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06/07 16:59 |
コメントへのお返事 2 . (命の継承と運命 5.) 支配と云う言葉 ・ 家族編Category : 西洋と東洋の違い
3月20日の早春の富士
![]() 写真をクリックしてみてください! 富士山全体を見る事ができます。 更新が遅れましてごめんなさいね! ニリンソウの群生の間、雪渓のまだ残る山道、沢の急流を歩いて渡り、 山小屋の囲炉裏でイワナを食べ、時には雨に降られながら木々の間を、 上高地を中心に歩き回って来ました。 体中の細胞が、都会の汚れた空気を吐き出したようで、、、あはは。 しあわせです。 ほほほ。 写真は、まだ、その内に、、、 今日は3月の富士でございます、、、。 あは。 では、コメントへのお返事の記事を続けます。 今日は、次のテーマで、 コメントへのお返事 2. ( 命の継承と運命 )5.の記事への コメントから人の支配欲について です。 今日のポイントは、 言葉のカテゴライズに気を付けて! カテゴリー【category】 = 物事を一定の基準に基づいて分類した区分の事で、 分類、分野、区分、種類などの意味の英単語。 カテゴライズ 【categorize】 = 意味を分けて、ある囲ったカテゴリーに入れる事。 分りやすいのが病院です。 近代合理主義の学問の医学は、人の病気を治すのに、 ○○科、○○科、と体を部位別に分けていますね。 西洋医学は、 体を分解した部品のように意識でカテゴライズするからです。 しかし、東洋の中医学では、命を一つの全体として診ます。 一人一人の体質を見分ける事はしますが、 ○○科などの診療科目はありません。 それほど思想の宇宙観、自然観、人間観、生命観などの認識が違えば、 現実の生き方や行為や方法、制度や法律まで違って来る事になります。 あー、今日も最初から理屈っぽくなりましたね! あはは。 西洋近代合理主義下の言葉は、 それぞれのロジックから派生した言葉ですから、全部理屈です。 しかも、人が自然を無視して無理やり作った“へ理屈 ”です。 草木や山や海の自然から学んだカテゴライズではありません。 この言葉は、このロジックの中の、、、こう云う言葉、、、とか、、、 人が作為した研究途上の意味合いが強くて、 わざわざ条件や言い訳など拘らなくてはならないのです。 いつも書きながら、飽き飽きして来ます―――。 あは。 あー、それに比べると儒教や仏教の言葉は、山が、川が、と言えば、 山や川が思い浮かぶように、それだけで分かる! なんと、楽な言葉でしょうか!!!!! 本当に、東洋を真髄から受け入れる事ができます。 大好きです。 大人は、こうして面倒でも自分の意識の中で区別をし、 自分なりのカテゴライズを試みる事もできます。 が、子供たちは、鋭敏な感性でそのままを受け入れるでしょう。 何の自分なりのカテゴライズもしないままで吸収して行く。 それで良い事なのか、おそろしい事なのか? では、今日のコメントから紹介をします。 2月10日の拍手コメントです。 私も親、子供を自分の支配下に置こうとした錯誤を していたと思います。 今でも創っている作品(それだけでなく、沢山ありますが・・) にもそれは当てはまる感じがしています。 なぜ、人は支配下に引き入れようとするのでしょうか? 短いコメントなのですが、大変な内容ですね。 我々の住む日本で、 『陰』の崩壊が、現在、どこまで進行しているのか? 普段何気なく使っている言葉のカテゴライズから垣間見えます。 一回の記事のお返事で、終らないでしょう。 なぜなら、コメントの内容が、3つに割れています。 1、家族、親子の観点から、 私も親、 子供を自分の支配下に置こうとした錯誤をしていたと思います。 2、物に対する観点から、 今でも創っている作品(それだけでなく、沢山ありますが・・) にもそれは当てはまる感じがしています。 3、人間としての観点から、 なぜ、人は支配下に引き入れようとするのでしょうか? 最低2回の記事に分けてお返事を書いてみようと覚悟しています。 ほほ。 西洋思考のアホなへリクツを、できるだけ排除したいですね! できるだけ東洋的セオリーで書きたいと思っています。 あはは。 では、まず、1.からです。 私も親、 子供を自分の支配下に置こうとした錯誤をしていたと思います。 これは、大抵の親になった方なら体験された事かも知れない。 これは、支配ではなかったはずですよ。 そこまで、ご自分を責められる事はないでしょう。 あなたが、全存在を賭けてお産みになった我が子を、 母親の愛情でお育てになった事を、なんら後悔する必要はありませんよ。 あなたが、心から止むにやまれぬお気持ちから、 我が子を、おもいっきり打った事があったとしても、です。 すべて、あなたのなさった事を一緒に共感したいと願っています。 全ては、正しかったのですよ。 母の愛情に、子を思う愛情に間違いはなかったはずです。 その結果が、あなた以外の人間から、 もしくは、直接子どもから ” 母親は、子供を支配できない!”と、言われたとしてもです。 子どもと云う者は、親がどんなに束縛をし、支配をしようとしても、 それを跳ね除ける力を持っている子供は、立派に自立して行きます。 中には、極マレですが、それを跳ね除けられない子供もいますし、 一生、自分のむすこを手放さない母親もおります。 育ってしまって(運命が現象化して)から分って(意識して)から、 ” おまえの育て方が悪い。おまえの教育が間違っていた。” 父親の中には、こう言う方もおりますが、 これもそれも、全部、育て方だけではない。 持って生まれたその親子の運命です。 運命学的には、生れたその日に鑑定したら分る事です。 今、お子さんが立派に自立をなさっているのなら、 すべては試練として良い結果を導くプロセスだった、良しとなさって、 自信を持って、ご自分の子育てを肯定なさっても良いでしょう? 母親が、我が子に云う事を訊かせたい、そう思うのは当たり前。 これらは全部、無意識・『陰』の仕業です。 それが、 領土や資源が欲しくて、自国の国益の為に他の国を侵略したり、 同じ国の中でも、思想が違うと云う理由で国民を弾圧したり、 民族同志の争いから武力で相手を制圧し支配しようする権力と、 どこが似ていると云うのでしょうか? 同じだと云うのでしょうか? これらは全部、前頭葉・『陽』の役割です。 生を守る生産性の効率を求め、競争に勝たなければならない。 これが原始より、前頭葉が発達して来た目的でした。 そして、より高い効率を求める意識が集まれば、競争が生まれ、 弱肉強食の闘争が繰り広げられます。 それが、『陽』の現場です。 男女の役割で云えば、男性の役割です。 この生の現場『陽』の闘争の中で生れる言葉が、 支配、被支配、征服、被征服と云う言葉です。 相対する2極を分離、分割で表すような言葉ですね。 非常に隷属的な、相手を奴隷に遇するようなカテゴライズの言葉です。 そもそも、 物事を一定の基準に基づいてカテゴライズ(分類)するのは、 我々の意識です。 我々の前頭葉が認識をしやすい範囲で、取り込みやすい様に、 つまり取捨選択をしているのですね! 我々が、あまりにも多くの情報があるので、「情報を取捨選択する。」 あのようにです。 自分に取って困難なもの、 要らないと思った情報は、見ないようにする、 子供にも、害がある情報は遮断しようとする。 あれですね! 自分の意識できる能力には限界がありますから、 それはある意味、意識は自己を守っているのですね。 だから、まずは、今の自分に役立つ情報を積み上げて行く。 そして、目の前の目的に全力集中して行く訳です。 これは、生きて行くには必要な手段ではあるけれど、 自分が、常に正しい真実をそのまま掴んでいるのかと云うと、 問題ありです。 問題を積み残しながら、我々は、意識の海の中を泳いでいる訳です。 意識の周りには、不要だと判断をしたものが捨てられてあるはずです。 山のようにゴミのように積み上げられているかも知れませんね。 どこに? 無意識の領域へひそかに沈んで隠れているはずです。 その打ち捨てられた全ては、本当にゴミですか? その中に、我々の命に直結する尊きものが、無いと言い切れるのか? 尊きものは見えない、触れない、聞こえない、意識に触れない。 前頭葉の意識の外に、我々を生み出した世界がある事も忘れ果てて、 意識の世界以外は無い! と言い切る近代合理主義のロジックそのものが、 誤謬を孕み、罪悪だと前回、申し上げたのです。 もっと言うならば、 近代合理主義の言葉は、罪悪を孕みながら全体を切り分ける思想、 ほっ。 それは、この宇宙を、自然と人間に切り分けて、 人間を、肉体と精神に切り分ける。 その切り分けを行うのが前頭葉の理性( 五感の感覚器官、心 )、 この世界のヒーローは、人間の理性である。 と云う舞台設定です。 そのヒーローである近代理性が産んだ子が、 近代国家、政治学、経済学と云う学問、、、皆が、その申し子です。 意識できる世界以外は、無い! その認識から出来上がった言葉です。 五感で覚知できる世界しか無い、、、とするなら、 花や木や空にもしや心があったとしても、覚知できないのですから、 覚知できないものには全て、心がないと切り捨てる。認識をする。 故に、 意識に覚知できないもの全て、が、「物」になるのです。 だから、 この近代理性は、自分以外を、すべて「物」として認識します。 自分の肉体も命も自然も地球も「物」と認識をします。 現文明は、物質文明なのです。 命も、部位、部位ごとの切り分け、部品としての捉え方です。 これは、あきらかにまちがっています。 きんだいりせいのにんしきは、あきらかにまちがっています。 よほど西洋は、思うままに獲物を支配したかったのだろうと思うわ。 西洋合理主義の理性が憧れていた世界は、 狩猟で仕留めた獲物に山と囲まれる夢の世界だったのね! あははは。 のんきな日本は農耕の鍬や鋤を捨てて、 西洋の狩猟キャンペーンに丸腰で参加している構図です。 ほほっ。 狩猟犬の役割なのかな? あはは。 このキャンペーンは、 西洋の意識が獲物に山と囲まれて安心するまで続くでしょう。 と云う事は、果てしのない狩りの猟犬になってしまったのね。 あら、どうしましょう? あはは。 我々が、知らずに使っている言葉は、 この狩猟キャンペーンの正当性を証明するロジックから出て来た カテゴライズされた西洋の魂が入った言葉です。 あら、どうしましょう? つまり、『 我の理性が物を支配する思想 』なのです。 つまり、そう云う認識でカテゴライズした言葉に浸されて、 私たちのビジネスの交渉の場面だけではなく、 私たちが家庭の中で、家族や命を考える時、 そのような認識でカテゴライズされた言葉が、 我々の思いの中へ入って来るわけです。 むずかしいかな? だいじょうぶでしょうか? しかし、支配や征服は、まったくの虚構の言葉ではありません。 そうカテゴライズされる世界が、現に『陽』に存在するからです。 『陽』の現象としては実体がある言葉です。 しかし翻ってその実体が、『陰』の現場である、 親子や、夫婦や、兄弟の家族間の人間関係の中にあるのでしょうか? 本来、あってはいけません! 違ってほしいと思います。 これらは、厳密に区別しなければいけませんね。 が、、、 これを、 余程しっかり、それらの違いを客観的に捉えるようにならなければ、 自己の意識が行き詰まった問題を、 ついつい西洋的二元論のロジックで、眺めてしまうのですね! 一つ、今、恐れるのは、 『陰』の世界であるべき家族や家庭の世界へ、 良いも悪くも、『陽』の論理が侵入している事です。 家庭の中や、家族の中で、 効率と競争と打算と順位の価値観が大手を振って入り込み、 それらが、主役のようにまかり通っているのならば 『陰』の衰亡 = 『陽』化した家系、絶家に向う家系になります。 実はこれが、今の日本の深刻な問題なのです。 『陽』の意識が『陰』の深部まで侵入している標(しるし)です。 ここが、一番、私達が警戒しなければいけない事です。 その原因は、近代化によって失った精神的基軸、 我々の命の継承を守る『陰徳』でカテゴライズされた我々の言葉、 命の継承を守って来た言葉群を、道徳的観念と共に、失ったからです。 その言葉群を捨てて、『陽』の殺戮を認める言葉を使い出している..... 我々が、失った言葉の替わりに使いだした言葉が、 近代化以降の思潮にカテゴライズされた2者対立の言葉群なのです。 これらは、142年前に、 軽々しく丸ごと西洋の近代化を受け入れた時から、 精神的基軸が無くなった時から、 起こるべくして起こっている現象だったのです。 子どもは、近代化以前の社会を知りません。 それ以前の日本を知る親に育てられていません。 我々よりもっと近代化のロジックに染まっています。 「ぼくの事は、ぼくの自由、何も言われたくない。」 「誰を好きになろうと私の自由、束縛しないで! 」 「親の愛情は無償でしょう? 私に期待なんかしないで! 」 「子どもは、親の所有物じゃない! 」 あはっは。 今の子供たちは、見事に全員が、 全身に、近代化の価値観をぶらさげて実践していますわ! それは、そうです! 彼らは、心の休まらない『陽』の闘争の世界の真っ只中に、 生まれて来たのですから、 大人よりも『陽』の原理を身に付けています。 ここが、本丸なのですよ。 国を守る最後の陣地、なのですよ!! 『孝』の匂いもない大地に立つ彼らが、栄えるとは思えません。 『陰』の体現の場である家族や家庭は、 自己犠牲も厭わない愛情や血縁関係で結ばれている尊い空間です。 ここでは、社会で認められなくても家族には認められていると云う 相互の自己の存在感の実体があり、それを守り合う場なのです。 社会で、どんな目に遇おうが、その場に戻れば自己が蘇生できる。 効率を排除した競争原理の働かない場でなければいけないのです。 それそのものが、『陰』の徳性です。 その家族や家庭の徳性を見抜いていたからこそ、 東洋の叡智は、儒教が、道徳を人の生き方として説き、 家族倫理を徹底する事によって、 『陰』の世界を、闘争と効率の野蛮な競争から守って来たのです。 おれは、おまえを支配する。 そう云う野蛮性をエネルギーにして、如何に人の徳性にまで高めるか? まず、東洋3000年の歴史、叡智は、、 人間関係で、支配する、される、と云う捉え方はしていません。 孔子の儒教においては、 それを人間の徳性を以って行動できるように、 『陰』の尊厳性を守る『孝』としての行儀、躾として、 仁、義、礼、智、信の五徳が成立します。 ある意味美しく融和的に、人の無意識から湧き起る智恵として 権力関係の上の立場である主に対して「義」をもって「忠」を、 尽くすように教えて来たのです。 「仕える」も、 尊崇を以って主人に従うと云う事です。 その為には、主人も徳を以って業を行わなければならない。 どちらにも、そう云う縛りはあるのですよ。 あはは。 双方の徳性を高め、 陰徳に通じる価値を与える智恵がちりばめてある言葉群です。 徳と云う誰もが尊崇できるカテゴライズされた言葉で以って、 『陽』の本質の野蛮性、破壊性から、 命の場である『陰』の領域を守り、 『陽』の侵入を、阻止して来たのです。 あるいは、東洋の仏教では、 それらすべてを、「苦」と捉えます。 支配される側も「苦」なら、支配する側も「苦」なのです。 仏教は、苦の原因を追究しました。 その苦は、どこから出て来るのか? これは、大きなテーマですが、西洋ほど理屈をコネテはおりません。 あはは。 苦の原因は、たったの3つです。 あはは。 これのついては、今日は省きます。 いつか、また、、、。 日本は、封建制度の長い徳川時代を経て、 封建制度からの解放を願うエネルギーが溜まっていたのでしょう。 物が欲しかったのですね! 技術も! 飛びついた? あはは。 そう思えば、近代化の拙速さには、江戸幕府の罪もある。 とにかく近代化と共に142年間、 日本中が、自由だ権利だ平等だと幻想を抱きしめている間に、 西洋の征服と支配と欲望を肯定した近代合理主義の『陽』の論理性は、 今や私達の家族や家庭の中に浸透しています。 とうの昔に失ってしまった社会道徳や家庭道徳の崩壊のせいで、 なさけない! 我が身や我が家を守る危機に立ち往生しています。 家族や家庭が、 権利を主張し、効率や経済の奪い合いの闘争の現場化に なりませんように、、、、、、、 親子間や、夫婦間で、 二元論的対立構造の家族関係が生まれませんように、、、、、、 人の命を殺め、国を崩壊をさせる思想の事を、仏法では鬼神と言う。 何が、鬼なのか? よく見定めて、これを警戒して追い出さなければ、 (鬼は、そと~!) 節分だけじゃないわね。 国の砦、最後の陣地、 どうか、それぞれが、自分の場所を死守なさってください。 最後に、しつこいようですが、 3000年間、東洋が守って来た『陰』を守る砦、 『孝』を最高価値とする道徳なのです。 道徳は、めんどうなものですが、 『陽』の現場の効率主義や競争原理の弱肉強食の論理を 食い止める事ができるのが、唯一、私達の道徳性なのです。 ここを守らなければ国は亡びると思います。 だからこれを書いています。 国の力は、経済力ではありませんわよ。 経済が大事と云うのは、枝葉の問題です。 根ではない、根本ではないはずです。 そして、経済以上に、それ以上に、 守るべき何物も持っていないからです。 家系もそうです。 貧乏で絶家にはなりません。 道徳を犯すからです。 更新が不定期になっております。 次は、来週の週末の予定です。 それまで、良き一日の積み重ねでありますように! -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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06/17 12:05 |
コメントへのお返事 3 . (命の継承と運命 5.) 意識が生む支配Category : 西洋と東洋の違い
5月7日の雲のベールをかぶった富士
![]() 写真をクリックしてみてください! 富士山の右端までが見る事ができます。 3月の時より雪が上の方まで融け、 頂上は薄い雲のベールが被さって、、、野にも新緑が目立っています。 本栖湖の湖畔 ![]() 写真をクリックしてみてください! 本栖湖の右湖岸まで見る事ができます。 さぁ、今日も、 2月10日の拍手コメントへのお返事への続きです。 コメントへのお返事 3 . (命の継承と運命 5.) 意識が生む支配 です。 では、前回のコメントの次の部分から、、、、、 2、物に対する観点から、 今でも創っている作品(それだけでなく、沢山ありますが・・) にもそれは当てはまる感じがしています。 3、人間としての観点から、 なぜ、人は支配下に引き入れようとするのでしょうか? 今日は、思いっきり東洋的セオリーでいきましょう! まず、2の「物に対する所有欲」からですね! 愛着と云うのでしょうか? これは、多少差こそあれ誰にでもあるものですね! ほ。 その対象は、人それぞれ。 マニアック・偏執的な病的なものもあるようです。 ご自分の作られた作品、当然、手放したくはないものですね。 売ってくれと言われても売りたくない、、、 それは、それで、誰にも迷惑をかけないし、 素直にその気持ちを大切にされたらいいと思います。 そう云う所有欲は、気が済むまでやってみたらいいと思うのです。 いつどうでもよくなるかな? 自分の心が移ろっていくのを冷静に見るのもおもしろいです。 ほほっ。 本来の人間としての自分を見失って、 外界の現象に反応する自分の意識に溺れそうになるのが、 現代人です。 無意識が無いとする近代合理主義のもと、現代では尚更です。 ある喪失感があると、 そう云う自分が好きになれない時、 誰かの愛(そこに本当にあるのかどうか?)を欲しがって、 愛かどうかわからないのに、自分の処に止めて置こうとする。 自分に満足していない時、 何かを集める満足感で代替したりするのです。 コレクターとか、 病的なフェチとか、、、 そんな喪失感を持った意識が、他にない物を集める事で、 なんとか自分の価値を証明したい、しようとする。 意識は、(意識自身が五感の刺激でもたらされているのですから) まさに、自分自身の中、自分の五感の中へ、 満足をさせてくれる外界の刺激の中へ、それを求めます。 男性の夜の飲食店の徘徊? あはは。 車や持ち物。 それが、分りやすい物の所有欲です。 女性のおしゃれ、ショッピング等も、所有欲の簡単な満足ですね! そのどちらにも傾かないで、 自分の調和を調えていけるかどうか? それは、命式の中の五行のバランスに関係がある事なのです。 次は、3の人間としての観点から、 なぜ、人は支配下に引き入れようとするのでしょうか? これについては、 (意識の正体 2.現実主義の意識 ) 学問の知識で人生を考えてはいけない 12 の記事において、 次のように書いています。 このように感想や意見を言うだけなら、 意識で済ませられる! のですが、 しかし、物事の正しさを客観的に見極めるには、 西洋的知識は当てにできない。 のです。 なぜなら、意識は純粋ではないからです。 生きる為の欲望に染められて、それはそれで役には立つのですが、、、 エゴイズムによって刻々変わって行きます。 そう、現実の自分の状況に応じて、刻々と変化をして行く、 それが、私達の意識でした!!! ★ だから、意識は『時』を支配できません。 支配されています。 意識は、『時』の奴隷です。 と言う事は、すべての奴隷と言う事でしょうか? あはは。 そもそも、 理性は、五感から受け取る外界の刺激ですから、 所有欲や本能は、見えませんし、聞けませんし、味わいませんし、 ほほっ。 でも、意識を標榜する学者や知識人の人たちは、 さも全てを解かったような理屈を、、、言うわね。 あは。 本能がどうだ、、、 人の支配欲はどうだ、、、とか堂々と言いますね。 ただ、自分の五感が感じただけの事を、 さも実体を掴んだような気分になって、、、 あはは。 得意中の得意技! 自己製ロジックを言葉で構築します。 そう云うロジックが、政治家や学者の言葉にはあふれています。 理性は、そう云う言葉、言葉の合成ごっこがお好き? あはは。 これも、やはり言葉による競争、ですね。 そうそう、 自分は解からないと云う不安から解放されたいのよ! 分らないから、解かったようにロジック固めをして。。。 自他共に空理空論で煙に巻いて、結果的に時間が経てばウソになります。 困った事には、本当に解ったつもりなのね ! あーは。 意識は、真理を掴むのはできないくせに、 メシの種にするモチベーションに突き動かされ、 意識は、それが役割だから、それはそれでいいのよ。 あはは、 それを隠してキレイ事にする為に、深いリアリティを求めないのです。 ご都合よく、なんとでも言葉を変える。 それが、意識の為せる業、、、ウソを固める圧力。 それこそが、支配欲の本質の姿なのです。 だから、西洋発の近代理性は、 自分が、欲望をモチベーションにする限り、 とても、とても、支配欲を説明できる立場ではないはずですから、 ここは、東洋の叡智に助けてもらうしかないみたいです。 で、まずは、運命学からです。 運命学から、 近代理性を最高価値とする現代人を観ますと、次の5つに気が付きます。 ① 『陽』である、この世界がすべてだ!と、思っていますね。 近代合理主義による近代理性が、無意識・『陰』を切り捨てたからです。 ② 『陽』のこの世界は、現象世界だと云う事を知らないのです。 あー、地球もそうですよ、 それを覆う五行の力が、 太陽エネルギーでもって起こされる動きの現象が、気象と言われるものだし、 現象そのものなのにー、です。 水が氷になったり、火がついて木が燃える事、 あるいは、理科の実験で、試験管の中で起きる事、 皆既日食や金環食などは、天体現象だと分かっている? あはは。 しかし、 ③ 『自分の存在』が現象だとは思いもつかないのですね! 現象の存在だからこそ、 運命学で以って この世と云う現象世界で、 あなたには、どんな現象が出るのか? それが、運命と云うものです。 現象は、『時』によって表われたり消えたりするのね。 だから、『時』は大事です。 『時』は、宇宙の運行であり、『天』の差配です。 だから、運命学では、誕生年月日時で命式を立てます。 それで、あなたの運命鑑定ができます。 ④ 現代人は、 『陽』は、『偽』に通じ、無常である。。。と。理解をしていない。 此の世の五感で捕まえられる刺激は、全て『陽』で、 たとえ、どんなに美しくすばらしい刺激が五感で感じられたとしても、 いつか必ず消えて行く現象です。 現代人は、 ⑤ 中国3000年前に、もうすでにあった『陰』と『陽』の区別が分らない。 『陰』は、五感で捕まえられないけれど、生命活動の本体である。 そのエネルギーの現象としての『陽』がある、と云う事が分らない。 特に、現代思潮のなかには、『陰』が抹殺されていますから、 『陰』は、殊の外、その存在を理解するのは難しいようです。 この事は、男女平等と言いつつ、何かにつけて女性を慮っているようで、 真に女性の徳性や役割が理解をされていない現状だと云う事ですね。 又、ついでに申し上げますが、 『陰』を抹殺した近代理性が作り上げた大学での学問とは、 一体いかなるものなのでしょうか? 近代合理主義の行き詰りから、自由主義経済を反省して、 お金で買ってはいけないモノがあるなどと、 人間の倫理を言い出す学問が出て来ています。 近代理性が語る道徳とは、なになのですか? 『陰』を抹殺した近代理性が、『陰』の本体である道徳までを、 肩代わりして、根こそぎ支配をしようとするのですね! ★★★ 意識が、無意識の徳性までを支配する! 恐いなぁーー。 (これが、道徳を利用して、戦争を正当化した軍部のやり方でした。 まぁ、この時の道徳は朱子学が元で大した道徳ではなかったけれど) 意識のしたたかさに巻き込まれてはいけないのよ。 これが、『陽』・意識が何でも支配しようとする姿です。 『陰』・無意識すら支配をしようとする姿です。 なぜか? わかりますか? 『陽』にとったら一番の苦手は『陰』なのです。 『陰』には威張れませんでしょう? だって、『陽』は、『陰』から生まれたのですよっ。 あっはあ。 『陽』が都合の悪い事は『陰』が隠してあげているんだから、 まず、『陰』を押さえておきたいのですね! なんだか、人間の男女関係に似て、、、そっくり! あはっは。 意識もさるものなの。 意識のどこかで、 自分の外側にあるものは全て、自分のものではないと分っている。 (そりゃそうよ! 現象ばかりなのに、、、あはっは。) 一時的なもの。 と解かっているのです。 自分が大事に扱っている間だけ、ここに止まり、 手放すと離れて行ってしまう。 仮に、自分から手放さなくても、、、いつか必ず壊れる。 無くなる。 と、無意識に通じる心の奥底では分かっているのです。 だから、しがみつこうとします。 現象は消えますから、余計に自分のもとに止めようとする。 いくら止めようとしても消えます。 それを、また自分のもとへ止めようとする。 それが、支配欲の源であり、 所有欲、支配欲、欲望の原理なのです。 所有欲、支配欲とは、いつか失う物を追いかける欲、でしょうか? いつか、失うかもしれないと云う現実を見極めきれない愚かさ。 もっと突き詰めれば、自己の永遠の保障を求める貪欲でしょうか? この支配欲の弱さ、強さは、個人によって違います。 これを、命式から鑑定する事ができます。 今、私達を取り巻く近代合理主義を作り出したのも、 それから派生した知識も、技術も、法律も、制度も、学問も、経済も、 ぜ~んぶ我々の意識が作り出したものです。 絶対的なものではありません。 絶対的なものではありませんから、力を欲します。 まるで、神のように人を従える力を欲しがるのです。 それが、国では軍隊であり、命を殺戮する武器です。 これを、よーく覚えておいてくださいね。 我々は、いつか滅びる意識の作り物の中に生きている訳ですから、 それは、次また、いつ壊れて無くなるのか? 分からない。 地震でいつ家が壊れるのだろう? とか、 会社はいつ、私をリストラするのだろうか? とか、 それぞれの不安を根源とする自分の意識が生れます。 その意識の中から、 いろいろな語彙を使っていろいろなロジックが作り出され、 その競争が生まれる処、 それがこの世の『陽』現象界です。 『無常』の世界です。 この『無常』は、初期仏教から出た言葉ですが、 しかし、 西洋には、無常観がないのです。 !! ? 西洋の方が、カラッと平然と所有欲を実現する処がありますね。 侵略とか、他国へ干渉をするとか、彼らは平然とできるのでしょう。 そう云う意識が、西洋の表層を厚く蓋(おお)っていますね。 そして、キリスト教の天国、その実現が目標です。 だから困っちゃうのよ。 勝手に作ったロジックの自由の為だとか、キレイ事を言いながら、 欧米は、なにやかにやと他国を支配したがる。 あれの根拠となるロジックが、 天界以上を知らないキリスト教の教理にある。 そう思います。 慎み深い? 日本人 あ、ほほ。 にはできませんね。 『無常』の現象世界を『無常』とも認識できない近代理性の世界観を、 日本の国民は義務教育から学ばされています。 まいっちゃうなぁー。 『無常』と云う東洋の叡智も知らない近代理性は、 『常住』の世界も知るはずもない。 智恵のない欲望肯定の意識にできる事は、 飽くなき欲望のとりこになって、現象世界の自分の姿に満足したいの。 自分がスゴイ!って、自分の五感で意識する事なのですよ! 意識は、五感の満足を求めて必死なのだから..... 鏡に向かって、その姿に自己満足をして、大喜びをしたいの。 ディスプレイして、見せびらかしたり、したいのです! だって、その事も、競争に勝つ事になるのですもの、ね。 その為には、闘争、戦争、殺戮なんて平気! その根源には、 『陽』である意識が、生死の問題を解決できないまま、 その死への恐怖を、支配力のモチベーションとしているのです。 あ――、 まるで、あくまのろんりだわ! この地球を、悪魔から守って、 東洋の叡智で包まなければ、もったいないですね! この宇宙は、絶妙なバランスの上に成り立っています。 太陽との、月との、丁度の距離にある地球の位置バランス、 そのバランスに恵まれて、 私達の地球は、生命を繁栄させられる★なのですよ。 だから、運命学の基本は、均衡を尊びます。 均衡は、バランスです。 バランスがある処が、幸いの地であります。 政治や学問や経済は、『陽』の論理に汚染されていますけれど、 『陰』と『陽』のバランス、調和を図ってくださいね。 え、もちろん家庭、家族の中でです。 男女が夫婦となって『陰陽』の配置を為して調和をし、 命を継承して行く。 その事が、『天地』の道理、宇宙の営みと同じになるのです。 記事がうんと長くなったようです。 最後までお読みくださった事に、感謝です。 次回も、コメントへのお返事の記事です。 よき、一週間をお過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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06/23 12:05 |
コメントへのお返事 4. (あれから一年 2.) 量子物理学 と 東洋思想Category : 西洋と東洋の違い
早春の那須連山
![]() 晴天に恵まれて、大好きな那須高原へ行きました。 自然の色が、こんなにあざやかに! 空の色も、高原の色も。 ★ 写真をクリックしてみてください! もっと、雄大な那須連山が見えます! 今日は、昨年の 3.11を振り反った、 今年の3月18日のあれから一年 2 の記事に対して 3月25日にいただいた拍手コメントへのお返事です。 コメントへのお返事 4. (あれから一年 2.)量子物理学 と 東洋思想 です。 量子物理学(りょうしぶつりがく)? そう! 西洋科学の先端、量子物理学の方向性から、 お返事を書いてみようと思います。 ちょっと堅苦しい話題で、申し訳ないです――。 でも、だいじょうぶですよ! 私が分る程度、その範囲の記事ですから、、、 あはは。 むずかしい部分は、読み飛ばしてくださって結構ですよ。 それでも、記事の趣旨は、伝わるようにしておきます。 あはは。 まず、コメントから、紹介しましょう。 ① ② は、編集で付けました。 “ 『天』が少し理解できましたv これから ?あれから一年 ?? 読ませていただきます。 昼までに読めるかな^^ 震災翌日の記事も読ませていただきました。 勇気というか使命というか、感心しきりです。 ① 被災された方々みなさんに、同じ内因があったとは考えにくいのですが・・? ② 人生の不公平には 因果(無意識)が正しく働いているようには思えないのです。 あらあら、やっぱり理解できていないようです^^; ごめんなさい。” あはっは。 堅苦しい記事を、いつもお読みいただいて、、、 >勇気というか使命というか、感心しきりです。> あっら! お褒めいただいたようでくすぐったいわ! ほほっ! ありがとうございます! ① と ② の率直な感想! 感謝申し上げます。 そして、今回のお返事も、何回かに分けます。 大変な内容があるので、1,2回では無理かな?と思います。 その間にインターミションを入れて行きます。 堅苦しいのが、ず~っと続くのは疲れますでしょう? あはは。 ご了承ください。 少し解説をしますと、 ”あれから一年 2 ”の記事の中で、 天災、災害には、外因と内因があると書きました。 災害の内因、外因と云う事についてですが、 平たく言いますと、 災害や、自然の変化は、人間の心と一体であると云う考え方です。 ★ 一体であればこそ、 人間の業が、自然の業に結び付く事になる訳ですから、 内因、外因と分ける必要もない位です。 人間の内因と、自然界の外因が結びついて災害と云う現象が起こる。★ 東洋哲学の時空観から言うと、あたりまえ!!! あっは。 自然災害は、人の心の中に原因があります。 なかなか、こうははっきり言えないものですよ。 あはっは。 通常、近代合理主義の科学的な言い方では、絶対にできません。 意識を標榜する理性では、無理なのですね! 無意識の領域の存在を認めないからです。 これは、近代理性が否定した世界 無意識にわたる世界観を持つ東洋的叡智から出たものです。 東洋の時空観に自信があるからです! えへん!! しかし、現在のわたしたちの考え方は、西洋的思考が当たり前、 近代合理主義の論理性のジャングルの中にいます。 それを、どうして 東洋の叡智である、宇宙の中は全てが一体である、と云う説明に、 西洋科学、その最先端の量子物理学の方向性を書くのか? それは、量子物理学の量子力学の体系や、量子論が、 今の西洋哲学の二元論の時空観では、成り立たないので、 東洋的哲学の時空観へ近づき、認めているからです。 いわゆる時空観についてですが、 私たちが住んでいる、この宇宙を含めた4次元空間を、 どう捉えるか? どう認識をするかと云う事が、一番大事です。 この世界の成り立っているありさまの説明です。 これから、 自分と環境、モノとの関係認識が生れて来ますから、 どう相手を扱うか? 扱うべきか? その規範が決定するのです。 どう生きるべきか? 宗教の教え、根本ですね。 そこから、道徳、法律、規則がおのずから決まります。 社会の考え方が、定まる。 これは堅苦しい、哲学の問題だけではありません。 人間のしあわせに、そのまま直結する大事な問題です。 今、世界には大きく分けて2つの捉え方が、あります。 キリスト教的西洋哲学と、易学や仏教的東洋哲学の捉え方です。 今は、西洋のキリスト教哲学の全盛? その影響が大きいですね。 まず、西洋哲学の時空観は、こうです。 神が、この世界を創りたもうた! 神が人間(アダムとイブ)を、この世界にお遣わしになった! 神とこの世界は、創った者、創られたモノと云う分け隔てがあります。 神と人間も、そうです。 (だからキリスト教では、人間は神に成れるとは言っていない!) あくまで、それぞれが切り分けられています。 これが、西洋哲学の存在の認識、二元論です。 自分と相手との関係性がないのですから、 人間は、自然を支配してもよい! 当然そうなりますね。 人間の欲望を満たす材料、道具に、自然を捉える事になります。 これが、近代合理主義の学問が生まれた基盤です。 人間にもそうです、相手は自分の上か下、 あはは。 階級社会です。 契約社会です。 隣人愛、奉仕、愛などもキリスト教は説いてはいますが、 人間の欲は、都合がいいですから、 それは、仲間同士、同じ民族、同じキリスト教徒同士であって、 他は野蛮な民族だから、支配をしよう。 こうなります。 自由の為、民主主義の為と云う看板を立てて、 仲間同士には納得をさせて、 あはは。 相手にすれば、押し付けの偽善以外の何物でもないのですが、 キリスト教徒以外の処へ、善意であると云いながら侵略をする。 詰まる処、元々、支配の論理を孕んでいます。 時軸も、天国へ召されてから、どうなるのか ? 一方、東洋哲学の時空観は、こうです。 仏は、この宇宙の真理の実体です。 この宇宙の中に、自然の山や木、海も人も含まれます。 と云う事は、宇宙の真理が、山や木にも、海にも具わっている。 つまりは、一切が仏を含む存在である。 仏とこの世界のすべては結びついている。 当然、人間も、草木も、動物も、モノも、チリまで、、、 だから、仏の智慧を獲得すれば、すべては仏に成れるのです。 (成仏・じょうぶつ、と云う言葉があります。) 深い無意識の次元では、全てが、渾然一体となっている。 それが、東洋哲学の存在の認識です。 相手と自分は、一体なのですから、 相手にした事は、自分にした事になります。 つまり、相手にした事は、そのまま自分へ還って来ます。 相手とは、人間だけではなく、山や海、植物や動物もです。 自分が、自分の外へ出したエネルギーは、次は、 外から自分へ還って来るエネルギーになる訳です。 (因果応報の世界です。) 相手は、自分です。 自然すら、そうです。 当然、調和をして行く事が大事になります。 生きとし生きるもの、モノまでを含んだ、 この宇宙にあるすべてが対象です。 しかし、難点は、主張が、五感では、解らない! ヴィジュアル系 ではない ! 広まりにくいでしょうね。 あはっは。 時軸も、久遠と云う非常に深い言葉があります。 仏教のおもしろさは、経典の浅深、内容によって、 あれやこれや、理解するにはむずかしい無窮の時間軸を なんとか理解をさせようと、経典ごとに変化します。 だんだんレベルアップさせながら説かれています。 データーの上書きと同じなのですが、 困った事に、PCがなかった当時は、 一度伝えられた経典は、消去できなかった! 未だに、低い教えのままが伝わったままで各宗派に分かれ、 正邪、浅深、高低が判別しにくく混沌としています。 これが、広まらない一つの原因でしょうね。 ほっ。 死後の事、永遠に生まれ変わる事、などですね。 これらは、意識で理解をしようとしても解りません。 無意識下の悟り、仏の甚深の智慧が根本です。 日本は、只今、 足元は、東洋的仏教と儒教的な道徳規範を蹴飛ばして捨て、 頭は、西洋的時空観を知識として小学校からテストテストで 憶えさせられていますから、足が無くて頭は上辺の知識だけ、 相当、訳が分からないでしょうね、、、 どっちで生きたらいいのか ? 可哀想な状態です。 大人も子供へ、何が大事かを、規範になるものを、 指し示す事ができない状態にあります。 これを、障害児、障害者の団体と云わずして何と言うのか? あ、足元が消えて無いわけですから、”ゆうれい”ですか? あはっは。 幽霊の団体! キャッー と、説明できるものではない事まで、説明しました。 西洋と東洋の、それぞれの世界観がどう違うか? お感じになったら、次へ進みましょう。 あはは。 最近の量子物理学から、宇宙は、二元論などではないと云う事が、 解って来ているようです。 量子力学の権威者が、こぞって東洋哲学に心酔している事実などを。 紹介したいと思います。 近年、科学の先端である量子物理学においては、 二元論、人間と自然(環境)を切り離した科学の大前提のままでは、 どうしても、量子力学を突き詰めて行けない壁に突き当たっています。 量子論と云う、人間の目に見えない極微の世界を対象にした世界では、 実験をする為に、対象の物体に光を当てる事も無視できないのです。 当てた光の影響が、対象物の、その後の運動に影響が出るという事です。 観測する人間の意識と、観測される対象の物質の関係性が、 元々、別々であると云う、科学の大前提が、 実はそうではなかった事が、極微の世界を扱う量子物理学で解かった。 観察している人間と対象物は、実は一体であったのだ。 と云う事になれば、大変まずい、と云う事になります。 西洋哲学の時空観ではおかしい ? となるからです。 それに気が付いたのが、「量子論の育ての親」と呼ばれる 1922年にノーベル賞を受賞した デンマークの理論物理学者、ニールス・ボーア (1885-1962)です。 アインシュタインと双璧を為す、とも言われる物理学者です。 彼は、二元論に分けた西洋的時空から抜け出た先見性のある人物です。 彼は、量子論の解き明かした粒子と波の二面性、 位置と速度の不確定性などの世界像を「相補性」と名付け、 後半生には、量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして 東洋哲学を研究しました。 さらに、次のようにも言っています。 「原子物理学論との類似性を認識するためには、 われわれは仏陀や老子といった思索家が、 かつて直面した認識上の問題にたち帰り、 大いなる存在のドラマ中で、 観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように 努めねばならない。」 その東洋哲学への傾倒ぶりは、 彼の偉大な功績により、デンマーク最高の勲章であるエレファント勲章 (Order of the Elephant)を受けた時、 その ★「紋章」に選んだのが、 陰と陽、光と闇の互いが互いを生み出す、東洋の図面、 ☆ 太極図であった事からもうかがう事ができます。 その紋章は、デンマークのフレデリック城に、 世界の王室・元首の紋章とともに飾られています。 (この部分はウィキより引用) ☆ 太極図 ![]() (白が『陽』で、黒が『陰』。その中の〇は『少陽』、●は『少陰』。 太極図をあしらった ★「紋章」は、上記ウィキよりご覧ください。 1970年代には、アメリカを中心に、ニューサイエンスという 物理学と東洋思想を合体したような新しい学問が現われました。 その中心となった学者には、フリッチョフ・カプラ、 33才の若さでノーベル賞を受賞したブライアン・ジョセフソン。 一流の物理学者が、量子力学を追究すればするほど、 東洋思想、東洋哲学の時空観に行き着くと云う事です。 これはつまり、 西洋の自然と人間を切り分け、神と人間を切り分ける時空観では、 この世界の説明がつかない事になったと、云う事です。 西洋思想の限界(=間違い)が露わになったのです。 量子物理学において、この世界の究極が東洋の時空観と一致したのです。 すべてのモノが互いに関連し一体である。影響しあっている。 これこそが、東洋の叡智そのものなのです。 これは、ウパニシャッド哲学に淵源を持つブラフマンとアートマンの 『 我即宇宙 』から、中国思想、仏法に至る 東洋哲学の真ん中を貫く叡智です。 これは西洋哲学の闇である二元論や、 意識が作り上げた狭い世界、 そこから我々が、やっと抜け出せる可能性を示しています。 ここで、量子物理学者のニールス・ボーアの言葉を、 紹介しましょう。 ☆ 違うよ、そうじゃないんだ。 君は思考していない。 ただ、論理に支配されているだけなんだ。 ☆ 違うよ、そうじゃないんだ。 と云うのは、 もう、二元論では違うよ、そうじゃないんだ。と言うのですね。 この言葉は、非常に暗示的です。 そう、私達が、今、当たり前のように身に付けている二元論は、 間違っている。 本当に、思考したら間違っているって、分る事だ。と 言うのですね。 気が付かないのは、二元論の論理に支配されているんだ。 と言っているのです。 もっと、思考をしてごらん! と。 間違った時空観で、宇宙を眺めても真実は分らないのです。 だから、この宇宙を含めた真実の世界像に出合う為には、 近代合理の論理性の外に出ないといけません。 そうしないと、我々は、本当の自然に出合えないのです。 本当の生命の実相に出会えない。 本当の生命にとっての安全が解らないのです! 量子物理学の先見性に、まだまだ追いついていない、 我が国の科学は、原子力発電所の安全を政府に保障しました。 そんな馬鹿な ! なにが安全なの ? そう云う事が、平気でできるのですね。 現在の日本における原発が、安全であると云う科学は、 地震や津波、災害の原因について、 意識が捉える範囲の中で、過去を振り返るだけです。 そう、意識は過去を見ているのでしたよ! 意識は未来を見る事はできなかった。 そうでした! 我々の五感は、目の前の今の刺激を受け入れる事しかできません。 未来からの、現象化していないモノは感じられないのです! だから、過去の記憶をたどる(データー)だけです。 そのデータで断層の有無、プレートの移動、過去の周期からと説明をします。 これは、テレビや報道でご覧になっているままです。 それは、近代合理主義の学問が、 キリスト教思想の、西洋思想の二元論を根底にしているからです。 ある意味、人間と自然を切り離して、別っこの物として扱い、 その間に何の関係性も置かずに対立させたまま、 人間の五感で、計量したりできる物言わぬ物体として自然を扱います。 ”そりゃ、そうだろう、人間以外は、モノなんだから!” 現代人は、そう、思い込んでいます..... そう云う処から、今回のコメントをいただいたのだろと思います。 そのギャップを覚悟をして、 ほほっ。 東洋の智見、叡智を披歴させていただきました。 西洋の最先端の科学も、そうなって来ている。。 。 現代文明が、まちがい? そう、間違っていると思います。 よく世間では、人間だから間違いはある。そう言いますね! その間違いを犯すのは、人間の意識ですよ。 それが、どう云う訳か、 西洋から入って来た意識中心の近代合理主義は、正しいと受け入れる。 日本人は、ふしぎなのですよね~! 外国の云う事は、全部正しいと思っている ? あはは。 私は、 人間だから、間違いがある。 と云う前提の方が、しっくり来ます。この方が、正しいと思っております。 しかし、 近代合理主義は、 その間違いを起こしやすい人間の意識だけを信用し、 意識できる世界だけが存在すると云う世界観です。 意識できない世界 = 無意識の世界は無い。とする時空観です。 その切り取った狭い世界の中でのリクツが、 現代学問であり、政治、経済の現場、あらゆる考え方です。 そのリクツの中に、見事にハマっているのが我々、現代人です。 近代合理主義の大きな咎(とが)は、 この生命の出処である無意識の領域を、外した事です。 この咎(とが)を、社会で大々的に実験証明するような大失敗が、 福島の原発で起こりました。 これに関しては、次で書きたいと思います。 最後に ニールス・ボーアの言葉を、もう一度! ☆ 違うよ、そうじゃないんだ。 君は思考していない。 ただ、論理に支配されているだけなんだ。 ☆ 近代合理主義を信じた利益もあったかも知れない。 こんなに便利な生活が! 実現できた事? ならば、その裏には、 近代合理主義を信じた罰と云うものも、あると云う事です。 罰の方が大きいと云う事が、分ったのなら、 もう、止めた方がいいのではないですか? まず、日本が真の独立国になりたいのなら、 近代合理主義の論理の支配から抜け出さなければ、、、 欧米は、エライですね! 武器や兵器を使わずとも、他国を 自分たちが作った思想で、支配をしています。 さすが ! 究極の支配です。 人間の前頭葉も、そこまでできるのですね!! あはは。 かれらがめざすてんごくとはこれなんでしょうね! にほんじんもこれをみならってじまえのしそうをだいじにしましょう。 究極の願いは、、、 日本人は、そんなに馬鹿じゃないと、信じたいですね ! ① と ②の部分は、次々回へ廻したいと思います。 次回は、別の記事、インターミションを入れます。 長い記事を、最後までお読みくださって! 感謝です! よい一週間を、お過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |