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08/05 10:13 |
道徳の本と、主知主義、現代ヨーロッパの思潮についてCategory : 生活哲学
![]() 冷たいサラダ 暑中お見舞い申し上げます。 外へ出て、空を見上げると、 夏らしい青空に白い雲が、まるで綿菓子のように、 ふわふわと浮かんでいますね。 『因果応報の源 時間を生きる』 は、まだ続く予定ですが、 今日はインターバル、 主知主義と、現代ヨーロッパの思潮について、 記事にしたいと思います。 あ、その前に、近況を少し、、、 この夏は、何時もよりもまして忙しく、更新もなかなかの状態です。 来週あたりまでが、出産予定日の命名のご依頼等、重なっています。 順調に赤ちゃんがお生まれになる良き時期が重なっているという事で、 うれしい事には違いないのですが、 決まった通りにお産があるわけでもなく、、、 命名の根拠になる誕生命式は、日と時間が重要なファクターな為に、 依頼者の方は、産まれたら即、日と時刻を連絡して来られます。 携帯が何時鳴るか? あはは~。 産院はお産の前ですが、こちらは産後に連絡が来ます。 夜中はまさか!ありませんが、朝、早くだったり、夜でも気になります。 予定日前後には、留守にはできなくて、 今年は、全員の命名が終わってからです。 夏休みは、、、。 まずは、 前々から、いただいているコメントから、 「道徳」に関する入門書みたいな本はございますでしょうか? できましたら、ご紹介していただきたいのですが・・・。 何か挙げようと思えば、本屋さんを開業する位、たくさんあります。(笑い) いま、一番、だれにでもお勧めしているのが、 安岡正篤先生の「天地にかなう人間の生き方」 致知出版社 もう、絶版になっているはずですから、古書でしか手に入らないでしょう。 文は簡潔で少ないですが、じっくり取り組むのにぴったりです。 というのは、あまりにも簡単にさらさら読めるというのは、 どうでしょう? (笑い) ”道徳”というテーマは、さらさらと分かるはずのものではない? あはは。 『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』 分かったら死んでもいい位の、命と同じ貴さがあると云う道とは? さら~さら~と読んでしまうのは、、、 それは、如何がでしょうか ? あはは。 さら~さら~と読んで、 さら~さら~と解るのが良い?のは、知識です。 知識は、その程度のモノ? 読めば判る。 イヤ、解る。 あはは。 だから、読んで道徳は解ったけれど、解かっていない。 やっぱり、難しい。 そう思うのが我々凡人の理性の限界、癖です~ あはは。 ここポイントですよ! 西洋的学問における知識教育は、 意識的な理性と感性を分かつ二元論故に、これでいいのです。 理性で解ればOKというレベルです。 だから学校のテストは、理解、暗記で100点がもらえるのです。 東洋的学問においては、点数はつけません。 東洋的学問における知恵の取得は、 存在を二元論で捉えない故に、 体を含む命(無意識)全体での把握を必要とします。 全身行為なのです。 いわゆる、 体全体をともなう時間をかけた習得、修行、体得が必要です。 東洋は、皆そうですね。 なになに道、然りです。 西洋でも、宗教教育はそうですね。修行です。 それ故に、道徳の本などは、さら~さら~と読めない本が、 読んで直ぐには、分からない位の本の方が、良書だと思います。 いわゆる道徳には、ハウツー本は要らない。 ハウツーで判ったと思う道徳は、もう、そこで主知主義に堕ちてしまう。 道徳を知識として捉える主知主義は、 人を、道徳という”まがいもの”の奴隷にして、 その”まがいもの”の牢獄へ入れてしまうのです。 本来の実学(自分を陶冶し生きる事に実に役立つ、、)とは、 読んで、知って、なんぼのものではなくて、 生きて変わって実績が残って、なんぼのもの。 自己の内側と、客観世界との響きあいを聴く。 そういう態度がいいのではないかと思います。 私なども、まだまだそのレベルとは言い難く、 一冊の本も、分かったとは言えません。ね~。 一生、自分で行動思索をしながら読むつもりで、 死ぬ前に分かる位でいいのでは?と、思っています。 (笑い) 知識として得たつもりでも、確信や力にならなければすべて無駄です。 それを学んだと言うのなら、結果は、雑学でしかなくなります。 道徳が、雑学へ堕落すれば、偽善になります。 偽善的な道徳が広まることは、 道徳がなかった社会よりも、もっと劣悪な社会へ進みます。 人間のエゴが道徳の仮面をつけて、 人間を縛り、だまし、利用する道具として使われるのですね。 道徳を盾にして、上下の身分とか、そういう制度を作るのですね。 人為的な制度を、いかにも天の道のように、、、偽って、、、 たとえば、 幕藩体制を支え、士農工商の身分制度を正当化したのが、 朱子学でした。 孔子、孟子の儒教を、朱子が、アレンジしたとも言えるでしょう。 日本では、朱子学派を大成した徳川幕府の御用学者、林羅山です。 今風に言えば、 西洋二元論に似た万物は理と気から成るという(理気二元論)で、 天地自然に高低尊卑の差別があるように、 人間社会にも差別がないと国が治まらないという。 これを林 羅山の(上下定分の理)という。 その理論を社会に客観化した規範こそが、礼(礼儀)お作法です。 天地自然に高低尊卑の差別があるように? ? ??? 人間社会にも差別がないと国が治まらない? ? ??? その為の、礼だったのです。 あははっ! 凡人には理解できない説が多いです。 太平が続いた江戸時代において、 戦のなかった元禄時代に、暇を持て余した武士階級が、 理に偏り、観念的になった朱子学の【窮理】= = 知識を極める事を重視する。 封建的秩序を正当化するためだった羅山の考え方は、 幕府の官学であるという事自体が、その限界だったのです。 【礼】【儀】を偏って重んじれば、どうなるか? 【義】は【仁】を斬る刀です。そして、 【仁】【義】のバランスが大事なのです! 【義】を極端に尊大化、最高価値の【孝】より 上位の価値だと拡大解釈をした。 【義】というのは、本来、命の継承を守るはずのものなのに! 【義】のために、命を捨てさせる、そういう使われ方をしたのです。 【義】のための死を美化したのです。 ☆ それは、そうした方が都合がいい権力者がいたからです。 今の我々の他人を重んじるという礼儀の概念より、 封建制度を守る為の、上から押し付けた矮小化した【礼】【儀】。 大いに抵抗を感じてしまいます。 その流れが、明治維新の支柱的思想へと変貌し、 その流れで、ほら! お馬鹿な戦争を、お国の為だと言って、、、 有能な若き人材を説得し、死を望むようにと駆り立てる為に、 ”まがいもの”の道徳が作り上げられ、国家権力でそれを利用行使した。 (詳しくは別の機会に譲りたいと思います。) ”まがいもの”道徳は、最悪、 人のいのちを支配し、殺し、貶め、手段化します。 邪悪性を帯びた道徳を美化しすぎると、そういう穴凹へ堕ちます。 その過程で、主知(知性や知識を重んじる)主義という怪獣は、 恐ろしい、恐ろしいエネルギーで襲い掛かって来ます。 人間の意識が作った知識や知性が、無意識の自然を統括するなんて! 意識は、無意識の中から生まれた滴(しずく)ですよ! それが、立場が転倒して! それで正気だって言うの? 今の思潮が、気違い沙汰だって! !! 識字レベルが低いのも、文盲というのも問題だけれど、 意識に偏重して理性が理解する知識に重きを置き、 理性や知性を自然や道理より上位に扱う、 ある意味、神仏以上に頼りにするのはもっと、困った問題です。 困った! 困った、由々しき問題なのです。 そのことについて、 いい例を、 バチカン大使の上野影文氏の新聞のコラムから、 現代ヨーロッパの思潮について、ご紹介しましょう。 キリスト教文明の本場である欧州において、次の2つの事で、 人間の知性の膨張が、神を押しのけ始めたという記事です。 ベネディクト16世が就任して今年で丸4年になりますから、 昨年の3周年の時、 今の欧州で広まりつつある「科学主義」と「相体主義」に 悩まれるローマ法王の姿が浮き彫りになるような メッセージをお出しになられました。 そのうちの一つ目は、「科学主義」=科学至上主義の科学に対して、 法王庁は受精卵を破壊するSE細胞実験や人のクローニングは 神聖なる人の命をもてあそぶものだと非難をされ、 許し難い暴挙であると、 別の機会にも、繰り返しメッセージを出されました。 だから受精卵を使わない山中京大教授の研究には 大いに期待をされている。 二つ目は、「相体主義」と云われるもの。 スペインで同姓婚が認知され、ポルトガルで妊娠中絶の禁止が解かれ、 イタリアでは事実婚の認知を求める運動、 尊厳死の非処罰化を求めて活発化する運動に対して、 法王庁はキリスト教の生命倫理観や家族倫理観を逸脱した 「相対主義」として 再三非難をして来られています。 あらゆる事に、”人間が選択権を持つか? 神に従うか?”の対立です。 デカルト以来の理性中心の思潮=近代合理主義は、理性を暴走させて、 科学信仰、人間中心思想を異常なまでに育て上げてしまっている。 近・現代西欧の思潮は、人間が超えてはならぬ境を越えて、 『神を押しのけた文明』を生みつつあり、 現実の社会の中に、深刻な対立と摩擦を生んでしまっている。 ”人間の意識による人権擁護もここまで来たか!”という 驚きとあきらめの気持ちで、悩んでいらっしゃるローマ法王のメッセージの 内容に大いに共感です。 あるがままの無意識である自然を見ようともせずに、 人間の理性が作り上げる”意識で切り取った母なる自然”を絶対視し、 合理性を追求する人間の理性が神聖視する『環境信仰』。 あらゆる表現の自由を神聖視する『表現自由信仰』。 こういう人間の意識が作り上げた新たな『神なき信仰』。 これ等が、ぞくぞく世界のあちこちで作られ、対立を生み、 その流れの傲慢さがイスラム教への侮辱、法王の非難などを生む。 それらをものともしない「われわれは、絶対に正しい」と譲らない人が、 増えて行っているとか、、、。 鯨の調査捕獲が、シーシェパードによって妨害を受けるなどの、 これらの調和を破壊する行為が、正義の主張で罷り通ろうと、、、 無神論を内に孕むキリスト教徒にとって、 神に代わる「人間の原理」を模索するヨーロッパの人々、 そして、法王のなやみ。 キリスト教の世界だけの事ではなく、 私たちだって傍観者ではいられない状況です。 ヨーロッパは、キリスト教というせめてもの物差しがあるだけ、 未だ随分マシです。 家にこわい長老、お祖父さまがいるという存在感。 うるさいけれど、こわい親父、それで保っていると言う事もあるでしょう。 それに引き換え日本は、 家を壊して、うるさい親父を追い出し、 各家庭に恐いお祖父さまが居ない! 若い者が自分の考えで放縦にできる天国?という有様です! ほほっ。 だから、これは、所を変えて、規模は極小さいけれども、 核家族の夫婦関係、親子関係、人間関係において、 似たような事が起こっているのではないでしょうか? 男女平等である人権を宣言する妻。 家事の手助けや育児休暇を取るように社会から圧力を掛けられる夫。 教科を止めて時間のゆとりを与えれば、ゆとり教育ができるなんて! あはは。 義務教育をくるくる変えてしまって、、、 ゆとり教育こそ、総合教育こそ、基礎学力が一番いる教科なのよ~ だって、自分が考えなければいけないのですから、、、 それが、失敗だったなんて、、、国を挙げて、 よく子供に聞こえる所で、言える事! それこそが、賢い大人が、賢い教育者がいなかった!って事じゃないの? 子供の自主性で決める食事! 食べたいものは?で決めれば、毎食が菓子パン! になるわね~ 社会問題化している事柄の本質は、みなそういった類でしょう。 それを、 現代は、《 価値観の多様化の社会 》であるとか、なんとか、 評論家や権威筋のご都合に乗せられて、コメントを聞かされて、 こんなもんなんだなぁ~と思わせられて、 どうでもいい周辺の事で、説得されたような風になって、 本質を、かっ飛ばされて行く、、、 ・・・・・・・・・・・ 目の前の現実を軽く眺める癖がついて、、、、、 (いなさ)れて流れて、いませんか? いなす=相撲で、急に体をかわして、攻撃して来る相手の体勢を崩す。 あしらう。 真剣に向けられた追及を冗談やはぐらかして言葉巧みにかわす。 私達こそ、しばし、 自分で考える”ゆとり教育”が必要かもしれませんね! (笑い) 私達を取り囲む現在の思潮の渦が、どこから流れて来て、 私達をどうしようとする思潮の流れなのか? 因果応報に無関係な個人がいないのと同様、 今の純粋な『時』の中に、国民は存在しません。 過去の国の因果応報のプロセスの只中に、 私たち個人も、国民も存在しています。 日本の中の濁流にも押し流されず、 西洋の平原を席巻する竜巻にも飲み込まれないよう、、 どちらにも、巻き込まれてはいけません。 これが、人が人であろうとするサバイバルゲームです。 あの ”トイストーリー・3”のように、 溶鉱炉に落ちる直前までも、おもちゃたちは、あきらめなかった。 仲間から一人の落伍者を出さないで、おもちゃたちは頑張った。 希望を持っていましょう~ (笑い) 暑さ厳しき折、ご自愛を。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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08/10 21:54 |
《文化と文明の違い》 今、女性が漂流している。そう感じています。Category : いのちの継承
![]() 海は、大好きです。 フランス語で、海はラ・メール・・女性名詞ですね。 寄せては返す・・とてもやさしくて・・強い・・です・・。 だけれども、男性の強さではないですね~ (笑い) 白い船に乗って、いつかどこかへ行こうと、思ったことがありますか? 見知らぬ土地を目指して、大海原を航海したい夢。 けれど、それは目的と、海図と、羅針盤があってこそです。 航海はしたいけれど、漂流はいやですね。 航海と漂流を勘違いしている女の子、女性が、 多くなっていませんか? 今、女性が漂流している。そう感じています。 今日も、前回と同じく、 『因果応報の源 時間を生きる』のインターバル。 上記のテーマの記事です。 いいえ! 私は漂流していない~と、思う女性の方も、 どうぞ娘や妹、孫娘のために、 ごらんになってください! ところで、 天の気は、もう秋です! 今年の立秋の正確な時刻は8月7日の午後22時49分でした! 中国科学院紫金山天文台の王思潮(ワン・スーチャオ)研究員が、 同天文台が出版した最新の「中国天文年暦(カレンダー)」に 基づいて今年の立秋の正確な時刻を発表したと、 8月2日、中国広播網が伝えています。 中国は、こういう東洋的な暦を大切にする機微を、失っていませんね~ まさに、文化です! 何千年の間、共産主義国家でも無くしていない。 これが、国の礎です。 運命学にも重要な事柄です。 運命学では、この時刻から8月が始まります。 この時刻以前に生まれた赤ちゃんは、7月生まれになります。 このように、運命学は、正しい『時』で運命を観ていきます それでは、本題へ入りたいと思います。 仕事柄、慣れていると云っても、今の若い人たちの行動力には、 正直、少々めまいを感じております。 この夏の暑さよりも、クラ~っと来ています。(笑い) ここ10年ほどの間の、結婚? 同棲? 事実婚? それらを含めた男女の関係の変遷?! も凄かったですが、、、 この2,3年の間の、目の前で見る女性の変わりようには、 口が開いて塞がらないほどです。(爆) こういうショックは、今までもありました。 私の内側で感じる同じような事象として、 未だに忘れられないショックが、第一段階が、ありました。 進学塾を経営している頃です。 幼児教育に興味を持って、自分なりにモンテや、シュタイナーをかじりながら、 幼児教室を併設して0歳児から見ている頃でした。 幼児に付き添って来る母親が、変わった! と、 ドキッとする位の発見、驚きを感じた事があります。 それは、暖流から寒流に変わった!と思うようなはっきりした潮目です。 具体的に言うと、 ある時から日本文化を身につけていない母親が、 ええ! それが欧米風の文化でも何でもいいのですが、 文化の臭いのない人間が、母親として現れた? 日本人であるはずなのに、日本でもなく、韓国や中国、どこでもなく、 どこの国の文化も持たない雰囲気の母親?の出現でした。 今思えば、 その母親、彼女が身に着けていたのは、文化のない文明? 現代の今様の人が作った人工物ばかりを身に着けて、 今、気がつけば、それは、 絶頂期に登って酔ったような物質文明の臭いだったのです! 我が子の為と思えば、惜しみなくお金を使い、 肥料を与えれば伸びる作物のように、子供を育てる! 自己の延長、分身であるがごとく、子供を愛し、 我が子を自分の作物のように見ている母親の現出でした。 もうひとつの特徴は、母親が男になった? 幼児である我が子に係わっている母親が、姿形は女なのに、 父親のような男性的な存在感を、子供に示していた、、、 その頃、我が子を見る母親の何かが変わった。 何かが、人間の奥で壊れて来ている。 おののきをその時、体の中で感じ、 夜、考えながら眠られなかったものです。 思い出せば、今も、鳥肌が立つような感触を覚えます。 この母親たちが育てた子等が、どういう大人になるのか・・・ 不安を持ちながら、その時を計っていました。 それと似た、同じ感触が、 ”浮遊する女性たち”に出会うと、蘇ってきます。 年数的に、その当時の幼児が、もう大人になり、 ちょうど、この年代になっているのではないのか? やはり、この目の前の現実の奥に、何か重大な喪失があったのです。 おそらく、無意識的には、50年から100年のスパンでの変化です。 深い変化は、現れてくるまでに、それ位の時間が掛かります。 それが、物理的に目で見える変化になるには、 やはり物理的な時間を必要とするからです。 今では身近に転がっている物質文明の陰翳が、 遠い過去から、今度は地下から忍び寄ってきている、そう感じています。 漂っていると感じる女性たちが育った環境は、 特別に劣悪な環境でもないし、恵まれない家庭でもないし、 本人が環境的なハンディを背負っているから、という理由ではなくて、 ごく一般的な普通と見られる家庭の育ちをしたという人が、 今、おかしいのです。 それほど今、おかしい! 普通の人がおかしいのです。 普通と思われるような人がおかしいのです。 (おかしいと思われる人は、元からおかしいのですが、) あはは。 故に、これは、外因ではなく、内因、彼女たちの内側に問題があるのでしょう。 おそらく、 男女関係の相談で、今まで寄って来なかった新しい波、 うねりにも似たこの波が、もっと、津波のように、どっと! 圧倒的に襲ってくるようになるのではないかと恐れています。 大阪の23歳の母親が、1歳と3歳の我が子を餓死させた事件、 あれは特別な事件ではないでしょう。 今なら、どこにでも発現する可能性のある現象です。 というのは、 21歳で2児を抱えて、”再婚の相談”というのもあれば、 29歳で、もうすでに2度の離婚をした後に、 ご相談に来られると言うのは、ざらです。 18歳や20歳で、どうして結婚をして幸せになると信じたのか、 子供を生んで、やっと現実に目覚めて、実家に引き取られ、 母子共どもが、実家にパラサイトするというのも、ざらです。 それで、両親に感謝どころか、 ”どうせ遺産で貰うのだから、今、この家を売ってお金をちょうだい!” とすごむそうです、、、。 20代で1歳児と、3歳児を抱えて離婚! まず、どう生きていくの? と驚くのですが、 シングルマザーになる事が、さもカッコ良い事のように、 勇気というのか、世間知らずというのか、 愚かさと浅はかさが、女の衣装を着ていると言ったらいいのか、 見れば、隙のないお化粧をしている?(笑い) 彼女たちは、さすが物質文明の申し子、物に困った経験がない。 まずしい暮らしを知らないまま、 自分は、シングルマザーでやっていけると思っています。 私は、ただ彼女たちの前途だけでなく、 日本の前途を案じながら、オロオロとしてしまいます。 彼女たちは別に生きていく技術も職業は持っていませんよ~! 信念となる何物も精神的な強さも鍛えられた心も持っていませんよ~! ただ我の強さだけで、幼いままの自主性?勝手気ままさで悠々としている。 戦国時代の武将よりも居丈だけな、負ける事を知らない娘たちは、 自分以外の人間の考えを訊くつもりはない。 今は、そういう娘たちが生まれ合わしている時代のようです。 自分の性を、おもちゃのように扱い、 その結果の生まれ出た命を、自分の命として扱えない。 ごく一般的な普通と見られる家庭の育ちをしたというのに、 そのご家庭のきっと確かな受け継いできた生活の文化があっただろうに、 それを、受け継いでいない。 という事は、 もうすでに普通のご家庭と見えた処に、 彼女が拾い集める文化は、なかったのだろうか・・・・・ 便利な時代の利器にあふれたりっぱな家の中に。 親までの旧世代からの文化の引継ぎを受けていない。 それは、親と子の両者の過失、罪と言うよりも、 おそらく、生活文化と思って受け継がせようとしたものが、 実は、文化ではなく、人工物で出来た文明だった? それも上澄みだけ、、、 先に進むのを争う文明の、気を回しすぎる便利な道具に囲まれて、 言葉がなくても利便性だけで生活できたから? それでは、道具が使えるサルと同じなのでは? 次々と文明の利器を手にする事に一生懸命で、 言葉を、その心を、伝える事を忘れていたのではないの? 大人が、言葉の意味よりも、道具を集める事を優先させ、 いつのまにか文化を捨ててしまったからではないのかしら? 浅はかな文明を、天国の文化と勘違いをして・・・・・ 母国語である言葉の意味を捨てるという事は、 それが生まれて来た歴史や生活の営みを捨てる事です。 西洋文明の上澄みの利器と、取っ替えて来たからです。 あきらかに西洋文明モドキを追っかけて来た結果です。 文明の定義: 文明とは、野蛮より、未開社会より、優れているものだと言うのであれば、 文明人による野蛮人や未開人に対する非人道的で残酷な行為は、 どう説明するのか?という問があります。 このように、文明:未開という二分的な文明観は、西洋側での幻想の産物で あるとエドワード・サイードの『オリエンタリズム』で批判済みです。 近代以後においては、 宗教・道徳・学問・芸術などの内面的・精神的な「文化」に対して、 技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的・外在的な物 を指して「文明」と捉える様になって来ている。 20世紀には、”西洋文明が優れている”という考え方を疑う観点から、 文明の概念そのものから優劣や進歩を剥ぎ取った理論が出現して、ある文明 に対置されるものは野蛮や未開ではなく、他の文明である。とされている。 乱暴な言い方をしますと、 19世紀において、日本人は西洋文明の方が優れていると取り込み、 自国への劣等意識?か、自尊の心を捨ててまで、自己の内なる文化を捨て、 西洋文明中のその文化を抜き取った文明だけを利用して来たのではないか? 産業革命で発明された機械、ニューヨークのような都市、 それらは、西洋の文明であり、西洋の文化ではないのです。 憧れの文明だけを取り入れて、それに合う生活をしたい! その外観に合わせるには、 過去の我々の先祖からの文化を捨てなければ、 合わない~、かっこわるい~ そうして、見かけ、格好ばかりを優先して変化し続けて、 外からは、猿真似だと馬鹿にされたり、外国からは、 何を考えているのかわからない日本人だと、中身が無いのを、 ず~っと批判をされて来ましたね。 141年間、これでいいと思って進歩?したつもりで・・・ 途中、一度も反省をしていないんだなぁ~~ いや、中には、賢くも文化を大事に守っている人々もいます。 文化を守る事によって、自己の依って立つ基盤を守る。 その結果が、生きるという事を守られているのです。 京都や奈良の町並み、地方の伝統、お祭り、 歌舞伎、伝承文化、ちょっと問題がありますが相撲など。 狭い世界ですが、なにやかやと言われながら、こういう世界の人は、 言葉の伝統、人間関係の強さのようなものを、守り守られています。 個人の生活は、本質的にはわが先祖の歴史と切り離しては、存在しません。 大家族から、切り離して核家族になればなる程、大事になって来るはず。 なぜなら、過去の基盤=自分のなかにあるDNAなのに! なのに、 今のこの現実は、漂流する彼女たちが、 親の世代や、祖父母の世代、それ以前からの 人間の生きてきた文化を、知らない。失っているという事実です。 親世代との間に、交わせる言葉を身につけていないし、ご両親とは、 まったく違った価値観を持ち、自分達の方が正しいと思い込んでいる! 恵まれているご家庭で、物ばかりか、教育だって揃っています! 親の責任? それは、そうでしょうが、 ここまで、社会的に全体が、こういう若い世代を生んだというのは、 親も含めて、社会の、国の、施策が間違っていたのでしょうね。 わが国が、過去にして来たおろかな選択が、悔やまれます。 国を挙げて、文化の伝承をやっていないのです。 生活レベルの伝承です。 囲い込んだ世界での伝承ではありません。 文化とは、言葉の中身、言葉の意味するものです。 先人たちが命を削って蓄えて来た、権威も中身もある言葉。 言葉の中身を失うということは、自滅行為です。 また、その言葉が生きて来た人間関係を失うという事です。 言葉の意味と、人間関係を失うと、 人は、人として生きられなくなります。 もう一度、原始から、 尊や、貴のない、意味のない、動物の世界へ戻るわけです。 それが、私が見てきた、ある意味の女性の原始化、本能化、 しつけのまったくない状態へとリセットされた状態なのだと思います。 実は、女性だけではないのですよ。 男性も同じ局面でしょう。 ただ、社会的に組織に守られている。 仕事や、役割に守られて、崩壊の姿が見えにくいのです。 しかし、 就職難民のように、正規に就職ができない男性が出て、増えてくると、 文化を失った人間=けだもの。 破壊力は、男性は女性をはるかに上回ります。 どんな犯罪が、起きてくるのか、それを思うと、、、 ”もう何も新しくならなくていいから、、、 ”これ以上の高機能携帯は開発しなくていいから、、、 ”我々の、言葉の復活をしなければ、、、 ”我々の文化を取り戻して伝え合わなければ、、、 まさに、これは、 「子育て」や「教育」の問題は個人や社会の問題であると同時に、 人類の未来の問題として取り組まなければだめです。 文化と文明の違いを、もう一度、 たとえば、あなたが家族と一緒に、 離れ弧島に移って、住まなければならなくなったとします。 電気はありません。家電を持っていっても役には立ちません。 今の家の便利なもの、それは全部が現代文明の利器です。 それらの文明を全部捨てて、明日から孤島暮らしですよ。 (笑い) さぁ、どう生活をしますか? あなたが捨てた物、あなたの命の外にある物、それが文明です。 文明のない場所へ移れば、今の文明は捨てられます。 たとえばテロで、世界中の発電所が破壊されたとしたら、 数時間で今の文明は壊滅的に滅びるでしょう。 「文明」とは、そういう無常をまぬかれない人間の欲が作りあげる 人の作った膨大なシステムのことです。 文化は、 あなたが、家族と共に孤島へ持って行けます。 文化とは、家族とあなたの心、言葉、人間関係です。 たとえ、どこででも、いつでも、持って行けます。 それは、もしかしたら命を懸けても守るべき物かもしれません。 そして、人間関係の間を言葉で伝える事ができるものです。 きっと、あなたが死んだら、あなたの子供がその文化を継ぐでしょう。 そのまた子供も、、、そうあるべきものが文化、 文化とは、そういうものです。 西洋文化抜きの西洋文明を真似して、文化を失くした日本人は多い。 江戸末期、確かに日本の文明は、遅れていたかもしれませんが、 自国の文化は、絶対に捨ててはいけなかったのです。生き延びるためにね。 命の川上から流れてくるものの継承をしないで、 どこに生きる道があるというのでしょう? 命の川上から流れてくるものの否定は、自分の否定です。 まず、『孝』の徳にも反します。 『孝』に反すれば、子孫に恵まれないという事です。 現実に起こっている少子化の現象を見ると、 女性が漂流しているどころではなくて、日本が漂流しているの? と思ってしまいます。 未来の問題解決のために、どうしてもやらなければならない事は、 子供たちに日本文化の言葉で、語って、伝えなければいけません。 子供たちへ伝わるためには、安定した家庭生活のなかで、 伝わる関係を取り戻す努力から! (笑い) 実体のない意識化した説明語ではなく、 説明言葉や、データーには、もうすでにある条件が設定され コントロールされた分析臭が臭っています。 それこそが、西洋文明であり、日本文化ではない。 自分の文化を伝えるのに、他文明の実体のない言葉を借りないように! したいものですね。 あはは。 日本の心が継承されてきた言葉は、 母国語=自分の言葉であり、あなたの心であり、あなたそのものなのです。 小学生が、英語で”how do you do?”は、いいのですが、 その心が ”原始”的だなんて、困りますね! (笑い) 残暑厳しき折、 良き夜をお過ごし下さい。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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08/17 16:15 |
文化、道徳の崩壊が、家に誰もいなくなる、、、。 東アジア共同体Category : 家系の興亡
![]() 夏の空 海 雲をたっぷり 行く夏を惜しんで、、、今日の写真を決めました^^。 今日も、インターバル! (笑い) 前回の記事、”女性が漂流、、、、”にいただいたコメントからです。 いつも、大変内容のあるコメントをいただきながら、それに対して、 内容のあるお返事を書いているだろうかという、反省があって、 きょうは、特にお返事に重点をおいてみようと思います。 まず、一つ目、 女性の生き方の多様化と見るのか、 それなら、多様化が幸せをもたらさないと、それは漂う事に過ぎなくなる。 そのとおりです。 女性の生き方の多様化という表現は、 女性の立場に共感するようで、傍観者の立場で眺めている視線を感じます。 そう、結果までの責任を共有していないからです。 多様化というのは、本質的な軸のレベルアップに従って、自然な成り行き で現れる多様なバリエイションが創造される際に使うのであって、 はたして、現在は、そのクリエイティブな状況と言えるのか? 疑問が、消えません。 ある意味、 141年間、西欧の狩猟民族の闘争を真似てみて競争社会を築いたが、 自前の哲学や、みずみずしい思想を失って、 枯れかけた植物のように、その枝の先や、土の上に、 力なくぶら下がり、うずくまり、縮んで行く、そういう姿態を さらけ出しているような、無秩序、放縦性のなかで、 自分の身の回りの足元からの崩壊を食い止められなくて、 多様化?だって! おかしくなぁ~い? 言い過ぎかなぁ~ (笑い) そもそも、 羅針盤がない、、、。 地図もない、、、。 おぉ~! 船が、ないんだぁ~ (笑い) それは漂う事に過ぎなくなる。 そのとおりですね~ 二つ目、拍手コメントからです。 毎回、cosmosさんの記事は、1度読んだだけでは理解出来ず、何度も読んで います。でも、今回は初めに読んでる最中から、涙が溢れてきました。 女性についての記事と言う事もあるのかもしれませんが、 ふと・・・娘達の事が頭をよぎりました。 まだまだ、子育て真っ最中ですが、 私はキチンと子育てが出来ているのだろうか・・・・。 はたして親として一緒に成長できているのだろうか?、、、、、、、、、 何度も読んでいただいて、申しわけありません!! むずかしいと言いながら、、、いつもどうもありがとう! 一緒に成長できているのだろうか? この疑問は、いい母親をやっている証拠ですね! 安心なさってください。 でも、子供といっしょに成長できる母親が良い母親? そうじゃない母親は、良くない母親? そこまで考える事はないでしょうね! あはは。 親の持っている運命と、子の持って生まれた運命は違うし。。 ある意味、親は親、子は子です、、、その違いを知る事も大事です。 親が駄目でも、関係なく育つ子もいれば、 親が立派でも、親の価値観に沿わない子もいますよ。 そのどちらも、子です。 受け入れるしかないのです。 子供の方は、生まれた時から、どんな親だって受け入れている! すばらしい適応力ですね。 適応しなければ、生きていけないのを本能で知っているから、 命をつなぐ為に、幼子は、命の糧(おっぱい)を持っている人に、 母親に甘えて懐きます。 たとえ、それがどんな母親であろうと・・・・・です! 工場の製品の検品ならいざ知らず、自然である人の存在に、 100%良い、悪いの識別、判断をしない方がいいでしょう。 世の情報、常識は、基準ではありますが、全てではありませんもの。 過去の遺産、他人の遺産である、それらをあまりに大事にし過ぎると、 自分や我が子が、支配される結果になりかねません。 善悪を、全てにおいて敷延するという事は、特に、母子の関係には 両方が、苦しくてうまくいかないでしょう。 つまり、母親が、西洋の近代合理主義の理性的なやり方が、 下手な方が、子供は、自然でいい子になります。 でも、これらは父子関係においては、必要なのですよ! この両者のバランスが、必要なの! 実に危険なのは、今の文明です。 この文明に乗っかって行けば、家族が、お互いを物のように扱い、 役に立つかどうかで評価するようになります。 そうすれば、心がバラバラになって、 命を尊ぶ『孝』の徳が欠けて来ます。 そういう場に、人は居たくなくなりますから、 家族が、いなくなる。 だれも居なくなります。 100歳以上の高齢者が、どこに行ったかわからない?! ミステリーじゃないですが、 ”そして、だれも居なくなる。” (笑い) どうも、そうなる。 これが、運命学の不思議です。 そうならない為には、繰り返しますが、 家庭の中に、社会と同じ損得や効率やデーターを入れない事です。 これらは、西洋の近代合理主義のゆがみです。 それらとは違う機軸を持つようにする事。それが道徳の芽、 『孝』の原型です。 特に母親が、そうしたいです。 女性が、本来守らなければいけない空間とは、そういった場です。 それこそが生きる創造力の源、女性の本分です。 なぜなら、 父親は、狩猟民族の価値観が渦巻く社会で戦わなければならないし、 その戦場を離れる事はできないからです。 あぁ~、それなのに、それなのに~ その徳と、女性が働く事と、同価値に並べて議論をするなんて! 国の経済の為には、女性も労働力として活用するなどと! 目先の利益のためには、何でも言うし、するのね~ このやり方は、65年前に、戦争へ大きく舵を切った国策と、 まったく同じやり方ではないですか? それしかない! そうする事が、正しいのだ! 国の為には、そうしてもらわなくては困る。のですって! ガッ、ガッ、ガッ、 65年前の軍隊の靴音ような、なにか近づいて来る足音が聞こえます。 もう、この時点では、泥で縄をなうような感じもしていますが、 幸いにも、今の時代は個々の人間の生き方は、自由なのです。 自分が、なにを、どう思うかは、自分で決められるでしょう? 又、決めなければダメになってしまう、、、、、 知識と言うのは、いくら新しいと言っても過去の切り口でしかない。 新しい物は、その隙間から生えてくるものです。 良い、悪いという2つの基準で物事を眺めれば、とかく、 人の浅知恵に終始してしまって終わる事が多いです。 その範囲で、得をした。成功をした。と言っても、タカが知れています。 軽い情報の多くは、新しい機能や効能の為の知識であって、 それ故に、メリットばかりの為に作られた説明文にしか過ぎません。 説明文は、いくら読んでも説明だけです。 その裏に必ずあるデメリットを無視し、気づき難くする為に 利用された知識である場合が多いです。 常に、別の選択肢はないのか? 今の常識になっている選択肢しかないのか? 生き延びる方途を、探らなければ手遅れになるような、 『時』を感じております。 この事を、生活の中から子供たちへ伝えなければ、、、、、。 母が、防波堤になってくださいね。 絶家の鍵は、『道徳』。 この鍵は、目先の損得で、右往左往してはいけませんという事。 命の継承の川上からの『陰徳』。 それを伝える文化が失われた人、家族、から滅びていく。 そこが大事、そこに掛かっているのよ。 その結果が、 自分の長寿と幸せと、よき子孫の命の継承がつづくという事です。 織田信長の子孫は、スケートをしていますが、 (笑い) 孔子の子孫は、中国の国軍の軍人をしているそうです。 おどろきますね~、2600年もつづいている・・・・・ これが、陰徳の蓄え・ストック、その因果応報です。 先日、NHKの番組で、京都大学、大学院の小倉紀蔵準教授の ”ヨーロッパのEUは、単に石炭や石油などのエネルギー管理の為に作られた ものではなく、その基盤には、ヨーロッパの哲学的な共通性、デカルトや近代 の理性のようなものがあったからできたのだ。同じ思想の基盤の上に、 作り上げられているのだ。日本が、韓国や中国といった国々とEUのような共 同体を、東アジアに作ろうとする場合、今の状態では無理だ。その前に、 自分たちの哲学、思想を構築しないといけない。まず、それを作ることだ。” という発言の趣旨にも明らかなように、 東洋は、東洋の哲学を持つべきなのです。 サル真似は、所詮は、サルの芸当にしか過ぎません。 もっと出来のいいサルが隣に現れたら、 ほら!もうお隣に、芸が盗まれてしまった。。。。。 サル真似のサル真似をしますか? 日本がこのまま似非西洋文明をぶら下げて、 ごまかし、ごまかし突っ走るという事は先々、原理的に無理です。 西洋にオモネルだけでなく、自分の井戸から水を汲むしかないのです。 古井戸を掘りましょう。 新しい水が、湧き出してくるように。。。 最後、三つ目のコメントから、 その中の貝原益軒のお話から記事を書きたいと思っていたのですが、 十分もう、今までの記事で長くなった気がします。 今日は、これ位で、次回へ廻す方が良いようです。 ”美人”の運命学的考察を、テーマに、次回書く予定です。 お楽しみになさってください! そう、もうログアウトしなければ。。。 暑さが当分つづくようです。 今日もぐっすり眠りましょう。^^感謝です。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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08/24 15:42 |
『反朱子学者』、貝原益軒の『和俗童子訓』 美人の運命学的考察 凡そ女は、かたちより、心のまされるこそ、めでたかるぺけれCategory : 絶家の家族関係
![]() 上高地・大正池 つかの間の夏休み、上高地から帰ってきました。 朝夕はともかく、昼間は都会と変わりなく31℃の太陽が照らし、 日本は、亜熱帯の気候へ移っていくのだろうか? と思ったり、 しかし、木陰は自然の風で涼しかったです。 今日は、前回に予告しました通り、 前々回にいただいたコメントの記事のつづきです。 その流れから、”美人の運命学的考察”がテーマです。 コメントをご紹介します。 貝原益軒でしたか、 女性(女児)に対する教育の方法を『和俗童子訓』に 多く書いていましたが、その意味がわかったような気がします。 そうですか、分かりましたか...貝原益軒が...。 女性の教育は、ほんとうに一番大事なのです。 女次第で、家も滅び、国も滅ぶという事が、現在忘れられています。 (このフレーズをよく覚えていてくださいね、 後々美人の話と係わってきます。) 自分の命が芽生えてきた源からの文化の流れである、 その先人の知恵を学んでいかないと、罰が当たりますね。 貝原益軒について。 そうそう、彼も、生涯の最後のほうでは、朱子学を批判しています! 初めは、京都で学んで帰った朱子学を福岡藩で教えたり、 『近思録備考』を著したりする朱子学者でしたが、 京都で身に着けた経験的学風と、彼の性格が、 書物だけにとらわれずに自分の手足や、目、口に出す事で 確かめて納得していくという実証主義的であった為に、 晩年は朱子学の観念性への疑問を持ち続けました。 結果、朱子学への批判を体系的に述べた 『大疑録(たいぎろく)』という本を著わしています。 このように、 江戸時代に、官学の朱子学を批判した人は、他にもいました。 中江藤樹について。 ついでに、陽明学派の祖と言われる中江藤樹のことを、書いておきます。 彼も、初めは朱子学を信奉していました。 しかし、朱子学の礼法を、 意味のない事で人間の内面を萎縮させてしまうだけではないかと 疑問を持ち、彼は彼なりの思想を考えます。 『孝』を彼の思想の中心に据えました。 晩年、陽明学に出会います。 山鹿素行について。 陽明学派と同じく朱子学派を批判したのに、 古学派の山鹿素行がいます。 古学派は、朱子や王陽明の注釈による中国の宋・明時代の新儒学 (陽明学も入る)を批判して、 元来の孔子・孟子の学問に帰ろうとした学派です。 古儀学派の伊藤仁斎もそうです。 古文辞学の祖と言われる荻生徂徠も、そうです。 江戸中期に、 このように朱子学の偏頗さに気づく学者が多く出ていました。 朱子学が、徳川幕府の官学として権力側にあったにもかかわらず、 これだけの学者が、当時朱子学に対して反論をし、 権力におもねることなく書物を著していたという事はありがたい事です。 しかし、いずれが正論にせよ、尊王、倒幕運動、明治維新は 主知主義に堕した朱子学の理論で為した出来事です。 この事については、 それ以来まだ141年しか経っていないと言うべきか、 もう141年も経っていると言うべきか、 そのいずれかにしても、 今、私達は、検証しなければならないのではないかと思っています。 反朱子学者、朱子学者については、またいつか、 次の機会に記事にしたいと思います。 では、コメントの中で紹介されている貝原益軒の『和俗童子訓』。 その中から、「女徳」について、 いわゆる「美人」についての運命学的考察を、 鑑定の経験等を織り交ぜながら紹介しましょう。 冒頭の部分で、 家や国も、女次第で滅ぶ、と書きました。 しかし、現代は、 【家】という概念は捨てられ、個人主義の世の中です。 国が栄える、家が栄えると言った処で、ピンと来ないかもしれません。 いかに個人の【私】が栄えるか?が、クローズアップされています。 しかし、あえて言えば、 これらは此処60年位の間の、私達の意識上の問題であるに過ぎず、 無意識におけるそれらの重要性は、なんら変わっておりません。 なぜか? 運命というものは、 命の継承に従って受け継がれていくものだからです。 運命が顕現する場は、人と人との関係性の中、社会の中であり、 その最小単位である家庭であり、家族の間なのです。 特に、血縁関係において、それを継承する上において、 運命は、遺伝をしていきます。 これは、運命の約束事なのです。 だから、法律で【家】の形を制度上、意識上、無くしたとしても、 私達が、それが全く無いという前提の意識での振る舞いをしたとしても、 命の継承の事実を、抹消できないかぎり、 無意識の膨大な世界の中にある関係性までは消せないのです。 これについては、又、後々、詳細を記事にする必要を感じていますが、 今日は、この原則論だけに致しましょう。 そういった、今現在の日本における【家】の事情は、ともかく、 一旦、それは置いておいて、記事を進めていきます。 女性の教育が大事である、という事です。 女が乱れれば、男が乱れ、世も乱れます。 これは、事実、目の前に具現化していく様相だろうと思います。 女次第で、家も滅び、国も滅ぶという事が、現在忘れられています。 あの~、つまり、美人の意味は、どうなのでしょう、、、? あはは~! ちょっと、待ってくださいね~ それに関して貝原益軒の『和俗童子訓』には、次のようにあります。 ★年に従ひて、まづ早く、女徳を教ゆべし。 (女の子は成長に応じて、まず、第一に「女の徳分」を教えなさい) ★女徳とは女の心さまの正しくして、善なるを云。 (「女の徳分」とは、心が正しくて、善良であるという事です) ★凡そ女は、かたちより、心のまされるこそ、めでたかるぺけれ。 (女は、見目形よりも、心が正しく善良である事に値打ちがある) ★女徳をゑらばず、かたち(容)を本としてかしづくは、をにしへ今の世の、 悪しき習はしなり。 (女を、心の良し悪しで選ばないで、見目形で選ぶのは今風の悪い習慣だ) ★古のかしこき人はかたちのすぐれて見にくきいもきらはで、 心ざまのすぐれたるをこそ、后妃にもかしづきそなへさせ給ひけれ。 (昔の知恵のある人は、見目形ではなく、心が正しく善良で優れている女 を皇帝の后とした) ★黄帝の妃ほ母(ほも)、斉の宣王の夫人無塩は、いづれも其かたち きはめてみにくかりしかど、 女徳ありし故に、かしづき給ひ、君のたすけとなれりける。 (昔の中国の黄帝や斎の宣王の后たちは、美人ではなく醜かったけれど、 「女の徳分」が具わっていたおかげで后にもなれ、夫の帝を助けたのだ」 ★周の幽王の后、褒じ、漢の成帝の后、ちょう飛燕、其妹、しょうしょうよ、 唐の玄宗の楊貴妃など、其かたちはすぐれたれど、女徳なかりしかば、 皆天下のわざはひとなり、其身をもたもたず。 (その逆に、周の幽王や、漢の成帝や、唐の玄宗の后たちは、容貌は美し い女だったけれど、「女の徳分」が具わっていなかったので、夫の身と国を 危機に落とし入れ、世の中に迷惑をかけ、人々を不幸にして、自分自身も 最後まで栄える事ができなくて、その途中に命も亡びてしまった) いかがでしょうか? お解りですね? 唐の玄宗皇帝の楊貴妃は、 ”傾国の美女”(国を傾けた美女)で有名ですね。 いかにも、楊貴妃だけが悪者で、 玄宗皇帝が被害者のような言い方です。 しかし、これを運命学的に正確に言い直せば、 玄宗皇帝自身も、”傾国の皇帝”であったはずです。 だから、傾国の美女に縁があったのでしょう。 このように、美女というのは、その美しさだけが絶賛されないで、 その裏に、なにか翳のような部分を感じさせます。 当代の美人と思う女性は、芸能人で数えればいくらでもいます。 有名人でなくても、身近にも増えてませんか? これから、増えて来ると思います。 と、言うのは運命学的には、 世がすさんで、 破綻した家庭や、家族がそろっていないとか、両親に頼れないとか、 子供の内からしっかりしないと生きられない環境に生まれるとか、 極端な例では、 母性愛のない母親や、離婚する両親の間に生まれるという過酷さの中で 生き延びなければならない場合、 そういうのを六親の興亡と言うのですが、 六親が栄えていない、どこか寂しい環境、そういった環境に恵まれていな い命は、その恵まれない分、何か秀でた特徴を持って生まれて来ます。 特に女性は美人に生まれて来るのが多いのです。 その人の周りの人間関係が調和を失って、不幸であると言う反面、 生きていくのに武器になる顔形を与えられている、 運命学的には、そう考えられる部分があります。 多くは女性なら美人、または男性よりも逞しく生まれるのです。 もちろん! これもあらゆるグラデーションがありますから ワンパターンで片付けられるものではありませんが。 そして、そういう美人の場合、 多くは一度も結婚をせずに生きるか、又は結婚をしても 自分が働かなければならない男性と一緒になり、 子供は、欲しくても生まれない。 又は、子供運に恵まれても、多くは女児だけを生み、 その上離婚をしてその女児を育てながら働く、 独身を通すというのが一つの運命の形です。 いわゆる、後家運というものになります。 そういう女性が、男児を生むというのは少なく、 もしか生まれても、 その子は成人後も男としての社会性が身に付き難く、 うまく社会の中で生きて行き難い、 栄えるという姿からは、程遠いという運命が顕現します。 つまりは、子孫運のない絶家の最終章の家族の形を具現します。 ある意味、 こういう家庭が増えれば、国力の衰えにつながって行くでしょう。 戦争ではなく、内部から衰えていくわけです。 これを非常に恐れる心が、このブログを書いている目的の一つです。 では、運命に恵まれた代わりに美人ではない場合は? 普通の顔形、10人並、20人並? あはは~、 ぶ形(失礼!)であっても、 しっかり幸せにおさまってしまいます。 六親にも、財運にも、恵まれます。 幸せは、顔形、おしゃれ、ルックスではないのです。 普通がいいのです。バランスです。 均衡をもって尊しと成す。です! 命の生まれる目的は、一時の”玉の輿”どころではなく、 永遠の命の継承をするか、しないか、なのです。 たった一人のしっかりした男性に見初められれば、それで十分! (笑い) それ以上の欲を持つ必要も無く、 持つエネルギーを他の人へも生かしていけるからです。 みなさん、お互いに、 男性を刺して射止めるほどの美人でなくて良かったこと! あはは~! 普通の人並の幸せの中にいる事が、どんなに貴重な事か、 お解りになったでしょう? 今日は、女性の方に耳が痛い記事になったかも知れません。 あっ! もしか、絶世の美人の方がお読みになられたのなら、 (笑い) 美人という事で、有頂天を極めてはいけません。 そこは、自重をしてバランスを取って人とお付き合いなさってくださいね。 美人というメリットを人生で使い過ぎないように・・・ 貴女の子孫が危なくなります。 男性も同じ事です。 裏返して考えてみてください。 初秋の気配がしてきましたね。 なんだかほっとしています。 残暑厳しき折、お体を大切に! 良き一週間をおすごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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08/29 22:11 |
『因果応報の源 時間を生きる』 8. 天の道への反逆 西洋の観念性Category : 生活哲学
![]() 上高地・田代池 『因果応報の源 時間を生きる』に戻りました。 8です! なかなか、終わる事ができないテーマのようです。(笑い) 取り上げたいコメントが溜まっています。 宿題ですね。 宿題は、すぐその日に済ませましょう^^ あはは。 まずコメントから紹介しましょう。 私達は、自分のしたい事の為に生きるのが正しいのだと思って来ました= 自己の都合の前に、何を優先しなければいけないのか= 昔の人は、もう少し自然と調和をして生きて来た= 今のように個人の満足の優先と言う意識がなかったのかも知れません= 何度読んでも、目が覚めるようなコメントです! 個人の人権の尊重から、個人の満足の優先が当たり前の世の中です。 私たちは、自分の満足を優先させるあまりに、 公=天の道=宇宙の運行=時=自然=命、を軽視し、無視して、 犠牲にしてしまっているのでしょうね。 これでは、陰徳の積める生き方ではありませんね。 深く反省をしなければと思います。 今日は、そういう間違った観念の恐さ、その影響についてです。 『因果応報の源 時間を生きる』 3.の記事のなかで、 この地球上で生きる以上、 『天の道』=大宇宙の存在=大自然の懐から飛び出すことは、 不可能のように思えるにもかかわらず、 西洋文明に染まった現代人の私達の意識は、 自然からかけ離れたって生きていける。 と錯覚している。 と書きました。 なぜ、西洋文明に染まった意識は、自然からかけ離れたって生きていける。 と錯覚するのでしょうか? 東洋の「天の道」の観点と、西洋の「二元論」の観点を比べてみましょう。 東洋においては、主(観)客(観)が合一と捉えます。 人間は自然の一部というより、もっと高次元の捉え方、 人間と自然は一体であるとします。 自然をコントロールする事は、自分をコントロールする事です。 つまり自分がコントロールしているつもりでも、 結果は、廻りまわって自分を含む自然からコントロールされる事です。 つまり、 「天の道」に為したものは、つまり自らに為したものと同じなのです。 それは、因果応報の原理そのものなのです。 自らを生んだ宇宙生命を、コントロールする事など 所詮は、できない事なのです。 それをできると思って来た人間にとって、そう錯覚させる程に、 人間の為す事と比べれば、自然の懐は大きい、 それ程までにスケールが途方もないという事でしょう。 よく、主客の相互関係という言い方をしますが、 相互というのは、元々別々である2者の間の関係が前提ですから、 東洋での自然と人間の関係はそうではなく、 元より一体不二の関係です。 それは、妊婦と、その胎内にいる胎児を思い描いてください。 そのあり様は、自然そのものです。 直接的には、母親が胎児を出産するのを目にし、 我々も、母親が子供を生む、生んだと言います。 が、しかし、 実は、自然の営みとして自然自体が、命を生み出しているのです。 妊娠、出産こそは、まったくの自然の営みそのものです。 胎児が胎内にいる時には、母子は、一体不二の存在です! それに近い感覚で、 あらゆる命と自然の一体不二感を捉えてくださったらと思います。 しかし、 西洋における、二元論においては、 主観と客観がバラバラです。 しかも対立しているとします。 それゆえ、 主体である人間「自分」が、客体である自然「天の道」のエネルギーを、 コントロールしなければ自らが、されるという強迫観念があるようです。 何の為に? 生存の為、生きる為にです。 狩猟民族の生存の戦いの中には、食料の確保という切実な目的の為に、 どんな手段でもいいと言う過酷な戦い、戦争をしてきた経験が、 歴史上あった事は事実でしょう。 それゆえにコントロールしても良い。 自然は、征服するものだ。 この肯定感は、あくまでも人間中心です。 一人称の I (私は)の世界です。 対立する相手 you(あなたは、あなたを) の世界に対して、 つまり、征服しなければ、征服される、という行動原理が働きます。 I が you を征服して we になっても、その中に自然は入っていない! 東洋的な考え方からみると、西洋式合理主義は、 あまりにも一方的、片側だけの真理です。 これを、部分観として見たら、一部の知見でありますが、 しかし、この一部の知見を、 自然全体、宇宙全体、人間存在全体に及ぼす事は、いかがなものか? 人間を含む全生物の命を生み出す自然の機構・秩序を無視している 結果にならないのか? その上の、西洋合理主義における、もうひとつの誤りは、 自然や命に臨むのに、人間の意識という断崖からの景色だけを見る事です! 意識で引っかかった物だけを”ある”とする。 自分の意識が”こう捉えている”というあくまでも主観世界の中にしか過ぎない ものを、客観世界へ当てはめようとする欺瞞性・傲慢性に気がついていない。 自然を征服するという事は、自然を犠牲にしている事なのだと、、、 これが、今の地球を覆っている”理性万能・合理主義のもたらした物質文明” です。この観念をなんとかしないといけません。 なんとかしなければと言ったって、私たちの生活には関係ない ? いいえ!何故こういう地球や宇宙、理性や合理主義の問題を挙げるのかと 言うと、身近な私たちの生きる上での問題点と、密接不可分だからです。 現在の私たちを取り巻く思想の問題と、私の運命鑑定へ相談に来られる方の 悩みの内容とは本質的には同じなのです。 それはどういうことかと言うと、 どんな偏頗な論理の観念であっても、 意識で作る主観的な論理やイメージの世界=観念の世界の中にある限り、 その論理は【観念の中】では、破綻する事はありません。 あくまでも【観念の中】ですよ! 個人の考えの中だけなら、他人に束縛されるものではありませんから、、、。 しかし、 それが、【現実の中】へ表出した時に、問題(悩み、困難な事)を生みます。 自己満足の世界、自己の中に閉じ込められた論理であっても、 あらゆる形で私たちの生活の場面に表出します。 たとえば、本人が、出口のない観念を捨てられないで鬱病になる、、、 それだけでも身近な悩みとして周りに影響を及ぼしますが、 それだけでなく、 個人的に密接な人間関係=夫婦、親子、家族の中に表出します。 家庭は、自己をさらけ出す場であり、自己が休む場であるからです。 それゆえ、避けて逃げられない家族という人間関係において、 一人の勝手な独善的な観念が、家族を巻き込み傷つけ、家庭を破壊します。 それが、悩みや喜び・個々の因果応報による受け継がれる運命の問題を もたらすのです。 一に、個人の内面に持つ観念が、どういったものか? 何に影響をされてその観念を持つに至ったか?(ココが重要です) 恐い事に、個人の観念は、たやすく社会の観念に染められている状態です。 だから、大きな観点からの思想を知る事は、大事です。 また、何を信じていくのかと言う事も、最重要です! それは、自己と家族を守るためにも。。。 その観念の中身次第で、それに応じて現実の中へ諸現象が現れるわけです。 観念は観念だけでは終わらない。という事実です。 精神と肉体が不二である限り、その観念に応じた喜び、悲しみ、苦しみの 感情によって、表情、病気で表れます。 詳しくは、中医学をご参考に。 特に、政治的な権力者が、どういう観念を持つかは重大な事です。 そのいい例が、 太平洋戦争下の日本において、欧米列強の植民地支配に代わって、 日本を中心とした東アジアの民族の共存共栄圏を作るという御旗を掲げて、 軍部が、日本のアジア支配を正当化し、聖戦とまで謳い戦争をしました。 国民は軍部の大東亜共栄圏の観念的な論理に騙されたわけです。 その当時の大多数の国民も、失礼ですが、”おバカ”だったのです。 それは、国民が軍部の観念の虚構性を見抜けなかった。 一部の人々を除いて、見抜ける思想を国民が持っていなかったのです。 それが、現在の日本の『因果応報』の結果をもたらしたと言えるのでしょう。 哲学や思想は、難しいからと遠ざけてはいけません。 せめて権力者が、どういう思想で持って何を為そうとしているのか? それを見極める知恵(知識ではありません)を持たなければ。 学者や一部の人間が知識として知っているだけでなく、 哲学は、生き生きと民衆の中で生きていないと値打ちがないのです。 民衆の血肉の中で脈動するエネルギーにならなければ、存在価値は無い。 そう思っています。 果たして、日本の転換期は、そうだったのか? 人はつい、その理想的な論理を聞くと酔って信じてしまい、 現実の世界に通用する論理であるかどうかを検証しないまま、 観念的な美辞麗句で飾られた空理空論を、 ”こんな理想的な論理はない!”と錯覚をして騙されるのです。 子曰く『甘言令色、仁少なし』と。 耳に心地よい、あまりにも理想的な事ばかりを言う事を信じるのは、 結果、仁の報いはない。くやしい情けない惨めさに終わるという事です。 意識で作る主観的な論理やイメージの世界において、 どんなに理想的に見えた論理であっても、 真の人間観や自然観に立脚していない論理は、かならず破綻をします。 その破綻をした時の悲劇性、多くの犠牲を考えると、 【観念的な論理】というものは、必ず見破らなければいけないのです。 つまり、この観念、観念的というのは、実に困ったものなのです!! いつも、最近口癖のように記事に書いてきました、主知主義に陥った朱子学。 観念的な朱子学。・・・・・・・・・・あのフレーズです。 観念的な思想の導き出す現実は、常に”負け”の現実です。 なぜなら 観念性の欠点は、意識で作る主観的な論理やイメージですから、 客観性の現実世界において、存在しない論理なのです。 ほら! 子供のヘリクツ、分かりもしないのに生意気な! (笑い) お前が言うのは10年早いよ! あれといっしょです~ あはは。 子供の屁理屈を好きにやらせたらどうなりますか? あはは~ それが日本そのもの~ 政治の世界というのは観念の激突! 観念の闘争の場です。 あまり大した観念じゃなかった? あはは。 でも、その当時は、見破れなかったのです! 冗談は、さておいて、 ここまで、OKですか? 次へまいります~ 米国国防総省・国防科学局において、 「知的能力・身体能力とも高いレベルを維持したまま睡眠の必要性をなくす事 ができれば、戦闘方法や部隊展開が根本的に変わる。」という報告があり、 米国国防総省・高等研究計画局(DARPA)で、 24時間あるいは7日間連続で戦闘できる兵士「代謝に優れた兵士」を 作る研究プロジェクトがあるそうです。 まったく、理性が観念のなかに作った造作物ですが、 SFの世界、おとぎ話なら、たのしい思い付きじゃないですか? (笑い) パワーに溢れた発想というのか、何事も力で成し遂げようとする、 実現しようとする処が、アメリカらしいです。 パワフル!! (これ皮肉ですよ~) あはは~ 戦争にとって睡眠や排泄を邪魔なもの、マイナス要因と捉える思考方法。 戦に勝つ為には、兵士の生理的リズムすら無視しようする発想。 これこそが、効率主義です。 効率は善なのか?真理なのか? 要は、人間は意識の力で『時』の支配から脱出できると言うのでしょう。 大自然の『時』ですら、自らの意識で支配をしたい!という、 何がなにでも欲しい物は手に入れる、人間の欲望の肯定化。 その為の道具になった現代の理性の肥大化と言えるでしょう。 確かに、むかし西洋の人々が、 狩猟をする中で見て学んだであろう自然界における弱肉強食の姿、 確かに自然界における表層部分は、まさにその通りです。 人間が生き残るには、強さのピラミッドの頂点に登らなければと、 そう思った。そう実践してきた。 その征服の歴史そのものの論理です。 しかし、その奥に、東洋の叡智は、調和を観ているのです。 生きとし生けるものの弱肉強食の殺戮の奥に、 因果応報という調和と秩序の法の存在を。 もう、400年あまり、 近代合理主義の理性は、天=無意識に、挑戦状を叩き続けています。 やれば何でも支配できる。と! 人間の意識は万能である。と! それこそが、善である。と! 近代合理主義のいう部分観の観念が、巾を利かせています。 その気が、厚く垂れ込め、この美しい地球上を覆っている現状です。 今、地球は、均衡を失った不調和な状態です。 将に、今、西洋と東洋は、 お互いの血の中に流れているそれぞれの観念の違いを認め合い、 西洋の近代合理主義を抑えて、この困難を乗り越えるしか 私達は地球上で生き延びる事はできないでしょう。 イヤ、今、日本人の中からだって失いつつある東洋的な観点を、 心ある人が、それを抱きしめて大事に守っていかなければ、 日本人が、この日本列島に生き延びるすべはないと思って不安です。 世界中へ出稼ぎに行く経済難民、流浪の民になって、 帰るべき故国というものを失うのではないかという悪夢を見ます。 経済や政治の問題の前に解決するべきものがあるでしょう? 道徳の崩壊が、すべてを国が制度で保障をしなければならない国にし、 予算を使わなければならない非効率な国にしているのではないか? 国を挙げて本末転倒の姿です。 なぜそうだって分かるのって? たくさんの人の事例を否応なく見させていただいているからでしょう。 国力の衰えには、その数十年も前から人の生きる力の衰える姿があります。 その前に、人間を支える道徳が、心身から消えて行くのが見えます。 陰徳のない、徳を積まない人が集まったって、栄えるわけがないでしょう。 それを思うと、ほんとうに、ため息が、、、 今日は、うっかり本音を書いてしまいました。。 。 しかし、希望を持って、つよく息を継ぎましょう。 Never give up ..... 参考文献 『 生物時計はなぜリズムを刻むのか』 日経BP社 著者 ラッセル・フォスター / レオン・クライツマン -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |