fc2ブログ

    藤原不比等 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その7

    Category : 運命学と歴史
    久高島の巨大渦潮



    沖縄、久高島の北約3キロの海上で直径約5.5キロの巨大な謎の渦を

    第11管区 海上保安本部が9月1日午前9時半ごろに発見。


    これが、ある意味、膨大な無意識のエネルギーの表出、のひとつの現象です。








    今日は、藤と橘のお話です。


    藤は、藤原氏。  橘は、橘(たちばな)氏。




    藤と、橘は、天皇に奉仕する集団の呼称である姓、「氏」です。

    もともと皇族でない臣下へ、天皇が下賜(臣下へ与える)された四つの姓

    の内の二つです。あとの二つは、平氏と源氏。 






    なんとなく、今日は”藤”だけで終わりそうな予感がします。(笑い)






    教科書的な藤原不比等は、面白くないでしょう? 



    中臣鎌足の一族はおそらく百済系の渡来人です。

    不比等は、中臣鎌足の次男です。




    鎌足の長男は、不思議な死に方をしています。

    それについては、また。





    「製鉄集団」、鉄器を製造する技術を大陸から持ち込んだ集団です。

    「中臣鎌子」や「鎌足」という名前からも、鉄と中臣の関係が,

    うかがわれます。




    砂鉄の産地であった常陸の国(今の茨城県)の

    鹿島出身の中臣氏と言う説があり、

    「製鉄に必要な火」の関係から「神と人の中を火で取り持つ者」

    「祭祀を司る者」としての中臣氏の役割が見えて来ます。






    例えば、京都の伏見稲荷神社を開いた「秦氏」などと同じ渡来人です。

    新羅系の帰化人である秦氏は絹織物の技に秀でていました。


    その秦氏が築いた朝廷での立場を

    「中臣氏」が横取りしたと考えられます。


    後の世、桓武天皇が長岡京に遷都を行いますが、

    その地は、秦氏が開拓していた山城国です。




    我々は、学校の教科書的歴史教育によって、

    「朝鮮半島からの渡来人が文字や宗教などを持ってきた」程度の

    認識を、日本人の一つの常識であるかのように

    受け容れて信じていますが、





    「古事記」、「日本書紀」には、

    それ以上の驚くべき真実が隠されています。





    たとえば、古事記の最初の方に、

    あの有名な伊邪那岐(イザナキ)命と、伊邪那美(イザナミ)命の

    結婚の話があります。


    二人で柱のまわりを反対側から廻って、出会ったところで

    イザナキ(男の神様)の方から先に、イザナミ(女の神様)に向かって

    【変体漢文・日本語】で『鞅奈珥夜(アナニヤ)』と言って

    二人は夫婦になった。 とあります。


    日本書記では、

    【正格漢文唐代北方音・語】で『妍哉乎(あなにや)』です。  


    誰も、意味は、さっぱり解りませんから、  あはは。

    普通の口語訳は、「ああ、なんていい女なんだ」 と、 (プーっ)


    あはは~! 訳されていたりする処です。    

    (なんか~いい加減ですね~!)

     


    おそらく、誰だって日本語ではない感覚を感じるでしょう? 


    これを見たユダヤ人のヨセフ・アイデルバーグ氏が、

    「イザナミとイザナギの結婚は、

    古代イスラエルから今のユダヤ人も行っている結婚式の伝統である。

    立っている花婿を天的な柱に見立てて、

    花嫁が花婿のまわりを廻って

    「アナ・ニーサ」(Ana-nisa)と言う習慣がある。



    この古事記の「アナニヤ」は、

    もしヘブル・アラム語が変形したものなら、

    「私は結婚する」の意味なのである。」と指摘しています。



    この事から、記紀の編纂された飛鳥時代には、

    ユダヤの習慣が伝わっていた事が、わかります。


    もうひとつ、陶棺という陶器でできた棺おけが、

    岡山県の久米郡に限ってたくさん出土しています。

    倉敷考古館長の間壁忠彦・葭子夫人共著の

     『吉備古代史の未知を解く』に

    「焼き物の棺は、その7~8割に当るものが、岡山県下で発見され

    しかも、県下発見例の中の7割以上が、吉備の中でも美作となる地域

    に集中していることは、あまりにも異常な事なのである。」と述べておら

    れるように、久米町の糘山遺跡や佐良山に多いのが判ります。

     
    たくさん出土した中の一つが国立上野博物館に納められています。

    棺桶の側面に一人の人物が刻まれています。

    問題はその人物が両手で触っている羊です。

    羊は神の使いですが、

    その刻まれている尾の先が太くなっているそうです。

    この羊のことを寒羊といい、中国でも見つかっています。

    ユダヤ人が中国を通って、美作まで連れてきた証拠だと、

    田村誠一氏は著書で述べています。

    川瀬勇氏は、著書「日本民族秘史」の中で、

    この寒羊はイスラエルが原産であり、この羊の毛で作ったフェルトが

    正倉院の御物の中にあると述べています。


    田村誠一氏によると、

    朝鮮の北のほうからやって来たスサノオ、

    月氏国からきたツキヨミ、中山王国から来たイザナギとイザナミ、

    呉の国から来た天照大神らとなります。



    興味深いですね!


    古代の日本には、

    中国人も、朝鮮半島の人も、ユダヤ人もたくさんやって来ていました。





    ある意味で、飛鳥は、オリエント都市、「アスカ」だったのです。


    古代も今も同じです。


    人は、生きていく為に、皆が欲しがる物を求めて日本へ来ます。


    国が滅びた時は、生き延びる為に、逃げて来ました。


    今より、国境も定めが弱く、出入国管理事務所もない!  あはは。 


    出入り自由です。


    倭国の『絹』を求めて、来たのでしょう。

    世界相場で日本の『絹』は金よりも高かったらしい。

    絹と交換の為に、いろいろな物が持ち込まれました。

    金より絹の方が運びやすいのです。

    その絹を、天皇家側と、日本に住んでいた中国人が取り合いました。



    毎年、正倉院展で見る御物を、

    『わが国の文化』という表現をする事に、非常に抵抗を感じている。

    と先のブログに書きました。


    展示されている御物は、本当に、この時代の日本人が作ったの? 

    いぶかしく思いながらいつも帰って来ます。大いなる疑問でした。


    だって、現在の技術で造ろうと思っても難しいのではないか? 


    そして教科書で習ったように、いくら交易のおかげと言いながら、

    それだけの物を手に入れる為の物々交換の文物が、

    当時の日本にあったのか? 






    正倉院には9000点以上の聖武天皇が使ったと言われる物が

    納められている、そうですが、


    そう、実は、正倉院御物のほとんどは、外国産だったのです。


    ご存知でしたか?


    由水常雄氏の『正倉院の謎』(中央公論社)によると、

    7~8世紀の御物は、150点ほどしかないと指摘しています。 



    非常に納得をし、腑に落ちた経験があります。

    学会は、これらを完全に無視をしています。

    今更、訂正をしたら困る方が、大勢いらっしゃるのでしょう。





    日本の歴史はすべて天皇家の血の争いによったものであって、

    皇族間の皇位の奪い合いと云う日本史が正しい事になっていますが、



    天皇の身内間と云う後から作った虚構を作り上げて、

    実は、さまざまな渡来人同士の権力の奪い合いが隠されている。

    東アジアを巻き込むもっと広い権力闘争が繰り広げられたのです。



    日本を巡る近隣国家との外交を見れば、今の世も同じです。



    日本人の癖は、本音と建前を使い分けて、

    真実を覆い隠して、奇麗事で済ますと言う点ですが、

    『なにでも奇麗事で済ます日本』の大元は、歴史からかもしれません。 



    歴史があまりにも奇麗事で済まされています。




    自国の歴史を、奇麗事で済ます国が、

    自国の安全保障を、本気で考えられる訳がないのです。





    藤原の姓も、鎌足からという事になっていますが、


    663年に白村江の戦いがあって、


    わが国は、反曽我、百済派の鎌足と中大兄皇子、斎明天皇以下、

    大海人皇子までが九州まで行って百済への急援軍を指揮をしています。

    そして負けています。

     


    斎明天皇が中大兄皇子、大海人皇子の母親という歴史の教科書的建前

    を受け入れてみても不思議なのは、

    女性天皇が自らと我が子、それも大事な跡継ぎを2人も連れて

    九州まで行くでしょうか? 

    百済の為にどうしてそこまでするのか? 

    戦果のはかばかしくない結果、九州で立ち往生をし、

    命からがら帰朝をしてしまうまで百済の為に援軍を出した理由は、

    何の為なのでしょうか? 

    全く、この動機が、教科書的歴史では説明がなされていません。


    この行動は当時の朝廷の一丸となった政策ではなく、

    朝廷の百済派の暴走と受け止められていた雰囲気の中で、

    中大兄皇子は九州から逃れる様に近江へ行き、ようやく即位をします。


    そういう政治情勢の中で、中臣鎌足は藤原を名乗れなかったでしょう。

    唐・新羅連合国に敗れた倭国の親百済派は失脚をしたわけです。





    天武朝(新羅国の傀儡政権)がやまと国を奪取し、天皇制度を確立、

    初めて天皇と名乗ります。

    こうしてしばらくの間、半世紀は、

    親新羅勢力による日本建国が行われました。




    藤原を名乗ったのは、持統天皇の庇護の下の不比等からでしょう。 




    こういう政治的な日本史を書き出したら、きりがないですね。(笑い)



    政治的、文化的に歴史を見る事は、意識の上からの理解です。

    意識が作り上げるものは、都合よく嘘が言えます。

    意識というものは、『陽』である限りその範疇から逃れられません。


    ウソをコテコテに塗ったくるのが、『陽』の本質です。


    世の中の政治が、そうです。

    経済さま様も、その通りでございます。  あはは。





    しかし、


    運命学的な見方とは、

    クルクル変わる現実の奥にある無意識の世界を観る事です。

    人為で操作ができないゾーンなのですよ~ 

    恐るべき、尊ぶべきゾーンです。

    私も、そこまでしか分かりません。  


    つまり、ウソを付きたくてもつけない。

    付こうとしたらいけないのです。







    では、本筋へ、 前置きが長くなりましたが~~、(笑い)


    物部、蘇我、中臣氏などが、ルーツは朝鮮だったかも知れないが、

    日本の豪族として根を張り、彼らが倭人国家の形成をした者です。





    そういう激動の飛鳥時代に、藤原不比等が出て来ます。



    まず、言える事は、前置きに書きました

    朝鮮半島の皇族の力を利用しないと倭国を治められなかった現実、

    この倭国以来の歴史を分かっていたのが蘇我氏であり、

    だから天皇を傀儡にしたのです。

    その傀儡ともいえる現実の天皇の流れを、すべて隠蔽して、

    あたかも一つの流れのように作り上げた人物こそが、

    天武天皇の正妃、皇后であった持統天皇です。




    その持統天皇に見出されて、その能力を買われ、

    天武、持統天皇系流の我が天孫、皇孫の正統性を確立し、

    後世の為に残すと歴史をねつ造する事を託された人物こそが、

    『古事記』、『日本書紀』の編纂に深く携わった人物、

    藤原不比等であろうと思っています。


    そこまで、天皇家の裏の裏まで知った不比等が、

    天皇家に迫る権力を実現するのは、楽なゲームだったでしょうね。







    前回、

    聖武天皇は、いろいろな理由で政務をしなかったと書きました。

    元々の役割は、祭祀者であり、実際の政務は豪族が行っていました。、

    そのように直接天皇が政務をしないこともあったのです。

    そういう場合は、


    政権は、天皇の血縁関係、皇族、王族に限られていました。

    いわゆる皇親政治です。


    皇族ではない藤原不比等は、持統天皇にいくら重用されたとしても、

    政権は担当する事はできませんでした。






    それで、


    なんとか


    政治権力を握る為に天皇家と姻戚関係を持とうと、

    天皇の周りの豪族は、自分の娘を天皇が関係する女性にしようと

    やっきに

    なったわけです。





    藤原の全盛時代を築いた藤原不比等は、

    659年、父・鎌足が中大兄皇子と為した大化の改新の14年後に誕生、

    10歳で父を亡くし、3年後の壬申の乱では負けた近江朝廷側とされ、

    一人、山科の田舎へ預けられ静かに目立たぬように潜んでいました。

    もしか、

    父・鎌足が生きており、壬申の乱の勝者、天武天皇側だったなら、

    朝廷の重臣の御曹司として恵まれたスタートをしたはずです。



    しかし、まさに、老子58章「禍福倚伏」の通りです。


    彼が青年期に至るまで田舎にかくまわれ、政治的に排除され


    不遇だった事が、非常にラッキーだったのです。



    なぜラッキーか?



    若い頃の苦労は買ってでもと謂いますが、その苦労が、まるで只!

    で手に入った訳ですから。    ほほっ。  

    『天』の配慮、 『時』の仕掛け、  ”運 ” の力の物凄さです。


    そう! 父親を失って、最上の成長期をすごしている事です。


    そして、権力の渦の完全な外側に居た事です。




    その間に、他者から使役された我慢ではなく、

    自然に対する辛抱を覚え、忍耐が身についたはずです。


    虚飾や虚言のない逆境の中で、身に着けたものを持って、

    (これが陰です。) 都に戻ったら、どうだったでしょうか?


    恵まれた中で、誉められ、甘言に馴れている同年代の貴族や豪族の

    御曹司たちが、不比等の目にどう映ったか?




    不比等が、『陽』である人間の造作の世界に入って行って、

    頭角を現すのは当然でした。

    田舎に付して隠れていた時の『陰』の蓄積があったからです。

    おそらくですが、持統天皇にいくら寵愛されても、

    調子には乗らなかったはずです。

    努力も、時を待つ辛抱も、惜しまなかったはずです。

    なにより、その後得た自らの地位を失うような行動はしなかった。

    親の力で与えられた地位ではなく、

    自ら這い上がって手にしたものだからです。 


    そして、おそらく藤原という血縁に、生まれた事を感謝したはずです。

    なぜなら、田舎から戻る場所を与えたのは、藤原という家だからです。


    持統朝でやっと、31歳で判事に昇ります。






    これが、運命というものです。


    運命という力が、ここまでの人を生み、育てるのです。 


    果たせなかった父親の執念も強かったはず、


    それらの無意識の陰徳が、彼を上へと押し上げて行ったのです。


    田舎の山河が、彼の揺りかごとなり、心身を守ったのです。


    価値は、無意識にこそ存在します。 




    決して、目や耳で意識できる母親の言葉や、

    偉大な先生がいたからでは、ありません。


    そういう『陽』の営みの存在は、

    その人の運命(無意識なる陰徳)が、『天』たる『時』を選び、

    必要な環境を引き起こすだけに過ぎません。 



    父親がいない方が運が開ける。そういう運の人もおります。

    子供は、誰もが理想的な環境で、力を出すのではありません。

    誰からも援助を受けない方が、伸びて行く運もあるのでます。 






    ちょうど、ここまで書いて、気が付いたのは、




    今の中国で、2年後の2012年秋、第18回党大会で


    党総書記に選出されることが確実視されている習近平・国家副主席


    の生い立ちによく似ています。




    習近平・国家副主席は、

    新中国建国に大きな功績を残した元副首相、習仲勲氏の息子です。


    それだけを聞くと、

    あ、アッソウさんや鳩ぽっぽとおんなじ御曹司?と思いきや、


    父親が権力闘争に巻き込まれて文化大革命で失脚した為に、

    彼が10代、一家は離散し、習氏も農村送りになります。


    当然、親から離れて一人でです。


    「下放」された田舎で、自分で崖をくり貫き竪穴式住居を作って住み、

    井戸掘りなどの重労働をしながら、

    夜は、ランプの光で本を読んだそうです。

    勤勉な働きぶりで村人に信用を得て入党を認められ、

    20歳で村の共産党支部の書記になる。



    習氏は、田舎で困難に打ち勝つ根性を得た。と述懐しているそうです。




    非常に、不比等と似ていませんか?


    生まれと育ち、権力の移行による社会からの切り捨て、

    親の失脚、 家族と離れた不遇時代。

    成人するまでの自然の中における育み、普通にはない苦労。


    彼らの揺籃期において、


    両親の助けは、不思議に受けていないのです!




    意識世界においては、ある意味、ゼロからの出発に見えますが、


    無意識の世界においては、豊穣な陰徳に守られていたのです。




    それが、見えますか?


    見えない? そうでしょうね~   あは!


    あなたに、それが見えるようになってほしいので、


    このブログを書いている訳です。





    本筋に戻ります。


    習氏は、お世辞にもハンサムではない(オ~、ソーリー!)のですが、

    女性にうまくアタックする所も、不比等と似ています。 あはは。


    彼の奥方は、国民的歌手の彭麗媛、大スターですし、

    「尊敬している」と言って、約半年でスピード婚だそうで、

    ゴシップでは、元愛人とされるテレビキャスター・夢雪もやはり

    美女なのだそうです~。


    これは、習氏が単身赴任の時期に起こった事で、発覚した時、 

    奥方の方から、「私が仕事を止めて、貴方の傍にいるから」と言って、

    おさまったとか。  賢い奥方をお持ちのようですワ! (笑い)



    いろ男、金も女も、ありにけり~、ですか。 (笑い)




    ついでに、申し上げますと、 (笑い)


    ここが、子供を育てる大事なポイントですよ!

    可愛い吾が子は、シュガーハウス(甘い家)や

    ハニーホーム(蜜の家)で育ててはいけません!  

    父親の失脚などで田舎へ預けられるのが良い運です? あはは。 




    ちょっと、これは衝撃かもしれませんが、



    それと、もうひとつ、大事な事を。


    少・青年期に母親と遠ざかるという事も、重要なことです。



    これに関しては、また記事にする機会があるかと思いますが、

    母親と甘えた関係になる事は、人間という生物にとって、


    害こそあって利は何もないからです。


    命と言うものは、一が単位、それで充足されているものだからです。





    藤原不比等も魅力があったのでしょう。
     

    たくさんの妻と子供がいたようです。

    不比等の時に、まず蘇我系の女性たちとの間に四人の息子を作り、

    藤原氏の基礎を作ったと言えます。




    天智天皇の近江朝廷から、 天武天皇の飛鳥へ、 そして平城へ、 


    それから平安へと、


    権力の中心で確たる磐石な体制を築いていったわけです。






    こういう不比等が、どうして?

    縣犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)美千代に出会ったのか?




    古代における最強カップルといえば、★天武天皇と持統天皇★です。



    しかし、橘三千代と藤原不比等もそれに劣らぬ ☆最、☆最強! 


    カップル、凄まじいまでの御夫婦ですね。  (笑い)


      




    次回は、美千代。


    これだけの不比等に嫁しながら奥方としては納まらず、

    男性顔負けの活躍で最高地位に上り詰め、

    娘を皇后にまでした女傑です。


    彼女は、3代先が無くなる為に、努力をした訳ではないのでしょうが、


    結果、彼女の孫の代で、最後の大仕掛けの大花火が消えていきます。


    人は、自分の孫の代で、自分の因果が見えるようになると言います。


    わが身が栄える事だけに囚われていてはだめなのですよ。


    あなたの3代先に、あなたがどうだったのか? 



    その答えが出るようです。




    自分の為の欲望を満たす努力というものは、

    このようにはかないものなのです。




    、、、、、。





    よき日をおすごしください。





















    参考文献:由水常雄著  『正倉院の謎』  中央公論社

         『常陸風土記の史的概観』  河野辰男・著

    参考: 井上友幸氏による新説・日本の歴史


    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。




    テーマ : 歴史大好き!
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    橘美千代 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その8

    Category : 運命学と歴史
    渓谷の晩秋


    錦秋の渓谷美    










    やっと、橘美千代(たちばなのみちよ)までたどり着きました。








    今回のこのテーマ『天武天皇流の天皇の女系化、、、は、


    家系と言うものは、女系化の特徴を辿りながら断絶をするという例を、


    もったいなくも天武天皇系の家系を例に書かせていただいている記事です。


    実際、藤原不比等よりも、


    持統天皇と橘美千代が主役級の人物、キーパーソンなのです。







    今日の写真は、橘美千代にふさわしい写真を、、、と、

    秋の絶景とも言うべき錦秋のあでやかな風景にしてみました。


    如何に艶やかな美しさがあったとしても、

    1ヵ月後の今、また訪れたとしたら、、、、、


    きっと、そこは薄墨色の冬景色。

    おそらくモノトーンの幽玄な世界に変わっているはずです。




    あでやかな秋色と、幽玄なモノトーンの冬色、


    どちらがお好きですか? 




    自然には、多様な植物が生きており、さまざまです。

    枯れる物、芽吹く物、入れ替わり、棲み分けていきます。


    人も、そうです。

    滅びるものもあれば、栄えるものもある。


    なぜ、栄えるのか?

    なぜ、滅びるのか?


    それが、運命学です。 





    それを行うのが、『時』、『天』です。


    人為、人智、理性や意識の入り込む隙のない、現象を起こしているものです。




    今の時代は、水深5mmの浅瀬のような思潮が流れています。


    皆が、物質的な成功を求めて、

    自分の思い通りに生きる事が、幸せだと思い込んでいる。


    今の時に、皆が追いかける成功と呼ばれるものが、本当に成功なのか?

    池の中の踏み石を、飛んで渡るような危なっかしさです!



    特に女性が...女の枠を壊してまでも幸せになろうとしています。


    本当に、それが幸せの結果をもたらすものかどうか、、、


    壮大な実験が行われているようなものです。



    思い通りになった事を成功と認識をして喜ぶのか?


    成功の絶頂期を衰退の始まりと認識をして危ぶむのか?




    その分かれ目は、『今』という時を、どう捉えるかという点でしょうね。



    今を、過去からたどり着いた時点と思うのか?


    今を、未来への出発点と思うのか?


    どちらが、よろしいのでしょう? 






    持統天皇と橘美千代は、力もあり、立派な夫も持ち、


    いわゆる女性のその時代の枠組みからはみ出てまでも、


    自己の思いをあらゆる方法で実現した二人です。



    このお二人の生き様の結果が、


    本当に望んだものが最後に手に入ったのか?


    このテーマの記事も、Vol.8になりました。


    最後まで記事を読みながら、それを確認をしてください。


    あなたの参考にしていただければうれしいです。








    では、本文へ、 不比等と美千代の出会いです。



    このあたりから、このテーマのエンディングへ向かって、

    誰が誰と、等の錯綜とした人間関係が出てきます。

    めんどうですが、注意を払いながらお読みになってください。


    嘘や誤魔化しのできる政治的表舞台の出来事よりも、

    家族として表れる裸の人間の歴史を見ようとしてください。














    不比等が, 大納言(だいなごん)になって、


    持統天皇との密約を守って、 

    初めて自分の娘を天皇へ入内させようとしたのが、長女・宮子ですが、 



    実は、不比等の実の娘ではない、紀伊の寒村から連れて帰った娘だ。

    と言う説もあります。 


    おそらくそうだったでしょう。


    入内させても、寒村生まれの育ちから来る立ち居振る舞いの齟齬は、

    周りにしっかりした命婦を付けて守らせればいいのですから。


    おそらく不比等は、自分が同時期に子供を作り、その我が子と、

    宮子が産んだ皇子と結婚をさせようと、そこまで考えていたと思います。





    願わくは、我が女児を授かり、文武天皇の皇太子と、、、



    その為に、近親結婚を避けるために、

    実の娘でない女を、娘と偽って入内させたのでしょう。



    この時代は、異母兄弟、異父兄弟の間の結婚は世間が認めていました。





    不比等が、宮子を我が娘として偽って入内させ、

    これから作る我が子との閨閥を諮る以上は、


    その子の母は、今までの子供の母親以外の女性でなければならない!!!




    その為に妻にする打って付けの女性。


    宮子を自分の娘として入内させる為に、色んな裏情報を得られる女性。






    この二つの条件を満たす人間として、


    その時に、目を付けたのが女官・縣犬養連美千代(665年~733)です。







    なぜなら、彼女は、内命婦(ないみょうぶ)として後の文武天皇になられる

    軽皇子の乳母を務め、後宮で勢力を振るっていたからです。




    美千代は、その当時、30敏達天皇の曾孫「美努王」に嫁して、

    葛城王(橘諸兄)、佐為王、牟漏女王(藤原房前室)の

    3人の子供を生んでいました。
      


    ( 多産系の女だ!と不比等は、認めたのかもしれませんワ!)  




    天武天皇時代の、皇后だった頃からの持統天皇のお気に入りの女官で、

    天武、持統、文武、元明の4代の天皇に内命婦(5位以上の位の女性)として

    仕えた奈良時代前期の女官です。 
     



    以後、橘三千代 と言います。





    694年、頭のいい不比等は、橘三千代(29歳)を、三千代の夫「美努王」が

        大宰府に赴任中に後妻とします。 



    不倫の上の略奪です。だれが不比等に逆らえたでしょうか?  



        不比等35歳です。 


    きっと、3年後に控えた宮子の入内に、必要だと判断をしたからでしょう。



    697年、宮子は、(第42代)文武天皇の夫人になります。

        紀伊(今の和歌山県)の寒村の娘は、幸せだったのか?



    701年、藤原不比等42歳、次々と重要な事が起こった年です。


        まずは、持統太上天皇に命じられていた大宝律令の完成。


    同 年、文武天皇と宮子に、★1.首皇子、つまり、後の聖武天皇が誕生。


    同 年、藤原不比等と橘美千代の間に、

        ☆2.安宿媛(あすかべひめ)つまり後の光明皇后が誕生。 





      これには、ちょっと驚きますね! 同年に子供を作って!

      

         不比等の思い通りになっています。 


    しかし、宮子は産後、ひどい鬱症にかかって一室に引きこもり、首皇子との

    母子の対面も全く無くなります。


    この事態は不比等にとって、

    天皇の外戚にはなれたけれど、次は天皇の血縁者、

    天皇の外祖父になるという戦略には、不利な状況でした。 





    というのは、宮子の産んだ皇子には、二人の競争相手がいたからです。






    文武の妻たちは、宮子のほかに、もう二人、

    特にその内の一人、嬪、石川刀子娘(いしかわとねこのいらつめ)は

    二人の皇子を産んでいました。




    しかも、この嬪は当時第一の豪族である蘇我氏の正統であり、

    藤原氏にとっては強敵であったわけです。




    不比等は、自分の戦略を達成するには、

    この嬪と二人の皇子を除かなくてはならなかったのです。



    (大化改新で蘇我入鹿は滅びても、蘇我氏自体は健在でした。) 



    それには、なにをどうすればいいのか?

    次の打つ手を、不比等の頭脳は、弾き出します。



    つまり★1.首皇子の乳母・養育係に誰をするか? です。



    もっと分かり易く言うと、

    首皇子を天皇に即位させる為の役に立つ乳母は、誰か?です。 

     


    乳母は、美千代しかいない! 


    元々、不比等のゲームソフトに戦力として美千代は組み込まれていました。


    同時に子を産んだ美千代は、大事なおっぱい・母乳も出ます! !  



    なんということなのでしょう!  あは!








    庶民の私たちには、天皇の外戚になるなんて! えっ?

    可能性も無い我々は、そんな~! と抵抗も感じる事だらけです。

    想像をしようにも、、、できない事だらけです!



    しかし、立場が違って、手を伸ばせば手に入る可能性があり、

    権力も独占して一番近くにいる二人にとっては、

    自分がそうしなければライバルにしてやられるわけですから、



    そういう目的を持つ事、考え付く事は、至極必然だったのでしょう。 




    金銭や権力にまつわる感覚は、


    それらを手にして、潤沢に意の侭に行使できる境遇に立たなければ

    分からない事なのでしょうが、


    それらを手にした人間が、「人が変わる」という事は事実です。


    金銭や権力は、常人の常識や倫理感覚をも狂わせる魔力を持つ物です。 






    きっと不比等の心一つで、決まったはずです。


    宮子が産んだ、★1.首皇子の乳母は美千代です。 



    乳母になった美千代の最大の仕事は、

    すっかり自分を信用してくれている元明天皇へ(文武天皇の母)

    宮子以外の二人の嬪たちの品行が悪い事を吹き込む事でした。



    未亡人で、しかも潔癖な元明天皇は、

    自分の息子(今はなき文武天皇)の嬪たちが、

    他の男を作っているという噂に耐えられるはずもありません。


    それで、二人から嬪という位を取り上げてしまったのです。





    何の為に? 




    ふしだらな嬪たちの、その腹から生まれた皇子達が、皇位に即(つ)く資格を


    失わせてしまう為にです! 




    ひどい話! と、思いませんか?


    しかし、やらないとやられるという権力闘争の修羅場では当たり前でした。


    凄い! こわいですね~。これが、陽の世界、闘争の世界です。 





    最、最強! 凄まじいまでの不比等と三千代の夫婦のタッグです。 



    また、三千代と不比等は、再婚前のお互いの子供同士を結婚させる事で

    お互いの一族の結束を固めようとしていたようです。


    美千代の前夫との娘・牟漏女王の結婚相手は不比等の息子、

    つまり牟漏女王の義理の兄・藤原房前です。


    また、三千代は不比等との間に二人の娘を産んでいますが、


    ひとりは聖武天皇に嫁がせた☆2.安宿媛。

    なんともう一人は、三千代の連れ子の葛城王と結婚をさせています。


    (義理とは言え、自分の子供同士でですよ!)





    とりあえずは、美千代の前夫の「美努王」は皇族ですから、

    美千代の子供は皇族になります。だから王、女王と呼ばれます。


    また、家系は、男系で継承をして行くわけですから、


    当時の女性は、皇族男子と結婚をすれば皇族になれますが、

    男性は、皇族の女性と結婚をしても皇族にはなれません。


    藤原氏は、娘を天皇に嫁がせますと、娘は皇族になれるのですが、

    自身は皇族にはなれません。




    また、当時【律令】において定められていたのは、


    ・天皇から5代までが、皇族、6代からは非皇族であり、

    ・皇族は、皇族としか結婚ができない。

    ・女性は、13歳から結婚ができました。



    美千代は不比等と結婚をして、皇族から降り、

    美千代の連れ子は、皇族のままの身分だった事になります。

    不比等の息子より、美千代の子供の方が、格が上という事ですね。




    その上、美千代は、 


    708年、元明天皇の大嘗祭の時に、

    天武天皇の時代から仕えている事を認められ、天皇の杯の中に浮かぶ橘

    を見た元明天皇から橘宿禰の姓を賜ります。 

     


    女性ですが、橘氏の実質上の祖です。 





    710年、元明天皇が、都を平城京へ移す。

    715年、平城京の第一次大極殿の完成


    文武天皇と宮子の間に産まれた、★1.首皇子と、

    藤原不比等と橘美千代の間に産まれた☆2.安宿媛は、


    首皇子の世話係が安宿媛の母親・美千代なのですから、幼いころより睦みあ

    ってお互いが理解し合った仲だったでしょう。二人が16歳になった時に、


    不比等と三千代は、自分たちの娘・☆2.安宿媛


    716年、★1.首皇子に入内(結婚)させます。
          
             
        以降、★1.首皇子は、そのままの表記で。    
       
        以降、☆2.安宿媛を、☆2.光明子と書きます。


       


    ★1.首皇子 は、病弱で気弱であり、臆病でした。

    反対に、☆2.光明子は、明るく気丈であったと思います。 


    女系の典型的なご夫婦ですね!  あはは。 







    毎年の正倉院展での私の個人的な感想ですが、

    写経など☆2.藤三娘(光明皇后)の御筆跡を拝見しますと、

    横に引く線は細いが、縦や払いの線の幅は太く広く、力強い激しい筆使いで、

    女性とは思えない剛毅な感情の持ち主だったと想像します。


    几帳面に揃えた経の文字の並びからは、しっかりした強い意志と、

    ストレートな感情表現、力を抜かない律儀さを感じます。 



    ☆2.藤三娘とは、藤原家の3番目の娘という意味で、

    書などのサインには、光明皇后は、ご自分の事をこう書かれています。


    光明皇后の筆力は雄健と称されているようです。





    この結婚以外に、三千代はもう一つ、

    首皇子に一族の娘・県犬養広刀自(ひろとじ)をも入内させています。

    彼女の出身の県犬養氏は、中級の貴族ですから、

    本来、皇太子に入内というのは無理な家柄です。

    これは、娘・☆2.安宿媛が跡継ぎを産めない場合の安全弁

    だったのでしょう。 





    717年、三千代が2階級昇進して従三位となり、正式に「貴族」となります。



    718年、★1.首皇子★17歳と、☆☆2.光明子17歳に、

         
        ☆3.阿倍内親王が誕生。=後の孝謙・称徳天皇です。






    720年に不比等が亡くなるまで、あと2年。

    この頃が、美千代と家系にとって、ピークの時期になろうかと思います。





    持統天皇の時以来、自分が仕える女主人に、完全に気に入られ、

    寵愛を受ける美千代も、実力派ですが、


    その力を見抜いて妻にし、利用した不比等とは、、、 


    いかばかりの男であろうか?  (笑い) 





    古事記や日本書紀の編纂を通じて、

    密かに知りえた天皇を取り巻く権力闘争の実態の歴史のかずかず。


    それから学んだ事は、難くないはずです。

    このご夫婦には、舌を巻きます。 まったく、無敵艦隊そのものです。 (笑い)




    しかし、無敵と言う事は、怖いことですね。

    人界に敵なしとは、天をも恐れない事かも知れません。


    誰よりも強い人は、『天』にやられるしかない。

    『天』とは、『時』。


    『時』を敵に廻すとは、、、自然淘汰。


    叩いたから、叩かれた。  あはは。

    目先のちょっとした因果応報ではありませんよ。


    叩かれないのですよ。やさしく愛撫されるように・・・

    気が付いた時は、もう手遅れ。取り返しが付きません。


      

    原因から10~30年掛かる因果応報が一番怖いのです。 


    『天』・『時』には、逆らわないように。。。 



    人間も植物も、同じです。


    自然に合わなければその種は、絶えます。




    物質文明に酔って、寝言を言っている場合ではない。


    無意識にこそ叡知が、存在する事に目覚めて、、、。


    これが、このブログを書いている動機なのです。。




    次回は、不比等が62歳で亡くなった所からです。





    女の出世は、手を叩いて喜んでばかりいられる場合ではないと、、、


    世のみなさまに、参考になさっていただければ、


    と願っています。



         



    よき時をおすごしくださいね。




























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。




    テーマ : 歴史大好き!
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    聖武天皇 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学   その9

    Category : 運命学と歴史
    越塚御門古墳


    大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる「越塚御門(こしつかごもん)古墳」/7世紀後半


    2010.12.12 奈良県明日香村での現地見学会で大勢の考古学ファンらが全国から訪れ、

    硬い石英閃緑(せんりょく)岩を加工した精巧な石室に熱心に見入っていた。(YOMIURI ONLINEより)










    前回の『 天武天皇流の天皇の女系化、、、』 Vol.8を


    アップした翌日 2010.12.11 に、


    飛鳥時代の女帝、斉明天皇の孫であり、天智天皇の娘である


    大田皇女の墓とみられる「越塚御門(こしつかごもん)古墳」↑ が、


    斉明天皇の墓所である牽牛子塚(けんごしづか)古墳の前で、


    発見されたという報道に接しました。


    何故か胸がドキドキして。。。 






    日本書紀の

    『 斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬する。皇孫大田皇女

    (みまごおおたのひめみこ)を陵(みささぎ=斉明天皇陵)の前の墓に

    葬る 』 の記述を裏付ける第一級の発見だそうです。



    斉明天皇は女帝で、天智天皇と天武天皇?の母にあたる人です。






    このブログでも、『 女帝1 / 天武天皇流の天皇の女系化と、、、』で


    大田皇女の事は、取り上げています。  

    大田皇女についてはここをどうぞ



    大海人皇子へ嫁いだ天智天皇の5人の娘の長女で、正妃でした。

    大海人皇子が天武天皇に即位をした時に、皇后になるべき女性で、


    2人の子供、大伯皇女7歳、大津皇子5歳を残し20代で夭折します。

    この二人の子供は、母方の祖父である天智天皇に引き取られました。


    大田皇女の代わりに妹が皇后になります。 それが、持統天皇です。

    あろう事か、後々、

    持統天皇によって彼女の産んだ大津皇子は粛清されます。


    そういう悲劇的な、日本人のDNAにとっては、”義経的な同情感”

    判官びいきの民族の心を刺激する要素がある皇女なのです。



    “悲運のプリンセス”

    すこし、イギリスのダイアナ妃を慕う感情に似ているかもしれませんね。




    その皇女が、祖母(斉明天皇)に守られるように眠っていた。

    その事が、1300~1400年の時を越えて、

    現代の私達の心にさざ波を起こしたようです。


    午前中だけで1500人を超える考古学ファンが詰めかけ、

    感嘆の声を上げながら人々は、石室を眺めたという事です。





    約、3ヶ月前になりますが、


    平城京遷都1300年の佳節の年の去る9月9日、

    マスコミの報道で、


    牽牛子塚(けんごしづか)古墳に、


    墳丘のすそを八角形に囲む敷石や石室を囲んだ巨大な石柱が出土し、


    天皇クラスの墓に限定される八角形墳だった事がわかり、


    斎明天皇陵と判明したというニュースを知って、


    この『天武天皇流の天皇の女系化、、、』の記事を書く気持ちになった


    のを思い出し、時の不思議さを感じています。 





    斎明天皇陵については、現在、次の両説があります。


    A.『日本書紀』に、天智6年(667年)2月27日、 

    斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を、

    小市岡上陵(おちのおかのうへのみさざき)に合葬したとあります。

    これらの古墳を造営したとされるのは、

    斉明の子、間人皇女の兄、大田皇女の父である天智天皇です。

    近江へ遷都をする前に、自らの母親、妹、娘を同時に葬った場所です。


    Aにより、宮内庁は、現在、

    高取町車木(くるまき)の丘陵の山頂に築かれた車木ケンノウ古墳を、

    斉明天皇と間人皇女を埋葬した越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)

    として、その前に築かれた大田皇女の墓を

    越智崗上墓として管理しています。



    B.ところが、『続日本紀』の文武天皇3年

    699年、には奇妙な記事があって、10月20日、 
    文武天皇は、

    「越智山陵」と「山科山陵」を新たに造営するよう命令を下したと言う。


    「越智山陵」は斉明天皇の墓で、「山科山陵」は天智天皇の墓である。




    もしこの二つの山稜の造営が事実ならば、

    斉明天皇の亡骸は間人皇女の亡骸とともに、

    小市岡上陵から八角形の牽牛子塚古墳に改葬されたことになる。

    従って、今年9月に発見された陵墓である。となります。



    しかし、この時には、文武天皇は16歳です。即位が同年8月ですから、

    天皇になって2ヶ月で、こういう命令をしたとは思えない。


    天皇陵を八角形とする案を考え出したのは、若き文武天皇ではなく、


    持統上皇が、夫の心酔した道教の思想に基づいて、


    彼女は一族の天皇陵を八角墳へ改造することを命じたにちがいない。




    しかし、宮内庁は、13日の定例会見で、

    「 現時点で陵墓の指定見直しまでは考えていない」と述べています。


    学会もそうですが、

    官という処は、革(あらた)むると言う事ができないですね。

    なにのシガラミもなく革むる事ができるのは、

    尻軽い庶民ですね~。 あはは。




    前にも書きましたが、このあたりの歴史を見直して見ると、

    納得がいかない事が、非常に多いのです。


    田村皇女の墓発見について書いた前置きが、長くなりました。



    そろそろ、


    本題の方へ、進みましょう。










    時は、斉明天皇の治世から60~70年後、奈良時代の終り、




    藤原不比等と橘美千代の孫の代へ、


    天皇家は、天武天皇と持統天皇の曾孫の代になっていました。






    政治体制は、天皇や皇族を中心にした皇親政治から、


    とうに、藤原氏を始めとする天皇の外戚(母方の実家)が、


    実権を握るようになって行ったのです。





    権力を掌中にした不比等が行った外戚政治、摂関政治というものは、


    娘が天皇と結婚をして皇子を産まなければならない条件下です。


    人にとって

    最高の慶び事である孫の誕生と言う、自然の恵みである摂理を、


    自己の権力欲の為には、

    それすらをも利用をする。為なら何でもするという


    不比等の”仁義なき戦い”の凄まじさを前回の記事に書きましたら、





    それに対して、次のようなコメントをいただきました。



    素朴な疑問なのですが、

    この時代には、もう儒教が入っていたのでしょう?=

    なぜ、どうして、倫理観が低いのでしょうか?=

    それが、人間のサガと言われればどうしようもないですが。=

    知って悲しい事、歴史にはたくさんありすぎですね。=





    本当に、そうですね!


    不比等が編纂に深く関わった『古事記』・『日本書紀』によると


    4世紀末、百済国から王仁博士が論語10巻・千字文1巻を携え渡来し、


    日本国に漢字と儒教を伝え皇子に教えたとあるのに~。 

    王仁博士の墓


    あはは~! どうなっているの??

    私も、大きな声で言える立場ではございませんが、、、


    ”論語読みの論語知らず ”? (爆笑)




    儒教が、どれだけ

    当時の天皇や貴族の生き方の中へ受容されていたの??

    優秀な頭脳ですから、知識として頭は覚えているかもしれませんが、

    心、精神まではとてもとても~! 及んでいない!   あはは。

    この時代のあらゆるもの、古事記や日本書紀、律令制度、仏教、等々は、

    中国の唐に対する示威活動、日本が対等な国であると見せるための

    セットアップだったのではないかと思います。 


    いわゆる、《万国博覧会》。


    唐の皇帝から認めてもらいたい一心で、突貫工事的にしたものでしょう。

    だから、嘘もある。 まゆつばもある。 そんなものでしょ!

    それをやったのが、天皇家の筆頭ブレーンである不比等です。 





    唐の目線に付いていくのに精一杯!

    形だけの国体を整えたのではないか。

    日本は、いつもそうです! 戦後もそう。

    民主主義、平和憲法、男女平等、個人の人権、、、

    未だに、どういう事? あはは。 誰も判っちゃおりませ~ん!!


    あははっ~! (笑える話題を提供してくれていますが、、、)



    まず、知識欲、知性と呼ぶものを総動員して、

    そして、入りやすいのが交易、商売からですね。 次が技術、、、。

    日本は、今、そこです。

    これでいいと、思ってしまうのです~!

    技術と知性と理性だけで生きていると錯覚してしまうのですね。



    最終戦争は、思想戦だと言う事が、判っていない。



    手と足の部分は、さっさと真似をするのですが、

    心の奥、精神に於いてはいつも”もつれ”ています。

    も~う!転びそうなくらい!  あ、もう転倒している? あはは。 

    .....かも知れませんワ! あはは。





    あぁ、また、主知主義の亡霊に出会いました。 (笑い) 







    時は、元正天皇の在位、


    等しく比べることすら不可(でき)ないほどに優れた不比等が


    720年、日本書紀を完成して、62歳で亡くなります。

        不比等死後、藤原氏の跡を継いだのが、藤原四兄弟。

        武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、

        宇合(うまかい)、麻呂(まろ)



    不比等の莫大な遺産の大半は、妻三千代を経て

    光明子に受け継がれます。




    まだ聖武天皇、光明子、19歳です。アンバランスな出来事です!



    膨大な財産を受け継いだ妻を持つ聖武天皇。イヤまだ皇太子でした。


    運命学で言うと、典型的な女系の運命のひとつの象です。

    女性の側が、どういう理由であれ経済力があります。



    即位まで、あと4年。藤原氏の後ろ盾で即位を控えた皇太子は、

    光明子に頭が上がらなかったでしょう。


    しかも、光明子は、まだ皇后でもないのです。夫人でもない。

    皇后になったら、どうなるのでしょうか?


    聖武天皇は、光明子のお尻に敷かれたのでしょうか?  (笑い)


    あは! 失礼な冗談は、さておきです。


    このあたりから、不幸の予兆が錯綜として出て来ます。 


    不幸の予兆とは、男より、女が栄えていく姿が顕著になる事です。





    721年、三千代が正三位に叙せられ、

        同じ年元明天皇の危篤に際し出家。 



    721年、皇親勢力を代表して長屋王(不比等の娘婿)が政務を担当。

         長屋王は天武天皇の孫で、その妻の吉備内親王は元明天皇の

         子。夫婦そろって皇族です。


               



              ☆ 42・聖武天皇 《在位25年》

     


    724年、★1.首皇子が、聖武天皇として即位。在位724~749

    724年、☆2.光明子が、夫の即位と共に後宮の位階である夫人号を得る。


        これより、★1.首皇子を、★1.聖武天皇 と表記します。

             ☆2.光明子は、そのままです。


     

    727年、★1.聖武天皇☆2.光明子共に23歳の間に★4.基王が誕生。
               
                  生後一ヶ月でが立皇太子される。


    天皇や皇太子には成人であることを求めた当時としては、

    きわめて異例です。


    これには、天武天皇朝の皇位継承者の夭折という悩みが続いていて、


    安定した跡継ぎに恵まれないコンプレックスが、あったためでしょうね。 


    どれだけ確実な跡継ぎを望んでいたのか、胸の痛いほど判ります。 




    『天』は、不比等を失った美千代に都合のいい事ばかりを与えません。


    又、ここが、聖武天皇、光明子、美千代にとって運勢の頂点と言える

    でしょう。


    次々と、不幸の予兆が襲って来ます。




    728年、 ★4.基皇子が、病気により逝去。死後は那保山に葬られます。


    そして、この生後一ヶ月でが立皇太子された★4.基皇子の死去より、






    やさしい聖武天皇の基皇子の死に対する嘆きと悲しみが、


    後のこの皇子の供養のための寺が、

    大仏殿の建立へつながって行きます。



    ★1.聖武天皇について、最後に少し述べてみたいと思います。


    聖武天皇は、生来病弱だったのと臆病で、やさしい性格でした。

    現代の草食系男子?(笑い)

    もっと格段な品格がおありだったはずですが、


    天武天皇系皇位継承者が、ずっと女性天皇だった為に、

    男性の継承者として、きっと大事に過保護で育てられたはずです。

    在位25年の間、25回の行幸と、いく度かの遷都を繰り返しています。



    自分に徳がない事への自戒と伝わっていますが、

    実は、自分が権力闘争で襲撃されるのが恐かった為に、

    常に居場所を移動していたという説もあります。


    あまり側近を信用できない事情があったのかもしれません。



    その証拠かどうか、実は正倉院の御物で最も多いのは、


    聖武天皇の武器と兵器です。 



    聖武天皇は、行幸や度々の遷都のたびに、

    その兵器を移動させています。


    それはどうしてか?


    臆病なやさしい聖武天皇は、藤原家との婚姻関係から来るプラス面、


    マイナス面では、権力闘争の巻き添えになる事、

    その身に迫る身近な危険を感じて

    避けていたのかも知れません。 



    また、聖武天皇は仏事に専念した為に、

    政治の事は、藤原氏、橘氏が支える光明皇后にまかせっきりでした。



    お可哀想な聖武天皇 !! 





    可哀想という形容詞が、男の方には失礼な言葉なのですが、、、





    事実、そのおびただしい数の武器兵器を、

    光明皇太后が聖武天皇の七七忌に、藤原氏の氏寺であった興福寺に

    おいて法要を行い、

    当日、聖武天皇が使っていたものを正倉院御物として、

    東大寺の盧舎那仏に奉献したとされています。


    この時に奉献したものを記した『東大寺献物帳』が残っていますが、


    初めに、光明皇太后の天皇に対する哀悼文が記され、

    奉献品の目録があって最後に、五人の署名があります。



    この『東大寺献物帳』の内容、及び東大寺の盧舎那仏に御物を奉献した


    事が、この五人の発案で為されたと云うのが、由水常雄氏の見方です。 




    その五人の署名とは、


    (光明皇后の甥で孝謙天皇の従兄)
         藤原朝臣仲麻呂は中衛府の軍務長官。


    (仲麻呂の従兄)藤原朝臣永手は大倭守の長官。

        
    (巨万は、高麗・コマ)巨万朝臣福信は、中衛府の軍務次官。


    (鴨角足)賀茂朝臣角足は、兵馬を管理する馬監。
      

    (和気広虫の夫で和気清麻呂の義兄)葛木連戸主だけが、上級官吏。     


    この五人は、各地域の最高幹部であり、特に、軍事顧問なのです。 



    正倉院御物の、目的は? 


    政権の軍事顧問が亡き天皇の兵器や武器を集め納めたものなのか?


    これは、何を意味するのでしょうか?




    また、聖武天皇の移り住んだ平城京、難波宮、恭仁京。

    そして、全国に作られた国分寺国分尼寺を想像する時、


    それらを、すべてを日本人で作る事は、不可能であり、


    大工だけでなく、瓦を焼く、石切り、中国人の技術者を抜きにしては


    考えられない、、、


    結果として、中国人が多く住み着いていた場所に国分寺を作った。


    その目的は?


    絹の産地における、交易の為の絹の天皇家と中国人との取り合い、


    飛鳥時代には、想像する以上の中国人が日本のあちこちに住んでいた、


    その時の、中国とは、唐です。


    それに対する懐柔策だった、、、。 



    という説もあるようです



    先に、持統上皇が、夫の心酔した道教の思想に基づいて、


    天皇陵を八角墳へ改造することを命じ、、、。と書きました。


    持統天皇の夫とは、天武天皇。


    八方位で世界を表す道教の思想に基づく八角形の墓。 




    天武天皇の時代は、儒教より、仏教より、道教が受け容れられて

    いたのか。。

    では、飛鳥人は、何を、心から信じていたのか?

    真実は、判りません。

    しかし、私達が歴史で習った様な仏教一辺倒ではなかったようです。



    推理作家の松本清張氏が、東大寺二月堂の修二会=お水取りの松明の火

    の特徴を、BC1500年~BC1000年頃、古代ペルシャで起こった拝火教

    ゾロアスター)の影響があると指摘をされています。 

    前にも言いましたが、


    古代の飛鳥は、オリエンタル都市だったに違いありません。


    当時、流行った疫病や天変地異を、神道で祈ったり、

    仏教で調伏を祈願をしたり、

    何かがあると、あれをやったりこれをやったりしていたようです。



    おそらく、持統天皇が、跡継ぎの悩みを解決しようと、

    道教に頼ったおかげで、


    それまでの歴代の天皇のお墓を八角形に改葬したのか?


    しかし、

    依然として跡継ぎの悩みは、受け継がれ、ずっと付きまとっている。


    どんな権力を行使し、惜しみない努力を以ってしても、


    皇位継承者としての健康で強い皇子の存在が実現できなかったのです。





    当たり前です。権力は、『陽』の事象であり、


    命の正しい継承は、『陰』そのものに因るからです。



    『陽』の事象が、『陰』そのものをコントロールする事はできません。



    影が動けば、体が動く? そんな事は聞いた事が、ないでしょう?


    体が動いて、初めて影が動くのです。


    『陰』は『陽』の本体なのをお忘れなきように、あそばせ!





    命と、権力とは、対極にあるもの。


    だから、つい140年前まで、権力の交代は権力者を殺す事でした。





    だから、世界の覇権の奪い合いも、戦争であり、兵器なのです。


    こうして見る時、聖武天皇が武器兵器を大事に持ち歩いていた、


    この点で、聖武天皇は、まぎれもなく『陽』男だった!!のです。


    『陽』は、男、知識、競争、権力、戦争、命の略奪です。 






    その対極にある、『陰』とは、何なのか?


    なぞなぞです。  皆様でお考えあそばせ~  あはは。





    今日は、”基皇子の死去”まで。


    続きは、安積皇子の誕生からです。



    これから、すべてが暗転してエンディングへ転がっていきます。。。


    どうぞ、おたのしみに.....















    今年最後の、墓参旅行へ、今夕から出発します。

    コメントのお返事が遅くなると思います。

    よろしくお願いします。














    参考文献:由水常雄著  『正倉院の謎』  中央公論社

    参考資料:応請矩明氏 橿原日記

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。




    テーマ : 歴史上の人物
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    傀儡 1 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その10

    Category : 運命学と歴史
    吉野


    持統天皇がよく行幸をされた 奈良・吉野















    今日は、★★安積皇子の誕生からです。






    その前に、ちょっと、ちょっと、前置きを、、、。 (笑い)






    多くのご相談者の人生の問題、悩みについて、運命鑑定をしていますと、

    その悩みの原因が、運命的などうしようもない出来事というよりも、

    ご本人の物事に対する捕らえ方=認識の誤りにある事が見えてきます。



    その間違った認識を正しいと勘違いしている事こそが、

    人生や生活面の苦難を作っていると言う事が、見えてきます。






    人は、自分や、自分の周りの事象について、

    好き嫌いや、感情に依るだけでなく、

    真実のありのままを観ようとする姿勢が大事です。




    正しく認識をするという事がとても大事です。 

    それなくして、自分の幸せはありません。






    それをいい加減に扱って、事実を知ろうとしなければ、 

    それ自体が、自分を迷いの中に閉じ込めると言う事です。

    迷う自分に馴れて、いい加減に扱うのは決して良い事ではないワ!

    周りを軽く扱うという事は、自分を軽く扱うと言う事ですよ。





    何事も建前ではない実際の姿を知る必要があります。


    誤った認識を正す事で、物の見方が変わり、

    障害物と思ったその奥が見えるようになります。 

    そうすれば、、、

    自分の周りの世界を、

    もっとhappyに受け入れられるようになれます、、、。




    そう、自分が変われば、周りが変わるのです。

    正しい認識を持つ事が、本当に大事です。



    たとえば、

    多くの人は、自然、宇宙に対する認識では、だいたい似ています。

    しかし、政治や仕事、結婚などを

    共通の認識で統一するのは難しいですね。


    その一番、多くの人と認識を共有できたらいいと思う物が、

    国を同じくする同士の母国の歴史ではないかと思います。

    祖国のありのままの歴史の共通認識を持つ事が、

    なぜ重要性なのか?は、


    現在の世界や日本の社会が抱えている問題の根っこの多くは、


    個人の精神が抱えている問題に結びついています。


    そして、その問題は、時間的にさかのぼりますと、


    その国の遠い歴史の中に同じ根っこが続いています。 




    今の日本に住む、あなたの個人的な問題の根っこは、


    現在の日本の問題を凝視する所に現れ、


    日本の今を作り上げた過去の歴史の中につながっています。


    古きは、新たであり、新しきは、昔なのです。



     

    言い換えると、

    自分のささやかな幸せを守るためには、

    社会の奥に潜む巨悪を知り、

    社会の底に流れている昔からの悪と戦わなければ、守れないのです。 


    だから、私達は、

    自分の為にも国史は知っておく必要があるという事です。

    知る事で開放され、知る事で許し、乗り越えられる壁もあります。

    その歴史は、

    できるだけ当時の人間の息吹が感じられる生々しさで、

    通じる心が自分の中にもある事をリアルに体感できる歴史がいいのです。

    学校の歴史教育も、そういう歴史が語られる事が本当は必要です。

    若々しい柔軟な心の内に、

    将来の人格形成の基になる母国の歴史が、投影されていけば、

    将来の世界へ貢献できる社会観、歴史観を培ってくれ、

    私たちの精神の中に、同じ民族の血脈が流れ、受け継がれ、

    国が栄える事、人々が幸せに豊かになる事へ

    つながって行くのではないか。


    リアルな歴史を自分たちで探して行く努力は必要ですね。


    今の日本は、日本史を必須教科にしていませんね。

    ------- 大事と思っていない。


    本人自身が大事と思っていない国柄を、世界の誰が、

    重んじてくれますか?


    自分の国の歴史を必須にでき得ない国柄とは、

    いずれ、周りから値打ちのない国として扱いを受けて

    抹殺されるはずです。


    あははっ~! さもなくば道具扱いです。

    小商売の道具。。  。





    前回の記事に、

    次のようなコメントをいただきました。 


    道教の影響・・・この時代、

    儒教よりも影響力が強かったのですね。


    また、ゾロアスター教の影響も・・・興味が絶えません。


    そして、次回は「陰」の答え合わせから始まるのでしょうか・・・。 





    あは! そう言われるとしない訳にはいかないかなぁ~?!  

    あぁ、長くなりそう~(笑い) 

    今回は、余裕がないのでお許しくださいませ! 

    このシリーズが終わって、必ず取り上げたいと思います。

    よろしくお願いします~!




    ちょっと原理原則だけ、申し上げて置きますね。



    『陽』は、意識できます。

    知識ですから言葉で表現できます。

    『陰』は、意識できません。

    言葉で表し難い、表現し難いものです。

    言葉で書いても、

    その認識の違いが誤った理解を生むかもしれません。


    ある時に、『陰』は、こうだと書く場合もありますが、

    文の上に現れる表現よりも、

    いろんな文脈から伝わる物からお察しくだされば

    見えない物を手探りで探すという苦労で、

    『陰』が掴めるかも?です。 










    では、本文へ



    国の一番の不幸が、襲って来ます。

    国の一番の不幸とは、皇太子の夭折です。


    不幸な事柄が起きれば、次の不幸を食い止めようとするのが普通です。

    それが、なぜか?


    知恵者の不比等を失った藤原家は、

    その息子達の藤原4兄弟と三千代で

    この不幸を、より拡大する方向へ物事を進ませてしまうのです。


    大きな出来事として、次の二つがあります。


    一つは、☆2.光明子を無理やりに皇后に立てた事です。


    二つは、10歳の☆3.阿倍内親王(=女児)を皇太子に立てた事です。


    どちらも、当時の社会の道理に反しています。

    藤原氏の私欲の為でした。

    どちらも、藤原氏、三千代の思うがままに物事を実現させていきます。

    つまり、横暴により物事を突貫工事したのです。 横紙破りですね。



    人生、望みを実現させたからといって喜ぶのは、

    まだ早い、じゃなく

    これは、凶事だと受け止めるのが謙虚で正しいのです。

    大木の枯死する前の狂い咲き。

    そう受け止めるのが運命学の観方です。

    大木が壊死するのは、根っこからです。

    根が枯れ始めたのは見えません。

    数年をかけて根は力を失っていきます。 





    根が再生不可能なのを知って、

    それから大木は、幹や枝でできる事、持てる力を振り絞って

    枝という枝に次世代の種の保存の望みを賭けて花を咲かせます。





    花は咲けど実は実らず.....






    異常に異様に多く、たくさんの花です。

    それが、社会的に見たら、

    ほんの短期間の”成功”と言う姿でしょう。

    人間の、自分の浅はかな五感に騙されてはいけません。 





    自然の山の中の木なら、

    「今年は、花が特にきれいだなぁ。」

    と眺めて印象に残るそうです。

    翌年、同じ所を通る時に、

    大木が枯れて倒れているのを発見をして、

    その大木が、昨年、

    通りすがりに異様に花を付けていたという記憶を

    思い出すのだそうです。

    人間も、植物と同じです。


    花が異様に満開になってからでは、遅すぎるのです。

    なぜなら、それは衰微の前兆だからです。




    権力の美味に慣れた藤原氏と美千代は、

    どんどん道理を犯して行きます。


    もっと!もっと!と

    熾烈な権力闘争を繰り広げるわけです。





    728年、★1.聖武天皇と、☆2.光明子との間の

    第一皇子、★4.基皇子が生れて直ぐに立太子をしたにもかかわらず、


     、1歳になる前に病気で亡くなります。その同年に、


     *県犬養広刀自と、★1.聖武天皇 の間に★★第2皇子が誕生。


     、 これが★★安積親王・あさかしんのう(728~744)です。

     

      
     *県犬養広刀自 = 橘美千代が、自分の出身氏族の県犬養から入内を

                  させた娘です。





    第一皇子が亡くなったなら、

    皇太子には第2皇子をと思うのが普通ですよね。

    それは、失う物の何もない庶民の考えなのです。 あはは。 




    権力を掌中に入れていた藤原氏に取れば、

    藤原の血が流れていない皇子が天皇になる事は、

    絶対に許されない、あってはならない事なのです。


    「このままでは皇太子の座を安積親王に奪われてしまう」と、

    考える藤原四兄弟にとって、

    広刀自が産んだ安積親王の存在は、邪魔者でしかありません。





    しかし、


    いくら藤原四兄弟でも、

    切っ掛けがなければ、安積親王に手は出せません。  

    手が出せる機会を、

    虎視眈々と狙いながら、あの手この手の策謀を練ります。







    その一つが、☆2.光明子が生んだ☆☆3.阿倍内親王(女児)を 


    728年、、わずか10歳で皇太子に立てます。



    ①②③
    の出来事が、同じ年に起きた事自体が異様です。


    ★4.基皇子が、亡くなった為に、

    いかに藤原四兄弟と、美千代が慌てたか!その様子が読み取れます。




    誰が為の行動か?


    藤原氏が、自分の氏族の血を引く天皇の実現の為です。 

    自らの繁栄の為の、権力の絶対掌握の為でした!

    その布石の第一歩。 呆れるほどの執念です!



    これは、”無理を通せば、道理が引っ込む。”権力闘争の典型例です。




    (あぁ、こわい) 



    権力の行使で、血統の継続ができるものではないのです.....


    こうして第2皇子の存在を無視して、

    女である内親王を皇太子に立てると言う

    歪んだ継承を無理やりに実行する。

    悲劇が悲劇を生む構図を自ら構築していくのです。。。 






    権力が人間の持てる最高の力だと、誤った認識をするのです。



    仏教も、儒教も、道教も、どこにもそんな事は説かれていないワ!

    まったく正反対の教えばかりですよ。

    どれも権力を嫌っています。

    まったくわかっていないなぁ~。




    ひょっとして、不比等の作った神道の教えでしょうか?


    神格化された天皇なら何をやってもいいのだと...?

    神だから権力を行使して欲望を達成してもいいのだと...?


     (お~こわい! もっと、もっとこわいことが...)


                                     

    藤原四兄弟は、それだけでは満足をしませんでした!

    もっと自分達の政治的権限を永続させる為に、、、
       


    10歳の☆3.阿倍内親王を皇太子に立てただけでは

    満足しませんでした。

    なぜなら、

    ☆1.聖武天皇が死去して、

    皇位継承権を持つ長屋王が次の天皇に即位をしたら、、、

    藤原氏の栄華はなくなるからです。


    そうならない為には、

    「光明子を皇后にして、天皇亡き後、天皇の代行者にしよう」と

    踏んだのです。 

    欲と言うものは、果てしがないのですね。 


    次に、四兄弟は、藤原出身の光明子を皇后へしようとします。 

    もちろんこの藤原四兄弟の横行ぶりには、

    大きな二つの障害がありました。



    一つには、

    政務を担当していた長屋王は、

    ☆2.光明子の立后に反対でした。


    二つには、

    皇后になれるのは、当時、皇族のみと決まっていました。



    理由は、皇后という立場は、

    夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるので、

    律令そのものに、皇族しか天皇になれない決まりがあって、

    皇族でない女性は立后されないのが当時の慣習だったのです。

    夫人や嬪としての位しか無理だったのです。 



    光明子は臣下の不比等と三千代の娘で、皇族ではありません。




    位から言えば、皇位継承権の順位は、長屋王、その妻の方が上位です。

    それを飛ばして、

    皇族でない不比等と美千代の娘が皇后など、とんでもない!

    皇位継承権の高い順位にいる長屋王にとっては、もっての外!

    だったのです。




    長屋王の方が正しく、これは律令の規則、道理でした。



    しかし、それを認めて、諦める藤原氏ではありません!  


    藤原四兄弟は、 ★4.基親王の死を利用して、

    長屋王を粛清する機会を見逃しませんでした。  



    ★4.基親王の死は、長屋王の呪詛によるものだと言う噂を流します。


    ☆1.聖武天皇に長屋王の罪を訴え出ます。


    ★4.基親王の死を悼んでいた☆1.聖武天皇は、心を動かされ嫌疑を確かめさせます。


    藤原宇合率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を取り巻くと、

    長屋王は服毒自殺をします。これが、 

     
    729年、長屋王の変です。  
      

        反対勢力の筆頭、長屋王が居なくなって直ぐに、
        ☆2.光明子は非皇族として初めて、


    729年、☆2.光明子が皇后になる。701~760



        ☆2.光明子
    を以下、☆2.光明皇后と書きます。


      

    それから4年後、孫の★4.基皇子が亡くなった不幸はありましたが、

    15歳に成長をした皇太子の☆3.阿倍内親王を見届けて、


    733年、美千代が、68歳で死去します。死後に従一位が与えられます。 




    736年、美千代の死の3年後、美千代の橘の姓は、


    美千代と前夫・美努王との長男・橘諸兄(もろえ)が継ぎました。



    橘諸兄へ橘姓を賜った時の☆1.聖武天皇 のお歌。(万葉集)




    橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木



    橘は実まで、花まで、その葉までも、枝に霜が降ることがあっても、

    枯れるどころかますます栄える常緑の木である。 







    737年、不比等の息子四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が全員、

        天然痘に倒れて死去します。

       
    この藤原4兄弟の姉妹である光明皇后は、

    これを長屋王の祟りだと考え恐れおののき、

    次に死ぬのは自分だと恐れたのです。


    このような時、天皇家の打つ手は、祟り封じの儀式です。

    神道による「長屋王の怨霊」の祈りは、

    猛威を振るう天然痘の前には通じずに、

    仏教による怨霊鎮魂で一応天然痘は沈静化し、

    光明子の命も無事でした。


    この事件を機会に、

    天皇家と日本は大きく神道国家から再び仏教国家へと動き出します。 





    朝廷のほとんどの官僚が天然痘に倒れて死んだ中、

    助かった役人の中で橘諸兄が一番の高位であったと言うわけで、


    738年、橘諸兄が大納言になります。

    741年、国分寺建立の詔

    743年、東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出す。  

    744年、☆1.聖武天皇の残った唯一の皇子★★安積皇子が16歳で急死

         します。 

        藤原仲麻呂に毒殺されたという説があります。


    741年、恭仁京へ、743年、紫香楽宮へ、744年、難波宮へと変遷し、

    745年、やっともとの平城京に戻る。 

       



    749年、娘の☆3.阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位。

        史上初の男性の太上天皇となる。

       
    756年、☆1.聖武天皇 56歳で崩御。   
             



    よくぞ、56歳まで生きられた。と言う感想を持ってしまいます。



    曾祖父・天武天皇の崩御は、65歳でした。


    それ以来、女系化した家系の中で、

    男性の皇位継承者が夭折を繰り返す中、

    聖武天皇が、初めて壮老年期まで生きられた男性の天皇です。

    それと同時に、系列の最後の男性の天皇になります。


    ご立派な御生涯だったからこそ、

    女系のなかでも長命であられたのでしょう。



    身近な帝王学の見本である父・文武天皇を、6歳で亡くし、

    母親は精神をわずらい、37歳まで対面をしていません。

    自己のモデリングとして学ぶべき見本になる父・天皇がいない、



    おそらく、そういう意味で、

    ご自分の男らしさの確立に、ず~っと悩み続けられたのではないか?

    内面の男らしさを実現なさらないまま来られたのではないか?






    女系化した家系では、このように男性性が発現しにくくなります。




    お可哀相に、その代償のシンボルとして、

    自己の内面の男の性のシンボルとして、

    常に武器・兵器を持って、遷都と行幸を繰り返されたのではないか?

    これは、心理学的な分析ですが、


    運命学の見方において観ていきましょう。




    女系化した家の構成員においては、役割が転倒します。

    女が、男性化、社会化し、政治や経済を担い、

    反対に男性の社会における完全な社会化を達成する事が困難です。 

    天皇家と庶民の違いこそありますが、

    これは、女系の家系で、絶家に至る最後の男性が辿る同じ道なのです。 






    本来なら、男性性の本番である政治の舞台の真っただ中で


    活躍するべきはずが、


    皇后側の実家・藤原氏に握ぎられた政治の実権のありようは、


    ご自身を傀儡の如くに思われたのか?


    天皇としての自負心が高ければ高い程、それには満足ができないはず、


    まず実質としての役割から自ら外れた聖武天皇にとって、


    御自身の心の拠り所として、仏教を求められたのか?


    ご自分の中から、光り輝く新しい時代を切り開く為に、


    毘盧舎那仏の像立は、ご生涯の成し遂げねばならない目標だった。



    ならば、私は、

    聖武天皇がご生涯を掛けて信じた

    毘盧舎那仏に大疑を起こして、聞いてみたい。



    何故に、聖武天皇の系流が、強くたくましい皇子の跡継ぎに恵まれ、

    結果として、今の代まで続かなかったのか?

    他のだれびとも真似のできない仏教を信ずる力、行ずる力を

    具現された聖武天皇ですら、

    その願いが、叶わなかったという事は、

    毘盧舎那仏には、結果、その仏としての力はなかった!



    と、思わざるを得ない。


    毘盧舎那仏は古佛(役に立たない)ですね! あはは。


    なぜなら、大旦那の聖武天皇の願いを叶える事をしないなら、


    他の誰の願いを叶えるのですか?   




    人と生まれて、功なり名を遂げて、最期の人としての望みは、

    自己を継ぐ若い命です。

    私の所に集って来る、ご相談者の家系の場合において、

    祖父、曾祖父である男性が、ご自分で心中を吐露される事は

    珍しいですね。

    簡単には、お口にはされない。 しかし、、、、、、

    しかし、その配偶者である奥様が、代弁をされます。


    『主人は、跡継ぎが居ない事を、ずっと申し訳けがないと、、、

    寂しい事だといつも言っています。息子が3人もいて、

    どうして孫が一人も生まれないのでしょうか? 』 




    最近、こういう驚くべき事象のご相談が、多くあります。

    運命学の絶家に至る事象として多く見られます。





    2代、3代、女系化した家系に、この後、強い男児が続く事はまれです。

    たいていの場合、ひとり娘、娘が二人続きます。

    それが、最後の子孫になるようです。


    いわゆるピリオッドを打つ為に生まれて来たような...娘です。 





    そして、現実には、家系の最後の『陽』の開花の現象をみます。


    女性の社会化、職業的成功、

    独身貴族、子供がいない結婚生活等の形が、

    いわゆる、子供が生まれない、

    生まない事があたりまえの人生を営む姿が、


    わが子供の人生に展開されています。









    そして、象徴的なのは、孫の顔を見る事ができません。

    我が子が、結婚をしない。しても子を成さないのです。 








    あれだけの、持統天皇、橘美千代の為した懸命な努力は、


    どこへ行ったのか? 何の為だったのか?


    あの策謀の結果は?




     



    きびしい、『時』の裁定です。



    どのような場合でも、半端な人間であるわれわれに正義があるなんて!

    あり得ません。

    あると思うのは、思い上がりでしかないでしょう。

    しかし、『天』は、正義の本体です。

    『天』は、『時』であり、

    その『時』は、同時に『宇宙の運行』であり、

    『宇宙の空間』そのものの配置です。

    それは、私たちの意識し易い『時』として道理を指し示します。






    このブログの読者の皆様も、

    ご自分の『空間』を見回して検証をなさってみてください。






    『時』を経て、何が具現されているのか?

    『天』の摂理が、何を示そうとしているか?


    おそらく、何かが、、、気が付かれるはずです。







    年末、年始の厳かな時期に、

    大きな宿題を出してしまいました!! あはは。




    これが、今年最後の記事更新になるかもしれません。



    次回は、

    いままで頂いて溜まったコメントへお返事を書かせていただきます。



    又、その次は、いよいよ、

    聖武天皇の一人娘、内親王から皇太子になった最後の女帝、

    孝謙天皇=称徳天皇の最後まで。


    このシリーズの大詰になります。






    ことしは、いろいろお世話になりました。


    コメントを、毎回欠かさずお寄せくださった方、

    本当に、ありがとうございました!!


    毎回、ご訪問いただいた方、

    支えてくださった皆様へ感謝のお礼を申し上げます。



    来年も、また、よろしくお願いします!



    良い、お年を!































    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。




    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
    プロフィール

    寂光ーcosmos

    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

    最新記事
    カテゴリ
    月別アーカイブ
    最新トラックバック
    最新コメント
    メールフォーム

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    QRコード
    QRコード