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コメントへのお返事 19. 「闇」を否定する原子力 「苦」と「楽」について 2.Category : 東洋思想
高尾山南陵の草戸山から眺める丹沢山系と空 (神奈川県) 2013年 5月 3日
![]() 写真をクリックして広げてご覧ください! 青空と画面を二分する丹沢山系の黒緑色です。 この山の向こうが相模国。 今日は、いつものまえがきへ入る前に、 頭にイメージを残しておいて欲しいものが、2つあります。 1、上の写真の鬱蒼とした森の印象と、 2、次の陰陽学の太極図です。 ☆ 太極図 ![]() 太極図は、 『天』・宇宙を表わす円の中に、白と黒の勾玉の様な形があります。 今まで『陰』、『陽』については、いろんな角度から掘り下げて来ましたが、 今日は、陰陽を「闇」と「光」の観点から観て行きます。 白は『陽』、太陽の光です。 黒は『陰』、太陽の光が無い = 闇です。 宇宙は、陰陽の中庸(調和)に拠って正常に保たれると云う思想です。 宇宙は、闇と光の中庸によって創造活動を常に行っています。 宇宙での超新星爆発や恒星の輝きなど、 我々の目で見える宇宙は、 大いなる闇の中の光の活動として捉えられます。 実際、宇宙はおおいなる闇です。 宇宙物理学でも〝暗黒物質”とか、〝ブラックマター”と云われる物質が、 黒が、重要視されています。 また、光は、闇から生じたもの、 我々の太陽は、宇宙の闇から生じたのです。 自分の中から出すエネルギーで光り輝く星を恒星といいますが、 この様な恒星は、太陽だけだと思いたい? でしょうが、 ほっ。 夜空に輝く星のほとんどは、太陽なのですよ! 自分で輝く恒星は、夜空に星の数ほどあると云う事ですね。 ほっ。 『陰』、『陽』それぞれに、次のような原義があります。 白が『陽』 = 太陽、光、(死に臨む)生、意識、 人為、 男、知識、現象 黒が『陰』 = 太陰、闇、(生に臨む)死、無意識、自然、女、智恵、本体 光や男性が主体かと思えば、そうでもないような ? あはは。 闇や女性が本体のような ? あはは。 女性は、明らかに闇であり暗黒かも知れません。 ほほっ。 冗談は、さておいて、、、 ほほっ。 これは、『天』の業態、闇の中で生まれ輝く光が男である。 智恵が女に振り分けられているのは、命を孕み産む女は自然の業態の一部、 命の創造は知識では不可能な事、命の創造こそが自然の智恵そのもの。 と云う事でしょうか、、、 男は、女(母親)から生れて来る、自然の現れなのです。 自然そのものの徳があってこそ、そこに人為の成果が成り立つのです。 反対に人為がなければ、自然そのものからの生産活動は不可能です。 (ちょっと、むずかしいかな?) まあ、これ位で、、、先へ行きましょう! ほほっ。。 ざっと、ご覧になってくださったら、 次へ、、、 上の2つのイメージを抱きながらお読みになってください。 心に引っ掛かりながら、2つのイメージが混ざって一つになって行くはずです。 そして、今日の謎を解いていってください。 原発は、近代合理主義の必然の結晶である。 どうして? と思われるようであれば、 この謎が解けるように、 近代合理主義の柵の外へ、みなさんをお連れできたらと願っています。 後ほど、本論で紹介をする今日のコメントは、 実は、6月24日に頂いたものですが、 原発に関する内容で、これは是非、記事でお返事を書きたいと思いました。 しかし、私が東洋的な直感で自分の内側で分っている事を、 近代合理主義の社会で生きる読者に、どう伝えたらいいのか? と云うのが一番苦労をする処なのです。 私の直感を、できるだけ細かく 合理主義的に論理的に崩していく、と云う手法は、 結構、言葉やロジックの立て方が難しいのです。 言葉に関して言えば、 東洋の価値観に似合うぴったりの言葉が、現代にはありません。 非常に、重要な言葉が、現代では死滅しているのです。 合理主義的思想に合わない言葉は無視されていますから、、、 生物の絶滅危惧種どころか、 すでに真実を言い当てる言葉自体が、現代人の心の中で絶滅しています。 と云う事は、我々の生き方の巾、および思考そのものも、 狭隘になってしまっていると云う証拠なのですが、 我々の選択の幅は、狭い意識の巾の中に限定されています。 それは、近代合理主義の思想自体の程度が大したものではないからです。 前にも触れた事がありますが、東洋的な演繹的存在であるものを、 西洋の帰納的方法へ変えると云うのはちょっと、大変です。 東洋的直感で覚知した内容を、 合理主義的言語で表すのは無理があるのですね。 ・東洋は宇宙の全てを表わす大きさの語彙があります。 ・合理主義は、人間の意識の狭い範囲を表わす言語だけです。 宇宙は、広い! といくら行った処で、 それは意識が捉えた事象の表現ですから、 運動場は、広い! と云う事と、どう違うのか? あはは。 仏教では廣大無辺、無量無辺(むりょうむへん)、無量劫(むりょうこう) などの宇宙や仏の慈悲の甚大さを表す言葉があります。 現代を生きる我々が使っている言葉は、 宇宙の真理を表わすには、貧弱すぎるのです! あはは。 無理無理、東洋的知見を 合理主義的言語に置き換えて行く過程で、 本当に大事な髄液のような部分が抜けて行ってしまうのです。 もったいない! 西洋的帰納法で表わす事で、真理に「偽」をまぶす事になるのですね。 これは、恐ろしい事です。 今の子供達が苦労しながら大学に進学をして知識を学びます。 その大学で学び、身に付けていく知識は、 東洋の叡智から見ると真実とは全く違うものです。 そりゃそうです。 基点を意識内に置いた知識なのか、 無意識下に置いた智慧をのぞむ智恵なのか、 ぜんぜん違うのですから。。。 しかし、意識内の知識は、 今の世で生きていくには身に付けなければいけない道具です。 この事は、非常に切ない現実です。 今の世の人間は、食べて行く為の道具を身に付けるのに、あくせく、 大事な一生を使っているのですね。。 。 せっかく、自然の智慧で父と母とに命をもらった処で、 その自然を否定した学問をする訳ですから、 どれだけ命が尊いのか年を取っても分らないみたいですね。 つまりは、 自分と云う存在を、自然の真理から遠くに離してしまう為に お勉強を、学問をしているのですね。 あはは。 トホホ~と云う気分です。 わざわざ、智恵に蒙(くら)くなる為に、 近代合理主義の癖を擦り付ける為に大学へ行くようなものですから、 人間の尊厳を捨てに学問をしに行っているとしか思えないのです。 近代合理主義が空気の様になっている社会の中で、 このギャップを説明するのは難しいです! ほほっ。 まあ、それで、今回の記事をどう書こうかと、、、 悩みながら今日に至ってしまいました。 随分時間が、かかってしまいました! あはは。 と云うのは、他の記事もそうなのですが、 東洋的智恵を西洋合理主義的言葉に翻訳していく過程で、 東洋的な神秘をディスカウントしてしまう事は、絶対にしたくない、 大罪だと思っています。 『天』に対して、この宇宙に対して(オーバーかな?) 取り返しがつかない事をしてしまうようで、、、 あはは。 十分思索した上でないと記事にはできないと云う、 私なりのガイドラインがありますの、、、 ほほっ。 それで、やっと、 今日の記事は、そのガイドラインを守りながら書く自信が付いた。 私の中に在る事実を、言葉にできる確信が付いた訳です! やれやれ、、、時間は随分かかってしまいましたが、 いつもよりもっと長編? になりそうな気がしています。 また次の更新までには、十分余裕があるはずですので、 ほほっ 数回に分けてお読みいただくと幸いでございます。 よろしくお願いいたします。 毎回、東洋的な《智慧》を、そのまま伝えられたらいいのですが、 《智慧》そのままは絶対に凡愚下賤の私などには不可能です。 でも、せめて、(智恵)位には似せて? お伝えできればと願っています。 東洋の叡智を、ご自分の中で直感的に覚知する事ができれば、 それは、本当にすばらしい事です! ----- では、いつものまえがきから参ります! 今日のまえがきのテーマは、「闇」。 早いもので、もう3カ月も前のことです。 ゴールデンウィークの一日、 手近な処で足慣らしをしようと思い、出かけたのがいつもながらの高尾山。 と云ってもGWで混み合っている山頂を避けて、 裏・高尾山、南稜線へ足を伸ばしてみました。 (その時の写真が、上の、高尾山南陵から見た丹沢山系と空です。) 思った通り! 登山者がほとんど居ない静かな山道。 典型的な低山の尾根歩きですが、花を見るなら丁度の余裕の歩きです。 しかも道中は、半端じゃない花が咲き乱れ、 めずらしい【十二単】は、山道に沿って咲いていました。 ![]() ここほど、お花が塊になって咲き乱れている場所は、他に見た事がない。 東京から1時間ちょっとで行ける場所に、 高尾山の混雑ぶりとは打って変わった静かな里山の風情が こんなに詩情を誘う森の花たちの場所があった事に驚きを感じました。 出来る事なら、来年も同時期に訪れてみたい、、、 そう思った春風薫る5月にふさわしい花のトレッキングでした。 春蝉(はるぜみ)が、もう全道中で、煩(うるさ)く鳴いていましたっけ、 鳴き声から推察するに、何千、何万匹もいたでしょう、、、 春蝉の体は、鳴き声ほど大きくはないのです! 花の写真を次回と分けて紹介します。 下の写真は、 背丈も越えるオレンジ色の山ツツジが山中の至る所に咲いていて、 目に沁みる新緑の緑とのコントラストで、とっても奇麗でした。 ≪日陰の山ツツジ≫ ![]() ≪日向の山ツツジ≫ ![]() 光が当たっているのと、陰にあるのとでは、 写真でさえこんなに違うと云う事、お分かりいただけますね! ----- 裏・高尾山、南稜線は、丹沢山系へ連なっています。 丹沢山系(上の写真)のイメージは、山深さ、黒緑色です。 自然への畏敬の念を生じさせる原始的な霊力を秘めた森です。 原始的な霊力を秘めた森、 森には、昼間でも鬱蒼とした木々の間に薄暗い「闇」があります。 そこには、太陽や月、星の光すら届かない地面があります。 殊に深い「闇」は、森に夜が訪れてからです。 ----- それで思い起こすのは、那須高原での夏休みの夜でした。 窓に貼り付けた黒い紙を見ているような窓の外に見える森の夜の闇、 少しでも窓を開ければ、青ぐさい森の匂いと共に、 その漆黒の闇が部屋に流れ込んで来て、部屋中を満たした後、 室内の電灯の明かりを飲み込んで消してしまいそうな そんな気配がする森の夜の濃い「闇」。 そう云う「闇」にすっかり閉じ込められた、ある夜、 こんなに人間の意識は脆弱だったのかと、自覚した事がありました。 車に置き忘れたものを外の駐車場へ取りに行こうと玄関まで行って、 庭に垂れ込めている「闇」が恐くて外へ出られないのです。 「闇」の中から、突然、獣(けだもの)が襲って来るかもしれない恐怖? あはは。、、、そんな想像を打ち消しても、 庭へ出る勇気が湧いて来ないのは、なぜ? 隣家はなく、周りは、那須の森ばかりに囲まれて、 外を見ても、目の網膜に黒い紙を貼り付けたようで何も見えません。 これほどの自然の闇は、 普段、意識している空間認識を閉ざしてしまうのですね。 対象との距離感、位置関係、方向感覚がまったくきかないのです。 それでも、ドアを開けて一歩外へ出ると、 シーンと静まり返った森の気配もなにも感じられない漆黒の「闇」の壁に圧倒 されて背後へ倒れそうになりながら、本当に、こわい! と思ったのです。 この闇の中へ、もっと足を進めて身を投じてしまえば、 行こうとする方向が捻じれてしまうトリックアートの世界へ引きずり込まれる? ようで、なんだか頭が変になりそうで ? あるいは、体から重心が抜けて空中に体がフワフワ浮くようで、 ついには、夜の闇の黒の質感の中へ吸い込まれそうで ? ほっ。 全身が、「闇」色になって自分の体が無くなってしまいそうで、、、 あはは。 最後は、自分の体自体が発光体にならなければ暗闇から戻れないかも? 奇妙な恐怖感にいろいろ囚われて、 あはは。 まばらば木立も、 その向こうに在るはずの駐車場も、 車も、なにもかもが、 もう、空間の意識の中から完全に消えてしまった! それ以上、前にも進めずに、 玄関ポーチの明かりが照らす狭い空間に立ちすくんでしまったのです。 もう! 忘れものなんかどうでもいい、、、と、玄関のドアを締めて、 部屋の明かりの中へ戻って、どんなに幸せだったか! あはは。 近代以降の現文明に浸って、 PCの画面の明るさに馴染んだ目や、 明るすぎる環境に馴れた感覚・意識には、 自然の真っ暗闇の中で自分の存在を認識する動物的視力は、もう働かない。 私たちの意識は、そこまで退化してしまっている。 原自然の「闇」に対抗できる目ではないのです。 『陰』たる無意識の大自然に、 近代化のエセ自然に慣れた軟弱な視覚・意識をテストされたようです。 きっと不合格だったわ、 そんな気がしました。 体と命はもう、完全に、近代化に飲み込まれているわ。 ここが近代化の奈落1丁目? 10丁目でしょうか? ほほっ。 今さら言い訳がましいのですが、 都会生活の中では、過ぎゆく時の刻にしか過ぎない朝が、 まだ、大自然の中にいると、 間違いなく訪れて来るあした(明日)なのです! 夜明けが心から待ち遠しいのです。 そう、昇る朝日は、命にとって〝希望”そのものです。 と云う感覚は残っていました! あはは。 これはきっと、我々の先祖が火を発見し、 薪の炎で辺りを照らし自然の闇と戦って来た原始の頃と同じはずです。 そう、人間は『火』の炎に、安全、安心と同時に、 火を操れない野性の獣(けだもの)とは違う人間の値打ち、 自然の獣性や野蛮性を断つ「礼」を観じていたはずです。 余談になりますが、 那須の森の百合が恐いって云うおはなしを、しましょうか、、、、 ほほっ。 森には、いくら昼間でも、太陽が燦々と真上から照っていても、 その蛮性を感じる不気味さがあります。 人間を容易に近づけようとしない自然の荒々しさ、刺々しさです。 森の一本一本の樹木の形も縦横無尽に枝を伸ばして、 人の足を一歩も踏み入れさせない雰囲気があります。 そう云う那須の強面の森に、白い山百合は咲いています。 遠目には、大輪の白い百合の形で惹きつけられます。 しかし、近付いて花を覗くと! そこには鬼の顔があって ! あはは。 白い花びらの内側にある黒と赤の点や線紋様の配置が、 怒った鬼の面構えに、そっくりなのです! 写真を撮ろうと近づいて、レンズをジーーっと覗いた途端に、 その文様の鬼の顔面が醸し出す殺気に逃げ出した位ですから、、、あはは。 恐さは、白地に、こう云う風に黒と赤の点と線をデザインして表現すれば 鬼の顔になるんだな、、、と自然の造形に感心してしまう位、、、 快適をコンセプトに造形された文明に馴れきった感覚には、 野性むき出しのありのままの自然は手ごわいのです。 活火山のマグマ溜りの凄まじさ、あれもそうです。 自然そのものです。 夜の森の恐さ、、、絶対に森の中では迷子になりたくはないですね。 その闇に通じる黒が、丹沢山系の黒、です。 原始の森が持っている、自然の霊力を秘めた黒です。 それは、日本海側の黒姫の黒暗色や、木曾の陰影とは違います。 ◎ この漆黒の夜の意味については ------------ 「淨暗」と云う言葉をもう一度、出さずにはいられません。 これほど、「闇」の真正さを顕した言葉はないでしょう。 2010年 4月 6日の記事 春眠不覺曉 / 「浄暗」という言葉を知っていますか? に少し書きました。 そこを引用します。 意識の覚醒は、昼 無意識は、夜 生あるものは、夜、無意識の世界で再生するのです。 ところで、 「浄暗」という言葉を知っていますか? 浄化する暗さ。闇のことです。 穢れを清めるための、神々しい闇、というのかしら。 夜のことです。 夜は神が動く時刻であって、人間が動く時刻ではない。 司馬遼太郎の『義経』に、 壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、 平家から「三種の神器」の二つを奪った源義経が、 都に凱旋することになったわけですが、 「三種の神器」=神にあたる器を持っていたので 都に上る移動を夜に行ったそうです。 夜中の凱旋ですね。 神の移動は浄暗=夜でなければならなかったとあります。 夜=闇=意識が無力=無意識界=神の力の領域=陰=再生なのです。 ( 以上、過去の記事より引用 ) 人は、自然の中に生きていれば、直感的に分るのですね。 前もって陰陽学などの学がなくても、説明を受けなくても、 夜の闇が何を意味し、なにを心に呼び起こすのか、、、 自分の意識を閉じれば、その下の無意識が教えてくれるのです。 『闇』は意識にとっては恐いのです。 しかし、恐いだけではない、、、 『闇』こそが、 外界に振り回される五感の感覚器官を鎮めるのです。 正直、「闇」の中では外界の生物は眠り、そして静まりますから、 外界の刺激は五感の感覚には届きません。 自然の雨音、風の音、虫の音だけが残る世界になります。 「闇」は、意識の外界へ向かう窓を閉じて内なる自分へ向き合わせ、 意識を鎮める事ができるのです。 そうして、 『闇』こそが、意識に休息を与え、 欲望に支配された意識を浄化する事ができるのです。 月と星の自然の光だけに照らされた暗闇の中で、 人は、やっと欲望に満ちた我の意識を閉じて、我の無意識に向き合う。 人は、自分の意識を離れて、初めて自分の中の無意識に触れられるのです。 そして、 外界の大自然の暗闇の奥の無意識界の力を知り、従う。 夜は月明かりしかなかった昔の人は、従わざるを得なかったのです。 「闇」の中へ眠りに落ちる事で意識を休め、 『陰』そのものの創造性の中に浸かる事で、 そこで、人は、蘇り、明日への命の回復を図ったのです。 『闇』は、無意識の支配する世界であり、命の再生の象徴なのです。 それを、近代化以前の昔の人は知っていて、 「闇」を畏れながらでも「闇」を敬っていたはずです。 人は、意識のみで生れては来れません。 意識の力で死ぬ事もできません。 意識で息をしている訳ではなく、無意識の呼吸で生きています。 昔の人は、命は無意識に生かされている事を悟り、 暗闇と無意識の底知れぬ深さの中で命が再生する事を知っていたのです。 その無意識の存在と、その深淵を悟れるように、 宇宙に「闇」が、夜の「闇」があるのかも知れません。 宇宙における「闇」と「光」の分量の割合から云うと、 「闇」こそが圧倒的です。 ―――― ここまでが、近代化以前の「闇」と人の意識の関係です。 近代化までは、人の意識は、「闇」の価値を直感的に知り、 畏れてはいても、その深さに畏敬の念を持っていたのです。 近代以前の人びとは、まだ、「死」の恐怖、闇の恐さを知っていて、 「死」は恐い。 闇も恐い。 けれど、それを人間如きが乗り越えるなんてとんでもない! ただただ、畏敬の対象だったのです。 夜はそのまま、自然の恐ろしい闇でしたし、 「死」もそのまま畏敬の対象だった。 眼前の「苦」は避けられないモノと諦めていたし、 「苦」も「死」も「闇」もそのまっまを受け容れていたのです。 今よりも、もっと身近に、 宇宙を自然を人生を今より深く観じていた。と言えるのでしょう。 受け容れると云うのと、避けて無視すると云うのとは大違い、 そう、問題は近代化以降なのです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ―――― ここからが、近代化以降の「闇」と近代的自我意識の関係です。 我々は、ここに立っています。 人々は近代化と共に、傲慢になって行くのですね。 近代化以降、 意識できないものは無視をしろ! とばかりに、 伝統と無意識下の絶対性を排除した人間の意識にすれば、 あたかも意識が、絶対者に成り代わったようなものですから、 今までにない存在感を発揮していきます。 万物の基軸と成り上がった我々の意識は、 意識<愚王>として、まるで王様の如く、 あはは。 目、鼻、口、耳、皮膚、の五感の窓から覗いて、 「苦」と「楽」をパッ! パッ!と分けて、 えっ、「苦」? いらないよ! さっさと捨ててくれ! 意識は、無造作に「苦」を放り投げて捨てます。 後の処置は、科学技術と資本主義に任せて、、、 あはは。 だってそうでしょう? 近代合理主義の意識<愚王>は、『苦』が大嫌いでいらっしゃる。 あはは。 「楽」を求めて、科学へ命令を下します。 我に、「楽」のみを与えよ! 「苦」は我の王国の外へ捨てておけ! ははーっと、畏(かしこ)まってお辞儀をした自由主義経済は、 欲望の望むものは何でも、競争に勝つ為にも、 強い意識の望むモノは全て、作って売るようになっているのです。 だって、売れるのですもの! ほほっ。 この社会では、売れる事が、最善の事なのです。 あはは。 「苦」を捨てた後の「楽」こそが王たる我が身にふさわしいものである、 と、のたまう意識<愚王>に応えて、 科学は、技術の最高峯、選抜された意識の生っ粋を集めて、 「闇」を消す為の灯りを、夜だけでなく昼も、昼をもっと明るく! 24時間、48時間、年柄年中、明かりが灯る電脳都市を作らんとして、 楽園の実現・「天国」を求めて築き上げたのが、原子の灯です。 このように、近代合理主義で王へ成り上がった意識<愚>王は、 無意識を無視し、「死」を捨て、「闇」を嫌い、避けます。 そして、「闇」の「苦」をのがれる為に、「闇」を消そうとしたのですが、 でも「闇」を全部、消す事はできなかったのですね。 あはは。 夜になれば「闇」は表われて来ますのも、ね。 そして、意識にとったら怖い森ですが、 ほほっ。 自然の中には、鬱蒼とした「闇」が、まだまだ残っています。 「闇」を失くす事は、そんな簡単な事ではなかったのです。 そして、意識はただ単に、それらを意識外へ捨てた!だけなのですが、 意識外とは、無意識界です! だから「死」も「闇」も「苦」も、無意識界にそのまま溜っています。 溜りに溜まった「死」や「闇」や「苦」が、 無意識界から意識界へ、ある時、どっと現象化したらどうなるのか? 隠したり捨てたエネルギーだけの反動をもって、 この意識界へ戻って来るはずです。 それを考えただけでもおそろしい~! この世に、どっと「死」や「闇」や「苦」が満ち溢れるのですよ! 無意識を無いとして捨て、 自然を敬う心を失くした近代的自我の意識にとれば、 畏れだけが残った「闇」は邪魔なモノです。 森の抱える「闇」は苦痛そのものになったはずです。 なぜなら、暗黒の「闇」は、近代的自我の意識の限界を超えている領域です。 『陽』である意識・感覚器官の機能が働く範囲は、 かすかにでも光がある処 = 『陽』の現象界に限定されています。 これで、なぜ、近代的自我の意識が「闇」を嫌い、 「光」を求めるのか、お分りになりますね? 意識の機能は、「光」がある現象界でしか働かないからです。 「闇」は、意識にとったら「苦」そのものの領域なのです。 そうして、、、 近代的自我の意識<愚王>が、 「死」の影を持つ「闇」の「苦」を追い払おうと科学に命じて 作り上げた道具が、近代的学問の生っ粋の科学っ子である原子力の火です。 自然の中での不便をムダとし、煩わしさを「苦」と退け、 「楽」だけを選び取った近代合理主義の物質文明の中で、 意識・『陽』は、生産性を求めて利便さと効率で「楽」だけを求めます。 意識・『陽』は、非効率な「苦」を避け、徹底的に逃避します。 そう、意識にとっての幸せは「苦」の無い「楽園」に到達する事なのです。 そうでしょう? その為に、便利な快適な生活の為に、 原子力発電所を作ったのでしょう? 放射能は恐いと思いながら、もっと「楽」になれるのならって 我々は、心のどこかで原発の存在を許して来ましたね ? そして、その結果はどうだったのですか? おおいなる「楽」だと思ったものが、おおいなる「苦」になったのです。 だから、「苦」と「楽」とは表裏一体だと云うのです。 無意識下では同じエネルギー、 意識界へどう出るか、現象界での違いなのです。 だから、「苦」と「楽」について書こうと思えば、 近代合理主義の申し子、近代化の優秀な息子とも云うべき原発の事を 無視する訳にはいかないのです。 やれやれ、やっと、本論へたどり着きました! ほほっ。 今日の記事は、 コメントへのお返事 19. 「闇」を否定する原子力 「苦」と「楽」について 2. では、いただいたコメントを紹介いたします。 原発に関しては IAEAはじめとする、核(原発、核兵器)保有国が一丸となり 安全性のアピールに躍起となっています。 ほぼ成功してて反対する人は放射脳と揶揄されてますし。 ほんとうの事が判れば、核放棄に世論は一気に動きだすことは 間違いないんですがね。 時の来るのは、福島の健康被害が本格的に増えるのはもう少し先です。 時間がたちすぎて福島との関連性を云々できないと専門家や政治家は のたまうのでしょうきっと。 核に関しては絶対反対の立場ですので、 原発再稼働の動きには懸念してますよ! 核にせよ年金にせよ未来へのつけは残したくはありません。 さて、自分に何ができるのか?時間はありません、真剣に考えていかねば。 まじめなコメントをいただきました! 問題提起、ありがとうございます。 いろいろ原発の事、放射能の事、お考えになっていますね。 いつかは、原発の事、脱原発の事を書かなければ、、、と思っていました。 心の奥底では、だれもが、そのように考えている事だろうけれど、 残念ながら、 現実的な行動としては、世の中は、そこまで行っていないようです。 脱原発は、国民の総意になる処までには至っていない。 そう認識をせざるを得ませんね。 先に行われた参議院選挙の結果もそうでした。 しかし、参議院選挙運動期間中(7月4~13日)、 ツイッターでの一番の話題だった政策は、エネルギー政策でした。 一方、同期間の全国世論調査での 投票先を決める時のもっとも重視する政策は? と云う問いに、 第一位は、景気や雇用でした。 その中で、エネルギー政策は、それらより遙か下、7位でした。 全国世論調査の方が、選挙結果に近いですね。 いわゆる日本の脱原発論は、我々の中で、まだよく煮詰まっていない。 真に、国民は、脱原発を切望する処までは行っていないのです。 それより身近な、給与、雇用、経済の方に「苦」を感じるのが現状です。 一体、我々は、何を「苦」と感じるのか? 「苦」は避けようと思えば避けられるものなのか? 近代合理主義下では、 何が「苦」か、意識が決めちゃうのですよね! あはは。 意識は、現在の五感の満足、天国の「楽」が最高の目的なのですよ。 地獄に落ちても気持ちがいい方がいい~! あはは。 と云うのが、意識の癖でした! これらが、キーポイントです。 五感と云う感覚器官で感じる事は、1000人いれば、1000の種類です。 意識も1000種類に分かれ、それらは一つとして同じではなくバラバラです。 それが、まだ、我々の間で収斂されていないように思います。 しかし、どう云う現状であれ、粘り強く、 命が最第一に大切にされる世の中を願って行く事は一番大事です。 しかし、近代合理主義は、 言葉だけは天国のような? あはは。 結果的には命を大切にする事ができない思想となっています。 今日は、東洋的な観点から、どうしてそうなるのか? どうしたら原発の問題を乗り越えて行けるのか、考えてみようと思います。 現在の日本の状況は、 今回の選挙公約で脱原発を掲げた政党にしたって、 その具体的な脱原発の方途はないまま、口先だけでした。 その空虚さを有権者は、生活者として感じていたはずです。 従って、必ずしも脱原発を訴えた政党が勝ってはいません。 全てが曖昧模糊、霧の中のようです。 具体的な方途がないままとは、 福島を廃炉にする技術すらどうするのか? これからです。 廃棄する核燃料の行き場は? 代替エネルギーすら、まだまだ開発途上、技術革新を待つ状態です。 今は、化石燃料を輸入して燃やしているのですが、 それが、地球温暖化へどう影響をするのか? 今夏の天候の異常さを感じながらでもどうする事もできていません。 化石燃料自体、地球が何十億年もかけて蓄えて来たものですが、 現在のように原発の穴埋め用に頼ってどんどん使っていたのでは、 あと何十年~100年単位で失くなって行ってしまいます。 このような、後世の人々に借りを作るようなやり方には疑問を持ちます。 費用は? 福島だけでも、廃炉の費用は莫大な税金を使うでしょう。 全国的に脱原発をした時の廃炉費用は、どうするのか? このようないろんな問題があります。 そして、もっと大きな問題として地球環境の問題があります。 地球温暖化、地球的人口増加、地球的食料難、地球的水不足、 いわゆる地球資源の枯渇です。 これら水不足などは、もう始まっています。 これらは、見ようによっては、原発より大変です。 すべて国家間の資源戦争へと進む問題です。 中国は、その為に海洋資源の確保に動き出して尖閣問題等もあります。 今、人類は、非常に緊迫した状況にいると思います。 地球規模で、脱原発をしようと思ったら、 ・アフリカや新興国の人口が現状から絶対に増えない。 ・アフリカや新興国の生活水準が今のレベルから上がらない。 そう云う前提でもない限り、無理でしょう。 おそらく、誰もが、ニューヨークのような街で、東京のような生活をしたい。 ネットの普及した世界中の人達が見たら、そう望むはずです。 その時に、今の先進国の人達は、今の生活水準を保てるのか? 再生可能エネルギーと云っても、その元は太陽エネルギーです。 総量は決まっている。 技術が進んでも、その設備を作るのに相当な電気が要るはずです。 その電気はどうするのか? その時、又、原発が頼りにされるのではないか、、、 ほほっ。 笑いごとではない。 現実の世の中と云うのは、欺瞞に満ち、偽性で成り立っています。 こういう社会を、 我々は、近代化以降、作り上げてきたのですね。 近代合理主義の思想を社会のすみずみにまで徹底させて、、 我々の教育、政治、法律、その枠組みを全て変更して、 近代国家を作り上げて来たのです。 近代国家とは、それぞれの国家の「楽」の追求ですから、 最後は、熾烈な命の殺戮になるでしょう。 近代合理主義は、人間の五感に依存する意識を基軸にしています。 その意識が、 無意識の闇を切り捨て、 より優秀な前頭葉の持ち主を選抜する学歴社会を構築し、 No1ばかり、最高の意識レベルを集中させた科学技術を道具として、 地球資源を駆使して、 意識で囲ったエリアから「闇」を放逐し、 人工の灯りで明るくするのには成功したようですが、 さてさて、「楽」に満ちた平安な世界を築けたのでしょうか? 今は、原発は大いなる「苦」そのものの存在ですが、 元々は、我々にとって大いなる「楽」をもたらすモノとして 作って来たはずです。 誰だって、どの地域の人達だって、 初めから大いなる「苦」になるモノを 自ら進んで誘致して作るなんぞ、するはずもないからです。 どう云う「楽」を欲しいと思ったのか? どう云う夢を見ていたのか? もう、その時の当事者ですら、今の現実を目の前にしては 思い出せないかも知れません。 しかし、間違いがないのは、当時の意識が得だと判断をした、、、 原発が「楽」をもたらすモノだと認識をした、、、 からこそ受け入れる決定をしたはずです。 1000人の意識が、1000のそれぞれの得を認めたからこそ、 この『陽』の現象界へ原発がまぎれもなく実現したのです。 実際に、福島原発については、 その当時の経緯について、2012年 3月 18日の記事、 あれから一年 2. 「フクシマ」論 開沼博ー 災害の外因・内因 に記事にしてあります。 直接は国策で、東電が作ったモノです。 しかし、地域に住む人々が原発を断わったのに無理やり作られたものではなく、 国に押し付けられてイヤイヤ作ったのでもないのです。 その経緯については、いわき市に住む、地元の人だからこそ書く事ができた 東京大学大学院に在籍中だった社会学を専攻する開沼 博氏(29歳)の 著わしたフクシマの検証本『「フクシマ」論 』 青土社 をご覧になってください。 この本の中身は、 事故前の1月に、彼の修士論文として提出されていた内容です。 福島原発の事故があったから書かれたものではないのですが、 非常に、人間の意識の身勝手な移ろい、欲望の満足の恐さを 浮き彫りにしています。 つまり、人間は欲望の満足の為には平気で嘘が言えるのですね。 事故前の福島には、 「原子力関連施設のおかげで生活できるという幸福感」が 満ちていたと彼は書いています。 福島に原発が建設された実際は、 1957年、後の県知事となり「原発知事」と呼ばれた木村守江が、 まだ当時、福島県選出の参院議員であった時に、 まだ原発建設に手を上げる自治体がない中で、 「後進県からの脱出をめざして」と、いちはやく原発誘致に動き出し、 「ムラが原発を能動的に受け入れ、抱擁した。」 「ムラは、言われるがままに原子力に乗せられた訳ではない。」 「反対派あっての安定した秩序」を構成したのだ。 と書いています。 そして、 原子力ムラと福島の建設地のムラ、この二つのムラが、 「お互いの都合で抱擁し続ける中で、 ムラの人間たちに、絶対安全だという”神話”が生まれた。 この”神話”の信心こそが今回の大事故の底流にある。」 と書いています。 当時の原発知事が、県の為に国に誘致を頼んで造ったのだ。 と、書いてありました。 また、開沼氏は、この著書を表わす前に、 福島はもちろん、青森の六ヶ所村を訪れています。 その時の印象を書いてある中で、 いずれの原発施設に通じる国道や県道にも、パチンコなどの遊興施設が 道路の両側に沿って延々と数多く立ち並び、 その道路上には高級車が止めてある風景ができ上がっているのは、 福島も六ヶ所村も共通していた、とありました。 いわゆる普通のありふれた街の雰囲気そのものですが、 それが、本当なら寒村と云われる場所一帯に突如として現れる、 その風景から、 時間と金銭が豊かになれば人は、こう云う同じ事をするのか? 彼なりに捉えた一文が、心に重く残っています。 人が求める「楽」とは、どう云うものか? そう云う「楽」を一度手に入れたら、手放そうとはしない。 それが、原子力建設地のムラで、安全神話を生んだのだと言うのです。 心も頭も真に安全とは納得していないのに、 人は、自分の欲望が「楽」に手に入るお金で満足できるようになると、 自分の心と頭に嘘をついてでも都合の良い行動を取る事ができるのです。 これが、欺瞞です。 『陽』の現象界の「偽性」そのものです。 『陰』たる自分の命そのものを背いてまでも ------ 『陰』の無視 『陽』たる自分の欲望の満足を優先する。------ 意識優先の思想 これを思想自体から許しているのが、近代合理主義の実態なのです。 開沼氏から、もう一度、 非常に、人間の意識の身勝手な移ろい、欲望の満足の恐さを 浮き彫りにしています。 つまり、人間は欲望の満足の為には平気で嘘が言えるのですね。 政治家や業界が、手にしている既得権益を手放そうとはしない。 官僚が省益を第一に考える。 どれも同じ穴のムジナです。 『陰』を無視し、無意識界を無いとする近代合理主義では、 いかに美しい言葉を連ねてスローガンを作ろうと、 正しい言説を述べて演説をしようと、 最後は、 この人間の暗黒部分が結果的には現象化します。 (この事を、今回の記事は繰り返し、徹底的に書きます。) ほほっ。 原子力発電所は、 我々の近代的自我の意識・心から出た現象そのものなのです。 そう! 「闇」や「苦」や「死」を彷彿とさせる原自然から 人間を隔離して自然からの「苦」を排除する為のエネルギーを求めて、 意識が探し当てたのが、原子力でした。 そう、全くの自然を無視して、 意識の中で作り上げた天国・「楽」をこの世に実現しようとして、 我々の近代合理の意識<愚>王が、産み落とした御曹子が、 原子力発電所なのです。 原子力発電所は、 近代合理主義に染まった我々の意識・心から出た現象そのもの、 まぎれもない産物なのです。 ーーーーー もう一度言いましょう。 原子力発電所は、まぎれもなく 我々の意識、心、精神が産み落としたものです。 日本中には、18地域、51基の原発があります。 これだけの現象化を実現すると云うのは、国だけでは無理です。 余程の周りからのエネルギーが集まらないと無理です。 それ相応の欲望のベクトルが、集まったのですね。 51基が建設される過程で、 どうして今の沖縄の辺野古沖の埋め立て反対運動のようなものが 起こらなかったのでしょう? どうして過去の成田闘争のような反対がなかったのでしょう? 原発自体を反対する、 脱原発の声が全国的に起こらなかったのでしょう? 1954年(昭和29年)3月、 中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により 原子力研究開発予算が国会に提出された事が起点とされています。 1955年(昭和30年)12月、 原子力基本法が成立し、原子力委員会が設置された。 初代委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎氏です。 故に、正力氏は、日本の「原子力の父」とも呼ばれています。 しかし、この時原子力委員であった日本人初のノーベル賞受賞者である 湯川秀樹氏は、抗議の為に委員を辞任しています。 それから、今まで、約58年の間、今のような脱原発の声は挙がりましたか? 安全だと政府が言ったから黙って認めて来たのでしょうか? それが、事故があったから、もう、ダメなのですか? 安全と言って来た政府が悪い、からですか? 安全神話がウソだったからですか? 我々の態度も、 周囲の変化に合わせて云う事がクルクル変わる、、、国と同じです。 我々も、『陰』たる基軸を捨てているから、 頼るのは周りに振り回される近代的自我の意識しかないからです。 我々は、憐れな『陰』の徳性を失っている民です。 そして、 現在における自分だけを守る ・・・・・ これも、国と同じです。 我々の中にも平気で『陰』を無視して来た欺瞞があるのです。 「楽」ならいいじゃないか? ほんとうに? 「楽」になるって思う方が「楽」じゃないか? あはは。 「楽」ならいいと云う基準がおかしいのです。 「楽」でも「苦」でも、ダメなものは、元々ダメなのですよ。 事故がない間は、よかったんだ? あはは。 事故があろうとなかろうと、ダメだったのです。 本質的にダメなものを許してしまったのは我々の意識です。 「楽」に騙されて作ってしまったのは我々の意識です。 我々の中にも欺瞞と云う内因があるから、 こう云う目に遭う『運』を作ってしまった!のです 原発を許した原因は、我々の「楽」を求める意識です。 近代合理主義に染まって、 「楽」を求める事を恥だと感じる羞恥心を捨てた我々の心です。 もう、幼子から、お年寄りまで、 そりゃ、「楽」がいいに決まっているのですから、、、 あはは。 近代合理が、頭をナデナデして「楽」になるよ! って言ってくれていたから、 あの事故さえなければ、 今もそのまま原発には黙っていたのだろうか? 言うなりになるつもりだったのだろうか? 東京に住む我々は、原発立地自治体じゃないからって、 無関心でいたのだろうか? ーーー 原子力発電所は、そう云う我々の意識・心から出た現象そのものです。ーーー 「楽」になると云われれば、原発を黙認し、 事故が起って「楽」どころか「苦」になれば、 やっと、原発そのものが悪者のように脱原発と騒ぎ出す、、、 時系で変化する現象に振り回されてフラフラする意識を頼っている限り、 目先の「楽」を追いかける限り、 永遠に、本当の平安は手に入らないのです。 今回、学ばなければいけないのは、この事です。 前回の記事、 「苦」と「楽」について 1.で、 近代合理主義の意識にとれば、「苦」と「楽」はバラバラに見えている。 と書きました。 これは、現代に生きる我々にとっての事です。 しかし、 東洋の深い叡智から観ると、実は、そうではない。 実相を正しく捉える東洋の仏法の智慧では「苦」と「楽」は、不二である。 つまりは、意識が排除をする「苦」とは、実は「楽」にもなり、 意識が欲しがる「楽」は、実は「苦」そのものになるのです。 「楽」が、「苦」になり、 「苦」が「楽」になる原因は? それは、人々の心の清らかさ・清浄さにかかっていると 高度な仏教には説かれています。 邪心を持てば、「楽」が「苦」になる、と云う事です! 邪心とは、真理に背く心、、、??? ああ、修行が足らない我が身には、難しくて分かりません! 何が清浄なのか?と云う事には、今触れる余裕もありませんが、 深くは、又、いずれ、、、修行の後に、、、、、 ほほほっ。 さぁ、そうであるならば、困った事が起こり得ます。 「苦」であると云うだけで、そんなに簡単に何でも捨てていいものだろうか? 近代合理主義の科学は、政治は、経済は、 「苦」と「楽」がバラバラであると云う二元論を克服できていません。 そもそも、「苦」と「楽」の完全分離の根拠は西洋二元論です。 この事自体が、欺瞞に満ちたロジックです。 そもそも意識レベルで捉えようとすると、 意識は、現象を掴まえる事しかできませんから、 「苦」と「楽」か、どちらかに見えるはずです。 悦びながら苦しむとか、悩みながら嬉しがるとかは、 意識には無理です。 あはは。 真実を知る事の出来ない意識には、そうにしか捉えられない。 何事もそうですが、分けて思考すると云うのは 真理に至っていない前駆段階、途上の言い訳、位相、方便、主義です。 仏教の経典にも、そう云う前駆段階の経典が多くあると前回書きました。 それを真理を明かした仏の教えと受け入れれば、トンダ邪教になる訳です。 何事にも、浅瀬なのか? 深海なのか? 本音なのか? 上辺なのか? 飾りなのか? 本体そのままなのか? 腐りかけの魚なのか? 生きがいいのか? 魚を見る目にも、それ位の目利きはいるでしょう? ほほっ。 人を、言葉を、思想を、見極める目を持つしかありません。 智恵と云うものさしを持つしかありません。 近代合理主義は、こんなチャチナ低い思想なのだと云う事です。 その低い思想である近代合理主義が起した現象の渦巻く現状が、 我々を取り巻いている。 真実を知らない無知な意識が、 お馬鹿な近代的自我の意識が犯す間違いのオンパレードが、 この近代合理主義の社会を蓋っているのです。 どうか、そこに気が付いてください。 私たちは、騙されています。 もう、そろそそ気が付いてもいい頃ではないですか? もし、原発を批判するのなら、 その前に、原発を許し、作った、その背景である近代化と云うものの 批判ができなければなりません。 そして、自分の中の無意識・命を否定する近代合理と戦う必要があります。 そして、自分の身を近代合理主義の柵の外へ置く事です。 それは、どう云う事かと云うならば、 脱原発を実現したいのなら、 その前に、自分の意識、心、精神が、 「死」と「闇」の「苦」を消そうなどとは思わないで、 せめて昔の日本人が畏敬の念で、その存在を認めたように、 この世の「死」と「闇」の「苦」をありのままに受け入れる事が前提です。 自然と共に生きていた昔の人びとの心を取り戻す事です。 つまりそれは、無意識の智恵を用いなければ解決はできないでしょう。 それは、こう云う事です。 無意識から観れば、 意識の云う「楽」と云うモノも、 意識の云う「苦」と云うモノも、 無意識からの同一エネルギーの現象での違いにしか過ぎません。 ある時は、意識の捉える「楽」が、一辺に「苦」に変わり、 ある時は、意識の捉える「苦」が、刹那に「楽」に変わるのです。 これが難しければ、次の例えなら分りますね?! ある人には「楽」である現象が、別の人には「苦」である事は普通です。 そのように、「苦」や「楽」には普遍性は存在しません。 特に、『陰』・無意識を無視した意識の「苦」や「楽」は皮相的なもので、 徳性も、普遍性も存在しません。 その原理を知らずに、 目の前の「苦」を捨て、「楽」ばかりを拾おうとするのは、愚か。 その愚かさに目覚めていないのが、近代合理主義と云う大ばか者です。 無意識界を認めないから意識には智恵が欠けています。 だから意識は「苦」を避けざるを得ない。 仕方がないから、「楽」ばかりを集めているのです。 この愚かな真似は、もう止めた方がいい。 近代化の奈落へ堕ちるばかりでしょう。 今の社会の経済、政治、すべてそうです。 意識が、これは「苦」、あれは「楽」と選別するのに従って 我々は、欲しがったり、無視をしたりしています。 これは、「楽」なのよ~ これで便利だよ~ 「苦」はイヤだ~ 「苦」を避けて「楽」を手にする事が、さも、それで正しいように、です。 「楽」は正義だったのか? 「苦」は悪だったのか? じゃ、近代合理主義では、善とは何か ? 子供にどう教えているのだろう? 国民全員が、自分の「楽」ばかりを主張したら、どうなるのか? 国民全員に、「楽」を与えるには、それ相応の税金の負担である「苦」が 返って来るのはお分かりですね? このように、無意識を否定した近代合理主義の思潮の下、 「苦」を乗り越えないで避けて、避ける為の道具ばかりを開発し、 それが、イノベーションだなんて?! 「楽」の獲得ばかりに奔走する意識に連れられて、 我々は、どこに向って進んで行くのでしょうか??? 人間は、何もしないで、ただ安楽椅子に寝そべり、 あるいは、運転席に座っているだけで、 機械が、人間の脳やまなざしを感じて動くと云う理想郷の実現に向って 科学と産業を、経済が引っ張って行ってくれるようです。 その為の法整備をするのが政治なのですね!? あはは。 便利なモノを作れば売れる、 安全装置だと云えば売れる、 どこまで人間を甘やかしたらいいのだろう? バカな経済が主導する人間像は、どう云う人間を作ろうと言うのか? まさか、売れる事が、正義だなんて言わないで欲しい。 その結果が、人間がどうなっているのか顧みる事もしないで、、、 文明化された都市に住む限り、意識の体験は限られています。 泥だらけになる事は不衛生だし、非能率だし、コストが高くつくし、 それらを避ける為に、 近代化によって泥だらけにならないように、自然を遠ざけ、 道具を開発し、機械を作って、作業手順を工夫して来ました。 それがすべて、良い事なのか、どうか? 近代化された意識中心の社会の中で生きる我々は、 普段、その自覚はないが、聴力も、脚力も、弱くなっているのですね。 その事を、嫌になる位、那須の夜の森で感じました。 人間は、もう、森の中では暮らせない生物になっているのです。 その他にも、手を伸ばせば水が出て来る水道のおかげで、 昔の水道の蛇口を廻せない小学生が、出て来ているようです。 蛇口を廻す指の筋肉が、まったく発達していないのですね。 それどころか、指でナイフを操ってリンゴの皮剥きができない主婦や 作られた人工の旨味や合成されたジャンクフードに馴れて 自然の果物の甘みを感じられない若者の味覚、、、 果物を食べる時の果汁で手が《汚れる?》のがイヤで、 果物を敬遠する人間が、増えているそうです。 本物の自然を排除した合理化デラックスな安っぽい疑似自然の中で、 人間の疑似人間化は、もうすでに、命の底から完了しているのです。 これでは、男女共に子供ができる体ではなくなるはずです。 我々の五感は、もうすでに狂い始めているのです。 本当の自然の過酷な環境では生きていけない程に 自然の中で生きていく能力を失って行っている。。。 。 さすれば、我々が、まだ気が付かない処で、 地球上のあらゆる生物の命のレベルは、 人工疑似的に壊変され、生の本体の能力をmissing しつつあるはずです。 これが、『陰』を無視したエネルギーの還流です。 『陰』を無視したやり方が、当たり前になって、 女と云う性を受け入れた生き方をしないまま成長をして、 生殖器が未成熟なまま不妊症になったら、不妊治療を受ければいい、 年齢制限までに人工授精か何かで子供を作ればいい、、、 子供は製氷機で氷を作るように、水を入れれば同じ氷ができる? あはは。 そんな! 運命学から観れば、不妊治療で生まれた命式は、 ある特徴があってなかなか普通ではないのですよ。 今でも自然でいるのは、 アフリカの草原を駆け回って採集生活や狩猟生活をして まだ近代化からはほど遠い後進国の人々でしょうか、、、 今でも、自然である能力を失ってはいないはずです。 あー、でも、 近代化の魔の手は、これからアフリカへも伸びて行くのですね。 このまま意識のセンサーがもっと弱って行くと、 人間は、もっと「闇」に耐えられなくなって怖がるようになるでしょう。 「苦」を遺棄するようになるでしょう。 意識は、過去の経験と現在の環境に縛られています。 常に生き残る為に環境に順応しようと移ろう意識は、 過去の経験のデーターからしか、未来を作れません。 原発事故から得たデーターでどんな未来を作るのでしょうか? 近代合理主義が作り上げた電気代のかかる疑似自然を手に入れた意識は、 その現在の「楽」を手放す事ができるのでしょうか? 意識は、文明化すればする程、無意識・本質から遠ざかります。 意識の力(五感の情報収集力)は、環境に左右され、 文明化する程、退化をして行く、、、情報が拡散し、過ちが多くなる。 本質を離れ偽性が強く大きくなる。・・・・・・・・・・『陽』 言葉の中身が抜けていく。命の中身が抜けていくからです。 これでは、 意識の権化・言葉が信じられなくなる。 〝再稼働は安全だ!”と云っても、 ほんとうは、何が安全なんだか ??? わからない! 実は、この事自体が、究極の近代化の奈落なのです。 無意識を無いとする近代合理主義の意識を中心とした現象界は、 絶対的価値を、missing した相対世界ですから、 だれかの言葉を絶対的に信じるなんてできなくなって行く。。 。 人と人を結び付ける『信』の徳が抜けて行き、 個々人がバラバラに、個人の意識を優先し出すと、 夫婦や家庭は成立しなくなるでしょう。 もうすでに、その現象化は表われて来ています。 止めどもなく、人間が物になって行くのです。 近代合理主義と云う思想そのものが、袋小路の中です。 する事、為す事、すべてが、その*凝滞の姿を現すのです。 これに、もう気が付かないければいけませんね。 *凝滞(ぎょうたい) = 物事の流れがとどこおって先へ進まないこと 最後に、陰陽学から、 太極図を思い出してください。 『陽』が極まった『極陽』である近代的自我の意識は、 命の本源『陰』・「闇」を完璧なまでに無視をしています。 『陰』・無意識を無視するとは、 『陰』の原意の徳がすべて、近代合理主義の現象化には欠けると云う事です。 近代合理主義を基盤とする科学が、 無意識の領域を完全否定するとは、どう云う事になるのか? 『陰』・無意識を無視するとは、 『陰』の原意の徳がすべて、科学の結果から欠けると云う事です。 それらの現象は、 我々の生きる命の傍から、 地球の危機をみすみす手をこまねいて何もしない今のように、 本当の自然を遠ざけ、自然を破壊し、 疑似自然で我々を囲うようになるでしょう。 人の生き死にから出生、病気を統計で国家が管理するようになり、 フーコーの云う生政治がもっと個人の生活を統制するようになるはずです。 女が女でなくなり、男が男でなくなり、 今の女性の6人に1人が不妊治療を受けていると云う事実。 この現実を、保育所が無いからだと、待機児童のせいだとして、 何の不思議とも思わない延長上には、 「苦」も科学技術を道具にして失くす事ができると云う 人間の意識の傲慢があります。 この意識の傲慢は、最終的に自然を征服したと言える満足を求めて、 恐らく命の操作へ挑戦をして行くでしょう。 人間製造と不老不死を実現しようとするはずです。 これからの合理主義はそれを狙っているはずです。 ある意味、放射能よりも恐い。 自然に対する畏れが無くなっているからそれができるのです。 その近代合理主義が、人の為、世の為と、 美辞麗句を自信がありそうに平気で言えるのは、 意識には常に〝漏れ”があると云う事について無知なのと、 意識には、常に偽性が伴う事を自覚していないからです。 もしや現代の我々は、 現代科学の技術を利用して「苦」を避けたつもりで原発の火を点火し、 「楽」を得たつもりでいたのが、 地震と津波と云う大災害で、おおいなる「苦」へと、手の中で変った??? と、本気で思っているのですか? もしや地震や津波で、事故が起こらなければ「楽」のはずだった? のですか? 地震や津波が起こった事を悔やんでいる? 自然災害、あれさえなければ、よかったのに、って? いいえ、災害に由って「苦」へと変ったのではありません。 元々、近代合理主義が内包する偽性が生むはずの「苦」そのものなのです。 こうなる帰結を中に孕んだ思想であると云う事です。 その思想に、何の疑問も持たずに染まって、 「楽」を得たりと勘違いをしていた我々が、愚かだったのです。 そして、我々は犠牲者だと? いいえ、我々は、揃って自然への加害者です。 我々の命を生み出した大自然への地球への揃って加害者です。 感謝もせずに、畏敬の念も捨て、傲慢に自然に挑戦をして来た加害者です。 天に唾する行為をしたのは、我々です。 我々は、国が在って生れて来たのではない。 我々は、『天』・自然より命をこの世に享けたのですから、、、 『陰』の徳性をもって『天』に心から向き合えば、 国のせいにして済む事ではないと気が付くはずです。 『陽』の偽性(ロジック)に従って、 国家と云う枠内でその責任を論じる場合、 たしかに国に責任があると云う事は間違いがありません。 しかし、 国は、そもそも民主主義下では、国民主権であるならば我々です。 国の賠償金は、国民の税金からと云うのは自明の理です。 全ての負担は、我々の上に降りかかって来ます。 それを考えると、 一番の責任は 科学技術でもたらされた原発の恩恵を受けた便利で楽な生活の中で、 近代合理主義に対して何の疑問も持たなかった、、、 自分達が選んだ議員を甘やかして好きにさせた、、、 あらゆる事に、のほほんと黙って見過ごしてしまった、 そう、欲の満足を受け入れるままに生きた我々です。 大地が、全てを受け入れるように、 国民が、それぞれの力に応じて、 最後は自分達の「苦」を受け入れるしかないのです。 これを運命学で云えば、それぞれの運次第です。 隣に住んでいる同士でも、運は違います。 同じ家族でも、運命は違います。 放射能が恐いのなら、放射能を遠ざけるだけではダメです。 脱原発をしたいのなら、もう、気が付かなければ..。 自然の中にありのままに在る「苦」そのものを受け入れる事です。 「苦」そのままを、自分の命で受け入れる力を持つしかないのです。 臆病に逃げてはダメですよ! 運は決してあなたを逃がしてはくれませんよ! あはは。 運は、あなたが目の前の「苦」を受け切って行かない限り、 逃げたつもりでも、その罪も加重されて、 あはは。 あなたの子孫に代々継承されるだけです。 これは、脅かしではありませんわよ。 詳しくは、命の継承シリーズで、また。 ほほっ。 最後に、もう一度、繰り返します。 この『極陽』の近代的学問が産んだ火は、 生命と生命の本体・自然を破壊するものだったのです。 それはそうです。 『極陽』の近代的自我の意識は、 命の本源『陰』・「闇」を完璧なまでに無視をしている。 だから、 命を守るものを作れるはずがないのです。 近代合理主義のもたらす物の豊かさが、 色心に亘って、我々を幸せにする事はないでしょう。 その美しく聞こえる言葉も、それが成就するはずはないのです。 成就しない処か、物に幻惑されて有頂天になっている間に、 最後は、命を破壊、抹殺する現象化へ収斂していくしかないのです。 『陰』を無視し、命の本源を捨てた結果の当然の帰結です。 近代合理主義自体のリズムが現象化した世界です。 もう、気が付いてもいいのではありませんか? 今日のなぞなぞ? 原発は、近代合理主義の必然の結晶である。 これ、お分りになっていただけたかしら? ほほっ。 記事が非常に長くなりました、、、 更新が伸びた分、2回分位書いたでしょうか? あはは。 最後までお読みくださった事に、 深く感謝申し上げます。 暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛を、、、 次回で、コメントへのお返事は一旦終わります。 更新がひどく不定期になっております。 記事の内容によって、 思索を深めなければならない場合もありますので しばらく時間がかかる場合もあります。 また、暇があれば山へ行きたくなるシーズンです! あはは。 ザックにパッキングしている時が、一番ワクワクします。 ご了承ください! ほほっ。 では、次の更新まで、よき日々を ! -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |
![]() 2013
08/26 23:01 |
コメントへのお返事 20. 神に成り上がった経済 「苦」と「楽」について 3.Category : 西洋と東洋の違い
高尾山南陵、山道に突然現れたヤマブキ草の群生
![]() 写真をクリックしてみてください! (高尾山南陵の花たち・前の記事からのつづき) もう、3カ月も前になるのに、 この写真に写っている、ヤマブキ草のお山の前に立った時の感動は! 忘れられません、、、 里山から、山の暗い森の中へ山道を進んでいくと、 突然、正面に、こんな光景が広がっていました! ちょっと、我を忘れてポカーンとなって、、、 ほっ。 なんとよく見るとヤマブキ草のテーブル、です! ピンクの花も傍にちょっと、あしらわれていて、 まるで〝ヤマブキ草のお刺身盛り”。 ほほっ。 森の奥から、白雪姫が、7人の小人と出て来るみたい。 ほっ。 何やら柔らかな心になりました。 ---- こんな風景って初めてですね。 普通、山で見るお花達は、こんな風に集まって咲いておりません。 藪の中に、1, 2 輪とか、 とびとびに、時々見る位です。 後からお見せするクマガイ草など、きれいに横並びに整列してましたもの、 ここは、素敵な花場ですね! 写真の左下の隅に見えるのが、これから登って行く山道です。 その山道の少し上、白い花が見えますね? 後で紹介するニリン草の群生です。 背後のゴツゴツした森の木々をご覧になって、、、比べてください! 森が、なんとむさくるしく思える事! あはは。 まるで、今日の記事、 --- 神に成り上がった経済 --- 経済と云う魔神が住む森! あはは。 経済については、前々から記事を書きたいと思っていましたが、 きっかけがないまま来ました。 もちろん、私は経済の専門家ではありませんが、 ここ30年間位の経済の異様さ! 何から何にまで支配をしようとする経済! それ以上の価値は無いように振る舞う横暴さにカチンと来て! ほほっ。 いつか、今の経済の、 東洋の叡智からの鑑定をしたいと思っていました。 少し前、フランスの哲学者、デュピュイの新著、 「経済の未来」が出た処で、、、 ド~セ西洋の意識哲学の範疇のハナシ、と思いつつ、、、 あはは。 現在の意識哲学が、どの程度、 自前の経済を訴追できているのか? (無理に決まっているわ) 経済を、王位から蹴落としているのか? (できないと思う) 西洋の知性と東洋智と比べるのもおもしろいかも知れない、、、 しょせん、西洋の意識哲学は、 結局は前頭葉の中の血流がどこに充血しているかと云う 五感が作り上げた方法論でしかないのです。 反転した云い方をすると、どこに血流が行かずに放置されているか、 そのように意識が無視した部分が、 そこが、人間がヒューマンエラーを起す処なのです。 デュピュイの新著は、おそらく、方法論に終始していると思って読みました。 (あっら、失礼な事を申し上げてしまってごめんあそばせ!) それと真実味の無い言葉群です。 これは、デュピュイの言葉の問題ではなくて、 近代合理主義における言葉は、 当然、私自身も含めて誰もが自覚がないだけで、 我々の中身が、実体が、近代合理に否定されている訳です。 無意識で得たいろんな知恵やひらめきにとって肩身が狭い社会です。 その反対に、大手を振って通っているのが、 自然界に実体のない、中身が実在しない、観念が作り出した言葉群です。 理性とか、感性とか、自由とか、平等とか、義務とか、権利とか、 人権とか、契約とか、犠牲とか、奉仕とか、聖とか俗とか、 ある時は、愛とか、無償とか、もそうですね、、、 製造元は、西洋哲学です、、、 ほほ。 みんな人間の前頭葉・意識が作り出した観念の言葉ばかり! 西洋哲学の本を読む時、うんざりします!!! 実体の無い、いわゆる仮に作った虚構の中の言葉群です。 これらを、仏教では、方便(真実ではないウソ)と言い、 こう云う教えを説いてある経典を*権教(ごんきょう)と呼びます。 *権教 = 【仏教語】真実を内包する大乗(法華経)に導き入れるのに、 衆生にとって真実が難し過ぎるので 受け入れやすくした仮の教典。 これら西洋の観念的言葉群を 我々は、自分が使う東洋の言葉のように、 自然の中に、言葉の中身が実在すると思って読むから苦しむのです。 あは。 むずかしいと思うのです! ほほっ。 たしかに、彼らが、有史以来、命懸けで鍛え上げて来ただけはある 狩猟民族の外界を捉える五感のセンスが、 鋭く光りを放っている言葉かも知れないが、 昔からあるキリスト教教理の上に積み上げただけの 旧態を守った方法論に過ぎないのです。 西洋哲学者が言う処の方法論は、------- 何も新しくはないのです。 言葉だけ目新しくて、がっかりします! 今回の〝破局”もそうね。 現代に惹起する問題点の原因は、 すべて今の世界を仕切っているキリスト教根底の現代の思想である、 近代合理が生んだものです。 --------- それが、分っていないですね。 そして、近代合理を生んだのは、当の西洋の人達ですから、 今さら、西洋の西洋哲学者が何を謂おうと、 その西洋人が発する方法論は、どこまで言っても、 今の近代合理を広めて来た側の弁解にしか聞こえないのです。 厳しいですが、そんな現状認識、発想なら、 東洋では3000年以上も前に、すでに体系的に済んでいます。 先ほどの権教、初期の頃の仏教の衆生を均(なら)すロジック(方便)です。 仏教は、それらを、方便だから捨てろ! とも言っているわ。 もう少し、東洋哲学も知っていただきたいなあ~ 西洋哲学で火事を起しておいて、もっといい方法がある! 今度は、西洋哲学のこれで、どうだ? あはは。 これじゃ、マッチポンプです。 そう云う食傷感が喉元から上がって来て、吐き気がします。 西洋哲学は、難しいと云っても見えた現象の説明の言葉です。 すべて五感で感じた事を説明する為の言葉群です。 五感で、見た、聞いた、思った事の説明ですから、 本来は分りやすいはず、 それを難しく感じるのは、 わざわざ、観念が造語した言葉で表現するからです。 あはは。 もっと、素直に自然と云う対象を観察すれば、 実体そのままの言葉が出て来るはずなのにと思いますが、 (これが、東洋哲学の言葉です。) 西洋人は、ほとほと自然を受け容れていなかったのですね? 自分の欲望をどうしても満たそうと思う意識が、強すぎて、 相手を強く意識した言葉になる。 それで、自然のありのままから浮き上がった言葉になる。 技巧的、偽装的、徹底的な自己愛の言葉群です。 そうした事を 東洋の叡智を以って、西洋哲学の氏素性を知って読めば、 西洋哲学はそんなに難しくないのです。 西洋哲学は、意識的で言語的で、絵画的で、紙芝居のようです。 それは、紙上、口上の表現の上でしかないと云う意味ですよ。 でも、いかにも spectacle スペクタクル! 一枚めくれば、どんな展開があるのかしら!!? あの、紙芝居のドキドキ感です! あっは~楽しいですね。 で、言葉以上に壮観な想像をしてしまうのね ? ほっ。 壮大な見世物ですから、すごく偉大に見えてしまう。 あはは。 それが、芸術作品ならそれでいいのでしょうけど、 地球や我々の命が掛かっている事よ! いくらモナリザでも、我々を救う事はできないでしょう? あはは。 でも、人は、見えない、聞こえない無意識・東洋より、 華々しい意識・西洋に簡単に魅了されるようです。 だから、今、東洋は、西洋の影に沈んでいます。 沈んでも、かき消されても、東洋は不滅ですよ。 だって、現象なんかじゃないから、 見えないけど、在ります。 ああは。 人間の観念の偽性が、西洋の特徴的な長所なのですね。 大抵の人は、この偽性を、真実だと思い込んでいますよ。 あはは。 まるで、媚薬? か麻薬のようです。 あはは。 近代合理主義で気持ちよくなると思って飲むと、 もう、抜き差しならない奈落に堕ちている、、、 ほっ。 今の時代の篩(ふるい)によって、 我々、東洋人は、選別されているのかも知れないわ。 むずかしさは、東洋の方が上です。 東洋学をやれば、西洋は漫画を読むみたいにおもしろいわ。 ただの現象だから、どうしてそうなるのか分ってしまうの。 東洋学を、お勉強してくださいね。 あーっ、 今日の記事の前触れが、長くなりました! 今年の春の高尾山南陵のお花の写真へもどります! 高尾山南陵のお花たちの写真は、今日で終わりです。 先ほどのヤマブキ草の手前には、 珍しいクマガイ草が、お行儀よく並んで咲いていました。 ![]() 両手を広げた間に、まるで五円玉のように見える花弁が特徴です。 近くで見ると、よく分るわ。 紅紫色の網目状脈がある丸い袋状の花弁をぶら下げた ラン科の多年草の熊谷草(クマガイソウ) ![]() ちょっとクマガイソウの薀蓄(うんちく)を、、、 この袋状の花の名前の謂われは、 平家物語の中、一の谷(現、神戸)の合戦で負けた平家が敗走する時の 逸話からです。 源氏側の武将、熊谷直実(くまがいなおざね)が、 平家を追い詰めて行った折に、 平敦盛(たいらのあつもり)との一騎打ちになります。 敵方の若武者、敦盛の首を討ち取らざるを得なかったのです。 殺された若き敦盛は無念の死だったはずです。 自分の息子と同じ年頃の敦盛を殺さなければならなかった熊谷直実は、 その後、敦盛の無念を晴らし霊を弔う為に出家をします。 この熊谷直実の逸話は、武家の逃れられない性(さが)、 この世の無常を表現する題材として、 後世の武士の間で非常に好まれました。 能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』等の作品に取り上げられています。 ------ ここの無常、無常観を、覚えておいてください。 仏教有縁の地、日本では庶民感覚で、無常感が語られていました。------ 熊谷直実が、その一の谷の戦で、 後ろからの矢を防ぐ為に背負っていた -- 布で袋状に縫った母衣(ほろ)--と この花弁の形が似ているので、それに見立て、 若き敵将を弔った熊谷直実を忍んで命名したのがクマガイソウです。 ★ 熊谷(くまがい)直実は、 武蔵国熊谷郷(現、埼玉県熊谷市)の平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。 彼の名は、日本一暑い街で有名な埼玉県の熊谷(くまがや)市の名前です。 登山道に沿って一面に咲くニリンソウの群生 ![]() ニリンソウを近くで見ると、 ![]() 最後に、巨大な切り株を、、、、 ![]() この一位(いちい)の切り株は、ゆうに私の背丈の倍はある高さでした。 カメラの目線が、切り株の高さの丁度、半分くらいの処かな? この一位の切り株を見て、何を想起されますか? かっての王者が、亡びた身をさらしているようだ。と ピーンと来た方は、ブログをよく読まれていますね? あはは。 ~♪ 自然から、『運命学』を学びましょう。 この木が、まだ生きて聳え立っていた時には、 森の中で一番目立つ、森の王者のような存在だったはずです。 森で一番高いがゆえに、 落雷で割れるか、折れて、最後は人の手によって幹が切られたのでしょう。 このように、 この『陽』の現象界で、このように気勢が強いと云う現象は、 『陽』の極みの位相の現象です。 こう云う場合は、 「過ぎる」と云う事を気を付けなければいけませんね。 ここでの「過ぎる」とは、『陽』が過ぎる。『極陽』です。 自然界の調和を乱す、に通じます。 「自然の摂理に逆らう」 『陰』・命を破壊する事なのです。 すなわち、「過ぎる」とは、滅びであり、 『陰陽』の中庸(バランス)を破る事です。 ついでですから、過去記事に何度か書いた事がある 次の運命学の2つの言葉を、、、、、 憶えていただいているかしら? ★ 旺ずる極みは、衰。 (おうずる きわみは すい) (力を溢れ出して栄え、強さが究極になれば、後は衰えるしかない。) ★ 研ぎ澄ました刀は、切っ先から毀(こぼ)れる。 (切れるように研いだ刀は、刃の先端から毀れるように欠けていく。) これらの運命学の言葉が言い表しているのは、「過ぎる」の意義と同じです。 ★ 究極の『陽』は、滅びに通じます。 ★ 『極陽』・人為を極めると云う事は、『陰』の磨滅なのです。 このように、人間の五感で捉えられる意識の世界の、 物事の成り上がりや、その全盛期においてすら、 その中に、衰えの「相を観ずる」と云う洞察力は東洋独特のものです。 特に、運命学では、 たとえば、『陽』の現象界に〝成功の姿”が現れているとします。 そうしたら、その〝成功の姿”の意識が、何に支えられているのか? つまり、奥底に潜む無意識界のエネルギーや、 それらを支える命式から分る位相を観るのです。 りっぱな花実を付けて聳え立つ樹木があれば、その根を観るという事です。 根の状態です。 そして、その養分を吸う土壌(先祖、家系)を観ます。 それが、ご本人の道徳観、生命観、人間観、人生観として意識され、 命式と一致するのが確認できます。 もしくは、どう云うエネルギーが成功と云う現象を生んだのか? その成功の由来を調べる。 いつまで持つのか? 『時』です。 また、立派な花実を付けた樹木の根は、疲れているはずです。 支えるのに必死で、衰弱している(陰徳が無くなっている)はずです。 その疲れを、どう回復させるのか? バックアップする陰徳の蓄えがあるのか? その回復させる大地(先祖の遺徳)に根は守られているのか? そこまで観えます。 五感には捉えられない、目で見えない、意識で捉えられない、 まだ意識化する前の無意識界にあるエネルギーを観じていくと云う事です。 次なる現象化を起こすエネルギーが、まだ命式にあるかどうかですね。 命式の中の季節、『時』が助けるように巡って来るのか? 未来を観るとは、そう云う事です。 現在の〝成功の姿”有頂天に溺れていても仕方がない事でしょう? 現在は、瞬く間に必ず、遠い過去になります。 過去を追いかけるのが、運命鑑定ではありません。 現在は、どんなものでも捨てる為にあります。 『極陽』の華々しい現象化を生むのは、調和を失ってしまう前兆である。 最後の『陰徳』をすべて出し尽くして失って行く姿です。 途中ですが、 丁度、この記事を書いている時に、 藤 圭子さんの訃報をテレビで知りました。 -------- 心からご冥福をお祈りいたします。 私は演歌全般をあまり聞いて来なかった方なので、よくは知りません。 しかし、宇多田ひかるさんが出て来て有名になられた頃ですが、 運命学的に感じた事がありました。 母娘そろって、有名に世に出る事は良くないなあ、と ピーンと感じるものがあって、気にはなっておりました。 世間的には、成功の姿なのですが、それが不兆の始まりになる、、、 そんな思いで、時々ですが、チラッと情報に接するたびに、 私の胸が、チクリチクリと痛んでいたのは確かです。 ええ、すべて私の胸の内の事です。 ブログをお読みになってくださっている方にはお分かりでしょうが、 --------- 藤 圭子、その娘、宇多田ひかる、一人娘です。 これが、女系の証明です。 絶家が確定する、、、な気がしました。 ひかるさんも女系の生き方の運命ですから、 しあわせな結婚や子供はない、子孫は途絶えるだろうと予感をし、、、 その事をご本人へ伝える術はないですから、、、 他人の運命ながら気がかり、そう云う心境でした。 その後、まだ子供も生んでいないひかるさんが卵巣嚢腫摘出手術をしたと、 藤 圭子さんが同じ夫との再三の離婚再婚の繰り返し、 ひかるさんの結婚、離婚、両親の離婚、 女系の運命コースをそのまま転落して行っているのを、 ピシピシと観させてもらっていました。 つらいだろうな、どうしてあげる事もできず、この先は、、、と、 で、この訃報でしたので、 お辛かっただろうなと云う心でおります。 女は、有名になったり、生活を背負って大金を稼いだり、 成功をしてはいけないのです。 女系の自覚を持って慎むようにした方がいいのです。 なるがままに『極陽』の姿を現じる事は、即、破壊、 自分の人生も破壊し、子供の人生も破壊が現象化します。 世間の成功なんて、なんぼの物でもないのですよ。 女性は、貧しくても、辛くても、どんな境遇でも、子を産み、 『徳』を持って慎ましく自分の家族を築いて行く事です。 それが、女性の『徳性』の生き方です。 その片方の生き方は、女徳を捨てた男勝りな『極陽』の生き方です。 さあ、どちらを自分の生き方に選ぶか?なのです。 『極陽』の姿を未練なく捨てて、『女徳』を選べるか? 『天』自然の摂理によるテストです。 このテストは、当の女系の女性が能力や才能を持って生まれて来るので、 自我意識や欲望が先行して、特に近代的自我を帯びた今の女性に取れば 非常に『徳性』を選ぶハードルが高くなっています。 女系で、『陽』の男と同じ生き方を選んでしまうと、 社会的な成功はそれなりにおさめます。 が、『陰』の女の徳性は失いますから、 どんなに有名になってお金を掴もうが、最後が孤独です。 子供の幸せを願って自分の代で、女系を終えたいと思うのなら、 今度は反対で、貧乏でそれは大変ですが乗り越えるしかないのです。 どんなに苦しくても『徳』を大切にする生き方をする事です。 いままでの先祖が、『徳』を選ぶ『苦』を避けた業です。 それを全部、今度は自分がどんなに苦しくても『徳』を持って引き受け、 『天』・道理に合う生き方を貫いていくしか、 女系の家系は、立ち直りません。 藤 圭子さんは、『陽』を選んだ結果と云う厳しい実例になりました。 他の女性の芸能人、知識人のキャリアウーマンの人にも、 有名人の男性にも、女系であれば子供ができませんし、 できても一人娘など、女系の典型的なケースが、沢山見受けられます。 藤 圭子さんのご冥福をお祈りいたします。 (先程のつづきから、) 運命学とは、「今」が幾ら調子がいいと言った処で、 過ぎゆく「今」を観るものではありません。 間違いなく「今」になる未来を観なければいけないものですから、 きびしいのです。 ほほっ。 こう云う哲学的遺産が東洋にはあるのに、その歴史を何も知らない、 東洋の日本に住んでいながら、 日本人は、東洋の叡智も知らない方が多いのね? あはは。 私が、この「東洋の復権を求めて、、、」のブログを立ち上げたのも、 東洋の運命学、および儒教や仏教の世界観を知るにつけ、 見かけだけはカッコウよさをテラっているような 現代文明の世界観の狭さ、 過去と今を重要視する現代文明の近視眼の異常さに 気が付いたからです。 このままでは、とんでもない事になるかも知れない??! 現代文明は、新しく変革するような? 素振り、見せかけだけはあります。 しかし、実は、ジクジクと中味が変化できない文明なのですね。 自分の「楽」が手放せない文明であります。 自分の感じた事が大好きな文明であります。 自分への執着と、感覚的な「楽」への執着を断ち切れないのです。 見栄えだけ新しく見せても、素肌は垢だらけ ! あはは。 たまには、キレイに洗ったら? と思います。 ほひ! それはそうですね! どこにも『陽』の「偽性」が垢になって隙間なくこびり付いていますから。 現在と自分を大事する近代合理主義では、 我が身が、垢まみれな事にも気が付かないで、 それでもなお、飽きもせずに、、、 あはは。 欲望を追いかける事を正当化する言い訳のロジック作りに没頭中です。 そんな意識のアクロバットばかりをしている現代哲学より、 運命学で未来を観る方が、よっぽど気分がいいのです! 未来が分かれば、今が、現在が変わりますから、 運命学が新しさを求める流儀を気に入っております。 ほほっ。 運命学で、近代合理主義は丸見えでございます。 現代人は、たくさんの知識を身に付けておりますが未来が分かりません。 だから、目の前の花火のような『極陽』の現象の目立つ姿に幻惑されて、 誰もそれが衰える事など想像する事も思いつかないわね! それどころか、いろんな感情に襲われるものです。 ただただ、、、うらやましい~! とか、 あはは。 自分もああなってみたいものだ! とか? あはは。 あいつは、なんと運がいいんだろう! とか、 ほほほっ。 愚かな意識は、無意識界の実相が見えないから、、、 つい華やかな存在を見れば、それに憧れたり、 ほほっ。 この現象界で、今起こっている事象に迷う現代人は、 なぜ、そうなっているのか? が分からない為に、 みんなが、少しでも多くの現象界の『陽』の成果を欲しがります。 欲望に突き動かされて努力をすれど、結果はどうなのか? 悩んで生きていると云うのが実態でしょう。 ほとんど、悩みはここら辺で起きているのですよ。 人間的と云えば、人間的ですが、、、 『陰徳』も積まずに結果だけを欲しがっているのでは、困ったものです。 と、云う事で、先にご紹介をした 現代の近代合理主義社会での 〝成功と云う価値観”に真っ向から冷や水を浴びせ、、、 物質文明が、我々の心をあおって憧れさせている天国の方向へ、 真正面から疑問を投げかける、、、 こう云う運命学の言葉群を、-------- さて、 このブログの読者の方たちは、どう感じられるのでしょうか? それと、もうひとつ、 運命学の言葉と、ほとんど同じ意義であろうと思われるのが、 クマガイ草の名の謂れの処で出て来た平家物語の中の 仏教の無常観を表わして有名な次の言葉です。 驕る平家は、久しからずや 正確には『平家物語』の 「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」とあるのが 言い換えらえたもので、 ・盛者必衰、・月満つれば則ち虧く、・物盛んなれば則ち衰う、などの 同義語の言葉もそうですね。 俗には、驕るから滅びる、と云うように解釈をされて、 滅びない為には、驕ってはいけない、と云う戒めの言葉になっています。 ------ そこが、 先の二つの運命学の言葉とは意味が違っております。 運命学では、「驕ろうが驕るまいが、極まりの次は滅びであるから、 極みの手前で中庸・バランスを取りなさい。と云う厳しい言い方なのです。 易学などの影響が大きいですね。 易は、変化を科学する学問ですから、もっとダイナミックです。 ----- 仏教は、もっと厳しいのよ! ほっ。。 全ての物事には、成り立ちから、それが盛んになって滅びる法則がある。 成住壊空(じょう・じゅう・え・くう)と云う大きな時の区分があります。 四劫(しこう)といいます 成って、住して、壊れて、空になる、それを繰り返すと云うのです。 宇宙自体も、宇宙の星もそうだと、当然、地球もそうです。 すべてのものが、同じ処に、同じ時に、止まらない。 その繰り返しが、ある意味、永遠に続く。と云う思想です。 なんと、東洋は、時も永遠に! すべてが、永遠に変化をし続ける! ほほ。 変化も、ある ない だけではなくて、どう変わるとか複雑です。 変るリズムは変わらないけれど、 その中で、どういう住劫なのか? 壊れていく時は? さまざまな状態があります。 人間も、生れ方、死んでいくありさま、いろいろです。 それに比べると西洋のキリスト教を根底にする西洋の哲学には、 『時』と云う、移り変わる概念が無いので 時系列、時軸、がない。 死んだら天国へ行くらしいのです。 後は、ずっと天国暮らしで、 そこで終わり。 あはは。 過去世もなければ、未来世もなく、この世だけです。 この世も、五感・意識が掴み得る〝今”、だけなのですから、、、 この今と云う『時』だけから、いろいろ言葉を出して来るのです。 今と云う『時』から見える世界は、どんなのか? 丸い筒を目に当てて、そこから覗いた狭い範囲の今と云う視界です。 『時』を説いていない教理にも関わらずに、永遠の愛って? 西洋的恋愛では、言いますよね!? あはは。 天国にずっといる事が、それが永遠なのでしょうか、、、 永遠の生命を解き明かしていない西洋文明の哲学では、 有頂天を感じる意識を最高に持って来るしかない。 それが、成功、一等賞、サクセス、それを夢見る事しかないのです。 日本も、だんだんそうなって来ていますね! お祭りの〝わっしょい! わっしょい!” の御神輿の、 その天辺に乗っている瞬間だけを追い求める。 そこから先は、五感にとって淋しくなるから捨てる。 意識には、祭りの後の淋しさの救いが見当つかないから、捨てるのです。 なんでも捨てるのね! 意識では考えも及ばないのです。 クリスチャンは、死んだら天国へ行って The END です。 自分は、天国へ行っちゃうのですから、その先には責任を負っていない。 農耕民族のように、『天』の時節を見ながら農耕をしなかったからか? 洪水で精根傾けた作物が全滅になる経験がなかったのか? 物が壊れる、失う空しさを味わっていないからなのか? 狩猟民族にとれば、 今日獲った獲物は無くなるのは当然、食べれば無くなるわ! 無くなれば、又、明日獲物を探しに行けばよかったのですから、 その日暮らしの狩猟民族ですか、、、あはは。 守るものが、無い。 守る田畑が、無い。 守っている物が、いつか全ては壊れると云う警戒感がない。 『時』の推移で物事は移り変わると云う思想がない。 -------- 無常感がない! ほっ。 そう! 西洋思想には無常観がありません。 これがすべてに亘っての違いとなって現れて来ます。 そして、 まえがきで紹介をしました盛衰の理(ことわり)、 当然、全ての事象は『時』と共に変化をする。 旺ずる極みは、衰、、、 盛者、必衰の理(ことわり)などの概念はないのです。 自然と人間の関係においても、 人間と、自然(この世界)は神が創った物ですが、 自然は、神が所有する物になっています。 しかし、人間と自然は、同等どころか、 自然は人間が征服するものだそうです。 ここで、不思議なのは、 人間は、神の所有物である自然を支配してもいいの? あはは。 近代合理主義以降、世界の先進国は、この論拠で、 このキリスト教教理を根底に持つ西洋哲学で、 日本も、その仲間として、皆で、人間の欲望達成の為に、 自然を利用、破壊、作り変えて来ました。 地球資源を利用して価値を生み出す。 それで、人間の生活の向上をはかって来た。 これが、現在までの経済の目的であり行為そのものです。 地球を破壊する限界まで自然を収奪してしまったのか... それが、自然を支配すると云う事なのか? 自然を支配する。 -------- 西洋的自然観 自然に感謝をする。-------- 東洋的自然観 同じ自然でも、その対応はぜんぜん違います。 ・・・自然への感謝、、、いかにも東洋的なのです。・・・・・・・・・・ と、云うのは、 この自然に感謝をする心が、持てなかったのが西洋の人たちです。 えっ? そんな? と思われますか? 私自身も、海や山でバケーションをする外人の姿を思い浮かべて、 ? ? と思います。 あはは。 アメリカの人も、フランスの人も、やさしい人達です。 人は馴染んで来たら、相手も自分と同じだって思い込むのですね。 古来の日本人が自然を敬い、ありがたい! と思うのと同じような ・自然への感謝は、西洋のキリスト教にはありません。 キリスト教では、感謝する対象は、この世界と人間を造った神です。 ええ、収穫への感謝はありますが、 それは収穫と云う恵みをお与えくださった神へ捧げるものです。 宗教の教義ですから、いろいろあるでしょう。 それはそれでいいのですが、 それはそうだわ! 自分が支配しているモノに、感謝はしないものです。 こう云う思想にかれこれ68年浸ってしまって、 地球の資源がまるで無尽蔵にあるかのような? 消費を奨励する経済がイニシアチブを取る近代合理主義の社会の中にいると、 東洋の無常感など、どこ吹く風で、 これが、天国に似ている感覚なのかしら ? ほほっ。 と云うような誤解すらしてしまいそうです。 あはは。 経済が作る疑似天国を目指す社会にいれば、 日本人の体の中からも無常感が蒸散して行くはずです。 もう、ちいさな子供たちは、西洋のキリスト教徒の方と同じ様に、 無常観って??? と云う人間になっているかも知れません。 昨今、起こる事件などを想えば、そうかも知れないと思ったりします。 我々は異教徒でありながら、 自分は違うと思いながら、 実は、もう、完全にキリスト教の思想圏の中で生きさせられている。 これを、本気で自分の中から解除するのか? これを、このまま受け入れて、二元論の中で、 無常観のない疑似天国の中で、 埋もれて行ってしまうのか? 考えなければいけませんね? と云う事を、真剣に考えるようになりました。 あはは。 四季のある自然と共に生き、在るがままの自然を恐れ感謝をし、 自然へ畏敬の念を抱いて来た我々の先祖の生き方とは違う、 神への感謝はするが自然を支配するキリスト文明、 『時』軸の無いキリスト教理が生んだ天国を志向する西洋哲学、 この天国の「楽」を追求する西洋文明が、 此処に来て、初めて〝破局”と云う言葉を使い出しました。 現代における我々を取り巻く地球環境の問題、 この問題は、イギリスからの産業革命が起こって、 神に対する人間の意識の独立、 そこから生れたキリスト教を母体とする近代合理主義、 世界中に、その近代合理主義が、広まって、 近代国家が増えるに従って起こって来た問題ではありませんか? 地球上の近代国家である先進国を全部巻き込んで、 まるで王権を揮うが如く振る舞う経済、 この地球上の問題は、経済が起している? 誰もがそう感じていますよね! この〝破局”と言う言葉を発信したのは、またもや、西洋です。 では、現代の自然環境の破壊を許した思想は、何? 何度でも、言います。 これでは、マッチポンプですね? あはは。 今日は、長大編になりそうです。 あはは。 どうか、数回に分けてお読みになってくださいね。 今日の記事は、 コメントへのお返事 20. 神に成り上がった経済 「苦」と「楽」について 3. 実は、今日の記事に、ジャン=ピエール・デュピュイの著書、 『 経済の未来 ー 世界をその幻惑から解くために 』の本を引用した記事を 書こうと思ったのは、 次のコメントの破局という言葉からです。 前回の記事にいただいたコメントを紹介します。 やあ、長編の記事、 おつかれさん! ひさしぶりに大砲が轟く中、 何度も目をこすりながら拝読終了。 ものすごい音だ、 今後も記事が長くなるようなら、 分けて読みましょう。 [破局]という言葉ですが、頭にチラつきました。 cosmosさんの頭の中は、それ、前提ですか? [ ]は、編集で付けました。 まあ、いつも励ましのコメントをお送りくださってありがとうございます。 長い記事を、目を擦りながら! 最後までお読みくださった事、深く感謝申し上げます。 ところで、破局と云う言葉ですが、 地球の破局、日本の破局、いろいろな意味がありますが、 どの破局だろう? と考えてみました。 私の頭の中は、今、特に、欺瞞に満ちた経済を憎んでおります! あはは。 憎さ一千億倍! 憎たらしいですね、、、経済は! 誰しもが欲と言うものがあって、お腹が空いていたら、 目の前のおまんじゅうに手を出すだろう。 その見え透いた人間の根性を的にして、弾を撃って来る悪党、 それが今の『徳性』を失った経済です。 そして、限りなく我々の消費の向こうに経済の成長があり、 我々が幸せになれると云う天国を憧れさせる。。。 みんな、嘘ですよ! かって、フーコーが、「人間が消滅するだろう」と述べています。 これは、人間が、その人間らしさを失うだろと云う事だと思うのですが、 近代国家が、便利さや「楽」を求めて止まない国民に、 神に成り代わって、国民の望む医療の便利さや老後の快適さを 与える代わりに、 国民の命、健康、生死までを支配し、管理をするようになる。 今回、日本で、 40歳までの女性の卵子を冷凍凍結するのを許すのは国家です。 本来、これは近代合理が排除した宗教、倫理道徳が決めるべきです。 国が、近代国家と云う囲みの中で、宗教、その教理に成り代わって 人間の命を扱い出したのです。 いわゆる、善悪に係る、真理に係る部分ですよ! 段々こうして近代合理に飼い慣らされて、 我々は、自分の人生を国家の都合によって決めるようになる。 我々の子孫は、最終戦争の兵士として、安全保障の同盟国の為に 戦死をさせられるのでしょうか..... この足音が聞こえるから、 数年前、このブログを立ち上げようと思ったのですが、 今は、もっと、その足音は大きくなっている。 それは、『陰』の抹殺から起こる当然の現象化ですが、 これを、決して現象化させてはなりません。 ◎ では、コメントへのお返事の記事です。 経済が大事だって云う事は、重々理解しているつもりだけれど、 ここまですると、何か社会全体がゆがんで来ている気がする。 こう云う感覚を、お持ちではないでしょうか? ----- そう感じているのに、口に出して言えない。 おまえも、経済のおかげで「楽」になっているんじゃないか? 昔の人と比べてごらん、まるで、雲泥の差だ。 経済がないと、今は、何もできはしない。 まず、経済なんだ! 我々の感じている、この感覚は、正しいのです。 今の社会は、経済を神の様に最重要に扱っている。 そう感じている事は、図星だったのです。 ――― ここから、ジャン=ピエール・デュピュイの著書、 『経済の未来−世界をその幻惑から解くために』を参考に致します。 まず、デュピュイは、 人間社会にとって究極の「悪」とは何か? と云う考察を読者に誘います。 現代での最も恐れなければならない脅威は、悪意ではなく、 善意で消費者に便利で効率のよい商品を作り出す産業が生み出すだろう と予告していたが、その通りになっている。 いまや怖れるべき事は、数々の悪意なのではなく、 むしろ国際原子力機関のような、 法的自己防衛としてのコンプライアンスのような、 無人格な監査人組織に正当性を保証してもらうような、 いいかえれば全世界に平和や秩序や安心をもたらそうと云う正当性を 当てがわれた組織体の営為そのものなのである。 そう云った善意に溢れた産業や組織体が、脅威を生み出すのだ。 その通りです。 制度や法律で、悪は止められません。 制度や法律や組織や機構、システムは、人間の意識が作ったものであり、 『陽』ですから、「偽性」が伴います。善悪に通じます。 現代の悪は、正義の為の制度や機構、システムが犯す悪であり、 個人が犯す悪よりも、社会的な影響は広く深刻です。 我々が将来、回避する事が可能なリスクと、 将来にわたって回避する事が不可能な「破局」は違うと云う事、 産業社会が、生態系の深刻な破壊に直面しているのに、 道具的合理性と経済的論理を優先して、 未だに現実的対策を科学的検証に優先させる予防原則を導入しつつ リスク管理社会による延命を図っている。 なぜなら、現代が直面している現在進行中の人類の危機は、 もはや計算可能な管理できるリスクではなくて 未来に起こるものとして、現在と未来との間に、必ず起こる破局だからである。 もはや、現代の破局とは、管理できるリスクではなく、 ちょうど、日本列島が、30年以内に、必ず見舞われると云う 南海トラフの巨大地震と同じなのですね。 地震自体を防ぐ事はできないけど、大地震が起こる事を受け入れて、 後は減災の努力しかない訳です。 デュピュイは、 【経済】という考え方が生れた必然性について、 近代合理主義の社会において、なぜ、経済(と云う概念)は生み出されたのか それについて次の様に述べています。 近代合理主義によって近代化された社会は、 絶対的存在である宗教を公的な場から排除する事で成立し得た存在です。 この近代社会、近代国家にあっては、 排除された宗教に代替する安全装置として期待された物こそが、 経済に他ならなかった。 近代合理主義は、 西洋におけるキリスト教の神からの人間の独立運動です。 原則的には、個人の信仰心は認めていますが、 近代社会、国家の基軸や機構、判断から、 意識では掴む事のできない無意識下や宗教を排除しています。 ------ これが、東洋で云う処の『陰』の無視、 近代合理の致命的欠陥です。 排除した宗教・神の安全弁としての役割の代わりを、 経済に託しました。 つまりは、経済が、近代国家の中心的存在になったと云う事です。 ここで、ちょっと注意書きをします。 近代合理主義は、宗教を非合理として排除しました。 この場合の宗教とは、キリスト教です。 西洋の観念論哲学が、相手にしているのは全て、キリスト教の神です。 西洋人は、このキリスト教の神をどう扱うのか? と云う点において、ずっと苦労をして来ました。 神学論争や王権を脅かす教会の権威と王との権力争いです。 また、神や教会と云うのは、人間を縛る桎梏でした。 神や教会の権威に束縛された長い歴史の流れから それらに対抗をして生れた思想群の一つが 近代合理主義です。 西洋の歴史の中で、自由と平等の獲得と云うのは、具体性があります。 自由とは、神から自由になる事だったのです。 西洋人にとっては、 神から、人間の意識が自由を得たのです。 ここが、日本人の自由論とは、まったく違います。 ♪ 欧米の近代国家ではキリスト教の信仰はそのまま温存され、 近代国家の礎としてのクリスチャンの宗教心が生き続けて、 近代国家自体を支える役割をしています。 例えば、アメリカ大統領は選挙で選ばれますが、 その結果選ばれた大統領は、【神の意志】で決まったと見做されるのです。 政治的な存在に宗教的権威が後にある社会です。 だから、途中で何があろうと日本の様に引きずりおろしません。 あはは。 毎年、総理大臣が変わるなんて! ありえないのです。 社会的成功も、神の恩恵です。 神の恩恵で手にした財産は、隣人に寄付をするのが当然と云う考え方です。 寄付の行為が宗教心の発露なのです。 宗教心の温存が、日本の近代化の歴史とは全く違う様相になります。 ♪ 日本での社会的成功は、自分の努力と実力です。 あはは。 まず、我々を考えてみてください。 欧米のキリスト教のような近代化以前から信仰している宗教を 国民のほとんどが持っていますか? 形だけの初詣でとか、ばかり、、、 心から日々信仰をすると云う事は、ないでしょう? 現在の処、深く仏教や神道に帰依していると云うような人は少数派です。 また、総理大臣や天皇を、神や仏の思し召しと思って受け容れていますか? いいえ、この点において、まったく欧米とは違いますね。 日本は魂もなく、丸裸になって近代化を成し遂げました。 元々、魂らしいモノがあったのか? あはは。 地球上での、唯一の純粋種ウイルスを体内で培養した近代化病です。 これは命取りになるかも知れません。ご用心あれ! では、再び、デュピュイに、戻りましょう! ほっ。 近代国家で除外された宗教、キリスト教の神の代わりに 人間の意識が作り上げた社会の安全弁になった経済でしたが、 2008年、世界金融危機を契機に、 その安全装置としての経済も、その役割を果せない状態。自失に陥った。 と述べています。 彼の履歴は、フランスの名門校エコール・ポリテクニク(国立理工科学校)で 長年、経済学を教えて来た人ですが、 現在はアメリカのスタンフォード大学で哲学を講義しています。 デュピュイは、経済とは、何か? を考えて来た哲学者です。 当たり前ですが、西洋の哲学で考えて来たのですね! 西洋の哲学で! 惜しいですね、、、 ほほっ。 デュピュイが、この本を書くきっかけになったのは、 2011年のノーベル経済学賞の受賞者である アメリカのクリストファー・シムズとトーマス・サージェントが、 「ユーロ圏の公的債務危機を解決するなんて経済理論から見れば、 簡単!邪魔をしているのは政治ですよ!」と言っているのを耳にして その思い込みに対して、デュピュイがキレたからです。 経済危機への処方箋が書けるのは、経済学だけであると云う思い込み、と、 市場のみが経済に審判を下し得ると考えがちな現代人の思い込み、と、 それを、ノーベル経済学賞の受賞者でさえ抱いている思い込みを、 デュピュイが、西洋哲学の全てを使って、 全力で突き崩そうとする闘争心から、 この本を書こうとしたに他ならないのです。 その気持ちが、本の題名にそのまま表われていますね。 『 経済の未来 ー 世界をその幻惑から解くために 』 いわずもがな、ノーベル経済学賞の受賞者でさえ、 こうなのですから、庶民においてをや、、、ですね! ほほっ しかし、哲学者のデュピュイが、 ノーベル経済学賞の受賞者でさえ抱いている思い込みに、キレて、 全力で突き崩そうとする闘争心が、その道具として使ったのが、 西洋哲学の全てだったと云う点は、疑問を持ちます。 まさか!合理主義下で、国家の安全弁までに成り上がった経済を、 同じ合理主義で突き崩せると思ったのでしょうか? 合理主義も、過去からの西洋哲学全般は、 みんな同じキリスト教を母体として派生したロジックです。 その哲学群は、全て神が中心です。 すべての世界観、自然観、人間観が共通のはずです。 まして、キリスト教理の持つ物質文明、欲望の肯定、二元論と云う おなじDNAを持つ思想たちであります。 その一卵性多胎児同士のような思想群の中で、 近代合理主義で神の如く力を持った経済を、突き崩す力を持つ相手を 見つけるなんてできる訳がないと思うのですが? 皆さんは、どう思われますか? これに関して強く印象に残った事は、 西洋人のクリスチャンであるほとんどの哲学者にとって、 いわゆる哲学とは、キリスト教哲学だけを指すのでしょうね、、、 非常に、残念でしかたがありません。 もしそうならば、 これは哲学の研究の為だけのアプローチではない訳ですから、 全地球規模の破局を回避する為のアプローチであるならば、 西洋哲学だけに限る事は、非常に不合理であります。 もしやしたら? 西洋の知識者、知性派の人たちにとって、無意識下と云う世界は、 かなりハードルが高いに違いないのかも、と、、、ほほっ。 実にモッタイナイ事です。 デュピュイは、資本主義について、こう述べています。 資本主義を時代の経済哲学として続けていく条件は、 資本主義が不滅であると信じる事である。 経済学者たちが経済について語る時には、資本主義経済の破局は語らない。 常に、経済の未来の成長が語られ、絶対に破局は語られない。 なんだ、そうなんだと、、、思うでしょう? あはは。 結局は、子供をダマシダマシ連れて行くのとおんなじ、 ほっ。 経済がずっと成長を続けるなんて、おかしいよ? 消費し続ける経済の発展を信じる ----- これは宗教です。 消費を支える地球資源の担保のないニセ宗教です。 日本では、経済の成長の為には消費! 国民は消費をするように! そう云う宗教のお触れが出回っていますわ! あはは。 そう、たしかに、経済は近代国家で神格を得ています。 この神は、我々を、 地球資源の破局、人類の破局へと突き飛ばすのね!? 恐い! 発展理論しか唱えない経済、 この邪宗教を信じる大人の生き方を見て育つ子供は、 滅びると云う東洋の言葉を理解できないだろうな、と思う。 東洋の無常観もブッ飛んでいるわね! デュピュイによる現状認識は、こうです。 絶対に、自らの破局を認めずに、成長を説き続ける経済的思考が、 ますます猛威を増して、 社会を飲み尽くそうとしている現状に警告を発する。 この自らの破局を認めない経済自身が、未来を信じていないのではないか? 政治を含め、社会の全ての価値の最上階へ登りつめた経済は、 自分をコントロールできなくなっているのではないか? その通りです。 、、、経済自身が、未来を信じていないのではないか? 、、、経済は、自分をコントロールできなくなっているのではないか? おや、おや? 経済学者で哲学者であるデュピュイにとっても、 経済は、掴み処がないのですね!? ほほっ。 経済と云う人間が作った概念が、人間を超える事は無いはずです。 このブログでは、何度も書いてきた事ですが、 意識は五感を通した環境から集めた現在しか解っていない。 環境にない未来は感覚で掴めない、分からないのです。 この意識を中心に据えた近代合理主義に基づく経済が、 ------- 未来が分かるはずもない。 では、どうすればよいのか? デュピュイの答えは、こうです。 我々の世界が「破局」する ------ 我々の未来イメージ、 これを、全員が、その両肩に担いつつ共有する事で、 破局の回避を窺(うかが)うしかない。 破局の到来が確実であると認める事が、 逆説的には、最悪の破局を回避する最善の方法である。 これは、ウルリッヒ・ベックの論、 地球規模の【*注】カタストロフィーの予感が広く共有される事で、 国境を越えた新たな責任の共同体の成立可能性は高く保たれる。 に通じる考え方です。 【*注】カタストロフィー・カタストロフ(catastrophe) フランスの数学者ルネ・トムが創作した数学の専門用語、 1972年にカタストロフィー理論で、不連続現象を扱う数学的理論。 不連続な現象を説明する画期的な理論として 一時注目を浴びて、 広くいろいろな分野で研究された。 自然界および人間社会の大変動、変革、大詰め、悲劇的結末、破局 東洋においては、 数学のカタストロフィー理論を出すまでもなく、 この現象界は、無常。 常ならざる処なのです。 いずれ、こうなると分っていた事、驚く事もない。 それを知らなかった経済学者の無知、 繁栄が、永遠に続くと云う幻想こそキリスト教の天国思想の害悪です。 東洋では、「苦」と「楽」とは一体です。 「苦」は「楽」へ変り、その反対も然りです。 無意識の内に、我々は「楽」を選びながら、「苦」を捨てているのです。 捨てたつもりの「苦」が、積もり積もって「大苦」になって、 今回の破局となって、押し返して来るのでしょう。 先ずは、破局の共感の前に、 「楽」ばかりを選んで集める意識は、良くないと知らせなければ、、、 地球上に生きる我々全員が、 この破局の恐怖を同時に共感する事がなかったら、 この破局を乗り越える事はできない。とは? 方法論としては、理解しやすいのですが、 いかにもいかにも観念的な方法論ですね! それをどうして実現するのか? それが、question です。 あはは。 すばらしいご提案ですが、具体論は? ほっ。 それより、そもそも、 今まで、どうしてこうなると分っていながら放置して来たのか? 今になって破局を受け入れる連帯感を説く鋭いセンスが、ありながら、 惜しいですね。 そもそも 経済だけが悪いのですか? そう云う経済を生んだ近代合理主義、それを生んだキリスト教の歴史、 そこまで、西洋思想を客観的に分解、解体できないのですね。 経済を動かす人間自体への深い人間観の欠如と反省が欠けています。 まず、本当の原因論を 破局論の前に、それの原因を皆が分って共有できるようにしなければ、 破局論だけの同時共感なんて、むずかしいのではありませんか? この原因は? 自分の欲望が原因だと、皆が反省しなければ共感は生まれない。 日本ですら、 脱原発に、国民の大半がまとまる事は難しい、、、 このまま行ったら、地球資源の枯渇、地球自然の破壊、 各国間の食糧と資源の奪い合いの戦争の勃発に通じます。 まず、各国の政府を、まずEUから説得をするべきです。 各国の対応は、その政府に任すしかありませんでしょう。 地球温暖化や巨大災害と云う破局の到来を認める事なくして、 それが、間違いなくやって来ると云う認識をするしか、 我々は、この危機を乗り越えられない。 と、デュピュイは、言います。 突飛な感じがしないでもない、、、 周りの状況に揺れ動く意識の果かなさを感じます。 どんなに賢い方でも同じなのですね。 ほほっ。 生存の危機感の中から、今のエゴの枠を乗り越えるしかない、と 云うのには共感できます。 これは、今年の 7月 9日の記事、 コメントへのお返事 18. <近代化の奈落 3.> 「苦」と「楽」について 1. に同じ様な事を書いた記憶があります。 過酷な天候に巻き込まれれば? 自分の体力を見誤ってしまえば? 水分と塩分を入れたザックを谷底へ落としてしまったら? ほほっ。 こう云う喫緊の制約の緊張感を克服して、 登山から無事に帰る、と云う、 意識が一番恐れる死を克服して【人の生存欲を満たす】レベルまで、 意識の欲しがる「楽」のハードルを上げた時、 初めて意識は、意識の限界「苦」の瀬戸際を感じて、 (無意識の支えで)未経験ゾーン「苦」へ飛び込む事ができるのです。 意識は、必死な状況に直面しないと、 方便の「楽」は、絶対に手放さないでしょうね。 つまりは、この命が危ないかも知れない崖っぷちを感じて、 初めて、何が生きる為に必要な、実に役に立つ力は、何なのか? を、自然の制約・摂理の中で、 初めて、意識は徹底的に学ぼうとするのです。 余裕があったら、意識は、そりゃ「楽」がいいもの、学ばないでしょう。 最後に、デュピュイの経済に対する見解です。 地球温暖化や巨大災害と云う破局の到来を認める事なくして、 経済は、真に道徳的にもならないし、自らを律する事もできない。 経済が間違っているのではなくて、 それを派生させた近代合理主義の欠陥なのです。 この破局の解決には、 近代合理主義自体の欠陥の認識をする必要があるでしょうね。 でも、これは、キリスト教徒の哲学者に期待するのは無理です。 他を知らなすぎます! 近代合理の欠点を克服しなければ、経済は、少しも道徳的にはならない。 余計に、悪が隠れてズルくなるだけでしょう。 そして、東洋の叡智である『陰』の存在を、 西洋知は、受け入れなければならない時が来るのではないでしょうか? つまりは、西洋意識哲学『陽』の極みは、 意識『陽』に囚われつづける事は、衰亡へ続くと云う事。 意識『陽』に囚われつづける事は、命が枯れると云う事。 意識『陽』に囚われつづける事は、家系が枯れると云う事。 これに、まだ、西洋の知性は、気が付いていないのです。 仕事柄、一個人の商売の儲け話や、恋愛の成就、離婚の相談など、、、 さまざまな事象をつぶさに見させていただいておりますが、 まさに、運命そのものの自分の悩みを解決するのに、 まったく傍(はた)迷惑を考えない、 と云うのが、今般、当たり前の様になっています。 個人の人権の尊重が個人主義に拍車をかけて、 家も家族も、どころか社会の責任も顧みない風潮です。 また、新聞紙上では、まるで物の様に人間の遺棄死体が 毎日、発見される世の中です。 私も凡愚の身で、エラそうな事は言えませんが、 個人のその姿を助長させているのが、経済の為したモラルの破壊ですね。 ええ、これは、もう、無理が通れば道理引っ込む、と云うように、 欲が通る、札束が通る、私の満足が先だ! そこどけ! そこどけ! 欲望さまのお通りだ! これは、もう、目も当てられない、、、 このままでは *阿鼻叫喚(あびきょうかん)が現象化するのではないか と恐れる毎日です。 *阿鼻叫喚 = 【仏教語】阿鼻地獄と叫喚地獄を合わせ地獄の さまざまの責め苦にあって泣き叫ぶ様子。 ええ、ええ、もう、経済の前線では、すでにそうなのでしょうね。 日本の巨大商社が、巨大スーパーのバイヤーが、 世界で安く買い付けて来る食料品のおかげで、 我々の便利さ、快適さ、生活は確かに、まだ、守られては、いる。 しかし、 それらは、同じ人間なのに、後進国だと云う事で、 経済水準が低いと言う事を利用されて、経済援助だと云う表看板で 実は、低賃金で働かされている現地の人々、貧しい人々がいるから、 我々の生活がデフレだと云われながらでも、 成り立っているって言う事、 それらの人達の犠牲の上だって云う事、 御存知ですよね? 我々は、それを狩猟民族の様に安く狩り取って来てくれる 日本の商社のバイヤーよりも、独占的なスーパーよりも、 遠く離れた同じ地球上の、どこかに住んでいる貧しさを我慢して働く 現地の方々へ、感謝をしなければいけないと思います。 いつかは、日本人も、そうなるかも知れない、、、 日本の企業、メーカーは、 低賃金で済む後進国を求めて、次は工場をアフリカへ移しています。 中国は、もう、人件費が高くなったから儲けが少ない。 それで、次はアフリカらしいのですが、 そのおかげで、こんな生活が出来ると、、、 でも、こんな事、いつまで続くの? 私は、幸いにも? 経済学者ではありませんから、 ほー。 解ってないよーー! と云われても平気です。 ほほっ。 そんな他人を苦しめて、得た「楽」の代償は恐いと思うわ。 いくら個人主義の今だって、自分だけが栄えればいいと云うのを、 決して快くは思わない人間の心って云うものは、まだあるわね。 私の職業は、そう云う人達の悩みを観る訳ですから、 どうしてそうなったのか、つぶさに毎日それが、分かります。 人間は、経済で生きちゃダメなんですね。 『陽』を重んじた生き方には、命が生れません。 後継ぎが出て来ません。 『陽』に生きた人の家系は、孤絶して、衰えます。 この恐ろしさを、真直に観ているのが、私の仕事ですから、、、 近代国家は、 世界中の国々が力に応じてそれをやっている訳です。 それの競争、狂騒ですよね! あはは。 そんな麻薬のような事をやっていて、、、 これは、世の中の破壊につながると考えざるを得ません。 ほっ。 この現身が、世の中をどう生きるかと云う事が、 そのまま個人やその御子孫の陰徳に反映されるのが運命となれば、 全部大事な事でございます。 逃げては通れません。 逃げた「苦」は、必ず祟ります。 あはは。 人は祟りませんが、他人に与えた「苦」は、必ず戻って参ります。 今生れて来ている子供たちは、もう、 こう云う因果応報の理法を知らないで育つのでしょうね。 それを語る大人がいなくなるからです。 これは、ほんの一例で、 我々の先祖が残した東洋的な思想の伝統は、 ボロボロと失われていっているのが現状です。 どうか、これをお読みいただいている読者の方々は、 ご自分の子供、孫、メイ、甥、近所の子供、だれかれ関係なく、 機会があれば、東洋の事を言い伝えてください。 此れをしないと、日本は溶けて無くなってしまうのですよ。 精神が無くなれば、その体が滅びるのは自明の理です。 日本は、68年前から、 我々の心は、クリスチャンでなくとも、 我々の命は、二元論の放射線を浴びています。 そして、東洋智の故郷から遠く離れた異教の空間に生きています。 知らない内に、 キリスト教世界観の中で、生きさせられているのですよっ。 それを自覚しないといけない! と思います。 自覚して、その後は、いいか、悪いか、自分が決めるのね! フワフワと浮き草ではダメです。 日本は、68年前から浮き草のようだから、 キリスト教の教理で作り上げた戦略の中で、思惑の中の役割を させられているのです。 その証拠に、 本当は欲しいと思わなかった原発を、 国策として作る処まで踊らされたのはどうしてですか? 事故が起こって、イヤだイヤだと云っても遅いと云う勉強はしましたね。 どうして、こうなったかは、自分の頭で、 自分の思想で考えて来なかったからです。 よく、東洋と西洋の違いを知って、 自分は今、どっちに立っているんだと云う自覚をしなければダメです。 また、うかつな事をしてしまうからです。 実はもう、うかつな事をしてしまって、、、 地球の現状も弁えないで、 自国の経済の指標に奔走するエコノミック・アニマル! それを先進国と云うのですね? 日本は、先進国とみられているのですね? あ――、、、 もう、こんな恥ずかしい先進国日本は、結構です。 東洋には、どうして、 この栄枯盛衰の理(ことわり)があるのか? 見抜けたのか? これは、もう、長くなりすぎて書く訳にはいきませんが、 たしかな事は、 68年前の日本は、見抜けなかった、 イヤ、もっと、前に、その敗因はあるのですが、 一応は、68年前にしておきましょう。 ほほっ。 今が、その結果です。 今、我々が直面している地球環境の問題は、 運命学が解く処の、 『極陽』の華々しい現象化を生むのは、調和を失ってしまう前兆である。 最後の『陰徳』をすべて出し尽くして失って行く姿です。 近代合理主義が、その欲望を燃やし続け過ぎて、 『極陽』の繁栄を欲しいままにした見返りです。 我々の命を最上の価値としない経済至上主義と云う神を祀り上げた その間違った思想性の中味が、そのまま現象化しているのです。 この地球の現状から判断をすれば、 近代合理主義と云う思想が、 『陰』・命の根源・無意識を傷めつける『極陽』の思想であると云う 間違いない証拠であります。 この思想では、我々はしあわせにはなれません。 地球と云う自然も我々の命も守れないはずです。 東洋運命学ではそう認識を致します。 その事を研究していただきたいものです。 急務です。 次回は、 デュピュイの「 経済の未来 」に対する反論の続きを 引き続き書く予定です。 その中で、 東洋には、どうして、 この栄枯盛衰の理(ことわり)があるのか? 見抜けたのか? に触れて行きますので、お楽しみに。 コメントへのお返事シリーズは、今日で一旦終わります。 まだまだ、取り上げさせていただきたいコメントはありますが、 また、次の機会へ。 かならず! よろしくお願いします。 やっと、秋、 ほっとしますね! 次の更新まで、よい日々を、、、 参考文献 :「 経済の未来 ー 世界をその幻惑から解くために」 ジャン=ピエール・デュピュイ著 森元 庸介(翻訳) 以文社 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |