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01/06 17:45 |
★生活における『五行』について 『陰』の儀式 ――炊事の大切さCategory : 運命学
あけましておめでとうございます
お正月飾り (京都) ![]() 京都では、小梅と結び昆布を入れた大福茶を飲みながら、 お祝いの言葉を交わします。 おめでとうさんどす~ . . . . . . . . . . . . . . 今年初めての記事は、運命学の記事になります。 今日のテーマは、 ★生活における『五行』について 『陰』の儀式 ――炊事の大切さ 生きる原点についてです。 今まで、五行については、カテゴリ【東洋学】において、 5行の徳性について書いてきましたが、 今日は、 五行学の実践編としてカテゴリ【運命学】の記事になります。 (『陰陽五行』については、後日、また詳しくする予定です。) 五行学とは、中国のその昔、 前四世紀末の頃、陰陽家・鄒衍(すうえん )が、 前一世紀頃、劉向・劉キン親子によって完成されたと言われています。 五行とは、この宇宙の生成流転消滅する現象(意識で捉えられる)世界 の万物の元素、5つのエネルギーとしての木・火・土・金・水の事です。 似たようなものに、仏教の五行があります。 仏教の五行は、地・水・火・風・空とされています。 人と自然の関係を解釈する手段としての五行学は、 『陰陽学』と相まって『陰陽五行学』説と云うものになり、 科学が進んだ現代においても、 近代化以降の西洋医学の追従を許さない東洋医学、中医学の理論の 中核となっています。 そのように現代中国の中医学に大きな影響を与えた哲学です。 それは、分科していく西洋医学の対症療法とは比べ物にならない程の 治療上の効果と影響を人体の生理、病理、病因、診断、薬物の領域で 与えつづけています。 五行には、それぞれの色が定められています。 木 仁の徳: 青 火 礼の徳: 赤 土 信の徳: 黄 金 義の徳: 白 水 智の徳: 黒(紫) 五行のそれぞれの徳性については、 今までの記事に詳しく書いていますのでそれをご覧になってください。 ブログ画面、右上のプロフィールの直ぐ上、TITLE LISTを クリックして全記事メニュから、タイトルの前に、.。.:*:.。..。の飾りが付いて いるのが記事の目印です。 この五つの色は、" 七夕の歌 " 、 ”五色のたんざく~ 軒端(のきば)にゆれて~ ” の 短冊の五色は、五行の五色の色なのですよ。 「七夕のお星様」は、古代中国の『陰陽五行説』と深い関わりがあります。 お寺にある五重塔、五輪塔など、 この五の意味は、それぞれ五行の五に対応しています。 五節句もそうです。 人日(1月7日)、 上巳(3月3日のお雛さま)、 端午(5月5日の鯉のぼり)、 七夕(7月7日)、 重陽(9月9日)。 この節句というのは、正しくは、『節供』と書きます。 季節の変り目に、その季節のお供えをする、五行のお祭りです。 一週間の月 火 水 木 金 土 日 もそうですね! 五行の木 火 土 金 水 に 『陰』を表す月と、『陽』を表す太陽である日を配して出来ています。 七曜は、陰陽五行で出来上がっているのです。 陰陽五行を、一週間で一回りするという事ですね。 日常的には、すっかり聴き慣れない五行ですが、 これ以外で、私たちの生活のごく身近なところに、 五行が完璧に揃っている場所があります。2ヶ所かな? さあ、どこでしょう? 答えは、あとで、、、 ほほっ。 運命学における五行は、 性質、癖、人格、運命エネルギーの流れ、体質の特徴までを表します。 運命学における 良い運、良い命式とは命式中に、きちんと五行が揃っている事、 この五行が、自分の誕生命式の中に全部そろっていると、 運命のエネルギーが行き詰まる事なく循環をすると云う事になります。 下の図をご覧になってください。 木、火、土、金、水、を五芒星の形に載せて時計回りに配置すると 五行の相関関係図ができあがります。 ![]() 黒い矢印が、見えにくいですが、 相生・そうしょう(エネルギー移動による五行転換)の関係です。 相生の関係は、互いが生かし合う関係になります。 ・木が燃えて火を生じる。 ・火は燃えて灰となり土を生じる。 ・土の中から鉱物・金は得られる。 ・金が結露すれば水が生じる。 ・水が木を成長させる。 そして、この水から、また木が火を生じるへ戻る訳ですが、 宇宙森羅万象は、このように、 → 木 → 火 → 土 → 金 → 水 → の規則的なリズムで 一時も、休む事なく現象を起こしていると云う東洋独自の 西洋にはない『時』に従って移ろいゆく循環の法則なのです。 すこし面倒ですが、 この循環を理解して、そのイメージを思い浮かべられるようになれば、 目の前にある物事の表面だけに囚われて右往左往しなくなったり、 深く事態の動く推移を眺められるようになったり、 物事の奥行きを観て行動ができるようになりますよ! あはは。 だんだんと高度な東洋学へ入って行けるはずです。 白い矢印は、相剋(そうこく)の関係です。 相剋とは、お互いにエネルギーを消し合う関係、滅ぼし合う関係です。 例えば、木から土へ向かう矢印は、木が土を剋すと云う事です。 木は、土の中へ根を張る事で土の養分を奪い、やせさせます。 同時に、金から木へ向かう矢印は、金が木を剋すと云う事です。 金は、斧になって繁茂した木の枝葉を切り落とします。 そのように、それぞれが剋す相手と、剋される相手を持っています。 では、生きる原点と申しました本論です。 人の一生、この現象世界に生れる人間の生命は、一組の男女からです。 夫婦と云う陰陽の一組が揃って、初めて新たな生命がもたらされます。 厳粛な、『陰』と『陽』の役割分担があってこそ、 次の新たな命も誕生し、その命の役割を全うできるのです。 『陽』の生産性が弱いよりも『陰』の徳性が発現できない場合の方が、 命の継承、命の繁栄は不可能です。 命、家系の存続は、経済力にて行われるのではありません。 ただ、ひとえに『陰徳』の恵みの下で達成されるのですよ。 命の成長とは、五行の徳で守られて達成するものなのです。 そして又、新たに子孫を産み、育て、残し、老いて行くものです。 命の成熟を達成し、この循環の役割を終えた命は、 つぎ、また、あらたに、新鮮な姿形で生まれ変わるには、 今ある古い状態を一旦滅ぼさなければなりません。 その為に、五行の相関関係図の循環のサイクルの中には、 お互いを生かし合う相生関係と滅ぼし合う相剋関係があります。 どのような命の存在も、辿るその、どの循環の場面においても、 その存在自体が消えてなくなる事はありません。 ただ『天』の運行・時の流れと共に、 姿形が見える世界から見えない世界へ、変化をするだけなのです。 そして現象であった肉体は滅びて灰となり、土に還ります。 そして、 その土から芽吹いた植物が『天』の水を受け、木となるのです。 その『天』の恵みを動物や人間が食べて新たな生命の糧とする。 『人』は『天』の運行の『時』を経て成長をします。 『人』は、『天』が育むものです。 その舞台が、この『地』の上なのです。 五行とは、これらを巡る循環の法則です。 循環の法則とは、 『時』の流れと共に、この現象世界のすべての姿形を変化させ、 一定のリズムを持って、繰り返される創造的運動です。 この本源は、目には見えません。 この力は、無意識の領域の中にあります。 この自然そのままの大地に、近代化以降の我々は立っていません。 舗装をされたアスファルトの上で、決して裸足になる事はありません! 食料は、商社が海外から買い付けて、スーパーが売るモノだと、、、? 水は、水道管どころか、ペットボトルでダンボールごと買うモノ、、、? 流れる川も身近になく、雨は迷惑なモノ、、、? あはは。 五行の徳から遠くなった生活を営む我々は、 無償で命を守ってくれる徳性の感覚さえ、忘れかけていますね。 それが、家の中に、1ヶ所、もしくは2ヶ所、 これらの五行が集められて、 知らない間に命の為の儀式を行っている場所があるのですよ! さぁ、どこでしょう? 目をつむって考えてください。 明日のいのちの為に、心を込める清浄な清潔にされている場所ですよ。 一つは、お炊事場。 あえて、台所とは言わないでおきましょう。 木は米も野菜もある。 火がある。 水が出る。 金は包丁がある。 土で作ったちゃわんがある。昔は土間もかまども土でした。 土が付いた野菜を洗い包丁で切ってお鍋(土器)でゆでる。 これらの行為は、五行すべてを揃えて、命を継ぐ儀式だったのです。 五行を揃えて、五徳の心で、食を整えたのですね。 この食は、真実、命の糧になったはずです。 もう一つは、お仏壇。 木は青々とした樒や供花。 火はロウソクとお線香。 土は線香の灰。 金はチーンの鐘と仏具。水はお水をお供えしますでしょう。 これらは、インドで生まれた仏教が中国へ伝えられた時に加えられた 五行学が融けこんだ仏教の様式、儀式です。 お仏壇は、ないご家庭もあるでしょうが、 お炊事場。 この原点だけは大事にしてくださいね。 女が、『陰』の徳性を守る場です。 まさか! レトルトや出来合の御惣菜で済ますような事はなるべく避けて、 日々の命に捧げる五行の儀式を、執り行ってください。 これは、目に見えない世界(無意識界)に積み上げられる、 一番簡単な、陰徳を積む行為です。 このブログを読んでいただいている読者の家々で、 今年もつつがなく、 徳性を帯びた心を以って、 お炊事場の儀式が執り行われますようにお祈りしております。 寒さがまだまだ厳しく続いて参ります。 ご自愛のほど、よき一週間をお過ごしください。 しばらく更新が不定期になるかもしれません。 ご了承を、、、 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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01/17 22:50 |
★生活における 『陰陽』 について 陰陽の役割---男性脳 と 女性脳 の違いCategory : 運命学
京都のお正月 玄関飾り
![]() 京のお正月のお餅は丸餅、お雑煮は白みそ仕立てです。 七草粥、鏡開きと、松の内も過ぎ、 はや新年からの日めくりは、18日、 大雪もあったり、 時は、まるで駆け足の競争のように過ぎて行きます。 しかし、 運命学の今年は、まだ始まっておりませんのよ。 2月 4日 午前1時14分の節入りから、今年が始まります。 運命学の暦と云うのは、この節入りが大事なのです。 年の節入りだけでなく、 毎月の節入り日、時間も把握しなければ、 太陽の黄道上の正確な位置がないと、正確な運命は出せません。 詳細に、何時、何分、これらは気象庁、天文台の情報に拠ります。 人間は、太陽を包み込む大宇宙に支配されているのですね。 潮の満ち引き、これも重要です。 私は、自分の生まれた時間の潮の満ち引きを、 今から10数年前、気象庁に教えてもらった事があります。 自分の年齢ほども前の事をですよ! ほっー 自分の運命学に確信を置いて間違いないのか、 検証しようと、、、 気象庁の電話に出られた担当官は、私の誕生地の県名、場所を聞いて、 そう、5分もかからない間に、その詳細を教えてくれました! そこなら、何時何分と何時何分が満潮、で、 何時何分と何時何分が干潮、でした。 と! すばらしい!!! いまだに、感心をして、、、感謝しております。 人が生れて来ると云う事は、意味もなく生れて来るのではありません。 自分の運命のタネが発芽する『時』に出生するのですね。 そう云う意味で、 私たちは『時』を選んで生れて来ます。 両親や誕生地は、自分の「内因」の縁に拠った発芽の土壌です。 そして、我々の運は、刻々と『時』に応じて生育をします。 細かく言いますと、30年運、10年運、1年運、日々の運の節目があり、 年運において、運命のリズムは去年から今年の節を越えておりません。 みなさまの運命も、そう、 まだ去年のまま変わっておりません。 いわゆる節分からが、新しい運が動き出します。 敏感な方は、季節の変わり目のように、その兆しが感じられるはずです。 . . . . . . . . . . 今日の記事は、 ★生活における『陰陽』について 男女の役割ーー男性脳と女性脳 なにやら、 このブログを読んでいただいている読者の方が、ムズカシイ! とコメントなどでお知らせくださいます。 なにやら、頭が三角になるとか、、、 あはは。 それでも読んでくださるのを感謝しなければいけませんね。 実は、書いている私も、ムズカシイと思いながら、、、 あはは。 東洋的な思想を、 もうすでに合理主義的言語になってしまった日本語で表現するのは、 本当にムズカシイ!大変! です。 ほほっ。 今回の記事が、いままで『陰』が、なにやら? 『陽』が、なにやら? 分かりにくかった方の入門編になると思います。 そして、今まで、初めの頃より毎回お読みいただいた読者の方達には、 このブログでさまざまな切り口から展開をして来た『陰』『陽』についての 新しい切り口のきっかけになるはずです。 現代科学によって解かった " 男女の脳の違い " から、 東洋の『陰』『陽』に分かつ男女の役割が、いかに正しかったか、 説明できると思います。 ・『陽』=男、『陰』=女とする易学のなかの相待的相互関係は、 東洋が西洋に追従を許さない独自の哲学であって、 単なる対立する存在と捉える西洋の二元論とは隔絶の違いがあります。 相待的(仏教語、二つのものが互いに関連して存在する。相い待つ関係 ) 更に、今年も運命学へのご理解を深めていただきますように、、、 みなさまの生活面での応用力を、ウォーミングアップしてください。 できるだけ、年の初め、サラリと行きたいのです、、、が、、、 無理かな? あはは。 まず、簡単に、陰陽学について、 さらり、、、と、 あはは、 古代中国では、宇宙の事を「大極」と言いました。 その「大極」を 『陰』と『陽』という対立する属性に分類する哲学思想です。 ここから生れて来た、推命学や易学、漢方、中医医学・東洋針灸などの 東洋医学の根本原理です。 『陰』と『陽』は、互いに対立する関係性だけでなく、 互いに制約し、互いで大極を統一する関係性を持っています。 つまり、 この宇宙に存在する物事は一つ一つが単一に存在するのではなく、 常に互いの、反対の側面がなければ成り立たない。 自分の存在が、相手の存在に依存すると云う考え方です。 たとえば、 上と下、上がなければ下はなく、下がなければ上はない。 左と右、左がなければ右はなく、右がなければ左はない。 『陰』と『陽』とは、このような依存関係性を持っています。 具体的な生活面において、男女の関係性でも、 意識と無意識の関係性でも、その通りです。 まず、『陽』は、 人間の感覚で意識できるもの、すべて『陽』です。 触れる、見える、臭う、聞こえる、味わう、話す言葉、等の五感の 感覚器官で意識できる範囲、世界、領域です。 その結果、意識=心に現れる、うれしい、悲しい、楽しい、辛い、苦しいと 感じて現れる現象、その心もそうです。 人間の意識が作り上げたモノ、を『陽』と云います。 我々の五感が環境の対象を捉えて作り上げたこの世の中、 = 現象世界です。 その現象そのものは、分かれ分かれて細分化をして行きます。 科学の先端においては、大学の隣の研究室が何を研究しているのか 隣にいて分からなくなっているそうです。 病院の◯◯科が、良い例です。 昔はなかった診療科が増えて、20年ぶりに行く病院は、 廊下でウロウロしてしまいます。 が、『陽』の範疇における分化と云うものも限界があり、 最終的には、『陰』・本質を離れて原点を見失って行くものです。 出発は「命」の為と云いつつ、「家庭」の為と云っていたのが、 いつの間にか「経済」の為にがんばっているのが実態というような、 それが『陽』の現実的な性です。 『陽』の現象界では、分かれ分かれて、何になるのか? 最後は、ゴミです! クズです。 あはは。 原子力発電所、 あれも最後は、ゴミです。 そのゴミを、処理できないものを作ったのは、だれですか? 最後、朽ちもせず、値打ちを失わないモノは、真理だけです。 原子力発電所を、真理と思って作ったのでしょうか? あはは。 原子物理学者殿、政治家殿、経済学者どのは、 ご自分が『陽』の範疇を越えられない存在だと云う認識がなかった? 最後は、害を及ぼすようなモノに成り果てる、、、 その知見に、 経済や原子物理学の知識などでは到達できなかったのですね。 そう、 此の世、現在の社会のあらゆるもの、ゴミまでが『陽』です。 『陽』のあらゆるものが、将来はすべてゴミになるものです。 正倉院の御物など、特殊なもの以外は、ね! あはは。 有史以来、男が、作為して、工夫をして、努力で作り上げた社会です。 人間が生きる為に作った道具から、 社会を作り守ろうとする為に作った言葉、知識。 感覚器官で掴んで作り上げた概念、その概念の究極である思想、 その象徴たる国家、制度、教育、法律、政治、経済、権威、階級、 褒賞としての勲章、名誉、恩賞、 逆の価値で、刑罰、罰金、など、 今は、民主化で無くなりつつはありますが、いわゆる力の最高位、 王、皇帝、天皇と云う絶対者の地位、王国、貴族、 はたまた差別の最下層の奴隷、人非人、、、 いわゆる意識は、感覚器官で覚知し、評価をし、差別をし、 人の作った物差しで、人の序列を作って来ました。 感覚器官の求める美の序列、価値の序列、 詩や絵画、彫刻、小説、音楽などの芸術作品もそうです。 すべて、人間、特に男性の意識が作って来たものです。 有史以来、著名な思想家、政治家、作曲家、建築家、経済学者、 そのほとんどが男性です。 もっと卑近な例では、建物、橋、ダム、家、道具、食器、などなど、、、 あらゆる産業、生産物、などです。 故に、『陽』を男の生産性、生産物と見てもよろしいでしょう。 『陽』は、現象を生みだす力を欲します。 故に男は、力を欲します。 間違いない事は、 我々人類は、男の意識の恩恵の中で生き延びて来た訳です。 その恩恵は、それを作り上げて来た男たちの生産性のお陰です。 ある意味、自然の生存競争の結果からもたらされています。 その中には、殺戮も戦争も肯定するロジックも存在します。 故に、『陽』・意識の最大の欠点は、 自己の生存する事を第一に考えるエゴイズムを未だ乗り越えてはいない。 それは、意識が、死を解決する事ができていない故であり、 死を恐怖する処から生まれるエゴイズムに足場があるからです。 と云うよりも、 その足場をモチベーションにしているのが実態です。 これが、意識の限界です。 そして、もう一つの欠点は、 『陽』その現象すべては、『時』に移ろって消えていきます。 『陽』は、『時』に支配され、いつかは消えるモノ、無常の範疇です。 ここから、 我々が、我々の意識を評価する時に、気を付けないといけないのは、 人の意識では、真理は掴めないと云う事です。 それを敷衍すれば、 意識で、真理をさも解かったように語ってはいけない。 意識に必要なのは、常に謙虚さです。 人の意識で分ったとするものは、あくまでもロジック。 西洋は、これがお得意です。 ◯◯主義、を次々作り出します。 歴史の流れを振り返れば分かるように、 その時だけの人間の意識に都合の良いロジックだと云う事です。 このロジックは、『時』の淘汰で、『偽』へと変貌します。 今、まさに我々がどっぷりと浸かっている資本主義、 もうこの化けの皮は、剥げ落ちております。 共産主義も、その醜態をさらして滅んで行く事でしょう。 『陽』は、いわゆる、『時』には耐えられない。 真実に根ざしていないからです。 故に、『陽』は、『偽性』を孕み、結果、嘘に、悪になります。 いずれ滅びるのが、当たり前。 永遠ではありません。 『陽』に永遠を求めても仕方のない事です。 『陽』は、必ず変わる。 それは、本体『陰』の創造性の現象、作用として変わります。 このように『陽』の特徴は、 ★ 意識、分化、生産性、現象、男、父性、無常、偽性です。 この部分を次の『陰』と比較してみてください。 では、『陰』について、 『陰』の特徴は、 ★ 無意識、含蓄、非生産性、本体、女、母性、常住、真理です。 東洋的哲学の深さ、鋭さは、 表層的な現象だけに囚われることなく、 それを『陽』と切り分けて後方へ退け、 その奥にある、『陰』を発見した事です。 どんな災害が襲って、海の水が、海底の砂を山まで押し上げたとしても、 『天』や『地』が逆さまになる事はありません。 また、なくなる事はありません。 必ず、海の水は海へ戻り、山に草木は繁ります。 『天』に元々在ったものは、そのままあります。 それが、『陰』の姿です。 人間の五感で掴む事のできない自然の力です。 近代科学が掴めない、科学が捨て去った無意識の世界です。 エネルギー資源を求めて、人間は幾度も戦争をして来ましたが、 この『陽』の飽くなき人間の欲望、生への生産努力。 これこそが、『陽』たる男性の本質でしょうね。 男は、自分たちが作り上げた社会のシステムに命を懸けております。 近代合理主義・意識が作り上げた自由と平等と云うロジック。 自然に逆らう架空の空間に漂う偽性の自由と平等、 それを盾に、男にも育児を、家事をするように求める女たちは、 逆に、平等に、 武器を抱えて男と同じように戦場へ行くつもりなのでしょうか? 敵国の兵士を、殺す事ができるのでしょうか? 今日現在、アルジェリア南部で、 武装勢力が邦人含む41人を拘束中だとか、、、 報道によると、人質には日揮の従業員5人が含まれているとか、 こう云う危険性を顧みず、男性社員たちと同じように、 危険地域へも海外出張をする覚悟なのでしょうか? 『陰』を捨てた女たちへ訊いてみたい気がします。 男たちは、どんな場所でも、彼らは命懸けなのですよ。 そりゃ、今の社会を作って来た責任があるからですが、、、 ほーー そもそも、男と女は、脳みそが違う。 私は、そう思って来ました。 昔から、儒教などでも「男女の別」と云うのがあります。 それを、何とか合理主義的思考の現代人に、 立証して見せる事はできないか? それが、―――――――つい最近、2年前に! 男女の脳の違いについて、科学的研究結果が出たのを御存知ですか? アメリカ、カリフォルニアの現役の臨床医である ローアン ブリゼンディーン女史が、 「The Female Brain」 (女性の脳) 「The Male Brain」 (男性の脳)を著しました。 それらを、少しだけ、簡単に紹介します。 女性脳は、 ・ 前帯状皮質(選択肢を比べ、くよくよ心配して決断をする中枢) が男性より大きいのです。 どっちにしようかと、くよくよするようでは、女性は戦場へは 行けませんね。 ・ 前頭前皮質(感情を暴走しないよう抑えて、扁桃体にブレーキ をかける中枢)が、男性より大きいのです。 この部位が成熟するのは、思春期の少女の方が少年より2年早い。 いわゆる女子の方が、おませだって云う事です。 それに引き比べ、男性脳は、 ・ 視床下部の一部の内側視索前野(性的なものを追求する中枢) が、女性よりも2.5倍大きいのです。 ・ 側頭頭頂接合部(難問に直面した時、即座に解決策を探求する中枢) が、女性よりも大きいのです。 問題の現場に行って、陣頭指揮を執るのは男性向きなのですね。 ここから、つまり、脳科学は、男女の間の深い溝? あはは。 「なぜ男は女を愛せないのか?」を解明して行く訳ですが、 この男女差を生み出す脳内ホルモンの違いと影響については、 以下のような研究結果が出ています。 生理学者である杉靖三郎氏は、 詳しくは、ここウィキペディアへ ものすごい数の本をお出しになっていますが、 約40年前、『英才教育―間違いだらけの教育―』の中で、 「他人を愛する事は、女性特有のものであり、男性は本来持ち得ない 能力である。」と云う仮説を書かれています。 当時盛んだったホルモンの研究から、この結論に至ったようですが、 この仮説が実は、最近の研究で証明されて来ました。 2004年、アンドレアス・バーテルズ教授が発表した研究結果は、 恋愛中の女性脳は、母性愛を実感する時と同じ回路が活性化していて、 恋愛中と育児中では、関係するホルモンの結合部位も共有されている。 この事から、女性は、本能的に自分の子どもを愛するように、 男性を愛するのは本能である、と考えられるようです。 一方、男性の方は、我が子の育児をしている間も、 男性脳の、この回路は活性化されなかったと云う事です。 また、次の事は、少々ショックな方もいるかも知れませんが、 男性が女性に感じるのは愛ではなく、性欲であるとする研究結果もあり、 先ほどのローアン・ブリゼンディーン女史に戻りますが、 思春期の男子には、急激な男性ホルモンの増加が起こり、 それが先ほどの男性脳の性的発火中枢を刺激するとしています。 このとき男性脳に分泌されるドーパミンによって、 男性は、愛を実感するのではなく、むしろ攻撃的になるとしています。 そもそも、男性の内側視索前野(性的発火中枢)そのものが、 女性より2.5倍大きいので、男性の本能は、 愛ではなく性欲によって女性を求めている事になります。 ニュートンプレスの『最新の脳科学 脳の仕組み』では、 男性が人を愛すると云う事は、男性脳に具わった本能ではなく、 旧皮質の一部、海馬と云う所の記憶からであるとされています。 乳幼児期に受けた母親や祖母、周りの人から注がれた愛情体験が、 記憶・感情・情動の旧皮質の海馬に記憶されます。 その乳幼児期の愛情体験の記憶は、 およそ4歳位から発達するとされている理性・精神・創造の司令塔である 大脳の新皮質へ移行します。 これが、男性脳の長期記憶となって、 他人を愛する原型として認識されると考えられるのです。 人間だけの特徴である新皮質が発達する事によって、 本能だけの他の動物のオスと違い、人間である男性は、 自分の本能を乗り越え、愛する事を知る事ができるのです。 しかし、その新皮質が完成するのは、20代の中頃、 その頃までの男性は、まだまだなのかも知れません!?? この社会を作り上げていく男性に、人を愛する事を伝えられるのは、 母親、特に4歳まで母性愛が大事だと分かりますね。 その間の、愛情を受けた体験。 その記憶。 それが、自己の本能を乗り越える創造力へと昇華する訳です。 この大事な時期に、生れて一歳も満たない時期から、 保育園に預けて安心していられるものなのだろうか? この自然のありのままの営みを無視して、 それ以上に何が大事と言うのだろうか? 本能的に、自分の母性愛を注ぐ事ができる女性は『陰』です。 この『陰』の胸に抱かれて、どの子も育ってほしい。 それこそ、どの子供にもある権利だと思うのですが、 本能的には、人を愛する事ができない男性は、 記憶によって愛を知る、母の愛の記憶で愛を認識する。 このプロセス自体が、『陽』そのものと云えるでしょう。 子供は、保育園に入れて置けばいいんだって、 母親を働かせるには、保育園を作る政策を、だって、 そんな次元で現実を変えて行こうなんて、 一体、将来、どんな国にしようと思っているのかしら? 日本の、思想のなさ、 そろばん勘定だけの頭で、賢いやり方だって思っているのね。 この馬鹿さ加減を何とかしなければ... 自然は、いかに華美豪華であっても、欺瞞な生であれば滅ぼします。 自然は、いかに質実か、真実かを試して、その生を育みます。 新年からの2本の記事で、 東洋哲学の基礎、五行学と陰陽学を取り上げました。 いかがでしたか? これから続く記事が読みやすくなったのなら良いのですが、、、 寒さ厳しき時候が、まだまだ続きます。 ご自愛くださいませ。 更新が、不定期になっています。 よろしくお願いします。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
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01/27 21:15 |
★ 合理主義へのアンチテーゼ・東洋の暦 「五黄土星」 「二十四節気」Category : 東洋思想
---- 1月 12日 富士山 二題
![]() ≪高尾山頂上からの富士山≫ わかるかしら? ぬーっと飛び出た真ん中のうっすら白い部分、 ≪帰りの車窓からの富士山≫ ![]() 今年の山登り事初めに、高尾山に足慣らしに行って来ました。 頂上は、好天気だったせいもあって大勢の人。 実は、雨天でも高尾山は大勢の人なのですよ、、、 あはは。 最近は、背が高くて足の長い、まるでグラドル? よりも可愛いわね! カラフルな登山着の女子の2人連れをよく見かけます。 長い茶髪をたなびかせて、軽快に登って来る彼女たちは、 カモシカ? を思わせる様な存在感がありますね。 この日、羽田から来たと云う二人連れと写真を撮り合ったりしました。 今日の記事は、 ★ 合理主義へのアンチテーゼ・東洋の暦 「五黄土星」「二十四節気」 今日は、おもいっきり、『時』の特集でございます! ほっ。 今年は、「五黄土星」・(ごおうどせい)の年です。 大阪市立の桜ノ宮高校生の体罰の翌日の自殺事件や アルジェリアのテロ事件で日本人が10人も無辜の死を遂げられました。 心より、お悔みと哀悼の意を表わさずにはいられません。 今回、「五黄土星」を取り上げますのは、みなさんへ警告の意もあって、 今年一年間を、細心の注意と慎重な判断をおすすめします。 いいえ、又、新規事業を立ち上げるのにも良い機会なのですよ。 ほほっ。 「五黄土星」は、九星気学の中の星のひとつです。 詳しくはここ へ, 「五黄土星」は、9年おきに必ず寅年、巳年、申年、亥年に巡ります。 五黄の象意は、人の上位ですが最高位の帝王ではなく、 次、帝王を脅かして自分が帝王になろうとする有能な宰相の位。 よく、帝王の位であると書かれていますが帝王ではない。 帝王は成り上がった果の位です。 帝王になってしまったら、勢いは落ちるしかないのですね。 あはは。 ここが、東洋のすごい処です。 「時」の推移の先を読んだ上での現在、、、本質を観ます。 常に、東洋は、『時』を物差しにしています。 五黄は、これから帝王に登りつめる段階、王位を目指す位、 因の位置です。まさに東洋的には、一番強い位置です。 ですから、勃興する力、何にも屈服をしない徳力を持っています。 非常に強い、激し過ぎる力です。 裏の象意は、暴力、死、破壊、甘味、刺客、廃棄物、天変地異、 甘味とは、おもしろいでしょう? 自信から慢心への油断の味、 命を滅ぼす味ですね! あはは。 過去の「五黄土星」の年には、次のような事件が起こっています。 1905年(M33 乙巳年) 日露戦争 1914年(T 3 甲寅年) 第一次世界大戦勃発 1923年(T12 癸亥年) 関東大震災発生 1932年(S 7 壬申年) 上海事変、五・十五事件発生 1941年(S15 辛巳年) 第二次世界大戦勃発 1950年(S25 庚寅年) 朝鮮動乱勃発 1959年(S34 己亥年) 伊勢湾台風上陸(死者、行方不明者5千人) 1968年(S43 戊申年) 三億円事件、十勝沖地震発生 1977年(S52 丁巳年) 有珠山大噴火、史上最悪の企業倒産 1986年(S61 丙寅年) 三原山噴火全島民非難、中国天安門事件 チェルノブイリ原発事故発生、 1995年(H 7 乙亥年) 阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件発生 鳥インフルエンザ発生、 スペイン列車爆破テロ スペースシャトルコロンビア空中爆発事故 2004年(H16 甲申年) 「新潟県中越地震」被災者10万人以上。 スマトラ島沖地震で約29万人の死亡、 79年ぶりの鳥インフルエンザが山口、京都 に発生、アメリカでの狂牛病発生 美浜原発で蒸気漏れ事故で作業員5人死亡 ロシア、チェチェンのテロで人質330人死亡 さあ、今年は、どんな事が起こるのか? 慎重さと安全第一を慮(おもんばか)る一年にしてくださいね。 また、前回の記事の冒頭で、 運命学の暦は、 2月 4日 午前1時14分の節入りから、今年が始まります。 と書きましたら、次のようなコメントをいただきました。 このコメントへのお返事の記事も兼ねています。 今回のポイントは、 宇宙を貫く暦・『時』を、世界の中心に据えて来た東洋と、 西洋の近代化の基になった聖書の世界 = 世界の中心だった神を 人間の意識に置きかえた西洋との 比較になります それは、つまり、 近代化以降の我々が、 宇宙を貫く東洋の暦・『時』を中心に置いた世界観を失い、 西洋の(聖書の中に書かれた)神を中心にした世界観、 近代化以降は神の代わりに人間の意識が中心になった西洋の世界観を 完全に受け入れてしまっていると云う実態です。。。 もう一度、繰り返しましょう。 近代化を受け入れた事で、 我々の伝統ある世界観が、なぎ倒され、 西洋の世界観にすり替えられてしまった現実です。 我々は、先祖が考えもしなかった西洋の意識世界の中に立っています。 我々は、『時』を失い、『陰』を捨て、 本当の自然を失い、宇宙即我と云う絆を断ち切られて、 近代化の暴風雨の中、 そう、意識を中心に祀った世界の中に立っています。 ・・・・・・・ 本来は、膨大な記事の長さになりそうなのですが、、、 あはは。 どこまで記事を削れるか? 記事を書く事よりもムズカシそうです。 何回かに分けてお読みになってください。 コメントは、①~④の番号、および内容を一部編集をしています。 質問へのお答えは、コメントに付けた番号順になります。 こんにちは。 あれからまた過去の日記を拝見させて頂きました。 初めはまだ一知半解という感じでしたが、日を経るごとに 一つ一つの言葉がじわーっと体に入っていくようになりました。 ② 全ては「時」が大切なんですね.. 自分が生きていることについても自分が今どの位置にあって、 どこに向かおうとしているのかそういう事に関心が向くようになりました。 もう数年前の自分とは大違いで、びっくりしています.. さて、質問なのですが... web上で命式判定をしたのですが、 私は、H1.◯月.◯◯日生まれで土、信に徳が偏っているようです。 ① 生まれ持った徳の偏りは本人の気づきで直せるのでしょうか? ③ 具体的に潮の干満と運命はどのような関係なのか? です。 ④ 運命学の暦はなぜ2月4日が始まりなのか? 旧暦とは関係ないですし、本当に??です。 まず、熱心に拙ブログをお読みいただきまして感謝申し上げます! ご自分を見据える事ができるようになったようで、良かったですね。 ① 生まれ持った徳の偏りは、本人の気づきで直せるのでしょうか? 命式の中の五行の偏りですね。 運命学には様々な流派がありまして、命式の立て方が違います。 元々中国古代の運命学は、当時の都である京都へもたらされました。 天皇家や貴族、特に安倍晴明の安倍氏(土御門家)が中心になって 天皇の命で守り伝えて来ました。 庶民に広まったのは、つい最近、戦後から、 関西には、正統派泰山流運命学を学ぶ人たちが多くいます。 東京へ伝わったのは、丁度その頃、 そう云う事もあるのか、不思議な事に、 東京には泰山流以外の命式を立てる派があるようです。 ☆ 命式の偏った運命自体は、直る? 事はないですが、 それが、どう云う現象を生むのか客観的に観察をする事は有益です。 身近な処で、尊敬できる五行のバランスが取れている人や 自分の欠けている五行を持っている人とは相性がいいですから、 お友達になって自分を比べて学んだりなさるといいですね。 又、今後の、命式のテーマの記事を読んでください。 ② 全ては「時」が大切なんですね.. さすが! 現役大学生ですね! ほっ。 よく掴まれていると思います。 近代以降、現代人である我々は、 100%自分の意志で物事を動かしているように思い込んでいます。 自由な自分の意志で、この世界はなんとでもなる? あはは。 なにが自由? どこからが自分? なあんて、さらさら考えないまま、 『陽』の現象界の波間に浚(さら)われながら 自分の欲望を、意識を、世界の中心にしているのが現代人でしょう。 昔の人は、そうではなかったのですよ。 東洋では、どうだったのでしょう? 暦を作った古代中国では、------ 清の終わりまで、 いわゆる、中国が欧米列強に近代化を押し付けられるまでは、 ------ 正確な暦は、皇帝の為に作られ、皇帝しか持てませんでした。 皇帝は、天子とも呼ばれ、天(天帝)の子であり、 天命により天下を治めるとされていたのです。 人の立つ『地』、人の上にある『天』。 この『天』にある太陽、月、星などが運行する様子を、 古代中国で、「天文」と言いました。 天の文(ふみ)、天にある形や文様と云う事でしょう。 『人』が住む『地』は、『天』に日が昇れば明るい朝となり、 やがて昼となり、『天』の日が沈むと暗い夜となります。 つまり、『人』の一日一日の繰り返しは、 太陽の出没の繰り返しに従わざるを得ない。 調和をしなければ生きていけないのです。 人の生きる事と天文とは切り離せない一体の世界である。 人の生き死にと宇宙・『時』とは一体である。 宇宙・自然と云う『陰』の存在を知ろうとしていたのです。 そう云う自然、『天』・時を対象とする東洋と違って、 近代以前の特にヨーロッパにおいては、 神中心の世界でしたから、神の思し召し、、、 あるいは、教会を支配する王様の思し召し、、、 西洋では、神の意志を世界の中心に置いていました。 西洋の世界観は、聖書の書かれてある事を基にして、 神や神が創造したとされているこの世界のありさまについて 理解を深めると云う事にありました。 それが、デカルトが世に出て来るまでのスコラ哲学です。 (ここまでで、注意してほしいのは、次の点です。 西洋哲学は、人の書いた聖書の中の世界を基に出来上がっています。 人の書いたモノは聖書であっても、それは人の意識が作った『陽』です。 『陽』を対象にして知った世界観は、あくまでも『陽』です。 また、知ると云う行為も『陽』です。 書かれている現象(聖書の文章)を、 環境に支配されている感覚器官・意識の現象が捉えるのですから、 そこから真理が出て来るはずがないのです。 出て来るのは、『偽性』を孕む『陽』の部分知です。 いわゆるロジックです。 キリスト教を母体とするマルクス主義、資本主義がそうです。 現代も、ヨーロッパでは、いろいろな思潮が生れてはいますが、 それのどれも意識の螺旋階段を登ったり降りたりするだけで、 意識の『偽性』の巣窟からは抜け出てはいない。 シモーヌ・ヴェイユなど読むと鬱のように暗くなります。 ほほっ。 それは、なぜか? 簡単に云うと、東洋の『陰』を知らないからです! ほっ。 彼らの云う青空は、本物の天空の青空ではなく、 人間の意識が捉える観念の中の青空なのではないか? 自然・宇宙と我とを一つとした東洋の哲学と比べると、 西洋の哲学は、どこにも『陰』がない! そして、 『時』をまるっきり気にしていません。 だから、西洋には、無常感がないのですね。 無常感がないと、常住(と云う概念)すら分からないのよ。 私だって、無意識界の真の常住なんて掴めていません、が、 それを意識の言葉で説明をした概念は受け入れています。 それだけで、この現象界の生き方は違って来るはずです。 今後、西洋から真に人類を救う哲学が生れるとは思えない。) 本論に戻ります! ここから、 西洋の世界の中心が、神から人間の意識へ入れ替わっていった 近代化の話になります。 反スコラ哲学者としてのデカルトの、 スコラ哲学を論破しようと、全てを懐疑して到達した結論が、 " 我、想うゆえに我あり " デカルトが提唱した有名な命題です。 「想う」・・・事が我の存在証明であったと云う訳です。 それまでの神中心の世界観に、 デカルトが、世界認識の中心に個人の意識を持ち出したのです。 そう云う意味では、西洋哲学においては画期的な事だったのでしょうが、 デカルトは、次のように言っています。 --------- 理性とはあらゆる人間に相等しく備わっている。 だから、この理性に基づいて真を偽から区別し、 世界についての正しい認識に達しようと! --------- あはは。 笑ったらいけないと思いつつ、、、、、 あはは。 いや~、デカルトは善良な、人間を疑わない人物だったのか? 自分を自画自賛する為に、わざとこう言ったのか? あはは。 そう、たしか、カントに対しても、こう書いた記憶がありますわ! 西洋の哲学者は、どこかドン・キホーテ的で共通していますね。 世俗的な事や世知辛い事を御存知なかったのかしら? そう! 私は高校生の時に、西洋には飽き飽きしていました! 10代の私が解ってしまった西洋って何なの? つまらないわ! 後で知った事ですが、デカルトのこの命題に対して、 夏目漱石も、 『吾輩は猫である』の中で、主人公の猫に、 「人間は長い歴史の中でこんな当たり前の事しか思いつかない 愚かな生き物だ」と嘲笑させているのを知りました。 あ―――っ、笑ったのはわたくしだけじゃなかった、、、、 ほほっ。 しかし、本当に困った事に、 この近代理性を礎にしているのが、日本を濁流で流そうとする 言うまでもなく近代合理主義そのものなのです。 この近代合理主義と云う思想が、 東洋、日本の世界の中心から『時』の重要性を抜き取り去ったのは、 日本が近代合理主義を受け入れた明治維新からです。 その結果、一番の具体例は、今のカレンダーです。 暦は、いつしか、 月ごとの1~30.31を七曜日に割り当てた表になり、 365日は、365種類の日ではなく均等な日々の繰り返しです。 ここで、 我々の先祖が、 宇宙における太陽の運行と我々を結び付けて来た絆は、 見事な位に切断され、 『時』の意味は消え去り、 暦が、カレンダー上の単なる順序数になったのです。 近代化と共にです。。。 。 なにが、西洋化がいいものですか!!! バカバカしい位、愚かです。 おそらくですが、 古代中国の皇帝が秘して保ち伝えて来た「暦」が、 日本の代々の天皇が土御門家に託した「暦」が、 そのまま生きているのは、今は、運命学の世界だけでしょう。 ここに、私が、" 東洋の復権を求めて " と叫ぶゆえんがあります。 --------- 運命学の365日は、365種類の日々です。 いいえ、生れて死ぬまでの毎日が、全部異なる毎日なのですよ。 今日は、昨日とは違う、明日とも違います。 自分の命式が持つ運命が、毎日新しい軌道を運行するのです。 日々、是、新(あら)たなる、日との出会いです。 暦とは、あなたの命式が辿る運命の運行表なのです。 詳しくは、又、いつか、、、 ああー デカルトが、神を世界の中心から下ろして、 人間の意識を世界の中心に据えて、、、、、、、、 -―――― から、、、400年。 我々は、長らくデカルトに縛られ過ぎですね。 その間、東洋は何をしていたのか? 東洋は、西洋に比較にならない『時』の智恵の蓄積を 持っていながら、何をしていたのか? 『陽』である父性社会と云う西洋文明の近代化の大嵐によって、 『時』も『徳』も、殲滅させられています。 東洋は、瀕死の状態です。 日本における、お祭りを見たって分るでしょう。 日本のお祭りや行事は、そのほとんどが、 お正月、五節句のように宇宙の運行 = 『時』のお祭りです。 たとえば、五穀豊穣を願う春祭り、 盂蘭盆会(盆)・七夕・祇園祭などの夏祭り、 収穫直後の秋祭り、 鎮魂的な意味を持つ冬祭りとされていましたが、 今や、人々の心の中は、クリスマス、バレンタイン、ハーロィン、 縁も所縁(ゆかり)もないお祭りを盛大に祝っています。。 。 もうこの事だけでも、日本人の『陰徳』は擦り切れているのですよ、、、、、 西洋における行事、お祭りは、神や聖人がどうした、こうした、です。 神と云っても、『天』の運行となんら関係がない。 神が、自然、宇宙の運行 = 『時』と結びついていないのですね。 この世、自然は、神が作ったモノ、神の所有物ですから、 神と自然が、一体ではないのです。 では、西洋において自然とは何でしょうか? これは、私が山登り中に、山岳ガイドさん達から聞き知った事ですが、 西洋では、山は悪魔の棲家(すみか)であると考えられていた為、 山は、悪魔と人間の戦いの場で、登山は山を征服支配する行為です。 だから、ピッケルやストック、専門的な道具で登攀をする訳です。 アルピニストとは、器具を使って高度な登攀技術を持った人の事です。 それとは、まるっきり反対なのが日本人の登山です。 日本人は古来、山岳を神仏の住む神聖なところと考えてきました。 その為、勝手に山へは入らない。 入山と云って、精進潔斎(しょうじんけっさい)、白衣をまとい、 金剛杖に身を託した様式、形式がありました。 現在でも、山男と云われる里山を守る活動をする山男達は、 山肌を傷つけるのを嫌って、ストックなどの使用を喜びません。 キリスト教の中に、太陽や月を神と観る気配はありません。 だから、やすやすと、自然を無視できるのですね。 そもそも東洋からみれば、西洋のように、 この宇宙は、神中心でもなければ、人間中心でもない。 あきらかに、ちがうでしょう! 違う。 と云える原理が、『時』のリズムなのです。 『時』は、正確な天体観測から生れます。 宇宙の運行のリズムです。 この『時』は、我々の外にあるのではない! 我々の体内にあるものなのです。 宇宙の全てと我々人体を貫く、リズムなのですよ。 故に、我は宇宙である。 現代人の我々は、 これに全く添わない行動を、とってしまっていますね。 「伝習録」にある王陽明の言葉、 「 それ聖人の心は、天地万物を以って一体となす。」 (道理を分っている聖人にとれば、 天地に在るあらゆるものは我と一体である。 自然も我であり、彼も我であり、我も彼である。 天地万物で、自分のものでないものはない。 彼の楽は我の楽、彼の苦は我の苦、天地万物は我なのだ。 私とあなたは一体であり、太陽とも一体であり、草花と一体の私。 この境地から、どれだけかけ離れた位置にいるのでしょうか.....。 天地万物を以って、意識はバラバラの体となす。 でしょうか、、、、 東洋における日本人としての根っこが、ない。 日本人の大多数の世界観は、『時』や自然が中心ではないでしょう。 はたまた、神が中心でもない。 『偽性』の意識だけを頼りに、 浮き草のような世界観の中で、漂っているようなものです。 非常に、命が弱っているのです。 ③ 具体的に潮の干満と運命はどのような関係なのか? 我々の生命活動は、宇宙のリズムに貫かれています。 『時』は、因果応報と云う現象を実現させるリズムです。 ですから、自分の運命と宇宙の運行とは結びついています。 特に潮の満ち引きとの関係は、、 簡単ではありませんので、ここでお答えできかねますが、 月の力についてご興味があれば、 「国家の品格」を書かれた御茶ノ水大の教授藤原正彦・美子ご夫妻が 翻訳をされた「月の魔力」( アーノルド・L. リーバー 著)を ご紹介をしておきます。 ④ 運命学の暦はなぜ2月4日が始まりなのか? 運命学の暦は、「二十四節気・にじゅうしせっき」から作られています。 「二十四節気」については 、又、いつか詳しく記事にしたいと思っていますので、 今日は、簡単に、要点のみにさせていただきます。 これは、1年間の気候の推移を示す24の基準日の事で、 太陽が通過する道 = 黄道上の位置を24等分(角度で15度)し、 その点を太陽が通過する瞬間で決定します。 その通過点の呼び名が二十四節気です。 太陽は、1年かかって又元の位置にもどる訳ですが、 その太陽の移動によって春夏秋冬の季節の変化が起こります。 二十四節気では、立春から翌年の節分(立春の前日)を一年とします。 いわゆる節分はその1年の最後の日=大晦日です。 「福は内、鬼は外」と豆を撒いて過ぎし1年間の邪気を追い払い、 翌日からの新年の為の準備をするのですね。 旧暦ではありません。 その年の立春は、政府から官報の暦要項として毎年公表される 国立天文台が発表する正確な二十四節気に拠っています。 二十四節気の名称は、 現在でも季節の節目を示す言葉として使われていますが、 元々、古代中国の華北地方の季節感で名付けられたものです。 立夏や立秋の名称と時期が、 我々の季節感からすれば、ずいぶん先走っている気がします。 立春で説明しますと、ここから春と云っても、 実際の気候からいえば立春の頃が最も寒いのです。 中国古代にできた暦の方が、 日本の自然とはずれているのだと理解をするべきものです。 我々から、東洋の叡智を失わさせた近代化とは、 西洋における神と人間との事件でした。 神に長らく抑え付けられて来た人間が、 その神の桎梏から独立した事件です。 神の位置に、人間の意識を置き換えると云う荒業だったのです。 デカルトを、またまた皮肉ってしまうようですが、 いかに彼の命題が、バカバカしいモノか、、、、、、 シッカリ銘記していただきますように。 我々は、想うが故に生れて来ますか? あはは。 我々は、想うが故に死にますか? あはは。 生死を説明できない命題なんて! それが、愚かな現代の近代合理主義の土台なのよ! そんなものに、地球のすべてをゆだねてしまって! その愚かな命題に乗せられて、 現代を生きる我々は、自分の意識こそが大事であって、 その意識を支配している『時』を大事とは誰も思っていない。 コメントを下さったあなたへ 『時』の重要性を、若い時に気が付いたあなたは、幸運です。 なぜなら、『時』こそ大事だから、忍耐が大事なのです。 抑圧された我慢ではなく、 『時』を知る智恵は、『時』を待つ力を与えます。 それは、『陰』の存在を信じる『陰徳』に通じます。 『時』は焦るものではありませんよ。 1年は、365種類の24時間を繰り返さないといけないのですから、 一日、一日、新しいあなたでなければいけないのです。 ほほっー。 『時』を味方にしてくださいね。 長い記事に最後までお付き合い下さって、感謝申し上げます。 次の更新まで、ゆっくり時間がありますから、、、 あわてて読まないでくださいね! よき一週間をおすごしください。 次の記事は、ブログのお友達の為の記事になります。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |