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    「笑い」について      ・・・ 免疫力を高める笑い ・・・

    Category : いのち/ふしぎなるもの
    あけましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願いします。



    お正月飾り


    お正月飾り






    笑う門には福来る
    (わらうかどにはふくきたる)

     

    京都系いろはがるた の一つです。

    子供の時の、かるた取りで御記憶にありますね!

    笑って暮らす家、一族、一門には、自然に幸運がめぐってくる。

    と云う意味です。

    「幸運は楽しい門を潜ってくる」「和気財を生ず」と通じます。




    ここで注目をして欲しいのは、

    笑う人ではないでしょう?  人ではないのです。 門です。

    しあわせは、人単位で来るのではないのね。

    深い言葉です。

    しあわせは、守り合う人と人の間に来るのですね。


    そう、だから、和気(仲良くする事)財を生ず。

    助け合えば、お金が入って来る事になるのですね。



    今日は、まだお正月ですから、


    笑い、福来たる、和気、財生ず、 縁起の良い記事にします。  あはは。


    「笑い」・・・ あらたな扉を開けた時の驚きと受容 ・・・です。






    私も、このブログの中で、よく笑います。   ほほっ。

    実際に、記事をキーボードで打ちながら、笑っている!

    きもちわるい~?   時々そう思ったりしながら、、、


    これは、喜んで現実の何でもを見ていこう、受け入れようとする気持ち、

    大変な事も笑い飛ばそうと云う気持ち?なのです。

    眺め直そうと云う切り替えの時に出て来る笑いだったり、

    今までの観点をずらして驚く意味の笑いだったり、 

    笑ってごまかす?  あっははー。

    そうかもしれません!  

    よく笑う、  子供の時からよく言われました。。

    玉が転がるように笑うのねー。  とか、   ほほ。





    「笑い」は、本能的な行動だという説があります。

    なぜなら、脳幹と云う原始的な脳が司っているからです。

    脳幹とは、

    大脳、右脳左脳の真ん中を通って脊髄につながる延髄までを言います。





    志水彰・大阪外大教授の 「ヒトはなぜ笑うのか」によりますと、

    「笑い」と云う行動?表情?が確認されるのは人間と猿だけだそうです。


    「笑い」と云うのは、

    実は、人間が大昔、進化する過程において、猿と同じレベルの時、

    自然界で木の実や生き物を採取して生きている時に、

    有毒な物を口に入れてしまった!  

    それを吐き出そうとする動作から起こったのだそうです! 
     

    えっ!? と驚いて、 しまった! いけない! 


    口を横に広げて口角を後ろに引き、歯を出し、舌を突き出して、

    頬の筋肉を釣り上げて大口を開けて!

    喉を広げて食べたものを出そうと息を吐く、、、


    はっー! はっ、はっ、はーー!


    と、その時、哺乳動物は、高い叫び声をあげます。


    ① 毒性の物を、吸い込まないようにする行為だと云う事です。

    このように本来は、命を脅かす物から身を守る為の防御反応だった。


    この動作が、霊長類における他の身体的進化と共にもっと進化して、

    ② 自分の群れへの危険の伝達行動や、


    さらには、


    ③ 群れに対して攻撃してくる外部者を懐柔する(油断させる?)

    親しみや安心を表現する為の行動へ変化、発展をして来たらしいのです。




    ①から③への流れをよく考えてみますと、

    笑いの本質が分かるような気がします。


    部外者に対する拒否と不安を、受容の喜びへ変えたのですね!


    なんと云う創造性でしょうか!

    ここで、人間は一段と高く成長をしたのですね。

    たしかに、霊長類は、脳が他の生物とは違うようです。


    その霊長類の中でも、そのように発展して来た人間の脳は、

    「笑い」を、

    生命の維持の為に

    外界の異物の刺激を受け入れコントロールする「免疫力」へ、

    発展させたのです。


    つまり、「笑い」は、「免疫力」を正常にする力です。


    その事が、最近分かって来ています。


    具体的には、

    ストレス物質である「コルチゾール」と云うホルモンがあります。

    ストレスを受けると血液中に増える物質です。

    免疫を抑制する(抑える)ホルモンなので、

    ストレスを感じて増えると体を守る免疫力が弱ってしまうのです。




    また、「笑い」に、左右されるホルモンに、

    免疫系のナチュラルキラー細胞と云うのがあります。

    大笑いをした人の85%の人が、

    ナチュラルキラー細胞の活性化を5.5%増加させたそうです。

    笑えば免疫力が高まると云う証拠です。



    リュウマチ患者が、たくさん分泌するホルモンに、

    炎症を促進する作用のインターロイキン-6があります。

    そのインターロイキン-6の数値が、

    笑った後では、下がるという報告もあります。

    笑えば、炎症が鎮静化するのです。




    他にも、

    ● 食後に、爆笑漫才を見ると血糖値が下がる。


    ● アトピーの皮膚の腫れ(炎症)が減る。


    ● 酸素を吸い込む量が通常の3~4倍に増え、深呼吸の約2倍になる。


    ● 脳内の血流量が増加して、前頭葉が活性化する。


    ● ストレスによって唾液中に放出されるクロモグラニンAが減少する。


    また、

    「笑い」の効果を積極的に活用する例もあります。

    *クリニクラウン・臨床道化師 」が、

    赤い丸い鼻を付け、吊りズボンの道化師のかっこうで、

    白血病などで入院中の子どもたちに笑いを届け、子供たちを笑わせて、

    免疫力を強め、病気の改善に役立てようと云うものです。


    *クリニクラウンとは、

    英語の「クリニック・病院」と「クラウン・道化師」の造語。





    私たちが、思わず爆笑してしまう時、

    それは、どう云う現象が起きているのか?

     
    このことをわかりやすく言いますと、


    自分の固い思い込みが、思わず弾け飛んだ時、

    つまり、頑固なロジックが、案外簡単に打ち砕かれた時、


    その意外性と共に、古い認識から自分の意識が自由になる面白さを、

    受け入れた時なのでしょうね。       ほほっ。



     
    笑いの醍醐味は、

    古い思い込みがはじけた時、腹の底から笑えます。


    今までのおなじ世界を、まったく新たな視点で眺めなおした時、

    古い思い込みの世界観の滑稽さに気づいて、笑い飛ばしてしまう。


    ありのままの世界の面白さや奥深さに気づいた時に、

    それが、あまりにも単純な事だったりして心から喜んで笑う。


    心の底からの驚きと笑いが、突然!こみあげて来て、

    子どものように笑ってしまう。
     

    ほんとうの素敵な爆笑は、

    あたりまえと思っていた固定観念から、

    自らを解き放った時に、体中から出て来る元気なのですね!






    でも、「笑い」と云っても、

    テレビのバラエティ番組などのような

    人をこき下ろしたり、侮辱したり、叩いたりする笑いは、

    よくありませんね。


    と、云うのは、あれは、勝他の念(他人に勝ちたい心理)が、

    心の底にある笑いですから、  


    仏教的な観方から云いますと、

    まだまだ環境に左右されている迷いの自己でしかない、


    新たな自分を発見した喜びの笑いではないのです。


    相手よりも自分の方が勝ちたいと云う意識が発する笑いです。


    (他人に勝ちたいなどと云うのは、まだまだ、

    その他人に振り回されている自己でしかないのね。 あは。)


    自信のない薄っぺらな自分が、そうまでして満足したい、、、

    掘り下げれば、

    他人を素直に評価しないで、

    侮蔑した上に、

    その侮蔑した相手に、この自分を認めろ! と云う

    考えたら、ひがみと嫉妬と傲慢のネジレ構造ですから、

    この上なく情けない自分を隠した似非笑いです。


    意識の上では、

    笑顔と嬌声と手振り身振りで騒いでいますが、


    無意識の奥底に、

    本当の現実を受け入れたくない自分を隠す笑いです。


    ほんとうに心の底から喜んでいない笑いです。


    今はニヒルな時代ですから、

    そう云う表現が大手を振って出て来ます。

    仕方がないかな? とは思いますが、、、


    でも、そうは、言っていられません!

    そう云う笑いがテレビで広く受け入れられると、

    社会の底流は心からの笑いを忘れてしまいます。


    その影響は、

    10歳までの子供に、10代の若者に強くあります。

    こわいです!

    こう云うねじ曲がった感受性を受け入れていたら、

    ストレス解消どころか、

    アレルギーや、アトピー、喘息が増えていくでしょうね。



    その先は、

    ガン体質へ、白血病など、膠原病もそうです。

    こう云う病気が増えて行く事でしょう。


    すべて免疫力低下、免疫力アンバランス、免疫力失調から起こる、

    細胞や細胞膜の炎症から起こる病気です。




    病気が増えると、医療費の増大の問題が起こって来ます。

    保険制度の赤字、財政的な問題が起こって来ます。

    経済的な問題として、増税で解決をするなんて言っていますが、

    どうして、

    根本的な解決策を採ろうとしないのかしら?


    病気にならない為に、

    国民の幸福度、精神文化の向上の問題として、

    解決しようとか思わないのでしょうか?




    生きる叡智の為には、

    共感の笑いや、落語のような人情に触れる笑いがいいのです。

    心の底から家族で、ワッハッハと笑うように心がけましょう。  





    私が、東洋学に興味を持って、続けて来られたのは、


    正しい価値の新発見がもたらす歓びと笑いが、あったからです。


    東洋学は、狭い窮屈な学問ではないのですよ。


    ただ、役に立つからと、お勉強をすると云うのでは続きません。

    次々と、扉を開けるたびにゾクゾクする愉快感が湧いて、

    しあわせな気分になれる事が大事ですね。

    今もそれは続いています。




    たのしい~   あはは。

    今年も、たくさん、あはっはー を。





    ほほほ。



    私たちは、誰もが真剣に生きています。

    その真剣さのあまり、

    どっぷり浸かっている西洋文明の滑稽さに気づきません。


    でも、その真剣に、滑稽なロジックに浸かっている様を、

    もしか、東洋的な叡智から、俯瞰するように眺められたら、

    どんなに大笑いができるでしょうか?!   あはは。


    私達の姿は、滑稽かもしれないのです!



    西洋文明に汚されて、

    固くカサブタのようになった私達の心を蔽う

    クダラナイ偏った概念の垢や、

    要らなくなったロジックが絆創膏を剥がすように、

    ポロリと剥がれ落ちる事を願っています。




    西洋文明は、

    人間の意識の結晶と言えるでしょう。

    しかし、

    意識では、真実は掴み得ないのです。

    そもそも、人間のいのちは意識で作った物ではありません。




    意識の奴隷に化した我々の生命の無意識のみずみずしさを、

    取り戻さなければいけません。



    東洋の、アジアの、日本の存在感は、

    そこにあると思っています。


    今年は、

    例年の水平的変化だけではなくて、

    垂直的変化が起こる年です。

    みなさま、変化に対応できるように備えましょう。



    寒さは、これから、

    お風邪など引かぬように、




    よき一週間をお過ごしください。
































    参考文献 

    『笑いと治癒力』 ノーマン・カズンズ   岩波現代文庫

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 哲学/倫理学
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    『呂氏春秋』 4   人之性壽 ・ 人の寿命は120歳 (命を縮める原因)

    Category : 呂氏春秋の世界
    今回より命式の説明の文に★①、★②などの番号が付いています。

    気になさらないでお読みください。 
     



    中国の楼

    中国の楼













    昨年の暮れに、取引先の40歳の男性仮にFさんとします。が、

    体調を崩したので退職をするかも知れないと、あいさつに来ました。



    いつも、元気そうに人一倍頑張っていた印象がありましたので、

    驚くと同時に、原因を私なりに探ってあげたい。

    西洋医学の見解では、無理な領域と云うものがあるでしょう? ほほ。

    その気持ちが強く動いたものですから、

    少し、話した後、解った病気の原因をアドバイス致しました。

    実は、こう云う男性を案外、たくさん知っているのです、、、





    現代の西洋医学においては、

    命や健康を、心と切り離した物的肉体で診ます。

    体の細胞レベルの目で見える物としての異変の証拠をつかまえないと、

    わからない、としか言えないのですね。

    分子レベルで検査をする今の医学では、そう云うしかないのです。

    命の存在全体を、心の移りゆく変化体としてみないのです。

    しかも、分子レベル以下の異変は、検査機器に引っかかりませんし、

    余程のブツ的症状が出ないと、診断名は付かないみたいですね。


    食欲が湧かないとか、疲れてぐったりする。

    こう云う症状が出ても、

    それが、細胞の分子レベルのダメージが出ていない症状だったら、

    それが、どこから起きているのかが分からないのですね!


    見るとやせ形の彼が、もっと痩せていました。



    直感的には、≪本人の限度を超えた欲望≫と、分かっていました。


    原因は、A. 彼の高いプライドが望む、

    B. その満足感を得ようとする欲望の強さ、

    C. その為に必要で十分なポテンシャル(潜在能力)があるのか?

    A. B. C. のバランスとでも言いましょうか、、、、、?   


    A. や B. に耐えられる C.がなかった。 

    それが、今回の病気の原因、

    心身の行き詰りの原因なのだと判断をした訳です。



    A.とB.が強すぎて、C.がもたなかった、潰れたのです!


    こうなると、あらゆる困難、不調が起きます。

    体の不都合=病気だけではないわ。

    環境との不調和も同じく起きて来ると云う事です。



    それを確かめる為に、彼の誕生命式を立てました。

    初めて観た彼の命式は、それらしいものでした。

    それらしい... 誰にも頼らず、頼れず、孤軍奮闘する。

    まさに彼の負けん気に、体が付いて行けないのでした。。。

    40歳になったばかりなのに、、、

    肉体的には、働き盛りなのに。。。

    しかし、その真っ盛りに訳のわからない病気になる。

    でも、まだ幸運でした。

    命は亡くなっていませんから。。。      ほっ。




    男は、自分のプライドと欲、女の為に命を落とし、

    女も、自分の見栄と欲、男の為に、命を落とすー。  あっ!  あはは。

    どうなのでしょう?    今は?      あはっは。





    しかし、Fさんは、仕事を失おうとしています、、、。






    病名はない、強いて付ければ、心臓が弱っているのだそうです。

    治療の具体的な方法はないと、

    ただ、過労を避けて心臓に無理を掛けないようにと言われたそうです。





    Fさんの命式から分かる運命的な性分は、

    ★④元々の力よりも、自惚れが強い為に、

    無意識に力があるように振る舞って見せてしまうのです。 

    どう云った性格 ?    あはは。

    自分を、底から浚(さら)い出す性(さが)なの。

    あはは。 自分の底が見える?まで空っぽにするのね!

    一見、奮闘しますから、持つ能力より何倍にも見えるのね!

    あはは。

    ついには、本人も消耗し疲れ切ってしまうでしょうが、

    周りは、すごい人だって思い込んでしまう、、、



    やっぱり、そうだったのー、

    異様に思える位の頑張りだったわねー。

    どんな事にも折れないし、意地を張るし、負けず嫌い。 あはは。


    どこかそう云うものを感じていたけど、、、

    直接言えば、彼のプライドが許さない。   ほほ。

    いつもその場の、その時にちょうどの言葉を吐く。

    スキがないと云うのか、見事なまでのポジティブさ!


    あまりにも前向きの彼には、感じたままを、

    伝えておりませんでした。




    出来るか、出来ないか分からない事を、

    良い事だからした方がいいと言う。

    言葉が、先行する独特の性格です。

    実力以上に自分を大きく見せる性格。

    できる確信のない事を、良い事だと発言する性格。

    一応言った事を達成しようと努力はしてみるのです。

    見境なく、深く考える事もなく、です。

    そして途中失敗、と云うより、

    自分に無理だなんて気が付く事は、誇り高い自分に許せません。

    外観から気が付かないように、他のロジック(理屈)に乗り換えます。

    客観的には、物事は中途半端で放ったらかしです。

    結果的には、周囲を騙してしまうわね。


    まぁ、誰かに似ていませんか?     




    そう、民主党のリーダーたちです。

    言葉が先行して実行しない。

    どうしても実行しなければと云う気はもともと無いのに。

    いえ、実行どころか、発言した事で満足しているのです。 あはは。

    言って発散して、心の中は自己満足の完了形です!

    国民は、そこから期待が始まるのですね。   ★④


    なんとやっかいなー。(関西弁です)  あはは。   


    まったく、花火にそっくりです。

    打ち上げのドーンと云う音から、何かが始まると思う人の心。

    ドーンと云う音は、火薬の燃え尽きる音、

    もう、これで終わりと云う音です。

    あまりに最後が華々し過ぎて、

    その瞬間は、終わりの合図だなんて思えない人の心。


    結果、虚言になってしまう人物ばかりが、グループのリーダーです。

    そう云う人物が、選挙区で議員に選出されているようです。



    責任は選挙民ね!  華々しさの後が、 見抜けていないー。

    あーー、我々も反省しなければいけない!     ほ。    



    Fさんが、民主党議員より良いところは、

    体を潰すまで、本気で仕事をやり遂げようとした所です。

    又、国民に対して大言壮語を言っておりません!   あはは。

    しかし、結果はおなじです。

    巻き込む範囲は狭いですが、中途挫折ですね。

    そこが、微妙に民主党のリーダーとは違います。   あはは。




    今日は、

    Fさんに読むように助言をした『 呂氏春秋 』からの記事です。




    『 呂氏春秋 』シリーズは、2010年7月1日以来の記事になります。



    呂氏春秋について詳しくは、『 呂氏春秋 』 1 をご覧になってください。






    猛春紀・本生       (町田版 春の節3から)


    夫水之性清、土者拍之、故不得清。

    人之性壽、物者拍之、故不得壽。

    物也者、所以養性也、非所以性養也。

    今世之人、惑者多以性養物、則不知輕重也。

    不知輕重、則重者為輕、輕者為重矣。

    若此、則毎動無不敗。

    以此為君悖、以此為臣亂、以此為子狂。

    三者國有一焉、無幸必亡。 



    水の性は、

    もともと清らかなのに、土がそれを濁らせるので清んではいない。

    人も、本来は長生きするのを欲望が乱す為に長生きができない。

    金銭などの物は、

    本来が人の性を養う(長生きができるように助ける)物なのに、

    実際は養って(長生きできるように助けて)いない。

    今の世の人は、

    分別なく惑って、金銭の為に寿命を縮めている。

    このように、物の軽重が分からないために、

    値打ちのある重いものを軽く扱い、

    値打ちのない軽いものを重く扱うのだ。

    それで行動をするたびに失敗をしてしまう。

    こうした人が、政治をしたら道理に背いた悖主になり、

    こうした人が、官僚になれば秩序を乱し亂臣となり、

    こうした人が、子となれば狂人となろう。

    悖主、亂臣、狂人の内の一人でも、国にいれば、

    余程の幸運でもなければ、その国は必ず亡びる。





    国を、家、人に置き換えてお読みになってください。

    寿 の意味には、命の長いこと。長生き。長命と云う意味があり、

    もともと自然に合わせて生きる事が出来るならば、

    120歳までの寿命が、人にはある。

    と云うのがその基本にあります。




    それを、全うできないのは水を土が濁らせるように、

    人にとっては、その欲望だと云うのです。

    そして、命よりも大事なものはないのに、

    人は、その命を金銭の為に傷め傷つけて、

    まるで、金銭に命を貢いでいるようなものだと.....


    物の軽重が分からない人とは、

    『天』の道、

    『地』の理、

    道理が分からない人の事です。


    そう云う人が、政治の権力を握り、

    そう云う人が、官吏になって行う政治を、

    狂った子供の行動と同じに述べられています。


    国が亡ぶと....。



    家にても同じ原理です。

    人にても同じ原理でしょう。



    大切なものは、なになのか? 


    近代化以降、近代的自我を手に入れ、生きる武器にした我々は、

    自己の人権意識を拠り所に、

    自分が欲しいと思ったものは、誰にも束縛を受けないで、

    それを手に入れる為には、全力で努力をする事が正しい。

    そう、自分の欲望を全面的に肯定します。

    そして、

    価値観の多様化と言いながら、

    その欲望の達成に前向きに生きる事が、正しい。と

    ネコも杓子も、隣の人と同じように思い込んでいます。


    そうする事が、

    前に進むとか、ポジティブだとか、口で言い心で思いながら、

    人は、一生懸命に自分の欲の為に生きようとします。


    しかし、現実に起こってくる現象は、

    とても欲望の達成とは思えない光景が出てきます。

    治らない病気で挫折や、その結果の貧困であったりします。


    それは、目的と手段を間違えていないか?






    同じく、呂氏春秋より、



    仲春紀・貴生        (町田版 春の節22から)


    凡聖人之動作也、必察其所以之與其所以為。

    今有人於此、以隨侯之珠彈千仞之雀、世必笑之,是何也?

    所用重、所要輕也。

    夫生豈特隨侯珠之重也哉? 



    凡(およ)そ聖人の動作するや、

    必ずその之(ゆ)く所以(ゆえん)と

    その為す所以(ゆえん)とを察(あき)らかにす。

    今ここに人あり、随候の珠を以って千尋の雀を弾ぜば、

    世必ず之を笑わん。

    是れ何ぞや。

    持ちうるところ重くして、

    要むるところ軽ければなり。

    夫れ生は豈(あ)にただ隋候の珠の重きのみならんや。


    聖人の行動は、

    どんな目的で、どう行うかと云う手段とが明確である。

    今、ここに次のような人がいる。

    深い谷間にいる雀を、高価な隋候の宝石を弾丸にして打ったならば、

    世間はきっと笑うであろう。

    どうしてか?

    貴重な宝物を弾にして、捕ろうとする物が貧弱だからである。

    一体、人の命は、隋候の宝石よりも値打ちが無いのであろうか?





    よく読めば、笑いたくなります。  あっははは。


    呂氏春秋の秦の時代も、今も、目先の欲を優先するのは同じです。

    宝石を捨ててまで、雀を捕まえようとする。


    おーなんと?ーーー。 雀を捕ってどうするの?






    人は、一生懸命生きるゆえに、

    本来の目的を忘れて目先に囚われて、価値観の転動をしてしまうのです。

    それ故に、120歳の寿命を生きる人はいない。

    聖人は出現しない。 と言うのですね。



    聖人とは、自分の欲と力のバランスをとれる人の事です。




    何が一番大事なものなのか? 事なのか?

    それを忘れて、

    つい、そんな愚かな事を! 真逆を行ってしまう!

    ああ、滑稽さに笑ってしまう、、、、、、

    たぶん、私たちも同じような事をしているのでしょう。  あはは。




    生きる為に一生懸命に働きながら、

    その命を痛めつけ、寿命を縮めているのですね!


    明日、食べる為に働きながら、

    食べる食欲がなくなる位、命をお金の為に貢いでいるのです。



    皆がそうとは、言いません。

    そうなりやすい命式、性(さが)と、運を持っていれば、

    他人が引き留めても、そうしてしまうのです。。。  あは。



    凡人にとりましては、客観的にそれを知る事が、

    自分の癖がどうだと知る事が、恐くもあり、難しいです。



    呂氏春秋は、

    時代が変われど変わらない人の本性と云いますか、

    それを、じんわりと教えてくれます。




    今日の2題を、

    120歳の寿命を生きる糧に、   ほ。

    時々、読み返してみるようにしてくださいませ。

    えー、太くて短い方が良い方も、ご参考になさってくださいね。



    おろかなこと、かしこきこと、

    さぁ、そのどちらか?      ほほほ。




    良き一週間をお過ごしください。




































    参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫

             百家諸子 中國哲学書

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    カントの純粋理性批判を 理性の取説におすすめします (コメントへのお返事)

    Category : 運命学と科学
    山中湖畔の柵、降りつづく雪。









    柵の中の山中湖、昨年の夏に見た 白鳥たち。




    山中湖から川を遡って、橋から見た雪景色。 どこが川なの?







    携帯カメラは、カラーのはずですが、

    撮れた世界は、モノクロの世界でした。


    この雪の中を、装備をして2時間近く歩きました。

    自然の季節感の息吹の中にいつも居たいと云う欲求です。

    降り続く雪を浴びながら気持ちのいい清涼感があって

    火照った顔に降り落ちる雪、まったく寒さは感じませんでした。


    今日、都会に帰って来てからが、寒いのです!





    年は、改まりまして、はや、もう一月は行ってしまう――。

    でも、まだまだ昨年からの宿題を抱えております。    あは。


    いただいたコメントやご質問へ、すべてお返事をお返ししておりません。

    まだ気になりながら記事にしていないものが多くあります。

    それで、今年の前半は、

    それらのお返事を記事にしていこうと思っています。




    今日は、運命学と科学 のカテゴリーの記事になります。



    まず、最新のコメントから、

    前の呂氏春秋の記事にいただいた拍手コメントへのお返事です。




    全くその通りでコメントの余地なしですが

    ただ一つ自分の中で引っかかるものがあります。

    それはなぜ人間ばかりがこうもバランスが悪いのか。

    岸田秀などは人間は本能が壊れた動物だと言っていますが、

    そうだとしてもこわれた理由まではわかりません。

    人間とは実に不思議な動物です。





    短いコメントですが、

    大変な内容があるのですねーー


    ただ一つ自分の中で引っかかるものがあります。

    それはなぜ人間ばかりがこうもバランスが悪いのか。



    ここですね?





    あ、その前に、

    岸田秀などは人間は本能が壊れた動物だと言っていますが、


    ここを片づけましょう!    ほほっ。


    理性を標榜する方と云うのは、こうも、ああも、

    解ったように分からないままの言葉をおっしゃるものですねー。 ほ。


    理性そのものは、自分と云う人間も掴み切れていないのに、

    本能が壊れた? 動物?だ。 と?

    そもそも、本能が壊れるとは? なにですか?

    本能は壊れるはずはなくて、認識する主体がおかしいのよ。 あはは。




    理性的であれば、それが正論?のように思ってる?   あはは。


    イヤー、理性って何ですか?

    人間の認識能力のうち、理性と感性に分ける?

    そもそもそれが、可笑しいのよ―    あはは。


    人の精神に、真ん中に線が引かれて、

    ここからが理性、ここからが感性と分かれている訳ではないし、

    たかが、人が作った便宜上の括りでしょう?

    じゃぁ、要は、理性、感性なんて方便じゃないですか?

    方便と云うのは、一時の仮の方法、真実が現れるまでの『偽』です。




    仏経の権教(ごんきょう)と同じです。

    権教=真実の教えが説かれるまでの仮の教え




    いつまで、人の心を説明する便宜上で分割して、

    この『偽ニセ』ものの用語を使っているのでしょうか?





     
    感覚を通して「目に見えるもの」を色、大きさ、重さ、形と、分析し、評価し、

    吟味するのが「理性」と言うのですが、

    これこそが、「科学的精神」の最たるものらしいです。


    色や大きさや重さや、分析で、評価で

    科学で、人が、本能が、分かると思うなかれ! と申し上げたい―。



    そもそも、理性ごときで、

    人間たるもの、人間の本能など掴み切れると思うのがマチガイです。

    人間の五感で、その主である人や本能が分析できるなんて、うそよ!

    主の付属器官で、主をとらまえる事ができると、本当に思っているの?



    カントが、彼の純粋理性批判で言っているのは、この事です。


    ヨーロッパに勃興してきたルネッサンス以後の

    この「科学的精神」が、

    あまりにも行き過ぎであると、 

    感覚で捉える「目に見えるもの」だけを評価しがちになっていると、

    経験主義、理性偏重主義に警鐘をならしています。


    カントの純粋理性批判は、

    理性の「 取り扱い説明書 」として我々も役立てるべきだと思います。

    間抜けな理性崇拝信仰者を目覚めさせる為にも、、、です。






    まったく西洋哲学と云うのは、

    純粋理性だ、感性だ、いいや悟性だ、イヤ一番は知性だ、

    とか云うのは、人間の精神を、あちこちから切り刻んで、

    言葉のジグソーを作っているのか? と言いたくなります。


    純粋理性なんてありえないし、

    純粋な主観とか客観と云う言葉もそう、

    どうして、こう云う用語を使い続けるのかと言いたい。

    西洋式認識は、東洋と比べると子供のおもちゃです。


    東洋には、そう云う曖昧な語はない!


    西洋のそれは、どこから来るかと云うと、

    そもそもキリスト自身が、キチンと世界を説き切っていないからだと、

    その哲学教理を弟子たちに、遺さなかったからです。

    でも、仕方ありませんわ―。

    彼は、神のつもりではなかったのでしょう。

    責めては、お気の毒です。    ほ。




    だから、

    キリストの民は、それらの神の不足を補おうと、、、必死に、

    人間の感覚で、理性、感性、悟性、知性とジグソーピースを

    いじらしい位に、作為し続けて来たのだと思うわ。


    キリストの民は、意識の拡張と喧伝に明け暮れて来たのです。




    ここまで書いたのですから、

    ついでに、科学について少し書いてみようと思います。



    厳密に言えば、「科学的に物を観測する」 と云った処で、

    実験、観察においてですら、

    その観察しているのは、物自体そのものではなく、

    物自体からの光の反射という現象を捉えているだけでしょう?

    それすら、

    常に光源としての8分遅れの太陽光のおかげなのです!

    過去の太陽光で、現在の現象を感覚器官で捉えるしかないのです。


    これが、無意識からの智慧の仕組みだと、気が付かないで、です。 




    もう、 わらうしかないのでしょうか、、、?




    我々が、科学で観察すると云う事は、

    顕微鏡といい、最新の宇宙望遠鏡といえども、基本は同じです。 
     
    あらゆる科学的観測と云うのは、現象を捉えているだけで、

    物自体に迫って把握している訳ではないのです。


    そんな曖昧な認識の上に立っているのが現代科学です。



    今の科学自体にだって、

    フランシス・ベーコンの実験証明科学の応用延長で、

    実験によって実証されるならば、

    人間の理性による認識や感性に一致しなくても、

    それが正しい理論である。とする実証主義に走っているものもあり、


    ポスト現代物理学においては、

    実験的には証明されていなくても、

    数学的な計算や証明がなされれば、それが正しいとして、

    次々と発展していっている理論もあります。


    これらは、もう今さら人間の感覚の理性で捉えられなくても、

    物自体を数学と云う道具で直接捉えようとしているのです。


    物自体を8分遅れの太陽光で物の現象観察をして正しいとするか、

    数学の計算で成り立つ証明を、正しいと信じるか。





    これらは、今までの科学の常套手段である実験で証明されていないものを

    真実だと受け入れる事になります。

    つまり、見ても聞いても触ってもない世界を信じる事ですから、

    人間の五感を通して把握していない物を信じ続けるのは、

    信仰と同じなのではないか?

    そんなものは、物理学の理論ではなく宗教だと云う批判も出ています。




    要は、科学だって、

    宗教と同じように、

    究極は、神や仏のような絶対者の存在証明を

    やりたがっているのですね。    ほほっ。




    それはそれでいいのです、が、、、、、、、、




    宗教は、「信仰心」が基本にあります。

    科学は、「理性」(と云う曖昧な見えないジグソーピース)を基本にして、

    一旦、実験証明された、ある理論を、

    一時的に、次の理論が証明されるまで、(=方便)

    その理論を信じると云う実態があります。

    ある研究者の理論を信仰する。と云う状況が存在する訳です。


    その時、他の研究者のほぼ全員がその理論を信じて進みますし、

    同時に、一般社会の人間まで巻き込んで、我々も信じてしまう訳です。



    そもそも、科学的理論=『陽』=『偽』ですから、

    いずれは、時が経てば嘘になる理論、ロジック、知識をです。

    しかる後に、より信頼性のある理論が出てくれば、


    ”こっちが正しいそうよー”と、   あはは。

    皆で乗り換えて、又、一時的に受け入れる。

    と云うようになって行きます。



    政党のマニフェストが野党時代と与党時代と違うと批判をしますが、

    『陽』である科学と政治は、時と共に移ろうもの、

    同じ無常の範疇にあるのですね。   

    意識の産物は、時と共に移ろって変わるものなのです。   あはは。



    どうして、ここまで長々と書いて来たかと云うと、

    そんな科学の意識的認識の途中の知識で、

    人が生きて行く中における、結果が幸不幸に分かれる事柄を、

    簡単に、本能が壊れている、なんて十把一絡(じゅっぱひとから)げにして、

    決めつけないでほしいからなのですよ。


    十把一絡(じゅっぱひとから)げ=区別なしにひとまとめにして扱う事。



    あはは。

    まぁ、それはともかく、

    ただ一つ自分の中で引っかかるものがあります。

    それはなぜ人間ばかりがこうもバランスが悪いのか。



    でした!



    自分の持てるポテンシャル(潜在能力)と自分の欲望のバランスですね。

    または、そのバランスを取る智恵と欲望のバランスですか...?


    一般的は、そうなりますが、

    ここは、運命学のブログですから、、、   ほほっ。


    運命学で、説明を試みてみましょう。


    ●本能が強い、強くないと云う概念は、運命学にはありません。


    ○その人の、潜在能力があるかないか?は、命式全体で観ます。


    ◎どんな潜在能力か? それも分かります。


    ●バランスをとる智恵、これは、命式内の五行のバランスで観ます。


    ○命式内の木・火・土・金・水の存在と、その力、均衡で観ます。


    ◎そこでの五行の偏り、欠けている五行によるアンバランスが、


    さまざまな欠落や損傷、”本能が壊れている”状態となります。


    ●それらが、そのまま社会活動性として外に表われる力の程度、


    ○それが結果として帰って来て、手にする果報も分かります。


    ◎なにが得意で、楽に手に入り、何が欠けて、何を失うか?


    ●どんな恵みを受け、どんな縁に惑わされやすいか?




    これらは、人により全部違います。


    それによって人生に表われる現象が、違ってきます。


    人間は、本能が壊れた動物だと、言えるような人もいれば、

    そうではない人=本能と智恵の均衡が取れている人もいます。


    100万人いれば、100万の命式の違いがあります。

    それを、以前、『位相』と申し上げたと思います。



    人は、自分の位相によって、その度合に応じた運を持っています。





    この事が、近代化以降の我々には、

    実感として分からないようです。







    近代市民社会が成立する以前の時代においては、

    絶対王政の時代では――個々の人間の差別や身分の上下があったので、

    自ら固有の運命を意識して生きるのが普通だったのに比べ、


    社会契約論の系譜が、


    政治社会を人為的な産物として捉えるようになってから、

    個人の自由と社会秩序がいかに両立できるかと追及する段階や、

    政治社会は人間が意識的に作り替えられると云う市民革命を準備する背景

    があって、人間は皆、均質、もしくは意識でどうにでも同等になれる

    と云う前提が社会に出来上がって行った為に、

    個々人の差を見えにくくしているフィルターが、意識に掛かっているから、

    皆が同じ、同じ感じ方をするのが普通。


    この普通と云う感覚に横並びする傾向が現代をおおっているのです。


    自分の位相を見つめ把握するのを、それらが邪魔をしています。

    運命学の教室の生徒さんには、


    「あなたが感じているように感じているのは、あなたひとりよ。」

    「あなたしか、あなたのように感じている人は、いないのよ。」と


    あなたの感じるものが、命式のどこから出て来るのか?

    命式を見て、捜してください。 
     

                     と、常に言っています。





    たった一人の人間の尊厳性が浮かび上がって来ませんか?

    あなたひとりしかいない。


    人間とは実に不思議な動物です。



    本当にそのとおりだわ。

    その事が、今日は分かり合えてよかったわー     ほっ。




    次の記事から、


    『 命の継承と運命 』シリーズを始めます。


    おたのしみに!


    よき一週間をお過ごしくださいね。

































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    人間の意識の造作物は漏れがあり、結果悪を孕みます (コメントへのお返事)

    Category : 運命学と科学
    朝もやの公園


    朝もやの公園


             



                                        



    今日から、『 命の継承と運命 』シリーズを始めると、

    予告をしておりましたが、次へ先送りをしまして、

    前の記事へいただいたコメントを3題取り上げてみたいと思います。



    ご了承くださいね。




    まず、1題目です。


    カントに、次の有名な定言命法があるのですが、

    「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」

    これについては、どう思われますか?




    これは、カントの『実践理性批判』の中にあるものですね。


    まず、結論からいいますと、

    カントは、人間存在の本質を本当に知っていたのかしら?  (失礼!)

    と、云うよりもキリスト教の人間観は、どうなのでしょうか?




    ただ、人間に道徳的理想を〝行為せよ”と行った処で、

    現実的には無理! と思います。     あはは。


    そうでしょう?


    まず、私などは、

    そんなことができるわけがないと思ってしまいます。

    なぜなら、仏教において小乗教(上座部仏教)は、

    それを実現する為に、弟子たちは、厳しい戒律や修行をしたのですから。


    カントの理想主義的な道徳に対する熱い思いには感嘆しますけれど、

    彼の云う通りの事が実現できるとは、共感を覚える事はできません。




    細かい説明になりますが、

    前回の記事で取り上げた『純粋理性批判』では、

    カントは、何を我々は認識できるのか?と、

    我々の認識の批判をした訳です。


    そして、『実践理性批判』において、カントは、

    我々は、何をする事ができるのか?と道徳哲学を著わしました。


    その中で、カントは、

    絶対確実な「道徳法則」があると提示をして、

    人は、自由な意志によって「最高善」をめざす事ができる。と、

    情熱的に語っています。

    しかし、残念ながら、その方途を指し示す深い人間認識が、

    ヨーロッパの精神的基盤、キリスト教にはないと思います。




    コメントに引かれている“格律”という言葉ですが、

    主観的な道徳原則の事です。

    人それぞれが、~しよう。と意志を持っている道徳的な行動規範ですね。

    たとえば、他人に会えば挨拶をしよう。 とか、

    それは、自分の心の中、主観的な道徳原則です。


    それに対して、誰にも当てはまる“格律”を実践的法則と云うのです。

    客観的な道徳の法則が、あると云うのですね。


    例えば、ある絶対的な道徳法則が、あるとするならば、、

    人間は、それに黙って従うことのできる存在であるべきだと、

    そう言っているのですね。


    確かにそうですね。そうであればいいのですが、、、 

    理想ですね。

    カントは、理想主義者だったのですね!


    そして、絶対的な道徳法則をその通りに行為する事=幸福、

    と結びつける為に、キリストの神と云う存在を引っ張り出してきます。

    そうしないと=幸福、と説明し切れなかったのでしょう。


    あ―は!   これでは、理性の論理の飛躍です。

    キリスト教を根底に置く近代理性の定言命法は、

    神を引っ張り出さないと完全ではない事が、バレバレになった!


    カントの道徳哲学は、完全に破たんしています!?  ほっ。


    西洋の、こう言った人間の作り出したロジックの数々は、

    人間の弱さや狡さを見据えた東洋の仏教や、

    皮肉交じりに人間の弱さを揶揄する儒教などと比べると、

    どこか、幼児絵本のようにファンタジーです。

    まるで、御菓子で作った甘~い家のように思えます。 


    カントは愛すべき心の持ち主だったのね!    あは。

    コメントありがとうございました!





      

    2題目のコメントです。


    >政党のマニフェストが野党時代と与党時代と違うと批判をしますが、

    >『陽』である科学と政治は、時と共に移ろうもの、

    >同じ無常の範疇にあるのですね。


    ここを読みますと恐い感じがします。=
    政治や科学は、人間をしあわせにしないという証明でしょうか?=


    政治が人をしあわせにするというのは幻想ですか。。。=
    科学が人をしあわせにしないというのはもう、分かっています。=


    今年も、どんどん記事のレベルがむずかしくなっていきます。=
    なんども読み返さないといけません。(笑い)=




    このコメントも、

    現代の矛盾に満ちた絶壁を覗き込んだような、鋭いさですね。  ほ。



    と云うのは、

    現代の我々は、空前の物質文明に騙されて、

    物があると幸せになれると思っています。

    ほら!

    電気がなくなると、、、困るから原子力だ。

    雇用がなくなると、、、困るから公共事業だ。 等々、、、

    確かに皮相的には、その通りなのですが、

    目の前の物(資金)を右に左に動かすだけで、

    どうしてそうなるのか? その奥の原因には触ろうともしません。

    つまり、意識世界の現象のみに囚われて右往左往するだけ、

    無意識世界の事は、そっちのけです。

    それはそうでしょう。無意識を切り捨てている文明ですから。。。




    それが、物質文明なのですが、

    目で見えない原因は、価値がない。  と無視をします。

    そして、物が無くなる事を恐れて、

    政治や経済に、物を満たしてくれるように期待するのですね。

    政治や経済は、物を集めたり満たす事が、目的だったのか?


    違いますよ!

    もっと崇高な目的をもっていたはずですが、、、、、

    どうですか?



    政治や科学は、人間をしあわせにしないという証明でしょうか?=



    そうですね。そのとおりですね。

    この宇宙、自然、いのちの営みそのもののリズム=『陰』の表出である

    べきなのに、『陰』を捨てて『陽』だけに偏る政治や経済では、

    人は、しあわせにはならないでしょう。

    物では、人はしあわせにはなりません。

    まず、物は、地球上に限られたものしかありません。

    どこまでやったとしても平等に配分する事は、不可能ですね。


    また、大阪の橋下市長の主張のように、

    国の統治機構は古い、明治維新に決めた制度のまま変わっていない。と

    云うのであれば、

    意識こそ『陽』である。 時の支配を受ける『陽』そのままに、

    時節や状況に応じて豹変していくべきだったのです。


    憲法論議もおざなりだし、いい加減です。


    変わらない『陽』は、無用の長物に成り下がるのです。

    常に効率と最大の価値創造を求めて千変万化して行くのが『陽』、

    政治、経済の現象世界の真骨頂です。


    『陽』の権化である政治そのものが、わが国には機能していない。

    と云うことでしょうね。    ほほ。


    コメントありがとうございました。








    3題目のコメントです。


    近代化によって定められた法の下の平等意識が、

    実は、人を解放するどころか、それが、ドグマのように今度は、

    人を錯覚のなかに閉じ込めているのですね。

    ああ、なんて悲しい存在でしょうか?

    人はいつになったら、自分の存在感をつかめるようになるのでしょうか?

    前の医学を狭さを感じた記事から、

    今日は、

    今の社会の常識が、こんなもろい意識の上にあることを感じました。

    つねに、人は彷徨っているのですね。





    コメントの中のこの表現、気に入りました! ほほ。


    法の下の平等意識が、

    実は、人を解放するどころか、それが、ドグマのように今度は、

    人を錯覚のなかに閉じ込めているのですね。  




    そのとおりですね。

    ≪法の下の平等≫と言ったところで、

    人間の意識が、造り上げたものです。


    人造物です。 

    これには、必ず、その裏があります。


    意識には、功罪があるのですね。



    人間の意識では、存在のすべてを捉え事はできないのです。

    必ず、漏れている側があるのです。

    そちらの方が、大きいかも知れませんよ!    あっは。


    それに気が付いた人は、彷徨う。。。

    そう、彷徨っているならまだましです。

    ドグマに嵌まっているのに、気が付かないで、

    それで、万能感に浸っている人間の方が、余程怖い。

    そう思います。

    つまり、傲慢に陥るのです。


    そして、ずるい人間には、その制度や法が利用されます。


    人間の意識の仕業には、結果として善悪が孕む。 

    そう思います。




    このことで、生活保護の制度を悪用しているNPOがある事を、

    思い出しました!

    ご相談の中で知った事ですが、

    また、機会があれば記事にしたいと思います。





    今日は、いただいたコメントが素晴らしかったので、

    そのお返事にさせていただきました。


    次回は、無意識からのメッセージ、

    人間の意識ではどうにもならない命の継承と云うものを


    『 命の継承と運命 』シリーズとして、始めます。

    みなさまとご一緒に、考えていけたらいいなと思います。




    では、

    よき一週間を、お過ごしください。

































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    家系・個人の運命鑑定
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