元論、自然に対決しようとする観点です。



    どう勝手に動くのか? それを知らない今の科学は、

    電子望遠鏡や顕微鏡で部分を覗いて、それが、自然なんだ、

    自然を解明した、としますが、とんでもない!

    はっきり言って、自然に対して、無知なのです。


    まだまだ ”分かっていないと言う事”すら、一般的ではありません。

    科学に疎い我々は、一般人は余計に、

    科学は、自然に勝っているイメージを持っています。

    だから、フクシマの人たちも、原発を自ら誘致したのです。


    無知なら無知で、自然・『天』に従うしかないと思う方が、まだ、マシ。 

    救われる要素があるのですが、

    近代合理主義の現文明は、隅から隅まで、、、ズズ、ズイと、

    自分の意識で分かった範囲を、”解った”とする傲慢さが悪です。  


    あぁ、この乖離を、どうしたら埋められるのでしょうか?




    意識で認識したものを知識とするなら、

    知識で、未来など、解るわけが無いのです。  

    当たり前のことですが、未来は五感では捉えられないのですから。

    未来は見えないし、手で触れませんでしょう? 


    それが、どこかで、科学は人類の未来が解ると錯覚をしている。


    この意識の思い上がりを止めなければ、、、、




    今、この時代に、一番叫ばなければならないのは、

    近代合理主義による『陰』の抹殺です。= 時代の最大の悪です。


    近代合理主義は、男女平等と云うだけあって、

    女性から母性を剥奪して男性と同じにしようとしている。





    そうでしょう? 

    家庭は電子機器にまかせろ!

    料理は、チンでいいんだ!     

    味付けは、レトルトがあるじゃん!    あはは。

    社会へ出て働け! 子を預けて働け!

    男と同じ『陽』の価値観の中で競争をして生きろ! 

    社会で一番重要なのは、命よりも経済なのだ!

    誰もが逆らえないこのリズムが、近代合理主義なのです。

    ある意味、軍国主義の靴音に似ていませんか?

    男女の結婚、子孫が栄える訳がない!

    経済が伸びる程、命が衰亡しているのが分からないのかしら?


    この中で潰されるのは、子供です。

    教育の現場が、『陽』の大過、命を守るイニシアチブが全然ない!

    『陰』の存在しない教育現場には、

    『陽』の警察権力で抑圧するしか方法がないのでしょう。



    いじめの自殺から、もう気が付かなくてはいけないわ。



    女性の中から、『陰』の本質を奪う。

    それは、生命を生む母性の退化であり、自然の破壊であり、

    命の誕生の消滅です。

    それは、男性にとっても日々の生命のみずみずしさの喪失です。




    この『陰』の衰弱が、『陽』の大過につながり、

    『陰』と『陽』のバランスが危機的状況になっています。





    その『陰徳』を無視し、存在を否定する今の文明は、

    生命誕生の仕組みを、無視する憎っくき文明です。

    ここが、あらゆる悪の中で一番手前にある悪ですね。

    奥には、もっとすごい悪が隠れていますよ!  はっは。


    本質的平等など『陽』の世界にないものを、

    自由・平等を実現したなどと平気で言う。

    なんと、軽薄な!!!!!! 身震いがします!


    本質的自由と平等は、『陰』の世界にしかないのですよ。




    現文明、近代合理主義は、

    此の世の真実を覆い隠す、人心を迷わせる悪鬼です。




    最後に大事な事を二つ、

    痴漢などは一時的な事件ですが、

    恋愛、結婚となれば、一時的な関係ではありません。

    その時に、彼、彼女が、運命の人かどうか、それらは枝葉の事です。

    あなたがその時、運命的にどう云う時なのか?   

    これから、どう云う時に向かっているのか?

    あなたの生涯の運命はどうなのか?

    その事こそ、大事です。


    すべての「因」は我にあり、です。




    もう一つ、

    たしかに、誰しも運の得意、不得意の領域があります。

    それを知る事は、とっても大事です。

    それを知って生きる力にして、余裕を持つ。

    あるいは、知る事で、災難を避け、凶事の起こる事から逃げる。

    悪「縁」を断って、謙虚に善「縁」に近づいて行く。


    それは、ずるさではなく、

    自分の役割を知って、他と比較をせずに、

    自分固有の運に自信を深める事です。

    そして、すこしでも誰かの役に立とうとする心地を取り戻す事です。



    たとえ、悪い環境に在っても、その中で、

    どう云う「因」を、積んでいくのか?


    それが、生きている意味、チャレンジですね!

    是非、孫子の代まで幸多かれと、

    伝えて行けるような「因」を積みたいものです。


    それこそが、あなた固有の運命の中から、

    あなたが掴む、本質的自由です。

    この自由は、過去現在未来に亘って、

    だれ人からも犯されるものではありませんわ!




    あ、そうだわ!

    一番大事な事を忘れていました!

    自分の積んだ業からの因果応報は、

    自分の一生に報われるとは限りません。

    これは、善悪に通じる事ですが、、、

    最良なもの程、より最悪な因果応報ほど、先の子孫へ伝わります。

    祖父の女道楽が、愛孫娘の人生に影を落としてしまう。。。

    取り返しのつかない事になってしまうのですよ!


    それを、折々の鑑定経験から見聞きして記事にしたのが、

    ( 命の継承と運命 )シリーズです。 


    次々回くらいからのこのシリーズの記事等もお読みになってください。 





    まあ、大変長くなりました!

    最後までお読みいただきまして、感謝です。

    コメントのお返事は、今回で一旦、最後とします。

    また、機会を見て、続けたいと思います。



    次回は、別のシリーズの記事に、

    更新は、来週の週末の予定になります。



    よき、一週間をお過ごしください。



























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    ★ 合理主義へのアンチテーゼ・東洋の暦     「五黄土星」  「二十四節気」

    Category : 東洋思想
         ---- 1月 12日   富士山 二題      
       

         

         ≪高尾山頂上からの富士山≫ 


          わかるかしら? ぬーっと飛び出た真ん中のうっすら白い部分、     


        
        ≪帰りの車窓からの富士山≫

                             
         



     
    今年の山登り事初めに、高尾山に足慣らしに行って来ました。

    頂上は、好天気だったせいもあって大勢の人。

    実は、雨天でも高尾山は大勢の人なのですよ、、、  あはは。

    最近は、背が高くて足の長い、まるでグラドル? よりも可愛いわね!

    カラフルな登山着の女子の2人連れをよく見かけます。
                      
    長い茶髪をたなびかせて、軽快に登って来る彼女たちは、

    カモシカ? を思わせる様な存在感がありますね。

    この日、羽田から来たと云う二人連れと写真を撮り合ったりしました。






    今日の記事は、


    ★ 合理主義へのアンチテーゼ・東洋の暦  「五黄土星」「二十四節気」  





    今日は、おもいっきり、『時』の特集でございます!   ほっ。

    今年は、「五黄土星」・(ごおうどせい)の年です。

    大阪市立の桜ノ宮高校生の体罰の翌日の自殺事件や

    アルジェリアのテロ事件で日本人が10人も無辜の死を遂げられました。

    心より、お悔みと哀悼の意を表わさずにはいられません。

    今回、「五黄土星」を取り上げますのは、みなさんへ警告の意もあって、

    今年一年間を、細心の注意と慎重な判断をおすすめします。

    いいえ、又、新規事業を立ち上げるのにも良い機会なのですよ。


    ほほっ。


    「五黄土星」は、九星気学の中の星のひとつです。 詳しくはここ へ,


    「五黄土星」は、9年おきに必ず寅年、巳年、申年、亥年に巡ります。


    五黄の象意は、人の上位ですが最高位の帝王ではなく、

    次、帝王を脅かして自分が帝王になろうとする有能な宰相の位。

    よく、帝王の位であると書かれていますが帝王ではない。



    帝王は成り上がった果の位です。

    帝王になってしまったら、勢いは落ちるしかないのですね。  あはは。

    ここが、東洋のすごい処です。

    「時」の推移の先を読んだ上での現在、、、本質を観ます。

    常に、東洋は、『時』を物差しにしています。


    五黄は、これから帝王に登りつめる段階、王位を目指す位、

    因の位置です。まさに東洋的には、一番強い位置です。

    ですから、勃興する力、何にも屈服をしない徳力を持っています。

    非常に強い、激し過ぎる力です。

    裏の象意は、暴力、死、破壊、甘味、刺客、廃棄物、天変地異、



    甘味とは、おもしろいでしょう?  

    自信から慢心への油断の味、 命を滅ぼす味ですね!   あはは。

    過去の「五黄土星」の年には、次のような事件が起こっています。


       1905年(M33 乙巳年) 日露戦争
       1914年(T 3 甲寅年)  第一次世界大戦勃発
       1923年(T12 癸亥年) 関東大震災発生
       1932年(S 7 壬申年) 上海事変、五・十五事件発生
       1941年(S15 辛巳年) 第二次世界大戦勃発
       1950年(S25 庚寅年) 朝鮮動乱勃発
       1959年(S34 己亥年) 伊勢湾台風上陸(死者、行方不明者5千人)
       1968年(S43 戊申年) 三億円事件、十勝沖地震発生
       1977年(S52 丁巳年) 有珠山大噴火、史上最悪の企業倒産
       1986年(S61 丙寅年) 三原山噴火全島民非難、中国天安門事件
                      チェルノブイリ原発事故発生、   
       1995年(H 7 乙亥年) 阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件発生
                      鳥インフルエンザ発生、
                      スペイン列車爆破テロ
                      スペースシャトルコロンビア空中爆発事故
       2004年(H16 甲申年) 「新潟県中越地震」被災者10万人以上。
                      スマトラ島沖地震で約29万人の死亡、
                      79年ぶりの鳥インフルエンザが山口、京都
                      に発生、アメリカでの狂牛病発生
                      美浜原発で蒸気漏れ事故で作業員5人死亡
                      ロシア、チェチェンのテロで人質330人死亡
         



    さあ、今年は、どんな事が起こるのか?

    慎重さと安全第一を慮(おもんばか)る一年にしてくださいね。






    また、前回の記事の冒頭で、

    運命学の暦は、

    2月 4日 午前1時14分の節入りから、今年が始まります。


    と書きましたら、次のようなコメントをいただきました。

    このコメントへのお返事の記事も兼ねています。


    今回のポイントは、


    宇宙を貫く暦・『時』を、世界の中心に据えて来た東洋と、

    西洋の近代化の基になった聖書の世界 = 世界の中心だった神を

    人間の意識に置きかえた西洋との

    比較になります


    それは、つまり、

    近代化以降の我々が、

    宇宙を貫く東洋の暦・『時』を中心に置いた世界観を失い、

    西洋の(聖書の中に書かれた)神を中心にした世界観、

    近代化以降は神の代わりに人間の意識が中心になった西洋の世界観を

    完全に受け入れてしまっていると云う実態です。。。




    もう一度、繰り返しましょう。


    近代化を受け入れた事で、

    我々の伝統ある世界観が、なぎ倒され、

    西洋の世界観にすり替えられてしまった現実です。

    我々は、先祖が考えもしなかった西洋の意識世界の中に立っています。


    我々は、『時』を失い、『陰』を捨て、

    本当の自然を失い、宇宙即我と云う絆を断ち切られて、

    近代化の暴風雨の中、

    そう、意識を中心に祀った世界の中に立っています。



    ・・・・・・・






    本来は、膨大な記事の長さになりそうなのですが、、、 あはは。

    どこまで記事を削れるか? 記事を書く事よりもムズカシそうです。

    何回かに分けてお読みになってください。

    コメントは、①~④の番号、および内容を一部編集をしています。

    質問へのお答えは、コメントに付けた番号順になります。






    こんにちは。

    あれからまた過去の日記を拝見させて頂きました。

    初めはまだ一知半解という感じでしたが、日を経るごとに

    一つ一つの言葉がじわーっと体に入っていくようになりました。

    ② 全ては「時」が大切なんですね..

    自分が生きていることについても自分が今どの位置にあって、

    どこに向かおうとしているのかそういう事に関心が向くようになりました。

    もう数年前の自分とは大違いで、びっくりしています..


    さて、質問なのですが...

    web上で命式判定をしたのですが、

    私は、H1.◯月.◯◯日生まれで土、信に徳が偏っているようです。

    ① 生まれ持った徳の偏りは本人の気づきで直せるのでしょうか?

    ③ 具体的に潮の干満と運命はどのような関係なのか? です。

    ④ 運命学の暦はなぜ2月4日が始まりなのか?

    旧暦とは関係ないですし、本当に??です。




    まず、熱心に拙ブログをお読みいただきまして感謝申し上げます!

    ご自分を見据える事ができるようになったようで、良かったですね。







    ① 生まれ持った徳の偏りは、本人の気づきで直せるのでしょうか?



    命式の中の五行の偏りですね。

    運命学には様々な流派がありまして、命式の立て方が違います。

    元々中国古代の運命学は、当時の都である京都へもたらされました。

    天皇家や貴族、特に安倍晴明の安倍氏(土御門家)が中心になって

    天皇の命で守り伝えて来ました。

    庶民に広まったのは、つい最近、戦後から、

    関西には、正統派泰山流運命学を学ぶ人たちが多くいます。

    東京へ伝わったのは、丁度その頃、

    そう云う事もあるのか、不思議な事に、

    東京には泰山流以外の命式を立てる派があるようです。

      命式の偏った運命自体は、直る? 事はないですが、

    それが、どう云う現象を生むのか客観的に観察をする事は有益です。

    身近な処で、尊敬できる五行のバランスが取れている人や

    自分の欠けている五行を持っている人とは相性がいいですから、

    お友達になって自分を比べて学んだりなさるといいですね。

    又、今後の、命式のテーマの記事を読んでください。




    ② 全ては「時」が大切なんですね..


    さすが! 現役大学生ですね!  ほっ。

    よく掴まれていると思います。


    近代以降、現代人である我々は、

    100%自分の意志で物事を動かしているように思い込んでいます。

    自由な自分の意志で、この世界はなんとでもなる?  あはは。


    なにが自由? どこからが自分? なあんて、さらさら考えないまま、

    『陽』の現象界の波間に浚(さら)われながら

    自分の欲望を、意識を、世界の中心にしているのが現代人でしょう。





    昔の人は、そうではなかったのですよ。



    東洋では、どうだったのでしょう?


    暦を作った古代中国では、------ 清の終わりまで、

    いわゆる、中国が欧米列強に近代化を押し付けられるまでは、

    ------ 正確な暦は、皇帝の為に作られ、皇帝しか持てませんでした。

    皇帝は、天子とも呼ばれ、天(天帝)の子であり、

    天命により天下を治めるとされていたのです。

    人の立つ『地』、人の上にある『天』。

    この『天』にある太陽、月、星などが運行する様子を、

    古代中国で、「天文」と言いました。

    天の文(ふみ)、天にある形や文様と云う事でしょう。


    『人』が住む『地』は、『天』に日が昇れば明るい朝となり、

    やがて昼となり、『天』の日が沈むと暗い夜となります。

    つまり、『人』の一日一日の繰り返しは、

    太陽の出没の繰り返しに従わざるを得ない。

    調和をしなければ生きていけないのです。

    人の生きる事と天文とは切り離せない一体の世界である。

    人の生き死にと宇宙・『時』とは一体である。  

    宇宙・自然と云う『陰』の存在を知ろうとしていたのです。 











    そう云う自然、『天』・時を対象とする東洋と違って、


    近代以前の特にヨーロッパにおいては、  


    神中心の世界でしたから、神の思し召し、、、

    あるいは、教会を支配する王様の思し召し、、、

    西洋では、神の意志を世界の中心に置いていました。


    西洋の世界観は、聖書の書かれてある事を基にして、

    神や神が創造したとされているこの世界のありさまについて

    理解を深めると云う事にありました。

    それが、デカルトが世に出て来るまでのスコラ哲学です。


    (ここまでで、注意してほしいのは、次の点です。

    西洋哲学は、人の書いた聖書の中の世界を基に出来上がっています。

    人の書いたモノは聖書であっても、それは人の意識が作った『陽』です。

    『陽』を対象にして知った世界観は、あくまでも『陽』です。

    また、知ると云う行為も『陽』です。

    書かれている現象(聖書の文章)を、

    環境に支配されている感覚器官・意識の現象が捉えるのですから、

    そこから真理が出て来るはずがないのです。

    出て来るのは、『偽性』を孕む『陽』の部分知です。

    いわゆるロジックです。

    キリスト教を母体とするマルクス主義、資本主義がそうです。

    現代も、ヨーロッパでは、いろいろな思潮が生れてはいますが、

    それのどれも意識の螺旋階段を登ったり降りたりするだけで、

    意識の『偽性』の巣窟からは抜け出てはいない。

    シモーヌ・ヴェイユなど読むと鬱のように暗くなります。 ほほっ。

    それは、なぜか?

    簡単に云うと、東洋の『陰』を知らないからです!   ほっ。

    彼らの云う青空は、本物の天空の青空ではなく、

    人間の意識が捉える観念の中の青空なのではないか?


    自然・宇宙と我とを一つとした東洋の哲学と比べると、

    西洋の哲学は、どこにも『陰』がない!

    そして、

    『時』をまるっきり気にしていません。

    だから、西洋には、無常感がないのですね。

    無常感がないと、常住(と云う概念)すら分からないのよ。

    私だって、無意識界の真の常住なんて掴めていません、が、

    それを意識の言葉で説明をした概念は受け入れています。

    それだけで、この現象界の生き方は違って来るはずです。


    今後、西洋から真に人類を救う哲学が生れるとは思えない。)






    本論に戻ります!


    ここから、

    西洋の世界の中心が、神から人間の意識へ入れ替わっていった

    近代化の話になります。


    スコラ哲学者としてのデカルトの、

    スコラ哲学を論破しようと、全てを懐疑して到達した結論が、

    " 我、想うゆえに我あり "  デカルトが提唱した有名な命題です。

    「想う」・・・事が我の存在証明であったと云う訳です。


    それまでの神中心の世界観に、

    デカルトが、世界認識の中心に個人の意識を持ち出したのです。



    そう云う意味では、西洋哲学においては画期的な事だったのでしょうが、

    デカルトは、次のように言っています。 

    --------- 理性とはあらゆる人間に相等しく備わっている。

    だから、この理性に基づいて真を偽から区別し、

    世界についての正しい認識に達しようと! --------- あはは。


    笑ったらいけないと思いつつ、、、、、   あはは。

    いや~、デカルトは善良な、人間を疑わない人物だったのか?

    自分を自画自賛する為に、わざとこう言ったのか?  


     あはは。 

    そう、たしか、カントに対しても、こう書いた記憶がありますわ!

    西洋の哲学者は、どこかドン・キホーテ的で共通していますね。

    世俗的な事や世知辛い事を御存知なかったのかしら?

    そう! 私は高校生の時に、西洋には飽き飽きしていました!

    10代の私が解ってしまった西洋って何なの? つまらないわ!  


    後で知った事ですが、デカルトのこの命題に対して、

    夏目漱石も、

    『吾輩は猫である』の中で、主人公の猫に、

    「人間は長い歴史の中でこんな当たり前の事しか思いつかない

    愚かな生き物だ」と嘲笑させているのを知りました。  


    あ―――っ、笑ったのはわたくしだけじゃなかった、、、、 ほほっ。




    しかし、本当に困った事に、

    この近代理性を礎にしているのが、日本を濁流で流そうとする

    言うまでもなく近代合理主義そのものなのです。



    この近代合理主義と云う思想が、

    東洋、日本の世界の中心から『時』の重要性を抜き取り去ったのは、

    日本が近代合理主義を受け入れた明治維新からです。

    その結果、一番の具体例は、今のカレンダーです。

    暦は、いつしか、

    月ごとの1~30.31を七曜日に割り当てた表になり、

    365日は、365種類の日ではなく均等な日々の繰り返しです。

    ここで、

    我々の先祖が、

    宇宙における太陽の運行と我々を結び付けて来た絆は、

    見事な位に切断され、

    『時』の意味は消え去り、

    暦が、カレンダー上の単なる順序数になったのです。

    近代化と共にです。。。 。




    なにが、西洋化がいいものですか!!!

    バカバカしい位、愚かです。



    おそらくですが、

    古代中国の皇帝が秘して保ち伝えて来た「暦」が、

    日本の代々の天皇が土御門家に託した「暦」が、

    そのまま生きているのは、今は、運命学の世界だけでしょう。



    ここに、私が、" 東洋の復権を求めて " と叫ぶゆえんがあります。

    ---------


    運命学の365日は、365種類の日々です。

    いいえ、生れて死ぬまでの毎日が、全部異なる毎日なのですよ。

    今日は、昨日とは違う、明日とも違います。

    自分の命式が持つ運命が、毎日新しい軌道を運行するのです。

    日々、是、新(あら)たなる、日との出会いです。 

    暦とは、あなたの命式が辿る運命の運行表なのです。



    詳しくは、又、いつか、、、




    ああー

    デカルトが、神を世界の中心から下ろして、

    人間の意識を世界の中心に据えて、、、、、、、、

    -―――― から、、、400年。

    我々は、長らくデカルトに縛られ過ぎですね。

    その間、東洋は何をしていたのか?



    東洋は、西洋に比較にならない『時』の智恵の蓄積を

    持っていながら、何をしていたのか?



    『陽』である父性社会と云う西洋文明の近代化の大嵐によって、

    『時』も『徳』も、殲滅させられています。



    東洋は、瀕死の状態です。



    日本における、お祭りを見たって分るでしょう。  

    日本のお祭りや行事は、そのほとんどが、

    お正月、五節句のように宇宙の運行 = 『時』のお祭りです。



    たとえば、五穀豊穣を願う春祭り、

    盂蘭盆会(盆)・七夕・祇園祭などの夏祭り、

    収穫直後の秋祭り、

    鎮魂的な意味を持つ冬祭りとされていましたが、



    今や、人々の心の中は、クリスマス、バレンタイン、ハーロィン、

    縁も所縁(ゆかり)もないお祭りを盛大に祝っています。。 。

    もうこの事だけでも、日本人の『陰徳』は擦り切れているのですよ、、、、、



    西洋における行事、お祭りは、神や聖人がどうした、こうした、です。

    神と云っても、『天』の運行となんら関係がない。

    神が、自然、宇宙の運行 = 『時』と結びついていないのですね。

    この世、自然は、神が作ったモノ、神の所有物ですから、

    神と自然が、一体ではないのです。





    では、西洋において自然とは何でしょうか?


    これは、私が山登り中に、山岳ガイドさん達から聞き知った事ですが、

    西洋では、山は悪魔の棲家(すみか)であると考えられていた為、

    山は、悪魔と人間の戦いの場で、登山は山を征服支配する行為です。



    だから、ピッケルやストック、専門的な道具で登攀をする訳です。

    アルピニストとは、器具を使って高度な登攀技術を持った人の事です。




    それとは、まるっきり反対なのが日本人の登山です。

    日本人は古来、山岳を神仏の住む神聖なところと考えてきました。



    その為、勝手に山へは入らない。

    入山と云って、精進潔斎(しょうじんけっさい)、白衣をまとい、

    金剛杖に身を託した様式、形式がありました。

    現在でも、山男と云われる里山を守る活動をする山男達は、

    山肌を傷つけるのを嫌って、ストックなどの使用を喜びません。




    キリスト教の中に、太陽や月を神と観る気配はありません。

    だから、やすやすと、自然を無視できるのですね。





    そもそも東洋からみれば、西洋のように、

    この宇宙は、神中心でもなければ、人間中心でもない。

    あきらかに、ちがうでしょう!

    違う。 と云える原理が、『時』のリズムなのです。

    『時』は、正確な天体観測から生れます。 

    宇宙の運行のリズムです。




    この『時』は、我々の外にあるのではない!

    我々の体内にあるものなのです。



    宇宙の全てと我々人体を貫く、リズムなのですよ。

    故に、我は宇宙である。




    現代人の我々は、

    これに全く添わない行動を、とってしまっていますね。



    伝習録」にある王陽明の言葉、

    「 それ聖人の心は、天地万物を以って一体となす。」

    (道理を分っている聖人にとれば、

    天地に在るあらゆるものは我と一体である。

    自然も我であり、彼も我であり、我も彼である。

    天地万物で、自分のものでないものはない。

    彼の楽は我の楽、彼の苦は我の苦、天地万物は我なのだ。




    私とあなたは一体であり、太陽とも一体であり、草花と一体の私。



    この境地から、どれだけかけ離れた位置にいるのでしょうか.....。


    天地万物を以って、意識はバラバラの体となす。 でしょうか、、、、



    東洋における日本人としての根っこが、ない。

    日本人の大多数の世界観は、『時』や自然が中心ではないでしょう。

    はたまた、神が中心でもない。

    『偽性』の意識だけを頼りに、

    浮き草のような世界観の中で、漂っているようなものです。


    非常に、命が弱っているのです。








    ③ 具体的に潮の干満と運命はどのような関係なのか? 





    我々の生命活動は、宇宙のリズムに貫かれています。

    『時』は、因果応報と云う現象を実現させるリズムです。

    ですから、自分の運命と宇宙の運行とは結びついています。

    特に潮の満ち引きとの関係は、、

    簡単ではありませんので、ここでお答えできかねますが、

    月の力についてご興味があれば、

    「国家の品格」を書かれた御茶ノ水大の教授藤原正彦・美子ご夫妻が

    翻訳をされた「月の魔力」( アーノルド・L. リーバー 著)を

    ご紹介をしておきます。






    ④ 運命学の暦はなぜ2月4日が始まりなのか?




    運命学の暦は、「二十四節気・にじゅうしせっき」から作られています。

    「二十四節気」については

    、又、いつか詳しく記事にしたいと思っていますので、

    今日は、簡単に、要点のみにさせていただきます。



    これは、1年間の気候の推移を示す24の基準日の事で、

    太陽が通過する道 = 黄道上の位置を24等分(角度で15度)し、

    その点を太陽が通過する瞬間で決定します。

    その通過点の呼び名が二十四節気です。

    太陽は、1年かかって又元の位置にもどる訳ですが、

    その太陽の移動によって春夏秋冬の季節の変化が起こります。

    二十四節気では、立春から翌年の節分(立春の前日)を一年とします。

    いわゆる節分はその1年の最後の日=大晦日です。

    「福は内、鬼は外」と豆を撒いて過ぎし1年間の邪気を追い払い、

    翌日からの新年の為の準備をするのですね。

    旧暦ではありません。

    その年の立春は、政府から官報の暦要項として毎年公表される

    国立天文台が発表する正確な二十四節気に拠っています。



    二十四節気の名称は、

    現在でも季節の節目を示す言葉として使われていますが、

    元々、古代中国の華北地方の季節感で名付けられたものです。

    立夏や立秋の名称と時期が、

    我々の季節感からすれば、ずいぶん先走っている気がします。

    立春で説明しますと、ここから春と云っても、

    実際の気候からいえば立春の頃が最も寒いのです。

    中国古代にできた暦の方が、

    日本の自然とはずれているのだと理解をするべきものです。




    我々から、東洋の叡智を失わさせた近代化とは、

    西洋における神と人間との事件でした。

    神に長らく抑え付けられて来た人間が、

    その神の桎梏から独立した事件です。

    神の位置に、人間の意識を置き換えると云う荒業だったのです。




    デカルトを、またまた皮肉ってしまうようですが、

    いかに彼の命題が、バカバカしいモノか、、、、、、

    シッカリ銘記していただきますように。


    我々は、想うが故に生れて来ますか?    あはは。

    我々は、想うが故に死にますか?    あはは。

    生死を説明できない命題なんて!

    それが、愚かな現代の近代合理主義の土台なのよ!

    そんなものに、地球のすべてをゆだねてしまって!


    その愚かな命題に乗せられて、

    現代を生きる我々は、自分の意識こそが大事であって、

    その意識を支配している『時』を大事とは誰も思っていない。


    コメントを下さったあなたへ

    『時』の重要性を、若い時に気が付いたあなたは、幸運です。

    なぜなら、『時』こそ大事だから、忍耐が大事なのです。

    抑圧された我慢ではなく、

    『時』を知る智恵は、『時』を待つ力を与えます。

    それは、『陰』の存在を信じる『陰徳』に通じます。

    『時』は焦るものではありませんよ。

    1年は、365種類の24時間を繰り返さないといけないのですから、

    一日、一日、新しいあなたでなければいけないのです。



    ほほっー。


    『時』を味方にしてくださいね。






    長い記事に最後までお付き合い下さって、感謝申し上げます。

    次の更新まで、ゆっくり時間がありますから、、、

    あわてて読まないでくださいね!



    よき一週間をおすごしください。


    次の記事は、ブログのお友達の為の記事になります。


































    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

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    テーマ : 文明・文化&思想
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    コメントへのお返事 18.   <近代化の奈落 3.>     「苦」と「楽」について 1.

    Category : 東洋思想
     至仏山登山  

       標高差、約821m   歩行距離、約10.7km   所要時間、5時間 30分



    晴れてきた至仏山

    写真をクリックしてみてください、、、

    方角的には、前方が奥只見湖、右に中禅寺湖、左に大利根湖





    ------ 至仏山登山の前記事からのつづき



    至仏山まで下山をした時です。

    周りのガスっていた視界が明るくなって来たではありませんか!?

    振り返ると、、、

    霧が猛スピードで消えて行っている!

    慌てて携帯のカメラで撮ったのが上の写真です。


    早変わりの『天』を見られるのも、たくさんある山の醍醐味の一つです。

    下の写真は、振り返って見えたガスが晴れきった至仏山の頂上。

    直前の荒れた天候が、信じられないほどのきれいな青空と白い雲が、、、

    、、、、、まったきの快晴です。 



    至仏山山頂を振り返って



    山の天候の変わり身の早さには、女心の方が敗けですね!    ほっ。


    安堵とは、こう云う事を言うのでしょうか、

    何事もなかったような空、と雲、そして至仏山の頂上を見届けられた。

    雨、風、霧、その向うに、変らずに存在していたのを確かめた。  

    慌てたのは、人間の意識だけだったのですね。   ほほっ。


    今日の記事は、少し仏教的な見方を交えて書きます。

    大変むずかしく感じられるようなら、読み飛ばして下さいね。 






    日本100名山である至仏山や蓼科山など、多くの山は、

    頂上へ近づくと、登山道にゴツゴツとした岩場が続いています。

    この大岩群こそが、山容を形作る山の骨格です。

    頂上近辺では森林限界で草木も生えていないので、風雪によって

    この骨格がむき出しにされていると云った方がいいのでしょうね。

    こう云う大岩群を見ると思い出すのは、

    あの3.11の大震災の時に休憩で座っていた筑波山の大岩です。

    低周波のような地鳴りの後に、木々の葉が擦れる音が辺りに響き、

    山の木々が根っこから、ゆすら~ゆすら~大きく揺れて、

    山肌の地中深くに在る岩盤同士の石臼が擦れ合うような振動が、

    岩からお尻へ伝って来た恐怖です。

    山で地震と云うより、地球が振れているのを皮膚が受け止めた恐怖です。

    地球が、割れてしまう? と、、、まさか!  あはは。


    今は、静かに山にある大岩群も、

    かってその大昔、地球が振れて吐き出したもの ---------- !

    長い年月の間に、骨格を土が筋肉のように蓋(おお)い、

    樹木の根が神経の様に、その中を張り廻(めぐ)っています。

    山は、生きている ----- 実は、生き物なのです。


    仏教では、心・意識を持つ動物(有情・うじょう)だけではなく、

    意識を持たない物(非情・ひじょう)にも命があります。

    道具、紙、石ころの一片でさえも仏性を秘めた命です。



    山、この生き物が、今度、いつか、再び動き出すまで、

    実に長い長い間、

    堅忍不抜な不動性を保った山と云う姿を現じているのですね。

    この不動性は、『天』からの水、火、風、空と、

    『地』の動・静との調和点です。

    仏教の云う五行(地・水・火・風・空)と云う周りのエネルギーが、

    山と云う一つの体になって現れているのです。


    近代合理主義下の我々の意識・五感の肉眼には、

    山と、それを取り巻く自然とは別々の【物】に見えますが、

    実は、それを成り立たせるエネルギーは一体なのです。



    こう云う風に物事を深く観ずる仏教的観点は、むずかしいかな?  ほっ。





    今日のテーマである「苦」と「楽」もそうです。

    「苦」と「楽」に分けるのは、意識の快、不快の都合です。

    仏教の ≪深い智慧≫ から観れば、苦楽不二、なのです。  ほっー。



    方便(ロジック)である一般的な仏教では「苦」と「楽」は対立しています。

    「苦」を滅した処に「楽」がある。とする教説が大半です。

    まるで西洋の二元論のようです。

    しかし、仏教の真骨頂、法華経の寿量文底下種に至って初めて

    「苦」「楽」は不二、一体である義が明かされています。



    --- この事から、仏教と云えども皆が同じではなく、

    魚と云えども、さまざまな魚があるように、

    仏教の一切経には、高低浅深の区別がある事をお見知り置きください。

    深い意味は分らないままで先へ行きましょう。   ほほっ。。



    深い智慧は、解るものではなく、触れるだけでいいのです。

    さあ、肉眼と云う眼識で触れるだけにして、読み飛ばしてくださって、、、








    では、登山へもどります。     ほっ。






    登山は、どんなに低い山であれ、その自己限界を感じる事ができます。


    自己限界とは、自分の意識の限界です。

    自分の限界ではありません!

    でも、100%意識を頼る限り、それは自分の限界になってしまいますが、、、


    現代の近代合理主義は、意識をこの世の中心に据えています。

    意識は、なんちゃって、真理を追求するものだ!

    意識が全てを分別して判断を下すのは正しい!

    科学は、人類の進歩に貢献するものである! 

    あはは。  なんと傲慢な意識でしょうか!

    でも近代合理主義の下で、我々の驕慢な意識は、そう思い込んでいます。

    意識は、自分の限界を感じる局面を避けるのが、ウマいのです。

    新たな知識を作り、カテゴリを立てて、分けて見えなくします。

    ですから、

    意識は、未体験のゾーンの存在すらにすら気が付かないのです。

    なぜなら、意識が知っているのは五感が感じた範囲だけなのよ。 あはは。



    だから、、


    意識は、未体験ゾーンに立つと「苦」と感じ取るのです。

    この世は、意識に取ったら「苦」の集まった世界のはずです。 あはは。





    だから、近代合理主義の世界は、「楽」ばかりを集める、集める!

    それは、「苦」を排除した空間 = 天国を自己の観念の中に作り上げた

    キリスト教の意識が、そのまま流れているからです。 

    しかし、この設定が、戯曲なら傑作と思うわ! うまいな~!


    それもこれも、過酷な自然の中で生き延びて来た西洋人のDNA、

    「苦」を認めたくないからですよ!    あはは。


    故に、我々の意識が「苦」を感じる時、

    そこを、意識の限界点と云うのです。



    言い換えれば、

    今まで(過去)、自分の意識が経験した事がない領域への入り口。

    つまりは、自分の未知の部分(無意識の領域)への入り口なのです。

    その入り口へは、創造性がなければ飛び込む事はできません。

    創造性があれば、飛び込む事ができるのです。

    「苦」を「楽」へとエネルギー転換できる!

    それを発見したのが、先ほどの仏教の真髄、法華経本門の部なのです。



    その入り口を突破しようとした最近のいい見本が、三浦雄一郎氏。

    彼の限界点は、80歳で、あのエベレストだったのです。

    その登頂に成功した事は、誰もが認める偉業には違いないのですが、

    それよりも成し遂げた偉業の本質は、

    80歳と云う年齢にも関わらず全く衰えていない、

    自分の未知の部分へ入って行こうとする勇気と創造性です。

    その為に、150,000,000円の協賛金が集まったのも、

    大した果報ですね!    あはは。


    目の前にある、自分の限界点を見つけて挑戦する -------

    ---------------- 次は、どんな自己発見があるのだろう?

    それが、登山の魅力のひとつだからです。    ほっ。



    現代人は、錯覚をしています。

    本当の自然を遮断して、

    人にとって快適な空間をしつらえる事が進歩だなんて?

    経済に都合よく効率性や利便性を追求する事が〝善”だなんて?

    人類に貢献する事だなんて? 本当に思っているとしたら、

    気が付かなければいけないわ ----

    それは、真逆なんだって、、、


    便利で効率的で、感覚的刺激に溢れた都会生活の中で、

    五感の快感を求めて満足する生き方が、

    実は、自分を、意識の限界の中へ閉じ込めてしまっている事に

    気が付かなければいけないのです。 



    登山は、その事を気付かせてくれます。

    山が、景色が美しくて自由ですばらしいからではありません。

    まったく自由ではないのです。泥だらけになるし、、、 ほほっ。

    抵抗できない天候への配慮、自分の体力、水やカロリーや塩分補給、

    体温や疲労の管理と云う重要チェック項目が、

    普段の生活では、何の気もかけていない当たり前のこう云う事柄が、

    山で、意識がやらなければならない仕事です。

    しかも、このような制約の下に意識がやっている事は、

    日常の生活の中で我々の五感が体験している「楽」とは明らかに違う、

    まったく反対の「苦」であるはずのものなの、、、、

    それも、それらが少しでも狂うと、とんでもない災害になるかも知れない

    緊張した状況なのに、です。


    意識は普段、常に、「苦」に直面しないように避けて、

    「楽」を集める事で、しあわせを実現しようと努力しています。

    「楽」を集める? って言ったって、、、

    自然の中に、それらの「楽」は一つもありません。

    自然の中は、意識にとって「苦」だらけのはずです、、、、、ほっ!


    なぜ、「楽」ばかりを集めたがる意識が、

    自然の中では、「苦」ばかりの中で正常に頑張るんだろう?

    ひょっとして、

    意識は、「楽」を与えると、お調子に乗るものなのかも知れませんね?




    ここに、人類の欲望のせいで破滅に向う地球を救うヒントが、

    意識の特徴の中に、あるのかも知れません。








    過酷な天候に巻き込まれれば?

    自分の体力を見誤ってしまえば?

    水分と塩分を入れたザックを谷底へ落としてしまったら?  ほほっ。

    こう云う喫緊の制約の緊張感を克服して、

    登山から無事に帰る、と云う、

    意識が一番恐れる死を克服して【人の生存欲を満たす】レベルまで、

    意識の欲しがる「楽」のハードルを上げた時、

    初めて意識は、意識の限界「苦」の瀬戸際を感じて、

    (無意識の支えで)未経験ゾーン「苦」へ飛び込む事ができるのです。


    意識は、必死な状況に直面しないと、

    方便の「楽」は、絶対に手放さないでしょうね。




    つまりは、この命が危ないかも知れない崖っぷちを感じて、

    初めて、何が生きる為に必要な、実に役に立つ力は、何なのか? 

    を、自然の制約・摂理の中で、

    初めて、意識は徹底的に学ぼうとするのです。

    余裕があったら、意識は、そりゃ「楽」がいいもの、学ばないでしょう。


    それは、もう、快感、快適、効率、便利、など

    山ではゼンゼン、役に立たないのですもの。  あはは。

    無事に帰られるのなら、そんなもの捨ててもいい位の状況です。  

    だって、車もないし、エアコンもないし、冷蔵庫もない!  あはは。


    命を守る事が先でしょう?

    バカな意識が一番、恐いのが〝死”なのです !   あはは。

    守りたいのが、自分の〝命”なのです!

    意識は、ある時は、他者を抹殺してでも守ります。

    それが、弱肉強食の論理、それで戦争を肯定するのですもの。



    どうも、意識を謙虚にするには、喫緊の状況へ追い込むのがいいみたい。

    そう、大自然の中へ放り込むのがいいみたい。   あはは。

    そうすれば、大自然と云う大師匠が、教えてくれるのです。


    〝方便の「楽」を捨てろ! 「苦」を浴びろ!

    そうしたらもっと強く柔軟になれるぞ!”     ほっ。




    なにが自然か、自然じゃないか、腹の底から分りますわ。

    現代人は、大自然の下へ、弟子入りをするべきでしょうね。 あはは。


    現代の子供達へ体験をしてほしいのは、この事です。

    ゲームなんかより、本物のサバイバルゲームなんだから、、、




    下山をして感じるのは、登山の疲れなどではありません。

    大げさに言うと、自然の摂理に浄化された意識に、

    無意識界の力が、こんこんと湧いて来るのが分かります。


    それで、ほぼ2週間ごとに山へ行くようにしています。  あはは。

    しかし、それだけの果報をいただいているような気がします。

    意識どころか、だけでなく、体が、、、

    これは、正直、ちょっとした発見、貴重な驚きでした。

    体は分っている、と云う事です。 バカな意識より知っているのですよ。

    次なる危険を防ぐ為に、潜在意識が待機しているのですね。

    命を守る為に、自然の中で、意識に負けずに体が進化して行く、、、

    もっと素晴しく元気に強くなって行く、希望を持つようになりました。

    体の潜在能力の方が、五感に操られるあやふやな意識より頼りになります。

    意識よりも、体の方が無意識に統御されている分、賢いのです。

    体は、無意識そのものか、無意識に近い、

    その分、自然の霊気、パワーをそのまま享受できるのかも知れません。

    その点、意識・心は鈍感です。

    五感の枠で抑えられていますから。

    そんな鈍感な意識に甘えたり、意識を甘やかす近代合理の社会は、

    一体、どんなものなのか?

    非常に、いびつである事は間違いがありません。

    これも大自然の大師匠に教えられた事ですわ!    あはは。



    至仏山の登山の記事は、今回が最後です。

    また、登山の事は、機会があれば、、、










    では、いよいよ本論へ参ります!


    今日の記事は、随分長くなりそうです。

    更新の間が十分ありますので、分けてお読みになってください!



    コメントへのお返事 18. <近代化の奈落 3.> 「苦」と「楽」について



    ほぼ、今までの前半の記事で、

    「楽」と「苦」についてはイメージが持てたと思います。

    では、最初のコメントから紹介をします。




    人は悪いことをするもんで、、、 性悪説だァ!

    cosmosさんから教えて貰った

    下の事が気になって今日調べました、


    >福島原発を破壊したのは、地震や津波じゃない!

    >地震や津波を起したのは、太陽なのですよ!


    それでなんですが、
    ふつうは地震は地殻運動と思いたいのですが、
    やっぱりそうなんですな、

    月や太陽の引力が地震の引き金に なると、
    防災科学技術研究所の田中佐千子研究員が明らかにした。
    http://www.asahi.com/science/update/1218/TKY201212170924.html
     





    まあ、わざわざお知らせくださってありがとうございます。

    地球の位相が、太陽系、すべてを太陽に依存している限り、

    そうであるはずです。

    そうであると解っていないのは、科学の認識が遅いからではないでしょうか、

    一般的には、地殻運動で説明するのが図柄的にも分りやすいです。

    専門家は、もっといろんな事が分っているでしょう。

    ただ、一般へ説明するのが邪魔くさいのです。   あはは。

    他の分野へ影響がある事柄は、外へ出さなければいけないでしょうが、


    しかし、地球上を見回してみて、

    解っている限りの古い宗教、哲学思想は、今に至るまで、

    太陽を神と位置付けたり、太陽を中心にしています。

    エジプトも、黄河文明も、日本の古代神道もそうです。

    それが、古代の常識みたいなものでした。

    しかし、キリスト教は違いますね。

    その教理を生み、育んだ中東や西洋の自然が過酷だったせいか、

    彼らにとって自然は克服し支配する対象でしかなく、

    自然を敵に見なして排除をし、人間の意識中心の教理です。

    その思潮に囲まれて生きなければならない現代のアジアは、日本は、

    独自の世界を潰されないようにしなければいけませんね。

    ほぼ、全部を潰されちゃっていますが、、、、、ほほほっ。

    自然を眼中に入れていない枠組みで設えた西洋の意識哲学は、

    そのまま西洋の芸術にも表われています。


    いわゆる、ゴッホなどが日本の浮世絵から影響を受けたジャポニズム以前は、

    自然を絵画の対象として描くと云う事すらなかったようです。

    そう云うDNAを持つキリスト教が根になって生れた科学ですから、

    科学自体が、自然をすべて解明する事は、目指しているのでしょうが、

    できない。と思っています。

    科学的知識は、そう云う誤謬を帯びているモノだと受け取っています。

    ある時、東洋的な世界観へシフトさせるような転換点を経なければ、

    真に、人間の為にはならないのではないか?

    そう云う懐疑を持っています。

    ここまで書きましたので、ついでに言いますと、

    太陽中心の宗教の時代は終わった。 とも思っています。

    いまさら、

    ・エジプトの太陽神のアラー (もう遺跡の値打ちしかありませんが)

     が、神として復活する事はないでしょうし、


    ・日本の太陽の化身の天照大神に代表される、自然の働きを象徴する神が
     中心の本尊に据えられる宗教の時代は終わったと思います。

     もしあるとするなら中心より脇で、その機能で働く善神としての部分神です。


    ・釈迦が、千も万も説き出した仏群、たとえば大日如来など、もです。

     これらは、太陽中心の社会の反映があって便宜上で説いた仏群です。

     理由は、当時の民衆が仏教を理解しやすい様に説いたのでしょう。


    今の我々の時空は、太陽を含む宇宙へと広がっています。

    太陽系を含む銀河は、宇宙の中心ではありません。

    今さら太陽中心では、全てを説明しきれない時空になっています。

    ちなみに、

    イスラムのアッラー神は、

    雨と空を司る神でギリシヤ神話のゼウスに相当します。

    砂漠の民、イスラムには雨を降らす空が、神に相当するのかな?

    ここで出した神々ですが、

    神という観念、概念は宗教によって意味合いが違いますから

    ご理解には、要注意を! なさってください。



    では、二つ目のコメントです。

    鍵コメントですが公開をする為に、部分的に編集をしています。   

    ご了承ください!

    ① ② は便宜上、付けました。



    ① 日光に独り旅に行ってきました。

    自然なるものに全身で触れられたことが一番の解毒?に

    なったように感じます....

    誰も居なくなった森の夕暮れの静寂さ、寒さ、

    どこか青臭いけど精気が戻るような懐かしい森の香り、

    裸足で原っぱに寝転んだり、腐植土をギュッと踏んだ感触、

    赤紫色のコガネムシ、夜の森の得体の知れない恐怖....

    素晴らしい体験が出来ました。

    するとふっと自分の今までの生き方が、

    何が自然で何が嘘か少しずつ見えてきたような、ないような感じました。

    自分が他人のように感じたのでしょうか...

    尊ぶべきは物質や合理、意志の力ではなく、自然にしかない様に感じます。

    現代はこれほどに便利でありながら、物質や合理、意志の力をもってして

    わざわざ自分から不幸になっているようで、きっと木々や草花、動物達から

    したら私や現代人は一笑されているのでしょうね(笑)
     
    東照宮の建造物も良いけれど、周りの堂々たる木々、彼らは凄いですね、

    まさに時に対して誠実で嘘がない、「陰徳」の賜物です!

    早く伸びろ、隣はもうあんなに伸びてる、こっちも急ぐぞ、とか思って

    伸びた訳じゃないのですよね。

    未来永劫どんなに努力しても、誰も見に来てくれない、動けない、

    一生No.1になれないことなんて、これっぽっちも気にしていないのですよね...

    日光で山や散策道で過ごした時は、

    強い拘りも緩くなっていたと覚えています、

    大抵、その時は食欲も普通であまり食べたくない、、、

    もしかすると、全ては繋がっている?!のでしょうか、そんな気がします!


    ② >生れ持って出て来た運命の器は、変える事ができません。

    >これは、無意識の領域に根「因」があるものですから意識では変えられない。

    >意識でする努力では変えられません。

    胸を突かれれるような思いで、

    今まで努力や意志の力ばかり信じてきた自分には

    無力感のようなものを感じました。。

    近代的合理の世界ではどうりで苦しいわけですね。。

    本当は全ての人にそれぞれの「仕様」としての生き方があると思いますし、
    どこかに本人らしい居場所がきっとあるんだと思います。

    「意志」や「努力」、「学問」でなら救われると思い、

    ずっと肩に力を入れて過ごしてきた自分が何とも哀れです。
    ところが、東洋の知恵には、自分に合った仕様の「仕合せ」がちゃんとある、
    ないはずがない(のですよね?)
    西洋の近代的合理は「その人に合った」仕様の仕合せがないのですね、  




    まず、①に対してのお返事からです。


    いい体験をしましたね。

    あなたが鬱蒼とした森の木々を見上げて、ため息をついている、、、

    、、、想像をしてしまいました!  あはは。

    大丈夫、自然を友にできる人は生き残っていけますよ!  

    自然から何かの啓示を受け取る時は、、、大事な瞬間だわ、

    自然を自分の外にあるものとして客観的に感じるだけでなく、

    自然を自分の体の中へ迎え入れましょう。

    例えば空なら、空を見上げて両手を広げて、胸いっぱいに抱きかかえて、

    ありがとう~ と声を出してください。

    声を出すとは、体を使ってと云う行為の体験と云う意味合いがあります。

    これ、気恥ずかしくて笑える動作なのですが、   あはは。

    すべてを受け入れる体勢は、感謝に通じます。

    感謝をする時は、自意識から解き離れて無意識へ扉を開ける瞬間です。

    あなたの無意識が、自然の無意識と通じ合って呼応するはずです。

    そうすると空が、自分の体の中へ入って来るのを感じます。

    自分の体内が空の色に染まったのを感じるでしょう。

    そうすれば、空は、もう外にあるだけの、外の自然ではなくて、

    自分の体と云う自然の中にも存在するようになります。

    そう云う感覚が芽生えて来ます。

    私は、ほんとうに持って帰りたい景色に出逢った時は、

    カメラで撮らないで、こうして体の中へ入れて持って帰ります。

    また、森を歩きながら、木々に話しかけてみられたら?

    木々は、おそらく、あなたよりも長生きです。

    あなたの事を木々は覚えていますよ。

    あなたを生かそうと、遠くの森からパワーを贈ってくれるでしょう。

    私は、行った先々に、そう云うつながりを作って来ます。  あはは。

    あらゆる処から、パワーが贈られてくるように、、、  ほほっ。

    植物に五感はありません。 が、命の根源である無意識でお互いがつながり、

    そこでは、あらゆるものが渾然と一体になっています。 




    今の我々は、知識としての物質としての宇宙を(知っています。)

    知ると云っても、◯◯億光年と云う距離単位で測って、

    五感である肉眼は、光りを集めて望遠鏡を覗くだけです。

    そこに秘められた無意識の世界については(何も知りません。)


    近代合理主義と云う現代文明に生きる我々は、

    宇宙の意味も、無意識の世界を何も知らないままに、

    意識が、これは「苦」、あれは「楽」と選別するのに従って

    欲しがったり、無視をしたりしています。

    さも、それで正しいように、です。


    さあ、目の前に「楽」を積み上げる事が、正しいのか?


    肝心な事は、目の前の「苦」を避ける事が、「楽」なのではありません。

    「苦」こそあっての「楽」、

    「苦」を「楽」のエネルギーへ変えられるのは、

    意識が作り上げた文化、知識、技術などの『陽』ではありません。

    まったく創造性の源である『陰』の無意識の力なのです。




    「苦」を乗り越えるのは、無意識の力です

    臆病な意識に、「苦」は乗り越えられません。






    また、東洋には、

    「苦」と「楽」を一緒にした苦楽と云う言い方があります。



    真実は、苦楽一如、 苦楽不二、です。


    これらは、無意識界における智恵で観る事のできる実相です。

    その無意識界へ通じる生命を統御しているのが、自律神経系です。

    便利に行き届いた、自然から遠ざかった都会生活は、

    「楽」の追求と云いながら、追求する熾烈な競争があります。

    「楽」の追求が、「苦」の因果を積んでいるとは露知らずに、

    このアンバランスが、人間の自律神経を傷めつけるのでしょうね。

    社会は、中庸を踏み外した『陽』のただ中、闘争の世界です。

    しかし、これは、逃げて通れません。



    もしかすると、全ては繋がっている?!のでしょうか、

    そんな気がします!  



    あはは。 そうなのですよ。

    心(意識)と体は、一体です。

    東洋は、色心不二でした。 (色は肉体)



    具体的には、

    我々の命を維持する機能は、無意識系の統御を受けています。

    無意識系の統御とは、宇宙の運行、時空に合わせて

    我々の体を統御する機能です。

    それを、自律神経が司っている訳です。

    おそらく、奥日光での自然との邂逅は、

    あなたへ自然のテリトリーにいる安らぎを与えたはずです。

    そして、自然から遠ざかった都会生活で、

    自己を緊張して防御する自我意識が、しばしの間の休息をし、

    意識の縛りの解かれたあなたの体は、調和を取り戻した。

    宇宙の無意識とつながる自律神経が正常に働けば、

    食欲も睡眠も、すべてが中庸を取り戻すのです。




    ② の部分へのお返事です。


    >生れ持って出て来た運命の器は、変える事ができません。

    >これは、無意識の領域に根「因」があるものですから意識では
     変えられない。

    >意識でする努力では変えられません。
     


    ここの本質は、

    東洋的 only 1 の存在である基盤になります。

    だれも、他人が真似ができない存在だと云う事です。

    世界中は、西洋的なNo.1 を目指すレースが席巻していますが、

    あなただけにしかない生き方を、東洋は、only 1 を目指すのです。


    しかしながら、生れ持って来た運命の器が、

    万が一、自分に気に入らなかろうと、それは受け入れざるを得ないのです。




    胸を突かれれるような思いで、

    今まで努力や意志の力ばかり信じてきた自分には

    無力感のようなものを感じました。。  




    近代合理主義の世の中へ生を受けて、

    まだ若いと云う事で、そう云った気持ちになるのは

    無理からぬ事なのかと思います。

    しかし、何もかもが、自分の意志と努力で思うようになるモノではない。

    その事は、もうすでに理解をしていますね?

    また、今まで努力や意志の力ばかり信じてきた事については、

    全面否定する事は無いのですよ!    

    ただし、ばかりと云うのは、否定をするべきかな? あはは。

    あきらかに努力と意志の力は、どんな場合でも必須要件です。

    しかし、厳しい事を言うようですが、

    努力や意志だけで、この現象界は、どうにでもなるものではありません。

    運命学で云う処の命式の癖がついた意識の為す努力と意志によって、

    出る結果と云うのは、その癖なりの結果を呼び起こします。

    ココが非常に大事なのですが、

    常に、自分を冷静に見る謙虚さが要求されます。

    その物差しとして、運命学の命式は十分に有効です。

    『陽』の範疇である意識がいくら努力をすると言っても、

    『陽』のノウハウ的知識で、この世は、動くほど、

    この現象界の時空は、軟(やわ)な時空ではないのです。

    この『陽』の現象を起すエネルギーは、『陰』無意識界から送られています。

    仏法では、

    この世は過去の業の集積である因果応報による差別相が現れる世界である。 

    と、なっています。

    生れた時点で、もうすでに自分の因果応報の姿であると、きびしいですね。

    ちょっと、待って!  と云いたくなるのですが、   あはは。

    これは、嘘ではない事が、運命学で家系を調べれば納得できます。

    しかし、これで、固まってしまったらダメなのですよ。


    ここで、少し、仏教的な事を書いておきます。

    仏教における、この因果応報の理法と云うものの、本質は、

    現在の自分は、過去の業の累積の結果かも知れない。

    それは、動かせない事実かも知れないが、

    これからは、未来は、自分の、今に、掛かっているのです。

    現在の因によって未来が決まるのなら、それも間違いのない事です。

    つまり、この瞬間からのあなたが、

    どう生きるかと云う事がもっと大事だと云う事です。

    この因果応報の理法の本質と云うものは、

    過去より未来の為に、現在の『時』を重要視しなければいけない。

    今、この現在と云う『時』にスポットを当てる事です。

    今と云えども、この刹那です。

    この瞬間をどう生きるかと云う事です。

    現在の『時』とは、ほら!ほら! 次々と過去になり、

    瞬く間に、未来の『時』が訪れて来て、今になる!!

    今と云う『時』を特徴だって意識させる内容なのです。



    未知な未来は、あなたのものです。  


    今の瞬間を大事になさってください。

    それが、無意識界でカウントされています。

    自然も、『天』の様相は、瞬間、瞬間に変化、移行、生まれ変わっています。

    この為に、至仏山の5時間余りの間の天候をお見せしたのです。

    この超・未来志向な説法は、仏教でも法華経本門文底下種に来てからです。


    ついでですから、これに関する概括的な仏教の内容に触れておきます。

    むずかしくても、眼識に触れるだけで止めておいてくださって結構です。


    仏教の中の、法華経以前の教え(爾前教・にぜんきょう)では、

    あなたの不幸は、過去からの因果で、もう定まっているから仕方がない。

    今世はあきらめなさい、、、今度死んだら、極楽へ生まれられるように

    念仏(南無阿弥陀仏)を唱えなさい。

    と、まず、自己の生を受容させる事に力点を置いた初歩の段階です。

    だから、なんとなく諦観に陥って無気力な風になるのです。 あはは。

    これは、釈迦のメソッドの一つ、民衆を引っ張って行く為の方便です。

    実は、仏教もいろいろなロジックを駆使しているのですね。


    しかし、あきらめなさい~と云われた事だけをクローズアップした教説は、

    仏教のイメージを暗いものにしていますね。

    正しくは、法華経が説かれた時点で役割を終えるべき教説なのです。

    捨てるべきロジックとでも言いましょうか。。。





    本当は全ての人にそれぞれの「仕様」としての生き方があると思いますし、
    どこかに本人らしい居場所がきっとあるんだと思います。  



    その通りです。

    「意志」や「努力」、「学問」でなら救われると思うのは間違いです。

    処世術的には無駄とは言いません。必要だが全てではない。

    はっきり申し上げますと、それらは所詮、食べて行く為の道具です。

    生きて行く為のエサを見つける術(すべ)なら、

    生物は皆、菌類から哺乳類まで自立をしてやっています。

    弱肉強食の世界の掟です。

    それは必要な案件ですが、十分ではありません。

    偉くもなにもない。

    戦後の大学教育までをやっても、その程度なのです。

    今の大学は、社会に役立つ人材と云う点で、学生に十分な力をつけていない。

    そう、思っています。  

    人間として、サルとは違う、その違いを持ちたいのなら、

    それらを優れた道具として活用する智恵を持つべきです。

    『陽』の世界を生き延びる知識の(知恵)ではありませんよ。 

    『陰』たる無意識界の(智恵)です。 ちの字が違います。

    厳しい自然と云う大師匠から学んで行ってください。

    そして、自分を知る為に、東洋智を学んでください。

    この両方を日本人が身に付けた時、西洋の人びとは、羨ましく思うはずです。

    ここが、日本の生き残る道だと思います。


    あなたが若くして、私のブログに出逢った事、運が強いのですよ。

    これまでの20数年間で、現代の画一的な世間知を知ったかぶり、

    分ったような顔をして、早々に大人になろうとはしていない。

    自己を安っぽいもので防護、固めていないのも運の良さです。

    大器晩成ですね。

    いろいろな境遇と云うものがありますが、

    自分に合った仕様の「仕合せ」を確立してくださるように、

    これからも、どうか自然の中へたびたび戻る事をおすすめします。


    まだお若いけれど、何が人生にとって大事か、正しい事か、

    ちゃんと弁えて行こうとする人間性をお持ちとお見受けしました。

    それらを携えて、これからの人生に取り組まれる事を、

    お祈りしています。




    長い記事がやっと終わりました!

    最後までお読みいただいた事には、最大感謝もうしあげます。


    暑さは、ますます厳しくなる模様です。

    どうか、ご自愛なさってください。


    次回の更新まで、よい日々をお過ごしください。


























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    コメントへのお返事 19.   「闇」を否定する原子力    「苦」と「楽」について 2.

    Category : 東洋思想
     高尾山南陵の草戸山から眺める丹沢山系と空 (神奈川県)  2013年 5月 3日


    丹沢山系


                      写真をクリックして広げてご覧ください!



    青空と画面を二分する
    丹沢山系の黒緑色です。

    この山の向こうが相模国。




    今日は、いつものまえがきへ入る前に、

    頭にイメージを残しておいて欲しいものが、2つあります。



    1、上の写真の鬱蒼とした森の印象と、

    2、次の陰陽学の太極図です。




    ☆ 太極図 陰陽学





    太極図は、

    『天』・宇宙を表わす円の中に、白と黒の勾玉の様な形があります。

    今まで『陰』、『陽』については、いろんな角度から掘り下げて来ましたが、

      今日は、陰陽を「闇」と「光」の観点から観て行きます。


    白は『陽』、太陽のです。

    黒は『陰』、太陽の光が無い = です。


    宇宙は、陰陽の中庸(調和)に拠って正常に保たれると云う思想です。

    宇宙は、闇と光の中庸によって創造活動を常に行っています。

    宇宙での超新星爆発や恒星の輝きなど、              

    我々の目で見える宇宙は、

    大いなる闇の中の光の活動として捉えられます。


    実際、宇宙はおおいなる闇です。

    宇宙物理学でも〝暗黒物質”とか、〝ブラックマター”と云われる物質が、

    黒が、重要視されています。

    また、光は、闇から生じたもの、

    我々の太陽は、宇宙の闇から生じたのです。


    自分の中から出すエネルギーで光り輝く星を恒星といいますが、

    この様な恒星は、太陽だけだと思いたい? でしょうが、 ほっ。

    夜空に輝く星のほとんどは、太陽なのですよ!

    自分で輝く恒星は、夜空に星の数ほどあると云う事ですね。  ほっ。




    『陰』、『陽』それぞれに、次のような原義があります。



    白が『陽』 = 太陽、光、(死に臨む)生、意識、 人為、 男、知識、現象


    黒が『陰』 = 太陰、闇、(生に臨む)死、無意識、自然、女、智恵、本体





    光や男性が主体かと思えば、そうでもないような ?   あはは。

    闇や女性が本体のような ?   あはは。

    女性は、明らかに闇であり暗黒かも知れません。   ほほっ。

    冗談は、さておいて、、、   ほほっ。


    これは、『天』の業態、闇の中で生まれ輝く光が男である。

    智恵が女に振り分けられているのは、命を孕み産む女は自然の業態の一部、

    命の創造は知識では不可能な事、命の創造こそが自然の智恵そのもの。

    と云う事でしょうか、、、

    男は、女(母親)から生れて来る、自然の現れなのです。

    自然そのものの徳があってこそ、そこに人為の成果が成り立つのです。

    反対に人為がなければ、自然そのものからの生産活動は不可能です。

    (ちょっと、むずかしいかな?)

    まあ、これ位で、、、先へ行きましょう!   ほほっ。。





    ざっと、ご覧になってくださったら、

    次へ、、、


    上の2つのイメージを抱きながらお読みになってください。

    心に引っ掛かりながら、2つのイメージが混ざって一つになって行くはずです。


    そして、今日の謎を解いていってください。



    原発は、近代合理主義の必然の結晶である。




    どうして?  と思われるようであれば、


    この謎が解けるように、

    近代合理主義の柵の外へ、みなさんをお連れできたらと願っています。







    後ほど、本論で紹介をする今日のコメントは、

    実は、6月24日に頂いたものですが、

    原発に関する内容で、これは是非、記事でお返事を書きたいと思いました。

    しかし、私が東洋的な直感で自分の内側で分っている事を、

    近代合理主義の社会で生きる読者に、どう伝えたらいいのか?

    と云うのが一番苦労をする処なのです。

    私の直感を、できるだけ細かく

    合理主義的に論理的に崩していく、と云う手法は、

    結構、言葉やロジックの立て方が難しいのです。

    言葉に関して言えば、

    東洋の価値観に似合うぴったりの言葉が、現代にはありません。

    非常に、重要な言葉が、現代では死滅しているのです。

    合理主義的思想に合わない言葉は無視されていますから、、、

    生物の絶滅危惧種どころか、

    すでに真実を言い当てる言葉自体が、現代人の心の中で絶滅しています。

    と云う事は、我々の生き方の巾、および思考そのものも、

    狭隘になってしまっていると云う証拠なのですが、

    我々の選択の幅は、狭い意識の巾の中に限定されています。

    それは、近代合理主義の思想自体の程度が大したものではないからです。


    前にも触れた事がありますが、東洋的な演繹的存在であるものを、

    西洋の帰納的方法へ変えると云うのはちょっと、大変です。

    東洋的直感で覚知した内容を、

    合理主義的言語で表すのは無理があるのですね。


    ・東洋は宇宙の全てを表わす大きさの語彙があります。

    ・合理主義は、人間の意識の狭い範囲を表わす言語だけです。


    宇宙は、広い! といくら行った処で、

    それは意識が捉えた事象の表現ですから、

    運動場は、広い! と云う事と、どう違うのか?  あはは。


    仏教では廣大無辺、無量無辺(むりょうむへん)、無量劫(むりょうこう)

    などの宇宙や仏の慈悲の甚大さを表す言葉があります。


    現代を生きる我々が使っている言葉は、

    宇宙の真理を表わすには、貧弱すぎるのです!   あはは。


    無理無理、東洋的知見を

    合理主義的言語に置き換えて行く過程で、

    本当に大事な髄液のような部分が抜けて行ってしまうのです。

    もったいない!  

    西洋的帰納法で表わす事で、真理に「偽」をまぶす事になるのですね。



    これは、恐ろしい事です。




    今の子供達が苦労しながら大学に進学をして知識を学びます。

    その大学で学び、身に付けていく知識は、

    東洋の叡智から見ると真実とは全く違うものです。

    そりゃそうです。

    基点を意識内に置いた知識なのか、

    無意識下に置いた智慧をのぞむ智恵なのか、

    ぜんぜん違うのですから。。。

    しかし、意識内の知識は、

    今の世で生きていくには身に付けなければいけない道具です。

    この事は、非常に切ない現実です。

    今の世の人間は、食べて行く為の道具を身に付けるのに、あくせく、

    大事な一生を使っているのですね。。 。

    せっかく、自然の智慧で父と母とに命をもらった処で、

    その自然を否定した学問をする訳ですから、

    どれだけ命が尊いのか年を取っても分らないみたいですね。

    つまりは、

    自分と云う存在を、自然の真理から遠くに離してしまう為に

    お勉強を、学問をしているのですね。 あはは。

    トホホ~と云う気分です。

    わざわざ、智恵に蒙(くら)くなる為に、

    近代合理主義の癖を擦り付ける為に大学へ行くようなものですから、

    人間の尊厳を捨てに学問をしに行っているとしか思えないのです。



    近代合理主義が空気の様になっている社会の中で、

    このギャップを説明するのは難しいです!  ほほっ。

    まあ、それで、今回の記事をどう書こうかと、、、

    悩みながら今日に至ってしまいました。

    随分時間が、かかってしまいました!    あはは。

    と云うのは、他の記事もそうなのですが、

    東洋的智恵を西洋合理主義的言葉に翻訳していく過程で、

    東洋的な神秘をディスカウントしてしまう事は、絶対にしたくない、

    大罪だと思っています。

    『天』に対して、この宇宙に対して(オーバーかな?)

    取り返しがつかない事をしてしまうようで、、、 あはは。

    十分思索した上でないと記事にはできないと云う、

    私なりのガイドラインがありますの、、、    ほほっ。


    それで、やっと、

    今日の記事は、そのガイドラインを守りながら書く自信が付いた。

    私の中に在る事実を、言葉にできる確信が付いた訳です!

    やれやれ、、、時間は随分かかってしまいましたが、


    いつもよりもっと長編? になりそうな気がしています。   

    また次の更新までには、十分余裕があるはずですので、  ほほっ

    数回に分けてお読みいただくと幸いでございます。

    よろしくお願いいたします。


    毎回、東洋的な《智慧》を、そのまま伝えられたらいいのですが、

    《智慧》そのままは絶対に凡愚下賤の私などには不可能です。

    でも、せめて、(智恵)位には似せて?

    お伝えできればと願っています。







    東洋の叡智を、ご自分の中で直感的に覚知する事ができれば、

    それは、本当にすばらしい事です!

    -----








    では、いつものまえがきから参ります!

    今日のまえがきのテーマは、「闇」。













    早いもので、もう3カ月も前のことです。




    ゴールデンウィークの一日、


    手近な処で足慣らしをしようと思い、出かけたのがいつもながらの高尾山。

    と云ってもGWで混み合っている山頂を避けて、

    裏・高尾山、南稜線へ足を伸ばしてみました。


    (その時の写真が、上の、高尾山南陵から見た丹沢山系と空です。)


    思った通り! 登山者がほとんど居ない静かな山道。

    典型的な低山の尾根歩きですが、花を見るなら丁度の余裕の歩きです。

    しかも道中は、半端じゃない花が咲き乱れ、

    めずらしい【十二単】は、山道に沿って咲いていました。


    ジュウニヒトエ



    ここほど、お花が塊になって咲き乱れている場所は、他に見た事がない。

    東京から1時間ちょっとで行ける場所に、

    高尾山の混雑ぶりとは打って変わった静かな里山の風情が

    こんなに詩情を誘う森の花たちの場所があった事に驚きを感じました。

    出来る事なら、来年も同時期に訪れてみたい、、、

    そう思った春風薫る5月にふさわしい花のトレッキングでした。


    春蝉(はるぜみ)が、もう全道中で、煩(うるさ)く鳴いていましたっけ、

    鳴き声から推察するに、何千、何万匹もいたでしょう、、、

    春蝉の体は、鳴き声ほど大きくはないのです!   


    花の写真を次回と分けて紹介します。



    下の写真は、

    背丈も越えるオレンジ色の山ツツジが山中の至る所に咲いていて、

    目に沁みる新緑の緑とのコントラストで、とっても奇麗でした。



    ≪日陰の山ツツジ≫


    草戸山の山つつじ


     

    ≪日向の山ツツジ≫


    山つつじ



    光が当たっているのと、陰にあるのとでは、

    写真でさえこんなに違うと云う事、お分かりいただけますね!







    ----- 裏・高尾山、南稜線は、丹沢山系へ連なっています。

    丹沢山系(上の写真)のイメージは、山深さ、黒緑色です。

    自然への畏敬の念を生じさせる原始的な霊力を秘めた森です。


    原始的な霊力を秘めた森、

    森には、昼間でも鬱蒼とした木々の間に薄暗い「闇」があります。

    そこには、太陽や月、星の光すら届かない地面があります。

    殊に深い「闇」は、森に夜が訪れてからです。


    ----- それで思い起こすのは、那須高原での夏休みの夜でした。


    窓に貼り付けた黒い紙を見ているような窓の外に見える森の夜の闇、

    少しでも窓を開ければ、青ぐさい森の匂いと共に、

    その漆黒の闇が部屋に流れ込んで来て、部屋中を満たした後、

    室内の電灯の明かりを飲み込んで消してしまいそうな

    そんな気配がする森の夜の濃い「闇」。

    そう云う「闇」にすっかり閉じ込められた、ある夜、


    こんなに人間の意識は脆弱だったのかと、自覚した事がありました。


    車に置き忘れたものを外の駐車場へ取りに行こうと玄関まで行って、

    庭に垂れ込めている「闇」が恐くて外へ出られないのです。

    「闇」の中から、突然、獣(けだもの)が襲って来るかもしれない恐怖?

    あはは。、、、そんな想像を打ち消しても、

    庭へ出る勇気が湧いて来ないのは、なぜ?


    隣家はなく、周りは、那須の森ばかりに囲まれて、

    外を見ても、目の網膜に黒い紙を貼り付けたようで何も見えません。

    これほどの自然の闇は、

    普段、意識している空間認識を閉ざしてしまうのですね。

    対象との距離感、位置関係、方向感覚がまったくきかないのです。

    それでも、ドアを開けて一歩外へ出ると、

    シーンと静まり返った森の気配もなにも感じられない漆黒の「闇」の壁に圧倒

    されて背後へ倒れそうになりながら、本当に、こわい! と思ったのです。

    この闇の中へ、もっと足を進めて身を投じてしまえば、

    行こうとする方向が捻じれてしまうトリックアートの世界へ引きずり込まれる?

    ようで、なんだか頭が変になりそうで ?

    あるいは、体から重心が抜けて空中に体がフワフワ浮くようで、

    ついには、夜の闇の黒の質感の中へ吸い込まれそうで ?  ほっ。

    全身が、「闇」色になって自分の体が無くなってしまいそうで、、、 あはは。

    最後は、自分の体自体が発光体にならなければ暗闇から戻れないかも?

    奇妙な恐怖感にいろいろ囚われて、     あはは。

    まばらば木立も、

    その向こうに在るはずの駐車場も、

    車も、なにもかもが、

    もう、空間の意識の中から完全に消えてしまった!

    それ以上、前にも進めずに、

    玄関ポーチの明かりが照らす狭い空間に立ちすくんでしまったのです。



    もう! 忘れものなんかどうでもいい、、、と、玄関のドアを締めて、

    部屋の明かりの中へ戻って、どんなに幸せだったか!   あはは。





    近代以降の現文明に浸って、

    PCの画面の明るさに馴染んだ目や、

    明るすぎる環境に馴れた感覚・意識には、   

    自然の真っ暗闇の中で自分の存在を認識する動物的視力は、もう働かない。

    私たちの意識は、そこまで退化してしまっている。

    原自然の「闇」に対抗できる目ではないのです。



    『陰』たる無意識の大自然に、

    近代化のエセ自然に慣れた軟弱な視覚・意識をテストされたようです。

    きっと不合格だったわ、    

    そんな気がしました。

    体と命はもう、完全に、近代化に飲み込まれているわ。

    ここが近代化の奈落1丁目? 10丁目でしょうか?    ほほっ。



    今さら言い訳がましいのですが、

    都会生活の中では、過ぎゆく時の刻にしか過ぎない朝が、

    まだ、大自然の中にいると、

    間違いなく訪れて来るあした(明日)なのです!


    夜明けが心から待ち遠しいのです。

    そう、昇る朝日は、命にとって〝希望”そのものです。

    と云う感覚は残っていました!    あはは。



    これはきっと、我々の先祖が火を発見し、

    薪の炎で辺りを照らし自然の闇と戦って来た原始の頃と同じはずです。


    そう、人間は『火』の炎に、安全、安心と同時に、

    火を操れない野性の獣(けだもの)とは違う人間の値打ち、

    自然の獣性や野蛮性を断つ「礼」を観じていたはずです。




       


    余談になりますが、

    那須の森の百合が恐いって云うおはなしを、しましょうか、、、、 ほほっ。



    森には、いくら昼間でも、太陽が燦々と真上から照っていても、

    その蛮性を感じる不気味さがあります。

    人間を容易に近づけようとしない自然の荒々しさ、刺々しさです。

    森の一本一本の樹木の形も縦横無尽に枝を伸ばして、

    人の足を一歩も踏み入れさせない雰囲気があります。

    そう云う那須の強面の森に、白い山百合は咲いています。

    遠目には、大輪の白い百合の形で惹きつけられます。

    しかし、近付いて花を覗くと!

    そこには鬼の顔があって !  あはは。

    白い花びらの内側にある黒と赤の点や線紋様の配置が、

    怒った鬼の面構えに、そっくりなのです!  

    写真を撮ろうと近づいて、レンズをジーーっと覗いた途端に、

    その文様の鬼の顔面が醸し出す殺気に逃げ出した位ですから、、、あはは。

    恐さは、白地に、こう云う風に黒と赤の点と線をデザインして表現すれば

    鬼の顔になるんだな、、、と自然の造形に感心してしまう位、、、

    快適をコンセプトに造形された文明に馴れきった感覚には、

    野性むき出しのありのままの自然は手ごわいのです。

    活火山のマグマ溜りの凄まじさ、あれもそうです。

    自然そのものです。  



    夜の森の恐さ、、、絶対に森の中では迷子になりたくはないですね。


    その闇に通じる黒が、丹沢山系の黒、です。

    原始の森が持っている、自然の霊力を秘めた黒です。

    それは、日本海側の黒姫の黒暗色や、木曾の陰影とは違います。









    ◎ この漆黒の夜の意味については ------------

    「淨暗」と云う言葉をもう一度、出さずにはいられません。

    これほど、「闇」の真正さを顕した言葉はないでしょう。


    2010年 4月 6日の記事


    春眠不覺曉 / 「浄暗」という言葉を知っていますか? に少し書きました。


    そこを引用します。


    意識の覚醒は、昼

    無意識は、夜

    生あるものは、夜、無意識の世界で再生するのです。





    ところで、

    「浄暗」という言葉を知っていますか?

    浄化する暗さ。闇のことです。



    穢れを清めるための、神々しい闇、というのかしら。

    夜のことです。

    夜は神が動く時刻であって、人間が動く時刻ではない。



    司馬遼太郎の『義経』に、

    壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、

    平家から「三種の神器」の二つを奪った源義経が、

    都に凱旋することになったわけですが、

    「三種の神器」=神にあたる器を持っていたので

    都に上る移動を夜に行ったそうです。

    夜中の凱旋ですね。

    神の移動は浄暗=夜でなければならなかったとあります。




    夜=闇=意識が無力=無意識界=神の力の領域=陰=再生なのです。



    ( 以上、過去の記事より引用 )




    人は、自然の中に生きていれば、直感的に分るのですね。

    前もって陰陽学などの学がなくても、説明を受けなくても、

    夜の闇が何を意味し、なにを心に呼び起こすのか、、、

    自分の意識を閉じれば、その下の無意識が教えてくれるのです。


    『闇』は意識にとっては恐いのです。

    しかし、恐いだけではない、、、

    『闇』こそが、

    外界に振り回される五感の感覚器官を鎮めるのです。

    正直、「闇」の中では外界の生物は眠り、そして静まりますから、

    外界の刺激は五感の感覚には届きません。

    自然の雨音、風の音、虫の音だけが残る世界になります。

    「闇」は、意識の外界へ向かう窓を閉じて内なる自分へ向き合わせ、

    意識を鎮める事ができるのです。

    そうして、


    『闇』こそが、意識に休息を与え、

    欲望に支配された意識を浄化する事ができるのです。




    月と星の自然の光だけに照らされた暗闇の中で、

    人は、やっと欲望に満ちた我の意識を閉じて、我の無意識に向き合う。

    人は、自分の意識を離れて、初めて自分の中の無意識に触れられるのです。

    そして、

    外界の大自然の暗闇の奥の無意識界の力を知り、従う。

    夜は月明かりしかなかった昔の人は、従わざるを得なかったのです。

    「闇」の中へ眠りに落ちる事で意識を休め、

    『陰』そのものの創造性の中に浸かる事で、

    そこで、人は、蘇り、明日への命の回復を図ったのです。


    『闇』は、無意識の支配する世界であり、命の再生の象徴なのです。



    それを、近代化以前の昔の人は知っていて、

    「闇」を畏れながらでも「闇」を敬っていたはずです。




    人は、意識のみで生れては来れません。

    意識の力で死ぬ事もできません。

    意識で息をしている訳ではなく、無意識の呼吸で生きています。

    昔の人は、命は無意識に生かされている事を悟り、

    暗闇と無意識の底知れぬ深さの中で命が再生する事を知っていたのです。

    その無意識の存在と、その深淵を悟れるように、

    宇宙に「闇」が、夜の「闇」があるのかも知れません。




    宇宙における「闇」と「光」の分量の割合から云うと、

    「闇」こそが圧倒的です。




    ―――― ここまでが、近代化以前の「闇」と人の意識の関係です。


    近代化までは、人の意識は、「闇」の価値を直感的に知り、

    畏れてはいても、その深さに畏敬の念を持っていたのです。



    近代以前の人びとは、まだ、「死」の恐怖、闇の恐さを知っていて、

    「死」は恐い。 闇も恐い。

    けれど、それを人間如きが乗り越えるなんてとんでもない!

    ただただ、畏敬の対象だったのです。


    夜はそのまま、自然の恐ろしい闇でしたし、

    「死」もそのまま畏敬の対象だった。


    眼前の「苦」は避けられないモノと諦めていたし、

    「苦」も「死」も「闇」もそのまっまを受け容れていたのです。



    今よりも、もっと身近に、

    宇宙を自然を人生を今より深く観じていた。と言えるのでしょう。




    受け容れると云うのと、避けて無視すると云うのとは大違い、




    そう、問題は近代化以降なのです。






        ・     ・     ・     ・     ・     ・
        ・     ・     ・     ・     ・     ・







    ―――― ここからが、近代化以降の「闇」と近代的自我意識の関係です。


    我々は、ここに立っています。

    人々は近代化と共に、傲慢になって行くのですね。


    近代化以降、

    意識できないものは無視をしろ! とばかりに、

    伝統と無意識下の絶対性を排除した人間の意識にすれば、

    あたかも意識が、絶対者に成り代わったようなものですから、 

    今までにない存在感を発揮していきます。


    万物の基軸と成り上がった我々の意識は、

    意識<愚王>として、まるで王様の如く、  あはは。

    目、鼻、口、耳、皮膚、の五感の窓から覗いて、

    「苦」と「楽」をパッ! パッ!と分けて、

    えっ、「苦」?  いらないよ!  さっさと捨ててくれ!

    意識は、無造作に「苦」を放り投げて捨てます。

    後の処置は、科学技術と資本主義に任せて、、、  あはは。

    だってそうでしょう? 

    近代合理主義の意識<愚王>は、『苦』が大嫌いでいらっしゃる。 あはは。

    「楽」を求めて、科学へ命令を下します。

    我に、「楽」のみを与えよ!

    「苦」は我の王国の外へ捨てておけ!


    ははーっと、畏(かしこ)まってお辞儀をした自由主義経済は、

    欲望の望むものは何でも、競争に勝つ為にも、

    強い意識の望むモノは全て、作って売るようになっているのです。


    だって、売れるのですもの!     ほほっ。

    この社会では、売れる事が、最善の事なのです。    あはは。



    「苦」を捨てた後の「楽」こそが王たる我が身にふさわしいものである、

    と、のたまう意識<愚王>に応えて、

    科学は、技術の最高峯、選抜された意識の生っ粋を集めて、

    「闇」を消す為の灯りを、夜だけでなく昼も、昼をもっと明るく!

    24時間、48時間、年柄年中、明かりが灯る電脳都市を作らんとして、

    楽園の実現・「天国」を求めて築き上げたのが、原子の灯です。


    このように、近代合理主義で王へ成り上がった意識<愚>王は、

    無意識を無視し、「死」を捨て、「闇」を嫌い、避けます。

    そして、「闇」の「苦」をのがれる為に、「闇」を消そうとしたのですが、

    でも「闇」を全部、消す事はできなかったのですね。   あはは。


    夜になれば「闇」は表われて来ますのも、ね。

    そして、意識にとったら怖い森ですが、    ほほっ。

    自然の中には、鬱蒼とした「闇」が、まだまだ残っています。

    「闇」を失くす事は、そんな簡単な事ではなかったのです。


    そして、意識はただ単に、それらを意識外へ捨てた!だけなのですが、

    意識外とは、無意識界です!

    だから「死」も「闇」も「苦」も、無意識界にそのまま溜っています。



    溜りに溜まった「死」や「闇」や「苦」が、

    無意識界から意識界へ、ある時、どっと現象化したらどうなるのか?

    隠したり捨てたエネルギーだけの反動をもって、

    この意識界へ戻って来るはずです。

    それを考えただけでもおそろしい~!

    この世に、どっと「死」や「闇」や「苦」が満ち溢れるのですよ!




    無意識を無いとして捨て、

    自然を敬う心を失くした近代的自我の意識にとれば、

    畏れだけが残った「闇」は邪魔なモノです。

    森の抱える「闇」は苦痛そのものになったはずです。




    なぜなら、暗黒の「闇」は、近代的自我の意識の限界を超えている領域です。



    『陽』である意識・感覚器官の機能が働く範囲は、

    かすかにでも光がある処 = 『陽』の現象界に限定されています。

    これで、なぜ、近代的自我の意識が「闇」を嫌い、

    「光」を求めるのか、お分りになりますね? 


    意識の機能は、「光」がある現象界でしか働かないからです。 



    「闇」は、意識にとったら「苦」そのものの領域なのです。




    そうして、、、


    近代的自我の意識<愚王>が、

    「死」の影を持つ「闇」の「苦」を追い払おうと科学に命じて

    作り上げた道具が、近代的学問の生っ粋の科学っ子である原子力の火です。 




    自然の中での不便をムダとし、煩わしさを「苦」と退け、

    「楽」だけを選び取った近代合理主義の物質文明の中で、

    意識・『陽』は、生産性を求めて利便さと効率で「楽」だけを求めます。

    意識・『陽』は、非効率な「苦」を避け、徹底的に逃避します。

    そう、意識にとっての幸せは「苦」の無い「楽園」に到達する事なのです。





    そうでしょう?





    その為に、便利な快適な生活の為に、

    原子力発電所を作ったのでしょう?




    放射能は恐いと思いながら、もっと「楽」になれるのならって

    我々は、心のどこかで原発の存在を許して来ましたね ?

    そして、その結果はどうだったのですか?




    おおいなる「楽」だと思ったものが、おおいなる「苦」になったのです。



    だから、「苦」と「楽」とは表裏一体だと云うのです。

    無意識下では同じエネルギー、

    意識界へどう出るか、現象界での違いなのです。






    だから、「苦」と「楽」について書こうと思えば、

    近代合理主義の申し子、近代化の優秀な息子とも云うべき原発の事を

    無視する訳にはいかないのです。









    やれやれ、やっと、本論へたどり着きました!   ほほっ。





    今日の記事は、


    コメントへのお返事 19. 「闇」を否定する原子力  「苦」と「楽」について 2.






    では、いただいたコメントを紹介いたします。




    原発に関しては

    IAEAはじめとする、核(原発、核兵器)保有国が一丸となり

    安全性のアピールに躍起となっています。

    ほぼ成功してて反対する人は放射脳と揶揄されてますし。

    ほんとうの事が判れば、核放棄に世論は一気に動きだすことは

    間違いないんですがね。

    時の来るのは、福島の健康被害が本格的に増えるのはもう少し先です。

    時間がたちすぎて福島との関連性を云々できないと専門家や政治家は

    のたまうのでしょうきっと。

    核に関しては絶対反対の立場ですので、

    原発再稼働の動きには懸念してますよ!

    核にせよ年金にせよ未来へのつけは残したくはありません。

    さて、自分に何ができるのか?時間はありません、真剣に考えていかねば。







    まじめなコメントをいただきました!    

    問題提起、ありがとうございます。

    いろいろ原発の事、放射能の事、お考えになっていますね。

    いつかは、原発の事、脱原発の事を書かなければ、、、と思っていました。


    心の奥底では、だれもが、そのように考えている事だろうけれど、

    残念ながら、

    現実的な行動としては、世の中は、そこまで行っていないようです。

    脱原発は、国民の総意になる処までには至っていない。

    そう認識をせざるを得ませんね。




    先に行われた参議院選挙の結果もそうでした。




    しかし、参議院選挙運動期間中(7月4~13日)、

    ツイッターでの一番の話題だった政策は、エネルギー政策でした。


    一方、同期間の全国世論調査での

    投票先を決める時のもっとも重視する政策は? と云う問いに、

    第一位は、景気や雇用でした。

    その中で、エネルギー政策は、それらより遙か下、7位でした。


    全国世論調査の方が、選挙結果に近いですね。




    いわゆる日本の脱原発論は、我々の中で、まだよく煮詰まっていない。

    真に、国民は、脱原発を切望する処までは行っていないのです。

    それより身近な、給与、雇用、経済の方に「苦」を感じるのが現状です。



    一体、我々は、何を「苦」と感じるのか?

    「苦」は避けようと思えば避けられるものなのか?

    近代合理主義下では、

    何が「苦」か、意識が決めちゃうのですよね!   あはは。

    意識は、現在の五感の満足、天国の「楽」が最高の目的なのですよ。

    地獄に落ちても気持ちがいい方がいい~!  あはは。

    と云うのが、意識の癖でした!

    これらが、キーポイントです。



    五感と云う感覚器官で感じる事は、1000人いれば、1000の種類です。

    意識も1000種類に分かれ、それらは一つとして同じではなくバラバラです。

    それが、まだ、我々の間で収斂されていないように思います。

    しかし、どう云う現状であれ、粘り強く、

    命が最第一に大切にされる世の中を願って行く事は一番大事です。




    しかし、近代合理主義は、

    言葉だけは天国のような?   あはは。

    結果的には命を大切にする事ができない思想となっています。


    今日は、東洋的な観点から、どうしてそうなるのか?

    どうしたら原発の問題を乗り越えて行けるのか、考えてみようと思います。




    現在の日本の状況は、

    今回の選挙公約で脱原発を掲げた政党にしたって、

    その具体的な脱原発の方途はないまま、口先だけでした。

    その空虚さを有権者は、生活者として感じていたはずです。

    従って、必ずしも脱原発を訴えた政党が勝ってはいません。


    全てが曖昧模糊、霧の中のようです。

    具体的な方途がないままとは、

    福島を廃炉にする技術すらどうするのか? これからです。

    廃棄する核燃料の行き場は?

    代替エネルギーすら、まだまだ開発途上、技術革新を待つ状態です。

    今は、化石燃料を輸入して燃やしているのですが、

    それが、地球温暖化へどう影響をするのか?

    今夏の天候の異常さを感じながらでもどうする事もできていません。

    化石燃料自体、地球が何十億年もかけて蓄えて来たものですが、

    現在のように原発の穴埋め用に頼ってどんどん使っていたのでは、

    あと何十年~100年単位で失くなって行ってしまいます。

    このような、後世の人々に借りを作るようなやり方には疑問を持ちます。



    費用は?

    福島だけでも、廃炉の費用は莫大な税金を使うでしょう。

    全国的に脱原発をした時の廃炉費用は、どうするのか?

    このようないろんな問題があります。


    そして、もっと大きな問題として地球環境の問題があります。


    地球温暖化、地球的人口増加、地球的食料難、地球的水不足、

    いわゆる地球資源の枯渇です。

    これら水不足などは、もう始まっています。

    これらは、見ようによっては、原発より大変です。

    すべて国家間の資源戦争へと進む問題です。

    中国は、その為に海洋資源の確保に動き出して尖閣問題等もあります。




    今、人類は、非常に緊迫した状況にいると思います。



    地球規模で、脱原発をしようと思ったら、

    ・アフリカや新興国の人口が現状から絶対に増えない。

    ・アフリカや新興国の生活水準が今のレベルから上がらない。

    そう云う前提でもない限り、無理でしょう。

    おそらく、誰もが、ニューヨークのような街で、東京のような生活をしたい。

    ネットの普及した世界中の人達が見たら、そう望むはずです。

    その時に、今の先進国の人達は、今の生活水準を保てるのか?



    再生可能エネルギーと云っても、その元は太陽エネルギーです。

    総量は決まっている。

    技術が進んでも、その設備を作るのに相当な電気が要るはずです。

    その電気はどうするのか?

    その時、又、原発が頼りにされるのではないか、、、 ほほっ。

    笑いごとではない。

    現実の世の中と云うのは、欺瞞に満ち、偽性で成り立っています。



    こういう社会を、

    我々は、近代化以降、作り上げてきたのですね。

    近代合理主義の思想を社会のすみずみにまで徹底させて、、

    我々の教育、政治、法律、その枠組みを全て変更して、

    近代国家を作り上げて来たのです。

    近代国家とは、それぞれの国家の「楽」の追求ですから、

    最後は、熾烈な命の殺戮になるでしょう。




    近代合理主義は、人間の五感に依存する意識を基軸にしています。

    その意識が、

    無意識の闇を切り捨て、

    より優秀な前頭葉の持ち主を選抜する学歴社会を構築し、

    No1ばかり、最高の意識レベルを集中させた科学技術を道具として、

    地球資源を駆使して、

    意識で囲ったエリアから「闇」を放逐し、

    人工の灯りで明るくするのには成功したようですが、


    さてさて、「楽」に満ちた平安な世界を築けたのでしょうか?



    今は、原発は大いなる「苦」そのものの存在ですが、

    元々は、我々にとって大いなる「楽」をもたらすモノとして

    作って来たはずです。


    誰だって、どの地域の人達だって、

    初めから大いなる「苦」になるモノを

    自ら進んで誘致して作るなんぞ、するはずもないからです。

    どう云う「楽」を欲しいと思ったのか?

    どう云う夢を見ていたのか? 

    もう、その時の当事者ですら、今の現実を目の前にしては

    思い出せないかも知れません。


    しかし、間違いがないのは、当時の意識が得だと判断をした、、、

    原発が「楽」をもたらすモノだと認識をした、、、

    からこそ受け入れる決定をしたはずです。





    1000人の意識が、1000のそれぞれの得を認めたからこそ、

    この『陽』の現象界へ原発がまぎれもなく実現したのです。






    実際に、福島原発については、

    その当時の経緯について、2012年 3月 18日の記事、


    あれから一年 2. 「フクシマ」論  開沼博ー 災害の外因・内因 


    に記事にしてあります。

    直接は国策で、東電が作ったモノです。

    しかし、地域に住む人々が原発を断わったのに無理やり作られたものではなく、

    国に押し付けられてイヤイヤ作ったのでもないのです。

    その経緯については、いわき市に住む、地元の人だからこそ書く事ができた 

    東京大学大学院に在籍中だった社会学を専攻する開沼 博氏(29歳)の

    著わしたフクシマの検証本『「フクシマ」論 』 青土社 をご覧になってください。


    この本の中身は、

    事故前の1月に、彼の修士論文として提出されていた内容です。

    福島原発の事故があったから書かれたものではないのですが、

    非常に、人間の意識の身勝手な移ろい、欲望の満足の恐さを

    浮き彫りにしています。

    つまり、人間は欲望の満足の為には平気で嘘が言えるのですね。




    事故前の福島には、

    「原子力関連施設のおかげで生活できるという幸福感」

    満ちていたと彼は書いています。

    福島に原発が建設された実際は、

    1957年、後の県知事となり「原発知事」と呼ばれた木村守江が、

    まだ当時、福島県選出の参院議員であった時に、

    まだ原発建設に手を上げる自治体がない中で、

    「後進県からの脱出をめざして」と、いちはやく原発誘致に動き出し、

    「ムラが原発を能動的に受け入れ、抱擁した。」

    「ムラは、言われるがままに原子力に乗せられた訳ではない。」
    「反対派あっての安定した秩序」を構成したのだ。

    と書いています。

    そして、

    原子力ムラと福島の建設地のムラ、この二つのムラが、

    「お互いの都合で抱擁し続ける中で、

    ムラの人間たちに、絶対安全だという”神話”が生まれた。

    この”神話”の信心こそが今回の大事故の底流にある。」 



    と書いています。



    当時の原発知事が、県の為に国に誘致を頼んで造ったのだ。


    と、書いてありました。


    また、開沼氏は、この著書を表わす前に、

    福島はもちろん、青森の六ヶ所村を訪れています。

    その時の印象を書いてある中で、

    いずれの原発施設に通じる国道や県道にも、パチンコなどの遊興施設が

    道路の両側に沿って延々と数多く立ち並び、

    その道路上には高級車が止めてある風景ができ上がっているのは、

    福島も六ヶ所村も共通していた、とありました。

    いわゆる普通のありふれた街の雰囲気そのものですが、

    それが、本当なら寒村と云われる場所一帯に突如として現れる、

    その風景から、

    時間と金銭が豊かになれば人は、こう云う同じ事をするのか?

    彼なりに捉えた一文が、心に重く残っています。


    人が求める「楽」とは、どう云うものか?

    そう云う「楽」を一度手に入れたら、手放そうとはしない。

    それが、原子力建設地のムラで、安全神話を生んだのだと言うのです。


    心も頭も真に安全とは納得していないのに、

    人は、自分の欲望が「楽」に手に入るお金で満足できるようになると、

    自分の心と頭に嘘をついてでも都合の良い行動を取る事ができるのです。

    これが、欺瞞です。

    『陽』の現象界の「偽性」そのものです。


    『陰』たる自分の命そのものを背いてまでも ------ 『陰』の無視

    『陽』たる自分の欲望の満足を優先する。------ 意識優先の思想


    これを思想自体から許しているのが、近代合理主義の実態なのです。



    開沼氏から、もう一度、


    非常に、人間の意識の身勝手な移ろい、欲望の満足の恐さを

    浮き彫りにしています。

    つまり、人間は欲望の満足の為には平気で嘘が言えるのですね。




    政治家や業界が、手にしている既得権益を手放そうとはしない。

    官僚が省益を第一に考える。

    どれも同じ穴のムジナです。








    『陰』を無視し、無意識界を無いとする近代合理主義では、

    いかに美しい言葉を連ねてスローガンを作ろうと、

    正しい言説を述べて演説をしようと、

    最後は、

    この人間の暗黒部分が結果的には現象化します。
     



    (この事を、今回の記事は繰り返し、徹底的に書きます。) ほほっ。





    原子力発電所は、

    我々の近代的自我の意識・心から出た現象そのものなのです。






    そう! 「闇」や「苦」や「死」を彷彿とさせる原自然から

    人間を隔離して自然からの「苦」を排除する為のエネルギーを求めて、

    意識が探し当てたのが、原子力でした。





    そう、全くの自然を無視して、

    意識の中で作り上げた天国・「楽」をこの世に実現しようとして、

    我々の近代合理の意識<愚>王が、産み落とした御曹子が、

    原子力発電所なのです。




    原子力発電所は、

    近代合理主義に染まった我々の意識・心から出た現象そのもの、

    まぎれもない産物なのです。





    ーーーーー もう一度言いましょう。

    原子力発電所は、まぎれもなく

    我々の意識、心、精神が産み落としたものです。





    日本中には、18地域、51基の原発があります。

    これだけの現象化を実現すると云うのは、国だけでは無理です。

    余程の周りからのエネルギーが集まらないと無理です。

    それ相応の欲望のベクトルが、集まったのですね。



    51基が建設される過程で、

    どうして今の沖縄の辺野古沖の埋め立て反対運動のようなものが

    起こらなかったのでしょう?

    どうして過去の成田闘争のような反対がなかったのでしょう?

    原発自体を反対する、

    脱原発の声が全国的に起こらなかったのでしょう?



    1954年(昭和29年)3月、

    中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により

    原子力研究開発予算が国会に提出された事が起点とされています。

    1955年(昭和30年)12月、

    原子力基本法が成立し、原子力委員会が設置された。

    初代委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎氏です。

    故に、正力氏は、日本の「原子力の父」とも呼ばれています。

    しかし、この時原子力委員であった日本人初のノーベル賞受賞者である

    湯川秀樹氏は、抗議の為に委員を辞任しています。


    それから、今まで、約58年の間、今のような脱原発の声は挙がりましたか?


    安全だと政府が言ったから黙って認めて来たのでしょうか?

    それが、事故があったから、もう、ダメなのですか?

    安全と言って来た政府が悪い、からですか?

    安全神話がウソだったからですか?



    我々の態度も、

    周囲の変化に合わせて云う事がクルクル変わる、、、国と同じです。

    我々も、『陰』たる基軸を捨てているから、

    頼るのは周りに振り回される近代的自我の意識しかないからです。

    我々は、憐れな『陰』の徳性を失っている民です。

    そして、

    現在における自分だけを守る ・・・・・ これも、国と同じです。


    我々の中にも平気で『陰』を無視して来た欺瞞があるのです。



    「楽」ならいいじゃないか? ほんとうに?

    「楽」になるって思う方が「楽」じゃないか?    あはは。



    「楽」ならいいと云う基準がおかしいのです。

    「楽」でも「苦」でも、ダメなものは、元々ダメなのですよ。


    事故がない間は、よかったんだ?  あはは。

    事故があろうとなかろうと、ダメだったのです。

    本質的にダメなものを許してしまったのは我々の意識です。

    「楽」に騙されて作ってしまったのは我々の意識です。




    我々の中にも欺瞞と云う内因があるから、

    こう云う目に遭う『運』を作ってしまった!のです







    原発を許した原因は、我々の「楽」を求める意識です。

    近代合理主義に染まって、

    「楽」を求める事を恥だと感じる羞恥心を捨てた我々の心です。



    もう、幼子から、お年寄りまで、

    そりゃ、「楽」がいいに決まっているのですから、、、 あはは。

    近代合理が、頭をナデナデして「楽」になるよ!

    って言ってくれていたから、

    あの事故さえなければ、

    今もそのまま原発には黙っていたのだろうか?

    言うなりになるつもりだったのだろうか? 

    東京に住む我々は、原発立地自治体じゃないからって、

    無関心でいたのだろうか?


    ーーー 原子力発電所は、そう云う我々の意識・心から出た現象そのものです。ーーー




    「楽」になると云われれば、原発を黙認し、

    事故が起って「楽」どころか「苦」になれば、

    やっと、原発そのものが悪者のように脱原発と騒ぎ出す、、、

    時系で変化する現象に振り回されてフラフラする意識を頼っている限り、

    目先の「楽」を追いかける限り、


    永遠に、本当の平安は手に入らないのです。



    今回、学ばなければいけないのは、この事です。






    前回の記事、

    「苦」と「楽」について 1.で、

    近代合理主義の意識にとれば、「苦」と「楽」はバラバラに見えている。

    と書きました。

    これは、現代に生きる我々にとっての事です。





    しかし、

    東洋の深い叡智から観ると、実は、そうではない。


    実相を正しく捉える東洋の仏法の智慧では「苦」と「楽」は、不二である。

    つまりは、意識が排除をする「苦」とは、実は「楽」にもなり、

    意識が欲しがる「楽」は、実は「苦」そのものになるのです。
      






    「楽」が、「苦」になり、

    「苦」が「楽」になる原因は?


    それは、人々の心の清らかさ・清浄さにかかっていると

    高度な仏教には説かれています。

    邪心を持てば、「楽」が「苦」になる、と云う事です!

    邪心とは、真理に背く心、、、???

    ああ、修行が足らない我が身には、難しくて分かりません!

    何が清浄なのか?と云う事には、今触れる余裕もありませんが、

    深くは、又、いずれ、、、修行の後に、、、、、 ほほほっ。





    さぁ、そうであるならば、困った事が起こり得ます。

    「苦」であると云うだけで、そんなに簡単に何でも捨てていいものだろうか?





    近代合理主義の科学は、政治は、経済は、

    「苦」と「楽」がバラバラであると云う二元論を克服できていません。




    そもそも、「苦」と「楽」の完全分離の根拠は西洋二元論です。

    この事自体が、欺瞞に満ちたロジックです。

    そもそも意識レベルで捉えようとすると、

    意識は、現象を掴まえる事しかできませんから、

    「苦」と「楽」か、どちらかに見えるはずです。

    悦びながら苦しむとか、悩みながら嬉しがるとかは、

    意識には無理です。    あはは。

    真実を知る事の出来ない意識には、そうにしか捉えられない。


    何事もそうですが、分けて思考すると云うのは

    真理に至っていない前駆段階、途上の言い訳、位相、方便、主義です。

    仏教の経典にも、そう云う前駆段階の経典が多くあると前回書きました。

    それを真理を明かした仏の教えと受け入れれば、トンダ邪教になる訳です。

    何事にも、浅瀬なのか? 深海なのか?

    本音なのか? 上辺なのか?

    飾りなのか? 本体そのままなのか?

    腐りかけの魚なのか? 生きがいいのか?

    魚を見る目にも、それ位の目利きはいるでしょう?   ほほっ。

    人を、言葉を、思想を、見極める目を持つしかありません。

    智恵と云うものさしを持つしかありません。


    近代合理主義は、こんなチャチナ低い思想なのだと云う事です。

    その低い思想である近代合理主義が起した現象の渦巻く現状が、

    我々を取り巻いている。

    真実を知らない無知な意識が、

    お馬鹿な近代的自我の意識が犯す間違いのオンパレードが、

    この近代合理主義の社会を蓋っているのです。



    どうか、そこに気が付いてください。

    私たちは、騙されています。

    もう、そろそそ気が付いてもいい頃ではないですか?





    もし、原発を批判するのなら、 


    その前に、原発を許し、作った、その背景である近代化と云うものの

    批判ができなければなりません。

    そして、自分の中の無意識・命を否定する近代合理と戦う必要があります。

    そして、自分の身を近代合理主義の柵の外へ置く事です。




    それは、どう云う事かと云うならば、


    脱原発を実現したいのなら、


    その前に、自分の意識、心、精神が、

    「死」と「闇」の「苦」を消そうなどとは思わないで、

    せめて昔の日本人が畏敬の念で、その存在を認めたように、

    この世の「死」と「闇」の「苦」をありのままに受け入れる事が前提です。 

    自然と共に生きていた昔の人びとの心を取り戻す事です。




    つまりそれは、無意識の智恵を用いなければ解決はできないでしょう。


    それは、こう云う事です。


    無意識から観れば、

    意識の云う「楽」と云うモノも、

    意識の云う「苦」と云うモノも、

    無意識からの同一エネルギーの現象での違いにしか過ぎません。


    ある時は、意識の捉える「楽」が、一辺に「苦」に変わり、

    ある時は、意識の捉える「苦」が、刹那に「楽」に変わるのです。


    これが難しければ、次の例えなら分りますね?!

    ある人には「楽」である現象が、別の人には「苦」である事は普通です。

    そのように、「苦」や「楽」には普遍性は存在しません。

    特に、『陰』・無意識を無視した意識の「苦」や「楽」は皮相的なもので、

    徳性も、普遍性も存在しません。



    その原理を知らずに、

    目の前の「苦」を捨て、「楽」ばかりを拾おうとするのは、愚か。

    その愚かさに目覚めていないのが、近代合理主義と云う大ばか者です。





    無意識界を認めないから意識には智恵が欠けています。

    だから意識は「苦」を避けざるを得ない。

    仕方がないから、「楽」ばかりを集めているのです。

    この愚かな真似は、もう止めた方がいい。

    近代化の奈落へ堕ちるばかりでしょう。


    今の社会の経済、政治、すべてそうです。


    意識が、これは「苦」、あれは「楽」と選別するのに従って

    我々は、欲しがったり、無視をしたりしています。

    これは、「楽」なのよ~

    これで便利だよ~

    「苦」はイヤだ~


    「苦」を避けて「楽」を手にする事が、さも、それで正しいように、です。

    「楽」は正義だったのか? 

    「苦」は悪だったのか? 

    じゃ、近代合理主義では、善とは何か ?

    子供にどう教えているのだろう?



    国民全員が、自分の「楽」ばかりを主張したら、どうなるのか?

    国民全員に、「楽」を与えるには、それ相応の税金の負担である「苦」が

    返って来るのはお分かりですね?



    このように、無意識を否定した近代合理主義の思潮の下、

    「苦」を乗り越えないで避けて、避ける為の道具ばかりを開発し、

    それが、イノベーションだなんて?!

    「楽」の獲得ばかりに奔走する意識に連れられて、

    我々は、どこに向って進んで行くのでしょうか???



    人間は、何もしないで、ただ安楽椅子に寝そべり、

    あるいは、運転席に座っているだけで、

    機械が、人間の脳やまなざしを感じて動くと云う理想郷の実現に向って

    科学と産業を、経済が引っ張って行ってくれるようです。

    その為の法整備をするのが政治なのですね!?    あはは。


    便利なモノを作れば売れる、

    安全装置だと云えば売れる、

    どこまで人間を甘やかしたらいいのだろう?

    バカな経済が主導する人間像は、どう云う人間を作ろうと言うのか?

    まさか、売れる事が、正義だなんて言わないで欲しい。


    その結果が、人間がどうなっているのか顧みる事もしないで、、、



    文明化された都市に住む限り、意識の体験は限られています。

    泥だらけになる事は不衛生だし、非能率だし、コストが高くつくし、

    それらを避ける為に、

    近代化によって泥だらけにならないように、自然を遠ざけ、

    道具を開発し、機械を作って、作業手順を工夫して来ました。

    それがすべて、良い事なのか、どうか?


    近代化された意識中心の社会の中で生きる我々は、

    普段、その自覚はないが、聴力も、脚力も、弱くなっているのですね。



    その事を、嫌になる位、那須の夜の森で感じました。

    人間は、もう、森の中では暮らせない生物になっているのです。


    その他にも、手を伸ばせば水が出て来る水道のおかげで、

    昔の水道の蛇口を廻せない小学生が、出て来ているようです。

    蛇口を廻す指の筋肉が、まったく発達していないのですね。

    それどころか、指でナイフを操ってリンゴの皮剥きができない主婦や

    作られた人工の旨味や合成されたジャンクフードに馴れて

    自然の果物の甘みを感じられない若者の味覚、、、

    果物を食べる時の果汁で手が《汚れる?》のがイヤで、

    果物を敬遠する人間が、増えているそうです。


    本物の自然を排除した合理化デラックスな安っぽい疑似自然の中で、

    人間の疑似人間化は、もうすでに、命の底から完了しているのです。


    これでは、男女共に子供ができる体ではなくなるはずです。


    我々の五感は、もうすでに狂い始めているのです。

    本当の自然の過酷な環境では生きていけない程に

    自然の中で生きていく能力を失って行っている。。。 。


    さすれば、我々が、まだ気が付かない処で、

    地球上のあらゆる生物の命のレベルは、

    人工疑似的に壊変され、生の本体の能力をmissing しつつあるはずです。


    これが、『陰』を無視したエネルギーの還流です。



    『陰』を無視したやり方が、当たり前になって、

    女と云う性を受け入れた生き方をしないまま成長をして、

    生殖器が未成熟なまま不妊症になったら、不妊治療を受ければいい、

    年齢制限までに人工授精か何かで子供を作ればいい、、、

    子供は製氷機で氷を作るように、水を入れれば同じ氷ができる?

    あはは。 そんな! 

    運命学から観れば、不妊治療で生まれた命式は、

    ある特徴があってなかなか普通ではないのですよ。



    今でも自然でいるのは、

    アフリカの草原を駆け回って採集生活や狩猟生活をして

    まだ近代化からはほど遠い後進国の人々でしょうか、、、

    今でも、自然である能力を失ってはいないはずです。

    あー、でも、

    近代化の魔の手は、これからアフリカへも伸びて行くのですね。



    このまま意識のセンサーがもっと弱って行くと、

    人間は、もっと「闇」に耐えられなくなって怖がるようになるでしょう。

    「苦」を遺棄するようになるでしょう。






    意識は、過去の経験と現在の環境に縛られています。



    常に生き残る為に環境に順応しようと移ろう意識は、

    過去の経験のデーターからしか、未来を作れません。

    原発事故から得たデーターでどんな未来を作るのでしょうか?


    近代合理主義が作り上げた電気代のかかる疑似自然を手に入れた意識は、

    その現在の「楽」を手放す事ができるのでしょうか?




    意識は、文明化すればする程、無意識・本質から遠ざかります。


    意識の力(五感の情報収集力)は、環境に左右され、

    文明化する程、退化をして行く、、、情報が拡散し、過ちが多くなる。

    本質を離れ偽性が強く大きくなる。・・・・・・・・・・『陽』


    言葉の中身が抜けていく。命の中身が抜けていくからです。

    これでは、

    意識の権化・言葉が信じられなくなる。

    〝再稼働は安全だ!”と云っても、

    ほんとうは、何が安全なんだか ??? わからない!



    実は、この事自体が、究極の近代化の奈落なのです。



    無意識を無いとする近代合理主義の意識を中心とした現象界は、

    絶対的価値を、missing した相対世界ですから、

    だれかの言葉を絶対的に信じるなんてできなくなって行く。。 。


    人と人を結び付ける『信』の徳が抜けて行き、

    個々人がバラバラに、個人の意識を優先し出すと、

    夫婦や家庭は成立しなくなるでしょう。

    もうすでに、その現象化は表われて来ています。

    止めどもなく、人間が物になって行くのです。




    近代合理主義と云う思想そのものが、袋小路の中です。

    する事、為す事、すべてが、その凝滞の姿を現すのです。



    これに、もう気が付かないければいけませんね。


    凝滞(ぎょうたい) = 物事の流れがとどこおって先へ進まないこと







    最後に、陰陽学から、

    太極図を思い出してください。



    『陽』が極まった『極陽』である近代的自我の意識は、

    命の本源『陰』・「闇」を完璧なまでに無視をしています。  




    『陰』・無意識を無視するとは、

    『陰』の原意の徳がすべて、近代合理主義の現象化には欠けると云う事です。





    近代合理主義を基盤とする科学が、

    無意識の領域を完全否定するとは、どう云う事になるのか?  



    『陰』・無意識を無視するとは、

    『陰』の原意の徳がすべて、科学の結果から欠けると云う事です。


    それらの現象は、

    我々の生きる命の傍から、

    地球の危機をみすみす手をこまねいて何もしない今のように、

    本当の自然を遠ざけ、自然を破壊し、

    疑似自然で我々を囲うようになるでしょう。

    人の生き死にから出生、病気を統計で国家が管理するようになり、

    フーコーの云う生政治がもっと個人の生活を統制するようになるはずです。

    女が女でなくなり、男が男でなくなり、

    今の女性の6人に1人が不妊治療を受けていると云う事実。


    この現実を、保育所が無いからだと、待機児童のせいだとして、

    何の不思議とも思わない延長上には、

    「苦」も科学技術を道具にして失くす事ができると云う

    人間の意識の傲慢があります。

    この意識の傲慢は、最終的に自然を征服したと言える満足を求めて、

    恐らく命の操作へ挑戦をして行くでしょう。

    人間製造と不老不死を実現しようとするはずです。

    これからの合理主義はそれを狙っているはずです。

    ある意味、放射能よりも恐い。

    自然に対する畏れが無くなっているからそれができるのです。




    その近代合理主義が、人の為、世の為と、

    美辞麗句を自信がありそうに平気で言えるのは、

    意識には常に〝漏れ”があると云う事について無知なのと、

    意識には、常に偽性が伴う事を自覚していないからです。 






    もしや現代の我々は、

    現代科学の技術を利用して「苦」を避けたつもりで原発の火を点火し、

    「楽」を得たつもりでいたのが、

    地震と津波と云う大災害で、おおいなる「苦」へと、手の中で変った??? 

    と、本気で思っているのですか?

    もしや地震や津波で、事故が起こらなければ「楽」のはずだった?  

    のですか?

    地震や津波が起こった事を悔やんでいる?

    自然災害、あれさえなければ、よかったのに、って?


    いいえ、災害に由って「苦」へと変ったのではありません。

    元々、近代合理主義が内包する偽性が生むはずの「苦」そのものなのです。

    こうなる帰結を中に孕んだ思想であると云う事です。

    その思想に、何の疑問も持たずに染まって、

    「楽」を得たりと勘違いをしていた我々が、愚かだったのです。




    そして、我々は犠牲者だと? 

    いいえ、我々は、揃って自然への加害者です。

    我々の命を生み出した大自然への地球への揃って加害者です。

    感謝もせずに、畏敬の念も捨て、傲慢に自然に挑戦をして来た加害者です。

    天に唾する行為をしたのは、我々です。




    我々は、国が在って生れて来たのではない。

    我々は、『天』・自然より命をこの世に享けたのですから、、、


    『陰』の徳性をもって『天』に心から向き合えば、

    国のせいにして済む事ではないと気が付くはずです。





    『陽』の偽性(ロジック)に従って、

    国家と云う枠内でその責任を論じる場合、

    たしかに国に責任があると云う事は間違いがありません。

    しかし、

    国は、そもそも民主主義下では、国民主権であるならば我々です。

    国の賠償金は、国民の税金からと云うのは自明の理です。

    全ての負担は、我々の上に降りかかって来ます。

    それを考えると、

    一番の責任は

    科学技術でもたらされた原発の恩恵を受けた便利で楽な生活の中で、

    近代合理主義に対して何の疑問も持たなかった、、、

    自分達が選んだ議員を甘やかして好きにさせた、、、

    あらゆる事に、のほほんと黙って見過ごしてしまった、

    そう、欲の満足を受け入れるままに生きた我々です。

        
    大地が、全てを受け入れるように、

    国民が、それぞれの力に応じて、

    最後は自分達の「苦」を受け入れるしかないのです。



    これを運命学で云えば、それぞれの運次第です。

    隣に住んでいる同士でも、運は違います。

    同じ家族でも、運命は違います。







    放射能が恐いのなら、放射能を遠ざけるだけではダメです。

    脱原発をしたいのなら、もう、気が付かなければ..。


    自然の中にありのままに在る「苦」そのものを受け入れる事です。

    「苦」そのままを、自分の命で受け入れる力を持つしかないのです。


    臆病に逃げてはダメですよ!

    運は決してあなたを逃がしてはくれませんよ!   あはは。

    運は、あなたが目の前の「苦」を受け切って行かない限り、

    逃げたつもりでも、その罪も加重されて、     あはは。

    あなたの子孫に代々継承されるだけです。

    これは、脅かしではありませんわよ。


    詳しくは、命の継承シリーズで、また。    ほほっ。







    最後に、もう一度、繰り返します。



    この『極陽』の近代的学問が産んだ火は、

    生命と生命の本体・自然を破壊するものだったのです。


    それはそうです。

    『極陽』の近代的自我の意識は、

    命の本源『陰』・「闇」を完璧なまでに無視をしている。




    だから、

    命を守るものを作れるはずがないのです。

     

    近代合理主義のもたらす物の豊かさが、

    色心に亘って、我々を幸せにする事はないでしょう。

    その美しく聞こえる言葉も、それが成就するはずはないのです。

    成就しない処か、物に幻惑されて有頂天になっている間に、

    最後は、命を破壊、抹殺する現象化へ収斂していくしかないのです。


    『陰』を無視し、命の本源を捨てた結果の当然の帰結です。

    近代合理主義自体のリズムが現象化した世界です。



    もう、気が付いてもいいのではありませんか?



    今日のなぞなぞ?


    原発は、近代合理主義の必然の結晶である。



    これ、お分りになっていただけたかしら?   ほほっ。







    記事が非常に長くなりました、、、


    更新が伸びた分、2回分位書いたでしょうか?  あはは。

    最後までお読みくださった事に、

    深く感謝申し上げます。


    暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛を、、、



    次回で、コメントへのお返事は一旦終わります。

    更新がひどく不定期になっております。

    記事の内容によって、

    思索を深めなければならない場合もありますので

    しばらく時間がかかる場合もあります。

    また、暇があれば山へ行きたくなるシーズンです!   あはは。

    ザックにパッキングしている時が、一番ワクワクします。

    ご了承ください!   ほほっ。

    では、次の更新まで、よき日々を !































    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

       

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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