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09/02 22:49 |
『因果応報の源 時間を生きる』 9. 現代文明は、命に関しては、お伽の絵本のレベルなのです。Category : 生活哲学
![]() 上高地・梓川の流れ 彦☆星による ” 輝く水 ”をお聞きください。 どうぞ~ <4分10秒> 『因果応報の源 時間を生きる』を今日で一旦終わります。 最近・・・祈りたくなる事がたくさんあります。 原因は、大げさに言えば、”現代の物質文明”です。 (笑い) この文明は、生命の存在は、植物、動物にある。と認めています。 だから、生物と呼ぶのでしょう。 しかし、心は、人間の専売特許扱いです。 身辺にころがっている物、心を込めた物であろうがなかろうが、物です。 物には、心がない。命もない。そういう観念的論理です。 この場合の”観念的”とは、実態のない空理空論という意味です。 空や、海や、山も、物体扱いです。 宇宙も広大な物質の世界であると。 物質だから心はない。という観念です。 心のない喜怒哀楽がない対象には、何をしても良い。 ほんとうでしょうか? これで正しいのでしょうか? たぶん、今の大人が子供へ教えるニュアンスはこういうものです。 動物や植物は生物だから命を持って生きているから、やさしくね! (魚や肉は食べるけれど、鳥や野良犬、猫は動物愛護で殺してはいけない。 でも、植物はお花は大事、草は邪魔なら刈るもの。野菜と果物は食べるもの。 なんだか、ずい分勝手な人間のやり方だ事! あはは!) 石は鉱物だから、命があるはずがない! 心もないんだ! (何の考慮もなく、人間が支配、利用していいんだ。) 野山は、生物を育むけれど、感じる心を持っていないし、命はない! (美しい景色は残すけれど、野山は人間が利用してもいいんだ。) 西洋の合理主義の思想を根底に置いている今の学問では、 物体に生命が宿っているとは見なされていないのです。 そう! 意識で捉えられないから、無い。と、いうのです。 そう思って生きていませんか? 当然だよ! と。 しかし、仏教においては、 動植物以外でも、たとえば机や石、紙切れ、木切れ、すべての存在に 命があるという大前提があります。 仏教の一つの法門に、 『草木成仏・そうもくじょうぶつ(草や木も仏に成る。)の法門』があります。 その意味は、あらゆる生きとし生ける物を、 有情(うじょう・心がある)と非情(ひじょう・心がない)に分けて、 それらに亘る原理です。 この世に有るものは、すべて含まれ何ひとつも洩れる事はありません。 それらが、等しく皆、成仏する、仏になれる。という教えです。 なんという広大無辺な、深い観念であろうと、知って驚いた事があります。 日本も、以前は、そういう観念で人々は、生きていた! それが、時に移ろって、人の精神も変われば変わるものです! これが、我々の命は、時代や民衆に染まっていくと言う事でしょう。 現代文明は、非常に息苦しい、観念です。 現代の息苦しさは、まず、この観念的物質文明です。 つまり、この物質文明の観念は、 まず、この世の存在を精神と肉体に分ける二元論。 次は、生物以外は、物である。物には命も精神もない。 という上に論理が積み上げられて行きます。 これは、根本的に間違った論理です。 これは、どうでもいい事ではなくて、一番大事な事です! この扇の要のような部分をいい加減にして、今の文明は成り立っています。 これらの認識の土台の上に、今の経済や政治が成り立っています。 この論理に従って生きた場合の提起してくる因果応報は? 仏教の世界観のほうが深遠、広大な理論体系があるので、 仏教でいう処の三界(色界、無色界、欲界)の言葉を借用すると、 今の物質文明の論理に乗っかった人は、 ”色界(物質世界)の大王”に多いに可愛がられ、 物の豊かさの恩恵に預かるでしょうが、最後は必ず、 心のない世界で独りで物の重みに耐えかねてコケルであろう。 行き詰って崩れるだろう、下敷きになるであろう、(笑い) と予言をしておきましょう。 あはは~! これをお読みなった方は、この大王に好かれず、嫌われず、 バランスをとってうまく生きてくださいね。(笑い) 中国雑技団ほどのテクがいるかもしれません。大丈夫ですか? あはは~! 冗談はさておいて、 空や、海や、山に癒される、と言うのは人間の傲慢で、 空や、海や、山によって、生み育てられ見守られていると信じています。 まぁ、これは、個人それぞれ、どう思おうと自由でいいのですが、 あまりにも実態からかけ離れた存在感が、世の流れにあるものですから、 空や、海や、山に対して、申し訳ない。 ごめんなさい! 宇宙や自然に、謝る。心からすまないと思う。 それで、祈りたくなる事がたくさんあるのです。 そう思っていた矢先、次の知らせがありました。 動物と植物の「3億年の闘い」という副題で、 「英国科学実験講座」が、明日から(9月4,5日)東京の有明で開かれます。 精緻な自然な美しさを持つ植物も、自分の身を守る為に、 時には悪知恵を働かせている。というのです! 植物と動物の不思議な相互作用を研究しているスー・ハートリーという 英サセックス大の生態学教授が、植物が草食動物から身を守ってきた歴史を 実験を交えて解説をするという事です。 なんと神秘的な、又、植物にありそうな?話です~ やっとここまで合理的意識中心の科学が、少し気がついて来たのか・・・・・、 どの分野もそうですが、科学というのは後になって、そうだったのか! と新たな真実で塗り替えられるものです。 現在は、そうだけれども、実際、あとどの位経ったら変わるのだろう? という懐疑的な留保的な態度というものが大事と思っています。 そう思って新事実を受け入れるようにしています。 新しい真実が、古い息苦しい嘘を暴いてくれれば、こんな良い事はないわ。 学問の世界でも、解剖学や地理学など、新しい事項は加わっても、 基本の概念がもう先々変わる事のない学問と、 化学や経済のように時の推移と共に価値が移ろっていく物を、同じ学問体系 の中に置かないで、分けるべきなのではないかと思っています。 科学の目的が、実証的実験や意識的論理性で、真実を追究するものとするな らば、特に、経済学など、何が真実なのか?純粋に学問と言えるのかしら? 実に大いに疑問があります。(笑い) 「脳死論争」をここでするつもりは、まったくありませんが。 最近マスコミで伝えられてくる脳死の人から内臓を提供をしたニュース。 本人からの臓器提供の意思表示が無くても、遺族が、家族の死後、どうする か選択できるようになって俄かに臓器提供が増えているそうです。 改正臓器移植法の全面施行後、3週間で最多の脳死提供があったそうです。 改正臓器移植法が、海外へ移植の臓器を求めて渡航する日本人が多くなり、 外国の趨勢が、移植の臓器を自国内で、という動き、牽制から、 日本も国内でまかなわなければならなくなった世界の事情があって、 急がされたという側面があって成立をしたものですから。。。 病気の人へ臓器提供をという事の前に、 まず、脳死が、人の死でいいのかどうかという決着が非常に曖昧のままです。 人の死とは、意識があるのかないのかにこそある。 だから、脳の働きが止まれば「人の死」と規定する。 この観念が、今の改正臓器移植法の前提になっています。 これに対して、脳死反対論者の主張は、 たとえ脳は止まっても、体は生きているのだから、脳死は「人の死」ではない。 この両派に分かれて、いまだ論争が続けられています。 この論争の双方とも、 「精神と肉体」は分離している存在である。という前提が共通です。 「精神と肉体」の分離という西洋的価値観に対する批判は、 このブログでもずっと書き続けて、貫いてきたテーマですが、 これは、「我思う、ゆえに我あり」デカルトの有名な言葉から、発しています。 思うものにはすべて「精神」が宿っているが、思わないものはすべて「物体」。 このように「精神と物体」とを切り離してきたのが、「近代の歩み」でした。 それも、人間が作ってきた一つの観念です。 問題は、それが真実の観念だとジャッジをしたその決定者です。 思う・思わない”を決定するのはあくまで人だったという事です。 特に、山、川、海、空、植物、 その他雑多な物に成り代わって世界を眺めたのか? いいえ!、 一度も植物や大地の立場、目線に立って決められたものではないのです。 人が独自に、もしくは勝手に、判断をしてきた。 それは間違いありません。 意識がなくなる、脳死は、死である。 基本的に、東洋の日本人には合わない論理性を孕んでいるのは事実です。 私たちのDNA中に連綿として宿り繋がれてきた生命に対する畏敬。 命に関する事を人間が決めるという事への”おののき”です。 東洋には、できるだけ人の主観を脱して、自然界に判断軸を求める。 そういう自然観、生命観、智慧がありました。 声を発しないから、心がない。 本当でしょうか? 同じ生物でも、猫や犬は愛護団体があり、守る法律まである。 しかし、植物は、土もタネも、作物も、全部精神のない「物体」ばかり? 作物が苦しむ声、土がうめく声は、種が泣く声は、聞いたことがないから、 だから、農業では、どれだけ農薬を振りまこうが構わない。 泣き叫ばないから? どれだけ痛めつけようとも、おとなしいから? いくら収奪しようとも、植物には一切の配慮は存在しません。 では、植物をどう扱えって言うの? 扱えって、つまり、それは、植物をそれだけにしか見ない因果応報が、 「食の安全」を脅かす問題となって私たちの子孫に良くない結果が、 跳ね返ってきているという事実です。 主観が客観へ為したことは、必ず、客観から反動が返ってくるのです。 植物も、扱われたように人間を扱う。寡黙な野菜の反逆です。 また、今世紀は「生命科学の世紀」といわれているそうです。 永遠の生命、老いることのない皮膚、体、病気にならない肉体の実現。 失った手指が、元通りになる。 こうした人類の夢を実現するものとして、 又、これらを実現するノウハウの産業化で経済を成長させる? その分捕り合戦が国益の為になされています。 お国の経済力の為にという大義名分で多いに期待されている現状です。 真理が発見され、新たな技術が出てくる事は、奨励するべきでしょう。 しかし、 どこまでそれを生命倫理的に統御できるルールを持っているのか? 精神の要は、外れたままで、利のみを漁る。賎しくはないですか? まさに、『色界の大王』が手を叩いて喜んでいるはずです。 「 皆が、精神を捨ててくれた!喜ばしきかな!」と。(笑い) 問題は、国策的に開発されたノウハウを、産業の育成の為に煽られて 是が非でも消費する側に自動的に廻されるのか? 私たちがそれを本当に≪どこまで≫望むのか? 望まないのか?です。 産業の為に踊らされる必要はありません。 あくまで、自分の主体性です。 ある意味、「生命科学の世紀」とは、 死への恐怖や不安が、それを避けようとする欲望が、 それが、今世紀のターゲットなのです。 欲望を煽って、ぶつける! 売れるに決まっている! マーケットリサーチはすでに終わっています。 生命に終わりがある事は本当に悪いことなのでしょうか? 終わりがあるからこそ、今が大事に感じられる訳ですし、 老いていく事は、そんなに醜い事なのでしょうか? 弱るからこそ、生命にハリを実感でき、人は努力を続けようとするのだし、 病は人生をあきらめさせる不幸の根源でしょうか? 終わりがあるからこそ、かけがえのない日々を知るのだろうし、 死ぬまで若さを保ち、死ぬ時期を伸ばして伸ばして選べる事が、 経済力次第だなんていう未来が来たら、新たな苦が始まるのよ! ( あはは。笑うしかないわ。) 私たちはこうした問いを重ねて答えを求める必要があると思います。 今の文明は、永遠という意味が「形の滅びを避ける」事であるかのように、 私たちを物としてだけ永遠に残そうとする欲望が強すぎます。 それは、今の文明が生命の本質が何かが解っていないからです。 蝉(セミ)の死骸が、 アスファルトやコンクリートの上にたくさん転がっています。 踏み付けそうになって、ハッと気がつく事は、 もう、秋! (笑い) そして、 蝉の命は、どうなったの? この問いに、現代文明はまだ、解答を出せません。 老いや死への恐怖を乗り越えようともせずに、 反って不安を煽って、メシを食べようという、たかが知れた程の文明です。 目に前の蝉を物として扱うだけで、 抜けていった蝉の命の詮索もできない。た・ぶ・ん『天国』だって!! あまりにも、子供じみていて、笑ってしまいます! あはは。 そのようにずっと、今の文明は、肝心要を極めていない。 誤魔化しているだけでしょう? 現代文明は、命に関しては、絵本のレベルなのです。 まだまだ、おとぎ、お伽のレベル。 天国だなんて、クリスチャンしか行けない所らしいわよ。 あはは。 おやすみなさい。 ^^良き夢を見ましょう~。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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09/10 17:43 |
★姓名判断 命名から見る自前の文化を失う姿 運命の不可思議さCategory : 運命学
![]() 上高地・木道 秋の虫の音を聴きながら、14夜の月夜をどうぞ~ 今日は、前回の記事にいただいたコメントからです。 まず、次のような拍手コメントを紹介します。 子どもの頃に、物を乱暴に扱うと、 父から「○○が『いたい、いたい』って泣いてるよ」と言われて育ちました。 本や新聞、お人形、はさみ、コップ、その他 どんな“物”であっても同じでした。 「本はしゃべらないよ~」と言い返していた子どもの頃の私ですが、 大切なことを教わっていたのだということを、大人になって気づきました。 それが仏教的な考えだとか、 難しいことは一切言わなかった父ですが、 逆にそれ(物にも命がある)が当たり前の中で育つことができた 私は幸せ者だと思います。有り難いことです。 読ませていただいて、まず頭に浮かんだのは、 文化の伝わる姿を見たような気がしました。 教科書や、本などから頭へ入って行く事とは違って、 お父様の人格から、こどものありのままの人格へ伝わっていくのですね。 緊張感のない心が緩んでいる時に、知らずにすっと入って行く。 無意識に、そうして受け止めていたものは、時間が経過した後、 じわ~っと、意識上に自覚できる時が来るのです! 因果応報の報いと同じです。 本当にすばらしい、体験ですね。 すばらしいお父上、そして、 幸運です。 感謝の心が伝わって来て、目の奥が痛くなりました。 真実の命の継承は、命の文化(魂)の継承でなされるという証明ですね。 これは、簡単なようで非常に貴重なことなのです。 私たちも、後へ続く命の継承者へ、 このコメントの御父上のように、 ありたいものだと願わずにいられません。 この夏、図らずも、 赤ちゃんの命名の仕事が重なっていろいろな体験を致しました。 まさに、その間に感じた事は、日本文化が息も絶え絶えどころか、 ある次元は、もうすでに消えてしまっている・・・・・ その現実に驚愕したショックは、まだ冷めておりません。 正直、暗澹たる気持ちを抱えておりました、、、、、。 だからいただいたコメントを読んで、 ”光”を感じたと言えば、大げさでしょうか? (笑い) コメントありがとう! 感謝です! 今日は、今夏の命名を通して感じた”自前の文化を失う姿”について、 記事にしてみましょう。 赤ちゃんの命名に関わらせて頂く仕事というのは、 本当に責任重大な内容を含んでいます。 お生まれになった赤ちゃんの良き縁になれればと願っています。 命名の時に誰もが抱く喜び、期待、ワクワクした心で、 その気持ちを込めて、どんな子になるように、どんな名前をつけよう! と、それぞれの知恵を持ち寄って悩んで約、14日間。 いろいろ工夫をされるのですが、結論から言いますと、 その子の運命命式に沿ったぴったりの名前が結果的に付いていきます。 分かりやすく言いますと、 生まれ出た一人の人間の運命にふさわしい名札、看板です。 名は体を表す。とは、まったくその通りです。 あらゆる角度から、その運命の中身をすべて表しているものです。 誕生生年月日時から鑑定をした命式の運命と、 名付けられた名前の姓名判断の運命は、 本質的には同じものです。 この世にあるものは、偶然もなければ、一切の無駄もありません。 すべてがなるべくしてなった、因と縁により、果を結んだ姿です。 ある意味、非常に美しい条理にかなった方程式の解です。 具体例を出しましょうか? 運命学の教室で、命式を鑑定できるようになった生徒さんへ 姓名鑑定を教えます。まず、自分の名前を教材にします。 すると、「これ、私の命式とまったく同じですね!」という反応が出ます。 そして、次は自分の家族全員の名前を並べて書いて、 それぞれ姓名鑑定をするように言います。そうすると、、、 これは、父が、主人が付けた。と言いながら鑑定をしていますが、 また、驚きが出てきます。 家族の姓名鑑定から,家族の運命の癖、傾向というものが一致してい るのが分かるのです。 「 気持ちがわる~い!」 「不思議~!」 あはは。 なにか意識では説明の付かない世界を覗き見るような気持ちになります。 一般に、姓名判断として普通に広まっているのは、 1、漢字の画数から来る数の霊意です。 これは、初めて親になる若いご夫婦が、 自分たちだけで子供の名前を付けようと、 簡単な命名の本などを買って来て二人で楽しみながら名前を考える時に、 一番の気にする項目です。 画数というのが分かりやすいのですね。 また、最近は、初心者用にも、 2、陰陽の配列なども載せている本が出ています。 が、これ以上になると、 なかなか個人が本を買って来てというのは大変です。 どういう項目があるのかというと、 3、名前の音意。 4、五行の配列。 5、数の11位の運による名前の解読。 6、先祖からの遺伝している運命を読み解く。 7、鑑定命式との吉凶を詰めていく。 8、凶運を排する字を極めていく。 などですが、 良い名前をと思っても、1と2だけですと非常に中途半端です。 良い画数の字をいくら配置しても、 3~6が抜けていたら、何にもなりません。 7,8は、もう専門の鑑定家でも難しい項目です。 どんなに画数を選んで吉名を付けたと思った所で、 7,8の中身に失うものがあれば、吉が凶へ変化をします。 依頼者からご希望があれば、 これらの条件を満足する一つの名前を決めるのは可能ですが、 字の画数だけでも本当に良い名前というのは、 一つの姓にそんなに数多くありません。 姓の持つ画数、その陰陽、五行から条件が狭まってきますので、 名前に使える字に制限が出て来るからです。 姓に影響される為に、最高に良い名前というのは、一つ、二つ、 ゼロという場合もあるのです。 そうして命名した名前を、信頼してくださり、そのまま出生届けをし、 その報告をいただく場合もあれば、 やはり、今時の、ご夫婦にとったら、 鑑定は、参考にはするけれど自分達が決めたいと望む方もいます。 この場合は、1 の画数だけで決めるしかなくなります。 今の人が、どんな名前を好むかというと、 深慮遠謀したもの、そうでないもの、そのどちらをとっても、 ディズニーランドのアトラクションのように、パーとはっきりと、 字を見て、絵のように形や意味が分かる名前を付ける傾向です。 さすが、ヴィジュアル時代の申し子世代なのでしょうが、 今までの使われて来た漢字の意味は捨てる。 使われてきた意味をそのまま使うのは、 古いと思っている感覚的な嗜好が強いようです。 具体的には、誠、義、正、豊、覚、恵、厚、などは古いと受け止めるが、 その代わり、心、愛、などという字は使いたがりますね! (笑い) 複雑な精神的経験がないのと、 そういったものに価値を置かないマスコミ?の影響もあるのでしょう。 美愛、愛華、あま~い砂糖菓子のような名前! を父親の側も付けたいようです。 あはは~ なんなのでしょう? パラダイス嗜好、バラエティ嗜好でしょうか? あるいは、漢字を、英語音を表現する記号としてだけ使う。 漢字の意味は捨ててしまいたいようです。 そうですから、自然と、従来の漢字の意味が、 欠落して来ているように思います。 その嗜好が1~8の条件をクリアーし、良い名前なら一番いいのですが、 それが、なかなか、、、 むずかしい。 しかし、ふしぎなのは、 何気なく付けた名前が、 1~8をパーフェクトクリアーする名前になっている、 そういう強い運の親御さんもいらっしゃいます。 名付け親の運を貰うという側面も、真実ですね。 残念なのは、名前に対しての嗜好、 それぞれの都合(同じ発音の名前がかっての知り合いにいた等)が 出て来た時、すべては振り出しに戻ります。 もう、この時点で良い名を付けるのは、不可能になります。 あとは、こういう名前を付けたいと思っている人の満足を追求する事が 目的になっていきます。 吉運名を付けるという目的からずれてしまうのです。 吉運命をつける目的が、両親が満足する名前さがしになるのですね。 これに案外、気が付かれない、、、、ここで、私は関与を避けます。 というのは、 若夫婦が自分の好みを入れて満足する為に、 使いたい漢字や、好みの音を選んで命名するという流れになります。 なるべく吉名になるようにその条件を伝授し、 できるだけの協力は致しますが、 ご両親へ6~8を理解していただく事は、 その辺は、きびしい物があります。 両親が満足して付けたいと思う名前が、凶運名ならどうするか? たぶんにその可能性120%です! その結果、つく名前は、先ほど申し上げたように、 先祖の癖のある運を受け継ぐ、誕生命式の運命そのままを持った、 名前が付いてしまうのです。 これも、ある運命のエネルギーの力ですね。 生まれた子の運命が、どうしても運命にふさわしい名前を望んでいる。 そうとしか思えない姿を、何度も見ます。 生まれた赤ちゃんは、無力どころではなくて、 運力は大人より強いのです。 運命を良い方へ導く名前を付けたいという意識だけでは、 如何ともしがたい、新生児の持つ強い運力を感じる時です。 生まれた赤ちゃんの将来における良い結果や、先々の吉兆を望む場合、 それに関与する直接の当事者同士が、自己の好みや満足を追求する程、 当事者同士が持つ凶運の方向へ運気が強められ、努力が水泡に帰す。 それは、あくまでも私欲、欲望ですから、、、 私欲を強く持てば持つほど、 なにもしなかった方が、よかった。 そうなります。 今の日本には、特に若い世代は、 非常に、人間のエネルギーの枠が狭まって、 恋愛も結婚も出産も育児も老後さえも、個人的事柄になっています。 自分のために、自分が所有する為に、自分の為に動く原理です。 狭い自己の満足を追及するだけに終わってしまう世の中なのですね。 ”歌は世に連れ、世は歌に連れ”という言葉がありますが、 娯楽や嗜好は仕方がないにしても、 すべてが世に連れ、世はすべてに連れてしまって揺らぐ日本は、 欧米のなんだかんだ言ってもキリスト教の理念に基づく社会観、 コスミック教育に根ざした社会教育という基盤がある西洋と比べれば、 日本人はかわいそうだなぁ~ と思います。 個人でしか生きられなくなっている傾向が社会で強くなっていますね。 それで、当然の如くに、 今は、自分の幸せが人生の最大目的で、親もそう育てて行きます。 だから、 深く文化を伝えるという事などに、及びもつかないのだろうと思います。 だから、命名を機会に一つの亀裂が顕在化します。 仲の良い親子であっても、 どんなに上手くいっている祖父母と若夫婦の世代間においても、 赤ちゃんの名前を決めるという一大事において、 実は、思っている割りに、 それほど親から子供への文化の継承ができていないと気が付くのです。 自前の文化を失う姿を見るのです。 命の継承者と文化のつながりと言う事から考えれば、 もう、そのつながりは途絶えている、そういう姿を多く見てしまう時代です。 若い世代が、もう、自分の命が継承された川上を見ていない。 年長者の側は、それに気づいても黙ってしまう。 自分は、口出しすべきではないと我慢をしてしまう。 それはなかなか難しい現実です。文化の継承においては、、、、、、 大家族から、核家族へ、今は、個人へ、その流れは今に至ります。 個と個の連帯もなく、孤人へと、、、行く末が見えるようです。 これらの、抜け落ちていった間を、政治が制度で、 社会を埋めようとしています。 埋められるのでしょうか? 道徳と文化の崩壊からくる個と個のほころびを、 政治の社会という糊で、くっつけようと、、、? しかし、社会とは何ですか? 孤人、孤人となった、人の集合を社会というのですか? 同じ文化を持つ人間が集まって、社会の一体感は醸成されるのです。 文化も道徳も持たない人間が集まって、 どういう風に社会を営むのでしょうか? 支えは、介護、育児、医療、それらを買うお金ですか? 生活保護、年金、奨学金の返済、社会を弱くした分、大変ですね~ 権力者は、萎えた国民に、 親や、子や、身内の代わりになり、隣人や、友人や、知人の 代わりになる人を雇えるお金を支給するのですか? 個人主義では、もうこの先へ進めない局面に、出ます。 ある崖っぷちに出ます。 今、明らかに社会にある流れは、 東洋的な思考を排除する事が、知的であると認知される世間です。 約100年前から、 それはゴミのように扱われ捨てられて来たのですから、、、 今度は逆に、 それを、拾い集め、自分の血肉とし、骨の髄として肉化し、 代わりに世の表層に流動する、あふれこぼれる西洋化した思考の断片を 批判、選別する物差しを持たなければ、私達が、危ない! 持ち堪えられないのではないかとさえ、感じています。 あまり言いたくないのですが、 男をさげすんで、自分の経済力に頼る、できる女に なれる赤ちゃんが、 今、女の赤ちゃんがたくさん生まれて来ています。 家庭運も、配偶者運も、子供運も弱い、しかし財運に恵まれた、 孤独に強い美女です。 どうしましょう? ? 男の子を、もっと強く鍛えねばなりませんね! 女の子には、躾をしっかりしなければ、国は体を成さなくなるわ? 江戸時代は、こういう所は、うまくやりましたね。 小沢さん、菅さん、財政再建どころじゃないでしょう? 日本の道徳の建て直しをしなければ、 お金は駄々漏れだわ~!(笑い) いくら国債を発行しても空中に消えると思います。 そして、男女の自然が消えます。天の道が危なくなるわ~! それとも、 男が子供を生むという政策でもあるのでしょうか? あはは。 地球だけが温暖化で狂っているのではないのです。 天下(宇宙も人も自然も)は一つですから、 天が狂えば、気候が狂い、 地が踊れば、天災が起こり、 人の紀が乱れれば、伝染病が流行る。 だれが政治をしても追いつかない状態になると、 最後、民が不幸になると。国が乱れる原理を、3000年前に 東洋の叡智は見通しています。 天下は一つの生命体です。物にも命があり、心があるのです。 そのいい例が、前回の記事にいただいたコメントに紹介されています。 植物に音楽を聴かせたり、語りかけると育ちがよくなるという話を 思い出しながら読んでいました。 また、醸造中の酒に音楽を聞かせると、味がまろやかになるそうです。 これは麹菌が反応しているのでしょうか・・・。 科学の進歩が遅れ、証明されてはいませんが、 実践している人たちはいるのですね。 杜氏が、麹菌をかき混ぜながら、歌を歌う。 古来から意識で説明のつく知識にならなくても どこかで、無意識で分かっていたのですね。 詳しくは次回、このつづきから、、、、 さりげなく、身近な所で、 命の文化を残していけるように、、、・ 祈りましょう。 ^^良き夢を見ましょう~。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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09/17 22:58 |
敗戦記念日を振り返って 蔓延する相対主義 今を蔽う退廃という雑草Category : 身近な物質文明
![]() 上高地・白樺の林 先月、今年の終戦記念日が、ありました。 おぼえていらっしゃいますね! まだ1ヶ月前のことなのに........ もう何ヶ月か過ぎたように感じる......... 過ぎ行く時、の速さを感じています。 毎年のことですが、 暑さのピークの時に行われる終戦記念の行事を、 暑さのせい?(笑い) かどうか? あはは! 只、報道や行事を見守るだけで精一杯という精神状態で終わってしまい、 その間に、 戦争や平和について深く考える事なく過ごしてしまった後悔の心が、 いつもこの頃、秋が近づいて涼しくなった頃、 ああだった、こうだったと、思い出しては、 これで戦争はなくなるのだろうか? という気持を自分の中で、反芻し始める癖があります。(笑い) 秋は、人が物思いに耽るような、そうさせる力がありますね。 夏の激しさの緊張から解き放たれて、 体中が、ゆるむ、落ち着く時なのでしょう。 これが、緩急のある四季をめぐる幸せでしょうか、、、 今回は、前の記事のつづきで、 私たちの命が、外界の全てのものに有機的に密接につながっている、 と云うよりも、事実は、本当は一体である! その事について書く予定をしていましたが、 何しろ前置きに書いたように、 夏の疲れを解さないまま、秋を越せない?! あはは。 あの終戦記念日が頭を離れないものですから、 予定を変更します。 これは、また次回をおたのしみに・・・ 夏から秋への、わたしの重たい疑問。 本当に戦争を、解っているの? これで、本当に次の戦争を食い止められるの? この疑問を、 今の時点の私のつたない運命学の知恵で、記事にしたいと思います。 毎年8月15日に、繰り広げられる反戦平和の報道。 行事と化したイベント。 過ぎ去る時の中での扱いは、 スーパーの安売りのイベントとどこが違うの? 日本における8月15日の終戦記念日! 終戦? ”日本人は顔がない” ”はっきり物を言い表さない”と よく言われ、 おだやかに、どっちでもいいみたいな顔をするのが得意ですが、 戦争に関しては負け。 負けた事を、はっきりさせるべきでしょうね。 これは意識的に負けたという自覚がないと、 本当に立ち直れないです。 敗戦記念日でしょう? 敗戦を終戦だなんて言い変えて、中途半端な!! いつもそう思いながら、毎年の8月をやり過ごして来たわけです。 溢れる報道は、目や耳から入って来ます。 ”戦争は悲惨だから反対です。 ””空襲の遺品を見て、苦しくなりました。 ”””こんな悲惨な事があったらいけない。 ””””特攻隊の人は、かわいそう~。 (なんと失礼な!) 祖国を思い命を掛けた気概は、 今の私達には及びもつかないわ!・・・・・ 今年、印象的だったのが、 『はだしのゲン』の作者であり、 家族が広島で被爆をして自分だけが生き残った中沢啓治氏が、 ”未だに、原水爆禁止運動にも参加する気持ちにもならず、 平和記念公園で被爆者へ祈りをささげる気にもなれない。” と、 原爆やアメリカへ対し、未だにおさまらない憎しみの感情や 持って行き場のない怒りの表情を抑えながら言っていた事です。 中沢啓治氏は、もう60代の後半の年齢です。 氏が携わった一生の仕事の目的が、 原爆の怖さを訴える漫画を描く事だったからか、 戦後のプロパガンダに汚されずに、 現実を誤魔化そうともせずに、 世の移ろいの流れに妥協していないというのか、 原爆投下時のそのままの感情を客観的に留め置いている。 というのか、 敗戦と原爆が氏のなかで中途半端な処理をされていない。 被爆のリアルな感覚を持ち続けている稀有な人だ という印象でした。 世の物事を憎む、 恨む感情を肯定する訳では決してありませんが、、 非常に、氏の言葉を自然な感情として受け入れる事が、できました。 奇妙な言い方ですが、 素直に、 氏の立場に立って原爆や戦争を憎む感情が出て来たという事です。 本来は、 私達、国民は、もっと対戦国に対して、 赤裸々な心情として、 あらゆる政治や外交を抜きにして、 もっと直接的には、原爆を投下した国を、 市民まで無差別爆撃をした相手国を憎むべきだったのです。 もっと、怒りに心を熱くするべきだったのです。 これは、感情に拘るという事ではないですね。 何が、悪かを、心に刻み込むために!! その悪を、あらゆるものから峻別する能力を保持するために、 悪の正体をはっきりさせるべきなのです。 今も、、、 目の前のパンとは、別次元で、、、、、、 たとえば、 未だに韓国や中国が日本に過去の謝罪を求めるように。 他から、周りからどう思われるかという考慮を捨てて、 自己の核心を確立する必要があったのです。 それが、真の意味で過去を今と一体化し、 未来を今へ引き寄せる事になるからです。 次へ進む自分自身の為への、”溜”です。 "陽”から“陰”へのエネルギー転換です。 そうしないと 国力の興隆への真の創造性のvividさは、出て来ないからです。 ”もどき”は、 あくまでも”もどき”でしかありません。 リアルな現実の周りをぐるぐる旋回しているだけで、 幻想の中の国の繁栄でしかないのですから、、、、、 日本はリアルに生きなかった、、、 今を見る限り、それは、なかったのです。 国の道徳や文化が生活レベルで崩れて行っている姿を見る限り、 真の自国の主体性の為にリアルな選択をしなかったと言えるでしょうね。 親の過保護のせいで 足が現実に着いていないモラトリアムなマザコンのように、 甘えた選択をしてしまった。。 。 アメリカに抱きついた?! あはは。 あまりにも連合国側の3S政策や、 一連のプロパガンダが成功を奏して、 日本国民は、 アメリカに親愛と許しの感情しか持たないようになっています。 この世界で、 表面のカッコウ良さだけを選んでうまくやって来たのが、 日本です。 友好的な感情だからいいのではないか? それは、結果論。 あまりにも偽善的ではないですか? ぶさいくでも、泥臭くても憎しみを経る必要はあります。 その姿が、醜くても、 カッコウが悪くても、 周りから笑われても、構わないから、 そういう自分の姿を、 客観性の世界へさらけ出す事は、絶対に必要なのです。 中沢氏のように、 ”被爆を経験した者が、確実に今を生きるという事は、 これ以上の悪はないという核の世界を乗り越えないと、 本当の未来はない。” 被爆で知った悪の力を、全部吸収して、 その力で悪そのものの存在へ、反撃する体勢を作る為です。 悪そのもの=アメリカへという事ではありません。 人間の奥にある悪の根源、それを征服するまで許さない。 真に悪を叩くという事は、そういう事です。 ある意味、 自分自身の未来の実存の証明を賭けた行為になるのでしょうか。 次の一歩が、また悪の繰り返しにならないように、疑う。 見張る。 中沢啓治氏の眼光は、光ってみえました。 過去からの今を確認をしないと、戦後をスタートしてはいけないんだ!! 実際、 戦争の感想論、結果論の感想をいくら述べ合っても、 おセンチなメンタルだけでは、 次の戦争は食い止められ無い。 それだけでは、本当に、戦争を無くす事はできないでしょうね。 戦争は、また、繰り返される。 巻き込まれれば、結果は、亡国しかない。 65年も感想を述べ合って来て、、、、、、、、、 もう、そこまで、背後まで、 亡家、亡国は忍び寄って来ていると思います。 仕事で、亡家の姿を、あまりにも多く見ていますから、、、、、 亡国も、同じ原理です。 それが、いつか? という事だけです。 そして、どう回避するかという事です。 だからこの際、悲しみを追悼するだけではなくて、 感情は、いろいろ役立てたらどうですか? たとえば、悪を憎む高ぶる感情がありますか? たとえば、祖国を守る高ぶる感情がありますか? 今の日本は、”気が済む”文化ですね。 ただ感じた心の、”気が済む”追求をやっているとしか思えない。 気が済むだけでは、未来は何も変わらない。 そう思いませんか? 気は済まなくてもいい。 未来の戦争を絶対に止める事ができさえすれば。 気が済まなくてもいいのです。 それが、 ”気の溜 ”なのです。 戦後、もう十分な時間が過ぎたでしょうから、 もう、はばかる事なく、 どうか、戦争の起きた原因論の議論を始めてください。 それを始めなければ、次の戦争に間に合いませんよ! だれが、どこで、間違ったから、 戦争が始まったのか? なぜ、 間違ったのか追求しなければ、、、 それには、 どういう思想が、いつから、どういう影響をしてきたのか、、、 制度や法律の欠陥はなかったのか、、、 あれば、それはどこか、、、 なぜ、そういう法律を作ってしまったのか、、、 あらゆる角度から、それこそ研究してください! その結果を、 今度は、どういう風に生かすのか、、、 国がそうだったけれど、国民はどうするのが良かったのか、、、 良いと思う事が、なぜ、どういう邪魔で、できなかったのか、、、 人の心は、その時、どう動いてしまうのか、、、 国は、国で、 個人は個人で、敗戦処理をしなきゃ! 今度は、絶対! 巻き込まれたくはないでしょう。 ほんとうに国はいい加減~!! 100歳以上の高齢者の戸籍だって、 いい加減~!! 家庭だってそうでしょう? 夫が、仕事を倒産させて、無一文になったと知ったら、 かわいそうと思いながらも、 これからどうするの? と言う前に、 どうしてこうなったの? と問い詰めるでしょう? あは。 夫が、どんなに嫌がったとしても、 そこを聞かなきゃ、理解できないと、 ちゃんと話してくれないと離婚だわ! と女房は言いますよ。 なぜなら、 最悪の亀裂を避けるために。 そこで理解し合って、一緒の足場を作らないと、 そこから先へ、もう、一緒に進めない。 そういうものでしょう? 【今】が、判らないと、この先、信頼関係が築けないからです。 日本の国は、その時、どうだったのか? そういう思いが、8月15日以来、心にあって、 上田 和哉氏のブログで、出会ったのが、 米ハーバード大の元教授、 アーサー・シュレージンガー氏の「アメリカの分裂」 「記憶を失った個人が、どこにいたか、どこへ行くのかも分からずに、 まごついて呆然とするのと同様に、 自らの過去についての観念を持たぬ国民は、 自分たちの現在を、そして将来をも、処理することができなくなる」 以前に読んだ記憶を反芻しながら物思いにふけっていましたら、 秋の真夜中に、 前の記事に対する次のようなコメントが入って来ました。 自分の過去を客観視できない者は、 自分の未来において、”我”の存在を持つことは不可能。 ”我”の未来は無いと思え。 果たして日本は自分自身で過去と現在を分かっているのかどうか。 日本は、瀬戸際ですな。 不思議なシンクロ(共時性)を感じた訳です。 この事は、上田氏のブログへも書かせていただきました。 心は、光のように、すぐさま飛んで行く事ができるのですね。 どんな物質も通過する、まさに暗黒物質そのもの、みたい。 ブラック・マターとは、心を乗せる物質でしょうか? あはは。 自分の過去を、 かなしいとか苦しいとかの主観ではなく、 なぜそうなったのだ? という自然な問いの発露に対して、 自己の責任においての自分の現実を客観視して、 答えを出さなければ、 そこで、自分を見失うという事になる。 これは、種々の悩みにおける原因においても同様です。 相談にこられる方のお話のなかで、一番欠けている要素でもあります。 感情は重要ですが、 感情を乗り越えた所にあるものがもっと重要です。 感情は、目的ではなく、頂上へ至る谷間、峠なのでしょうね。 自らの過去の整理が正しくできない人は、 未来に自分自身の存在を積み重ねる事はできない。 嘘には、嘘が積み重なり、 欺瞞の”賽の河原”ができます。 そして、 本質的な立場において、自己の記憶を失うという事は、 自分という存在意義を自ら消去するBack space なのです。 自らの存在を抹殺する事に通じるわけです。 これは、人間一人の事だけではなく、 一家も、一族も、国も同じです。 私の運命学のテーマである、『家系の存亡』そのものです。 つまり命の消長そのものの姿。 原理は、同じです。 国の過去を、自国の歴史の機軸において、 厳しく整理、断罪できなければ、 (つまり、嘘で固めた妥協をして国の魂を、他国へ売った時) 国を取り囲む環境、周辺諸国から抹消されると云う事になるでしょう。 この時、周辺諸国を恨んではいけません。 責任は自国、日本自身にあります。 日本が自分で自分の位置を瑣末なものだと 位置づけた道を選んだせいです。 周りの目というものは、 本人自身が本人の事をどう自覚し扱っているかを見て、動くのです。 犬と見たら、犬の扱いをし、 恐い者と見たら、恐い者の扱いをします。 自らの誇りを捨て、自分の事がよく判っていない言動をする者に 対しては、 私達だって、真正面から相手をしないでしょう? ちょっと横に行っててほしい。 対等な相手にするには無理だってどこかで認識する。 これは子供だって、解ってます。 わが国において、 自国の機軸を倒し、動かし、筋を通す事を避けて来たから、 それは、為政者が、国民のひもじさを恐れたからでしょう。 しかし、これは、『天の道』への反逆、道理への反逆です。 いくら弁解したって、欺瞞は欺瞞なのよ。 家族を養う為だって言っても、他人を詐欺すれば許されません。 善行と悪行は、相殺できないのですから、、、、、 確かな事は、 日本の過去の選択は、絶対に自慢できる選択ではなかった。 事ですよ! 黒船以来の開国から、数えて幾つ目の間違いなのか? あはは! 又、わが国が、反省する事が増えた事は、間違いないわ~ 大きな間違いです! 間違いを犯した記憶を忘れてしまっていませんか? 欺瞞の上に、働けど働けど、努力をすれどすれど、 暮らしは、一向に豊かになるはずがない! 当たり前でしょう! 因果応報よ! 欺瞞の塗り重ねにふさわしい 欺瞞の繁栄しか手に入らなかったはずです。 それより、もっと怖いのは、この繁栄の本質の中で、 『本気の衰退』が、始まり、『命の退廃』が進んでいったのです。 (ここの命とは、西洋二元論の精神と肉体です) 料理に手を抜けば、おいしくない料理ができる。 当たり前でしょう。 「本気」がなくても、そこそこのお金や物が手に入る気楽さ、 人と人との関係も、希薄になり、 他人にそんなに真剣に本気を出さなくても生きていけるようになった。 だって、物質文明の魔王が後押ししていますもの~~~! 色界(物質界)の魔王が、 人間の心が萎えるのを喜んでいるでしょうね。 〝皆が、自分の配下へなるのも、もうすぐだ!” と。 手を叩いて喜んでいることでしょう! あはは。 魔王の目的は、あらゆるものの心が萎えた退廃の姿の顕現です。 歴史を見れば、ローマ帝国をはじめ、物質主義を謳歌した社会は、 一時の物質の豊かさの繁栄を享受し、傲慢で不遜な享楽を経験した後、 かならず一転して衰退に向かい、没落、滅亡の運命をたどっています。 現代の日本が、それらと違うと、誰が言えるの? これは、引き止めようが無い、 個々の思想自体に備わった、思想がその本質を顕現する力学ですから。 哲学や、思想は、それほど重要な事なの! 今は、その少し手前、 真理の絶対的な妥当性を認めないいい加減な価値観が大手を振るい、 人間の認識や評価はすべて相対的であるとする相対主義の台頭を許し、 なんでも、平等が一番という観念の固定化が、 人々の心に巣くってしまっています。 これらの思想は、真の創造的な活力を我々の命から奪って、 命の底に退廃の雑草が芽を出し、はびこって行きます。 物質文明の競演のさなか、私達は、思想に鈍感になっています。 色界の魔王の思う壺だって! ほら! 総理大臣が、何が変ったってうれしくないでしょう? 喜びも、希望も感じない。 これを、政治の退廃 と言わずして何と言うのか? 真の悲しみとは、こういう事を言うのでしょうね。 ”あたしたち国民も、あの程度なのね。” そうね、馬鹿なのね。 そういう悲しみもあります。 (笑い) これは、自分の過去を正直に見つめないで、反省をしないで、 甘えた楽な道を選んで、辛い事を逃げて、乗り越えて来なかった日本の 罰あたりです。 楽をしようと思ったら負けです。 生死を賭けて生きぬく時は、そうしないと後が、立たないのです。 敗戦の時、日本は良いチャンスを逃しましたね! ピンチは、チャンスとは、この事だった。。 のに。 日本は海洋国家ですから、 周辺の国からのゴミが海を流れて日本へ辿り着きます。 それと同じように、 西洋思想を根底とするこの物質文明は、 日本の海岸へ、相対主義と退廃の種を漂着させています。 そして、日本列島を”退廃”の雑草が蔽い尽くしたころ、 色界の魔王が、天から、凱旋の銅鑼を鳴らしながら、 大喜びでやって来るでしょう。 ”おぉ~! わしの配下にするのに142年かかったわい!” 今、ローマ帝国の人がいないように、その時、日本人はいませんわ。 みなさま、ご注意を~! あはは。 あらゆる出会いに感謝を、 アメリカへ感謝を、 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2010
09/24 23:45 |
発酵菌を通して見る、自然をゆがめる科学物質文明Category : 大自然と科学
![]() 上高地・河童橋 お彼岸の入りは20日で、明けは26日です。 そう、23日は、満月でした。 ご覧になられましたか? 天空の時間は、寸分の狂いもなく月齢は、数えた通りにやって参ります。 当たり前のことですが、この秩序に、深く感謝をしましょう。 これで、 命の秩序が保たれていると言っても言い過ぎではありませんから、 そういう気持ちで静かな満月の夜、月へ感謝を祈りました。 それでは、本文へ、 今回も、ふしぎなことが...! 本当は、前回の記事にしようと思っていた”自然菌”の話を、 敗戦記念日の事を優先した為に、今回へ廻したのですが、 じつは、この記事を書く前に、前の記事に次のようなコメントを いただいてしまいました。 料理の話も出ていましたから、少しだけ述べさせていただくと、 今身の回りにあるものの多くは自然発酵したものではなく、 無理に(化学的に)それに近い形にしたようなものが蔓延り、 下ごしらえという部分にすら お手軽が肩で風切る世の中になってきていますからね。 本物を知る機会があらゆる面において少なくなって、 まさに形だけの世の中になってきてしまっているように感じます。 でもいったんその本物の味を知ってしまうと忘れられなくなるように、 本物を、まず、どこに行けば手に入るのかという情報を 求めるようにすべきでしょうね。 その味が、自然のものよりも化学調味料の味のほうがおいしいと 感じる前に。。 あはっ~? という感じ、、、で、(笑い) どうして私が、書きたいものが分かってしまうの? コメントのお返事にそう書きました。 そう、まさに、今日は、この自然発酵した自然菌の記事です。 科学の進歩がもたらした物質文明、 経済の効率をあらゆる価値の頂点に置く流れが、 いつの間にか、発酵菌の自然をゆがめ、壊した実態を通して、 厳然たる東洋の哲学的なテーマ、『天下は一つである』 私たちの存在は、天下(自然、宇宙)と一体であるという不思議な存在感 を追求していきたいと思います。 宇宙と人間はつながっているというイメージは、 最近の情報の中にも増えてきていますが、 ”つながっている”という、緩慢な中途半端な言い方は、 科学が、宇宙や私たちの関係を解明できていない 自信のなさから来る言い方です。 東洋的思考においては、もう、何千年も前から、 宇宙は我であり、我は宇宙である。 そう、言い切っています。 『天下は一つ』とは、 人も自然も宇宙も、一つの生命体であるという事です。 つまりは、この宇宙において、”人間は、特別な存在ではない。” 人間だけが、 都合よく、他の存在を差し置いて一人繁栄できるものではない。 人間と、自然宇宙を対立させる存在観である西洋的思考の欠点に、 私達も、そろそろ気が付いてもいい頃ではないかと思います。 現代の科学文明は、空前の物質文明をもたらしましたが、 ”科学”という、その名の通りに、 分ける、区分けをしていく学び方ですから、 全体の在り様を、どこまでも細分化するのに留まるところがありません。 今の学問の欠点は、 どこまでやっても全体観に立てない。部分観のみの集合でしかない。 部分知の寄せ集めで、全体知、包括的な観点を失う事です。 宇宙の全体の在りようや、人間のありよう全体を、分割し、分断し、 その一面のみに囚われるという過ちを犯してしまうのです。 また、意識中心の知識教育の影響で 『 陽 』 に傾きすぎた現代は、 目の前の絶えず変化していく自然の、その奥にある不動のもの、 それに気づく感性が、子供の頃から育ちにくいです。 物質文明のおかげで、 我々は、物が壊れる前に潰してしまい、 造りなおすという経済活動の為に、今の子供たちは、 終局の滅びの姿すら身の回りで体験出来なくなっています。 大人も無常観どころか自然のリズムを味わう暇(いとま)がない。 前の記事にも書きましたが、本質や本気が遠くに行ってしまう文明です。 その上に、真実を覆い隠した現実を、相対化してしまい、 まさに現象に溺れる幻惑の只中にいるという事に、 気がつかなければ、、、 その幻惑を、小さな菌の存在から打ち破れる記事になりますように。 あはは。 たぶん、長くなります。 2,3回に分けるつもりです。 よろしくお願いします。 千葉県香取郡に、創業が1673年という老舗の酒蔵、 寺田本家があります。 ここで、わざわざ寺田本家を取り上げさせていただくということは、 その特徴、寺田本家では、 酒の醸造に使う麹菌を、稲につく稲麹を自家培養した天然菌を 使うことに取り組まれているからです。 天然菌でお酒を醸造している。・・・・当たり前と思われますか? それが、どれだけ貴重なことになるのか? まず、その天然菌についてから始めましょう。 天然菌とは、納豆なら藁にもともと付いている菌の事です。 日本酒なら、 酒造蔵の壁や、酒樽の木や、建物に住み着いている菌です。 パンなら、人が立ち入っていない白神山地から採取した ”ホシノ酵母”が市販でありますが、 本格的な、”天然酵母のパン”は、多くが油のコーティングが していない干し葡萄にある菌を起こして発酵させます。 干し葡萄に付着している菌を起こすために、 菌の餌となる砂糖水に漬けて、 菌が活性化する最適な温度に保って菌を起こします。 私が自家製パンを焼く時は、干しイチジクの菌を起こして発酵させます。 イチジクの香りが、やさしくて好きです。 昔は、これが、当たり前だったのでしょうが、 今は、稀、極まれな事なのです。 第一、手数が大変ですし、素材が自然でないと菌が起きてくれません。 農薬など添加物や余分なものが混じると菌は死んでしまうからです。 じゃぁ、今はどうなっているの? お酒に限らず、発酵食品全般、味噌、醤油、酢、納豆、そしてパン、 これらを発酵食品と言いますが、 今は、化学的に操作・培養された菌が使われています。 が、しかし、”天然菌”は、商標登録ではありませんから、 現在、多く流通している他の人工的な菌を使ったお酒や、パンにも、 「自然酒」、「天然酵母」といった言葉は使われています。 工業的に操作された発酵菌が使われているにもかかわらずに、、、 驚くのは、工場で操作された菌であるイースト菌を使ったパンであっても、 袋に「天然酵母」とコピーが書かれていたり! あきれるばかりです! これは「有機」、「無添加」と書かれた素材であっても事情は同じです。 有機は、 有機認証マーク(地球のような輪が3つ重なって葉になりJASとある) が印刷されているのが、その証拠ですが、 マークなしで有機○○、と表示されたものが多いですね。 保証のない有機とは、なにぞや? 単に、有機と書けば、売れる? あはは。 無添加も、何が無添加なのか? 保存料の代わりにPH調整剤を入れて、 なぜか無添加と、堂々と表示していますね! PH調整剤の方が、ある意味怖いのですよ。 なぜなら、PH調整剤は、法的な量の規制がありません! これは、もう、食品行政のいい加減さ、 消費者よりもメーカー側に立った行政であるという証でしかないの ですが、食品に関しては日本は後進国、そういう玉石混交が現状です。 横道にそれますが、 遺伝子組み換え稲(GMイネ)を数年前から、(↓ クリックをどうぞ!) 独立行政法人 農業生物資源研究所が、つくばで実験栽培をして 毎年成功しています。 隔離したガラスの温室のような所で作っていますが、 つい最近、その天窓が開いて放置され、 先週、GMイネの花粉が外へ飛び散ったのではないかと ニュースになっていました。 何が目的なの? 数年前、 スギ花粉の遺伝子をイネの遺伝子の中へ入れた稲が出来上がって いましたから、それを、知らずに国民の食べるお米に混ぜて..... 食べさせる戦略? 国民病の花粉症対策? お馬鹿じゃない! 哲学や道徳の希薄な頭脳がいい人というのは、 何をするか解らないわね?? ほんとうに!理解に苦しみます。 アメリカだってヨーロッパだって、自分たちの主食の小麦の遺伝子組み換 えをするなどという国はないのです! 主食は、経済効果等の対象から外しているのですよ! GMトウモロコシ、GMダイズだって、栽培しているカナダやアメリカでは、 本来、豚や、牛の飼料用です。 日本人だけがそれを輸入して、主要食品にして食べている!!! GMジャガイモの輸入実態は、どういう形で輸入されているのかすら 日本の消費者は、つかめていない状態です。 おそらく、ポテトコロッケやポテトサラダ用にマッシュした粉末か、冷凍フラ イドポテト用? 加工されて輸入されると表示義務がないのです。 さる国産野菜にこだわるモ○バーガーのフライドポテトは、 なぜか 米国産でしたっけ? 原料の野菜は、国産を使っていると宣伝をしながら、 なぜジャガイモだけアメリカ産なの? 北海道にあるじゃない。国産が..... 安いからでしょうね? 商品は高級感で演出されていますよ~! あらゆることにおいて、日本の政府の食品行政は、いい加減ですから、 ここの処の違いを明確にして、 これらに惑わされないようにするしかないのです。 明治以降、 ほとんど廃れてしまった酒蔵の菌を使った”生もと造り”を探求している 酒蔵が、これから、ご紹介をする寺田本家さん以外にも、 六代目当主 杉井均乃介さんが自ら杜氏をする、 杉井酒造が、静岡県藤枝市にあります。 ”生もと造り”とは、麹と水の力だけで、他の菌の発生を防ぎながら 自然の乳酸菌を増殖させているという事です。 大変な労力と勘が必要とされる、最近注目されている伝統的な製法です。 これと同じ工程を、大量生産の工場でする場合は、 他の菌が混じってしまわないように、 工場中をアルコール殺菌をして、操作培養した菌を使います。 このようにして工場で大量生産で造られる現在の日本酒は、 百薬どころか、 百毒かもしれな~い! 日本酒を飲むと頭が痛くなる? という声もあるようですから、、、。 国税庁が平成20年度に調査した日本酒製造量の調査結果をみると、 なんと製造された80%以上の日本酒に、 醸造アルコールが添加されていて、 残りの20%も、醸造アルコールの添加はないものの、 そのほとんどが人工的に培養された麹菌や酵母を使っています。 また、壜のラベルの原料欄には、 表示をする義務はないので見る機会はありませんが、 酒造メーカーへ原料を卸している原材料販売会社の商品には、 蒸したお米の粘結防止剤や、酵母の発酵を補助するための商品が、 酒造用薬品としてあります。 本来、お米から造るはずの日本酒ですが、 現在では原料や造る過程で、さまざまなものが添加されています。 では、もう少し詳しく、今現在のバイオ技術による大量生産の発酵工場の 実態を紹介をしましょう。 戦後、一般的に酒造りでは、酵母菌だけでなく、 麹菌も化学的に培養された菌を使うことがほとんどです。 昔からの天然の菌を操作培養し、強力な発酵菌を作り出しているのです。 その自然菌を操作培養する時には、重金属や薬品を触媒に使って、 菌の遺伝子組み換えをしています。 たとえば、納豆。 納豆の臭いが強いと消費者に嫌われるという事で、 臭いのない納豆ができるように操作された培養菌などを、 醸造菌のメーカーが作ります。 それを納豆の製造会社が買って、アルコール殺菌をした工場の中で、 大豆に振りかけます。 こうすれば大量に均一の味の納豆が、大量生産されるのです。 ほら! どこの納豆だって、皆同じ味がしませんか? 納豆のメーカーは違っても、 菌が同じならば、同じ味になってしまうのです。 なぜ? そんなことを? これには、二つの理由があります。 一つ目は、昔と違って発酵させる素材の質が落ちているからです。 本来は、自然の作物である野菜や果物には、 その表面にさまざまな微生物が住みついています。 天然の酵母菌がたくさん生息しているのですね。 そして、 その酵母菌たちの役割は、その野菜や果物を土に還す働きをします。 植物の体を腐敗させないで、発酵をさせて土へ還す。そういう役割です。 ブドウの皮に付いている微生物が、 ブドウを発酵させて、ワインへ変化させ、 ワインは、時間が経過すると、お酢(ビネガー)になっていきます。 その間に、 人ができることは、酵母菌が活動しやすい環境を作ることだけ、 その間の重要な役割を果たしてくれているのが 天然の菌たちなのです。 その出来上がった発酵食品の良し・悪しを分ける原因の 一つは「素材」です。 素材が悪ければ発酵ならず、腐敗をします。 素材が良いとは、自然のまま、 人工の薬が掛かっていないものを言います。 なぜなら、酵母菌は、農薬で死んでしまいますから、、、。 じゃ、今、売られている味噌や醤油などは、大丈夫なのね? 良い素材で作られているという証拠なのね? いいえ!! とんでもない! 農薬や化学肥料、粗悪な有機肥料の影響で、 今の素材では発酵できないで腐敗してしまうから、、、、、 これらの素材でも、うまく発酵するように、 強制的に発酵させることができるように、 酵母菌自体を、弄くって操作して、培養をするようになったわけです。 おわかりですね! 自然じゃない、本来なら発酵しないものを、 劣悪な素材を商品にする為に、 無理やり発酵させようと工夫したのが、現在の人工培養の酵母菌です。 納豆の納豆菌も、お味噌の麹も、お酒の麹菌も、すべて、、、。 現在売られている発酵食品は、ほぼ100%、 味噌、醤油、酢、納豆、酒、パン、このようにして作られています。 なぜ? そんなことを? もう1つの理由は熟成に要する「時間」です。 菌たちは素材をエサにして、 素材を分解し、さまざまな物質を作り出してくれます。 私たちの身体に欠かせないアミノ酸、有機酸、ビタミン、ホルモン、 などです。 醸造の時間が長ければ、この量が豊富になっていきます。 だから長期熟成されたのものを選ぶのが賢い選択です。 だいたいの基準は、お酢ならば最低6ヶ月、味噌ならば10ヶ月、 醤油ならば1年、これが最低ラインです。 しかし、現在の大量生産のメーカーにおける期間は、 お酢は、たったの一日! 味噌・醤油なら2週間~1ヶ月で大体のものは作られています。 発酵に必要な時間は本来決まっているにもかかわらずに、、、です。 コストダウンの為に、時間を短縮する為に、 その為に操作培養した菌を使う。 他の、さまざまな方法も駆使して速醸する。 それが、現状です。 おかげで、お酢は、98円から、 お醤油も、198円という値段で売っています。 当然ですが、今の発酵食品は、昔の本来の力を持っていません。 これが、戦後の”経済の成長”神話、 エセ哲学を信奉して来た成れの果て! 寺田本家の寺田啓佐社長の話題へ戻りましょうね。 寺田氏は、35歳の時、十二指腸潰瘍になります。 ”病を得て、人は道を求む。” 人は病気になって初めて生き方を考え、 ”少病少悩 ”少しの病気と、悩みがあった方が、人は精進できる、 という仏法の考え方がありますが、 凡人は、病気は病院で薬をもらって治すものですが、 偉い人の違うのですね。 ”今までの生活や食生活が原因で病気になったのだ。” 寺田氏の反省は、そこだけに留まらなかった。。 。 それだけではないと寺田氏は考えたのです。 病床で、自分の越し方、酒造りへの姿勢、経営を思い巡らします。 生活も含めて、あらゆるものが、自然の理にかなったものだったのか? と何度も自問します。 在り来たりの経営者のように、金儲けに走ったあまり、 自分の体の声を聞かなかったばかりか、 それは、同時に、経営の根幹である、酒を生んでくれる微生物たちの声を 聞いていなかった。 それを、痛感します。 振り返れば、人間にとって都合のいい発酵・酒造りばかりを あまりにも追い求めすぎていた事に気が付き、 そこからは、人間様にも菌にも都合のいい本当の酒造りを 目指そうと心に決めたという事です。 そのヒントになったのは、 無農薬の素材米と、 農薬や化学肥料を使った素材米をそれぞれ炊いて放置した時に、 農薬や化学肥料を使った素材米の方が、 タール状に腐敗してしまったのに比べて無農薬無化学肥料の素材米が、 自然に発酵していたという経験でした。 ”自分の十二指腸の中も腐敗せざるを得ない環境だったのだろう。” そう、病気の原因を合点したわけです。 ”お酒造りも同じだ。 自分の今やっている発酵技術も本当だったら素材を腐敗させる発酵だ。” 現状の正しい認識を得ることによって、猛烈な反省をした訳です。。 ”なぜなら農薬や化学肥料を使ったお米を使っているから、 化学的に培養された菌を添加し、 腐らないように強制的に発酵させる為に、さまざまな添加物を使う。 その上、香りや味付けの為にも添加物を使って来た。 もはや、自分がやってきた酒作りは、本来の酒造りではなかった。 米や菌のかもし出す力を無視をして、 酒作りの目的が、金儲けのみになってしまっていた。” もちろん、金儲けが悪いとは言いませんが、 これが、因果応報の原理です。 そこまでの深い洞察をしてしまった寺田氏は、 元々が職人で純粋な寺田氏は、これではいけない!と。 そこから、”自然な酒造りとは?””本ものの酒造りとは?”と、 むかしながらの自然な酒造りに取り組みはじめます。 それは発酵の元となる菌・微生物を通して『自然を求める道』でした。 まず、 菌の生きていく条件となるエサと棲家について、試行錯誤を始めます。 酵母菌を自然界から取り込むために、 蒸したお米を長時間かけてすり潰していく「生もとづくり」の復活です。 これは、大変な重労働で、 戦後のお酒造りは、これを省くために、 化学培養された酵母菌の添加をするようになってきていたのです。 そして菌のエサとなる素材の米ですが、 自然の菌を取り込むまで腐敗しない本物のエサは? それは、無農薬無化学肥料の素材米に決めました。 現在では、肥料すら使わない自然栽培米も使われています。 どうして、これらは腐敗しないのでしょうか? 米の持つ力が違うのです。 物質文明の坩堝の中で生きている私たちは、楽をしたいという欲望、 お金が欲しいという欲望、おいしいもの食べたいという欲望、 果ては有名になりたいという欲望、健康でいたい欲望、 権力欲、支配欲など、これらの私たちの欲望が度を越すことで、 自分だけでなく自分の周り(自然、他人)も共に害してしまう事に 鈍感になっています。 今の文明は繁栄を追及するあまり、 そういう自然界にある秩序・ルールを置き忘れ、 それらを教える元々の道徳・文化力が弱くなっています。 孔子の「心の欲するところに従えども矩を超えず」は、どこ吹く風ですね。 それにしても、その人間の欲望と発酵がどんな関係があるの? と 思われることでしょう。 今日の記事は、長くなりましたので、 最後の”菌の住処”については、次回へ廻すことにします。 よき秋の日々をお過ごしくださいね。 参考文献: 『発酵道』 寺田啓佐:著 河出書房新社 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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09/29 23:12 |
”菌の世界”を通して見る、『天下は一つ』 現代文明のゆがみCategory : 大自然と科学
![]() 上高地・田代池を過ぎて 今日は、記事に入る前に 「プラネット・ダイバーシティ」開催のご案内です。 多様性に富んだ地球の素晴らしさを守り、地球の多様性を祝いましょう! 10月11日~29日の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10) カルタヘナ議定書第5回締約国会議(MOP5)まで、あと1ヵ月。国際会議の本番を迎え、 「食と農から生物多様性を考える市民ネットワーク(MOP5市民ネット)」はMOP5期間中に 「プラネット・ダイバーシティ(※)」という市民発のイベントを名古屋で開催します。 実りの多い秋は、生物多様性の恵みを実感する季節です。 多様性に感謝するイベント「プラネット・ダイバーシティ」にぜひご参加ください。 10月は名古屋で会いましょう! ◆プラネット・ダイバーシティ・プレイベント(屋外イベント) 【日 時】 2010年10月10日(日) 10:00~16:00 【会 場】 久屋大通公園もちの木広場 (名古屋テレビ塔南) 【参加費】 無料 【内 容】 グリーンマーケット、展示、ミニコンサート、トークショー、 コミュニティ・カフェ、パレードなど ご来場の際には、マイバッグ・マイカップ・マイ箸・マイ食器を持参ください 《プラネット・ダイバーシティ・パレード参加者募集》 10日の15時から「地球の多様性を祝おう!」をコンセプトに、 名古屋市栄周辺をパレードします。 横断幕やプラカードにメッセージを書いて、 生物多様性の大切さをアピールしてください。民族衣装や仮装も大歓迎! 参加者は14時30分までに、もちの木広場に集合してください。 ◆プラネット・ダイバーシティ・フォーラム 「生物多様性を守る食と農~GMOのない世界をめざして~」 【日 時】 2010年10月11日(月・祝) 9:30~16:40 【会 場】 ウインクあいち 小ホール1 (名古屋市中村区名駅4-4-38) 【参加費】 500円(資料代) 【内 容】 講演 「遺伝子組み換え作物のない世界へ」 パーシー・シュマイザー他 報告 「遺伝子組み換えナタネ自生全国調査活動6年間のまとめとこれから」 MOP5・国内法改正へ向けた市民提言の発表など。 遺伝子組み換え作物の専門家を国内外から多数お招きします。 チラシデータのダウンロードは、 こちら↓からどうぞ! 「プラネット・ダイバーシティ・フォーラム」チラシ.pdf さぁ、記事へ行きます。 今日は、前回のつづき、寺田本家の寺田啓佐社長の『発酵道』からでした。 その自然における発酵の世界、微生物と向き合う酒造りの中の最後、 菌のすみかについてでした。 さぁ、その前に、 ご存知でしょうが、食べ物に限らず、そもそも私たちの体に、 カビやバクテリアや、たくさんの菌たちが住み着いています。 その事を、少しくわしくまとめてみたいと思います。 自然のあらゆる植物には、たくさんの菌が付いている。 自然界も、そうなら、人間もそう。 目には見えませんが、一人の体に付いている菌の総重量は、 1,5kgにも達するそうですから! 人の細胞は60兆と言われているのに比べれば、 数で言えば細胞の数より菌の数の方が多いのです。 つまり私たちは、ものすごい数の菌たちと共存しているのです。 ”え~っ!菌がいっぱい付いているの?” ”いやだぁ~”、”汚い!”って。 あはは。 その数は、100~150兆匹も! ! 例えば人間の皮膚に元々住みついている常在菌の総数は約1兆匹です。 皮膚の表面積、1センチ平方当たり平均3000匹もいるそうです! 場所によっては30万匹が集落を形成し活動している! こうして菌たちが私たちの皮膚をビッシリと覆って生きてくれている! たとえ外から有害な菌が来ても、有害菌が繁殖できるだけの隙間がない! その生命活動の結果、酸を出してくれているので、 細菌やウィルスなどの外的から私たちを守れるのです。 結局、肉眼で見える世界は、人間と自然は、乖離しているようですが、 実際の所、菌のレベルでみれば、みんな同じ穴の○○○、 あはは~! もっと、究極の言い方をしますと、 命が、存続する為の条件といったら、菌に守られている状態なのです。 菌がまったく体から居なくなったら、人間は生きてはいけない・・・・・ 宇宙飛行士の毛利衛氏が、次のように言っています。 「シャトルの中では、酸素と窒素の人口空気を作っているのですが、 地球の空気はそれと全然違うのですね。 私はスペースシャトルで地球に帰ってきて、ハッチから地球の空気が入って来 た時に「あっ、」と思ったのです。 ばい菌や微生物がウヨウヨしている空気なのですが、 ”ああ、これがないと人間は長く生きられないな”と感じました。 ほかの生命とのかかわりの重要性が身に染みてわかったんです。」 その事から、正しい菌に対する認識を持たなければ、 私たちが、危ない! ! 現代の商業主義がバラ撒く悪しき常識を、打ち破りましょう! 消臭、除菌、殺菌が、どれだけ生活に必要だ!といい続けるCM。 その宣伝を垂れ流し続ける化学製品の会社のCMです。 科学文明の成果を、都合がいいところだけ企業の利益に利用をしている 色界の魔王の手下、化学製品を売りつけようとする間違った認識です。 あのCMのように、除菌や殺菌をする必要はないのです。 汚れは清浄な布で拭く。水洗い、すすぐ。日光にさらして干す。 それで十分です。 最近では医学会においても消毒に対する考え方が変化して来ています。 過去においては、 傷には、化膿止めの為に、染みて痛くてたまらない消毒液をすぐさまつける。 今は、清水で異物をよく洗えば大丈夫、という事になっています。 ご存知でしたか? これは、ある学説が、 2004年5月の日本皮膚科学会で、相澤病院の夏井医師が、 「消毒薬は傷の治癒を遅らせ、患者に苦痛を与える。 消毒薬は細菌だけでなく細胞にも悪影響を与える。」と発表しました。 こんな発表は、遅すぎる位です! 私の長い経験ですが、傷や手指をちょっと切ったという時、 我が家では、一応常備薬は備えておりますが、 傷口に、消毒薬や傷薬を点けるという事はほとんどありません。 毎日飲用している酵素液が台所にありますので、それを傷口に点けます。 酵素が、そういう働きをしてくれるという事を経験で知っていますので、 何もせず、血が出ているその上に垂らします。 指先などでしたら、おちょこ様の器に酵素液を注ぎ、その中へ指を浸し、 約、2~3分後、傷口は塞ぎ、出血は止まります。 そのまま指に何もせずに、直ぐに仕事を継続できます。 消毒薬は、ばい菌も殺すかもしれないけれど、細胞も生き物、傷口の細胞も 傷つけて細胞の賦活力を失くすのではないかと言う疑問があったからです が、まさに、その通りの発表があったわけです。 あの傷口がグジュグジュするのは、傷が細菌によって化膿したのではなく、 あれは、皮膚を修復する役割の菌や、血小板や顆粒球などの白血球で、 傷ついた細胞を修復し、新しい細胞を作り出そうとしている状態なのです。 命に備わった危険に対する防御システムのひとつなのです。 消毒薬を使ってしまえば、細胞が自らを治そうとする修復機能を低下させま す。また、私たちの体は、出血が多量の時は、皮膚の血管を収縮させて皮膚 に回す血液を少なくし、臓器や脳に行く血液が不足しないように、 臓器や脳を優先させようとする機能もあります。 この事実は、私たちの体は、自分の意識で生きているのではなく、 自然の秩序の中で生かされている。 生きようとする力を与えられているのです。 それは信じてもいい事です。 宇宙は、137億年、地球は46億年存在していますが、 それは、人類の意思や意識に、まったく関係ありません。 人類が知性だと言って、どのように意識するかは勝手ですが、 宇宙や地球の存在には、意識では迫れないと言うことです。 だから、科学技術だけ進歩したってだめなのです。 だから経済だけが発展したってだめなのです。 菌は、発酵食品の為だけではなく、身の回り、 森や、山の中、田や畑、家の中でも、私たちの体においても菌は膨大な数で 自然の生を支えて活躍しています。生の営みがある所、言い換えれば 菌が働いている所は皆、生の営みがあるのです。 私たちの生活の場面で、菌は悪役呼ばわりをされ、目の届く範囲において、 すべての菌を殺すことが正しい行為、しなければならない行為のように イメージ付ける情報が多すぎます。 これらは、正しい菌を含む自然観を壊し、自然の秩序を無視するものです。 除菌や、殺菌が所かまわず行われ、当たり前になっています。 自然にもともとあるべき菌との正しい関係、それを破壊するとその結果は、 私たちの生命へそのまま跳ね返って来るでしょう。 それこそが因果応報です。 商業主義に乗せられた情報のみで、見えない菌をバイ菌と決めつける癖、 物事を決め付けて行く習慣を改める時期に差し掛かっています。 今の商業主義のメッセージの方向は、間違っています。 いつの間にか、大人が乗せられて、染まって、 それを、未来の子供たちに、擦り付けていませんか? 私たちの生をバックアップしてくれている菌の存在、 共に、生きていかないと人間の命すら危うくなる... そのイメージを持っていただいて、 寺田氏の話題へ入って行きたいと思います。 地球があるがままの自然における発酵の世界、 自然の微生物と向き合う酒造り、 自然菌の住処についてでした。 自然菌の棲家・住処は、寺田さんは、「発酵場」と言います。 「場」とは「環境」です。 日本のカタカムナという古文書にも啓発され、場の電位を高めるために、 寺田氏は酒蔵の下に炭を埋めました。 むかしから多くの寺社仏閣の下には、炭が埋められています。 この炭を埋めることによって地下の電位を高めます。 いわゆる森の沢や滝などもそうですが、人間が居て心地よい場所というのが あり、その原因の一つに電位があるといいます。 さらに、人の気持ちも酒造りに作用するというのです。 働く人が心地よく、気持ちよく、菌にとっても心地よい環境。 それが、寺田氏の言う「発酵場」の概念です。 だれにとっても「快」である場を造ることで、おのずから菌はうまく発酵し、 いいお酒ができるようになったと寺田さんはいいます。 重要なことは、自分だけの欲求ではなく、 その場に関わるすべてがうまく調和して、 発酵していくような快感の「快」を求めることだというのです。 最後に寺田さんの言葉を紹介します。 「むかしからお酒造りに『御酒ひびき(みきひびき)』というのがあり、 三つの『き』が酒造り、そして人にとって重要なのです。 それは、うれしき、たのしき、ありがたき、です。 うれしき、たのしき、ありがたき・・・。 人間はどうしても社会の中で、自分の我を通してきました。 また我を張らなければならない局面もあると思います。 しかし、可能な限り、自分から自然に触れ、自然の目指す方向に気づいて 行く。そして自らを修正する。 自分自身と共に、多くの他の存在にとっての「快」の追求。 そういう、うれしき、たのしき、ありがたき 環境作りをする。 発酵のその場にかかわるすべてにとって快適な場をつくっていく時、 いいお酒ができることに寺田さんは気づき実践されてきました。 自分だけの喜びではない喜びというのは、確かにここちが良いものです。 本当は、こういう境地を私たちは、探しているのかも知れませんね。 私達は、自分も,他人も,自然も,未来の子供たちさえも快適にする、 私達は、自分も,他人も,自然も,未来の子供たちさえも快適と感じ るようになれる選択をしなければなりません。 宇宙や地球の存在自体は、未だに無意識の世界。 人類にとったら、生きていけない『死の世界』です。 人類にとって生きていける場所は、地球だけです。 地球のように、水を持つ惑星があるのか? まだ、科学では完全に解明されてはいません。 今のところ、唯一の水の惑星、地球。 この地球の多様性を守らなければ、私たちが危ない! 今の文明を、このまま受け継がせていいのだろうか? 大人が、これでいいという振りをしていていいのだろうか? そういう問いが、 ずっと心の中にあります。 秋の静寂の中、 良き夜を、 どうか、おすごしくださいね。 ^^感謝です。 『副作用 その薬が危ない』 大和田潔:著 祥伝社新書 『菌の常識 人間の非常識』 井上眞由美:著 平凡社新書 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 |