![]() 2013
10/14 11:24 |
comment mix 1. 二元論を超えた「我」の体得をめざしてCategory : Comment mix
信州・美ヶ原遊歩道
![]() 写真をクリックしてご覧ください。 写真は、今年の夏の美ヶ原、前回からの続きです。 10月も半ばだと云うのに、暑い日が続いていました。 あらかた仕舞った夏物を出してきて着たり、不調和極まる気候です。 みなさまいかがおすごしですか? あっと云う間に、更新が一か月もかかり、 月日の経つスピードに、あれよあれよとけつまずいたりしながら、 あはは。 日々、所要を追いかけながら、追いかけられながら走っております。 一か月の間、 9月末から10月初旬にかけて、*涸沢(からさわ)の方面へ行っていました。 実は、これが、非日常的な所要の怒涛の嵐の始まりだった? のかも、 3日も、現身(うつしみ)の生活を空けると云うのは、大変な事なのですね。 ま、自分が蒔いた種ですから、刈り取るのに一か月もかかった、、、と、 あはは。 涸沢の事は、また、後日、写真と共に紹介できたらと思っています。 山小屋に2泊したのですが、いつもの通り、まったく眠られなかったのです。 山小屋は、このシーズンどこも相部屋です。 山の中、予約なしで訪ねて来た登山者を誰でも受け入れるからですが、 超混雑の時は、一つの寝具に3人でと云う事もあるらしい、、、 あはは。 幸いに、涸沢のトップシーズンは10月中旬ですから、 それになる前に行った甲斐もあって、一人ひとつの寝具で余裕はありました。 しかし、真っ暗になった広い天井をうかがいながら、 物音を立てない様に静かに横たわりながら、同室の寝息を聞いていると、、、 せめて目を瞑るだけ、、、眠られないのですね、、、、、、 ほほっ。 うつらうつらもできず、ふーっと滑るように寝入った瞬間は、小間切れで、 気が付けば、昨日歩いた森の中を意識はぐるぐると彷徨っていました。 合わせても一時間も眠らなかったでしょう。 睡魔もなにも悪魔は、襲って来てくれませんでした。。。 ほほっ。 その翌日、 上高地から距離にして約 16km、(上高地の真裏へ回り込む) 上高地からの標高差 820m 上にある涸沢カールへ登って見た景色は、 〝ほんとうに普通じゃない”景色、すばらしいものでした。 *涸沢 = 標高2309mに有名なカール(氷河圏谷)があり、 穂高登山の中心地。 その時の写真は、次々々回くらいから紹介をしたいと思っていますが、 涸沢から帰った後の慌ただしいスケジュールで、 いまだに写真は、ガラケイの中に、 ふっ。 2晩も、ほとんど眠らずに激動ができる登山とは? 自然における人間の体力の不可思議さに呆れております、、、 2週間おきのペースで、大概、日帰りで済む登山を楽しんでおりますが、 今まで、筋肉痛など、登山疲れと云ったものは経験がありません。 それは、言い換えると、 登山の度に疲れを感じていては、2週間おきに登山をするなどと云う事は、 とっくに止めて続かなかったでしょう。 ほほっ。 今の処は、登山から帰って来ると、 もう、次の登山が楽しみになっている状態ですから、、、 何が、そんなにいいのだろうと、我ながら怪訝、いぶかしい。 そのありさまを、ありのままに云いますと、 普段は、登山から帰りますと、どんな時刻、それが夜中であろうと、 登山靴やストック、もろもろの泥や雨で汚れた登山用具を洗って掃除をし、 干して、キレイに片づけてから休みます。 終ると午前様になる事もあります、が、 翌日からへ影響を残さない為には、その日中にすっきり終るようにします。 登山の片づけをしながら、 次の登山へ工夫した方がいい事など、今日の反省から、 忘れない内に変更箇所をチェックしたり、修正をするようにし、 2週間後の登山道の地図をネットで見ながらイメージし、支度もしておきます。 行動食(携行食)、飲み物など、どこで何を、それを取り易くどこに入れておくか、 など、服装も決めて、配置、装備をしておきます。 これが、楽しみでもあり、結構、登山より頭を使ってしまい疲れます。 なにしろ2週間後には、また山へ行く訳ですから、、、 気持ちが登山に集中している内の方が、気が付く事が多いのです。 また、次の登山の出発前に、 必ずしも準備する余裕が十分に取れるとは限らないからです。 前夜のぎりぎりまで、仕事をしなければならない時もあります。 登山と云うのは、準備が120%のスポーツだと思っています。 登山が終わった時から、次への準備と調整です。 当日は、イメージを実行するだけのような気がします。 これらも、後で書く登山のメソッド、山の師から教えられた躾ですね。 それが、今回、変った経験をしました! 2晩も眠らずに急登、急降下をして来たせいか、 脳が疲れている? と云う症状が、、、 気温や環境へ適応する脳疲労と云うものだろうと思うのですが、 登山からの帰宅後、次回への用意をしていると、 頭が、フワ~っと来るのです。 また考えるとフワ~と来る。 これは、 脳が本人(私)の命を継続させる為には、これ以上の脳活動を止める! 不調があると云うシグナル、脳のストライキです。 脳の無意識系からの 〝無理をするな!” と云う発令です。 ほほっ。 倒れて休みなさい! と云う事なのか? 倒れる予兆はなかったのですが、こうなったら脳の云う事を訊くしかない、、、、、 どうしたかと云うと、 まず、自己を抑圧している意識系を閉じるようにします。 どうだこうだと云う次回のイメージを止めて、用意する事を放棄します。 意識を捨てて、無意識系へ助けを求めます。 その中の一つの方法ですが、 一番いいのが、一番根源にある食欲系の力を借りる事です。 ほほっ。 何の制約もなく食べたいと思うものを、すなおに何の我慢する事もなく、 気持ちよく食べるという方法です。 あはは。 う~ん、おいしい!!! 食べたかったんだぁ~ しあわせ~ あはは。 誰にでもできる事でしょう? あはは。 なんだか動物的ですが、原始生から考えれば、それは当たり前なのです。 私たちの脳の爬虫類の脳の部分かも知れないですね。 生存の為だけに全てをフルに生きていた頃です、、、 あはは。 良質のたんぱく質を多量に摂るのがいいですね。 脳の栄養は、アミノ酸ですから、、、 エベレストを登頂された三浦氏が、帰国してから直ぐに同行した二男さんと、 とんでもなく分厚いビーフステーキを食べに行っている報道がありました。 うれしそうに、ホクホクと笑って、バクバクとお食べになって、、、 あれなんだな! と思ってください。 あはは。 こうして、 まず脳が求めているもので満たされると、 ほほっ。 その満足から自然に脳の疲れは消えます。 満足は心だけのものではなく、脳に与える栄養素(タンパク質)の充足です。 命は、色(肉体)心(精神)不二の統一体ですから。 登山後、筋肉痛がすると云うコメントがありました。 それのヒントになればと思って紹介します。 登山後の疲れがない秘訣のもうひとつは、 登山の正しいいメソッドです。 今から考えると、 登山を始めた時、登山の手ほどきを受けた先生が非常に良かったのです。 初回、歩き方から、呼吸、休み方まで懇切丁寧にきびしく教えられました。 先ほど書いた携行食、種類、量、その補給の仕方まで、 体温調節の服の脱ぎ着、トイレまで! (最初は窮屈だな、と思いましたけれど、) 山にもいろんな先生、山岳ガイドがいらしゃいますが、 山や自然に『仁』、『義』、『礼』、を払うマナーで行動し、 自然『智』を体得されたガイドは『信』頼できます。 五行が全て、揃っていますね! あはは。 <五行が周流する>と謂い、エネルギーが切れない、疲れがないのです。 ( ここ、むずかしければ、読み飛ばしてください。) 山と云う自然に合致した存在としての振る舞いが身についている。 尚且つ、気候、体力に科学的な行動ができると云う事ですね。 それが、秘訣でしょうか、、、 心が、体が、 と分けて思考するメソッドは、ピンと入って来ない、 私は常々、そう思って来ました。 心や体を、特徴だって感じさせるメソッドは偏っていないか? そのやり方の全体から、五行の調和を感じ取るように心がけています。 その調和が、あるメソッドを生むのです。 なに事をするにも メソッド(何かをするためにある一定の方式)が あるのでしょうね。 山歩きなんて、誰にでもできる、それはそうですが、 我流でただ登ればいいんだとなると、体がムダに疲れるのではないかと、 みなさまも、何かお始めになる時は、 いいメソッドでお始めになってくださいね。 ほほっ。 その時の師こそ出会いであり、大事です。 自分の運そのものかも知れません。 師への感謝、自分の運そのものへの感謝、それらが発するもの、 その遠赤外線のような暖かさに包まれて幸せになれます。 ★では、本論に入る前に、今日のテーマである二元論のおさらいです。 この世にあるもの皆を、~である。~でない。 人間と自然、悪魔と天使、神と人間、善と悪、男と女、、、、、 のように、反対の対立する者同士に分けて組み立てて、 その相対的関係もなく、単に2極で捉える概念化は、 人間の成長過程の子供が、この世を認識し始める時の初歩的概念化に、 そっくりそのままです。 幼児は6年間、この世のありのままの世界に関する概念を蓄積します。 これには、条件があります。 自分の周りに存在する物に限られます。 存在すると意識したモノのグループの中だけに限られます。 モンテなどの幼児教育で云う処の、 子供は、環境の中に落ちているものを拾って自分の感覚を作り上げる。 (環境の中に、無いものは、拾う事ができません。) ここで、教育をする前にすでに人間には、差別があるのです。 万人は平等ではない、生まれながらの差別相が現存しています。 これを、運命学の命式で観る事ができますが、 普通、我々の五感・意識では、 自分の意識が存在すると認識した事のない物は、分からないのです。 むずかしい! と感じるか、実際に目の前にあっても脳が在ると捉えない。 この世に在ると云う事を意識した事がないものは、 例え、それが目の前にあったとしても、実際に見えない作用もある。 そう云う <脳自体の機能> の不思議もあります。 脳自体が、見る事を拒否するのですね。 神経系が、伝えない。 肉体の目や耳と云う感覚器官は、それほどに個人差もあり絶対ではない。 だから、思った事もない意識にないものは難しいですから、 むずかしい記事は、目に触れるだけでもいいのですよ、 読むだけで忘れてください、と申し上げるのです。 意識は忘れたとしても、あなたの目に触れたものは、 ひとつ残らずに、あなたの無意識は受け入れています。 深い無意識の領域の中に沈んで無くなる事はありません。 間違いなく、永遠に無意識は、それを持ち続けるはずです。 そして、必ず、あなたの無意識は、無意識に沿ったものである物を、 意識に、その存在を体得させようとします。 