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07/01 18:28 |
『因果応報の源 時間を生きる』 3.必ず公を先にす 天下は一人の天下に非ず 天下の天下なり。Category : 呂氏春秋の世界
![]() 6月初旬 福島県桧枝岐村から雨の大江湿原へ 尾瀬沼へ至る木道 あなたは時間と聞いて何を思いますか? 5世紀、西洋思想の巨人、聖アウグスティヌスが、 『時』について、こう文献に残しています。 「誰にも尋ねられなければ解っている。 がしかし、尋ねられて説明しようと思うと解らない 」 聖アウグスティヌスでさえこう言っています。 主観的に解ったつもりでも、客観的には説明できないって~ (笑い) 相対性理論のアインシュタインは、 「時計が示しているのが時間である。」という言い方をよくしたそうです。 天才といわれる人間であっても、『時』の説明はむずかしかった。 とぼけている? まさか! あははっ! 先月、七年ぶりに地球に帰還した HAYABUSA です。 どうぞ! (3分08) 宇宙と共に、太陽と月と地球があって、 それぞれの運行と共に、我々の時間はあります。 太陽と月と地球が、唯、単純に? そこにあったからだなんて? 本当? たまたま、そこにあっただけだよ~ そんな!~ こんな事が、偶然にあるわけないでしょう! なにゆえ ? なぞです~~ 科学は、何時? どのように? 何が? どうなったの? を 追求するかも知れませんが、、、、、 なぜ、太陽と月と地球が調和してあるのか? このなぞの解明は、科学では無理でしょうね~。 太陽と月と地球が織り成す位置関係のリズムは、 私たちに影響を与えているというよりも、 それそのものによって命を与えられ、保っていると言ったら 言い過ぎでしょうか? 『天の道』の秩序の中で、その宇宙の運行の影響を受けながら、 『地の理』の知恵の中で、気候に従った衣食住を創造して工夫しながら、 『人の紀』の礼節の中で、社会や人々と調和を図って命をつないで行く。、 この地球上で生きる以上、 『天の道』=大自然の懐から飛び出すことは、不可能のように思えます。 今のカレンダーは、 1年に1から12の月の集合と、その順番があるという事を表すだけです。 一ヶ月も、30ないしは31までの均一な1日が集合したものであり、 その1から31までの日の順序を示すものでしかありませんが、 東洋における古代の暦や時には、 1、2,という集合や順序の意味だけではありませんでした。 十干という陰陽五行の文字と、十二支の組み合わせを使っていました。 刻む時のひとつひとつに概念性があり、意味があるものとして、 具体的には、星々の移動、天体の変化、自然の変化の具体性でした。 1日1日のそれぞれに固有の意味と意義があり、 他の日とは区別できる独立した役割というものが内容としてあります。 今、それらは、私たちの生活の中から消えています。 私たちは、その中の東洋固有の文化を失っています。 東洋固有の「文化を失う」という事は、東洋固有の「言葉」を失う事です。 この言葉とは、命のある=心がある言葉です。 その言葉を聴けば、心に概念が浮かび、体が動きが示す言葉です。 文化を失うとは、言葉を失い、心と体のある機能が退化する事です。 固有の文化、言葉を失ったから、”日本人らしく”なくなりました。 文化は、人の群れ、人の集まりのなかで息つきます。 命のある言葉は、人と人の「つながり」によって伝えられていくものです。 その「つながり」を断ってしまえば=人が孤立すれば言葉を失います。 その「言葉」を伝える場として家族や地域の共同体がありました。 家族や共同体の意識が壊れつつある現代は、文化も、そうですね。 日本固有の文化を失った日本人は、おそらく孤立状態に近い。 このことは、また、機会を見て書きたいと思っています。 本質的な、 自然の変化を暦に書き止めてきた東洋人の知恵は、 今、カレンダーに取って代わられています。 暦の精神性である日々の意義や、概念はいらない! ただ月、日の順番と数量の概念性だけでいい! (これは、暦の物質化です) 星々の移動、天体の変化は、今も変わらず、 そのままなのに、 現代の暦は、 さも順番に、巡りくる時であるかのように、 変わらずつづく物として、、 簡単便利な都合がいい順序数の機能の所だけを残して、 人間中心の一片の見方に合理化してしまっています。 古代人が、感じていた一日一日の意味のある内容が、 切り捨てられています。 今は、 『暦』を失って、日を数えるだけの機能であるカレンダーがあるだけです。 万人共通の毎日24時間単位の一律の日々が並んだカレンダーです。 それによって、 私達は、暦の複雑さから開放された代わりに、 毎日の日付を見る事で、 星々や天体の変化、自然の変化を感じる事を遠ざけてしまいました。 これは、人間の意識の中から『天の道』を葬ることであり、 東洋智である『天の道』を無視する事で、 西洋文明に染まった現代人の私達の意識は、 自然からかけ離れたって生きていける?と錯覚しています。 しかし、厳然として、 1日や月の満ち欠けなどのリズムにあわせた、 生理現象が私たちの体の中にはあります。 ほとんど全ての生命が、本当に小さな細菌から、人類に至るまで、 体内にこの生物時計を持っているそうです。 人間だって、さまざまな生理学的、生化学的現象を1日のリズム= 地球の自転に合わせて持っているそうです。 それゆえ、あらゆる生命はどうしても生理現象に拘束されます。 イヤ、生理現象として現代科学が捉える以外の現象が、 もっと私達の命のなかにあるかもしれません。 今は、ただ、意識にひっかからないだけで、、、 私の仕事とする『運命学』も、その延長上にあります。 今は、まだ科学が認識して知識にしていないだけです。 今日は、 万人共通のカレンダー上の均一な日々の『時』というものが、 万人平等の同じ日々ではない、というだけではなく、 個人々々の 命式におけるその人固有の『時』の意義、意味があるのだという事を、 運命学の生徒さんの体験から紹介をしたいと思います。 運命学を学びだして3年目の生徒、 Lさんとします。 運命学を学びだしたら、それは誰しも同じ気持ちだろうと思いますが、 自分の命式を出して、自分の運命を知りたいと思うはずです。 もちろん、それは学んだ力次第、可能です。 昨年の1月のある日、 Lさんが「今年の私の運気は、こうだと思うのですが、、、」と、 自分の命式を持って来ましたので、 私は、ちょっとした強い注意と警告をしました。 私 : 今までにない大変な年だから、十分注意をして! 何でもやりたいようにやっていい年ではない事を忘れないで! Lさんが、「わかりました」と言い、 重なる質問もして来たので、自覚をしてくれたと安心していたのですが、 この後、それが、ぜんぜんわかっていなかった事が判明します。 というのは、去年がLさんにとって危険な年になる『時』であるという事が、 どういうものであるのか、その年が明けて、今年の3月になってやっと、 私が言った事が実感できるという事態に陥ったのです。 運命学において、 人間には、何かを強く望んでやってはいけない時というのが、 種々の運の中のひとつにあります。 これは、その人固有ですから、その時は、人それぞれバラバラです。 そういう時に、仕事など何かをガムシャラにがんばったりすると、 結果はもちろん手にしたつもりでも、 その評価が全くなかったり、考えられない四面楚歌に陥ったり、 元には戻らない体の病に罹ったり、ある人は、念願の鎌倉に自宅を建て、 明日が引越しという前日に亡くなった。そういう事もありました。 失敗に失脚が続けて起こるような目に遭う時なのです。 こういう時に、欲を出して頑張り通した場合は、 その年運が本来なら終わる2月の節分あたりから 本当なら上昇運気が巡るはずが、もっと大変な循環に 入ってしまう。恐れるべき時なのです。 しかし、 また、こういう破兆な時には、いつにないバラ色の情報が持ち込まれて、 ウットリするような気分でやりたくなるものなのです! (笑い) そして、その話に乗ったが最後、蜃気楼のように全ては消えていく。 そういう年運です。それが、Lさんの去年の年運でした。 それなのに、 Lさんは、私の注意も訊かずに、昨年は一人旅の海外旅行を二度、 その後、案の定、働かなければならない経済状態になって フルタイムの仕事に就きました。 その都度、私へ相談をして来たわけですが、 彼女が熱心に信じている新興宗教の海外研修?である海外旅行へは ”やめた方がいい”という私のアドバイスを振り切り、 前々からの信仰上の予定だからと頑なに言い張って出かけました。 仕事も”来年からにしたら”という心配もよそに、 「せっかく年齢に関係なく採用してくれたから」 と言って勤め始めました。 すべてが、自分中心に決めていると云う事に気が付かないまま、 何もなければいいが・・・と案じていると、 今年の2月、「仕事止めました」と報告がありました。 訊くと、化学過敏症らしい症状で、通勤の電車にも乗れない、 吐き気に襲われずっと寝ているというではありませんか? 働かなければいけない経済状態はどうするの? 運命学を学んでいるLさんでさえ、こうですから、 今の私達は、自分の欲望や自己都合を優先が正しいと、思い込んで、 物事を決めるのが正しい、 そう、思っています。 自分が決めた事が間違いない。そう思っていますよね?(笑い) いわゆる、自分を点検する物差し(道理)を持っていない。 理性で決めると言った処で、打算や欲を優先していたり、 ひどいのは、怨恨や嫉妬で決めることもあります。 それだけ、自分というものが可愛いのですね~ (笑い) これでは、私欲そのものでしょう? あはは。 えっ! 自分のためで、どうしていけないのかって? 自分の生を栄えさすには、『天の道』・時に従う事こそ大事よ! 私達の命は、そこから生じている。 生物は、『時」を違えれば、自然に淘汰されるのを忘れないで~! 花や実がなるのは、植物の生が、時に従えばこそなのですから。 Lさん曰く「家族の為に宗教行事にも参加をしたし、 働く事だって、家族を思う善い事だから、 悪くはならないと思ったのですが、、、」 あははっ~、善良なるLさんに、私はこう言いましたよ。 家族といい、その為といい、 貴女の命があっての家族ですよ。『人の紀』です。 貴女の命・『天の道』がなければ、家族とも出会えなかったでしょう。 運命の重要な時とは、その命の根源の秩序なのだから。 それほど、『人の紀』家族を大事に思うなら、 その前に『天の道』・『時』を知って自分の生に従う事。 時に順ならざれば、滅ぶ。 命があってよかったわね~ 今年は、去年の代わりにじっとして、命に感謝をする時にしたらどう?・・・ Lさん「えぇ、そうしようと思わないでも、 実際もう、どこにもいけない位の体の状態です。 今年一年間、じっと自分を見つめようと思います」 私達は、すこしでも余裕があれば自分の欲に走ります。 今、政治家の先生達は、何の欲か、走り回っています。 あははっ! それが、凡人の常の習いなのでしょうが、 「呂氏春秋」には、次のようにあります。 昔先聖王の天下を治むるや、 必ず公を先にす。 公なれば天下平らかなり。 平らかなるは公より得。 天下は一人の天下に非ず。 天下の天下なり。 私欲を去って、公のために。 そこで公というのは、いったい何が公であるのか。 英語のPubric(パブリック)とはまったく違います。 深い東洋思想の知恵を どうか、ご自分で思索してみてくださいね。 よき一週間をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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07/06 22:22 |
『因果応報の源 時間を生きる』 4.運命学では、東洋の叡智、陰徳の提起をしなければなりませんCategory : 家系の興亡
![]() 大江湿原から尾瀬沼と、燧(ひうち)ケ岳 今日は、”因果応報”について、 陰徳の視点からすこし記事にしたいと思っています。 まずは、 前回の記事へいただいた拍手コメントの中の 次のフレーズへ、 公開でお返事を致します。 とっても貴重な事象をご紹介いただきました。 私の近所では 家を建て替えると必ずその家の誰かが亡くなります。 そういう運気だったのでしょうね。 折角のコメントですから、 そういう運気だったのでしょうね にこだわって、運命学の一端をご紹介します。 これは、実は、カテゴリー(家系の興亡)の初めての記事です。 深くは、まだ、、、、、、。 いくらか、その端緒だけでも記事にしたいと思います。 おそらく、 このコメントをくださった方のご近所は、 若い核家族家庭ばかりのご近所ではなく、 昔ながらの伝統的な大家族で2~3世代の家族が同居、というよりも、 いわゆる屋敷内という同じ敷地内に母屋、離れが建ち、 それぞれが別棟にお住まいになっている旧家タイプの家の 集落の中ではないかと思います。 私が、遠くまで訪問鑑定に出かけるご家庭の多くがそうです。 都会で、核家族で住んでいる場合は、 田舎で誰かが亡くなっても自分と関連付けて考えないし、 また、いちいち情報が入って来ないのでなかなか気がつかない事象です。 ご家族の中で、誰かが家を新築すると、誰かが亡くなる。 禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)し 「 史記 」 人間万事塞翁が馬 「 淮南子 」(えなんじ) 不幸なでき事が他人事であるなら、 人生の禍福は、予測できないという喩えを出して、 ”そうなんだよ~” ”人生はそんなものだって!”とシタリ顔で片付ける事も 傍観者としては、できるかもしれません。 でも、当事者だったら、そんな単純なものじゃないのね~ なぜ? どうしてこんな目に? そう思うのが、ごく自然な気持ちです。 昔の人は、 どことなく直感で、分かっていたはずです。 今の私達は、西洋文明的な合理性の癖で、 科学的じゃない、目で見える理屈で説明できないものを嫌って、 心にzawa~ザワっとしたものを感じながらも、 事に関連付けて考えるのをためらい、無視をし、 邪魔な事、めんどうだと、避けて通っているのが普通です。 さて、 家の新築のように、何か慶事が実現する時、 ”魔が入る”とか、注意を喚起する言い方をします。 その喜びが大きすぎて、気持ちがゆるみ、それが油断を生む、 たとえば、宝くじに当たったら慢心に陥って、不幸になるとか、、、 これらは、表面的には油断や慢心を諌めるためが目的であろう と思います。 慶事の後の、凶事が起こる事については、 運命学で説明するには、 東洋の叡智、陰徳の提起をしなければなりません。 陰徳とは、陰の徳です。 表だって見る事のできない徳です。 徳とは、表だって福を帯びる現象が現れる時の(それを起こす本体)です。 陰のエネルギーが陽の祝福された現象を起こす本体です。 陰徳は、しあわせの種なのです。 大事な事は、 福を起こす種がなければ、福の状態にはなれません。 しあわせになる、しあわせを引き寄せるには(本体)が、 なければ、、、ダメです。それが、陰徳です。 種が、幾らあるか? が非常に重要です! 陰徳をいくら、あなたは持っていますか? (笑い) しあわせを引き寄せる(本体)をいくら貯めていますか? 陰徳の定期預金はありますか? あはは。 どこに貯めていますか・・・・・ しあわせ・福のなかの一番は、 望まなくても、向こうから飛び込んで来る福です。 ほしい、ほしいと欲深く欲しがらなくても、飛び込んでくる福の現象です。 網を張らなくても、魚が陸地に飛び揚がってくる! そういう状態ですね。 このしあわせの中にいる人は、 ”頂いた”とか ”恵まれた”とか ”さずかった”などと、 心境を話すかも知れませんね。 しかし、 今の世の中は、 資本主義の経済性の効率化から、 お金を廻して、動かそうとするエネルギーが強いですから、 煽られて、扇動されて、欲望を引き出されるような仕組みですから、 向こうから飛び込んでくる福を待つなんて、 こんな安閑としていては幸せにはなれない、と思う人が多くいて、 どんな場合も、自分から強く望んで”ほしい!”と欲望を膨らまさないと しあわせになれないと、思い込んでいる人ばかりでしょうね~ あはは。 だから網を張る、努力をする、悪いことではない、いい事だ、 そういう肯定で今の世の中の価値観は成り立っています。 なせば、なる! ほんとうでしょうか? だれでも網を張れば儲かる? あはは~ 努力をすれば同じ結果が出る? ほんとう~? 因果応報によって報われるとしても、かならず差が出ます。 それは、ひとつは持って生まれた運・命式の違いがあります。 自分の命式にあった努力は結果が出やすいのです。 努力がなくても、恵まれるというような事です。 反対に、自分の命式にない事は、大変です。 いわゆる、努力をしても な・か・な・か、渋滞いたします。 掘っても掘っても水脈に突き当たらない井戸掘りの様です。 この差はなになのか? しあわせを引き寄せる(本体)陰徳が、あるか、ないか? つまり積善があるかないか? それが、どのくらい? たとえば、 私達は、しあわせな現象である陽の現象に恵まれるのは、 その元の、しあわせを引き寄せる陰徳の力を消費します。 つまり、陰徳の力がなければ、しあわせな現象は現れて来ない。 つまりしあわせな現象に恵まれるという事は、 積んだ陰徳の貯金を崩すのです! 福の大きい陽の現象を出すのには、 大きな陰の本体の力を使うのですね。 陰徳がげっそり、痩せる。 あはは。 陰徳が、なくなってくれば、 陽の福である現象は出て来なくなる。。。 つまり、福でない陽の現象が出てくるようになります。 つまり、禍(わざわい)が起こるのです。 おおきな幸せを望んで、それを達成した時は、 おおきな陰徳を使ってしまった時なのです。 そのように、 積まれた陰徳は、限りがあるものですが、 陰から陽へと転化されたエネルギーは、運命そのものから見ると、 運命の質量保存の法則、 運命のエネルギー不変の法則が成り立ちます。 積んだ陰徳の分だけ、福がやって来るのです。 これらが、陰徳の観点から見た 慶事のあとは、凶事が起こりやすい理由のひとつです。 他の視点から見るのは、今回は省きます。 最後に、 気がついて欲しいのは、 今、私たちが意識する範囲内 (見たり、聞いたりできる範囲内という事ですが) その範囲内で、物事というものは、成り立っている訳ではないという事。 その狭い範囲内で、早急に結論を出してはいけないという事です。 カール・マルクスの古典的著書 『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』から 有名な言葉を引用します。 人間は自分自身の歴史を作る。 だが、それを、自分の好きなように作るわけではない。 自分の選択した状況の下で作るのではなく、 過去から与えられ、伝播された、すでに存在する状況の下で作るのだ。 私たちはうぬぼれる程、自由ではありません。 自分の意識が好きなようにしていると思うのは、勘違いです。 たかが意識は、そこまでの力はありません。 過去から与えられ、伝播され、すでに存在する状況の下こそが、 自分の過去からの因果応報、運そのものなのです。 今、まさに日本の政治自体、 ”時の権力者カ~ンさん”が口で言うほど楽じゃないのです。 すでに存在する状況の下で、どこまで、なにが、できるのか? カ~ンさんご自身も解かってないかも? 陽の象徴、だから政治は偽というのです・・・・・ 今日は、このくらいで。 どうか、幾多の幸がみなさまへ、 降り注ぎますように。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 |
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07/13 22:09 |
『因果応報の源 時間を生きる』 5. 因果応報と永遠のいのち、これは『時空』にわたる永遠性の別名です。Category : 呂氏春秋の世界
![]() 梅雨空の葉桜 ちょっと、今日は前置きを、、、 『因果応報』という古い仏教的な言葉を、 できるだけ現代の意識的な言葉で種明かしをしてみたいという衝動から このテーマを書き始めたのですが、 思っていたよりも簡単に終われそうもなくて、、、(笑い) いただくコメントに導かれながら、 だんだん深みに入って行っているような気がしています。 あはは。 実を言うと、なぜ、『因果応報』なのか? 現代のすべての面における閉塞感は、 表面的には経済の行きつまり、地球資源の有限性、 社会的には少子化など、の現象として現れてきていますが、 その奥の問題点は、 理念や哲学、思想の欠如による 生活レベルの道徳の崩壊と思っています。 そこが、私達の深く豊かな創造力の表出を奪っているのです。 道徳のその奥に、ふたつの扉があります。 ひとつは、”因果応報”の扉。 もうひとつは、”永遠のいのち”の扉。 この二つは、『時空』にわたる永遠性の別名です。 このふたつの扉の後ろには、またひとつの扉があります。 それには、今、触れる余裕はありませんので、省きます。 『時空』にわたる永遠性の別名、”因果応報”と”永遠のいのち” この、もともとの東洋的な叡智を失念、捨て去って来た事が、 現代文明の病につながっているのではないか? いろいろなご相談を聞いて、運命鑑定をしている間に、そう 確信するようになりました。 つまり、 自己の存在の永遠性の喪失は、今だけに生きる生き方になります。 刹那的で、表面的な快楽、 今だけ楽しければいい、後の事を考えなくなる。 目の前の世界に生きるのですね。 それはつまり、難しい事を言うと、 人間のなかの、仏性や神性を壊し、限りなく畜生系に近くなる。 いいえ! そう言ったら、 畜生(犬や猫、動物等)に失礼かもしれないですね~ (笑い) 畜生以下、石ころ以下、この地球上に立っていられなくなる存在です。。 "因果応報”感の喪失は、『空間、場』における自己責任感の喪失で、 本当の自分を見失う事です。 自分を見失う事、それは、同時に客観性を失って相手を無視して、 そして自分も社会から消える事です。 ”永遠のいのち”感の喪失は、『時』における自己の存在の瑣末性です。 ささいなつまらない自己に限りなく堕ちて行くのですね。 こうなれば、 人は何をしても自己を評価できなくなります。 逆に、突然、 通りで何十人の人間を刺し殺したとしても悪いと思わない。 全てを他人のせいにして、逃れられると、、、 傲慢の極、もっともまずしい命。 なぜなら、それはこの宇宙のリズムを無視し、 『天の道』に反逆し、自己の命のよりどころを失っているから、 虚勢を張って威張らずにはいられない。 素直になれない その威勢の行為が、他の命を殺傷する。 殺傷しないまでも、平気で他を傷つける。 そうしてまでも歪んだ自己の存在の証明をしようとする。 たしかに、今の世は、 ”因果応報”と”永遠のいのち”の存在を忘れて、迷っている・・・・・ 過去に いろんな時代がありましたが、 こんなに自ら進んで自己を矮小化し瑣末に考える時代があったかしら? 知識を知れば知るほど、自己が矮小化していく。 なぜ? 進んだ科学が、増えた知識が、人間を有限化したのかもしれません。 知識ではないものを、信じるな! 『因果応報』なんか、うそっぱちだよ! 数字で計れないものを、信じるな! 『永遠のいのち』なんてあるわけが ないだろう! 人は死ねば土、石ころになるんだよ。 無だ! それか、なんとなく、(てんごく)へいくんだって? あははっ~! 大人がこう言っているのを聞くと笑うしかないのです。 今、人は人間性の瀬戸際にいるような気がしています。 あ、ぁ、前置きが長くなりました。 さて、記事本文に戻ります。 前回の陰徳の視点から観る『因果応報』のテーマの記事に 次のようなコメントをいただきました。 ピンチのあとにチャンスあり!ではなくて、 慶事のあとに凶事ありなのですね。 慶事の前には、貯金の限度額は決まっているようですが、 「徳」を積んでおかないといけないのですね。 これは命式によって決まっているようですが、 善行を行うことによって積み立てられるものなのでしょうか。 今からでは遅いかもしれませんが、陰徳貯金の必要性を感じました。 このコメントに、誰もが共感されると思います。 今日、なにか参考になる事が書ければと思っています。 この地球上で生きる以上、 『天の道』=大宇宙の存在=大自然の懐から飛び出すことは、 どう考えても、私達には不可能です。 この宇宙の片隅の太陽系の中の水惑星。 46億年前に誕生した地球。 太陽から3番目の近さ、その適当な距離を保って太陽を回る。 その条件が、多様な生物の生命活動を可能にしている。 これらの事は、もうすでに、 意識の額縁のなかである科学が、証明をして来た事です。 これらは、人間の意識を通して科学が証明をする事です。 しかし、なぜに、こういう惑星があるのか? そこにどうして我々が生存しているのか? この謎は、科学では解明できないでしょう。 科学が網羅する範囲を超えているからです。 意識の及ぶことではない、そう思います。 これらは、おそらく哲学、宗教が答えなければいけないわ! 同じく、科学では、 地球の1日や、月の満ち欠けなどのリズムにあわせた生理現象が、 私たちの体の中にはある事も証明しています。 私達の生命は、それらの生理現象に拘束されています。 理性が私達を拘束する前にです! 脳の視床下部という、 私たちが自分で意識する、しないにかかわらずに 私達の生命の保全を司っている 自律神経である交感神経・副交感神経機能 及び内分泌機能を全体として総合的に調節しているところがあります。 視床下部には、 体温調節中枢、下垂体ホルモンの調節中枢、 浸透圧受容器、摂食行動、飲水行動、性行動、睡眠などの 本能行動の中枢、及び怒りや不安などの情動行動の中枢が あります。 それらは、 体温、血圧、心拍、睡眠、 ホルモンや消化酵素等の内分泌機能、食欲、 細胞の新陳代謝の現象など、一日の中で一定のリズムを持っています。 つまりは、体の持ち主である本人の意識とは関係なく、 これらの生きる本能的な機能は、 直接、地球の1日や、月の満ち欠けなどのリズムに合わせて 機能する生理現象だという事です。 私達の体、命は、 自分の命であるようでも、自分の意識のままにはならない。 自分の命は何の指図で働いているかというと、 大宇宙のリズムの影響で機能をしている。 そういうことなのです。 自分の命は私の物ではない。 私物ではない。 命は『公』=『天下』のものである。 という思想が出てくるのですね。 『呂氏春秋』の 天下は一人の天下に非ず。 天下の天下なり。 命は自分だけの一人の命ではない。 すべての命は、大宇宙の命から生まれた命なのだから、 =大宇宙の命なのだ。 大宇宙のリズムに合わせて生きることが長生久視を叶える事だ。 と言うのです。 これが『天の道』です。 『天の道』に順じることが命を謳歌できる事であり、 それを邪魔するのが自分の欲である。 自分の欲の満足の為と言って結果は『天の道』に逆らって生きる。 その事を「私欲」と言う。 「私欲」を去って、「公」に生きるとは、 あくまでも、宇宙をひとつの生命体と見て、 そこから生まれ出る事を可能にした地球の恵まれた状況、 命をはぐくむ条件を満たしてくれる太陽と地球の恵まれた状況、 その命を今現在のあなたまで継承してつないでくれた恩人、 それが、直接的には両親。 それ以前の両親の親達。 先祖と言う事になります。 お分かりになりますね。 いのちの継承の筋です。 それが、『孝』に、道徳の最高価値を置く理由になります。 単に、親孝行、何かをプレゼントをすることが親孝行、 そんな目先の行為をさせる為だけの、『孝』ではありません。 それでは、幼稚園レベルと変わらないではありませんか? (笑い) 小学生に教科書で教える道徳とは、 困ったお年寄りに席をゆずりましょう。等が道徳という事に なるのでしょうが、 それは、ずっと先のほうで派生する枝葉であって、 根本的な本質は、この『天の道』から、『孝』へと導かれる 中にある筋であって、ここを外してはいけません。 孝を知っている。孝とは親孝行だ。親を大事にすることだ。 私は、親孝行をしている。その事に十分満足をしている。 あはは。 これでは、単なる主知主義(知識や知性を重要価値とする)です。 これが、まじめな勤勉な日本人が陥りやすい穴凹(あなぼこ)ですね~ すぐにすなおに学んで覚えるいい子ちゃん! 偏差値教育をすぐにマスター優秀児! 実を言うと、 これが、今の民主党の政治家に多いタイプなのです! 彼らに任せておくとどんな日本になるのか、 見えてこない! 権力者の謙虚さがない! 不安ですよ~ 彼らは、学んだ知識が最上のものだと思っているだけで、 そういう教育を受けてきた自分を間違いないと思っている。 それ以上の高みを知らないように思う。 たしかに、たしかに、日本人は、 外来文化を学んで覚えて素早く身につける天才ですよ! しかし、ついでに言っておきます。 江戸時代の元禄文化という緩みきった(今の日本と極似している) 文化のなかで主知主義に陥った朱子学のせいで、 黒船に対抗できない、どうにもできない非力な日本人を作り、 現代につながる明治維新の本質的ゆがみをもたらした、 元凶なのではないか? この事については、また別の機会に記事にしようと思います。 孝経に、夫れ孝は徳の本なり。とあります。 陰徳とは、太陰にそなわるエネルギー、創造力のことです。 天のエネルギーに対する大地のエネルギー。 太陰にそなわるエネルギーに相対するものが 地球にとっての天そのもの=太陽そのもののエネルギーです。 太陰に相対するのが太陽です。 太陰:太陽(お天道様です) 太陽から守られるあらゆる生物の命の存在に最高の価値を置いて、 その事実を感謝し、その心で『天の道』に順ずる生き方を守り、 命への感謝から親から子へ、 また子へと継承して行くことが、陰徳です。 太陽への感謝=命への感謝=大地に積もる徳なのでしょうね。 命への感謝を、身近な具体的な行為として挙げれば、 先祖に、我の命の誕生までつないでくれた事へ感謝をする行為。 その感謝の報いとして、先祖に自分の善行為を以ってお供えをする行為。 まず、生きている親への孝の前に、 死者であるご先祖のお墓参りをなさるようにお勧めします。 宗教や宗旨がどうのこうのではなく、 子孫としての振る舞いとして、 感謝の心を持って行かれるだけでもいいと思います。 お墓参りの行為以前に、死者に感謝の心を持つという事がいいことよ! ちょうどお盆も近いし、 ご両親のお供をしてご先祖さまのお墓へ あるいは、一家の主として墓地の祭祀権者として、 ご無沙汰のお詫びに伺うのもいい時期ですね。 お墓参りは、貴重な陰徳を積む行為です。 つづきます。 参考文献 『 生物時計はなぜリズムを刻むのか』 日経BP社 著者 ラッセル・フォスター / レオン・クライツマン -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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07/20 09:08 |
『因果応報の源 時間を生きる』 6. 移ろう『時』の空しさを恐れない立ち位置で永遠という『時』に沿う生き方Category : 不滅なもの
![]() 梅雨の晴れ間の森 鴬の声 『因果応報の源 時間を生きる』 6回です。 今日は、色界(仏教で物質の世界を意味する)に光を当てて、 体・肉体における『因果応報』です。 前の記事は、 本人自身がまったく意識する事に関係なく、 人間の脳の視床下部には、太陽や地球の一日のリズムに合わせて 命の生存を保持する機能が、無意識的に働いているという事実から、 『天の道』から、道徳、先祖のお墓参りまでの話へ進んだのでした! つまり、地球上の生物は、生存する為のあらゆる機能を、 無意識の世界の『天』のパワーを享けて、 命が『天』の一部として機能しているという事実です。 『天』とは、自然、宇宙に存在するリズムです! さて、 この地球上の生物には、 太陽や地球の一日だけではなく、 さらに年単位や 月の動きにあわせた生物のリズムが、あるそうです。 昆虫のセミは13年に1度一斉に成虫となり交尾します。 竹は7年に1回花を咲かせ、 鹿は毎年角を落とします。 人間の皮膚は、2週間でターンオーバーし、 全身の細胞がすべて入れ替わるには、3年が掛かるとか? 体の各部分が、各々違うサイクルで新陳代謝を繰り返す。 ふしぎな時のうねりが、体の中にあります。 それを考えると、 私達の存在において、今という純粋な『時』はないようです? どういうこと? ? だって全身の細胞が、それぞれ製造年月日時がバラバラで、 古くなって老廃物となって捨てられる廃棄期限が違う、、、。(笑い) 肉体は、それぞれが生きて経過した時間が違う細胞で構成され、 それらの過去の細胞に包まれて、今の現在の体があるのですから、、、。 爪だって、今伸びた爪はどれ? 爪のどこの部分? そうして見るほどもなく、ほとんどの爪は古い! (笑い) 髪の毛だって、そう! 長く伸ばした毛なら2年前の毛が、 ほら、毛先に! 皮膚だって、垢になる表皮は、過去のものでしょう? 人間の体だけじゃないわ~ 太陽光線だって、今の瞬間、太陽が発した光ではないでしょう! 太陽の光が、地球の私達の手元に届くには、8.3分! 私達の、 主観が意識する”今という瞬間”は、客観世界においては、過去の累積です。 過去の遺物で支えられている。 まさに、マルクスの言う通り、 過去から与えられ伝播された、既に存在する状況の下で 私たちは、今という瞬間を味わうのですよ! しつこいようですが、 今現在の私たちの肉体には、 過去3年前後の間の食べ物の分子で構成された物も含まれ、 思った事、行動した事で得た血液の汚れと、 それから受ける細胞のダメージの歴史と、 宇宙からの紫外線の影響によって変質した古い皮質などで、 作られているとも言える !? このように、今の私達の体は、過去の自分の所業が集めたもの、 所業の結果で集ったもの、の積み木細工なのです。 今の瞬間! よりも古い過去のモノで作られている! その集積が、私たちの現在の姿形を作っている。 それが、私たちの抱える現実そのものなのです。 私たちの現在は、積み上げた過去からの集積なのです! この事自体が、自分の過去からの因果応報の状況ではないですか? 今の自分は、過去の自分の寄せ集め? ある例を、ご紹介しましょうね。 アメリカ先住民のイロコイ五部族のジョン・モホーク族の 『時』に関する言い伝えに、 「我々が今日為したことは、遠い将来に反響する。 7代先の子孫に起こる事まで責任を持って、 今日の行いを為さなければならない。」 という概念があったそうです。 なんと言うすばらしい! 保守主義でしょうか! これは、 政治的な右派とか左派という保守主義ではなくて、 今行うことがこの先何倍にもなって帰って来るので、 今行うことについて非常に慎重になる、そういう意味での真の保守主義です。 彼らは、 岩を手で打てば、その痛さで返ってくるものがある。 自分が自分の外へ発したエネルギーの反響は、 『時』を経て自分へ帰ってくる! 物体だけでなく、肉体と不二である精神においても、 自らの主観を客観へ解き放ったエネルギー結果が、 『時』を経て自分の主観をゆさぶる! 自分の主観から客観へ、客観から我の主観へという相互の働きがあるのを 経験的に解っていて、その事を認めていたのでしょう。 色界や無色界(形のない世界・心)・欲界(欲望の世界)における変化は、 『時』とともに移ろい、仏教で言う処の無常観を生んでいます。 この無常観を恐れずに、永久にこの『時』とともにあろうとする。 この志向は、移ろう『時』の空しさを恐れない立ち位置です。 『時』の移ろいを逆手にとって、利用する? この移ろう『時』のエネルギーの中に自らが飛び込み、 過去と未来の両方の『時』と共にあろうとする、 移ろう『時』と共に自分が存在しようという生き方、 永遠という『時』に沿う生き方だ思います。 すばらしい! 悲しみが即移ろって、よろこびに変わる、 苦しみが即移ろって、希望に変わる。 過去と未来が、現在のなかに融け合っているのです。 『天の道』=『時』 『時』によって過去が現在の原因になり、現在が未来の原因になる。 『時』によって現在が過去の結果であり、未来が現在の結果になる。 このように、 現在の姿・形のなかに過去を観る事ができ、 現在の姿・形のなかに未来を観る事ができる。 この『因果応報』という条理を嘆き、恨むのではなくて、 これをを使いこなし、未来に幸いの結果を出すのが智恵です。 そのためには、 常に、今(now)という『時』は、いつも新しい(new)でなければいけません。 日々新たなり。 カレンダー上の今日の次の日がやって来る、のではないのですよ! (笑い) 順番ではありません! あはは。 今までにない新しい日が、昨日とは違う日が、 毎日、巡って来るという事です。 夜、目を閉じる時に、過去は創造的に明日へ、 朝、目を開く時に、生まれて初めての日に出会うのです! その為には、自分が古くなってはいけないのですね。 その時、初めて、自分が真の自立をしたと言えるのです。 自分の環境からだけでなく、時間からさえも、自由になれるのです。 あなたが『天』そのものへ成る。 そういうことです・・・・・ It is the truth when the day is new. It is the new when the day is new. It is to be new. It is the new. now? new! 『時』について、まだ続きます。 参考文献 『 生物時計はなぜリズムを刻むのか』 日経BP社 著者 ラッセル・フォスター / レオン・クライツマン -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 |
![]() 2010
07/26 12:10 |
『因果応報の源 時間を生きる』 7. 体と心と口の行為は、必ず、客観世界からその反響が自分の主観世界へ返ってくるという事。Category : 不滅なもの
![]() とても強い,イチゴの甘い香りが~ 前回の『因果応報の源 時間を生きる』 6.において、 私達の命の構成が、さまざまな時のうねりの中にあると書きました。 命とは、心身ともにです。 精神と肉体に二つに分けるのは、西洋文明の二元論です。 東洋的存在の考え方は、精神と肉体が、一体不二であるという事です。 だから、東洋の仏教から出てきた『因果応報』の認識は、 西洋文明の二元論における精神と肉体に分けて考えないでくださいね。 たとえば、 壁を手のひらで叩いた場合、 手の平はどうなるか? あはは。 叩いたエネルギーに関して、手の平が壁の反発を受けて、”痛い!” 真っ赤に腫れ上がるほど痛い目にあう、そう、間違いない反応ですね。 そう! これは、 (西洋二元論の物についての)学問の物理学です。 ならば、 (西洋二元論の心についての)学問の心理学でも同じだと言う事です。 これらの学問は、二元論の範疇を出ていません。 あくまでも、人と宇宙、人と自然を分けています。 人と関係のない物の世界、宇宙です。 人と関係のない物の世界、自然です。 心理学ですら、宇宙と自然から切り離した人間の心理です! (人の心理は、風土や地理と切り離せないものなのに~) そう!物理と心理の学問だけで、すべてはカバーできないのです。 そこを埋める学問が、つぎつぎと生まれてくる・・・あはは。 キリがない! 分かれて分かれて、枝になって、、、陽そのものです。 西洋学問の知識は、時間とともに古くなる。 陽だからです。 東洋なら、両者を二つに分ける必要はありません。 す・べ・てが一体なのです! 統一、含蓄、一つのものに帰っていく。 主観世界の自分の感情、思いを込めて、「憎たらしい!」と思って叩けば、 あなたの主観世界に存在した、その感情と同じものを、 今度は、それと同じ迫力で ”憎い!”の感情を、 将来、あなたの主観世界で受け取る事になるという事です。 十分ご注意あれ~ (笑い) ここまで、OKですか ? じゃぁ、次にいきますよ! ”今がラクで、後が辛い人生。 今は辛くとも、後がラクになる人生。” あなたはどちらを選びますか? 「今は辛くとも後がラクになる人生」、これこそが極意といえそうです。 何故かは、この世は、皮相世界では、無常の世界だからです。 つまり、人間は間違いなく年を取り、死にます。 弱って、力が無くなる結末へ向かって生きなければならない訳です。 それならば、誰だって、 力のなくなった晩年には、死の直前には楽が来るようにしたい。 そう望むのが、当然です。 これは、間違っていないでしょうね。 (笑い) だから、脅かすわけではないのですが、 人生の原理原則は、 「行きはヨイヨイ、帰りはコワイ」のです。 あはは。 私達は、『時』を経ると共にどんどん若々しくならない。力強くならない。 だから、これは避けられない根本命題ですね。 これは、どうしようもない、のではなく、 どうにかしなくてはいけない。 そういう苦に、立ち向かって生きて行かなくてはいけない。 これが、生まれた以上、解決しなければならない苦です。 釈迦の言う、四苦(生・老・病・死)の生の苦です。 生きていこうとするだけで、苦しい。それが生の苦です。 生物は、 根本的に自立をめざして生きなければならなくなっているのです。 そうしないと、誰かにおんぶ、迷惑をかけてしまうのです。 おんぶだ、だっこだと言えるのは、 これは、共同だ、平等だと社会制度を作れる人間の場合で、 本来は、自立しない生物は、死ぬしかないのです。 これは、蟻も、ライオンも、小鳥も同じ。 違うのは、ペットくらいかな? ペットは、依存するからペットと言い、飼い主に”生”を ゆだねる代わりに自由を失っているザマなのです。 生物は、自立をしない命は、滅びます。 それが、自然の掟です。 ここまでをまとめますと、 体と心の行為は、必ず、 客観世界からその反響が自分の主観世界へ返ってくるという事。 その条理の上に、生きる上で、 ”帰りはヨイヨイ!”の結果になることを誰もが望むのでしょう。 むずかしい・・・あはは。 ・・・・・まだ、あるの~ ! ? ! そう、まだ。あります! (笑い) 自分の為した因果応報を受ける、もうひとつのもの・・・? 口から出すものです。えっ?...う~ん、 『言葉』。 私たちの口から出した言葉です。 強い感情を伴う言葉、何の考えもなく口から出る言葉、いろいろあります。 あなたの言葉も、あなたの因果応報の原因になります。 心にあって、それを出すのが、言葉。 心にもない、言葉。 もともと『因果応報』は、仏教の言葉です。 身口意の三業(しんくい)の(さんごう)と言って、 身の行う所為、 口から出す音声。 意(心)に抱く思い、 これらの三つを原因として、 その結果がそれぞれ自分に報われると説かれていますよ~ いやぁ~ほんとう ? (笑い) よく、考えるとぞ~っとするでしょう~。 あはは。 そんなこと、考えたこともなかった、、、、、 という事で、、、、、私達は、 現在は、過去の自己の身口意の行為の集積の真っ只中にあります。 じゃぁ、自分の現在は、ずっ~と自分の過去に縛られたままで、 過去から開放されることはないの? 不自由そのものじゃない~! いいえ~! 違うのよ! まったくの 自由を手に入れるのは、そんなに簡単な事ではないけれど、 不自由だと、 決め付ける事は間違っているわ! じゃ、なにが? それに気がついて欲しいから、これを、ず~っと書いています。 もっと『時』の認識を深く、簡単に思ってはいけないのです! 『時』とは、カレンダーにある均一な日の羅列じゃない。 時計のまるい文字盤の均等分された角度が、『時』ではないのよ。 今日は、簡単に書きますが、 『時』は、必ず過ぎ去る。 この世のすべては、『時』とともに必ず移ろって変化をする。 ある法則をもって、変化をしているわけ。 その『時』の法則を、 計れる物として、意識で解明していくのが物理や、天文学でしょう。 しかし、計れないし、物とは決めつけられないし、 意識の領域だけでは不十分でしょう。 それを解明していくのが本来の宗教、宗教哲学、哲学というものです。 人を仏の視座まで高めようとする慈悲で説かれたものが仏教なら、 人間が、人のままで、人のレベルまでの 移り変わる『時』と人間との関係を 解き明かそうとするものが運命学です。 運命学が扱うのは、人のレベルまでです。 私達は、過去に放った自分の主観の反響を必ず未来に受け取ります。 現在は、過去のその結果と、未来の結果になる原因のただ中に居ます。 それなら、 未来に良い結果が起こるに違いない原因とする現在を生きることです。 今の瞬時が、すぐさま過去の瞬間になるのなら、 過ぎ去る『時』のスピードを受身で眺めて、見送りながら惜しむ態度より、 逆に、『時』が現在の結果として運んでくる未来の時を、 良きにつけ、悪しきにつけ、 能動的に受け止めようと、迎えて待つようにすることだわ! 自分の未来を、『時』より早く先回りをして、 (これは、意識にできることよ) 自分の未来を出迎える。 それです! 不安な心配な未来を恐れないでいいように、 その変化を、今より良い変化に変われるチャンスとして生かす事です。 その変化とともに生きようとする事。 より良い結果の未来をすごせる様に、現在を生きようとする事です。 言い換えれば、未来のために現在の自分を生きることです。 未来に生きる事によって、過去の縛りを放ってしまう事です。 それが、無常から逃れる方法のひとつです。 言うのは簡単ですが、変わるのには努力が要るでしょうし、 そして、無鉄砲にやっても無駄多しですよ。 主観のルツボに入ったら、害多しでしょう。 肝心な事は、自己を客観的に観るものさしを持つ事。 できうれば、自分の誕生命式から、自分のタイムテーブルを知って、 自分を冷静に客観視できる視座を持つ事をおすすめします。 何事もそうですが、現実を客観視できれば、全ては手の内です。 それには、時間も掛かるでしょう。 しばし、未来が変わるのには時間が掛かります。 未来までには、しばしの時間の余裕がありますか? それを、待てますか? 粘り強く、忍耐できますか? これは、我慢をするための忍耐ではないわ! 自分の未来を切り開く、希望のある忍耐です。 希望を失わない持久戦、何を信じて、、、? 自分の未来を信じる忍耐ですね。 それが、瞬間、瞬間を、希望の中に生きるという事です。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 |