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    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 1.  片目

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
    富士の初冠雪       

    富士の初冠雪

    平年より11日遅く初冠雪 8合目から頂上雪化粧 (2015年10月11日mainiti.jp)




    今年もよろしくお願いします。




    『天』の運行とはありがたいものです。
    昨年の4月16日より更新もできずにいましたが、
    その間に、季節は確かに移り、新しい年が巡って来ました。




    早いもので、ほぼ9ヶ月ぶりの更新になります。


    我ながら驚くのは、
    昨年は、たった一回の更新しかできなかった事です。
    それなのに、
    その間、たびたび御訪問をしてくださった方々には感謝申し上げます。




    昨年中は、
    いつもの代わり映えしない『 陰陽太極図 』ばかりを
    ご覧になっていただきましたので、
    もう、飽きて来たよ―― 
    もう、よく分かったよ―― と言われそうな気がしていました。   あはは。




    そう、
    皆様の優秀な脳では、
    すっかり 『 陰陽太極図 』をいつのまにか見覚えて、
    脳内のシナプスがしっかりと結ばれたのではないかと、
    心配して?
    いいえ、東洋を広める為には
    喜ばしい限りと感謝しております。   ほほっ。





    少しは、みなさまに、東洋の恵みなり、効果があったでしょうか?



    ほほっ。







    このブログは、  
    クールな東洋的世界観を広める目的を持っています。






    冠雪が望める富士山頂のはるか上空、
    東洋的世界観から地球上を見下ろしていますと、


    現在、地球上は、えらいことになっておりまして、
    近代合理主義と云う物質ばかりを追いかける思想の大特価販売中?
    いいえ! いいえ、、、
    大特集中と書くつもりが、、、     ほほっ。
    物、モノ、ものの大特集が行われているようで、
    大キャンペーンみたいな状態になってしまっています。   ほほっ。
    自然は物、
    あなたや私も物、
    自然や人間も、物質としての扱いで、
    人間の欲望のターゲットになっているようです。
    人間の欲望って、
    自分の身中の欲望ですよっ。
    自分を自分の欲望の獲物にしてしまうなんて、、、
    自分の命の尊厳どころか、
    他人の命の尊厳なんて分からなくなっているような、
    光り輝いて見える物しか相手にされない時代が到来しています。



    見えもしない感じる事すらできない東洋的無意識などは地味も地味、
    ジミーなものは無視をしておけば?
    無いのと同じなのだから、
    と云うような空気です。





    地球の空気ってこんなものだったのかしら?




    我々の現在を作り上げてくれた先祖のDNAから受け継いだものを
    感謝も尊敬もしないでいいものだろうか?
    このままで日本民族はどうなっていくのだろうかとか、
    お正月早々から、
    いろいろな心配が頭をもたげて来ると云うのが正直な処です。



    と云う事で、
    今年も、どっぷり東洋的世界観の素晴らしさを書いていきます。
    もう、うんざりや~ と思われませんように。     ほほっ。





    東洋的世界観は、多くの人が気が付こうとはしませんが、
    これは、実にクール!
    日本が世界に誇ってもいいものだと思っています。




    しかし残念なのは、見えないので、
    カメラで撮れないし、アップできないし    
    みなさんにお見せできない事ですわ、、、
    テレビのバラエティでもやっていないし、
    コミックにもないみたいですよ。


    近代合理主義の物質文明では、形無し、、、
    とにかく書くしかないですね。
    今年はもう少し更新できるようにがんばります。
    たしかに地味過ぎです。  ほほっ。







    今年も地味路線で行きます、、、。




    東洋的世界観を知る事は、
    ただ知っただけの知識では終りません。
     






    東洋的世界観は、知識ではありません。
    我々の先祖が、獲得した智恵です。


    智恵は即(そく)価値なのです。
    東洋はダイレクトに恵みに通じて行きます。
    だから、智恵、智のめぐみと書くのでしょう。



    これが、どうしてなのかは、いずれまた記事にするつもりです。










    東洋的視座とは


    この東洋的叡智があふれる世界観から
    西洋的世界観を眺める事ができれば、
    おのずと東洋的視座なるものが体得できるはずです。


    ★ ほらっ! 同じ(エイチ)でも、
    東洋のエイチは、英知ではなく叡智なのです。   
    お見知りおきを、、、、、、  ほほっ。






    これは譬えれば、
    富士山頂から他の低山を見るとどのように眺められるか、
    その風景を知ろうとすれば、
    中途半端な高さの山ではだめですよ。
    ――― 最高峰の富士山に登ればいいのです。
    登れば、おのずとその視座は得られるのですから。


    思想と云うものは、
    皆、同じではないのです。
    それぞれが我こそ高いと競っているものです。
    急峻な峰々の中から最高峰の思想に出会ってください。
















    今日の記事は、
    ☆ 東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 1.片目 








    1.片目?

    1.は、ひょっとして2.3.と続くシリーズって云う事?


    片目は、
    東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみると、
    片目にみえるってこと?
    ひどいなぁ、
    近代合理主義をここまで言うのか、って?   あはは。 




    そうです。
    これは、
    近代合理主義の世界観に浸かり切っていたら分からない事ですが、
    ちょっと疑問を持っていただいて、
    我が身を東洋的世界観の方へ身を乗り出せば、
    はっきり見えて来る近代合理主義の姿なのです。


    近代合理主義は、すべてを見通す両目を持っていません。
    あらゆるものを見る両目を持ってはいないのです。







    どうして両目が無いって解かるのか?
    それには、
    東洋の『陰』と『陽』が相対する世界観 から
    近代合理主義を眺める必要があります。


    さぁ、 東洋的世界観の天空に、昇りましょう。














    東洋は『陰』と『陽』が相対する世界観 ーーーーーーーーーーーーー★ 















    東洋的世界観は、『陰』と『陽』が相対する世界観です。








    相対する世界観とは、
    どう云う関係を云うのでしょうか?









    まず、
    前の記事の冒頭に掲げた 『 陰陽太極図 』 を思い出してください。
    あの図の白い部分と黒い部分、
    東洋的世界観では、
    我々を成り立たせている世界に、『陰』と『陽』があるとなっています。




    黒い部分、
    『陰』は五感では見えない世界。
    ・ 我々の五感の感覚器官である目は、
      この『陰』の無意識の世界を見る事はできません。


    白い部分、
    『陽』は五感で見える世界です。
    ・ 我々の感覚器官である目は、『陽』の世界を見る事ができます。 
      ----- それに反応するのが意識です。







    この黒と白が、相対する東洋的世界観とは?


    我々の意識にとって、この見える世界と見えない世界は、
    東洋的世界観ではどう云う関係があるというのでしょうか、、、 






    相対するとは?







    これを分かりやすくする為に、
    巧く例えられるかどうか分かりませんが、
    ちょっとやってみましょう。




    ◇◇◇ 空気中に在る酸素は、普通、目には見えません。
    これを、『陰』の状態の酸素とします。


    これを、我々の感覚器官の目で見えるようにする方法ですが、
    1. 酸素を液体化するとか、
    2. 物を燃やしてみるとか、
    なにか意識で捉えられるような現象を起こしてみる事です。


    そうすれば、液体になった酸素とか、
    物が燃える、酸化する、熱を発した証拠で、
    そこに酸素がある事が分かると云う事になります。◇◇◇ 





    そう、実験でわざわざ現象を起こして証明するのですね。







    ーーー これは、意識には見えない『陰』の存在を、
    『陽』の世界に現象化する事で、
    意識にとって捉える事ができるようになるのです。




    つまり、
    現象界の現象に対応して発達して来た意識が見えるようにするには、
    現象化が必要なのです。





    意識は、現象化したものしか捉える事ができないのです。







     ここですよっ!
    これが近代合理主義の意識には自覚できないのです。


    近代合理主義の意識は、
    自分が、現象化したものしか見る事ができないのだと云う事を知らない。
    近代合理主義の意識は、
    自分が見ているのが、現象だとは分かっていないのです。
    その奥に、本体の存在があるのを覚知できていないのです。

    そして、自分には、元々の役割がある事を忘れて、
    自分の能力の限界に対する自覚がないのです。








    それはどうしてでしょう?
    近代合理主義の意識は、無意識から切り離されているからです。
    自覚できないと言った方が良いでしょうね。
    自分の姿を自覚できないのです。


    我々でもそうですが、
    相手があって、社会の中で自分の姿を教えられるのですよ。
    たとえば、
    家族の中で兄を見て、妹としての自分の性差に気付くのです。
    おのずと自分の役割と存在の価値を知るのです。


    近代合理主義の意識は、
    無意識界である『陰』の世界の存在を認めない思想の中では
    無意識の役割である真理を知る事ができると云う役割を押し付けられて、
    すっかり、その気になっていますから、
    実は、自分が捉えているのは現象に過ぎないのだと云う事が
    分かっていないのです。





    そして、
    自分には、元々の役割がある事を忘れて、
    自分の能力には限界がある事の自覚が欠けています。











    近代合理主義の意識は、
    男勝りのおんなはんみたいやわ~     
    無意識の役割をできるってうぬぼれてます。
    うぬぼれでは何もできしません。
    こんな意識を信じて生きたら、
    我が身だけでなく亡家、亡国、みんなを滅ぼしてしまいます。     
    傾国の美女?      ほほっ。


    東洋的世界観の中では
    意識は、きちんと自分の分限を守って役割を全うしてまっせ、
    無意識はんをきちんと立てて、
    世の中がなんでできてるのか、よお、弁えてます。      
    大事な事は、自分の役割を知って分限を守る事です。   ほほっ。








    詰まるところ、
    我々の意識は、現象しか見えないのですよっ。    ふっふっ。






    詰まるところ、
    この地球上は、現象だらけなのです!






    詰まるところ、
    現象だからいつかは消えてしまいます。






    我々だって、例外ではない。
    生れて来たら、いつかは死にます。
    現象である事を楽しみましょう。
    どう云う現象なのか?      それが運でございます。
    次の現象の為に備えましょう。
    現象だからこそ、変化できるのです。
    どう変われるか? です。









    ここでちょっと、仏教の知識です。


    それを、仏教は、初期の爾前教において無常と言ったのです。
    爾前教とは、釈迦が法華経を説く前に説法した経典の事です。

                                           








    ここで、大事な事は、
    『陽』の現象界で液体化した酸素や
    物を酸化させて燃やす現象が起こった処にだけ
    酸素はある訳ではありません。
    見えない『陰』の状態での存在 = 空気中にも酸素は存在しています。 






    ここで例として出した酸素は、見えないと云っても、
    我々は科学的知識から、
    空気中に酸素が在る事は知っていますから、 
    この例えは少し問題があるかもしれませんが、、、。






    それはさておいて、重要な事だけに絞りますと、





    ここから解かる事は、



    『陰』の状態は、空っぽなのではありません。
    ある物が存在するけれど、
    我々の意識では捉えられないだけなのです。








    とどのつまり、我々が生きているこの世界の、
    その現象を興しているエネルギーの本体は、
    この現象世界『陽』ではなく、『陰』無意識界にあります。






    その無意識界を、現象化の本体と観るのが東洋的です。









    それを 『陰』と謂います。











    双方が見えている物で譬えて言いますと、
    転がっている木炭が『陰』
    ただの炭です。
    その炭に炎があるようには見えません。
    事実、炎は出ていない。
    炭に火を熾す(現象化)と、そこから燃え上がる炎が『陽』です。


    炎は、炎自体が燃えている訳ではありませんね。
    そして、『陽』の現象である炎は、炭が燃え尽きれば、,,
    直に、消えて行きます。


    炭と云う本体の力がなくなれば『陽』の炎は衰微します。
    つまり、炎の存在は『偽性』を孕んだ存在であると捉えます。


    『陽』は、偽(うそ)なのです。


    じゃあ、炎はどこから来たのか?
    炭自体の中にあったとも言えます。


    だから、炭が燃え切ってしまえば炎は消えてしまうのです。
    お互いの存在を頼り切っている、
    存在を相手に拠っているのです。









    『陽』の現象界に現象として見える存在は、
    その存在の本体が『陰』に亘って存在するとします。











    これを、陰陽相対の関係と謂います。














    ーーーーーーーーーーーーーー

    多少、ムズカシイかも知れませんが、
    東洋的世界観においては、
    『天地』・自然と我々は無意識界でつながっています。


    東洋においては、
    もともと『天地』は、存在そのものが力なのです。


    どう云う力か?






    深い広い無意識界の『天地』・自然の力が、、、、、
    、、、、、我々の無意識へ流入している、、、
    絶えずあらゆる力が我々の無意識へ流入している、、、





    意識に噴き出す無意識界の浅瀬では、それはリズムです。



    その力は、我々の命を生み、育て、生かす力として顕われ、
    命のあらゆる姿となって現象化します。


    又、その力は、我々の生が死へと還って行く本体そのものなのです。







    この事を一体と観ます。





    『陽』の意識界においては、すべてがバラバラに見えます。
    なのに、
    『陰』の無意識界では、すべてが一体なのです。










    『陽』のバラバラに見える風景が、


    『陰』ではすべてが一つになっているのです。













    そのつながりを通じて自然の智恵が流入して、
    我々の先祖は、遠い昔、
    『陽』の現象界の現象(花実)には、
    それを(咲かせる)本体(根)が土中にあると見抜いたのでしょう。






    花実より、土中の根に、その本体の力を観るのは、
    存在の奥に、それを存在ならしめているものを観るのは、智力です。
    知力ではありません。
    この卓越さが、東洋人の真骨頂です。






    この東洋人のエッセンスは、中国にはありません。
    北朝鮮、韓国にもありません。
    東洋の東端、日本に寄せ来て深く此処に留まっています。


    ウソではありません。


    だから、日本人は地味なのですね。     ほほっ。
    目立たない事を受け入れ、見えない事に納得をしますから、、、




    アメリカに見習う事もなく、
    ヨーロッパにあこがれる必要もないのです。
    日本は日本でなければいけないのです。


    その為には、
    どうか、近代合理主義の人工ドームから出て来てください。
    そうしなければ、日本はどこかの属国に果てるかも知れません。





    思うに、
    東洋の陰徳深い土地柄は、自然にしても、西洋ほど過酷ではなく、
    自然に接する態度が融和を以って親しむ事ができたのでしょう。
    その事が自然の智恵を学ぶ余裕を
    東洋人にもたらしたのではないでしょうか、、、








    いいですか?


    花は花の力が咲かせているのではない!
    実は実みずからが自身を実らせているのではないのです。  ほほっ。





    西洋はこの当たり前の事が、

    ああぁ、、、意識全盛の21世紀になっても分っていないのです。





    それは、
    キリスト教理の世界観に原因があるのです。
    自然は、神が造って支配する物質でしかありません。
    物と教えられれば、物から何を学ぼうとするでしょうか。
    物と認識する事から生れるのは、どう利用しようかと云う点です。
    日本人は、豊作を自然のそれぞれの神に感謝をします。
    西洋では、自然を創ったキリスト教の神へ感謝をします。
    この違いは、それぞれの世界観の違いから出ています。











    ついでですから、、これは余分ですが、
    陰陽相対の原理に、
    我々の命を置き換えて考えてみたら面白いでしょう。




    生は、
    『陰』の状態の命がこの現象界へ『陽』となって生じた現象状態です。

    死は、生命活動が見えなくなってしまっても、
        命そのものが無くなってしまう事ではないのです。
        命が 『陰』の状態になっただけ、
        命の実体は、無意識界の中に存在しているはずです。
        そして、
        それは、又、いつか、現象化をする、、、、、生まれ変わるのです。



    そう考えると、命は永遠に続くと思えるのです。     ほほっ。








    このように、

    東洋的世界観の括目すべき点は、
    目で見る事ができない無意識の世界の存在を認めている事です。
    意識では捉えられないその世界を『陰』と名付けて
    しかも本体として洞察している事です。





    詳しくは、別の機会に書きますが、
    この『陰』と『陽』の関係は、常に対(ペア)です。
    なぜペアなのか?  分かりますね?
    このペアの関係を、あいたいする相対(そうたい)すると云います。
    男と女、自然と人間、天と地、空に太陽と月があるようにです。
    東洋の考え方は、自然のありのままの具象的な道理なのです。









    東洋的視座とは、
    これらを踏まえて、
    東洋的世界観と西洋的世界観を知った上で、
    東洋的知見を以って西洋的世界観を捉えることです。





    お分りになられたでしょうか?






    キリスト教を根底にする近代合理主義の世界観は、
    東洋的世界観の『陰』を否定しています。
    すなわち、
    近代合理主義は、
    東洋的世界観の『陽』の現象世界の存在だけを認めています。



    これを、東洋的視座から眺めますと、
    両目が揃っていない姿、形と云う事になります。
    これが、片目の近代合理主義と名付ける所以なのです。







    確認します。


    近代合理主義は
    片目でこの世界を見ている思想になります。





    また、
    近代合理主義の世界観には、
    現象は現象として見据え、
    その現象の奥に本体を見きわめると云うような力量を感じません。


    はっきり言いますと、現象とその本体の区別すらできていない。
    思想としたら、原始的次元の状態です。



    現象と本体、この反意の両義を踏まえる処に真理が在るとするならば、
    キリスト教理を根底とする近代合理主義の世界観には、
    そう云う重層的な智恵は全く無いようです。



    そう、『陰』と『陽』の対(ペア)がない世界観です。





    しかも、陰陽相対のペアで欠けているのは『陰』です。
    近代合理主義に本体『陰』が欠けているのは致命的です。
    そして、
    事もあろうに、現象界である『陽』を重んじています。
    時に淘汰され、必ず消えて行く『偽』に通じる世界を重んじるなんて
    近代合理主義を主導した人達はどうかしてます。    

        
    それが分からない人々だったのですね!    あはは。
    あの高名な科学者、思想家たちですよ。
    これについては、又。








    ーーーーーーー


    たしかに、こうして見て行きますと、
    東洋的世界観の中では、
    『陽』・意識は賢明に自分の分を弁えていますが、
    近代合理主義における意識と云う役割の設定や配置は、
    愚かさ、愚まいさを感じずにはいられません。
    一言で言うと、みっともないのです。


    しかし、それで意識が悪いと云う訳ではないのですよ。
    事は、そう単純ではない。


    『陽』・意識にも、その癖に合った役割があるのだから、
    その用い方がおかしいのです。
    馬鹿とハサミは使いよう、 あれです。    ほほっ。











    そもそも、意識の役目は、現象世界の現象に対応する事でした。







    意識は、云わば、生きる為の営業のフロントマンです。
    普遍性などと云うような真理を掴めるような能力機能はないのです。






    言い換えれば、
    我々の意識と云うものは、
    五感と云う感覚器官を通して情報を集め、
    それに対応できるように発達して来た能力なのです。









    何の為に?



    生命保持、生きる為です。
    太古の昔、
    地球の気候変動や自然災害、
    めまぐるしく変わる季節や、気温、風、雨、雲の動き、
    襲いかかる野獣など、
    さまざまな障害から身を守り、生き抜く為でした。
    五感から入って来る情報で、
    生き続ける為に必死に対応して来た我々の意識は、
    そのおかげで発達して来たのです。
    意識は常に環境における現象をリサーチする役目です。
    意識は、森の中で自分の安全を守る為に、
    常に、五感を研ぎ澄まして環境に対応しようとして来たのです。






    つまり、意識が活躍する世界は『陽』の現象世界なのです。
    決して、本質や普遍的な真理を扱う事は得意ではありません。





    意識は、非常に人間臭い機能です。
    ウソと本当が見分けられないのです、、、    ほほっ。



    だから、
    意識は、自分以外の人の意識に騙されるのですよ。  
    意識は意識を騙します。
    意識は意識に騙されるのです。

        
    ここに、
    現代の資本主義が喰い入っているのではないでしょうか?
    広告、宣伝、CMなど、
    本当でないと分かっていても、つい信じてしまう、
    つい、買ってしまうのです。     ほっほっ。



    意識とは、
    いわゆる、人間らしい間が抜けたヤツなのです。    あはは。
    そして、正直な処、
    意識には足りない処ばかり目立ってしまうのです。
    でも意識は可愛いどころか、恐ろしいヤツです。



    理由は、
    意識の本質は自己が生き延びる為のエゴイズムなのですから、、、






    でも、意識を嫌ってはいけません。
    それで人類は餓死もせずに生き延びて来たのです。
    それが、未だに、こんな物質文明の中でも
    かっての飢餓の恐さに対応して来たDNAが頑張っています。
    もう、このDNAは眠ってもよさそうなものなのですが、
    自分の命が餓死する恐怖から解放されていない、、、
    万が一、自分が襲われそうになったら、
    武器を持って戦って相手を殺そうと、身構えるのが意識なのです。


    究極のエゴイズムが意識の背骨ですが、
    これを失くせと云う方が、
    今の地球上では無理と言うものでしょう。


    しかし、意識だけでは平和は訪れない。
    これも事実なのです。





    そう云う理由で、
    余程運が良くなければ、意識だけでは人間は幸せにはなれません。





    こう言われても仕方がない要素が
    意識には一杯ありますでしょう?     ほほっ。
    その証拠に、
    我々の意識が、自分の満足を求めて頑張れば頑張る程、
    戦争や紛争が争いや競争が起こって来ます。
    やはり、
    意識の中心は自分だけ良かったらいいと云うエゴだからですね。





    何度も言いますが、
    これは決して、意識が、悪いと言っている訳ではないのです。



    自己の生命の保持を第一の目的にすると云うのが
    意識の本来の使命であり役割なのです。





    このエゴイズムと云う意識の本質も見極めずに、
    近代合理主義が意識をフィーチャリング (featuring) している事が
    大いなる過ちなのです。
    この一点こそが、近代合理主義の欠陥、錯誤、過ちなのです。










    この近代合理主義の欠陥、錯誤、過ちをどうするか?



    困った!  本当に困った事なのです。
    こんな意識に全面的な全権を持たしたのは、
    きんだいごうりしゅぎですよっ。





    近代合理主義の意識に、猫の鈴を付けるのは誰ですか?






    近代合理主義の害毒は、
    『極陽』の思想ですから、『陰』を苛むのです。
    近代合理主義と云う『極陽』が陰徳を消去します。


    得ばかりが優先され、
    徳の値打ちを知る人がいなくなります。



    よく考えてください。
    我々は、意識・『陽』・男(父親)に産んでもらった訳ではないでしょう?
    誰もが、無意識・『陰』・女(母親)から生れて来た存在ですから、
    意識が自覚ができない『陰』の次元で、
    『極陽』の思想である近代合理主義の害毒で
    さいなまれるのです。
    近代合理主義と云う『極陽』が陰徳を消去します。



    意識が自覚ができない『陰』の次元で、
    我々は、深く傷ついていきます。





    直撃するのは、『陰』の命を孕み産み育てる母性です。
    社会全体で母性を苛み虐げる方向が強まって行くでしょう。



    そして、社会が母性をを喪失して行くはずです。






    これを、どうしても止めなければ、、、
    どうか、折に触れて、
    東洋的世界観を思い出してください。



    そして、東洋的視座から眺めた現代の邪悪思想、
    近代合理主義の意識の行状を見つめ直してください。




    近代合理主義に
    あなたの大切な家族、子供たち、孫たち、その先まで、
    あなたの命の血縁関係を滅ぼされないようにする為です。







    くどいですが、もう一度申し上げます。


    『陰』を消去した思想、近代合理主義は、
    『陰』の命、自然、母性を消去します。





    我々から、自然な命の生命力を、美しさを、恵みを
    奪って行くはずです。









    意識の武器は、五感の快感で意識を満足させる事です。
    五感の快感、それが、近代合理主義の持ち芸で売りなのです。
    我々がなによりも快感を欲しがるのを喜びます。
    我々が快感を得る為には、
    すべてを犠牲にしても意識を大事にするようになるからです。
    そして、あなたから尊いものを収奪していくでしょう。
    それは、
    あなたが自分の欲望に敗けて五感の快感の為に
    尊いものを犠牲にする因果応報です。
    それを喜ぶ機能が『陽』・意識にはある。


    ーーーーーーーーーー これは魔界ですね。




    これに相当するのが、
    仏教が説く処の、
    天界にある第六欲天に住む魔王ですね。
    有頂天と云うのも、その中の一つです。




    意識にコントロールされてはダメなのですよ。


    近代合理主義にコントロールされてはダメなのですよ。







    そのためには、、、、


    我々のDNAの中に眠っている東洋的世界観を
    埋没させてしまっていると云う現実に立ち返るべきでしょう。
    まず、我々は、その現実を
    我々の両目を見開いて見なければいけないと思います。










    片目を真似てはダメです。   ほほっ。



    ーーーーー










    最後まで長い記事をお読みいただきました事を
    深く感謝申し上げます。




    次は、
    しばらく書いてない卑近な運命学の記事を書けたらいいのですが、、、、、
    その時まで、
    たのしく良き日をお過ごしください。



    今宵は土曜日、新年の二日目です。
    素敵な夜を~



    今年はあなたの夢が叶うと良いですね。


    謙虚に祈りましょう、、、、



    最後に、溢れるほどの思いをあなたへ、
    無意識を通じて贈ります。


    どうぞ~

























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
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    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 2. 「妊」の喪失

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
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         2017. 新年あけましておめでとうございます   
         2017   注連縄




    丁酉(ひのとのとり)年、本年もどうぞよろしくお願いします。

    昨年は、年間を通して只の一回もブログ記事の更新ができないまま、
    一年間のブランクと云う
    今までで最長の記録を更新してしまいました。


    訪問していただくみなさまには、その間、
    昨年の元旦の記事の写真(富士の初冠雪 )を
    いつも見続けていただくと云う事になってしまい、、、、、
    (なんだか昨年も同じような事を書いた様な気がします。) ほほっ。
    昨年一年間、ご訪問いただきました事に深く感謝申し上げます。 
    ありがとうございました。


    あっと云う間の一年間は、
    鑑定の仕事やその他、あれやこれやの雑務で、
    てんてこ舞いの365日の日常ではありましたが、
    書きたい事は無意識の淵から溢れ続けて来ていました。

    それが、あの、、、それを文字化しようとすると消えてしまう。
    いつものアレです。


    これに関しては、
    あの、、、 前々回の記事
    〔近代化の奈落 5.〕  
    我々の中の東洋的世界観の崩壊から来る  混乱



    の冒頭に書いた現象、あの繰り返しです。





    この犯人はとっくに分かっています。
    私の無意識層に沈殿した東洋的無意識です。


    そう、
    私が、長年、心酔して無意識層に蓄えて来た東洋的無意識です。





    キーボードを叩き出すと

      今、何を考えていたのかしら?   

    頭の中が真っ黒な闇に包まれて分らなくなってしまう、、、、、
    この原因は、
    私が綴る文章が、まだまだ近代合理主義の臭いがする為に、
    東洋的無意識から立ち昇って来る便りを文字で綴れないのだと、
    そう思わせられるものでした。

    逆に、書こうと云う意識を捨てると、闇の中から便りはやって来る。



    この繰り返しです。
    文章にしようとすると、パッと消える、、、    


    何もかもが消えて無くなった真っ暗闇の奥から
    湧き上がって来るエネルギーが
    頭上から、体内から、シャワーになって意識に振りかかって来ます。
    それを言葉にできない私の意識は、
    ただウロウロしている状態で、途方にくれてしまうのでした。


    この事から、
    薄々は感じていたのですが、
    生まれてこのかた全身で浴び続けて来た時代の思潮である
    近代合理主義よりも
    私の無意識層に深く沈殿している東洋的無意識の方が、
    私の存在へ強い影響を与えていると云う現実を自覚させられました。





    そうして一年が経ってしまったようです。




    サリンジャーに出会って ---------ーーー-----★




    そうして出会った本がありました。


    Salinger 」 と云う本です。


    デイヴィッド・シールズとシェーン・サレルノ共著の「 サリンジャー 」


    サリンジャーと云っても、お分りにならなければ、
    ライ麦畑でつかまえて 』 の著者と云えばどうでしょうか?

    1951年に発表され、原題を (The Catcher in the Rye) と云う
    彼の作品は、過去に世界中で6500万分も読まれています。
    現在でも毎年50万部が売れているそうです。

    当のサリンジャーは、
    91歳で6年前に、2010年に、すでに亡くなっています。

    サリンジャーは1965年から亡くなるまでの45年間、
    彼は、近代合理主義渦巻く世間から離れて静かに生き、
    作品を一篇も発表していません。 



    Salinger 」 は、その彼の評伝になります。




    45年間、作品を書かなかった。と云う理由が、
    もしか簡単な動機だったのなら、
    わざわざ著者たちが、彼を生前から研究の対象にして
    死後、評伝を書く事はなかっただろうと、
    私の無意識の力と通底するものがあるような気がしていました。


    デイヴィッド・シールズとシェーン・サレルノ共著者は、
    サリンジャーの生前から取材を初めて10年間、
    200人を超える関係者からの声を集めて
    なぜ?  小説を書かなくなったのか?
    この謎を解こうと調査をしました。


    その結果、分ったのは、
    サリンジャーが東洋哲学に触れていたと云う事。

    う~ん、やっぱり、と云う感じがしました。

    そして、サリンジャーがインドのヴェーダーンタ哲学に
    岡倉天心とともに没頭していた事が書かれてありました。
    その思想を通じて鈴木大拙とも親しかったと云う事も。

    そして、最後に、この共著者たちは、
    なぜ、サリンジャーが小説を書かなかったのか?
    それを次のように結論付けています。

    サリンジャーの中で高次な「東洋」が目覚め始めた時、
    彼が育って来た中で身に付けた様式では、
    「物語」は紡がれなくなったと云うのです。


    なるほど、やはりそうだった。

    彼が育って来た中で身に付けた様式とは、
    西洋の世界観に違いなかったはずです。
    その意識中心の西洋思潮の中で大いに問題になる事柄も、
    一旦、東洋的世界観を取り入れてしまえば、
    それはもはや問題ではなくなるのです。


    いわゆる、
    幼いころから彼の中に取り込まれて来たキリス教的世界観と
    青年期から学んで身に付けた近代的思考で
    この世界を理解していたものが、
    ある日、
    それらにとって代わった高次な「東洋」の世界観によって
    すべて解決されて跡形もなく消え去ってしまい、
    近代的思考の小説を書く必要がなくなった。
    近代的思考が問題とするものが氷解してしまったのでしょう。



    これを読んだ時、
    やっぱりそうだったのだ、、、
    東洋を知って自分の意識が東洋そのものになれば
    この近代合理主義のロジックなどはガラクタにしか見えず、
    それで東洋を書こうとしても書けない事を思い知ったはずです。

    読む前から分っていた! 直感していた通りだったのです。




    サリンジャーの東洋とは、

    ★↓
    東洋 *
    釈迦の初期仏教に影響を与えたバラモン教の経典『ヴェーダ』が説く
    宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、
    我々の個体の本質であるアートマン(我)とは本来は同一であると云う
    我即宇宙と云う世界観です。


    それに対して、


    西洋 *
    キリスト教世界観は世界を2つに分けてしまう2元論です。
    神と人間、
    自然と人間、
    あらゆる存在はバラバラに単一に存在すると云う世界観です。


    人が神への信仰を貫いても絶対的に神には成れないように
    神と人の間に絶対的な距離をおく2元論的世界が生む西洋の言葉で、

    あらゆるものは一つであるとする東洋の秩序は書けないのです。





    無意識からの声が聞こえたようでした!


    真実は言葉には宿らないんだよ! 

    東洋の無意識を、
    理論で表現しようなんて、スプーンで海をすくうつもりなのかい?


    そもそも、時代の灰汁で作ったような近代合理主義のボロ袋に
    東洋の無意識を入れようって云う魂胆がおかしいんだよ!






    言葉については叉何時か記事にしようと思います。





    今日の記事は、
    東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる  
                        2. 「妊」の喪失





    「妊」の喪失?

    「妊」と云う字は女の腹部がふくらみ、はらむ意です。

    喪失するとは、子供を孕(はら)むのを喪失する。

    女が子を孕まなくなる。



    前回、近代合理主義は片目である。と書きました。
    これは分かりやすかったでしょう。

    『陰』無意識界の存在を否定して、
    『陽』意識できる世界だけが存在すると云う世界観を持つのが
    近代合理主義でした。

    近代合理主義は、
    この森羅万象の宇宙の実体を片目でしか見ていない。



    それが、今回は、、、「妊」の喪失?
    どうも、近代合理主義は五体満足ではないようなのです。


     


    近代合理主義は、目で確かめられない物はうさんくさいとし、
    うさんくさい事は虚偽とし、存在を認めません。
    要は意識で認められる対象だけを相手にするわけです。


    ここで重要なのは、
    近代合理主義が相手にしないものの中には、
    我々の命の根源が含まれていると云う事です。


    これが、最大の欠点です。


    ついでに申し上げれば、
    人間の運も近代合理主義は相手にしていません。



    そして、
    相手にした存在を証明するには実験、実証に拠って合理を求めます。
    たしかに、合理とは科学的処方かも知れませんが、
    たとえればそれは、
    人間の意識が見える部屋の中と云う仕切られた空間での事、
    目で見える実証実験可能な卑小な空間に限られています。


    そもそもが真実や本質の存在は理論的存在ではない。
    真実は理論では語れません。


    理論は、意識にとっての道具だからです。




    合理を追求する近代合理主義には、
    今現在と云う時空に縛られたツタナイ理論からこぼれ落ちる本質を
    見損なっているのに気が付かないのです。

    合理を追求する近代合理主義は、
    理の階段を登って本質を追っているつもりでも、
    逆に理の階段が視界を邪魔してしまい
    本質をおおいかくしてしまっているのに気が付いていない。

    我々からーーーーー 在るべき然るべき命を奪っている、、、



    これが、近代合理主義の本質、相貌(そうみょう)なのです、、、





    さぁ、深刻になり過ぎましたので、  ほほっ。
    今日は、お正月らしく、
    どこかで微笑ましく、気取らない話題へ、    




    注連縄の形 ----------------------★





    みなさんも御存知の昔からある<しめなわ>について
    東洋的無意識層からの表出としての<しめなわ>をご紹介します。

    冒頭の<しめなわ>の写真をご覧になっていただけましたね?



    まず、<しめなわ>の由来について、
    一番有名なのは、
    日本神話から、その昔、天照大神が天の岩戸にお隠れになってから、
    出て来た際に、再び天の岩戸に入らないように、
    しめ縄で天岩戸を塞いだと云う神話です。
    その時のしめ縄は、どんな形だったのか?は、
    特に書かれていませんが、
    注連縄の原型のような形はでき上がっていたのではないでしょうか。
    その時の<しめなわ>の形は、
    今の装飾的に変化をしたものよりも
    人々の無意識からの表出としての意味を付託して形作られた
    直截的で原始的な象徴の形であったはずです。




    <しめなわ>の形はなに? ーーーーーーーーーーーーーーーー★




    答は、もう、知っているよ~ 
    と云う方もいらっしゃるかも知れません。
    答を知ったら驚いたり、へぇ~とどこかでニンマリ笑ったり、 あはは。
    これからは、
    民俗学の吉野先生の代表作から紹介させていただきたいと思います。



    出雲大社や伊勢神宮の形に通じる横長の<しめなわ>の形ですが、


    何に見えますか?




    <しめなわ>の形は、二匹の絡み合う蛇だった。

    二匹の絡み合う蛇の姿はオスとメスの蛇が交尾しているところだった。





    これについての学問的知見は、民俗学の学者である吉野裕子著
     「隠された神々」 古代信仰と陰陽五行  より、
    吉野裕子先生のアニミズムと題する
    安田喜憲(国際日本文化研究センター名誉教授)の解説文から
    抜粋させていただきたいと思います。


    ⇒⇒ 抜粋のはじまり 
     
    「 安田さん 注連縄(しめなわ)は蛇よ!」
    この吉野裕子先生の一言によって、私の研究者としての人生は
    おおきく変った。
    地中海文明研究の途上、
    二匹の蛇が絡み合った彫像や絵画が、古代ギリシャ・ローマ文明の
    遺跡でいたるところでみられるのが、いつも気になっていた。
    「なぜこんなものを飾るのか。二匹の蛇にはどんな意味があるのか」
    ずっと気にしていた。
    それが聖なるものとして崇められたのは交尾の時間が長い為だった。
    ーーー その姿は豊饒のシンボルだったのである。

    そして蛇は脱皮する。
    それは生まれ変わる生命の再生と循環のシンボルだった

    日本人の魂の根幹を形成するものは蛇であり、
    その共通した世界観は太平洋の向こう側のマヤ文明にもある。
    そんな事を吉野先生はすでに1970年代に指摘されていたのである。
    「ああそうか、
    私がトルコやギリシャさらにはシリアやレバノンでみたあの2匹の絡み合う蛇は、しめ縄と同じ豊饒のシンボル、
    再生と循環のシンボルだったのか。
    これまで、まったく異質の文明と思っていた古代の地中海文明も、
    日本人と同じ世界観、アニミズムの世界観、多神教の世界観を持って
    いたのか」

    「しかし、現在の地中海世界を席巻しているのは
    一神教のイスラム教のモスクであり、キリスト教の教会ではないか」。

    「古代地中海の多神教の世界はどこに、なぜ消えたのか。
    なぜ古代地中海のアニミズムの世界・多神教の世界は、
    イスラム教やキリスト教のモスクや教会にとって代わられたのか」

    ーーー 私は震える手でキリスト教文明の闇を告発する
    『大地母神の時代』(角川選書)を書いたことを、
    昨日のことのように思い出す。

    ーーー 多くの民族祭祀は豊饒の祭りごとである。
    豊饒の儀礼は性の営みであり、そこでは生命を誕生させる女性が
    もっとも大きな役割を果たしたはずである。
    しかも、ながらく稲作漁撈文明の母権性の伝統のもとにあった日本に
    おいては、民俗の祭祀は女性原理と密接不可分にかかわっていた。
    そこには、女性の感覚でしか理解できないものが、
    山のように隠されているのである。
    にもかかわらずに、
    明治以降の欧米のキリスト教の父権主義のもとに育った近代的民俗
    学を導入することにやっきになった日本の学界では、そうした女性の
    視点をまったく軽視した。
    民俗学の中から女性の性や妖艶さを取り除く事が科学的であるとさえ
    考えていた。
    柳田国男や折口信夫の民俗学は男の世界の民俗学であり、
    女性の世界を欠如していた。
    しかし日本文明の根幹には女性原理が深くかかわっているのである。

    日本文明の原点である縄文時代の土偶は、99%は妊婦である。
    縄文の社会は、生命を誕生させる女性中心の社会であった。
    つづく稲作漁撈社会も、女性中心の社会である。
     
    ⇒⇒ 抜粋おわり



    学問的内容が分かりやすく書かれています。
    いかがでしたでしょうか?


    国際日本文化研究センターの安田喜憲名誉教授の次の言葉を
    もう一度、繰り返して確認をします。

    「しかし、現在の地中海世界を席巻しているのは
    一神教のイスラム教のモスクであり、キリスト教の教会ではないか」。


    「古代地中海の多神教の世界はどこに、なぜ消えたのか。
    なぜ古代地中海のアニミズムの世界・多神教の世界は、
    イスラム教やキリスト教のモスクや教会にとって代わられたのか」。



    私は震える手でキリスト教文明の闇を告発する『大地母神の時代』
    (角川選書)を書いたことを、昨日の事のように思い出す。



    ーーーーーー

    一番上の現在の地中海世界 と云う処を
    現在の地球上 と言い換えると、



    「しかし、現在の地球上を席巻しているのは
    一神教のイスラム教のモスクであり、キリスト教の教会ではないか」。






    現在の日本を席巻しているのは東洋的世界観ではなく、
    一神教のキリスト教世界観を基盤の持つ近代合理主義ではないか。




    そして、日本を取り巻く世界中は、
    まさに一神教の
    ユダヤ教、キリスト教、イスラムと云う同じ神を仰ぐ兄弟宗教による
    宗教対立から宗教の宗派対立によってもたらされるテロの脅威に
    さらされています。




    過ってのヨーロッパでは
    キリスト教を国教とするローマ帝国が
    ヘレニズムの多神教の豊饒のシンボル、再生と循環のシンボルを
    打ち壊して以来、キリスト教文明の闇そのものが続いています。
    それ以来、西洋文明の根幹はキリスト教理の世界観です。


    ≫≫≫≫≫≫≫≫≫ これを打ち破るのは東洋しかできないのです。
    東洋から哲学者よ、思想家よ、出て来い!     


    ほほっ。





    東洋的なエネルギー転換は智恵そのものです。ーーーーーーーー★







    安田喜憲(国際日本文化研究センター名誉教授)の解説文から
    ⇒⇒ 抜粋の中の 


    ーーー 私は震える手でキリスト教文明の闇を告発する
    『大地母神の時代』(角川選書)を書いたことを、
    昨日のことのように思い出す。


    キリスト教文明の闇、、、
    何がキリスト教文明の闇なのか?


    一言でいえば、西洋文明には智恵がない。
    世界観にエネルギー転換が説かれていないのです。


    これを説明するには、2元論に戻らなければなりません。

    キリスト教理の世界観は簡単に云うと、、、すべては、バラバラ。
    神と人間がバラバラ、   人間は神が造ったもの、
    神と自然がバラバラ、   自然は悪魔が住む所、
    自然と人間がバラバラ、  自然は人間が支配する(物)


    神が頂点に存在して、
    その下に神に作られた人間がいて、
    その下には地球上のあらゆるものが(物)として存在します。


    これでは、互いの尊い関係性が生れて来ない。
    キリスト教自体が、神自身が、
    自分が創造した存在相互の円熟した関係性を説いていない。


    神、人間、自然の存在相互の円熟した関係性がないから、
    相互互換性のエネルギー転換がないのです。
    お互いを生かされない。
    お互いを潰し合うのです。  
    この智恵のなさ!
    これじゃ、我欲の為に他の存在を侵略し、収奪し、搾取するしかない。



    あぁ、智恵がないからです。



    智恵とは、すべてを救うと云う事です。





    確認のために繰り返します。


    神、人間、自然、のそれぞれのバラバラの存在を説明する事は、
    知識でしかありません。

    西洋文明における神、人間、自然において、
    その相互の存在間には、智恵の関係がありません。



    なぜなら、神、人間、自然と云う存在相互の関係性、
    強いて言うならば、
    相互で互換するエネルギー転換が説かれていないからです。





    つまり、
    人間が幾ら信仰をしたとしても人間は決して神には成れず、
    死後天国に行けるかどうかは、信仰に拠ります。
    アメリカ大陸に移民したイギリスのピューリタン(清教徒)達は、
    自分達の純粋な信仰で死後天国へ行けるのかどうか、
    その証拠を、生きている内の成功と云う姿に見ていました。
    自分が死後天国に行けるのなら事業で成功するはずだと、
    これが、アメリカンドリームの原型です。
    やはり、、物質至上主義の臭いがします。   ほほっ。


    神がこの世界を作ったにもかかわらず
    自然は悪魔の住む所なのだから、
    自然はあくまでも、一方的に人間に支配される(物)である。
    と云う思想自体が、
    自然を開拓して事業を起こす事を促進したはずです。


    自然をこんなふうに扱えば、
    支配欲から自然(物)を開発する事はうまくなるでしょうが、
    自然(物)の奪い合いが始まるに決まっています。


    それが、経済、資本主義ですか?


    東洋の云う 「経世済民」 とは?どう云う意味だったのですか?




    西洋はさように、東洋と比べる程のものではございません。
    それなのに、我々はどこかで東洋を低く感じている、、、

    それは、我々が東洋自体を余りにも知らなさ過ぎるからです。



    ★★★★★
    東洋の世界観は円満であり完結をしています。
    そして、永遠性を秘めたエネルギー転換が説かれています。

    つまり、人間が仏に成る方途が説かれてあり、
    自然も人間も仏までもが全てはひとつであるとする秩序は、


    智恵そのものなのです。



    宇宙のすべての存在に、石ころにも、木切れにも命の存在を認め、
    その命はひとつの大海原から生れた波のしずくのように、
    最後は、大海原に戻って行く一つの存在だと説きます。


    その一つ一つの存在には仏性が秘められていて、
    誰もが仏に成れると説いています。

    石さえも、草さえも、一本の藁さえもです。



    東洋の、、、この全て根本は一つに統一されているとする秩序は、
    理論ではなく、達観した智恵そのものなのです。




    智恵(屋根の上)に到達するには知識(はしご)が必要ですが、
    知識は(はしご)手段です、、、知識が目的ではないのです。





    子どもはどうして生れて来るのかをいくら説明しても、
    子どもが生まれて来る訳はないのです。


    子どもはどうして生まれて来るのかを説明できなくても
    子どもが生まれてくるのは溢れる智恵の秩序がそうさせるのです。




    安っぽい物質文明で明け暮れる今の少子化の日本を見れば、
    知識と智恵と、
    そのどちらが欠けているのか、お分りでしょう?



    キリスト教理の世界観の中に収まっている近代合理主義に
    その近代合理主義の土台の上に築かれた学問に説明ができるのは、
    人間の意識で捉えられる世界だけです。


    つまり、目で見える世界、意識が覚知できる世界に限られています。


    意識が象(かたど)った学問などは、
    意識の額縁で象(かたど)られた宇宙のほんの片々に過ぎない。



    その宇宙のほんの片々に過ぎない学問的知識だけを信じて、
    科学的でないものをうさんくさいと馬鹿にする事に馴れた
    近代国家、先進国の日本に住む我々は、
    ついつい、しめ縄の原意を作った縄文人たちを
    馬鹿にしそうになりませんか?

    無邪気だったのよ!   あはは。
    なんだか、低俗。
    恥ずかしい、、、
    な~んて。



    見えないものを無視をして、(物)ばかりの豊かさを集めて、
    見てくれの心地よさだけを集めて、
    どこかで、見えない命の豊かさが分からなくなっていませんか?


    アニミズム的発想を原始的で、どこか幼稚な認識と思ったり、
    科学が説明できない領域を胡散臭いと思っていませんか?


    P.Cやスマホのアプリのマニュアルならいざ知らず、
    女が子を孕み、産んで子に恵まれると云う事は、
    その胡散臭い領域の自然の力の仕業なのですから、
    馬鹿にしてはダメです。
    馬鹿にするから、その力が退化して来るのです。

    つまり、、、、「妊」の衰退
    「妊」の喪失、
    不妊です。


    ほほっ。



    アニミズム的発想から --------ーーー-------★






    命と云うものは、命の豊饒を求めて生きようとしています。




    命の豊饒
    これは、決して、現在の近代合理主義によってもたらされた
    このゴミのような物の豊かさではないのです。


    キリスト教理の2元論で、
    精神と物質を真っ2つにぶった切った世界観の中で実現している
    物質文明のゆたかさではないのですよっ。




    原初の人間にとって自覚された不思議な力、
    その人間の意識『陽』が支配しようとしてもできない力が、
    見えない力が、
    大自然の中に在るっ。
    動植物や無生物の岩にでもあるって。

    それが、それぞれの容(かたち)にも溢れ出ていて、
    まさに、その容にも力があり、
    それこそが自然であると、
    自然の力とは、人間の欲望が無理やり強いる力ではなく、
    そんな人間の欲望とは無関係に、
    生物に、植物に、天体に、星々に、草や、生物を育てる光、
    風や、雲や、雨や、大地の地震、川の氾濫、山火事、諸処の現象が、
    自分の体だって自分の意識とは無関係に反応する、
    いわゆる、宇宙中に諸所の現象が表われて来る。
    その現象を引き起こす力。


    その力が、自分の体の中にもある。


    何か分からないけれど力が存在する。


    力が ! 



    原初の人間にとって、
    その力を畏敬する意識と云うものが強く意識されていたはずです。


    縄文人が、
    人間の意志で抗し難い大自然に対して、
    そう云うアニミズム的発想を持つようになると云うのも頷けます。



    日本においても、奈良時代、大和の三輪山は、
    現代人の認識、
    土や岩石でできた只の「物質」としての山ではなく、
    蛇が髑髏を巻いたその容から命を再生する神聖な山と云うより、
    その存在自体が、神そのものだったのです。


    蛇は、男根の象徴、生殖のシンボルだったのです。
    自然界の植生が循環する自然森、
    自然林そのものが、やはり神だったのです。



    それを真似てと云うか、
    大正9年に創建された明治神宮の森は、
    初めに植林をされてから、
    その後、人間の手を一切加えない、肥料も剪定も加えず、
    原生の森を作り上げるように考えられていたのだそうです。
    自然の植生の中で生きる植物や虫や鳥たちの生態系の中にこそ
    自然力の発現があるはずであると、それそのものが神の仕業であると
    当時明治神宮の森を任された学者たちは、考えたようです。




    あらゆる自然の万物には、
    人為で犯す事のできない霊魂(アニマ )が夫々宿っているとして、
    それらの発現する諸現象の力を尊んで、
    これを、そのまま◯◯神、◇◇神と畏れ敬ったのが、
    日本の古来神道だったのではないかと。



    つまり、根源の力を神と謂ったのではなく、
    人間の力が及んでいない働きに、それぞれの神の名を付けて、
    その力によって現象化した存在そのものを神と言ったのです。

    水の神、火の神、木の神、海の神、山の神、などなど、、、

    その同じ力が、人間に人間をもたらす、女に子供を孕ませ産ませる。
    生命の再生が女を通して実現される。
    原始の人間は、
    その力がいつも人間にとって幸いであるように願ったはずです。
    それが、数々の土偶が妊婦である理由なのでしょう。


    この原始の人々の直感は、間違いでも、愚かでも、拙くもないのです。
    逆に我々が自然を見るのに拙いのです。
    ほら、都会に林立するビルが邪魔になって、
    その原野だった頃の自然の力を肌で感じられなくなっているのを
    不自然とも思っていないのですから。



    (物)に惑って、見えない力を感じられなくなっています。






    仏法に受け継がれているアニミズム ------------★




    その証拠に、

    東洋においては、
    サリンジャーの中に高次な「東洋」を目覚めさせたインドの
    ヴェーダーンタ哲学から脈々とつながるこのアニミズム的発想の
    世界観は、時代を通して人々の智恵を経由して、
    東洋のゆるぎない血脈として受け継がれています。



    どこに?


    仏教の最高の法である法華経に至って、
    詳しく緻密に整理されたものが、
    一念三千(いちねんさんぜん)の法門 として明かされています。
    法華経は、前半の迹門と後半の本門に分けられるのですが、
    まず、迹門において、
    これら宇宙の森羅万象の現象の働きを諸天善神と配しています。
    そして、本門においては、その現象果の根源の力を仏として、
    その仏を中心とした宇宙の壮大な成住壊空(じょう じゅう え くう)の
    姿と、永遠の生命観が説かれているように思います。



    その縄文の頃に芽生えた森羅万象の本質への覚醒は、
    このように仏教の中に昇華しています。
    その本質において、方向性は見誤ってはいないのです。
    と云うことは、原始の人達の直感は正しかったという事でしょう。
    その証拠は、大地震のたびに目に見えない自然の威力を感じる
    我々の中にも在ります。



    ちょっとここで法華経の事を書いたついでですから、
    仏教上の厳密な事を申し上げておきましょう。
    この釈迦が説いた法華経には、
    その仏は誰なのか、どう云う名前の仏なのか、明かされていません。
    釈迦自身も自分がその仏とは言っていないのです。
    この事が分かるには、一切経を読破しなければ無理のようです。
    たまたま、遣隋使や遣唐使になって仏教を学びに行ったとしても、
    釈迦が説いた初めの頃の経典だけを読んで、
    The 仏教が分かった! と自らが宗派を開いたとしても
    浅い認識で純真な信徒を迷妄の淵へ引きずり込んだだけです。
    これが、釈迦を本尊とするあらゆる宗派を生む原因にもなり、
    本尊に対する無知から起る低俗性を招いているのだと思います。


    ★★


    もうひとつ付け加えておきます。

    仏教は、一凡夫(人)を仏の高みまで到達させるのが目的ですが、
    釈迦の目指す処が高すぎて、
    当時のインドの民衆たちが釈迦の云う通りに
    一挙に到達できない困難性をカバーする為に、
    釈迦は初めの導入部のステップをゆるやかにして少づつステップアップできるような説法の方法を取りました。
    ある意味、一つの方法論として譬え話し、嘘までついています。
    脅かしたり、苦しみを味あわせたり、渇仰させたりと、 あはは。
    説法の中の一部がそうである場合どころか、
    その経自体が、全編ウソ(方便)で貫かれている場合もあります。
    しかも、
    40年間以上も真実を言わなかった! と、、、    ほほっ。
    釈迦が、無量義経説法品で、
    「四十余年未顕真実」という言葉で告白しています。
    これがウソも方便と云われる所以ですが、
    真実へ至るウソであるならば、有用なのである、と云う事なのでしょう。
    こうして、仏教経典は実にスリリングで開明的、
    最後まで飽きさせない真実へのあらゆるメソッドを用いています。
    それは、近代合理主義における証明のような
    A=B, B=C だから A=C と云うような平面的な解説ではなく、
    常に、
    前ステージでの思い込みを破棄させながら次への展開へと云うような
    重層的な世界が次々へ啓かれる開法が用いられています。
    分かりやすく言うと、まず最初には、
    貧しくも愚かな我々であっても開けるに易いAの扉を提示します。
    誰もが開けられるその扉の奥には二つの部屋が用意されています。
    その二つの部屋を相対比較して勝れた部屋を選択した場合、
    その部屋の奥には、更に奥へ進むBの扉が用意されています。
    初めて扉を開ける時には思いもしなかった部屋に来ている。と云う
    具合いにです。
    ある意味、ミステリーツァーのような?    あはは。

    しかし、それは真に仏法を求める者には喜びだったはずです。
    そして、優劣の選択の結果、Cの扉を開けた者は、
    法華経の部屋にたどり着くのですが、
    そこにはまた、二つの部屋があって、
    そこが、迹門と本門の二つの部屋です。
    仏法を学んだ智恵の直感に導かれて本門の部屋へ入ったならば、
    実は、本門の部屋には更に奥の部屋に至る最後のDの扉があって、
    その最後の扉の奥は、文底独一本門の部屋として開かれます。
    そここそが、仏が無明(何も分からない迷いの凡夫)の我々を連れて行きたい目的の場所です。


    これは、一切経(あらゆる仏典)を隅から隅まで読まなければ見通せない事のようです。
    そこまでのチャレンジをしないまま、AやBやCやDの扉の前で止めてしまっては最後の部屋には到達できません。
    現実的には、Bの扉で止まったのが上座部仏教(小乗教)、
    CやDで止まったのが仏教の各宗派として開宗されたと云うのが
    現代における仏教界の現実です。





    近代合理主義が無視をし排して止まない領域 --------★





    ★にもどりましょう。



    縄文人が、覚知しようとしたもの、

    これは、一体なになのか?
    これこそが、
    近代合理主義が無視をする、排して止まない領域なのです。

    普段,
    我々が当たり前のように暮らしている『陽』の現象界、
    近代科学の技術を以って便利で安全だと信じている空間、
    この近代合理の人工空間が、完璧に排除している領域です。


    その領域は、
    今まで陰陽学の『陰』から説明をして来た領域の事です。
    そこは無意識、
    我々の意識が覚知できない領域の事を謂います。




    我々は、目の前の狭い世界の中だけで生きていられる時には、
    『陰』や、無意識と云う言葉で表現しているこの領域の存在を
    忘れています、
    我々が、その大きな力である存在に気づかされるのは、
    忘れた頃にやって来る -------- (あれ)
    天災が、地震が、津波が、我々を襲って来た時です。
    我々の意識や努力でどうにもできない天の禍いが
    襲って来た、身に降りかかって来た時でしょう。



    『陰』、無意識の存在を受け入れて到達する『常住観』 -ーー--★



    襲って来た、、、と云う言い方自体も、
    我々にとって都合がよくないと云う理由の勝手な受け止め方です。
    いわゆる、我々にとって迷惑な事が、
    大自然にすれば、
    自然の自然による普通の自律運動でしかないのでしょうが、
    この時、初めて 
    ・・・・・この大自然の止まる処のない自律的エネルギーと云うものが、
    実は、・・・・・・ 津波や地震と云う現象化を起こしていない時にも、
    我々の意識の背後に、奥に、目では見えないけれど、
    無意識の領域に、、、、、間違いなく常に存在しているものなのだ。 
    と云う 『常住観』に目覚めさせられるのです。


    つまり、目に見える世界に囚われている間は、無常観です。
    目で見えない領域、『陰』の世界に目覚めた時、
    無意識界の存在を覚知で来た時、
    初めて『常住観』に到達する事ができるのです。



    この『常住観』は、
    法華経以前の経典(華厳経や阿弥陀経、大日経など)を拠り所にしている宗派には教えとしてありません。
    そこでは、あくまでもこの世は穢土(よごれた場所)です。
    だから、死んでから極楽浄土に行くと教えます。   
    死んでから極楽浄土、、、
    こんなお伽話を、現代人は信じるでしょうか?
    今は、天国に行くと思っている人が多いようですよ。 
    あはは。
    これも、近代合理主義の知識の中にどっぷり浸かって
    キリスト教理の世界観の中に生きている我々にとっては、
    極楽より天国の方が、ごく自然の成り行きなのでしょう。

    とにかく、極楽は、
    釈迦が仏教を信じさせるために付いた嘘です。   ほほっ。
    先に良い事があると思わないと人は信じませんからね。
    あはは。
    これを、方便と云いますの。
    深く難しい世界を教えるのには、だましだまし、、、   あはは。
    極楽浄土というのも、つまり、うそ!
    意識が想像して作った架空の世界なのです。
    実体はありません。
    釈迦が説いた物語の中の登場人物? 架空の仏です。
    が、
    古代インドの人達ははっきり云えば無知、純真だったのです。 
    なにしろ、王族出身の王子が身分を捨ててまでも
    教えてくれた事だったのですから、、、 ほほっ。
    我々の遠い先祖たちは信じちゃったのですね。
    つまり、
    これは、キリスト教の天国と同じ、
    どこにあるのか? その住所さえ証明できていませんのよ。

    あっはは。

    それを、今聞いたとして、
    現代人なら、そんな、アホな!? と思うでしょう。
    こう云う事を含めて、
    現代人の我々にはウソかマコトか見抜ける智恵があります。
    また、科学的な知識も中途半端ですがありますし、
    昔の人たちと比べると、
    それはどうしてかと云いますと、DNAのせいです。
    純真に信じて騙された過去の記憶が積み上げられていますから、
    その人類の体験が現代に生きる我々のDNAに残っています。
    我々は、DNA の中に、
    人類の歴史のすべてを引き継いでいる事が分かっています。
    間違いなく、誰の中にも、
    縄文人の生涯の思い出が遺伝子の中に潜んでいるのですよ。

      ほほっ。


    しかし、だからと言って、昔の人々の事を
    決して馬鹿に出来るものではないと思います。
    仮に、縄文人の信仰を、低俗で迷信の類と片づけて、
    近代合理主義で切って捨てるのは簡単ですが、
    その行為自体が、あまりにも近代合理主義の物質に偏った世界観を
    素直に受け入れた害毒ではないかと申し上げておきましょう。




    それを不合理として排除する近代合理主義のロジックこそ、
    自然を「物質」と観るがゆえに命なき(物)としての扱いをし、
    それが自然破壊へ繋がると云う事だけでなく、

    子を孕むと云う為には、
    自然の中にある同じリズムを刻んでなければならない我が体をも、
    破壊してしまうのだと云う事を警戒をしなければなりません。





    その因果応報が、創造性の退潮、、、命の退化、
    自然のありようから外れて行くさまざまな障害としての姿なのです。


    近代化された先進国では少子化傾向だと云われています。
    おそらくですが、
    命の豊饒さは後進国、まだ近代化が遅れている国に
    具現化していく力が残っているのがお分りになるでしょう。

    なにでも先進したら、(極みは)負けなのですよ。
    極めたら、今度は、
    それを保つ為に尊いものまで犠牲にするようになります。
    手段が目的化してしまうのです。

    今の日本がそうです。
    そして、現在の優位を保つ為に未来まで捨てるようになるでしょう。
    本来は、未来の為に現在を我慢する、、、のが正しいのです。
    今の日本の政策は、その逆です。



    現在の経済指標の為に未来を捨てるのですから、
    日本の我々に未来はありませんわ。   ほほっ。

    未来を捨てて、、、
    現在だけの現象に囚われて夢中になっている我々、、、

    これは近代合理主義のせいですよ。
    意識はすぐに過去は忘れています。  あはは。
    目の前を見る目はあっても意識には未来は分かりません。
    意識は感覚器官を通して現在(今)に集中するしかありません。
    意識に基づく学問は、いつもいつも、
    結果である現象(天変地異)の解説ばかり、
    もう、うんざりです。


    もう、未来に起る現象が、そこまで来ていると云うのに、、、
    その事には、科学は一言も触れない。
    分らないのですよ。

    占いの方がよく分かるかも知れない、、、  ほほっ。



    しかし、この閉塞空間の状況は、どこから?

    一神教の支配する世界と云うのは、
    本質的、自由はないものです。
    それが、近代合理主義は、自由だ、平等だと言っている。
    ウソつきです。

    そう云う偽善渦巻くキリスト教理の世界観の中、
    エネルギー転換のない狭い空間に押し込められているからですよ。

    (神にもなれない人間は、自然を支配して物を手に入れるしかない。)
    (物を手に入れる競争で、一番になる事が神に似る事である。)
    =それが死後天国に行けると云う証拠である。
    =これがアメリカンドリームの背景、ピューリタン精神です。 
    (死後、天国へ行くまで悪魔と戦うのだ!)
    (悪魔をやっつける戦は、正義の戦いである。)
    (正義の戦争は止められない!)



    あははっ。



    アニミズム的発想を卑下してさ迷う女たち -ーー-------★




    男は生産に従事し、女は子を孕み産み出だす。
    これが、自然の則に従って生きると云う事です。
    この尊い豊饒力を卑下をさせて無視をさせて、
    女に経済の欲望に従う事を進める社会とは、
    これは、
    自然の豊饒さに逆らう者、命の恵みに唾棄する者たちです。


    絶対に、善人の集りではない。




    魔界の掟に女を縛り付けるとは、
    これに拠るしか立ち行かない国家とは、魔の国家ですよっ!



    論より証拠、
    この国で大切なのは、女が子を産むと云う事ではなく、
    まず働いて税金を払え、保険料を払え、そして消費をしろと
    勧奨する事がこの国の国是です。
    その上で子を産めと、
    男も子守をしろと、    あはは。

    なにより大事な事は、精魂込めて働いた代価で「物」を消費しろと、
    「物」以上のものはないのだと、
    「物」こそが経済を成長させるのだと、
    暗に女にアニミズムに浸ることを卑下させるのです。

    その「物」を獲得する為に働けと、
    労働の代価で「物」を消費する事を奨励する、、、、、
    日本は、それ以上の尊い行為はないと云う国になったのです。



    これじゃ、我々は、
    命の豊饒さを最高価値に置く『孝』を捨てた魔界の民、
    天界に魔が住む。と云うけれど、
    魔が居ると云う事は、天国のしるし。

    あぁ、ここはキリスト教理の天国なのでしょうか?   ほっ。




    ★ 近代化と云うことは、
    キリスト教理のこの魔界(天国)へ招かれた事だったのですね。



    ほっっ。





    お正月そうそう、
    我々の住所がいつのまにか、
    魔界にすり替わっていただなんて、お知らせしてしまいましたっ。

    どうぞ、悪く思わないでくださいね。   ほほっ。


    女のみなさまへ

    まだ産める年齢の方は、どんどん子供を産みましょう。


    あはは。




    昨年より、もっと更新ができますように、、、
    今年、一年間、よろしくお願いします。

















    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 3. 美辞麗句 <自由>

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
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    朝日に輝く槍ヶ岳
    槍ヶ岳



    2018年の新年が、あと数日で明けようとしています。

    今年は、新年の記事以来一回の更新もせずに来ましたのに、
    毎日訪れてくださった方々へ深く感謝申し上げます。

    お世話になりました。
    ありがとうございました。

    2017年の年頭から
    今年こそは、
    ブログの記事の更新がたった一回なんて事になりませんように、、、と、
    気にしながら心で願っては来たものの、
    振り返ってみますと、やれやれ、やっぱりと云うのか、 ほほっ。  
    こうしてまたもや、暮だけの更新になってしまいました。


    一昨年以来の過去3年間、
    このように困った状態が続いているわけですが、

    右端にある過去の更新履歴である
    月別アーカイブを見ていただくとお分かりのように、
    2015年から、記事の更新が年一回になってしまっています。
    そうなる(2014年)までは、最低月一で、
    東洋思想の記事の更新をして来ました。
    それは、東洋の思想の叡智を広めたい
    と云う私の願望があるからなのですが、

    それへの意欲は、現在、今でも変わりはありません。



    じゃ、どうして更新が進まないのか、
    以前のように、東洋思想の記事が書けないのか、
    と云いますと、
    実は、それを書きたい私の意識と、無意識とのせめぎあいがあって、

    そう、毎日、無意識から吹き込んで来る風のようなものがあって、
    意識が意図した記事を書こうにも、それ処じゃないのです。

    無意識から来る風のようなものがあるって
    じゃ、それを記事にすれば?
    と、思うのですが、
    それができれば苦労はしないわ。    あはは。
    これが、ある意味、仕事が忙しい以上に、
    ブログ記事の更新の障害になっています。

    現在の状況は、
    ★ 東洋思想の記事が書けない、
    ★ 無意識から溢れるものが書けない、
    この2重苦を味わっています。


    ーーーーーーーーーー

    まず、
    ★ 東洋思想の記事がかけない、
    について、 意識と無意識がどう作用し合うのか、と云う観点から
    まえがきとして書いておこうと思います。

    そうすれば、読者のみなさまに

    意識と無意識の関係になじんでいただく事で、
    運命と云うものの仕組みが分かるようになって、
    西洋思想と東洋思想の違いを鮮明に分別できるようになれば、
    近代合理主義への失望から東洋の叡智へ目覚めていただける

    のではないか、と信じております。


    ーーーーーーーーーー


    ★ 東洋思想の記事がかけない、


    一つ原因で思い当たるのは、2014~2015年、
    私の中での大きな変化があったのだろうと思います。
    だろう、だなんて、なんだか他人事のようですが、

    変化があったのは、
    私の意識の奥、無意識の中での事なので、
    こうして文章を書いている私の意識には意識できぬ世界の事だからです。

    そもそも意識のキャパは、
    推量する、想像する、事ができる位のもので、
    しかも、それは当たっていればいい位のもの?    ほほっ。

    意識と云うものは、時が経って後になって初めて思い出して
    ようやく納得をするような事です。


    よく、歴史でも、大局的な判断は後世の人に任すと云う事が言われますが、
    その通りです。

    病気でも、時は薬、といいます。

    皮相的に物事をとらえがちな意識が、
    無意識の意図を知り、それらから学ぶ知恵とするには、
    意識には多面的な経験が必要です。
    それには、時間の経過が必要なのです。

    運命学的には、
    赤ん坊も生まれたばかりの時に、その運命は定まっているのですが
    それが、はっきり誰に目にも分かるようになるには、
    18~20年の歳月が必要です。
    このように歳月が、観えない物事を動かぬ現象とし、具象化します。



    『時』が、無意識の意図を教えてくれます。



    私の場合も、
    私の意識が、その奥の無意識層での変化を、
    このように客観的に書き表せるようになるまでには、
    3年がかかったという事だと思います。

    つまり、3年前の私の無意識で起こった変化と云うのは、

    仕事柄、仏教や東洋運命学を常に傍らに置き、
    職業としてのマナーや嗜好や趣味としてと云うよりも、
    もっと深く、これに命を預けてもいいと信じるに足る思想として
    東洋運命学へ信頼を寄せてしまっていた事で、
    幼い頃より空気のように吸い込んで馴染んで来た近代合理主義は、
    私の無意識の中で、完璧に否定されてしまったようです。
    それも私の意識が気が付かない間に、無意識に、静かにです。


    この無意識の中での変化が、
    それは何時の頃かと振り返れば、2014、12、21、の記事の頃です。  
    その内容を一部抜粋をして、解説を加えてみます。


    ーーーーーーーーーーーーーーー過去記事より


    コメントへのお返事 25. 近代合理主義の理紋からみる  お墓 ①                  
     ・ ・ ・ ・ ・ ・ 絶対性を失った物質文明の中の「物」 
     


    詳しくは、上の記事を参照ください。 ↑ (クリック) 


    この記事の中で
    ① 『陰』無意識界の否定
    ② は、『陽』意識中心の世界観
    を近代合理主義の理紋として挙げております。

    その思想に潜在的に具わる必然的な思想の運とでも言いましょうか、、、
    これが、思想の理紋です。 

    この理紋①、②が、
    近代合理主義を受け入れた人間内部の人間性に歪みを起こす。
    それが相貌となって人生に現れて来る。
    相貌とは、顔形に顕われた氏素性、人相のようなものです。
    思想の文字面に掲げられたロジックとは違います。




    ★近代合理主義は、理紋①、②、の相貌が出て来ます。

    具体的には、
    次のような心身共に亘る『陽』=現象界における現象群です。



    1. 徳性の鈍化 (権利、義務の主張から来る)
    2. 苦を逃避する (意識が苦しむのを避ける)
    3. 意識の楽、物の満足の追及 (意識中心、物質文明から来る)
    4. 役割の消滅 (徳性の鈍化、自由、平等から来る)
    5. 道徳性の後退  (能力至上主義から来る競争)
    6. 男女の役割の消滅。
    7. 男性のメス化。 (ここまでの結果として現れる)
    8. 女性のオス化。 (      〃         )
    9. 非婚。 (個人主義の徹底)
    10. 晩婚。 (結婚の軽視)
    11. 不妊の増加。
    12. 不妊治療に拠った子供の増加。  
    13. 離婚運の継承。
    14. 縦係累の絆の断絶。
    15. 家族、家庭の消滅。
    16. 家系絶家。
    17. お墓の終焉。 
    18. 過去世、来世の否定から来る永遠観の破棄。
    19. 社会の目的観の消失。
    20. 創造性の喪失。 惰性的社会。 芸術の貧困。(無意識の無視から)
    21. 社会に対する強い関心の無さ
    22. 思想の衰退
    23. 生の衰弱
    24. 人類が居なくなるかも知れないとだけ言っておきましょう。

    ーーーーーーーーーーーーーーー 過去記事よりの引用終わり




    今からちょうど3年前になりますが、
    よくここまでの事をはっきり記事にしたものだと、、、  あはは。

    すっかり、近代合理主義を乗り越えた無意識が、
    私の意識に書かせた内容です。

    内容的にも、明らかに現在の社会の状況は、上の
    17.の辺りまでの顕在化が起こっています。

    18.は、死後や輪廻転生を省く現世主義が横行し、

    19.は、何の為に努力をするのか社会の目的観の消失。

    20.は、現在まだ、活力があるようには見えますが、
    社会規範よりも個人の自由を尊重し、
    自由がもたらす人間の欲望を解放し、
    一人一人が自分の幸福を追求する事を重視し、
    その為には、経済だ! イノベーション!
    それが進歩だと錯覚する物質文明の先には、
    社会共通の規範が崩壊した荒れ野、ニヒリズムが待っている訳ですから、
    当然の顛末でしょう。
    今もその兆候はありますが芸術の衰退が著しくなり、
    やがては創造性の喪失へと顕在化していくと思います。



    24. これは究極の表現をしていますが、  
    近代化を深く取り入れた場合、生命の誕生が危うくなるかもしれない。

    『陰』の抹殺からその生がゆがんで来る事から、
    高度に近代化した民族は【妊の喪失】が進むはずです。
    逆に、イスラム圏のように近代合理を阻む社会においては、
    命の誕生は勢いが衰えないはずです。

    これからは、
    non近代化の思想、近代化のブレーキを包含した国家が
    民族的にも繁栄していくのではないでしょうか。
    東洋を守る使命のある日本は、イケイケドンドンを止めて、
    金融主導のグローバリズムよりも、
    見えない民族の価値規範、道徳規範を守り、
    文明崩壊を食い止める真の保守の台頭が望まれます。



    約3前に、このような記事を書いたという事は、
    この時点で、私の中では、
    近代合理主義のロジックが完全に崩れ去ってしまい、
    空きができた意識の表層の隙間を埋めるように、
    東洋的無意識のエネルギーがあふれ出るようになったのです。


    おそらく、そのせいで、
    従来の、東洋思想の記事を書こうとすると、
    その溢れるエネルギーが吹き込んで来て邪魔をし、
    まったく記事を書くことができなかったのです。
    それは、無意識から、
    ”今は、もっと大事な事を書くように!!!
    と、せめぎ立てられているような気がしていました。    ほほっ。



    じゃ、
    無意識界から溢れるものを記事にすればいいじゃん!
    ほんと、それができればいいのですが、、、  
       

    ★ 無意識から吹き込んで来て溢れるものが書けない、



    先に述べた様に、書けない2重苦が、
    もう3年間も! 続いていますので、
    正直なところ、そんなに簡単に文章にできるような事かしらん? ほほっ。 




    と云うのは、
    無意識が送って来る便りは、文字や言葉ではないのですよ。



    それが、分かっていても、
    その前段階の無意識からの衝動のようなもの、
    さぁ~~っと吹き込む風のようなエネルギーを、
    身近な言葉や語句で文章にするのは本当に難しいと感じています。



    無意識からの便りを意識化、文字化できない状態が続いています。



    言葉の壁、ここが、大きなハードルですね。=================★







    東洋を書く時に現代の言葉を使うジレンマ ーーーーーーーーーーーー★



    一般には言葉の壁とは、外国語と云う壁なのですが、
    私が、ここで云う壁とは、近代合理の言葉の壁ですね。


    だからと云って、
    仏教や儒教の言葉をそのまま多用するのは、少なからぬ抵抗があって、
    それには、どうしても、過去のものと云うイメージがありますから。

    言葉については、又、いつか記事として書きたいと思っています。



    西洋生まれの近代合理主義の持つ世界観、
    それは、とりもなおさずキリスト教理の世界観そのままなのですが、
    それは、世界を何でも2分割に分ける二元論の世界観です。
    その世界観に基づいて生まれた西洋意識の言葉は、
    人間と自然、精神と肉体、神と人間がバラバラと云う対立する存在です。
    その語彙の含む世界の貧弱さ、意味内容の偏狭さです。

    こんなものでは、
    東洋的無意識からの便りを表現ができない。
    と云うジレンマが、依然としてあります。


    前置きが随分と長くなりましたが、
    本論は、サラッといきたいものです。      

    ほほっ。

    何せ一年にたった一回の更新ですから、
    いつものように長くなりました場合は、
    たびたびご訪問をしてくださって、分けてお読みなってくださいね。



    今日の記事は、

    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる  

                         3. 美辞麗句 ①








    東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみると、
    近代合理の相貌は、どんなもの? 第3弾です。


    シリーズ1. では、片目でした。
    シリーズ2. では 「妊」の喪失でした。 


    近代合理主義のことを、
    片目だとか、子供が生まれないとか、ひどい事を言っておいて、
    今回は、美辞麗句!

    美辞麗句、これが、近代合理主義の本性である。
    今日は、と云うような記事になろうかと思います。


    美 とか、 麗 とかの文字は、
    言葉そのものの美しい、麗しいと云う意味だけでなく、
    その裏に、怪しさや、
    美や麗への疑いを暗示していますのよ。  ほほっ。


    * 美辞麗句を調べますと 美しく飾った、聞いて心地よい言葉とあります。
    甘い言葉 ・ 甘言 ・ 耳障りのよい言葉 ・ 耳当たりのよい言葉 ・
    口当たりのよい言葉 ・ 聞こえのよい言葉 ・。
    人の心をくすぐるレトリック ・ リップサービス ・ 巧言令色
    何気なく聞くと、とても魅力的に思えてしまう言葉のこと。だそうです。


    東洋的視座・陰陽相対の世界観から見ると、
    近代合理主義の相貌は人の心をくすぐるレトリック である。


    ほほっ。



    近代合理主義は人の心をくすぐるレトリック? ーーーーーーーーーーー★




    美辞麗句の意味に
    人の心をくすぐるレトリック とありますが、
    レトリックとは、 修辞学、美辞学のことで、
    実質を伴わない表現上だけの言葉、表現の巧みな言葉の事です。

    そういうものに、人間の心(意識)はくすぐられるのでしょう。
    つまり、中身はないけれど感覚器官が喜びそうな?
    意識(心)に受けがイイ言葉のようです。

    それは、つまり、嘘

    近代合理主義のロジックの中には、
    人間の欲望が喜びそうな、好きそうなテーマやタイトルが!  
    たとえば、
    ほら、ほら、
    平等、自由、永遠、と云う言葉などが、
    まるで王冠に散りばめた宝石のようにキラキラ光を放って眩しい位!
    まるでキラキラネームみたいです。

    これらは、みんな嘘? 
    中身のないレトリックなのでしょうか?
    口を突いて出て来る時には白々しく無視をするようにしていますが
    よく考えてみると
    近代合理主義から生まれたこれらの言葉やその概念は、
    どこか、フワ! フワァ~として
    足元が見えません。
    当たり前ですね。
    これらの言葉は外来語を翻訳した言葉で
    我々は、その言葉の真意を知らぬままに、
    勝手な日本人的な情緒で肉付けした解釈をして
    中身の意味を膨らませてイメージをしています。
    自由って、まるで何でも思い通りにしてもいいのね!
    すばらしいわ~って!   あはは。

    本当は、どう云う氏素性の言葉なのか知るべきですね。



    そこで、今回は、
    美辞麗句  ①
    (自由)という言葉の中身について取り上げておきます。




    西洋哲学における(自由)について ーーーーーーー★



    1630年ごろの事です。
    我々の住む東洋の端、日本列島から
    遠く離れたヨーロッパにおいて、
    近代は始まったとされています。

    近代化とは、
    キリスト教の神の権威で秩序立っていた宗教的社会から、
    神を否定して人間が主役となるような世俗的な秩序の社会へ
    と云う大混乱の中から引き起こされた社会秩序の転換です。

    社会秩序の支柱を何にするかと云う転換です。
    社会秩序の根幹を、神から人間の意識へと転換をしたのです。



    それは、神の権威による教会の抑圧から、
    中世の暗黒時代まで続いた国王による封建制度を倒し、
    その不確かな危機的状況の中で、
    脱宗教化された世俗的秩序を作るために、
    確かなものとしての”われ思うゆえの我” の存在を
    社会秩序の確たる支柱にした事です。


    近代合理主義の祖、デカルトが関心を持ったのは,
    我の認識であり、我の精神作用だけでした。

    彼の思想体系の中には、他者が存在をしていません。
    思えば窮屈な彼の前頭葉の中だけの世界です。

    デカルトのこの2点については、
    又、詳しく記事を書く機会があると思います。


    このヨーロッパでの近代化で生まれた自由という言葉
    キラキラネームは、次のような特性を孕んでいます。


    西洋の歴史が求めた自由は、
    キリスト教の神の権威で秩序立っていた宗教的社会の枠組み、
    いわゆる旧体制を壊して手に入れた自由です。
    自分の意識が神に支配されないような枠組みを求めて
    自己の意識を守る為に
    自己の外に求めた自由でした。



    自己意識の自由を防御する為に生まれた、
    盾とも言える社会秩序としての言葉群です。




    (自由)と言ったら、東洋人が直感する精神性の中での言葉ではなく、
    自己の精神を守る外の環境を
    (こうあるべきだ)と規定する言葉です。


    自己意識を神の支配から防御する盾のようなもの、
    それが、(自由)のキラキラネームの氏素性なのです。


    言い換えれば、
    認識の主体である自分を変える必要はなく、
    そのままの自分の精神の作用である認識によって、
    都合よい環境を求めて行く(自由)なのです。


    中世のキリスト教の神の権威に抑圧された当時の人間にとれば、
    宗教的秩序の神の思し召しに従わずに
    自分の精神の作用である我の認識によって真理をつかむ
    それこそが人間の自立であり = 神からの自立である。
    それは 人間の精神の作用の確立である。
    = それを保証する環境こそが(自由)なのです。


    こう云う意味になろうかと思います。
    いかがでしょうか?



    ここで、
    サッカーで使うディフェンスと云う言葉を使います。

    中世の暗黒時代の終わりまで続いた神の権威の支配から
    人間である自己の意識をディフェンス(防護)して、
    人間の自立を守る盾として、
    自由と云う言葉が生まれたのです。


    同じく近代化で生まれた他の権利、義務、人権と云う言葉群も
    自己意識を中心とした人間の自立を確たるものにする為に
    キリストの神の支配を防御するディフェンシブな言葉群と言えるでしょう。



    次の3つの表現は、
    今後も近代合理主義の特徴として繰り返し味わう内容ですから。
    どうか記憶に止めておいてください。

    自己意識を中心

    自由な自己意識を守る為

    ディフェンシブな言葉群





    東洋のパラダイムについて ーーーーーーー★




    遠く離れたヨーロッパにおいて近代が始まったとされる1630年ごろ、
    我々の住む東洋の端の日本列島は、徳川幕府、
    第3代将軍の家光の時代でした。


    ヨーロッパで生まれた近代化のキラキラネーム
    自由の概念を社会に実現する為に作られた近代法や制度を真似て
    日本は明治時代に近代化を取り入れました。


    しかし、日本のそれまでの歴史において、
    広くは東洋思想全体に、
    西洋の自由と同じ意味を持つ言葉はありません。


    平等、愛、人権、 もそうです。  

    現在、近代化以降の私たちは、日本国民として、
    学校教育で教えられて受け入れ、社会の常識として身に付けて従い、
    一般的なその言葉の概念を理解したつもりにはなっています。
    しかし、
    東洋のど真ん中からこれらの言葉の真贋を観れば、
    一体、これはなんじゃ? ですよ!   

    あはは。


    じゃあ、東洋は封建制度のまま?
    服従と不自由、不平等である事をあきらめて、ずっと我慢を?

    あはは。   確かに、そうですね。

    仏教でも浄土宗などの爾前教においてはその通りの教えだし、
    朱子学なども、忠だ、義だ、と?  ほほっ。
    でも本来の究極の仏教のパラダイムは、ぜんぜん違っています。


    どう違うのか?

    それについては、東洋の叡智のホンの一端を
    愚考させていただきますと、

    東洋における最高位の仏(釈迦ではない)の御名前の一つに
    自受用身(じじゅゆうしん)と云うのがあります。
    自ら欲しいままに受け用いる身、と訳すのですが、
    これが、最高に自由な境地であると謂われています。
    どんな自由かと云いますと、
    自らこの宇宙の広大なる(真理である)法理の楽を好きなだけ
    欲するがままに受けて他者へ与えることができる仏身と云う事です。
    しかも、自分の主観の智と、自分を取り巻く環境との真理とが
    境智冥合(きょうちみょうごう)した仏身を謂います。

    つまり、自分の欲するままに起こすあらゆる事象が、
    対する相手や周囲とのトラブルを起こす事もなく受け容れられて、
    客観世界の真理に合致する楽しさが、この上ない、という事です。



    これは、よく考えてみると、
    誰もが願う事ではないでしょうか?   あは。
    自分の欲することで誰も傷つける事なく、共通の真理に合致している。
    ステキな事ばかりで、なんて楽しいんだっ!   あはは。
    自分も相手も救われる!
    お互いに感謝、報恩の思いが溢れる!

    ありえない、うそみたい、 あはは。
    それが仏法ではアリエルと謂うのですよっ。   ほほっ。


    ご覧のように、驚くのは、
    西洋に云う処の(自分の自由)だけと云う概念とは違って、
    東洋が求めた自由の境地は、
    自分の外に向かっての自由度ではなく、
    外からの防御としての自由を確立しようという事ではなく、
    この欲しいがままに受け用いる力が、
    相手側という客観世界へも及んでいるという事です。


    自他共の幸福、
    自然との調和の上にある人間存在なのです。
    広くは宇宙から祝福される事が真の自由であると
    教えてくれているようです。

    これは、西洋の意識が思考した自由の概念よりも途方もなく広く深く、
    同時に、非常に身近な不幸を無くす事ができると云う事です。
    普通の人間の思考では想像もつかないありさまですよね。  


    ほほっ。


    ここで、ちょっと質問なのですが、
    どちらの自由の内容がレベルが高い?と云う問題の前に、
    どちらの自由も売っている商品だとして、
    あなたが、どちらを買いますか? と尋ねられたら、
    あなたは、どちらの自由を選びますか?

    あはっは。

    西洋の自由の方がわかり易い、ですね。
    自分は変わらなくてもいいから簡単?
    受け入れやすい、  ほほっ。
    法や制度を変えて自由になれるというキャッチコピーで、
    それは楽でいいや~なんて、
    人間の欲望に訴求する効果はあるかもしれませんね? ほっ。



    我々は、近代合理主義の思想で
    本当に、この社会に自由を実現する事ができるのですか?
    普遍的価値と云う以上は、
    地球上の誰もが一人残らずに、自由になれるの?


    最近の脳科学で 
    意識は自分の生存が脅かされないような刺激の方を
    都合のいい楽な受け取り方ができる刺激の方を
    選んでしまう事が判って来ています。


    やっぱり、なっとくするよ、 ねぇ。  あはは。


    脳は、太古の昔から、
    生命をいかにして守ろうかと四苦八苦して発達して来たはずですから、
    外界が心地いい事は、生命にとって好都合で安全だと、
    笑顔で受け容れるようにシナプスを繋いで来たのかも知れません。



    脳って賢いばかりじゃないのね。
    脳って馬鹿
    自分の意識が嘘を付いてまで、自分をダマす脳は、
    生物の中でも高等に発達した人間の脳だけでしょうね。
    だからって言ったって、
    高等に発達しているからって、
    脳が正しいという事じゃないのよ。
    なんとか生きながらえる工夫を積み重ねて来たって事で、
    脳も必死に日々の現実の中で、
    生きる為のやりくりをやっているって事。
    胡麻化す事も、生きる為の方便って云う発達もありですよ。

    だから、
    脳はいつも正しいと云う思い込みを持っていたい人は、
    そこまで自惚れてまで、帳消しにしたい現実や、
    忘れたい過去があるって云う事なんでしょう。

    人の生存欲には、
    どっかで安心をして長生きをする為に、
    苦しさや辛さから逃れたい、忘れたい欲望があるって云う事です。



    人は中身がない表現上だけの言葉でも、
    耳障りがよくて、口当たりがよくて、聞いて心地よければ、
    それを受け入れる
    ーーー それを好ましいと思うだけでなく、
    そう、好き嫌いだけならまだ許せるのですが、
    恐ろしい事に、まるで、邪教を信じるように
    --- それを真実と受け入れてしまうという事です。



    脳内だって、嘘を真実だと受け入れてしまう不合理がある。


    歴史を振り返れば、
    合理的な事柄だけが勝負に勝って来た訳ではありません。
    危機を乗り越えられたのは合理的だったからだと思うのは、
    人間の脳が、都合の悪い事を見ない様にして、
    意識しない様にして、説明が付くその理屈を好むからではないでしょうか。
    人間の意識は、言葉で説明できないものは覚知できないからです。

    生活における全く不合理にしか思えない事、
    そう云った共同社会の中での経験から切り離せない知識は、
    必ず、理屈では割り切れない他者の存在があったはずです。


    それに反して、
    近代合理主義の祖、デカルトが関心を寄せた世界は、
    自己の意識の精神の中だけです。
    その自己の意識の尊厳性を守る仕組みを作ろうとして、
    自己の外に(自由)と云うロジカルな盾を構築したのです。


    嘘さえ真実と信じてしまう脳内の精神作用があるとは、
    さすがの彼も気が付きもしなかったでしょう。

    彼の構築した近代合理主義と云うイズムのお陰で進歩をした科学が、
    自己の脳内の不確かさを暴露をしました。

    科学が実証した結論から言えば、
    今にして思えば、
    自己の脳内の意識活動こそ不確かなのです。


    ヨーロッパでの近代化、
    それをアメリカ経由で受け入れた日本、
    その近代化の過程で、
    意識できるものには目を見張って来たかもしれないけれど、
    見えないものは、意識の隙間を通して知らぬ間に切り捨て、
    自己認識で合理に合格したものだけをチョイスして来た結果、
    社会全体で信頼を寄せられる確かなもの 
    他者の存在、共通の善についての対話、を失っていきました。

    我々は、生きて行く事の意味も目的も消滅したストリートを一人で歩き
    通りに溢れる消費財を消費してゴミにする行為しかできなくなっています。
    それが、経済だと言うのだそうです。
    国を挙げてゴミを生産する活動をもっとしろと奨励されています。
    私たちは経済の為に生きていくのですか?
    その為に消費をしてゴミを生産すればいいのですね!?


    あはは。


    これでいいのですか?
    ストリートには子供の姿が、声が無くなりました。


    ちょっと長くなったついでに、  
    老婆心で、お節介心で申し上げましょう。   ほほっ。



    マーケティングで計算され尽くしたエサばかりを与え続けられ、
    リスクや効率追求の世間の価値観に躾けられてしまった結果、
    すっかり原野を生きる動物としての生の衝動が弱くなった若者が、
    市場でのカスタマーとして飼いならされた居心地の良さで、
    本来の動物としてのオスとメスとしての
    命の大自然を失って行く姿は、
    非常にイタイ! 痛々しいものがあります。

    共同社会生活の最小単位としての家族と云う不合理な負担より、
    自由で守られた自己意識の方が大事と云う
    まったく合理的な判断をした結果、
    恋愛や結婚を避ける傾向にあると云うアンケート結果がありました。

    この自己意識にとっての不合理を避ける姿には、
    すでに絶滅危惧種になっている日本人の影を見る思いがします。
    これが、自己意識の認識を中心にして生きる終末の姿ではないかと、
    危惧するものです。

    ご近所を見渡せば、
    あそこも、そちらも、こちらでも、    
    未婚のままの30代、40代の息子や娘が
    今でもご両親や未亡人になられた母親と同居がうかがえる現実です。

    親子の仲がよろしくてよろしいのでしょうが、 ほほっ。
    孤室で一生を過ごしてしまう若者も多いのではないでしょうか。

    知っているオーナーの所有するワンルームマンションですが、
    何十もある一棟の各部屋が全部、独身の40代の男女が
    入居者なのだそうです。


    そこは、30年後、老人棟になってしまうという事ですね。
    世話をする自治体はどうするのでしょうか?



    今年も出生率は最低、
    国内で生まれた 日本人の赤ちゃんは94万1千人でした。
    2年連続で、100万人を下回り、
    統計の残る1899 年以降、最少を更新する見通しだそうです。

    おかしくはないですか?
    教育費だけの問題とは思えない心境になります。


    過っての日本の家族の例ですが、
    戦後の食うや食わずの焼け野原の上で、
    服役した兵士、当然ですが無職の男である夫を迎えて、
    今に云うベビーブームと言われる爆発的な出生数を記録しました。

    かっての人類は、
    いつも食料を求めて原野を移動し続け
    何もない処から、すべてを始めたのです。

    何でも計算づくで、便利のより便利を寄せ集めた暮らしの
    合理を突き詰めた枠内での認識が、
    新たな命をもたらし、幸せを築く事にはならないと云う事を
    思い出さなくてはなりません。





    他者のいない、思惟する自我だけに基盤を置く
    近代合理主義の相貌は、レトリックである。

       





    ーーーーーーーーーー

    長い記事を、最後までお読みいただきありがとうございました。

    私が無意識から受け取った風を、
    どこまで、そのまま文字にして届けられたかは問題ですが、
    ひょっとしたら、そのままの風では突風過ぎて
    何もかもが飛んで行ってしまったかもしれません。


    このくらいで良かったのかもと、
    無意識に許してもらおうと思っています。


    次の更新は、無意識のままに、
    私の意識が言葉にできるかどうかが勝負でございます。

    あはは。


    それではまた、、、、、、
    みなさま 良いお年をお迎えください。




















    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
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    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 4  美辞麗句 <平等>      

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
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    春の恵那山

    恵那山




    「過去」があるのではない。
    「思い出・記憶」や「意識が記録したもの」が、いま、あるんだ。
    それも、私たちの脳が都合よく改変した過去が脳内にあるんだ。
    「未来」があるのではない。
    「希望・不安」や「過去からの意識の予測」が、いま、あるんだ。
    ある時は不安に、又は希望に染められた未来が私たちの脳内にあるんだ。

    いま、あるんだ。と云う現在だけが確かで、
    それを私たちの意識が、瞬間! 捉えているだけ。


    それは、クルクル変わって、いま、ある現在だって
    意識にかかると、その場の共感の輪から、嘘が事実になるわけです。

    つまり、それっぽいよね、って 
    似たイメージが増幅し合って、
    民主主義の原理で、多数を占めた時、   嘘が事実になる!

    東アジアにおける歴史教育問題だって、そう
    これが、フェイクの生まれる根源です。


    そう云う不確かな存在を抱えて、
    私たちは、大地に、その埋め合わせの確かさを求めています。
    大地こそは変わらないのが、あたりまえ!
    私たちは、大地を頼って生きています。


    それが、大地の徳『信』



    今年、20018年1月1日時点で、
    南海トラフで最大クラスの地震が起こる30年以内の発生確率が
    70% - 80% だと聞かされると、
    やっぱり恐ろしいですね。   ほほっ。

    生きている足元の大地には、静かにしていて欲しい。
    それが意識の本音です。
    もう、祈りにも似た気持ちがあるのではないでしょうか。

    そのように、当然ですが、
    我々の生は大地の存在が前提です。



    だって、
    我々は何も分からないまま大地の上に、生れ落ちた訳ですから、  
    ここに、もともと、あったもの!
    あるべき大地を信じて、両親は生れ落ちた赤ん坊を抱いたはずです。
    どうして? その大地が動くの?    あはは。

    大地は自分が買って来たベッドではありませんものね。   あはは。
    買って来てすぐに壊れてゴミになる消費財ではありませんよ。
    我々が働いて得た糧で、交換をして手に入れたものでもありません。

    当たり前のように、ここに
    そこに、ここに、無償に提供されているもの、
    大地は、永遠にあるように思えるものです。
    資本主義なぞに手を出してほしくない次元です。


    つまり、大地は、物であるから『陽』の消えてなくなる現象のように見えて、
    『陰』の本質を含む存在です。
    しかし、『陰』本質ではない。
    だから、千変万化、動くのでしょうね。
    そもそもが、こんなにどっしりした恵那山だって、
    その大昔、想像もできない地殻変動で今の山容ができたのでしょうし、
    でも、その大地の変化の恩恵を生物は享けて生きていられる。
    間違いなくありがたいものです。

    私は仏教徒ですから、
    これが、仏の慈悲に、似たものなのだろうか、と思うばかりです。



    我々は、無意識からまばたきをするようにして意識の世界へ、
    パチっと生を受けるのです。
    命は、
    耳や口や鼻や目や触角と云う感覚器官が捉えて意識できる前に、
    無意識からやって来ています。

    バカな意識は、このパチっとの前は分からない、
    分かるのは、パチっとの後からです。
    と云っても、覚えていないでしょうね。 
    テストの為に覚えたわけでもないので記憶にない。

    あはは。



    根本的に、意識は、私たちはどこから来たのか? 知りません。
    ああなのか、こうなのか、想像と、考えるしかない訳ですが、
    前回の記事で書いた通り、我々の脳はバカだから、
    都合よく記憶したり、忘れたりしているはずです。


    生きている間、今も、
    命は 意識が守って支えてやっているんだと思っていませんか?
    いいえ! とんでもない !  ほほっ。

    それこそ、意識の身勝手、自己中です。
    全くの意識の錯覚です。
    オレサマガエライ! 
    オレガキメテヤッテイル!  これが意識です。   あはは。


    命は、意識が辛いから死にたいと思い詰めている間も、
    無意識の世界に支えられて生きています。
    自殺をしても助けられて死ねない場合もあり、
    大地震が来た時に、助かりたい人は助からずに、
    たまたま外出をして留守だったから地震に遭わなかったなど、
    私たちの幸不幸の分かれ目において、
    それはどうしてなのか?

    こここそが運命学の淵、淵源です。
    デタラメじゃないのよ。
    それこそ精緻な条理の世界がそこにはありますの。 ほっ。



    人の生き死には意識では差配できない領域であって、
    なぜ、その人だけが? と我々の意識で問い詰めれば、
    この奥は無意識界への入り口、運命学の領域になってしまいます。
    そこからは、非常に、差別相がある世界が広がっています。
    一つとしておなじものはない世界です。
    運命学こそは、まったく不平等な世界の道しるべなのです。
    しかも、それにはきっちりした理由があります。


    なぜ、その人はそう生まれたのか? 
    と問い詰めれば、
    それは、そのまた奥、、目や耳の感覚器官では分からない世界です。
    いわゆる昔から短命、長命の寿命と謂われるものです。
    人の命の長短は、
    どんなに力のある頭の良い人の意識でもどうしようもない次元です。
    それを全うすることが自然に叶う、
    その意味を込めて寿ぐ命と云い得たのだと思います。


    ここで、お気づきになりましたか?

    運命の不平等の相の下に、
    平等なルールがあるって!


    人の命の長短は、
    どんなに力のある頭の良い人の意識でもどうしようもない。



    この次元に来て、やっと、我々は平等に扱われています。


    我々の意識にすれば、長いのか短いのか分からない命だけれど、
    この次元で定められている寿命を全うしようと、
    精いっぱい生きる事しかできないのです。
    結果は分からない。
    命の根幹を支えているのは無意識界からの力なのです。
    つまりは、意識で努力をしているつもりでも、
    どちらかと云うと、自然と共にある命の
    それを邪魔しているのが意識でしょう。
    おいしいからもっと食べようと過食をしたり、
    楽しい事には寝るのを忘れて徹夜をしたり、
    トンチンカンで間抜けな意識! 


    ここまで考えると、
    意識こそが信用できると、神や仏の無意識界の奥、神霊域を排除して、
    全ての根幹に人間のうすら馬鹿な意識を置いて
    意識こそが真理を見つけるのだ! という近代合理主義こそが、
    人間が作った邪教ではないか? と、思えてくるのですが、、、?   

     ほほっ。


    まだ、よくわからないなぁと云う方へ
    卑近な例を言いましょう。
    我々は生きたいと意識して息をしているわけではないでしょう?

    そんな事をしていたら、何にも集中できなくて疲れてしまいます。
    無意識に、呼吸だって、血圧だって、体温だって統合されています。
    こういう領域に関しては、
    意識は何にもやってはいないのですから、、、

    仮に、こういう(生存)領域の統括を意識に頼めば、
    感情次第で好きな事だけをやる、
    嫌な事はすぐに止めてしまう。
    行き詰るとすぐに死にたい、と口走るおバカな意識なぞに
    呼吸や、体温調節を任せられますか?
    バカな意識に、まかせられないではないですか!    

    あはは。

    我々の命を生み出した、この大自然、宇宙そのものの存在は、
    アホな意識には、命を守り、支配する権限を与えていないのです。



    みんな、これらの機能は
    ご本人の意識、意志とは関係なく機能する無意識系へ
    我々をこの世へ生み出した天然自然の力はゆだねている。


      --- この事実!

    だから、自律神経系と名付けられたのですが、
    宇宙とつながった大自然との調和で命の恒常性を保とうとする
    体内のホメオスタシスのおかげでしょう?

    これを、今から86年前 (1932) 、アメリカの生理学者 W・キャノンは、
    著書で 『人体の知恵』 という表現で提唱しています。
    初めての方に、少し説明をしましょう。

    生きている間、私たちの生体内の諸器官は、
    どのような気温や湿度など外部環境の変化においても
    自分の体位や運動機能、運動量などの身体的変化においても、
    それに適応できなくて死に至らない様に、
    常に命の生体機能の秩序が、生存に適した一定の範囲内に保たれるように
    しようとする性質があり、体温や血液量や血液成分などの身体の内部環境を、
    生存と云う目的を果すように全身が統一的に働き続けています。
    随意神経系である体性神経系と対照して、
    循環、呼吸、消化、発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝の
    ような不随意な機能は不随意である「自律神経系」が制御しています。
    自律神経系はホルモンによる調節機構である内分泌系と協調しながら、
    種々の生理機能を調節しホメオスタシスの維持に貢献しています。
    これに免疫系を加え「ホメオスタシスの三角形」として扱い、
    この性質をホメオスタシスと名づけた。

    体温や血糖値の正常範囲外への逸脱は、
    = ホメオスタシスが失われる --- これは生体恒常性の異常で病気。
    生体恒常性の表われが、自然治癒力。

    ーーーーーーーーーーーーーー

    これらの生体維持装置であるホメオスタシスも、
    大地の上での安定が前提です。

    意識は、頼る。 と言うのでしょうが、
    無意識にまかせて言えば、生かされているのでしょう。
    なによりも
    命は自然の営みによって守られている、、、この事を、
    意識が自覚しようがしまいが、
    私たちは、自分の生活の場である足元の地面が微動だにしない、と
    大地は安定しているのが当然だ、信じているが如く、
    毛に程も疑わずに子供のように信じています。


    地震が、今来る? いつ来る?
    だから疑っても仕方がない!    あはは。

    何を成し遂げたと威張ったり、
    お金に換算してほくそ笑んだところで、
    そんなもの生きている間の誤魔化しの道具には成り得ても、
    これから向かっていくあの世、死に対しては何の役にも立たないのです。
    そこは、道端に生えている草の方が強靭に見える。
    あるがままの生を享け入れて、
    精いっぱいの生き死にを楽しんでいるように見えます。
    生に有頂天にもならず、死を疎んじる様もなく自然と共にある。
    その生きざまは、仏の成仏の境涯のようであると、
    天台は『摩訶止観』に書いています。

    所詮、人間は草よりも弱いかな?
    ありのままでは一時も居られない存在でしょう。
    キレイなおべべを着て、飾らずにはいられない性分です。
    そここそが意識の本領、嘘で固めたがるのです。    あはは。

    せめて、足元だけは穏やかでいて欲しい。
    大自然を頼って生きているからこそ信じていたいのです。  ほほっ。

    感謝をしなくても、望まなくてもあるもの、ありがたいこと。



    我々の命と云うものは、『陰』・無意識に根を発しています。
     


    意識中心、意識できる世界だけをターゲットにする近代合理主義は、
    この無意識の世界『陰』を排除しています。

    意識が作り上げる学問なんかに命が、分かるわけがないのです。 ほっ。

    生も、、、ああだ、こうだ、と云いながら、
    学説をクルクルと変えながら、
    それを進歩だと云いながら、未だに分かっていない。
    生も分からない意識に、死は、手も出せないはずです。

    生も死も分からないで迷っている意識に、
    ただただ、死を遠ざける事だけで胡麻化している意識に、
    幸せとは、なんて論じて言い得る力はないはずです。
    さもあるかのように口にする学者先生には、あほらしい限り、   
     
    ほほっ。    ごめんあそばせ!



    死を意識の彼方へ追いやって、無視をして、
    生の楽園ばかりに光を当てて飾り立てる狭いドームの中に
    影ばかり、薄暗い空間に我々は閉じ込められています。

    見上げれば見えるのは、電飾ライト?  あはは。
    はたまた、ステンドガラスでしょうか?
    生の楽園ばかり、と書きましたが、 
    ほんとうに楽園なの?

    意識が感じ得る「楽」を掲げるしかないキリスト教の限界
    「楽」を具現した天国を信仰の到達地点とするしかないキリスト教理の限界、

    天国すら有るのか、無いのか分からない?
    神を否定した科学革命から出発している現代科学ですが、
    しかし、科学の世界観は、キリスト教理の世界観から一歩だって出ていない。

    そうでしょう?
    科学が神を否定したと云うのなら、
    神の説く天国なるものが、どこに存在するのかしないのか、
    証明して見なさい!
    科学的実証を示すべきでしょう!

    それすらしないで、神の世界観の中で安住をしている科学は、
    ただ、真に根本的な真理追求から逃げている輩に違いない。
    僭越ですが、そう申し上げておきましょう。


    天国の存在は、
    意識の能力である、想像、憧憬、の域を出ていないのでしょうね?



    真に実在する処なら、飾り立てる必要は無いのです。
    あなたは、あなたのふるさとの話をする時に、
    あなたのふるさとを金銀やステンドグラスで飾り立てようと思いますか?
    なにの飾りもしようとは思わないはず、
    なぜなら、間違いなく故郷は存在するものだからです。
    誰に否定されようとも、主観的にも、客観的にも
    間違いなく存在するものだからです。
    ひどい言い方をしますが、
    天国は、神は、
    想像の中にしか無いから、実感に近づく為に飾り立てるしかないのです。
    実感とは、意識に影響を与えている五感が集めるものです。
    どれほどの実感があっても、100%間違いはないとは言えないのに、
    意識は実感に、こよなく信頼を寄せています。
    その実感に向かって、これでもか! これならどうだ! 
    光の下で、耳へ賛美歌を、昏い閉鎖的なドームに閉じ込めて、
    目を閉じて、外の世界を遮断して五感へ訴えようとするのです。

    これで芸術の発達には貢献したのでしょうね。


    本来、
    その空間が、真に真理なら、なにもなくてもいい。
    青空の下の木の下で、あばら家でも、どうでもいいのです。
    東洋で、人が聖者と向かう構図は、自然のなか、青空の下が普通です。
    迹門の仏・釈迦が解脱をしたのは菩提樹の下でした。
    仏教では、宗派は違えど本尊と対峙するのは、
    虚飾を払った庵、絢爛とは程遠い修行の道場であったはずです。


    絢爛豪華、美辞麗句、
    人間の能力が及ぶ限りの芸術の飾りを施して
    美辞麗句で飾った近代合理主義のドーム
    我々は、このドームの中にいて外の自然を捨てていませんか?


    近代合理主義のドームを外してみれば、
    そこには、広大な、宇宙大の空間が広がっています。
    何の飾りもない、ありのままの、生死の現場が、
    深く静かに、果てしない無意識の世界が広がっています。

    絶対に、意識が及ばない世界です。

    我々の命は、個々の意識が自覚しようと、しまいと、
    この無意識の存在に支えられて、生かされています。


    我々の命の営みと一体になって命を支える力を
    それを、『徳』と謂います。

    『徳』に触れる事が、智恵なのでしょうね。
    そこにはロジックはありません。

    近代合理主義が尊ぶロジカルな説明は意識の稚拙な方法論でしかないのです。


    ― つくづく最近、近代合理主義は邪教であると思えてきました。   





    私たちは、自分の内側の『徳』と、この大自然の『徳』、
    それが合致しているからこそ、今、ここにいます。




    このことはすごいことなの。
    生とはそういうもの、

    それが普段の意識には分からないのですね。




    大地に絶対の『信』を置く。

    それがあらゆる生命活動の生成発展の礎です。
    無意識の内にあらゆる生命の生成発展を生むもの、それが『徳』です。

    『徳』とは、光り輝くものではない。
    色彩や形象や言葉で飾り立てるものではない。
    見えるものではない。
    言葉で表すものではない。
    意識が捉えられるものではないのです。






    ★ーーーーーーーーーーーーーーー 大地・『地』の『徳』 は、『信』





    大海原の底にだって、地球の土があります。
    大地は、あらゆる処で生物の生の土台となっています。
    言い換えれば、
    地球そのものこそが生物の生の発生装置なのです。


    東洋の陰陽五行学では、大地を土、その本質を【土性】と謂い

    大地へ
    『信』の徳性を与えています。 




    あらゆる生物の母体である大地とシンクロする
    『信』の『徳』が、我々の中にもある。
    あらゆるものの中にもある。



    『信』とは引きつけて止まない地球の力、引力、重力の力であり、
    この力を地球上のすべての存在は平等に享受しています。

    私たちの心にあっては引き合い寄せ合って安定しようとする力、
    合(ごう)の力、信頼の力です。
    これも、あらゆる生物においてそうですし、
    人間、種族や民族、家族、あらゆる群れの行動として自覚できます。



    つまり、生を守り合う、生を全うしあう共同体意識とでもいいましょうか、
    この原理を生き方、生活に訳せば、
    どういう書物だったか忘れてしまいましたが、
    かって読んだ古代中国のある書物には、
    『孝』の『徳』のない者は、この大地の上に立っていられないーーー
    それは
    大地の神が、親不孝者の生命の生成発展を許さないから、
    大地の神が不孝者が立っている地面を揺らす。 
    と書かれてあります。





    しかし、東洋の世界観から観れば、
    色心不二(しきしんふに) 肉体と精神は一体であり、
    境智冥合(きょうちみょうごう) 主体と環境は一体なのですから、
    これは地震の本質論であろうと思います。






    さまざまな気候的風土的な違いによる文化の差別を包み込む
    東洋の地にこそ、『陰』の真理が眠っています。


    総務省によると2016年の「親と同居の未婚者」いわゆる
    パラサイトシングル(20~44歳)は約1300万人。
    親元から自立できず新たな家族を持てない若者は
    90年代から増えに増え続けている。

    いや、もう若者じゃない。

    40〜50代の親同居で未婚は『黄昏同居』と呼ばれるらしい。
    1995年116万人だったのが2016年には263万人、、2倍以上に増えている。
    終身雇用が無くなり非正規雇用が増え、
    十分な賃金と安定した未来を確保できなかった世代が、
    両親の年金収入を基盤に生活せざるを得ず『黄昏同居』へと移行していく。
    3世代同居は夢のまた夢。
    中年になっても自分の足で立つ事すらままならない現実がそこにあるのだ。



    近代合理主義は、『陰』の世界、絶対界を捨てて
    人間の意識が全てを決める相対世界の中で中心に居座っています。
    意識には、動物の意識だって、
    魚の意識だって、在るって言うのに!
    東洋の仏教においては、植物や石や物にさえ意識が在ると説いています。

    そういう仏説を差し置いて、
    科学革命以降の人間は、人間にしか意識がない!と、
    傲慢にもうぬぼれて、驕慢の限りを尽くして
    人間の意識で全てを相対化してきました。
    自由だと云う言葉を造語し
    人権と云う言葉を造語し、
    本質からかけ離れた言葉で人間の欲望を覆い隠して来ました。


    相対化は偽善です。


    そう、『陽』は現象界、はかなく消える『偽』の世界でした。

    そして、偽を纏う言説が生まれては消え、消えては沸いて来る


    ― つくづく最近、近代合理主義は邪教であると思えてきました。   




    もう一度、大地の創造性の話へ戻りましょう。
    大地の想像性とは、火山の造山活動です。
    これは大地の過去でも未来でもなく、現実です。

    大地の現実について
    環太平洋火山帯と隣接する火山地帯で大きな噴火が相次いで起きています。

    カムチャツカ半島のシベルチ山、クリュチェフスカヤ山など5大火山。
    インドネシアのシナブン山、アグン山。
    フィリピンのマヨン山。
    パプアニューギニアのカドバー島。
    バヌアツのアオーバ島。
    ソロモン諸島のティナクラ火山。
    アリューシャン列島のグレート・スキン島、ウニマク島
    メキシコのコリマ火山

    アメリカ、ワシントン州のセントヘレンズ火山も。

    日本列島でも火山噴火が相次いでいます。

    群馬県の草津本白根山。
    鹿児島県の新燃岳。

    以上が環太平洋火山帯の2017年から現在までの状況です。

    東日本大震災後まで遡ると、日本では
    西之島
    御嶽山
    浅間山
    口永良部島
    諏訪之瀬島
    度々噴火している桜島もそうです。
    他に、白山、阿蘇山、男体山、蔵王山、
    ここでは、火山性微動や、火山性地震が観測されています。

    今後、警戒されている東海~東南海の大地震とこれらの火山活動は、
    近い将来起こる巨大地震と大津波を予感させるのに十分です。
    日本は環太平洋火山帯の一部です。








    今日の記事は、

    ☆ 東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 4 

                       美辞麗句 <平等>








    東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみると、
    近代合理の相貌は、どんなもの? 第4弾です。


    シリーズ1. では、片目でした。
    シリーズ2. では、「妊」の喪失でした。 
    シリーズ3. では、美辞麗句としての<自由>
             

    近代合理主義のことを、片目だとか、子供が生まれないとか、
    近代合理主義の云う自由は美辞麗句でしかないとか、
    それは、他者を拒んだ自己防衛の言葉でしかないとか、
    ひどいケチばかりを付けて来ましたが、
    今回の美辞麗句は、平等!


    確かに封建制度を壊した政治理念としたら画期的なのは認めますが、
    それは、政治、統治制度としてでしょう?
    それを、人間存在の哲学的な普遍性を持つ価値観として
    敷衍していくのはどうなのでしょうか?

    近代合理主義の普遍的?価値観は、みんなチンプな美辞麗句、
    これが、近代合理主義の本性である。
    今日は、と云うような記事になろうかと思います。


    美 とか、 麗 とかの文字の怪しさ、嘘嘘しさについては、
    前回の記事に書きましたので省きますが、
    美辞麗句の言葉の意味については、再掲致します。

    * 美辞麗句を調べますと 美しく飾った、聞いて心地よい言葉とあります。
    甘い言葉 ・ 甘言 ・耳障りのよい言葉 ・ 耳当たりのよい言葉 ・
    口当たりのよい言葉 ・聞こえのよい言葉 ・。
    人の心をくすぐるレトリック ・ リップサービス ・ 巧言令色
    何気なく聞くと、とても魅力的に思えてしまう言葉のこと。だそうです。


    東洋的視座・陰陽相対の世界観から見ると、
    近代合理主義の相貌は人の心をくすぐるリップサービスである。


    ほほっ。



    そんな~ 
    リップサービスなどしてくれなくったっていいのよ。
    生まれたままの自分で十分ありがたいのに~
    自分のありようそのままで十分ありがたい。






    さて、今回は、
    美辞麗句で<平等>という言葉の氏素性について取り上げます。




    西洋哲学における(平等)について ーーーーーーー★




    間違いなく絶対に消滅する 『陽』 現象界  
    現象界の全ては、『時』に淘汰される存在です。


    つまり、無常。

    この無常感が、西洋には無いようです。
    それは、西洋は意識の世界しか知らないからです。


    それはどう云う事かと云えば、
    厳蜜には、
    意識に、自発性はありません。
    常に他者、他所に依存をしている存在です。
    常に、周りの刺激に染められているのが意識であろうと思います。



    では意識の本体は何なのか? 


    意識は、意識自体が顕在化していられる「生」を守りたいのです。
    意識には無意識界である「死」後の事が意識できません。
    意識できる「生」での状況が無くなる事= 「死」が絶対の恐怖なのです。
    この死への恐怖の為に、当然ですが、
    そこから引き出される「生」への貪欲な執着そのものが意識の本体です。  



    その為には他者の命を奪います。 
    これが、戦争の原理です。 

    これを、大乗仏教では『元品の無明』と謂い、
    がんぽんのむみょう = 「死」が分からず生死の意味に迷う段階であり、
    これが西洋の謂う処の利己主義・エゴイズムの根源です。 




    意識の役割は、
    自分の「生」を守る為に、
    自らを取り巻くあらゆる情報を収集するアンテナである感覚器官を使って、
    「生」だけに貢献する従僕の役割です。

    意識がこの「生」の従僕の役割の分限に徹しているだけなら、
    まだ許せるものをこれを大きく逸脱させたのが近代合理主義です。



    近代合理主義は、
    「生」の従僕でしかない意識に、神の立場と権限を与え、
    絶対界である無意識界を排除しました。  



    ここから今に至る欺瞞と、悪の世界が生じている。 



    これを本質論から言い換えれば、
    今を盛りに地球上を席巻をしている近代合理主義によって
    神の座に祭り上げられてしまった意識のみじめな姿が見えて来ます。



    原理的には、
    意識できる範囲の他者、他所に依存をしている意識には、
    意識できない未来が分かりません。
    ただ「死」を恐怖して苦を避けたいのです。
    それが、意識のエネルギーの全てでしょう。
    意識の氏素性、身分は、
    過去からの蓄積である無意識層からの現象でしかないからです。


    真の自発性の発動は、無意識層からです。




    近代合理主義の社会では、
    五感の達する領域で意識が捉えて作り上げる知識が一番大切です。
    その為に子供達は、昔なら所帯を持ってもいい年齢まで学業をして、
    社会へ出るようになっています。

    それなのに、
    その知識自体は、意識のキャパの枠組みの中へはめ込まれた知識です。
    肝心の意識が掴めない領域の内容は、省かれています。

    だから、我々は、近代合理主義の知識を知っても賢く成れません。
    知識が智恵にならないと云うのはこの理由です。

    なぜなら、
    近代合理主化で行われる教育、社会生活下の習慣に依って
    『陰』の領域への扉を閉ざされた我々の脳の機能は、
    見えない『陰』の世界については、それ以上知る必要はないと、
    智恵から湧き出る創造の自由を奪われて堂々巡りをするからです。
    その内、近代合理主義のこの特徴によって、
    我々は、創造性のない馬鹿になってしまう。
    これが、知識をいくら持ってもバカになる、だけではなく、
    生物としての命の継承力を失うのです。
    これが、現代の愚かさです。

    近代化された先進国から少子化が起こっている事からも明らかです。
    教義が近代化を阻むイスラム圏の人口が増えるはずです。


    それゆえに、
    (この言い方って、近代合理主義的ですが、、、)  あはは。

    近代合理主義の論理性では、『陰』を理解するのは無理なのです。
    合理主義の現代の学問では、無意識・『陰』を学問の範疇に入れていない。

    意識が掴めない領域は存在しないのである!
    オカルトとして無視をせよ!
    これが、近代合理主義のお作法と心得よ!

    あはは。  笑っちゃいけませんわ!

    でして、、、これが近代合理主義の印籠です。


    こう云う場合、逆に、感心をしますのは、
    結果的に、近代合理主義が、
    無意識・『陰』を否定した事は、正直この上ないのです。
    正直さの美徳でとでも言いましょうか?     ほほっ。

    自らの意識の限界を正直に証明している。

    なぜなら、出来もしない事を、できると、
    ココだけはウソを言っていない訳です。




    このブログでは、普段は必ず
    近代合理主義は、『陰』を捨てていると非難悪口を言っています。
    近代合理主義は、『陽』の世界のみの言葉です。
    しかも、近代合理主義で解るとは、
    「説明」する言葉を読んで、、、「解る」となります。

    段々説明をして、結論を導くやり方です。
    これを、哲学的には「帰納法」と言い西洋哲学は、これです。
    近代合理主義の合理の上で、「解る」です。

    意識できる範囲の「解る」です。

    ところが、意識は人によって違いがありますから、
    「解る」にもいろいろある訳です。
    それらが、さまざまなロジックを生む。

    一つの過程における仮の論、方便「ウソ」ですね。
    これは、どちらかと云うと、男性の思考方法です。



    反対に、無意識・『陰』に関して書こうとすれば、
    人間の営みが作った「言葉・文字」と云うものは、
    意識が作ったものですから、『偽』を孕むと謂います。

    言葉は、『偽』です。
    本質は書くことができない。
    ここに書いている文章、言葉も、その範疇でしょう。

    つまり、いわゆる、生や死、に対しては無能だと云う事です。

    時・時代によって中身まで変わって行く「言葉・文字」では、
    無意識・『陰』のそのものを表したり、書けないのですね。
    無意識・『陰』は、もう結論だけがあるようなもの!  

    それも、ポッとひらめく様な、とらえどころのない存在です。
    しかし、それらは実現する。    あはは。

    有無を言わさずに、~である。と断定できます。

    これを哲学的には「演繹的」と言い、東洋哲学はこれです。


    これを書きものに残そうとすると
    ~みたいなモノ、の様な一つのロジックで書く事はできるでしょうが、
    それは、もう『陽』の偽性に触れてしまってウソになる。

    これで、始終、立ち止まって悩んでおります。
    無意識が、私に「書けるものなら書いてみろ!」と、
    ひらめきの様なエネルギーを寄こします。
    それだけで喜び、うれしいものですが、
    「書け!」とは、
    難題苦悶、熾烈な修行のようなものです。



    近代合理主義で導き出された一つのロジックは、
    全体からつまみ出した一時の仮の理、方便ですから、
    ゾウのしっぽだけで、ゾウを知ったと思い込むようなものです。
    絶対に意識は全体を捉えることはできませんから、
    そのロジックは『陰』の根源からみると、全くの勝手な偏見・ウソです。

    『陽』が、『偽』とはよく言ったものです。

    つまり、ゾウを知った事にはならないでしょう?



    ★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー西洋哲学は部分知です。



    智ではありません。
    知っただけの知です。



    西洋と云う処は、何千年もこの部分智をさがして放浪している状態です。
    知る事を求めている状態です。

    それに引き替え、東洋では、
    うつろいやすい自然から、今目の前にある知は『偽』である。
    と見抜いたのです。


    『陰』は知るとか、知ったから書き残すとか、そんなレベルではない。
    書いて残す現象に、本質は宿らない。

    それを謂うに、
    智恵の塊(かたまり)、溢れる創造力のような、、、

    『陰』に関しては、ロジック化をなるべく避けなければいけない。

    ここが、苦しむ処です。


    これを伝えようとするのは、このように、
    私の無意識と、このブログの読者の無意識がつながっている、
    その事を信じながら何を書いているのか分からない事を書くしかないのです。

    それを難しいとお感じになるでしょうが、
    ムズカシイは、智への入り口です。 
    難しいのが分かる のが= 智恵です。
    知らなかったのを知る = 知ではありません。
    知る事=知識ではなく、
    それはそのまま智=智恵にならなければ、ウソです。
    物事を動かせません。
    あ、 もうこの辺もムズカシイですね。   あはは。



    江戸時代まではいざ知らず、
    戦後の日本人が教え込まれてきた
    「民主主義や経済自由主義は普遍的な善」は、必ずしも正しくはない。

    最近は、経済界の中にも
    こう云う意見、人が増えてきたように思います。
    私は、もともと、
    民主主義や自由主義経済について「普遍的な善」であるとされていた中で
    それはおかしいと疑問を持っていたわけです。


    資本主義がキリスト教の母体から生まれてという事だけをみても
    もう嘘嘘しいのは分かりますが、
    そんな簡単に普遍的な価値や善があるものではない。
    と云う懐疑があったからです。

    おそらくですが、キリスト教が、人間の意識に
    天国の存在を刷り込みに成功をしたように、
    簡単に都合良く、
    世界中が、西洋に注目をして夢中になるように
    また、かりそめの真理や普遍的な価値だというのを作り出したのだ、と
    気が付いていました。

    自由、平等、人権と云うような言葉群、
    今の我々の周りにある言葉群は、
    近代国家日本の中で守られているだけのものです。
    決して普遍的な存在感を孕んだ言葉群ではない。
    一時的にせよ、それはそれで、ありがたい状況ではありますが、
    世界には、それを否定する考え方はれっきとしてあります。

    我々に保証されている自由や平等、人権は、
    日本が侵略されたり、どこやらの属国になったら、
    吹き飛ばされてしまう軽い価値観でしかない。


    わたくしたちは、
    単純に「民主主義が善、権威主義は悪」という価値観では生き延びられない
    世界で暮らしています。
    この現実を、日本国民は理解する必要があると思うのです

    ------------------------------------------

    次の文章からは、マスコミからの引用です。

    “本来の意味”とは違う使われ方をしている格言は少なくない。
    明治初期に福澤諭吉が『学問のすゝめ』の冒頭に書き記した
    「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の意味は、
    人間の平等を表わす言葉とされているが、
    その解釈は表面的すぎる。歴史研究家の井手窪剛氏が指摘する。

    「福澤はその後に、
    “人は本来平等なはずなのに、貧富の差や身分の差があるのは何なのか”と
    説き、『賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり』と
    結びます。つまり、学問をやるかどうかで差が付くのだ、ということが
    言いたかったのです。

     福澤自身、学問のおかげで下級武士の貧しさから脱することができた。
    彼が紹介したかったのは、
    あくまで米国型の“機会の平等”という概念であって、むしろ学問によって
    差が付く“結果の不平等”は積極的に肯定しているのです」

    聖徳太子の『十七条の憲法』にある「和を以て貴しとなす」も、
    誤解されがちな格言だ。『ざんねんな偉人伝』など歴史関係の著作が多く
    ある真山知幸氏はこう説明する。

    「『波風を立てるな』という意味で使われることが多いのですが、本来は、
    『意見が異なるのは当たり前だから、よく話し合え』という意味で、
    議論の大切さを説いています。飛鳥時代の政治改革において、
    “話し合う”という価値観が重要とされたのです」

     武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀」は、
    「人を大切にしろ」という意味とされているが、
    前出・井手窪氏はそんな生ぬるいものではないとして、解説する。

    「文字通りに捉えるべきです。信玄が国主になったとき、
    甲斐の国は財力が乏しく、立派な城がありませんでした。
    家臣たちの武力を城の代わりにしなければならないというリアルな事情と
    して、『人は城』と言ったのです。“人を大切にする”どころか
    家臣を“人間の盾”扱いしたとさえ言えるでしょう」

    ※週刊ポスト2017年10月27日号

    -----------------------------------------------------


    ・旧陸海軍の意志決定メカニズムを分析した著書『失敗の本質』を書いた
    野中郁次郎の伝えるべき教訓というのは、たった一言であった。

    「何が物事の本質か」
    これを議論し突き詰める組織風土を維持し続けることだ、それに尽きる、
    ということだった。

    ・日本の組織は、創設当初は独創力もあり人事も柔軟で、優れた対応能力を
    示す。しかし、20年、30年と時間が立つにつれて意志決定がゆがんでく
    る。とかく、人間関係や過去の経緯など本質でないところを拠り所として、
    重大な判断が行われるようになりがちだ。

    だから、つねに、何が物事の本質かを追求するように個々人が心掛けると同
    時に、組織のシステム、風土も常にそこに意を集中しなさい、ということ。


    -----------------------------------------------------------------

    ★ ことばポストモダン について

    現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする
    言葉。各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失し
    てしまった現代的状況を指す。現代フランスの哲学者リオタールは、著書の
    なかで用いて、広く知られるようになった言葉である。
    リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によ
    って、真理と正義へ向かって進歩していく」「自由がますます広がり、人々
    は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、
    情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向
    への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの
    条件』1979年)。また、ポストモダンという言葉は、ポスト構造主義の思想
    傾向を指す言葉としても用いられ、その際はポスト構造主義とほぼ同義であ
    る。唯一の真理をどこかに求めようとする思考を徹底的に批判しようとした
    デリダ、近代は自由を求め拡大したのではなく、むしろ人々の内面と身体を
    管理する技術を発達させたと述べたフーコーなどは、共に、近代的な物語を
    解体しようとした思想家として見られるからである。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


    いろいろ、ここまで
    近代合理主義の悪口を書き連ねて来ましたが、
    ここで、重要な事は、
    誰が一番平等と云う理念を欲していたのか?と云う事です。
    さる時代の、彼の国の人民? 
    不幸な階級制度で苦しんでいたさる国の民衆なのでしょうか、
    学校で教えられたこれらに関する歴史認識について懐疑を持っています。
    これについては、もっと長くなるので今回はやめにしますが、
    本当に平等を実現したかった主人公は誰だったのでしょうか、、、


    近代合理主義のきらびやかに飾られたドームの中、
    その壁に、平等と云う看板が掲げられてから、
    それよりも、もっと大きなテーマである人権という価値の為に、
    我々は、誰もが自分を喜ばせるお花畑を求める権利がある、と
    全員が、誰もが快楽を追求する権利があると、
    追求する努力の程度も振り返らずに、欲望だけを増幅させていませんか?

    そこには、
    近代合理主義以前の時代においては、
    降りかかる苦を素直に受け入れる事こそが強さであったはずなのに、
    意識を中心に据える近代合理主義の世においては、
    今までにない作為的な正義が闊歩しているのに気が付いていますか?

    自分に降りかかる苦や不幸は、自分の人権が認められていないからだと、
    自分がこう云う目に遭っているのは社会のせいで、それは悪なのだと、
    それを認めない相手が悪なのだと、
    誰もが、自分の人権を声高々に主張する事が正義であると、
    思い込まされて信じていませんか?

    これは一種の自分教ではないかしら...
    自分の人権より貴いものがないからじゃない?


    周りが自分個人の人権に気遣ってくれて
    自分個人の苦が取り除かれるのは当たり前だ、と、
    そうなれば社会も、幾分か進歩したことだと、
    やれやれ、かっての王侯貴族とまではいかないけど、満足、満足!
    これが正義の実現なのである。 な~んて、
    人並みだって云う自己満足をしたいために、
    もう、ほどほどでいいんじゃない、となかなか思えなくて、
    もうちょっと、人並みに楽しいこと、五感を満足させることを!
    いつのまにか、
    快楽に浸りたい~   あはっは。  って欲望してない!?
    冴えた自己意識だけが、どこか、快楽主義を演出している情報の渦の中で
    キョロキョロしていないかな?



    この演出をプロヂュースしているのは、
    薄暗いドームの天井でキラキラしている自由と平等です。




    近代合理主義は人の心をくすぐるリップサービス? ーーーーーーーーー★




    そう、空っぽの言葉のその中身がないことが分かっていても、
    口で言われるだけで嬉しい、、、
    慰みになる、、、



    そういうものに、人間の脳は、直ぐにOKを出します。
    脳内麻薬 人間を支配する快楽物質ドーパミン
    そう、そう、それそれ、それでいい、それが正しいのさ。


    つまるところ、脳は、正義、愛、などのお言葉がお好き!   あはは。

    つまり、中身はないけれど感覚器官が喜びそうな?
    意識(心)に受けがイイ言葉です。

    それは、つまり、嘘

    近代合理主義のロジックの中には、
    人間の欲望が喜びそうな、好きそうなテーマやタイトルが!  
    たとえば、
    ほら、ほら、
    平等、自由、永遠、と云う言葉などが、
    まるで王冠に散りばめた宝石のようにキラキラ光を放って眩しい位!
    まるでキラキラネームみたいです。

    これらは、みんな嘘? 
    中身のないレトリックなのでしょうか?


    現実を見てみましょう。
    自由と平等と博愛の旗を掲げて来たフランスにおいてさえ、
    自由と平等の実現には苦労をしています。


    フランスの新大統領となったマクロンの下でもフランスが難民問題を解決す
    ることは不可能です。
    経済だけでなく、テロ対策の上でも深刻な問題として横たわります。
    ルペンを移民排斥主義者と規定する向きがありますが、
    これは正しくありません。
    彼女は年間1万人の移民を受け入れるけれども、
    無制限な移民受け入れには反対すると表明しているのです。


    また、「ドイツのための選択肢」も反移民政党ではない。
    もともと彼らはユーロに反対し、マルクの復活を主張するエコノミスト色の
    強い政党でした。しかし多くの難民がドイツに流入して社会問題になる中、
    理性的な対応策を主張したところ、大衆ヒステリー的な批判に晒され、
    極右政党というレッテルを貼られてしまったわけです。

    現在、ドイツでは軍、教会、行政組織など、本来は保守的であった場所にま
    で移民が入り込み、拒絶できなくなっている。
    ドイツ人は「ドイツ語を話しドイツの文化を愛しドイツ人らしく生きる」と
    いう当たり前のことが言えなくなってきている。
    そんなことを言えば、途端に排外主義者扱いになってしまうわけです。


    かつて作家の三島由紀夫は、
    日本の行く末について、
    「からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、
    或る経済的大国が極東に残るのであろう」と述べました。
           1970(昭和45)年7月7日、『サンケイ新聞』(当時)夕刊
    この三島の表現を借りると、EUは単なるニュートラルな経済共同体になり、
    欧州としてのアイデンティティはなくなってしまうでしょう。
    そして最も「からっぽな経済大国」になろうとしているのがドイツです。


    むしろ移民問題にしっかりと対応しているのはポーランドやハンガリーなど
    東欧諸国です。こうした国々は冷戦時代にソ連の抑圧を受け、国内の民主化
    運動を蹂躙された経験があるからこそ、国家の独立や民主政治について明確
    な意識を持っています。

    難民問題について、最もはっきりとした主張を述べているのはハンガリーの
    オルバン首相です。彼は、自国の受け入れ対象はキリスト教徒の難民のみで
    あると述べており、これは至極当然の主張と言えます。

    現在、欧州ではイタリアのNGOなど、左翼勢力の手引で対岸の北アフリカか
    らの難民を受け入れており、難民条約を批准している国々も人道上の理由か
    ら難民を拒否できずにいるのです。

    EUはソ連崩壊やユーゴスラビア内戦の際、東欧諸国からの難民を受け入れ
    る態勢をとっていました。あくまでも同じ欧州地域からの難民が対象です。


    ところが、現在は民族や信仰がまったく違うイスラム圏の難民を受け入れて
    いることが問題です。経済難民を際限なく受け入れていては大変な事になり
    ます。国家の解体、そして日本の間接侵略に繋がります。日本にとっては、
    中国との関係を考えれば、非常に分かりやすいと思います。

    朝鮮半島と日本はそれほど離れていない。当然、難民問題にどう対処するか、
    という問題は危機管理の上で想定しなければいけません。


    そもそも私は国際難民条約について、根本から疑問を持っています。


    シリア難民問題はあくまでもシリア人の責任であり、無条件に外国から難民
    を受け入れれば国家は滅びます。普遍的人道主義に囚われて難民問題を論じ
    るべきではありません。

     そもそもが、命が発生する本現地『陰』の絶対界を排除する近代合理主義が、
    本質のない現象世界に軸足を置いて何を普遍的と謂えるのでしょうか?



    普遍的人道主義と云う言葉、アイデア事態に不信を持っています。



    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



    普遍的人道主義って?
    何をもって普遍的なの?
    人道主義って、地球上で人間が一番、上って言うこと?
    つまり、人間ファーストって言うことなの?


    人間よ、うぬぼれてはいけない。




    ★ーーーーーーー法律(紙)に書いた自由と平等の行き着く先は画一化




    『ほしいものが、ほしい』という自由と、
    個性があるものに魅力を感じると云う事は矛盾しますね。

    ある日の、某コンビニで、
    某プレミアム商品がずらりと並ぶのを前にした時、
    私は再びこの矛盾が心に突き刺さってきました。

    食品から生活用品まで全て、ロゴが印刷されたパッケージ、
    本当のメーカー名を隠してあるプレミアム商品と
    それ以外のメーカーが販売している商品を並べて陳列して、
    これ見よがしに、『さあ、どっちを選ぶ?』と訴求してくる商品群を見て、
    『これって、なにかいやらしくない?』 目を背けて通り過ぎる自分が居ました。
    私にとって買い物の原則とは、
    自分が見つけた心を揺さぶられるなにか発見して対価を払う事です。
    それなら、高いも安いもなく帰り道、心に喜びを抱いて帰れます。

    皆が欲しがるものをマーケッティングされて、
    さあ、これだろう? って押し付けられて、
    私たちは買い物をするロボットとして扱われていませんか?
    これって、平等? 選ぶ自由?
    私たちは画一的な人生を押し付けられているんだなあ、って
    もう、近代合理主義って、飽き飽きしませんか?


    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    西部先生の長良川河口堰への問題意識

    長良川河口堰が、これほどこじれた問題になった理由は、
     『長良川流域の人々の生命と財産を守る』という言葉だった。

    生命、財産、これらの言葉が持つ普遍的とも思える価値観を
    振りかざした説明が、権威的に受け取られてしまって合理主義的なロジック
    では人は説得できないと云う経験の記事をコピペします。

     
    ★西武先生が、「天下の印籠が見えないかという君の権力的な態度が、
    事業がこじれてた最大の理由ということが良く理解できたよ」
    と言って席を立たれてしまったのです。
    私の言葉によって、西部先生が長良川河口堰への
    不信感を持ってしまったのです。

    【上から目線】
    全ての著書を読むほど西部先生を尊敬していました。
    その西部先生に私は打ちのめされてしまったのです。
    「生命と財産を守る」という言葉には、誰も抵抗できません。
    この言葉を使うときは「誰にも文句は言わせないぞ」
    という権力そのものだったのです。
    「生命と財産を守る」は、水戸黄門の「印籠」だったのです。
    上から目線での説明を、西部先生は独特の言い回しで指摘したのです。
    私の説明は丁寧であっても、人々の心に届かない言葉だったのです。
    国の虎の威を借りた言葉だったのです。
    その後も、長良川河口堰の説明をする日が続きました。
    しかし、もう「人々の生命財産を守る」という印籠は出せなくなっていまし
    た。
    印籠を出すことは、人々を伏せさせることだと分ってしまったのです。
    西部先生に打ちのめされた次の日からも、長良川河口堰の説明をする日が続
    きました。
    印籠を封じて、長良川河口堰を説明する難しい日々となりました。
    やむを得ず、自分の価値観が出る言葉は封じました。
    価値ではなく客観的な事実で説明することにしました。
    客観的な事実とは、長良川の地形、気象そして災害の歴史でした。
    その事実だけで長良川河口堰事業を説明していきました。

    【下部構造の説明】
    それから2,3カ月後、作家の曽野綾子さんに説明することとなりました。
    やはり緊張して説明をさせていただきました。
    その別れ際のご挨拶の時に、曽野先生が「竹村さんの説明は分かりやすいで
    す」と言われました。
    夢にも思っていない言葉でした。私は曽野先生の前で、緊張して長良川の災
    害の歴史と地形と河口堰の機能を説明しただけでした。
    もちろん、あの印籠は出しませんでした。
    その帰路で気が付きました。
    私は日本の下部構造、つまり地形と気象を丁寧に説明すればよい。
    政治、社会、哲学、宗教、文学などの上部構造には触れない。
    自分が得意な地形と気象の下部構造を表現すれば良い、ということに気が付
    いたのです。
    土木屋の私の役目は、下部構造を説明することだと明確に意識しました。
    この意識化は、その後の私の人生の指針となりました。
    西部先生の言葉が、私の人生の姿勢を左右したのです。
    西部先生に打ちのめされた時、私は44歳でした。
    それ以降、私は立ち直る努力を続けてきました。
    ずいぶん長い時間がかかっています。
    72歳の今でも、まだ、それが続いているような気がします。★★

    ーーーーーーーーーーーーーコピペ終わり


    えらく長くなってしましたが、
    お読みいただけたでしょうか?

    私たちは、いつの間にか、近代合理主義ドームの中にいて
    それが、果てしない宇宙や自然の絶対界を排除した処であると
    気が付きもしないまま生きていませんか?
    そして、無邪気な子供のように疑う事もなく、
    人間が作り上げた言葉を、飾り立てたデコレ―ションを
    それが、さも、生命すらを貫く普遍的な真理であるがごとく受け入れて、
    いつの間にか、神仏へ捧げる命の如く信じていませんか?
    意識が作ったものは全て『偽』を孕み、
    ある時は、どんなに輝いて見えようとも、
    物は物、言葉は言葉だけのものです。
    いいですか、言葉は言葉でしかなく、
    生や死を解決してくれるものではありません。
    道具は道具でしかありません。
    たしかに、近代は、歴史的に見れば、
    過去、封建制度から解放する力はあったかもしれません。
    ある時は私たちを助けてくれる道具だった、かも知れません。
    道具は道具です。
    使い古した時代に合わない道具になってしまった。
    未来は、私たちの命のリズムを乱し蹂躙する道具になるかも知れません。


    我々は、物事を刹那的に考えると善悪を気にしがちですが、
    歴史の連続性を意識しさえすれば、
    物事に白黒つけることさえも無意味なことに感じます。



    長い記事を最後までお読みいただきまして
    深く感謝申し上げます。


    無意識からのプッシュは、今も止みません。
    それをどれだけ、記事にできたのか不安はありますが、

    今回の様な、記事の構成も良いかな、と思っています。




















    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

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    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
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    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から見る智恵   1    数霊   

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
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    早朝の鳥海山

    早朝の鳥海山



     

    新たな年が明けました。


    北の極みの地は北極で、
    南の極みの地は南極です。

    東洋の極みは、東洋の叡智の仏教が生まれたインドではなく、
    日本に漢字や儒教や仏教を伝達した中国では決してありません。


    東洋の極みは、インド、中国ではなく日本です。

    これは、地理的な事だけでなく、
    地理的な環境が醸成する独特な文明形成における
    そう、政治や軍事や 経済へ与える影響を含めて極みと謂えるものです。
    イギリスの歴史家アーノルド・J・トインビーは、
    中央アジアを大きく蛇行しながら東西の文明を結んだ
    中国と地中海世界の間の歴史的な交易路 、シルクロードのもたらした
    東西相互の文明の昇華は、
    その途中の地域に当たるシルクロード周辺の国々ではなく、その両極、
    西洋文明のエッセンスはフランスにあり
    東洋文明のエッセンスは日本にあると言いました。


    これを私見ですが、踏み込んだ言い方で言いますと、
    その途中の地域における東西文明の昇華は、
    その間のグラデーションでしかないと言えると思います。


    地政学的に巨視的に、複眼的に視て、
    東洋の極みは中国ではなく、韓国ではなく
    仏教の発祥の地、インドでもなく
    東洋の極みの大地は日本人の住むこの日本列島です。

    この事は、現代においてのこれらの国々のありよう、
    現在の政治や宗教、あらゆる状況を鑑みて、
    理屈ではなく、その現象面において多くの方が納得をされるのではないでしょうか。


    その日本列島の大地の上に、意識しなくとも
    その東洋の極みを受け継いで、我々日本人は生きています。




    2019年の初めての記事は、
    昨年までの近代合理主義の批判の記事ではなく、
    東洋的視座から見える世界観について、
    東洋学の智恵についてです。





    東洋的視座・陰陽相対の世界観から見る智恵 1. 数霊 




    数霊について、簡単に。


    数霊(すうれい)?
    数字とは違うの?

    近代合理主義下での教育で学んで来た数字と云うのは、
    算数や数学で順序やその集合体を表す記号でした。
    つまり、1,2,3という記号を用いて、ある大きさや量を知る為です。



    言霊(ことだま)の方は、御存知かも知れませんね。
    でも数霊と謂いますと、
    初めての方もいらっしゃるかも?

    言霊とは、
    言葉に宿ると信じられた霊的な力の事で、言魂とも言って、
    言葉が内包するものを現じる不思議な力の事です。

    それに倣って言えば、
    数霊と云うのは、1,2,3 の数字に宿る霊的な力とも言えるのですが、
    それよりも本質的な特徴を言えば、
    東洋における数霊と云うのは、
    その数字は必ずしも、その規則正しい順序や
    ある一定の集合体を表す記号ではなく、
    その集合体の種類や本質までをも意味したり、
    ある時は概念までをも包括した象徴であったり、
    その表す数の奥にある現象を起こす力を無意識から受容し、
    そのエネルギーそのものを発現する智慧なのです。



    数霊は、
    直感と洞察力でこの宇宙の森羅万象を解釈していきます。


    たとえば、
    東洋的視座・陰陽相対の世界観から見た場合、
    地球上のあらゆる森羅万象の生命活動は、
    『天』と『地』の間の空間を舞台としています。


    この概念は、紀元前372年? - 紀元前289年に活躍した
    中国戦国時代の儒学者である孟子の
    『公孫丑章句上』の一節、
    ーーー天時不如地利 地利不如人和ーーー
    (天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)
    の慣用句の省略形に由来します。




    『天』と『地』が具わって、その間に置かれた『人』で
    『天地人』の三才が揃うと謂います。

    この三才の三、3についてですが、
    天・地・人のそれぞれの生命活動が揃っていて、万物の生成を意味し、
    非常に吉兆な言葉です。
    この含意は、『天』の1から、『地』の2を生じ、
    『人』の3で万物を成すと謂う宇宙観の完成形を意味します。
    だから、3はめでたいのです。
    3(三)の数霊は、
    この世界を形成する要素をすべて言い表し、
    宇宙間に存在する万物を表しています。






    ここで、もう一つ、ついでですから、
    東洋の根本的な大事な事を確認しておきます。
    2は1から生じます。
    逆に言うと、1は2を生成するわけですが、
    その2は3を、万物へと生成をしていきます。
    そこまでは、先に説明しましたね。


    西洋的哲学の思考エリアはそこで終わりなのですが、
    東洋はそれだけでは終りではありません。


    万物である3は、元は1から始まったのです。
    3である万物は、元初は1だったのです。
    万物の生命活動は、元は一つのエネルギーだったのです。


    日本はキリスト教の一神教とは違う、と。
    多神教である。八百万の神である。
    と謂いますが、
    八百万の神、万物に宿っている神も、実は元はと謂えば、
    一つの根本の力から出て来ている化身、万物の神々なのです。


    宇宙を起動している力、
    仏教では、宇宙を法界(ほうかい)と謂います。
    仏の法の力が及ぶ世界の意でしょう。


    どんなに冗談でも、
    東洋では、
    どこかの神が、誰かさんが、この世を作ったんだなんて、
    創造をしたんだ、、、などとは言いませんわ。
    これって全然、合理的じゃない。 と思いません?
      ほほっ。




    この東の極みの列島、我が日本列島を西へ西へと行くと
    韓国、中国、インド、中央アジアへと続いて、
    そこをずっと越えて西へ西へと進むと大西洋へ出ます。

    その大西洋を越えるとアメリカ、
    つまり現代の地政学的な文明の西の極みはアメリカです。
    自由、民主主義の旗を掲げる近代合理主義の権化です。
    権化とは、仏になりそこないの位、
    ただ威張るだけの修行者です。
    ほほっ。

    同じような語彙で、権門(ごんもん)と云うのがあります。
    権威と名誉だけで、豪壮な邸宅に住む中身のない偽善者を
    褒め称えた(皮肉?)輩の事を指します。

    仏教って、痛烈!   ほほっ。



    近代合理主義は美辞麗句です。  ほほっ。
    アメリカは自由だとか、平等とか、美辞麗句がお好きです。
    それだからと云う訳ではないのでしょうけれど、
    中国語では美国と書いて、アメリカ合衆国の事です。

    ほほっ。

    たしかに、
    言葉と云うものは、
    その文字の形象と意味と音とが深い処で三位一体のようです。

    あっ、三位の三も、一つにまとまった意、
    元来は一体であるという含意です。


    シルクロードの東の起点が日本だった。
    現代の資本主義、民主主義の西の極みがアメリカなら
    東の起点は日本でしょう。
    日本は、シルクロード、現代文明のいずれも地政学的な東の極みです。

    現代、
    西洋の極みの地がアメリカで、
    東洋の極みの地が日本と言えるでしょう。


    アメリカが西洋の極みで、
    その旗印である近代合理主義が美辞麗句でしかないなら
    日本は東洋の極みの本地を生かして
    美辞麗句のからっぽの中身を込める役割をして行くべきですね。

    それはどう云う事かと言いますと、
    自然を改変し支配しようとする意識中心の西洋の考え方では
    今のアメリカはどこかで必ず行き詰ってしまうはずです。
    もうすでにそうなのでしょうが、
    これから先、必ず日本のパワーを必要とする時が来ます。
    日本の見えないパワーです。
    『陰』の世界は見えない。
    本質は、目では見えません。
    真実は、感覚では捉えられません。
    東洋の、
    あらゆる命を生出する元々の自然には従う。というパワー、考え方です。
    万物のあらゆる現象は、
    元は一つのエネルギーから生じているというパワー、考え方です。

    そして、宇宙は単なる「物質」ではなく、生出するエネルギー体、
    その宇宙の法則には従うと云う生き方です。
    それが我々の命、八百万の神に従う事になります。
    一言で表現するならば自然の「あるがまま」を受け容れると云う事です。

    そうすれば、自然災害の被害も少なくなっていくのではないでしょうか。


    すでにインドや中国が失ってしまった東洋の極みの力を
    アメリカは、日本の存在の中に再認識するはずです。




    そして、その時、日本は、西洋の言う美辞麗句だけではない、
    中身を携えていなければなりません。

    西洋を追いかけて、
    その美辞麗句にうつつを抜かしている場合じゃないわ。

    ほほっ。



    昨年までの2018年において、

    ― つくづく、近代合理主義は邪教であると思えてきました。 





    思えるとは思念、これは意識のする働き、機能ですから、
    私の意識が、こう捉えるられるようになったのには、
    私の意識の奥底の無意識から浮き上がって来つつあったものを
    私の意識が、こう捉えるようになったと云う事なのでしょう。


    数年前から
    無意識の蓋が開いて、蠢(うごめ)きがあったのです。
    それは、のどに痞(つか)える「大きな塊」のようなものでした。
    その「大きな塊」は、
    私の意識の思念のゾーンに突然表れて、
    それを言葉にすると、

    そうか、、、近代合理主義は、邪教なんだ、、、、、

    と云う受容が起こったのです。

    もう、近代合理主義の相貌をシカと見定めた訳ですから、
    もう、どんなメッセージが来ても驚きはしないのですが、
    不思議な事に、その瞬間、
    近代合理主義は、邪教なんだ、、、と云う感慨自体には、
    何の形も臭いも具体的なものは何もないものなのに、
    つまり、見る聞き臭う触って知覚的に捉えられないのに
    私の体は吐き気を覚えました。


    そう、

    意識が受容した事で、体がこんなに反応するとは?
    まったく、心と身は一体なのでした!    

    ほほっ。

    まさに、その通りなのです。
    我々の心と身は一体そのもの、不可分のまま、、、

    近代合理主義の西洋哲学が基盤にするキリスト教理の
    (精神と肉体は別々であるという)2原論などではない
    我々の精神と肉体は一体でした。

    東洋における色心不二(しきしんふに)論の通りでした。


    今年は、近代合理主義の枷が外れてしまい、
    私の意識が自由になったようなので、
    かってのように運命学の記事を度々?
    アップできればいいと願っています。



    最後まで、お読みいただき感謝申し上げます。


















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    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から見る智恵   2    時の本質

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    早朝の山道







    一年が経つのは、あっと云う間です。
    月が過ぎて、日が経ち、新たな年、令和2年です。


    カレンダーでは1年の始まりは、1月1日ですが、

    東洋の暦においては、
    新年というのは、カレンダーの1月1日からではありませんのよ。



    今、一般化しているカレンダーというものは、
    明治の近代化以降、明治六年(1873)に西洋からやって来た太陽暦です。


    東洋運命学の暦は、
    カレンダーのように月や日を示す用向きばかりではありません。





    今日の記事は、

    東洋的視座・陰陽相対の世界観から見る智恵  2 時の本質



    昨年、
    平成から令和の御世へ元号が変わり、
    天皇の御世、元号が注目されました。
    一連の新天皇即位の慶祝行事、大嘗祭をご覧になって、
    近代合理主義の現代に慣れた目には、
    新鮮などこかに響く深い驚きの感慨に浸られた事でしょう。

    衣装や儀式のように目で見えるもの、だけではなく、
    その奥に潜むもの、
    この世に現世を形作らせている、その奥にある世界
    そこに潜む我々の東洋の自然観、世界観を感じていただけましたか?



    そこは、意識できない『陰』の世界への浅瀬、
    意識へヒタヒタと寄せ来る無意識からの波打ち際、
    西洋と東洋の自然観、世界観を分つ、東洋の無意識層への入り口です。



    本来の東洋の暦とカレンダーの違いが一番分かりやすい例が、
    冒頭で申し上げた
    近代化以降、明治六年(1873)に、西洋からやって来た太陽暦である
    カレンダーでは1年の始まりは、1月1日ですが、

    東洋の暦においては、
    新年というのは、カレンダーの1月1日からではありませんのよ。



    どうしてか?
    東洋運命学の暦は、
    1番目の月の1番目の日が、
    その年の始まりだと設定するカレンダーとは違うのです。


    東洋は、表示した順番じゃなくて、その中身なのです。
    東洋の叡智が、「時」の中身を見据えているからこそ、
    「時」に人格があるように名前を付けるのです。





    「時」に名前を付ける。これこそが東洋の世界観の特徴です。-----★




    まず、天皇の御世の名前、元号、

    元号とは、
    日本を含むアジア東部における紀年法の一種です。

    紀年法
    特定の年代に称号をつける。
    「時」という 意識で捉えられない存在に称号をつける。

    かっては李朝鮮も、そうだったし、
    シナは清王朝辺りまでそう、しかしすでに廃れて、
    現在では、日本だけに残っている紀年法のようです。

    今になっては日本だけに残っている伝統というのは、
    東洋の「時」の捉え方の残滓が、
    ここ日本に限って存在をしていると云う事です。

    これは、日本の特殊性です。
    考えてみれば島国の日本という地政学的な立ち位置が、
    異民族からの侵略を防いできたからでしょう。
    日本は、それだけ特異な奇特な国土なのです。



    「時」の捉え方に西洋と東洋の世界観が顕れるーーーーーーーーーーーー★




    東洋の運命学の暦は、
    現在のカレンダーのように
    単なる月や日にちの巡りを順序数で表す実用性だけでなく、
    宇宙における太陽の巡りや位置からの影響に左右されて我々の運命があると云うテーマが前提です。
    その年、月、日の刻々の「時」に、
    その運命の詳細が内包、網羅されている象徴と観ます。

    もっとわかりやすく言いますと、
    東洋には、我々人間、いや全ての存在は宇宙と元々は一体である。
    と云う世界観が前提にあるのだと思います。


    なぜ、西洋のように「時」を単なる過ぎ去っていく時として
    順序的な時として平板に一律に扱わないのかと云いますと、


    地球上の全ての自然界における在りようは、
    そのすべての生命の与奪の力は、
    地球上における生命の全ては、
    太陽エネルギーに負っており、かかっており、
    太陽の黄道上の位置によって享ける我々一人一人への影響こそが、
    我々一人一人の運命を左右するものであると云う見識からです。



    この見識が、古代中国において、
    ほぼ4000年前に成立していたと云う事は、驚くべき事です。




    現代では、太陽の位置、巡りを正確に知ることは、
    宇宙を物として見做す現代科学の下で、
    天文、気象、等の科学的データーでたやすい事なのですが、
    その昔、何千年も昔、
    東洋の我々の先祖の先達たちは、
    すでに自力で観測をしていたと言う事、
    そのことの方が、
    何もできない21世紀の我々にして驚きです。





    そもそも我が国の暦は、『日本書紀』に、
    欽明天皇14年(553年)に百済に対し暦博士の来朝を要請したとあり、
    わが国には、6世紀には伝来していたと考えられます。


    朝廷や幕府に、歴史学者と天文学者を兼ねた史官という役人がいて、
    日食、月食の予報や惑星の運行の推算(天体暦)などを行っていました。


    それらの過去の記録を「歴」と謂い、
    現在から未来に関する記録を「暦」と謂ったのです。

    つまり、現在から未来に関する記録が暦、
    つまり、暦は未来を扱うものだったのです。

    当然ですが、一番身近な命の糧である自然のありよう、
    農業の種蒔き時期から自然災害の予知、
    当然ですが、それらから予言的な性格をもち、
    星や太陽の位置から占う占術へと大きく関わり、
    それらを暦注と呼びました。

    歴史的に有名なのは、
    天皇から我が国の暦を任されていた土御門家です。

    土御門有修(つちみかど ありなが) が、詔によって、
    天文・暦術(陰陽・おんみょう)の両博士を兼ねることとなり、
    同家の子孫が天変地異あるごとに
    朝廷、幕府に警告する業を伝えて来ました。
    これが、安倍晴明が出た土御門家です。
    同家の子孫は、明治維新で華族に列し子爵を授けられています。


    東洋運命学の暦は、それを引き継いでいます。



    翻って、近代合理主義のドームの中で生きている我々は、
    科学技術の発達によって宇宙の果てから持ち帰った石や、
    遠く果てしない宇宙の写真などを日常的に見聞きし、
    太陽の黒点や電磁波の情報を、知りえる環境にいます。
    が、?
    それと我が身がどう云う関係にあるのか
    近代合理主義下、キリスト教理の世界観の中で
    考えたこともないのではないでしょうか?

    それはそれ、 

    私の今の運命と、宇宙のどこが関係あるの?   あはは。




    こう云う思考の底流には、
    知らず知らずのうちに西洋の無意識が侵入しているって!

    そして、いつの間にか、我々は東洋的無意識層を失っていく!



    全ての根本は一つと謂う東洋と引き比べれば、
    西洋の特徴は、あらゆるものを分割します。
    その原理はキリスト教理の二元論にあり、
    この世のあらゆる存在を真っ二つに切り分けます。
    そもそもが、神と人間は別物、
    神は創造主ですが、人間を含む他は神が創った物です。
    永遠に、クリスチャンはいくら信仰をしようが神にはなれない。

    神とは隔絶した世界に住んでいるのが人間です。


    (キリスト教理の)西洋の世界観の中では、
    完全無欠な存在は神だけなのです。
    神以外の存在は不完全な「物」
    神が創造をした「物」でしかないのです。
    つまり、神以外の存在は、対象「物」でしかなく、
    神が支配する物としての存在でしかありません。


    西洋では「時」に名前を付けるよりも、「時」は数えるもの。
    誰にでも、等質で均質な「時」が流れていく。
    時の流れそれ自体に意味はなく、
    物理的な捉え方で繰り返しを順序数のように数える。

    つまり、西洋文明とは、=キリスト教理
    「時」自体に、意味を持たせなかった世界観でした。





    これらは、一神教の世界です。




    実は、ヨーロッパにも多神教がありました。

    一神教のキリスト教に滅ぼされたヘレニズム文明です。
    この多神教のヘレニズム文明が、
    ユダヤ教に始まる一神教に滅ぼされてからは、
    現代に至る西洋哲学は、一神教の世界観です。


    そこから来ている。


    この一神教の西洋の神には、
    神にのみ意味があっても、
    見えない「時」に、意味なぞは必要がなかったのです。

    必要がある、ない、というよりも、
    見えない「時」そのものに意味や意義を見いだせなかった。



    理由は、
    一神教の神以外、すべての存在は、神の従僕なのですから、
    従僕の一つ一つ、時なぞに、名などあるとは、
    まさか、意味などがあるとは思いもつかなかったはずです。

    西洋哲学の世界観では、
    時に名など付ける必要もなかったのです。


    ほんとうですか?
    それなら、
    どこででも同じ均質な「時」の概念を科学から与えられて、
    それを信じ込んで、我々は、今生きていて満足なのでしょうか?


    一神教の神が創ったというありようではなく、
    大宇宙から生まれた私たちだから、
    いつのまにか一番大事な事を打ち捨てていませんか?




    一年はいつから始まるのか?
    運命学の暦では、
    令和2年の元旦は?
    2月4日の18時 3分 の瞬間で新年になります。

    もしか、この一分前、2月4日の18時2分 生まれなら、
    それは去年(己亥)の生まれになります。


    この何時何分という正確な数字は、
    現代では天文台、気象台でのデーターによっています。

    この日から我々の運命は、
    今年(庚子)の運命のリズムの中に入ります。


    節分を迎える2月の頃、1年のこの辺りから、
    来るべき来年の運は、どんなものか、波が寄せ来るように感じられます。
    ヒタヒタ、、、と

    この新たな年の「時」の到来というものは、
    スパッと、今切り替わった!と分かるものではなく、
    巡りくる季節感のように分かって来るものです。
    ほら、まだ冬なのにどこか春の到来を感じる気配ってあるでしょう?
    あれです。


    昨年の運勢が徐々にエネルギーを失い消えて行く代わりに、
    今までにない新たなエネルギーの蠢きが、
    あなたの意識の奥、無意識から湧いているのを感じられるはずです。

    すべての感情を伏せて、静かに自分の意識の奥を感じてみてください。


    そして、


    そして、毎日の日々が、
    生まれて初めての日々なのです。



    西洋のカレンダーでは、
    毎年、一年の繰り返しは同じようでも、
    東洋の暦では、
    決して同じ「時」は二度と巡って来る事はなく、
    そして、その上、
    たとえ同時刻に地球上に存在する我々においても
    我々は一人一人が生まれて来た「時」もさまざまです。
    その固有の「時」の影響を享ける限りにおいて、
    厳密にいえば、一人一人が迎える今と云う「時」の意味も
    それぞれ一人一人で違ってくると言う事なのです。


    東洋は、あらゆるもの一つ一つが、もともと一体です。
    宇宙と我々、仏と我々、宇宙の全てのものは根本は一つのものです。
    一体であるという思想は仏教以前からありました。
    言う事は単純ですが、そのありようは、それぞれが複雑で複合し合い、
    精緻に結ばれている世界です。
    そして、その世界は美しい。      あは!


    ★★なんどでもいいましょう!



    我々の命は、すなわち「時」は、
    宇宙の運行と、太陽の位置と一体である。
    切り離していい関係ではない。
    と言う事から、
    太陽も、毎日同じ太陽ではないのですよっ!

    「時」を単なる過ぎていく 西洋の time としてではなく、
    日付を、単なる順序として扱うだけでなく、
    東洋は、このように細やかに、厳密に扱っています。








    時は、一律に過ぎ去って行くだけ順序数ではないのです。




    私には、深い物理学の知識も、見識もありませんけれど、
    東洋的知見を辿っていけば見えてくるものがあります。

    本来、東洋においては、
    時は、今風に言えば質量を持ったエネルギーそのものです。





    その東洋の叡智で観える本質を大雑把に捨てて、
    いや、その前に知りもしないで、
    「時」を、単なる順序数、
    Time というものの集合、
    誰人にとってもの均一性、
    測定可能という等質の繰り返し、
    このように押し広げた西洋の「時」の常識は、
    一応、これが、科学の常識と云うものなのでしょうが、
    それだけでいいものだろうか、、、と、
    東洋学、特に運命学をやっている身としましては、
    自然を無視をした近代合理主義の乱暴過ぎる、粗雑なやり方に、
    もう、いい加減に飽き飽きしているところです。    ほほっ。







    自分は、いつも均一、同質、同傾向ではありません。
    年齢(=時=太陽との位置=宇宙の運行との関係)で変化をするものです。
    宇宙が刻々と進化をし変化をしているように止まる事なく
    変化をしているのが自分です。


    今日のあなたは今日だけ、
    明日はあたらしいあなたになるのですよっ。

    良かったことも、
    ダメだと思ったことも、
    すべてそこだけ、その時だけです。
    自分の意識が捉えたものは常にすぐに古くなります。
    次の新たな瞬間を迎え入れる用意が要ります。
    私たちの命は、
    そう云った意味での自由さを常に湛えていなければならない。
    そうしないと、
    瞬間瞬間の可能性を潰してしまうのが勿体ない気がします。


    死ぬ「時」まで瞬間、瞬間、生まれ変わってくださいね。

    運命を開くとはそういう意味ですよっ。
    ボヤっとしないでくださいね。      あはは。





    長い記事を最後までお読みいただき、感謝申し上げます。
    また、長くない内に次の記事でお会いできますように!

















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    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から見る智恵   3   不二 ( ふに )

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    ピンクのマンタが撮影される、世界でおそらく唯一

    ピンクのマンタ by kristian laine

    (PHOTOGRAPH BY KRISTIAN LAINE)
    > NATIONAL GEOGRAPHIC
    ナショナルジオグラフィック日本版





    みなさま、ご無事でおすごしでしょうか?

    はや、10月。
    目まぐるしく移り変わる地球の気象環境から、
    ウイルスに影響された我々の生活環境まで
    今年は、我々の手では負えない事ばかりが起こったように思います。


    年初より、いつのまにか気が付けば、
    武漢から始まったコロナウイルスが、世界中に猛威をふるって、
    未だに収まらず、
    ワクチンも特効薬も、依然我々の元には届かない中、
    コロナの魔法に巻き込まれたかのように、
    今までと違った時空に迷い込んで、
    我々は、今までの日常を否定されて、さ迷っています。


    このウイルスが、
    「海鮮市場・コウモリ発生物語」から生まれたウイルスであれ、
    あるいは、生物兵器として作られた人工ウイルスであれ、
    いずれにしても、
    ウイルス自体は自然を自然たらしめている力に出自をもち、
    それは同時に、我々の命、あらゆる生物の命と同根なのです。
    つまり、
    我々とウイルスの命の根は同じ、同根なのです。

    同根という事は、
    我々とウイルスの命は、まったく別物のようで一つと謂う事です。

    えっ! あら、いやだわ。
    そんなことアリエナイ、 とかおしゃらないで!     ほほっ。


    真面目なおはなしなんですから、


    この、あらゆる存在の根は一つ、全ては帰一する。

    むずかしいでしょうか?


    さあ、今日のテーマは、


    東洋的視座・陰陽相対の世界観から見る智恵 3  不二 ( ふに )


    はて? ふに?  ふふっ。


    これが東洋の世界観、
    東洋的視座・陰陽相対の世界観から見る世界観です。

    この、”元は一つ” と行った処で、
    目に見える景色ではありませんよっ。   ほほっ。


    『陰』『陽』における、『陰』の世界は、
    我々の顕在意識ではとらえられない世界、無意識界です。
    しかし、厳として「ある」世界です。

    これが、東洋の世界観です。



    これに引き比べ、
    西洋の世界観は、これに真っ向逆だから、
    現代文明を生み出した近代合理主義には、この世界観が分かりません。

    どういうことかと謂うと、
    西洋の現代文明に続くキリスト教理における世界観は、
    あらゆるものは、キリスト教の神が造作した「物」です。
    だから、
    わが心だ! Love だ! 愛だ! と
    見えない精神性を持ち上げるように見えるキリスト教ですが、
    その世界観を母体として生まれた思想は、
    資本主義にしろ共産主義にしろ、物質主義、唯物思想です。
    お互いの関連性なくバラバラに存在する「物」でしかない。
    しかも、
    二元論においてあらゆるものは対立します。


    いわゆる反対語と言われるこれら、

    神と悪魔
    善と悪
    愛と憎しみ
    男と女
    などなど

    あら、待って!
    キリスト教はそうかもしれないけど、
    現代の科学文明は、それよりも進んでいるんじゃなくって?

    という声が聞こえてきそうですね!?      ほほっ。


    残念でした!!!

    現代の我々が、その恩恵に浴する科学文明は、
    17Cの科学革命を経ても、この古い世界観を背負ったままなのです。
    それは、そのまま、
    今の地球上に栄える近代合理主義の欠点になります。



    えっ、欠点って? 
    これについて簡単に説明をしますと、
    これは過去ブログで何度も記事にしてきた事ですが、
    科学のできた出発点、そこからのお話になります。

    現代の科学の発端は、
    中世のキリスト教理に覆われた
    17C のヨーロッパ、
    今に連なる科学の先駆者たちが、
    大航海時代に発達した羅針盤、望遠鏡などの機器による観測から
    神の真理(天動説)を否定した処からです。

    天動説=神が作ったこの世界(地球)が中心のはず、
          だから、太陽が地球を回っているんだ。


    地動説=いや、違う!地球が太陽の周りを周っているんだよ!



    地動説への「コペルニクス的転回」

    この、パラダイムシフト
    地球が宇宙の中心であるという聖書の記述のウソを見抜き、
    神が創った世界が宇宙の中心ではない、と否定したのです。


    それまで神の真理であった天動説から
    人間が機器を使った観測で発見した地動説への転換は、
    端的に言うと、
    神の説く真理は実際は間違って信用できないから、
    中世ヨーロッパの一大哲学であり、
    その世界観の中心である神、キリストを神坐から脇にどけて、
    信用できるのは、人間の意識、認識に拠った実証実験しかない、として
    真理を追究する根本に
    神の説(聖書)よりも、人間の意識を中心に置く事になったわけです。


    人間の意識の探求よる真理こそが正しい! と

    それが、今、隆盛する科学のスタート地点であり、
    人間の意識が実証できないものの存在を認めないという
    近代合理主義という思想が生まれた依処なのです。

    (ここでも、近代合理主義は、2つのエラーをしています。)
     1つ目は、人間の意識を中心に置くこと。
     2つ目は、それによって無意識界を否定しています。



    たしかに、キリスト教理のおとぎ話のような天動説を否定し、
    人間の意識中心の合理(地動説)へパラダイム転換をした処迄は、
    聖書に書かれたキリスト教の神の真理よりも、
    当時の勃興してきた科学者たちの方が正しかった!!!

    しかし、、、 言いにくい事を言わせてもらえれば、

    現代科学も、近代合理主義も、
    神の真理の天動説を否定しただけで、
    そもそものキリスト教理の世界観は、そのまま
    何の疑問も何の検証もせずに、引き継いで仕舞っている事です。


    つまり、今なお、科学が対峙する全ての存在は、
    神の造作された「モノ」であり、
    その存在における二元論の対立は、科学的に検証もされず、
    これはそのまま科学の世界観として引きずっています。


    17Cのヨーロッパにおいて、
    このこと自体は、致し方ないでしょう。
    道具、羅針盤や望遠鏡で確かめられる事じゃないし、
    まずもって、これは、
    東洋を知らない西洋の科学者では克服することは不可能だった
    と言っておきましょう。




    今、ここから眺めてみるに、
    もう当たり前と思って受け入れている近代合理主義という思想の母体は、
    キリスト教理であり、現代の科学文明からもたらされる知識も、
    キリスト教理の風土から生まれたもの、由来のものでしかないのです。


    それは、どういった事かと謂うと、

    ここで、問題なのは、

    そういった科学革命に端を発した合理主義が
    今や、実証実験の科学の世界だけに留まらずに、
    科学者たちだけでなく、科学者でもない我々の身近に
    科学文明として、生活の真理、経済戦争の利権として、迫り来ています。
    それなくして生きられない。
    ただ便利なものとしてでなく、
    自分を助ける道具をこれしか持っていない。
    これがなければ生きていけない。
    今に続く私たちの命や生活、世界観にまで浸食し染め上げています。






    これで、問題ありませんか?
    これは、みなさまへの問題提起ですからね、、、 あはは。
    よく、お考えになってくださいね。

    厳密にいえば、自分はキリスト教徒ではないのに、
    いつの間にか、
    キリストの説く聖書の世界で生きさせられているのですよっ。

    OK?

    まぁ、そのおかげで物質文明を享受させていただいているから、
    どうでもいいよ。

    とか、いろいろあるでしょうが、、、


    しかし、それでなくても、この近代以降の思想的ちぐはぐさは、
    おもしろいと思われませんか?


    西洋も、自らの世界観を科学的に検証する事もなく鵜呑みにし、
    東洋も、まるで足元は東洋で、頭が西洋で、とか?
    そう、和足洋頭の化け物みたいで、  あはは。



    恐らくですが、
    近代合理主義のいい加減さを知らずに享受している現代の我々より
    平安時代の中国からの文物を受け入れた人々、
    江戸時代の鎖国を解いて明治維新、
    西洋の文物を取り入れ学ぼうとした我々の祖先たち、
    当時の日本の先駆者達は、
    足と頭がチグハグな化け物にならないように、
    この事を、弁えていたのではないかと思います。


    まず、平安中期の「和魂漢才」 という思想。
    わこんかんさい/ やまとだましいからざえ

    御存知ですか?
    中国渡来の漢文や書籍、東洋的思想の知識(漢才)を取り入れる時に
    日本社会の常識に通じる人柄(和魂)が重要であるとする思想です。




    明治維新の「和魂洋才」という言葉を御存知ですね?

    平安以来の「和魂漢才」を踏んで、
    森鴎外は、
    西洋の技術や制度、学問を取り入れるのなら、
    自らの国の日本文化の神髄をそれに融合する事を説いたのです。



    このように、日本民族の先祖たちは、過去の日本人たちは、
    外国の文物を取り入れる時に、
    大和魂、やまとだましい、日本人の精神的支柱を外さぬように、
    きちんと自分の国柄を守って来た訳です。

    誰のために?
    自分に続く、日本の子孫のために、私たちの為でしょう。


    今、愚かにも、
    グローバリズムだから、いいんじゃない?   あはは。

    表面的な自由主義経済の余波を受けて、
    言葉の本当の意味も分からずに、語感だけが躍っているようですが、
    世界に国際人なんて民族はいないし、
    国際人を国民に持つ国家なんて、ありません!
    グローバリズムを国を挙げて本気な国家ってありませんよっ。
    これらは、国境がない方が自由に金儲けができる国際金融資本家が
    言い出したものと思えば間違いないでしょう。


    いずれにせよ、
    現代の日本人の我々は、
    全ての存在に命を認め、自然を育んできた先祖の眠る国土に居ながら
    自分の意識の対象を「モノ」と捉えて簡略化し、
    その思考は、二元論の範疇を越えられないのです。


    二元論とは、こういうものです。


    愛 憎
    生 死
    善 悪
    戦争 平和


    子供のころから、生の反対は? 死。
    正解!
    この対立を、絶対の答えであるかのように思い込まされていますね!?

    戦争と平和の対立は、どれくらいのディスタンス?
    永遠に、絶対に戦争と平和が、離れていて正反対なら、
    そりゃ、絶対に戦争がある処に平和は訪れませんわ!    

      ほほっ。





    最後になりましたが、
    今日の記事のテーマである東洋の叡智、不二について

    二而不二 (二 にして二 ならず)

    簡単に言うと、二のようであるが、二でない。  
    つまり、一つである。


    この思想は、インド哲学、仏教に限って議論されたもので、
    仏教において、『不二』の法門という思想があります。

    現象的には相容れない二者が、
    本質的には同一であるとする普遍的な真実在・実相が具える特性として
    仏典等に説かれています。
    具体的には、
    中国、唐の時代の妙楽大師は、仏教の中でも法華経の教説を、
    十の不二の法門として整理しています。

    次の例えは分かり易いと思いますよっ。
    愛と憎は二つの対立するものではなくて、その本質は同一である。と

    生と死も同様、

    善と悪も同様、

    戦争と平和も、そうです。

    そうかーと領解するまでには、多少の修業が要るかもしれませんが?


    あはは。



    我々の意識が捉えられる顕在意識の世界を『陽』の現象界と謂い、
    顕在意識の世界で2つに分かれて見える現象も、

    『陰』の世界では、それが不二、一つで同一なんだという事です。
    『陰』の世界は、我々の意識では捉えられない潜在意識(無意識)の
    世界であり、本質、実相の世界なのです。


    科学は、
    本質が幾つにも分かれて見える顕在意識の世界=『陽』の現象界を
    対象にしている活動になるというのは、

    お分かりですね?

    近代合理主義もそうです。
    厳密に言えば、科学にも近代合理主義にも、
    真理を見極める力量はありませんのよ。        ほほっ。


    えっ、じゃぁ、あれはなに?
    あはは。 人間の意識が決めた法則。




    しつこいようですが、
    最後に確認いたします。
    近代合理主義は、もともとキリスト教理の世界観のままですから、
    西洋の土壌に根を持つ西洋(欧米)の人々にすれば、
    一つの思想の根から伸び尽くした姿として、
    それはそれで、それなりに筋は通っています。

    それなりにですよっ。     あはは。

    西洋にすれば、自らが招いたこの現実ですが、

    日本人である我々は、
    良きにつけ、悪しきにつけ、
    席巻する近代合理主義に基づいた文明に巻き込まれている、、、 
    東洋の民は、借り物のキリスト教理の地図上でさ迷っている、、、

    この地図では、決して行きたいところへはいけないと思います。


    このように、
    この現代は、東洋も西洋もニセのダミー世界観を抱いて、
    その両者が、それぞれの立場で、
    そろそろ限界になってきていると云う証拠でしょう。



    そして、この問題を考えるに、
    西洋よりも、東洋の方が罪が深い。
    具体的には、唯一の東洋の地になってしまった日本、

    それは、東洋的思想がそのまま温存されている地が、他に無い、
    と云う事です。
    例えば、中共はキリスト教を母体に産まれた共産主義の国であり、
    北を含む半島国家は、同じく赤化しつつあります。
    仏教発祥の国であるインドは、ヒンズーの国であり、
    他もイスラム化した国々が多くなっています。
    そういう意味で、東洋思想の片りんを温存させている日本において、
    日本人の罪が多少とも大きいと申し上げておきましょう。
    あるいは、使命があるとも言えるかと思います。
    なぜなら、足先を東洋に少しだけ突っ込んで、あとは全身が西洋みたい?
    だなんて頭が思い込んでる和足洋頭のバケモノだから。

      あはは。


    これは、現代の我々日本人の問題、課題なんだと思います。
    日本人が抱える諸問題、その根は、ここなんでしょうね!?


    大きい処で、少子化、経済力の低下、
    反日、売日、 etc.   




    さあ、これで終わります。

    今回も、10ヶ月分の長さ? の記事を最後まで
    お読みいただきまして、ありがとうございました。

    みなさま、お体を大事に、日々お暮しくださいね。
    では、又、次回、なるべく早々に記事を更新いたしたく思います。




















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    ★『陽』の偽性  東洋的世界観へ時代は大きく揺れ動いています。

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
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    谷川岳天神峠から
    群馬の武尊山・ほたかやま(一番奥に見える青い山々)を望む。 


    谷川岳天神峠から武尊山を望む


    早春なのに風に吹かれて寒かったロープウェイの終点、
    天神平から、さらに上へ、ペアリフトで昇ると、
    そこが、天神峠。

    天神峠は、
    天神平より標高が高いにもかかわらず、
    風もなく、陽光あふれる展望台では、
    写真の寒そうに見える景色とは違って、
    立っているだけで汗ばんできて、上着を脱ぐくらい。
    下界の塵芥(ちりあくた)に汚されていない、
    宇宙から届いた静かな太陽エネルギーに満ちていました。





        💎       💎        💎



    そう、下界は、COVID-19ウイルスだらけで汚されて、
       、、、、  あはは。




    2021年も、はや半年が過ぎ、、、7月の半ば、
    その間、いつもそうなのですが、
    無意識からの湧き上がるインスピレーションが、次々とあって、
    それらをまとめる間もなく、溢れるままにしておくと、
    いつか、それがパンクしそうになって、
    文字にしたい衝動になるのを待っている訳ですが、
    そうこうしている内に、半年ぶり!  



    我々は、去年から今年、大変な時期に遭遇していますね。
    どうなってるんでしょう?     

    ほほっ。

    パンデミック?
    あら、簡単に、そんな額縁のような言葉で飾らないで!
    そんな言葉で、パンデミックだなんて英語で!
    す ー っと、 安心できますか?

    あはは。


    成長するには、建前論で済まさないように、
    無意識と合体できて本当の安息が得られるまで、
    自分の意識を眠らせることです。

    ウソを捨てましょう!


    本質を見ようとしない、本質を知る力量もない意識が、
    知識をひけらかすように、いかにも我がもの顔をして、
    今の地球上の現実を、
    『パンデミック』 という額縁に入れた言葉で飾って、
    さも、本質論を論じているかのように偽装する。

    『パンデミック』だから、どうだっていうの?
    『パンデミック』をどうしたいの?

    どうするのか解決策も方法論もないまま、
    智恵のないウソで偽装した言葉で、 
    毎日、毎日、時間をやり過ごしながら並べ立てて、
    それは、(その場)だけの話し手の自己満足感のようで、
    納得ができないのです。

    毎日、毎日、それを聞かされて、耳にした処で、
    我々にとっては、その時だけの気休めの言葉でしかない。


    今のマスコミ、報道、政治、全てがだる~い ですね。



    何故かというと、
    我々が住む、近代合理主義の世界観の中には、
    パンデミックという知識はあっても、
    その説明の言葉を並べることができても、その本質はないのです。
    問題を解決する智恵もない。
    智恵がないことを隠しながら、
    いかに饒舌に語っても、
    その中に、現実を転換する方向性が見いだせない。
    その事を、痛いほど感じる毎日です。

    いつから、こうなったのか?



    知識はあれど、智恵がない、、、


    その証拠に、いくら言葉を尽くしても、
    現実は一向に良くならないじゃない。


    もし、仮に、
    我々が使っている言葉が本質を射抜き、
    真実を孕んでいれば、
    その言葉自体が、現実を変換する力があるものです。

    それを、東洋では、言霊(ことだま)と謂います。



    我々は、知らず知らずのうちに、
    キリスト教理の世界観を踏襲する近代合理主義の世界観に、
    どっぷり浸かり、言霊のない空虚な言葉ばかりを並べて、
    その場しのぎをしています。
    今、言葉から、生きる躍動感を伴った言霊が抜けていっています。




    もっと具体的に言えば、


    前回の記事で、
    科学文明を押し開いた近代合理主義の世界観は、
    そのまま、キリスト教理の世界観を
    引き継いでいると申しあげました。


    近代合理主義の世界観の中の知識や言葉は、ごまんと生まれ、
    科学の進歩?と言われるコマゴマの現象をつないで、
    その部分的知識が次々作り出されていっている事が、
    さも、我々が賢くなったように勘違いをしています。


    されど、所詮、近代合理主義の限界は、
    本質の存在する『陰』の無意識界を否定し、
    現象を生み出す本体、『陰』の存在を削除している限り、
    目の前に、その醜さが、暴露されているばかりです。




    人間の意識を最高の拠り所にする近代合理主義の世界観の中では、
    その言葉が、全体観から離れて全体知を失い、
    本質からかけ離れて行かざるを得ないという事です。


    それは、すなわち『偽』です。



    部分における知をいくら探求したとしても、
    それが全体知を見失い、全体知を欠いたものならば、
    部分知をいくら積み上げようと、それらはすべて『偽』です。

    近代合理主義は、『偽』の塊です。

    こうして近代合理主義で、科学がいくら進もうとも、
    どこに進んでいるのか、
    仮に、 進んでいるとしても、
    近代合理主義などに時代の問題を根本的に解決する力はない。
    と言っておきましょう。


    つまり、こういう事です。


    知識はあれど、という事は、

    生物について、人体や細胞、様々な生理現象等について、
    あらゆる研究がなされ、遺伝子組み換え技術が巧みになって、
    科学がすべてを解明したとしても、
    それは人間の意識のしわざ、
    ウソの寄せ集めです。


    智恵がない、、、という事は、

    科学は、一つの生命を誕生させることすらできないという事です。




    前回の記事で、
    不二(ふに)という仏教の智恵の法門について書きましたが、


    東洋は、自他不二(じたふに)の思想です。

    自とは、 自分、 人間、 主体、など、

    他とは、 他者、 自然、 客体、など、


    今の世相において、

    自とは、そのまま自分、人間、

    他とは、蔓延するコロナ、COVID-19のウイルスとします。



    西洋的には、

    悪いのは、COVID-19のウイルス。
    変異するCOVID-19のウイルスが悪玉だ。    
    どんどん強いワクチンを打たなきゃだめだ。
    ワクチンは2回じゃなくて、3回目の接種をしよう。
          と、こうなるのですね!       あはは。
    この馬鹿の一つ覚え、この段取りの追求なら、
    ウイルスは、それに応じてどんどん強くなっていくのですよ。
    どちらが勝ちますか?
    ウイルスだって負けていないでしょう。
    必死ですよ!      
    ウイルスとワクチンの戦いの果て、
    体力ある人が段々と摩滅して行き、
    体力のない抵抗力のない人が死ぬだけです。


    東洋的には、

    それは、違うでしょう?
    悪いのは、根本的には人間でしょう?
    その人間に応じて、相応のウイルスが出現しただけでしょう。
    そもそも、人工ウイルスを作ったのは人間ではないですか?
    そう、ウイルスを人間界に近づけたのも人間です。
    それをバラまいたのも、人間の憎悪でしょう。
    自分の不幸や不都合を、ウイルスごときに押し付けて、
    すべてを扱う主体は、あくまでも人間という事から逃げないように、
    最後にウイルスに打ち勝つ力も、それぞれの持つ自然抵抗力です。

    さあ、どちらが本質論でしょうか?       ほほっ。


    これって、限界が来ているって事なのですよ。
    なにの?
    それ、だれも言及しないわよね?



    それは、自分が一番何でも知っていると
    知識ではだれにも引けを取らないと、
    部分知を全体まで押し広げて、さも真理であるように、
    自信があるんだと云うふりをしないと生きていけないからですよ。

    つまり、ウソ。

    意識の作る世界は、ウソだらけ。

    ウソそのものです。


    ニヒリストになれと言っている訳ではありません。
    真のリアリストになれと!    

    ほほっ。

    なぜなら、『陽』は現象化の世界、現象は本質ではありませんから、
    移り変わる変化の相、
    その移り変わる変化相をいくら追っかけても、真実は見えません。



    今、まさに、文明の転換期、    


    (おおげさな?)     あはは。

    何もかも、
    過去を打ち崩して木っ端みじんにするような壮大な崩壊の音が、
    聞こえませんか?






    今、我々の居る 『陽』の世界、この世の現象界の、その奥、
    この世のあらゆる現象を引き起こす『陰』の世界のダイナミズムを、
    どうか知ろうとしてください。


    最後になって、なにのことやらわからない?      ほほっ。
    じゃ、わかりやすく言いますね。

    ざっくばらんに、乱暴に、、、    ほっ。
     

    つまりはこういうことですよ!

    現文明の崩壊の波動が、聞こえませんか?


    今までの地球上の我々をリードしてくれていたかのように?見えた
    西洋文明が力を失いつつあり、
    あらゆる局面で、その限界点を露呈しつつ崩壊していっている、、、
    そして、
    このアジア発祥の東洋文明のサイクルへと変わりつつある。



    その景色が見えませんか?


    三つの景色が眼前にあります。

    一つは、
    西洋文明の偏った傲慢さが隠蔽していた嘘が露見している醜さ。
    二つは、
    西洋文明の中での崩壊を食い止めようとする西洋の価値の混乱、
    そして、同時に、
    徐々に見え始めた西洋文明から東洋文明への転換への亀裂です。


      詳しくは、次の記事で、書けたらと願っています。



    最後まで、お読みいただきましてありがとうございました。

    どうか、ウソや方便を用いることなく、
    コロナに、あなたの力で、打ち勝ってください!


    大きなものが滅びる時、時代の根底からのウソが噴出してきます。
    それは、大きなものが我が身を守る為、ウソをつくのです。
    火事場や修羅場では、
    だれもが、自分の名誉を守る余裕がありませんから、
    ウソに騙されないようにあそばせ!


















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    ★ 文明の成住壊空  運命学の【十二運】で説明してみましょう!

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
      天神平からの谷川岳
      天神平からの谷川岳


    時代は大きく揺れ動いています。



    文明の転換!  
    東西両文明にとって華のない時が続いています、、、


    前回の記事で、次のようなテーマを書きました。

    今までの地球上の我々をリードしてくれていた
    西洋文明が力を失いつつあり、
    このアジア発祥の東洋文明のサイクルへと変わりつつあります。



    覚えていて下さったかしら?

    でも、この文明の転換って、
    来年や再来年の事ではないのですから、
    慌てる事はないのですよっ。
    何百年単位のことですから。     あはは。

    えっ、これから何百年も先の話なの? 

    いいえ! そこまではかからないでしょう?
    あと、10~30年後の話かな


    具体的に謂えば、
    明治維新以降、日本が西洋の文物を取り入れて、
    昭和20年の敗戦後、今に続く日本が歩んできたテイタラクの道、
    これには個々の原因が議論されていますが、

    この大きな原因は、西洋文明の勃興期と、
    東洋文明が衰退期に入っているというリズムがあるからです。
    私たちの意識の範疇で窺い知れる事ではなく、
    自然界の無意識が掌るものであり、
    私たちの力で何とかなるものではない。
    そういう目に見えない世界を無視をしてきた科学に、
    分かるものではないのです。
    科学はあくまでも人間の意識の範疇の研究でしょう?
    理解しようとするのが無理というものです。
    もちろん、
    このリズムの中で、希望を持って努力はしなければいけませんが、
    どう逆らっても無理というものです。



    この世界には、人智が及ばない摂理もある、
    そう思って謙虚に自然に臨めば、分かってくるものがあります。
    古代の人たちは、そう畏敬の念を以って
    この世界のありのままを受け入れたはずです。

    そうすれば、無意識界『陰』からの真性が智恵となって
    古代の人々の体内へ流入して行ったはずです。


    科学の目というのは、ある意味、偏見かも知れませんね。 ほっ。


    歴史で見れば、今から丁度、7, 800年前、
    西洋が、中世をルネッサンス、大航海時代へと華々しく抜け出し、
    つづいてヨーロッパ列強のアジア植民地化、
    英国を発した産業革命、現代に続く工業文明を成し遂げている間に

    日本やアジアは、何をしていたかというと、
    中国は、西洋列強にアヘン戦争等で浸食され、
    他のアジア諸国は、植民地となり、
    日本は戦国時代、続いて徳川の封建時代をやっていたわけです。


    この頃の地球全体を見た場合、
    どっちが地球文明を牽引していたのか、一目瞭然でしょう?

    ほほっ。


    そのリズムが、今も続いている。 ーーーーーーーーーーーーーー


    先ほど、
    日本を含む東洋が勃興し、西洋が没落するのは、
    あと、10~30年後の話かな~と申し上げましたのには、


    目下の現況をご覧になって!
    東洋の相手方である西洋文明は、
    どこを見ても頂点がすでにもう粗方過ぎ去ってる様子です。
    これを押して、これ以上、勃興する時が来るとは思えないからです。

    西洋文明の今って、盛大なお祭りをやってたはずが、
    なんだか疲れちゃって、の雰囲気ですよね。

    ですから、今の状況は、
    西洋文明の終わりかけ、日没の残照です。
    東洋文明が新たな勃興に向かっている。日の出の前の暗闇。



    今日のテーマは、

    ★ 文明の成住壊空   運命学の【十二運】で説明してみましょう!



    文明が成住壊空 (じょう・じゅう・え・くう)する。

    はて、なんのことやら? ですね、   あはは。

    『成住壊空』 とは、
    仏典の長阿含経巻21などに説かれている四種類の劫(こう)の事。

    この世界の流転の有様を、四期に建て分けた説。

    ある一つの世界が(成)立したら、
    人が(住)み流転し、
    いつか、その世界は、それ自体の破(壊)を経る事で、
    現象としては何も無い(空)の状態になっていくものだ。
    そうしている内に、また次の世界が(成)立する事で、
    この世の現象界は、成住壊空を尽きることなく繰り返す。



    ここまで聞いても、今の西洋文明に慣れた我々の頭は、
    劫(こう)って、あ、時の事でしょう? と。
      あはは。     
    それは間違いなのですよ!!!    


    (劫)は、もちろん!
    時の概念も含みますが、
    一番大事な事は、全て一体である有情たち(人、動植物)
    そこを包摂する時空間を含みます。

    どのような国が、そこにどのような衆生(人々)が、
    どのような時を形成をしていくのか? という意味合いです。


    東洋における言葉の意味は、広く、且つ深い!



    成(じょう) このように世界を形成していく期間、様をいいます。
     ↓
    住(じゅう) その世界が安定している期間、さまをいいます。
     ↓
    壊(え)   衆生→国の順に壊れていく期間、様をいいます。
     ↓
    空(くう)  人が破れ国が破れて空となる期間、様をいいます。




    そして、次がまったく東洋的な智恵だと思っているのですが、

    この空劫が過ぎれば、また成劫が始まり、
    この四劫が循環して繰り返されるというのです。



    → 西洋哲学は、
    始まり~~~~~終わり The End . 
    そう、映画の終わりと同じです。
    人は、死んで天国に行って、終わり!     あはは。  
      
    → つまり、西洋は変化し流転する現象世界に囚われ、
    言ってみれば、目で見えるだけのエリアが世界です。

    だから、目で見えない部分は想像をして絵に描く!  あはは。

    → 西洋は天国で ” 上がり!” のようです。
    でも誰もが天国へは行けないのですよ。
    最後の審判に受からないと、無理みたいです。

    それが、
    東洋には、(空)の続きがあって、The End じゃないのです!
    全ては、< 尽きることなく > 循環するというものです。


    東洋の世界観は、壮大です。



    東洋は、現象だけに囚われることなく、
    現象世界の奥、現象化を促す壮大な世界の存在を堪能する。


    難しい?  あはは。

    そうそう、仏法の難しいお話は、ここまでで置いて、
    これをもっとかみ砕いた卑近な例で説明しましょう。


    東洋運命学の鑑定をする際にも使う(十二運)というものです。


    これ卑近じゃないかな?        あはは。

    でも、仏教の説く地球上の壮大な流転する変化ではなくて、
    人の一生の変化に例えた運命を観る物差しです。


    以下、

    全ての存在するモノ事は、
    これら十二の範疇の運命を循環しているというものです。
    考え方は、東洋独特のものです。

    それぞれ(自動)(他動)という意味を思い合せてご覧になって


    1.長生、ちょうせい =(自動性)成長をする時期

    2.沐浴、もくよく =( 〃 )身を清めて努力

    3.冠帯、かんたい =( 〃 )成人して社会へ出ていく

    4.建禄 けんろく =( 〃 )財産や地位を築く

    5.帝王 ていおう =自動性の頂点

    6.衰 すい =自動性から他動性への移行期

    7.病 びょう =(他動性)他者へ従い追従する

    8.死 し =自動、他動性 を失い ・ 意識活動が失せる。

    9.墓 ぼ =意識界(この世)では遺骨としての存在

    10.絶 ぜつ =無意識界

    11.胎 たい =無意識界から意識界へ出生

    12.養 よう =(他動性)親に養育される



    この(十二運)の循環が、
    長生、ちょうせい という(自動性)の発露から始まるというのが、
    いかにも東洋らしいポイントですね!

    → 西洋的学問なら、人の一生なら生まれ出る(胎)から始まり、
    成長をする時期をメインにして、(死)を最後にして、
    (墓)と(絶)はカテゴリに入れないんじゃないかと思ったり、、、 




    以上の東洋的な思考の原点である、
    東洋文明が発露するところの古典的な言葉
    『成住壊空』という仏教の言葉と、
    東洋運命学の(十二運)、2点、取り上げましたが、
    これらが、今から遡る事、3,4000年も前に、
    当時の民衆、人々の間で培われていたという事、
    驚くと同時に、現代のレベルはどうなのかと考えてしまいます。


    今、現在、これから、私たちは、
    これ以上の思想概念を生み出すことができるのか? と
    ある意味、どうしようもない無力感を感じてしまいます!



    という事から、
    現在の西洋文明の置かれている地点を鑑定するに、
    『常住壊空』 の住から壊への兆し、
    (十二運)の(衰)から(病)への兆し、 ではないかと。

    人間で謂うと、若さが失せ、老い衰え病へ向かった状態です。


    つまり、本質があっても、それを実行する自動性が弱まり、
    本質以外の他動からの力で、乱れて蛇行をする。


    他動からの力って、なによっ?



    その兆候は、そこかしこに見え隠れしているというよりも、
    もう、最近は何の遠慮もなく、世界中を跋扈しているわね。


    たとえば、今年の8月、
    オリンピックの後、こんな事がーーーーーーーーーーーーーーーーーー


    オリンピックの直後の、さる経済報道で、
    その際の日本社会について

    大経済イベントが終わったことで、楽観論が広がりつつあります。

    と論評しているのがありました。  

    あ、あれは、やっぱり、スポーツイベントじゃなくて、
    大経済イベントと認識するので良かったのね、って、
    どっちつかずのオリンピックの印象が、
    了解! と、
    妙に腑に落ちて納得した事が、ありました。    あはは。


    最近こういうの、多くないですか?

    今までは、お体裁で囲って隠していたものが、
    剝き出しになってしまってても、平気で!
    何を今更、ドギマギする必要はないんだと、
    欲が裸のまま、メインストリートを闊歩している、、、
    そう、
    社会全体が、道義心も羞恥心も何もなくても平気みたい、
    顔を赤らめることもなく、
    物事の中心に経済、お金儲けがドカッと鎮座ましまして、
    他の見えない価値を睥睨している、、、
    欲望を叶える経済こそが、えらいのさって、 あはは。

    そういう構図が大手を振ってる、当たり前みたいね。


    これって、マネー主義っていうのね!


    昔、神が住んでいた場所に、悪魔が棲みついてる!


    そもそも、オリンピックだって、
    それが発祥したギリシアでは
    単なるスポーツイベントではなく、神事だったのよ。

    古代ギリシャでは、シャーマニズム的な要素が多かった

    しかし、私たちの世代が知っているオリンピックは、
    もうすでに、世界平和のイベント、スポーツの祭典でした。

    そういうものを知らぬ間に全て切り捨て、
    無意識に葬ってきたのですから、
    そして、最後に残ったのは、
    あらゆる全てのモノを色褪せたものにする
    まさか、オリンピックは利権、
    スポーツと選手は利権の道具。
    過っては、
    そういうニュアンスを皮相的に話の一節で使う事もあっても、
    今の様にこんなに何の臆面もなく、正々堂々と言い放つなんて、
    しかも、報道で。
    ジャーナリズム、おまえもか、って      あはは。


    ほら! これが、金融至上主義。


    この気づきがあるなしはどうあれ、
    我々は、経済、利益追求の座標軸の中で生きているんだなって。
    今日から自覚をしなきゃ!

    他のどんな目的や、意義があったって、
    それらが、たとえ正義、善と謂われるものでも、
    経済とその利権の道具として支配され、
    そのことを、世知辛いとか、はしたないとか、
    そういう感性はもう、とっくの昔に
    大きな歯車の軋みで微塵に切り刻まれて、どこにもないのですよっ。

    おっと、もう完璧!
    我々の社会は侵略されてる。
    できあがってしまってる。

    もう、ここでは、我々は、主体ではない。
    支配者の利権と経済性の、その為のセットとしての存在でしかなく、
    いや、もうその存在だってわかんないわ
    早く死ね! って、チリのように軽い? 部分ね。

    何百年か、を掛けて、
    姿を見せない強欲な支配階層は、
    すでに全てを仕切っているようですよ。


    我々が手にしているものは、
    自らが望んだものではなく、
    この世の悪魔から宛がわれたものだって、事、
    知っていました?

    地球温暖化だって、そう

    表向きは美辞麗句を並べて、

    もう、こういう西洋には、
    なにかを自分の意志で成し遂げる力量、
    理念や思想の本質を実現する力、
    それらは、無くなっているのではないかと鑑定済です。


    年と共に、中身のなさは暴露されて
    これからの時代は、
    慈善家の行う国際的な行事は、廃れていくのではないでしょうか。
    あらゆるイベントに込める中身をすでに人類は失っています。


    これを、東洋の陰陽学では、こう謂います。



    『陽』極まれり


    『陽』とは現象界の偽性です。


    それでも心ある西洋の人々は、
    必死に西洋文明の中での崩壊を食い止める混乱の中に在ります。




    これが、西洋文明の完了形

    あと数十年、日本の出番です。
    さあ、みなさん、準備をして、
    近代合理主義の垢を落として、準備をしましょう。





    最後まで長い記事をお読みいただきまして
    ありがとうございました。


    今年もあと少し、
    コロナに負けずに、よき御歳をお迎えください。





    最後にシュタイナーの言葉を、


    「理解するために努力してください。物事を見抜いてください。」

    「物事を見る意志を発達させ、
    人間がどのように操作されるかを見て、
    人々が操作される衝動がどこにあるのかを見る。
    これは、真実の感覚を求めて努力することと同じです」

    「真実の感覚を持っているのは、
    問題の真実を見つけようと絶え間なく努力している人たち、
    真実を追求することを決してやめない人たち、
    そして、真実でないことを言っていたとしても、
    それに対し自分自身に責任を負う人たちです。」













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    【今は歴史的転換期】  さぁ、西洋が壊れ始めましたよ! 大丈夫です??

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
    甘利山からのぞむ富士山

    甘利山から



    今年は、西洋暦では2022年ですが、

    ≪東洋の暦≫では、壬寅(みずのえ・の・とら)年です。

    えっ? みずのえのとら?
    ?!  と、怪訝に思われる方も多いでしょうね。 あはは。


    じつは、今回の記事は、当初、
    このように≪東洋の暦≫について書き始めて、、、と思っていました。



    なぜ、≪暦≫なのか


    まず、
    西洋と東洋とは、数千年間の時を過去にさかのぼると、
    その根源において
    「時」、「宇宙を含む世界観」、神と仏との人間の関係、
    あらゆる文物の捉え方は違います。


    西洋の世界観をそのまま受け継ぐ近代合理主義が、
    地球を席巻している現代においても、です。



    その東洋と西洋の違いを,
    私たちの生活レベルにおいて、一番!明示的に顕しているのが、
    普段、私たちが使っている西洋のカレンダーではないかと?
    思うからです。

    普段、私たちが使っている西洋のカレンダーにおいて、
    日々、月々、年々は、つまりは「時」は、
    順序数であり、時の集合でしかありません。


    この概念、平板で、
    つまらないと、思いませんか?

    これだけ宇宙の存在が、秩序を以て働いているというのに!

    西洋の、そのDNAをそのまま受け継ぐ近代は、
    なんてうすぺっらな、といつも飽き飽きしています。

    あはは。



    それに引き比べ、

    ≪東洋の暦≫で扱う「時」は、
    年にしろ日にしろ時にしろ、
    単なる時の順序を表現したものではない、エネルギーそのもの、です。



    今年がどういう時に当たっているのか?
    ある月のエネルギーは?
    ある日のエネルギーは?
    そこから、その先にみえる2022年のエネルギーを鑑定できます。

    それで、今回、ほんの少し、≪東洋の暦≫を掘り下げることで、


    私たちを支配している西洋由来のカレンダーの欠点、
    それは、つまり、
     --- 西洋の皮相的な物事のとらえ方、狭さ、限界を
    腑に落ちていただけるのではないかと思ったからです。


    ≪東洋の暦≫の観方は?
    という大問題もあるわけですが、

    それについては、徐々に、   ほほっ。


    まずは、大まかにいきますね。


    ≪東洋の暦≫での新年の開始は、
    西洋式カレンダーの1月1日ではありません。

    この事は、過去の記事に幾度か書きましたが、


    ≪東洋の暦≫での2022年における新年の開始は、
    我々が使っている西洋式カレンダーの2月4日午前5時51分から。


    えっ! この細かさ!
    驚かれませんか?     ほほほっ。




    ≪東洋の暦≫における、この時、分、これらは
    正確な太陽の位置を天文台の情報を根拠にし、
    驚くなかれ! 鑑定用に使う萬年暦として、
    何十年先までの暦があります。




    こういう、
    1月1日を、どう決めごとにするかという処からも、
    日ごろ、東洋的思考を中心にしている私が、
    キリスト教理の二元論を母体とした西洋由来の
    現代の近代合理主義をながめるのに、

    バカバカしくって。 

    なぜなら、これは過去の記事で何回も書いてきたことですが、
    科学は人間の意識を神座に据えて(真理)を捜すシステムらしい


    科学、現代の科学文明の根っこは、
    あくまでも人間が意識できる領域に根差し、
    意識界に限って、意識が気が付いた事象を(真理)とし、
    それで、すべての(真理)を網羅しようとするもので、
    すればするほど、その偽性(うそ)の上塗りになっているのに
    その主体である意識が、そもそも気が付いていない。




    時が経てば、新説が発見されて、真理じゃなくなって、
    バカバカしくって。
    意識が気が付いた事が(真理)だなんて  

    等と、思っている訳です。      あはは。


    それに引き比べ、東洋の深遠さを想像するに、

    東洋の文明の根っこは無意識界に淵源を求め、
    部分である意識の見識とは比べ物にならない全体である無意識界、
    そこからは、意識界の偽(にせもの)が洗いざらい見えています。



    その偽物が崩れていくのが、戦争です。
    そもそもが、人類は戦争の歴史です。


    それで、西洋は意識次第でクルクル変わって大雑把で、
    全てに頼りにならないので、
    まさに今年は、大変な年になるはずだというところから、
    今回のブログの記事を書こう、と思っていた矢先、


    まさに、≪東洋の暦≫で、
    壬寅年(2022)に入ってから20日後、2022年、2月、24日、
    今年らしい激動が、事象が、起こりました。


    ■■■■■■■■■■■■■■■■■

    2022年 2月 24日に、
    ロシアが、ウクライナ全土への侵攻を開始。

    ■■■■■■■■■■■■■■■■■


    まったく、
    事後に、記事を書く羽目になって、しまったな、と。


    あはは。



    2022年、2月、24日、を≪東洋の暦≫で正確に表記すると、

    年は 壬寅(みずのえのとら)、

    月は 壬寅 (みずのえのとら)、
    日は 戊申 (つちのえのさる)、 となります。

    詳細をいえば、壬寅が年と月に重なり、
    寅と申との関係は、冲(ちゅう)という関係になります。
    など、
    鑑定するべきものはありますが、ここでは割愛します。


    要は、2022年という今年は、どういう年かと言いますと、
    2022という数字が、そもそもが良くないのですが、

    あらゆる転換、破壊、変化が起こるという兆しを顕しています。


    物も、心も、心身ともが壊れる、
    戦争、自然災害、既存の価値観の崩壊とも言えます。



    そう! そう、もっとリアルな表現をすれば、

    今年は、台湾有事があるかもしれない、
    北朝鮮の継続的なミサイル発射でアメリカの空母が、
    常に変わらぬ中東不安、そしてウクライナ危機と、
    地政学的リスクが勃発する、

    世界は歴史的転換点を迎えているのでしょう。
    常識や経験則が通じないゾーンに突入、

    私たちの生活も、ウクライナ危機による円安を背景に、
    国内の物価上昇、インフレに。

    2022年は、後世の歴史に残る年になるでしょう。



    そう、今年は、
    意識が造り上げた偽性の山積みになった近代が崩れる。

    近代合理主義の常識が崩れていくでしょう。

    見た目イイかっこし~の近代がズッコケる!
    東洋ひいきの私にすれば、
    なんておもしろい!と、内心思いながらも、も、
    なんとおそろしい!  年なんだ! と、     

     あはは。

    その幸先になる年だと。

    それが2022年!
    2022年こそ、歴史に残る年になるはずです。


    という事で、今回の記事は、
    完全に後手に回った感に浸っています。



    ここで、”幸先” と書きました。

    近代が崩れて、近代がズッコケる! のは、
    近代の合理主義の恩恵にあずかっている人には不幸ですが、
    その不幸の先、その先は
    不幸の兆しでは、無いという事です。


    今までの常識は通用しない。

    本質からズレた常識というものが通用しない。



    近代合理主義というものは、
    五感が今すぐ納得する、皮相的な合理に流されて
    特に教育において、本質から離れた知識偏重、
    お金になるからと言って、
    本質よりもハウツーを学ぶことに堕ちていますね。

    あらゆることがそう、 時間の無駄よっ。


    お金も、ハウツーも、目先だけ、耳目だけ、
    本質を違えた競争に前のめりになって行くだけ、
    それほど人間を変えるパワーはないものなのですよっ。


    それが、変わったつもりになって、騙し合う、
    意識の得意技ね。


    その限界が、戦争なのですよっ。


    いい加減、意識界だけを泳ぐのは止めてみたら?

    ほほっ。



    私たちのあらゆる生命を生じ、育むもの、
    その宇宙は無意識界の最たるもの、
    意識の届かないもの、
    真理は無意識界にこそあって、
    見たり、聞いたり、臭ったり、触れないでしょう?



    明日からは、

    昨日、我が身を飾った固定観念や常識が破られていきます。

    この難局を乗り切るのに、さあ、どうしようと
    試されていると、そして、自らの力で切り開いてください。


    この東洋の地に生を受けて、
    キリスト教理の二元論の中で生きるのは止めにしたいものです。






    善い悪いは、人間の意識が決めていただけのものなの?
    意識が未だ知らない大調和、
    大調和そのものの大自然の法則が、
    新しい秩序を繰り出していく壮大なリズムが動き出す。


    その破壊と創造は紙一重です。


    歴史的転換点に生きていることを自覚しながら、
    より本質へ、破壊を創造へ変えながら、
    未来に向かっていきましょう。






    最後まで、長い記事をお読みいただきまして、
    感謝申し上げます。

    次回の記事は、
    東洋と西洋の世界観について、
    書ければいいな、と思っています。 おたのしみに!


















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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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