無意識は意識を自己成長させたいのですね。 これは、大地に植えた種が、条件が揃えば発芽するのと同じです。 発芽させるのは、『陰』・無意識の力ですが、 まず、読む。 あるいは、聞く。 、、、これが、大事なのです。 あとは、『時』に任せる、、、個人差がありますが、 必ず、体得、分かるようになります。 その存在に触れるだけで、いつか体得できるようになります。 意識したモノに、無意識がバックアップをして来るのです。 覚知できるようになるのですね。 それを、乗り越えるには、分かりたいと思い続ける事です。 それは、かならず満たされます。 その道は、「楽」ばかりではありませんわ。 だから、「苦」を排除する事はいけないと申し上げるのです。 「苦」を排除すると、馬鹿になってしまいます。 あはは。 もっと、具体的に云うと、あなたの家系が衰亡してしまいます。 「苦」も「楽」もすべて受け入れてください。 あなたにもたらされる「苦」こそ、 あなたに「楽」をもたらす必須な経験なのです。 こう捉える東洋は、すべてを包み込む法を具えた智慧です。 概念ではありません。 もし、意識の壁が権門に閉ざされて頑固で強固であれば、 今世で体得するのは無理かもしれないわ。(またまた、むずかしいわね?) そもそも東洋的教育方法は、 江戸時代までの学習は、漢文など、分からないまま素読をさせます。 繰り返していくほどに、教えられなくても、自分で獲得していきます。 説明など、教える側の恣意的な人格の塵が入らなくていいのですね。 あはは。 それに比べると、 西洋的教育法は、意識の操作した知識の小間切れを、説明で、暗記させる。 忘れたら、元の木阿弥、,、、、、あはは。 大金を掛けて大学を出ても、資格を取っても、能力を物にしなければ、 すべてが水の泡です。 この能力とは、常に知識を追いかけると云うレースの耐久力です。 要は、選別をする為に、仕掛けた道具類が累々と設けてあります。 一つの方便ですね。 狩人のナンバーワンを決める習性、狩猟民族のなごりなのですね。 そう、彼らの脳には刷り込まれているから、そうやっているだけなのです。 日本は、我を忘れて、その群れの中へ走り込んで行っています。 先頭を目指して、、、どうなのでしょうね? ほほっ。 それを、保障し、守っているのが、キリスト教の教理です。 いつ気が付くのでしょうか、、、、、 あはは。 幼い概念化へ、戻りますね。 所詮、我々の概念化と云う実態は、その程度のモノ、 時代が化けの皮を剥がしてしまい、虚になるかも知れないものです。 そう云う中途半端なモノにしか過ぎません。 これが、目、耳、鼻、、、五感、感覚器官で捉える限界です。 過ちの多い、間違いだらけの認識や概念が知の石積の中にはあります。 とりあえず、そうするのです。---------- 後で出て来る(科)です。 常にそれを忘れてはいけません。 これでいいのだ、と云う慢こそ、絶対に叩き出さねばならないのです。 それが、どうですか? 現代は、慢、慢、慢の垂れ流しです。 故に、概念化は結論ではありません。----------- 物事の真実の姿ではない。 仏教で云う処の権教・ごんきょう、仮の教え、方便権教の経典の事です。 真実の経典から観れば、嘘、うそ、偽、ニセの教えになります。 日本の仏教界は、その程度のものがほとんどかも知れません。 たぶん、魅力がないのは、その為でしょう。 ほほっ。 このように、 あらゆる事象において、人間の意識は、対象を把握しやすくする為に、 五感から入って来る情報を基に、 印象しやすく、憶えやすく、合理的に、割愛し、強調し、対立させて、 まず二つに分ける(categorize・分類する)のが、楽なのです。 こう云う脳の機能を、人間は生き残る為に発達をさせて来たのでしょうね。 この辺りが『陰』が『陽』を生み出す際(きわ)になると思います。 --------- 『陽』の機能そのものの具現性の出現です。 しかし、この段階の概念化の目的は、生き残る為の手段であったはずです。 便利な為に表面のカテゴライズ(分類)をしただけで、 もともと真実に至るのが、目的ではなかったはずです。 生きる途上の便法の為、初歩の認識を助ける方法論だったはず。 それが、いつのまにか、真実をつかむのだど? だどって? つまり、 西洋二元論は認識において初歩の段階に留まっていると云う事です。 申しわけないのですが、幼稚であると云う事です。 私は、真の仏教から観ると、はるかに、はるかに、 現代科学は幼稚であると云う認識を持っています。 そう、 まだ、ぜんぜん、真実をつかむ体制にもなっていない次元です。 分けると云う事は、排除にも通じますしね。 排除した側にも、真実は存在する訳ですから! それにも関わらずに、真実をつかむのだど? だどって? あはは。 思想を見抜く深謀遠慮もなく、それも知らず、無知のまま、 現代人は、自分の命をその思想に懸けて右往左往生きています。 はたまた、今までの知識人とは? 何をした人ぞ? ほほっ。 これでは、 もともと我々の命が持つ命の神秘が、おかしくなって行くとは思いませんか? そう、地球温暖化の気候のようにです。 自然が侵されるのは、我々を取り巻く地球環境だけではなく、 自然から生まれ出た他の生物すべておかしくなっているというのに、 我々の命もです。 その中で、一番シビアに、その影響を受けているのが、 命を孕み生む生殖機能そのものであると、思い至らないと云うのが、 西洋二元論の思潮の中にいる歪み、マヒをさせられた無意識系の体感です。 私たちの体、生殖器が、まず先に、 その影響を受けていると認識をしなけれないけないはずです。 日本の近代化率から考えると、なにをかいわんやです。 西洋二元論の思潮の中にいる歪み、無意識系の体感をマヒさせている 原因そのものこそが、近代科学の認識。 その背後の、キリスト教教理の半端(ハンパ)さなのですよ。 こんな事を、堂々と、 FC2と云うアメリカ企業のブログに書くと云うのも、何なのですが、 たしかに、これは近代化のお陰ですね。 ほほっ。 ある意味のアメリカの偉大さも、認識はしておりますのよ。 ほっ。 しかし、その全てを一直線に信じて疑わずに、がむしゃらに、 真似なきゃソン! 大損とばかりに、 識字率 = 二元論的宇宙観を熱心に学習をして取り込む能力になっている。 念入りにテストテストで、積み込んでいますから、、、 どうしましょう? あはは。 識字率ナンバーワンの功罪が、こう云う処に出ているのでしょうね。 ちなみに、後進国においては、出生率は下がっておりません。 西洋の学問の発見は、この世界や宇宙を、 五感で捉えられる特徴で、さらに<分けて分けて>細分化して行く事です。 その結果は、すべてを小間切れにして、その欠片が砂利のように、、、 おびただしく点々と、、、残骸が、、、宇宙に散らばっています。 あはは。 そして、事の本質から遠ざかるのです。 それでもって、真実をつかむのだど? だどって? あはは。 分かれ分かれて*科に陥る、 ------------- そして全体を失います。 いくらやっても、、、です。 ほっ。 *科(か) = 水が溜まる窪地。 科に盈(み)ちて後(のち)進む。 <「孟子」離婁下からの出典 > 水が流れる時に窪地があると、水は、まず窪地を満たしてから先へ流れる。 科学の(科)や、病院の~~科も、ここから出ています。 流れる水を溜める窪地が、流水全体を分かつのです。 勢いのある流水だけが、一つ一つの窪地を順に満たしながら進むのです。 この意味から、 科学の弊害は、科(窪地)に留まるだけで先へ進まない水になる事です。 水が、科(窪地)に溜れば、淀み、腐り、害にしかなりません。 窪地内の概念化、認識だけでは、真実はつかめないと云う事になります。 本来の真実を歪めてしまい、真実を見極める邪魔になります。 ------------- 邪悪の発生です。 流れる水がなくなれば、意識は、溜った水だけに囚われます。 ------------- 偏見が生れます。 そうこうしていたら溜った水も蒸発して無くなります。 窪地の形だけが残る。 ------------ 物事の形骸化が起こります。 そうなれば、真実どころか、 邪悪の入った窪地だけが何時までもそこにあるようになる。 現代は、そう云った状況ではないかと思います。 では、真実とは? 水の勢いそのものの現象を興している力の奥にあるものです。 現代の科学が、 細胞から、遺伝子へ、分子へ、原子へ、、、、そしてまた新たな科へ、、、 何を発見しようが、それそのものは科にしか過ぎません。 切りもなく追及し尽くしても、絶対に、 水流そのものを興す力の奥には到達できないのです。 ――――――― それが、意識・西洋文明、『陽』の本質です。 それで真実をつかむのだど? だどって? あはは。 真実は、統一、含蓄、普遍性を帯びたものであるはずです。 全体を、一つに観る智恵、一つに包摂する、、、 ―――――― それが、無意識内にある東洋の本質です。 やっぱり、長くなりましたので、 あはは。 結論から云いますね。 あはは。 二元論の基盤の上では、 近代的学問が、その合理性で何を積み上げようと真実には至らない。 精神と肉体に分けて認識をする限りは、 そのどんな方策も、 本当の意味での精神と肉体の力を引き出す事はできない。 なぜなら、精神が勝って肉体を犠牲にするか、 はたまた、肉体が精神を犠牲にするか、 と云う合理、認識論の範疇に、それがそのまま具現してしまうのです。 ここが、西洋医学と東洋の中医学の根本的な違いになって現れています。 ★ 肉体と精神をベツベツのものとして生きるのが当たり前の 西洋近代合理主義下の我々の過ちを、 自ら客観的に意識、批判できるようになりますように願っています。 その為には、 キリスト教を根底とする 物質文明のよどんだ空気におおわれて、 近代合理主義と云う意識中心の認識だけを是とし、 そこから生れる価値観に頼っている歪みの時空を出なければいけません。 只今の我々の生きている『時』の空間には、 人間を肉体と精神の二つに分けるキリスト教人間観の些末さがただよい、 それが、現代をおおう近代的自我意識の拠り所になっています。 頑迷で傲慢な近代的自我の氏素性はそんなもの、 知れたものなのですが、 これこそが、西洋近代思想の二元論の害悪です。 害悪と知らず、それを抱きしめている我々、東洋の民こそ哀れです。 では、 今日は、comment mix 1. 二元論を超えた「我」の体得 comment mix (コメント ミックス)を行います。 読者の皆さまにいただいたコメントで記事を構成してみたいと、 前から思っていましたが、ついに実現をしようと、 ほほっ。 いつもコメントを送って下さる皆様へ、深く感謝申し上げます。 最近、とみにすばらしい内容のコメントが送られて来ますのに、 感心するやら、うれしいやら、、、 読者の方たちの姿勢に、心を打たれております。 それを、全部公開してお見せしたい衝動にかられます。 ほほっ。 この本論は、みなさまのコメントで、記事を作りたいと思います。 鍵コメントも、勝手に公開させていただきますのでご了承くださいね。 コメントの文章を、編集、割愛させていただいております。 必要な場合は、その時の私の返事を付けています。(斜体部分) 記事を読むのが長くてお疲れの場合は、 又、訪問をしてお読みいただきますように....。 では、一つ目から、 台風一過、秋らしい日が巡っています。= 家の中より外気の方が、涼しいですね。= 今度の記事は、何度か突っかかりながら、何度か読んだのですが、= むずかしい、、これが東洋の神秘というものか、 東洋人でありながら恥ずかしいです。= でも、わからなくて、いいっか! とちょっと安心しています。= 前に記事で、わからなくても放っておいたら、 分るようになると読んだ気がします。= 理解しようとしたら、これは西洋的なんですね。= 二つ目のコメントです。 こんにちは~~♪ 今日は中秋の名月が見られる日ですね。 満月の中秋の名月は3年続きだとか・・・ 今日は20時ちょっと過ぎから空を仰ごうと思ってます。 東洋にとっての肝心は全て見えない世界というのが 少しわかってきたような気がしてきました。 まだまだですがこれからもcosmosさんのブログでいろいろ教えて頂きます。 三つ目のコメントです。 国家、経済、教育、家庭、家系、、、 分野は違えど、共通しているのは..「命」そのものの、内なる力が、 もう弱りきっているのではないでしょうか。 進歩や成長、発展、、一見すると格好よさそうですが、、 結局は先代が残してくださったものを使い尽くしている、 ただそれだけで実態は薄っぺらいのですね。枯れた井戸のように思えてなりません。。 オリンピックは喜べません(笑) 追記 先日、ふと宮内庁のHPで皇族の方々の系図を拝見したのですが、 仰るとおり皇族の方々といえども天命?には逆らうことは出来ないのですね... 本当に日本の家を映しているようです。 (桂宮様はお独り身で、他は女性ばかりなので驚きました。。) これから「運命学と歴史」を拝読したく思います。 また、学ばせていただきます。。。 四つ目のコメントです。 2020年のオリンピック、東京に決まりましたね! 周りのみんなが喜んでるのを傍目に見ながら、 なぜだか喜ぶ気持ちになれない自分が。 へそ曲がりですね~(笑) でも「旺ずる極みは、衰」という言葉が思い起こされてしょうがありません。 economic 訳して「経済」ですか。 経済の元は「経世済民」からとったと聞いた事がありますが 本来の言葉とはかけ離れた、まさしく西洋的な状況にあるのだな、 と本ブログ拝見しつつ。 7年後、とてもオリンピックどころじゃない状況になっていなければいいがと 取り越し苦労してます。 次回も楽しみに待ってます。 季節の変わり目、風邪などひかぬようご自愛ください。 五つ目のコメントです。 感情に任せて書きなぐったようなコメントに、渾身の返事 勿体ないというか、穴があったら入りたいというか、気恥ずかしさが(笑) 有難うございます! 漠然と原発は嫌だと思いながら、 その恩恵たる電気の下で生活していること。 原発廃止へと向かうには、 意識を変えるにはまだまだ気の遠くなるような時間が必要なようですね。 >『陰』を無視し、無意識界を無いとする近代合理主義では、 >いかに美しい言葉を連ねてスローガンを作ろうと、 >正しい言説を述べて演説をしようと、 >最後は、 >この人間の暗黒部分が結果的には現象化します。 まさしく、今の政治はこれですね。 今日は終戦の日でした。 反戦平和を訴える番組がある反面 集団的自衛権を憲法解釈を方針転換して使えることにしようという 動きがあり・・・ 今の日本は何処へ向かおうとしてるのでしょう?気がかりです。 局地的な豪雨、少雨による水不足、なにより今年の猛暑! 自然界はしきりに何かサインを送ってきているのでしょうかね? 今回も有難うございました。次回を楽しみにしております♪ 六つ目のコメントです。 最近はこちらの御記事や安岡氏の御著書、四書や呂氏春秋を 読んでいるのですが.... 巷でも東洋思想や陰陽五行や易を利用したセミナーや本が、あるらしい のですが、内容的に何かおかしいのでは??と思うことがあるのです。 具体的に申し上げますと、、 確かに五行で自然界や五臓六腑など森羅万象を説明するのですが 「エーテル体」「アストラル体」「ハイアーセルフ」などの意味不明で 形而上的な用語が出てきたり、神話を五行で解釈して「魂の成長」を論じ、 錬金術が人間の魂の成長の過程だ、西洋も東洋も五行で見れば皆同じだ。 (根本的なキリスト教的文明観には触れず)など.... 何か現実離れしているというか、 こちらで学ばせて頂いている小生から致しますと、 気持ち悪さ?違和感?を感じるのです。 いずれにしましても... こういったものから感じるのは、 己の徳の無さ内省し天命や自然を恐れ敬い、天地の理に適った・・・ではなく、 こういった東洋思想でさえも 自らの「幸せを掴む!」という意思的な所作の手段にしているように 感じるのです。。 結局、自らを見つめる事無く、 近代的自我を着込んだまま東洋を利用しているのでは?思います。 これでは苦しんでいる人が藁をも掴む思いで、東洋に触れても、 結局救われないでのはと心配になりました。 cosmos様の御意見伺いたく思います。。 此れにつきまして、必要であれば、 コメント欄でのお返事をご覧になってください。 七つ目のコメントです。 もうすぐ、終戦記念日ですね。 脱原発ができない理由は、 原子力でエネルギーを得て、便利で楽な生活をするためのほかにも、 「戦争」が生み出したものであると思います。 「絶対に戦争に勝って、相手国を絶対的に支配したい」 「原子力を手に入れれば、戦争に有利で国のためになるのだ」という、強烈な欲望があるように感じます。 だから、現代人は原子力が危険でも、手放せないのだと思います。 地球が長い時間をかけて育んだ資源を、むやみに掘り出して消費するだけの消費社会や、 エネルギーをめぐって戦争を繰り返すような文明のありかたを、 根本的に変えないといけないのでは?と思いました。 これも難しいことですね…意識では、とうてい解決できないですね。 毎年、今の時期になると、戦争と原爆の被害の様子や写真などを、テレビで放送しますが、 子供の頃からそれを見ていて、強い恐怖を感じていました。 そして、中学生位の頃に、 原子力発電所のエネルギー源は原爆と同じもので、 有毒なのに処理する方法もない、ということを学校の先生から教わり、 その時からずっと、原発に対しても恐怖心を持ち続けてきました。 その後、チェルノブイリの事故があり(1986年4月26日)、 青森県に六ヶ所再処理工場(1993年)ができたりして、 (私は秋田県に住んでいます。) 日本は原爆を落とされた唯一の国なのに、 どうしてこんな危険なものを建設するのか? その当時は考えても、さっぱり訳が分からなかったです。 周囲の人に聞いても、壊れないように造られているから大丈夫だ、 と言われるだけで… ネットで調べたら、正力氏と中曽根氏が、 「原子力の平和利用」というプロパガンダを行ったそうですね。 人間は、言葉に騙されやすいのですね。 こちらのブログの過去記事の、 「敗戦記念日を振り返って 蔓延する相対主義 今を蔽う退廃という雑草」を読みかえしました。 戦争や原爆で苦しんで亡くなっていった人達のことを思うと、 日本人として、これではいけないと、やはり思います。 日本人としての誇りを、なんとか少しでも取り戻したいと、強く思いました。 コメント欄でした返事を引用します。 いずれにしても、すべて「戦争」が生み出したものではなくて、 便利で楽な生活をするために、その実現の為に戦争をしてきたのです。 誰が? 便利で楽な生活をしたいと望む人間の意識が、戦争をするのです。 いいですか? 意識は五感の満足を欲しがるのです。 五感で「苦」を感じたくないのです。 だから、「苦」を避けて「楽」を手に入れる為に戦争を肯定してきたのです。 犯人は、「戦争」ではなくて、我々人間の意識です。 過去の記事ですが、 http://jakkoucosmos.blog103.fc2.com/blog-entry-176.html に、 原爆から原発へ意識が変わって行った事について書いています。 全記事のタイトルリストを次から出して、 http://jakkoucosmos.blog103.fc2.com/archives.html その中の 2011年 9月10日 ~ 10月30日の記事 無意識の不思議1,~8,に、 意識の誤謬、欠点について書いてあります。 一度はお読みになっていると思いますが、 このシリーズをもう一度読んでみてください。 脱原発ができない理由は、意識のせいなのです。 事ここに至って、 自分の欲望を我慢できない近代的自我の意識です。 地球がおかしくなっているのに、それでも「楽」をしたい 近代的自我の意識です。 その意識を中心にした近代合理主義の思想を世界中が 根本にしているからです。 近代合理主義と云うのは、欲望中心の思想です。 この思想圏にいる限り、無理です。 なんだかんだと理由を作って止めないでしょう。 もう、瀬戸際まで行ってもダメかも知れないですね。 それを記事で「破局」と言っています。 近代合理主義下では、人間は自分の欲望の為にしか生きられないのです。 意識は、今現在の自己満足の為に、未来の自己破壊を選んでしまうのです。 意識は、今現在と自分を守りたいのです。 これも、過去記事に書いています。 つまりは、「楽」を求める思想=近代合理主義がその原因です。 (この返事に、またいただきました)八つ目のコメントです。 前回の記事のコメントに、長いお返事をいただき、ありがとうございます。 「強烈な欲望自体=意識そのものの働き」なのですね。 この「意識そのものの働き」は私の中にもあるので、 戦争や原発など全てに対して、 自分にも内因があるのだなあと、胸が痛いです。 (日本という先進国で、便利過ぎる生活をしているし…) 「どうして人間は戦争をするのか?」 「どうして現代社会は暴力的で残酷なのか?」 という事を昔から考えてきましたが、答えが出ませんでした。 「人間は欲深いから?ユング心理学でいうシャドウのせい?」 などと考えてきました。 スピリチュアルや心理学に答えを求めても、 本当に納得できるものは無かったです。 スピリチュアルは、魔の世界でした。 ユング心理学は好きですが、認識論なのですね。 cosmosさんのブログに出会ったおかげで、 近代合理主義という思想が原因としてあること、 近代合理主義は「楽」を追求する、 「楽」と「苦」は表裏一体、苦楽不二なので、 意識が楽を追求しても苦は無くならず、楽を求めたぶんの苦も必ず表れる、 日本人は元々は近代合理主義の思想はない、 西洋のキリスト教からきたもの、 日本人が器用に近代合理主義を取り入れて努力をしても、 本家本元のアメリカには絶対に勝てずに、上位の意識に操られるだけ、 近代合理主義は、家系も滅ぼす、 自分の中に内因がある(内因が命式に表れるのですね)、 …というつながりが、見えてきました。 見えてきただけで、「分る」には程遠いです。 いつか「分る、体得する」という境地になれたらいいな、と思います。 近代合理主義は、あらゆる欲望、煩悩の満足を肯定して、 追求する思想なのですね。(恐ろしいですね。) 仏教や儒教はその逆で、『陰』を体得した教えですね。 日本人として先人が大切にしてきたものを取り戻したいと、強く思います。 九つ目のコメントです。 毎回とっても難しい内容なのですが わかりやすくお話しいただいてありがとうございます。 と言いながらやはり文字を追うだけでは大切な事を素通りしてしまいますね。 五感が苦を生んでいる。 それとも知らずに五感で麻痺した意識でさらに苦を生み続けているような 感じがします。 「苦」との向き合い方? 一生向き合っていかなければなりませんね。 ディズニーランドのお話を読んだ時に気がついたことがありました。 建物の中で人工の明かりで野菜を育て、 その野菜をお客様の目の前で摘んで料理にだす。 そんなレストランのニュースを見たことがありました。 その企業と足を運ぶ方々になぜか異様さを感じました。 虫や太陽、雨、土を無視しっちゃってる!? 何より植物を無視しちゃってる!? 誰かに聞いてほしかったのですが、 COSMOSさんにお話しさせていただきました。 本当に、ありがたいなあと感謝申し上げます。 東洋が、古いなど、カッコ悪いなど、打ち捨てられた日本において、 少しづつではありますが、東洋の神秘に興味を感じてくださる若い方がいる、 と云う事は、希望を抱かせるものです。 どうか、祖先からの智恵を掬い取ってほしいと願います。 それらは、思想と云う、哲学と云う、 自分の生きる処からかけ離れた雲のようなものではありませんのよ。 そうなってしまったのは、 やはり、西洋二元論の精神と肉体を分離した合理主義のせいです。 汚くお金を儲けても、その汚さを見かけのデザインで見えなくする、 体は清潔! 心は純粋だからいいんだわ、、、 ほほっ。 洗剤類と、心の癒しが流行るはずです。 ほほっ。 邪に白化粧を施すテクニックは氾濫しています。 そう勘違いさせる便利さが、お金を出せば手に入る時代です。 こう云う訳のわからない、肉体と心を分離させて夢見心地になる、、、 エセ・ロマンチズムが付け入る隙を、 許してしまったのですね。 それが、資本主義が作り上げた今の文化の質だと思います。 作り上げた作品やモノに、その人の命が、一生涯が懸っていないのです。 つまらない、只のキレイな粗材の寄せ集めじゃないの? 今は、権門が栄える時代です。 権門とは、権教(もう、お分りですね?)の権威や名誉で、 自己の守りを固めた保身の主義主張です。 知識があり、智恵もあると、認識されている存在です。 この真贋識別が、もっとも難しいのですよ。 あはは。 ニセ札でも、オモチャの子供銀行の偽札は罪がありませんけれど、 本物に見まがう、スーパーZという精巧な偽ドル札や、 もっと精巧な「スーパーノート」なる偽札は、国家転覆程の罪があります。 全くの悪に見える邪は、どうでもいいのです。 正に見まがう邪が、、、、、繁栄する、、、 どうか、真実を見抜く知恵を鍛えてくださる事を願っています。 ひさびさの更新になりました。 今度は長すぎて、読むのに困る? あはは。 では、次の更新まで、よい日々をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2014
10/31 21:27 |
comment mix 2. 我々の中の智と云う自然を覚知して. . . / 法界Category : Comment mix
過ぎし日、、、夏の日の思い出
![]() 今日は、グッと東洋的に行きます! あっ。 今日も ? あはは。 上の写真、 地球と云う大地、 その『地』の上に青いベンチがおいてあります! どうぞお掛けになってください! あの暑かった夏の日々の思い出を、、、 ほっ。。。 もしか、 よろしければ、 海の波の砕ける音 (←ここを クリック) をお楽しみください。 Youtube を後ろに隠せば、BGMとして、 波の音だけが、60分つづきます。 ほっほっ。 我々は、『天』 に浮かぶ地球にいます。 太陽からの距離、、、 暑からず、寒からず、の中庸の処。 命が存在でき得るバランス、を保つ位置にいる地球。 これらを、あなたの意識にどう映るかは、さまざまでしょうが、 近代合理主義的科学の物的に偏った観点、 数字で表わす距離や大きさ、その組成と云う 『陽』の人工的に分析されたセクトを感じさせる知識を捨ててみると、 地球が、太陽系に位置する場所と云うのは、 実に妙! 妙としか言いようのない思いがします。 これは、誰がそうしたのだろう? ほほっ。 不思議、 そう思われませんか? ここが肝心中の肝心なのです。 この肝心こそが、 真の東洋の叡智、 仏教哲学の肝心なのですが、 今日は、そこまで追いかける余裕はございませんの。 ほほっ。 また、いつか、、、 でも、この事だけは書いておきますね。 ほっ。 この宇宙全体そのものを、仏法では『法界』と謂います。 仏の法が律動して存在する世界です。 仏教では、あらゆるものに命の存在を認めます。 我々の地球も、そうです。 飽くなき、自転と云う生きざまを続ける地球。 この地球と云う存在は、 命と云う座標軸からみれば、 我々の命を守る役割である(用法)事は、間違いがないでしょう。 この事実を受け止めれば、 近代合理主義のシャワーを浴びて、 完全に無意識を捨て去った人間になっていなければ、 そう受け止める事で、 お陰様、、、と感謝の心が湧いて来る事が自然でしょう。 水があるから、太陽の恵みがあるから、 地球の資源があるから、生きていられるのです! ほっ。 ありがたい、の気持ちですね。 その対極にある ◆ 西洋の近代合理主義では、 地球と云う資源を支配し、生かしているのは人間である。 その人間の意識こそが偉大なのである。 それこそが人類の進歩である! 、、、、、、、 でしょうか? あはは。 自分(人間)を中心に、この世界を物と観る西洋哲学、 そこまで偉大な人間の意識が、 近代化を成し遂げたのである! あは! 我を飾る物の追及に明け暮れ、ゴミは地球上に溢れています。 それでも止められない我々の欲望は、 地球の五行(木火土金水)の調和を狂わせ、 ついには、地球の自然のリズムを破壊する処まで至っています。 それでも止められない利益の追求とは、 はてさて、誰の為に ? その西洋の近代合理主義に踏みつけられて存在感のなくなった ◆ 東洋においては、いにしえから次のような心を培って来ました。 我々が、自己の存在の存続に, 安定と「信」を置く事ができるのは、この『地』のおかげである。 大地の安定への信頼こそが、『地』の徳である。 地球の お陰さまなのです! ほっ。 この真実が、どうして胡散臭いとか、オカルトだと言われるのでしょう? ほほっ。 そのあらゆる生の現象化を支える大地。 それが、仮に、この世では地球です! ほっ。 かように、4000年前の東洋人の洞察力は、 それを、『地』の徳性は「信」である。 と覚知したのです。 この優秀性を失ってはいけませんね。 それが、五行学です。 このブログの記事の中に頻繁に出て来る『陰』と『陽』の淵源は、 古代中国神話に登場する帝王「伏羲」が作り出した陰陽学です。 五行学と陰陽学を合わせて、 五行にそれぞれ陰陽を付して、5×2 = 10 で、 甲、乙。 丙、丁。 戊、己。 庚、辛。 壬、癸。で十干となります。 十干(じゅっかん)で、大地を表わしますと、 大地は、戊(つちのえ)になります。 東洋は、むずかしい? あはは。 西洋の表音文字とは違って、 漢字ひとつにも、哲学がこもっていますから、、、ね。 ほっ。 『天』の雲の下は、海。 どこまでも広がった青々とした水平線。 海は、五行学で、壬(みずのえ)と謂います。 『天』と『地』の間を、気となって自在に動く「水」です。 「水」の性は、自在変化、水平、浄化清明です。 「水」を自在に動かすエネルギーは、太陽エネルギー。 大陽は、五行学で、丙(ひのえ)と謂います。 「水」は「火」の熱で蒸気となり霧となり、『天』へ昇って雲となります。 我々『人』の身体を満たしている「水」も同様に、 我々の命の熱で汗となり、『天』の気へ混じります。 水は、『天』に上る時に、浄化清明になります。 これらの蒸気や霧や雲となった水を、五行学で、 癸(みずのと)と謂います。 ◆ 壬と癸の違い、お分かりになりますか? ほほっ。 ・ 壬は『陽』の水、動かし難い現象としての大海。 ・ 癸は『陰』の水、移ろいやすい現象としての湿気、霧、雨、雲など、、、 壬は『天』に昇って癸になり、 そして、ふたたび『地』に降り来たり、壬に還ります。 そう、ベンチに座って眼の前に見える 広い海は、「水」の陽の姿です。 「水」の役は本来、 命を生み守る智、 その清明さで邪知や欲望で汚れた命を浄める智となり、 機に従う柔軟性は、命をはぐくむ智そのものの働きです。 生れるまでは我々の命を外から守り、 生れてからは我々の命の中から守ります。 そして、体内の「水」は、 絶えず『天』の水と入れ替わって命を保つのです。 つまり、智と云うものは命の中に在るものです。 決して、体外に在るものではありません。 我々の智は、常に新しく、自然にある智と入れ替わります。 この事は何を意味するのか? 我々の智恵は、我と宇宙法界を結ぶ無意識界、 我と一つである自然から、 我の体内の無意識層から 湧いて来るものです。 智は、あなたの五感で捉えられる意識界の現象の中には無く、 あなたの外(環境)には無く、 あなたの内にあるものなのです。 智は、あなたと無意識界とをつなげるものです。 あらためて 「水」の徳は、智。 「水」の徳性・智は、 『人』が『天地』の間で中庸の生活を営む限り、 その性、冷厳さで、『人』の欲望の熱を冷やし、中庸ならしめ、 その性、清浄さで、『人』の意識の汚泥を洗い流し放流するものです。 地球上の『陽』の現象界の汚物は、すべて海へ流れ入り、 海の壬の浄化力で、無毒化されるのです。 その無限の浄化力のとどろきが、 yuotubeのBGMの波濤の音からあなたへ届きませんか? 『人』は、この自然の浄化力を超える悪事をしてはならないのです。 それは、悪です。 我々の命を守ろうとする自然に対する反逆です。 『孝』を滅多打ちにする事です。 取り返しのつかない不孝です。 近代化以前の『人』は、ここまでの事はして来なかった! 『人』同士で殺し合おうとも、幾度の戦争をしようとも、 自然まで犯す事はなかったのです。 あくまでも、自然を変えず、自然を畏れながら、 あるがままの自然の中での『人』の愚かな行為だったのです。 しかし、今はどうですか? 自然を犯す技術を手にしたのは、近代科学の成果です。 原子爆弾、放射能、 化学兵器、 環境ホルモン、遺伝子組み換え、クローン技術、 それらを食品へ取り入れさせた利益追求の資本家たち。 日常的に、それらがスーパーで売られ、食べている現実! 我々は、『孝』どころか、 『孝』への反逆の時代に生きているのです、、、 けっして、江戸時代の人より便利だなんて得心しないでください。 比べようもない命の本源に逆らう時代に生れているのです。 我々の不孝の行状が、 自然からどう還流して来るのか? 覚悟するべきです。 東洋の観点からは、宇宙即我、 地球をないがしろにしたエネルギーは、即、 自己の命へ為したと云う事、 我々の命がどうなるのか? 『時』をかけて、『天』は現象化させるはずです。 ただ、もう、恐ろしいのです。 さすれば、 福1で起こってしまった事は、どっちなのでしょう? 被災者と云う『人』への賠償金で済む次元ではありませんのよ。 被災者が住める町を復興する、、、 経済的な、それだけの物理的な問題ではありませんのよ。 これは、あくまでも意識中心の現象界だけのくくりの解決法です。 これらはすべて、 近代合理主義の浅はかなロジックの便法にしか過ぎないのです。 取りあえずは、現実を優先して、そうするしかないだけですわ。 これで、納得をしてはダメです。 目で見える世界だけを見ているのでは、 その現象の本質は見えないのですから、、、、、、 この事を『智』から、述べてみましょう。 『人』が『天地』の間で、さも賢(さか)しらに調和を破る場合には、 「水」の智の徳は、愚(おろか)の悪徳へ変容します。 そして、その『人』の住む国土においては、 愚かは、あらゆる命に刃向かい、破壊し尽します。 その『人』の住む国土、その大地の徳性・信は消え、 植物・「木」の徳性・仁も、消え失せててしまうのです。 今夏8月の広島市の土砂災害では、例年の3,7倍の雨が降り、 9月の北海道の大雨の特別警報時は、例年の2,4倍の雨が降りました。 近畿や中国地方でも、平年の3倍を超えました。 この原因を、気象庁は太平洋とインド洋での水温が高く、 気圧配置のバランスが崩れた為と説明をしています。 しかも、変化をしたのは、 雨量が量的に多くなっただけではなく、雨が強くなった為だと、 木本昌秀、東京大教授は指摘をしています。 その証拠に、1時間に50㎥以上の雨が降る回数が、 70年代は、年に180回位だったのが、 昨年の2013年には、237回に達したと云うのです。 同時に、自然界の変化は、これだけではなく、 大量な雨が降る代わりに、 まったく雨が降らない場所、日も増えている事です。 大雨か、干ばつ、気象が極端化して来ていると云うのです。 7月、アメリカのカリフォルニア州のヨセミテ公園で起きた山火事は、 3年連続も、深刻な干ばつに見舞われている上に、 昨冬の降水、降雪量が平年の約2割に止まり、 地表が太陽光にさらされて土壌中の水分が蒸発し、 夏場に大気の乾燥が進み、 山火事が起きやすくなっている環境であった訳です。 亜熱帯と中緯度の地域は乾燥し、干ばつや、山火事を起こし、 中緯度の湿潤な地域は、豪雨や大雨が増えています。 世界的にみても、 死者10人以上を出した洪水、渇水、土砂災害、暴風、熱風は、 2001年からの10年間で3496回、 それ以前の10年間の1,5倍です。 I PCC(気候変動に関する政府間パネル)は、第5次報告で、 石油と石炭を大量に使う人間が、 地球温暖化を引き起こしている可能性が極めて高いとし、 その影響は「全ての大陸と海洋に表われている」と指摘をし、 また、今世紀の中(2050年ごろ)には、 平均海洋水面が、最大82cm上昇すると予測を出しています。 これは、当然の如く、地形の事だけではありませんわ! すべての現象が、食糧難へ向って行っていると思います。 『人』の命へ不孝のエネルギーが還流するとなれば、 そうなるのが至極、当然です。 悔しいのは、今の大人の所業で、 未来の孫子たちが苦しむのです。 悔しいですね。 よく、覚えておいてください。 自分の所業の結果は、三代先へ現象化すると云う事です。 とにかく、日本全国、食糧自給率を上げるべきですね。 さあ~みな、帰りなん、いざ! 自然へ! 田舎へ、田畑へ! ほほっ。 東洋の我が国の、元々あった種を植えましょう。 モンサントのF1種ではなく、自家採取の種をですよ! モンサントは、びる・げいつが大株主の多国籍企業です。 日本は、TPP以降は、この会社から 遺伝子組み換えやF1種の種を買わされる事でしょう、、、 日本は、車を売らせていただく代わりに、 日本人の命をダメにする食品を買って食べるのですね! これも、あれも、戦勝国の戦略と思えば、くやしいですね、、、 これらの事から、 近年、我々が、この気象現象をみて、 『天』の異常気象、『地』の大地震の恐怖、 自然界である『天地』に恐れを抱くようになって、 これからどうなるのか不安を持つようになったと云う事は、 自然・『天地』が一方的に不穏になったからではなく、 我々、『人』の愚こそが、 『天地』の中庸を破り、 『天地』の不穏さを引き出したと云う事に気が付かねばなりません。 もっと端的に云うならば、 我々、『人』が、『天地』の無意識界の道理を忘れ、 自分の貪欲を満足させる事だけが、楽であると云う、 意識の合理性だけを求め続けた結果であろうと云う事に、 立ち止まって反省をしなければいけないのです。 楽ばかりに、我を忘れてはだめなのですね。 いいですか! 楽の追及は、自己の権利ばかりを要求する意識が強まり、 自己が旺ずる事を求め続けます。 それは、『陽』の現象界に、熾烈な競争社会を現出させます。 これこそが、人間のモノ化、画一化なのです。 みんなが、自己の意識の満足だけを求める、、、 みんなが、CMに踊らされて、 同じものを食べ、同じ服を着たいのです。 同じものを憧れる、その流れは、 熾烈な競争社会を現じ、物は限られているのですから、 手に入る者、手に入れない者の、格差が生じます。 それは、そのまま、 敗者にとっても、勝者にとっても餓鬼道の具現です。 そして、餓鬼道の下は、地獄界、 人間を石ころのように扱う、、、 まったく、近代合理主義の思想の具現化そのものです。 この流れに入ってはいけません! いいですか! ここを、注視していただきたいのです。 第一段階 この競争社会の中で、 一番に踏みにじられるのは女の本質『陰』であり、 それによって起こる子供の犠牲です。 第二段階 女が、その徳性を失うと云う事は、未来の崩壊です。 子供は、未来そのものなのだから、、、 今、現在、日本は、第一段階です。 近代合理主義と云う意識中心の物質文明における 経済活動は、物に充足をした天界を目指すものです。 あろうことか、 その天界は、魔王の棲家なのですよ。 ほっ。 天国に天使がいるなんて、 ほほほっ。 あまりにも奇麗すぎ! 絵に描いた様な光景! ほっ。 事実、絵に描いた光景なのですよっ。 あれは、人間の意識が作り上げた絵本の如き空言、 根も葉も無い他愛ない空想、憧れです。 こうであったらいいなぁ~ 音楽や絵画、映画、歌、芸術の程度です。 ほっ。 なぜなのか? キリスト教は、いまだ天界の魔性を見抜いていないのです。 自己と他者に亘る魔性です。 これからも、見抜けるはずがない。 キリスト教理は、天国以上の場所がない! ほほっ。 欲望の満足を、最高と置く、教理哲学なのですから、、、 それと比較すると、東洋には、 天界に魔が住む。 好(慶)事、魔多し。 天人の五衰。 等の天界のもろさ、危うさを謂う諺や故事熟語があります。 こう云う点も、東洋の洞察力の素晴らしさを感じます。 狩猟民族ゆえの、 獲物を狙う精神から生まれた西洋合理主義は、 とことん地球を破壊する処まで、 自己の欲望の実現には頑張るのです。 あはは。 獲物を取るまでは、頑張るのです。 その為に、森や、その木々や、あたりを荒らしてでもです。 後は野と成れ山と成れ、、、 あはは。 自然相手の東洋の農耕民族とは、まったく違う! そう、その後のロジックがない、、、のです。 たらふく獲物を喰らった満足をして、 その天国で、欠伸(あくび)をして昼寝です。 あはは。 欠伸が出るのは、天国以上の目的がないからです。 その欠陥を生み出しているのは、、 自分の意識が、まっ先に、楽を目指す教えだからです。 他者をも天国へ連れて行こうと云う観点が漏れています。 愛や奉仕や慈善と云う言葉はあっても、 他者を救うと云う事は、自己を救うよりもむずかしいでしょう。 自己と他者の中に巣食う魔性も見抜けずに、 ほんとうにできると思ってか? あはは。 だから、今の世界が現出している訳です。 すべてキリスト教教理を根底とする 近代合理主義の歪みが生み出した産物です。 みにくいものは、みにくいものをうむ。 近代合理主義が地球のすみずみにまで広まって、 その正体が、おおいなる善だったのなら、 世界は、善の兆候に包まれているはずです。 どこに、ぜんのちょうこうがうまれていますか? ぜんが、せかいちゅうにひろまりましたか? どうでもいいことは、ぜんにんぶって、きょうりょくをしますが、 かんじんかなめのことは、きょうりょくどころか! えごをむきだしのたいこくどうしではないですか? そう、 まさに天国、諂曲(てんごく)なる天国ですね。 ほほっ。 < 諂曲 = 自分の本心を隠して従順を装うこと > 詰まるところは、 旺ずる極みは、衰。 もう、読者のみなさんは、耳タコですね、、、 ほほっ。 もっと、書きたい事は、湯水? のごとく溢れて来ますが、 あはは。 なにしろ、前書きのつもりが、 まるで第1部の記事のようになってしまいました、、、 では、ようやく本論です。 ほほっ。 今日の記事は、comment mix 2. 我々の中の智と云う自然を覚知して. . . / 法界 久しぶりの comment mix (コメント ミックス) です。 2013年 10月14日から丁度1年ぶりの同カテゴリの記事になります。 ここからは、 読者の皆さまにいただいたコメントで構成した記事です。 すばらしいコメントの数々をいただいております。 どのコメントにも、心を打たれるものがあり、 それらを紹介させていただきたいと思ったのがきっかけでした。 鍵コメントで送られて来たものも含めております事を、 ご了承ください! 都合により、編集、割愛させていただく場合があります。 また、必要な場合、私の返事を付けています。 (お返事は、◆と◆で挟んであります。) どうも、ネットの中での私のブログの評判は、 ”難しくて、長い、、、” のだそうです。 ほほっ。 それでも、なんとなく分かったような気になりながら、、、 読んでいると、、、ようです! 心より感謝申し上げます。 長くてお疲れの場合は、 訪問をし直して、続きをお読みになってくださいね。 では、1つ目は、 最近いただいた初コメントです。 紹介しましょう! “ 初コメントです! ブログを最初からアバウトに見させていただきました! これからまたじっくり読んで行きたいと思います。 質問なのですが、 女性は働かない方がいい。 それが本来の生き方っていうのは私もそうであると思います。 江戸時代みたいな生き方が本来あるべき日本の姿なんですよね。 でも時代が変わり 女性が社会進出するのが当たり前になってきていますよね。 時代がそうなってくると 時代に合わせなきゃいけないような気になってしまうのです・・・。 自然の生き方に反するのが良くないのは分かっているのですが、 時代の流れに逆らうっていうのは大丈夫なのでしょうか? 女性が就職したり起業したりっていうのはよくないのでしょうか? これからもブログの更新楽しみにしてます!” ◆ ご訪問いただきまして、ど~も! きれいに並んだ文章から、頭のいい方だなと云う感じを受けました! そして、私の中を盗み見た様な? ほほっ。 ご質問をなさって来られて、、、、、驚きました。 と、言いますのは、 “ 質問なのですが、 女性は働かない方がいい。 それが本来の生き方っていうのは私もそうであると思います。 ・・・・・・・・・ 女性が就職したり起業したりっていうのはよくないのでしょうか? ” 実は、こう云うご質問を前から受けております。 これに類する、立場はさまざまですが、 女性が働くことについてお尋ねをいただいています。 これに関しては、 今度きちんと記事を書かねば、と思っていた処でした。 ① 女性としての自立心から、 ② 能力もあれば、 時代が時代で、もう、世界を上げて女性!女性!なのですから、 迷われるのは当然ですよね! しかし、もう、ここまでで、 ① 自立心とは? ② 女性の能力とは? と云う大きなテーマが出て参ります。 現代は、 地球史上始まって以来の空前の物質文明の爛熟? 中で、 ほっ。 人間やこの世の存在を物質的観念で説明したロジックばかりが、 横溢している物質文明社会です。 特に近代化以降は、 意識が作った無意識を無視する幻想に包まれています。 ほっ。 近代化第3世代、若い方は、 完全にそう云った物質文明社会の中で生まれ育っていますから、 自立心とは? にしても、 女性の能力とは? についても、 物質文明的側面で判断をしてしまうようになります。 その危険性を、このブログで訴えているつもりですが、 まだまだ力不足なものですから、、、 ほほっ。 と云う事で、、、今回は、お返事ではなく、 いただいたコメントのご紹介だけにさせていただきますね。 非常に大事な内容になりますから、、、 これは、一人ひとりの命式、運命に係る事ですので、 きちんと、この問題だけを、 単独の記事で、 1回分の記事で、きちんとお返事をさせていただきましょう。 もう、しばらくお待ちいただきますか? 初コメント、どうもありがとうございました。 今後も、引き続き記事をお読みになってくださいね。 ◆ 2番目のコメントです。 “類ネットからこちらへ来ました。 東洋的教育法で、紹介されていました。 西洋と東洋ではこんなに違いがあるのだと驚かされます。 それを知らずに、 現代の人間は元々日本はこうなのだという受け取り方です。 近代化の歴史の前に、どう云う日本があったのか、 知る事は大事ですね。 そして、もっと大事な事は未来でどうなのか?です。 新たな東洋文明を築き上げてほしいと願っています。” ◆ ありがとうございます。 類ネットさんには、 拙ブログを何度かご紹介していただいているようです。 東洋的教育法は、絶対に失くしてはいけないものです。 私が知っている限りでは、 現在は埼玉県の嵐山の安岡正篤先生の記念館の 子供の論語教室のみかもしれません。 その前の日本を教えるべき、 と云う御意見ですが、ごもっともだと思います。 でも、日本の昔はよかった。と云うのとは違うのですよ。 ほほっ。 ああ、あのころは、 人々も善良でマネーを追いかけていなかった、、、 あはは。 あの頃の文化や伝統をもう一度! でもないのですよ。 文化や伝統は博物館の陳列ケースに飾って ケースの外から眺めるものではありません。 自分の趣味に合わせて昔の日本を復興させようとする事は、 危険ですし、あまりにも観念的過ぎます。 また、東洋思想がすべて良い、とは言い切れません。 儒教も、仏教も広まりながら通俗化しました。 一般庶民に受け入れられるという事は、 過去からの、もっとも身近な法に混じると云う事です。 過去のもの、捨て去るべきものへ、混じって行くのです。 仏教や儒教の輝かしい光が消え、純粋さを失っていく過程です。 それが、広まると云う一つの側面なのですが、 そして、形骸化し、本質 = 力を失っています。 それを仏教では釈迦が見越しています。 仏教の末法とは、釈迦の法の効力がなくなると云う事です。 それから言えば、今の既成仏教の寺院や仏像は、 仏力、法力のモヌケの殻なのです。 失礼! ほほっ。 常に、本質はどうなのか? 信じるに足るものなのか? その法の本質を求める事が大事ですね。 それと同時に、 元祖とか、教祖とか謂われる立場は、不変でなければなりません。 それが、過去に置いては、政治の権力で、 仏教の中に、神道が入ったりしています。 もう、グジャグジャ、混沌、化け物のようになっています。 本来、菩薩は仏の弟子でしかないのに、 ある宗旨においては、本尊が○○菩薩だったり、 釈迦が門番のような扱いを受けている? ほほっ。 素人目の私でもワカッテルのに~ どうして? と、驚くばかりです。 身近な亜流や異端ばかり、残骸が残っている状態です。 そこの隙間に、近代合理主義と云う雑草が、 蔓延(はびこ)る原因になったのではないか? まったく恐ろしい現場です。 “新たな東洋文明を築き上げてほしいと願っています。” その通りです。 鎌倉時代に、日本の仏教界は刷新が起こりました。 私は仏教に期待を寄せています。 近代国家である日本が、 自国の批判をする歴史を教科書で教える訳はないでしょうから、 これからの日本を背負う若者や子供達には、 日本の近代化は、良い面だけではない事を知ってほしいですね。 近代合理主義の本質を見抜いてほしいですね。 そして、今の骨の髄まで西洋化された日本人は、どうなのか? そして、新たな東洋文明を築き上げてほしいと願っています。 ◆ 3番目のコメントです。 “ リンク先のサイトも拝見しました。 最近、歴史というものに対して体全体が身を乗り出すが如く、 知りたいと内なる鼓動を感じる事があります。 知識を付け足すものでなく、 今という実相がきちんと過去と繋がっていること、 自らを以って 自分の川上に遡り、先代の人々との無意識での交わりをなす、、、 もっと昔の事を知りたくなりました。 特に調べれば調べる程、 明治から国を挙げての近代化には憤怒を覚えずにはいられません。 思想がこれほどまでに人の様を変えてしまう事実に そら恐ろしいものを感じます。 人の有り様や人としての宗たる教え、を伝える人がおらず、 結局は老いも若きも個々に都合のよいロジックを醸し、 好き嫌いでしか自らの生き方を体現することしか出来ない、 要は卑しく下品な人間が量産された、 全くの堕落に至っていると思います。 リンク先の「降りてゆく生き方」を拝見して、そう気付かされました。 お陰さまでようやく、 命式やそれぞれ五行の特性、星の意味が体に馴染んできました。 東洋の教えの深遠さを少しばかり覗けたような気がします。 自分の吉方から体質、苦手な季節、色まで、、、 自分を見つめる素晴らしい学問ですね。” ◆ 運命学の深みを徐々に認識して来られたようで、 非常にうれしい感じがいたします。 今の時代、物が溢れ、たいした何の挫折も無く、 時代の恩恵を受けてうまく行っていると思っている人達が心配です。 物質文明のまっ只中で、欲望する物を集める事に忙しく、 また、欲しい物を思い通りに集める楽しさで、 それが、しあわせだと思っている人達です。 こう云う生活をおかしいと思わないのは、自分中心だからです。 自分の意識の中に埋没しているからそうできるのだと思います。 そうではなく、自分の意識を中心に置くのではなく、 何を核心に置くのか? その核心に到達されるように、祈っております。 自分を成長させようと思ったら、 あなたの事を指摘し、批判をしてくれる人に近づいて行ってください。 あなたの命式から、それを感じました。 そうそう潰れるようなヤワな命式ではありませんから、、、 ほほっ。 今後の精進をお祈りしております。 ◆ 4番目のコメントです。 “夫の姉が不妊治療で妊娠しました。 男の子と女の子の双子でした。 男の子は生まれた時から小さくて、しばらく集中治療室に入って入院していたようです。 後でわかったのが、otintinがちゃんとなくて、女の子のような性器だったということ。 生殖能力がないんじゃないかと思います。 半陰陽のようなものなんだと思います。” ◆ 大事な情報をお知らせくださいました。 これも、私が一番心配をしているジャンルの問題です。 つまり、現代科学の医学における進歩? は、 【夢の実現】 あるいは【不妊を救う】等と、 美辞麗句を並べて、その技術を礼讃しています。 しかし、多くの人の運命を鑑定していて思うのは、 『天』は、決して決して、 人間の欲望から来る意識の思う通りにはならないと云う事です。 コメント下さった例は、その一例だろうと推察いたします。 他にも同類の事例が上がって来ています。 運命学として、これに関しては、 何時か記事にしなけれないけないと思っています。 貴重な情報をありがとうございました。 ◆ 5番目のコメントです。 “私達は、二元論で物事を分けて認識しているから、 道理に外れたことや残酷なことを平気でしてしまうのですね。 皆さんのコメント、とても勉強になります。 私も、オリンピックが日本に決まった時は、 木が倒れる前に必死に花を咲かせようとする姿が思い浮かんで、悲しい気持ちになりました。 山口百恵さんのことも、命式や家族関係を見ていくと、いろいろな面が見えてくるのですね。 東洋の教えは、本当に目に見えない本質的なことを教えてくれるのだなぁと、感動しました。 そして、厳しさも感じました。 ありがとうございます。” ◆ その通りなのですよ! 『天』は、意識の求める便利や効率の中に価値を置いてはいません。 命の尊さを求めて、感謝し、謙虚に生きる中にこそ、徳があると、、、 競争社会の中で、自分の欲望の満足だけを実現しようと、 自分だけを際立たそうとするなんざ、滅びの前の姿なのです。 ほっ。 それと、一番大事な事は、 何事にも節度があると謂う事です。 科学文明の進歩? まったく節度も何もない状態です。 それと、心得て行かなければならない事は、 いくら、【陽】の現象界の法律が、我々は自由平等なのであ~る、 と規定した処で、 一列に並んで、画一的なしあわせを求めても無理なのです。 自分らしく、周りの人と調和をし、自然と調和をする事が大事です。 自分らしくとは、近代的自我の自己主張とは違います。 賢明なるあなたは、お分かりの事と思いますが、、、 ◆ 6番目のコメントです。 ” 此方のコメントは、読み応えがありますね。 二元論のゆがんだ生命観が人をゆがめ、 時代を歪めているのでしょうか? では、教育も、政治も、医学も、あらゆるものが 二元論で歪められていることになります。 そら恐ろしい時代に生きているのですね。 毎回の記事がたのしみでもあり、深く考えさせられます。 ” ◆ よく記事を読んでいただいているようですね。 お返事の書きようがない位! ご質問そのままが、私からの書きたい内容になっています、、、 ほっ。 読者の方達が、すばらしいコメントを書いてくださるので、 自然と、私も、まるで記事のような? ほほっ。 長いお返事を、コメント欄に書くようになります。 コメントのお返事は、次の記事の更新翌日に書くようにしています。 理由は、次回の記事で取り上げてお返事する場合もあるので、 記事の更新を終わらないと、その事の予定が立たないからです。 新しい記事がアップされたら、その翌日に、 前の記事のコメント欄をご覧になってください。 記事よりもコメントのお返事の方が、 かなり突っ込んだ話題になっている場合もありますから。 ほほっ。 ◆ 7番目のコメントです。 “>この現実の世界が、そのまま常寂光土なのです。 この常寂光土の教えは、初めて知りましたが、 とても、感動しました!! 本当に、目が覚めるような、 希望の光が射し込んできたような、感じを受けました。 昔、スピリチュアルなセミナーなどへ通っていた時には、 周囲に「アセンション後の高次元の世界」を信じている人達が、 たくさんいました。 でも、私は、「高次元の世界」は綺麗事っぽいし、 現実逃避だと感じていました。 「天国」に通じるものがありますね。 (というか、言葉を変えただけなのかも?) >末法とは、釈迦の説いた仏教の内実が抜けて行って法力を失い、 >教えが形骸化して仏力を失った仏だけになる。 >名前だけの仏群が残る。と云う事なのです。 仏の名前で思い出しましたが、 高速増殖炉「もんじゅ」、新型転換炉「ふげん」、 インドの核実験「微笑むブッダ」と名付けられたのは、 末法の世だからなのでしょうか。 核実験や核施設に、仏教の名前を付けるのは、違和感を感じますね。 >自分と云う位置付けを、 >誰の意識にも捉えられない処に置いてある訳です。 >自分すらも犯せない、 >まして他人などが、この人物をどうしようとしても >決して犯す事ができないのです。 >------ それを、貴と云う。------ >実は、これが、『陰』の働き、女性の本分なのです。 和光同塵を実践している人とは、 最初はなぜか悟りを開いて飄々と生きている「高齢の男性のイメージ」 が思い浮かんだのですが、女性の本分だったのですね!! とても感動しました。 これから死ぬまでの間に、 少しでもこのような生き方ができたらいいな… と思いました。ありがとうございます。” ◆ 常寂光土について、 格別に何かを感じていただきましてうれしくなりました。 キリストの天国もそうですが、浄土宗などの極楽浄土も、 この世とは別の世界にある設定ですね。 架空のパラダイス願望といいますか、 現実を救う力が無いので、目の前の苦にあえぐ衆生を慰める為に、 苦に満ち溢れた現実を忘れさせあきらめさせる意図があります。 ひとつの衆生を導く方法、方便の教えとも言えるものです。 方便の教えが説かれる目的は、 それ以上の解決のステージを解く為なのですが、 それが、次の契機に説かれた場合は、 その時だけの仮の教え(権教・ごんきょう)になります。 しかし、 それ以上の法が説かれないままだと、 方便の役ではなく、それらは、ただのダマシの説にしか過ぎません。 つまり、邪教になるのですね。 スピリチュアルの事は、時々、少しですが、記事にしました。 近代合理主義が捨てた無意識界の現象面だけを、 意識が、意識の能力で必死に埋めようとしている。 それが、スピリチュアルですね。 近代合理主義が捨てた部分を、 意識が必死になって埋めようとしている、 だから、近代合理主義の範疇の物です。 意識の知識や言葉で説明をするのも頷けますね。 和光同塵は、女性の為の指針ですよ。 『陰』そのものの力を信じないとできない事ですよね。 ◆ 8番目のコメントです。 “こんばんは。 丁寧なお返事とコメントを、 拍手記事のお返事まで頂きありがとうございます。 一度、目を通しただけでは私は理解できておりません。 改めて読みに訪れます。 映画「降りてゆく生き方」の記述まであり、驚きました。 2010年夏、◯◯芸術大学の一般公開講座にて、 香山リカ先生と一般市民で、◯◯の映画資料館での 上映会がありました。 当時、頭の中でうまくまとまらず、記事にはしておりません。 内容はよく覚えてますが、結論部分がハッピーエンドとは違い、 映画にありがちな曖昧な終わり方と感じたのでした。 確かに結論のなかなか出せない問題です。 宇宙船「地球号」に乗っている一員、運命共同体である限り、 一人一人が自分自身の問題として考える事から始まるのだと思います。 現在、私自身も裕福ではないにしても、何不自由ない生活を享受していますが、 人間、努力だけではどうしようもないこともあるかもしれません。 それでも、何か方法はあるはず、と信じて、 真面目に考えて毎日を送ることが大切だと考えます。 ここに記したからには、私は前向きに努力する所存です。 改めて訪れます。ありがとうございました。” ◆ あ、やっぱり、そう云う事だったのですね。 無意識でシンクロしていたのですね。 ほほっ。 何の記事を書こうか? 考える事もあるのですが、 どこかから引っ張られるように、突如記事ができる事があるのです。 映画「降りてゆく生き方」を、取り上げようと思ったのもそうです。 前々から、企画をしていた訳ではなく、 いただいた拍手コメントを読んで, お返事を書く段階で決まったのですね。 フワ~っと、誘われるように決まりました! 既知の話題を取り上げる事でお返事が書けてよかったです、、、 “人間、努力だけではどうしようもないこともあるかもしれません。 それでも、何か方法はあるはず、と信じて、 真面目に考えて毎日を送ることが大切だと考えます。” 全く共感です。 私も、日々の生活の中で目立たなくとも心を尽くす事が大事だと 何項目か、生活の仕方を変えてみました。 こうでもしなければ、気が済まないものですから、、、 あはは。 今後ともよろしくお願いします。 ◆ 9番目のコメントです。 “台風一過、強風だけが残っていたのも静まりました。 これでいいのかと毎日かんがえるところです。 経済も消費が低迷しているとかで、諸費税の後だからだけではない 様な気がしています。 間をおかない天候の異常ですから 誰だってこれはおかしいと思うのでしょうね。 溢れている物を自由に買って無駄に使う事に罪悪感を感じています。 これらの私たちの自由を謳歌する行動の寄せ集めが、 欲望の拡大につながって自然のバランスまで狂わせる? 大袈裟かもしれませんが、二酸化炭素を削減できない現状では、 現在の経済よりも地球を守る方へ心は傾きます。 これでいいとは思えないのです。 昨年12月に成立した特定秘密保護法に対して、 県、市町村の議会が廃止や慎重な運用を求めて可決して、 衆参両院が受理した意見書が、約200を超えたらしいのです。 日本中が、政府に対する根強い不信感に覆われているようです。 どこかでブレーキを踏むかしないと、 このまま進むのは怖い気がしています。” ◆ 切々と書かれた文章に、ただうなずくばかりです。 きっと、日本中が、こう云う気に包まれているはずです。 あらゆる事が、皮相的な解決方法で進められて、 それでいて、他に方法がない状況なのです。 追い詰められているとは、こう云う状況なのでしょう。 前書きで、 I PCCの第5次報告に触れましたが、
よく、分っていらっしゃるじゃないですか! 意識が、現在と、現在の自分だけしか守らない。と云う事を、、、 ヨルゲン・サンダース教授は、正直な方ですね! ほほっ。 これは、今の地球上の気象変動は、 西洋哲学では手に追えないと言う事です。 このままでは、手遅れになると. . . つまり、行き詰っているのです。 さあ、どうしましょう? もう、東洋しかないな、、、 ◆ 10番目のコメントです。 “こんばんは、いやはや天のスケールは 人間の感覚からすると大きすぎて分かりづらいですね~ 幽霊の話を読みながら、 その昔テレビで、UFOを見たとか霊魂を信じている人と そんなものの正体は科学で証明できるという科学者の対決する番組を 思い出しました。 その時の感想はというと「完全には証明できてねーじゃん!」でしたが(笑) ☆ 地球の今迄を1年間に例えると、 ホモサピエンスが出現したのが大晦日の午後11時37分! ☆ よくもまあ、こんな短時間に地球の資源を貪りつくせるものだと 感心してしまいます。 陰の存在?見えない、感じることのできないものだけに 恐怖心を覚えていたのでしょうか? 今は、cosmosさんのブログに目を通しているからか 見えないけれど存在する何か? を感じれないけど有ると思うことで恐怖心は薄れております。 さて、科学や経済というお化けをいかにしてやっつけるか、 智慧を絞らにゃならない時代が来ています。” ( ☆ ☆は、編集で付けました。 ) コメントの中のこの部分ですが、 “☆ 地球の今迄を1年間に例えると、 ホモサピエンスが出現したのが大晦日の午後11時37分! ☆” 地球誕生から現在までの46億年の歴史を 1年365日のカレンダーで表したものがあります。 これを御存知で、コメントに書かれたものと思います。 実は、これも、私とシンクロしていたのですね!! ほほっ。 このコメントをいただいた時の記事に、これを引用していたのです。 記事を急遽変更した為に、 更新したブログ記事にはアップしなかったのですが、 このコメントをいただいて、 同時に同じ事を考え付いていたんだなぁって、 あはは。 思わず!こんなシンクロに驚いてしまいました! この際、いい機会ですから詳しくご紹介をしますね。 もっと詳しくは、ここへどうぞ! ・ 地球が誕生した時を 1月 1日 とします。 ・ 最初の原始生命が誕生したのが、 2月25日 39億年前、 ・ 大気中の酸素が増えて来たのが、 7月18日 21億年前、 ・ 魚類が出現して来たのが、 11月20日 5憶年前、 ・ 鳥類が出現して来たのが、 12月19日 1億年前、 ・ 哺乳類が繁栄して来たのが、 12月27日 ・ 類人猿から分かれた最初の猿人 であるトゥーマイ猿人が登場したのが、 12月31日 午前10時40分、 ・ 現生人類(ホモ・サピエンス)誕生が、 12月31日 午後11時37分、 近代化の幕開けとなった産業革命は、 12月31日 午後11時59分58秒 と、なっています。 地球が出来たのが、1月 1日として、 で、人類誕生は、 12月 31日 午後11時37分なのです。 つまり、今、現在を次の 1月 1日とすると、 地球が生れてからは、365日×24×60=525600分ですが、 私達人類は、現れて、まだ、 23分しか生きていないのに、、、 その上、、、、、、、 近代化からは、たったの2秒です。 2秒、、、、、 地球が出来てから今までを、1年間とすると、 近代から現在までの時間は、たったの2秒なのです! この2秒の間に、 我々は、なんてことをしているのだろう? そして、地球上の領土を取り合いして、、、 その代償に、地球資源を大量消費してまでも! と云う事は、2秒前までは、 我々の祖先、人類の歴史の 99,99999999、、、、、% は、 人間が造作物が乱立していない、 プラスティックがない! ビニールがない! あっは。 自然の中、森の中で生きて来た歴史だったのです。 森の中で、我々の先祖たちは、 人生を楽しもう! とか、 すばらしい! とか、 生きがいがないと生きていけない! とか、 何の為に生きるのだ? 自己実現だ! カッコイイ生き様を! とか、 こんなセリフを、言わなかったはずです!!! あはは。 食べる事に余裕ができて、 有り余った自己顕示欲のはけ口に、愚かしい言葉を吐くよりも、 命が置かれている自然の中の自分の生を ありのままに受け入れ、 生も、死も、一体であると受け入れていたはずです。 我々の先祖達は、 現代人のように、 生きる事を、わざとらしく、むやみに飾りたてて、 為に作ったようなロジックで目立たせようとはしなかった! 考えてみれば。。。 。 。 現代人は、臭いヤツなのですね! ほほっ。 その上、今の物質文明で有頂天になった我々は、 物質=物で作った道具立てで自己を飾れば、どうにかなると思っている。 運命はそんなものでは変わらないのですよ! あはは。 地球の歴史からすれば 2秒!と云う、 このまばたきの瞬間に、 この東洋の地は、西洋二元論に汚されてしまった、、、 そして、この日本列島にも 精神と肉体をバラバラに引き裂かれて、 『天』も『地』も恐れない人間が住むようになったのです。 これは、我々の事ですよ。 ほほっ。 『天』からも、『地』からも、守られない民の出現です。 故に、天変地異は日本中に起こり、 四方の海では、領土問題で脅かされているのです。 これらの原因は、ひとつです。 もう、お分かりですね! ◆ 最後、11番目のコメントです。 “最近のニュースを見て思ったのですが 先祖の運命が繰り返されること、 家系から来る運命を乗り越えるには、女性が『陰』の役割を果たすこと、 『孝』について・・・ 今回も、とても大切なことを教えていただき、ありがとうございます。 『孝』については、自分はまだまだ、 記事に書かれているような境地には程遠いです。 でも、このような『孝』の境地になれば、 経済や一時の楽のために、自然を破壊する行為はできないですね。 経済優先、環境汚染や中間貯蔵施設、児童虐待などの ニュースが毎日流れている日本は、 本当に『孝』が失われて危機的な状況なのですね。 それから、 秋葉原通り魔事件から6年ということがニュースになっていましたが、 犯人の加藤智大の弟は、最近自殺してしまったそうです。 男性二人兄弟でこのようなことになるのは、 絶家の家系?と気になり、加藤智大の生い立ちを調べたら、 母親に厳しく管理され、日常的に暴力を振るわれて育ったそうです。 (多大なる母か?) 父親は信用金庫に勤め、一見悪い人ではなさそうですが、 母親が息子に暴力を振るっても、見てみぬふりをしていたそうなので、 父親としての威厳が無いですね。 この両親は、事件の一年前に別居、その後離婚しています。 彼と弟の生い立ちを読んでいると、悲しくて涙が出てくるのですが、 なぜ、このような犯罪が起きて、 何も関係のない人達が犠牲になったのか? 運命学的には、 ・男性二人兄弟だが、絶家運の家系だった ・家系に、犯罪者が出てしまうような、悪い因があった ・絶家になる家系は、家庭道徳が崩壊していて、 陰陽のバランスも崩れている 。 ・他人の命を奪う、自分の命を断つ、ということは、 命が大切にされていない、『陰』が欠けている家庭だった。 ・被害者には、その事件に巻き込まれてしまうような内因があった ということでしょうか? もちろん、 近代合理主義と現代社会の影響も深く関係していると思います。 1つ前の、4月13日の記事に、 「現代の近代合理主義の世界には、 一人ひとりの生・人生を価値あるものとする哲学がない。 人間を物としてみなす。 人間を道端に捨てられている小石と同じに扱う思想なのです。」 と書かれていますが、とても恐ろしく、悲しいことですね。 このような犯罪者が出てしまうと、 その家族や親族は、 マスゴミに追われたり、 世間から嫌がらせを受けたりして、 普通の社会生活が送れなくなってしまうのですね。 これも、家系の徳が消滅していることの現れなのでしょうが・・・ このような事件が起きる前に、気がついて自覚していたら、 悪いものを止められたかもしれないのに・・・ などと、考えてしまいました。” ◆ 非常に、物事を深く捉えられているのに感心をしましたよ。 私のブログをよく読んでいただいているようです。 その事に、感謝申し上げます。 まず、家系の重要性、そして、『孝』について、 女性が果たす役割は、もっとも大事な事柄ばかりです。 “『孝』については、自分はまだまだ、 記事に書かれているような境地には程遠いです。 でも、このような『孝』の境地になれば、 経済や一時の楽のために、自然を破壊する行為はできないですね。 ” そうなのです。 一人一人がそうなって欲しいと思って、このブログを書いています。 真の自然観、真の人間観をお持ちになってください。 そうすれば、かならず『天人地』の素晴らしい三才が揃います。 これこそが、必要なものが望まなくても恵まれる吉瑞なのです。 “経済優先、環境汚染や中間貯蔵施設、児童虐待などの ニュースが毎日流れている日本は、 本当に『孝』が失われて危機的な状況なのですね。 ” その通りです。 『陰』を無いとする近代合理主義の思想性が跋扈している状況です。 『陰』は、すべての命の本源地です。 それを無視すると云う事は、自己の命へ刃を向ける行為です。 “彼と弟の生い立ちを読んでいると、悲しくて涙が出てくるのですが、 なぜ、このような犯罪が起きて、 何も関係のない人達が犠牲になったのか? ” まず、一般的なお答えをしますね。 何も関係がない人達ではないのです。 分かりやすくする為に、物理的な例で説明をしましょう。 手で机を叩く。 そうすると手が痛いですね。 我が身から外に出したエネルギーは、 かならず、外の対象から帰って来ると云う事です。 手で机を叩くような事は、時間の経過がなく即、ですが、 人の重い所業は、何百年? ほほっ。 掛かるようですよ。 もっと、掛かるのではないでしょうか、、、 犯罪の加害者、被害者の場合、 生命は永遠ですから、遠い過去からの因縁浅からぬ関係があった、 そう解釈をします。 今世、殺すと云う事は、過去のいつか、殺されたのかも知れない。 また、殺されると云う事は、過去のいつか、殺したのかも知れない。 殺したから、殺されると云う現象化が、あったのです。 同じ、相手同士で、です。 もっと、複雑な入り込んだ理由が潜んでいるのですが、 簡単に言うと、そう解釈をします。 それが、内因になります。 自己の内因が、外因を引き寄せるのでしょうね。 相手の内因もそうです。 お互いが、外因になるのです。 喜ばしい事も同じ原理ですから、 どうすれば、慶事が起こるか? その内因を積んでいくように努力をなさってくださいね。 “・絶家になる家系は、家庭道徳が崩壊していて、 陰陽のバランスも崩れている 。 ・他人の命を奪う、自分の命を断つ、ということは、 命が大切にされていない、『陰』が欠けている家庭だった。 ” その通りです。 家族間の不道徳性に尽きます。 そうすれば、現代が、どれだけ絶家を量産しているか? 怖い位です、、、 家系の徳が消滅して行っている、、、その通りです。 秋葉原通り魔事件の犯人の加藤智大と、その弟について、 調べられたのですね。 男二人兄弟でも絶家の家系なのです。 こう云う家系の場合、父権が弱く母権が強いのです。 今後、 命の継承と運命シリーズで記事にしようと思っていますが、 男兄弟4人であっても、5人であっても 絶家の終末家系と云う例は他にもあります。 母親が、どうして強く生れているのかを知るには、 その3代くらい前の家系を調べてみる必要があります。 一人娘だったりとか、跡取りだったのにお嫁に来ているのです。 あるいは、お墓の問題ですね。 現代に置いて、そのどちらも大事にされていないものばかりです。 現代のこの風潮が、 今後、良い事はもたらさない。 それを思うと、背筋に冷感を感じてゾ~っとします。 それゆえ、近代合理主義を撲滅したいのです。 ほほっ。 非常に異様な思想です。 無意識を無視させる思想です。 永遠の生命から、過去と未来を切り捨てて、 現在だけの命に収縮させる思想です。 この罪は深いですね。 最後に、 我々は、生まれ来た家系の川の流れの中にいます。 その恵みも淀みも、それぞれ固有のものです。 そして、 自分の為した事は消えないのです。 永遠にです。 それであるならば、 この世に生きる我々の役割は、 今、いる川の恵みに感謝しつつ、 後に続く子孫の為に少しでも淀みを浄化するしかありません。 さあて、どう生きるか? 貧愚下賤の身である、占い師如きの私にはお答えは出来かねます。 見聞きした実相を、なんとかお伝えをしたい、 そして、どうしても東洋の叡智を、この日本から失くしたくない。 その願いで、このブログを綴っておりますが、、、 後は、みなさまが深く思索をしてくださいね。 長~い記事にお付き合い下さって、 ほほっ。 おつかれさまでございました! 最後までお読みくださった事に、感謝申し上げます。 次の更新まで、どうかお元気で! よき日々をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |