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06/01 14:32 |
『時が主役3』 審判は、『時』が行います。Category : 不滅なもの
![]() JR西日本・神戸三宮(さんのみや)駅前のゴミ箱 恩人の墓参が目的で、神戸、広島、山口へ 3泊4日の旅行に行って来ました。 年に一回は、今までお世話になった方の墓参の旅をしていますが、 今回は、いろいろな意味で感慨深い旅になりました。 今日は、その事に触れながら、 テーマは、『 染まる 』という事に観点を絞って、 いままでメールをいただいている”恋愛”、”不倫”に関するご質問への ご返事にさせていただきます。 見知らぬ地方の町を、時折訪ねると、 そこには、自分の日常の時空を離れた物や、人がいて、 それらを知る事ができるのは本当にたのしい事です。 恩人の墓参は、血縁者を訪ねてお墓を案内していただくわけですが、 初めて降り立った町の、印象は行く前の想像を越えていて、楽しみです。 また、仕事で鑑定を依頼されて訪れる町も、 時間のある限り、気の向くまま歩いてみたり、 初めての道や、裏通りの細い辻などを歩いてみたり興味が尽きません。 地方へ行くと日本は、ある時から共通の変化を遂げた事がわかります。 おそらくそれは、戦後の高度経済成長期からかと思いますが、 どこへ行っても駅前通りや、国道沿いに、均一の風景があります。 ここは、東北? 空気の冷たさや目の前の山の形から確かめないと、 ここは、どこで見た風景だった? 判らなくなっています。 特に、新幹線の駅は、どこもおなじですねぇ~ (笑い) あ、新神戸の駅は違っていましたね! 画一的ではない、個性を主張した駅だったと思います。 特に関西において感じることは、 滋賀も、奈良も、京都など大阪や兵庫もそうですが、 自分たちの生活や文化、 受け継がれた精神や歴史、その伝統を、 ずっと守って来た人々の暮らしの形や思いが、 あちこちに残っています。 守られて来た古い物に出会い、それらを見る事ができるというだけでなく、 長い年月の間、 外来文化を積極的に取り込んで咀嚼して来たたくましさと、 裏返せば、自己の文化に対する絶対の自負心を持ち、 または、直接踏み込んだであろう外来文化に負けずに、染まりながらも、 よそ者(西欧化)が、侵入するのはここまでにして!(笑い)と、 戦って瀬戸際で食い止めて来た証しのようなものがあります。 外来文化に対する、自分の文化への愛着と執着が、 片鱗として残っている街や風景がそこここに存在します。 その片鱗が、西洋化された現代のガラクタ狂想曲に混じって、 その中でうずもれながらも、 『ここよ! ここよ!』とサインを送ってくれている場所があって、 そのサインを見つけると、 どこか胸が締め付けられて、キュンとなるような気持ちにさせられます。 それが、可愛いと、いう表現がいいのか? どうか、、、 それらが、 伝統も歴史も捨て去った跡にできた現代の合理主義の猥雑物の中で、 何百年も経って生き抜いている事に元気を貰う事もあるのです。 私が、関西へ足しげく通うのも、その為かもしれませんね。 外来文化に染められた日本を意識しながら旅をすると、 宗教、哲学、道徳、文明、文化、において事にそうだろうと思うのは、 高きものから、低きものへの流れはあっても、 低きものが、高きものを染めるということは、ないだろうと思っています。 文化と文化の関係もそうですが、 人と人の関係もそうでしょう。 特に、いろいろな人間関係の中で、真面目であれ、病的であれ? いわゆる恋愛においては、 お互いが染め合うという事を忘れては、、、いけませんね。 染めるというからには、 何に染まるかということが重要です。 染まった結果においては、それ以降の自分が多大な影響を受けます。 通俗的な”うらない”では、恋愛だけを殊更取り出して 運命の主題のように扱いますが、、、、 ご存知ですね? それは営業ですよ。 あはは。 人がお金儲けでやっていることです。 どうか、、、、、営業されないでくださいね~~ 若い人は、大丈夫でしょうか? 私たちのこの世間は、いろんなものがあって世間ですから、 高きも、低きも、あって世間なのですが、 あははっ~ (世間とは、仏教語で、それぞれの存在に差別相があるという意味です。) 恋愛が上手くいけば人生、事もなし。 ではありません。 逆です。 人生上手くいけば、恋愛、事もなし。 です。。。 特別に恋愛だけが重要ではなくて、恋愛をするあなたが重要なのです。 誰かを好きになるということは、誰かの何かに染まることです。 ここで問題なのが、 自分が染まっても惜しくない相手を見つけるという事です。 主役は、あなたの感情でもなく、欲望でもなく、 『時』が主役ですから、年が経っても偽物にならないように。 感情のままに人を次々取り替えて好きになることが、 『時』を経て、どういったシミが自分に残るのか? せっかくの命を天に与えてもらって、最後どんなシミを残すのか? 今的に西洋二元論で言うと、それが、いいか? わるいか? あなたの感情では決められません。 あなたの意思だって無理なのです! 審判は、『時』が行います。 ただ、それを今、あなたの心の中で確かめたかったら、 自分のなかの、あなたの高き心、 尊敬と感謝を、あなたが周りの人へ注いでいるかどうか? 自分のなかで、あなたの低き心、 軽蔑と無関心の盾を、あなたが周りの人へ立てていないかどうか? 命の糧を渡してくれる夫への感謝を忘れて、 誰を好きになったところで、あなたの心は邪鬼に染まっているのです。 美しい女性のすることではないわ! 邪鬼が為した事《始》は、そのシミは、必ず、必ず、 《末》としてあなたの娘に伝わるのよ。 又は、娘がいなければ、息子の嫁が,あなたのやった行動を再現します。 それが、物事の始末、《始=末》 始と末が揃って一部始終と言います。 受け継ぐ命は永遠ですから・・・・・ 『時』は、天は、決して記憶喪失はしないから、、、、、 このことだけは、あなたの肝に銘じておいてくださいね。 運命鑑定家からのお願いです。 この天が与える不思議な繰り返しが、 人間に道があることを示しています。 永遠に変わらぬ人としての道徳です。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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06/06 10:34 |
『時が主役4』 確かに地方は、乾いていましたね。Category : 不滅なもの
![]() 雨上がりの瀬戸内海国立公園の白い砂浜 前回のつづき、墓参旅行の雑感・『時が主役』のつづきです。 確かに地方は、いろんな意味で乾いていましたね。 自然が豊かで恵まれている土地では、人間は生活を成り立たせられなく なり、否応なく若者は都会に出て行く、 それが決定的である現実を見て来ました。 これは、訪問した国立公園内の昔からある集落を見た例です。 私が訪ねた故人の縁故者の方が、遠くから来た私をもてなす為に、 瀬戸内海の島々の観光へドライブに誘ってくださったのです。 本州側から橋を渡り、笠戸島という島へ行きました。 《風光明媚》とは、こういう意味だったかと思うくらい 沈水海岸による複雑で優美な海岸線で、海も山も静かで美しかった。 ”笠戸”という島名は、 むかし、神功皇后が、朝鮮征伐の折に船で立ち寄って 海辺の戸先へご自分の笠をお掛けになったから、とか、 諸説があるようです。 神功皇后は、仲哀天皇の皇后で、 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)です。 仲哀天皇の没後、懐妊のまま朝鮮半島に遠征をし、 帰国後に応神天皇を出産します。 ・・・そうか、この辺りは昔から朝鮮半島と縁が深かったのだな!・・・ ・・・目の前の海も遣唐使の船が通ったかもしれない?・・・ 説明をしてくれる声を聞きながら想像をして海を見渡しました。 夕日がきれいという丘まで上がって眺めた海は、 さながら湖のように海面は静かで、 波ひとつありませんでした。 回廊やテラスに囲まれた建物群は、海に臨んで まるで映画のセットのようにきれいでした! またいつか、夏に一度、訪れてみたい気になった位です。 ところが、 島の湾を一周して、島内をドライブして廻ると、 観光地区の華やかさとは打って変わって、 昔からの集落は、地場産業である造船業が衰微したために、 昔の面影はなく、年寄りばかりが残って寂れている。 ・・・そう仰っていましたね。 テレビ等でみる限界集落が、山奥ばかりでなく、 国立公園内の集落でもおこっているという事。 なにかをしようとしても、 国有地で調整区域であるために、新参者は入り込めない。 土地の売買も、新しい建物を建てる事も新参者には 法の規制があるという事でした。 日立製作所、東洋鋼鈑、日新製鋼、などの 大企業が多いにもかかわらずに、地元で就職難とは? 新幹線や山手線の電車を一手に製造している、(日立製作所) その横には資材である鋼鈑を製造する、(東洋鋼鈑) その横には、 (日本石油)が、かって工場を撤退していった広大な敷地が、 地肌を出して更地になっていました。 最後は、すべて大地に戻る。その通りの光景でした。 この島を橋で結ぶ本土側は、 瀬戸内海沿岸石油コンビナートの工場地帯。 新幹線の車窓からは、何十キロも続く石油精製所の光景が見えました。 原油を積んだ巨大なタンカーが何隻も並んだであろう港、(今はからっぽ) 巨大な天然ガスのタンクの群れ、 何キロも続く迷路のようなパイプライン。 それが、もう新規投資をされていない証拠に鈍い錆びた色で、 光の輝きを失っていました! もう、全部は稼動していないのかしら?(笑い) 設備を廃棄処分するのも、膨大な経費が掛かるのでしょう~ なんとなくもう、石油の時代はおわりだよ~という感じを、実感、、、。 ・・・石油は、もう斜陽の産業??!・・・ これは、物事の極表層・・・経済の問題にしか過ぎません。 ・・・地方の活性化は、 国の政治一本でやったところで、 その施策は末端の人々まで行き渡らない。・・・ ・・・やはり、 自分たちの地域を自分たちでなんとかする地方自治の時代・・・ これも、物事の極表層・・・政治の問題にしか過ぎません。 人間の意識の領域の、知識と思考のなせる技、その世界の事象です。 ドライブの途中、 運転席の縁故者の方の説明を聞きながら、 目は眼前の景色を追いながら・・・・・・ 私は、その奥のもっと大きな『時』の存在を考えていました。 これらの経済的な、政治的な問題であろう事象は、 すべて大きな『時』の移り変わりの現象の現れです。 東洋の知恵は、その現象を起こしている根源の世界の秩序を 『時』の移り変わり=『天』の気を、『天の道』と言いました。 『天の道』は、五感の目では捉えられません。 つまり、意識では認識しにくい。 つまり、それが自然というものの本来の実態です。 しかし、私たち凡人は、目で見えるようになると気が付きます。 目の前に展開される光景なら、誰もが気がつきます。 目で見えるようになるということは=天の気が地上に物(として)事を結ぶ。 物(として)事を結ぶというこの表現を、意識しておいてくださいね! むずかしいかしら・・・・・? (笑い) 天の気が大地の上に物(として)事を結んで、 あらゆることが目の前に展開するのです。 これを、『地の理』(利では、ありませんよ!)と言います。 それぞれの現象の差別が意識で捕らえられるような事物になるのです。 山、川、水の流れ、風向き、陽の差し方、湿気、暖気、気温、季節等です。 私たちは、平等に天の気を享けて、、、 大地の上の『地の理』を意識(五感)で掴まえながら生きるのです。 その生きる方途が、『人の紀』です。 この『人の紀』における秩序が道徳であろうと思います。 私たちは、『天の道』を意識では認識できないけれど、 無意識で悟れます。 なぜなら、私たちは『天の道』の秩序から生を享けて、今、あるのです。 私たちの命の秩序と、『天の道』の秩序は同一です。 私たちの命の中を、『天の道』の秩序は貫通し、 共に存在しているからです。 『天の道』と『地の理』の『道』と『理』で、いわゆる『道理』となります。 道理に沿って生きる、それが道徳であろうと思います。 天と地に調和する為に、人間としてのルール『人の紀』があります。 『天の道』は宇宙の運行として『時』として、 大地の上の『地の理』の事象を通して、 私たちにその変化を知れ!知れ!と言って来ます。 私たちがそれに気がつく、そのもっと前から、 10年や100年より、もっと前からです。 人間のエゴ(天の運行の『時』の秩序の破壊行為)の行き過ぎを ストップさせようと、方向転換を示唆して来ている・・・ それが、 目に見えないが確実に変化を起こす根本原因=天の気運です。 その『時』には、逆らえないでしょう。誰だってです~ が、 ほこり(誇り?埃?)高い権力者はそれを無視します。 『天』、『時』の変化に調和しようとしたら、 私たちの感情も、感傷も、理性が作った理屈の抗弁も要りません! いさぎよく人間は、自然=天に従うしかないのです。 あの石油コンビナートの巨大なスクラップ、どうするのかしら? いずれは、大地の上に何もなくなって、元の自然の風景へ戻るでしょう。 『地の理』は、『天の道』へエネルギーを返してしまうのでしょう。 この表層的な時の変化に遅れずに、うまく乗り換えようと、 グズグズ言うのは、 まず、理念も哲学も希薄な人間の意識の所産の中では、 一番ドンクサイのは、経済や政治の意識です。(笑い) なにがなんでも、利権と、占有を手放したくないのですから。 哲学のない、道徳性が低い経済や政治は、 それ自身の不完全さと不自由さ故に、眼前の者を敵と見做し、 渇望から物を奪い合う畜生道を具現するだけです。 あ、これは社会や世の中の事で、個人的には関係ないでしょう、って? 私には関係ないわよ!、、、? いいえ、とんでもない! のです~。 社会の汚濁や歪みは、簡単に個人の心身を『染め』ますよ~。 染められやすいのが、生物です。 みんな異体異心のままの心中ですね。(笑い) はとやまさんとおざわさんみたい、、、。 あははっ~! 民主主義の筋は多数決だから、ひとりでも多くの『染められない』人が、 増えなきゃ、いけません。 あなたを信じて、これを書いていますので、 どうか『染められない』一人になってくださいね。 運命鑑定家からのお願いです。 『天の道』『地の理』『人の紀』については、 『呂氏春秋』を参考にさせていただきました。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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06/13 10:36 |
☆ 易学 《易の三義 》 陰陽学の「 女性の生き方 」 女性たちよ、整然と秩序の中へ、お戻りになってください!Category : 易学
![]() 尾瀬・大清水 水芭蕉の群生と湧き水 前回までのテーマ『 時が主役 』は、まだ続く予定ですが、 今日はインターバル【interval】をとって、 陰陽学の「 女性の生き方 」編の記事をひさしぶりにアップします! と言うのは、 恋愛や家庭内のご相談で、一番増えているのが 男女平等的な考え方の食い違いに関する内容です。 たとえば、「彼が、私が働く事に理解を持ってくれない。」 又は、「夫が、共稼ぎの生活の中で、家事を手伝ってくれない。」 「帰宅が遅い夫は、育児を手伝ってくれない。」等です。 要は、女性が社会進出をして働くことが、 自己実現とまではいかなくても、 経済的に負担を担って働く事で、 男性と対等に扱われるのが正しい、という 女性側の主張が当然のように出て来た、 そういうことでしょう。 近頃は、どうも、 そういう周辺の問題?迷いが、多くなっているようです。 二重も三重も、迷いと倒錯が入り乱れて正常な姿を失っている・・・・・ まず、悩みの当事者が、家族の相手を攻める言葉は、 無関心であるとか、無理解であるとか、果ては愛情がないとか、、、 相手の社会性を疑うような意味合いを帯びていますが、、、 要は、”相手が~~してくれない、” ○○してくれない、クレナイ、、、 暮れない族の問題なのです。 (笑い) クレナイ族シンドローム ? この原因は、 ひとつには年齢相応の社会性成熟度に対する、 その未熟性の問題です。 社会の縮図である家庭が、 自分の要求する主観的な愛情という一本槍の秩序だけでは、 成り立たないという事が、解っていない! 人間が成熟しにくい家族構成=核家族 という最小単位の家庭生活の中で、 社会性を磨く事ができないまま育った二人が, 又、核家族を営む、、、 その結果、 家事や育児の分担という些細な事から、 家庭不和や離婚にまで発展するという社会性というのは、 単に、 短絡的と言うよりも、今の未熟社会がそのまま投影されていて、 人間関係にこなれていない? 万年少年、万年少女の儘の周辺に起こる迷いや問題です。 それにも増して、国の場当たり的な施策が、余計迷路を作っています。 これに関しては、また別の機会に、、、 国も推進している女性の社会化の流れは運命学的にはどうなのか? という事は、 これもまた別の機会に記事にしたいと思っていますが、 これには、大いに問題があって《すべての女性が働いた方がいい!》 なんて! とてもすべて一律に、賛成することはできません。 今のままの世相が続く事は、 もっと「生の衝動」を弱める、 大げさに言えば、民族の消長に係わる問題なのです。 が、今日は、 ご夫婦の現実的な問題としてだけ考えてみましょう。 これは本当にケースバイケースで、女は、、、男は、、、と、 一概にすべてをひとククリにして理屈で片付けられませんね。 人によって、違う。男といっても、それぞれです。 当然、女もひとククリにできません。人に依って違うでしょう? (笑い) 今の私たちは、個人による違いに鈍感になっています。 ”男は、”、”女は、”という捕らえ方をしてしまう癖が有ります。 これも、戦後教育の表面的西洋化=西洋かぶれのせいです。 というのは、 まさに戦後の悪・平等的な教育を受けて、 皆が同じであると云う事を前提に、 物事を考える癖がついてしまっているように思います。 政治的ないわゆる法制度の下で、 憲法の保障する権利や義務関係は、 それでいいのでしょうが、 哲学的思考や、道徳的生き方を追求する時、 人間の本質的な問題にタッチする場合は、 それでは、間違いを犯してしまうでしょう。 間違いを犯すとは、心のなかに苦しみが発生するということですよ! その使い分けに慣れていないまま、哲学や道徳が力を失った社会で、 失われた それらの空洞を 経済の下僕である政治が肩代わりをしています。 人間生活の営みを、 すべて政治的な概念がリードしている昨今の現実は、 人間が作った概念で人間を抑圧する社会の現出です。 わたしたちは、 一人ひとりにある差異に目をつむる生き方を しなければいけないと脅迫的に思い込んでいるようです。 差別になるのではないかという、強迫観念に縛られています。 これは、戦後の日教組の進めた教育のせいかもしれません。 自然は変るけれど、 人間は、いつも変わらない強い存在である。 そういう前提で世界を眺めていませんか? 人間には差異がない。 平等なのだから、、、と言い訳をして、、、 温暖化もそうです。 地球は、変わっていって危険だけれど、 人間は強いまま変わらない。 だから、自然との関係は人間上位で変化がないはず・・・・ このように日本人は、西洋の二元論を取り込んでしまって、 常に人間中心の自分に都合のいい尺度を正しいと、 思っている、、、 これは、完全なる倒錯ですよ。 この矛盾の波形は、 いつか大きな津波となって社会を押し流すに違いありません。 現代は、 人間は自然の一部と言う東洋の思想を置き忘れたまま、、、 人間は自然の外で、自然を人間の外部のものとして眺めている、、、。 自然と人間、 西洋の二元論は、 人間と自然の真の関係性すら解明しないまま放置して、 しかし、 人間に限っては、人類は平等=ほぼ皆が同じだと、? 平等と同じとは違います。 その次に、人類は平等=ほぼ皆が同じ人間なのだから、 男と女に分けても、 この男と女の質の違い、真の関係性すら解明しないまま放置して、 男同士は平等=ほぼ皆が同じだと、? 女同士は平等=ほぼ皆が同じだと、? と、片付けていませんか? 曖昧なまま片付けているから、 個性という定義もあやふやなのでしょうね。 実際はわからないまま、しかし、わかったふりをして、、、、 それが、常識のように!振舞う。 時代の思潮は欺瞞性を帯びています。 西洋二元論では、自然と人間。 男と女。 ただ対立的に捉えるだけで、 その幸せな関係性は解らないまま、放置されているのです。 調和点が未だ見出されていない、、、 ご存知でしたか? だから常に、問題があると関係が緊張するのでしょう。 しつこいようですが、 人類は平等=ほぼ皆が同じ人間。 ではないのです! 男同士は平等=ほぼ男は皆が同じ。 ではないのです! 女同士は平等=ほぼ女は皆が同じ。 ではないのです! はなはだしい勘違いです。 男女が平等に社会へ出て働く時は、 機会均等に受け入れられ、 男女はお互いが平等に家事と育児をするべきである。 この欺瞞に溢れた文章のどこが、おかしいのか? 見つけた方は、笑ってください~! 私が、東洋的な学問に目覚めて、 いろいろな事を学びだした頃、 新鮮な思いで受け入れた事は、 「こんなにも、人間は、一人一人が違うと云う事が、 なんの遠慮もなく事実で、 それが大前提なのだ!」と 云う東洋の人間を捉える認識論でした。 東洋学の世界は、外から見たら難しそうに見えますが、 一度その中へ入ったら、その世界は広く自由で、 個々の存在感が生き生きと認められる個性豊かな人間観でした。 女よりもやさしい男がたくさんいて、 並じゃない強さの女もゴロゴロいます! それを認めた上での理屈であり、それが前提の知恵そのものなのです。 ここまで、個性を出していいのね! ここまで、違うって示されているのね! その原因は、易経に代表される、 変化に関する学問といってもいい位の深い、 広い知恵が、人をあたたかく包み込んでくれる仁愛の宝庫です。 そして今までの思い込みが、なんて狭く、単純なものだったのかと、 それが西洋思考の常識の狭さです。 ほら! あるパターン以外は、外れている存在とか? 知らず学問の合理性で分けて、 狭い枠に分割します。 それが、網の目のように作られているのが学問です。 新しい事象が出てくれば、また新たな枠を作って説明する。 その繰り返しです。 しかし、 易経は、変化の書という意味でしょうか、 学問的には、The book of changes と翻訳されるだけあって それが大前提ですから、 初めから変わったものばかりがあるのが常識です。 自然のあらゆる物の存在は、有機的に変化をしているのが普通です。 完全に変化が止まっている存在はないのです! この自然の中にあるものは、 すべてが、 死して、なお、変化を続ける。 生きるという事は、そういうことです。 だから、ただ今、変化中の存在ばかりなのです。 科学は、止まったある位置、 止まったある時の詳細ですから、、、 西洋的思考は、変化し続ける『時』が抜け落ちていますね。 科学の知識や分割では、いくら寄せ集めても真実から遠ざかるでしょう。 たしかに、 易経は時空に亘る変化を哲学するものです。 『 易 』 は、宇宙の運行を時間軸に移り変わる変化を追求し、 ある時の空間の多方面からの見方の変化を追求します。 易の三義の第一の意味は「 変わる 」 ということです。 その変転してやまないそのものを(化)といい、 自然も人生も絶えず変化する。これを大いなる化と言います。 『 大化の改新 』です。 しかし 「 変わる 」 ということは、その根本に変わらないものがあって初めて 変わるのですから易の第二の意味は 「 不変 」 です。 自然は原則に基づいて変わっています。 その自然の変化を洞察し自覚する。 その変わっていくことに 自分から積極的、意識的に参加し、共に変化する。 これを 「 化成 」 と言い、易の第三の意味です。 結論から言いますと、どう変わるのがいいのか? 『天』の気を享けて『天の道』を謳歌し、生の肯定へ至る変化です。 当然、『時』の本質の不滅のものへの具現化です。 『時』を継ぐものが喜びの変化と言ってもいいでしょう。 それは、秩序とも言えるかと思います。 そして、 易のすばらしさは、この現実をあくまでも対象にしていることです。 この現実、そう、変化するのは、宇宙や自然だけではないのですよ。 地球の自然だけではないのですよ。 全く、人間も変化しています。 男と女をひっくり返したような生き方は、だめ! 男と女の役割、それは、ひとつの秩序です。 この秩序を犯せば、 陰と陽のアンバランスは、さまざまの現象を引き出します。 たとえばその内の一つ、男性的な活動性の高い女の子が生まれ、 逆に、やる気の乏しい男児が産まれて来ます。 最終的には、男性が女性をほしいと思わなくなり、 女性が、子供をほしがらなくなります。 個人的には、それでいい、と。個人の自由でしょう!と。 しかし、それでは、あまりにも身勝手に過ぎませんか? 卑近な政治的な例で申し訳ないのですが、 あなたの老後の年金になる税金は、 誰が払うのですか? 他人が生んでくれた子供たちが、あなたの為に払うのです。 そういう政治程度のルールだって、秩序が前提です。 秩序は皆が守らなければ破綻します。 あなただけの破綻ではなく、全体が破綻します。 わたしたちは、太陽の秩序によって生かされています。 太陽が秩序を少し変えただけで、全生物は死滅します。 均衡なる秩序の上の生であることは、事実です。 私たちが均衡を破り、秩序を犯すことは、 未来を暗くすることにならない? 赤ちゃんを見ると、未来が見えます! 赤ちゃん誕生で、命名を依頼されて鑑定をしますが、 近年、そういう傾向を感じています。 生まれる子供の運命の分布も変わって来ている!! このことは、今まで折に触れて言ってきました。 まず、現代は陰の大過が考えられます。 大過とは、過ぎて及ばざるが如し。女の大過です。 内面的に女性が女の本質を失う・・・ 外面的に女性がケバクなって女を装う・・・ 中身がなくなると外面を作ろうとするのですね~ (笑い) 女性はやさしく、かしこく、かわいらしく、 整然と秩序の中へ、お戻りになってください! (笑い) それが、貴女の夫と子供たち、子孫の繁栄の基なの。 貴女がたくましい 「 根 」 になることを祈っています。 青字の部分は、安岡正篤 著の『 易と人生哲学 』のなかから引用、参考に させていただきました。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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06/18 10:14 |
『因果応報の源 時間を生きる』1. 「知」と「権力」の共犯関係、 フーコーの言う「生政治」そのものです。Category : 身近な物質文明
尾瀬・大清水 炉端の山女と鹿の肉
![]() テーマ『時が主役』を 『因果応報の源 時間を生きる』に変えて続きます。 ★前の記事にいただいたコメントからです。 ”時は無情に過ぎ去り、全てのものを消し去るもの”だと思っていました。 新たな時の意味に冷静になっています。 また新たに変化ですか?秩序ですか? 次はどんな驚きがあるのか楽しみになっています。 そうなの、私たちの主観の世界では、 『時』は苦しみ辛さを癒してくれるモノと映ったり、、、 時間の残酷さとありがたさと、受け取ったり、、、 一般的には、時の流れに救われると感じることもあるようです。 また、この瞬間を記憶に留めて置きたいと望んでも、 それでも忘却してしまう事を『時』の仕業? と思ったりします。 しかし、これらは、 直接『時』そのものが働きかける効用ではなく、 私たちの脳、脳の働き、生命保存の脳が持つ脳力の仕業です。 それを私たちの意識が、『時』の仕業と感じるのでしょう。 そのように、 私たちの認識というものは、まず、 人間脳のフィルターが、掛かっていて、 人間脳のフィルターは、個の生命存在を保存する為に有無を言わせぬ 必死のバランスを常に取ろうとして、 私達の意識に魔法を掛けるのですね。 更にその上に、 個々人の癖のある感情なり、 その人なりの変化に富むキャラクターという フィルターが掛かっているわけですから、 ”『時』は苦しみ辛さを癒してくれるモノと映ったり、、、” というのは、 まさか! これだけが『時』の本質とは認識していないでしょうが、、、 『時』に対する人の感情的解釈の一端なのでしょうね~ ほほ。 これは、 人間らしい、人の感性の豊かさの表れなのですね。 ★拍手コメントにいただいたコメントを、もうひとつ、 現代の女性は、 働くコトを前提に子育てをすると言う考えが当たり前になっていますよね。 根本的に、小さな子供を他人に預けて働くという考えを持っていること そのものが既に問題の様な気がします。 これは、すこし以前と今とでは、 子育てに対する認識が、明らかに違って来ているのに 疑問を持たれたコメントですね~ 本当に、いただいたコメントに同感、共鳴してしまいます~ 今日は、これに拘って記事にしたいと思います。 ずっと以前、 子供を育てるには、 母親以外の人間や保育所に預ける事は良くない! どんなに経済的に苦しくても母親は働かないようにして、 かけがいのない子育ての時期を親子で触れ合って子供を育てましょう。 と推奨され、それが正しいと言われていたのです。 その頃の母親は、 ある意味必死で自分の手元での子供の世話に拘りました。 それなのに、どこでどう教育学や育児方法が変更されたのか? 現代は、母親が働くという事が前提です。 おかしいなぁ~ 働くと言えば、子供を預ける正当な理由が成り立ち、 その為の託児所が足りないと、 正々堂々と、本人だけでなく公共や国が言っています !? ぁー あ、 最近は子供を保育所へ預けるのに誰も反対しないのね! コメントを書いていただいた人のように 普通に子育てを今までして来た世代の女性たちは、 コメントのように不審に思って、わだかまりを持つはずです! ”保育園に預けるのを当たり前だなんて、おかしくない?” と大勢の訝(いぶかる)る声が、聞こえて来そうです~ この社会における、 子供に対する育児観の変遷に、正直、付いていけなくて、 内面は忸怩たる思いの大人たちも多いことでしょう。 娘や息子の嫁の、子供(孫)達を 保育園まで送迎している祖父母の方たちも多いはずです。 本当に世の中、どうなっているんでしょう!? 大家族が助け合って暮らしていた昔の暮らしぶりからすれば、 核家族の中で、気ままと気楽さを手に入れた代わりに、 なんと余分な道具立てと、余分なエネルギー、 余分な努力で周りを巻き込み、 国も税金を投入するという、、、、!? あ・ほ・らしいと思うばかりです・・・・・ だって、 この幼児教育における宗旨替えの主役は何なのだ? ナニのため? 誰じゃないのよ? 主役は人間じゃない、モノですよ! おそらく、きっとこの理論付けは、教育畑からではなくて、 人口統計学、経済畑、その周辺からです! ほらね!やっぱり、 現代を牛耳っているのは経済です。 お分かりでしょう? 子供が主役じゃない。 子供の為であるはずがない! 子供は、犠牲者です。 もう、今は子供まで生贄に出す。という構図です! 母親の為でもなく? ええ~! 母親も振り回されている生贄ですよ! じゃぁ、、、何の為? 社会は何のためにこれだけのエネルギーを、、、 集めて、集中させて、怒涛の如く流れていくの~? この濁流の根源は、物質文明という魔王です。 モノこそ・命・の魔王よ! すべてをモノ化して、 モノの坩堝(るつぼ)に集約していくエネルギーです。 精神に価値を置かず、 最終的には自然そのものをモノと認識した延長に、 人間存在そのものも、モノとして扱っていく。 恐ろしい魔王! 私達も、 ”モノが命よ! ”と認識したら最後、この流れに乗ってしまうわ! モノに脅されて、 哲学や倫理的心を、さげすみ、捨てた民が辿る流れです。 これが、命の流転というコースです。 あぁ、日本人は流浪の民になるかもしれない? 流れて、転がるように生きる羽目になったのは、 どうして? それは、たぶん、吉田茂。 65年前、サンフランシスコの彼の地で、 国が、きっちりした羅針盤を持たずに、 唯一、経済を頼んで、これからは経済で生きようと、 モノの為の従属の道を選んだからでしょうね。 いや、その前にも、、、、、、 それが、一億総民の流転の始まりとは露知らず、 その時の為政者が為した結果です。 吉田氏は、自分の死の前に洗礼を受けて洗礼名を貰った。 おそらく心中は、ずっと前から神の子であったはずです。 だから彼は、母国の伝統を軽視できたのでしょうか? フリーメイソンの結社の名簿にYOSIDAの名前が、、、、、 神の御名にかけて、この国を神の国にしたかったのか? 疑ってしまいます、、、、、、 それから、65年。 表面的な物質文明の繁栄?を国民は享受して、 彼が画策したモノは手にしたけれど、 他はぜんぜんダメ!! 精神に大穴が、、、空洞が、、、アイテイル。 もう、反省するしかないのに、それもできないのね~ 最後、人は、 地に落ちた権威を守って地獄へ行くのだわ! 65年前の為政者の決断がどうだったのかは、 『時』が審判を、もうすでに、出しています! この日本人の心身共の流転の現実そのものが、、、 東京裁判の判決文なのではないですか.......? 最近、 新築の福祉法人の経営する保育所を見学する機会がありました。 公的補助の少ない自治体は、経営が大変だから、 基準ギリギリの設備は、 お砂場やブランコもないし、裸の土の園庭もなくて~。 お砂場やブランコがないといけないとか、 園庭が裸の土でなければいけないとか、 そういう基準はないようでした。 ごぞんちでしたか? どうでもいいのですね! あれだけ大事だって、幼児教育で言っておきながら、 お砂場も、ブランコも、なくていいのですね! あはは。 子供を入れる建物があれば、いいんだ! 保育園は、そんなものでいいのですね・・・ 敷地全部が、コンクリートで覆われて、 まるで動物園の飼育小屋 じゃないですか? 砂や土は、玄関や廊下が汚れて管理に手数が掛かるかららしい。。。 母親が社会へ駆り出されたせいで、 邪魔になった子供が預けられた居場所として 期待していた事が見事に裏切られていて、 やるせない不幸感で、いっぱいになりました。。 。 これでは、収容所ではないですか。。。 。 あれだけ大事であったはずのモノが、 躊躇(とまど)いもなく無くなっている、、、、、、 暗澹たる思いで、帰って来ました。 なにかが無残に壊されている。 「ここは、公的補助が少ないところだから、もう増やす計画はない 」 これで当然の施設である。 と。 そう堂々と、、、管理者の言葉です。 小学校の放課後、児童を預かる児童会の現場も見て来ました。 殺風景な倉庫のような建物で、狭い! 一畳に、1、2人が思い思いに床に座り込んでいる窮屈さ! まるで難民キャンプのような風景だった、、、 目まいを感じて。。 、、、? 国が、国の未来を大事にしていない、、、 この因果応報は、10~20年後に現象化するでしょう。 今の世は、 敗戦後の廃墟ではありません。 廃墟をうろつく孤児ではないでしょう。 大人は、自分の楽を求めて生きる余裕がある時代にですよ! 親までが自分の事しか考えていない。 ”私たちが施設の向上を求めれば、親の負担が増えるだけなのです。” 帰路の車の中で、率直に、悲しみが、 どこかで慟哭したい気持ちが込み上げてきました。 国は、国民の命を道具のように扱う。 そう云う社会に、いつのまにかしてしまったのですね。 この事は、敗戦を経て、65年経っても変化がないようです。 国家が、 人口減少の穴埋めに、働き手として男の代理を女に求める。 それは、女から母性を虚勢し、子供からの母の略奪でしかない。 将来、 未来に亘る母性の欠如を国家が行っているのです。 同時に、女性の側の智の欠如=おろかさ、も原因です。 これは、自然である『天の道』への謀反であり、 『地の理』が歪められ、その破壊です。 これで完璧に『人の紀』は乱れ、 天変地異が起こり、政がうまく実現できない。 これが東洋の考え方です。 なぜなら、自然と人は一体であるという思想からです。 今の世界を覆う現代思想の問題点は、 政治や経済をリードする哲学が萎え、 新たな芸術を生み出すべく力ある思想が生まれていない状況下で、 人間が、経済の手駒になってしまっている。 その現状は、(政治が生み出す混乱)= (近代における「知」と「権力」の共犯関係)を暴き出してきた ミシェル・フーコーが晩年、提起した 「バイオポリティクス(生政治)」そのものですよ。 その昔、 国王が持っていた自分の領民に対する生殺与奪の権力が、 近代に至って革命で王政を倒して出来上がった近代国家に、 そのまま移行しているという。 18Cにおける「規律権力」は、まず従順な身体を作り出す為に ”監視と処罰というシステムを利用した。” 19Cになると「生権力」が登場する。 今度は個人の身体にではなく、 住民・人口という新たな政治主体に向かって、 形を変えて、国民を統治する法律として、 「出生率や死亡率」「健康増進や人口調節」などの 国民の生存管理に取って変って、 国民を統治する権力を《生権力》と言うのです。 それを行うのを《生政治》と言います。 まさに、行われているのは、《生政治》そのものです。 それを支えるのは、「社会防衛」の理念に立つ 精神医学、公衆衛生学、統計学などの学問であり、 まさにそれらが、 今の「少子化対策」、「介護保険」、「後期高齢者医療」、「嫌煙権」 などの施策になっているのです。 「後期高齢者医療」が国民の大多数に理解されないのは、 そういう生政治の陰湿さがあるからです。 裸の国民をまとめて薄暗い牢屋に閉じ込める。 そう云うイメージです。 また、法律によって 脳死体が臓器移植の対象と見なされることを「身体の国有化」と捉え、 これらの”現代の《生権力》が、 時に、不穏な相貎をもつ”と云うフーコーの指摘は、当たっています。 この行き着く先が、 どういう社会なのかも説明されないまま、 (おそらく、現政府も何のヴィジョンもないはずです!) その道具にされかねない命 !を、 自分が生むかもしれないという恐怖が、じわじわと、、、、 女の心の無意識に伝わっている事が、 少子化へと続く原因のひとつ、 なのではないか? 女は、鋭い嗅覚で分っているのかもしれません。 彼女に突きつけられているのは、 社会での男性化と家庭での子を産む器械としての役割だと。 生めよ! 増やせよ! どこかで聞いた事がある・・・ 国の制度の為に子供を増やせ? 過去は戦争の為だった・・・ 今度は、平時だから、昼間は社会で男と対等に労働をしろ! まったく同じじゃないでしょうか? どういう顔をして、国はそういう事を言えるのかしら? 国民は国に対する奴隷だ。 と、 大国に従属しているポチのような国に言われたくはないわね!! 《 それが、女の本心かもしれませんね~》 本当に、国家権力に言われて生みたくはないですね~。 管理統治されるために生みたくはないですね~。 その苦しみが聞こえてくるようです。 女性が子供を生むのは、自然です。 それに逆らう事はできないけれど、 ナニの為の子供の命ですか? モノの取り合いの争いの道具にするつもりですか? 今、子供を生んで母になろうとする女性は 子供が生まれてきて、ナニがしあわせなの? そう考えちゃうでしょうね~ それでも、いじらしい女性は、国の施策に従順です。 どこかで洗脳されているのに気がついていないのかも? 産後1,2ヶ月もしないうちから、認可保育園が一杯なら無認可へ、 19時までの保育時間しか預かってもらえないなら、 わが子を19時に保育園から受け取って、 19時からの預かりがある保育園へ、 自分の代わりに預け変えてくれるパートを雇ってまでも、 仕事をがんばってしまう、、、 子供を荷物の預け変えのように、 子供をモノとして扱う? 子供と対面するのは、深夜ですよ。 子供は夕食を保育園で食べてきます、、、 そこまで子供を犠牲にする値打ちが、世の中の仕事にありますか? そこまで値打ちのある仕事を、社会は彼女へ任せるのでしょうか? 足元のしあわせを大事にできなくて、 他に何を大事にすると? この女性の焦りを作り出し、将来に亘る母子関係を混乱させる元凶は、 「知」と「権力」の共犯関係、 ミシェル・フーコーの言う「生政治」そのものです。 国家というものは、国民のためといいながら、 国の利害の為には、 国民の生命を軽んずるのは平気です。 むしろ、善とする道徳をぶち上げるものです。 その原理は、敗戦の経緯を経ても変わっていません。 学問の「知の力」を利用しながら立法、行政で国民を翻弄し、 国家権力で行使するという国家のエゴイズムは不変です。 今、女性としての本来の生き方を確立するためにも、 真の主体性の確立が女にとって必要な時です。 それは、学問の「知」ではなく、東洋学の「智」に依るべきです。 雑学の「知」ではなく、実学の「智」を、、、 「智」も持たずに獲物を探しに慌てて外に駆けて出て行ったって、 大した物は、手に入れられないはずです。 焦りや、渇望から生まれる飢餓感は、 餓鬼界のモノを漁る貴女です。 貴女の心が、ぼろぼろになるだけです。 雑学をいくら知っても、結果は、”労のみ多く、実少なし”。 実は、智の中にこそ存在します。 西洋の知から、東洋の智へ、お戻りください! ”慌てる乞食は、貰いが少ない”って? そうならない為に、、、、、、あはは。 よき一週間を、お過ごしください。 参考文献: 「フーコー 生権力と統治生」中山 元(哲学者) 河出書房新社 「 《生政治》の哲学」 金森 修(東大教授)ミネルヴァ書房 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2010
06/23 18:31 |
『因果応報の源 時間を生きる』2. 幼子の心が、『時』を経て、道徳の最高目的である『孝』心の核になるのです。Category : 陰と陽〈女性の生き方〉
![]() 6月初旬でもまだ冬、 尾瀬沼への凍った雪の山道 今日は、テーマ『因果応報の源 時間を生きる』なのですが、 『因果応報』については、次回へ廻すとして、 今日は、まず最初に、前回の記事にいただいたコメントからです! 専業主婦が疎んじられ、 働く女性=新しい女性=進んだ女性と目に映った時期がありました。 これは東洋学的立場から見ると、間違っていたのですね。 コメントのお返事には、次のように書きました。 ★こういう判断には、 時間軸で見た場合や空間的にも何層ものステージがあって、 それぞれ解はステージ毎にあるのでしょうが、 陰陽の本質的には間違っています。 今、そこまでの検証をする思想が巷には転がっていないのです。 この返事では、分かりづらかったのではないかと、気になりました。 もうひとつ、前々から「道徳」と言いつつ、 何も深くは記事を書いていないのでそれも気になっています。 コメントにもう少し詳しくお答えしたいのと、非常にいい機会なので、 「道徳」のスタートとしての「女性の生き方」について、 サワリ程度になりますが、簡単にまとめてみたいと思います。 まず、 働く女性は、東洋学的立場から見ると、 女性の生き方としたら間違っている。 ここから、進めていきましょうね。 まず、働く女性の中味を、アラ婚の女性に的を絞りたいと思います。 アラ婚とは、 近い将来に結婚を目指している未婚の女性~既婚の女性です。 そもそも、 結婚をして家庭を作るのは、 『天の道』=宇宙の創造活動そのものなのです。 東洋、中国の陰陽学において、 ★男性の資質の特徴を挙げますと、 肉体の強健さ、闘争的であり、強い自我、 英知を持って社会で名誉や利益を求めて自己を堅持し顕示しつつ、 家族を養う糧を手にする役割です。 意識的なので、評価的、差別的、競争的、理性で社会の法を作ります。 おかげで、 これらの男の性の行き着くところは、 闘争社会と、殺伐とした孤独、人間性の荒廃です。 生物の弱肉強食、 強者による弱者の淘汰へと進んでいく社会の現出です。 どこか、今の社会の世相に通じるものがあると思われませんか? ★女性の資質の特徴を挙げますと、 柔らかな肉体、平和的であり、没我的、慈愛的であり、 損得や利害を越える純真さを持ち、 柔軟性に富む感性で家族や社会を調和と統合へ導きます。 理性で物事を割り切る事をせず、無意識からの直感を大事にします。 数字や理屈の評価を嫌います。 これらの女の性の果たすべき役割は、 男性によって繰り広げられる闘争と、 その結果生まれた人間性の荒廃と、 殺伐とした孤独を癒し、慰め、 これらのエネルギーを元初の『天の道』の 秩序の根源へ還流させる事なのです。 そういう能力が陰の本体である女性には、具わっています。 これらの、男女の両性の特質が違うということが重要なのです。 別々の特質を持った男女が結婚をして、 自分の特質を思う存分に十分に発揮しながら、 それは、相手の欠けている所を補うという補完関係です。 相手のない所を自己の能力で助け合いながら人生を切り開いていく。 その場が家庭であり、創造の場なのです。 結婚相手には、よく、同じ似ている人を、と言いますが、 彼女が、彼が、自分と違うからって? 問題ではないのですよ! 同じと言うのは、もたれ合う? どちらかが偏っている? 同じ目標でも、男女は達成する方法が違って、当たり前なのです。 自分と似た人を求める。 それは、男女平等の日教組の教育の賜物かもしれませんね。 同じ人間がいると、どこかで思っているのでしょう。 人は、一人ひとりまったく違う! (笑い) それぞれの違いを、認識し合って、理解し合う~ 違う領域を、違う感性で、違う知恵を持っているのに、 それでも人間として尊敬できる。 そういうお互いが調和した時、 許容範囲の広い、幅のある二人は、 同じ似ていると錯覚している二人よりも、 ダイナミックなパワーが生まれるのです! 理想的には、 『天の道』の秩序に合った相待関係。 宇宙の運行と合致したあり方です。 宇宙、自然のあり方、『天の道』の秩序を守る関係です。 それは、永遠の命の再生できる秩序に従うことなのです。 永遠の命の再生できる秩序とは、 そのひとつの形には、子孫繁栄があげられます。 このような家庭が形成されることが、非常に大事です。 マイホーム、学歴、高級車、そんな物の価値観ではありません。 男女は特質においては、違い、役割も違います。 が、 お互いが相い待って協力するという立場においては平等です。 その過程において、 お互いを成熟させていくという熱意と誠意に満ちている。 新たな命の成長という子育てには、 それが、大前提なのです。 マイホームや高級車や高価なおもちゃがなくっても、 このように男らしいパパと、 女らしいママに恵まれて育った赤ちゃんは、 自分が生涯を通じて、男なら男として、 女なら女として成熟する基盤を生まれながらに持つことになります。 そして、 その自分が女なら、 女らしい自分にふさわしい男らしい相手を、 自分が男なら、 男らしい自分にふさわしい女らしい相手に恵まれます。 仏法で”輪廻”という言葉がありますが、 この場合は、良き輪廻が繰り返されるわけです。 しかし、 女性が、社会へ出て働くという場合、 家庭の中で、誰が家事をするのか?という 低次元な問題ではなく、 あはは。 誰が『陰』の本体としての役割を果たすのか? 誰が、『天の道』の秩序の根源へ陽を還流させ、 陰の力で新たな創造性に溢れた陽を蘇えらせるのか? 闘争と、荒廃と、殺伐さ、孤独の世界である陽の現象を、 人間性本来のあるべき状態へ、 どう再生させるのか? 本来、女性である貴女の役割なのです! それが、貴女が陽の現象を帯びるようになったら、 競争社会の価値観からの開放の場であるはずの家庭や、家族の間に、 闘争と、荒廃と、殺伐さ、 孤独を生み出す陽の理知が渦巻くようになり、 家庭においても競争や評価の価値観が、横行するようになります。 それは、 大人にとって自業自得だとしても、 この一番の被害を受けるのは、未熟な命の子供たち!! 特に、貴女に娘がいればなおさらです! 子供たちは、陽の理知で疎外される被害に遭います! 子供の中の創造性は、芽生える事ができなくなります。 未来の命が去勢されるのです! この男と女を履き違えた無秩序状態、無政府状態は、 悪しき輪廻として、子から孫へ受け継がれていくようです。 決定的なのは、創造性の乏しい命、 陰の本体のバックアップが少ない運命へ入って行きます。 つまり、 子孫が繁栄しない、しにくい、 という運命を見ることになります。 もうひとつ 重要なことがあります。 乳幼児期の人間としての基盤作りには、 母の無条件の慈愛、抱かれた母の心身の温もりです。 この二つを、乳児がどれだけ深く自分の命の中に組み入れたか? 母の労苦を厭わない、 我を忘れて注ぎ込んだ母の慈愛を どこまで自分の心の根に吸収したかが、 その子の、生涯の徳性、道徳性を持つかどうかという 分かれ道になります。 乳児は、何も分からないうちから、 言葉を知らないうちから、 この温もりの本体である母に、 全身の笑顔やしぐさで応えようとします。 その健気さ!いじらしさ! この幼子の心が、 『時』を経て、 道徳の最高目的である『孝』心の核になるのです。 (母の)命の温もりを知った(乳児の)命が、 その温もりに応えようとする命の発露です。 胸が熱くなって、可愛い!と思うのです。 母乳を与えて身体を育てているようで、 実は、母の肌の温もりと、慈愛を乳児に注ぎ込む。 これをはぐくむ、と言うのでしょうね。 絶対に、他人では代われない母の持つ徳性なのですよ。 没我性の女にしかできない所業です。 この時期、はぐくむ事に成功した子が成長をした後は、 必ず、教科書的に教えられなくても 命の尊さを秘めて命を尊敬できる人間になります。 いじめられたり、いじめたりする立場にはならないでしょう。 いわゆる孝心のある人間性豊かな大人へとなるはずです。 『天の道』の秩序が分かる人格が具わって行くのだと思います。 周囲に自然に溶け込める、 和やかな環境を、自分の周りに作っていける 人としてのしあわせな生き方が自然にできるようになります。 このように、乳幼児期がいかに大事な時期か? そう言うと、 ネイティブの英語を聴かせる大事な時期とか、 文字や漢字を教えて、 カードで遊ばす大事な時期だなんて 言っているのでは、ありませんよ!!! あはは。 英語塾に入れる事よりも、もっと本源的に重要な『時』です! それなのに、保育園だ! 無認可でもいい! なんて、 他人に預けて、いくらの生活の糧が得になるのか? なんて そろばん勘定で天秤に掛けて比較する問題ではありません。 国としても、 どういう国民を作って行くのが、国の為なのか? 自分の生母に孝心を持たない人間が、 国を思う事はむずかしいでしょう。 国も個人も、何を焦って、目の前の利益を追いたいのか? 根無し草のように、大きな流れに飲み込まれていく国が、 国の財政に大穴が空いているという事は、 国の背骨がないのです。 まず、手当てしなければいけないのは、 税制改正だけでなく、、 国に永遠の繁栄をもたらす哲学です。 本当にどこ向いても、 そろばん勘定ばかりに追いかけられて、 国は到底、当てにする事はできないようなので、、、、、 一人ひとりがしっかりするしかないわね~ ほほっ。 物質文明の側面からの幸せを追いかけても、 それは、蜃気楼、砂上の楼閣を追いかけている事ですよ。 何もなくなるなら、まだしも、全てを失う。 思想の間違いには、それだけのリスクがあるという事。 65年まえにも経験した事を、思い出して・・・・・ あれは、低い思想を信じた事が間違いだったのですよ。 この辺をよく思索されて、あなたの人生に、 東洋運命学の知恵を、参考になさってくださいませ。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |