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03/05 11:31 |
道徳3 私達は、東洋の素読的な知の理解というものを失っていったのではないか。Category : 生活哲学
![]() 窓に凍りついた氷の結晶 氷が視界を邪魔するように、 現代文明の意識が、本来の私達の認識の邪魔をしています。 今日は、道徳の3回目、 正直に言うと道徳について今、ここまで書こうとは思ってもなかったのです。 前々回、次のようなコメントをいただきました。 いつもお伺いしようと思っていたのですが、 今の人の主張は、感覚、知識、意識ばかりが溢れています。 何か、偏りを感じています。 子育ての話題も意識、音楽についても意識、政治も意識、 息がつまりそうです。 東洋学というものに触れたら、 こういう風に気が付く感覚が、自分の内側で育ってくるようです。 このブログのせいかしら? (笑い) 子育ての話題も意識、 音楽についても意識、 政治も意識、息がつまりそうです。 分るような気がします。 政治が、意識的という事は当然としても、 特に子育て・教育は意識で構築したロジックだけでは不十分ですね。 一般的に女性は教育や育児を、心を中心において理解しようとしますから、 意識的な言葉だったら、理屈は解っても、体が動いて、行動が出ません。 体と心が動かない教育論は、意味がありません。 音楽もそうですね。 モーツァルトなどを、意識的な言葉でいくら解説してくれたとしても、 あのモーツァルトの音楽は、伝わらないですものね。 意識的な言葉で、全てを理解できる、させられると思うのはダメね~! 女性は、生理的に受け付けない処がありますよね。 その無意味さを直感的に分ってしまうのです。 言葉だけの理解で何が手に入るの? と。(笑い) ついでに紹介しておきますと、 カントも、人間界では「意思」が出発点になる 、と言っています。 西洋文明の哲学者は、実に! いろんな認識の道具や存在の意義を作り出すものですね~! ここから東洋です! 東洋学の言葉は漢字は難解?でも、漢字の表記でほぼ意味が通じます。 特に中国の古典を読むときに、 漢文の素読で声を出してそれらの文を読めば、 目から字の意味がうっすら脳へ、その音が耳へひびき、 脳から全身へ。 口を動かす筋肉から体感へ、 何かが自分の体の中から、 その文中の匂いと同じものが、立ちのぼって来るような気がします。 文中の意味を、音の美しさを、 言葉の真実味をシャワーで浴びるようです。 私達の先祖は、そのような 東洋の素読的な知の理解というものを失っていったのではないか。 いつから? 明治維新以降から入ってきた西洋文明の書物や考え方、文化などを 吸収する為に、 我々の先祖は必死で西洋の実証的な知識的理解というものを 受け入れていったわけです。 そのおかげで、ずいぶんと進んだ面もありますが、 その結果、今の道徳の捉え方は、 西洋の実証的な知識的理解のみに終始してしまっている。 と、言えなくもないと思うのです。 まさに、心に思う事を身体的実践で行うのが道徳とすれば、 西洋の実証的な知識で道徳を理解させようと教えたとしても、 本当の道徳の理解には至らないという事です。 『いい番傘を作る』という例えで言いますと、 まず番傘の仕組みを知るために目の前にいろんな傘を並べて研究して、 形をデザインする。 それから、それがどうしていい番傘になるのか 材料や形を理解できるように説明する事で終っているのです。 心・体=いのちという身体的実践が伴なわないまま、、、 解ったつもりになっている。 雨の中を番傘をさしてみるという経験をしないまま、 番傘の事が解ったつもりになっている? 一度もさしたことの無い番傘。 あれこれ理屈を教える。 だって、それが今の世では頭のいい人なのですものね~ それに気が付かない文化が、ずっ~~と、 西洋化の波の中で続けられてきたのではないですか? この世界や、宇宙、又、人間や、いのち、は、 間違いなく人間より先に存在していたものです。 それなのに、 その本質を見ようとするのに、 人間が400年前に気づいた意識という、 知る方法の一つでしかない西洋の実証的な知識的理解でもって、 この世界のすべてを推し量ろうとする事が、 余りにも稚拙であるという事に、もう気がつかないといけない。 そう思われませんか? まぁ、モノを扱う場合はそれで間に合うかも知れませんが・・・ 人間の行動は、感情で動く部分が大きい。 無視はできないですね。 感情を無いものとして扱い、なんでも自分が意識する物を中心に 全ての存在を論じようとする。 この西洋的な知の有り方そのものを考え直さなければ、 次への扉は開ける事はできない。 そう思います。 その点、東洋においては、 この世界や宇宙、又、人間や命の本質を 見極めようとする時は、 必ず、意識できる知性だけに頼るだけでなく、 情的な感性と体感を伴なう身体的実践を重んじてきました。 また、一度確認されて普遍的な知となった智慧・悟りを 後世へ伝承するにあっても、その正確な追認には、 かならず身体的な実践を欠くべからざるものとして来ました。 なぜならそれら(この世界や、宇宙、人間や、いのち)は、 意識だけの存在ではなく、 なにかあれば、私達の全存在に影響を与える存在だからです。 だからその確認には、 意識したものを文字やデーターとして留めただけのものではなく、 生死において肉体・精神=命で覚知する基である という前提があるからです。 道徳においても、そうでしょう。 西洋の実証的な知識で道徳を理解できるとしてきた事。 これが、私達の道徳への鈍麻性につながっているのでは? 道徳への鈍麻性の例、 西洋の実証的な知識を身に付けた人とは、高学歴の人です。 高学歴と道徳性は比例しないでしょう? あはは。 北教組の幹部たちの選挙資金の違反、 教員採用試験等の教師の犯罪、 警察官、判事、弁護士、医師の保険請求の犯罪、 議員のお手盛り、政治資金の不正、きりがないです~。 その鈍麻性を、失くそうと思えば、、 自らの道徳性を磨く事なしにはできないでしょうね。 道徳を箇条書きにして、壁に貼ったところで何にもなりません。 憲法や法律のように、人間が作った法律ではなく、 人の所業に、良心によって確認される成文化されない則です。 条文化されていないイギリスの憲法に 少し通じるものがあるかもしれません。 私が今まで、東洋、東洋!と絶賛してきた 我が東洋の哲学の特長は、 体を通してしかそれらの真髄は分らないという点にあります。 身体的実践を伴わない西洋哲学とはココが違うのです。 当然、そこから生まれた道徳の価値もそうです。 体を通して、初めて道徳の真髄が分るのです。 本当の道徳とは、 身体的実践を通して、取り巻く環境との交流から、 他者との反応、それは喜びや感謝で還ってくる感情的満足、喜び、 自己と他者が共に向上する喜び等を、 心身共に取り入れ味わいながら命の深奥へ積み重ねられる 宇宙やこの社会との共鳴です。 その共鳴のリズムを心身両面で感じ、培った命は、 次、欺瞞を帯びたものに対して敏感に反応するはずです。 かりに為政者が、人に喜びを施すという手練手管を使って、 腹の中では時代を思い通りにする欲望を秘めて謀ったとしても、 我々の心身に、他者との徳性の向上における喜びが、 刷り込まれていれば、 それをひとかけらも感じさせない為政者の言葉には、 騙されない知性と感性、意識が私達のいのちに深く根を張っていて、 自らが陰謀の穴へ落ちてしまう事から 守ってくれると思います。 あらゆる権力や魔性が、我が身を蹂躙しようとしても、 それから守ってくれるのは、お互いに見抜く力、 自分の培ってきた自分の徳性しかないのです。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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03/07 12:03 |
運命鑑定日記 4 . 生活保護という制度を親子関係から眺めると・・・Category : 運命鑑定日記
![]() 美瑛の木々 森林・鳥の鳴き声をどうぞ! 先日次のようなメールをいただきましたよ! ここ最近のcosmosさんのブログを拝見してると、 怒りの様なものを感じました。 わたしが今抱えている問題とどこか似たようなものを感じます。 人間が持っている本質と言うか、 誰もが持っている欲深さや醜さの表れでしょうか? いや~やっぱりわかりますか? (笑い) 怒り、そうですよ~ 怒っていますよ~ (笑い) 人間が持っている本質、誰もが持っている欲深さや醜さ? いいえ、それだけではありません! 仕事柄それだけなら、怒りを感じる対象ではありません。 毎日、見慣れていますし、驚きもしませんし、 当たり前だと、、、(笑い) 実際、どうすればいいのかも策として持っています。 しかし、 この私がここずっと、怒りの様なものを感じながら、 その反面、深夜、夜空に祈りたくなる位の心境でもあるのです。 怒りを覚えるのは、 ここ増え続けているご相談の傾向です。 自国の歴史と魂の根を失った民は、 ここまで堕落するのかと、まざまざと見せ付けられるご相談が、 目の前に並んでいます。 政治どころじゃない、精神が病んでいます。 本来は、前からのつづきで『道徳4』の流れですが、 今日は、それは先に置いておいて、 ご相談の中から、記事にしたいと思うものがあります。 細かく書きますから、少し長めになります。 最近は、国の制度的な問題がからんだご相談が多くなりました。 国の制度があるために、悩みの解決が複雑になってしまっているのです。 ひとつは制度自体の問題、 そして運営する行政側の問題、人の問題です。 制度を運営する側の無神経さ、何の為という目的感の喪失の問題です。 丁度、国会は、 ”こども手当て” 高校無償化”法案が可決という時です。 それに反対というわけではなくて、 いろいろな問題が孕んでいる? そんな危惧を感じています。 制度自体が、かかわる人を不幸にしているような感じがします。 そこに怒りを持ってしまうのかもしれませんね。 前々のブログで、 学問や法律や制度は、所詮人間がつくったもの、 『陽』の現象世界の事柄、と書きました。 陽における現象世界は、 時と共に価値観も変われば、ウソにもなり、 矛盾があるのが当たり前です。 それを前提に、 今日の記事は、 親子関係の問題と自立という問題に生活保護という制度が からんでいるケースです。 読んで大変驚かれる内容かもしれません。 ご相談者は、60代の母親Bさん。 悩みは、高校を中退して家出をした現在31歳の娘さん、 b子とします。 b子の素行が凄いのです。 家出の理由はそれまでの家庭内暴力です。 ほとんどの家具、建具、食器、本、家族の衣類が、 b子の家庭内暴力でゴミになったそうです。 夜、包丁を持って暴れる16歳のb子に 毎晩対応するのは不眠不休の父親だったそうです。 Bさんは夫に”危ないから車で逃げろ!”と言われて 車の中で夜を明かす。 他の兄弟はアパートを借りて、そこで受験勉強をさせたそうです。 b子は、「家に火をつける」と母親を脅して 毎日1万円の現金を取り上げ、 金髪に髪を染め繁華街に繰り出す。 今から15年前ですから、ご両親は、相談する所もなく、 家族が一致してb子の乱行に耐えて来たと云うのです。 親だから自分たちの責任だと、 それが約2年つづいた、、、。 その後、困り果てていた両親が ”家を出る”というbさんの要求を認めて (ある意味、家族もほっとして) 働きたいという娘の言葉を信じてアパートを借り、 一人暮らしをさせます。 b子からの条件は、 父親名義の携帯電話を持つ事と絶対に会いに来ない事でした。 家庭内暴力の原因は、 他に心当たりがないと言いながら、Bさんのお話では、 b子が祖母に溺愛を受けていたと云うお話を聞きました。 その祖母が亡くなってからb子は、突然変わったそうです。 b子はアパートも勝手に点々と移って、 両親は居場所をb子に知られないように捜し、 滞納の家賃や光熱費を払うという事がずっと続いたという事です。 親というのはありがたい存在ですね。 その後、仕事先の寮へ入ったと言って来た時は、ほっとして、 父親が就職の保証人になったのが最後で、 それから4年後、 連絡があって知らされたのがb子の妊娠だったそうです。 相手は18歳でb子は20歳。 入籍はしても夫婦の自覚は薄いはずです。 b子の父親の経済的援助を受けて、産院で女児を出産をし、 なんとか生活を成り立たせていたところ、 近くに住む彼の実家の家業がまもなく破産し、 舅姑も離婚、一家離散となります。 支えがなくなればb子たちも離婚です。 b子は子どもを施設に預けて夜働きますが続きません。 彼は、仕事を探すと云って家を出て帰って来ませんでした。 b子が、21歳の時、産んだ子供が2歳になった時です。 17歳の高校生と同棲を始めます。 その彼は、b子が夜働く間、1歳の女児を見てもらう為に、 家に引き連れて来た年下の男の子でした。 b子は、21歳でまた妊娠。 進学校で大学受験を控えていた彼は進学を断念し働き出します。 彼は、父親と上手く行かなくなります。 彼の母親MさんとBさんとで、連絡を取り合って、 b子が生んで乳児施設に預けていた女児を引き取り、 b子と女児、彼と今度生まれた男児の4人家族で いっしょに暮す事ができるように助力をします。 が、Mさんが突然亡くなったのだそうです。 これで上手く行くかと思うやさき、 いつも、b子の家族運の無さが出て来ますね。 おわかりになりますか。。 。? 援助者が、亡くなる。居なくなるのです。 6年後、突然b子は、2番目の夫を追い出します。 (何事も我慢ができない性格だから、と、 Bさんはそう言われました~) 誰もが反対する中です。 (そりゃそうでしょう) b子と子供が母子家庭になってからも、 実家に戻った人の良い彼は、 生活費として毎月12万円を振込んでくれたそうです! ★それを知った父親に怒られます。 「お前は人が良すぎるんだ! 減額しろ~」 それは、そうです。 彼自身が実家で面倒を見てもらっているのですから、、、。 その結果、 彼は自分の子供分の養育費2万円を送るだけになります。 Bさんの言葉で言うと、(いい加減に周りに甘えて生きて来た) b子は、市役所の福祉課へ「食べるお金が無い~」と 泣き付いて行った。とその役所の人から聞いたそうです。 その日から生活保護の認定がされて、 現在毎月18万円の支給を受けているそうです★ ★~★の間は、 Bさんにとれば、b子に何とか自立をして欲しいと思って、 面倒も見ずに突き放していた時期だった為に、 その経緯について何も知らなかったそうです。 Bさんは、これら★~★の間の事を、 b子からでなく、市の福祉課からの連絡で知ったそうです。 bさんの生活保護を認めた市側が、 ”家出をしたから親の住所は知らない”と言うb子の住民登録から、 移動元を尋ねて両親の住所を探し当て、 連絡を取ると言うのは理解できます。 しかし、私は、次の言葉を、Bさんから聞いて耳を疑いました! 「娘さんが生活保護を受給されるようになったので、 身内の方としてもできる援助をしてほしい。 それだけ我が市の出費が抑えられるからです。 幾ら援助できるのか金額を書いて欲しい。 それを支給額から差し引く事ができるので、市の財政の為です。」 という趣旨の話しをb子の住む市の福祉課からされたそうです。 Bさんの心にはさまざまな思いが、感情が沸き起こったそうです。 ・娘の母子家庭の生活を守ってもらえてありがたい。 ・しかし、18万円とは? こんなに支給されていいのか? ・パートで働けば世間の相場はせいぜい月9万円位、 こんなお金を貰っていて、自分で働こう将来自立しようとするか? ・b子が家計のやりくりがいい加減なのも、コンビニのお弁当ばかり買い、 PCのゲームサイトでお金を賭けて遊んでいる事も知っている。 ・市の財政のために協力をしろと言われても、 年月15万円の年金生活をしている親が、18万円も貰っている やりたい放題に生きてきた娘に援助をする必要があるのか? ・これでは働くような意志を持つとは到底思えない。 このまま生活保護のお世話になってしまうのか、と先々の事を考えたら 憂鬱になってしまう。 市側にお金を出せば 「親のせいで市から貰う額が少なくなった」と娘さんから責められる辛さ、 どうしよう?と。 ・Bさんから市側に、この18万円の支給額をもっと減らされないのか? それがダメなら、 税金をこんなに支給していただいてありがたい話だけれど、 お金の使途を家計簿をつけるようにチェックする等、 ケースワーカーの方に指導していただけないか?と 申し出たそうです。 それは無理だという返事だった。 ・こども手当てが加算して支給されるのか? 2人で満額なら52,000円 で月に23万円以上の収入になるわけです。 それはそうです。という福祉課の回答だったそうです! これでは、もともとダメなb子が堕落をすると、、、これでいいのか? このまま、b子は、ダメな人生を送るしかないのか? 自立する事のできないまま一生を送るのか? b子は、自立できるのかどうか? そういうお悩みです。 最後の方は涙ながらに、 馬鹿な子を持った親の悲しみを洗いざらい話されて、 Bさんは、少し楽になったように見えました。 辛かった15年の歳月を、母親一人で耐えて来られたのでしょう。 ずっと、母親の自分の責任だと悩んで来られたはずです、、、。 今の知識偏重の社会構造のものさしで、 彼女の責任、母親の責任、親の責任、云々の言葉を出した所で、 それは、空を切るような言葉、何も進歩しないでしょう。 傷ついて来た人を、もっとメッタキリするようなものです。 運命学的には、そのようなお話はしません。 お互いにつまらないでしょう。 母娘を、それぞれの誕生日から命式で鑑定しますと、 bさんは、 誰の言う事も訊かない自立心旺盛、親を親とも思わない命式です。 誰の言う事も訊かないのですから、 当然夫の言うことも訊くはずがありません! 男性が負ける位に頑固で自己中心です。 市側のケースワーカーの言う通りにもならないでしょう。 Bさん、 「娘の性格は、空恐ろしいです。絶対に自分が折れる事はしませんから。 これからどうなるのでしょう?」 Bさんは、 彼女の名誉のために言いますが、普通のしっかりしたご婦人です。 こういうご苦労を抱えて悩んで来られた風には、 見えない方です。 確かに! 子供運には恵まれていない人でした。 ”漂流する女たち”と以前の記事で書きましたが、 今、このような確たる仕事も持たないで、 平気で幼子を抱えて離婚をする女性が多いのです。 少し異常ですよ! どうして、こういう現象がいっぱい出て来るのでしょうか? 運命学的には、 原因は解っていますが、 このご本人たちに それを解らせるのは、容易じゃないのですね。 彼女たちが当てにするのは、夫ではなく、公的補助です。 今、離婚をした彼女たちを手厚く支援する制度が、 市や県に出来ています。 医療関係の資格を取る学校に行けば、 毎月14万円の生活費が出るとか、、、 女性を守る、少子化の為に、国や地方公共団体の作った方策です。 彼女たちの年代は、団塊の世代のジュニアたちですが、 親の生活力の旺盛な時期に育って来て、 恵まれた物質文明の恩恵しか知りません。 物には困っていませんから、 人生を甘く、社会を軽く考えているのかもしれません。 しかし、 結果的には、国家がこれに加担をしています。 昨今の不況で、いつ首になるか分からない夫より、 彼女たちは、国を頼り始めています。 これに類する記事をまた、書きたいと思っています。 形だけの制度を作って、もう!硬直しています。 ケースワーカーの裁量も、どうなっているのか? Bさんが、 「国にとっては、一人でも多くの納税者を育てなければ、 国が傾くわけです。 私どもも少ない年金から税金を納めています。 でも、こども手当てを含めると病気の診断書を出すだけで、 一人の男性の収入を越える給付を受けられるなんて、 このままでは国が滅びますね。」 市側「そうなのですよ。そのとおりです。 だから親御さんも援助の金額の方を宜しく、、、 市を助けてくださいよ。」 と、言われたのだそうです。 (それで、筋が通っているのでしょうか?) 公(おおやけ)=行政が人を救う事のむずかしさ。 矛盾点です。 行き届かない行政の紋切り型。 人を思うより行政の規則を守ることに汲々とするお役人。 役人が、 行政を仕事として無事に行っていく事が目的になっていて、 その過程において国民が手段化されてしまっています。 行政の目的は、 市民を助けてりっぱな国民にするはずですが、 そんなことは置いておいて、 目的の自立させる事などより、 予算いっぱいまで目の前の国民にお金を配る事で精一杯、 それで人を救うと云う仕事が終ったとするしかない 低水準の機能しかしていないのですね。 法律を実行するのに、 その要所、要所で働く人間が、実行しながら喜びを感じられない。 こうする事は無意味だと思いながらやっている。 精神の荒廃とは、この事を言うのではないのですか? それが、官吏、役所、国民の接点で、起こっている。 国のタガが外れて来ているということでしょう。 公務員制度改革どころじゃない。 法律の精神が公の組織に行き渡っていない。 それを伝える公務員が、 使命感を持っていないという事ではないですか? この先の国の行き着く先は? おのずと知れたところです。 退廃と頽廃、国が機能しなくなる事です。 オーバーに言えば、 年金を払わないで将来を生活保護を当てにし、 母子家庭の援助や支援を頼って 生活にあてにならない夫を捨てる、 こういう離婚が増えています。 国の事を考えない国民が増えて 行政側はお金を支給する事だけで終っている。 生活保護を抜け出す為にどう指導するのか、 その手立ては見えないまま、 年金暮らしの老親が生活費を工面して、 娘を援助しなければ、国が破綻するから? この理論はどこから出て来るのでしょう? 援助して将来に希望が持てる事なのでしょうか? b子は、兄弟に所用を頼む度に、お金が余っているからと、 お礼に千円札を配るそうです。 その事は、Bさんは市の担当者に言えなかったそうです! 国も、市も、bさんも、Bさんも皆が救われないのに、 お金だけが動いているのです。 このままでは、国が破産してしまうと、 その市の担当者の方もおっしゃったそうです! Bさんは、最後に市側にこう言ったそうです。 『18万円も娘がいただくのは多すぎます。 その上私どもが援助をしたら、将来あの子は働く気を起さないでしょう。 子供手当ての支給はそれに52,000円増えるのですね。 それでは、 好き放題して来たb子が自分の生き方を反省する機会がなくなります。 あの子の妹は、 同じような額の夫の働いたお給料で、 家族で倹約しながら生活をしています。 親としたらその子どもの事も考えてやらなくては、 いい加減な生き方をして家族に迷惑をかけ続けたb子を、 国の為とはいえ今の私どもの心境では、 申し訳ありませんが援助をする気にはなりません。 感謝は致しますがお許しください。』 やはり、制度という『陽』のみではだめですね。 『陰』の創造性の欠如です。 このお話を聞いて、 物質文明の極みを見たような気がしました。 これが、私の怒りの原因です。 みなさんは、どう思われますか? お金を配る事より、もっと自国の精神を取り戻す事や、 すこしづつの道徳的土壌を作ることの方が、大事です。 それで国の事を思い、やる気のある国民を育てる方が、 どんなに国の予算の削減に通じるか? 物質のエネルギーは使うのは簡単ですが、 限りがあります。 精神のエネルギーを使うのは容易ではありませんが、 無限です。 知恵を捨てた民は、こうなるのかと、 このご相談を終わって、涙が出る程むなしく思いました。 ほんとうに悲しいですね~ みなさま、よき一週間をお過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 家庭・社会・国の問題を考える |
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03/12 14:51 |
道徳4 『道徳』のヒエラルキーにおける位置は、最下層に追いやられています。Category : 生活哲学
![]() 満開の梅の木 最近 ”難しすぎる~!” というメールをまた、貰ってしまいました。 ・・・ 扱う内容が、大事な内容を含む場合、 どうしても外せない点だけは、書かないといけないと思い、 迷うながら、、、 なるべく具体的な言い方を心がけながら記事にしています。 こんな言い訳を書くのも、 今日も難しいと言われそうなので、 予防線を張っている次第でございます。 (笑い) よろしくおねがいします。 普通の人、私もごく普通の人なのですが、 あはっ! 道徳とか、哲学とか、思想というものが、 どんなに重要か、 どんなに自分の一生に関係してくるか 気が付いていない人が、多いのですね~ このブログへ来ていただいている方は、別として、、、 なかなか、近づきたくないのが、哲学! 道徳! 難しい面倒な事!! あはは。 また、今は教育という中で、そういうものを、教えないし、 教えるとしたら知識としてまで。 教える実体を持っていないのね・・・ 今日の記事は、道徳4、これで一区切りにしようと思います。 道徳が、人としてのたしなみ、教養くらいにしか 考えられていない事が、道徳に関心を皆さんが持たない原因です。 だって、効率や、利益誘導を優先する社会において、 たしなみは無視され、 教養は、飾り物のように端っこに追いやられています。 道徳は、たしなみや教養より、マシな物ですよ。 (実際そうなのに、、、ムダとしか思っていない現状が、、、) お金より、ずっと得な物! ですよ。 これでは、どうでしょうか? ほほっ。 お金より得だって言えば、 少しは、振り向く人が増えるでしょうか? あはっ! 何に例えたら、道徳の価値が分かるのか ? 自分が一番欲しい物が手に入る根拠になるものです。 これでは、どうでしょうか? 嘘みたいで、騙されてるって? あはは。 今、いろんな点で、世の中がここまで、 にっちもさっちも【二進も三進も】行かなくなっているのは、 全ての価値観が転倒しているからです。 理念のない、哲学の心棒のない政治、 その下で行政の枠内で行われる官教育、 その官教育の行政下の片隅に道徳を置いているというのが、 そもそも、おかしいのです! だって、行政に管理されて、どういう意味が? 道徳にとって、もっとも悲惨な歴史は、 明治から戦後まで、道徳が国家神道のなかにあった事です。 明治維新以降、 欧米諸国の一神教のキリスト教に対抗する為に わざわざ、取って付けたように、天皇と今までの神社信仰を利用して 明治政府の政治家と役人が作ったものが国家神道です。 私は、これは神社系の新興宗教だと思っています。 政治家は政治をしておけばいいものを、、、 自分の頭の上にあるものを、権力の道具に落したのです。 政治が権力の為に宗教を利用した例です。 そして、 その時にも、 日本はにっちもさっちも行かなくなって、 戦争を起すしかなくなって、 国家神道を国民を鼓舞するのに利用しました。 大罰当たりなことです! 神風など吹くわけがないし負けは、当然です。 これは、狩猟民族の一神教のキリスト教の神と、 国家神道という新興宗教のオカルト神の争いだった、 と言う事もできるのではないかしら? 結果は、 宗教としての歴史が長く、 幾多の戦いの経験のある狩猟民族の一神教の キリスト教の神の勝利でした。 だから、それからというものは、 日本はその神の領土になったはずです。 それ故に、日本は物質文明の世界の中に入ってしまいました。 それが今の日本です。 どこが間違ってこうなったのか、もうお分かりでしょう? 古来からの神道を利用して、オカルト神道を捏造し、 政治の下駄の下に神社局を作り! ここがもう~おかしいのです。 政治が宗教を統治する? =人間が神や仏を統治する? 本来は逆さまじゃないですか? 本末転倒そのもの! 今更、言いたくもないですが、 明治政府を作った立役者たち、 まったく、文化や宗教には、無知だったようです! ちょっと横道に逸れますが、 先日、テレビで、 総理の鳩山夫妻が、先祖の墓参に行ったというニュースを流していました。 見ると、お墓の石塔に向かって、拍手を打つように手を合わせ、 その手には、仏式の数珠も、キリスト教のクロスもありませんでした。 拍手は、まさか二拍手ではありませんでしたが、 パンと合わせた拝み方に、驚きました! だって、拍手は神式ですよ。 仏式の墓参では、属した宗派の数珠を手にするのが常識だし、 そっと手を合わせます。 パンとはしません。 まさか! 総理ともあろうお方が、ご存知ないの? と思ってテレビの画面を見ていましたら、 その場のインタビューに答えてこう言っていました。 『鳩山家らしい、りっぱな政治をさせていただきたいと、、、』 まったく何もご存知ない~ お墓はお願いに行く所じゃないのよ。 追善供養といって、自分の善行を死者の為にお供えに行く所です。 こういう宗教的な事に無関心なまま外国留学をする事の方が、 進歩的と思われるのか? 日本の古い事には無関心で、知らない位方がインテリなんだとか? そう云う雰囲気のご家庭でお育ちになられたに違いない。 そう理解しましたが、 今の10代や20代の若者と同じレベルですね。 やはり我が国の総理というからには、 わが国の伝統のある文化を知って、 実家のお墓参りにはご宗旨の御数珠を持つ位の事をするのが嗜み。 男性側が分からなければ、奥様が準備なさればいい事です。 このように、 必ずしも政治家といえども自国の宗教や文化において、 知的に優れているという事はないみたいです。 政治権力と、宗教との関係は、 ヨーロッパでも、王権と教会の争いはずっとありました。 誰だったのか? 本の題名も思い出せないのですが、 (過去に見た文献を捜したのですが、見当たりませんでした。) 『頂上の哲学・宗教からその思想のエネルギーが下へ流れる ヒエラルキーが形作られる』 と 言っています。 ピラミッドを思い描いてくださいね。このヒエラルキー(階層)は、 最上の頂点、ピークの部分が、宗教・哲学、いわゆる理念・思想。 すぐ下の層が、芸術・教育。 その下の層が、政治。 それから一番下の層が、経済。 (経済は偉そうにしているけど、最下層! 下僕なの!) つまりは、宗教や哲学と云った川上の理念や思想の中味が、 人間観や世界観を芸術・教育に影響を与え、 そこで花開いた文化や知恵が、 政治思想へと影響を与え、 それからその力が、経済へというふうに川下へ流達して、 世界や人々を潤す。哲理が人々を潤す、というもの。 逆に、思想の中味次第では、人々に飢えをもたらすかも知れません。 だから、どういう思想?理念?という事が大事なのよ! 宗教・思想・理念が人間に良くも悪くも影響を与える構図なのです。 欧米は、マルクスが出てくるまで、プラトンとアリストテレスの流れから キリスト教思想のもと、この世界が成立していました。 この伝統はマルクスの理論においてあきらかに終わりをむかえたのです。 マルクスにおける、世界変革の思想は、 「ヘーゲルを転倒させたというよりは むしろ、思考と活動、観想と労働、哲学と政治との間の 伝統的なヒエラルキーを転倒させた」と、 ハンナ・アーレントが、彼女の著書で、 『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』言っています。 日本においても、仏教や、朱子学を基としてとか、過去はそうでした。 現代は、このヒエラルキーから見れば全部逆さまですよ! 今は、トップの宗教・哲学・理念、思想がなくて、 そのトップの座を下層の経済が奪い取って頂点のピークに居座り、 その経済を牛耳る政治権力が全てを統治していて、のさばっている! 政治が宗教を利用し、あ、宗教が政治を利用しているのもあるわね! 政治が教育を統治しているのね~ おかしくないですか? 教育も本来は、四権分立のように、独立した方がいいのでは? 今の芸術も人間の生き方を変えるようなパワーを感じません~。 今の混乱は、あきらかに物質文明のキリスト教思想から起っている。 貧しさの物の哲学は、本当に世界を精神の貧しさまで落すのですね。 現在は、その混乱の滞留のまま、 モノの分配、経済をトップにしたピラミッドであり、 その『経済』を牛耳る『政治』権力が、トップに立つ ピラミッドの世界です。 なぜ、こういうややこしい事を言うのか?と言いますと、 『道徳』のヒエラルキーにおける位置は、ありません。ないのです! それか、最下層に追いやられている? 政治や経済の力によって邪魔に扱われているのかも、、、うざいって。 それに気が付いてほしいのです。 もう、道徳が消えてなくなりそうです。 本来は、『道徳』の位置は、トップの哲学、宗教、思想、 その下の教育と並ぶものだったのではないのかしら? 今は、哲学、宗教、思想そのものを見失った時代ですから、 仕方がない? そういう現実ではありますが、、、 このままで、日本の国が繁栄し、 このまま、日本人が生延びれる? いいえ! とんでもない幻想です! 『経済』と『経済の為の政治』権力が、トップに立つピラミッドの世界では、 それらは、泡のごとくの幻想です。 『経済の為の政治』権力が、トップに立つピラミッドの世界では、 人間の精神や心、自然、命が、きれいごとの裏で蹂躙されている世界です。 最後になぞかけを~ 日本の為政者が口にする ”コンクリートから人へ””いのちを”というおしゃべりと、かけて。 幼児が学芸会でしゃべる台詞に似ています。 そのこころは~ 自分の出番が終れば、直ぐに忘れてしゃべらなくなる台詞です。 これらの意味不明の言葉は、 言葉の中味や本気の衰退へ、つながって行き、 すべては 、権力欲の為の経済・政治へ絡め取られて利用されるだけです。 民の善意は、何度利用されましたか? また利用されるつもりなのでしょうか? 何度騙されたら気が付くのでしょうか? 自己の徳性を磨く事なしに、それを止める事はできません。 道徳が滅びるという事は、 私達の子孫と密接に関係があります。 この事に関しては、又記事にする時があると思います。 おたのしみに・・・ -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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03/16 11:24 |
『呂氏春秋』 1 欲を適すCategory : 呂氏春秋の世界
![]() 中国の楼 自然観においても、人間観においても、 東洋的思想の方が、西洋的思想より優れていると言って来ましたが、 今日は、シナ古典の中で最も基礎的な、代表的な文献のひとつ、 原名は『呂覧』(りょらん)。 史記などが『呂氏春秋』(りょししゅんじゅう)と記しています。 『呂氏春秋』の世界の中を味わってみましょう。 現代の西洋文明の欲望の論理に慣れっこになっている私達に、 非常に新鮮で、目が覚めるような印象を持たれると思います。 猛春紀 (重紀) 町田版 春の節8から、 世之人主貴人,無賢不肖,莫不欲長生久視,而日逆其生,欲之何益? 「 世の人主(じんしゅ)、貴人、賢不肖(けんふしょう)と無く、 長生久視(ちょうせいきゅうし)を欲せざるなし。 而(しか)るに日に其の生に逆らう。之を欲するも何ぞ益せん。」 世の中の諸侯や貴族は、誰でも長生きを欲しない人はいない。 それなのに、それなのに、毎日毎日、 (彼らは)長生きができる生き方に逆からっている。 長生きをしたいと思っても、何にもならない。 猛春紀 おなじく 凡生之長也、順之也;使生不順者、欲也;故聖人必先適欲 「凡(おおよ)そ生の長きや之に順(したが)へばなり。 生をして順(じゅん)ならざらしむる者は欲なり。 故に聖人は必ず先(ま)づ欲を適(てき)す。」 寿命が長いという事は、内分泌機能、生理機能などの命の生の 働きに順に、自然に従って生きるおかげである。 これを妨げて不順な生き方をしてしまうのは欲望のせいなのだ。 だから、 正しい生き方をする人は、まず自分の欲望を適当に調節するのだ。 人間の正しい生き方とは何なのか、という場合、 自然に順って生きること、 命を全うすることであるというような言い方が、 呂氏春秋のなかにはあちこちに出てきます。 自然に順って生きる、その為には、まず、自分の欲を調整しなさいと。 自然に順う生き方とは、漠然とした言い方ではなく、 具体的に、『呂氏春秋』は、全体が十二紀に分けられ、 冒頭に「時令」として各月の太陽の位置、 南中する星々、 各月との五行の対応関係、時候、 天子の為すべき事、儀礼や政令、勧農などを定め、 それに順って人間も行動せよと説いています。 そしてこれらの政令に違反した場合には、災害が降ると警告しています。 前221年、秦の始皇帝が中国を統一します。 秦の宰相 呂不韋(りょふい)が、 秦の強大な国力を背景に、中国全土から有能の士を募り、 賓客として招聘し優遇しました。 その数は3000人にも達したそうですが、 その中から、 学問才識の優れた上客を選んで 聞き知っている事柄を記録をさせ作らせたものです。 それは全部で二十万語にも及ぶものでした。 その中の一字一句の欠点を指摘し、修正したら、 千金を与えると賞金を賭けて、 そのすべてを秦の都の市場の壁に張り出します。 とうぜん、誰も何の欠点も言って来なかったそうです。 これが前240年頃です。 欲を適す。 天と地という自然の巡りのリズムのなかで、 その運行をつぶさに観察をしながら、 自然の力を利用して農業を行いながら、 人間の欲望をうまく調節して、 天と地の間で、災害を抑え、 人が与えられた命を全うしていくための創意工夫が溢れています。 それが、中庸という東洋独特のすばらしい概念の芽生えです。 自然を人間に対する物体として扱わずに、 逆に、すべての生きている宇宙として捉え、 自然のエネルギーをどこまでも包摂して、我と一体になり、 どこまでも自らの内側に取り込んでいく。 自分の内側に、太陽を観じ、月を観て、宇宙を観る その静かなダイナミズムに、 いつも感嘆してしまうのです。 ”子ども手当て”で右往左往する今とは? お金を与えてどうにかできるという人間の生とは? 物質文明が国土にも心にもすっかり沁み込んでいる・・・ これを生命体である宇宙・天は、どうみるのか? 生に順った結果として潤沢な生が未来に約束されたのか? 人間の欲とみるのか? ならば将来、この場所からの排除の論理が働いてくるのか? 東洋より、世界へ 参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫 百家諸子 中國哲学書 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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03/18 21:06 |
『呂氏春秋』 2 天・人を生じて貪(たん)有り欲有らしむCategory : 呂氏春秋の世界
![]() 中国の楼 今日の記事は、『呂氏春秋』2 です。 東洋的思想の優れている点に、欲望の扱い方があります。 西洋的思想では、 ギリシャ・ローマ時代からずっと理性と感性という二元的に分けて、 これをお互いに矛盾的に対立させ、人間を説明してきました。 ある時は理性を良しとしたり、 ある時は理性的でありすぎると言って欲望の肯定に感性を謳ったり、 あるいはキリスト教の原罪説から、人は罪を背負っている、 と考える傾向が強くあります。 私などは、十代の頃、これを本で読んで知った時、 ”なんて西洋のキリスト教の信徒の人たちは、不自由な人間だろう。 よく、そういう人間観の宗教で我慢をしているものだ!” と同情をしたものです! (笑い) 私なら、気が付いた時点で、どんな葛藤を経ても、 もっと違う人間観の世界へ、きっと逃げ出しただろう~ 今でも、そう思います。 最初の自己存在の規定からして窮屈なのだから、 西洋人が、自由=獲得するもの、と思ったのはしょうがないわね。 イヤ! フランス革命以降も宗教の縛りは、解けていないの~ 彼らは、ずっと原罪を背負っていかなければならないのです。 東洋には、自由という概念はなかったのでないかしら? だって、もともとが、自己を宇宙と一体だと規定する思想に、 そこから抜け出す自由は、必要なかったのだと思いますヨ! 本当に東洋人で良かったと・・・・・実感です。 そのように、 東洋の私たちの思想的特長は、理性と感性と二元的に分けません。 分けるという概念がない、と言ってもいいでしょう。 天はひとつなのですから。 知らずに先祖から受け継いだ考え方は、主に一元的です。 仲春紀 (情欲)から 町田版 春の節24 天生人而使有貪有欲。欲有情,情有節。 聖人修節以止欲,故不過行其情也。 『 天・人を生じて貪(たん)有り欲有らしむ。欲に情あり。情に節有り。 聖人節を修(おさ)めて以って欲を止(とど)む。 故に其の情を過行(かこう)せざるなり。』 天はこの世に、人を生じさせる時に、貪(むさぼ)る心と欲望を与えた。 その欲望には感情が伴ない、情欲には節度がある。 それで聖人は節度を修めて欲望を支配した。 そのおかげで過度に情欲を過ぎて行わないのだ。 東洋は、 貪欲や情欲を、良心や理性に反する異質の物と捉えていません。 貪欲や情欲を、 もともと天に具わっている働き・自然の作用として肯定をしています。 一元的です。 西洋のように、貪欲や情欲を悪、良心や理性を正と分けていません。 貪欲とか情欲を嫌っているわけではないのです。 悪といって憎まない。 正と言って自惚れない。 これは、ある意味、東洋人のおおらかさになっていると思います。 西洋人から見れば、 悪をも認める包容性として映るのではないでしょうか? だから、なめられる? のでしょうね~ 人がよさそうに思われる・・・何でも黙って受け入れてしまう・・・ 随分、この点が誤解されて、利用されてきたように思います。 西洋的思考は、分類する思考です。 理性、感性、正、悪、知、情、意、、、etc なにでも分けてしまいます。 これらはすべて部分知です。 それを忘れて部分知で全体を推し量るという間違いをしてしまいそう。 それでは、ついに実態を離れてしまい・・・ ただの知識の細切れになってしまうのです。 分けた一こま一こまの論理性は正しく思える? だから、平和を作るためだと言って、戦争をするのです。 東洋的思考は、包摂する、全体知です。 もともとひとつであった全体を会得する知です。それと我です。 部分知のようなモノを出しながら、いつも「天」を出して全体知へ帰す。 欲望というものを、別件扱いにしない。継子扱いにしない。 全体のなかで、それをどう生かしていくか? 「天」の下で恥ずかしくない欲望へと昇華させるのですね。 元々あった欲情や情欲をやりたい放題、放漫にしない。 やりたい放題、放漫にしたい放題する事も人間の自然なありようですが、 その人間の自然なありようが過ぎるのを過失と言うでしょうか? ほほっ。 やり過ぎていた事を節を以って抑制することで、 人間の自然なありようを、過ぎて行わせない。 人間の自然なありようを、天の自然のありように近づけていく・・・ 天に我の欲望を帰していく。天と合一する我です。 天の自然のありようを、見習って、学ぶ姿勢が根本です。 現代の危機は、天の自然を感じられない住生活環境です。 便利さを求めて、私たちから、自然の姿が見えなくなっている事です。 天とは、自然の摂理です。 自然の摂理を犯せば、動植物は死んでいきます。 いわゆる、自然淘汰です。 ここでいう自然淘汰とは、 弱い者が強い者に負けて淘汰されるという事ではありません。 天に逆らう事によって、生のリズムに乗れない。 だから天の恩恵を受けられない。 生命力が衰弱して、種の保存のための生命活動ができなくなるのです。 自然の摂理を犯せば、命あるものは滅びていくしかないのです。 ここで大事な事は、滅びるようになる原因は自己にあります。 天に逆らう事によって自分のなかの生の灯火を、消してしまうからです。 この事を、現代の人間は忘れていますね。 少子化を金銭や保育所という物で解決しようとしていますが、 解決策は、そんな所にはないような気がします。 ある程度は、それで上向くかもしれません、、、。 産めるけれど、産みたくない! のではないのです。 子を産むこと自体、完全に理性的?なことではないはずですから、 できれば産みますよ! 大抵の女性は、ね! だから、産める人は、産んでいます。 経済的に大変でも、2人、3人、産んでいます。 実際、産みたいのに、産めない体の人が増えているのです。 そういう悩みの方がたくさん目の前に来られています。 不妊治療をしても、体外受精をしても、 子宮へ着床するかどうかは、自然の摂理の範疇です。 天といい、自然ともいう領域なのです。 人類はまだ、そこまで立ち入る通行許可証を手にしていません。 自然の摂理が、産むことを、許さないのか? 天に逆らったから産めないの? 天に逆らうとは、どういう事? 誰が逆らったの? 一度、国もきちんと調査をするべきだと、思います・・・ しかし、調査にどれだけ本当の事を白状するでしょうか? 産めないのを、産みたくないと、、、 参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫 百家諸子 中國哲学書 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : モノの見方、考え方。 |
![]() 2010
03/25 17:28 |
西洋的思想の欠陥はいわゆる欲望の頂点=権力の魔性を、見抜いていないのです。Category : 生活哲学
![]() さくら一番 前々回の記事『呂氏春秋』1 に 次のようなコメントをいただきました。 「足るを知る」・・・ということでしょうか。 高校時代に中国の時代が地政学的に見て次に来る、 と言っていた世界史の先生を思い出してしまいましたが、 この時代の賢人たちが今の時代に存在していれば、 名実ともに素晴らしい中国になっているような気がします。 私の記事を呼んでいただいて、こう自分は理解したとコメントをくださる事は、 本当にありがたいことです。 世間には、さまざまの解釈が溢れていますから、 どう解釈なさるかは本当に自由なのですが、 なるべく読者の方ともお互いに、誤解だけは避けられればと思っています。 なぜなら、できうれば今後もずっと当ブログの読者でいて いただきたいと願っているからです。(笑い) とくに、当ブログは、日記風の記事ではなく、 とりあえずは哲学のジャンルですから、 いろいろいろんな解説が出てくる方がおもしろいなぁ~と思っています。 今後とも、よろしくおねがいします~~ 「足るを知る」・・・ということでしょうか。 そうですね! 老子・第三十三章 には 勝人者力 (人に勝つ者は力有り) 自勝者強 (自ら勝つ者は強い) 知足者富 (足るを知る者は富む) 強行者志有(強を行う者は志有り) とあります。 また同じく、四十四章には、「足るを知れば辱められず」とあり、 自分の能力をわきまえ、天(自然)の運行の摂理を悟ったら、 自らが「富裕である」とおなじ結果になると説いています。 仏教がインドから中国へ伝わって道教の影響を受けたもので、 禅宗の石庭のある竜安寺にあるつくばいに彫られているのでも有名です。 一般的には、「足るを知る」ということは、 もっともっとと、足りないものを求めるのではなく、 今すでにあるものでよし(足る)とする。 と理解されているようです。 この内容では、なんとなく解ったようで解らない、、、そう思われませんか? もしか、これを教訓的に言われた場合、何となくイヤ~ナ、(笑い) お説教じみて聞こえるのは、なぜでしょうか? なんとなく消極的で、身の程をわきまえなさい! て言うような、、、 むやみに不満を持たない。 適当なところで自分の欲望を棄てなさい。 みたいな、、、 戒律的で、小乗教的で、あきらめモードに入るみたいな、、、(笑い) なんとなく解っているけれど、元気がでないみたいな、、、 これらの解釈から生じる不満?は、 私達の西洋的思考の癖から起こってくるのです。 今までにも、この点は何度も書いてきましたが、 東洋的思考と西洋的思考は、右と左ほども違います。 東洋の全体智を、西洋的分析、分断、細切れ思考で理解をしようとしたら 部分的に解ったつもりになりますが、全体を捨ててしまうのです。 いけません! 西洋的思考は、最後は言葉の最小単位の単語の羅列、 それをつないだだけの知識の羅列になってしまいます。 それで、解ったように、『なんだ~、こんな事!』あるいは、『むずい~』 と、偏見で終ってしまったら、それは、どちらも間違いです。 本当にもったいない~ くれぐれも注意しましょうね! 東洋の文献を読むなら、頭の中を東洋的に馴らしてから、、、です。 西洋的思考の癖は、自分と自分の外側(環境)を対立的に捉えます。 例えば、今のままの自分の状況は不安、焦り、恐怖、だから 自分のそういう状況を乗り越えるために、 自分の内なる欲望を満足させるには、 自分の環境や人間関係・現象を変えることで満足しよう、 幸せになろうとするのですね。 自分の不安、焦り、恐怖、などを、 自分に『足りない』ものを、 自分が主体で、対する相手を変えて手に入れようとする解決方法です。 (鯨のシーシェパード、まぐろ、等の問題のように西欧の今も変わらぬ解決方 法です。自分の価値観を相手に押し付けてくるわけです。) 最後は、相手を否定してまでも自分の主体を守ろうとするわけです。 そこに、戦争の正当化などがあります。 はっきりいいますと、西洋的思想の目指す目的地は、欲望の満足の天界な のですから、西洋的思想の欠陥はいわゆる欲望の頂点=権力の魔性を、 見抜いていないのです。 思想内で、魔性を見抜き、淘汰できていない、解決できていないのです。 自己のエゴイズムを乗り越えていない、エゴイズムの力の肯定まで、 だから敵陣を倒し、未開を拓くエネルギーには、満ち溢れていますが・・・ だから、そのエネルギーを、もうその辺で止めて! それ以上の欲は持たないで! 『足るを知る、よ!』と、ストップをかけられているようにとれば、 そうかもしれないけれど、なにか、縮みなさい!と言われているようで、 フラストレイションが残る可能性もありますね。 限界を作られるようで、一時的に無理無理、行動は、ストップできても、 自分の内側では満足できないというエネルギーの余っている人には、 不満が残りますから、幸福感がないのですね。 東洋の知恵の本当にいい言葉なのに、西洋的思考で解釈したら、 広まらないわけです。勿体無いです。 この現代の西洋的思考の癖の解釈に対して、 わが東洋的思考の解釈は、 相手や環境を変えないで、 逆に、環境に振り回される自分を捨てるところから始まります。 自分を変える事から、その波動で周りも幸せになれるという考え方です。 自分のやる気を縮める思考じゃなくて、足るを知るっていうのは、 『今のままの自分でいい』とまず自分を認める所から出発する事です。 本当の自分の確認です。 家柄だって鳩山さんに負けるし、力も見かけもよくないし、学歴だって、、、、、 そういう自分を、他と比べることなく、人より勝ろうと見栄を張らず、 そういう相対的な価値観を恐れない、焦らない、臆病でない自分の確認です。 与えてもらった命に感謝をし、健康な体を大事に、自分の現在に自信を持ち、 けっして、他と比べて卑屈にならない、うぬぼれない。 今ある自分の全てが、自分にとって丁度なもの、という肯定と感謝をする。 それが、『足るを知る』という本質ではないかと思います。 自分を深く見つめる、そして、環境(情報やマスコミ)に振り回されないで、 本当の自分が望むことを見つめて捜すという作業です。 そして、それを見つけたら、心を込めてそれに打ち込む。 という、とてもエナジーに溢れた状態のことだと思うのです。 その上で、やりたいことを存分にやることなのでしょうね。 他人と自分を比べたり、競争したりする事が、まったく必要ないし、 そうすれば、幸福感がいっぱい満ち溢れてくるでしょう! (笑い) その時の欲は、自分サイズの欲で、欲の達成に人を巻き込まないのです。 自分サイズが大きいか? 小さいのか? 決めるのは自分です。 欲が多い人というのは、自分の不安、焦り、恐怖、を誤魔化す為に、 周りの人を巻き込んでいく事が多いです。 例をあげると、堀江モンのライブドアの一件、政治家や官僚の贈収賄など、 それが一時的に派手に映って、勢いがあると、 ”ああいうのがいいのかなぁ~”と周りに誤解を与えてしまう事もあるでしょう。 老子も、 欲の多い人は、世間に害を与えることが大きいと指摘しています。 一番大人が気をつけなければいけない事は、 子供に、競争が生きる目的だなんて教えないことです。 生きることが競争だと思う大人になったら、 競争に勝つためには、環境に何をしてもいいと思う人間になります。 自然も破壊します! 人も無視します! 最後は孤立します・・・ どんなに力があってもそれでは、幸せな人間にはなれないのです。 又、中国の時代が地政学的に見て次に来る、 そのとおりだと思いますよ。 その先生は、確かな目を持っていらっしゃったのですね! 特に、 地政学的に、という単語が、光って見えますね! と言いますのは、中国ならではの地政学的特長が、 エジプトやメソポタミアやインダスの文明とは違う、黄河文明を生み、 なぜ、西洋的思想より優れたより本質的な東洋思想が生まれたのか、 いつか、この事について書きたいと思っていたからです。 また、いつか、お待ちくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |