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10/02 11:19 |
***** 無意識の不思議 4 男は意識的で、女は無意識的なのか?Category : 自然の力
![]() 参照 : NASAプレスリリース うわぁ~! なに? これ? の第4弾です。 あはは。 ハッブル宇宙望遠鏡が撮ったオリオン Nebura(星雲) メシエ42です。 このNeburaは、夜、肉眼に見える最も明るい星雲の一つです。 星雲は、直径24光年の巾を持つと推定されます。 地球からは、1344±20光年離れた最も近い地域です。 非常に、女性を思わす柔らかな美しいNebura(星雲)ですね。 今日は、無意識の不思議 4 男は意識的で、女は無意識的なのか? です。 当然ですが、この裏には、 男は『陽』、女は『陰』と云うテーマが隠されておりますのよっ。 ほ。 まず、男性の方からやりましょうか? あは。 なぜなら、 意識は、解りやすい。 そう申し上げました。 意識は、心ですから、自分の心の中を見ればいいのですっ。 ほっ。 心は、分かりにくい。と言ったところで、無意識と比べたらずっと楽! ああだ、こうだ、と言葉にできますしね!! 『陽』=男=意識なので、理解しやすいはず? あは。 男性は、ご自分の心の中を、 女性は、身近な男の人を思い出しながら、 あれこれ推考しながら、記事をお読みになってくださいね。 プー。 意識は、心です。 五感がそのまま表われたもの、主観の世界です。 えっ、男性が主観的だなんて? 理性的で客観的だと? 思い込んでいらした? あはは、 純粋な客観性はありません。そう、申し上げました。 客観的でありたいと思う、その程度のレベルしか人間には無理です。 つまり、男性の特徴は、 自分達が、それ故に築き上げた現社会の中で、 ただの自分の主観や寝言ごときもので、 自分以外の誰も納得をさせられないのを知っているのです。 いわゆる社会の厳しさです。 寝言では、食料を手にする事ができないのです。 だから、そのたった一人の己(おのれ)の主観を、 社会的な認知を常に保てるものにしなければならない。 まして、その生存競争の中でです。 つまり、自己の中に理屈を造らざるを得ない。 それは、あくまでも意識で五感で掴んだ想念からです。 よりもっと効率よく、その筋道を作ろうとする。 そうして、あらゆるロジックが繰り出され、 作っては壊され、壊しては又、作られるのです。 壊れかけの残骸を集める人もいれば、捨てる人もいる。 所詮、人の意識=『陽』の本質は、『無常』なのです。 こうして出来上がった今の社会は、男性社会なのです。 これが、自然の成り行きと云うものだろうと思います。 急に! タイムスリップします。 はは。 私たちの祖先が、原始人だった頃、 食料もなく空腹を抱えて食べる物を探しながら野山をさ迷いながら、 ある時は、けだもの達に襲われたり、 ある時は、その戦いに負けて命を落とす事もあったであろう。 これらの抜き差しならない状況下で、 万物の霊長としての地位を確立して行くまでには、 火の発見や、道具の発明、群れとして役割等をこなし、 男は、外敵と戦い、間断なく食料の生産活動に専念し、 女は、孕(はら)む性(さが)としての役割を分担するしかなかった。 女は、28日毎に体にめぐり来る生理、その苦痛に耐えながら、 妊娠出産も、ほとんどが独力で乗り越えて行ったはずです。 (鎮痛剤や産院はなかったのですよ!) 当然、妊娠出産の時は、群れの生産現場から身を引いた。 人が、生き残って行く為に、けだものと戦う為には、 けだものよりも、味方の人数を増やすしかないのですから。 たとえば、いい加減な想像かも知れません。 が、 一人の女が、一生の間に20回の妊娠をして、15人位を産み、 その中から、3人か4人が育てばいい方ではなかったのか? 新たに生まれ来る命は、今よりもっと切実に宝物だったはずです。 青森の縄文前期の三内丸山遺跡を訪れた時、 当時のお墓にあった両手のひらに乗る程の”小さな素焼きのつぼ”、 胎児や赤子の棺(ひつぎ)だったと云う説明を聞いて、 子を亡くした両親の愛情が沁みているようで心が痛み、 目をそむけたくなった、今も思い出せば苦しい思いがします。。 それゆえ、過去から、ず~っと、 国を建国した王、軍人、思想家、作曲家、詩人、建築家、 政治家、その他いろいろ、全て、男性ばかりです。 その男たちの才能のおかげで、今の社会は成り立っています。 つまり、男性は現に目の前にある社会活動性の中で 力を発揮して来た。する者です。 ゆえに、男は力を欲します。そうでないと生きていかれない。 実際に、男と云う字は、田に力です! 田と云う外界=環境に対して、自分の力でもって作用する者です。 自分の力で、どれだけの価値を生むか? そこで創造された価値が男性の力です。 その価値創造の行為が、男性の本念的役割であり、 その力が数千年かけて作って来た現社会=『陽』・意識の作品群です。 ただし、五感で掴める現象世界だけですよ。 あはは。 そこには、男性の、ありとあらゆるロジック(理屈)がありました。 ロジックには、その内容に高低浅深の価値の違いがあります。 それを作るのが、感覚器官、頭脳。 前頭葉です。 つまり創意工夫。 謙虚さを失えば、悪魔の手先にもなるものです。 意識の作り上げたもの、そのスキルを求め続ければ、 その究極が、今の学歴社会、前頭葉の競争社会の具現なのです。 そう云う時を機敏に悟り、我こそは勝者たらんと、 あは! この時代の要請に、うまく乗って行こうとするのは鼻が利く事なのか? 今の時代は、五感の浅い部分が敏感な人には、うってつけ!なのね。 前頭葉(スキル)ダービーの勝ち組が、勝ちなの? ほんとうに、そうでしょうか? たかが、ちいさな意識の6つの穴からだけ外界を眺めて、 自分の感覚器官に限定される情報を、どれだけ取り込んだ処で、 この宇宙を、思う通りにできるのでしょうか? たしかに、前頭葉の勝ち負けはつけやすい。 が、目処(めど)が付けにくいからと云って、 無意識の領域=『天』を無視してもいいのかーー。 人生を前頭葉に特化して生きる事は、幸せに直結するのかーー。 ひょっとして、それは、猿知恵で終わるのではないのかーー。 ほんとうに『天』を 舐めたままでいいのですか? 運命学の答えは、前頭葉の勝利者は、この世の敗者である。 社会の勝者であるかもしれないが、この世の敗者である。 これを、理解していただくのも、ブログの目的のひとつでございます。 ほ。 まだ欲を解脱もしていないある男の主観が、 この世を自分の都合でこうも、ああもしたいと思う。 できるはずだ!と。 その為には、 『天』なんか邪魔さ! 自分の五感のみを信じて欲望の達成をめざそー。 現代の思潮は、そこから、すべてが始まっているのです... 現代の思潮にブレーキを踏まなければいけないのではありませんか? だから、 この『陽』の世界には、はなから正しいものなんてないはずなのです。 6つの窓に囲まれた部屋から見た外界の認識だけで作られたロジック、 これらの 窓枠に仕切られたロジックとは、あくまでも仮です。 仮にこうだとしたら? こうなるかもしれない? と、人間の主観から始まったものです。 そこに、人間の営み、すべてを賭けていいものだろうか? よくお考えになってほしい、、、、、、 本当に正しいかどうかは、 意識の外の領域=無意識の世界から見なくちゃだめでしょう? ここに、仏教の『出家』と云う意味が見えますね。 欲望の家を出る、、、、、、家を出る。髪を剃る。修行をする。 仏教の初期の教えは、欲望を建つ処から始まっています。 真理は、五感の欲を捨てて離れた処からしか掴めない。 と云う見解から出発をしている訳です。 これが、上座部仏教、、、小乗教です。 この世と云う現象界は、 『陽』の意識の世界では、自分が正しいと云う主張の競争の場です。 何が正しい? ものですか..... その典型が、政治の世界です。 経済は、その下、利益が目的のロジックですから。 それらのロジックには、目的が見え隠れします。 ロジックの主張には、どう云う意図(主観)が隠されているか、 どんな五感を持つ主観が、それを作ったのか見抜かなければいけない。 ここが、非常に大事です。 ■ 見抜けなければ迷い、強い上位の意識に利用されます。 そして、 ■ 停滞してはいけない。グルグルとかき回さないと 意識の世界は、直に腐ってしまうものなのですよー。 思想や、哲学や、政治や、教育は、 そのままを鵜呑みに信じてはいけないのかも。 なぜなら、すべては『時』と共に、色褪せていく物だからです。 現代は、 すぐ役に立たなくなる情報と知りつつ、意識が大放出されています。 またたく間に嘘になる事を大前提に、 引っ掻き回すだけのように、 ”つぶやき”そのものまで作為されていますでしょう? あはは。 すべて意識的である男性が、あれもこれも作り上げたものです。 では、女は無意識的なのか? です。 男性は意識的なのか? は割とくわしく書きましたので、 女性は、その反対、と考えてくださればいいのです。 女性は、客観性がないとか、感情的とか評価を受けます。 男性よりも社会性で劣っている、理性の行動をしない。等ですね。 その通りだと思います。 男性と同等に評価をされると、そう云う事でしょうね。 でも、そもそもが どうして男性と同等に評価をされなくてはいけないのか? です。 男と女の間には、深くて暗い淵がある。 なぁ~んてものじゃない。 ぜんぜん違う生き物だと思っています。 違って当然なのに! あは。 本来、女性というものは無意識的に生きています。 そういう動物でございます。 ほほ。 よくみれば、 わが身は無意識に支配されている命、それを自覚できるのが、女体です。 なぜ、女は、無意識的なのか? 女は、待つ。 待つのです。 女は、無意識からの便りを待つのです。 じつは、女は思春期(今頃は小学校の高学年?)から始まる初潮、 この生理そのものが、女性の体の中で起こる無意識からの便りです。 この完全な無意識の訪れを、早い娘は、8,9歳頃から、 受身で待つしかない生理と云う事象を抱えています。 自分の思考や意思ではどうにもならない、 すべての予定は、この無意識からの便りが何時来るのか? 旅行や遠出も、それ次第と云う、実に意識と無意識の間で、 女性は、どうなるのかと待つ。 女にとって、待つ事が生きる事なのです。 女性は、たぶん、こう思っています。 確実な事は、かならず無意識から起こる。 って! 無意識を、なによりも、信頼するしかない。 そして、従うしかない、、、、、。 女の特徴は、魔女のように、 あは! まるで古代の卑弥呼のように、 ほっ! すべて答えは、自分の中から見つけます。 が、男性が自分で決断するのとは、少し違います。 答えは、無意識から”ポッ”と浮かんでくるのです。 これは、女性が得意な事です! あはは。 それを男性から見ると、漂っているような~ 意思がないような~ 気まま風に見えるのでしょうが、 女が答えを、”いやだ!”と決めたからには、 絶対に嫌なのですね。 あはは。 それを「生理的に嫌だ」とかの言い方もします。 理屈ではない、理性ではない所から答えを出すからです。 つまり、純粋にロジックから答えを出さないのが普通です。 男性には、この『陰』の存在、『無意識』が難しいようです。 それに引き換え、 女性の方は、『陰』の存在、『無意識』は違和感がなく分かるが、 『陽』の世界、『理性』と呼ぶ『意識』が、理解し難いようです。 しかし、教育的に訓練をされた女性に限っては、 まったく違和感無く男性と同じように意識的に振舞えますが、 それが、ある意味、女の内分泌、生理を狂わせるはずです。 孕めない女性が増えている。 無意識からの訪れを失った女。 女の本質の逸脱。 女の性の喪失ではないかと....。 これが、意識化した女への無意識からの判定ではないのか? まだ、無意識からの出自を断ち切っていない女は、 自分の中の意識できない所からおとずれ来る答えを支持します。 大事な事は、意識では考えない。 どこかで男性の口にする理屈の嘘を見抜いている。 この男は、どこかで間違ってる。 夫は、間違っている。。。 と口には出しませんが直感で分かっています。 口に出さないのは、彼女のやさしさ、こう思っていいと思います。 だから、どちらかと云うと、うらない好きです。 あは。 信じる信じないではなくて、好きなのね。 男性は、鼻から当てにならない、くだらないと決めます。 自分の五感で掴めないものだからです。 これは、不動産業を営む男性に聞いた話ですが、 ご夫婦で連れ立って来て、マイホームや不動産の物件を見て、 買うか?買わないか? ご夫婦の意見が合わなくて迷っている場合、 すかさず、こう言ってあげるそうです。 『 ご主人がお迷いなら、奥様のご意見に従われるのが良いと思います。 奥様が買おうと云っておられるなら、それが正しいはずです。』 と。 はは。 男性側の夫は、一生懸命に、理性で考えるのです。 年収がいくらだから、あと何年働いて、定年までにどうなのか? と、 まぁ、そう云う事も抜きには買い物はできませんが、 そう云う理性的と云われる計算よりも、 プロの営業マンは、女性の勘の方が正しいと言うのです。 女は、合理でない物差しで、未来を見ていると、 その方が、間違いがないそうです。 そう云えば、どんなに頭のいい男性だって、 何十年後の事象を、今の自分の感覚器官で掴む事はできない。 ただ、現在までの過去の経験から判断をするしかない。 、、、、、意識の癖はそうでしたね。 あはは。 最後に、これをお読みいただいている男性の方へ、 女と云うものは、実際の生活の中では、どう云う動物であるのか? 不思議なこわい生き物だった? その正体を白状しなければなりませんわ..... あはは。 前のブログ記事の後半に書きました、鑑定相談の事例です。 自分の愛する男の浮気は、100% 判るようです。 え! 夢で夫がどこのホテルに行ったのか、テレビを見るように見てしまう! そこへドライブで駆けつけてしまう! えー、もう、魔女そこのけの大活躍を致しますの...こわいですね~~。 今の社会は、男の意識で作り上げた『陽』が横溢しています。 今の社会の中では、『陰』は、感じられなくなっているのでしょうね。 胡散臭いもの、五感で掴めない『陰』を排除した処から 近代化以降の社会は成り立っています。 政治的には、男女共同参画社会を目指すと言いながら、 本質は、女性の中からの無意識の排除が意図されています。 今の社会をもっと推し進める為に、 女性までも巻き込もうと云う、あさましいレベルです。 男女が平等に働いたからと云って、真の平等は実現しません。 新たな女性の中の不平等が具現するだけです。 はっきり言えるのは、政治(意識の産物)ごときが、 女性の本質を論じる力はない。 さも真実めいて男女平等の言葉を使うのは、罪です。 特に、人の教育は、言葉でするものではありません。 体と心、命を掛けてするのが、教育なのですね。 だって、『知』の語源がそうでした。 昔、日本においては、教育という物は、大変なものでした。 『知』を身に着ける前に、仁、義、礼、智、信、悌、忠、孝、別、、、 人としての振る舞いです。 しかし、今はどうでしょうか? なんと、簡単な! 言葉で知識を伝達するのが教育になっていませんか? 知識を覚える方法=記憶する方法が、教育の重大事です。 目的と手段が、履き違えられている。 男と女が、履き違えられている。 男も女も、その役割の苦しい処からは逃げて、楽な役割ばかりをする。 それが、男女平等だなんて、、、、、、 意識の作った言葉と云うものは、使い回しができて重宝ですね。 ほっ。 身近な異性を、、、(理解する)なんてだめですよ。 なぜなら、理解は、意識がする行為です。 身近な異性を、そのまんま受け入れる。 わが身の痛みを伴いながら、そのまんま受け入れるのでなきゃ~ 痛みを受け入れる事は、陰徳に通じます。 ほっつ。 無意識の不思議は、つづきます。 よき一週間をおすごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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10/08 23:24 |
***** 無意識の不思議 5 考える事は賢いのか? 〈 コメントへのお返事 〉Category : 自然の力
![]() 参照 : NASAプレスリリース 写真をクリックしてください。欠けている左の全部が見えます! うわぁ~! なに? これ? の第5弾です。 あはは。 Antennae Galaxies 触角銀河(しょっかくぎんが)アンテナ銀河とも呼ばれる。 からす座にある銀河の一対で、 NGC4038、NGC4039 の二つの銀河が衝突しました。 ハートのような形の所が、衝突した部分です。(写真の左側) 銀河同士の衝突の結果、 恒星・星間ガス・星間塵からなる2本の長い尻尾が、銀河本体から伸びて 昆虫の触角のようになっています。 互いに力を及ぼし合う事で2本の長い腕状の構造が伸びているのが特徴。 (右側は、左のマークした部分の拡大写真です。) 一般に、ほとんどの銀河は、大きな衝突を経験すると考えられています。 今日は、無意識の不思議 5 考える事について です。 このテーマの裏にあるものは、 よく、かんがえてみて! と言いますが、 本当に私たちは考える事ができれば、賢い!のですか? えっ! ほっ。 まず、最初に、いただいたコメントを紹介しましょう。 4つもあります! どれも見識をお持ちになった素晴らしいコメントばかりです。 一つ一つは、長い為に省略編集してあります。 ご了承くださいね! コメント① 『 >女性は、客観性がないとか、感情的とか評価を受けます。 >男性よりも社会性で劣っている、理性の行動をしない。等ですね。 評価通り...と思っています。 でも、だから、それ故に生かせる働きが備わっているとも思います。 >さも真実めいて男女平等の言葉を使うのは、罪です。 理性や論理が重んじられるのはわかります。 そうでないと他人とは話し合いにならないです。 かといって、意識でがっちりふたをして、 沸き上がって来る無意識を押さえてしまうような、 女性にもそれ(=意識)ばかりが重んじられてしまう社会ならば、 おそらく安らぎは訪れないだろうと感じます。 「個性尊重」と言われますが、 女性が<本当の意味で>女性として生き(られ)ない社会は 歪んでいると思います。 男性と同じ土台に立たないと女性の価値が判断できないとしたら、 それは歪んでいると感じます。 どんな道を選択するにせよ、 女性として生まれて来た事実を軽視したスタートは、 いずれどこかで行き詰まるだろうなと感じます。 「自然」を無視しているからです。 ・・・・・・・・・ それが思い出せない世の中であることが、 そもそも全ての歪みを起こしているのではないでしょうか。 現代はまるで、ミミズのように雄雌同体を目指しているかのようです。』 まぁ! 目では見えない世界を感じた、鋭いコメントですね。 次の部分は、予言に満ちた部分ですね! いずれどこかで行き詰まるだろうなと感じます。 「自然」を無視しているからです。 自然を無視して行き詰るとは、『 自然淘汰 』される事です。 植物は、種が落ちた大地の上に、種の持つ本性のままに伸びて咲きます。 つかの間でも、太陽を無視したり、『時』を間違いません。 常時、太陽の光の方向へ体を傾けながら一生を終えます。 それが、次世代へ種を残せる唯一の在りようだと分かっているのです。 植物は、生から死へ向かうその間に、 決して人間のように他と比べて羨んだり、我を自慢しないのですね。 本来、生きると云う事は、そう云う事なのです。 東北の被災地で、4月に咲かなかった桜が、先日咲いたそうです。 根も幹も3.11から半年で駄目になっているのに、 最後の子孫を何とか残そうと花を付けたのだろうと、 新聞紙面が解説をしていました。 根がだめになっても、最後の力を振り絞って花を付けるのは、 人間の「絶家」になるべき家が、最後の隆盛を見せるのと同じです。 最後の当てのない狂い咲きなのです。 それを分かっているので、切ない気持ちになりますね。 一花咲かせる、今の世相の価値観に合わせて社会で目立って活躍する事が、 必ずしも手放しで喜べる成功ではない。 現代はまるで、ミミズのように雄雌同体を目指しているかのようです。 言い得て、妙ですね。 ほー。 男女の役割の垣根を壊して、壊すのならそれでもいいですよ。 でも、次は? どう云う世界観になっていくのか? それすら目途もなく、「別」を捨て、道徳観を失い、 感覚の満足を求めて、各々がやりたいように生きる事が、 これがしあわせ、自由と喜んでいる現状なのですから、 ほしい物が手に入った満足=餓鬼界の満足に溺れているのですね。 餓鬼界のすぐ下は、地獄界なのに、お~こわい!!! あはは。 すばらしいコメントどうもありがとうございました! コメント② 『 今までつかえていた物が取れたような気がしました。= >男女共同参画社会を目指すと言いながら、 >本質は、女性の中からの無意識の排除が意図されて、、、 >、、、、、、あさましいレベルです。 男女共同参画と聞いても、 とても男も女も満足できる感じには受け取れませんでした。= また、国のペースで動かされるのか。。。。。 あきらめに似た気持ちでした。= 個人の人権と言いながら、すべては国が管理しようとする。= 臓器法もそうですが、命まで国が管理をしようとしている位ですからね。= そしてだれも何も文句を言いませんね。= ・・・・・・・・・ 男女共同参画という政策にしても日本の国際的価値へ対する見栄もあって、= 悪い評価を受けたくない、何でもよく言われたい?= ・・・・・・・・・ 女性はどこまで国に譲歩したらいいの!そう思っていました。今もそうです。= よくぞ言ってくださった、という気持ちです。= 』 するどい! 以前の記事に書いた生政治の事ですね。 近代における「知識・知性」と「政治権力」の共犯関係です。 目的は、人間を、経済の手駒にする事です。 結果は、人心の混乱、道徳の混乱を政治が生み出すのです。 これこそが、 ミシェル・フーコーが提起した「バイオポリティクス(生政治)」です。 現在の私たちの”人権”や”命の安全の保障”や”選択の自由”は、 国家の枠組みの中の、憲法が定めた限りの保障です。 国家にその根拠があるかぎり、その恩恵も受ける代わりに制約も受ける。 たとえば、安心できない”国家が安全と云う放射能の数値”。 脳死は死か? 臓器提供の判断、選択を国民に押し付ける法律。 国家が、”国民の命を管理する”と云う真の意味は、 安全や生を保証すると云う前向きの意味だけではなく、 ある時には、その裏に、国家のエゴがまず優先される事実があって、 安全と云いながら不安と危険を隠蔽し、数字まで改ざんをする事実。 生と死の判定を科学に言わしめる思想性のなさ。 そのように、国の都合により国民の安全と人権の枠組みを 狭めたり、勝手に動かしても、私たちは、文句のつけようがない。 私たちは、今、その(陽の)壁に突き当たっているのですね。 『陽』は、うそつきと言いました。 国が、安全と云う数値は、 私が、あなたが、ひとりひとりが安全な数値なのではなくて、 この位の数値なら、将来ガンやなにかで何百万人が居なくなるとして、 それでも国をやっていける。 国家が安全なのだと。 国の経営の維持を云っているのだと云う側面もあるわけです。 自分の命は、自分で守るしかないのです。 この原因は、国家と云う悪者がいると云う事ではなく、 国を成す国民の我々の程度が、今やっとそこなのだと云う事なのです。 これを乗り越えなければ、何が人権ですか! 今は、人権を、ぬり絵で練習しているようなものなのですよ。 あは。 これが、人の意識が、「考えた」人権と云うものの中身です。 そして、自らの空っぽになった穴に、功利主義と云うホコリを 溜めてしまった日本の近代化の道徳の崩壊の姿なのです。 『天』と云う普遍的な自然(無意識)をさげすんで、無視する思想を 何の疑問もなく、経済至上主義で黙って受け入れているからです。 壁は、私たちの意識の中にあります。 国が、国民の命を管理する事で、逆に、国民は脅かされるのです。 守ってもらえない疎外感を生むのです。 その疎外感が、国民の心の中に降り積もれば、 国民の心の中から、愛国心は、消えていくでしょうね。 国民の意識が、自分の命を守ってくれない政府に敵対するのですね。 こうして国の土台が、失われて行く滅びの姿なのです。 原因は、無意識を排除し、命への『孝』と云う道徳を失った、 究極は命を殺戮してしまう意識=知への歪んだはなはだしい偏りです。 すばらしいコメントどうもありがとうございました! コメント③ 『 オリオン星雲の美しさにうっとりです。 こんな星雲が空にあることは宇宙のふしぎさを思います。 自然は、大地に花を、空に星の輝きがあります。 人はそれらにくらべてうつくしくあるのでしょうか...? 今日の記事は意識の男性と無意識の女性のありようですね。 むかしからある男女の役割の違いとしてのしつけが、 理屈はわからないけれど正しかったと思いを致しました。 江戸時代の人達は私たちよりしあわせだったと思いますよ。 懐古趣味ではないですが。 』 コメントのこの部分、 自然は、大地に花を、空に星の輝きがあります。 人はそれらにくらべてうつくしくあるのでしょうか...? そのとおりですね。 花や星に、恥ずかしくない美しさ、実現していかなくてはいけないですね。 江戸時代の人達は私たちよりしあわせだったと思いますよ。 3.11以降、今までの価値観では、此れから先は無理だと云う事が、 だれの目にも分かって来たはずです。 さりとて、江戸時代へ帰る事もできないのですが、 江戸時代は、人口が3000万人だったとか、 少しスケールを小さくして、『陽』・意識へ偏った価値観を是正して、 新たな世界を創出をしなければいけません。 それは、『陰』、『無意識』の存在を取り戻す事になろうと思っています。 すばらしいコメントどうもありがとうございました! 最後に、2月8日にメールでいただいていたコメントです。 その当時の記事、 傀儡 2 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学 その11 のコメントでした。 ずいぶん時が経ってしまいました。 コメント4 『 こんばんは。 男性と女性が平等になるコトなんて、ありえません。 何を考えて、男女雇用機会均等法なんて作ったんでしょう? そのせいで世の中全てが男女平等とか言って中身が無いと言うか、 政治家の思惑いっぱいですね(- -; いつの時代も、破天荒な人っているんですね。 ひと昔前は【新人類】って言ったり、今は【宇宙人】って言ったり。 ちょっと人と変わった事を言ったり行動したりする人は、 昔も今も変わらないんですね。 だけど、男と女も時代が変わっても何も変わらないと思います。 前に出てくのは、男の人が居れば十分だと思ってます。 女の人には女にしか出来ない所で威張っていればいいんです。 だって・・・・男の人には、子供は産めないんですもん(笑) 歴史もそうだけど、 今の時代は本当に何がホントで何が嘘だかさぱりわかりません。 そんな世の中に、 自分の子供たちを送り出さないといけないと思うとさすがに怖いです。 その不安を取り除ける方法を少しずつでもいいから 考えていかなきゃいけない時代になってきてる様な気がします。 もう遅いかもしれませんね。』 もう、遅いかもしれない。。 。。 。。。。 されど、あきらめるわけにはいかないー のです。 女性が、内に無意識を秘めて捨ててはいけない。 女性が、無意識に蓋をして閉じ込めてはいけない。 なぜなら、『絶家』の原因の基礎部分になるからです。 なぜ、このシリーズで、意識・無意識を書いているのか? 意識に偏った現代文明を批判するのか? それらは、個人に関係ないと捨てられるものではなく、 無意識の領域で、私たちの命の営みに直結しているのです。 それを理解していただく為に苦労をしております。 ほほっ。 すばらしいコメントどうもありがとうございました! さぁ、今日の、本題へ入ります! 前回、私たちの祖先が、原始人だった頃の事を書きました。 原始人だった頃から、 現在の万物の霊長と云われる人間の地位へ上り詰めて、 生きとし生けるものの頂点に君臨できた秘訣は、 ひとつは、脳の前頭葉を高度に発達させた事です。 =意識を発達させた事でしょう。 それは、すなわち言葉の獲得です。=知識の獲得でした。 =「考える事」でしょうね。 現在、「考える」と云えば、 特に近代化以降の合理主義の思潮の中で、意識を主体にして考えます。 感性も情緒も極力排して、理を追求する事です。 しかし、ずっと昔、 おそらくですが、私たち、人類の祖先は、、 自分が作り上げたロジックの中で意識を主体にして考えたのではなく、 まだ、意識が無意識から、はっきり分かれていないまま、 幅広い無意識の領域と「考える事」が、一体になっていた。 密接不可分に結びついていたのではないか? それは、つまり、 今よりも、もっと、「自然」そのもののに、 人間の脳の「考える事」が寄り添っていたはずです。 今よりも、『天の道』=自然の摂理=秩序にフィットしていた。 そう思います。 無意識からのひらめきが頻繁にあって発展をして来た事が、 生き残る為の諸問題を乗り越えて来れた原因だろうと思います。 人間の意識が発達するにつれて、 徐々に意識と無意識が、遠くなり、区別され、 その働きを担う役割が、男と女に別々になって行った。 そして、特に無意識が排除されてきたのは、やはり!近代化、 それからですね! そう考えると、今の私たちは、 自らの意識によって「自然」から隔離されているのです。 「自然」のありのままから遠くなっており、 6つの窓から眺めているだけ.....。 特に、科学万能主義の時代の中で、 無意識の存在は、実験証明できないから科学的なのもではない。 というその理由で、 世の物事の在り様の研究対象から排除されている状態というのは、 何か変? おかしいとは思いませんか? 自分の五感が感じられる、意識で掴めるものだけが存在する。 自分の頭の中(脳の前頭葉)で考えられる事だけに値打ちがある? 思考そのものを無条件に素晴らしいと言い切っていいのか? 考えると云う事は、いつの間にか「えらい事」になって、 「賢い!」と、手放しで称賛するような事柄なのかしら? 「人は考える葦である」 パスカルの有名な言葉です。 「考える人」 ロダンの彫刻です。 あはは。 こう考えるのは、みんな男性なのです! さしあたり、男性においては、そうだとしましょう。 それで男性にとったら正しい役割であるとしましょう。 女性は? 同じ物差しでいいのでしょうか? ルネッサンス期のフランスの思想家である ミッシェル・ド・モンテーニュが、彼の著書 『エセー(随想録)』のなかで、 「私は猫と遊んでいる時に、 猫に遊ばれているのではないかといった錯覚陥ることがある」 と、書いています。 前頭葉が人よりも発達しているはずの思想家・モンテーニュが、です。 猫の方が利口で賢く、自分はそれよりも劣っているのではないか。 そうした疑問が込められているのです。 また、モンテーニュは、理性にも疑問を持っていました。 「人の理性が、悲しみや苦しみ、辛さしか感じないのなら、 果たしてそれに意味があるのだろうか?」 「自らを憎み自らをさげすむのは、 人間だけであって他の動物には、見られない一種独特の病である」 確かに、猫や犬は、こういう感情からは開放されていますね? あはは。 だから、癒し、そうペットになれるのです。(笑い) 人間は、「 我思う故に、我あり (デカルト)」 なんて自己を規定しておきながら、 いつも頭の中は、心配や不安、そして苦しみばかり多かりし。 あはは。 実は、「 我悩む故に、我あり 」だったりして、、、 あはっは。 国家が、悩み出すとその先で、やって来た事は、 人間の理性も同じ事ですが、 緊張の後は、殺戮を肯定して戦争です。 大きな戦争を、2度までもして、いまだに解決が付かないのは、 理性の奥深くに抱える <襲って来る死への恐怖> <自分の命が衰える事への不安>です。 猫なら、死をジタバタしないで自然に迎えるだろうに、 それをモンテーニュは、正直に述べている。 やっぱり、私達は、猫よりも劣っているのでしょうか? あはは~ 皆様は、これをどうお考えになりますか? 猫などの動物は、弱肉強食の掟のままに、 自分の生存権を、強い存在から脅かされています。 それが、自然の生命のサイクルなのです。 人間は、原始時代から、 道具を持ち、知識を作り、思考を身に着けたが故に、 諸動物よりも強くなって自信を持ったはずなのですが?? つまり、それでも、不安の方が大きいと云う事です。 結局は、理性や思考では、根源的な不安は乗り越えていない。 意識や考える事で、「死」は乗り越えられていないのです。 おそらく、意識は、いつもの流儀で、「死」を、 こんな面倒なもの! 考えたくない! と言って、 無意識へ押し付けて、無意識の中へ隠してしまったのです。 かくして、前頭葉は、「生死」というやっかいな問題を、 分からないままにして=弱点を残したまま、 そこから隔離した世界に閉じこもってしまった! そこが、6つの穴の部屋の中、主観の世界です。 そして、主観の世界の中で都合のいいロジックを作っては壊し、 また作っては壊し、主観の中では、 まるで意識が自由であるように振舞っているのです。 そして、自らを騙してこう言います。 <思考こそが、重要である。考える事は、賢いのである。> あは! 意識とは、つまり”引きこもりオタク”ではないですか! 結局、 人類は、自らが発達させた前頭葉の能力だけでは駄目なのです。 しかも、「死」の恐怖に負けて何をするか分からないのです。 この事の方が、最大の恐怖なのですが..... ほ。 それなのに、恐ろしい事に、 現代文明は、前頭葉に人類の未来の舵を握らせてしまっている? 考える事は、エライ! 思考は、立派な事なのだ! こう云う慢心になっても、だれからも批判されない理性に、 自らの命さえも危うくするこの脳の能力に、 私たちは、全地球の未来を任せているのですよ!!! もう、立ち止まらなくてはいけないわ。 これは、あまりにも意識へ傾き過ぎている事よ。 だって、意識は、6つの穴からの情報だけで、 すべてを知らないのですから、 すべてを知る無意識が、出て来ないようにするはずです。 だって、自分のうそがバレルでしょう? ほ。 無限大の無意識を軽く見て無視をしているのだから、 意識は、かならず行き詰る。 壁に突き当たります。 なぜなら、無意識を無視する意識が、勝手に(この世は、こうだ)と 理解をしたロジックの中で、 この世の中で、意識が、精一杯、「考える」いい事と云うのは、 いくら意識本人が、これが正しいと言った所で、 せいぜい、意識に都合のいい事なのです。 『陽』は、『偽』に通じると何度も申し上げて来ましたね。 意識=『陽』の作為する世界は現象世界= 『無常』の範疇です。 しかも、意識が、意識を否定するような事を、正しいと云う訳が無い。 これで、よくお分かりでしょう? 男性は、自分の中の『小陰』で以って、 女性は、自分の中の『老陰』で以って、 この世界に、『中庸』・バランスが取れるように、 『陰徳』を以って臨んでいただきたいのです。 毎日の、生活の中で、 あなたの人生の中で、『中庸』・バランサーになるのは、 それが、貴女の役割なのですよ。 これからは、女性がどう動くか? です。 ここに、地球と云う星の未来がかかっているのですから、 よろしくお頼みしますね。 長い記事を、最後までお読みいただきました事に、 感謝申し上げます。 さわやかな秋の朝、 秋の空、秋の夕暮れ、秋の夜長、 よき一週間を、お過ごしになってください。 参考文献 :『エセー(随想録)』 ミッシェル・ド・モンテーニュ 著 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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10/15 16:49 |
***** 無意識の不思議 6 無意識に対する科学の限界/生と死への東洋の洞察Category : 自然の力
![]() 参照 : NASAプレスリリース 写真をクリックしてください。欠けている左の全部が見えます! うわぁ~! なに? これ? の第6弾です。 あはは。 ハッブル宇宙望遠鏡が撮ったタランチュラ星雲です。 画像の右下の部分、光る星が集まっている部分が、 ホッジ301(Hodge 301)と呼ばれている明るく輝く大質量星の集団です。 ホッジ301は、大マゼラン雲中のタランチュラ星雲の中にあります。 ホッジ301の中には、現在、赤色巨星が3個あり、 いつかは分からないけれど、 超新星爆発を起こすと思われています。 その中の一つの巨星、SN1987Aと呼ばれる青色超巨星が、 1987年2月24日に、超新星爆発を起こしましたが、 その爆発の星の重さは、 太陽の約20倍、直径は30-40倍もあり、 爆発時の明るさは太陽の約2億倍にもなったというから、 どんなに凄い爆発だったか想像できない位なのです。 大マゼラン雲は、地球から16万光年の彼方にあり、 この大マゼラン雲の中には、散開星団、球状星団、星間分子雲などが 存在しています。 その中の散光星雲であるタランチュラ星雲は、とても美しいのです! ☆の死 この星雲には星の一生の最後の姿である巨星が沢山あります。 星の一生は、爆発という形で終るのですが、 ☆の生 その時、飛び散ったガスや残骸が集まり、 また新たな星が生まれます。 その場所が、上の画像のホッジ301の先、中心の付近、 小暗黒星雲にある濃密で小さい胞子とチリの筋がある所です。 ここで、今、この時、この中で新しい星が生まれています。 実は私達の太陽も、 今から50億年前に、近くで起こった超新星爆発による衝撃で、 ガスや残骸が吹き寄せられて誕生したものと言われています。 星の「生」と「死」 この全く相反するものが、 ひとつの場で同時に起こっている不思議。 --------- 宇宙のその姿の深遠さ、 生と死は、別々のものではなく同時に同空間に存在しているのです。 さわやな秋の日がつづいております。 これをお読みいただいているのは、土曜日の夜ですか? 日曜日の朝ですか? 秋のさわやかな空気の中で、よろしければ音楽を、 新緑の朝 です。 秋なので、少しロマンティックに、いきましょう。 ほんとうは春向きの音楽なのですよ。 あはは。 まぁ、いいでしょう、、、 お耳障りの方は、どうぞ飛ばしてくださいね。 今日は、 無意識の不思議 6 無意識に対する科学の限界/生と死への東洋の洞察 です。 えっ! 科学は万能と言いながら、無意識に限界なんだって? そうなのですーーー! こんな事、お考えになられた事、ないでしょう? あは。 それに引き比べれば東洋の叡智の深さーーー 東洋は、何千年の遠い昔から、無意識の世界を追求して来たのです。 しかしながら、 その視点が、現代の私たちには生かされていないように思います。 東洋の無意識の世界を追求した智恵と伝統と歴史が、 どのような、どの程度の深さなのか、少しでも知って頂きたい。 そう云う記事になると思います。 今日も、まず、前回の記事にいただいたコメントから始めます。 今日は、一つだけです。 編集省略をしています。 ご了承ください。 ほ。 『 >女性は? 同じ物差しでいいのでしょうか? この言葉が胸に迫ります。 今は、女に生まれた重みを突きつけられて耐えられるかな?とまた、 (考え)てしまっています。 こういう(考える)のは、意識的過ぎてよくないのかと思ったり、 自分の意識に都合のいい事なのかと思ったり複雑です。 今の社会の中で女性が女性の特質を自覚するのは難しい感じがしています。 やはり、結婚して家庭を持たないとわからないことがあるのかもしれません。 無意識を(自覚していない)という風に取ったら、 病気の原因を積み重ねている間は、無自覚な方が多いですね。 何か症状があって病院に来られて検査の結果などをみられると 自分が病気だと自覚されます。 自分の生活のなかで、 病気の原因になる因子を積み重ねている間を無意識の範囲として、 症状が出るのは、痛いとか、痒いとか、疲れるとか倒れるですが、 それで初めて病気という自分の体を知る。 意識できるのですね。 自分で解らないと思っているけれど、本当は、どこかで病気になるのに、 そう思いたくないから自分で解らない振りをしていることなど、 意識のずるさかも知れません。 ずるさを重ねると、病気という結果が出てしまう。 人は病気なるとは思わなかったと言いますが、 じつは心のどこかで解っているはずです。 ここですね。 秋になって、寝るのがとても気持ちよくなりましたね。^^ お風邪を引かれませんように。 』 実は、今日の記事には、”未病と病気”または、”生と死”について 書こうかと思っていました。 このコメントをくださって、ちょうどよかったのです。 いままで、無意識と簡単に書いて来ましたが、 本当は 「無意識の領域=私たちの意識で掴めない領域=無意識の世界」と 書いた方が、今後の記事を進めていくのには合っていると思います。 一番の重要な、無意識の世界が起こして来る事象は、 「生」です。 そして、「死」です。 つまり、わが身の「生」以前の事象と、 わが身の「死」以後の事象は、この世の私たちの意識では掴めない。 でしょう? 「生」の前も、「死」の後も、観念的には、想像はできます。 しかし、五感で、臭いを嗅ぐように、 手で触れるようには掴む事はできません。 ごくまれに、生まれる前の記憶を持っている人の話は聞きますが、 一般的な事ではないですね。 たちと言わず地球のすべての「生」を支える、あらゆる機能、 そして、それらの「死」の姿も、無意識の世界からの力です。 「生」も「死」も、無意識の世界のダイナミズムです。 星の「生」と「死」のように、 この全く相反するものが、ひとつの同時空で起こっている不思議。 宇宙のその姿の深遠さ、 すべての生と死は、別々のものではないのです。 コメントに書いていただいように、病気もそうですね。 私たちは、病気へ向かう体調の変化に対して、 症状が出るまで無自覚に過ごしている事が多いです。 その間、西洋医学的には、異常がない。健康であるとします。 つまり、黒か、白です。二元的に物事を捉えるのです。 病気と健康、 病気でないなら健康となるのです。 ここが、油断、見誤る原因の出どころです。 しかし、東洋の伝統ある中医学では、 西洋医学で病気と云う状態を、「既病・きびょう」と言います。 「既病」とは、既(すで)に症状が五感で判る位、体の外に出ている状態です。 それに対して、症状が体表面に出ていないけれど、 病気(病原因)が、体内に存在する状態で、もしか治療をしなければ、 早晩、発症してしまう状態を、*「未病・みびょう」と言い、 意識する世界では手がかりがない状態ですから 五感で病根を掴む事はできないのですが、 無意識の世界に病根がある状態です。 中医学の目的は、 「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」とあるように、 病気になってから治療をするのではなく、 未病の段階で、病気の原因を断つ事です。 つまり、無意識を、どう扱うか? 無視するか? 重要と見るか? の違いが医学の中身でも、 西洋と、東洋では、こんなに違ってくるのです。 東洋の深さは、ここなのですね。 意識で捉えられるだけが存在ではない、 五感で捉えられない存在にも言葉を与え、注目している事です。 そして、観察をします。 *「未病」(みびょう)という用語は、 『黄帝内経・こうていだいきょう』と云う中国最古の医学書に出て来ます。 『黄帝内経』は、前漢代に編纂され『鍼経』と『素問』の18巻から成り、 『素問』は、理論的で、その内容は、医学にかぎらず、 易学、天候学、星座学、気学、薬学、運命学と広くさまざまな分野に及び、 医学書というより科学書と呼ぶべきであるというものです。 ここで、大病になる可能性を探ってみましょうか、、、 西洋医学では、 体と云う肉体の部分に症状が出ていなければ異常なしです。 心と体を二元論で分けて考える西洋らしい、捉え方です。 私たちが、体の奥の変化に気が付いて、病院へ行くとします。 現代の医学の診断は、原因不明、何も悪いところはない。 せいぜい、 不定愁訴という診断をされて他の診療科へたらい回しされるだけです。 これは、無意識を無いものとして発展して来た医学の限界でしょう。 心が、いくら訴えても、物理的に細胞の分子レベルの検査の結果が、 何もなければ、異常なしとなる。 これが油断を生み、未病を発見できない科学の限界です。 命を、肉体と精神と一体のものとして捉えていない西洋的概念が、 医学を、正しい認識の上に立たす事ができないと云う事でしょう。 本来、命は肉体と精神に分けられるものではなく、 生と死と同じように、根源は一緒のもの、 二つのものではないと云うのが、 東洋の仏教の根本の考え方であり、卓見であり、真実です。 他の面から、もうひとつ、ここで分かる事は、 病気になりかかっている本人の側の問題があります。 体内に内在する病気になる異常を、 無意識のレベルでは、気が付いていたはずですが、 またまた、いつも都合の悪い事は気が付かない振りをする本人の意識が、 ”病気になどなっていられないんだ”と云う抑圧の気持ちの下で、 何もないことにしよう、大した事じゃないさ!と片付けて来た、、、 その癖が、病気のサインを見ないようにして来た結果でもあるのです。 『 じつは心のどこかで解っているはずです。 ここですね。』 その通りですね。 すばらしいコメントをありがとうございました! これを、運命学で、言ってみましょう。 どんな状況下でも仕事をやらなければならない! と云う縛りや 病気になんかになったら失業しちゃうよ! 等の不安で、 意識が、本人を縛ってしまう。 何事にも、そう云う強い癖のある命式を持っていたとしたら、 それも、頑固に、”自分は正しいのだーー!。”と思い込んでいたとしたら、 ”○○がおかしいよ?” と 云う無意識からの気付きを、 それも本人にとって良い気づきを、いつも無視してしまう。 それが、その繰り返しが、その人の運命ですね。 いつも、なぜかやる事がうまくいかない。と云う運命です。 悪い、損をする運命とは、 無意識が、せっかく本人の為に、本人の意識にSOSを送っているのに、 いつも本人の意識が、拒否をして押し返してしまうのです。 無意識が、あなたの家来なら、”あ~ぁ~、いつも聞いてはいただけない。” と、無意識に我慢をさせてあなたは済むのでしょうが、、、 無意識は、あなたの家来ではありません。 あはは。 えっ? それどころか、あなたの命を生まれさせ、支え、保ってくれている本体です! あなたの生の根源、源、親のような、親より大きな存在? ちょっと、やさしそうだがこわい? あはは。 そうして、 無意識は、本人の意識が押し返した反応を受け入れ、貯めていきます。 ショウガナイやつだなー。 とかなんとか云うのかどうかはわかりませんが、、、 無意識は、無限大ですから、貯める所は、無辺にあります。 ほっ。 さぁ、これが、?? なにを意味するのか? これは、次回へ譲るとして、、、、、、あはは。 この無意識が貯めていく無意識のゾーン(層)についてですが、 西洋的現代科学も、フロイトやユングがその一端を見つけています。 それと、東洋的叡智、仏法における智慧の一端をお借りして、 その双方から見て行きたいのですが、 長くなっておりますので、今日の記事は、 西洋的合理主義科学の限界と、 ぶざまなその現実をみなさまへ、開陳した所で終わろうかと思います。 まず、西洋からです。 そもそも、20世紀前半ごろに、 フロイトやユングが心理学で想定した理論における 「無意識」の構造の存在は、 結果的に実証されないものであることが判明しました。 つまりは、科学的に実験証明できなかったのです。 それは、そうでしょう。 あはは。 無意識を実験したり? それを意識で証明しようなんて! 本末転倒です。 ここで、本来は、科学が気が付くべきなのでしょうね。 なにって? あはは。 科学が、命に関しては、あほらしくも愚かだと云うことを、です。 まぁ、意識は自分に都合の悪い事は、言わないでしょうから..。。 無意識の立場から、言うしかないのでしょうね。 っほっ。 今の科学では、 意識の網にかかる(五感で捉えられる)ものしか、 実験証明できないのですから、、、 無意識が、意識で捉えられる訳はないのです。 あはは。 数値化や計測不能な「無意識」は、 幽霊や霊魂などと同じ扱いになっています。 無意識は、ゆうれいですか?? んっまぁ! しかし、フロイトやユングが、心理学で想定した「無意識」の存在は、 文化的・思想や芸術に大きな影響を与え、現在もなおそうです。 「意識でない状態・領域」を潜在意識やサブリミナルなどの言い方もします。 要は、科学においては、 個々人の主観的な把握しかできない、 仮説的要素の大きい無意識の存在は、実証性困難である。と、 現在は、疑問のまま放置されていると云うのが、現実です。 これが、科学的と云うものさしの限界だと理解をしてください。 科学で、この世のすべてを解き明かす事は無理なのです。 まして、「生」や「死」は、いかにいわんや、です。 これが、意識の限界です。 この意識の世界だけを研究実験証明するのが、科学です。 科学は、無意識を扱えません。 なのに、 現代科学は、時代と科学者の欲望の充足の為なのか? 体外受精、臓器の製造、生命の人工製造へ手を付け入っています。 部品をいくら入れ替えた処で、 運命を変えないまま臓器だけを入れ替えても、 その運命が、先送りされるだけなのだと云う事が見えないのですね。 「無意識」については、 現代の合理的学問の心理学では、たったの2層 =個人的無意識層と集合的無意識層、の構造となっています。 本当に、西洋思想は、2がお好きなようです。 二元論とか、対比させる手法しかないのかな? 次は、東洋からです。 これは、東洋における叡智である仏法の捉え方と比べると、 あまりにも大まか過ぎます。 と云うのは、 仏法哲学においては、それは幾重にもあると説かれています。 と、これ以降は、次回へ、、、 長くなりすぎますので、、、 今日は、このあたりが限界のようです、、、 ほほ。 すこし、むずかしい記事だったと思いますが、 最後まで、お読みくださった事に、心より感謝申し上げます。 また、次回も、お楽しみになさってください。 記事の中の何かが、 あなたの人生の深遠を探検するのに、 少しでもお役に立てさせていただければ、幸甚です。 良き一週間をお過ごしくださいますように。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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10/23 14:31 |
***** 無意識の不思議 7 天台の『九識』/無意識の普遍性 (因果応報)Category : 仏教のことば
![]() 参照 : NASAプレスリリース うわぁ~! なに? これ? の第7弾です。 あはは。 ハッブル宇宙望遠鏡が撮った小マゼラン雲の中で、 超新星の誕生した時に飛び散った星の残骸たち、 星屑たちです。 非常に綺麗な宝石を思わす星の色と光ですね。 超新星残骸E0102と云います。 E0102は近傍(地球から近く、地球の傍らにある)銀河です。 我々の太陽系から小マゼラン雲までは、約19万光年あります。 ○○億光年と比べると、たしかに近傍ですが、 光が到達するのに19万年!! 19万光年が、近いとは!?! 宇宙的なものさしですねーー。 ですから、 超新星の誕生と云いながら、19万年前の出来事です。 その爆発の残骸から発した光が、それだけの時間を経て、 地球に到達したのです。 太陽の光だって、今の光は過去のもの、、、 8分前の光です。 私たちの今を、8分前の太陽の光が照らす。 私たちが、現在だと思い込んでいる今の瞬間は、純粋な『今』ではない。 多くの過去が入り混じって構成されているのが真実です。 今と云う『現在』は、過去に因っているのです。 この事実が、今日のテーマ(因果応報)の実相です。 我々が過去に、無意識に隠して貯めておいた意識が因となって、 無意識から湧き起こったエネルギーが、『時』を得て、 私たちの意識できる範囲へのぞいて出た結果が、今なのです。 何を無意識に隠したり、貯め込むのか? その癖が、あなたの運命を作っています。 さぁー、今日の記事は、仏教哲学の世界の、お勉強ですよ! ほほ。 ばっちし! いくわよー! あはは。 聞きなれない、初めての事ばかりと思います。 覚悟して、およみくださいね! あは。 今日は、無意識の不思議 7 天台の『九識』/ 無意識の普遍性 (因果応報) です。 前回の記事で、 無意識は、ご本人から押し返された反応を受け入れ、貯めていきます。 ショウガナイやつだなー。 とかなんとか云うのかどうかはわかりませんが、、、 ほほっ。 無意識は、無限大ですから、貯める所は、無辺にあります。 ほっ。 さぁ、これが、?? なにを意味するのか? これは、次回へ譲るとして、、、、、 と、書いておきました。 覚えていただいているかしら? 今日は、そこからですが、 そのお答えは、上に書いた事で、お分かりですね。 ほほっ。 大丈夫ですか? あはは。 今日は、最初からムズカシイ? そうなのです。 最後まで? ムズカシイかも知れません。 ちょっと、ご用心ですね。 ほ ほ 。 現代の西洋合理主義に基づく現代科学は、無意識を無視をしている。 と申し上げました。 フロイトやユングが、せっかく探り当てた心理学の無意識の存在は、 実験証明が不可能で、座礁に乗り上げたまま、進展が見られません。 これ以上の無意識の世界の奥は、仏の智慧に頼るしかないわ。 『因果応報』と云うのは、仏教から出た言葉です。 (因果応報)このテーマの記事の過去記事、 『因果応報の源 時間を生きる』のテーマで、1~7よりも 今回は、格段にレベルアップした内容になる予定です。 ほ。 なるべくわかりやすく記事にするつもりですが、、 仏教の多分耳慣れない言葉が出て来ますので、 難解?かもしれないわ! あはは。 だから詳しくは書きません。 簡単に! ほっ。 しかし、ある意味、わが国が、一時は、国教にもした 2,300年前からある仏教の智見を知る事は、 その仏教有縁の東洋の国土に生まれた人にとって大事です。 歴史上から云っても、我々は、知るべきでしょう。 あ、でも仏教の智慧を知る。なんて言ってはいけないのです! 仏教は、知るものではありませんから! 知識ではないのです! (エラそうに)参考にしようと思ってもいけない。 取るに足らない我々が、6つのちいさな窓から眺めるだけで、 仏の智慧を参考にする?! そんな事、できるわけがないのですーーー。 傲慢と、慢心と、驕慢さを捨てて、謙虚に、、、 仏の智慧は、信を以って。そして、 一番重要な事は、、、、、、、 修行で体得するしかないのでした。 みなさまも、これを了解の上、お読みくださいね。 あは。 それは、われわれ凡夫のつたない意識では掴む事のできない 東洋の叡智である仏教の、 無意識の世界における深い智慧ともいえる法理です。 無意識の世界と、 我々の人生の運、生活が、どう結びつくのかが大事な点です。 と、まず、仏教の歴史の前置きにおつき合いくださいね。 そもそも仏と云うのは、だれ? あはは。 それが、大問題なのです!?? 宗教は、何を根本尊崇するかと云う本尊論が、きわめて重要なのに... そもそも、仏教は、釈迦が、創めたので、 仏とは、お釈迦様? に違いない。と? あはは。 しかし、キリストも、そうなのですが、 釈迦自身も、自分が本仏とは言っていないのです。 後々の弟子が、キリストもそうですが、神と云い、 釈迦も、仏と云われるようになったのです。 その上、釈迦自身が、説法をした経の中で、 釈迦以外のいろんな仏の名前を取り挙げています。 これが、後世の我々を迷わす事になろうとは? お釈迦様も知らなかった?ーーーイヤ、きちんと予言をしています。 ほーっ。 釈迦は、一つの経を終えて、次なる新たな説法をする時には、 今まで聞いた事もない新しい仏の名前を出して来ます。 たとえば、この大千世界(だいせんせかい)=大宇宙には、 数々の国土があって、どこそこには○○の役割で○○の仏がいる。と、 まるで、おとぎばなしのようにです。 あはっはー。 私は、初めて、これを読んだ時に、 釈迦は、非常にクリエイティブな方に違いなかった! と、感嘆した記憶があります。 どれだけの仏がいるかと云うと? 釈迦自身の過去世(生まれる前の生)の修行時の姿だったりとか、、、 それは、それは、いろいろ覚えきれない位です。。 。 時間軸では、過去の千仏、現在の千仏、未来の千仏、とか、 ものすごい数の仏がいるらしい。 空間軸では、宇宙のあらゆる彼方(十方)にいる仏群。 十方とは、東西南北、その間の北東、東南、南西、西北に上下の方向を 足したら十になるでしょう? あらゆる方向と云う事です。 その中の代表的な有名なのが、たとえば、 東西南北、中央に居る4人について書いてみましょう。 ほっ。 ① 方位の中央。 大毘盧遮那経と云う経典の中に出て来る毘盧遮那(びるしゃな)如来 これは、東大寺の大仏さんです。 毘盧遮那とは、サンスクリット語の音訳ですから、意訳にすると、 毘盧遮那=日で、大日経となり、大日如来の事です。 誰もが聞いた事のあるポピュラーな名です。 ② 東の方位へは、 維摩経(ゆいまきょう)、大宝積経などに出て来る阿閃仏(あしゅくぶつ) 阿閃とは、サンスクリット語の音訳ですから、意訳にすると、 阿閃=無動。 (聞いた事がないはず、、、) 閃の正字は、門の中の人の下に、更に人を2つ並べて、人人と書く。 ③ 西の方位へは、 阿弥陀経と云う経典の中で出て来る阿弥陀仏 阿弥陀とは、サンスクリット語の音訳ですから、意訳にすると、 阿弥陀=無量寿。この方位から、西方極楽浄土が出て来る訳です。 非常にポピュラーな名です。 ④ 南の方位へは、 金剛頂経と云う経典の中に出て来る宝性仏(ほうしょうぶつ) (まったく聞いた事がないでしょう、、、) ⑤ 北の方位へは、釈迦如来 こうなるのですが、 釈迦が、どうしてここにあるのか、 ほほ。 それには、後から、まぁ、いろいろな意味があって、 ②東と④南は、初めて? 聞いた事がないはずです。 よく知られている仏の名前と、知らない名前、 まぁ、流行った仏と、流行らなかった仏と云う事なのですが、 その理由は、いろいろな事が、考えられます。 遣隋、遣唐使が持ち帰った経典に、伝播の後先があった。 また、その経典を中国から持ち帰ったのかどうかさえ? 持ち帰ったとしても、それが、一般受けしないので、 その経典自体を拠り所とする宗派を開く開祖がいなかったとか。 そして、開宗したが栄えなかった? 広まらなかった? とかでしょうね。 つまり、ここで理解をしておいて欲しいのは、 釈迦の説いたすべての教説(一切経、大蔵経と云います)を すべて読んだ事もなく、他の教説を知らないまま、 ある部分の経典だけを学んで、日本へ持ち帰った状態だった。 無理もありませんわーー。 遣隋使等で行った際に、中国で出会った経典、書き写した巻物の、 それぞれの部分、部分を仏教全体として受け入れてしまった。 それが、現在の○○宗という源になっていると思います。 釈迦の説法順と伝播の順にタイムラグが、生じたのです。 その上、ある宗派が、政治的に利用されたり、 仏教以外からの力が加わって、時代とともに流され、そのなかから、 民衆が受け入れやすかったりした宗派が、信仰として残った。 それは、仕方がなかった事です。 その事もすべて、釈迦は予言をして入滅をしています。 それ故、 日本の仏教界は、開祖によって、さまざまな宗派に分かれてしまい、 それぞれが、本尊にする仏は、さまざまに違っている現状です。 そもそも、釈迦が経典の中で、何の目的の為に説いた仏なのか? と云う処から、観ていきますと、 すべての仏が、横並びと云う訳ではあり得ません。 実は、仏に高低浅深が、あると云う事です。 そう云う事を、中国の天台大師と云う方が、云っておられます。 飛びますが、人もそうです。同じ位相の人はいない。 あなたは、たったひとりなのです。 オンリーユーの存在なのですよ。 これを、よく自覚してくださいね。 ほほっ。 天台が、出て来るまで、どうしてきちんと峻別されなかったのだろう? 約2300年前に、インドの釈迦が説いたその教えをまとめたのが、 釈迦の入滅後すぐの、第一回仏典結集です。 第二回結集が、その100年後、 第三回結集が、その100年後です。 また、第四回、、、と続いていく訳ですが、 第二回結集自体が戒律上の異議が生じた事が、契機だったとか、 第三回、四回では、南伝と北伝では伝承の内容が一致していないとか、 いろいろあったと、伝わっています。 当然でしょうね。 ほほ。 その上、中国へ伝えられる時も、それが日本へ伝わる時にも、 説かれた経典の内容や教義などがバラバラに、伝えられました。 それは、そうでしょう。 すべての経典を巻物にしたら、膨大な荷物です! ラクダか、馬に乗って、移動をしたのでしょうが、 インドから中国へ伝わる時に、砂漠を越えて伝える側も、 日本のように海を船で渡って持ち帰る側も、 学んで持ち帰るのは、一切経(すべての経典)ではなかったはずです。 しかし、だれもがそうだったと思うのですが、 伝えようとした経典、持ち帰った経典が、”The 仏教”だと。 そう信じないと、やっていられないのも判ります。 なぜなら、空海は私費で渡航しましたが、 大多数の仏教を学びに行った人は、国費です。 帰国する時には、天皇や朝廷へ手柄や成果として、 これこそが仏典である。と、 持ち帰った巻物をお見せしなけばならない訳です。 少々見栄を張ってでもそう言わざるを得なかったでしょう。 つまり、 中国も日本も、そのような騒然とした状況の中で、 受け入れた仏教が、広まったのはいいけれど、 出来上がった仏教界が、清濁混沌とした状態だったのです。 たとえば、釈迦の経典と云うのは、釈迦の説法の時期によって、 インドの民衆の受容力にもよるのでしょうが、 ① 初期に、戒律で煩悩を抑圧するような教えが説かれます。 ② それから、徐々に、反対に煩悩も大事である。とか、 あは。 ① 女は、極楽へいけない。地獄の使いだ。と云う教えから、 ② 女も、男へ変身をしたら、極楽へ行けるようになる。から、 ③ 女も、そのまま女で成仏ができる。へ変化をして行きます。 悪人や知恵者、などもその扱いは変化をします。 その真意は、 当時のインド民衆の日常のなかで性風俗が非常に堕落していた為に、 まず、男性の修行者から、その煩悩を抑える為に、 女性を遠ざける必要が、あったのです。 だから、女は地獄の使いだと、遺棄するわけです。 女性は、二の次と云うよりも、男性が正常になれば、(あは!) 自然に女性はしあわせになると云う事なのでしょう。 そのように、初期の頃は、 民衆に高度な仏教を受容させる為には、 まず、道徳的な戒律を持たせ、 民度を上げるのを目的にした教えが主なのです。 この事を、 仏が、衆生の機根(きこん)を調える。調塾する。と言います。 仏教の経典は、時間の推移に従って、いわゆる“上書き”が、 されていったものなのです。 つまりは、説法が、時の経過によって変化をする。 前の説教よりも優れた新たな経が説かれると、 前の説教の内容とは、数段レベルアップした内容になっているので、 以前のそれまでの教えは、無用=「方便」になる訳です。 いわゆる、2階へ上る梯子のように、上れば、梯子は必要がなくなる。 次なる真実が現れたら、前の真実と思っていたものは「うそ」になる。 その「うそ」は、次なる真実へ至るステップに過ぎなかった。 その役割を終えて、捨てるべきものになってしまう。 そう云うことなのです。 おわかりですね! ほっ。 パソコンなどでは、上書きすれば、前の情報は即消去されるのですが、 そのころは、人の記憶ですから、 あはっは。 せっかく覚えて修行中だったものを、パッと捨てて、 いくら優れていると云っても、事新しいものを覚えるなんて、 たいへん難しかったでしょうね。 ほー。 そのステップが大きければ、衆生は受容をしないわけですから、 事細かに、たくさんの教説が説かれたのです。 信仰心と云うものは、そんなに軽々しく変えられないでしょう。 未だに、女が往生しないお経を、ありがたいお経だと 思っているおばあちゃんもいるはずです。 お気の毒ですが... そりゃそうでしょう。 私たちだって、 一度、信念に持ったものは捨てるのは困難です。 信じて来た事を無駄にしたくなくて、 どうしても固執するものです。 しかし、 執着、我慢偏執、我こそが正しいと云う我見、 それらが、真実を追求するのに邪魔になると云うのも、事実です。 だから、釈迦は、そう云う時、弟子に向かって、 “ 止善男子”= だまらっしゃいー!”と、言っていますよ。 あは。 まぁ。そんな、いろんな理由で、 説かれた経典の順番が整理・体系化されないままであり、 説かれた経典の内容の分類が未整備だったのです。 アジアで、世界宗教になっていた仏教は、 その国々で、てんでバラバラに発展をし、 仏教の教義を外れるような宗派も出て来ていたはずです。 日本も、奈良平城京の仏教界が、 聖武天皇の庇護から、ある意味では朝廷よりも権力を持ち、 桓武天皇は、天武天皇系列の断絶の後、 天智天皇系列を立て直す時、まず、奈良仏教の勢力を排除する為にも、 都を、平安京へ遷都をした訳です。 桓武天皇も、奈良の既成仏教界を抑える必要を感じていたのです。 ちょうど南北朝の時代の中国でも、同じ状況でした。 隋の煬帝から命を受けた*天台大師が、 インドから伝わった仏教の中の、 どの経典がもっとも優れた教えなのか?を判断する事を行いました。 それを、教相判釈(きょうそうはんしゃく)と云います。 それぞれの教えの順、対告者、教えの目的、などを分類したのです。 釈迦の全ての経典を五つの時に分け、経典の内容で八つに分けました。 これが、五時八教(ごじはっきょう)です。 詳しくはここをごらんになってください。 これは、*仏法の法理=仏の智慧、悟りを理論体系化したものであり、 天台の業績として有名なのが、 仏法法理の『理』の集大成としての著書、 『大智度論』、『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』です。 世界史で、覚えた記憶ありませんか? *天台大師(538-597)は、 中国の僧侶で名は智(ちぎ)。 南朝陳の同族で、皇帝に近く貴族出身(日本の最澄=伝教大師と共通) 浙江省の天台山に登って天台教学を確立したので天台大師と呼ばれた。 「大師」号は、隋の煬帝から「智者大師(だいし)」の号を賜わった。 ついでに、 これを伝え聞いた桓武天皇が、奈良の既成仏教界を整備する為に、 *最澄に、中国の天台宗を学び伝える為に、遣隋使を命じた訳です。 *最澄=応神天皇の時代に日本に渡来した 後漢の孝献帝に連なる登萬貴王(とまきおう)の末裔。 19歳で、大蔵経(釈迦の全ての経典で481函5048巻と新訳経典40巻) を比叡山で読破したという。 ものすごい秀才だったのでしょう。 中国の天台山に登り、天台教学を学び持ち帰った人物、伝教大師です。 中国の天台は、『九識』と云う法理を展開しています。 簡単に言いますと、無意識の世界を9層に分けた仏教の法理です。 あー、これでやっと前置きが終わりました! ほーーー。 いよいよ、仏教の法理『九識』論へいきます。 『識』とは、仏教用語で、生命が物事を認識する働きの事です。 対象を認めてその異同を知り、 分別領解する心の作用と云う意味の他に、 認識によって表われる表象をも意味し、 また認識の主体を意味する事もある仏教の語です。 人間の表面的な五感の『識』から、深く九段階の構造を説いています。 『九識論』は、詳しく記事にするとそれだけでも、長過ぎて、、、 今回は、簡単にします! あは。 実は、無意識の世界は広く厚く、何層も重なっていると思ってください。 精神、心を大きな海に例えますと、 海の表面、波が立っている所が、意識です。 意識よりも深く、海面からすぐ下の海の中を無意識層の始まりとしたら、 意識の変化や癖に染められた無意識層が、その辺りです。 『九識』の簡単な解説をします。 第一識、二、三、四、第五識は、 眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五感に加えて「意」の認識。 いわゆる心の働き。 第六識は、五感で得た認識を内面的に捉え直す思考、感情などの働き。 夢を見たり、過去や未来を想像するなど。 第五識までの働きとは関係なく自立的な作用も含む。 ........................................................................................... ここまでの識は、深海の海面に波立つ波だけを見ているように、 表面的な現象だけを捉える認識しか働いていないので、 天台大師は、「凡夫の識」と名付けている。 =迷いの心。 ........................................................................................... 第七識は、意識的であれ無意識的であれ、 その奥の第八識を自身=我と執着し続ける根底の自我意識。 第八識は、自身が過去から積み上げて来た善悪の業を蓄積して、 その果報としての苦楽を生じさせる源泉となる識。 (深い処にあるこの無意識が、事の善悪を覚知しているのですね!) 第九識は、根源的な生命の領域として、清浄で真理と一体である識。 仏の悟りの境地そのもの。 あらゆる生命に本来的にそなわる仏性。 天台は、=仏識と名付けている。 以上ですが、 6世紀に生きた天台大師、日本の伝教大師の両師の目的は、 経典の判別の迷いを整理し、法華経を宣揚する事でした。 それぞれが時の最高権力者である皇帝や天皇の信頼を得て、 厚い庇護を受けました。 その中身は、ザッと書いただけでは伝わらないかも知れませんが、 それから1500年後の、21世紀の科学が、 未だ解明し尽くしていない人間の心理の奥底と、 片やこれも未解明の宇宙が、つながっていると云う法理です。 私見ですが、 天台の業績は、仏教の『理』におけるピークだと思っています。 これで、いかに東洋が、西洋に引けを取らないか、 精神的遺産において優れているか、 誇るべきそのレベルの一旦をお分りいただけたと思います。 最後に、苦楽について少し... 西洋文明が、席巻する今の時代、 周りを見回してごらんになって! ほとんどの人間が、苦を避けて、楽ばかりをさがしています。 なぜ? でしょう? その理由の中の、ひとつは、 意識を中心にして、 理解する事を大事にすると、どうしてもそうなるのです。 ならざるを得ない。 理解は、意識がする行為です。 この意識がする理解は、過去に縛られています。 過去に縛られるのが、意識の限界でした。 過去にあった苦しい事、悲しみ、悔しくて我慢をした事など、 意識は、それらを土台に感じたり、決めたりします。 だから、意識の答えは、いつも、苦から逃げたい。 まず、避ける事しかできないのです。 西洋合理主義が入ってからを、振り返ってごらんなさい。 便利に、簡単に、楽に、安く、手間を省いて、、、、、 に最大の努力を払って来たのです。 それが、 あたかも善であるかのように...? それで、人間がどうなるのか影響も考えずに、 いろいろ道徳的に、初めは言っていても、 最後は嘘をついてでもスタコラサッサと、楽の方へ、 逃げまくります。 あはは。 その見本が、政治です。 そして、 すぐ手に入る『楽』を求めて彷徨(さまよ)います。 すぐ『楽』を手に入れて、苦や悲や怨を、消したいのですね。 五感の浅い処での『楽』ばかりが、繁盛します。 世の中、安っぽい楽が、売れる状況です。 なぜなら、 『意識』=『心』だから、 意識は、お馬鹿だから、 何でも、『心』=『五感』で感じたいのですね! あはは。 『楽』を求めて感じたい!!! 主観で“気持ちいい~!”と感じたい! これが、自己満足を追求して、気が済むレベル、 意識を中心にした主観の限界。 ここです。 その程度が(心)のレベルです。 よく行ってもそこまで。 そのあたりが、第七識あたり。 この辺をウロウロしているのですね! これで、楽が、感じられないと、 対象を、お馬鹿だと切り捨てて無意識の中へ隠すのです。 はぁー? 実は、意識、お前が、お馬鹿なのに! あはは。 でも、まだ善悪を意識できる余裕のある内は、いいのです。 第八識の善悪のどちらの方へ、自身の業が、積み上がっているか? それがビンビン分かるようになると、 楽でも悪なら、その楽を捨てる強さが出て来ますし、 苦でも善なら、その苦を喜んで受け入れられるようになるのですが、 さぁ、それもどうだか? 釈迦が、仏教を説き始めた頃のように、道徳は乱れています。 こうなったら、 無意識と意識の 人生の幸せと言う山を登る為の地図は、そもそも違うと云う事です。 大きな違い、大きなギャップです。 この事を、今日は、お心に御留め下さいね。 次回は、 意識と無意識の本当の素敵な関係は? と云うテーマで、 このシリーズは、一旦、最後になります。 ここまで長い記事をお読みいただいた事に、 感謝申し上げます。 良き一週間をお過ごしください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2011
10/30 19:10 |
***** 無意識の不思議 8 意識と無意識の本当の素敵な関係は?Category : 自然の力
![]() 参照 : NASAプレスリリース うわぁ~! なに? これ? の第8弾です。 あはは。 おとめ座の方向へ約4億光年の距離にある銀河NGC 5679、 ハッブル宇宙望遠鏡が撮った銀河系三つ子Arp274です。 まるで腕を絡ませたパイクッキーのよう! あはは。 左側の小さな銀河も含め、3つの銀河。 その中の2つの銀河の一部が重なったように見える姿から、 特異銀河を集めたArpカタログの番号でArp 274とも呼ばれます。 実際には、それぞれが地球からの距離は異なっているのですよ。 一年の大詰めまで、あと2か月を迎える時期になりました。 自然は、かさっ、こっそっ、と、 最後の彩りで飾った葉を落としています。 今秋は、那須と尾瀬と谷川岳、鎌倉と兵庫県の六甲山の秋を惜しみに 行って来ました。 また、行く予定をしています。 このシリーズの宇宙の写真が終わりましたら、 地球の自然の時の移り変わりの喜びの写真を掲載します、 お楽しみに。。。 実は、 先日、次のようなメッセージをいただきました。 興味深い記事なのですが、 出来れば文字は単一色にして頂けないでしょうか。 色弱の方への配慮を、ほんの少しして頂けたら、幸いにございます。 このブログの記事にカラーをつけている理由は、 コメントのお返事で書かせていただきましたが、 此方に、配慮が足りなかったと反省しています。 少しづつですが、変えていこうと思います。 薄い色で、少しだけに変更を致しますね。よろしく。 さぁ、今日は、無意識の不思議 8 意識と無意識の本当の素敵な関係は? です。 今日で、このシリーズは、最後の記事になります。 始めた時は、2,3回で終わる予定だったのですが、 みなさまからのコメントの反響から、だんだんと深みに入って行った? あはは。 8回までになってしまいました。。。 前回の記事の最後で、こう書きました。 無意識と意識の 人生の幸せと言う山を登る為の地図は、そもそも違うと云う事です。 大きな違い、大きなギャップです。 意識と無意識は、どうもその方向性が違うようです。 これを敷衍すると、 男性と女性の本質は、違うと云う事ですね。 当たり前の事ですが、ここで確認しておきます。 常に、このテーマが裏に隠れていると思って読んでください。 ここで、、前々回の記事にいただいたコメントを一つ、 ご紹介したいと思います。 文章を省略、編集しました。 ご了解ください。 『 病気になるということは、 最も分かりやすい<無意識からの>サインだと思います。 我慢したり無視したりはもちろん、薬に頼り過ぎるのだって、 ある意味本質に向き合うことにはならないような気がします。 無意識からのサインを無視していたら、体や心を壊すのは当たり前、 そのうち取り返しのつかないことになりますね。 お勉強ができる人は、言い訳が得意な人が多いと思います。 見えることだけでああだこうだ言ってるだけなので、 むしろ薄っぺらく見えてしまいます。』 その通りですね。 この中には、二つのポイントがあります。 一つは、 無意識からのサインを無視していたら、体や心を壊すのは当たり前、 そのうち取り返しのつかないことになる。 二つ目は、 お勉強ができる人は、言い訳が得意な人が多い。 あははっ! お勉強ができる人は、耳が痛いこと! 今の勉強は、西洋合理主義の学問の基礎知識中心です。 そして、方法も“知識の詰め込み”です。 今の教育は、どう生きるかや、真理の為と云うよりも、 まず、食う為? あはは。 経済に奉仕しなければならず、 そのサイズに合わせた教育なのですね。 宗教は、何の為に生きるか? の答えを求めますが、 東洋学は、いかに生きるか? の道を求めます。 儒教などがそうです。 今の教育は、そのどちらも教えきれずに、 ただ狭い意識の現象界に役に立つ知識だけを教えようとします。 いくら論理的思考で考えさせると云っても、 それは、知識、学問の範疇、意識の働きです。 意識世界のたかが論理性です。 6つの感覚器官の穴から覗いた情報の論理性でしかない。 だから、知識が増えれば増えるほど、枝葉が分かれて分かれて、 だんだんと根から、=元の本質からは遠くなります。 だって、最初の仮定が、証明されたと云っても、 証明されたのは、あくまでも仮定だったものなのですから、、、 その積み重ねは、どこに本質があるのかさえ、不明になるはずです。 そんな当てのない判断でなされた結果に従うのは、 自暴自棄のような、気違い沙汰、とても命を懸けてはいけません。 だから、我々は、 本質から遠くなった事にも気が付かずに、 便利に合理的に都合よくなったと云う目先の自己満足の世界にいます。 本質をどこかに忘れたままのロジックに平気になったおかげで、 “価値の多様化”と云う飾り言葉を、 それこそ“言い訳”に使うノウハウを持ち合わせていますから、 平気で“言い訳”になる論理=ロジックを構築します。 偏差値教育とは、そう云う人を育ててしまう。 いい見本が、官僚の“霞が関文学”なる言葉が生まれるのも、 その能力のおかげのようですわ! ほほ。 やる気がないのにあるように見せて、 後々、都合がいいように運用できる法律を作文する学力です。 自分を正当化するロジックを自在に作れるのですね。 それを恥と思わせる尺度、社会に見抜く物差しがない不幸です。 社会における「義」の喪失です。 代わりに奸智に長けた人材の育成が行われてしまうのです。 原因は、道徳性の欠如です。 これは、戦後の教育が、 人が作った知識だけを身に付ける“お勉強”だけだったと云う事です。 それは、そうでしょう。 無意識を排除した意識だけの知識教育なのですから、、、ね。 以前、これを、東洋学からは、雑学と云うと申し上げました。 人は、どう生きるべきかと云う実学を教えられていないからです。 人の心から、道徳が蒸散してしまっている結果ですね。 その人の集まりが、社会ですから、 社会から心が、道徳が、蒸発して飛び散っている結果です。 3.11の後に、新聞紙上でこう述べている学者がいました。 ”これから、もっと自然と戦って勝つ必要がある。” えっ! 本気でそう思っているの? 3.11の惨状を見ても、まだ科学が万能だと思っているのか? その学者は、科学に身を投じ、一生を賭けて来たのかもしれない。 その科学を信じ続けて行きたいのかも知れない。 しかし、そう云う過去に囚われた亡霊は、もう、古い。 あなたのような学者には、付いていけない。そう思いました。 知識第一、学問第一、科学第一、 それが、経済第一に奉仕しています。 ヒエラルキーの最上部は、経済が居座っています。 意識は、余程、貧乏がこわい? 飢えが不安なのです。 それらの不安が恐れが、根底にある経済学です。 しかも、無意識を無いものと扱う科学第一。 そこから出て来るオーラは、恐いほどです。 これらが、一つの宗教のように、地球を覆っています。 これは、大いなる邪義です。 その邪義が蔓延する社会は、無意識からのサインを無視します。 とことん無視ししたら? どうなるの? ? 恐くて語れない。 。。。 最後、無視した結果が、天と地と人の災いです。 今回は、地震と津波と原発事故。 放射能の滞留と国土の汚染、食糧へ生命への汚染です。 生命の安寧が保たれない環境におかれる状態が続きます。 TPPでも、アメリカの悪魔、モンサント社から、 遺伝子組み換えの食糧が、どっと入ってくるでしょう。 ずっと安い、除草剤をふんだんにかけられた大量生産の食糧です。 経済力で食糧にも格差が付くのが当たり前の格差社会です。 無意識の世界の本質は、生きとし生きる生命の安寧を保つ事です。 無意識を無視をすれば、その反対、反作用のベクトルです。 その恩恵に与かれない。 浴せないと云う状態へ陥るのです。 これが、天罰と云えば、たしかに天罰に違いありません。 なぜなら、 天(無意識)は、銃や、爆撃や、兵器を用いません。 自然の徳、天徳=五行を以って警告を出して来ます。 木・仁、植物=Co2 食糧難、放射能汚染、社会の仁愛の欠如。 火・礼、太陽=磁気嵐、エネルギーの不足、人の行為が礼儀を失う。 土・信、大地=地震、国土の放射能汚染、社会の信頼性の崩壊。 金・義、金属=鉱物資源の不足、金融の混乱、社会正義の欠如。 水・智、水・海=津波、水害、水不足、愚かさの横溢、大衆智の欠如。 これらは、無意識が、いじわるなのではありません! 無意識は、本来は、われわれの生命活動を支え、育み、守っています。 天罰とは、人間みずからの働きが天の摂理を犯す その事によって起きて来る風雲です。 無意識の世界からの恩恵について思いますと、 谷川晃一さんと云う画家がいます。 もう、亡くなられたのですが、その奥様で同じく画家の宮迫千鶴さんの エッセイを思い出します。 このお二人が、東京から伊豆高原へ移り住みます。 その自然の中での宮迫千鶴さんの体験が書かれていたのですが、 中国の言い伝えに、 自然と云うものは、あらゆる事で、私たちを助けてくれるのだそうです。 自然の中に住んでいたら、普通は、家の周りに草、雑木林になります。 ≪何とかしたいという気力がある処には≫ その命の生存に必要な植物が生えて来ると云うのです。 その時の体質に合った植物が大地から芽生え、 自然に育ち、それを食する事によって健康になれるのだ。 体質が中庸に、なれるのだと云うのです。 自然智です。 求めずにして得られる智恵です。 それによって守られ、原始より人類は生き延びて来たのです。 現代医学でも、分かっている事は、 呼吸、心伯、血圧、内分泌、睡眠、記憶、消化、吸収、などを行う 筋肉や諸器官は、人の意志では動かせないけれど、 自律神経と云う体内時計に従って、生命を守る働きを司っています。 私たちは、生きているのではなくて、生かされているのですね。 こう云う生命の自然の営みを無意識の世界と思ってくだされば、 自然と我々の関係は、対等ではあり得ません。 我々が、無意識の世界である自然から この現象世界へ生じたものである限り、 自然に逆らう事はできません。 死でさえも、自然の営みの無意識の世界の範疇の出来事です。 つまり、 無意識に、我々の首根っこを捕まえられている? あはは。 それは、まるで、我々がここで生きている状態と云うのは、 我々のへその緒が無意識の世界に結びついたままの状態なのです。 そのへその緒を通じて、 命を永遠にする根源のエネルギーを注ぎ込んでもらい、 宇宙の運行のリズムに乗せられて、生命は自然に従い律動し、 死をも最後に体験をさせていただいてしまうのだから! ほっほ。 その生命の本源が、エネルギーの源、自然です。 要は、一方的に、我々が、自然に包み込まれている関係なのです。 我々が、自然を守ろう! なんて、叫ぶこと自体がおこがましいのです。 そう云う無意識の世界へ対して、 意識が、している事と言ったら、 過去の五感の経験からしか答えを出さない意識の癖から、 いつも、五感で味わった苦から逃げたい。 まず、避ける事しかできないのです。 我々は、自分の意識で嫌な事を無意識の中へ隠すのです。 意識の願いは、楽になる事。 だから、楽を味わう為に、最大の努力を払って来ました。 すぐ手に入る『楽』を求めて彷徨(さまよ)います。 根底にあるのは、死に対する恐怖と不安です。 しかし、この楽は、常に裏側に“苦”が、セットされているのですよ! なぜなら、現象世界では、作用・反作用の法則が、あるでしょう? あはは。 意識のそうそう思い通りにはならないの。 ほっ。 しかし、その時、無意識はどうなのでしょう? 無意識は、意識の家来ではありませんが、とりあえず、意識に従います。 無意識は、最初、無理強いはしません。 できるだけ意識が好きなようにするのを見守るのです。 無意識は、太母。 すべてを受け入れる母です。 無意識は、本当の客観世界を、じっと凝視しています。 本当の客観世界? そう、 あなたがあなたの五感を通して見た世界ではないわ。 あなたがあなたの五感を通して見た世界、 それは、あなたの主観のなかの世界です。 無意識の見る世界とは、あなたの肉眼ではなく、耳ではなく、 鼻ではなく、、、、なく、、、、でもない。 その奥の五感に左右されない無意識で見ているのです。 今、あなたが、これが世界だと認識をしているのが、【 主観世界 】。 あなたが作った架空の世界なのですよ。 あなたの主観の想念が作った利己主義製の世界です。 = マイワールドです。 実在の世界【 客観世界 】ではありません。 人は、自己の主観の世界に合わない事象を、厭います。 そして、処理ができないものを、無意識へ隠します。 これに対して、意識に近い所にある無意識は、 意識が処理できなくて丸投げして来たその悪い癖をいっぱい溜めこんで いますから、 実は、それらを意識に返したくて、うずうずしています。 ≪お前が住んでいる世界は、本当の世界じゃないんだよ! ≫ 気が付かせたくて、うずうずしています。 あはは。 でも、意識は、イヤな事を、決して受け取りはしませんから、 無意識は、だんだんと深い無意識へそれらを沈めて行きます。 なにを? ははっ! 意識が処理できなくて丸投げして来た悪い癖です! 片や、意識が心の中でしている事は、 五感から取り入れた情報を必死に処理しながら、 一体何をしているのでしょうか? そう! それなりに必死に生きているのね! ほほ。 たとえば、我々は、いろいろな習い覚えの中から、 今までは、自分の意志が大事だと、それしかないのだと、 自分を縛って来たりしていませんか? 運命学から言ったら、それは片面の真実ではありますが、 意志の強さだけで、 何もかにもが、うまくいく程、人生は単純じゃないでしょう? だから、それが辛くなった時は、 つまり単に、問題がないふりをしたり、そう感じるふりをしたり、 言い訳を考えたり、また違うフレーズの知識を聞いたりして、 知らない間に自分への付加を弱めて来たはずです。 それは、不安を抱くあなたを守ろうと、 意識が、かりそめの現実を作ってくれる行為なのです。 そこに、愛ある人の“慰めの言葉”などがあろうものなら、 もう、それに拍車がかかります!! あはは。 これが、不幸の元凶、【 自己欺瞞 】です。 自分を騙す。 辛い自分を見たくない。 自分の負けを認めたくない。 人間の意識は、うそつきですよ。 そして、 あなたは、そのうそつきの意識に守られて、 心の中で、”必ず良くなってみせる”と 健気にも、何度も自分に言い聞かせたりして来たでしょう? それらは、すべて、 意識的に行っていたことです。 しかしそれが繰り返されるうちに、 いつの間にか意識に染められやすい無意識の上層のレベルが、 そう云う意識に染まっていくのです。 いつの間にか、そう云う行動が刷り込まれて、 次は、無意識にその行動をするあなたがいる。 そう、あなたを原始時代の危険からあなたを守って来た意識が、 あなたを守ろうとする癖で、うそまでついてあなたを守っている、、、 そう、 自分に都合いい自分製の架空セットのなかに自分を置きます。 その架空の世界に、あなたは常に、居るようになります。 だって、居心地がいいからです。 たとえれば、ディズニーランドのあの世界です。 あはは。 あそこは、仕掛けられた人工のセットの場所ですから。 次々と、こうだったらいいなぁ! と云う物を集めた場所です。 そう、五感にとって、決して、不快なものは、ありません! それを、眺めている無意識は、どう受け取っているでしょうか? 無意識からすると意識は、どうしても苦しい方向へ行ってしまうのです。 なぜなら、苦を避けて、もっと大きな苦を作るあなたを見ている。 無意識は、 ありのままの現実に、あなたが直面してほしいと思っています。 なぜなら、無意識は、人間が自分に都合よく作った、 利己主義な意識が作った人工の世界の中には幸せがない事を、 知っているからです。 無意識は躊躇なくなんでもあなたに見せたいのです。 ほんとうの現実の上に、立たせたいと願っています。 たとえば、我々は、こう言って悩んだりします。 ”僕が死にかかったって、誰も何もできないくせに、 あぁ、僕は死がこわい。死なない為に必死に働いているのだ。 働いても働いても死の恐怖はなくならない。 安心できない! 逆に、年を取って、だんだん死が近づいて来るのだ。。。 そう、こう云う不安や愚痴を、まるでゴミ捨て場のように 無意識の中に、嫌な現実を、ポイポイと隠します。 でも、無意識は隠してやっているなんてつもりは、さらさらありません。 では、どうするか? 意識が耐えられないと避けた苦しみも、悲しみも、 無意識は、すべて受け入れる力がありますが、 無意識の衝動は、あなたに 無意識の中へ、ずっと放り込んで来たガラクタを、すべて 整理させたいのです。 その為に、 ほんとうの現実の上に、立たせたいと願っています。 苦しくてもいいじゃないか! それが、本当の現実なんだって! 自分に負けたって言えよ。 そこからしか、お前は生きれないんだから! その苦を受け入れてごらん。 もっと、深い幸せが、本当の喜びがある世界があるんだ。 って、 そう叫んでいるのかどうか、? あはは。 五感を騙して作った都合のいい主観の世界を壊して、 客観的な実の世界はこうなのだ! と 無意識は、あなたに教えたいのですが、、 意識は、まるで無意識を信じていませんから、 意識が、「 知る必要はない! 黙っていて! 」と 無意識に命令するから、 無意識は、真実を感じたり、見た実相を隠してしまうしかないのです。 いくら意識が無意識の云う事をきかないと云っても、 この時に、無意識が感じて、受け止めた実相(本当の客観世界)を、 無意識は、完全に誤魔化しもできませんし、失くす事もできません。 意識が気が付いてくれる事を願っているのですよ。 まして、0(ゼロ)にはできないのです。 溜めていきます。 永遠にです。 そうしている内に、 意識が捨てた、実感の苦は、深く深く無意識の奥へ沈んで行きます。 それが、あなたの業です。 あなたが、いつ、何を為したかと云う積み重ねの業です。 その集積が、運命を作り上げます。 意識が、無意識に逆らった、無意識に嘘をついた、その事は つまり、自己欺瞞は、無意識層の中に溜められて行きます。 意識がやった実績の記録が、無意識の中に残っていくのです。 そのように、 無意識は、意識を捕まえられますが、 意識には、無意識を捕らえる力はないのです。 そして、 無意識の海の深い所へ行くに従って、 意識の届かない、意識にも染められない 無意識の世界が膨大に広がっているのです。 意識に染められないとは、現実の環境に染められないと言う事であり、 周りのどんな状況、思惑にも左右されない心があると言う事です。 深い無意識は、 無意識の本体である、その智恵や染められない心や、 宇宙本来の真実の存在の姿を、 あなたに気づかせよう、知らせよう、バックアップをしようと、 うずうずした衝動のある存在なのです。 お分かりになりましたか? 無意識の世界が、どんなにあなたに切実な世界か? 最後に、具体的なお話しに、、、 人生の自分の行動動作をよ~く考えてみると、 自分の意識で行っているようで、実は違うでしょう? 人生のほとんどの事は、 後から考えたら、考えても見なかった、そんなつもりは無かったと。 だいたいの人の人生というものは、そんなものです。(笑い) 自分の意志の力で、物事は決まっていくわけじゃない。 いろいろな人の都合で調和をしながら物事は動くのです。 そう、思う心を強めていきましょう。 そして、五感の過去の経験の中からしか判断できない意識の癖、 これを乗り越えようとするならば、 五感の過去の経験を増やすしかない。 でしょう? 意識の、この能力をどう使うかで 自分の生存さえも左右する必要な能力なのだと言う事を、 自覚しなければいけないのですね。 そして、意識が、その過去の経験に制限されるのであるならば、 その過去の経験自体を、広げて深めるしかないですね。 心のエネルギーを増やすと同時に、 「意識の視野を広くする」「多様な視点の獲得」です。 狭い意識に、豊富な経験をさせるしかないのです。 そうしたら、少しは判断の幅が増えるかもしれない。 あは! 昔から言われてきた事、 「 かわいい子には、旅をさせろ。」 です。 その子の主観の世界を広げ、自信と幅を付けて成長をさせるには、 親の庇護から離れた旅に出す。 広く他人の意識が存在する世間に、モロに接する事がいい。 直接、自己と違う他人の意識を感じ、知る事が、 脳の前頭野のシナプスが増える。そう云うことでしょうね。 もう一つ、 心は、自由な心とか、純粋な心とかの形容詞が付きますが、 実態は、そんなに自由でも純粋でも、ない。と云う事です。 過去に染められた感覚器官のフレーム(額ふち)に囲まれて制限され、 外側の刺激に束縛をされている。 それが私たちの心である。 このような心を中心に生きると云う事は、 私たちは、6つの窓を走り回る猿になってしまうのです。 自由で純粋な心ね~ ははは。 と、そうなりたいのなら、この部分を無くす事ですね。 どうすればいいのって? それは、過去の自分の偏見や、自信のなかった事に挑戦する。 そして、こわい事を無くす事ですね。 いつも心をリラックスするように努力をして、、、、、、 自分を解放しなければ、と言うのは、その為なのです。 最後に、 意識と無意識の本当の素敵な関係は? と云うと、 意識は、無意識に支えられて初めて、正しいのです。 意識は、永遠に壊れないもの=無意識の存在を意識するべきです。 そして、無意識も、 無意識を反映した正しい意識の奮闘があってこそ、 無意識の智恵と創造性が、外に『陽』として表出するのです。 これが、幸運、幸せの姿。 だれもが客観世界で意識で感じられるものなのです。 このシリーズをお読みになって、 ご自分でいろいろとお考えになっていただきたいのですが、 ひとつ大事な事は、 苦を避けない。 逆に、苦を引き受ける生き方を、モットーになさる事をお勧めします。 なぜなら、 悩むというのは、本当は解決の一歩手前なのです。 大苦は、おおいなる楽の前兆なのですよ。 ここまで長い期間、 長い記事をお読みいただく苦に耐えてくださった事に、 感謝申し上げます。 よき一週間をお過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |