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    .。.:*:.。..。 思い出の 海 .。.:*:.。..。.: 五行学の水の徳は、『智』 

    Category : 東洋思想
    2011.2..17



    海のなぎさ 潮騒の音 をどうぞ~!











    今日は、五行学の水の徳・『智』についての記事です。


      


    波の音には,

    1/ f (エフぶんのいち)と云う揺らぎがあります。


    周波数が高くなると音のエネルギーが小さくなって行く                    

    規則性の音と不規則性の音が程よく調和したリズムが、                                           
    人を心地良くしてくれます。



    それは、耳で聞こえない超音波も含み、                                       
    人がリラックスした時に表れる脳波・アルファ波を活性化するからです。
                                  



    このゆらぎは、

    耳ではなく、皮膚や骨を通して体のなかに入ってくるのですね。                      
     
    五感以外からも人の脳は刺激を受け取っている訳です。
                                                      



    音楽は、耳から、

    色彩は目からと云う訳ではなくて、

    人間は、もともと、

    自然からの刺激を身体中で受け止めています。

    そして、生きる力を養っています。




    目に見えないエネルギーで生物の生命は生かされ、

    生命力を与えられているのですね。


    あたりまえですが・・・ 







    大人になって都会の中に住んで、幾久しく、

    今は、自然の山、海に接する機会は、めっきり少なくなりました。


    しかし、自分の胸に意識を当てて、

    心の中をのぞいて見ると、

    真っ青な空が広がり、

    その下には、濃い深い緑色の海があるようです。



    こんな事を言いますと、笑われそうですが、


    私は海、  私の体の中は空、



    そう云う感じがします。



    ほほっ。




    実は、数年前に、

    ネットで知り合ったあるブロガーのなかで、

    自分の感覚に非常に近い世界観を持っている人だな、と思った人がいます。

    だいたい、記事にしている内容も常にシンクロして、

    人間に関する深い洞察の切り口で、今の文明に決して振り回されていない。


    不思議な縁を感じるものがありました。


    何かの時、その人が、書かれていたものの中に、

    子供の頃、家から数分で行ける海で、一人で遊んでいた。

    鎌倉の海だったそうで、その頃は、空と海だけの浜辺で、

    完全に一人の世界で日没まで遊んだ子供時代だった。

    自然の中で一人で毎日を過ごした事が、自分の人格を作った。

    と云う風な文章を読みました。





    なるほど、

    子供時代に受け入れた世界が、同じだったのかもしれない。

    目からも、肌からも、毛穴からも、

    海の気配を吸い込み、

    空のさやけさを取り込んでいたんだ。

    きっと、そうだ。  そう思ったことがありました。



    子供の頃の柔軟な鼓膜で海の音を日がな一日聞いて、

    海の波の鼓動で息をして、

    自然に見守られて育った人だった。



    自然に愛されて、自然を信じて一体になった時間を持った同胞。


    空の子、  海の子、  光の子、




    子供の頃、

    毎日裏山の頂上に、駆け上がって登り、 

    そこに、ちょうど公園があって、

    ブランコを漕ぎながら、藤棚の椅子にすわったり、

    陽が沈むまで空や雲を飽きずに、毎日見ていた思い出があります。





    気が向けば、海辺へ走って行き、

    岸壁のはしごで海浜に降りて、砂や岩の間を歩き回りながら、

    さざ波の打ち際で、我を忘れて時が経つのも気がつかずに、

    日がとっぷり暮れるまで、遊んでいました。




    私は、一人で海へ行くのは恐かったので誰かいつも一緒でした。

    たとえば、海へは、地元の漁師の家の友を誘い、

    山へは、転勤族や、農家の子である友を誘い、

    ずっと海と空の間で、遊んだものでした。


    胸に染み入るような毎日の夕焼け、

    日が沈んで夜の黒い海に変わる狭間の怖い自然の気配が、

    妙な恐怖感となって襲ってくるぎりぎりまで、

    夜の海の前で、どこまで耐えられるか立って見ていました。



    自然の恐さを、確かめていたような.....


    自然は、ある所まで行くと怖い存在です。

    本当に、自然に吸い込まれてしまいそうな圧倒的な臨場感に、

    それでも、自然に対峙してみたい好奇心と冒険心があるのですね。








    引き潮で沖の岩礁まで行って、

    岩場に座って、水平線辺りの外国船の船影を眺めているのが好きで、

    時が経って気がつくと、周りは潮が満ちて!




    満ち潮の海に、沖の岩礁に一人残されてしまい

    あわてて、必死で海の中を、

    海が追いかけてくるような恐怖心を感じながら、   

    海岸へ向かって海の中をバシャバシャと、、、、、 あはは。




    自然のなかの遊びは、

    ディズニーランドのような気が利いたアトラクションはないけれど、

    ほんものの、ドキドキが、あります。






    今考えると、なんと幸せな時代だったのかと思います。                        





    この恐怖心に誘われて、自然の中へ行くのかも知れません。


    那須高原で、福島の白河へ出る道を走っていますと、

    人工物がまったく見えない、

    空と雲と、自然のままの木々と山々に取り囲まれる場所があります。

    360°そういうロケーションに囲まれて、

    大地に襲われそうな恐怖を感じます!     ふー!



     いつもぞっとします。



    たとえ冒険心の為でも、

    自然の中では、人間は、絶対に調子に乗ってはいけないのね!

    自然に対する安全は、きちんとした時間と距離をとる事だと、

    たとえば登山は、給水とカロリー補給、体温調節と休憩が大事です。

    自然の真っ只中では、

    自らの欲望と力、自然の変化に対応するバランス感覚、

    自律するしか、命の安全はないのです。




    自分の身は自分で守るんだぞ!  調子に乗るな!

    自然は、そう、教えてくれる。


                                                                                                              












    身近な自然が、住宅や工場で埋め尽くされるまで、

    生活の周りには自然そのものがありました。                                                                    
    それは、余りにも膨大にありそうだったから、大事にしなかったもの。                            
    只で無尽蔵に、ある事が当たり前と思って、大いに無駄にしてきたもの。
                            
    『陽』の利益の為に、破壊し、真っ先に無視して犠牲にしてきたもの。                                                          


    それこそが『陰』の本体、

    生命を誕生させ、育む場としての地球の自然です。




    それこそが、『 陰 』 そのものだったのです。 





    以前の五行の火の徳についての記事の中で、


    火の徳である『礼』は、

    邪心、不義、邪悪を鎮めます。

    今でいう、邪悪の焼却、消毒ですね。

    衛生、清潔、正しく命を守り、人の命を崇める思想の始まりです。 



    と、書きました。








    今日は、水の徳である『智』についてです。 



    水の徳である『智』は、

    単なる知識、知恵ではありません。


    知識や知恵や経験の積み重ねが、

    心身に蓄積されて、消化され、物事の道理や本質が見えるようになる。




    それが、『智』です。


    さらに道理や本質に従って浄化され、核心まで昇華されてから、

    物事の(原因)、(その動向)、(その結果)を予測できる

    優れた智恵となったものを、『智徳』といいます。






    丁度、水が汚れや不浄なものを洗い落とす洗浄力のように、

    物事の道理や本質を見通す智恵の力が、

    不当な考えや、無理、偏見、独善の汚れを洗っていくのです。 





    水は、愚かさや無知から来る濁悪性を洗い清める智恵の力を意味します。



    そして、水の性は、どこまでも水平です。

    そして、その水平のまま、どこまでも、流れ入って行きます。

    どんな隙間にも !!です。


    水の形は、器に従う。と云いまして、

    どんな形にも納まって行きます。


    この融通無碍(ゆうづうむげ)な本質こそが知恵そのもの。

    どんな環境にも合わせられる、自己執着のない、囚われない性質。
     


    柔軟性。


    そして、どの器に捕らわれても、水の水平と云う『天性』は失わない。 










    単なる知識や知恵(ノウハウ)では、徳性はあり得ません。




    なぜなら、知識の段階では、善悪どちらにでも加担できるからです。

    知識は、エゴイズムと云う魔性を克服していないからです。

    知恵(ノウハウ)も、そうです。



    それらは、魔性に利用をされます。



    魔性とは、自分の命の永続のためには、他者の命を踏み台にできる事です。 



    これが、『陽』の本質です。

    ゆえに、学問の知識で、人生を考えてはいけないのです。






    ”知”という字は、矢と口です。


    矢を持ち、天に誓う言葉を入れた入れ物が口です。

    矢とは武器、命を懸けると云う象形、印です。


    入れ物に入れた天に誓う言葉には、嘘がない、と命を懸ける。

    それを”知る”と言うのです。

    それが、( 知る )の原義です。


    天に誓う言葉に嘘がない事を、命で保障する。=”知る”なのです。



    嘘がないと命がけで誓える事しか、知ったとは言えない。

    嘘である事を知っても、それは、「知」ではない。   えっ!




    すぐに嘘になるものを、

    そんな簡単に”知った”と言ってはいけないのですね!  あはは。








    ここが、「知」と「智」の違いになります。


    だから、単なる知識を増やす事=学問をする事は、幸せや陰徳とは比例しない。

    そう、反比例する場合が多いのが現実ですね。  

    だから今の学問は、膨大な知る・知識の集積ではあるけれども、

    新しい学説が出れば、嘘になる。



    その知を利用して、

    つかの間の知恵(ハウツー)を売る。

    本にもマスコミにも、ネットにも、

    その類の情報が、あふれかえっているのが、今です。

    これらは、信じて買っても、すぐ不信になります。





    『時』の経過でもって嘘になるものを智恵とは言わない。

    無意識の井戸から智恵の水が汲み上げられなければ単なる雑学です。



    徳性に結びつくかどうか、そこが分かれ道です。

    「智」は、即、陰徳を積む行為なのです。

    そういう意味で、実学と言えるかと思います。



    ついでに、「智慧」は、仏教語です。

    「智慧」は、無意識の領域ですから、

    人間の前頭葉が生んだ意識、理性では、到達できず理解ができません。






    今のこの『陽』の時代において、

    女性こそが、知識や知恵(ハウツー知恵・やり方、方法)を身につけて、

    経済活動と云う陰徳の消費活動に没頭するよりも、


    智恵(道理)の武器を持たなければなりません。



    水は、器に従う、しかし、水平という天性は失わない。と云う事、

    すこし、考えてみてくださいね。




    あ、でも器が小さければ、溢れてしまいますね、、、 あは!


    このように知や知恵があり過ぎるのも、良くない。

    運命学では、水が多すぎる命式も、おばか、と言います。  あはは。

    おろかな知恵=邪知=だます、だまされやすい運になると云う事です。




    邪知に、土の徳『信』が失われる現象=不信が重なると、

    不信が社会にあふれ出すと、人をだます邪知が出てきます。

    (土の徳性、『信』ついては、いつか又、くわしく。)




    つまり、不信が、突っついて邪知を出動させるのです。

    つまり、不安定な大地が、多大な水を動かすのです。



    つまり、大地震が、大津波を起こします。



    東洋の思想は、自然と我とが一体です。

    我の意(意識+無意識)が体、自然が影。






    体が曲がれば、影が曲がる。


    それが、東洋の叡智です。




    影と云う自然は、ただ、単に、目の前に、

    海という、水という、物が有るのではありません。

    地理学で習う地形がそこに、有るだけではありません。



    人間が、産んだ物でも、作った物でもありません。

    人間の肉体を構成する元素が、そこにあり、

    この『陰』の本体の場から、産み育てられたのが、我々人間なのです。



    人間の脳の働きである意識で作った西洋学問の知より深く、

    宇宙の無意識の領域にまで、またがる広大な智恵の存在を、


    どうか、信じて、

    両手の中にすくい上げて、

    飲んでみようと、思ってください。


    それしか、魔性を乗り越える方途は、ないように思います。








    あ、雷が鳴っています。


    自然はライヴですね!



    すてきな夏の一週間を、お過ごしくださいね。





































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    《 近代化の影 3.》 ー 西欧のお茶目 と 西洋功利主義 ー

    Category : 運命学と近代化
    どこへ続く道


    どこへ続く道





    今日から、お盆ですね。 

    今日は、7月31日にメールでいただいたコメントへの返事を

    中心とした記事になります。



    テーマは、西欧のお茶目 と 西洋功利主義。






    まったく意味がわからない! ?   あはは。



    全体が、謎めいてすこし難しくなるかも知れません。  ほほっ。


    文字面は理解しにくいかもしれませんが、

    文字を追って行くだけでいいので、お読みいただいたら

    あなたの無意識へ、入っていくようにしてあります。


    行と行の間に、大事な物をはめ込んでありますから...

    言葉や知識にならなくても、

    それが、あなたの無意識へ掬い取られたなら、それだけで幸甚です。 

    さいわいです。




    ご了解くださいね。      ほ。





    まず、コメントのご紹介からです。


    編集で、①、②、③を付け、少し割愛致しました。



    ① 欧州には嘘っぱちでしかないと見破られても、

    キリスト教とギリシア哲学の融合という素地を

    必死で守ろうというお茶目な面を感じます。


    ② わが国には「禅の精神と教義を待たぬ神道がありますが、

    それを同じ土俵の上で勝負しているように感じられますね。


    ③ 努力して云々などは共産主義、市場経済至上主義同様の

    設計主義が見られます。

    これが、日教組がこれらを大切にする所以だと思いますが。。

    設計主義は正しいのかという命題に対して御することができるのは、

    我が国のような存在しかないものと思いますが、それ故に、

    戦後とりわけ我が国の秩序破壊を徹底的に行ったということなんでしょう。 









    コメントのお返事で、冒頭から唐突なのですが、

    「言葉」と云うものについて考えて見なければいけないと思っています。

    「言葉」については、またキチンと記事にするつもりですが、

    今日は、簡単に、次の点だけ扱いたいと思います。



    言霊 と云って、言葉そのものに魂があるとか、力が具わっているとか、

    云いますが、近代化以降、その霊力は衰えて来ていると思っています。



    つまり、言葉の意味する内実が、中身がなくなっている...

    つまり、その、、、今の日本人の言葉の現状は、


    もともとの、東洋的思想の言葉の入れ物の中に西洋的思想の内容が、

    摩り替わって入ってしまっていると云う現状です。




    その原因は、

    いままで繰り返し書いて来た訳ですが、

    142年間の日本が近代化の研修を受けて来た功罪にあります。


    きょうは、その罪の方について少し記事にしながら、

    ① の西欧における ”お茶目な面”を、いっしょに感じてみましょう。

    ② もその中に自然に入って来ると思います。

    ③ は、割愛させていただきますね。  よろしく!



    キーワードは、ヤドカリです。    あは!


    ”お茶目な面” 

    常々、私も、西欧についてはそう思っていました。






    その前に、確認したいのは、

    ★ 日本の近代化は、

    西洋文明の学問や技術、知識だけを取り入れたと思っているが、

    実は、それでは済まなかったと云う事です。


    そして、同時に、

    ★ 142年前の近代化から昭和20年の敗戦で、

    私たち日本人の頭と心が、からっぽになった!のでしたが、

    空っぽになっただけでは、現実は済んではいないと言う事なの。

    戦後の66年間に、その穴へ何が入ったのか?





    ★なぜ、運命学のブログで、ここまで近代化に拘るのかというと、

    今の日本には、近代化の結果として、

    『陰徳』を消去している現状があり、それを憂うからです。★




    このブログで難しい記事を書かねばならないのは、

    すべては、ここに理由があります。








    終戦記念日が、又、巡って来ます。

    いつもこの頃に、世間に出て来るのは、

    日本が、その時に、どうするつもりだったのか、、、、、と言う、

    緻密な政治における歴史の調査による論調です。


    ○○と云う政治家がああだった。 こうだった。  。。。と。




    しかし、振り返って、私の頭の中を占めるのは、


    そんな当時の政治家がどうしたと云う卑近な事例から見るよりも、


    『因果応報の時』が、主役で、

    『時』が、すべてを伏線に仕込んで、今があると思えるのです。






    142年前の明治維新は、

    徳川の鎖国を、《 欧米列強の圧力 》によって開国させられた。



    そして、また、



    明治維新から76年経った = つまり、

    今年から66年前の第二次世界大戦の敗戦処理で

    国家神道と云うわが国の頭と心の中身を、

    そっくりそのまま、《 また、欧米列強の連合軍の圧力 》によって、

    お払い箱にさせられた。


    実は、

    この事が、明治政府において準備されていたとしか思えないのです。




    えぇ! 当然、

    維新の政治家が、意識で解っていたと云う事ではなく、無意識です。


    明治維新と云う現象を生み出した無意識界に存在するその原因が、

    無意識に戦後の喪失を準備していたとでも言いましょうか?






    (ちょっと、むずかしくなりました...ね。)






    明治維新の時点で、76年後の(日本の頭と心が空っぽになる事を)

    明治政府が解っていたのだ。

    と、云うのは、


    ざっくり言いますと、


    戦勝国である欧米列強の連合軍が、

    わが国の頭と心の中身を、そっくり全部を、お払い箱にしやすいように、

    過去の日本の精神性=わが国の頭と心の中身=仏教寺院と神社を、

    グチャグチャに打ち砕いて粉々にして、

    国家神道と云う風呂敷に、、包んでしまっていたのですね !






    なんと用意周到な!  

    あきれる馬鹿、ではない!         あは!

    あきれるばか・りの予知能力というのか、

    今の日本の頭と心の空っぽを実現する為に、

    その為の下ごしらえを、明治維新に完璧にやってのけていたのです!  

    明治政府が、国家権力総動員でやった事です。   


    なかなか、こう云う事は、企ててもできる事ではない。

    これこそが、『時・天』の企てでしょう。

    過去のある因に対する応報として現象化したのです。

    なに? どう云う因?

    不思議な(意識で捉えられない)事です。





    国家神道と云う風呂敷に、頭と心の中身の全部を、包んだ。とは?


    具体的に云いますと、

    明治維新からの狂気です。

    国家権力による神祇官再興・祭政一致という幻想です。





    明治政府は、

    西欧列強が一神教と云うキリスト教の信仰を持っている事が、

    彼らの強さの土台にある。と見抜いたのですね。


    そして、この強さに対抗する為には、

    日本古来の八百万の神の従来の神道では弱いと思ったのですね。

    そして、仏教の思想を用いる事もあり得ない。


    なぜなら、明治維新の思想的バックボーンは、

    朱子学派=後期水戸学や、後期国学の「尊王」「勤皇」の考え方でした。

    しかし、「尊王」「勤皇」と云っても、

    明治天皇は若年であり、

    維新政府の政治思想基盤は、「尊王」「勤皇」しかない脆弱さ、

    政府の権威を確立する為には、

    天皇を絶対化するしかなかったのでしょう。

    何らかの強いイデオロギーが必要であった。それなのに、



    主知主義化した朱子学派=水戸学派と、

    朱子学を含む儒教を排斥する後期国学しかなかった。のです。

    両者は、「尊王」「勤皇」で、一致しているだけでした。

    しかし、それが明治維新を実現するバックボーンにはなったのです。




    後期水戸学は、臣として仕える頂点は天皇である。

    将軍ですら、天皇の臣である。と云う考え方であり、

    国学者である賀茂真淵や本居宣長は、儒教を漢意(からごころ)とし、

    仏教を外国から来たものとして排斥し,

    『古事記』や『万葉集』『源氏物語』などの古典を通じて

    古来の神々から連綿と続く古道というものを追求し、

    その真の姿が天皇に受け継がれていると云う考えです。






    ここで、私見を挟ませていただければ、


    国学者の儒教を漢意(からごころ)=中国の教え、と云うのならば、 
    国学者が使っていた漢字は、どうなのか?

    漢字こそが、漢意(からごころ)そのものではないのか?


    また、『古事記』『万葉集』『源氏物語』などの古典を日本の物と言っている

    が、表記は漢文、もしくは漢字が混じっている。

    又、『古事記』や『万葉集』の著者については、

    朝鮮語、中国語のネイティブスピーカー、=つまり、

    中国や朝鮮半島からの亡命者などが書いたものではないか

    と云う研究も出て来ている。


    「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」著者の藤井游惟氏の研究


    厳密に言えば、

    わが国の文化で、他国の影響を受けていないものがあるのか?


    『源氏物語』においては、紫式部が、仏教の法華経の信者であった事、

    その底流に流れる無常観こそが仏教からのものである事が解っている。

    国学者のその主張は、少し見当違い。と思っています。




    まぁ、そう云った朱子学を受け継いだ水戸藩の学問や、後期国学派が、

    わが国の近代化を目指して行く日本固有の精神規範に成れたのか?

    成れて日本人の頭と心が空っぽにならなかったのなら、

    文句ないのですよ。



    日本固有の精神規範に成れていないから、今の憂鬱がある訳です。

    西欧列強と伍して、やって行く事のできるイデオロギーだったのか?

    それは、まったくの見当はずれだった訳です。

    後期国学派ですら、日本を守れなかったのです。


    いや、逆に、日本固有の精神規範を失う事を促進したのです!



    この歴史の結果から学ぶ事は、力のない、中途半端な、

    つまらない物は舞台に出て来ないようにする事です。

    結局は、それらを復古すると云いながら、その衰亡のリズムに合わせて、

    日本国自体が、戦争をし、負けたのです。






    維新政府は「尊王」「勤皇」の先を見て、

    日本の西欧列強からの生き残りと、

    維新政府の政治目的の実現のために、

    天皇の絶対的な優位性を

    確立するための理論作りをせざるを得なかった。


    「祭政一致」の「王政復古」という形で、

    彼等(水戸学や後期国学者・国体神学者)を利用したのです。






    維新政府にとって宗教は、政治の中に入るものだったのです。

    裏を返せば、

    江戸時代末期に滞留していた水戸学派、後期国学派の思想は、

    最後の衰亡の花火を揚げたのです。

    つまり、「祭政一致」の「王政復古」として実現の花火です。


    『陰徳』と結んでいない、滅亡の前の『陽』の現象は花々しいのです。

    絶家のそれとおなじように.......












    このような天皇を神とする神道国教化の下準備として、

    明治政府は、神仏分離政策を行いました。






    1868年、明治新政府により出された神仏分離令です。 


    その意図は、

    単に神を仏から分離し、仏を廃するという意味ではなくて、

    記紀神話や延喜式神名帳に記された神々に、

    歴代天皇や南北朝時代の功があった臣下を

    神として加えるのが目的であり、

    その最底辺に産土神を配し、

    それ以外の神仏は排斥、廃滅の対象とするというのがその目的です。




    これをきっかけに全国各地で*「廃仏毀釈」運動がおこりました。


    * 仏法を廃し、釈迦の教えを放棄する事。

    明治政府の神仏分離令に基づく寺や仏を排斥する事。

    地方の神官や国学者が扇動し、

    一部の過激な神道家と徳川時代の仏教の檀家制度の下で

    寺院に搾取され我慢をしていた民衆がこれに追随し、

    第二次世界大戦の敗戦まで、

    各地の寺院や仏像、仏具の破壊が行なわれました。







    これは、一体どういう思想でそれは行われたのだろうか?


    その主体は、誰だったのか?


    一時的であったにせよ、その破壊のエネルギーの源は?





    今の時点で結果として思い浮かぶのは、

    いろいろな疑問が沸き起こって来るなかで自明なのは、

    唯一神道家、平田派、後期水戸学などの影響を受けた



    後期国学者たちの狂気の沙汰、結果であったであろうと云う事です。


    最終的には挫折した行動にせよ、

    勢力としたら極一部の神道家や国学者の狂気が、

    一時的にせよ、どうしてそこまで全国に波及していったのか?

    また、なぜ その狂気が許されたのか? 

    それは、

    国家神道の製造、成立の為の国家権力であったろうと思います。 





    画して、明治政府は、

    明治維新から76年後の敗戦により、

    戦勝国である欧米列強の連合軍が、

    わが国の頭と心の中身を、そっくり全部を、お払い箱にしやすいように、


    過去の日本の精神性=わが国の頭と心の中身=仏教寺院と神社を、

    グチャグチャに打ち砕いて粉々にして、

    国家神道と云う風呂敷に、包む事に努力をし、鋭意務めたのです。






    すなわち、

    政治とは冷徹で狡猾で浅ましいものです。

    自己の政治権力の確立の為には、役立つものは全て

    政治的に利用します。



    真のヒエラルキーの上も下もなにもない。 ぐっちゃぐちゃです。



    味噌も糞もいっしょ! 


    現代のみそもくそもいっしょは、ここから始まったのかな?




    これこそが、『陰』を失くした『陽』そのものの政治の実態です。

    自我の存続の為には何でもする。 周りを犠牲にするのです。





    死を恐怖とする臆病な意識がする事は、こんな事です。

    これが、人間の前頭葉に与えられた役割なのです。



    人は、前頭葉だけでは、死に絶えるまでの闘争をするでしょう。

    意識だけなら、救いはないでしょうね。




    国家が、自己のエゴイズムの為に

    すべてを利用をして造った風呂敷包み、



    その中には、わが国の、それぞれの時代の天皇が、

    外国から学び取り入れて来た培った精神があった。

    儒教も、仏教も、我々の国民性を培った大部分の頭と心の中身でした。



    それを、ぐっちゃぐちゃに壊して廃棄して混ぜ合わせたもの。

    その風呂敷包みを作ったほどの維新政府の国家権力が、

    たったの76年後に、

    それ以上の戦勝国連合国権力によって、叩き潰されるとは!!!


    そして、頭と心の中身を包んだ大風呂敷(国家神道)を、

    失う事になろうとは.......



    『時』のみぞ知る。

    これは、『時』が、用意周到に仕組んだ伏線としか言いようがない。 







    よって、日本には66年前の風呂敷の糸屑が残っています。


    西欧の一神教に負けた日本の国家神道の残滓です。



    よって、66年前から日本人の頭と心は、

    中身を失って、、、、、、

    空っぽになった穴が! 大穴ができたのです!    あはは。





    からっぽの穴がいつまでも空っぽのままであると云うのは、

    実にむずかしい。


    空っぽになった穴には、何かが入って行く。


    大抵は、ホコリやゴミが、吹き寄せられて溜るものなのです。


    さぁ、日本人の頭と心の穴には、何が溜まったのでしょう?




    それまで積み上げた善悪という道徳的な価値なんか、

    どうせつまらない!

    しょせん苦痛や快楽という感覚的なものさ! と、云って欲を制する道徳から、

    快楽をもたらす行為こそ、それは善であり、

    苦痛をもたらす行為こそ、それは悪である。

    と云う功利の価値観に置き換えたのです。 



    社会のあらゆる人権者に対して平等に適用されなければならない。

    と云う個人主義を生み出した訳です。 


    社会における個人の持つ快楽(=善)の総量が最大で、

    苦痛(=悪)の総量が最小となる社会が 理想の社会である。



    他者を害しない限り何をしてもよい自由


    これらを原理とする功利主義と云うヤドカリが、来たのですよ! 



    この現状は、よくおわかりですね!

    私たちの目の前の惨状、

    心を痛める現実そのものです!




       

    このヤドカリ君が、棲みつきやすいように、

    142年後の今の現実を、実現する為に、


    明治維新は、日本人の頭と心に詰っていた中身を、すべて、

    国家神道なる大風呂敷に、ご丁寧にも包んで、

    敗戦と云う現象を最後に、GHQに捨てさせた!



    殻を借りて住み着くヤドカリ君が、

    日本人の空っぽの頭や心の中に住み着いたのですね。  

    そう! 近代化で、西洋の学問や技術や知識と共に入って来た。




    気が付かなかった?

    だって、何がって、

    それは学問だし、科学だし、西洋の知識でしょう?



    たしかに、そうなんだけれども、

    そんな単純じゃないのよ。


    技術を受け入れたり、知識を吸収するにつれて、

    西洋の概念がヤドカリのように私たちの日本人の頭、心の中へ

    ホコリや塵(ちり)のように溜まりだして、

    はや、142年。






    あ・れ・か・ら・142年! 

    ヤドカリが、穴の真の主人のようになりかけていますが、、、





    その卑近な例として、

    前の記事に、(自由と平等)を扱ってみたのですが、、、


    つまり、東洋的思想を捨てた空っぽの日本人の頭と心の中に、

    西洋の学問や技術や政治制度の外側の部分だけではなくて、

    西洋のお茶目な心の部分です。

    それが、入り込んでしまった!!!

    日本人にはなかった価値観を、脳は一生懸命に受け入れて、

    意識を生み出す前頭葉は、必死に生き延びる事だけに

    齷齪(あくせく)して来た結果です。




    さほどに、前頭葉も、お茶目ね!

    シナプスをつないで、生き残る術を必死に探して66年です。








    それが、何が? 

    もう、なにが自分をコントロールしているのか分からないまま、

    自分は日本人だって事も忘れている?   


    日本列島に住んでいるけれど、何人だったっけ? ・・  


    あはは?





    ヨーロッパと云う所は、

    見せ掛けはキリスト教一本のように見えて、

    実は、その下にはヘレニズムの神々が隠れているのですね。



    キリストが現れて、と云っても、

    彼は、自分で、自分は神だなんて言ってません。


    また、キリストはヘレニズムの神々の子ではない。

    血統が違うのですね。




    じゃぁ、その関係は? となって、


    どっちが正しい神なのか?  と、

    西欧社会は、

    実は、”無神論”と云うロジックも厳然と論じられる社会でもあるのです。



    そこは、前に記事に書いたと思います。


    それにふれないで(どっちつかず?のまま)

    聖書に手を触れて宣誓をする。

    厳密に言えば、おかしな、

    でも、清ましてそれをやる所など、無邪気というのか、

    絵本の中の出来事のように、シャーシャーとやるのね。




    チチンプイプイ! とね。  あは!


    そこが、かわいいなぁ~と思うと仰るのでしょう?

    コメントの①の部分に共感です。







    そのヨーロッパというところは、キリスト教でいろいろ儀式をやりながら、

    頭の前頭葉では、人間の脳を使って多種類のロジックを生産するのです。


    そして、世界中に、撒き散らしては、世界を巻き込む。

    そこが、実にうまい! セールスがうまいのですね!   あはは。



    と、そんな感じで、



    たぶん、キリスト教だけでは飽き足らない人間の脳が、

    またまた作り出した

    ヨーロッパの近代化に影響を与えた西洋功利主義。




    それが、ヤドカリ君の正体です。





    その旋風の嵐を受けて、

    世界中が功利と云うものに目覚めるわけですが、

    さぁ、地球をもっと利用をして!

    彼らお得意の、征服、支配、狩猟民族の本領を発揮しようぜ!



    あはは。



    その時、日本は徳川さんのお家を守る為だけの朱子学を、

    士農工商と云う身分に押し分けられて、

    馬鹿まじめに捧持して鎖国で生きていたのです。


    世界を席巻するエネルギーに満ち溢れた狩猟民族の雄たけびに

    勝てるわけがないでしょう。



    国の門戸を開かされて、どっと雪崩れ込んで来たのが、

    西洋功利主義の媚薬の仕込まれた学問、技術、制度だったのです。


    民間でもそうです。

    福沢諭吉の”学問のススメ”など、この功利主義の臭いがします。




    その時に、

    日本は、自国の伝統、文化、

    培った道徳など国と国民が拠って立つ所のすべての宝物を、

    みずから進んで国家神道に包んで、捨てる準備をしていたのですね。


    そう、76年後、敗戦で捨てる準備をしていたのです。



    無意識に、すべて捨てなければいけない。

    そう自覚をしていたとしか思えない。

    それか、天バチです。      ほほっ。



    しかし、意識では何も知らない日本人。

    そうしたらどうなる?と意識でさえ考える事もなかった日本人。


    西洋功利主義的発想では、結局己を抑制することができない。

    できなかったのです。

    日本は、近代化の特殊モルモットと言いましたね。

    世界に類例のない純粋培養の近代化を成し遂げたのですよ。




    大成功?   


    西洋功利主義的発想で、はびこる拝金主義や物質主義。

    それらのアンチテーゼをすべて失った、引き換えの近代化でした。

    フルカウントの最後のバッターみたいなものです。



    なぜか?


    西洋では、バチカンの権威が失墜したとか、

    法王が悪口を言われながらでも、

    拝金主義や物質主義が、キリスト教(的)信仰によって、

    カバーされて、人間らしさがまだ、守られているのです。





    つまりどう云う事か?と言いますと、


    欧米においては、

    社会的思想と個人的道徳が分離しているのです。

    ここが、西洋二元論の隠し技?



    精神と肉体は、別物である。 と云う通りの事が実践されているのです。


    ある意味、欧米は、終始一貫している訳です。


    しかし、日本の近代化は二重構造だと言いましたね。

    日本は、近代化(西洋功利主義的発想)は受容したが、

    (キリスト教的)個人的道徳は受け入れていない。


    すべてを捨てて西洋功利主義だけを受容をしている。




    純粋西洋功利主義の実践国です。     ほほっ。


    実に、西洋功利主義が完全に実現されたのは、

    この日本国なのである。  



    西洋功利主義の行き着く先も知らないで、

    この国に生まれた赤ちゃんは、悲惨です。

    拝金主義のはびこる、退廃した世の中の空気を吸ってしまいます。

    そう、功利主義者たちも、当時から道徳で調整をする必要がある。

    と警告をしています。



    実に、見事に、日本の近代化は、純粋です。

    そう、純粋に拝金主義と退廃した悲惨な世の中を実現しつつあります!





    今となっては、日本に、賢人がいなかったのでしょうか!?

    おろかな西洋かぶれしかいなかった? !





    これを救うのは、国を挙げての道徳運動しかない。

    是非に急ぐべきは、社会的倫理の構築。

    これこそが、急務なのです。


    このままでは、日本人が、崩れます。

    このままでは、日本国が、崩れます。



    自分の頭と心の穴の中に棲んでいるヤドカリ君を、

    追い出さないといけません。




    茶目っ気いっぱいのヤドカリ君ですが、

    ごまかされてはだめですよ。








    夏の暑い日、長い記事を最後までお読みいただいて、

    深く感謝申しあげます。



    コメントのお返事と、次回の更新が、

    遅くなるかも知れません。ご了承くださいね。


    よきお盆休みを、お過ごしください。


































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      コメントへのお返事     - お墓の改葬と子孫繁栄 ー 

    Category : 家系の興亡
    夜明け前、山中湖畔の白鳥たち 


    山中湖白鳥


    山中湖の白鳥


    早朝の山中湖


    まだ明けやらぬ早朝の山中湖






    山中湖は、富士五湖のひとつですが、

    距離的にも富士山に一番近くて、標高が1000mです。 


    高さも距離的にも、他の湖よりも富士山頂に一番近い湖です。

    一番すずしい処になりますか、




    私は、エアコンの設定温度を28℃にしますと、普通に汗をかきますが、

    ここでは、汗をかかないで過ごせました。

    きっと、日中は、それ以下だったのでしょう。 





    山中湖の方が、那須高原よりも標高は高い位置にあるようです。


    那須は、一軒茶屋交差点、右に上れば那須御用邸がある所ですが、

    その交差点を境に、上へ行けばぐ~んとすずしくなりますね。

    そこまでは、那須高原と云っても、暑い!     

    だから、別荘地も一軒茶屋あたりから高くなります。  あはは。







    那須の御用邸は、明治天皇が、身体の弱かった大正天皇の為に、

    気温や湿度、いろんなものを学者に調査をさせて

    健康に良い場所をお決めになられたと云う事ですから、

    そう云う点から言うと、山中湖は、少し寒いのでしょうね。 



    日中は、窓を開け放しておけば、

    気化熱で下がった湖からの風で十分でしたが、

    明け方は、窓から入ってくる風で目が覚めてしまう...。

    肌寒くて長袖と毛布が必要でした。


    毎朝4時頃、寒くて目覚めてしまい、

    だれもいない静かな湖に散歩に行きました。

    そこには、もう、白鳥たちが起きていて

    岸辺の餌をついばんだり、毛つくろいをしていたり、

    人には慣れているようで、近づいても逃げませんでした。








    今日は、7月2日にメールでいただいたご質問へのお返事です。


     

    『 お墓の件では、たくさん?お聞きした事があります。 

    今までの記事を読ませて頂いて、今現実に起こってる事の原因?みたいな

    ものが何となくわかってきました。

    この先、どうすればいいのか? が、課題なんだと思います。


    今、絶家するのではないか?と思える家が身内にいまして・・・。

    私の母の実家なのですが、

    cosmosさんの色々なお話しを読んでると当てはまる事が多々あります。

    女系化してて、今まさにピンチの状態なんです。 


    余談ですが・・・

    先祖代々あるお墓を移動する事に、問題はありますよね?

    その事と子孫繁栄に、関係はあるんでしょうか?

    親戚の事とは言え、実家の母方の事なので私にはどうする事も出来ません。
     
    私の嫁ぎ先(旦那)の跡継ぎ問題もありますし、、、

    課題は山積みです(^ ^;
     

    実は、私の実家で、父も随分前にお墓を移しました。

    実家は、私の上に兄がいて、もちろん跡継ぎとして自覚していますし

    兄には息子も生まれています。

    父は長男ではないのですが(末っ子)、父の家系も複雑で

    兄たち(伯父)が早死にしたので、父がお墓をみる事になりました。

     
    今のところは、大きな問題もなくみんな幸せに暮らせていると思ってます。

    これはひとえに、父と母からの恩恵だと思っています。

    父も母も、バカがつくくらい人がいいと思います。

    良く父が・・・

    「人様に良くすれば、自分に返ってこなくても、子や孫に返って来る」

    と言っていた言葉を思い出しました。

     
    ありがたい事だと思います。

    私もそんな親にならなければいけないな・・・と(- -;
     
    毎日が修行ですね・・・・。

    もっともっと、たくさんの事を学ばなければいけません。 

    次回の記事も楽しみにしています。』  





    お返事が遅くなりました事を、申し訳なく思います。


    『今までの記事を読ませて頂いて、

    今現実に起こってる事の原因?みたいなものが何となくわかってきました。

    この先、どうすればいいのか?』 



    私のブログを読んでくださって、自分なりの課題を心に持ってくださった、

    この事は、ほんとうにありがたいですね。

    何かが伝わって、人、一人一人が、自分の生き方に何らかの疑問を見つけて、

    今までとは違う変化を自分から起こしていく事が、今、大事な時なのです。




    それが、そのまま、日本が犯して来た罪を償うことになるのだと思います。


    国の過ちは、国をどういう思想で成り立たせていくか?

    そこの進路の決定です。

    そこのちょっとした指導者の過ちが、社会全体を巻き込む罪です。



    時代の大きな間違いもあります。
      

    外国の圧力もあります。

    それを、昔のように「賊」と云って戦って滅ぼせばいい、

    で、済むような単純な世界ではないのですよ。今は、、、  ほほっ。



    なにも明治維新や、敗戦の時だけではない。




    常にです。




    皮肉な事に、命を殺戮するこの魔力に無常はないのですね。

    常に滅びません。

    常在戦場です。

    生命のレベルでは闘争、それが真実です。 



    それを、『自然淘汰』とも云い、『弱肉強食』とも云う。



    この自然摂理は、津波のような有無を言わさぬ濁流です。


    その濁流に飲み込まれて、さ迷って行く**衆生(しゅじょう)のありさまを、

    釈迦は、『娑婆世界』=「堪忍の世」=(ガマンする世)

    と喝破したのです。

    まるで熱した鉄板の上にいるような、、、と





    ま、これは、まだまだ低いレベルの初期仏法の教えですが、、、、、、


    仏法と云えど、


    この辺の教えは、意識世界、スポット的な教えの欠点を持っています。

    しかし、西洋の思想と比べると、一つのロジック(一理ある)どころか、

    千理(1000のロジック)の値打ちよ。もっとあるかな?   あはは。




    国が、思想の間違いに巻き込まれて、国民を押しつぶして行く。

    そのつけは、国民、民に押し付けられていく。

    歴史というのは、その記録みたいなものです。





    3.11の津波は、東北の沿岸部を流しただけですが、

    国の舵きりの間違いは、日本中を流します!

    土の徳を国土が失えば、国土も流れます。

    自分の好き嫌いを云った所で、少しの利益を得た所で、

    すべて流されれば終わりです。

    何が大事か、ほんとうに考えるべき時なのです。


    **衆生は、仏教的な言葉。仏に対する我々の事です。

    又は、凡夫(ぼんぷ)と云う言葉もあります。

    ついでに、国民、市民は、政治的な言葉です。






    『 cosmosさんの色々なお話しを読んでると当てはまる事が多々あります。

    女系化してて、今まさにピンチの状態なんです。』 






    そうですか、、、 現実は、あなただけではないでしょうね!

    あなたは正直ですが、日本中多くなって来ているはずです。
       

    あなたは、家族を何とかしようと思っているから、

    そう、

    意識に引っかかるけれど、悩みになるのですが、





    功利主義のヤドカリに棲みつかれて、

    ヤドカリを可愛がって育ててしまって、

    個人主義に染まった人には、

    それが、当たり前、自分は、それでいいと思っている人には、

    問題ではないのです。

    悩むパワーがないと云うのか、、、


    ここの差が、最近は激しいですね。




    現状を苦と受け止めて、悩み、どうにかしたいと思えるのは、

    まだまだ気力があり、恵まれている、能力のある証拠です。

    同じ現状を、苦しみや、悲しみで受け止められるのは、

    それ以上の幸福のレベルを知っているからですよ。



    悲しむ能力があるのね。   ほほほ。

    ヤドカリを可愛がって育てて、個人主義に染まり、

    自分の自由や自分の中の狭い平等感の為に、

    家族や家庭や人との関係性を煩わしいと捨ててしまうのです。


    功利主義は、人としての生き様(さま)を失くしてしまうのです。 





    これは、適当な学歴と、程よい財産と、必要な知識を操れる

    人間に増えて来ていると思います。 



    いわゆる功利的生き方で成功をした人に多いのです。

    また、詳しくは、いつか、シリーズで書くつもりです。










    さぁ。今日のメインテーマです。


    『 先祖代々あるお墓を移動する事に、問題はありますよね?

    その事と子孫繁栄に、関係はあるんでしょうか?』 




    あまり、関係ありません。ご安心ください。


    あまり、と云うのは、

    どう改葬したのかと云う、かかわり方の心の問題はあると思いますが、

    お墓を移動=改葬、と云うきちんとした言葉がある位ですから、

    正しく認められた行為です。


    だから、子孫の方々が、話し合われて、良かれと大事に思って、

    お骨を改葬をなさる事は、あっていい事だと思います。

    子孫繁栄に良くない。それはないと思います。




    それよりも心配なのは、そう云う不安に付け込まれて、

    無駄なお金を使う商法に乗せられないようにしてくださいね。 


    ほっ。



    お墓を作り直せ、とか。

    先祖の供養にお払いをしなければいけない、とか。


    俗に、占い、運命鑑定と云いましても、さまざまな生業があります。

    悩みのある人の運の弱さに付け込んで、

    1000万円もするお墓を買わせてしまう商法もあるようです。

    そう云う場合は、墓石の業者とタッグを組んでいます。


    また、印鑑なども3万円位のものを数十万円で売るとか、

    お守りの石などもそうですね。


    何の為の言葉か、目的が商売であると見抜く事です。

    皆が生きるのに必死なのだから、

    その餌食にだけはならないようにしてください !!






    私の処へも、他所の占いを回って来て、

    ある神社の百日参りをすすめられた、神札を買うように言われたと

    それをしたけれど、どうにもならなかった、、、

    と、愚痴を言われる方も来られる事があります。


    運命についてたとえ純粋に学んだとしても、

    生業として商売として俗化して落とせば、ああもあるか? こうもあるか? 

    所詮、学問ではなくなる。

    俗っぽくなる=通俗化する訳です。

    他人の生業(なりわい)に口出しはしたくありませんが、

    私の考え方は、それは、おやめなさい。と云う考え方です。



    そう云った物だけで、運はどうなると云った簡単なものではありません。






    以前も記事にした体外受精の不妊治療で生まれた子供は、

    その家系の子孫運を解決して生まれてくる訳ではありませんから、

    逆に、親の子供運の不幸よりも、もっと酷な不運を背負っています。






    これが、自然です。

    それが、『天』のお裁き。   あはは。




    道理であり、あ・た・り・ま・え・です。





    人の不幸を、数限りなく見ておりますが、

    人間としての尊さも、美しさも見ています。




    そう云った尊さが、家庭の中に受け継がれている家系には、

    学歴や財力や知識が、多少どうであっても、人の幸せは存在します。


    かならず命を受け継ぐ人間が、生まれています。 





    大地に、誰の力を借りることなく、芽生える植物のように、

    自然から与えられた生を素直に顕現しながら生まれて来ます。 

    その姿を見て知っているから、自然の怖さも分かります。






    人間の意識が作り上げた単なる一理が、たかがロジックが、

    自然を変え、超えられるとは思いません。






    人は、自然の為す事には、逆らえません。

    ならば、すなおに従って生きるしかないのです。




    人間とは、そう云うものです。


    自然と戦って勝つのだ、とか、

    技術で自然を乗り越える、とか、 とんでもない話です。





    自然には、作らない方がいいのです。



    近代化以降、

    人は、『偽』が好きで得意になりましたね。

    わざとらしく、人より恵まれていると見せるとか、




    あざとい。


    幸せから遠くなってしまった感じがします。



    幸せから、遠くなっているのに、幸せのフリをする。

    年をとっても、若さがギンギラギンみたいな、   あはは。 


    何かを犠牲にしているのです。

    自然ではありませんね。

    利だけをむさぼって、さみしいみたいな、

    そう云うのは止めたいものですね。






    自然の摂理に合わせて生きる法は、東洋の方が数段優れています。




    ぜひ、参考になさってください。







    夏疲れが出るころです。



    どうぞ、ご自愛の程。



    よき一週間をおすごしください。


































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    陽〈男性の生き方〉 陰陽学 石原都知事にみる少陰 (コメントへのお返事)

    Category : 陰と陽〈男性の生き方〉
    富岳風穴の中の氷


    富岳風穴(ふがくふうけつ)洞窟の中の氷 ( 気温0℃ )  詳しい案内










    ひさびさの 陰と陽〈男性の生き方〉 カテゴリーの記事です。


    今日のキーワードは、” おかあさん とおばあさん ”。 ほっ。











    まず、今日も、前々回の記事にいただいた、

    次のコメントへのお返事から始めます。


    日本人の頭と心に棲みついたヤドカリ、わかりやすいたとえです。=

    今の子供たちにとったら西洋功利主義が日本の頭と心だって受け入れて

    違和感はないでしょう。=


    ちょうど3.11のあとに石原都知事がなさった発言を思い出します。=

    日本人は我欲だ。それを津波で洗い流そう...=

    過激な表現でマスコミからはいろいろありました。=

    あれは間違った意見ではない。だれかが言わないといけなかったのですね。=

    そう思っています。= 








    続けて前回の記事への同じ方からのコメントです。


    生活のレベルからヤドカリを追い出さなくては!=


    今の子供たち、道徳と歴史が大切なのに学校でやっていませんでしょう?

    不安です。=  






    まったく、そうですね。


    話題が、石原都知事 と、道徳と歴史。

    なにか、結びつきそうだわ!    

    今日は、その辺りを掘ってみたくなりました。    ほ!


    石原都知事、サマーセールみたいになりそうです。   あはっは。





    今の子供達は、道徳の根が断ち切れた社会に生まれて、

    学校で歴史を学んでいないのです。



    日本史は、高校では、地理歴史科のなかで世界史を必修でやり、

    日本史は地理とのどちらかを選択履修という扱いになっています。

    世界史が必須科目になっているのに、


    母国の歴史が、選択科目だなんて...あきれるばかりです。




    当然、日本史を必修にすべきだという意見もあって、

    東京都、千葉県、神奈川県、埼玉県などの教育長は2006年9月、

    (5年も前に)高等学校の日本史の必修科目化を求めて、

    文部科学省に要望書を提出しています。

    が、未だに、国が動かないと云う事なのでしょうね。


    この道徳と歴史がない世代が大人になって、社会の中核になる時代が、


    もうすぐそこに!

    その時、非常に危ない! 日本が危ない!  と思っています。 






    話を、元に戻します。


    石原都知事の発言は、いつもながら注目を集めています。

    きわどい発言が多いのですが、



    あれは間違った意見ではない。だれかが言わないといけなかったのですね。=



    と、同感をして受け止めている人も多いのでしょう。


    それで、石原都知事の発言を調べてみました。

    一度じっくりお読みなってみてください。




    3月14日、東日本大震災に関しての発言。



    「日本人のアイデンティティーは我欲。

    (老親の死亡届を出さずに、その年金を受け取っていた事件に関して)

    この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。


    やっぱり天罰だと思う。・・・・・   
     
    アメリカのアイデンティティーは自由。

    フランスは自由と博愛と平等。

    日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲。・・・・・

    我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。

    それを(津波で)一気に押し流す必要がある。

    積年たまった日本人の心の垢を・・・・・

    被災者の方々はかわいそうですよ。・・・・ 
    asahi com より引用



    4月28日


    「首都圏がその首都圏としての文明、生活を維持するために、

    供給を仰いでいた福島県の原子力発電所が壊滅的な被害を受けた。

    そして、その放射能の危険はいまだに続いております。

    私たちは、こういう状況を踏まえて、ある大きな反省をしないと、

    この災害の意味も歴史的に活きてこないと思います。


    私たちは、当然、一人ひとりが努力して節電をしなくてはいけません。

    そういう努力を通じて、

    私たちが今まで当たり前のこととして享受してきた、

    この首都における生活というものは、

    果たしてそのままでいいのかどうかということです。


    例えば、私たちの文明生活というのは、全てとはいいませんけども、

    電力というものの供給がなかったら動いていかないわけです。


    日本にしかない現象の一つで、街中に自動販売機が氾濫している。 

    外国だったら、とんでもない連中があれをぶっこわして

    中身をかっぱらって行くから、ありえないことでしょうけど、

    あれは、治安が良くて、幸い、首都圏の治安は安定していますので、

    ああいったものが、ある意味では跋扈している。

     
    この間、自動販売機の協会の幹部が、

    「私たちは、消費はしているけど浪費はしていない。」という

    訳のわからない詭弁を弄してました。

    あんなものが、一つの文明の便宜として街中にあって、

    膨大な電力を食っているということは、

    本当に文明としての正当な消費なんでしょうか。

    私は浪費にすぎないと思います。



        〈 中略 〉


     
    パチンコ屋をやっているのは、在日の韓国系の人が多いそうですけど、

    その一部の人が、「これは自分の母国の韓国でも流行るだろう」と

    持って帰ったら、面白かったんでしょう、たちまち人気になった。

    これは人間を怠惰にして、人生を狂わせるということで、

    韓国の当局が乗り出して、韓国ではパチンコは全廃されました。


    被災された方は、本当に悲惨な生活を送っておられますが、

    あそこで見る、ボランティアも含めた人間関係というのは、

    当然、あるべき人間の姿、まして、それ以上に、涙を流して、

    ささやかな援助に感謝する、あの被災者の方々の姿を見ると、

    昔の美しい日本人の姿が残っているという感じがします。


    しかし、私は、それに安住することなく、

    被災地以外の日本人がこれからどんな生き様をするのか、

    どういう生活を続けたいと思うのか。

    これは、私たち自分自身の問題として反省しませんと、

    天は、この国の命運を許さないと思います。


    随分口幅ったい、強いことを言うみたいですけれども、

    この災害を私たちがきっかけにして、

    金銭欲、物欲、性欲というものが跋扈しているこの日本の社会様式を

    もうちょっと節度のあるものを変えて行こうという心を持たないと、

    この大きな災害の犠牲というのは、

    日本の未来にとって将来にとって活かされてこないと思います。


    みんなで、自分をもう少し折って節度のある、わがままを通さない、

    我欲を張らない、倹約と言いませんが、

    もっと地道な生き方というものを本気で考えて行かないとだめだと思います。 





    この時も、自動販売機やパチンコ業界から、蓮坊さんからも、

    不適切な発言だと言われました。


    ニュースで聞くと、問題になった言葉だけが耳に入って来ます。

    それを、都知事の”暴言癖“ だと云う人もいて、

    その代わりに ”良識ある発言“と受け止める人もいるのでしょう。

    多くの人は、心の中で“ よく言った!!   あはは。

    そう思っている部分もあるはずです。



    近代化以降の私たちが、

    自分の中に巣食うヤドカリの功利主義に負けて、

    自分だけなら、と言う思いが、だんだん膨らんで日本中になって、

    国の中枢や、危機管理をする人、安全を守る機関の中にまで及んだと言うのが、

    現在、142年後なのですね。



    一番、大事にずっと守って来たもの、絶対に捨ててはいけないもの、

    それを捨ててまでも、成し遂げた近代化。

    先進国と同じ生活、イヤそれ以上の生活レベルを求めて、

    自分だけはイイヤ、と心の中で捨てて来た結果が、今の生活です。 







    まだ、ありますよ!



    東京都議会の平成22年第1回定例会の発言、


    「児童ポルノや子供への強姦等を描いた漫画の蔓延を、見て楽しむだけなら

    個人の自由である、いかなる内容であっても表現の自由である、

    と許容することは、これは自由の履き違えであり、

    青少年を守り育てる大人としての責任と自覚を欠いた、

    未成熟な人間の自己保身に他ならない。」

    「青少年健全育成条例を改正し、

    児童ポルノの根絶とこの種の図書類の蔓延の防止に向けて都が、

    都民、事業者と一体となって取り組み、

    現在のおぞましい状況にこの東京から決別していきたい。」
    と宣言。 


    漫画やアニメが青少年に害悪を与えるかどうかについては、


    「ありますよ、そりゃ。(記者に向かって)ないと思うのか君?」



    同条例改正案は2010年6月14日都議会総務委員会において

    民主共産両党と生活者ネットワーク・みらいの反対票によって否決、

    同16日に本会議でも否決された。

    都議会で知事提出の条例案が否決されるのは12年ぶりであって、

    修正の上で再提出した結果、

    2010年(平成22年)12月15日に可決され成立した。 



    もうひとつ、最近の都知事の定例記者会見の発言。

    8月6日 毎日新聞 東京朝刊 からです。


    日本の防衛戦略について、


    「米国は新しいニュークリア・ウォーヘッド(核弾頭)のシミュレーションをやった。

    日本だってそのくらいのことをやったらいい。持とうと思ったらいつでも持てますよ。

    スーパーコンピューター駆使すれば原爆のシミュレーションなんかすぐできる。

    日本は強力な軍事国家にならなかったら絶対存在感失う。

    北朝鮮、中国、ロシアが、

    日本の領土をかすめ取ったりかすめ取ろうとしている。

    核を持って、歴然と敵意を持っている国に、

    間近に囲まれているのは日本だけだ」
    と危機感を強調した。 

     

    いろいろ云いにくい事を、

    ここまではっきりと云える人柄も、めずらしいと思いますが、


    私が感じているものは、実は、彼の中の『少陰』です。


    それは、石原都知事の言動の中に、

    男らしい、『陽』の本領発揮と云う言動の男性そのものの奥に、

    しっかりと根を張った『少陰』の存在を感じるのです。




    少陰は、前の記事で、すこし触れました。





    その中で、次のように


    『陽』である男性も『小陰』、すなわち未熟な『陰』を持っている。 


    男性である『陽』は、老陽、少陰、と謂う二象になり、

    それに「乾(天)」「兌(沢)」「坤(地)」「艮(山)」などが、属す。 



    それは、ちなみに女性である『陰』が、老陰、少陽、と謂う二象になって、

    そこに「離(火)」「震(雷)」「巽(風)」「坎(水)」などが、属す。




    それで、男性諸氏には、



    常にご自身の中の小陰を光らせてください。でなければ、

    女性からの支持を失います!      あはは。



    と、書きました。   ご記憶していただいていますか?







    その未熟な『陰』が、外から刺激をされると、

    その働きが、『陰徳』を守るすばらしい『陽』になると云う事です。



    具体的には、

    男性=『陽』の中にある『少陰』を刺激すると、

    男性自身の『陽』と『少陰』が調和をして陰陽の調和=『中庸』に。

    『陽』である男性の中で『少陰』が、光ってくるのですね。  





    その例に近いかなぁ~と、 石原都知事はそうかなぁ と思う所があるのです。 

    その逆に、すこし悪口を言いますと、

    今の民主党の議員の中には、若手から長老に至るまで、そう云う御仁はいない。  


    で、肝心なのは、何に刺激されるのか? です。







    次に、父親と父性についての石原氏の言葉、



    他の動物だったら外敵に襲われた時に家庭のなかで真っ先に父親が刃向かい、

    母親が子供を抱えて逃げるというのが動物としての天性の姿だと思う。

    そういうものを同じ動物たる人間の習性として維持していこうとするのは、

    健全な保守ともいえるはずです。

    何だけは絶対に守るのか、

    何だけはとにかくはぐくみ育てていくのか、

    という指針を持たぬのは男ではないし、

    それこそを男の親が語らなくてはならない。

    そういう作業を欠いてしまったところに父性なぞ存在し得ないし、

    成り立ちもしません。 





    命の継承について、先祖観などの言葉、



    私は自分にとっての分身が初めて誕生した時、

    つまり私の長男が生まれた時のことを今でもよく覚えている。

    覚えている、というよりあの時の、得もいえぬある強い実感について

    今でも感じ直すことが出来る。

    それはいい換えれば、人間の「存在」について初めて考えさせられた、

    というより強く感じさせられた時の印象といえるかもしれない。

    自分がこうしてこの世に在るということは、

    自分がただこうして生きているというだけではなしに、

    今ここにこうして見る我が子と、さらにその先この子の子供、さらにその孫にまで、

    丁度大きな鎖の輪のように繋がった者として自分も在るのだ、

    そしてこの子もまた、すでに死んだ私の父や、

    私自身が一、二度しか会ったことのない、しかしとても優しく懐かしく印象的

    だった父方の祖母や、そのもっと前の前の名も知らぬ、しかし確かにこの世にいた、

    私のためにもこの世に在ってくれた先祖の人々とも繋がっているのだという、

    どんな感傷も伴わぬただ一途に強い感慨だった。 




    非常に『中庸』を感じさせる感慨だと思います。

    なぜなら、ここから『孝』と云う徳性の価値観が生じてくるからです。




    石原氏が高校一年の時、

    民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。

    日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時の彼の母の言葉、


    “ 家族や弟を捨て、お父さんの地位も財産も捨てさせ、

    その上、自分が獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しない。

    大衆の為に生きると云うのなら、その覚悟をしてほしい。

    それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する。”



    と彼に言った。

    この言葉に、あくる日から湘南高校の左翼活動、学生運動を離れている。


                        『サンデー毎日』から引用。


    その後、これに関する石原氏の、ある対談の中での言葉、

    「女親っていうのはバカだから。

    主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。

    そういうものに興味をもったのを親が心配したというだけの話です」 



    あ、これは、石原氏一流の言い方なのでしょうが、

    覚悟を決めた母親の凄さ、何が大事かと云う事を伝える力を感じます。





    『陽』の現象を追いかける男性の『少陰』を刺激するもの、

    それは、女性の『陰』の中にある『老陰』なのです! 



    女性?  


    そう、 母親、 祖母、 おばあさん。

    そう、 役に立つのは、バランスの取れた『老陰』を持つ女性。



    それが、『陰徳』に祝福された女性の生きざまです。




    あ、おばあさんに関する発言に、こう云うのがありました。 

    惑星物理学者の松井孝典東京大学名誉教授から聞いたと言って、



    文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。

    “女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。

    男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、

    女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。

    そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、

    地球にとって非常に悪しき弊害だって。





    あはっは。 女性が長生きするのは悪しき弊害だって?!
     


    実は、この説の源、松井孝典東京大学名誉教授の理論は、

    人間の女性が、

    生物としては例外的に生殖可能年齢を超えても生き長らえる事で、

    「おばあさん」集団が人類の記憶装置としての役割を果たし、

    その事が、文明の誕生を可能にした。

    更に、その結果として、

    その文明が地球環境を蝕む結果をももたらしている。




    つまりは、この真意は、


    人類文明の発展は「おばあさん」によって可能になり、

    その文明が地球環境を蝕んでいる。

    というものです。





    これも、おもしろい東洋とのリンクだなぁと感じたのですが、

    『老陰』は、すなわち『陽』への転化の始まり、

    『少陽』になる一歩手前なのです。(これの詳細は、今回は省きます。)




    女性の持つ『老陰』の刺激により、

    通じるものがあるから、『陽』へ刺激が与えられるのです。

    今日のキーワード、

    厚い陰徳を積んだおかあさん、 おばあさん、です。


    お分かりいただけましたか?


    その結果、


    男性が、『陽』である自己の中の『少陰』を光らせる。


    その働きは、天であり、

    沢であり、

    地であり、

    山となる存在になる。 



    つまり、空の太陽(天)や水辺(沢)や大地(地)や山は、

    人間の生命を産み、育み、守る場、そのものです。





    つまり、『少陰』を光らせる男性は、『陰』そのものに通じる力で、

    まわりの世界を安定させ、豊かに恵みを与える存在になる。



    と云うような事になってほしいですね ... 。







    当の石原氏の海外からの評価は、

    ABC(アメリカ)からはフランスの極右政治家に例えて「日本のル・ペン」と言われ、

    中央日報(韓国)からは「極右勢力の代表」、

    フィガロやリベラシオン(フランス)からは「国家主義的思想の持ち主」

    「右翼ポピュリスト」と呼ばれ、極右政治家と認識されているようです。


    極右 ? おもしろいですね。



    『陰』も、命を守ると云う本源において、極右、極保守です。 

    そして、命を犯すものに対しては、極左、極革新です。





    自然界には、極右極左も、すべてが具わっています。

    さぁ、今、その自然は、どちらにエネルギーを溜めているのでしょうか...


    命を守る私たちへ、自然は調和の恵みを与えてくれるでしょうか?


    それとも、命よりも功利を尊ぶ私たちの無道徳さに、

    何度苦しんでも直らない愚かさに、あきれて、

    またもや再び、自然は鉄槌を振り下ろすのでしょうか?








    『天』・自然は、『中庸』を求めて活動をしています。

    地球も、『天』みずからの法に則って、生きている存在です。




    決して、土や水という物で固まった物体ではないのです。





    長くなりました、、、



    次回も、陰と陽〈男性の生き方〉 カテゴリーの記事になります。






    ぜひ、お楽しみになさってください。


    秋に移ろう季節を味わいながら、


    よき一週間を、おすごしください。






























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    家系・個人の運命鑑定
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