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11/08 21:13 |
自分のゆがみに気づく事が、浄化の第一歩ですCategory : 不幸の原因
![]() 『新古今和歌集』の三夕から---+"*☆★ 今日は、ドビュッシーの 月の光 (5分 6) を どうぞ! (西行法師) 心なき身にも哀れは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ (藤原定家) 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ (寂蓮) 寂しさはその色としもなかりけり 槇立つ山の 秋の夕暮れ 日本人ですね~ 身体中のDNAが疼きます。 (笑い) 新古今和歌集の " 秋の夕暮れ " と、 ドビッシーの月の光のコラボ、いかがですか? 心に染み入る秋の月光、ピアノの音色、秋清しですね・・・ このところ入ってくるスケジュールに圧迫されていまして、 綱渡りのような日々を送っています。 " 入るもの拒まず、 " で、これも何かの縁、と 頼まれたものは全て受け止めてやっていますが、、、 やっぱり頼られたら断れないですよね~ (笑い) これが、弱みです。 あはは~ じつは、10年近く、運命鑑定でご相談に来てくださっている方がいます。 Aさんとします。 みなさんが、それぞれ長いお付き合いなので、 特別とも思えないのですが、 遠方の為に、一度もお会いしたことがなく、すべてお電話でした。 あっと云う間の10年間に、 小学生だった息子さんがもう、大学生~。 姉である娘さんは、無事、医学部へ入って、 4年後はもう女医さんですって。 本当にいろいろあって、 その時々に話したことが走馬灯のように、記憶のなかで巡ります。 一人の人の話を聴き、共に考え、間違いない方途を指し示す事は、 運命学に基づけば、そんなに難しいことではないのですが、 実に不思議なご縁! みんな、身内以上に何でも知っている間柄になるものです。 先々月、そのAさんから急に、 『 先生、運命学を教えてくれますか?』 と電話が入りました。 " いいわよ! でも、どうやって東北から此方へ通うの?” と訊けば、 『 息子が4月から東京の大学に入ったので、 一週間位なら泊まって先生の所へ伺えます。』 とのこと。 Aさんも運命学を勉強する余裕が出てきたのだと、ほっとした次第です。 じゃぁ、頑張ろう! という事になり、 それから彼女の上京の折にほぼ毎日?お互いに時間をやりくりして、 Aさんとの運命学の集中講座が始まりました。 今月で2ヶ月目、Aさんに手ごたえはあったようです。 Aさん 『 自分の事がもっと、解かるようになりたいです。 後は主人の命式ね。 教えていただいて自分に欠けているものがよ~く解かったので、 主人を責めてもねぇ~と気づきました。 お互い、私だけが被害者ではないかもしれない。』 私 " お~、よくぞ分ってくれました! そこよ。 それが運命学の醍醐味なのよ! 他人に言われればイヤな事も、自分で気が付ければ、 得したみたいでしょう?" Aさん 『 ええ!』 自分の悩みのすべての原因は、自分の中にあるという事が分って、 はじめて本当の自立が始まると思っています。 自立というものを、 観念的に、理屈で頭から知ったところで何にもなりません。 言葉の遊戯に終ります。 言葉だけの議論はむなしいです。 自分を解ると云う事は、誰にとっても難産です。 しかし、こうして自分を解かってからの方が、 自立の本当の意味を理解しやすいのです。 これから、Aさんは、益々、運命学の佳境に入っていくでしょうね。 子育ても終って、運命学への挑戦、 どう成長されるのか頑張りましょう。 信じるに足る物差しで、自分を冷静に客観的に観て、 自分のゆがみに気づく事、それそのものが、 人生のあらゆる良いことも、悪い事も、 この自分の中から出ていると云う事を受け入れられるようになり、 同時に、すべてが感謝と喜びに変わります。 それが、まず、浄化の第一歩です。 自然と人が、 人と人が、 自分と自分が、 もっと深く、関っていくことができますように。 スマトラの地震、竜巻、 あらゆる天地が、どうか納まりますように。 インフルエンザが、鎮まりますように。 秋の夕暮れ、 月に向かって静かに祈りました。 --------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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11/10 20:37 |
知識が豊富だけでは、何にもなりません。Category : 大自然と科学
![]() 科学は、部分観の智です---+"*☆★ 夕暮れ時の波の音 (33秒) をどうぞ! 知識が豊富だと云う事は、どれだけのものでしょう? 科学的だと云う事は、どれほどのもの? 私たちは科学という造形の城を、幾度も作り、作るたびに、 ” これが最高の城だ!” って、眺めて来ましたね! 何度驚いたり、びっくりしたりしたことかしら? それを積み重ねては壊し、古い知識を放りぱなしにして、 今は、もうその残骸と情報のスクラップのなかで生きているようです。 科学的な言葉は、それを使う時に、注意しないといけません! 科学的をよそおった言葉は、 ある一地点の、ある分析を、書いた一枚のメモでしかありません。 あるときが、数十年かも知れないし、 数百年かも知れないが、 無窮の時からみれば、 偽になる言葉だって含まれると云う事です。 だから、ある事がらには対応できる知識でも、 別の事には応用がきかないケースが、 自然界には、いっぱいあります。 どんなにテクニックを労しても、徒労ですね。 それは、部分観にしか過ぎないからです。 ” 部分智 ” です。 部分で全体を推し測ることなど、それは、無理です。 元初からの自然界そのものが、全体です。 人間は、そこから生まれたもの、 そのほんの一部なのですから・・・ 科学の知識は、 そのもっと、ほんの小さな部分だからです。 科学の力は自然界全体の数パーセントも解明してないかもしれません。 たぶん、そうでしょう。 だから、科学や知識はすぐ限界を露呈してしまいます。 自然は何もしなくても、 そのままありのままで、広大無辺です。 時空に亘って、際限なく限りがないのです。 完全であります。 自然は人間にとって偉大な師匠です。 自然は、血がめぐり熱を発する体そのもの。 科学は、次ぎの新たなメモが書かれると、偽になります。 もともと、それだけのもの、 人間の分かる範囲の中のものだからです。 科学が無駄、無能だという意味ではありません。 ただ、科学の出発や目的が、 すべて人間の善意からであっても、 結果は、どう利用されるかわかりません。 そして、人間の立位置を知って謙虚でなければ、 それは自らを滅ぼす暴力になるということです。 破壊や衰え、 滅亡につながる行為になるという恐れをもたなければ、 いけないと思います。 ----------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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11/16 22:20 |
家庭 4/4 どうして母親(妻)は、家族から遊離して、自分だけの世界に閉じこもってしまうか?Category : いのちの継承
![]() 先週の那須高原の紅葉のようすです。 今は、もうきっと紅葉でいっぱいでしょう・・・ 11月の末には、すべての葉が散ってしまいます・・・・ ☆秋は大地が感動しているようで、とても優しくなれます(*^.^*) 今日は、ジョンレノンのウーマン (3分36) を どうぞ! 前の記事のつづきです。Wのおはなし。 家庭にいながら、 結婚の形を利用して、心は夫からも、家族からも 遊離をしているW・彼女のお話です。 どうして、母親・妻であるWは、夫を受け入れず、家庭から遊離して、 自分だけの世界に閉じこもってしまうのでしょうか? 子供は、自分の分身として、認めていますから、 単純な理由は、結婚相手に不満があったということになりますね。 なぜでしょうか? 封建時代の結婚のように親が決めたわけでもないでしょうし、 Wは、子供の頃から自由に、自主性を重んじられて育ったはずです。 そして、年頃には、もう親の言う事も聞かない娘になっていたはずです。 だから、当然、自分の結婚も自分で決めたはずです。 しかし、その結果が、結婚してしまえば不本意な結婚になってしまった。 そういうことなのでしょうね。 きっと。 なぜでしょうか? 自分で決めるということが、イコール幸せだったはずなのに、、、 自分が決めた相手なのに、大切な我が子の父親なのに、 その男性を自分のかけがえのない相手として受け入れる事が出来ず、 彼との同一化の形成ができなかったということになります。 世間に見せている外見はともかく、内面的には失敗かな? ここで、大人としてのきびしい言い方をすれば、 「お互いを選んだのは、自分たちでしょう?」 「そういう結婚しかできなかったのは、あなたたちの責任じゃない?」 と 思わず言いたくなるのですが、 生まれながらのお姫様で育ったこの世代には、こういう問いかけは無理 かも知れませんね。 自然な競争にさらされずに、強い母権に守られて、人工的な過保護が、 あたりまえで、育ってしまって、責任転嫁をする事があたりまえかな? 甘やかされて育てられたWには、むずかしいかも知れません。 驚くかもしれませんが、子供の頃から自分の行動について何もダメだしを されたことがないのです。 ホラ、よく教育者が言うでしょう。『 子供は認めてやらないといけない。』 (そうなんだ~ 子供は、叱る前に認めないといけないんだ~) 寛大な大人たちが、子供を認め始めたのです。 道徳の基軸の失われた社会において、”認める”とは、何になるの? すべてが、駄々っ子と化す可能性を秘めています。 道徳がホコリほども残っていない家庭の中で、自分の母親が、父親を軽 んじる風景を眺めてきたWには、解かる訳がないのです。 つまり祖父母の代からの生き様や、その奥にある日常的な選択としての 癖がWの根っこにあって、言い換えれば、生活のさまざまな折々の、その 時どうした?という道徳的な価値判断がWに受け継がれているのです。 夫婦の形態は、まさに千差万別です。中身も千差万別です。そして、 それぞれの家庭の事情もあります。だから、自分たち夫婦が、同一化の 形成に失敗したからといって、大げさに悩む必要はないのですが、 今からが大事です。そして、まず、いろんな苦の原因を誰のせいでもない 自分に於いて生きていくことです。それが最低の道徳です。 日本の伝統的な道徳を失い、何もないという私達の世代で大切な事は、 西洋文明の上澄みをファッションのようにいくら纏っても、クリスチャンで はないわけで、それは所詮、根無し草、キリスト教文明の丸抱えの恩恵 にはあたりません。その間隙に、Wが増えてくると言う素地があります。 幸せになれないと諦めたWが、女の本来の陰の働きを放棄して、 陽の男を軽んじ、男を手段化する事件が出てきています。 そして増えていくでしょう。 そのことは、あわれ、陰である女が自滅していく一つの姿です。 できるならせめて、お互いに尊敬しあって、 道徳的合意が家族の中で形成されるように、 すなおに一番いい事、一番尊い事が目の前で為されている雰囲気の 積み重ねをしなければと思います。 学力、知力、人間力という陽の花や実は、その上に表れてくる物です。 私達に必要な道徳は、もともと東洋に具わっています。 -------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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11/22 17:46 |
自然観 1/4 西洋、東洋における自然観は、決定的に違っています。Category : いのち/ふしぎなるもの
![]() 先週行った那須高原、青木邸の庭。 樹木の下に人。 小鳥の声 をどうぞ! 今日は、西洋と、東洋の日本、 その自然観の違いを記事にしていこうと思います。 刺身、天ぷら、ダシ、 日本料理ですが、 もう、目に浮かぶよう ............. (笑い) 目にも鮮やか、盛り付けに細かい配慮のある日本料理, 料理法の違いは気候・風土に根ざしているといわれます。 西洋のヨーロッパは乾燥地帯です。 乾燥地帯、 この言葉のニュアンスからは、 とても食材が豊かとは思えない、言えない土地柄です。 植物も乏しく、海に面してない地域では海産物だって届かない? 届くとしても限られたものだけと言う処もあったはずです。 だから、土地柄としては、とてもグ~!とは言えない場所ですね。 歴史的には、まず、狩猟で食料を確保するしかなかったでしょう。 おなかがへったら、すぐに思いつく事は、目の前にある木の実を採り、 身近な生物を殺して食料にしたはずです。 その後、酪農や牧畜を通じて食料を何とか確保してきた歴史があります。 つまり、それは、おいしい食べ物を食べたいと云う苦渋の歴史、 食べられない物や、たとえおいしくない物でも、 なんとか調理して食べられるように工夫を重ねて来た歴史なのでしょう。 そういう背景があってこそ、 香辛料や各種ソースを使って徹底的に”味をつける” という料理が成立した。 これは中華料理も同じです。 試行錯誤で徹底的に“味をつける”ことがベースです。 味は引き出すのではなく、”つける” ここに主眼が置かれていたのです。 それに比べて、一方の日本は温暖湿潤です。 日本は国土が狭いという事もあり、 一所で山や海の食材に恵まれた場所が多いのです。 そういうお国柄で、そもそも素材が新鮮です。 だから、おいしい! そういうものが溢れていました。 そのうまみをさらに引き出すことに調理の重点が置かれてきたのです。 だから素材そのもの”旨さを引き出す”ことを追及した料理といわれます。 西洋料理の「味をつける」 と 日本料理の 「味を引き出す」との違いは、 そこには、民族の歴史、人類の歴史が大きく関わっているようです。 人類の歴史は、まずは「狩猟採集」から命を養うことから始まりました。 その後「牧畜」に移って、最後に「農耕」にたどり着くのが一般的です。 でも、その頃に日本に住んでいた人たちは、 「狩猟採集」からいきなり「農耕」へと向ったそうです。 「牧畜」を経験しなかったことは人類史上、稀有な事例だということです。 「牧畜」が行われなかったことには理由があります。 わが国の国土の7割は、山岳地帯ですから、 地形的に牧畜には向かなかった。 そして同時に、 「牧畜」をしなくても胃袋を養うだけの安定した食糧事情があったのです。 食べられる植物が豊富に存在し、安定して栽培することが可能だった。 「牧畜」を省略した原因は、豊かな食糧事情にあった事がポイントです。 実際、石器時代において、 日本の人口密度は、世界一高かったことが分かっています。 そういう生きていく条件が重なって、 特に生き死にに拘わる、命を養う食料獲得のための行動は、 人間にとっては最高のストレスですから脳の働きにも影響を与えますね。 そして、 生延びる為の命の糧を得る行動、 特にその為の自然に対する対応の仕方、 人間と自然との位置関係などに強く影響を与え、 その後の自然観、宇宙観などを育んだはずです。 そのように西洋、東洋における自然観は、決定的に違っています。 そう、 まるで、料理法の”味をつける” と”旨さを引き出す” の違いほど、 そのくらい、違っています。 西洋は、自然を、人間の力で支配をし、克服をする対象として、 東洋は、自然を、人間との一体感である調和をもって臨むと云う態度に、 表れているようです。 (次回へつづく) 参考文献 『食の文化史』 朝日文庫 樋口 清之 著 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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11/27 22:28 |
自然観 2/4 自然観の誤りから起こる問題を、3つ、提起します。Category : いのち/ふしぎなるもの
![]() 那須高原に行くと必ず立ち寄る石窯で焼くパン(天然酵母、国内産小麦)のお店です。 知る人ぞ知る、 《 NAOZO 》 さん!! 今日は 野鳥の声 を聞きながら~ 「遺伝因子」という言葉をご存知でしょうか? これは先祖代々、親から子へ、受け継がれていく情報です。 肉体や精神を長い間かかって、変化させながら繋がれていくものです。 遺伝因子は3000年かかってようやくひとつの形が作られるそうです。 例を挙げれば、 西洋である欧米人と日本人とでは腸の長さが違います。 耳の下のラインから尾てい骨までの長さの約6倍が欧米人で、 日本人は約8倍だそうです。 私たちの先祖の日本人の腸の長さは、 お米などの穀類や野菜を多食してきたから長く、 西洋は腸の短さから、 動物性のタンパク質に頼っていた歴史が見えてくるのです。 また、動物では、 馬は体長の10倍の長さの腸を持っています。 牛は20倍、 羊は25倍、 ライオンやトラなどの肉食動物の腸は体長の5~6倍。 これで草食動物の腸は長く、 肉食動物の腸は短い、と言えるのです。 つまり、何を食べるのかということで腸の長さが決まったのですね。 このように自然の造形というものは、 「遺伝因子」そのものに意味や、存在価値、理由が、 付託されているものだと認識していいと思います。 ここで、現実的な問題提起①ですが、 牛はもともと草を食む動物なのに、 今や穀物や牛骨粉といって牛の骨や血液を粉にして 乳牛に食べさせるようになりました。 牛の乳の出が良くなるというのです。 まったく自然のタブーを犯したと、言ってもいい位! 食べさせるべきではないものを人間の都合で与えてきたわけです。 それで、 生体内の秩序が狂ってBSEという難病が発生するのでしょう。 肉骨粉を食べさせられている牛の遺伝因子が、 どのように変化してくるか、 将来にわたって、まったく誰も、わかりません。 狂牛病も根っこにあるものは、 本来の長い間の自然の食の姿が、ねじ曲ってしまった事に あるのです。 もともとあった自然を犯すとどうなるのか? 科学者自身だって、わからないまま、 効率優先で現場が動いている・・・ 経済の効率性が自然を、無理やり捻じ曲げている姿です。 ここで、現実的な問題提起②ですが、 酪農を経験していない日本人は、乳糖分解酵素の分泌が少ないのです。 それで乳製品が苦手な人、アレルギーなどが多いということもあります。 日本人は、牛乳を飲み続けるのは無理があるようです。 進んだ病院では、牛乳が癌の治療時には禁止される病院もあります。 牛乳が乳がんの原因である。 癌は、肉食が原因である。 と、 ずっと書かれている野母伊志穂さんのブログを紹介します。 奈良時代の皇室は、 「醍醐」とか「蘇」といって牛乳や羊乳を飲んでいたようです。 量的には今の洋風の食生活ほどもなかったはずです。 世の中には、さまざまな食養生の考え方があります。 基本は先祖が食べ繋いできた食文化、 本来の地力のあるものが基本です。 おかゆ、梅干等のように何世代にもわたりチェックを受けてきた、 自然な身体に合う食べ物です。 食べ繋いで来たものを取り入れておけば間違いないはずなのに、 それを歴史に学ばず、 流行や誰かが言ったことを鵜呑みにしてしまえば、 当然さまざまな弊害が起きてきます。 まさか、 病み上がりにインスタントラーメンや、 コンビニのジャンクフードはないでしょうから。(笑い) それらは嗜好品として楽しむくらいで・・・ いいのではないですか。 実際に日本人は繊細な「味覚」を持っているといわれているのですから、 その特質は失いたくはないですね。 欧米には、 「甘い」「酸っぱい」「塩辛い」「ピリッと辛い」 の4つの味しかないと言われ、 中国はこれに「苦い」が加わって、 日本はさらにもう一つ、「うまい!」 という6つのティストが存在しているのですって! それは、日本の伝統、発酵食品のおかげだそうです。 そしてここでもうひとつ、現実の問題提起③です。 豊かな食資源の日本における、 世界に誇る数多くの発酵食品群、味噌・醤油・お酢・酒などですが、 約40年前から自然が作る発酵ではなく、 工場で科学が作る発酵、「化学食品」に成り果てています。 これを発酵と言えるのかしら? もともと食が持っていた本来の力を、 工業化と経済性が奪った結果です。 自然菌の発酵食品のように食品の工業化と、 大量生産の効率化のせいで食品の本来の力が失われた結果、 それを補う機能が必要になりました。 それが、サプリメントなどの栄養補助食品で、今が全盛です。 このように心の中で、何を大事に思うのか? で、その行動の目的が変わります。 その行動の目的のために、人間は心まで変えてしまいます。 心・精神とモノ・肉体とは、相互不可分のものです。 そう捉えるのが東洋であり、 また、人間と自然も一体と捉えます。 そこから、人間を含めた自然界は循環するものであり、 変化するものであり、たえず、時と共に移ろうものと捉えます。 それに反して、 簡単に言えば、西洋思想は、 心と肉体は別々のもの、自然と人間は対立するもの、と捉えます。 自然という中に、人間は入っていないじゃない! ほほっ。 そこには、 過酷な自然と常に闘って、 動物を相手に殺戮をして、 相手を負かすことで命の糧を手にして来た、、、 西洋の先祖の長い歴史があるのを無視する事はで来ません。 そうしなければ生延びれなかった試練のなかで、 自然と一体だという訳にはいかない。 そうして強い相手と争う事で自分の征服の意欲を沸きたて、 自然を人間のために使役して来た歴史があります。 そういう風に、 みずからを守るために自然を変えてでも克服してきた処に 西洋の自然観の「遺伝因子」がある。 と説明する方が、妥当でしょうね。 心のなかで、 大事なもの・何を基軸にするかという事が変われば、 作るモノまで変わってきてしまいます。 現実に生きる私達の考え方・思想と、 生活のモノ・物質は、相互不可分のものです。 文明とは一切のものを含みます。 『文明を、身体だけが取り入れた、心だけが影響を受けた。』 と云う言い方は、いかにも西洋文明的です。 心と体が、それぞれ存在しているかのような言い方です。 本当は、そう云う事はありえません。 ばらばらには、存在していないのです。 東洋的な考え方では、心と体は一体。 仏教においては、そうなっています。 (次ぎへつづきます。) 参考文献 (國學院大學名誉教授・故樋口清之博士の研究を要約) 『日本料理の真髄』 講談社α新書 阿部 孤柳 著 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |