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05/06 18:15 |
【 東洋思想 1 】 東洋思想の源流としての ー古代インドの宇宙観 ーCategory : 東洋思想
天神平からの谷川岳
![]() 昨年の12月4日の記事に載せた写真のロープウェイで天神平まで登って見た谷川岳。 天神平からは、約2時間半で谷川岳の頂上へ。 新しく【東洋思想】シリーズの記事を書いていきます。 なにかの折々に、あなたを守る智恵になっていただければ、、、 今日は、東洋思想の源流としての ー古代インドの宇宙観 ー 今、慣れ親しんでいる? 現代にあふれる西洋的思考と全く違う見方を 感じさせてくれると思います。 今の西洋的思想の中に埋没して、二元論や物質文明を普通だなんて! 思わないでくださいね――――。 あはは。 もっと東洋のスケールは、大きいのです! あはは。 、、、と、思っていましたら、、、 ちょうど、10日前の新聞で、(4月25日付け) 国立天文台が、米ハワイのすばる望遠鏡を用いて、 最古の「原始銀河団」を見つけたとありました。 127億2000万光年先に !! 現在の学問上、宇宙は137億年前に誕生した事になっていますから、 それから10億年しかたっていない初期宇宙に、 すでに銀河の集団ができていた事を示すものです。 これは、もうすでに、我々以上のハイレベルな生命体がその銀河に いたかもしれない? 今もいるかもしれない? そう、きっと居るに違いないわ―― 地球人よりエゴをもう少しカッコよく克服している? ほほ。 などと、考えさせられるようなスケールが、 古代インドの宇宙観にはあるので、つい想像してしまうのです。 古代インドの宇宙観は、壮大です! 仏教の経典に出てくる三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)というのは、 古代インドの全世界と云う意味で、仏教のひとつの宇宙観です。 まず、ヒマラヤ山脈のような高い山を中心に、月、太陽、四洲、六欲梵天、 こう云うものを包摂したものを小世界といいます。= 地球的規模 小世界が1000(あるいは百億)集まったものが小千世界といい、 小千世界が1000集まったものを中千世界といい、 中千世界が1000集まったものを大千世界と呼びます。 大千世界とは、地球の様な小世界が、 1000 × 1000 × 1000 = 1,000,000,000 (10億)集まったもので、 三千大千世界は、それが、3000あると云うのですから、 3000 × 1,000,000,000 = 3,000,000,000,000 (3兆あるのです!) また、驚くのは、 宇宙には、この三千大千世界が、無数にあると言うのです! !! そんな大胆な――! 地球の様な星が3兆ある世界が、無数にあるって ?! 空前絶後?? あはは。 初めてこの事を読んで知った時、えっ―――!と もう、空想の世界へ入るしかなかったのですが、、、 空想をする事も、出来ないわ――。 どうして、そこまでの数を考えつくの~? と、 あはは! インドは、現代でも天才的な数学者が多く出ていますが、 それらとこう云う時空観のセンスは、深く関係があるのでしょうね。 ほ。 望遠鏡もない、肉眼で見えない宇宙の奥の端から端までの事を、 よくぞ、こう云う風に宇宙の本質を掴まえたものだと! 逆に、意識で導き出そうとするよりも、無意識界の直感や洞察の方が、 早く、効率よく、その真理に到達したのではないか? これは、 東洋的叡智の演繹法が、西洋合理主義の帰納法よりも、 優れていると云うことであり、 現代科学が行う帰納法の導出関係は、蓋然的に正しいだけだが、 東洋式演繹の導出関係は、前提を認めるなら絶対的、必然的に正しい。 と云う位の違いがあるのです。 科学的に解かっているのは、なにしろ、現在の私達が知る宇宙は、 太陽系は、銀河のはしっこ、 その銀河も、この宇宙には、無数にあるようですし、 いま現在、学者が必死になって、地球と同じ生命体が存在する星を 探し回っている状態です....。 ほほっ。 仏教で、読んだ限りにおいては、 どうも、地球上に生まれた我々は、前世によろしくない事をして、 この星に来たようなのです、、、、、、 あはっは。 地球と云う星は、そう云う人の寄せ集めでしょうか?? あはは。 冗談は、さておいて、 ご覧の様に、仏教では、 この宇宙に銀河のような星雲が無数に存在すると説かれています。 ついでに、仏教の世界の数の単位は、もっと驚く事ばかりです。 紹介しておきます。 先ほどの 兆は、10の12乗(0が12個つく)です。 ”スーパーコンピューター京” 御存知ですね。 京(けい) = 10の16乗、 100,000,000,000,000,000 あと、垓(がい) = 10の20乗、 予(じょ) = 10の24乗、 穣(じょう) = 10の28乗、溝(こう) = 10の32乗、澗(かん) = 10の36乗、 正(せい) = 10の40乗、載(さい) = 10の44乗、 極(ごく) = 10の48乗などは、書くと、 こうなります! 1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000 これ以降は、恒河沙(ごうがしゃ) = 10の52乗 、 阿僧祇(あそうぎ) = 10の56乗 、那由多(なゆた) = 10の60乗 不可思議(ふかしぎ) = 10の64乗、 無量(むりょう) = 10の68乗 大数(たいすう)= 10の72乗などです。 小数点以下は、野球の打率を何割何分何厘何毛と言いますね。 毛 = 0の-3乗、0,0001 糸(し) = 10の-4乗、 惚(こつ) = 10の-5乗、 微(び) = 10の-6乗、などで、 10の-20乗以下には、虚、空、清、淨 という仏教用語が出て来ます。 ・これらを時間を表す数字としたら、もう永遠としか言えないのです。 ・空間を表す別の経文の語句(今回は省きます。)もありますが、 それらも、それこそ、どこまで広いって云うの――? と思う位! 無辺(きりがない、端がない、)と云う概念なのか、 人の思考を超えた不思議な空間の存在を説いています。 驚くしかない、これが、紀元前、3000年も前の東洋智です。 東洋は、もともと目先だけを見ていなかったのです。 古代インド思想に淵源を持つ仏教の宇宙観が嘘ではない事を、 21世紀の科学が、ほんの少しですが証明しています。 これから、もっと解明されていくと思っています。 それは、現在に生きる我々の時空観に影響し、 あらゆる価値観に影響を与えるべきです。 西洋から、東洋的へ、パラダイムの転換をしなければ...。 この地球上の限られた資源は、地球上みんなの物です。 経済発展と云う大義名分の為のお金を廻す為の材料として、 資源の無駄使いや消費をやめさせなければなりません。 私達も、止めなければなりません。 後進国と呼ぶ他国の人びとを、安賃金で現地雇用をしたパートに 鯖の小骨を一本一本を手で抜かせて、身を元通りに接着剤で合わせる 仕事をさせた代物を、日本は国内に持ち込み消費者に売ります。 そこまでしないと魚を食べない子供が多くなっているのですね。 我が子には魚の小骨がのどに刺さらなくて安全だわーと、 云いつつ安価で買う日本の私達がいるのですね。 同じアジアの安賃金の縫製工が、懸命に縫い上げた安価な衣服を買って、 日本人の自分が得をしたような気がして安心する。 日本は、経済力があるから、こんな恩恵が手に入るのだわ! これでいいのかなぁ-――? なんだかなぁ――――? イイわけありませんよ! 後進国と名付けた失礼な格差の存在の上に、あぐらをかいて、 どこかで、日本が先進国でよかった! ? 他人を犠牲にした我が国の繁栄、幸福度、感覚の満足の追及、 そんな優越感が、どこまで、いつまで? 保てると思うの? 今にきっと、立場がでんぐり反ってしまう。 そうでなければおかしいでしょう? 我が国の中で、みんなが平等、男女平等と云うのなら、 地球上みんなが、とにかく形だけでも平等なんだって、 それを実現する為に、自分の力に見合った処まで、 自分の満足度を、落してみたらどうでしょうか? そうしないと、脱原発もできませんよ。 そうできないのが西洋合理主義、物質文明、功利主義です。 これらは、欲望の為の合理だからです。。 自分が、一番得な分け前を手にする合理です。 『陰』を無視しているから、厚顔無恥で出来るのです。 しほんしゅぎとはしれたもの、獲物の取り合いですわ! つまり、常に貧しき国の為と言いながら、踏み台にして 先進国に利益を廻させる都合よく作ったロジックでしかなく、 西洋の云う自由も平等も、博愛も、愛までもが、 意識の中だけの言葉、観念の産物だと云う事に、 観念の中だけにある = 現実には実現しない。 はやくに、気が付かなくちゃ。。 国が、ボーボー(貧乏、亡国)になる前に。 あはは。 このように、思想の光の色を変えさえすれば、 問題点が、ありありと浮かび上がって来るのです。 どうも今の資本主義では、具合が悪い。と、 そうなって行くのです。 東洋の思想の光を当てれば、ですよ。 ほほ。 どうも、西のおしえを根底にした経済学は宜しくない。 だれか、東の経済学を築き上げる天才はいないのかしら? しかし、誤解を恐れずに言いますと、 大学に行くと、西洋に染まって、『陰』が分らなくなるようです。 この点は、安岡記念館の先生も言っておられました。 『徳』性の価値観が消えて、(価値観と云っていいものかどうか?) 損得、権利、効率の価値観の世界に入ってしまうからです。。 。 思想は、左様に人を変えるものです。 自己のDNAに全く関係ない異種の文明を、 意識の表層部分に、道化のように、おしろいのように塗りたくって、 過去から現在へ、そして未来に亘る東洋の生命観の存在を忘れている。 その当然の結果として、 近代的高学歴の人ほど、自分の命はこの世で終わり、 という考えを持っています。 生まれ替わるとかは、恥ずかしい幼稚な迷信だと思っているのね。 大学の知識で説明できない事や、学ばなかった事は、ウソだと思うのね。 知識で説明できないものを信じるなんて、 無知で恥ずかしい事なんだ、と云う虚勢を どこかで身に付けてしまっているのね。 自分の命が、どこから来たのかと云う事に根本的に無知なのに、 知ろうとしない。 常にナンバーワンである事を、目指さなければならない思想の中で、 偏差値や点数で、知っているか? 知っていないのか? と常に比較される事におびえて自己を隠す事に慣れ、 近代的自我と云うペルソナをかぶって、 本当の自分を隠す癖が付いているから、 知らない事がある自分をさらけ出せないのですね。 あわれ ! 常にペルソナをかぶって本当の自分を隠しているから 自分に、知らない事がある事すら気が付かないのでしょう。 まして、学問体系は、無意識を排除していますから、 説明できない事は、無視をすればいいと思っているのでしょう。 自分の命が、どこから来たのか? と云う事を無視するのですから、 心からの人としての感謝と報恩が湧きあがって来る訳がなく、 その心の存在すら忘れている姿です。 それが人として一番大事な心を失う事だと気づいてない。 なんと、現代文明は可哀想な人間を作り上げているのだろう。 その他大勢の人達と共同墓をつくろうとか、 どうせ子供は看ないから、子供を当てにしない事が子供の為とか、 そうする事が、親と子供の自由な関係だとか、 悩まずに済む勝手な都合のいいロジックが大流行です。 そう割り切る事が、さもカッコよい生き方のように振る舞い、 知的な開放された人間だと思ったり、 それがお互いが自由を獲得した証拠だとか、 もういろいろ、いろいろ、感情を抑圧して、 自己弁護をしながら、自惚れて、逃げて行きますね。 あはは。 本気で泣けないのです。 本気で望めないのです。 弱虫になっていますね。 生命に感謝をできない家系に子孫が生まれる訳がない。 自分の生命がこの世で終り。と信じている人の処には、 もはや次の命は生まれる必然性がないのです。 そ、、、子供たちは、ゲームに夢中です.... あっ。 なぜだか、分かりますか? 子供たちの足元には、何も学ぶべきものがない。 彼らが、ワクワクするようなものが、転がっていないのです。 クダラナイものしかないから、ゲームでもしようか? 本来、子供たちは、森の中や、暗がりが恐いけれど好きです。 ワクワクするから、、、 それが、無意識の感覚なのです。 それが、どこにもない。身近にないから、、、、、 そして、 あるのは光に照らされたショウアップされた額縁の中の世界です。 自国の歴史を、忘れた民族は滅びる。 自国の神話を、子供に語れない国は亡びる。 これも、胸にグサッと来てくださいね! あっはあ。 学校教育の教育現場で、将来の国を支える生徒を前にして、 教師が、国旗掲揚の時に起立をするか、君が代を歌うか、歌わないか、 で裁判をする国です! あきれた教師たち、そして、破壊されつくした『孝』。 これらを尊重する事が、すべて『孝』の徳なのですよ。 口先にあふれる『愛』ではないわよ。 ほほっ。 まず、大人から 自分のDNAの奥にある民族の故郷の思想を復活し、 東洋的な永遠で広大な無意識の世界を、子供たちへ感じさせて、 自信を持って、話して行かなければいけませんね。 そして、今の日本における思想がどういったものなのか? 鬼の思想を信じれば、鬼の餌食になり、 悪魔の思想を信じれば、悪魔の手下になります。 ごまかしの神を信じれば、ごまかされているのが分らなくなります。 そう云う思想の浅深、高低を見分けられる目を養いたいものです。 と云う事で、 クサい近代合理の論理性を、なるべく排除しながら、 あはは。 東洋思想のすべて網羅しようなんて到底無理ですので、、、 すこしづつ、すこしづつ、 私の直感による粗々(あらあら)しい独断的東洋思想の断片を、 気が向くままに記事にしてみました。 多少、むずかしかったでしょうか? ほっ。 ご了承ください。 とにかく、最後までお読みくださった事に、 深く、感謝申し上げます。 では、あと、2回つづきます。 GWのお疲れ大丈夫ですか? よき一週間をお過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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05/13 18:05 |
【 東洋思想 2 】 東洋思想の源流としての ー古代インドの思想史 ーCategory : 東洋思想
今のインド風景 村の薬局とよばれるニームの巨樹
![]() 森林インストラクターのブログからお借りした写真です。 今日は、東洋思想の源流としての ー古代インドの思想史 ー インドと云えば、やはり現在でも宗教大国です。 これは、中国と同様に、3~4000年の伝統があります。 今の日本の我々のDNAの中に息づいて共鳴するものがあるのか? 今の世界の動静を見れば、、、 西欧から始まった、近代化(★注1)下記を参照が、 ギリシヤから端を発した経済危機でEUが行き詰まりを見せている現在、 アメリカも膨大な軍事費を削減し始めた現在、 東アジアの中国、それに続いてインドが、 長い深い眠りから覚めたように『陽』の世界=現象界で、 力を付けて来ているのは不思議な感じがしています。 仏教は、西から東へ、 西のインドから中国へ、それから日本へ伝わりました 近代化の現象『陽』の波は、その逆、東から西です。 日本の衰弱が見えて、中国が栄え、次はインドです。 これは、運命学から私の判断ですが、 西洋から近代化と云う『陽』の嵐が吹き荒れて東端の日本を襲った。 そして、日本が過去から積み上げて来た民族の『陰徳』を消費させ、 一時の炎が燃え上がったのです。 もうその『陰徳』の底が見えて来た頃、 次は中国の過去3000年の『陰徳』へ飛び火した。 しかし、 中国は、自国の『陰徳』を共産主義の『陽』で断ち切った国です。 そして近代化の『陽』は、飛び火となって、 インドの積み上げた『陰徳』へ引火して移って行くでしょう。 これから当分の間は、 インドの『陰徳』が燃えて、強い『陽』の炎が盛んになるでしょう。 近代化(★注): 歴史関係の近代の区分は、 明治から第二次世界大戦の敗戦までの間で、 これ以後を「現代」とみます。 それゆえ、ポストモダン、超近代、等の言葉も生んでいます。 しかし、このブログの中では今まで通り、 現代と云えども近代化 = 無意識を排除した意識中心の思潮の 真っただ中、その延長上であると云う認識をしています。 なぜなら、現代は、未だに近代の誤謬を乗り越えていないからです この場合の近代化の思潮の定義は、人間を自然から隔離した思潮です。 我々は、意識によって作られた世界の中に閉じ込められたままです。 それは東洋の『陰』や、 現代心理学における無意識の領域や、 母権までをも否定し、排除し、存在しないものとして扱い、 その枠組みの中で、すべての他の存在を規定する『陽』の思想です。 我々は、今も、この見当違いの狭い囲み、無常の世界の中に居ます。 つまり、その思潮が生きている時代を、このブログでは近代と言います。 現代は、近代を乗り越えていない。 収束もさせていない。 では、本記事、古代インドの思想史です。 おおざっぱに行きますが、5000年も前の思想の中に、 ★ あなたのDNAに響くものがあるのか? それが、なになのか...... さぁ、それを探っていきましょうか....。 古代インドと云うのは、今の中国との国境・ヒマラヤ以南 パキスタン、ネパール、チベット、ブータン、スリランカ、バングラデシュ を含むと思ってください。 前2500~前1800、 これは、今から 約5000年前です。 インダス川西岸でインダス文明は、 世界の四大文明の中のメソポタミア文明と同じく、 多くの都市国家において栄えていたようです。 驚くべき事に、これらの都市国家は、 すべて都市計画による綿密な計画と計算で建設された街でした。 具体的には、上下水道の完備は当たり前、 ダスターシュートも全住宅に備わっていたようです! ( 現代の方が、まだまだって云う状態ですね。) ヨーロッパの古代都市国家では、街の中心に神殿が配置されています。 インダス文明は、街の中心に神殿が置かれていなかった。 さぁ、何を町の中心に置いた設計になっていたのでしょうか? ・ 都市の中心には、巨大な公衆浴場、、、つまり沐浴場を作った。 身を清める為ですね! 身を清めてから、神々に祈りを捧げていたのであろう、、、 今のインドでも、ガンジス川で沐浴する風習が続いています。 この精神は、日本の神社の手水の作法や、 伊勢神宮を参拝する前に、五十鈴川の御手洗場(みたらし)で身を清める のはこの名残です。 日本人の清潔好き、お風呂好き、 そう、なにかあったら、一風呂浴びて! と云う感覚です。 文明のルーツが同じなのでしょう。 これは、体臭を香水で消す西洋人とは違います。 古代インドの沐浴は、単に身体を清潔にする為ではないのです。 ガンジス川なども死体を流したりしますから、 塩素殺菌した水道から見ると汚水ですし、不潔な川になるのでしょうが、 宗教的には、その川の水が、我が身を清める、と云う事になるのです。 ここで、ちょと考えてみたいのは、 ・ 「浄める」と云う感覚が当時の人にあると云う事は、 反対の「穢れ・ケガレ」と云う感覚があると云う事です。 いわゆる「晴れ・ハレ」と「穢・ケ」の意識を強く持っていたから、 生活様式の中に、上下水道を完備したり、ダスターシュートを住居の中に 作ったりしたのでしょうね。 ハレとケガレを区別する意識が強かった。 これは、古来の日本から現代の我々も受け継いでいます。 さまざまな場面での晴れ着と、晴れの食事。 又、清潔の為と云うよりも頻繁に手を洗いウガイをする国民です。 ウガイは、どうも日本だけのようですね。 あはっは。 インド人も、食事は手で食べますが、 食事の手と、トイレで使う手は、はっきりと区別をします。 ・ インダス文明の遺跡からは、印章が出ます。 サインが習慣の西洋とは違うのですね。 インダス文明は、前1800年頃、今から3800年前に滅びました。 1200年位続いたと云う事です。 その後は、中央アジアから南下して来たアーリア人のインド侵入です。 このアーリア人は、実際、どこから来たのか解かっていません。 前1000年頃、アーリア人は、ガンジス川流域に辿り付きます。 その間に多くの小国を作りながら、自然崇拝の歌を詠いました。 それが、厳しい自然環境を神々として讃える歌集「ヴェーダ」類です。 このヴェーダで神々を讃え、 儀式を執り行う僧侶階級が生まれます。 バラモン階級です。 バラモン教の成立です。 彼らは神々に仕え、祭礼の方法を独占し、 次第に特権階級になって行きます。 こうしてバラモン以外の3つの身分も含めて = カースト制が成立します。 更にその下が、四つの身分の中にも入れない不可触民 です。 = 触るとケガレがうつるから触ってはいけない人々と云う意味です。 日本にも同じような身分差別が過去にありました。 ――現在のインドでは、憲法でカースト制を廃止しても、 結婚も就職も学校もカースト制度の影響が厳然として存在しています。 最高の身分として神に仕えるバラモン階級の中から、 儀式、祭司中心のバラモン教に飽き足らずに不満を持つ人々が出て、 密林の奥深くに入り難行苦行をして此の世の真理を探ろうとします。 世間を捨てて、髪を剃り、家を出る。仏教の出家の容です。 ヴェーダの最終部として成立したのがヴェーダの極地と云う意味の 「ウパニシャッド哲学」です。 ウパニシャッドの原意には、1.ウパ(近くに)ニシャッド(座る) =師の近くで伝授される教えの意。 2.あるいは、ウバ(近くに)ウバース(存在する)と云う意。 3.あるいは、AをBへウバース(存在する)すると云う概念、 身近な現象であるAを儀式に用いて、それを支配する事によって、 それとウバースされたBに影響を与えようとする事の意。 などがある。 その成立年代は、仏教成立以前 ~ 16世紀にも渡ります。 内容は、初期、中期、後期に分けられ200編に及ぶものです。 バラモンが執り行う儀礼行為が、神々すらも支配し, 何らかの効果をもたらすと考えられていたのです。 ウパニシャッド哲学における、この宇宙の真理についての特徴は、 宇宙の根本真理・「ブラフマン」が存在するとします。 ブラフマンが、中国人に、ボンと聴こえたのかどうか ? あはは。 中国の漢字で「梵(ぼん)」または、梵天と書きます。 音訳ですね。 ウパニシャッド哲学が、仏教の思想へ与えた影響について、 ・「輪廻転生」です。 我々は、車の車輪のように生と死を永遠に繰り返す。 前世、今世、来世の三世の生命観に立っています。 が、当時の人にすれば、 生まれ変わる事はうれしくなかったはずです。 生まれ変わっても、此の世で飢饉や疫病にかかって苦しんで死ぬ、 健康なら戦争に狩り出され、どうせ死ぬ、 戦乱がなかったら、地震や干ばつの天災に遭って死ぬ、、、 なんとなく、今の日本人には分るような気がするでしょう? あはは。 ”あなたと一緒に、また、生まれ変わりたい。”なんて 言っていられるのは、余程、悩まない体質なのか、 今の時代が、物質文明のけっこうな時代なのですよ! あはは。 どう生まれ変わるのか ? ・生きていた間の行い = 「業・ごう」で決まる。 前世の行いの結果によって、来世のカーストの身分が決まる。 希望もあるにはあるのです。 あはは。 正しい行いで生きて、次は上のカーストの身分に生まれよう! でもさ――、できるなら絶対に~ 生まれ変わりたくない! 此の世になんか、戻って来たくない! あはっは。 そのように生まれ変わる輪廻から外れる事を = 「解脱」と云います。 ブラフマン(梵天)に達すれば、二度とこの世に戻って来ないとされ、 だから、もう二度と死ぬ事もないとされ、不死を得たとされました。 当然ですが、ウパニシャッドの修行者たちは、 宇宙真理の「ブラフマン」を自分のモノにして、 心と体が一体である自分の中の真理「アートマン」を掴みたい! と思ったのです。 その為には、お金持ちだからと云っても役に立たないし、 美人の奥さんがいる事も何も助けにはならないのですね! あはは。 逆に、その中で自慢したり、喜んだり悔しがっているのが関の山。 宇宙真理の「ブラフマン」と自分の中の真理「アートマン」の 合一( 解脱 )が叶うならば、 そんな浮世の事は、どうでもいい!! あはは。 クダラナイ直ぐに崩れる喜びの天界なんかに、 執着しちゃいられない!! なんとか抜け出そう! ほほほ。 あ、これには紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立した 人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の4つの時期 に分けた古代インドのマヌの法典の人生観があります。 結婚もし、子をなし、財産を作って、もう役割は終わった年齢になって、 感覚的な欲望や感情の右往左往から離れよう! と、 自己の所有欲を否定する為に森へ籠った訳です。 そこからが、「林住期」「遊行期」です。 これらが、いわゆる出家の原型、出家の意味の始まりです。 一般に修行と云えば、楽を離れるので苦行になるのですね。 ここが、西洋と東洋の根本的な違いです。 ・・東洋は、心と体がバラバラではなく一体ですから、 頭の中で真理を観念するだけではなく、心身一体の修行をします。 ・・西洋においては、真理は自分の外にあるのです。 意識と云う五感で集めた材料で、真理を観念するのですから、 つまり、五感は外へ向いていますから、外にある事になる。 西洋は、元々の二元論から、精神と肉体はべつべつです。 真理は観念している精神の中にある。 精神とバラバラである肉体の中にはないのです。 ですから、西洋哲学は思惟するもので、肉体を使って掴むものではない。 たとえると、 まぁ、気象観測をしているようなものです! あはは。 いろんなデーターを集めて机上で、紙面で真理を探そうとする。 気象観測で、気象現象を起こしている真の原因が掴めるのか? ある現象の原因は、そのまた別の気象現象だったりして、、、、 せいぜい、説明くらいのもしかできないでしょう? それで、根源の神が見つけられるのかなぁ―――??? ユダヤ教やキリスト教は、それを神と云うのです。 だから、神がこの世を、天地創造したと言うのです。 じゃ、この世の外に、神がいる事になります。 この世と、神も、バラバラです。 ( 観念が作った、観念の中の神でしかない ) 仏教にもあります。架空の仮の仏群です。 釈迦が、その時だけ説いて、実体がない仏達です。 そして、 プラトンにしたら彼のイデアなんでしょうね。 だから、憧れから、どうして、神へ近づいて行こうか? 実体を掴むためには、どう向かって行くのか。 と云う捉え方です。 神は、手さぐりで探しながら、向かって行く相手なのですね。 自分の外に求めるのです。しかも、そこには実体はない! そう、考えたのです。 観念的と云います。 強いて言えば、頭の中、前頭葉の中にあるのですね。 神は、、、 つまり、西洋文明は、神からして、 人間の大脳のシナプスが作り上げた作品です。 と、云うのは、西欧の自然は美しく神秘に満ちているけれど、 地球は、あまねくどこでも命を育む場ではあるけれど、 西洋の人びとは、『陰』を秘めたすばらしい人々だけれど、 キリスト教の教理自体に、『陰』を感じる事ができないのです。 だって、自然 = 神ではないのです。 なにしろ、自然も神が創ったモノだそうですから、、、 はは。 じゃ、神は、無意識の外にいる事になりますね! 無意識の外? あはは。 それは意識じゃないですか!! ならば、自分の意識の中であれこれ考えて生まれる観念に頼るしかない、 と云う事になりますね。 だから、西洋の人びとは、飽き足らず、 次から次へと、...ism、...主義、を生み出すのではないか? つまる処、それは、 西洋は、自分の観念の生みだした意識から出る事ができないのです。 翻って、現在の我々の足元を見れば、 この近代化以降の西洋文明の中で、 今の世間で一人前にやって行こうとすると、ガクレキ? 優秀な前頭葉が必須、、、、これが、大前提のようになります! 学歴、点数、専門性が、、、人のしあわせの必須条件のように? 世の常識になってしまって、我も我もと、大学、院へ行くけれど、 皆、それで = しあわせ、ですか? そもそも、そんなに大卒、院卒の人数は要らないでしょう? だから、大学卒、院卒でも、就職先がない。 だいたい、おかしいと思いませんか? 本来は、人と生まれてしあわせになるのに、 生まれた状態で、必要なものを持って生まれているはずです。 運命学では、持って生まれた運で道理に合って生きるのが正しいのです。 人として自然であれば本来いいはずなのです。 その為に、外には五行がある。 その恵みがあるのです。 それを、 どうしてネコもシャクシも、ナンバーワンを目指して? その流れの中でおぼれながら? その流れが、どこへ向かって行っているのか? 分っていない。 まったく、それが今の文明です。( おそろしい~事です。) なぜ、おそろしいのか? 自然を無視した人の前頭葉(意識)主体のこの現象重視の思潮は、 次、どう云う駒が、どう出て来るバクチなのか? だれも経験した事がない賭けなのです。 意識が改善すると言って開発したあらゆるメソッド、 科学的な善意の研究の結末は、果して善果を導くのか? あまりにも、軽薄に物事が運ばれている。 おそらく、これは、創造、 もっと深刻な解決不能な状態の創造でしょう。 科学が無視をして探れない領域が余りにも広過ぎて、、、 遺伝子組み換え、卵子提供の不妊治療、などなど、、、 原発もそうです。 西洋の意識が作り上げた『陽』の原型そのものです。 人の欲が、命を殺戮する。それを叶えた象徴の『物』です。 私の想像だけならいいのですが....。 この『陽』の殺戮から、どうしても『太陰』を守らなければいけないわ。 その回復は、自然への懺悔しかありません。 そして、 自然の真理を畏敬し、 自然と、人間の欲望の調和に重点をおいた東洋の叡智へ戻るしか、 東洋の復権をするしかないように思います。 話を、西洋文明へ戻しましょう。 ほほっ。 真理は外にあるものだから、どんなものなのだろう、と 想像を膨らますしかない。 外を探す。目で、耳で、手で、鼻で、しかし、外にない。 空や光を見て、あれが神かと思うような? ああは。 ネットでも神に憧れる気持ちが、あふれていますね! しかし、真実は、真理は、そんな形をしていないものなのですよ。 逆に、自分の中にあると分からないから、 西洋は、 あんなに綺麗な、装飾的な芸術を生むのでしょう。 音楽も、華奢で華麗で、まず、綺麗です。 ドラクロアの絵でも、むごい場面ですが、表現は綺麗です。 真理は、こうだと掴めないから、飽くまで飾り立てます。 東洋は、反対に、 自然そのままを先生、師匠にして自然のありようを感じ、 自分の中のアートマンを探せばいいのであって、 外側は、自然のまま、そのままの方がいいのです。 あはは。 自分の中に、宇宙と一体になれるものがあるとすれば、 自然は、そのままの方がいいのです。 なんとなく、リラックスできるでしょう? だから、なるべくと云うよりも、逆に飾り立てない! 簡素と云うのか、素のまま、自然を変えないまま受け入れるのです。 茶道のワビやサビ、できるだけ人間の欲が作ったものを排除し、 捨てられるものは捨ててしまう、 残るものが、真理なのです。 チャラチャラ、ぎらぎら、ひらひら、は要らない。 あはは。 静寂です。 だから、蝉の声や、井戸の水の音が響くのです。 ほほ。 東洋思潮の独自性、 生まれ変わりの車輪から外れる = 不死の命を得る = 解脱の為には、 宇宙の真理(梵)と、個人の内面の真理の合一(梵我一如)を得る。 この思想は、 ヨーロッパの哲学者、ショーペンハウエルなどに影響を与えています。 梵我一如を、簡単にいいますと、 宇宙や自然は、自分の外、遠い彼方へあるだけではなく、 自分も、この宇宙の中の一部と捉えるのですね。 だから、宇宙や自然にある根本真理が、 その一部である自分の中にもあるはずだ。 気が付かないだけで、自分の中に宿っているはずだ。と云う事です。 どこか宇宙の果ての遠くに真理は、ある訳ではなく、 自分の中に真理はある。と云う事です。 当然、自分の中と云うのは、心と体が一つと観る自分です。 今から3000年前に、化学のない時代に、 そこまでの自己認識、自分を含む宇宙観を組み立てられた智恵には、 驚嘆するばかりです。 例えれば、我々の命は、その構成する分子は、 田や畑や山や川や海や空の光や空気が動く風や雲が降らす雨や 自然が生んだ命を取り入れて成り立っているのですから、、、。 古代インド、前5世紀頃、 交易や都市国家間の戦いで力を付けて来たバラモンの下の身分 (武士や商人)からも、祭司のやり方を秘伝として独占しているバラモンに 対して不満を持つ者が出て来るようになります。 つまり、カースト制を批判する新興の力が、 このウパニシャッド哲学を土台にしてさまざまな宗教を生みます。 その中で、後世まで影響力を持ったのがジャイナ教と、仏教です。 この二つの共通点は、 それぞれ開祖がクシャトリア( 武士、王族)出身である事と、 バラモンの権威を批判しカースト制を否定した事です。 このように、混沌とした古代の思潮の中で、 インドが、頭一つ精神性において抜きん出た訳です。 今の時代の日本中に充満するコセコセした物差しで、 為替で円高だ、貿易収支がどうだとか、 経済力が抜きん出たと言っているのではありませんよ――。 あはは。 つづきは、次回へ 古代インドの思潮のあれこれと、 我々のDNAに具わっている遺伝子が、 共鳴したでしょうか? あはは。 でも、よく考えて、我が国は、、、まさにピエロよ! 自分のモノでない借り物の着ぐるみを着て、 西洋人と対等になりたくて、神を信じる振り振りをして、 クリスマスやハーロゥインを我が物顔に取り入れて、 日本人は、よくやっていると思うわ! あはは。 大いに皮肉ですが、 ごくろうさま――っ! だけど、民族の根っこにつながらない他国のお祭りのプレゼントや、 将来、生きる突っかい棒にもならない異国の宗教行事やお祝いを、 商業ベースに流されて幼い頃からの潜在意識に入れられる子供は、 大人になって、どこの国の為に、力を踏ん張って頑張るのでしょう? 父母を通じた民族の歴史に共鳴しない思い出ばかりのアルバムで、 自分のDNAが共鳴して疼く感覚もなく、 どこへ、『孝』を、返すのでしょう。 自負心が折れて、自尊心がどれだけ傷つけられても それでも精一杯生きようとするのは、『孝』を知っている人間だけです。 その強さが、現に中国の若者や、インドの若者にはみなぎっている。 『孝』を忘れた人間は、簡単に死にますよ。 簡単に、負けを認めますよ。 今の若者、子供たちから、『孝』を奪ったのは? だれ? この、取り返しは、どうするのですか? 日本は、本当に大罪を犯している国だと思います。 人としたら、まともじゃないですね。 友人にこう云う人がいたら、困った人だな。と思いますね。 あはは――。 なんだか哀れを誘いますね。 ここまで、 長い記事を最後までお読みいただきまして、、、、、 ありがとうございました! 感謝です。 次の 東洋思想 3で、一応の一区切りにします。 どうか、よき一週間を、お過ごしになってください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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05/21 10:52 |
【 東洋思想 3 】 末法時の予言 ・ 釈迦は自らの仏法の功力の消滅を予言Category : 東洋思想
サンチー 遺跡(Sanchi)1989年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。
次の4枚の写真をご覧になって見てください。 どことなく我国の寺院や神社の懐かしい風景に似ていませんか? 2300年前のアショカ大王が建立したインド最古の仏塔のある遺跡です。 ![]() 自然のままの緑に囲まれた日本の寺院、神社の風景、石畳の参道、、、 その風景と重なって来るものがあるでしょう? 西洋の教会なら、ここは木もない広場になっている所です。 サンチー沐浴池 ![]() ここで、仏塔をお参りする前に、沐浴をした池。 周りは、いかにも東洋らしく自然林に囲まれています。 西洋なら、石畳を全部に敷き詰めて、沐浴場などはありません。 サンチー遺跡の代表・大ストゥーパ第1塔 ![]() これを最初に見た時、いろんな建築様式が交じり合っている感覚に、 頭の中がグルグル回ってしまいました! あはは。 まず、丸いストゥーパの屋根は、天皇陵の円墳を思い起こさせ、 建物全体の雰囲気は、 まるで、アメリカの西部劇に出て来るインディアンの住居? あはは。 てっぺんにある串刺しの様な擬宝珠は、五重塔のに似て、 トーラナ(塔門)は、ひょっとして神社の鳥居の原型なのね! 周りの丸い石の囲みは、神社を囲む石の柵を想起させられたのです。 神仏混淆のイメージでしょう? あはは。 サンチー欄楯 ( らんじゅん ) ![]() 写真のリンク先:インドing 周りの丸い石の囲みを、裏側から見ると、そう! 寺院や神社の寄進者の名前が刻印されている石柵の雰囲気。 このように、サンチーの遺跡を初めて見た時に覚えた 幻惑されたような異文化の交じり合った認識の目まいは、 今の私の知っている知識中心に見れば、 なるほどと、そうなるのですが、 冷静になれば、確かに、 サンチーの遺跡の方が断然古いのですから、 サンチーの遺跡が、それらの寄せ集めなのではなくて、 サンチーの古代インドの仏教美術や様式が、中国へ日本へ、 仏教寺院や神道の神社へ、あらゆる影響を与えた事になるのです。 そう思って唯物的に建物の様式を理解をしてみると、 古代インドのこの遺跡は、日本の宗教的建築物の原点なのです。 インド古代史上、最初の統一国家であるマウリヤ朝の最盛期を築いた アショカ王が、釈迦の遺骨(仏舎利)を安置する為に建立した ストゥーパ(卒塔婆)が、広々とした草原のなだらかな丘の上に立つ姿は、 単なる古い2300年前の遺跡と云うよりも、 さすがに、我々のDNAを刺激する存在感においては、 平屋の建物なのに、現代の高層ビルに負けない力強い意志を感じます。 歴史建造物は、みなそうですね。 では、今日の本記事です。 神への祭司を独占するカースト制の最高身分のバラモンに対抗して、 その下の身分クシャトリア(武士・王族)の中から カーストを否定する仏教、ジャイナ教が生まれて来たと云う処からでした。 仏教が、そもそもの成立した時点では、革新そのものだったのです。 現代においては、仏教は、守旧的に見えますね? 古さを守っているだけでどこが新鮮なの? って、、、 あはは。 それが、どうしてこうなったのか? それは、後で、書きます。 クシャトリアから出たと云っても、 仏教とジャイナ教は、その成立の根っこが全く違います。 まず、ジャイナ教から片づけましょう。 あはは。 仏教がまだ生まれる前、釈迦が出家する頃には、 森林で生まれたウパニシャッド哲学を基盤としながらも カースト制の最高身分だったバラモン勢力に対抗する形で、 バラモンのヴェーダの権威を認めない六師外道(ろくしげどう)と云われる 六人の思想家達(唯物論者、七要素説者、道徳否定論者、決定論者、懐疑 論者、 相対論者)が、出ていました。 その中の一つが、相対論者の立場であるジャイナ教です。 つまりジャイナ教は、六師外道の中の一つでした。 前563~前477、開祖はヴァルダマーナ。 彼は、輪廻の原因になる個々人の『業』を身体にくっついた物質と観ます。 これは、ある種の唯物的観方です。 体からくっついた『業』を剥がすには、苦行をしなさい、と。 具体的には、苦行と徹底した不殺生を説いています。 そして、苦行は、基本的には断食です。 梵我一如を手にしたらこの世で生きている意味がないから、 断食をしてそのまま餓死する事を進めるのですね! 死んでしまいましょう! と、、、、、 あはは。 現代のダイエットに熱心な人は、その昔、ジャイナ教徒 ? きっと、その生まれ変わりのような? あはは。 このように、今世、理屈抜きで一生懸命する事や、自然にできる事や、 なかなか止められない事って、前世の業と関係があるのですよ。 今度は、真面目なお話しです。 インド独立の父・ガンジーもジャイナ教徒の家の出自です。 次は、仏教。 前563~前483頃、開祖はガウタマ=シッダールタ。尊称がブッダ。 ブッダ(仏陀)は、「覚者・覚った人」と云う意味で、一般名です。 だから誰でも悟りを開いた人は、仏陀と名乗れるのですよ。 あなたが悟ったら、仏陀と名乗る事もできますよ! ほほ。 お釈迦(しゃか)様とも言います。 釈迦族出身と云う部族名の呼び方です。 (シャーキャーと云う部族名が、中国へ伝わった時に音訳で釈迦になった。) 彼は、釈迦族のカピラヴァストゥ国王の皇太子として生まれました。 ミス釈迦族の美人を、お嫁さんにもらって、男児も一人もうけます。 なに不自由ない宮廷暮らしの中で、人間の暮らしの無常を感じて、 次期国王の地位や、愛する家族を宮廷に遺して、出家修行の道を選びます。 当時、彼は29歳でした。 ここで、彼は、やっぱり王子さまだなと思うのは、 国王である父、浄飯王(じょうぼん)は、 息子が皇太子の座を捨てて出家するのが心配でたまらなかったのでしょう。 自分の信頼に足る家来6人を、警護も兼ねて同行させます。 釈迦は、同じような修行者がいる森に入って、過激な苦行をしますが、 少しも悟れないので苦行によって悟りをひらく事をあきらめます。 断食で痩せ細った体で森から里へ降りて行きます。 川の畔で、休んでいる時です。 よっぽど痩せてお腹がすいていると気の毒に見えたのでしょう。 村の娘が牛乳を差し出してくれました。 この村娘の名前がスジャータです。 余計な事ですが、、、ほほっ。 この当時の仏教は、出家仏教で、在家仏教ではありません。 悟りをひらいて解脱できるのは、出家して修行した人だけです。 普通の暮らしをしている在家の人たちは、解脱はできないけれど、 出家した修行中のお坊さんに、お布施(食べ物を与える)をする事で よい業を積む事ができる。 そうすれば、今度生まれ変わる時には、今より少しでもよい所に生まれ変わ ることができると云う教えだったのです。 村娘スジャータがした事は、そう云う事からだったのです。 そのミルクのお陰で、蘇生したガウタマは、菩提樹の下で瞑想を始めます。 そして、終に悟った。覚者になった訳です。仏陀になりました。 ここでしばし、横道へ、、、お断りをしておきます。 釈迦族のゴータマである仏陀を「彼」と親しみを込めて呼びましたのは、 釈迦自身、自分は、未来永劫にあらゆる衆生を救う仏であるとか、 だから自分を本尊にして拝みなさいとか、 まして自分の仏像を作って本尊にしなさい、 とは、一度もおっしゃっていないのですよ。 これは、キリストも同じです。 自分こそが神とは、言い残してはいらっしゃらない。 仏や神として崇め奉ったのは、後々の弟子たちなのです。 弟子たちが、自分たちの止むにやまれぬ都合によってそうしたのでしょう。 その都合とは、強い信仰心による都合も入りますが。 私の個人的な見解ですが、 自分が神や仏と云う自覚があって、引き続き後世の人びとを救う目的で、 その事を言い残す必要があると覚られているのなら、 自分の死期を、前もって悟るのが、神や仏と云うのですから、 それをそのまま、率直に、何の遠慮もなく、信頼に足る弟子達に、 教えとして必ず遺されたであろうと思っています。 まして、ご自分の覚知した法の力が、 末法には消滅すると予言をした釈迦においては、そうです。 ( 末法 = 釈迦仏法が力を失い功力がない法になる事。) そもそも、仏像崇拝も、「偶像崇拝」の問題にも関わって来る事です。 偶像崇拝は、高等な宗教においては常に論争になっています。 なぜなら、真理や本質は、人形像の容にはあらわれない。 あくまでも仏教は、目で見えない仏の法が根本であり、 信仰の本質は法の覚知にあるとするのが本来の仏教の精神だからです。 古代インドでは、釈迦の図像や彫刻は作られておりません。 仏像が一般化するのは、ギリシヤ彫刻の影響を受けたガンダーラ仏からで、 あくまでも、仏像は、仏教の本来の精神ではないのです。 だから、釈迦は、自分の仏像を作って拝めとは言わなかった。 後々の弟子が、守ろうとする(これは悪しき保守です。)意識が、 権威を作り、それを形造って来たのではないのか? 権威とは、人の意識が作ったものです。 = 『陽』の範疇です。 人間の意識が、自己を守る為に作る人工的な価値観です。 王や貴族などの階級、ブランドなどの金ぴか思考ですね。 あはは。 本質を観るには、権威は要らないものです。 特に宗教においては、 権威が傘高くなれば、法の本質的な内容が形骸化します。 が、人の意識のベクトルは、常に自己保存に傾き、 その為の権威を保ち持たそうとすれば、 人に見せる金剛に飾られた人形が必要になって来るのです。 この事は、なんら真実とは関係ありません。 芸術や美術を真理や本質と思ってはいけません。 しかし、とかく人は、キンピカに、綺麗にしたがりますね。 これじゃ、西洋文明の意識が作った世界です。 かように、本質が失われて物事は崩れていく、、、 その過程を、釈迦は、正・像・末の三時に分けて遺した。 ( 詳細は省きます。これに関しては、またの機会に。。。) つまり、人の意識が作った物・『陽』のみの残骸が増えて来ると、 法の本質は隠れて見えなくなります。 それを、、、 『 白法隠没・びゃくほうおんもつ』 白法 = 釈迦の仏法の力 ( 釈迦仏法の力が消滅し、隠れて見えなくなる。) と言い残したのです。 その時を、末法時と言います。 これは、人間の本質を観抜いたすばらしい覚者の智慧です。 つまり、意識の作為・『陽』が大過すれば、『偽』が主役になると。 『偽』が主役とは、社会の機能において、 善を守り善へと働く機能が薄くなり、善が消滅して行く。 善は、仮面や形だけになり、本質が悪にすり替わって行く。 故に、『 闘諍言訟・とうじょうごんしょう 』すると言い残した。 ( 正しい事や善が守られなくなって争い、言い合いが激しくなる。) その時期を、 釈迦は、自分の死後2000年以降と言い残したのです。 末法時(まっぽうじ)です。 そうなると、覚知した。 知っていたのですね。 見えないものを見て、聴こえないものを聴かれたのです。 だから、それを言い残された。 それを言い残した釈迦が、自分が仏であるのかないのか? その肝心な事を必要ならば、教え遺されない訳がない。 私自身は、なんら守るべき何の権威もなく、 思っている事をそのまま言って、何も失う物もありませんから、 率直に普通の人間性で申し上げます。 あえて、釈迦が自分が仏であると言わなかった事実からは、 それ以外のなにものでもない、、、 もっと突き詰めれば、言い残す事で後世に何らかの縛りを遺す、 そう云う危惧もあったからではないかと、人間的に解釈しています。 キリストもそうです。 はたして、 弟子が、神や仏に奉った事を、彼ら二人はどうお考えでしょう? 本論に戻ります。 釈迦の古代仏教が、六師外道の中から生まれたジャイナ教と違うのは、 釈迦の仏教の方が、六師外道を超えた教えだと云う事です。 外道と云う呼び名が、それを表しています。 外道とは、内道(ないどう・仏教)ではないと云う意味です。 因果応報の永遠の生命を説いていないのが、外道(げどう)です。 あ、西洋思想も外道です。 たとえそれが、ヘレニズムの神であろうとキリストの神であろうと、 西洋の神は、因果応報の永遠の生命観を説いてはいない。 仏教の発祥は、開祖ガウタマ=シッダールタの生年が前563~前483頃、 とすると少なく見ても、今から483+2012=2495年前です。 キリストは、今年から2012年前ですから、 仏教の方が、4~500年古い。 キリストが誕生した時に、もうすでに古代インドは、 西洋よりも死生観、宇宙観、生命観、時空観において勝っていたのです。 その新興の宗教である仏教を支えたのは、 同じく新興の力を付けて来たクシャトリアの下の身分、 バイシャ(商人)の有力商人達でした。 彼らの豊富な財力が、釈迦教団を支えました。 彼らも、独占的なバラモンの支配するカースト制度を否定する勢力でした。 そして、バラモンの権威が眼の上のコブ? だった世俗の力を持つ王族たち、 2300年前のアショカ大王、 西暦127年頃のクシャーナ朝のカニシカ王が、仏教を保護しました。 カニシカ王はシヴァやゾロアスター教も庇護しています。 我々は、中国の歴史と比べるとインドの歴史についてはあまり知りません。 中国は、かって聖徳太子の頃の宗主国であり、 我が国は柵封されていた属国と云う関係で、 宗主国の宗教と漢字の使用を義務付けられていた為に、 日本は、中国のコピー模倣をやっていたので、余計です。 その上、インドは中国ほど国の歴史記録を熱心にやっていなかった。 どうせ生まれ変わるものを書き留めて記録してどうなるの? あはは。 歴史記録に興味がなかった。のでしょう。 目で見える物を追いかけるよりも、 目で見えない物を基準に生きて来た。 そう云う一面が、精神大国インドには現在も感じます。 傍目は気にしない。自分の内面重視ですね! あはは。 だから、大衆の面前で、裸の沐浴ができる。 ある意味、うらやましい気もしますが、、、ほほっ。 これは、『陰徳』の徳性に通じる重要な一面です。 しかし、現代のインドにおいては、 ヒンドゥー教が社会的、文化的な生活の基盤です。 今日、仏教徒は、インドの全人口12億4150万人に対して 800万人しかいません。 なぜ、キリスト教を凌駕する時空観を持ちながら、 釈迦の仏教は、衰退をして行ったのか..... 古代インドの仏教の発祥においては、 その革新性と三世に亘る宇宙観で絶大な信頼を得て勢力を持ちながら、 イスラム教とヒンズー教のそれぞれの政権の出現によって 弾圧を受け、寺院の破壊と僧侶等の殺戮によって 壊滅的に衰退して行きました。 このインド仏教の衰退の原因は、当地の仏教界においても、 末法の時代としての説明解釈がされています。 末法と云う時が、来たのだと云うのです。 すべて重要なのは、『時』です。 すべて、『時』に拠って真実は顕れ、ウソは暴露されるのです。 今は、どう云う時か? インド仏教界と同様に言うならば、 末法時におけるありさまの日本。 あはっは。 まさしく時空観において仏教よりも低い外道の近代化に誤魔化され、 グルメ三昧、他人の精子や卵子をもらわないと子が作れない、、、 命をつなぐ食には、遺伝子組み変え、化学物質が塗(まぶ)せられ、 体を清潔に保つには、仕方なく経皮毒を浴びねばならず、 科学の恩恵さまさまの現状を、やっと生き抜いておりますが? ひょっとすると死ぬ間際には、胃瘻と云うものを 外から直ぐに胃へ入れられて、 いつ死ぬのかも、他人に管理されるかもしれません。 あはは。 命を物と見る低い生命観の科学の御仕着せを、 うんざりしながら、もう、飽き飽きしています。 あはは。 ほ――、あまり悪態をついていても、面白くありませんから、 この辺で,、、ほほっ。 今回、記事の更新が遅れまして申し訳ありませんでした。 一昨日から、富士の1~5合目登山で、 渋滞やら五合目の寒さで、帰りが予定より遅れました。 まだ、頭の中は富士の山中を彷徨っております。 ほほ。 今日の記事の続きは、 【 東洋思想 7 】以降に廻したいと思います。 次回は、 今までの記事へいただいたコメントへのお返事になります。 よき、一週間をお過ごしになってください。 あ、今日の金環食は、我々の干からびた意識へ、 無意識からの『陰』の存在感を知らしめた 『天』からの見せしめのショウだったように思います。 『太陰』へ感謝をしましょう。 大地へ感謝をしましょう。 大地へ、 ひどく、揺れないでね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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05/27 16:21 |
コメントへのお返事 1. 【 東洋思想 】 大事なものは意識には掴めないCategory : 東洋思想
富士山5合目、 夕暮れの景色 ![]() 5月19日 夕方6時ごろ。 雪がまだ残る5合目から頂上方向を望むが見えない。 ( 上の稜線の向こう側に頂上がある。) 大概の山は、上ったり下ったりしながら頂上に着くのですが、 富士は、下りがありません! あの容ですから、上る、上る、一方ですが、 堂々とした富士へ体ごとぶつかって行った心地よさがありますよ。 雪の壁面にラクガキ、、、マリコ だって? あはは。 もうひとつ、 ![]() あの富士山の容、頂上に続く斜めの稜線。もう高い樹木はありません。 足元は、砂礫層の黒い砂。 海辺の砂浜を歩いているようなザクザクズルズル感です。 7月の山開きまで、富士は、まだまだ冬です。 5合目は、手が冷たくて悴(かじか)む程、さむかったです! 8月に、5合目~頂上で、ご来光、お鉢めぐり、の予定です。 今回から、しばらくの間、 今までにいただいたコメントへのお返事の記事になります。 今日は、次のテーマで、 コメントへのお返事 1. 【 東洋思想 】の記事へのコメントから 大事なものは意識では掴めない です。 意識は、理解をする事はできても、その実体は掴めない。 観念で解ったとしても、それは、前頭葉の中だけ、、、 それでは、どんなに大事なものも知識でしかない、、、 あ、今日は、最初からむずかしかったかしら? あはは。 知識は使わなければ忘れますし、、、 戦後の教育が、知識の詰め込みと言われる所以です。 知識を詰め込めば = 教育の仕事になるのなら、 な~んて、教師の仕事は、楽 ? だったはずです。 進学塾で、優秀児を教える事は、楽な事でしたよ。 まず、今の西洋的学校教育で教えるのは、西洋的学問の基礎知識です。 人が、研究して作り上げた知識の山を覚えさせる事になるのね。 それらは、『陽』のカタマリですから、、、 あはは。 時代によっては古くなり、間違いだった事にもなります。 命を懸けて学ぶほどの事はないのです。 一つの処世術、ないと生きにくいから、それはそうです。 だから近代合理主義は、頭だけで”解った!”でいいのね。 テストをして100点だったら、一応、解かったとします。 しかし、東洋的には、 人が、作り上げた知識の山を学ぶ前に、 人が生まれる前からある自然観や道徳観や人生観のコードだけを、 会得させました。 いわゆる東洋学の語句群です。 知識として覚えて、口だけペラペラしゃべっても、 ”論語読みの論語知らず”では困るので、 幼い子には初めから理屈は教えません。 理屈がある事すら触らないようにそっとしておきます。 なぜなら幼い経験のない前頭葉のシナプスが発達していない頭に、 理屈だけを入れても曲解が生まれるだけ、、、そうなれば、 後からの修正が大変なだけです。 余計な枠を分らない内からハメる事もおかしいでしょう? 棒読み、丸暗記で、ダビンチコードならぬ、東洋コードを、 口調のリズム感と、語句の持つ音調で繰り返し暗誦させるだけです。 ( 東洋コード= 儒教や仏法の経典の定められた意味を持つルール体系の一節など。 ) ふしぎな事に、 そのコードが口の筋肉と耳の筋肉にストックされていると、 それからの人生の途上で、ぴったりの状況に遇うと、 じわぁ~と、そのコードが体から心に響いてくるのです。 勝手に口の筋肉が動いて、過って耳が聞いたように口をついて出て来る。 その時、初めて内包されている意味が、心身に領解できるのです。 五感だけの知識ではなく、無意識に通じる智恵としての再現です。 知らずに身『業』として体感するのですね。 体が、ほら! これだよ! と大脳へ知らせるのですね! これで、初めて本当に分かった事になります。 東洋の精神と肉体がバラバラではないと云う事が正しいからです! またまた、心身一体での「 解かる 」 = 会得する為の方法として、 古代インドからあった、修行と云う方法もありました! 東洋は、無意識の中の大事な事を重要視して来ましたから、、、 だから、そうする教育方法を採ったのです。 絶対に詰め込まない。 智恵としての教育法です。 これが正しいのです。 これらも東洋的叡智と言えると思います。 と云う事で、、、 ―――大事なものは意識では掴めないのである。 それだけ、現に目の前にある西洋文明と、 我々のDNAの中身は大違いなのです。 お分かりいただけたかしら? ほっ。 では、5月22日の一番新しいコメントを紹介します。 ” はじめまして。 最近、こちらのブログを知ったのですが、 私が今までないがしろにしてきた大事なものが、 ギュッと詰まっているブログだなぁと感じています。 現在の私にはわからない記事も多いのですが、 いろいろと勉強になることを書いていただき、ありがとうございます。 今回の東洋思想シリーズは、とても面白かったです。 私は無宗教ですが、弟が仏教系の幼稚園に通っていたおかげで、 お釈迦様の物語の本や漫画が家にあり、 子供の頃にその本を何度も読んでいました。 そのせいか悟りに興味があり、 ブラフマンとアートマンの事は、何かの本で読んだ記憶があります。 苦しい事があっても、この体験が肥やしとなり、 いつかは悟る時が来るかもしれない…という、 希望のようなものが心の中にあります。 でも、現代社会では悟りや解脱が、ただの自己顕示欲のためや、 ビジネスのためになっているようで、とても残念に思っていました。 釈迦は、自らの仏法の功力の消滅を予言されていたのですね! >これは、人間の本質を観抜いたすばらしい覚者の智慧です。 とても感動しました! 東洋の叡智に憧れます。” 率直に感想を述べていただきまして、 此方の方こそ、ありがとうございます! 感謝申し上げます―――! ”私が今までないがしろにしてきた大事なものが、 ギュッと詰まっているブログだなぁと感じています。” ギュッと詰まって ? そう言ってもらえると、 ほんとうに、うれしいなー! ほほ。 ”今までないがしろにしてきた大事なもの ” ――― 大事なもの。 この世には、本当に唾棄したくなるモノも多いけれど、 大事な尊いものも厳然とあるのよね。 しかし普通は、 大事なもの、尊い存在と云うのは、 意識( = 心)では掴めそうで、掴めない。 まったく、意識には手が出ない。 尊い大事なものの根っこは、無意識の領域だからです。 だから、学校教育で幾ら良い成績を取ったからって、 人生で何が大事で尊いのか掴めていないのです。 つまり、大事なものは、 意識(五感)では感じられない世界にある。 目でも、耳でも、どんなに感性豊かな感覚器官でも掴めない。 どんなに感覚を研ぎ澄ませても、 無理です。 逆に、感性豊かな感覚器官が邪魔をすると云う事もある。 なぜなら、人が、人間に生まれて後に作った価値じゃないから、、、 それは、人が作った知識じゃないから。 自然界にもともとあった摂理だから。 人間が集まって村を作る前の原野。 風土と云う、天と地と風が吹き渡る空間だった時から、 人が稲作を始めて、国ができる前から、 それより前から、ここに、この世にあったものです。 その力の調和によって人間は生まれて来たのです。 あえて言うなら、命が出て来た処です。 その頃は、まだ人間の欲望は自然に調和をしていた。 調和をしなければ生きていけない状態だった。 生命の危機を乗り越えて次第に自信を持った人間が、 その調和を崩す程の欲望を持つようになって、、、 自然と人間を切り離した自然観を持つ西洋文明の中で、 徐々に、欲望が、人間より前に出て主導権を握るようになった。 それは、技術と知識の獲得と、経験による意識の発達でしょう。 自然を切り離して、調和を無視して暴れる西洋の意識、、、 その際限のない欲望は『陽』の炎ですから、 欲望に煽(あお)られて流転する心は、大事な事を覚知できない。 と同時に、 欲望を満たした慢心した心にも、大事な事は覚知する事はできない。 じゃあ、空の雲の形や、きれいな虹に神のしるし= 大事なものを見るのは?? 暴れる欲望と自然の調和には、到底役に立ちそうもありませんね。 綺麗な絵本の夢のイメージを、無邪気に求めても、、、 大事なものは手に入らない。 一瞬、自分の意識・心が気持ちよくなるだけの事です。 まるで、それは、教会のステンドグラスの神の国のイメージと同じ、 それは、まだまだ、人の意識が作った世界でしかありません。 そこでは、本当に大事なものは掴めません。 その点においては、古代インド人の方が、賢かったかもしれない。 無意識を覚知する為に、 欲望のままに動き回る自分の感覚器官を鎮(しず)めようと、、、 その無為無欲の静けさに入る為に、古代インド人は森の中へ入ったのです。 大事なものを掴もうと思ったら、 まず、荒れ狂う自分の五感を鎮めましょう。 その奥に大事なものはあると、古代インド人は知っていたのです。 それから、約2500年後、 そのやり方と全く相反する現代文明の中に、我々はいます。 我々は、欲望が叶った天界の喜びを「自分の心」で味わいたい。 その為に、『陽』の知識を学んでナンバーワンになるのが、 一番、しあわせになれるんだって信じてますよ。 何の事はない! いつのまにかキリスト教の天国を目標にしているのね! これは、クリスマスやハーロイン、バレンタインから感染したのよ。 異教のモノで、遊びのつもりが無意識から染められると云う証拠です。 具体的に言いますよ! あはは。 外の世界からは、 私達の五感を刺激しようと、 人に、欲望を起こさせようと、手を変え品を変えながら、 あはは。 私達の感覚器官へ訴えかけて来ます。 つい乗ってしまって? あはっは。 乗るどころか、あれは、好かった!って? もう一度! あはっは。 自分から、意識を楽で満たすものを探して 目を皿のようにして、鼻をピクピクさせて、 生きているのが、現代人の特徴です――! あはは。 しかし、そう仕向けるのが、現代の物質文明、情報文明です。 ただ、チョコレートを贈っていただけなのに、、、 意識の満足を最高価値に置く現代文明は、 前頭葉が勝れていると云うのが、今の世の最高価値です。 意識だけを認める西洋合理主義の求める価値観のセオリーは、 そこですから、 今の社会を肯定し続けるには、常に意識を発達させて、 今より上位のロジックを構築する前頭葉がいるのですよ。 自分の欲望達成の為には、 いかに自分の感覚器官を総動員して自分の意識を使い分けるか? いかに多くの知識を覚えて、それを使えるようになるのか? 知識を繰れる人が、成功者 ? なのです。 それは、ある意味、自然に勝つべきロジックを構築するだろうし、 相手に勝つべきロジックであったり、 一番は、社会を巻き込むロジックを構築できるかどうか、 その為の武器になる知識を持っているかが、ポイントになる訳です。 でも、この武器である知識は、すぐにボロになります。 古くなるのね。 『陽』の宿命です。 『陽』は、『時』には勝てない。 すぐに無常の無残な姿をさらします。 あらゆる知識が、技術が、理論が、風化します。 それを追いかけなきゃいけない現代は、すべて使い捨てです。 忙しくて、ゆっくりする暇もないわ。 何が大事なのかなんて、後からにして! 今忙しいのに! そう云う声が聞こえて来そうです。 あはは。 先端の知識を使える前頭葉力を持つかどうかの価値観の体系化、 ピラミッド型のヒエラルキーが厳然と、出来上がっています。 国際的な外交戦略、領土の奪い合い、 世界にまたがる経済戦力、金融市場のあけくれ、、、 そうそう軍隊を出せば、お互いにリスクを負いますからね。 相手をナンバーツーへ追い落として、我が「ワン」になる! 犬になる? あはっは。 ソフトバンクとは、ちがうの。 ナンバーワン! どう云う力で追い落とすのかと云えば、 思い出してみて ! 意識は、『陽』の範疇、その『陽』の極みは国家権力です。 その上が、大国間の覇権の競争。 それで、しのぎを削るのが『陽』の現場です。 闘争、競争、弱肉強食、、、 ただ生き残る為に、他に勝つ為にやっているだけ、 欲望を満足させる現場には、大事なものなんて無視する方がいいのよ。 これが、近代合理主義の社会における成功者です。 でも、これは無意識界から観たら、失敗者なのですよ。 無意識を捨てている実感を失っているだけでなく、 その事自体が、罪悪なのに気が付いていない。 なぜ罪悪か? 無意識下にある尊いものを抹殺しているからです。 上の富士の写真のように、 富士の山の中では、富士の容は分からなくなります。 意識の中に閉じこもる事で、 自分が生まれて来た根本のエネルギーを忘れている。 自分の意識中心、自分が意識の中にいるから、見えなくなっている。 ほんとうに気の毒に思います。 ”現代社会では悟りや解脱が、ただの自己顕示欲のためや、 ビジネスのためになっているようで、とても残念に思っていました。” ほんとうに、そう、 その通りですね。 とってもいい感覚をお持ちですね! 私も、この現実を無残だと思っています。 知識レベルですら、信頼できるモノも人もいない。 前回述べた、これが末法時のありさまなのかと認識をしています。 そして、大事なものを教えるのもお金。 全てをメシの種にする根性が、物質文明に染まり切っていますね。 あはっは。でも、 その点、西洋思想は、便利ですよね! あはは。 意識の中をかき回していたらいいのだから、、、 西洋は、”神は死んだ”とか、 (ニーチェです) しかも教会には、神は未だに居る風になっていて、 それはそれなりに、役割を持たせて、新しい〇〇ismを作る。 あはっは。 いつも言うのですが、西洋は、近代化、近代合理主義を作って、 まだ、その収拾もできていないのに、 えっ? 次は、ポストモダーン ? ポスト(過ぎ去った)なんて! 次は構造主義? なんだかんだ言いだして、またまた、メシの種ですか? あはは。 しかし、その●●主義も人の作った『陽』ですから、 西洋においても、その『陽』の苦しさからでしょう。 哲学や思想や〇〇主義、〇〇ismを次々考え出すのは、 自分たちが、まず苦から解放されたいのが本音ですね。 ほほ。 これ以上、意識の中をいくらかき回しても、 地球上、人を救う思想は出て来ないでしょう。 次は、東洋の番にさせていただきたい。そう願っています。 東洋は、意識の中なんて、そんな狭くはありませんもの。 東洋思想のめざすリアリティは、 我々の五感で捉えられる世界よりも、もっと奥へ迫るのですね。 ”釈迦は、自らの仏法の功力の消滅を予言されていたのですね! >これは、人間の本質を観抜いたすばらしい覚者の智慧です。 とても感動しました! 東洋の叡智に憧れます。” あら! うれしい言葉ですね。 私も、 過去、知らないまま東洋を横へやっていた自分がおりました。 しかし、知れば知るだけ、この叡智に脱帽せざるを得なかった。 東洋に惚れたのですね。 あはは。 東洋を知れば、西洋や、今の時代が、よく分かるようになります。 東洋には、すべてが包含されてあるようです。 無意識を本地とする東洋は、全体を俯瞰できるのですが、 意識の西洋は、部分部分のバラバラの展望しかできないのです。 だから、東洋的なものは、とっても、楽しい事です。 釈迦の仏法の功力の事は、これは、また大変な事よ。 あはは。 また、いつか、少しづつ記事にしてみたいと思っています。 その時まで、お待ちくださいね。 今日は、もうひとつコメントを取り上げたいと思っていましたが、 長くなりすぎた感じで、 これは、これで終りましょう。 次も、コメントのお返事です。 古いコメントからになります。 何かひとつでも、あなたの故郷である東洋の思想に触れて、 強いアイデンティティのようなものを感得してください。 東洋を知れば、その智恵になつかしさが込み上げて来ます。 思想は人を作ります。 けっして世間に付和雷同をなさいませんように。 自分の核をお持ちになってください。 よき一週間を。 来週は、連泊で信州の山々をトレッキングします。 更新が、ずれます。 ご了承ください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |