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10/08 16:01 |
白鵬の言葉 / そろばんを持った丁稚が、一番威張っている?Category : いのちの継承
![]() 過ぎ去った 夏の日の思い出 急流下り はや、秋も深くなってきました。 暑い夏や、厳寒の冬では、 気候に負けまいとして、脳がそちらへ身構えてしまうので、 ちょうど今は、心も体も落ち着いて、安定している時かもしれません。 今日も、いただいたコメントから始めたいと思います。 >菌に守られている状態なのです。 >菌がまったく体から居なくなったら、人間は生きてはいけない 。 日頃私が言ってる事、そのままズバリと思いました。 テレビのCMなんかでも、何でも抗菌仕様とか言ってますが、 そんな事してるからひ弱な人間が育つのだと、言い続ける私です。 O-157問題なんか、その典型だと言うのですが、どうなんでしょうね。 もしかしたら、 最近出てきた病気にはそんな事から発生していることが多いのでは と思ったりしています。 人の寄生虫なども、 もしかしたら、人間に良い物も出すのではないか・・・など。 地球上に生きるもので、 一切無くても良いと云う物は無く、全て必要なものばかり。 ですから、 多様性は地球上に生きていく生物には絶対必要だと思っています。 これからも、出来るだけその多様性の必要性を言い続けたいと 思いました。 この中から、 一切無くても良いと云う物は無く、全て必要なものばかり。 ですから、 多様性は地球上に生きていく生物には絶対必要だと思っています。 を、お借りして、今日の記事を書いてみましょう。 まず、一人一人が、多様性を認める。そういう認識に持つ。 人間は、その多様性の中のひとつの立場にしか過ぎない。 多様性を認める。とは、そのすべての立場を尊重する。 という事ですね。 今の私たちが正しいと思っている知識は、人間の意識を通したもの、 人間を中心においた立場から見た知識です。 それぞれの多様な立場における見方から見ると、 正しくないかもしれない。 イヤ~! きっと、人間の知識は正しくないでしょうね! なぜなら、自然に対しては、人間は地球の危機をもたらし、 自前の人間社会においても、無縁社会等、 諸問題が露呈していますから、 人間は、いい加減な中途半端なものをこれで良いとして来たのでしょう。 しかし、このままではいけませんね~。 生物の多様性を認めるかどうかという事は、 今の自然観、生命観、社会観における現状の間違い、 それらから派生して来る文化、道徳の質を問われているのです。 現在進行形の絶滅危惧種があるという事は、 現状の自然観、生命観、社会観、死生観の誤謬の証拠であり、 文化、道徳の質の低さ、 道徳の存在の無さ、それらから起こっている現象のひとつです。 地球上で確認されている生物は180万種です。 2008年の資料ですが、その内、絶滅危惧種は45000種。 年々、だんだん、増えてきています。 大した事ない? スタンフォード大学のポール・エーリッヒ博士は、 「人間は絶滅の危機にある種を救う努力をしなければならない。 なぜなら種の絶滅は、空を飛んでいる飛行機から 次々とリベット(鋲・びょう)を抜いてゆくようなものなのだから」 と言う。 鋲が抜けていった飛行機は、 いずれ空を飛びながら機体がバラバラになる。 ついに崩壊して墜落をしてしまう! 当然、乗客は機体から放り出され、助かる事はないのです。 そういう例えで、飛行機の鋲が抜けるように 今の地球の生態系から種が滅びて抜けて行く事により、 人類も亡びざるを得ない。と教えてくれています。 最近では、 生態系から受ける恩恵を計算する「生態系サービス」の経済学まで 発展をして、さんご礁の年間の価値は、観光で2399億円、 漁業で、107億円、海岸防護機能で、839億円と 弾き出しているそうです。 なんとなく、いやですね~! こんな経済学が発展をして、 なんでも数字で表して、お金に換算してその価値を訴える手法など、 まさに、物質文明の極み、色界の魔王の思うつぼではないですか? ここが、”現代文明のゆがみ”だって気がつかないのかしら? ある問題があったら、すべて計算で弾き出し、原因も、その解決も リードして行くのが経済ですよ! おかしくないですか? 経済が、自然も科学も医療も教育も政治もすべてを管理する! 経済的損失が最大の悪で、損失を無くす目的が、解決策? あはは~、 どこか間違っていないですか? 哲学のない理念のない社会においては、こうなるのですね! 本来、経済の立ち位置は、一番下ではないの? そろばんを持った丁稚が、一番威張っている? あはは。 この社会構造自体を変えなければ、決して良くはならないわ! 絶滅危惧種を助けるためには、 膨大な予算がいると、政府は言っています。 (膨大な予算でしょうか? 予算があれば片付く問題なの?) だれが、絶滅危惧種を作るような社会を作ったの? 今の政治ではないですか? 出発は、政治の理念が自然より経済を重んじるものであった事です。 こういう原因を作ったのは、 膨大な予算がいると言っている経済の奴隷=政治ではないのですか? もっと、大事なもの、政治の奥にあるべき大事なもの。 それが、空洞化して、空っぽになっているから、 こういう事になるのよ! それは、何? 自前の文化、道徳、思想、哲学、です。 あ、そうだ! ちょっと、横道にそれます! (笑い) すもう、相撲、白鵬です。 日本文化の伝統、不祥事の相撲界。 先場所、全勝優勝を果たした69代横綱・白鵬です。 その前の名古屋場所で不祥事の為に協会が自粛をし賜杯がなかった。 その事を、特に残念がって涙まで見せた白鵬。 相撲のファンとまではたぶん、言えない私にとっても印象的でした。 彼のくやしさは判るものの ”涙まで流して!”と思うのと、 相撲の勝負に闘魂をかき立てるには、 そういう思い入れが必要なのかな? 程度で受け流し、白鵬が、先の秋場所で優勝をして天皇賜杯を手渡され、 今回は、さぞかしうれしいだろうなぁ~と思った位でした。 う~ん! モンゴル人であるムンフバト・ダヴァジャルガルという少年が、 外国である日本までやって来て、 艱難辛苦を乗り越えて成功をした姿、 それを証明する日本でのトップ、天皇の賜杯、 そこまでの価値としての賜杯。 そういう受け取り方を私は、恥ずかしいのですが、していただけなのです。 しかし、 9月30日の午前中、テレビ朝日、番組のインタビューを受ける横綱白鵬、 それを、偶然、たまたま見て、次の白鵬の言葉に釘付けになりました。 「 賜杯のある相撲がなくなれば、日本の国はなくなる。」 ん? たしかに、はっきり、白鵬は、そう言いましたよ! たぶん、聞き手のアナウンサーも ん? と思ったと思うのです。 どうして? と聞いていましたもの... あはは。 白鵬は、それには、普通に、こう言っていました。 「 相撲は日本の伝統、日本は、武士の国だから、 その伝統を守ってちょんまげをしているのは相撲取りだけだから、 その相撲がなくなるという事は、だから日本の国はなくなる。」 あ・らら、と思いました。 「 相撲はスポーツではない。」 「 朝青龍は、スポーツマンとして良いアスリートだった。」とも 言っていました、、、 初めは、何かをしながら小耳に挟んだという程度の聞き方だったのが、 終には、白鵬の写っているテレビの画面を注視していましたよ! (笑い) 白鵬は、自分の今の業績を、”運 ”とも言っていましたね。 努力をした人間に巡って来る”運 ”だと言い足していました。 おそらく、幸運に恵まれた人が味わう絶頂感を味わっているのだろうと、 自分の体が軽く感じられる、 何かにバックアップされている感触です。 秋場所で連勝を62に伸ばし、双葉山の連勝記録へ、 あと7勝に迫った挑戦については、 「記録は69連勝。数が同じなのは何かあるのではないか」と 自分が第69代横綱である数字に含みのあるような表現を 語っていました。 彼の言葉の論理性はともかく、論理的じゃないところがすごくいい! 相撲の優勝者に天皇賜杯、 日本は武士の伝統、 その姿のちょんまげ、 スポーツじゃない相撲という世界、 その最高位の横綱としての自分=白鵬の中で これらが全部意味を持って生きているのですね! まだ、若いのに~(失礼!)えらいなぁ~と感心をしました。 そうなのか、どうなのか、とにかく白鵬の中では、 日本とは何かと言う、その答えを 脳の片隅の理性で理解をしていると言うだけではなく、 全身に行き渡たる調和を持って実現しているものがある。 という事が伝わって来るインタービューでした。 すごいなぁ~! 日本人ですら相撲の世界へなかなか理解をして入り込めないのに、 逆に、相撲の世界へ入ったとしても、 そこまで成長をするのは難しいわね! 外国へ来て、その国の文化を体現していると自信を持って言える白鵬。 日本人へ日本の伝統は、これこれだと教えてくれる白鵬。 こんな事、腑抜けの日本人には、できない事だわ~ あはは。 あぁ、いっぺんで彼が好きになりました。 (笑い) ^^頑張ってほしいですね! このブログで殊更、西洋文明という呼び方で呼ぶものを、 もう、ほとんどの日本人は、”外来”とは、意識していないようです。 もう誰も、今の日本では、 西洋文明的思考を、”外来 ”だとは、意識していないということです。 特に、生まれたときから西洋文明の物質文明に浴して、 その恩恵を十分受けて育った30代以下の人は、 今ある全てのものが日本に元々あったものとして、 何の疑問も持たずに生きているのでしょう。 日本人は、 日本たるものを”これだ”って言い得ないのに、 外国人の方が、何が日本たるべきものか、見えるのですね。 白鵬と同じ24、25歳の若い日本人で、 どれだけの人が、 日本、天皇、武士道、伝統を生きる、という言葉を 生き方の中で、意識しているでしょうか? その秩序の乱れに、くやし涙を流すでしょうか? 経済がすべてを主導し、 政治の施策をリードする今の社会は間違っています。 その時々のバラバラの価値観で漂うように生きている日本を見るにつけ、 戦後の日本の中で行われている軽薄な教育の有り様を見る度に、 いつも私の頭の中に浮かんでくるのが、 進学塾経営時代に学んだ、モンテやシュタイナー教育の理念です。 それらは、 感覚教育が優れている良いメソッドが多くある教育方法ですが、 そのメソッドだけを、いくら学んで取り入れても駄目なのです。 モンテやシュタイナー教育は、 キリスト教哲学によるコスミック、 そのコスミック教育が、理念の中心ですから、 最終的に、どういう社会のどういう人間を作るのか、という 人間像がはっきりあるのですね。 その目(まなこ)を抜いて感覚教育の教具だけを取り揃えても それは、唯の魂のない教育になってしまうのです。 それなりの理念のある教育は、 それが生まれた母体である宇宙観から、 人間観から、 自然観から 決して切り離してはいけないのです。 そういう観点から日本を見回して見ると、気がつくのが、 何の為かは定まらないまま、 受験の為の教育に落ちているのが現状ですね。 何の為かがないまま、学歴をつけて、社会へ出て行くわけです。 テストの為だけの正解を覚えて、身に付けてしまって、 本来は何の為の正解なのか、 解らないまま現実の世の中へ出て行くのでしょう。 これでは、自分の解が出せないはずです。 就職難だから、就職がない、とこう考えるのがオチです。 他人が作ったパターンの中でしか生きられなくなっていますね。 自己の問題を、自己解決できない。 テストの答えは、そこだけじゃない。というのが解っていない。 テストの答えが出て来たその大元、 母体である宇宙観、 人間観から切り離された知識しか教えられていないから、 コスミック教育がないままの知識のみの”丸呑み”なのね。 一人で、大元まで辿れない、細切れ知識しか教えられていないのです。 知識は覚えても、宇宙や人間までつながって行けない知識なのね。 ある意味、従僕を作る教育です。誰かに属して従うしかない... 今、世に流布している知識は、皆がその類(たぐい)です。 世に知的と言われ、知性と言うモノの中には、 その本質的な欠片は、もうほとんど入っていないのではないのかと、 疑ってかからなければいけない位のもの、 その程度じゃないの? この時代の急場の知恵を知ろうと思えば、 役立つのが、本来、親や年長者の話です。 が、まさか、 今の若い人は、親や年長者の話を訊こうなんて思わないわね。 情報は、マスコミと、本から? というのでは、 あまりにもさみしいし、いいカモにされるだけカモ? あはは。 年長者もいない、相談をする頼りになる人も身近にいない? マスコミと、本、それらは、まぎれもなく商材そのものです。 商材を頼れば、結果は商材のカモに成り果てるだけです。 売れる為のウソが散りばめられているのは、間違いないのだから... 便利と言いながら、利用しているだけさ、と嘘ぶいてみても、 実はそうして自己の値打ちを自ら空虚にしていっている。 これが、物質文明の馴れの果ての現実です。 めんどうな事から逃れたい。精神を使いたくない。 これが物質文明です。 象徴的な事は、 我々は、自分の文化を失い捨て去る過程で、 まず初めに、自分たちの昔からの暦を、捨てました。 カレンダーとして単純化し、意味のない数字の序列に変えました。 この意識のベクトルには、 ある意味、わずらわしい『天の道』に代表される自然の秩序の影響から、 解き放たれたい欲望があったのでしょう。 「時」に意味を持たせない、 「時」の違いを無視をする西洋文明の意識が、 私達の意識に入り込んで来て、 生理的な体内時計の拘束から逃れたいと言う 楽がいい、合理性がいい、と言うエネルギーに負けたのではないのか? 自然の見えない秩序を捨てる=欲望を解き放って、道徳を捨てる。 その成れの果ての今は、どういう時なのか? 「人類は、すでに新しい生物を作り出す手段を手に入れている。 人の臓器を持つ豚、毛髪に覆われた羊、 このような遺伝子組み換え技術で生み出された生物が跋扈する。 これは、荒唐無稽な話ではない。」と、 遺伝子工学への警鐘を鳴らす最新作『洪水の年』『オリックスとクレイク』を 著したマーガレット・アトウッド女史が危機感を持って言う。 ここに至る過程において、 私達は、伝承された文化を失い、 文化でつながっていた絆をバラバラにした。 それは、私たちの精神が、無垢に戻る(浄化)事ではなくて、 ある思想に染まるという事だった! 私達が自分の文化を失って行った原因は? その素地は? どこにあったのか? 外国のせいだとか、失わさせられたとか、他に原因を求めていては、 何時までたっても、本質は見えないままです。 実は、その原因は、私達の中にあった。 自らの中に、それに勝る何がしかの哲学が、無かった。 持っていなかった。 そういう事なのではないかと思います。 もし、あったとしても、相手より低級で、それが形骸化していた。 もしくは、主知主義化していて、外から来るものを、批判できなかった。 拒む力にはならなかった。という事でしょう。 武器の戦争というものは、その奥底に思想の戦さがあるのです。 大事なものは、 正しい宇宙観、人間観、自然観から生まれた文化であり...道徳です。 自国の文化を失うとは、国民が集団として生き延びれないのですよ。 生き延びる方法は、より強く自前の文化を持つ纏まった上位の集団に、 吸収されるしかないのです。 それも、また、国の興亡、民族の興亡、相手を滅ぼす戦争の方法です。 さぁ、日本は生き延びれる程の、国を守れる防波堤になる程の、 自国の文化、道徳を強く持っていますか? さぁ、あなたの家族が生き延びれる程の、家族を守れる礎になる程の、 家庭の文化、受け継がれた道徳を持っていますか? 国が亡ぶと言う前に、自分の家系が絶家になる。。。 本やマスコミにそれらが在ると思いますか? 決して、商材の餌食にならないでください。 思い出してください。 必ずあるはずです。 その証拠は、 あなたの先祖が文化を持って、道徳を守って生きてきたからこそ、 ここに、あなたが生まれている。 継承の運が存在するのです。 もうこれ以上、何も失ってはいけません。 秋冷の月の光を見上げて、 天空の知恵を浴びましょう。 そして、 空に、祈ってみたい事があります。 日本が、それぞれのご家族の文化が、幾久しく栄えますように... 私達の地球が、美しくそのまま、後の命に継承できますように... 『洪水の年』『オリックスとクレイク』 マーガレット・アトウッド著 『 生物多様性とは何か 』 井田徹治著 岩波書店 -----------------------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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10/16 11:30 |
毘盧舎那 /天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その1Category : 運命学と歴史
![]() 過ぎ去った 夏の日の思い出 川面 先日、東京国立博物館の平成館へ 光明皇后1250年御遠忌記念特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」 を見に行って来ました。 館内は、年配の人たちは、もちろん思った通りでしたが、 若い男性が一人でぷら~っととか、小中校生の親子が多かったですね。 もっと、女性が関心を持ってもらいたい。 そう思いました。 なぜ? 女性が幸せになれるかどうかというテーマなのですから。 まず、いつものように、いただいたコメントを紹介します。 教育のおはなしを興味を持って読みました。 何事も、お体裁ではいけない、そこで差がつくのでしょうか? 今日の記事もさりげなく、 気がつかないくらいに運命学を教えてくれています が、最後は、運命学は家族や家庭なのですね。 いまの時代はまるで反対の方向へ進んでいるような気がします。 家から出て、家族から離れて、 血縁と関係ない事が大事という様な感じです。 その通りですね。 運命は、個人や、家族や家庭に表れるものです。 個人もそうですが、家族というものは、意識で選んでいるようで選べない。 家族との出会いは、無意識の運命そのものなのです。 だから、自分の意識で、家庭や家族のお体裁を取り繕う事は無理です。 どんなに取り繕っても、子孫が2,3代経る頃には、 『天=時』が、すべてをまる裸にします。 嘘はつけないのです。 そして、重要なのは命の継続です。 その決定は無意識の領域で為されます。 丁度、前回までのブログ記事の内容が、 宇宙、地球と天上へ広がっていましたので、(笑い) 今回は、運命学によって、人間界へ降りて行きま~す。 あはは。 よろしいでしょうか? 過去に学びましょう。 天武天皇流の天皇の女系化、系流の断絶に観る運命学。 過去から現在に至る記事になると思います。 私が、こういう展覧会を見に行くのは、 日本の美術、歴史だけを見たいと思うのではなく、 歴史の中に展開される人の運命の縮図、それを確認するためであり、 運命学の正しさのための研究のひとつと思って行きます。 数年まえから、気になっている題材、 『女系化による絶家』 毎年、正倉院展に行くのも、そのひとつです。 今回のメインテーマである ”奈良の大仏さん”は、 よく知っておりますので、 大仏さん(関西では大仏さまと言わないでこう言います。)が、 目的ではなくて、( 大仏さん、ごめんなさい! あはは。) 目的は ”光明皇后 ”と天武天皇系の天皇の周辺です。 この辺りは、日本史のなかでも非常に人間くさい、 ドラマチックな人間模様があって、 運命学にとっても非常に参考になります。 また、日本の地に建ったあの大仏さんが、 どうして華厳経の盧舎那仏であったのか? 仏教上の意義、社会的な意義の両面に疑義が、あります。 なぜなら、このような大規模な建設工事は膨大な国費を浪費させ、 国内の財政事情を悪化させるという事実を突き付けたはずです。 当時はやはり、貴族や寺院が富み栄える一方で、 農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、 租庸調の税制が崩壊寸前になる地方も出るなど、 律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにしたのです。 関西大学の宮本勝浩教授らが、 平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、 創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると 約4657億円と算出されたそうです! この部分は、ウキィペディア参照 統治者として、そこまでする社会的意義があるのか? まったく、現在の政治家、今の日本の現状と瓜二つではないですか? 社会的には、まったく破綻をした事業であったとしても、翻って、 仏法上の意義において、 毘盧舎那仏を、ここまでする真の意義が、あったのか? 本当にあったのか? ずっと、疑問に思っていました。 こう言うと、不思議に思われるかもしれませんが、 実は、釈迦は一生の説法の間に、 さまざまな名前の仏の説話を残しています。 初めて読んだ時に、 一体、これらの仏群は、どういうこと?! と思って読むのを止めようかと思いながら、、、(笑い) 、”おもしろくない!” 西洋の観念的な哲学の本を読む時に 脳細胞の全体が休止してしまったように感じる、あれです。 いわゆる、知る事に体が喜んでいないのです! あはは。 その中の、どの仏が、本当なの? 本当に実在したのか? 実証できない、、、 中には、譬えの説話の中で釈迦自身の過去世の修行時代の姿を、 別名で語っている場合もある。 東西南北、中央に5種の仏を配置しています。 まるで将棋の駒じゃないのだから、、、あはは。 その必然性は? おとぎ話を知りたいのじゃないのだから、、、 毘盧舎那仏は、5種の中のひとつになるわけです。 説法の上での便宜上とか、方便として? 釈迦の観念の中だけに存在する架空の仏を説いたのか? 大疑は、大悟へ通じるといいます。 何事も、そのままを受け入れずに、自分の命で消化しましょう^^ 疑っていいのです。 哲学、思想には厳密な正確性を! 真実を! 生活には闊達な柔軟性を! です~!” 経文上の事が、事実であるならば、 理論的にも証明されて、 尚かつ、現実に証拠がない物は信じられないという、 観念論大嫌い!(笑い)の実証主義の私にしたら 我慢できない! 点なのです。 あはは。 まぁ、そういう事などを、 今回から、何回かに分けて、日本史の中を、運命学的に観ながら 記事にしたいと思っています。 歴史を少し、わかりやすく詳しく書きながら進めていきます。 面倒がらずにお付き合いくださってお読みください。 天皇の家族関係、家系の流れが主題です。 なぜ、光明皇后なのか?は、 後、記事の中でお読みいただくとして、 その前に、関西人が親しみを込めて ”大仏さん ”と呼ぶ 盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)と、 当時の仏教についてから始めますね。 サンスクリット語のVairocana( ヴァイローチャナ ) 音写(音をそのまま表した訳)が、毘盧舎那です。 毘を頭につけて毘盧舎那(びるしゃな)というのが正式かな? 意訳では、光明遍照、浄満など他、いろんな意味になるようで、 宗派によってさまざまであり、一様ではありません。 だから、 あたり障りのない音訳の”びるしゃな ”を普段使いするのでしょう。 さまざまの宗派において、 毘盧舎那という仏は、格付けも扱いも違います。 要は、仏としてのステータス(地位)が違う。のです。 ある宗派では、仏ではない。 そういうのだってあるのですから。 簡単に言うと主格、脇格、古仏(もう、役に立たない仏)扱いなどです。 ある宗派では、本尊になっていると思えば、 ある宗派では、排斥されている。 どうなってるの~? と初めは思いました。 同じ仏教と言っても、宗派によって真実が違うのですね。 それも、また、おもしろいです~! なぜ、違いが出てくるのか? 仏が、いろいろ~ではないの。 人間が、いろいろ~なのです! (笑い) そういう宗派同士が、現実の世界では寺領を隣同士になって仲良く? か? どうかは判りませんが、 東京の谷中に行きますと、 あらゆる宗派のお寺が集まっていますね。 ご近所でもう、何百年もやっているのですよ。 それが、世間というものでしょう。 だから、どうでもいい事のようですが、 人間が認識すると言う事は、どんなに不確かなものか、、、 認識の不確かさから来る”災い”も多いですから注意しなければ、 根本はなるべく見極めて、慎重に行きたいと思います。 大事な事ですね! という事で、この続きは、 次回へ廻したいと思います。 これは、目で見える世界の、もっと奥の 見えない世界の事です。 現実を制する為には、その奥を、 もっと億を? あはは~! もっとも、億円なんていう物質文明から遠い事象です。 現実の世の中の物質文明のホコリを、払いたいのなら、 丁度いい按配のものです。 おたのしみに。。。 今日は土曜日、 明日は日曜日ですね^^ よき休日をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 |
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10/24 09:22 |
宗派 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その2Category : 運命学と歴史
![]() 高尾山の登山道・稲荷山の頂上付近 今回は、前からの続きです。 ”同じ仏教と言っても、宗派によって真実が違うのですね。 それも、また、おもしろいです~! なぜ、違いが出てくるのか? ” ここからですね。 まず、前回の記事にいただいたコメントの紹介から、、、 おっ!これから・・・と思いましたら、 「よき休日を・・・」になってしまいました(笑)。 運命学からみる日本史・・・楽しみにしています。 「仏が、いろいろ~ではないの。人間が、いろいろ~なのです!」 に妙に納得しました。 ほんとうに、あはは~ ですね!(笑い) 私も前回の記事がいつもより短く終わったなぁ、と思いながら、、、あは! 内容的に丁度の所で切りましたら、ああなりました。 あのまま続けたら、10m位の記事になったいたかも? あはは。 そうです! 今日はその長くなる内容ですので、 お疲れなきようお付き合いください。 なぜ、いろいろな宗派の違いが出てくるのか? 大雑把に言うとそれは、おそらく、 1、釈迦の弟子の段階で、各々の弟子の悟りの解釈に差がついている。 2、釈迦自身の年齢的なタイムラグにおける悟りの進化の違い。 3、仏教が伝わる段階での、人間的解釈、伝播するタイムラグによる時代 の解釈の変化の差。 などが、挙げられるでしょう。 何時か必ず記事にしたいと思いますが、1,2、は、今回は省きます。 3、の“ 仏教が伝わる段階での、人間的解釈、伝播するタイムラグに よる時代の解釈の変化の差 ”と、 天武天皇系に至るまでの“ 倭国における内政的な流れ ”を 追ってみます。 そうしないと此の記事が、何十mにもなりそうです。 あはは。 よろしいでしょうか? 宗教と言っても、呪術政治が行われている倭国の時代において、 庶民にとったらお上の言う事に従うしかないわけですし、 お上と言えども、朝貢(ちょうこう)貿易の相手国である中国からの文物 ですから断るわけにもいかなかった、当時の事情がありました。 朝貢貿易については、次回詳しく記事にするつもりです。 インドからの仏典は、サンスクリット(梵字)で書かれています。 中国において、 その経典を漢字へ書き直す(漢訳)事業は2世紀後半から始まり、 11世紀末まで、ほぼ間断なく継続されていました。 中国に伝わり根を下ろした仏教は、 南北朝時代(439~589)に多くの教派、宗派が発生していて、 隋から唐にかけて興隆を極め、中国の思想界を支配していました。 インドから伝わった仏教は、中国で大流行をし、多くの仏教学者を生み、 中国国内でも、さまざまの経典が書かれたのですって! 初めてこれを知った時、へぇ~と思いました。 釈迦以外の人間が書いても経典になるんだって、、、 それらは、大蔵経もしくは一切経(いっさいきょう)と呼ばれる叢書に まとめられます。 この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、 後世に影響を与える大蔵経・一切経が完成したのが、730年です。 日本に仏教が伝わったのは、それが完成する前です。 従って正確に言うと、伝わった仏教は、一切経の一部だと言えるでしょう。 しかし、どうでしょう? 私達もそうですが、思想において、初めて自分が受け知ったものが、 その一部という認識を持つでしょうか? 受け取った思想すらも、完全に咀嚼消化していないものを、 目に見えない次なる仏教の変化した教えが伝わったとしても、 先に受け入れたものを仏教の全体であるとした認識は、変え難い。 何事も新しく、変化を受け入れて古いものを更新していく事は必要でも、 それが、為されるという事は不可能に近いでしょう。 例えば、物なら、見た目にも変わる変化を捉える事もできますが、 今、PC位の物ならバージョンをこうだ、ああだと判りますが、 目で見えない、鼻で嗅げない思想的なもの、宗教、哲学が 一旦入ってからの上書き、更新を続けていく事は難しいですね。 ある意味、伝統を守るという価値の側面を重んじる事に重点を置けば、 そういう流れが、宗派という固定を生み、今に至っているのでしょう。 しかし、何が、釈迦の教えの主流なのか? 眼目なのか? 何が、釈迦の残した真実なのか? それを見極める為にも、中国の皇帝たちは、 仏教の総まとめ的な仏教総覧大百科とも言うべき大蔵経・一切経の編纂 をおこなったのでしょう。 そのおかげで、それ以降の仏教を志す出家者は、大蔵経・一切経を 備えてある寺院に籠もってそれを読破するという所から仏教の勉強が、 できるようになったのです。 大蔵経・一切経は、経・律・論を合わせて「三蔵」と呼びます。 「経」とは、釈迦が説いた教えを記録しているもの。 「律」とは、弟子が書いた修行法や戒律に関するもの。 「論」とは、高僧が経典を注釈したもの。 当時、中国へ仏教を学びに行くと言っても、 一切教を全て学び終わった者が行く訳ではないですから、 それぞれの宗派の違いや間違いを認識選択してから行くのは無理で、 初めて仏教の経典とまではいかなくても、 律でも論でも、一巻を手にしたら、 ”これが、仏教だ!”と思うのは無理もなかったのでしょう。 遣○使と言うのは、当時、国費で留学をさせていただいているわけです。 帰国すると、”これが、カノ有名な仏教です!”と、 実際の巻物を何十巻も手にして持ち帰るという実績を、 報告をしなければならないわけですから、、、。 何時の遣唐使の、誰が、どの宗派の、誰に出会い、 仏教経典のどの「経」を、 又は、「律」なのか、「論」なのか? 何を手にすしたのか? それは、選ぶというよりも、自分がどういう仏教の教えを実績として 持ち帰れるかは、出会いの『運』そのものだったのでないか? しかし、事は重大です。 宗教 = 宗の教えですから、その哲学が間違いなら、 すべてが滅ぶわけです。 だから、中国では南北朝時代に、 南三北七(なんさんほくひち)という十の宗派が入り乱れているのを 見かねた天台大師が、それらと論争をして論破をしています。 南の揚子江流域の三宗派と、北の黄河流域の七宗派が相手でした。 論破の論拠は、たとえば、 釈迦の一生の間の化導(民衆を導いた)をした『時』代を五つに分け、 又、一生の間に説いた教えの内容の全体を八種類に分ける 『五時八教』を立てて、釈迦の全ての経典の浅深優劣を示して、 法論をして十派を整理したのです。 ちなみに、それを伝え聞いた当時の日本の天皇、 第50代・桓武天皇は、 天武天皇系の、平城京における、 肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い 中国の天台の教えを日本に正しく伝えたいと願って、 その実現をする事を最澄に命じます。 桓武天皇に中国の天台の教えを日本に伝える事を命じられた最澄は、 この時期すでに、天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に 任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていました。 最澄と共に、乗った船は違いましたが、 同じ時期に遣唐使として許された空海が、最澄と同時に入唐したのが、 803年です。 律令制度下において僧籍に入るには、 年に一定数の得度しか許されない決まりがあって、 原則は定員10名で、試験に及第して官許されるものでありました。 それにもかかわらず、 僧には課役を免除される特権があった為に、 税を逃れようと官の許可なく勝手に僧となる農民などが、 たくさん出て来て、それを私度僧と言います。 ついでですが、空海については、当時の身分は「私度僧」でしかなく、 どうして遣唐使の一員になれたのか未だに不明なのです。 最澄のように、勅命の目的があって遣唐使で行く者もあれば、 そうでない者は、遣隋使や遣唐使で中国へ渡航した時に、 その時の中国の仏教界で、何が、真実と注目されていたのか? それには、時の皇帝や、仏教界の実力者によって変化もし、 それぞれの認識の間の差違いが生じるのは当たり前だったでしょう。 考え方や、法は、人に依って広まるものです。 もっと言えば、人格に依って、広まりもし、廃れもする。 そういう一面が、あるのは間違いのない事でしょう。 また、情報が多く集まる所では、量的にも、時間的にも、 先進と思っていた知識が、古くなるのは早い。 スピードがあるのは、今と同じです。 しかも、隋、唐あわせて遣唐使は600~894年まで、約300年間 続きました。 その間に情報量的、時間的にも、世の中は変わります~ 今の日本の300年前は、江戸時代です。 江戸時代に日本を学びに来た時に外国人が持ち帰ったものと、 今のを比べるとどうですか? 違って当たり前です。 その位、知識というものは、『陽』ですから、”ご用心!”なのです。 『陽』は時と共に、移ろいます。 知識とは、そういうものです。 その間に、中国の仏教の様子も変わったでしょうし、 なにしろ、当時は、仏教を、まず先進の『知識』として持ち帰った、、、 なにか、そういう臭いがします。 宗教を ”知識”として持ち帰る? 不思議な行為そのものと思われませんか? 学問・知識と言うものは、意識の産んだものです。 宗教は、無意識の世界から、意識を見据えるものです。 宗教が、知識の段階での理解であるかぎり、 その宗教の力は、無効なのです。 信じて受容して、初めて、それは、完結するものです。 つまり、宗教は、”知る”ものではありません。 いわゆる受容する。 信仰は、受容するものです。 正しく受容もできないまま、 どのように日本は知識として、仏教を扱ったのでしょうか? たとえ、知識として吸収しようとした所で、事は、 その当時の倭国の理性のレベルでは、追いつかなかったでしょう。 どういうレベルで、どういう雰囲気で仏教が公伝されたのか? どういう世情の中から、仏教が正式に伝わったのか? 仏教の受容の過程は? 今回の記事は、それらを内政的な観点からみていきます。 国家間の公的な交渉で仏教が伝えられた事を“仏教公伝”と言います。 仏教公伝から、聖武天皇が毘盧舎那大仏を建立発願まで207年。 百済に仏教が伝来したのは384年です。 その154年後の538年に、 百済の聖明王(聖王)が、日本(当時は倭国)に仏教を伝えました。 29代・欽明天皇へ釈迦仏の金銅像と経論他が献上されたのです。 さぁ、その釈迦仏の金銅像と経論は、最後どこへいったのでしょうか? とんでもない事になります! あとで、、、あはは~! それよりも、 百済は、わが国よりも仏教先進国だったのです。 154年も先に仏教国になっていた。それを、今更どうして、 日本へ仏教を伝えようとしたのでしょうか? その背後には当時の朝鮮半島の情勢があり、 百済は、新羅の任那侵略に対処するため、 日本と連携してその援助を受ける必要に迫られていた最中でした。 さかんに倭国に対して援軍を要求していました。 その援軍を得る為に、 継体天皇の時に五経博士を日本に送り、 六世紀初頭には仏教を伝え、 文化的なつながりを深めようとしたのです。 また仏法を東方へ伝播させたという実績をもって 仏教に帰依していた梁武帝の心を捕らえて、状況を有利にする為に、 仏教を日本に伝える事を外交の道具として利用したという側面です。 このように百済の仏教伝来は外交政策の一環として行われました。 以上のような状況下で、倭国(日本)は、 自らが望んだわけではなく外交政策でもたらされた仏教を、、、 どう扱おうとしたか? 釈迦仏の金銅像と経論他の扱いに困って大騒ぎになったのです。 なぜなら、この仏教が伝来するまで、 倭国を支えた宗教は呪術的なものを含む神祇信仰です。 太政官の方ではなく、独立して置かれた神祇官(みみつかさ)の方です。 大和朝廷発足以降も、律令という法令を一般民衆に理解させるのは 難しい事で、地方支配にしても 地方豪族を容認する連合国家のような朝廷の初期の姿が、 それそのものでしたから。 朝廷が民衆から税金を採る方法だって、 「神様に今年の収穫物の一部を捧げれば来年も豊作になるから出そう」と 云うようなものでした。 毎年の収穫時期に豪族などを介して 地方の神主・神祇官が収穫を集め朝廷に送っていたのです。 このような日本の支配体制は、 下部にある共同的に統合された呪術的支配体制を、 より強固な呪力で再支配する体制とも云えるのです。 これら土着の呪術的かつ共同体的な支配体制内において、 新たに外国から公伝した仏教の受容については、 外交的儀礼を含めて、どうしたらいいのか頭を抱えた事でしょう。 『日本書紀』には、大騒ぎが起こったと書かれています。 あはは。 天皇、豪族と言えども、同じ人間なのですね~ 親しみを感じてしまいます。 (笑い) 29代・欽明天皇が、仏教の信仰をどうしたらいいだろうか?と 居並ぶ群臣に聞いた時、 物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対をし、 「 そもそも倭国の天皇は天神地祇を拝してきたのに、 それをやめて蛮神(外国人のまつる神 )を拝めば、 国神の怒りを招くであろう」と述べたと『日本書紀』は、伝えています。 このような日本古来の国神に対する外国の蛮神という発想が、 仏教の仏を捉える出発点であったようです。 その一方で、蘇我稲目は、 「 西の国々はみんな仏教を信じているのだから、 日本もどうして信じないでおれようか、仏教に帰依したい。」と 言ったので、 天皇は、蘇我稲目に 百済の聖明王から献上された仏像と経論他を下げ与えました。 稲目は私邸を寺として仏像を拝み始めますが、 後、疫病が流行ると、 外国から来た神(仏)を拝んだので、 その前に信仰をしていた国津神の怒りを買ったのだ、と、 寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てます。 あはは~! なんということでしょうか! 自分が手を合わせて拝んでいたものを捨てる! なんて、、、 大した信仰心までを持ち合わせていなかったのでしょう。 まず、仏と云うものが分かっていなかったのです。 ほほっ。 その後、 仏教の可否を巡る争いは、 31代・用明天皇の後継者を巡る争いで 物部守屋が滅ぼされるまで続きます。 近年、物部氏の本拠であった河内の居住跡から、 氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見されたりして、 物部氏も仏教を私的に信仰していたと云う可能性が高まっており、 同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られています。 結局のところ、 崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・否受容を争ったというよりは、 仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの 意見の相違であったとする説や、 本質は朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いとする説も出ており、 従来の通説に疑問が投げかけられています。 蘇我・物部両氏の対立の後、 587年、蘇我氏が支援した推古天皇が即位して、 曽我馬子によって本格的な伽藍を備えた 半官的な氏寺・飛鳥寺、四天王寺・法隆寺が建立され、 仏教的道徳観に基づいた政治を行ったとされます。 が、 この時期において仏教を信奉したのは、 朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、 仏教が国民的な宗教になったとは言い難い状態でしょう。 その後、時代は、 蘇我入鹿を暗殺して、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から 天皇中心の政治へ転換しようと乙巳の変 (いっしのへん)『大化の改新』を 行った藤原鎌足、中大兄皇子の時代へ大きく変わります。 645年です。 中大兄皇子こそが、今回の記事の天武天皇の兄、 668年即位をした38代・天智天皇になります。 中大兄皇子は、父、34代・舒明天皇と、 母、★35代・皇極天皇(重祚して、★37代・斉明天皇)との間の 第二皇子です。 (文中の、★は女性のしるしです。) 男の運命の舞台は、 社会での欲望の達成、権力欲の達成かもしれませんが、 その根となる運命の源は、その人の家族、一族のありさまに見れます。 次に、 簡単に天智天皇の身近な家族との関係を、一部挙げておきます。 天智天皇から平城京の奈良時代が始まります。 大化の改新より23年後の即位というのは、いろいろ問題があっての事、 天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説があります。 中大兄皇子であった当時の出来事ですが、 孝徳天皇の正妃・間人皇女(天智の同母妹)との不倫関係を示唆します。 最初の結婚は、鏡王の娘とでしたが、 その後、鏡女王を中臣鎌足に娶らせたのですが、 この時すでに、鏡女王は懐妊していましたから、 中臣鎌足の息子、藤原不比等は中大兄皇子の子供という説もあります。 また、その頃、弟・大海人皇子と結婚していた額田王(鏡女王の妹)を 離婚させて、自分の元へ嫁がせる。 という様な事もしています。 こうして、天智天皇は14人の子どもを残した事になっていますが、 そのうち娘は10人、 その中から5人の娘を弟の天武天皇へ妻として与えています。 これだけの娘を弟へ娶らせたと云うのは、 同母兄弟と云う関係でなかったとも考えられます。 天武天皇へ与えた娘のうち大田皇女は、天武天皇の正妃で、 蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘が産んだ娘です。 大田皇女(伊勢斎宮となった大来皇女、大津皇子の母)は、 大津皇子を生んだ2年後に亡くなっています。 幼い時、 父(当時、中大兄皇子)と藤原鎌足の陰謀に拠るとされる密告で、 孝徳天皇の兵が、 謀反の咎で祖父(蘇我倉山田石川麻呂)へ差し向けられ、 その時、 祖父(蘇我倉山田石川麻呂)は、山田寺で自害をしてしまいます。 その心労で母を失い、長女として幼い2人の妹弟を守らなくてはいけない 心労から大田皇女は短い一生を終えたのかも知れません。 大田皇女がこんなに早く亡くなる事がなければ、 妹の鵜野讃良皇女(後の持統天皇)が、 天武天皇の皇后になる事はなかったでしょう。 そうすれば、持統天皇も有り得なかったのはないでしょうか? 歴史は大きく変わっていたはずです。 おそらくこの頃は、 国内的には、曽我氏が天皇家を脅かす程の権力を握り、 まず、その排除をする必要性もあったでしょうが、 なにしろ屈辱的な朝貢貿易の時代に、 隋や唐から受ける文化的刺激で成長をしていた我が国は、 朝貢貿易の宗主国である中国に、 野蛮な文化的に劣った国として扱われたくなかったのです。 そして、またいつまでも従属の関係の外交関係でいたくなかった。 文化や軍事や経済等、あらゆる面で、 中国から後進国扱いの外交関係を脱したかっのです。 その為には、天皇中心の中央集権国家としての建て直し、 隋や唐という国家と同じように、律令(法律)による政治を行う。 仏教をその精神支柱として、国の文化とする事を真似るのに急務だった。 仏教を、精神面における宗教的な受容というよりも、 隋や唐といった、アジアの先進国と文化や政治のレベルで肩を並べ、 国としてのお体裁を整える為の道具として、 仏教を必死に受け入れる。 という動機が大きかったはずです。 仏教に、「日本の国際的地位の向上」という目的が課せられていた。 要は、中国の姿、形、宗教を借りて来て、真似て、 対等な国としての格好をつけたかった。 そういうエネルギーと藤原鎌足というブレーンによって、 天智天皇が押し上げられたのではないか。 渡来人や朝貢貿易によって中国の思想や知識を吸収し、 呪術政治を律令政治へ転換をし、うまく“脱皮”に成功をした。 日本は、新しい船出をしたと言えるのでしょう。 運命学において、 婚外の男女関係の乱れは、いわゆる現代の不倫ですか、 家系の運気レベルをひどく押し下げてしまいます。 いくら政略結婚ばかりの時代であっても、そうです。 夫婦である相手に、恨みと悲しみを与え不幸にするからです。 不貞に限らず、不道徳な事は、陰徳が消えて行くのですね。 『天』の秩序に反するからです。 その一番現れる処が、子供、子孫です。 思うようになりません。不如意です。 いかに権力を掌中にし、巨万の富を蓄えた人間にとっても 頼りにしていた子供が、倒れる、夭折する、当てが外れます。 引継ぎが上手く行えません。ひどく不道徳なら、すぐに子供に、 大抵の場合は、3~4代目に時を経て現れます。 究極の現象としたら家系的には、家系を継ぐ者が途絶えるようです。 それは、つまりお墓の祭祀の継承者がいなくなる... それは、つまり、自分を弔う者がいなくなる...のです。 なぁんだ、そんなこと、どうでもいいよ~! ですか? あはは。 今は、個人の、しかも、刹那的な欲望の満足だけが”しあわせ”だと、 自分のしたい事をする事が、”しあわせ”だと、 あらゆる方向から思わさせられている世の中です。 先祖が残してくれた陰徳のおかげで、なんとかやっていますが、 私達が、なぁんだ、そんなこと、どうでもいいよ~! で済ましてしまうと、未来は? そう、 死は、nothingではありませんから、、、 無ではありません。 そして、 何の理屈よりも、 夫婦が仲が良いのが家運の為にも、自分の為にも一番良いのですよ! (笑い) 次回は、大化の改新から、壬申の乱までの内政と、 朝貢貿易の詳しい状況から見る屈辱的な中国との外交的な関係。 できれば、( 無理かもしれませんが、、、 ) 聖武天皇と光明皇后の運命を、生み出した二人の女性を 探ってみたいと思います。 聖武天皇側は、父方の曾祖母になる持統天皇。 光明皇后側は、その母、橘三千代(たちばなのみちよ)です。 時代の裏には、女あり! あは~! 乞う、ご期待!~! 今日は日曜日ですね。 素敵な一日でありますように・・・ 世界の不思議が、 みなさまの心満たしてくれますように・・・・・ -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2010
10/29 11:13 |
朝貢貿易 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その3Category : 運命学と歴史
![]() 那須高原からの帰路、 西那須野ICへ向かう道路上 雨なのに青い空 前回のつづき、 前回予告をしました、『大化の改新』から『壬申の乱』、 余裕があれば、 聖武天皇と光明皇后の運命を、生み出した二人の女性を、 取り上げてみたいと思っています。 聖武天皇側は、父方の曾祖母になる持統天皇と、 光明皇后側は、その母、橘三千代(たちばなのみちよ)です。 ちょっと欲張りすぎたかな、 と反省をしています。 あはは。 今日の記事が長すぎるようなら、次回へ廻しますのでご了承を.....。 『大化の改新』を行った藤原鎌足、中大兄皇子の時代 すなわち、天智天皇の御世になった処からでしたね。 歴史上の人物は、誰でもそうですが、 私的な家庭生活や家族関係、生活面を見る方が、 作られた公的な業績よりも、その人となりの実像が見えてきます。 なぜなら、力がある人物なら公的な業績は、いくらでも、 作為的に作り上げられます。 まさに、『日本書紀』や『古事記』のように、 それが天智天皇の死後、権力を奪った天武天皇の思惑から出て作られた 文献においては、権力者の都合の好い様にいくらでも書く事が出来ます。 そういう意味で、残った歴史とは“勝者”の側の記録なのです。 その記録を金科玉条のように正史であると肯定をするという事は、 なんとアホラシイ事でしょう。 一つの視点には違いありませんが、、、 本当の歴史とは、残された文献や、歴史記念物から、又は、 同時代の交渉相手である外国の歴史上に残された文献と突き合わせると 言う作業をしながら、いかに真実に迫るかという点を忘れられたら、 それは、もう母国の歴史であっても魅力を感じなくなります。 当然いろんな視点があっていいのだと思いますが、 国民が知りたくなる歴史、 知ることに依って、国を尊ぼうとする気概が生まれる歴史、 その国の人間として生まれて良かったという感謝が芽生える歴史、 であって欲しいですね~~。 特に、最高権力者を見る時には、 その人物が、相手の女性をどう扱ったか? 扱うか? あはは~! “ 愛していた”とか、“ 大切にしなかった”とかの、 一言で片付けられるようなものではありませんよ。 女性の側から見ると言う側面だけではなくて、 これは、その人が、自分の財産をどう扱ったか? 扱う人か? を知るのに役に立ちます。 これは、非常に大事です。 ご参考になさってください。 天智天皇に関しましては、後、『壬申の乱』についての記事の時に、 また、詳しく書くつもりですが、、、 特に、当時の天皇家は、 現在の象徴天皇制のように民主主義で国会に管理された?収入だけで はなくて、すべての事に実権を持つ、まさに日本国の最強権力者です。 当然多くの利権なども一手に握っていたでしょう。 また、利権においては豪族との駆け引きも絡んできます。 天皇の近くに上がれる采女は、各地方の豪族の娘たちでした。 天皇が相手にする女性も、利権の一部、財の一部と見てよいでしょう。 女も財も使い放題、自己の思うがままに、です。 (笑い) その相手となった女性は、どうだったのかと言うと、 女性が、まるで心のない物のように扱われるこういう状態は、 一つは、いつも言います正しい宇宙観、自然観、人間観、生命観、 それらから来る道徳観、人生観、そこから生まれる結婚観、家庭観、が、 社会の中に形成されていない状態のなかで生きているわけですから。 あったとしても、非常に低いシャーマニズム【shamanism】、 アニミズム【animism】の範疇における未分化な社会です。 だから、今の女性が思うほど、彼女たちは不幸と思っていなかった。 それが当たり前と受け入れていた。 はずです。 そういう未分化な社会を、それをいち早く脱したのが、インドの仏教です。 いわゆる森羅万象の奥に、因果の理法 (すべての物は原因・結果によって起こっている)を見出したのです。 それまでの時代の人類は、森羅万象の現象の表面だけを見て、 それが何故起こるのか? 説明できないレベルだったので、 その現象そのものに神の存在を見出すしかなかったのです。 火事のおかげが “火の神”、洪水になれば “水の神の祟り”です。 いわゆる、当時の人の意識レベルで捉えられない範囲は、 無意識の世界の言葉で括るしかなかったのです。 いわゆる幼子が、すべての良し悪しを母親の言動に由るのと似ています。 結果の原因を皮相的なレベルに求めるしかない観点の低さ、甘さです。 よく言う、“社会が悪い”、夫が浮気をしたら“夫が悪い”と、 すぐに相手に原因を求める、そして攻める。 そういう自己中心性を脱していない認識の低さに通じるものです。 人類は、そこから脱した者が勝ちなのです。 国も、個人もそうです。 だから相手よりも優れた宇宙観、自然観、人間観、生命観、 それらから来る道徳観を持った方が、価値であり、勝ちます。 根源は、宇宙観(天の道)、自然観(地の理)、 それに調和した人間観(人の紀)です。 この三つです。 今日は、日本の奈良~平安時代、 中国と行った朝貢(ちょうこう)貿易の遣隋使、遣唐使派遣について、 考えて見ましょう。 なぜ、中国とそういう形になったのか? そうしなければならなかったのか? そういう運命に陥った原因は、何だったのか? それは、当時の中国と、倭国・わが国との 宇宙観(天の道)、自然観(地の理)、人間観(人の紀)の違いです。 違いというよりも、圧倒的に高い思想体系が中国にはあったからです。 それらが生まれる素因の一つに、地勢的な条件もあげられるでしょう。 それは、又、別の機会に。 広い、周りをすべて包含する位の世界観を持っている国に対して、 何の世界観も持たない国は、その中に組み入れられてしまうという 現実というものがあった。 今もあるという事です。 経済力が、すべての源のように現在の世界は、動いています。 それは、違います。 それは一つの現象にしか過ぎません。 そう見せている? その方が本当に支配をしようとする人間には、 支配をするという意志を見られないで済む。 隠れる事ができる。そういう理由からでしょうね。 世界は、見て、感じて、それだけの奥行きではありません。 見えない世界の方が、正も悪も、膨大に広いのです。 経済の勝負の前に、 その奥の目で見えない世界の勝負が着いているという事を その事を、確認したいと思います。 時代を遣隋使の頃へ元に戻します。 朝貢貿易の詳しい状況を通して、 外交的な中国との関係において、思想に負けるという事は、 抜き差しならない本質的な従属関係に陥るという事、 それを見て行こうと思います。 残念ながら、我が国は、大和政権成立の当時から、 この東アジアにおいて、先進国ではなかった。 呪術を用いた政治を行い、法律を用いた政治ではなかった。 片や、中国においては四大文明のひとつである黄河文明を経て、 独自の死生観、宇宙観、自然観を持っていた。 文字も、暦も、天文学も、土木技術も、勝れていた。 きっと、その頃、倭の国といったわが国の人々は、 中国の文物へ憧れ、知った事象を、そのまま受け入れていたのでしょう。 大陸の中国が、すべての流れの川上であり、源流だった。 そういう関係に違いなかったはずです。 そういう関係とは、 今も変わらないある国に対する外交における日本の位置に似ています。 それらについて、先へ進みます。 今の日本の現実に至る遠因を深く知る上でも参考になるかもしれません。 日本の奈良~平安時代、 中国では隋・唐の頃、仏教の信仰や研究が盛んになっていました。 当時は、朝貢(ちょうこう)貿易の遣隋使、遣唐使派遣が盛んでした。 朝貢貿易というのは、学校で習ったのは、 中国の皇帝に貢物をする貿易だ、という内容だったはずです。 しかし、実際の詳しい実態は語られていませんね。 それは、おそらく、、、 中国に対しての立場が、日本にとって屈辱的な立場だったからか、 朝貢貿易と言うのは、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態で、 中国の皇帝に対して周辺国(属国)の君主が貢物を捧げ、 これに対して中国の皇帝側が恩賜を与える、 という形式で成立した貿易の事です。 中国古代史で 『 中華帝国冊封(さくほう)体制論 』を唱えた、 東京大学名誉教授、中国史学者西嶋 定生(にしじま さだお)氏が、 この関係を『冊封体制』という概念で説明をされ、(冊封・さくほう) 「六-八世紀の東アジア」(1962年)にて、 「東アジア世界」という「その中で完結した世界」があったと言う事を、 その存在を提唱しています。 『冊封体制』とは、 冊封によって作られる中国を中心とした国際関係秩序の事です。 冊封とは、中国の「天子」皇帝と、と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、 名目的な君臣関係をともなう外交関係の一種です。 簡単に言うと、(宗主国)と(属国)の関係での外交関係で行う貿易です。 そう、中国は古代においても、自前の国際関係秩序を持っていたのです。 それはどういうものか? その背景には、「天子」と「皇帝」の言葉の使い分けがあります。 まず、「天子」とは、 「天命を受けて自国一国・中国だけでなく近隣の諸国諸民族を支配・ 教化する使命を帯びた君主」の事を言い、国外へ向けての呼称です。 「皇帝」とは、中国国内での呼び名です。 まったく感心をしてしまうのですが、 初めから近隣諸国を支配しようとする戦略があったのですね。 この戦略が生まれた背景には、 中国側の「華夷思想」・「王化思想」が根底にあります。 「華夷(かい)思想」とは中国に住む者を文化の高い華とし、 周辺部に住む者を礼を知らない夷狄(いてき)と蔑み、 峻別する思想の事です。 夷狄とは、中国から見て未開の民や外国人、野蛮な民族の事を言い、 東夷(とうい) - 日本・朝鮮などの東方の国 、人 西戎(せいじゅう) - いわゆる西域と呼ばれた国、 北狄(ほくてき) - 匈奴・鮮卑・契丹・蒙古などの北方の国 、人 南蛮(なんばん) - 東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋の国、人 これらの言葉は、今では死語になっていると思っていたのですが、 学術的には使われ続けているそうです。 え! 「王化思想」とは東西南北の夷狄(野蛮な敵)であっても、 中国皇帝の徳を慕い、中国皇帝への礼を受け入れるならば、 華の一員となることが出来る、してあげる。と言う思想です。 夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば 冊封国=属国になれたわけです! (喜んでいいのか? 苦しんでいいのか? トホホ、、、) 冊封とは、天子が、臣下や諸侯に冊をもって 爵位や称号・任命書・印章などを授けます。 つまり、 冊封を受けた属国の君主側は、 王や侯と言った中国の爵位や称号、印を授かり、 その授受を媒介として、中国皇帝と君臣関係を結ぶ事です。 (要は、名誉を与えて柵の中に囲い込んでしまうのか?) あぁ、だから江戸時代でも、毛利のお殿様などが『日本国の王の印』と いう印を持っているのですね。 あれは、中国から貰ったのかしら? 冊封関係を中国と結んで、『冊封体制』の中に入るメリットとは、 一つ目は、夷狄である周辺国が、冊封のおかげで中華の一員となれる。 二つ目は、他国の攻撃を受けた時は中国の救援を求める事が出来る。 三つ目は、中国からの軍事的圧力を回避できる。 四つ目は、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築ける。 五つ目は、当時朝貢しない外国との貿易を原則認めなかった中国との 貿易で莫大な利益を生むことが出来る。 (なんだか、似たような関係が、今もあるわね~) 「属国」の側の義務は、 一つ目は「臣・けらい」の立場で「方物・土地の産物」を ≪元旦に献上≫しなければならなかった。 ≪この事≫が朝貢で、これを行う使節を「朝貢使」と呼んだ。 朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通って指定され た「方物」を「天子」に献上し、天子の徳をたたえる文章を提出した。 二つ目は、「天子」の元号と天子の制定した暦を使用する義務があった。 三つ目は、中国から出兵を命令されることもある。 また、宗主国と同じ文字(漢字)、暦も使うようになっていたそうです。 これらの冊封国=属国の君主(天皇)は、 東アジアという冊封された領域内で 基本的に自治あるいは自立を認められていて、 冊封国(日本)がそのまま中国の領土となったと言う意味ではない。 冊封国=属国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、 中国皇帝とは関係を持たないので、 この意味で冊封関係は外交関係での支配であり、 中華帝国を中心にした外交関係の秩序を形成維持する為のものでした。 つまり、貢ぎ、貢がれる、属国、宗主国にとって、 それぞれの国益を謀った駆け引きがあったのです。 宗主国側(中国)の宮中では、 毎年の元旦の「元会儀礼」において朝貢物は展示され、 「天子」の徳の高さと広がりを示し、 献上国の「天子」に対する政治的従属を誇示したそうです。 朝貢の数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのであり、 内外に向けて現政権の正統性を示すためには、 中国の政権は朝貢で得た物以上のコストを払ってでも朝貢を 歓迎したのです。 と言うのは、朝貢には回賜という”お返し”があり、 貢物に対して数倍の価値ある回賜をする事が原則でした。 それが属国である朝貢国にとっては利益になったわけで、 朝貢使節団に対しても多額の褒賞金が与えられると云う ならわしががあったのですね。 その為に冊封を受けていない(属国ではない)国でも 朝貢自体は行うことが出来たので、朝貢を行う国があったそうです。 同じ漢字文化圏である冊封国である属国にとっての朝貢は、 そういう経済的な利益だけではなくて、 書物、情報、知識など、社会・文化的な得点もあって、 貢がされている?割りにそろばん勘定が合うものでした。 また、中国側にとっても、 周辺諸国と敵対関係になって戦争の為の軍事支出を行うよりも、 朝貢を受けて回賜を与えたほうが安上がりであるという現実もあり、 その地方との紛争を避けるという実利的な成果と、逆に周辺諸国 を討伐しようと戦争を仕掛け支配下に置いたとしても、 資源のない生産性の低い地域を支配領域に広げるだけであり、 税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る事になると いう計算の上で、朝貢自体が、中国政権にとって、 外交関係で支配でき安全上も優れた保障システムだったのです。 とにかく、こういう中国に対して、倭国が朝貢までした目的は、 海外の情報や中国の先進的な文物、仏教や儒教の経典等の収集です。 なんとなく、日○安保条約の中身と似ているでしょう? 今も昔も変わらぬ大国と小国の関係なのですね~ (笑い) ついでに逆に、日本が貢がれた例を、 日本は、7~10Cに朝鮮半島北から今のロシアにかけて出来た渤海国 から朝貢を受け入れましたが、 当時の我が国の国力では、毎年の朝貢に対する回賜を行う能力は無く、 朝貢の回数を12年に1回でいいと制限をしたそうです。 あらあら! 、、、 やはり、国力がないと貢がれる事も、無理だったようです。 遣唐使の最後の頃から、日本は、この冊封から外れていくのですが、 清代にはインド以東の国では、 ムガール帝国と日本を除いて他の国々は中国の冊封を受けていました。 当時の倭国と、当時の隋が、どういう関係だったのか? 『日本書紀』と、『隋書』を読み比べてみると、おもしろいのです。 推古天皇8年にあたる、600年 に第1回遣隋使を派遣していますが、 『日本書紀』に、その記載はなく、(なぜないのか?) 『隋書』にある記載です。 隋の高祖文帝が、遣隋使の使者に対して倭国の風俗を尋ねます。 それに対する遣隋使の使者の答えが、高祖からみると、 倭国の政治のあり方が道理に反したものに思えたのであろう納得できな かったようで、そこで、倭国の政治を改めるようにと、 使者に対して訓令したというのがあります。 (要は、政治のやり方にまで、指示を受けていた?) もうひとつは、 607年、聖徳太子が小野妹子を派遣した第2遣隋使の時です。 あの有名な「 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という あれです。 私の記憶では、聖徳太子が隋の皇帝に対して対等な書き方をしている、 それ程、聖徳太子という人は優れていたという様な話を 学校の授業で習ったと覚えています。 しかし、『隋書』にある記載では、 隋の皇帝煬帝(ようてい)は、倭国の王からの国書に、 “日出ずる処の天子”と倭国の王が自称しているのを見て立腹し、 外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に 「蕃夷(ばんい)の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と命じたと、 あります。 無礼な野蛮なやからの書は、今後自分に見せるな、と。 隋に従属している倭国の王が、 自分の事を天子と名乗るとは持ってのである! 思い上がるのも甚だしい!!二度と聞きたくもない!! と そう、立腹したという事です。 これには、続きがあります。 この時に小野妹子が持参したのは、 聖徳太子から隋の皇帝煬帝へ当てた「国書」です。 この返事は、外交儀礼では、帰国の時に持たされるのは煬帝からの 「返書」であるべきです。 しかし、この時に小野妹子へ持たされたのは、 倭国を臣下扱いする「訓令書」でした。 小野妹子は、これを天皇に見せて、天皇の怒りを買う事を恐れた為に、 妹子がその返書を破棄してしまった。 というのは、 妹子が「返書を掠取された」という大失態を犯した様に取り繕い、 大芝居をして、聖徳太子、推古天皇などとも合意した上で、 返書を掠取された事にした!? 「訓令書」しか貰えなかった事を隠した!?と 推察される事件もあったような記述が日本書紀にあります。 あは! マンガ、、、(笑い) それ位に、弱いと云う事は、苦しい立場だった、、、。 我が国は、威信を守りたかったのです。 小野妹子の返書紛失事件は『日本書紀』にはありますが、 当然ですが、『隋書』に記載はありません。 これらの事から、隋と倭国の関係がどういったものだったか? 訓示した、、、無礼な蕃夷、、、訓令書ですから、ね。 対中国に対しては、今も昔も変わらない? あはは。 王の位は、皇帝の下になります。 隋が滅ぶ618年(推古26年)まで、5回の遣隋使が行われています。 12年後に始まった遣唐使は最後の838年まで、 約200年間に渡っています。 唐の皇帝から、”その道の遠きを矜(あわれ)み、”と、 遠い所からだから毎年来なくてもいい、 20年に一回の朝貢でいいと許されて、 その間に、12~20回の諸説がありますが、遣唐使を派遣しています。 その間、派遣を命じられた者が、病と称して行かずに流罪になったのと か、あらゆる海難事故に遭ってたくさんの方が亡くなっています。 朝貢とは、元旦の朝に皇帝に貢物を持って伺うという事ですから、 12月中に都に着かなければならなかったのです。 そう、冬の海の荒れる時の航海をしなければいけなかったのです。 その当時の人たちの苦労が忍ばれます。そういう人々の犠牲の上に、 今の日本があるのだと思うと感謝をせずにはいられませんね。 「旧唐書」に記載されているのは、日本の遣唐使使節団が、朝貢の礼に 唐の皇帝から下賜された文物を、長安の都で全て売り払って、 代わりに膨大な書物を買い込んで帰ったと言う話が載っています。 どれだけ日本が中国の知識を求めていたかが分かりますね。 素直な日本人は、自国の知識や文物が劣っているから、 中国に引け目を感じないといけないのだと思ったのでしょう。 そして負けたくなかった。 国の為に必死に学ぼうと努力をした。その姿が目に浮かぶようです。 しかし、知識を学ぶ、身につける、真面目にそれだけをすれば、 外交関係とは対等に行くものでしょうか? 自国の国益第一の頭のいい相手は、いろいろな理由をつけて 自分を上位へ以っていくはずです。 この外交における力の違いは、何処から生じるのでしょうか? 一つは、確固とした世界観を持っているかどうか? そこから来る対外戦略があるかどうか? これらは、物で作るものではないのです。 物を所有する事でもない。外貨を貯めることでもない。 価値ある者や物が集まってくる思想を持つ事です。 それは、目に見えない所の戦略。その戦略を生む見えない理念です。 理念も戦略も持っていない国は、今も昔も同じです。 いつも周りを見てウロウロするしかないのです。 ウロウロすると言えば、 築地市場、 世界の人口が70億人へと近づく中、食料の需要の増加は加速してい ます。経済成長によって所得が増えたBRICs4カ国も、 食料においては輸出を減らす一方、輸入量は拡大しているそうです。 東京・築地市場の2010年1月の初セリでは、香港と日本で店舗展開する 「板前寿司」が3年連続の最高値でクロマグロを落札した。 今年の最高値は重さ232kgのマグロで、1本1628万円という値段は、 2001年の2020万円に次ぐ記録だ。板前寿司を経営するリッキー・ チェン氏は「香港の人もおいしいマグロを求めている」と話す。 2010年の初セリにはマカオで高級日本料理店を経営するフューチャーブ ライトグループも初参加し、築地市場でもアジアの勢いは増すばかりだ。 もちろん日本も新興国などの買いに応戦すればいいのだが、 高値で買い付けても低価格志向の強い店頭で価格に転嫁できず、 国際市場で買い負けてしまう。 デフレの日本を素通りし、富裕層の多い上海など中国の沿岸部へ向かう。 (日経電子版 食料ウォーズ より引用) いくら一流企業が業績で海外で勝ったとしても、 国内の労働者の所得が伸びないと購買力は出てこないのです。 その為に、お魚大国だった日本において、高級魚が海外へ全てさらわれ て行ってしまうという悲しい現実です。 指をくわえて、それを見ているしかないのでしょうか? わが国においては、 真の高度な精神文明を培っていかなければ、、、。 祈るような気持ちです。 。。 週末が巡って来ました。 よき休日をお過ごしください。 長い記事を最後までお読みくださって、感謝です! 参照: 「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」 川本芳昭著、九州大学 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |