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    コメントへのお返事 14.    (★姓名判断 2 )   名と体、 あるいは主客合一

    Category : 運命学
    吉野山  上千本  高城山展望台からの眺め


    上千本







    如意輪寺から坂道を登って来て、展望台までは12000歩くらい、

    あと、最後、奥千本にある西行庵を目指して金峯神社へ登りました。




    ---------









    今日は、前回からのつづきです。


    コメントへのお返事 14.(★姓名判断 2 ) 名と体、 あるいは主客合一





    今日の記事は、むずかしいかな?

    そんな気がしております。



    現代の常識から見たら想像もできない?!   ほほっ。

    キレイだ! 美味しい! ウザイよ! なんて

    感覚的な反応しかできない意識なんかには到底掴めそうもない実相を、

    今日は、東洋哲学の叡智・深遠なる法理の真骨頂を

    書かざるを得ないかな?  と思っております、、、

    と云う事で、覚悟をしていただいて、よろしくお願いします。







    今日の一つ目のコメントは、前回からのつづき、

    2012年 10月 16日の記事

    ★姓名判断  緊急!  『陰』を無視した名前は付けてはいけません。
    へいただいたコメントからになります。




    まず、いただいたコメントを紹介をします。


    ◯ 今時の子供達の名前については、

    やはり疑問や違和感を感じていました。

    何かがおかしい、こんな名前を付けられた子供は可哀想だ、

    と思っていましたが、何がおかしいのか?

    その理由がはっきりとわかりませんでした。

    「現代の若い人の考えにはついていけない」で片付けていましたが、

    名前と命名に、こんなにも深い意味があった事に驚きました。

    若い人達がおかしい…だけではなく、社会からも、私自身からも、

    日本の文化や陰徳が失われている姿だったのですね。


    >いま、保護者から遺棄され、
    >虐待され、餓死させられる子供たちが沢山生れています。


    とてもショックです。

    命や陰を軽視して無視しているから、こんなことになってしまう…

    どうしても、弱いものが犠牲になってしまう。

    陰を、東洋の叡知を、日本文化を、先人が大切にしてきたものを、

    本当に本気で取り戻さなくてはいけない。





    いつも、よく記事をお読みいただいて咀嚼なさったコメントを

    感謝申し上げます。

    今、生れてくる子供たちは、過去に生まれて来た子供たちよりも

    命式の調和が取れていない確率が高いように思います。

    命式の調和とは、命式内の五行のバランスです。

    めくるめくような? 目がグルグル廻るような名前を付けられて、

    その名にぴったしの運命の特徴を命式で示して生れて来ています。


    名は、その体を表す標(しるし)です。

    体は、その運を現象化した実体、時に応じる運命の舞台です。



    名は体を表わす



    昔の諺にもあるように、名はそのままそのものの実を示します。


    その人の名は、その体(実・本質)をあらわし、

    その人の名は、その体(実・本質)を表わすに等しく付いた題名です。




    又は、名(めい)と実(じつ)は相応じています。

    名前はその物や人の性質や実体をよく表すものだということ。

    名実一体ともいいます。



    それは、そうでしょう。

    名には何らかの想いが込められています。

    個々の想いの差別相が、名に込められて体の差別相です。

    名と体は、その思いの反映の結果でしかありません。

    それゆえ、名を決定する想い(意識)は重要です。


    思想が人を作り、人が自分を述べる事で国が造られる。

    まして、我々の五感を利用するマスコミや国の狙いもあって、

    われわれは、刻々の情報に支配され、操作されています。

    この国がこうだから、それにふさわしい運命の子供が生まれる。

    この国の人びとは、今こう云う風な傾向だから、

    その傾向が積み重ねれば、一つの時代が生れるのです。



    昔は、そこに風土、国土が関わって来ていました。

    風土の影響、自然と一体となった人が居ました。

    自然と一体となった人が集まって国を作る。

    その時、自然と一体となった人が作る国は、自然の秩序を鑑み、

    自然を守りながら国を造って来たのです。

    その頃の子供の名前は、自然に対峙する人の「道」や「理」、

    人のあるべき生き方を表わす漢字が、名前に付けられました。

    それは言いかえると、国に自然の守りが具わる道理だったのです。


    近代合理主義が徹底された現今の子供に付ける名前は、

    無意識(自然)を排除して人間の意識を中心に据えた思想のままに、

    道理や伝統を排除した自分は自由である!と宣言をしたような名前や

    自然とは縁を切った人間、意識で生きる自分のみが輝く?名前や、

    自己存在のみに没した名前になっています。

    これは、近代化の優等生である日本で顕著なのではないかと思います。



    未だに欧米の名前は、Mery や Peter など

    キリスト教史の中で、その名が聖者のだったり、

    あるいは、建国の勇者のだったりと、謂われと由緒を持つ名前です。



    この事から分るのは、


    もうすでに、日本は終わっているのです。




    東洋の叡智は、精神と肉体は一体であると説いています。

    さすれば、西洋の合理主義を取り入れて約150年、

    精神が無意識を排除した思想に慣れ親しみ、完全履修してしまった今は、

    肉体にもそれは侵入し、生命機能を根底から変えているのですよ。


    現今の日本の現象を見ていると、

    精神と肉体は一体であると云う証拠が表われて来ているようです。

    精神の現象は直ぐに現れますが、病気と同様に、

    肉体、物の世界に表われるのには物理的に『時』がかかりますから、、、

    約30年から100年かかるのですね。





    物の世界に現れてしまってからは、もう遅い、、、

    肉体に症状が表われてしまってからでは病気は進行をしています。

    実は、大変な事に、、、心身共の苦に立ち向かわなければいけません。



    まず、新しく生れてくる子供たちの数。

    少子化です。



    次が、その生まれた来た子供たちの心身。

    その証拠が、体をあらわす名前になります。



    同時に、『陰』である女性が『陽』の現場へ狩り出される事。

    国策を挙げて経済の為に女性が働き手として狩り出されようとしています。



    次が、国土。

    自らの命の根源を無視する事は、自らの命の破壊です。

    自らの命を軽く見て、自尊の精神を捨てた人間を、

    他者が重んじる訳は無いのです。

    自らの命の根源『陰』を軽んずる人間のいる国土が安んじられる訳はない。



    国土を守る国境警備の危機が惹起するのは、至極当然なのです。


    これから、ますますこの苦難は厳しいものになって行くでしょう。







    >いま、保護者から遺棄され、
    >虐待され、餓死させられる子供たちが沢山生れています。


    とてもショックです。




    本当にショックです。

    『陰』・命の根源を無視する思想を受け入れてしまった我々は、

    あらゆる次元から命を軽く見てしまう隙を受け入れたのです。

    まず、母が子らを、親が子供を、子供が親を、軽んずる。

    道徳の規範が、ザルから水が漏れるように、抜けていく現象化が進みます。


    経済の為だからと、気楽に考えてはいけないのです。

    政治の道具だからと、便法に走ってはいけないのです。

    根源を失った民は、命が軽んじられる光景を見る苦しみが、

    感覚器官を通して個々の意識の中で疼(うずく)くハメなるのです。




    そして、この『陽』の現象界には、

    人の意識の推移にふさわしい人間が生れて来るのです。

    この国 = 我々です。

    われわれを取り巻く環境 = 我々です。


    『天地』 = 『人』




    今日は、この事をちょっと深く掘り下げてみたいと思います。





    まず、むずかしさの頂点から滑空して行きましょう!   あはは。


    名実一体に似た言葉に、

    名体不二、主客合一、あるいは、境智冥合(きょうちみょうごう)

    と云うものが、東洋哲学にはあります。

    境智冥合は、仏教的な深遠な法理が絡む仏語ですので、

    今日は、簡単に次の二つに絞っていきます。


    名と体、 あるいは主客合一については、

    その内容が、東洋的思想、東洋ならではの哲学になります。

    むずかしい?理由は、

    我々は、東洋の地である日本に生きながら

    西洋近代合理主義の現代を生きている為に東洋思想に疎くなっています。


    特に現代の病理である近代合理主義の

    意識できる事だけが全てと云う思潮を鵜呑みにして生きています。

    それゆえ、

    無意識の領域にある真実の存在を知らぬ間に過ごしています。


    現象界である此の世=意識できる此の世界がすべてだと、、、、、

    見、聞きできない無意識界における実相など、無いと思い込んでいます。




    具体的には、

    現象界におけるこの世では、

    我(主)と環境(客)は、みごとに離れた別々のモノと云う認識です。



    私は人間、足元の大地は物でしょう?      あはは。

    私を取り巻く環境は、私とは関係のない物だわ!   ほほほ。


    これが、意識が行う認識の限界です。 



    近代合理主義と云う

    五感を中心に据えた覚知に重点を置く思潮にだまされて、

    無意識界においては、主(我)と客(環境)が一体である。と云う

    真実、実相をなかなか会得信じる事ができないのですね。



    東洋の仏教においては、

    凡愚の身である我々は、この真実を会得するのは無理!

    大変なんだ! とされて来ました。

    それを真に分っているのは仏なんだと説かれています。

    その位、難解な重要な東洋の智慧を記事にしようとしているのですが、

    さあ、どこまでお伝えする事ができるか?

    これもまた、ムズカシイ事ですね!

    無謀な挑戦をし始めるような? そんな気がしないでもない、、、

    でも、難しいなんて!

    今は、そんな事を言っていられない。

    この西洋の意識文明を有効に使いこなすには、

    東洋の叡智を我々が身に付けて行くしかないのではないか?

    それしか、私たちのサバイバルの方法は無いような気がしています


    ◎◎ まず、諸注意を!    あはは。

    東洋は、「分る」とは、簡単に言ってはいけないのです。

    「理解した。解る」なんてとんでもない!

    「解る」と言うのは、傲慢。

    慢心の謗(そし)りに値する事です。


    ◎◎ 東洋は、頭だけで「解った」を一番軽蔑しますから、

    実行も伴わない解った気分になる事を一番厳戒します。

    それ以上の進歩が無くなる事を戒めるのですね。


    ◎◎ 東洋の叡智が分ったと云う以上は、

    あなたは、聖人、仏、それ同等の人間になったはず、と見なすのですね。   恐いですね。     あはは。


    唯の凡愚な人間の風情で「分った」なんて、恥ずかしくて言えない。

    東洋の会得とは、意識が認識する合理とは全く違うのですよ!   ほほっ。


    ◎◎ 東洋は常に、全生命的な解を求めています。






    ---------- それに比べれば、西洋は簡単です。

    西洋は頭の中だけの合理であればいいのですから、、、


    『陽』・意識が行う認識とは、『陽』・言語を通じた前頭葉の機能です。

    目や耳や手で合理の事項を記憶する ----------。

    それが、( 解った ) --------- つもりになる。


    ---------- 全身的な体感が伴わないまま脳の中だけで、

    前頭葉の中で、新たなシナプスが結びついただけの事です。

    この繰り返しの刷り込みが、学校教育で行われているものです。

    これが、知る事に重点を置く知識教育です。

    いわゆる人間の持つ全脳の能力からしたらほんの一部です。



    この積み重ねの集積が、学問です。

    学問をすれば、真実に到達ができると錯覚をしている現代人。

    学問をすれば、あらゆる矛盾を解き明し、

    人間がしあわせになれると錯覚をしている現代人。


    とんでもない!

    学問がどんなに知識の集積を積み上げようと、

    人間は平等にも自由にも幸せにもなれない 。


    ---------- 矛盾が広がるだけです。


    なぜなら、もっと端的云えば、

    五感と云う狭いセンサーで得た情報で、

    全宇宙・我が生存そのものを規定しようとする傲慢愚行です。

    ~~~が、できる。

    ~~~ができない。

    と、意識の了見だけで人生の重要事項を決定をしてしまう。。。

    実は錯誤の上の決定や傲慢愚行かも知れないのにです。

    そこの傷口、矛盾が広がるだけなのです。

    『陽』・前頭葉が「知る」事は、すべてが分る事ではないのです !   



    新たな「知る」を求めて、ゴミのような知識が、時々刻々生れて来るけれど、

    「知る」事では、人間を本当に幸せにする事はできません。

    「知る」事の大過は、存在の不調和・不幸を舞い起こします。




    ≫≫≫≫≫ 今、現在、

    この世・『陽』の現象界で行われている事は、

    無意識が見えない事をイイ事に、『陰』を無視して捨ててしまった現場で、

    『陰』のバックアップの無い知識ばかりが暴走をしているのです。








    以前、たしか、記事にした事があるのですが、

    安岡正篤先生の記念館の方が言われた言葉、

    「大学教育を受けると『陰』が分らなくなるのです。

    自分の命や存在に関係のない雑学ばかりを学んでいくと、

    自らの命、その存在についての実学が身につかないのです。

    今の大学教育は、『陰』を排除した世界の中で学問と言う。

    何十年、学問と云う雑学をいくら学んだ処で、

    命の原点から、自己の存在の原点から遠くなるのです。

    迷いの中で命を大事にできないのです。」


    この意識の「知る」事へ偏重した教育のせいで、

    なにが自分の生存の源なのか ? 分からなくなるのですね。

    そして、終には、簡単な目先の物欲へ執着をするようになる。

    ---------- これが、現代の病理です。




    この人間のありさまを見て、


    天界の中、第六欲天の魔王、他化自在天が手を叩いて喜んでいるはず。

    人間の物欲へ網を懸けて、

    自在に人を支配できる喜びに打ち震えている事でしょう。

    天下の人間が、皆、俺の配下になった!!!  と。






    よく冷静に考えてみてくださって!




    究極、我々の命は、『陽』・五感が支えているのではないでしょう?!

    『陽』・意識が、『陰』・命の源ではないでしょう?!

    まったく逆さま!

    『陽』・意識は、『陰』・命あればこそ生れるものです。

    その証拠に、目が不自由でも、耳が不自由でも、口がきけなくとも、

    命は長らえる事ができるではありませんか?


    その『陰陽』の関係を逆転をして、

    『陽』意識が、『陰』・生命存在を解明しようとするなんて?!

    -------- それを学問がする。と言っているのよ!


    意識が命を解明する? できるのですか? できるわけがない!

    『陰』から派生した『陽』が、

    どうして命の源『陰』を解明できるのでしょうか?

    学問なんぞにできるわけが無いのです。


    もう、意識の慢心、驕慢としか思えない、、、、、


    いかにも、いかにも、近代合理で自然から隔離された現代人は、

    『陽』・意識でこの世を解明して行くつもりなのでしょうが、

    残念ながら、個々人バラバラの五感が集める = 意識できる領域には、


    ≫≫≫≫≫ 宇宙や自然の真理と結びついた智恵は、ゼンゼン無い。

    無常の現象界には、時に耐えられる真実は無い。  のです。







    この意識中心文明の限界を見極めた上で、

    近代合理の誤謬、大錯誤を踏まえた上で、 よろしいでしょうか?

    先へ進みましょう!




    西洋が指さえ触れる事ができない東洋の深遠なる智恵、

    東洋独自の叡智、

    その一部を抜粋してみましょう、、、


    たとえば、驚かれるかも知れませんが、    


    ◎ 正悪不二。  正と悪は二つではない。正と悪とは一つなのですよ!


    ◎ 色心不二。 ( 色 = 肉体)肉体と精神は二つではない。




    現象界では正と現れ、悪と現れる二つのモノが、

    現象界では肉体と精神とに分けて捉えられる二つのモノが、

    実は無意識界では ------------ 不二である。 

    --------------------------- 一つである。



    この事が、哀しいかな、五感・意識には掴む事ができないのです。

    欲に塗(まみ)れた意識には情けないのですが、、、



    この真実も知らずに、物に固執をしているのが西洋文明です。


    強いて言えば、物を獲得する為に出来上がったのが西洋思想です。


    それはそうです。


    無意識界を知らず、無いと捨て去った思想に、分るわけがない。



    ≪≪≪≪ 依然、西洋は、

    五感の快楽の天界に憧れて真実に迫る事ができないままにあります。






    現代における政治世界の常識のひとつは、

    ≪≪≪≪ 都合よく正と悪とを分けて、

    正義は悪を退治しなければならない。

    相手を倒す為に、自分を正当化する為に、その方が都合がいいのです。

    民主主義は正である。故に、民主主義の敵は悪である。

    その悪を滅ぼす為の戦争は正しいのだ! 、、、だそうです。  あはは。

    過去の戦争を見ても分る事は、

    民主主義の為と言いながら、実はエネルギー、資源の為です。

    そして、

    現在、世界の強大国は、

    兵器を使わない経済戦争をやっているではないですか?

    そのバックに軍事費の増大と、核を見せて脅かしながら、

    我々は、まだ物欲の世界戦争から抜け出してはいないのですよ。


    ≪≪≪≪ 肉体と精神はべつべつである。

    肉体は、心の表われである。とか、

    心の入れ物が、肉体である。とか、

    体は穢れても、心が清ければ正しいのだ。とか、     あはは。


    まさに迷いの中、

    その都度の都合のイイ言い回しでありとあらゆる表現が出回っています -----

    ----- しかし、心と体が不二だなんて、誰も言わない。

    云えば、自分の欲望を抑えなければならなくなり縛りますし、

    まず、自分の欲望に邪魔をされて、そこには及びもついていないのでしょう。




    西洋における人間の真の自由と平等は、偽善、絵空事であります。


    神や天国や正義や悪、悪魔も、人間の観念の造作物でしかありません。





       ------



    では、東洋の叡智が、この苦境をどう啓いていけるのか?

    に移っていきますね。



    ≪≪≪≪≪≪ 東洋の分ると云うのは、

    その事で、自分を取り巻くある局面が啓(ひら)けて来る事です。



    つまり、自分を取り巻く一切が変わって来る。


    ーーー ここが、意識中心の我々には、ものすごく分かりにくい。と思います。




    なぜなら、われわれを取り巻く現代文明の常識 -----------

    ---- キリスト教哲学の自然宇宙観は、

    主(我)と客(環境)はバラバラの関係です。

    いわゆるキリスト教的世界観は、二元論で貫かれています。

    まず、神と人間が、創った神、創られた人間として離れていますね。

    Oh! no! この距離感!!!     あはは。

    どうにもならない! この距離感!   

    どうしたら人間は、神になれるのだ???

    ーーーーーー どうしようもないです! 

    なれません。




    私なら、信仰におけるどんな利得よりも、この一点が納得できないならば、

    キリスト教の神を受け入れる事はないでしょう。

    五感が満足する天国なんぞ、 行った処で飽きるに決まっているからです。

    そんな満足より、神、と同等になれる方途が明かされていない事は、

    致命的であり、ここが欠陥なのに、理解ができません。

    私なら、このGODと人間との関係をまず糺(ただ)さずにはいられないわ、、、   


    なぜ?

    神との格差を認める教理の中で、

    人は、人間同士の間に格差を築き上げるはずだと.....    ほほっ。


    その通り!  西洋は格差どころか、階級社会なのですから、、、

    日本とは全く違う階級社会、契約社会そのものです。

    その西洋史で、人は、神との平等を求めるよりも、

    人間同士の平等を求めて来た惨(むご)さを思わずにはいられません。

    だから、あえて、自由と平等と叫びたかった、手にしたかったのです。

    人間を縛るこの近代合理主義を生み出した母体、神との関係、

    どうしようもなく神へ近づけない宇宙存在観の中で、

    どうして真の人間の自由や平等が実現できるのでしょうか?


    近代合理主義の閉塞感、     ほっーーー


    もう、いい加減にしてほしい、、、

    あ、

    ただ、天国がどこに在るかは、理的に明示されておりません。が?  

    ラッキーなら天国へ召されるそうです。 あはは。




    究極、宗教、思想と云うものは、

    その絶対者との関係性、思想の世界観が、この世に具現するのです。




    この浅はかな主客バラバラ、どこまで行っても神に成れない階級社会、 

    合理主義をやればやるだけ日本も階級社会へ移行をし、

    そして真面目な日本人は、それも完成させるでしょう。



    いろんな各界の識者から、

    これからの労働はピンとキリとに別れていくと云うメッセージが出ています。

    その通りです。

    < おれの意識で、おまえに差をつけてやる!>     あはは。

    これが、近代合理の原理ですもの。。。

    各自の意識、前頭葉のスグレ方の競争に収斂されて行く訳です。

    これからの社会はいよいよそうなる。

    熾烈な前頭葉の競争が激しくなっていくものと思います。

    前頭葉の優秀さ(知識の集積)が合理主義の成功者になっていきます。

    が、それは、『陰』の衰退の現象化を引き起こすでしょう。

    それは、つまり命の継承の断絶です。






    まとめましょう。



    主と客の二元論が、現代の一般常識ですから、

    あらゆる情報、思考、学校教育もそう、

    この二元論の上に成り立っていますから、

    それらに染められている我々は、二元論の時空の中に居るゆえに

    東洋の叡智・主客合一なんて、むずかしくて受け入れられないのです。

    前頭葉のゴミのような知識が邪魔をして.....   ほほほっ。


     



    西洋哲学の愚かしさは、

    キリスト教的西洋哲学の二元論の主体と客体がバラバラな事です。

    私の欲望の満足の喜びの為に、

    私の意識の満足の為に、

    欲に染まった意識主体の自我は、

    欲望を叶えられないのは客体であるあなたが、環境が悪い。

    全ての原因を自分以外の他者、環境のせいにするのですね。

    他者を変える事にヤッキになります。

    これでは、争いや戦争はなくならないでしょう。

    相手が悪いと云うロジック上では、悪を退治する戦争は聖戦になるのです。



    これが、欧米の大国のロジックです。

    彼らは、環境(他国、地球まで)を人間好みに変える事が善なのです。

    彼らの望みは、自分の国家の意識が満足をする事です。

    このロジック上で、今の世界は廻っています。


    意識の満足、快感を求める(天国)

    しかも意識は、過去を向いています。

    五感で感じた結果から脳が反応するのが意識ですから、

    反応がない事は、意識には分らないのです!   あはは。


    感覚器官に引っ掛かった事には、徹底的にリサーチをする。

    しかし、感覚器官に何も感じない事には、見向きもしない。

    目の前にない「未来」には、弱いのが意識です。


    だから、

    『陽』の権化である法律、それを人間の福祉の為に行う行政において

    こうなると想像できる事について、手が打てないのです。

    だれか被害者が出るまでは、、、誰か死亡者がでないと改善しません。

    だから、墓場行政と云われる所以なのですが、、、、、


    現今の世界情勢においても、

    世界を振り回す北朝鮮が悪いのです。----- とこうなります。

    現実の局面を、大国が寄って集(たか)って弱小国家のせいにして、

    アメリカ、中国揃って、呆れるほどの無能ぶりです。    ほほっ。




    これを東洋的に観ますと、主客は一体なのです。

    私が苦しむのは、私が変わらなければいけない証拠である。

    北朝鮮をそうしたのは、我々のロジックが間違っているのだ。

    --------------- こうなります。

    力ある大国が、変わればいいのです。

    客体(他者)を変えるより、主体が変わる方が簡単でしょう?









    国を家系、家族に言い換えますと、


    我々は、主体です。

    我々の家系、家族は、客体です。


    主客合一ですから、

    私は、私に過不足なくふさわしい家系に生まれて来ました。

    あなたも、あなたに丁度の家系に、両親の処に生まれて来ました。

    と云う認識が、真に正しいのです。



    それを覚悟しませんと、先へ進みません。

    そう認識した処からが、リセットです。

    さあ、後は、あなたが、次からどうするかです。

    あれこれ感じ続ける?  (あはは。)意識に振り回されていては

    まだまだ、自分の欲に振り回されている状態です。

    感覚器官が集めた過去の雑多な意識は、捨てる事です。


    運は、<時>が造るものです。

    今と云う新しい<時>を、過去の意識で汚さないようになさって!


    真に今の<時>を自分のモノにするとは、

    そう云う事でございます。



    常に、new!

    それを、now と言います。






    最後にテストです。    あはは。


    西洋は正と悪の対立。   東洋は正悪不二

    西洋は心と体が別々。   東洋は色心不二。 ( 色 = 肉体)


    みなさまへ、

    上の西洋と東洋の違い、どちらが馴染んでいますか?

    西洋と馴染んでいると? それは危険ですわ !?   あはは。

    宇宙の真実はどちらだと?      



    (東洋かな?) とうっすら、、、?   あはは。


    この乖離!  を自覚なさってください。

    この西洋と東洋のはざ間で中途半端にうずくまらないで、

    これを乗り越えていただきたいと切に願っております。




    ゴールデンウィークも最後になりました。


    山ばかりに行って、現実を捨てておりましたが、

    今日位から現身(うつしみ)に戻りつつあります。




    次の更新まで、良い日をお過ごしください。

    次回も続きの記事になります。
































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    コメントへのお返事 15.      (★姓名判断 3 )      運命と努力について

    Category : 運命学
      吉野山  奥千本西行庵


    西行庵 2






    今回の吉野行きの目的は、西行庵を訪ねる事でした。

    高城山展望台からは、人影が少なく、

    こんな山道を、西行庵まで行くなど、誰も居ないのかしら?

    不安になりながら金峯神社の手前まで登って来ると、

    鈴なりの人達が、神社前で群れになっていました。

    門前色を成すとは、この事かと、、、

    バスで登って来た観光客の群れでした。

    そこからは、数珠つなぎの人の群れに混じって奥千本への道中です。

    西行庵は人気のあるスポットのようでした。




    奥千本 へ降りる山道から  桜の木がまばら、、、急斜面の切り株の痕
     


    奥千本




    上の写真ですが、

    桜の花越しに見える谷合にも、

    写真の下の方にも、

    地面に散らばっている短く切られた木の断片がありますね。

    これらは「ウメノキゴケ」と云う白いカビの被害で枯れてしまった桜の木を伐採したものです。奥千本は被害が広がっていましたね。

    桜を守る為に地元のボランティアの方々が、

    タワシでカビを幹から落としたり、伐採した桜の枝を持ち帰って

    新たな桜の苗木を育てたりされているそうです。





    実際に西行法師が、

    吉野山のどのあたりに庵を結んだのかは、はっきりしないらしい。

    庵は、上の写真の急勾配を右手の方へ降り切った処、

    谷に臨む南に面した平地にひっそりと建っていました。


    西行庵 1





         とくとくと落つる岩間の苔清水


               くみほすほどもなきすまひかな 



       (苔生した岩の間からとくとくと湧き出ている清水があるのだが

                汲み干す事もない位の一人住まいの我が身よ)


                               伝 西行作




    この「苔清水」と読まれた、西行法師が庵での生活水を得た場所が、

    この庵より東へ100m程進んだ所にあります。

    そこは、西行法師や彼を慕う松尾芭蕉が歌や句に読んだ処で、

    歌碑があります。 



    庵の前にある谷側の桜の木の下で、庵を正面から眺めていると、

    地元の人である老人が近づいて来て、次のような話をしてくれました。


    他国を放浪する法師などは、人間嫌いな人が多いのです。

    西行法師もそうだったのでしょう。

    こんな山奥に庵を結んでと、よくやるなあと思うかもしれませんが、

    逆に、人間嫌い、一人がいい人間だったのですよ。

    普段の生活は庵の裏山に当時あった宿坊で、

    山伏たちと共に起居をしていた西行法師が、

    一人になって歌を詠み、月や自然を味わう為に建てたものです。

    今は、社会の中で会社や組織、家族と云う人間関係をこぼれると、

    ホームレスになって路上生活をするしかないけれど、

    昔の日本は、寺がそう云う人たちを受け入れる場所になっていた。

    諸国を流浪する法師と云うのも、山には山伏、それが町に住めば浪人、

    ほとんどが武士の出です。

    なぜなら、百姓は子供が大勢生まれても、寺へ出すと云う事はしなかった。

    出す金子がないと云う事もあったが、

    子供は歩くようになれば田んぼの働き手になるんだから、

    武士は、決まった食い扶ちの中で、家督は長男だけしか継げないし、

    余った子供は養子に出すか、何かの金子を添えて寺に預けたのですよ。

    寺も、そう云うもので財産を増やし大きくなった面もある。

    その頃の寺は、今の葬式のような事をやっていませんでしたから、

    何もないまま寺に転がり込んだ者は、自分の食い扶ちの為に、

    近在の郷で、死人の出た家の死体を運んだり埋葬をしたりして

    物を貰うような事をやっていた。

    日本人には、仏教の修行者に物を与える=布施をする事が善行だと云う

    教えは広まっていたからです。


    この西行庵も、

    何度も朽ち果て、その度に地元の人達が立て直して来たのです。





    見知らぬ出会いのまま、老人は、そこまで一気に語ってくれました。

    いつもそうなのですが、どこかへ行きますと、

    このような不思議な出会いがあります。  ほっ。

    必要な人と出会えるのは無意識からの守りと、、、感謝しております。



    ★ ------仏教と葬式について少し。


    仏教では、

    お釈迦さまが亡くなった時には在家の人達が葬儀をしたようです。

    日本でも昔から、一般には葬式は儀式化されていませんでした。

    では、今のようになったのは?

    江戸時代からと、はっきりしています。

    理由は、江戸幕府のキリシタン弾圧です。

    自分の家はキリスト教徒ではない証明の為に、

    だれもが、必ずどこかの仏教寺院に所属する檀家制度を設けたのです。

    その宗派への信仰云々から選択をすると云うよりも、近場の寺院へ、

    つまり近在のお寺に、今の役所の住民課、戸籍係を担わせた訳です。

    それが、「宗門人別帳」です。

    幕府は、死の秘蹟と云うキリスト教式葬式と区別をする為に、

    仏教の寺院、僧侶に葬式をやるように命じました。

    そこから、現在の儀式としての葬式仏教ができ上がるのですね。

    当時の仏教界が、時代の政治権力に道具化され、屈し、

    思想としての瑞々しさを失い、制度化し硬直化した姿です。


    ★ ------ついでですから、仏教の歴史的な変遷について簡単に、


    ・もともとインド仏教は、輪廻からの解脱、生者の悟りです。

    故に葬式、墓参の概念はありません。


    仏教が中国へ伝わった時点、中国には儒教が広まっていました。

    儒教自体は、紀元前2Cには、それまで中国人が元々持っていた先祖霊崇拝と云うシャーマニズムを吸収し、それを基盤にした家族理論と政治理論を完成した国家的な学問になっていました。

    その儒教の影響を受けて成立したのが中国仏教です。

    ・中国仏教は、儒教の先祖霊崇拝の思想『孝』を受け入れたのです。


    古代の日本にも、先祖霊崇拝シャーマニズム的土壌がありました。

    中国から伝来した仏教は、日本古来の先祖霊崇拝と融合します。

    ・我々が日本仏教と思って来たものは、

    本来のインド仏教にあったものと、無かったもの -----

    --- 中国の儒教的要素や

    --- 日本古来のシャーマニズム的要素が、

    深く混交融合しているのです。

    従って日本仏教の味は、一番濃厚なはずなのですが?  



    このように、仏教は伝播伝道されて行く度に、

    その国の民族の魂を深く吸収しながら広まって行ったと云えると思います。

    逆説的には、

    仏教は、土着のものを貪欲に吸収咀嚼する深い懐がある

    高度な哲学大系であったと云う事です。

    ここが、土着を切り捨てながら排除するキリスト教とは全く違います。



    さぁ、伝播最終地日本で仏教は葬式仏教のまま死に絶えるのか?

    インド、中国の文化文明を浚(さら)って大きな潮流となった

    仏教の海流が、日本の土壌で新たに薫発発展するのか?

    非常に興味があります。



    ★★ ------ついでですから、現代の思想的現状について簡単に、


    現代は、これら東アジアシャーマニズムに発した宗教圏と

    人間の意識が作り上げた宗教(キリスト教)の激突の結果、

    ご覧の通りの意識的宗教(キリスト教)が生みだした

    近代合理主義の席巻する東アジアになっている現状です。

    人間の意識が作った人工的教義『陽』によって、

    人間を含む自然、命の根源『陰』が排除されているのが現状です。

    これは、このブログで繰り返し記事にしています。

    詳しくは、今後、追々東洋の思想シリーズで、、、


    ーーーーーーーーー













    本論へ入りましょう。






    今日は、前回からのつづきです。


    コメントへのお返事 15    (★姓名判断 3 )  運命と努力について






    今日の一つ目のコメントは、前回からのつづき、

    2012年 10月 16日の記事

    ★姓名判断  緊急!  『陰』を無視した名前は付けてはいけません。
    へいただいたコメントからになります。




    コメントを紹介をします。


    こんにちは、

    暇を見て、お昼休みに一読できました(^^)

    命名は必然な部分が多いようですが・・

    努力の仕様はありますか?   





    努力ですね?

    そうですよね、

    少しでも良ければ、、、と思うのが人情ですから、、、    ほほっ。


    努力は、良い事ですね。

    でも、お尋ねは、もうすでに悪い名前が付いてしまってから、

    それを努力で覆(くつがえ)すような事ができるか? ですね?





    少し、むずかしいですよ!   ほほっ。

    一般的には、

    意識の世界に置いては、努力は無条件に良い事です。

    論ずるまでもない。




    しかし、合理主義的発想に基づいている努力、と云う限りにおいては、

    大いに、、、問題あり、です。

    無意識を無視をした努力、、、と云う限りにおいて問題です。


    なぜなら、

    私達の生の衝動は、意識『陽』から芽生えるものではありません。

    私達の生の衝動とは、意識の奥、何層もの奥、


    意識のもっと奥の無意識から、

    私達のすべての生の衝動は起こっています。 


    私達は、自分の生の衝動によって生命を守られています。

    無意識を無視する意識中心の努力は、

    一時は栄えるように見えても、

    終には、家族を崩壊をさせ、家族、男女の役割を失くし、

    個人を孤人に変えて、社会の生の根源を途絶えさせるからです。

    こう云う混迷した人間のありさまを

    ずっと鑑定の仕事の中で見続けて来ています。

    こう云うのを、是非努力してとお勧めする訳には行かないのです。



    この処を踏まえてか、

    この質問を寄せられたコメントを下さった方は、賢明な方ですね。



    努力の仕様はありますか?   



    仕様はありますか? と、問われています。


    仕様 と言われています!   あはは。


    そうなのです!


    仕様 は、いろいろありますね!   あはは。



    しあわせになる仕様と、

    不幸になる仕様が、あって、

    その間には、しあわせと不幸の間のグラデーションが際限なくあって、

    どこの仕様なのかが問題なのです。




    ややこしい?   あはは。

    この視点から、今日は一つだけ、余り長くなるといけないので、

    このブログの視点から記事にして行きたいと思います。



    問題とは、仕様 次第で努力が実を結ぶどころか、

    不幸の結果の原因になる、不幸を招く事もある。

    そう云う点です。



    それが、特に、

    五感を通して入って来た情報である環境に振り廻わされた場合、

    努力の結果は、もっと不幸になる場合もあります。



    と云う事を覚えておいてくださいね。

    要注意です。

    最後に、出て来ますから -------★◎★の印の処です!




    まず、先に、


    運命的に悪名が付けられた場合に限ってどうするかですが、

    一番簡単に直ぐにできる努力は、改名をする事です。

    この場合、

    戸籍名まで変えるのは家裁を経なければいけないので難しいのですが、

    通り名くらいを変えるのは、直ぐにできます。

    改名は、我々の意識でする事、『陽』ですが、

    自分の意識を通して、名前の数霊、音霊、陰陽、五行などの

    無意識の力を用いると云う事になりますか、、、

    それは、ある時は思っても見なかった効果をもたらす場合もあれば、

    期待通りの運を呼び起こさない場合もあり得ます。

    それは、数霊や音霊や陰陽や五行の認識が不足していたり、

    無知から来るものです。

    改名の効果は、直ぐには表われません。

    使い初めて、『時』が必要です。

    でも、何事も興味があるようだったら、

    ご自分で勉強をして、いろいろ研究をするのも楽しいかも知れない。

    練習ですね!    あはは。


    名 即 体 と云う事が良く分る体験になるでしょう。

    一度、徹底的にどう改名できるか、紙の上でやってみたら分るのですが、

    自分の願う理想的な名前へ改名する事はむずかしいのです。

    あ、これは、専門家がやっても限界はあります。


    まず、姓がすでに限定されていますから、

    苗字まで変えられないでしょう?   あはは。

    その条件下の工夫になる。

    ----- 使える文字が限定されます。

    苗字の画数とバランスが取れる漢字と云うのも制限されます。

    苗字の画数に合う陰陽、五行を持つ漢字も制限されます。

    そこで、少なからず妥協をしながら

    幾らか希望通りの名前の候補を作って挙げてみると、

    その画数や陰陽、五行の何処かかしこに、

    そこが不思議なのですが、

    命式に表われている運命の特徴が見え隠れします。


    これが、名は体を表わす証明です。

    名で体を決して隠し誤魔化す事ができないのがよく分ります。




    例えば、

    結婚運も子供運も弱い、いわゆる家庭運の弱い命式の持ち主とします。

    画数から数霊、音霊、陰陽、五行を調べながら好きな漢字を選んで、

    改名を決めて、これでいい名前ができたわ! と

    最後、もう一度確認をすると気が付かなかった処に、

    孤独運や後家運を表わす数霊や音霊が出て来ているのですね。

    凶運の名前を、その代わりに吉運を表わす名前にしようと

    努力すれど、モグラ叩きの様に、どこかにその運気が出て来ます。

    最終的には、

    それを、多少なりとも妥協しながら決めるしか無くなります。

    命式の運命を全く感じさせない改名は、非常にむずかしいのです。


    例えば、

    松田聖子さんと神田正輝さんの娘、神田沙也加さんですが、

    ・ 彼女の誕生命式からは、

    異性関係の複雑さ、配偶者運の弱さ、孤独性が浮かび上がります。

    それは、裏を返せば、何事も自分一人で為し得る女丈夫の運です。

    同時に、それに耐えうる強さもありますが、

    ・ 姓名判断の大家の先生に命名してもらった名前は、

    すべてが大吉、吉数の数霊で付けられた名前です。

    明らかに社会的に成功をする名前になっていますが、

    家族運は修正できていないままの名付けです。

    決定的なのは、命式で欠けている五行の「水」が、

    名前全体の五行でも欠けているのには驚きでした。

    彼女にとっての「水」は、

    妻とする女性にはあってほしい五行になります。

    神田沙也加と云う名前には、妻としての幸せはないのです。

    姓名判断の大家の先生に付けてもらったのに、、、、、

    この過程、結果を含めた全てが彼女の運命と云う事になります。



    結論から云いますと、

    このように運命学的に先天的な運を示す

    誕生命式の表わす運を変える事は非常に困難です。





    が、しかし、改名の効果はそれなりにあります。

    しないよりは、随分マシなのです。    あはは。




    このように、私たちの誕生日命式を観れば、

    各自の命式の偏りや癖が分かります。

    ここで、もしか、私は命式など分からない! と云う場合ですが、

    一般的な個性、キャラが立つと云うのか、  あは。

    各人の考え方、行動様式、感受性の癖、偏りと解釈下さって結構です。


    命式を知らずに、意識しなくても、

    その癖、及び、偏りを以って我々は独自の生き方をしている訳です。

    いいえ! 私はそう偏ってはいないわ! 

    と云う方もおありかと思いますが、人は何等かの癖を帯びております。

    もちろん、その癖が良い結果になったり、その反対もありますね。


    ここで、何が何でもがむしゃらに努力! と云う場合は、

    その過程で、この癖や偏りが強調されて出て来ます。

    良い癖が強調されるのは、喜ばしい事ですが、

    凶運を招く癖が強調されますと、困った事になりますね。

    まず、自分の運の癖を知る事が、大事になって来ます。


    おのれを知る事の重要性かな?   あはは。


    自分の命式が分らない人でも、

    なんとなく、あまり苦労しないでうまくいく事と、

    苦労も努力もするのにうまくいかない事がある、と

    云うような事は分ると思います。


    命式に具わっている事は、楽に自然にできますが、

    命式に全くない事は、自分ができない事すら気づかない。

    そこが盲点になっているのです。    あはは。


    たとえば、こう云う事もありますね。

    人の集まりの中で、いつの間にか他人の世話を焼いている。

    片や、いつの間にか自分は誰かに面倒を見てもらっている。

    など、人との間での自分の立ち位置などは、

    全部、自分の命式の中に具わっている事なのですね。




    運の癖、偏りは、例えると運命の器に例えられます。


    ◎ 生れ持って出て来た運命の器は、変える事ができません。


    ◎ これは、無意識の領域に根「因」があるものですから

    意識では変えられない。



    意識でする努力では変えられません。


    この根「因」は、五感では掴む事はできません。





    ◎ その根「因」が、この意識世界へ現れたのが花実「果」です。

    この花実「果」が、五感で捉えられる我々の姿です。



    我々が、お互いに五感で捉えている姿は、花実の部分です。

    これが、千差万別の現象の姿です。

    つまりは、運命の器に盛った中身の部分です。


    この中味の部分は、努力で変える事が出来ます。





    例えば、運命は、

    大きさ、深さ、色、質などが違うさまざまな器だと思ってください。


    仮に、器を綺麗な焼き物の壺としましょう。

    この綺麗な焼き物の壺を、ガラスの瓶に変えられません。

    しかし、この壺に何を入れるのか?

    中味を変える事はできます。


    清水で満たすのか?  雨水を貯めて置くのか?

    青い液体を入れるのか? 牛乳を入れるのか?

    う~ん! 雨水とお酒を混ぜたものを入れてしまったら?

    メチャクチャです。。。

    あ、いつもきれいな水を入れて花を活けましょうか?


    これは、心掛け、努力で出来る事です!





    そして、誰だって、一番手っ取り早く変えているのは ?

    外見的には髪形、お化粧、服装、アクセサリー、体型、

    学歴、職業、、、意識で努力をする部分です。

    人間は、もうすでにあらゆる努力をしています。   あはは。


    現代の文化は、ここに集中していますね。


    おまけに、我々は、普段、この姿をすべてと思っているので、

    意識で捉えられるこの姿を変えれば、運命を変えられると!

    そう思っている人は多いですね。     ほほっ。


    でも、これらは、どちらかと云うと環境に振り回された努力です。

    そして、その成果も五感で確かめたり、確認できる。

    特に、この近代合理主義の思潮の中では、

    皆が、個性を尊重すると云いながら、

    横並びに、皆と同じ姿になる為に、

    自分の個性を埋没させる事が変身だって云う場合もある。。 。

    学生時代の服装から、リクルート服になる事が努力、

    大人になれば、世界中で大量生産されている服を買って、

    大工場で大量生産で作られた加工食品を便利だって食べて、

    大量生産で効率を追求した車や家具、家に住んで、

    だいたい同じ幸せの形を求めて生きるようになってしまいます。

    我々は、選択の幅が狭まった効率化のしわ寄せの文明の檻の中で、

    自分の幸せを見つけるように飼育されたモルモットのようです。

    画一化の波に乗れないなら、不幸せなのだ~~!

    と思い込むように支配、仕向けられています。

    我々の消費行動が、国の経済指標を担っているのですから、

    さぁ、お金を使いなさい! 効率こそが美しく、

    消費こそがしあわせへの方途! 

    と刷り込まれているような時代です。



    地球が、もう、限界が来ていると云うのに、、、

    物をもっと浪費する為に消費しろと?!




    我々は、経済学のシナリオの中で、

    演ずるように期待されている大勢のエキストラです。

    その他大勢の群衆の役割を演ずるのですね?

    セリフは?   消費こそが楽しい! ですって、 あはは。

    買い物こそが人生よ!  ですって、

    お仕着せのしあわせの衣装を着せられて、、、、、なんと、


    -------------------- ああ、なんとお節介な時代なのでしょう。





    -------★◎★





    今の文明の中で、求められている努力が、  

    私たちが真にしあわせになる為の努力なのでしょうか ?


    と、、、ハタと考え込んでみてくださいね。  あはは。







    さて、最後に、丁度、この記事の締めくくりにぴったりな感じの

    コメントを紹介致します。

    鍵コメントですが、公開を致します。  ご了解を下さい!


    前回の記事にいただいたほやほやのコメントです。

    皆さまがお読みになっていただいて、どうお感じになられるか、

    とっても興味が、あります。

    よろしければ、お知らせください!   ほほっ。



    先日、身の回りの草花や動物を眺めてふと思ったのですが、

    彼ら程自分を見失わずに、

    ありのままで天寿を全うしているものはないと感じます。。


    猫は飛ぶ鳥をみて「自分も」とか、「こうなりたい!」とか思いませんよね、

    花とて隣のコスモスが綺麗といって真似をする草花ってありませんよね....

    振り回されているのは現代人だけなのかもしれませんね。

    そんな意味で、動植物に頭が下がる思いです。 

    江戸時代の人々は、ありのままの自分の徳分や身の丈に

    心から納得して生きていたと思います、

    お百姓さんが机に向かって勉強し「江戸さ行って役人様になるだ!」と

    言ったら皆から笑われたと思います。(笑) 

    現代のように経済の為に皆、同じ道を無理矢理選び、

    意志による自己実現をするのが大人だなんて...

    当時は皆が生き生きとしていたのではないでしょうか。

    何だか、江戸時代にタイムスリップしたい気分になりました。。(笑)





    率直な真っ直ぐな感受性を感じましたよ!

    コメント、ありがとうございます。

    このように、自然の有りようから一片の真理を感じ取るのを、

    仏法では、縁覚(えんかく)と言います。

    自然の一縁に触れて、その一理を悟ると云うような意味です。

    なかなか位が上の方で、上から仏、菩薩、縁覚となっています。

    もっと深い意味があるのですが、今日はここまで!   あはは。


    又、機会があれば、お講義致しますね。      ほほっ。


    そう、あなたがお感じになられた似たような事を、

    私もよく思案致します。

    深山渓谷とまではいかなくとも、山へ登るたびに、

    普段は尋ねる人もいない山道に沿って咲いている花々を見るたびに

    誰に見られなくとも精一杯の自分を咲かせている植物を見ると

    感動に近いモノをいつも心に抱いて帰路に着きます。

    それら、植物の成功の鍵は、ただ『時』に従って生きる事です。

    ただ『時』に従う事だけを喜びにしているかのように、

    『時』に自分をゆだねて生きる様は、「木」の徳そのものです。

    『天』からの「火」と「水」、「土」の中の「金」、

    そのバランスの中庸の中に「木」の命はあるのですね。

    何かが欠けても、「木」は枯れてしまいますから、

    その事に感謝をして、芽吹いては花を咲かせ、土へ死して行く

    見事な命の生死、一生だと感動を覚えます。

    私もかくありたいと思っている一人です。


    それと、もうひとつ、

    山奥では、突風や嵐の後、本当に大きな高い木が倒れています。

    もう、あちらこちら、にです。

    短い根を露わに出して、根こそぎです!

    こんな大木なのに、こんなにみみっちい根だったの?

    なんと惨めな?    あはは。

    小さな木は倒れる事はないのですよ。

    根の力以上に幹が大きくなっていないから、倒れないのです。

    木は周りの養分を吸って大きくなった木ほど、倒れるそうです。

    自分の根にふさわしくない背丈と枝葉を伸ばし過ぎるからですって、

    そして、山のガイドさんが云う事には、

    大きな木が倒れるといい事があるっていうのです。

    周りの小さな木に日が当たるようになり、

    幾本もの木が救われるって言うのです。

    これが、自然淘汰。

    強きものは、いつまでも強くは無いのです。

    弱きものへも恵みは廻り、必ず、文字通り、日は当たるのです。

    こうして森は継続され、木々は伸びて行くのです。

    自然に反して、大木をなんとか保とうとするのは人の浅智恵。

    自然は、そうは望んでいないのですね。

    人間の欲で自然のリズムを犯す処から、自然のリズムが狂い、

    自然が壊れて来るのです。

    そう云う機智に触れて、真実を知るのも山の楽しみです。




    何が努力なのか、、、

    これを機会に、皆さまもどうか倒れないように、、、あはは。


    努力をし過ぎて、枝葉を伸ばし過ぎて、

    小さな木々に日陰の苦労をさせない為にも、

    自分の分限を知る。

    役割に徹して行きましょうね。



    このシリーズは、この後も続きますが、

    次回は、ひとやすみ、インターバルです。


    コメントへのお返事ではない記事になります。





    次の更新まで、よき日々をお過ごしください。



























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    〔近代化の奈落 3.〕   『陽』・ 有用性だけを選んで自然の外へ転がり出た我々 

    Category : 運命学と近代化
              近鉄ハルカス (大阪阿倍野・天王寺)


              阿倍野 ハルカス





    先月、吉野山へ行く為に、半年ぶりに降り立ったJR天王寺駅から、

    交差点向いの近鉄電車の阿部野橋駅へ行く時に目にしたのが、

    あざやかな青空にニョキニョキ建っているビルーーー

    ビルの上にビルを積み木のように積み上げたような不安定な外観!

    まるで現代人の立っている足場みたいではないですか?    あはは。

    今にもバランスを崩して落っこちそうな、これが、

    日本一の超高層ビルになる ----- 日本初のスーパートール

    (高さ300メートル以上の世界クラス超高層ビルの呼び名)である

    あべのハルカス」だと、、、後で、、、聞いて知りました。

    来月、6月13日に先行オープンする予定だそうです。




    日本初のスーパートールとしての新しい試みは、

    ・屋上庭園に降った雨水やホテルのバス排水等を処理して中水を作り、

     ビル内のトイレの洗浄水として再生利用する。

    ・ビル全体から出る生ゴミ等を使ったバイオガス発電の国内初の実施。

    ・冷房で発生した排熱エネルギーをホテルやオフィスの給湯、暖房に利用。

    ・CO2排出量を標準的ビルよりも約25%(年間約5,000t)削減、

     等の努力がなされているようです。


    しかし、どんな工夫がなされていようと、

    率直な感想は、

    これからの地球に、こんな建物、必要なのだろうか? 

    何十年後か、メンテナンスを任せなければならない未来の大人達、

    今の子供たちへ残すべき価値があるのだろうか?

    ----- もやもやとした疑問が頭にもたげて来てしまいました。 


    ほ っ







    今日の記事は、2013年 2月 6日以来の

    〔近代化の奈落 3.〕  
               『陽』・ 有用性だけを選んで自然の外へ転がり出た我々 






    関西の建物考から、

    今流行(はやり)のフランスの思想家ジョルジュ・バタイユの視点を通して

    本題の方へ入って行きたいと思います。

    なるべく分りやすく記事を書こうと思いますが、

    難しい処は読み飛ばしていただいて、  ほほっ。

    意のみをお汲み下さるようによろしくお願いします。






    ーーー しかし、関西は、行く度に、新しい建物に驚かされます。



    関西の建物は大胆です。

    歴史的に、本物を味わっていたと云う自信からでしょうか、

    キワモノ(際物)めいたものがそれなりに落ち着く風土です。

    関西の新しい建物は、冒険心や遊びがあるユニークなのが多いですが、

    古いのも十分ユニークです。        ほほっ。



    たとえば、


    707年の平城京の大極殿 


    752年の奈良の大仏殿


    天平の人々の度量のスケールに、現代の我々は未だに負けています。

    それは、1000年以上の時を越えて何か新しいモノを感じさせます。

    京都へ行く時には、古い街へ行く気はしません。

    いつもなにかしら新しい事が起こっている、

    今度は何?と云う期待感がいつもあります。

    帰りには、それらの息吹を嗅いで持って帰る事になります。

    それで、何度でも行ってしまう事になる訳ですが。   あはは。




    時の経過に耐えて来たものは、つまり天人地に通じるものです。




    平成12年の大発見で分った建物もあります。

    659年(斉明天皇5年)、 『日本書紀』によれば、

    古代における国家的な事業として天津神(または天皇)の命で、

    出雲国造に命じて修造させたと云う出雲大社もそうです。


    神殿の遺構、柱の根本部分が3本も発見されました。

    平安時代末から鎌倉時代初め頃に造営された神殿のものと判明します。


    出雲大社


    出雲大社復元図 (原図 張仁誠氏 復元 工学博士・福山敏男氏と大林組)


    この復元図を見れば、十分ユニークな建物です。

    どこか、鳥肌が立つような建物です。

    当時の人々の目指す思いの高さが覗えるようです。

    発見された3本の柱は、

    出雲国造千家家に伝えられて来た建築平面図とも言うべき

    『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』に描かれた柱で、

    1本の柱は、3本の木を鉄の輪で1つに束ねた柱の太さが1丈(3m)、

    その柱が9本あって、高さ16丈(48m)の木造建造物を支え、

    地上から宮までの引橋の長さが1町(約109m)と記されています。



    お猿さんとお馬鹿さんは、高い所に登りたがるとか?  あはは。

    この、1町もある引橋を登ってみたい気がして来ませんか?

    なぜか、信仰心よりも、原始的な冒険心をくすぐられます。  あはは。




    お馬鹿さんが登ってみたくなる<大階段>ですが、

    京都駅にもありましたね!     ほほっ。

    1994年の平安遷都1200年記念事業の一環で改築なった

    現在のJR京都駅にあります。


    京都駅駅舎の1階の入り口を入ると、そこには、

    駅全体のエネルギーが包み込んで来るような空間が広がっています。

    空間と云う文字通り、空まで吹き抜けた空間です。

    駅舎の1階から右手側・東西へ渓谷状の大階段が設けられていて、

    巨大な吹き抜け空間が、屋上まで続いています。

    大階段の段数171段の途中は、駅舎の各階の店舗へ通じていて、

    11階建てビルに相当する35mの高さに、全長70mの階段です。

    ええ、引橋の1丁(109m)には39mも及びませんけれど、、ね。


    大階段



    京都駅舎が改装なった、約20年前、京都を訪れた時ですが、

    初めてこの大階段を見上げて、、、登ってみたい!   

    お馬鹿の衝動に負けて登った記憶があります。   ほほっ。

    あいにく雨降りの天候だった為に、階段の途中からは外と同じ!

    天から降って来る雨に、傘をさして屋上まで行きました。    

    同じような2,30人の仲間が、星空も見えない雨の屋上で佇んでいましたっけ。


    大階段から


    大階段の途中から見下ろした1階のコンコース。 入り口は左側。

    空のある屋上から1階を見下ろせば、もっと人が小さく見えます。





    建築は思想、と言われます。

    人の持つ思想が、建物の形や質を規定し、

    建物の持つ思想性が、その建築物を使用する人間に吹き込む。




    実際に、階段を登ろうと云う行動を起させる建築物は珍しいです。

    ちなみに、

    大階段は、非常時、そのまま各階からの避難通路として使われます。

    いいですね! 駆け下りればすぐに外に出られますから、、、

    山登りをする私としては、毎日駆け上がりたい気もします。

    足慣らしとしては、とてもいい場所なのですよ。   ほほっ。




    この駅ビルの設計は、

    日本の鉄道駅舎としては異例、

    国際指名コンペ方式で行われ、7名の複数の建築家が指名されました。

    原広司、安藤忠雄、池原義郎、黒川紀章、ジェームス・スターリング、

    ベルナール・チュミ、ペーター・ブスマンの7名です。


    設計審査の結果、原広司、安藤忠雄、スターリングの3案に絞り込まれ、

    さらなる協議を経て、原広司の設計案が最終案として採用されました。



       -------





    奈良の吉野山へ行く起点、大阪の天王寺、近鉄の阿部野橋駅へ戻ります。


    旭屋書店のあった阿部野橋筋のアーケードの商店街も、

    大阪市立大学の医学部付属病院の裏通り、戦前の街並みも、

    すっかり街は変貌し、完璧に過去は消えていました!

    すべてが過去にも、どこの外国にもないだろう建物群。

    無国籍空間の街区の出現です。

    最近は、こう云う味わいのない無国籍街区が出現し増えています。

    おそらくですが、こう云う街区の区画整理を伴った大規模再開発をするのは、

    施主、設計者共に公共的な自治体であろうと思います。

    予算執行の経済性の効率を追求する事しか頭になく、

    何らかのデザイン性へ偏らないようにしつつ、

    伝統を守る為の経費と手間を省き、

    生物としての人間が生きる空間として

    最低必要であろうと思われる無駄(無用性)が、切り捨てられています。

    つまりは、無難に、合理性を優先した画一性が当たり前!

    と云う常識の社会へ我々が完全移行してしまっているのですね。

    まさに、雑草が生える隙間もないコンクリで埋め尽くされた街区には、

    マス目にはめ込まれたような公園が申し訳なくあるだけで、

    もう、昔の原っぱなんて、夢の又夢、路地さえもない!








    これが、バタイユの云う基本的な枠組みの一つ、



    「有用性を目指す、計画的で、論理的、言語的、個別的な社会」の

    生産の為の消費と云う経済圏の中にいると云う事なのでしょう。



    ーーーーーまさに、人間の意識『陽』だけが支配した社会。、、、




    もうひとつ、、、、、今から10年も前、

    と、関東の、とある大きな市街地の駅に降りたった時の事です。

    駅前のビル群が、装飾の為か、オレンジや緑色に塗られていました。

    その違和感に、、、っと驚いて、、、、、

    何が、この街に起きているのか、とっさに考えたのは、

    ここは、アメリカの西海岸? と思うほどでした。 あはは。

    それはそうです! そのビルの1階の銀行は日本のそれでしたが、

    駅前のファストフード店は、皆、見慣れない外国のそればかりでした。

    これは、また、なにかのコンセプトがあるのかしらん?

    そう思って周りを見回すと、、、

    駅前ロータリーの隅に五重塔らしきモノを発見、   あはは。

    全体が分厚いコンクリで作られ、色はペンキで茶色に塗られていました。

    思わずここは、日本なの?  そうよね、

    そう、息を飲み絶句をしてしまった経験があります。

    こりゃ~おふざけでなければ、 あれ、あれでしょう?   

    昔の外国の雑誌などで紹介された、、、ジャパン、、、

    ゲイシャガール、フジヤマ、のレベルの日本。

    本質的な理解までには至らない通俗的にアレンジされた日本の形、

    それが、もう日本国内で、駅前に平然と出て来るのね!

    あー、もうー、これは、

    我々国民の感覚がそこまで来ていると云う事なのでしょうね。



    これを、

    将来的には、我々の子孫は、

    日本は〝こんなものサ”と受け入れて行くのでしょうか...


    、、、街の景色や風景が、

    だんだん縁も所縁もないものに変貌していくようです。



    魂を失った民は、

    魂から滲み出る形や質を忘れていくのでしょうか?


    建築は思想と言うのなら、

    思想は物の形を生み、質を規定し、拘るのです。


    建築物の形や質は、

    その建築物を使用する人間が満足するモノになっていくのです。


    日本のエキスが蒸散してしまった無国籍な現場は、

    もう、命を懸けて守ろうとする思想が我々の中にはない事が

    はっきり表われ出た現象の形、質なのでしょうか?



    近代合理主義のよる近代化以降、

    役に立つ者、物だけを人間の意識が合理的にチョイスして、ムダを省く。

    この有用性の追求が正義である。と云う思想を守って来た結果です。

    でも、もう、

    有用性の追求も程々にしなければ、いい加減にしなければ、

    不合理な無用性を切り捨てて計算し尽した社会など、

    希望も喜びも、歓びも、悦びもない社会になるでしょうに...







    また、、、バタイユに触れておきます。



    彼が、晩年、持ち出した「非-知」と云うキーワードですが、

    「知」を超えた無益で無制限のモノ、と云う意味です。


    彼は、「知」を生に隷属するモノとして捉えており、

    (ここは東洋の『陽』そのものですね)


    この「知」や「知」の判断する有益性を超越するものを、

    無益で無制限のものだとし、この過剰が人を生き生きさせるのだと。

    (これは、東洋の『陰』を志向していたと思います。)


    彼は、西洋にはない『陰』を探っていたのです。

    つまり、彼の基本的な枠組み、先に提示した別のもう一つ、

    「有用性を無視し、計画も論理もない、個が明確化していない動物の段階」

    と彼が云い表わしたモノこそが、

    東洋の『陰』を志向しているものなのでしょう。  


    彼は、それを、生産を目的としない消失、非生産的消費、

    エロティスム、禁止と侵犯、聖なるもの、供犠、虚無、死であると。



    東洋的な最重要なファクターである『陰』ですが、

    バタイユの云う 〝聖なるもの”

    と云う表現は、不適当です。

    〝聖なるもの”と云えば俗性を排除します。


    聖と俗、誰がこの区分けをしたのですか?

    いかにも二元論の西洋思想らしいものです。

    当地の知識者は、聖を、俗ではない、と云う以上のイメージを知らず、

    その実体は何かを知らないまま、

    単なる観念的な聖なるものへの憧れがあるようです。

    東洋の最重要なファクターである『陰』は、

    他の何かを排除して成り立っているようなものではありません。

    バタイユが、ここに、この言葉を入れる事自体が、

    あやふや、迷いが紛れ込んでいる、いかにもクリスチャンと云う

    二元論の迷路の中で行きつ戻りつ迷う子羊の弱さを感じさせるものです。


    そう、東洋の『陰」から観ると、

    他にも、雑だなと思うものも入っていますね。   あはは。






    人間の中には、収まりきれぬ過剰な力が働いているが、

    それはどこから来て、どこへ行くのか、

    それがバタイユが最初に掴んだ根本的な問いだったのです。 





    彼の云う〝人間の中には、収まりきれぬ過剰な力” こそが、

    東洋の『陰』に当たるのだと思います。



    それ程、バタイユは、自分の人生で悩み苦しみ『陰』を捜したのね。

    それでも西洋人の彼には、『陰』の概念すらが掴めなかったのです。

    彼の思想の全貌をここに書く訳にはいきませんが、

    彼の思想は不安が生んだ思想と云われています。

    それはそうでしょう。

    どんな頭の良い人間でも、意識に死は解らないはずですから。

    彼は敬虔なクリスチャンでした。

    天国しか明かしていない教理では、不安は消えなかったはずです。 

    しかし、彼は礼儀がある人ですね。

    親は無宗教なのに、子供の時に自分から進んで洗礼を受けたと云う

    キリスト教に対しては、少しの否定もしていないようです。



    いつも思う事なのですが、

    東洋に生れて、『陰』と云う最重要に出会ったと云う事は、しあわせです。








    ーーーーー ここからが本論です。

    ≫≫≫≫≫『陽』・ 有用性だけを選んで自然の外へ転がり出た我々 







    最後にもう一度、バタイユから、


    ーーーーーー 太陽がすべてを与えている。


    地球上の命とは、太陽エネルギーが変換された現象にしか過ぎない。

    太陽は自らを破壊して地球へエネルギーを与える。

    太陽エネルギーの過剰から新たな命が、生まれる。

    命の本質は増殖。増殖が余剰を生み出す。

    その余剰を消失し尽くす事が人をいきいきとさせる。


    そして、地球は、それに頼ってしか生きられない閉鎖空間。

    だから地球上で消費できるエネルギーの総量は決まっている。 



        ーーー




    バタイユの云う 太陽エネルギーの過剰から新たな命が、生まれる。

    命の本質は増殖。増殖が余剰を生み出す。

    その余剰を消失し尽くす事が人をいきいきとさせる。 



    ここが、彼らしい言い方ですが、東洋の『陰』そのものですね。

    しかし、東洋の『陰』は、太陽そのもの、それだけではありません。


    が、今は、それを追求したいのではありません。

    バタイユは太陽エネルギーに余剰を生む『陰』を志向して、

    太陽エネルギーに頼る地球は、

    消費できるエネルギーが限られている。と観じたのです。


    ここは、重要です。

    ここは、学ばなければいけませんね。

    欲望に根ざした『陽』の教理を身に付けたバタイユが、

    『陽』の限界を観たのですね。



    『陰』は、無限だけれど、

    地球上の『陽』の活動性は有限であると理解したのですね。



    しかし、意識・『陽』には、

    地球上の消費エネルギーのコントロールができないようです。

    なぜなら、意識は欲望に支配されているから、

    これが、今の地球上の深刻な問題点なのです。

    この事を、よく覚えておいてくださいね。




    決して我々は、昔の王様のような豪華な贅沢はしていないのに、

    われわれを生み育む「地球の限界」はもう超えているのですよ。


    我々人類は、地球1,5個分の食料や資源を消費しながら

    暮らし続けているのです!

    現在の世界中の資源消費は、地球1,5個分。  

    今、現在、人類は、地球1.5個分の食料や資源を消費しながら

    生きている。 暮らし続けていると云う事になります。


    日本の国家財政も、借金しながらの赤字経営ですが、

    人類は、未来の人類が使うべき資源を取り崩しながら生きています。  


    何の事はない、 科学文明で我々は豊かになったと云いながら、

    未来の人間の分まで地球の資源を使っているだけなのです。

    地球の資源を余分な処まで使う能力を身に付けただけなのです。

    それが、人類の進歩と云うものの中身だったのですか?


    なにが、優れたノーベル賞ものがあったとしても、

    結果、そうなるではありませんか。。 。


    科学文明とは、資源を他人の分まで侵略して使う技術だったのか!  





    何の事はない、 仕事もしない子供が大人の真似をして、

    お金の使い方だけが大人以上になっただけなのです。


    経済発展とは、資源を他人の分まで搾取して買う力だったのか!  



    この地球の過剰利用は、1970年代に始っています。

    世界人口の増加、新興国の一人当たりの自然資源利用の増加が原因です。


    地球の利用できる総資源を、今現在の世界の総人口で割ると、

    一人が利用できる指数が出せます。

    それは、≪一人当たり1.8ヘクタール≫

    これが、≪持続可能な地球資源の利用許容量です。≫

    現在の世界中の資源消費平均は、一人当たり 2.7ヘクタールです。  

    すでに世界平均は、一人当たり0,9 ほど限界を超えています。



    未来の人類の分まで借りて、豊かさを享受するって? これはなに?



    地域別では、アメリカは、7,2ヘクタール。

    EUは、4ヘクタール。

    化石燃料(ガソリン)や食料の消費が激しい先進国は高いのです。



    日本は、なんと、一人当たり4,2ヘクタールに達しています。


    許容量は、1,8 ヘクタールでした!

    その差、2,4 ヘクタールはどうすれば無くせるのでしょうか?

    日本人は、一人当たり持続可能な許容量の約2,3 倍の資源を使っている!

    現在の消費資源の4,2 を半分に減らしても2,1 でしかありません。

    約、半分以下のレベルまで落とす必要があります。

    我々の生活において、煽られた消費をするべきではなく、

    生活パターンを変えていく必要があります。

    これは、みなさまでお考えになって、いい案があればご提案ください。

    次に、この続きを記事にする時の参考にしたいと思います。


    そうしなければ、

    このまま2030年代まで行くと、

    人類の環境負荷は、地球2個分まで拡大します。



    これに関しまして、もっと詳しくは ⇒ リオ+20 国連持続可能な開発会議




    アベノミクスで、消費! 消費!

    目先の経済は、確かに株も上がり利益は出ているけれど、

    我々が消費行動を見直す事がなかったら、

    このまま行くと地球上の人口は増え、資源が乏しくなった地球で、

    我々の子孫は、どう云う暮らしをしていくのでしょう?

    決して今のような便利なものが溢れた暮らしは、無理ですね。

    特に日本は、資源もない島国で、どうするのでしょうか?

    全国民が、世界中へ出稼ぎに行く?    あはは。

    それよりもう、移民になったりして、、、  

    世界中も、資源不足なら自国民を賄うのに精いっぱいでしょう。

    これでいいのか? 日本人?    

    1000年の後、日本列島に日本人は住んでいるのか?

    日本人は、命懸けでここに住み続ける思想を持っているのか?


    もう、スーパートールなど建ててはしゃいでいる場合じゃないわ。



    経済先進国、技術立国、経済力が第一なのだ、と云う正義を掲げて

    たどり付いた彼岸が、このざまです。

    資源を先付で使い果たすと、一体どうなるのですか?

    経済力は、資源あってのこと、地球があってのこと、

    さすれば、次は、何が正義だと言うのかしら?






    時の経過に耐えられない正義は、つまり悪に通じるのです。

    時の経過に耐えられない真実は、つまり虚偽に通じるのです。







    人間や建物を、あたかも小枝やチリの様に、

    吹き飛ばす自然の圧倒的な存在感、

    これを忘れてはいけません。

    『陰』・自然は、愚かな人間がそれを忘れただろうと、思い出せと、

    竜巻を、起こしつつあるのかも知れません。


    福島原発を破壊したのは、地震や津波じゃない!

    地震や津波を起したのは、太陽なのですよ!




    これを、無視しよう、

    自然なんかに負けられるか!

    自然を支配しようではないか!

    人間中心の自然に支配されない世界を築くのだ!

    その為に役に立つ者、物、モノだけに価値があるように

    有用性をあたかも正義か神かと重用する世界観を立ち上げ、

    そうして作り上げた便利、安全、効率追求の世界が、

    これが、近代合理主義の作り上げた自然を隔離した空間、

    人間の思考内に限定される人工の空間なのです。

    有用、無用を、人間の意識の都合に合う物差しだけで判断をし、

    有用性だけを尊び、人間の能力を偏差値で測り、

    無用なモノを排除して来た挙句が、

    我々が、地球を台無しにしつつ、自分の居場所すらも失いそうな、

    自ら地球の自然から転がり出た姿でしょう?

    地球の資源の、効率的な使い方を定められずに、なにが経済の発展ですか?




    近代は、人間を、本来の自然から隔離した。


    そう云われる所以です。




    『陰』の本体は、宇宙にある。-------- そのものです。


    『陽』は、地球上の人間の頭の中、意識にあるだけです。  ほっ。


    バタイユが、「知」を生に隷属するものとしたのは納得です。




    しかし、hitokoto イヤミを言いましょうか、   あはは。

    東洋のこの地に、『陰陽学』なるものがあって、

    西洋の及びもつかない『陰』の存在を3000年前から東洋は知っている。

    にも係らずに、当地の新し物好きの知識人達は、

    バタイユの迷いの結果を、大事そうに抱いて研究をしています。

    西洋が生んだモノなら、何でも東洋より勝れていると云う偏見が

    この国のすみずみにまで行き渡っているようです。   あはは。


    近代化以降、西洋に学ぼう!

    もうこれもいい加減にした方がいいですね。    あはは。

    西洋から来た有用性賛美、計画性優先において、

    我々は、福島と云う社会破綻に巡り合ったのですから。


    まあ、地球もこのままでは、ダメになりそうですが、

    同様に、このままでは、当地の「知」を持つ人たちからは、

    新しいものは何も生まれない処か、

    また、同じ社会破綻を別の局面で引き起こすでしょう。   


      ほっーー



    まっ、最後は、いやらしい、嫌味になってしまって、、、 あはは。

    ごめんあそばせ、、、   ほほっ。




    次の記事は、〝コメントのお返事”シリーズに戻ります。

    次の更新まで、よき日々をお過ごしくださいね。

























    参考:「バタイユ 聖なるものから現在へ」
                   内田 裕著 名古屋大学出版会


    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    どうぞ宜しくお願いします。

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    家系・個人の運命鑑定
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