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02/05 23:15 |
『無常の相』に拘るかぎり、不滅のものはありません。Category : 不滅なもの
![]() 先週末に寄った湘南の海・梅沢海岸 音楽をどうぞ! 前ブログからのつづき、 不滅のものを、探って・・・・・ 最後は仏法へ戻りますが、 まず、中国の陰陽学から、、、 陰陽学の『陽』は、『陰』の創造力の表出世界と言えます。 空間世界に象として現われ出るもの。 私達の五感で捉えられます。 その本体は、『陰』そのもの、創造力の根源です。 その『陰』の蓄積が、 【時】と場所に合わせてさまざまな『陽』の表出を生むわけです。 その結実・現象の一つである学問や英知は、 本来は人間の貪欲を排した結実であるべきですね。 英知を装った【貪欲の論理の知識や法律や制度】では、 絶対にあってはならないのです。 そして、また『陽』は、 常に『陰』という命の創造性に逆らわない表出であるはずなのに、 【時】によって風化した『陽』は、『陰』の正統な表出ではなくなります。 現実において私達は、『陽』である知識や法律が、社会のある変化に 即応していないのではないか? と、 疑問を感じたりする場合がありますね。 それは『陽』のせいではなくて、 本体の『陰』の創造性が弱くなった事が、本当の原因であろうと 思われます。 『陽』の力の消失は、『陰』の創造性の欠乏です。 なぜ欠乏するのか? これは、また、別の機会に書いてみたいと思いますが。 単に『陽』の存在を非難、攻撃するだけでは、好転しませんよ。 『陽』の存在とは、政治や経済や社会の仕組みのことです。 『陽』のそれらを変革しようと思えば、『陰』を強くするしかないのです。 私達が反省しないまま、それらを批判したところで 『陰』は弱まるばかりです。 知識や法律や制度は、社会状況や私達の必要に応じて 生まれて来たのです。 私達の体の影のような存在、です。 影に注文をつけても、ムダでしょう? 体から正すべきですよ。 責任は客体にあるのではなく、 飽くまでもそれを用いる主体側にあるのです。 それら知識や法律や制度は、永遠の存在ではありません。 そして、その不都合を修正しようとするとき、 現実に対応していくための時間の遅れや反応速度の遅れという タイムラグが生じると・・・変革には、時間が必要ではないかと ・・・思っています。 実りには年季が掛かる、お分かりですね~ そのように【時】というのは、いつも重要なファクターです。 なぜなら、ここは太陽系の★、地球ですから、すべてが 太陽エネルギーのおかげで営まれているのです。 まさに、”今”という【時】、私達の身の回りで、世界中で、 『陰』の徳が無くなって行っているようです。 今までの私達は先人が積み残してくれた”徳”を消費してきました。 今度は、私達が『陰』の創造性を高める努力が必要なのです。 ここが、一番むずかしい。(笑い) もうお分かりのように『陽』は、タイムリーなものです。 自然に実る果実を、想像なされば? お分かりになるでしょう? 日進月歩です。日々是新たな英知を生み出す事が最上です。 浜辺に押し寄せる波が、つぎつぎ、一つ一つ消えていくように、 いかなる現象も、【時】の照射によって均衡を求めて変化し続けます。 均衡を求めてとは、 宇宙・自然は偏っている事をお気に召さないという事なの。(笑い) これは、間違いないわ~ 私達がいい加減に生きてしまって、万が一、 自然の均衡が犯されれば、爆発もし、大地震も起こり、崩壊もします。 易学はその変化を人間世界に見て陰陽に分けて、述べています。 変化は【時】。太陽エネルギーそのものです。 だから【時】の選択が大切になります。 そんな事は気にしないのだ!! やりたい時、したい時がいい時なのだ!(笑い) これが現代の風潮ですね。 なんでも自由? なにか子供じみていませんか、、、 あまりに気ままな欲望に傾きすぎですよ~ (笑い) だから東洋運命学は、【年、月、日、時】を選ぶことをおすすめします。 【時】は、けっして欲望の言い成りにはなりませんから。 【時】を得ない欲望は、滅び去るばかりです。 海亀の産卵、女の卵巣の排卵、発情期、開花、結実、 これら創造の実りも、成熟、老化、腐敗、分解、生死すらも 命が【時】に仕えた所産です。 我々の意識だって【時】に命令はできません。 断じて! 東洋は【時】を尊び、【時】が基軸です。 意識、理性、欲望が基軸ではありませんよ~(笑い) 人間が基軸? とんでもない! 自然中心です。 間違ってはいけません! わがままはダメ! あはは。 自然には、 我々の小細工は効かないのです! 仏教においても【時】は重要です。 久遠・くおん(遠い遠い過去の時間)という言葉もあります。 仏は、【時に応じて】出現し、法を説くと書かれています。 所詮、この世のものはすべて、平等に【時】の力を受けます。 そして、命すら生じて、【時】の力で死という現象を現じて、 滅するではありませんか。 では、不滅の物はないのか? 『無常の相』に拘るかぎりにおいて、不滅のものはありません。 だからこそ、 伊勢神宮の遷宮のような事を、古来からの神官は 営々と行ってきたのではないでしょうか? 神のまじないを以ってしても、チチンプイプイ! 絶対に壊れない社になれ! 要は、こういうのは分っていない人のやることです。 この『無常世界』を生み出している本体へ向かって、 均衡を求めて変化をしている本体に向かって、変化を抑えろ! なんて、 生きている人に向かって、息を止めて生きろ! というようなもの・・・ 滑稽でしょう? 『無常世界』に生きる限り、 分っている人は、あるがままそのままを受け入れるのが、 正しいと思ったはずです。 それが知恵ある人です。 だって、どうしようもないのですから、 『無常』のタイムラグにいる限り、我々は滅びます。 『無常世界』の舞台に棲む我々は、『常住世界』に生かされている。 それゆえ我々は、非力です。 非力というのは、謙虚さという徳の種を生みますね! 感謝も! 有り難さも! 報恩ということも此処から生まれたのでしょう。 昔の人は、大きな天球と自己の小ささを見極めて、知力を尽くして、 無常のありようを受け入れざるを得なかったのでしょう。 西洋は、石造で永遠性を具現するかのように神の国を目指して 高く聳える建物を建てます。でもこれは永遠ではないでしょう。 錯誤。所詮ウソです。気持ちは解るけれど、ね! 正に久遠という過去から、未来の永遠という【時】から見れば、 木造の100年も石造の3000年も変わりは無い。 どちらも、まばたきの間の短い【時】にしかならない。 常住世界から観れば、所詮は、現象界の範疇にしか過ぎず、 いずれは崩れ去るという無常の域を出ていないのですよ。 仏法は、そこまで峻厳です。 反って、 日本には、時が経つと朽ちると解かっている木造しか術がなかった。 その方が、 あるがままの現象世界の無常を受け入れて、 同じ物を創る事で時をつなぎ、 それで常に存在する事実を実現しようと計ったのかもしれません。 そこには、真実以外のウソを見抜く知恵と、ウソを捨てる潔さ、 1000年を永遠?と錯誤する欺瞞と偽善が排除されています。 東洋は、何事も徹底されている、 だから信用できるの。(笑い) 私は、絶対に東洋信奉者です。(笑い) 今日本人は、 西洋文明の大海原から押し寄せる波に洗われています。 海の恐さを忘れて、 不滅の存在を捨てて無常の崖に舞い戻っています。 崖からの眺めは、海の恐さ。それは、『無常の世界』の空しさです。 なぜなら西洋文明は、物質文明であり、 【時】の照射で全てが消滅するという色界(物質世界)そのもの・・・ 物質を奪い合う殺戮の世界のセオリー、ロジックなのですから・・・ 所詮は武器を持った狩猟民族のロジックです。 なぜに、鍬と鋤しか持っていない農耕民族の我々が、 常住を秘めた無常観を捨てて、永遠と錯誤した崖の淵に、 舞い戻る必要があるのですか? 私たちは、東洋思想には常住世界があって、 命が永遠であるという事を思い出さなければいけません。 人は、永遠も不滅も捨てれば、何でもするようになるでしょう。 ただし、頭の中で捨てたと思うだけですが。 万能になるというのではなく、 ケダモノになるのです。 明日も未来もない畜生道へ堕ちても平気だっていうことです。 西洋文明は、錯誤した永遠の上に積んだ欺瞞と偽善でしかない。 あはは~ 言い過ぎでしょうか?(笑い) ごめんなさぁ~い! なにも、西洋と喧嘩や戦争をしようというのではないのです。 そういうイメージングで、西洋と仲良くしましょう。 お互いを知り、まず、我々は自分の足元を固めるべきなのです。 あちら様には、西洋文明の欠陥を知ってもらい、 反省を促しましょう! それしかない! そうしないと皆で破滅です。それでいいのですか? (笑い) 笑いごとじゃないのよ!! あ、それと、もうひとつ! 現代の凡人のわれわれは、自然の変化に向き合わないでいいように、 自然の摂理に逆らって、都合の悪い事を科学の力で避けようとする。 人類を危険や困難から守るまでは良かったものを、、、 まさか!今では楽をして何もしないで、能率が上がるようにと、 科学の進歩を望んでいます。 便利で、手軽で、疲れないもの、 本当に、思うがままにしたいのですね! 所詮、それは、 人間の一時的な欲望を実現するだけの道具に堕ちていないか? ここで又、我々は、永遠性を唱えながら、行動では曖昧なのです。 『その時』人の心は、魔性を帯びます。 科学は西洋文明の『時』の範疇なのだから仕方ないのかナァ~ 科学は西洋文明の自慢の息子よ! 秀才の! あはは~ この秀才息子をコントロールするのは、だ~れ? 母なる西洋文明の手に負えなくなっているわ! これは『陽』の科学が非難される事ではなくて、 それを用いる人間の徳性、身近に言えば生活レベルに表れる 私達の道徳性の欠如です。 そう考えると、私達は自然に対して、 人間のわがままな欲望のせいで、 多大な無駄と無理を強いていませんか、、、、、 それそのものが、『陰』の創造性を摩滅するのに・・・ これでは、新たな『陽』の果実の恵みがあるわけがないわね!! 人間が押し付けた多大な無駄と無理を被って、 自然は黙って静かですが、 現状の歪みで溜め込んだ不均衡のエネルギーを かならず均衡を求めて、必ず押し返してくるでしょう。 膨大なエネルギーで、、、 その力を、現代人は、軽く見ています。 科学を、欲望を満たす道具として利用しながら、 欲望を満たす事が幸せの基であるという社会のゆがんだ前提を、 チェンジしなければいけない時が迫って来ていますよ~~。 ふっと、今、 天皇皇后両陛下が、自然のままにしておきたいというお気持ちから、 白髪を御染めにならないで、白髪頭のまま、 年齢のままになさっていると云う事を思い出しました。 それは、年に負けると云う事ではなくて、 自然に逆らわないでそのままの生を享受して生きる、品のよさ。 私が述べる立場ではないのですが、 ご自分を、この宇宙・自然に対して、 永遠不滅の物に対して、よく弁えていられるそのお姿と生き方!! 尊いとは、こういうことなのでしょうか? 清清しいお二人の生き方を、 参考にさせていただきたいですね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 一部、[版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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02/09 00:00 |
物質文明1 身近な物質文明の影 《心と体》Category : 身近な物質文明
![]() 先週末に登った吾妻山の頂上展望台の菜の花。 大勢の人で賑わっていました。 音楽をどうぞ~ 子供の体を育てる時には、食べ物。 子供の心を育てる時には、音楽や本の読み聞かせ。 体という物には、物を! 心には、心を動かす物を与えましょう! なにかそういう風に、決めていないでしょうか? え、何か気が付かれましたか ? (笑い) そう、両方とも、物なのですね! 体を育てるにも、心を育てるにも物、物に頼ってるの? 物質文明ですね。 お母さんの心だけで、子供の心には十分ではないですか? そして、こういう風に物質と精神を分けて考えるのは、いかにも、 西洋合理主義の二元論です。 “モノの時代からココロの時代へ” このスローガンを幾十年の間、何度聞いたことでしょう? 何時まで経っても、ココロの時代にはならないですね? どうして? 物質文明のパラダイム(認識の枠組み)の中にいる限り、 心の時代ではない、のです。 物質文明という【物で人の心・精神が決まる】という時代の思潮の 枠組みから出るか、その枠を壊さないかぎりは、変らないのです。 それこそ、それは物質文明の中のココロ編に過ぎないのです。 物は、物が育てるのでしょうか? 心は心でしか育てられないのでしょうか? こういう風に分けて考えること自体が、私達の持っている力の可能性 を狭めています。もう、こう考える事を止めなければいけませんね。 私達は植物を育てる時、何が大事? と聞かれれば、作物は物と判断 して、土や肥料や水という物質をすぐに思い起します。 まさか、私の心を準備しなければと、まっさきに思わないでしょう? でも、アメリカインディアンにとっては、 作物に笛を吹いてあげることが「肥料」だったそうです。実り多く なって欲しいために、彼らは畑の作物に笛を吹いて聴かせました。 現在、青森で、農薬も肥料も使わない自然栽培のリンゴ農家の 木村秋則さんは、テレビや講演等であまりにも有名な人です。 一般に林檎は実の収穫までに、農薬を50回は使うと言われます。 栽培農家の方は、妻が妊娠中だと林檎園に入れないとか聞いた事は ありますが、そのように林檎は、無農薬で栽培するのは絶対に 不可能だといわれてきました。 木村さんは7~8年苦労した後、 30年もりんごを自然栽培しています。 《有機栽培は有機農薬、肥料を使いますが、 自然栽培は農薬はもちろん、肥料さえ使わないで、草もそのまま、 自然のままで作物を実らせようとする農業です。》 最初、木村さんは山のタンポポと自分の畑のタンポポを見比べて、 山のタンポポの方が元気なことにハッとして、 木村さんは両方のタンポポの根を掘り返し、 それぞれの根の量の差に愕然としたそうです。 肥料を与えない人間の手が加わってない山のタンポポの方が根の 量が多く、小さな根までしっかり張りきっていました。 一般の農学の理屈の通りならば、人間の手が入り、肥料を与え、 農薬を使って害虫から守られたタンポポの方が立派に育つはずです。 この時、『これは、おかしい! 』 と、 木村さんは肥料や農薬が、林檎の木を弱くしてだめにしている!! と気づかれたのです。 それから肥料をやめ、農薬をやめたそうです。 それからが苦労で林檎の木は肥料、農薬がきれた禁断症状を起こし、 8年もの間、「無収穫」。木村さんには、ご近所からの中傷も、、、。 7年目、林檎の木の苦しむ姿に、木村さんはリンゴの木に これまでの栽培の間違いを謝ってまわったそうです。 林檎の木に謝る言葉を声かけしているのを近所の人に見られたら、 又、何を言われるかと気にして、隣に近い林檎の木だけには謝ら なかったそうです。 そうすると、8年目に、謝らなかった林檎の木を除いて、リンゴの樹は 一斉に花が咲き、実を実らせたのです。 そのなかで、驚くべきことに、 近所の目を気にして、謝らなかったリンゴの木たちは、 全て枯れたそうです。 『本当に植物は人の心がわかっている、 作り手の思いやりこそが 実を実らせる肥料である』とお話されるそうですよ。 このサクセスストーリーは、自然栽培の農業の人の間で有名です。 追求を重ねた自然栽培で、 りんごを実らせたいと言う情熱から出る言葉、 その底流に流れているリンゴを対等な生命の存在として思う 木村さんの心、それらがすべて肥料になったという事です。 なぜなら、いわゆる肥料は全く与えていないのですもの、、、。 自然のままなら、 山のリンゴと同じように小さな実しか付けないものを、 木村さんのりんごは、普通の大きさ、味は深みのある甘いりんごです。 それに、不思議な事にりんごを二つに切ると、真ん中に ある種のまわりの囲みがありません。 じつは、中央にある種を囲んだあの部分は、リンゴ自身が、農薬や 異物から種を守ろうとして作るのだそうです。 木村さんのりんごは、無農薬ですからりんごが種を守ろうとする 必要がない、だから種を囲む部分がないのです。 自然というものは、あらゆることに対して、 自分の種を守るための均衡を求めて変化します。 それが造化の美です。 また別な例をあげれば、 心のさみしさ、嫉妬などが凶悪な事件等の行動の原因や機縁になって いるといった事などもあります。 物と心は生命という存在の次元で一つなのです。 物は、生命の存在の中で心につながり、 心は、生命の存在の中で物とつながっています。 生命という次元では同一の物が、 現象界では物質と精神とに分かれています。 何事もそうですが、 現象だけに囚われたら本質を見抜けません。 インディアンが作物に笛を吹く、 木村さんがりんごに語りかける、 そういった生命と生命との真の触れ合いが、 心と物の繋がりを教えてくれます。 これらは、 今あたりまえに思っている近代合理主義の二元論では、 説明のつかないものです。 近代合理主義の二元論は、もうたくさんだと思います。 この古い二元論の枠組みで不可能だとされ、考えもしなかった 事実が、枠組みを出ることで可能になります。 さまざまな問題があふれる中、二元論ではない新しい自然への 対応の仕方を生活の中で、探っていかなければいけないと思います。 学問が変わるのを待てないわ~ 庶民が生活レベルから変えるのが本物です。 そうすれば、生命と生命との真の触れ合いとは? 新しい物と精神との関係性の構築ですね。 人と人との関係も。 普段、当たり前だと思い込んでいるものを、 疑問に思う事から始めましょう。 身近な物質文明の影。 それらに気が付く事、これが幸せへの一歩です・・・ -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 |
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02/11 22:00 |
物質文明2 身近な物質文明の影 《言葉の力の剥落)Category : 身近な物質文明
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02/15 20:17 |
グレーゾーンの中の一点を占めているのが、私達人間です。Category : 陰と陽〈男性の生き方〉
![]() 中国の山河 今日は、中国の二胡奏者 賈鵬芳(Jia Peng Fang) を紹介 しましょう。 よろしければ,彼の二胡の演奏をどうぞ! 彼のHPの中の、Portraitの音楽もいいですよ~ 中国の映画「LOVERS」の音楽担当は彼です。 今日は、グレーゾーンの中の一点を占めているのが、私達人間です。 陰と陽(男性の生き方)というカテゴリーで初めての記事です。 このカテゴリーは私のブログのものですが、 ジャンル(心と身体)と、テーマ(女性化・男性化・中性化)があって、 これはFC2ブログの決められた範囲の中から選んだものです。 ジャンルは順当ですが、テーマはすごい?ですね~ 中性化!? ”おもしろい~!”という事で使わせて頂きます。(笑い) いきなりですが、今日も、重たく行きます。いつもより? どれだけ重いかというと、30トンの重さの記事になるかと~ (笑い) 陰と陽(男性の生き方)の原則をはっきりさせたいと思っています。 まず、ご存知の『むかしばなし』から、 ”むかし、むかし、おじいさんとおばあさんがいました。 おじいさんは、山へ、柴刈りに~ おばあさんは~ ” 大昔から、男性は外に出て仕事をするというのがあたりまえでした。 そして家族を養い守る。 これが男の本分ですよ。 男の本分とは、 宇宙全体を、永遠に続く創造活動を営んでいる宇宙生命として観ると、 この宇宙の生命活動の一部の営みであるということでしょう。 これが、原則1です。 つまりは、男は宇宙生命からそういう使命を貰っているのですね~ 自覚しようが、してなかろうが、、、です。 前置きですが、原則だけのお話だけではつまらないですね。 原則は原則ですが、物事はあらゆるバリエーションで成り立っています。 実に、現実は100%が、バリエーションだらけ?です。 私達の存在は皆、原則を中心に周りの灰色、グレーゾーンにあります。 つまり中途半端ということですか、、、男も、女も、です。(笑い) ご自分について、よ~く瞑想してみてください。 今の自分に至る行動を起したのは? どうして今の姿に至ったのか? グレーゾーンの中のある一点を占めているのが、それぞれ、自分、 英語のI(私は)という人間です。 周りのグレーのグラデュエーション(濃淡の段差)は無数にあります。 よく★の数ほどと言います。 無数とは、人の数ほどあるという事です。 だから、さまざまの生き方の形態があるのはあたりまえなのですよ。 それをまず、認めて確認して、、、。 それを踏まえて、次に参ります。 家庭というのは、宇宙の本分の一部としてあることになりますね。 男女が結ばれて家庭を持ち、家族をつくり、 新たな子供という(宇宙生命からもらった)生命を守り育てる、 そこに、個人の生き方が宇宙生命へ連なっている意味がある~ と考えたいです。 これが、原則2です。 原則にほぼ、近いという事はさいわいです。 『陰』と『陽』という二つの働きが、この宇宙生命の活動にはあります。 その働きの調和によって宇宙の生命活動は成り立っていると考えます。 だから、お分かりのように、 宇宙の最小単位である生命の創造を営む場所として 家庭が大事なのです。 当たり前ですが、 家庭の生命活動は、男女の頼り合い、助け合い、、、、、 男らしい男と、女らしい女が、頼り合い、助け合う事によって成立します。 これが原則3です。 本来は、原則はそうなのですが、、、、、 男らしくない男と、女らしくない女の組み合せ、もありますし、 中性っぽい組み合わせもありますよ。(笑い) ただ、らしくない程度は、お互いに同程度の組み合わせですよ。 えーっ! 相手の方がひどいって? それは、あなたの主観ですよ! 客観的には、釣り合いが取れています。 あはは。 詳しくは、省きますが、、、。 頼り合い助け合っていなければ、 言い換えると、陰陽の合一がなされていない夫婦の『家庭』。 それでも形はあるように見える『家庭』・・・・・ その形すらもさまざまの現象形態が出てまいります。 陰陽の合一の中味が抜けていきますと、 どうなるか?というと、 宇宙の創造性を具現する生命活動は成り立たない。 ~ですね。 やはりこの実態もさまざまな現象的には現れてきます。 一部の現象として、子供は学ぼうとしなくなると、 2009年 10月 7日の記事、 家庭 3/4 命の継承の川上から流れてくる陰徳を捨てると云う事は負けです。 に書きました。 これが、先のテーマ(女性化・男性化・中性化)にひっかかるかな! 極端が、両親による児童虐待=生命の抹殺!等の例です。 このように現象として生命の危機の諸問題が生じてくるのですね。 反生命活動として、、、。 これは、真っ黒に近いグレーゾーンの現象です。 グレーゾーンのバリエーションについて言えば、キリが有りません。 大事な事は、 実際、自分が、そのグレーゾーンの中のどこの段差にいるのか? それを探るのが『運命学』なのですよ。 私の運命鑑定の仕事は、 これを正すお手伝いをしていると自覚しています。 正すという前に、客観性を以って自分を眺める目を持つようになること。 それを目標に掲げて、運命学教室を運営しています。 おかげさまで、グレーゾーンがあるからお役に立つわけで、 皆が、みな、真っ白って、真っ黒って、これは有り得ないことです。 この地球という天体は、 倦まず弛まず知恵を持つように努力させられる★なのですね! 実に修行的! 苦を楽だ~っと誤解できる程のパワーが要る★です。 結論的には、陰陽学の『陽』が男性ですから、 『陽』を研究したらいいのですが、 それについては、ぼち、ぼち、と行きましょう! 間に、今のように他のカテゴリーの記事を挟みながらですが、 又、是非、次回編をお読みくださいますように。 よき一週間をお過ごしください! -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 女性化・男性化・中性化 |
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02/16 09:11 |
男性と、女性にとっての子供運というものは、違います。Category : 陰と陽〈男性の生き方〉
![]() アラスカ山脈の奥深く四方を山に囲まれたルース氷河で出現したオーロラ 2010年1月23日、写真家・松本紀生さん撮影(毎日新聞から) 前の記事『陰と陽(男の生き方)』に、次ぎのコメントをいただきました。 実は結構・・・。 男の生き方。って結構難しいように思ってます。 父性は実はどうも母性よりも成立が遅く、 ただこの「父性」ができて、人間は家族になり、「人間」は文化をもったと言わ れます。 陰陽の調和というか男なりの「陰陽・剛柔」の調和も、結構簡単に 崩壊します。 フェミニズム・ジェンダーフリーの発生はともかく、 その暴走には確実に「男性の父性の混乱と崩壊」が大きな一因があると思わ れます。 でも、父性は、「外に出て働く」ことが家庭から遠い場所・環境に あるために、ナカナカに議論や検討・教育されてこなかったように思います。 「父たるも難し。」のように思います。 個別にお返事するよりも、皆様に読んでいただきたいと思い、公開します。 我が運命学においても、 男性と、女性にとっての子供運というものは、違います。 まるで正反対なのです。 女性にとったら子供は産む事の喜び、育てる事の喜びそのものですが、 男性にとったら子供は我が担うもの、我に負荷がかかるものです。 その負荷を担えない男は、その途中で子供を投げ出すでしょう。 子供を持ったといっても、実には、それは子供縁とは違います。 形だけあって、内実が伴なわないのです。 それが、なんと多いことか・・・ それも、グレーゾーンの濃淡の段差といえます。 だからわが子の誕生を文句なしに受け入れる女性と違って、 理屈で受け入れて意識で構えるところが、男性にはあるでしょうね。 ☆父性の成立が遅い、そのとおりでしょう。 それから、『家族』ができて、衣食住が安定する事により『文化』を持った。 このことから、少し話は飛びますが、 ジェンダーフリーの流れを大きくしていくとするなら おそらく、人間は、この手にした文化を衰退させてしまう、そんな気がします。 女性が、そもそも, 男性と同じ立場と力を欲しがるのは解らないではありません。が、 女性の体は、働くようにできていません。 内臓を守る筋肉が少ないために激務には向かないですね。 余程の力があり助手や部下を持てば別ですが、、、限られた人だけ可能です。 ジェンダーフリーというのは、女性のなかに格差を生むことになるでしょうね。 要は、恵まれたと自惚れている女たちの自己顕示欲?も 大いにあると思っています。 慢心からの平等論なら、不幸の原因にしかならないでしょうね。 ☆簡単に崩壊する調和も、歴史にあきらかですね。 ☆おっしゃっているように「男性の父性の混乱と崩壊」が、一大事なのです。 これが、すべての積み重ねを一瞬で破壊に導きます。 これは、裏返せば、 「女性の母性の混乱と崩壊」だってあるということですね。 陽の男性ほどのわかりやすい現象的事象には、ならないですが、 陰の存在的現象は、目に触れないエネルギーの消失、吸引として 確かにあります。 陰の消失は、知らない内に家族を巻き込んで、 夫や子供のやる気を奪ってしまう、、、 「母たるも難し」のように思います。 深い瞑想のなかの思索が感じられるコメントに、 どれだけお応えできたか分りませんが、、、 お返事として、ここまで書けましたことにお礼を申し上げたい気持ちです。 ありがとうございました。 みなさま、よき一週間をお過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 一部、[版権]がございます。権利は放棄しておりません。 よろしくお願いします。 |
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02/18 12:06 |
男は、やっぱり外へ獲物を求めて飛翔する姿が一番きれい!Category : 陰と陽〈男性の生き方〉
![]() 翡翠が虫をゲット! この写真は詫助470さんのブログから借りてきました。 『翡翠』という宝石と同じ名前を持つこの鳥の羽は澄み切った青です。 虫を取るのに飛び立った飛翔の姿が、美しくて・・・ ある連想が浮かんだからです。 今の時期、受験シーズン。 連想とは、 塾をしていた頃の思い出ですが、長い長い受験準備の後、 生徒たちが志望校へ合格を果たした、その瞬間! 彼らが空へと飛び立つ飛翔の瞬間、 全力を出して狙った虫を仕留めた瞬間です。 よく似ているナァ~ かわいらしくてうつくしいそのすがた。(笑い) このカテゴリーは、陰と陽(男性の生き方)なのですが、 男は、やっぱり外へ獲物を求めて飛翔する姿が一番きれい! (爆笑) ~~でしょう? この連想したこと等を、今日は記事にしてみたいと思います。 今日は、幾分リラックスしてお読みくださいね。 あまり重たくないですから、、、 (笑い) その代わり、失礼な言葉や表現を都合によりするかもしれません。 その辺りに気をつけながら、、、 印象に残っている当時の御父兄の言葉の中から、 その頃は在関西でしたので、一番の目指す志望校が、灘中、東大寺など。 難関中学にご兄弟を入れた実績を持つお母様から、 「先生! 天はニブツを与えないとはよく言ったものですね。 今回弟の入学式で2回目だけれど、確かに秀才ばかりかもしれないけど、 うちの子もそうなんですが背がひくいおチビか、ブオトコ揃い! やっぱりねって思って、、、(おお笑い)」 私もつられて大笑い。あ、そ~なの? ごめんなさい! 今の生徒さん。ご父兄のみなさま~ けっしてこの通りだとは、心の底から思っていないのですが、 何か、でも、このお母様の言葉の中に光る物を感じるのです。 運命学からいっても、天は公平である。というのは正しい。 何かに恵まれると何かが欠けて、 何かに欠けると他で必ず補完されています。 一見、先のグラデュエーションと矛盾するようですが、そうなのです。 運命学は、簡単な平面で論ずるような論ではないので、 こういう表現になってしまうのですが、、、。 これについての詳細は、今、ここでは省きます。 それと、もうひとつ、 これも難関中学へ息子さんが入学した喜びと共に、お母様から、 「受験のときは、いろんな方が入り乱れて判らなかったのですが、 入学式のご父兄はご両親で来られているご家庭が多かったし、 そのなかで父親が白髪まじり案外年配の方と言うか、 そういうお父様が結構多かったです。 男の人は、年を取って子供を作られた方が優秀な子供が生まれるのかしら? って感じてしまいました。 ロマンスグレーの落ち着いたお父様に引き換え、 お母様は皆、教育ママのような方は少なかったですよ。 まぁ、中味は判らないですけど、これは、意外だった。 おしゃれな金髪に染めている人もいてびっくり。 おしゃれね~ 私のような人もいるんだって安心!しましたぁ 」 女性は、良く見ているでしょう? (笑い) 優秀児のお母様は、愉快でたのしい方ばかりでした! 当のお母様もそういう雰囲気の方だったので、安心されたのでしょう。 難関中学校の生徒!ご父兄のみなさま! 誤解を与えるような事を記事にしたようでしたら、、、 おゆるしください。 (笑い) あえてここに、これらを書いたのは、男の生き方として、 このお母様の言葉の中にも光る物を感じるからです。 それは、教育は、父親が精神的に落ち着いて賢明であれば それに越したことはないという事をお伝えしたかったのです。 理由はお分かりだと思いますが、父親がそうであれば、 子供が父親を尊敬し、母親も自然と尊敬し(ここが大事ですわ~) 父親を通して子供は社会を肯定的に受け入れ、 社会の中で立派に生きていくことのすなおな肯定へとつながり、 子供が希望を持って上方へ飛び立とうとする意欲へ向かいます。 子供は、自然に学びを好きになり、父親が勧める事をしたがり、真似ます。 年に従って、体とともに、男らしくなっていくのですね。 先の、翡翠の虫取りの飛翔の写真を見て、連想したのがこのことです。 そして、ついでに俗っぽい事をもっと言わせて頂きますと、 その横にお父様を頼り、信じている女っぽい?お母様がいればいいわね~ これで、男の子の潜在意識にすごくいい”家族像”を刷り込む事ができて、 完璧だと思うわ~ (笑い) できうるならば、お母様の関心が子供へだけでなく、 自分の夫へ、注がれている。 これがなければ、子供は伸びないですよ! この基盤が、生命の育つ場・家庭に無い場合、 本から学べ!とか、細切れの知識を押し付けたところで、 運全体の進展には限度があるわけです。 その子の生育暦が上手く行ったか、どうかは20歳を過ぎてみないと 分りません。 十代の半ばで、学校がどうの、成績がどうのと判断はできません。 まして学歴や、成績で一生の幸不幸は、判らないわね。 しかし、子供のことで指針は父親、彼がりードして、 決まった事には夫婦が協力するというのは理想です。 よく思うのが、跳び箱の風景です。 跳ぶ前の助走の床と踏み台が、母親。 跳び箱の高さが、父親。 着地点のマットが、未来に出会うお嫁さん。(笑い) 子供のためにも、 男性が活力を持って、生きれるような社会にしなければいけません。 男性の値打ちを下げて、その穴埋めにしようという政策が目立ちます。 社会が子供を育てるというのが、”こども手当て”の理念だそうですが、 子供は、物ではありませんから、お金を与えるから育つのではありません。 自分の父親が、立派で誇らしいから伸びるのです。 自分の夫を尊敬せず、”こども手当て”を当たり前に受給する母親の所に、 両親を思い、国を思う人間は育つでしょうか? 子育てを社会化する今の流れは、怖い物を孕んでいます。 ほんとうの処、女性が働かなくてもいい収入を男性に分配する、 夫の収入だけで生活できる労働所得を各家庭に分配する、 国の施策も、 それをどうやって実現するか、増やそうかという方向へ行くべきですね。 お金を配って国滅ぶ、ことになるやもしれません。 次、生活保護についても、ご相談のなかから、お伝えしたい事があります。 欧米は、社会の奉仕、本来の愛、サービスという概念も、 その基盤にキリスト教という精神的な保守があります。 日本はそういうバランスを取るべき精神的基盤、道徳、社会秩序が壊された まま何もありませんから、国から与えられるお金は只のお金なのですね。 物質・物です。経済で内需を、などと言い訳しようが、 その事自体が物と認知していることでしょう。 子育ての施策を、経済の言い訳のベクトルで論ずる事がおかしいのです。 日本の物質文明の凄さはここです。 為政者が気が付いていない。 それが、現状の日本です。 弊害は大きいです。精神の荒廃を招くだけ、そうなる部分が大きいですね。 どうか、子供たちに必要な家庭の活力を! もっと、一人の男の値打ちを上げなければだめですよ! 国を挙げて、自国の男の価値を貶めている。 男の力を強める方向へ行かないと・・・ 子供は健全には育たない・・・ 今、戦争が起こったら誰が戦いますか? 又、負けるに決まっています。精神が病んでいるのだから。 明日から我が運命学教室の冬季学習が始まります。 教材は、『孝経』を予定しています。 その準備で遠出の鑑定依頼をやめていますので、ブログが更新しやすい? 最近、更新のスパンが短いでしょう? また、冬季学習が終りましたら、 『孝経』から記事にできればと思っています。 おたのしみに。 では、また。 よき週末を、おすごしくださいね! -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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02/20 12:02 |
哲学の小道というのが、京都大学の近く疎水のそばにあります。Category : 生活哲学
![]() 吾妻山の登り道 ”生活哲学” これを、見つめなおしてみたいということで、 このブログを書き始めたのですが、 なかなか前へ、進みません~ 途中のサブジェクトがたくさんあり過ぎです! 最終的には、生活としての『道徳』、体を通しての『哲学』へ 行こうとしているのですが、、、 上の写真のように、まだ山の途中道を歩ている状態ですね。 ほほっ。 哲学の小道というのが、京都大学の近く疎水のそばにあります。 その近所に、私が尊敬申し上げる梅原猛先生の住居が当時ありました。 そういうことを思い出しながら、 今日は、哲学について勝手な事を書いてみようと思います。 まず、東大名誉教授・今道友信氏が先月六本木ヒルズで懇話会を行い、 大腸ガンのため、最終講(演)として次の遺言のような訴えをしました。 氏は、生活圏を意味する(エコ)と、倫理学のエティカを合成する 「エコエティカ」(生圏倫理学)を提唱しています。 以下講演の内容 ・社会構造の変容に見合った倫理の革新が必要だ。 ・ハイデッガーの哲学を、これからの世界を考える上では不十分と批判。 ・現在のネット環境、デジタル構造においては (情報)と(認識)の区別がつかず、与えられた(情報)から何かを (選択)するという受動的な行動を取りがちになる。 与えられた情報の外=想定外の危機からは脱却できない。 ・(選択)ではなく(決断)してこそ、人間は(創造)の世界に入ってい く事ができる。(つまりネットの選択だけでは創造はできない。) ・行き詰まりを打開するのは、理性と想像力を糧とするアナログ構造。 ・哲学者として、21世紀をより良い世界とするための努力を怠って来た のでないかという忸怩たる思いがある。 読売新聞紙の記事から引用しました。 専門家もそう思っているのかと納得はしましたが、遅すぎます。 私たちは、もう、理性のみを中心にする哲学を捨てなければいけません。 これからは感性に裏打ちされた体を通した哲学でなければウソです。 もう、頭のなかで作った(創ったではないですよ!)ロジックだけには、 辟易しています。 普通の庶民に判りにくいもの! さも、哲学=難解の構図を作ったのが、過去の哲学者の功績でしょうか? 学(ガク)がないと解らない。 だから哲学=キライな人ばかりだと思います。 どことなく自分の能力がついて行かないように感じ、 哲学や学問をする柄じゃないよ~ そう思ってきたのは、みなさん人がいいからですわ。 哲学を責めたりしないのね! ほほっ。 その前に逃げますか? あはは。 私は、いつも思ってきました。 逃げるのがキライだからですが、 ほほっ。 私が、常々それをおかしいと思ってきたのは、 哲学は、何の為にあるのか? それは私たちの為にあるのですよ。 そう、私のために! みんながそれぞれ私の為にある、 そう思ってください。 今までの哲学という学問がおかしい! 難しかったのは我々が”おばか”だからじゃなくて、、、、、? それこそ、そう思わせてきた哲学が無力なんだ。 一般人を引きつけられない、そういう魅力がないから、 生活の言葉で、語れないから。観念世界の作り物に過ぎないから。 それは、○○○哲学そのものの限界である。と思って来ました。 実は、わたしも共産主義は一通り洗礼を浴びました。が、 でも、体がどこか受け付けない、生理的に馴染めないものでした。 自分のブログの中ですから好きなように書かせていただきますが、 あはは。 マルクスって、ひがみ根性を持っている男なんじゃない? ほんと、永らくそう思って来ましたよっ! ほっ。 左の方って、そういう方が多いの! あはは。 そういう彼のマイナーな潜在意識・性格を感じ取ったら、 もう、彼の理性の狭い暗い道にいっしょに入って行けない! 私には、無理! あはは~ そう思って、あほらしいと思っただけでした。 彼は人間を本当に分っていない! 自己のひがみ根性を正当化する為に、ここまでやるの? バカバカしくって、 若い私はそう思ってマルクスを捨てました。 資本主義もそう、 どうしてこうも、 偏った物ばかりがメジャーな思想になるの? ほほっ。 今、私は資本主義の社会に生まれて生きていますが、 ムズムズと居心地は良くない!ですね~ 何故って? 資本主義の世界で生きると、知らず飢餓感に襲われます。 それを毎日自分の心の中から排除しないと、 資本主義に毒され続けるという事です。 資本主義は、欲望の整理ができていない。 如何に理性的な言葉をロジカルに組み立てていようと、 所詮キリスト教思想の積み木を、 ただ組み立て方を変えただけじゃない! って、 マルクスさんとアダムスミスさんの事をそう思ってしまったのですね~ 生産の分配をどうするか? 両者は、キリスト教の塔の右と左の窓から眺めた景色です。 共産主義、資本主義、あれは狩猟民族が「飢え」から逃げたくて、 生まれた思想ではないのか? う~ん、 これは、私の生育暦からくる個性なのかもしれませんが、 何かが、真理というからには、 その証拠に五感で受け入れた時に、 頭と、心と、体が、同時に受け入れるのだと思い込んでいます。 たとえば、ドキッとするとか、 体に汗を感じるとか、血の巡りを感じるとか、 喜びになるとか、涙が出るとか、 そういうさまざまな症状が 意情体=生命に感じられるものだと、 それが宇宙だと、大前提だという基盤が私の内側にあるからです。 頭だけが納得するって、ありますよね。 それは、認知する脳の一部分が理解する、 まさに理解です。 理解というのはまだ観念的な世界の出来事ですね。 ここの段階はまだ、本当の事かどうか判らない。 そう思っています。 理屈はそうです。 政治にはいつもここで騙されるのです。 ウソなのに、 言葉のロジックで騙されるのです。 ロジックに頼る限り仕方ないですね。 主に男性が創った人工物ですから、 理性もロジックも人工の概念だから、まるまる当てにはできません。 理性で並べただけの論理では、人は救えないのが判りました。 理性の限界と言っていいでしょう。 もう、古い?のです。 人は感動したら知らず涙が出る。 どうしようもなく悲しくなる。 これが感性でしょう。 自ずと、体を軽く感じる。 背筋に血が上って暖かくなる。 手に汗握る。鳥肌が立つ。 頭に被さっていた物が晴れてすっきりする。 これが体感です。 それと理性。 この3つが揃わないと”真実ではない!”と、私のウソ発見器が申します。 私のウソ発見器で”うそ”と出たら推移を眺めるだけにします。 あとは、観察です! 本質が分るまで手は出しません~ 真実は簡単なもの。シンプルという意味です。 すっきりしているものです。 体の中心部に衝撃が走る。 それに近いものです。 ほっ。 感性では、うれしくなるもの。 がんばろうと思えるものですよ。 そして、威張らないものです。 やさしい言葉・生活の言葉で語れるものです。 そうあるべきです。 そうでなければ”ウソ”だとウソ発見器がささやいて、、、 これからの哲学は、 理性でロジカルに語るものではない所に、 出現するでしょうね。 哲学は、哲学者のものにはあらず、です。 宇宙と、自然と、地球と、 あらゆる生命・私たちのための哲学であるべきです。 生活の現場からです。 これからは、 理性の満足という観念的な言葉の論理性の追求だけでなく、 心も健康になり、体も血色がよくなる、 というような実践的な「感性と実感」に 裏打ちされた哲学のはずです。 東洋の智を、”温故知新”まず温故、知ることから、思い出して、 そして温めましょう。 温める=陽光、体温、地熱が感じられます。 太陽(天)、人、地です。 熱線で貫かれています。 生命のエネルギーです。 これらの事を、 あなたのいのちの中で、、、、、 温めておいてください。。。 良き一週間をおすごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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02/23 10:46 |
道徳1 今よりもっと諸悪が増えて悪が分散し見えにくくなるだけです。Category : 生活哲学
![]() 武蔵野の朝 最近ですが、めずらしい記事を、 道徳に関しての記事ですが、新聞紙上に発見しました。 今こそ道徳 と大きな字が目に飛び込んで来る位の見出しで4段抜きの記事を見ました。 何ポイントか、活字の大きさが、縦横2,5cmもある見出し字で、 記事の真ん中にぶち抜き! (ご覧になった方もいるでしょうが) 真上の見出しが、命の尊さ 規範意識 郷土愛 つづけて、県教育局が独自資料集 小中高生向けと白抜き文字で! きっと記事を書いた記者も、注目をしてほしいという気持ちで 記事にしたのでしょう。 読まずにはいられない気にさせる迫力があって、 私も日頃、これに関しては関心があるわけですから、すなおに読みました。 埼玉県が、全国的に異例という「道徳」教育用の資料集を 製作したという記事です。 暴力行為やいじめなどの問題が深刻化する中、命の大切さや他人の痛み、 帰属感といった問題を学ぶきっかけになればと 企画された資料集を紹介していました。 こういう資料集を作ったのが、全国的にも異例というのにも驚きましたが、 埼玉県内の公立小中高の生徒の暴力行為は2008年度に2559件発生し、 過去最高。ネット掲示板の「ネットいじめ」も認知されただけで131件。 具体的にこういう事件が増えていっている事は切実です。 一部、資料集の内容がそのまま紹介をされていました。 学校教育での授業で、道徳を学ぶ参考にするための”良い行い”についての 紹介の物語の内容も、ただ事実が列挙されているだけです。 なぜ主人公が、そのような良い行いをするようになったのか? 主人公が真似をした母親の善意の行動の本当の動機はなにだったのか? 子どもの心が理解し、納得して共感できるデーティルをもっと、 さらけ出す必要があったのではないのか? 全体が当たり障りのない上辺だけの説明で、 ほんとうにこれで「道徳」心が芽生える事ができるのか? 読んだ記事の範囲のなかですが、そのような不足を感じました。 現在の小中学校の学習指導要綱は、道徳の授業について年間35時間行う と定めているものの正式な教科とは位置づけられてはいない。 特に高校は何の規定もないままです。 埼玉県は、県内の公立高校に対して「年5回以上、道徳の授業を行う」と推進 方針を通知するそうですが、 他府県は、そこまでいっていない状態なのでしょうね。 それにしても、年間5回ですか・・・・・ 日本という国が、どういう人間を未来の国民として育てたいのか、 まったく指針も目標も持たずにいること、 この現状を知ってあきれたというか、教育に関しては国の体を為してない、 それは、滅びに向かっている国と言うよりも、 わが国の教育においては、もうすでに国の姿形が無く、 国柄は溶けて無くなっているといえるのではないでしょうか? こういう見えない部分の象は、かならず目に見える現象の世界に具現します。 3年、7年、10年、30年で取り返しがつかなくなります。 それで経済? 学力テスト? 行財政改革? 財政規律? 安全保障? 笑ってしまいます。 できるわけないでしょう。 未来の姿が形作られて初めて現在のするべき事が分って来るというもの! まったく、人間教育をないがしろにしておいて、政治家が何に夢中なの? 人の本性は、制度ややり方で変わりません。 何の改革も人間を変える事はできません。 ただそういう人間の弱みを踏まえたリスク管理をするしかない。 制度や法律を変えても、その制度と法律の数ほど 今よりもっと諸悪が増えて悪が分散し見えにくくなるだけです。 人の欲望に対するアンチテーゼを設けられない、築けない国が、 人の欲望に対するアンチテーゼを設けられない政治家が、 未来ある子供たちに、それを指し示し指導できない国が、 未来ある子供たちに、それを指し示し指導できない政治家が、 この国のために、これ以上の何ができますか? もっと悪党になるだけです。 中高卒の若者失業率 最悪14,2% もう、おわっている。 この国には、羞じることもなく、誇りも忘れた金銭にだらしのない男が、 二人えらそうに居座っている・・・ いのちの継承を大事にできないままで、、、 少し、みなさまもっと深い処で考えましょう。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 教育問題について考える |
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02/28 11:46 |
道徳2 道徳は、心と体にいいこと、いのちにいいことなのですよ。Category : 生活哲学
![]() 暖かい冬の日 道徳を、新聞記事から取り上げた前のブログ記事へ、 次のようなコメントをいただきました。 公の道徳教育は、 戦前の教育とダブって身動きが取れないような気がします。 だからといって、このままでいけませんので、草の根ではありませんが、 各家庭といいますか、 個人が道徳心を養わなくてはいけない時代だと思います。 今の日本の現状を国民目線から見たコメントですね。 どうもありがとうございました。 たしかに今、こう言うしかないのが私たちの状況です。 私も分っていながら記事を書いたわけですが、 正直なところ、官の行う公教育で道徳というものを教えるという事は、 あまり期待していないのです。 まず! 言葉だけ理屈だけで教えるものではないのですから・・・・・ しかし、親の関心は、学校がどう教えているの? この一点でしょう。 学校は子どもも影響を一番受けますから、 そういう意味で無視はできない、重要な場所だと思います。 その上、社会全体がその気になっていないのに、 大人が本気になっていないのに、子どもだけをターゲットにして 道徳の箇条書きだけを教えるというのも、後ろめたい気がします。 日本人はこうして生きてきたという 過去からつながっている道徳心の伝統を 今の大人がどれだけ感じているか? 持っているか? 説得力があるか? と考えた場合、正直なところお互いに自信がないのでしょうね。(笑い) 私もそのなかの一人ではあります。(笑い) まぁ、何もしないよりましか? せめてこれ位やらねば! という曖昧さと良心が道徳の現場にはあるかもしれない。 ”これからの道徳は学校と家庭で、それを取り巻く社会全体が 取り組まなくてはいけないわ。いっしょになってね。” ここまでは、皆が心の底で考えていることなのに、 なぜ、それが出来なくなっているのか? この点について、 この重く垂れ込めている道徳の雲を払えるかどうか? 分りませんが、、、 今回、どういう道徳?という点は、すべて省いて、 考えてみましょう。 歴史上、今の現実に至ったのには、2,3の原因が挙げられます。 まず、ひとつは日本のある時期から道徳の本来の意味が 摩り替わってしまっているのですね。 何事も本質的なものが滅びる時はそうなのですが、 重要な核心は抜かれて、卑小なものに摩り替わるのですね。 尊いものが、滅びる原理はこれです。 元々の目的を見失って、卑小な邪悪な通俗的な目的に利用されるのです。 一番は、他者を支配しようとするあらゆる権力に利用されるのです。 (オオカミがヒツジの皮を着るようなものです、) 政治利用ですね。 政治は、そうでナイものを、そうでアルと言ったりします。 政治は『陽』の極地ですから、時間の経過でかならず偽になります。 政治ほど時間の経過に左右されるものはないでしょう。 政治家の言葉は、すぐに腐る魚のようです。 日本の過去に思い当たることが、ありますね。 権力者こそが、本来の道徳の真髄を身に付けていないといけないのに、 その真逆に、徳のない権力者が、 自分の権力欲を正当化する為に 民が信奉している尊い物を身にまとったように振舞い、 尊いものを利用し、民をだまし愚弄するのです。 それで日本の道徳は、狂った使われ方をされて、 中味を貶められたのです。 (これは民の側にも責任があります。形だけの道徳を持っていたからです) 一度貶(おとし)められた物を、人は二度と拾いません。 そのことから、本当は為政者自身が反省をして国民に詫び、 本来の道徳を見出さなければいけないのに、 わが国の為政者は、責められれば他国には謝るけれども、 国民には、本当の反省と、謝罪は行われていないように思います。 この国の民は、 ウソをついて道徳でひどい目に遭わせた政治家を 責めるわけでもなく、 人が良いままに、戦勝国の裁判結果を受け入れ、 原爆を落とした敵国を憎むわけでもなく、 肉親を奪った無差別爆撃を怨むわけでもなく、 正等に抗議すらしないまま、 自分の感情を抑圧して、 ただ自分たちが持っていた道徳=恐い! その過去を捨てよう! それが進歩的だと思って生きてきたわけです。 そういう雲が垂れ込めていますね。 通常の人間の感情ならできない事を 戦後の洗脳教育で越えてきた。 そのスタートに、 すでに道徳の根は手からすべり落ちてしまっていた。 かって、今も、目の前を見ても、 道徳の雲を払ってくれるような徳を積んだ政治家はいたっけ? いないわ~ 悪は為していないと強弁し、自ら説明しない、 国民に対して『礼』や『義』を欠いた権力者が一人じゃなく、 二人も居座っている! 普通一人ですよ! 人の作った法で悪とならなければ、道徳は無視してもいいの~? 人為の法は時と共に変われども、不変の法を道徳と言うのでしょう? 道徳の方が、まったく上位の法ですよ! この状態を作り出す人(鬼畜?)を「賎しい」、 「ずるい」、 「品の無い」、 「不徳の人」と言うのですよ。 『礼』や『義』のないところに、『仁』があると思いますか? まして『信』など持つ事が出来ますか? おそろしい~ 道徳的に成っていない事を、 正義として強権で通すということは、 今よりもっと、道徳をおとしめる行為そのものです。 60年前の為政者は、道徳を語って国民をだましました。 それは、国民が道徳を大事にしていると見ていたからです。 だますのに、道徳の力が要ると踏んだのです。 しかし、 現在の為政者は、初めから道徳を無視しています。 これは、国民を舐めている、無視している事になるのですよ。 道徳の程度が低い国民だから、オレのやっている事は正義で通る。 読みの鋭い権力者が、そう思っている行為そのものです。 ここに、なぜ、私たちが道徳を大事にしないといけないか? 答えがでています。 道徳を必要ないと捨てた国民には、 道徳性のカケラも無い政治が、平気で押して来るという事です。 断っておきますが、 これは、政治論ではありません。 まして今の政治を政治的に批判するのが目的ではなく、 その根本の、思想、哲学、そこからの道徳を論じているだけです。 誰が良い政治家かどうかは、どうでもいい事です。 人に拘り、人に停まるのは私の好みではありませんから、、、。 その政治家が持っている哲学(陰)が低ければ、 その現象(陽)である政治は、見る影も無くなるはずです。 論じる必要もないわけです。 ここのテーマは、東洋哲学であり、その生活哲学・道徳論です。 そのように、 いまだに日本においては、腐った魚のニオイが鼻についています。 たしかに、コメントに書かれているように、 私達一人一人が、しっかりするしかないのです。 現象面として、 民法の改正? 夫婦別姓、外国人に参政権を与える、こども手当て、 良いか悪いかは別として、今までに無い物がどっと押し出されています。 今、短兵急に、 これらの事を私たちはじっくり考えられますか? 気になるのは、 これらは全て、道徳的な影響面は議論されていません。 これらの政策で、 日本の貶められた道徳がもっと、おとしめられるのか? 逆に、これを切っ掛けにして精神性が向上するのか? 物質面だけにおいて議論されて、精神面の影響は無視されています。 所詮は、物質文明の渦の中の掻き回し方の違いしかないのでしょう。 なら、もっと将来において、 日本は精神の荒廃が進み、苦しむことになりますね。 結局は、 私達の道徳に丁度の政治が、行われているというだけです。 私達の道徳に丁度の経済が、目の前に続くというだけです。 道徳を無視すれば、私たちの徳性を無視した政治や経済が行われます。 その程度で支持をする軽い国民だと、為政者は見抜くわけです。 為政者だって楽をしたいのです。 手を抜きたいのです。 あはは。 その程度の政治や経済の知恵しか、世の中に出て来ないのです。 自分が他者を重んじれば、他者は私を重んじてくれます。 なぜ、道徳を言うのか、 それは運命と深く関わり一体だからです。 このブログの目的は、 精神性・哲学と道徳がそのまま「運命」だという事です。 心と体は、別々ではありません。 道徳は、心と体にいいこと、いのちにいいことなのですよ。 道徳は関係ないけれど、お金さえあれば、、、 道徳は関係ないけれど、健康ならいいのよ~ それは、物質文明の浅瀬しか見ていませんね。 人生の実態は、目で見える程、そこまで単純ではありませんから。 昔の中国の『呂氏春秋』という本に、 徳のそなわっている人が国を治めれば、 自然もおだやかに中庸に、 したがって雨が降っても山は崩れず、 地震や災害も起こらず、農作物は豊作に、 世が平安になると、書かれています。 つなみだって、地震だって、人心を不安にする災害は 起こらなくなると、、、。 物質性+精神性=世界の現象=いのちの現実です。 同じく『呂氏春秋』には、 私達の思う事は天地に通じ宇宙を覆っている、とあります。 次へ、つづきます。 それでは、よき日をお過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 心と体にいいことはじめよう! |