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壬申の乱 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その4Category : 運命学と歴史
![]() 那須高原・秋 『大化の改新』を行った 藤原鎌足、中大兄皇子の時代になったところからでした。 次のエポックは、壬申の乱です。 今日は、運命学的に観た簡単な天智天皇論から始めましょう。 この中から、少しでも運命学の片鱗が皆様のお役に立ちますように、、、。 えらい天皇さまの事を、こんなに簡単に記事にしていいの? どうだこうだと言っていいのかしら? ほほ。 私ごとき人間が、過ぎた振る舞いのように思いますが、 そこは、どうかご容赦いただきますように、、、、、、 失礼がありましたら、どうかお許しくださいませ。 天智天皇は、政治面の業績を見る限り、 非常に進取性に富んだ男らしい人であったようです。 大化の改新を成し遂げる位の人ですから、決断力のある人物でしょう。 自分の思っている事を、果敢に実行をして行く力があったはずです。 しかし、その裏側に見えるのは、 過去からある物をそのまま守って引き継ぐ運勢ではありません。 女性関係を見ていると分かるのですが、 何事もドライに考えて即物的な思考をし、クールな対応をする。 あらゆる過去を合理的に整理、捨てる事ができる初代運の運勢です。 財が集まって来る運ですから、 権益や女性が雲集して来たはずです。 ( うらやましいですか~?) しかし、運命にも得手があれば、不得手があるのですよ。 自分が成功する運の人は、自分の子供が後を継ぐ運に恵まれません。 跡継ぎ運がないのです。 あはは~今日は、頭から男女不平等のような記事です。 現代だって、有名なスポーツ選手、あの人も、この人も、 芸術活動をしているあの人も、この人も、、、 一人自分の世界を作り上げて成功をおさめたという方は、 子供がいない。いるとしても女児だけだったり。 男児が生まれても母親の世界だけで大きくなっている。 その子が将来結婚もせず、孫ができない。 孫がいたとしても又、女の孫。そういう方が多いですね? 一代だけが栄える運です。 伝える事ができません。 また、男児、女児には、深い意味があります。 自然の摂理から言うと、植物においてもですが、 花や実を、大輪を咲かした場合は、良い種が取れないのです。 大根だって、実る時に栄養を与えて大きくしたら、 良い種が取れない。 逆に優秀な種を取ろうとすれば、栄養を制限して、飢餓状態にし、 実を大きく実らせないようにするのだそうです。 ご存知でしたか? 人間も、同じ摂理の中に生かされているのですよ。 ( えっ! 花も実も種も両方ほしい~? それには、運命学を勉強してくださいね。) 既存の過去を必要としない、あれば反ってそれらを壊して、 ゼロ・0からの出発ができる。そういう力を発揮する人は、 つまり、守りはできない。攻めのタイプです。 攻撃は得意です。けんかをすれば負けるはずがない。 また、孤独にも強い、というより孤独である方が持てる力を出し切れる、 王たるに相応しい頭脳も肉体も、恵まれた人。 天智天皇とは、そういう人だったはずです。 負けん気の強い、自負心の大盛な男らしい性格の中大兄皇子、 その性格に取ったら、倭国の置かれている状況は、 対外的には、『 中華帝国冊封(さくほう)体制 』)の外交関係のなかです。 (東京大学名誉教授、中国史学者西嶋 定生氏が提唱) わが倭国を何とか強くしたい、 そういう男気に溢れていたはずです。 だから、『大化の改新』を成し遂げられたのです。 歴史を変えるのは“人”です。 権力者の人間的資質、性格の力に負う処が、大なのです。 制度や、法律は、その後です。 天智天皇という人格のおかげで、 倭国は呪術の政治から律令の政治へ脱皮を果たした訳です。 しかし、天皇と言えども為す事は完全ではありません。 いくら天皇だからといっても、変革への理解ばかりだけではなかった。 まわりから相当な反感を買ったはずです。 具体的には、 いわゆる大化の改新までに既得権益を持っていた豪族からの反発です。 得をする側がいれば、それによって損をする側が生まれるわけです。 倭国の中央政府にとったら、良い改革でも、 倭国の見えない部分=特に地方=に そういう不満が鬱積していたはずです。 しかし、天智天皇は運も自我意識も強すぎて、弱さを感じられない。 他人の弱さに無頓着なドライな性格だったに違いありません。 次に起こる『壬申の乱』のエネルギーを思えば、 『大化の改新』の後、中央政府に対する不満が鬱積していたに違いないと 思わざるを得ないのです。 ほころびは、天智天皇が病気に伏せられた時期から始まります。 権力者が強すぎる人の場合、逆らっても勝てない相手の場合、 不満分子は、権力者が病気などで弱まるのを待っているものです。。 天智天皇が崩御される二年前に、 重臣の中でも最も重要な人物、中臣鎌足が56歳で亡くなっています。 その時、 天智天皇は今までの鎌足の功績を讃えて大織冠と大臣の位を授け 「藤原」という姓を贈りました。これ以降藤原という姓名が誕生します。 もしか? 中臣鎌足がもう少し生きていたら、どうなっていたのか? 『壬申の乱』のエネルギーをうまく分散させる事ができたのか? ここで、これからの人間関係を整理しておきます。(39・=39代天皇の事 ) 39・天智天皇(中大兄皇子)と、40・天武天皇(大海人皇子)は、一応 同母兄弟と言われています。 40・天武天皇(大海人皇子)の妻(41・持統天皇)は天智天皇の娘です。 40・天武天皇と、その妻・41・持統天皇は、叔父と姪の間柄になります。 大友皇子(のちの40代・弘文天皇)は天智天皇の第一皇子ですから、 天武天皇の妻(41・持統天皇)とは、異母姉弟になります。 非常に、近い親族関係同士です。 系図をどうぞ! 天武天皇の妻・鵜野讃良皇女(後の41・持統天皇)は、 正妃であった大田皇女の妹で、 天智天皇が皇太子にした大友皇子とは、異母姉弟になります。 興味深い話題があります。 一つは、天武天皇は、天智天皇と同母兄弟であるとしていますが、 他の説では斉明天皇(皇極天皇)が舒明天皇と結婚する前に 一緒になっていた高向王(用明天皇の孫)との間に生まれた漢皇子が 大海人皇子(天武天皇)という説があります。 それは天武天皇が天智天皇よりも年上であるという説から出ており、 一方では漢皇子は天智天皇という説もあります。 『壬申の乱』と言えば672年に起きた ポスト天智をめぐる皇位継承権を争った日本古代最大の内乱ですが、 いまだに、『壬申の乱の原因論争』と題する古代史論争が、 特に大海人皇子決起の根拠、決起の正当性などが、 十分に論じ尽くされているとは言えずに、決着が付いていません。 乱の原因は単に親族の相続争いではなく、 当時の朝鮮半島情勢(新羅、百済の争い)および、その渡来人の争いが 背景にあると言う見方もあって、多くの人が論を繰り広げています。 何故こういう騒乱が起こったのかと言うと、最大の問題点としては、 皇位継承についての確固たる制定がなされていなかったことです。 嫡子存続という原則がなかったために、当時は、 兄から弟へと譲ることが多かったのです。 今では皇太子が第一皇位継承者として定められているので、 皇位を争うような事は起こりません。当時は皇太子制自体がなかった。 皇太子の地位は、飛鳥浄御原令か大宝令で成立したもので、 軽皇子(文武天皇)か首皇子(聖武天皇)が初例です。 首皇子が皇太子の場合でも、元正女帝が即位するなど、 次期天皇としての皇太子の地位は、まだ確定していなかったからです。 日本史のこの辺りは、 この時代の人のおおらかさ、自然性を失っていない、 非常に人間くさいドラマが、いっぱい詰まっているあたりです。 ここから、『壬申の乱』へ進んでいきます。 天智天皇は、668年の即位から3年後、 671年1月5日、47歳。太政大臣を新設し、 我が子、大友皇子(24歳)を任命します。 当時は、同母兄弟間で皇位継承が行われるのが慣例でしたが、 それを無視して、 天智天皇は、弟よりも血を分けた自分の子供(大友皇子)を 後継者とする意思を周囲に表明したのです。 大海人皇子は、事実上政治面からは外されます。 671年8月、天智天皇は、病床に着き、先の長くないことを悟ります。 同、10月17日、 天智天皇は、弟の大海人皇子(41歳)を枕元に呼びます。 使いにたった蘇我臣安麻呂は「言葉に気をつけるように」と注意しました。 天智天皇は、大海人皇子に後事を託しましたが、大海人皇子は、 大友皇子を推挙し、天皇のために自らは出家を申し出ます。 大海人皇子は、 自分の家に帰って、全ての武器を天智天皇へ差し出します。 これは、疑い深い専横的な天智天皇の性格を 大海人皇子が知っていたからだと言われています。 そして、大海人皇子は、家族を伴って吉野の山へ隠棲します。 これを知った人は、「虎に翼を着けて放てり」言ったといいます。 大海人皇子が、吉野の山へ行った時の和歌が、万葉集に残っています。 み吉野の 耳我(みみが)の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し その山道を “ 思ひつつぞ来し その山道を ”という処に、当時の大海人皇子の 失望が滲み出て伝わって来るような和歌です。 ここが、人間もようですね。 兄弟で、気を使い合って?“嫁を取ったり取られたり”(笑い)しながら、 兄の天智天皇も、娘を5人も弟へやった位、仲も良かったのでしょうが、 その中に、兄の寵愛する皇子が権力構造の中へ入って来る事によって、 雲行きは、当然の事ですが、ガラガラ~っと変わったのです。 ここまでの大海人皇子の対応は、正解です。 誰か助言をする臣下でもいたのかもしれませんが、 天智天皇存命中は、自身の身の危険を察知して、吉野に隠遁します。 同、12月3日、天智天皇が崩御。 同、12月5日、(近江朝)大友皇子が即位して、弘文天皇となり 近江にあって政務をみていたとされています。 翌、672年5月、大海人皇子の舎人が、 大友皇子が天智天皇の墓を造ると言って、 美濃と尾張の国司に命じて人夫を徴発しているが、 本当は武器を持たせていると報告してきました。 6月24日、大海人皇子は、 近江朝が軍備を整えているとの情報を得て、 妻の讃良皇女(後の持統女帝)や草壁皇子・忍壁皇子、 舎人20人、女官10人を連れて、吉野を脱出し、 尾張に向かう。ここから古代最大の争乱が始まります。 6月26日、大海人皇子が伊勢の北部に入ると、 大津宮(近江朝)を脱出した長男高市皇子、大津皇子と 合流し、桑名(三重県)にいたります。 まもなく、美濃に派遣していた村国連男依が戻って来て、 「美濃の兵3000人を動員して不破の道を防いだ」ことを 報告します。 この行動を察知できなかった近江の朝廷側の動揺は大きく、 急いで東国・飛鳥古京・筑紫・吉備などの諸国に使者を遣して、 兵隊を集めようとしますが、東国への使者は、 不破の関で捕らえられました。 本格的な戦いは、 7月 7日、不破から近江平野に進出した大海人軍が、 近江朝軍を撃破したところから始まり、 7月22日、近江を守る最後の拠点、勢田橋の戦いで、 大海人が勝利し、体勢が決着します。 7月23日(近江朝)の大友皇子が自害。 大海人皇子の吉野側の勝利に終わります。 9月15日飛鳥岡本宮にもどります。 これを、壬申の乱と言います。 673年2月27日、 大海人は即位します。これが40代・天武天皇です。 以降、40・天武(673~)系統の天皇が第48・称徳天皇(~770)まで、 100年に3年足らない 97年間、天武天皇系列の時代が続きます。 その中には、天武天皇の血統を絶やさないようにと、 近親結婚やさまざまな努力をしながら、 皇后や母親が中継ぎの女帝をしながら8人の天皇での97年間です。 この皇統を眺めていると、 ヨーロッパのスペイン王国のハプスブルク家を思い出します。 (詳しくは、次回以降の記事へ ) 壬申の乱の原因とは、 天智天皇が自分の後の皇位を 弟より自分の子供に与えたかったという個人的な理由と、 天智天皇の急進的な改革によって既得権益、特権を奪われた者の 不満が爆発寸前まで溜まっていた。 そう考えられます。 その事は、 大海人皇子が吉野を出てからの畿内での動きを見てみればよく解ります。 地方の豪族が、 武器と兵士を準備をして大海人皇子の挙兵を待っていたのです。 なぜなら、そう感じる位の迅速さで兵を集めて行きますから。 壬申の乱以降は、おもいっきり天皇の神格化が作り出されます。 それには、二つの理由が考えられます。 ひとつには、 天武天皇系列の天皇の地位を、再び奪われないように強くして 置きたかった。 もうひとつには、 天皇の強権化を進め易い環境が整っていた。 なぜなら、 大海人皇子が勝利して天武天皇即位の時、その重臣になった者達は、 天智天皇時代の中・下級官僚たちでした。 まだ壬申の乱直後は近江朝廷には組織が完全に残っており、 高級官僚たちの殆どが大津に住んでいました。 天智天皇の天皇家と深い姻戚関係を持っていたわけです。 当然、乱の間は、重臣・家臣・親族なども両派に分かれて争うようになって いましたから、その反対に大海人皇子に従うものは、 その下の官僚たちだったのです。 天武天皇の新しい朝廷で、元近江朝廷の中・下級官僚だった者たちが 高級官僚になった気持ちはどんなだったか? お分かりですね~ 「雲の上に乗った!!」感じだったでしょう。 彼らをして、“われ等が天皇”を神格化するようになるのは、 至極当然だったのです。 天武天皇の皇后(後の持統天皇)は、さかんに柿本人麻呂に 天皇の賛辞の歌を作らせています。 大君は 神にし坐せば 天雲の 雷の上に いほりせるかも 柿本人麻呂はとうとう天武天皇を神様にしてしまいました。 日本一のゴマすり男?! あはは。 それにしても『万葉集』はおおらかですね。 皇族の不倫の歌を堂々と載せて、載せられた皇族も、民衆も、 それを許すおおらかさ。 その上、ごますり歌も、堂々と載せている! ごますり男を、大歌人だと! あはは。 今の感覚では、どうなのでしょうか? あはは。 この時は、まだ、天皇ではなく大君と詠んでいます。 敗れた大友皇子の皇妃は、 壬申の乱の勝者、大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女です。 自分の好いた女性との間の娘の夫と皇位を争うなんて! いくら、権力闘争とは言え、すさまじい修羅の命です! 天智天皇が我が子・大友皇子を思う人の親としての心とは、 まったく反対の心ですね。 本当に、大海人皇子の本心だったのか? この行動の裏に、野讃良皇女( 後の持統天皇)の怖~い嫉妬を感じます。 十市皇女は天武天皇と血を分けた親子ですが、 十市皇女と野讃良皇女との血はつながっていませんから。 継母による義娘の虐待なのか? 『日本書紀』には、 野讃良皇女は、壬申の乱に際して 大海人皇子と「ともに謀を定め」たと書かれています。 間違いなく乱の計画に与ったことが知られています。 彼女こそが乱の首謀者であるという説が、あるのも事実です。 今のようなマスコミがあったら、どう書かれるのでしょうね ? (笑い) いまだに大海人皇子の決起の根拠について、その正当性は?などの 論争が決着していないというのも故あるかな、です。 それを踏まえてか、天武天皇と皇后は、 679年に、6人の皇子たち(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、 ★川島皇子、★芝基皇子で、先の4人は天武の子、★は天智の子)に 互いに争わずに協力する事を誓わせたと書紀にあります。 将来における御二人の皇子・草壁皇子への譲位を 安全なものにする為に、 天智天皇との皇子たちとの争いを避けようとする両親の親心、 配慮が透けて見えます。 こうして見ると、壬申の乱の勝利は、 間違いなく自己の思いの実現。完璧なる自己実現です。 誰の自己実現でしょうか? ? 誰が望み、誰が一番満足をしたのでしょうか? 非常に巨大な『陽』の炸裂です。 『陽』は現象ですから、現象面では間違いなく勝ったのです。 意識の勝利でもあるのですが、、、 『陽』の現象の表出には、『陰』のエネルギーの消費があります。 覚えていただいていますか? 前のブログ記事に載せた、 家を新築した後に、必ずそこの誰かが亡くなるという不幸な出来事が 惹起するというコメントです。 では、天武天皇の為した業の後に来る不幸とは? 何か? 大海人皇子が天武天皇となって、 その威光が弥栄えてほしいと願ったはずです。 わが子孫が、永遠に栄える、そういう夢を見たでしょう。 果たしてそういう夢は、叶うのでしょうか? 打ち滅ぼされて没落をした天智天皇の直系の人々は? もう、天皇の地位をあきらめてしまったでしょうか? この先どうなったのでしょうか? 「天智天皇は、わが子大友皇子に皇位を継がせたかった」と 日本書紀は伝えています。 しかし、如何に天智天皇の強い性格と強権を以ってしても 死ぬまでにそれが叶えられる環境を、整える事はできなかったのです。 先に、天智天皇に跡継ぎ運がないと言いました。 太閤秀吉・豊臣秀吉も同じです。 人から譲り受けた訳ではない、自分で奪い取った権力を、 わが子へ継がせたかったにも拘らず 五奉行へ託さざるを得なかった状況、 最後まで安心できなかった死期の到来、 天下を完全に押さえた我が子のたくましい姿を見れなかった親心。 どんな権力者であろうと、自分の運を子供へは譲れないのです。 運は、別です。 運自体は、我々の意識外にあり、 『陰』の本体・高大な無意識の領域のエネルギーに、 因っているからです....。 権力は『天の道』に因るのです。 権力などより、幾千萬億倍も『天の道』の方が凌駕します、 『天の道』の方が、そもそも本体なのです。 『天の道』が燃える“太陽”本体なら、権力はそのコロナの一部なのです。 なにしろ『時』を以って、すべてのいい気になった権力を剥ぎ取り、 絶頂にある権力者を100年も経たない内に丸裸にします。 権力者が浮き沈むのも、 すべて『天の道』が刻む『時』のリズムのせいです。 権力という現象は、時に由り興り、時に由り廃れます。 嘘はいずれ暴かれ、贋物はいずれ壊れていきます。 我々人間も、その範疇の中に居ます。 最後に残るのは、自然、天と地のみ。 それこそがあらゆる生命を生じ育んできた『陰』の本体なのです。 『陽』の現象として、政治的には、 国家として、より強力な中央集権体制が築かれた。となっています。 いよいよ次は、聖武天皇の祖母、持統天皇が中心です。 聖武天皇の皇后・光明皇后の、その母、橘美千代は、そのあとで、、、 今日も、長い記事にお付き合いくださいまして、 感謝です! みなさまの心が、世界の不思議で満たされますように! よき日、 よき夜を、 お過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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11/08 22:42 |
女帝1 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その5Category : 運命学と歴史
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テンプレートを変えてみました。右上の Titie list から全記事のリストが出せます。 ![]() 秋いろの葉 春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山 持統天皇の作られた、万葉集と百人一首の有名な歌です。 非常に、季節感のある色彩的に鋭い感受性を感じるお歌です。 おおらかな大自然と一体となった息使いが、みなぎっています。 非常に鮮烈な言葉使いができる方だったのでしょうね。 頭の優秀な、自己表現のお出来になる有能な女性と思います。 古の昔から、わが国は、 四方の海と豊かな自然に恵まれながらも、 文明的な文物は海を越えた外国から学び求めて来たようです。 自国の現状を、常に、このままで良いとは思えなかった 生真面目さと、勤勉さ。 それらの気質を育む、適度な緊張感を大陸から受けていた。 そして、 国としての形を整える為に必死に生きて来たのです。 自分の生まれた国の暦史を知るという事は、 知った後の喜び、または苦悩もあって、 それが、我々の心のひだを豊かにしてくれます。 それが、連綿と続く日本人の心の歴史なのかもしれません。 歴史を見て行くと、 最高権力者と言えども運命の流れに逆らう事ができない。。 と言う事に気が付かされます。 いや、反って、権力への欲望の為に、争い、それを掌中にしたが為に、 流転するリズムのなかへ放り出されるのだろうと思います。 まるで、 権力を手にした者が、それを手放したくないという執着する心で、 流され翻弄される河と、落ちていく谷底があるようです。 歴史を探れば、 必ず、その濁流と谷底を覗いてしまう気がして、 その暗さを覗くのが嫌いで、歴史はあまり好きではなかったのですが、 運命学を知る事で、 その暗さへ光を当てられる力を知り、 それ以来、 権力を手にしても、運に流され、谷底へ落ちないようにするには、 どうしたらいいのか? 馬鹿とはさみと権力は、使いよう? あはは! 前置きが長くなりましたが、 前回は、 倭国と言われていた時代から日本へと呼び名が変った 国内の政治のながれを見て来ました。 壬申の乱で大友皇子に勝った大海人皇子が天武天皇に即位します。 そこまででした。 天智天皇の子供が乱で自害をしたわけですから、 天皇の位は、壬申の乱以降、第40代・天武天皇の子孫の方へ、 天武天皇系流の方へ天皇の位が、移っていきます。 41,42,43,44,45,46,47,48代の称徳天皇までを言います。 8人の天武天皇系流の天皇がいらっしゃいます。 今日は、予告しました通り、持統天皇を中心の記事へ進みます。 おそらく、長くなりそうなので今回は、持統天皇の即位まで。 持統天皇による様々な謀略説についてです。 次回は、持統天皇の即位以降と、飛鳥(あすか)時代最後の天皇 42・文武天皇(持統天皇の孫)までの予定です。 天武天皇の皇后 ・ 讚良皇女(さららのひめみこ)は、 645年、大化の改新後の大化元年に生まれました。 以後、讚良皇女、皇后と言う表記をします。 天皇在位中だけ持統天皇と表記します。 父の天智天皇が弟の大海人皇子(後の天武天皇)に5人の娘を与えた、 その内の一人です。 それが、13歳の時、 姉の大田皇女らと共に、 大海人皇子(叔父)の所へお嫁に行きます。 17歳の時、 天智天皇が百済救援の為に中国・新羅連合軍との戦争を指揮する為に 筑紫に滞在した時に、夫と共に天皇に随行し九州まで行った。 この戦の結果は大敗でした。 天智天皇は、この大敗の後に逃げるように都を近江に遷都します。 この戦の影響で、中国・新羅系人達の支援があった大海人皇子側が 壬申の乱を起こしたのだと言う説もあります。 18歳、その地・九州で草壁皇子を産み、 翌年に姉の大田皇女が★大津皇子を産みます。 ( ★注1 ) 23歳、正妃であった大田皇女が亡くなり、 讚良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高くなった。 28際、吉野へ隠棲した夫に従い、我が子草壁皇子、大海人の異母子・ 忍壁皇子(高松塚古墳の被葬者とする説がある。)を連れて行く。 壬申の乱の時にも、美濃に向けた脱出の強行軍を行った。 29歳、天武天皇が即位と同時に、皇后になります。 病気がちの天武天皇に代わり、皇后が統治者として存在感を高める。 36歳、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例は過去になかったが、 19才の草壁皇子を皇太子にします。 (皇后の強い要望があったと推測されます。) 41歳、686年、天武天皇崩御。 天皇の「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に 報告せよ」の勅により、皇后・草壁皇子が共同政務を執る。 『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、ずっと皇后は天皇を助け、 側で政事について助言をしたと、あります。 当然のことですが、 皇后は吾が子・草壁皇子が天武天皇の後を嗣ぐことを望んでいました。 次は、天武天皇が崩御された時、悲しんで詠んだ皇后の歌です。 向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而 北山に、たなびく雲の、青雲の、星離(さか)り行き、月を離れて 青雲を天皇、月を自分、星を皇子たちに喩えて詠っています。 北山にたなびいている青雲が、星や月から離れて遠くに行ってしまう。 のような意味なのでしょう。 春過ぎて夏来るらし”のお歌もそうですが、 目の前にある自然の事物を見逃さない、鋭い観察眼です。 等身大の目線で周りを見回す、直裁的な情感の持ち主だったのでしょう。 『日本書紀』には、 持統天皇を「深沈で大度」、「礼を好み節倹」、「母の徳あり」などと記載 されています。 きっと、男勝りな女性だった! あはは! 持統天皇が、積極的性格と有能さがあったためでしょう。 それを前提として、彼女による様々な謀略が説かれています。 まず、 ( ★注1 )大津皇子の謀反 夫の死後に草壁のライバルであった大津皇子を排除した事です。 天武天皇の死の翌年、 大津皇子は、具体的な謀反の計画の存在は判らぬまま、 川島皇子の密告で謀反が発覚して自殺したとなっています。 『日本書紀』に描かれている大津皇子は、 草壁皇子より1歳年下、2人の母は姉妹であって、 大津皇子は早くに母を失い、 立ち居振る舞いと言葉使いが草壁皇子より優れ、天武天皇にも愛され、 頭脳も優秀で、“詩賦の興りは大津より始まる”とあるのは、 大津皇子を可愛がっていた天智天皇ゆずりと言う事か。 反対に、草壁皇子に対しては何の賛辞も書かれていないのです。 草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』、 その中における扱いがこうなので、 諸学者の中では、2人の能力差を疑う者はいない現状です。 草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画しています。 大津皇子の謀反については、 学者の中では、謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルとして 皇后が先制したという皇后の側に攻撃的意図を見る者が多く、 大津皇子の無実説か、謀反人に仕立て上げられたという説が多い。 一連の流れに皇后の意志を見る点は共通のようです。 関連して大津皇子に対する監視スパイ説がある。 大津皇子が、石川郎女と寝た事を津守通に占いで看破されてしまった後、 大津皇子が詠んだ『万葉集』の歌について、 万葉学者の吉永登氏は、皇后が占いではなく 密偵によって知ったのではないかと指摘をしています。 直木孝次郎氏がこれを支持して、 皇后の指示で大津皇子の監視スパイを行ったのではないか と言う説もあります。 さらに、さらに、 持統天皇が孫の軽皇子(かるのみこ)を立太子させる為に、 高市皇子を暗殺したと言う説もあります。 こういう噂が立つという事は、”つよさ”と”こわさ”のイメージがあり、 余程の意志を持って物事を遂行する女性だったのでしょう。 裏返せば、権勢は誇っても、頼れる跡継ぎ運のなさ、寂しさを感じます。 42歳の時、天武天皇が崩御されます。 その葬礼が終わった後、草壁皇子を即位させるつもりだったはずが、 その直前に、草壁皇子が突然、皇太子位のままで亡くなります。 皇后の草壁皇太子を天皇にする皇位継承計画は、 根本的に狂ってしまったわけです。 そこで草壁皇子の子、当時7才の孫の軽皇子(後の文武天皇 )に 次の望みを託すのですが、皇太子に立てるにも幼過ぎます。 そのために、やむなく自らが即位したと解するのが大勢です。 天武天皇系列における持統天皇の位置は、 我が夫・天武天皇から我が子の草壁皇子・孫の軽皇子に皇位を伝える 役割であったと言うのが通説ですが、 野讃良皇女自身が、初めから皇位に向けた政治的野心を動機に持ってい たとする説もあります。 45歳の時、持統天皇に即位。(在位 690年~697) 在位期間は、たったの7年間ですが、 『続日本紀』には、文武天皇と並座して政務をとったとあるので、 持統天皇の政治的関与は在位期間だけに限らないでしょう。 即位の儀式で、 初めて「天つ神の寿詞」の読み上げを始めたのも、持統天皇からです。 前代までに行われた“群臣の協議・推戴”を止めたという事は、 天皇の神としての権威の上昇の結果、 “群臣の協議・推戴”は必要がなくなったと言う事なのでしょう。 まさに、天皇の権力神格化路線の最高到達者です。 その天皇の権力神格化路線の最高賛辞者としての柿本人麻呂は、 有能で打って付けでした! あはは~! 官位の低かった人麻呂は、持統天皇から個人的な庇護を受け、 彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として 天皇とその力を讃える歌を作り続けました。 前ブログでも書きましたが、 柿本人麻呂に天皇を神として仰ぎ見る賛嘆歌を作らせ、 対貴族、対豪族に、強力なプロパガンダ力を発揮させています。 その代わりに、柿本人麻呂は、 歌人としての名声を手にして、 その後は官僚となって地方に転じています。 貴族ではない彼は、都では食べていけなかったのでしょう。 まさに、《天下り》のハシリですね。 ゴマをすりあげた功徳です! あはは。 今もそうですね。 総理の秘書官や、民間から国務大臣になった人が、任期が終わったら、 大学の教官として天下りをしますね。(笑い) 即位の後、持統天皇は、 一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治を止め、 大規模人事を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命します。 持統期には、今まで影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)、藤原不比等ら 中国文化に傾倒した若い人材が台頭して来ます。 不比等は、壬申の乱の時に近江朝廷側だった父、鎌足の子として 天武天皇の時代は身を潜めて、持統天皇には可愛がられ出世します。 柿本人麻呂による貴族や官僚に対する歌によるロビースト活動、 宣伝力、人心の掌握術を心得ていたのでしょう。 非常に社会性の強い志向、言葉による情報力を上手に使う能力に 長けていた女性だったと思います。 頭がいいのです! あはは。 特に、時代は腕力から能力へと移行していました。 能力さえあれば、女だって! 剣を持って戦をしなくてもいい、そういう時代に入っていたのです。 そう、大歓迎だわ~ 女だって! 今も、こういう声が聞こえてきそうです。。 ほんとうに? よろこんでいいの? こうした『陽』の現象世界だけに囚われていたら、 見過ごすのが、無意識の世界、『陰』の本体です。 女性が、陽の舞台に表れるという事は、 地中深く張っていなければならない根が、地表へ出て来た! そう、解釈をしてください。 運命学での価値観は、そうです。 根が地表へ出て来たら、どうなりますか? そう! 養分や水分を幹や枝へ送れなくなる! まず、葉が枯れ、蕾がしぼみ、実が落ちます。 最後は、根自体も枯れてしまいますね。 そうなれば、どんな大木だって・・・・・ 植物は、そうだけれど、人間は違うわ! 意志と理性があるでしょう。 それで考えながら生きていくから大丈夫! そう、反論が出てくるのは分かっていますが、 意志と理性は、完璧じゃないわ。 意識上の力は、『天の道』へは、届かないのです。 無意識の領域を、琵琶湖の大きさに例えると、 意識の領域は、琵琶湖へ投げ入れた小さな砂粒ひとつくらい。 私達が意識できない世界の方が、圧倒的に膨大なのです。 命や、自然や、しあわせや、苦悩は、 無意識の領域からのエネルギーに因っています。 思考や理性や知識では、太刀打ちできないのですよ。 限りなく研究されて公になった情報をもって、 持統天皇の貴重なご苦労を便宜的に習いながら、 記事を書いていますが、 実は、今の貴女の、貴方のしあわせの為の材料になればと思って これを書いています。 目の前の現象世界に囚われるだけではなくて、 見えない世界の神秘も、不思議も、 おとぎ話の絵本の中だけではないのです。 持統天皇以降は、異様なまでに女帝(元明・元正天皇・・・)が出てきます。 『天の道』が、 あなたの命の中心を、地球を含む自然と同じ秩序が貫いている事に、 気がついてください。 あなたの命から溢れる不思議に、気づかれますように。。。。。 感謝です。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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11/15 15:57 |
女帝 2 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学 その6Category : 運命学と歴史
![]() 那須高原 ステンドグラス美術館 今日は、予告をした通りに、 持統天皇の即位以降と、飛鳥(あすか)時代最後の天皇 42・文武天皇(持統天皇の孫)までの予定ですが、 可能なかぎり、先へ進めようと思っています。 ☆ 41・持統天皇 (女帝) 《在位7年》 持統天皇の特徴的なのは、 頻繁な行幸で、在位中に31回の行幸を記録します。 一番多いのは吉野行幸です。 伊勢に一度、紀伊に一度の行幸も、 『万葉集』には、近江に一度の行幸も記述されています。 吉野は、天武天皇との思い出の地というだけではなく、 我々には想像を絶する心労があったためでしょう。 本来の女の人生の完成期における安定とは、 力を持った夫に支えられ、壮年に達した息子、その幼い孫の成長を 目を細めて眺めていられる平凡な日常です。 持統天皇には、 その日常が無かった。。。。。 天皇神格化路線の最高権力者としての地位は築き上げたけれども、 自分を守ってくれる夫も亡くなり、頼るべき息子も夭折し、 残された幼い孫と、嫁と子供たち。 自分が守ってやらなければならない者ばかりでした。 しかも、守る物は、それだけではなっかた。 それ以上に大事な、手にした皇位があった! このストレスは、想像を絶しますよ。 オリンピックで金メダルを取るストレスなんて、あはは。 小指の垢くらいのものでしょう。 (笑い) 人は、手にした楽と同質量の苦労を背負うわけですが、 苦と楽とは背中合わせなのです。 単に、息子を亡くすという不幸だけでも発狂しそうな位なのに、、、。 跡継ぎの草壁皇子を亡くし、孫の軽皇子に移譲するまでの公の政務。 どれひとつを取っても放り出して逃げられないものばかりです。 いかに自分から天皇になりたかったのだとしても、 男勝りな有能な女性であったとしても、 他に類を見ない心労があったのだと。 それを癒す時空としての、吉野ではなかったか、 と推察致します。 それは、あたかも、 高村光太郎の妻、智恵子がふるさとの安達太良山を思ったように、、、 持統天皇は、自分の置かれた立場において、 あらゆる重圧に負けずに果敢に、 自己の欲望の達成の為に努力をしたはずです。 その努力には、持てる権力を惜しみなく行使したはずです。 次のような説もあります。 草壁皇子の遺児、軽皇子(文武天皇)を天皇にする為の★密約です。 軽皇子の父の草壁皇子は、即位せず皇太子のままで亡くなっています。 そういう場合は「皇子」ではなく「王」の呼称で呼ばれるはずなのです。 が、祖母である持統天皇の力によって、 立太子以前から皇子の扱いを受けていました。 不比等と結んだ★密約と言うのは、 それは軽皇子を天皇にするのに協力をしてくれたら、 その代わりに、不比等の娘を入内させるというものです。 7歳の孫が15歳になるまで時間稼ぎに、 讚良皇女が持統天皇として即位をして、 この間に都を藤原不比等に因んでいるとも言われる藤原京へと移します。 藤原京 (694~720)に関して、すこし、、、、、 2年前ですが、 この藤原京を造営するための大規模な運河跡が見つかっています。 この都は、日本で最初の都市計画に基づく都です。 滋賀県の琵琶湖の南の田上山の木材が、宇治川、木津川の計100km を経て奈良県橿原市の藤原京まで、この運河を使って運び込まれ、 木材などの搬入後、この運河は埋め立てられてたとみられるそうです。 それは、それで大変な事業なのでしょうが、 それを成し遂げたのは、すべて奴婢と言われる庶民です! 彼らの、その頃の生活は、 土の上に柱を立てたわらぶきの竪穴住居だったのですよ。 おそらく草類を敷いて、地面の上に寝ていたのです! 当時は、それが当たり前と言っても、 天皇や貴族の暮らしぶり。 その差に気が滅入ってしまいます。 先日の「大仏展」もそうでしたが、 毎年行く、「正倉院展」にも、 きらびやかな御物など、珍しい物が展示され、 わが国の誇るべき文化だと我々は賛嘆をします。 しかし、一部はそうであるかもしれないけれど、 ほとんどが外国からたどり着いた御物ではないのか。 遠い外国と交流があったという証拠にはなるけれど、 いわゆる当時の倭国の最上流階級の人々が、 海外からの文化美術品を交易によって手にすることができたと云う だけに過ぎないものではないのか。 同時に、地方と朝廷とがやり取りをした文書が展示をされていて、 それには、田や畑といっしょに、奴婢が何人、女が何人と、 まるで奴隷として! 物といっしょに混ぜて交換したり、 税としてやり取りをした事などが読み取れます。 それらを見て、「 何が文化だ?」と、笑いたくなります。 当時の倭国の社会における、統治者の人心の低さ、 文化以前の野蛮性の臭味を嗅ぎ取ってしまうからです。 いくら母国の歴史と言っても、 すべてが正しいと受け入れられるものばかりではないのですね。 今の政治や官僚主導の政治に対する”怒り”に似た感情と共に、 何か恥ずかしい心情になります。 御物の美しさや誇らしさ、それに対比して 精神の惨めさ=やってはいけない事を発見した時の恥じ入る気持ちが 沸き起こります。 自分が、天皇や貴族のつもりでいるのなら満足でしょうが、 おそらく我々の先祖は、そうではなかった? あはは。 ひとつの例ですが、 正倉院に納められた御物の目録の中で、 扇が、 八十 とあるのを見た時、 うそ~!!あはは~ それはそれは美しい、おびただしい数の芸術品の扇子です! 信じられない~? と思いましたよ。 (笑い) これは格差どころじゃないわ! 奴婢は、団扇のひとつも持っていなかったでしょうに~。 意識が! 理性が! 格差や階級を作るのですよ。 貴族という階級自体、意識と理性の産物です。 または、人間は格差や階級を正当化する為に、 理性や意識を発達させて、、、来たのですから、、、。 そのために、仏教の知識までを利用した。 仏教を信じて湧いてくる智恵ではなく、 仏教の智恵を知ったかぶって利用をする仏教の主知主義ですね。 それが貴族仏教の限界です。 主知主義は、知者たらんとする人から起こります。 人間は、エゴの為なら何でも利用しますから! では、つぎへ進みます ! ☆ 42・文武天皇 《在位10年》 持統天皇が52歳の時、 697年、2月、孫の軽皇子を15才で皇太子にする。 8月、軽皇子に譲位。持統は初の太上天皇(上皇)になります。 697年、飛鳥(あすか)時代最後の天皇42・文武天皇の在位697~707 ★密約の通り、 不比等は、自分の娘、宮子を入内させます。 これは梅原猛氏によれば、 不比等は、地方の美しい娘を自分の娘と偽って後宮に入れたとか。。 皇后、妃になろうとしても皇族出身に限られていたので、 宮子は「夫人」と言う名称ですが、 『続日本紀』において、 文武天皇が、正式な妃・皇后を持った記録は無いのです! 本来は、皇太子になった段階で、 将来の皇后となるべき皇族出身の妃を決めない事は考えられないので、 何か原因があってできなかったか、記録が消されたのかもしれない。 つまり、宮子が一番上位の妻の立場、つまり事実上の皇后だったのです。 このことについても梅原猛氏は、彼の著書『黄泉の王』で、 万葉集を根拠に、 紀皇女こそ妃であったが 弓削皇子と密通した事が原因で 妃の身分を廃されたという仮説を述べています。 未来の皇后の不倫という不埒な行為によって公式記録から抹消された? 紀皇女については記録が殆ど残されていないのです。 夫人の藤原宮子こそ、首皇子、45・聖武天皇の精神病を病む母です。 万葉集に、文武天皇の作られた歌が残っているが、皆さみしい歌です。 み吉野の山の嵐の寒けくにはたや今夜もわが独り寝む 本当にさむ~い!凍えるようなお歌ですね~ 文武天皇の在位はわずか10年間で、最大の業績は、 701年、大宝律令の制定・施行。遣唐使の復活です。 701年、文武天皇と夫人の藤原宮子の間に首皇子が生まれます。 後の聖武天皇です。 702年、持統天皇はこの曾孫を見届けて57歳で崩御。 1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇の墓に合葬されます。 天皇の火葬はこれが初の例であったそうです。 なぜ火葬にしたのでしょうか? 陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。 持統天皇の遺骨は銀の骨壺に収められていたのですが、1235年に 盗掘に遭って、骨壺だけ奪い去られ遺骨は近くに遺棄されたという。 藤原定家の『明月記』には、 「女帝の御骨においては、銀の筥を盗むため、路頭に棄て奉りしと言う。 塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。 ひどい話だ。」とあり、 崩御の500年後に夫・天武天皇と引き離され打ち捨てられた持統天皇の 悲惨さを物語りその盗掘の顛末が記されています。 持統天皇の孫の文武天皇も、24歳で病に倒れて亡くなります。 残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)は、7歳でした。 母の宮子は精神病で、聖武天皇は物心がついて以後、 母とは37歳の時まで会う事すらができなかったと言います。。 ☆ 43・元明天皇(女帝)《在位8年》 残された首皇子(後の聖武天皇)は、7歳でまだ幼かったため、 中継ぎとして、草壁皇子の正妃・文武天皇の母が皇后の経験もなく、 707年、43・元明天皇、在位707年~715年、が即位します。 持統天皇の異母妹であり、草壁皇子の叔母であって、 18歳で甥の17歳の草壁皇子の正妃になっていましたが、 草壁皇子が即位しないまま亡くなったので皇后にはなっていません。 持統天皇と同様、孫の成長まで祖母が皇位を続けるというパターンです。 不思議に思いませんか? ★持統天皇の子供は、草壁皇子一人であって27歳で天皇に即位もせず に7歳の軽皇子を残して亡くなっています。 ★持統天皇の孫である文武天皇(軽皇子)も、24歳で 7歳の首皇子を残して亡くなっています。 偶然でしょうか? 偶然ではないのですよ。 運命学で言えば、天武天皇の家系が女系になって来た証拠です。 女系とは、頼るべき男性が病弱とか、夭折とか、能力がない等の姿で 生まれて来て、全く当てにできない為に、 逆に女性がそれを庇うような力があって生きる為の苦労を背負います。 女性の側も、男性に守られると言う『陰』の生き方が真っ当できません。 家系が滅びる末期には、 こういう傑出した女性が出て男を凌いで成功する現象が現れるのです。 簡単に元明天皇の人間関係を整理しましょう。 奈良時代になってからの初代天皇である元明天皇は、 智天皇の娘なので、 大友皇子、39・弘文天皇、41・持統天皇、とは異母兄弟になります。 夫・草壁皇子とは、叔母と 甥の関係になります。 子供は、氷高皇女(元正天皇)、珂瑠皇子(文武天皇)、吉備内親王 孫は、首皇子(聖武天皇)、広成皇子、広世皇子、膳夫王、葛木王、 鉤取王、桑田王 710年、元明天皇、藤原京から平城京に遷都。 これ以後、794年の平安京遷都までを奈良時代と言います。 左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、 平城京では右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。 712年、古事記が献上され、 713年、風土記が編さんされた。 714年、首皇子の元服が行われて正式に立太子をします。 しかし病弱であった事と皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、 即位は先延ばしにされます。 ☆ 44・元正天皇(女帝)《在位9年》 元明天皇は自身の老いを理由に譲位することとなり、 孫の首皇子はまだ若かったため、文武天皇の姉である草壁皇子との娘の 氷高(ひたか)皇女が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぎます。 715年、<44・元正天皇即位、715年~724年在位は9年間。 女帝としては5人目ですが、 それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、 結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇です。 また、唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇です。 ただし、父親は男系男子の皇族である草壁皇子であるため、 男系の血統は維持されています。 717年から藤原不比等らが中心となって養老律令の編さんを始める。 720年、日本書紀が完成。藤原不比等が病亡し、大きな後ろ盾を失う。 721年、元明天皇崩御。 「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には、 「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり、 「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。 723年、三世一身の法が制定。これにより律令制は崩れ始めていく。 ☆ 45・聖武天皇 《在位25年》 724年、45・聖武天皇(持統天皇の曾孫)即位。在位724~749年 伯母の元正天皇より譲位を受ける。 持統天皇以来、ご本人、息子の嫁、その娘、というように女帝が続いてい ましたが、天武天皇系流の男の天皇が、皇位に就いたわけです。 ここでやっと女帝の中休みになります。 しかし在位の前半、聖武天皇は病気がちで政務が行えなかった為に、 元正上皇が、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行しました。 そして在位の後半は、仏教信仰に傾倒した聖武天皇に代わって、 光明皇后が政務を行いました。 どちらにしても、天武天皇系流の男の天皇たちは、存在感が弱く頼りなく なぜだか今の”植物系”男子を思わすような感じがします。 それでもこれは暗雲の隙間から漏れた一条の光でしかなく、 最後、締めくくりの女帝の時代へと進んでいきます。 文武天皇につづいて、 不比等は、聖武天皇にも娘・安宿媛(あすかひめ)を入内させます。 すなわち、後の光明皇后です。 藤原不比等42歳の時、橘美千代36歳との娘です。 文武天皇の夫人・宮子とは姉妹です。 つまり、藤原不比等の長女(宮子)は聖武天皇の母となり、 その聖武天皇の皇后は、藤原不比等の三女(安宿媛)です。 その光明皇后と聖武天皇との間に生まれた阿倍内親王こそが、 藤原不比等と橘美千代の孫、 女帝 46・孝謙天皇であり、重祚した第48・称徳天皇なのです。 あぁ、やっと、橘美千代が、出てきました! (笑い) 辿りついて、ほっとしました~。 あはは。 次回は、藤と橘について、 えっ? そう、藤原氏と、橘氏、 光明子の母、橘美千代を中心にしたいのですが、、、 ちょっと歴史は休憩しましょう~ (笑い) 次回は、 皆様からいただいたコメントが溜っていますので、 そのコメントを中心にお返事を記事にしたいと思っています。 藤と橘は、その次です。 あなたが、無意識からのシグナルを受け止められますように! 祈っております。 感謝です。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2010
11/21 14:43 |
不妊治療と子供運について (コメントのお返事)Category : 運命学と科学
![]() 落葉 今日は予告の通りに、コメントへのお返事です。 いつもコメントを下さってありがとうございます。 まずは、最初に、拍手コメントからです。 “ 那須高原すてきですね。 孫が今度入学する学校では男の子が20人、女の子が37人だそうです。 ふと自然界の法則を思い出しました。 少子化が進むので女性が増えるのかしら? ” あたりまえと思って、何気なく通りすごしていた風景を、 なぜ男なの? どうして女ばかり? と意識をしていただくようになったのですね。(笑い) あぁ、よかった~! 何事も偶然はないのですから、そう思ってこだわって眺めると、 表面の現象の奥に、何かが見えて来るはずです。 “意識して”、、、、、そう意識で こう言う時こそ、意識の力を利用しましょう! (笑い) それにしても、男児20人に、女児37人! ですか、、? 驚きますね。 でも今どき、そうかも知れない・・・・・ 私の相談者、個人的な身の回りでも、女児誕生が多いです。 何人もお産みになるのに女児、というパターンです。 運命学から言うと、女系化のご家庭が増えているに違いない、、、。 1,2代先には .(ピリオド)が打たれるご家庭です。 個人の生き方の問題で、、、勝手でしょうと言われれば、それまでですが、 それが蔓延すると、社会は、国はどうなるの? その危惧を心にずっと持ってきました。 なんとか打開しなければ、、、、、 『少子化』とは言うものの、 『家』がなくなると言う視点で捕らえないのは、なぜ? 社会において 『家』の単位が見落とされているからですね。 (家については、後日記事にしたいと思っていますが) 国の政治や思潮の流れは、 個人を、直接ダイレクトに、社会へ、つなげようとしているようです。 家や家族、家庭を飛ばして、 子育ての『社会化』、女性の『社会化』、○○の『社会化』へ、 個人と個人の絆を断ち切って、 あの手この手で社会化しようとしています。 ほら、まるで、 DNAの鎖をバラバラにするように、 無縁化は問題だ。と言いながら、国が、個人個人の絆の糊を、 外していっているようです。。 。 戦後の個人主義に対抗しているのか知らん? その基になっているのが、何事も統計で取った数字です。 その統計の数字が、真の実態であると何時の間にか国民に錯覚させて、 非常に上っすべりな認識でもって、我々国民を扱っています。 この数字化こそが『陰』の『陽』化であり、 人間の数字化こそが、創造性の『陰』の本体の無視です。 たとえば、 少子化もアンケートを取れば、 保育所が足りないから、 子供を増やすには保育所 ! なんですって、 あはは。 女性が子供を産まない事を、自然の営みの停滞を、 保育所という”モノ”でなんとかしようとする! ほんとうに恐い流れだなぁ、と思っています。 保育所があれば、女が子供を産む。だなんて 保育所という交換条件で、子供を産ませられる? (笑い) 女の心が、物で動くと思っていらっしゃる? 保育所の予算(モノ)を与えれば女が買収されると? 大真面目に国会で、こういう議論を、国会議員が、政治家が、 歳費をもらって、時間つぶしで? 言っているのには、笑ってしまいます! そもそも、国は、女を安く見くびったものですね~ どうせなら、もっとお品のいい高尚な事をやってほしいな~! と、思うわ!! いかがでしょうか? 意識は、勝手な都合のいいロジック(理論)を作るのが得意ですから、 さも、正しい理屈のように虚構を構築する。。 。 政治とは、そもそも人の作ったロジック、虚構の上にあるものですから、 その上、何事も経済に結び付ければ、、、大義名分? 女が子供を産まなければ、、、女が社会へ出て働かなければ、、、 日本の経済はだめになる、なんて脅す言葉を流して、 まるで、恫喝ですよ~! それも理屈ばかりじゃない! あはは。 その保育所さえ、実現できていないでしょう~ 今の世は、本当に羅針盤がなくて、 羅針盤の代わりに、数字に振り回されて右往左往しています。 羅針盤の代わりに、数字教という新興宗教? あはは。 盲信したら、だめですよ! 人間が、おばかな事ばかりしている間に、 自然の摂理は、自然淘汰のリズムの太鼓を鳴らしています。 トン! ト! ト! ト! トン! ・ ・ ・ ・ つくづく、、、 女は、本質的だなぁ~と思わせられたのが、 もう、ずっと前に、頂いていた次の拍手コメントです。 その中に“選挙前”とあるので おそらく今年の参議院選挙前? 7月頃にいただいたものかな? 必ず記事の中でお返事しよう! と今まで温めて来ました。 遅くなり申し訳ありませんでした。 よろしくお願いします。 今回、先の天武天皇系流の記事の内容にふさわしいだろうと思いまして、 引かせていただきます。 “ 選挙前で、政治家に望む事は?と言うインタビューを受けてる女性が、 不妊治療費について発言してるのをTVで観ました。 このように、様々な理由で、簡単に妊娠出来ない女性も居ます。 でも不妊治療、どぉなんでしょうか? 向井亜紀さんの例もちょっと・・・。 様々な意見はあると思いますが、私はどちらかと言うと反対派です。 私は、子供は御先祖様からの、贈り物だと思ってます。 だから、私には男の子、、、授けては下さらなかったんでしょうね~。 こんな嫁ですから・・・(^ ^;一概には言えませんが、そぉ思いました。 元々、男の子を産まないのは女性には責任がない! だから嫁が肩身の狭い想いをする必要はないと思っていましたが、 御先祖様が認めた嫁には、 ちゃんと男の子を授けて下さるんだと思います。 やっぱり、子孫繁栄のためには、男の子は必要だし、大切ですね。” 重いテーマが、いっぱい詰まっているコメントですね! すべてをドライに考えれば、そんなの関係ないよ。古いよ。で済みます。 しかし、女性はどこかで分かっているのですね。 これは、拘っているとか、古い因習に縛られているとか、じゃないわね。 女性の心の底、無意識から沸き起こってくる思いを 正直に書いていらっしゃる。 ・・・・・・私はどちらかと言うと反対派です。 あくまでも自然の営みは自然に任せておきたい。。。。。 そこは、どんな苦があっても人間が触れる処ではない、 楽であろうが、苦であろうが、 そのままを、受け入れる事が正しいのでは、、、 言葉には出さないけれど、同じような考えを持つ女性は多いはずです。 自然界には、自分達の子孫を残すために産卵する生き物の姿が、、、。 産卵のために川を遡上する鮭、 海辺で産卵をして海へ帰っていく海亀、 自然界では、子孫を残すためにメスを追いかけてがんばるオス、 メスが卵を産み付けると、それに精子を掛けて直ぐに死ぬオス、 自分たちの次世代を残す役割を自らの命に代えてでも果たす姿、、、 命の迫真の一途さが、胸を打って、 決して、可笑しいとか、頓馬であるとか、ふざけた感情など見当たらず どこかで私達は、心の心底で納得をし、感動をしますね。 美しい死だとか、美しい生だとか、 作為的な美の概念を作って、 人間の理性が言葉でいちいち説明しなくても、 そんなものじゃない、 自然のありのままの生の自然な営みに納得します。 その理由は、 おそらく同じ衝動や願いを、心の奥底に無意識の深層に、 共通の結びつきを我々も持っているからでしょう。 不妊治療における理屈にならない抵抗感は、 自然は犯してはならない。とか、 自然と一体となった生き方を数千年貫いて来た日本人には、どこか、 割り切れない思いがある。 事実、倫理上の解決がなされていないし、法的にも認められていません。 しかし、どんな事をしてでも、なんとか子供がほしい。 そういう気持ちは無理もないと、 心情は十分、だれもが理解できるのでしょうが、 それが本当の人間の幸せに結びつくのか、完全な答えは出ていない。 心の、倫理上の、精神性の問題が未解決なまま、 科学はどんどん新しい局面を見せて来ます。 現在の不妊治療には、最近は単なる排卵促進剤ではなく、 人工授精、子宮外受精、先進の医療技術で、 倫理的に承認されていない方法で、だから外国まで行って代理母を使う。 これが、コメントの中の向井亜紀さんのケースでした。 60代の実母の子宮を借りてまで、わが子をほしがる方も増えています。 これらの場合、真にわが子と言えるのか? という問もあります。 でも愛情が沸いて来て、可愛いと思う心情も汲み取れます。 つい最近では、衆議院議員の野田聖子氏の例もあります。 現在では、全世界において、 10%以上の人がなんらかの不妊の兆候を抱えていると言われています。 この状況をどう整理していくのか。 今年のノーベル生理学・医学賞は、 エドワーズ博士の「不妊治療における進歩・IVFの開発」の業績 に対して贈られます。 ホルモンが卵巣の機能や、卵子の成熟、排卵を コントロールするという研究によって、 1950年代に、博士はIVFの治療の可能性に気が付いて、 人の肉体外で人間の卵子を成熟させる事で、 その卵子に精子を受精をする事を初めて示しました。 また、その事は、同時に。人間の受精卵が、 肉体外でさえ、初期胚や胚盤胞に成熟すると示したのです。 1978年7月25日、午後11時47分、 世界で初のIVFによる赤ちゃん、Louise Joy Brownが誕生。 博士の研究は、それまでの生殖医療を進化させ、 IVFのおかげで、400万人に達する赤ちゃんがすでに誕生しています。 《参考:カロリンスカ研究所資料》 今年32歳になったLouise・ルイスの映像は、世界中に配信されました。 その成長をもって、問題なしとした ノーベル生理学・医学賞については、今時点としては無理もない。 それはそれとして、 しかし、前置きに、 科学の出してくる進歩というのは、 あくまでもひとつの仮説として見ていかなければいけない。 そういう立場を確認をして、 これについて、 運命学的に考えて見ましょう。 子孫を残そうと言う本源的な生物としての本能を、 不妊治療で叶えられるのなら、生まれるのなら、いい事だと思います。 しかし、その事で、 子供運が、子供に恵まれ難かったという運が、 完璧に解決されたのかと言うと、 それは、別問題ではないか。 というのは、『陽』の現象としての科学が、 ひとつの生命体として秩序を作る宇宙本源の『陰』の本体を、 統御できるとは? とても思えないからです。 生命の発生するシステムを発見、利用した業績なのだ。と 言い得るのでしょうが、 それそのものが、生命の摂理の創造性から独立した方法ではない。 独立できるわけがない。 『陰』の本体から生じる現象を利用したものでしかない。 そうである以上、 もっとその奥にある運を作らしめている本体まで、 人間の手は決して届いていないでしょう。 科学の手は、届いていません! 届くわけがないのです。 影が、その本体へ手を伸ばせるはずがないのです。 運命学的に言う処の”子供運”について、 真の意味の、子供運の解決かどうかは、 不妊治療の結果授かった命の、次の命の誕生、その次の命の誕生、 そこまで待って見てみないと、何とも言えない。 そのように、 東洋的な運命学における事実の追認は、 『時』に委ねるのです。 それも、最低三代の家系を観ます。 その行為の因果としての、正か?悪か?の審判は、 ある事を為した家系の三代目に、応報の結果が現れるという、 そういう時間的経過の長いものです。 また、一度積まれた因果は、七代に亘って影響があるという、 非常に、今の情報社会の皮相的な時の扱いからは、 気が遠くなる! ? あはは~! すぐに、数値か、目に見えるデーターなどで 性急に判断をして安心したい現代人には、拷問のようなもの? あはは。 可哀想なくらい、ある意味耐えがたいでしょう? あはは。 真の意味の心の強さを要求される秩序があるのです。 (笑い) 逆説的言えば、今現在の我々の在りようは、 命の継承での系列で三代前の応報の結果であり、 先祖の七代からの影響を受けているという事になりますか。 それを知らずに、闇雲に何でも、前へ前へ、 ポジティブがいいって、どこまでがポジティブなの? それすら計れない物差しのない物質文明の中で、 前に行けば良いように言うのも正しいのか?どうか? 振り返るというのも、必要ではないでしょうか? 一途に待つという姿勢もまた素晴らしいものです。 具体的には、 普段、そういう事を考える暇もなく 些事にまみれて生きて来た人でも、 ある時、ふと、 ご自分の生活が、ある程度の、 ゆとりを持って来たり、 衣食足って礼節を知ると言いますが、 必ず、切実な悩みとなって来るのが、 次のテーマです。 男の子の誕生を望む。 切なる願いですね。 そして、その次は、 どの子に家を託したらいいのか? 経営する会社を継がせたらいいのか? いわゆる目の前の事ばかりではなく、遠い将来の事を正しく処理したい。 そう望むようになられるようです。 そういうご相談を受けているのが私の仕事です。 現在の世の中は、家系や家の継承について、無関心、 無駄と見なしている空気が定着しています。 しかし、 それらは、深く根っこの処で現在の私たちの人生の花実に直結しており、 決して無視して生きる事はできないのです。 努力をしても、強いて勤めても、その花実を手にできなかったり、 さして努力をしないのに、 自分の掌中に花実を抱ける人というものがあります。 皮相的な現在だけの姿から、 それらをすべて説明するのには、 人生は不可解、不平等、自分のふがいなさ等に帰着させるしかないのですが、 本来の運命学は、あきらめでもなく、何の不可解でもなく、 きちんと整理された美しい条理の世界を知ることができるものです。 日本人のだれもが、すこしづつでも、 今の社会を席巻している西洋文明の矛盾を看破する目を養い、 正しく東洋の叡智の世界へ足を踏み入れてくださるように、、、、、、 、、、、、、。 冬の日の到来ですね。 この当たり前の『時』の進行を、 この『天の道』の『時』の存在を、 生きていて命で覚知することのできるしあわせを、 感謝しましょう。 今日も平穏なよき日でありますように。 ブログでお会いできて大変うれしいです。 次の記事も、コメントのお返事になります。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 |
![]() 2010
11/27 10:46 |
『老子』58章「光而不耀」 意識に囚われない生き方 1 ・ 女性の生き方についてCategory : 孔子・老子・他
![]() 中國山水 ひさしぶりに音楽を~ ユンディ リ / Yundi Li の ショパンNocturne Op. 9 No. 2 です。 『天武天皇系流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学』の インターバル、 今日も、2件のコメントへのお返事です。 いずれも拍手コメントへいただいたものを紹介します。 ★☆“ 息子の方の孫は13年間の不妊の末に女の子を授かりました。 ........... 中略 ............ 家という意識がだんだん薄れてきますね。” そうですね~。 全文を掲載する事は控えさせていただきましたが、 とっても重い何かを、受け取らせていただきました。 すべてを、今、お返しする事は、できませんが。。 。 コメントをありがとうございました。 なにより、 めでたく授かった孫姫さんをお囲みになって、 幸せそうなご長男のご家族の笑顔が浮かんでくるようです。 ひとまず、よかったですね~! もうひとつ、ご紹介をします。 ★☆ ” 独身時代、占いで 「一人で生きていけば社会的には大成功、女性にしては強すぎる」と 言われました。特に姓名判断はそうだったようです。 短大卒業後11年間、幾つかの仕事をし、結婚後は専業主婦です。 (子供は男児が2人。) 今でもふと、自分は外で働く方が向いているんだろうな、と思います。 一人でいる方がきっと“より”自分らしさを発揮できる...そう思うのです。 習い事や社会活動を始めると、必ず人から仕事を勧められ、 時には離婚を勧められたりもします。 そんな私ですが、何故か 「自分の家庭を築きたい、いずれしっかり子育てをしたい」 その思いが子どもの頃から強かった... よくわからないのですが、 「今生のテーマをそう決めて生まれて来たのだろう~」と、 からだの内側からそういう感覚がわき上がるのです。 女性が本当に自分の力を試したいなら、本来裏側に回るべきだと 思います。 今の時代だからこそ。 世の中のことを考えればなおさらに。” いまさらながら、正直なコメントを読ませていただきまして、 女性は全体的であり、本質的であり、没我的である事を思います。 これこそが、無意識から溢れるエネルギーの源、陰の本体の働きです。 (没我=我を忘れること。無私無欲になること) 易しく言いますと、 女は金銭や自己の出世や効率や名誉や利得に価値を置かないのです。 男性の興味とはまったく違うのです。 (男性へ、あら! ごめんなさい~、あは!) だからこそ、 男の競争相手にならないで、妻となって支える立場になれる。 不思議な存在です。 女が、真にこの本質を全うするなら、 且つ、生まれながらの容姿姿態が魅力的なのですから、(あは!) ギリシヤの古人と言わずとも、 女性を美の女神と讃える気持ちは理解できますワ! (笑い) ” 今でもふと、自分は外で働く方が向いているんだろうな、と思います。 一人でいる方がきっと“より”自分らしさを発揮できる... 非常に大事なポイントです。 引く事、隠れる事の賢明さです。 そういう自己を自制しているのは、自己の内面の知恵です。 他人を意識した自己弁護的な理屈ではない。 嘘ではない。 数値化したデーターに影響をされた結論ではない。 つまり自己を相対化した結論ではない。 引く事、隠れる事には大賛成です! (笑い) 自分の生き方に対して、社会的にどうこう評価を求めない。 相対的評価に左右されないからこそ、 自分の産んだ我が子は、どんな子だって可愛いのです。 生命の側の価値観に沿って、 自律的に、自立性を保って生きる事こそが、女性の特権です。 (まぁ、裏返せば、それが極端に出た場合は、男性からはわがままとか、 世間知らずとかいろいろ評価はあるでしょうが、あはは。) このような主張で、女性本来の生き方ができるという事は、 いろんな意味で、恵まれた運を持っていると言う事ですよ。 自分の運と、ご自分の周りへ、どうぞ、感謝をなさってね~! このあたりは、私も自分の身に引き当てて、 非常に良くわかります。 進学塾の経営を止める時、ほぼこういう動機で止めました。 周りは、誰も理解をしませんでしたよ。(笑い) もったいな~い! どうして止めるの? ? 馬鹿だね~! おばか扱い? でした。 あはは。 何ヶ所かの教室と、生徒数がピークでしたから、 社会的な価値は、経営となれば、利益があるのに勿体無い。 そういう物差しで見るわけです。 女性の価値観は、それらとは違う事が、できるのですね。 しかし、受け入れた生徒を途中で放り出す訳には行きませんから、 3年後を目標に、新しい生徒は取らないまま、自然減をしながら、 在籍の生徒の受験の責任を終わらせて、すべての教室を クローズしました。 その時の気持ちは、晴れ晴れとすっきりと、日本晴れでした。 まったく後悔はしておりません。(笑い) ある意味、本当に運があったのです。 実は、 止めようと決めて、初めて回りの他塾の経営の状態を見回すと、 私の所だけが、独占的に繁盛をしていた! 状態でした。 ある地域は、100%の子供が、通って来ていました。 他の塾は、私の塾の煽りで、生徒を奪われていると思われていたらしい。 それには、今思い出しても、申し訳なさを感じます。 恵まれすぎるという事は、知らず知らずに他を犠牲にするのですね。 全体運で見れば良い事ではありません。 周りの経営者は、どんな気持ちだったでしょう。 私が、止めてホッとされたというのが本当だと思っています。 初めから金銭や欲得や順位や名誉や利得といった物の為に、 始めたわけではなかったけれど、結果そうなってしまった事に 賢明ではなかったと反省をしています。 (笑い) 今後も、絶対に“ 金銭や欲望”の原理では仕事はしない。 そう決めています。 でき得れば反対に、“ 金銭や欲望”では解決しない問題を、 運命学をもって解決をする道を究めて広めて行きたいという目的に。 当時設立した会社を役立て利用しようと、今に至っています。 今日の記事は、 『老子』58章「光而不耀」 意識に囚われない生き方 1 ・ 女性の生き方について 『老子』58章に、 「光而不耀」 光あれど耀(かがや)かさず。 というのがあります。 説明をしなくても、大意はご理解いただけると思います。 光耀く力を持っていたら、わざわざこちらから「光れるのよ~!」なんて、 (笑い) 光をキラキラ人前で照らし出す必要はない。 光る(力がある)から、引くと言い、隠れると言うのです。 たとえば、岩穴に隠れた(アマテラスみたい?!)ままでも、 岩穴の戸口から光は、かすかでも必ず真っ直ぐな光となってもれて来るでしょう。 その洩れて来るというのなら、自然です。 自然は、止めようがありません。 光が大きければ、必ずもれます。 その洩れるというのが、必ず、貴女の子供か、お孫さんか、誰か子孫が、 貴女が隠れた分、代わりに正しく評価を受けるという事です。 それが、正しく因果応報です。 すべての真価は、 他人やその時点の社会が決めるわけではありません。 正しくは、『天の道』・『時』の審判に拠ります。 もうひとつ老子を、 先ほどの「光而不耀」の続きに、「禍福倚伏」・かふくいふく とあります。 禍(わざわい)と思って慎んでいたらそれが福の元となり、 福と思って雲の上にいるような気分でいたら、 それが禍の起こる前兆だった。 そのように禍と福とは、お互いの傍に、伏せて寄り添っているものだ。 『天』は、『自然』は、行き過ぎる事を嫌います。 丁度の所で、頃合を見るという事、引くという事も大事です。 自分が恵まれていたら、その伏流水を、次世代へ送る事も賢明です。 息子さんが栄えるには、陰徳が大事になってきます。 そして家系の男系を守る事が必須ですね。 そうすれば、 男系のご家庭で生まれ育ったお相手が、お嫁に来る事にもなります! それも、貴女の生き方の縁です。 同じ陰徳を積んだ母親に育てられたお嫁さんに縁ができるからです。 、、、それが、運を作るとも言えます。 女の子をお持ちの場合ですが、 社会的に目立つ事を、両親が、殊更推奨しない方が、いいでしょう。 特に、母親が手放しで喜ばないように。 両親が、バランス感覚を持ち、いっしょに踊らない事です。 力を誇示しない、つつましやかに、、、難しいですね! あはは。 今日のコメントの底流に流れている、無意識の水流、 伏水流である「家」と言うものについて、 いつか記事のテーマに取り上げなければと思っています。 長くなりますので、これは、また、次の機会に。 次は、『天武天皇系流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学』 へ戻ります。 藤と橘について、 聖武天皇の皇后・光明皇后の両親である 藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)についてです。 おたのしみに。 来るべくして来る『時』を、 感謝しながら、瞬間瞬間、迎え容れたいものです。 よき時を、お過ごしください! -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |