![]() 2014
03/06 18:43 |
〔近代化の奈落 4.〕 近代家族の地雷 未婚 非婚 少子化Category : 運命学と近代化
涸沢へ出発!
上高地 大正池からの北穂高連峰 ( 昨年9月30日) ![]() もう、5ヶ月も前になる昨年の涸沢(からさわ)へ行った時の写真を、 これからの記事で数回に分けて紹介します。 初秋の涸沢の気温は、 夜明けは氷点下に、日中の気温が4℃位になります。 今の、冬の気温です。 2月 8日、14日ごろ九州や東日本に大雪が降りましたね。 あの時の寒さが、標高2310mの涸沢だと、9月末なのです。 午前中、夏の姿で蒸し暑い新宿を出発。 午後1時ごろ、上高地のバスターミナル着、 さすが上高地、空気がさわやか、大勢の人、人、人。 今日の宿、徳沢園を目指して大正池(梓川)右岸を歩くと、 左手に北穂高連峰が見えて来ます。 【上の写真】 この穂高連山頂上の真裏が、目指す涸沢(からさわ)です。 上高地バスターミナルから歩きだして、1時間で明神を通過。 明神岳を左に仰ぎながら、さらに1時間で徳沢園に到着。 この日の歩行距離 ( 約7km 標高差約60m 2時間) 徳沢園では、9月末なのに、もうすでに全館が暖房でした。 各部屋にはストーブが置かれて、もう、すっかり冬支度。 全館、京都の老舗から取り寄せたと云うお香が焚かれていました。 徳沢園の前庭に広がるキャンプ場 【下の写真】 朝夜は冷えるだろうに、若い人が頑張ってテント泊をしているんだろうな? ![]() そこはかと秋の気配が、、、と云うよりも、冬がヒタヒタと、、、 徳沢は、涸沢・穂高連峰の他、槍ヶ岳・常念岳・蝶ヶ岳などの 名だたる山岳への登山道の中継点、交差点です。 この辺りは、電気が来ていないのですね! 昨年の嘉門次小屋もそうでしたが、山小屋は自家発電です。 部屋にテレビはなく、夜は9時で消灯です。 水は井戸水、携帯電話はつながりません。 郵便屋さんもここまでは来ないそうで、森の中の夜は外灯りもありません。 ----- 猿も出るそうです。 いわゆる〝便利幻想がない、素敵に不便な場所”なのです。 常に進歩しなくてもいい場所! ほほっ。 夕食の後の宵闇は、 まだ夏草の風情が残っていて、 草木の匂いに誘われるように外に出てみたのですが、真っ暗闇。 寒い! 見上げると天空の手が届くような近くに星々の瞬きだけがありました。 夏草と、秋の紅葉前の木々と、冬の冷気が同居する不思議な森。 こんなに星がイッパイだから、明日はきっと、晴れるわ! ほっ。 この1年間の山行きは、一度も雨に降られていないのです。 早朝、 窓の外は小鳥達のさえずり、川べりに聳え立つ北アルプスの山々、 此処は、いつもいる場所ではないんだと教えてくれるようです。 そうだ、此処には排気ガスも騒音もない、 気兼ねなく深呼吸ができる、、、 そう意識する前に、 無意識が、自然に対応する体をスタンバイさせているのがよく分ります。 この感覚よ、この感覚が、山で呼び覚まされるのが、よく分ります。 森の中へ入って行くにつれて、「 細胞の目が醒める!」 あはは。 細胞に目があったならの話ですが、、、 それ位のシャキッとした感覚を抱きます。 事実、そうなのです。 山では、メガネをはずしても目が良く見えるようになります。 これは、体の深部からの血行が活発になるからでしょうね。 非常に心地いい! 都会生活で便利に馴らされたワガママは消えています。 自然に迷惑をかけないように、山では勝手はできないのです。 登山と云う山への侵入を、自然にあたたかく受け入れてもらうには、 足るを知る。自然との丁度の程々の処が人を謙虚にします。 昔から、修行と云えば山に籠もると云う行動は納得ですね! また登山をする人が、よく言うのが、 危険の予感と達成感は表裏一体だって、、、たしかにそうですね。 必死で行動している時がハイライトなのです。 こう云うハイライトが、便利で効率化された都会の日常にはない。 その代わりに、資本主義が売ろうとする 他人の意識が作り上げた大量生産の雑多なニセ物の快楽は、 我々の身の周りにゴロゴロあります。 そう! 近代合理の贋物の快楽ばかり、 我々は、近代合理主義に酔う事によって命と同等のものを失っています。 まず、我々は、自然を身近な処から失っています。 5,6分も走れば、川を越えて、背後にあった不動の山、 20分も下れば、磯の香りがする浜辺は、生活圏にはありません。 それは、つまり、我々のなかの生物としての能力が消失していっている事、 お気づきでしょうか? 時代は、その事を無視しています。 そう云う狭間で、掴む情報は、 自分の欲望の満足を充たす事が、生きる事だ、人間としての能力だと、 それ以上の価値は、この地球上にはないのだと錯覚をさせます。 自然と人間とは別々、自然は人間が支配する物、 と云う西洋二元論が当り前になっている時空の中で、 その事を分らせない雰囲気があります。 その事に気が付かせない圧迫感があります。 今の状態が、当たり前だと云う時代の常識の押し付けがあります。 そう、感じられませんか? だって、そうしておかなければ、立ちどころに存在できない物が、、、 出て来てしまいます。 近代合理主義の構造体そのものが、瓦解するのです。 だから、時代のバリアが目に見えない様に張り巡らされています。 近代合理主義が、お追従(ついしょう)で言う、 自然はいいものだ、大切にしよう、共生しよう、 意識が、お飾りに語る言葉には、うんざりします。 偽善です。 それらは意識が都合の好い時に身に付けるファション性を出ず、 あくまでも、意識にとっての自然は、 対価を得て商品として売る物、 何か追いつめられると、意識が真っ先に犠牲にする物、 自分の対岸の物でしかありません。 我々が、自然を、詩に書き、絵に描き、癒しの場として【利用し】、 飾りを付けて語る事で自己満足をしている内に、 自然は、我々から遠くなっただけはなく、 自然は、狂い出しています。 大地震、津波、竜巻、大雪、集中豪雨、 これらの自然災害は、間違いなく『天』からの便りです。 これらの『天地』のエネルギー、 全ての生物を生み、生かし死へと運ぶ無意識からの本然的生のエネルギー その無意識界を無視する人間の意識の傲慢さが、 必然的に呼び起こす因果応報の現象に気が付かないのですね。 それは、そうです。 これだけの大自然からの通知、警告だと云うのに、 誰も、何も気が付かない。 無意識界の存在を無視をしているからです。 振り返って行状の反省もせず、(反省こそが『陰』なのですよ!) この大自然が、あまりにも猛威になったからだと、 全てを自然のせいにして片づけ、目を逸らさせています。 そして、更なる科学の技術を期待させるのです。 そちらに、我々の関心を持って行くのですね。 科学の技術革新で、これ以上、自然をどうすると云うのですか? 技術革新して、もっと自然を支配しようとでも謂うのですか? あはは。 膨大な生を動かす無意識界からの1切片でしかない意識の集大成が、 科学だとしても、あくまでも意識の範疇の中でしかない科学が、 そのたかが全体の1spot でしかない科学が、 どうして無意識界からの現象を止め、抑え、防ぐ事ができるのか? この傲慢をいい加減にしてほしいと思います。 まったく理解できません。 更なる科学の技術革新で、更なる自然を支配していけば、 もっと現状は悪くなるでしょう。 余りにも、科学を含む意識連合は、無意識・自然に対して無知、愚か、 余りにもあまりにも無力なのです。 とにかく、近代化の純化路線を遂げた日本は、 近代合理主義から来る自然に対する傲慢を捨てる事です。 この日本列島に日本人がずっと住み続ける保証はありませんわよ。 日本人が本来持っていた自然観に立ち返るべきですね。 それを、世界中に、広める使命があるのではないかと訴えます。 クールジャパンより、もっと本源的な、最重要な事柄です。 他の先進国は、いろいろな近代化の抵抗勢力を内部に抱えていますから、 それはそれで、純化した近代化に至らないで救われています。 近代化の大元、アメリカにおいては、 確か、昨年中に生まれた新生児の総数で、 初めて白人よりも、白人以外の人種の出生数の方が上回りました。 この勢いは、ますます堅調になって行くでしょうから、 昨年生まれた新生児たちが20歳になる2034年頃以降、 アメリカは今のアメリカではない、白人は後退しているでしょうね。 これは、私の持論ですが、 近代化を進めれば進める程、生物としては虚勢をされる。 はっきり謂うと、種族保存能力が萎えるのです。 本来、人間は自然を捨てて無視をして生きて行く事はできないのです。 自然の中の人として、立ち戻るべきです。 自然を失う事は、自分の命を粗末に扱う事、命の炎を消す事なのです。 軽薄な! そんな事すら知らないで今に、至ってしまっている、、、 その事をもっと率直に認めて現在を反省するべきです。 そして、自然の一員としてのルール、自然に対する道徳からリスタート、 やる治すしかありませんね。 その方が、気候変動によって起こる自然災害の被害の損失を、 毎度、毎度、地方公共団体が、国家が、救済する為に拠出する予算よりも、 どれだけ安上がりか! ほほっ。 でも、これはなかなか推進されないでしょう。 なぜって、そのプロセスで、誰も、儲からないからです。 あはは。 風が吹けば桶屋が儲かる式の自然災害の利権構造にとれば、 それはおもしろくないかも知れませんからね! ほほっ。 人間は、自然の中で揉まれるべきであり、鍛えられるべきです。 人間は、五行のエネルギーによって進化する存在であり、 プラスティックに囲まれては、人間は生きてはいけません。 五行からのエネルギーを遮断されてしまうだけです。 このまま人工物の中で、自然から隔離された場所に居てはダメです。 いいですか? 自然が失われたのは、山や川や森や木々だけではないのです。 我々の命の継承そのものも自然ではなくなっている、、、 近代化によって変わったのは、 工場での大量生産の為の資源獲得の為の自然破壊だけではありません。 人間の命に不可欠の自然を、 近代合理主義は物として人間から切り離しました。 。。。。。ここから、少子化と云う現象が立ち昇って来るのですよ。 え、それって、論理の飛躍じゃないかって? いいえ! ぜんぜん飛躍ではありません。 ほほっ。 そことあそこが ! 意識でつながらないから、分らないのです。 つながらない部分こそが、無意識界、『陰』に当ります。 意識などに全貌が見えるはずがない。 ほほっ。 そここそが、近代合理主義の盲点なのです。 この世の全貌は、意識などには分らないはずです。 その為には、なるべく自然の中へ入って行く事をお勧めします。 山の天気も数年前からみると、変って来ています。 山は、午後は天気が崩れるので早々に下山をします。 なぜなら、太陽の熱で下界の水分(川、湖、海)が、 ガスって(蒸気となって)山を登って来るのが夕方でした。 そうなれば、道に迷う、雨になる、いろいろな事が起こるからです。 しかし、最近は、下界の気温が高い為に、 ガスって来るのが早くなっています。 午後に頂上に立っても、周りはガスって何も見えません。 頂上からの景色を見るのなら朝の内に登頂しないと、 地上の蒸気が、山へ到達する前に頂上へ行く必要があります。 あなたが今朝、飲んだ水は、2日前、天空に雲であった水蒸気なのです。 あなたが、午後、その水を排せつをすれば、 下水から川を経て、太陽エネルギーで、再び、山へ登って来ます。 そして天空に戻る程なく、又、雨になって下界へ降りて来るのです。 山では、この水の移動が手に取るように目で見えます。 地球の木・火・土・金・水の周流が変動をしている。 山は、天地のエネルギーの変化の気配を体で感じる事ができます。 自然の中に、2週間おきに行くと、いろんな事が分かります。 自然の中に住んでいる人には、もっと分かるはずです。 そして、五感では掴めない無意識の領域の事まで、 こう類推する事もできるのです。 ならば、我々の体内の木・火・土・金・水も変っているはず、、、 それは、どう云う変化で顕われて来るのだろう? 自分の体の中から聞こえる声を、変化を、聞かなければ、 頭ではなく、まして耳でもなく、 自分の体のすみずみの変化を訊かなければいけない。 全身の均衡を失っている体の悲鳴を聞かなければいけない。 テレビもパソコンもスマホも視覚への大量な刺激です。 その間、耳や鼻や舌や皮膚は眠らされているのですよ。 昼間っからね、、、 これじゃ、全身の血液は偏るし、神経系の均衡は崩れますよ。 これは、生物の本来の生ではない。 人間を本来の生物の生から遠ざけたのは、科学文明です。 知性はなにの為か、定義しなおさなければなりませんね。 人間の知性、科学は、大自然から人間を守る為に 便利で快適な空間で人間が住む場所を囲って、自然との距離を開けました。 このビルのず~っと向う側、あの空の下、 川が、山が、大自然が、刻々と変化をして行く様子が、 手に取るように分からなくなってしまいました。 そりゃ、天気予報はテレビやネットで知る事はできますよ。 でも、天気図を頼れば頼る程、自然からは遠ざかるのです。 肌に感じる微風から、雨を予見したり、 雲の動きから、明日の天気を感じ取ったり、 髪の湿り気から低気圧が近づくことを感じたり、 そう云う人類が生きて来た中で、鍛えて脳に顕在化させた能力は、 衰退していくのですね。 近代化の影響を、我々の外側で、地球と云う広がりの中で見てみると、 今まで書いてきたような光景が、眼前に広がっています。 次は、 我々にとって、もっと身近に目を巡らせてみてください。 もっと、身近な、しかし、深刻な近代化の弊害、 近代化の地雷が仕掛けられている場所、 あなたの事、あなたの家族の事、 あなたが生れて来て、受け入れざるを得なかった家族、家族形態です。 今、普通だと思っている家族形態は、 実は、我々の前の世代が、そうしたくて作り上げた形ではないのです。 と云う事は、将来に向って変えて行く可能性もある事なのかも知れません。 あるいは、変えていくべき形態なのかも知れません。 これも、間違いなく、 近代化の大波によって、押し流された結果の家族形態なのです。 では、本論へ行きます。 今日の記事は、 〔近代化の奈落 4.〕 近代家族の地雷 未婚 非婚 少子化 2013年 5月 26日以来の近代化の奈落シリーズの記事です。 思いっきり、はっきり書いてしまいますと、 近代化の行く末は奈落です。 あはは。 いわゆる、 ユングの云う*注 リビドーを衰退させる方向なのです。 *注 リビドー = 生物としての全ての本能のエネルギーの力 これを、ユングは、Libido(リビドー)と言いましたが、 無意識を源泉とする生の本質的な力の事です。 近代化は、自然破壊や自然災害と云う側面だけでなく、 実は、もっと大きな問題がある、、、 それは、 我々の家族を近代化してしまったのです。。。。。。 それは、 個人を近代化してしまった。。。。。。事と同時にです。 それは今や近代的自我となって満開を迎えています。 ほら! あそこにも、ここにも、 ほほっ。 その結果、日本人が堕ちた奈落が、無縁地獄と云うものです。 社会的にも、老人の孤独死が発見されるなど、紙面をにぎわせていた頃、 無縁社会と云う言葉が生れたようですが、 この記事では、無縁地獄です。 無縁地獄とは、独居老人の事だけではなく、 年令に関係なく未婚 非婚 少子化と云う形態で顕われて来ているのは、 近代化によって伝統的家族が崩壊し、 近代家族に変貌する事によって、命の継承の危機を起したのではないか? と云う事が今日の記事から暫くの間、書く予定の記事のテーマです。 この事は、当初からこのブログがメインテーマにしている事柄です。 本論に入る前に、 まず、<近代家族>と云う言葉について説明を簡単にしましょう。 18世紀半ば~19世紀にかけて産業革命(くわしくはここへ)以前は、 いわゆる伝統的な家族形態でした。 一軒の家に、 父方の祖父母、両親、両親の兄弟、子供達の大家族で住んで、 稼業の第一次産業(農業、漁業、山林業など)に従事して生計を営む。 家事全般、子育て等も、大家族全員が協力をしているのが普通でした。 働く場と生活の場が同じ、あるいは直ぐの所にありました。 でも、この時に、 今の父親たちが、イクメンを推奨されているように、 全ての父親が、母親と平等に子育てをしていたかどうかは別です。 恐らく、大家族中で、 父親は、男性陣(祖父、叔父、兄弟)と共に家業に従事していたはずです。 母親を手伝ったのは、女性陣(祖母、叔母、未婚の兄姉たち)でした。 彼女たちが家事や弟妹の世話をすると云うのが普通だったはずです。 それが、産業革命以降にそれが近代家族へと変貌をして行きます。 資本主義経済で機械化された大工場(職場)が大量生産の為に、 多くの労働者を必要とするようになりました。 その為に、田舎での貧しさから抜け出したい若い世代が、 都会に出て働くようになります。 都会で働いている男女が結婚をすると家族は2人しかいません。 2人で暮らしたいからそうしたと云うよりも流れからです。 夫は工場へ働きに行き、妻は家庭で家事、子育てをするという 役割分担の生活様式が自然にでき上がりました。 男女の性別分業によって、専業主婦と云う言葉が生まれたのです。 ここで、夫と妻だけ、夫婦と子供だけの核家族と云う言葉が生れ、 職場と住居が別々と云う意味で職住分離と云う言葉が生れました。 この家族形態の近代化による変貌は、 我々が望んで変貌をした形、結果ではないのです。 だから、 個人の基本的人権を基礎とする核家族、職住分離、男女平等、 の実現を志向する現代の家族形態は、 人間にとってどう云う家族形態が良いのか?と云う議論や問題を 置き去りにしたまま無頓着に変質変貌を遂げた結果なのです。 このように家族形態を大きく変えた原因は、次の2点です。 1つは、社会的には、主役は経済だったのです。 資本主義、大量生産の大規模工場の出現と云う 社会の産業構造の変化が、家族システムと家族構造を変容させました。 2つは、個人的には、主役は個人主義でした。 近代化による個人の人権の尊重、男女平等観等の思想の浸透もあり、 このブログで云う近代的自我の形成が、家族形態の変貌にも 多大な影響を与えて来ました。 特に、日本においては、 前近代の徳川の封建制度で、 朱子学派が儒教を歪めて押し付けて来たお殿様への忠誠! それを支える家への忠誠、家族集団への忠誠、親への忠誠と云う 旧来からの抑圧が過酷過ぎた事もあって、 そう云う桎梏からの解放を願う気持ちが余計に近代家族へ走らせ 国民が、この変貌を家制度からの解放として受け入れたのです。 この頃の時代は、 政治は民主主義、男女平等、などの 近代合理主義の敷衍された生活を実現する事が、 我々人間が幸せになれると信じる機運が横溢していた のです。 その気運の真っただ中で青春時代を送り、 近代化を全身全霊で浴びた世代が、団塊の世代です。 その団塊の世代が若者だった頃は、 -------- そう云う考え方に乗らなければ時代遅れになる。 近代化=絶対の価値観として日本中が吸収をして行ったのです。 実際に、都会へ出て来て高学歴者になった者、 時代の思想である近代合理を意識で理解できた頭脳を持つ若者は、 近代化システムで発達発展していく世の中の流れに乗ろうと思えば、 先陣を切って我先にと泳ぎ出せたのです。 しかも運が良い事には、 戦後の世界で、何もない原っぱから、右に上がるしかない時代を、 ハングリー精神を持って思いっきり今の社会を構築しようとして来た 達成感を味わった人たちなのです。 団塊の世代が自信満々なのは、そこから来ています。 日本の一番いい時期だったせいもあって、 伝統の破壊、家族の変貌についての批判は社会的になかったのです。 核家族こそ理想的な家族で、家族の平等も当り前、友達親子など、 旧来の家族形態を完全否定する風潮が蔓延していました。 それが問題視しされるようになったのは、 核家族の子供達が成人してからです。 団塊の世代の親子関係がウマくいっていない現象は そこここで謂われるようになりました。 近代家族の弊害や伝統の破壊から来る家族道徳の崩壊の問題、 核家族がどうだ、と云う議論は、変貌の後、その頃から起こったものです。 この世代の親子関係には、 あらゆる問題点が社会現象のように溢れて来ました。 自由に自主性を重んじられて育てられた子供が、結婚をしない、 結婚をしても子供ができない、 ・ 生れた子供は二人とも娘で30過ぎで未婚、 ・ 大学院まで親のすねをかじった長男が、 兄弟にも親にも10年も音信不通、40になるのに結婚をしていない。 ・ 苦労をして育て上げた娘たちに、 おかあさんはどうして主婦なんかしているの? どうしてキャリアをあげなかったの? と馬鹿にされる母親。 ・ 恋愛して子供ができた、結婚をした、離婚をした、 そう云う娘が乳飲み子の孫を2人も連れて出戻って来ました。 もう結婚はイヤだといい、今は親が養っていますが、 この子たちが、将来どうするのか心配です。 ・ 結婚をしても、自分の役割がまったく分っていない夫、 自分のお給料を全部、車に注ぎ込んでしまう、、、など、 もう!こう云うお相談が、ここ10年以来、溢れております。 近代化の全課程修了で満足!満足!の両親の元へ、 その満足が当たり前!で、努力なしでその満足を維持したい! 実家にいつまでもパラサイトする娘や、 自立をして出て行くと、その自由の身分の方が大事で、 実家も親も忘れてしまう糸が切れた凧のような息子、、、あはは。 近代化を体現した近代化製ゴジラが生れて来た! と云うお話でございます。 あはは。 それで、なんとかしないとと思って書き出したのが、 このブログでございます。 ほほっ。 このブログは、それらの原因を近代合理主義と云い切っています。 後は、運命ですね。 しかし、世の中は、はっきり原因を言いません。 近代合理主義と云えば、お困りになる方が大勢、偉い方々の中に、 居る訳でして、 あはは。 個々の親子関係、育て方、そちらの方へ気を逸らしております。 母親一人が悪いなんて、責任をとればいいなんて、 そんな、なまちっろい問題ではございませんのよ。 ほっ。 たしかに、母親、それを含む家系の問題ではあります。 そこは、運命学のテリトリでございます。 ほっ。 いいですか? 気が付いてください。 自然が失われたのは、山や川や森や木々だけではないのです。 地球だけがおかしいのではないのです。 天候や地殻変動と謂われるものは環境で起こっているだけではないのです。 我々が、壊して来た自然は、山や川や森や木々だけではないのです。 我々が、壊して来た自然は、我々そのもの、命そのものなのです。 無慚な姿に変貌をして来たのは、山や川や森や木々だけではないのです。 無慚な姿に変貌して来たのは、我々の生物としての生命力なのです。 無慚にも自然の秩序を失って来たのは環境だけではないのです。 我々こそが、自然の命の営みの秩序を失いつつあります。 いや、それはないよ、 自然だけだろう? と思えるのは、 それは、狭い範囲の概念、意識が作った二元論のマジックです。 人と自然は別、 自然は人間が支配する物質でしかない。 精神と肉体は別。 この窮屈なロジック! この21世紀の現代科学や政治経済を支える西洋二元論、 この前提は間違っています。 その根底には、キリスト教教理があります。 この事は、今まで何度も繰り返し記事にして来ました。 自然をどうしようと、自分には関係ない! 自分の意識が、知っている事がすべてだ。 これを純化して取り入れ、完全近代化を成し遂げた日本を見れば、 近代合理主義が、どう云うものか分かると云うものです。 ----- いいですか? この地雷が、近代家族の中に仕掛けられているのです。 これらに反して、東洋にはアンチテーゼが存在します。 東洋における叡智の最高峰は、≪ 最高峰と断っていますよ。≫ 自然観、宇宙観において、 ≪すべての東洋の思想がこう謂っているのではありません。ほっ。≫ 人間と自然は一つのもの。 物質(肉体)と精神(心)は不二のものである。 つまりは、 自然を壊す事は、人間を壊す事である。 自然を失う事は、人間である事を失う事である。 人間である事を失う事は、つまり、 我々の命の継承そのものが自然ではなくなるのだ、、、、、、 生物としての存在の危機であると云う事なのです。 端的に云いますと、 地球をおかしくしている近代以降の知性に因る自然破壊は、 まったく同時に、我々の命の自然をも破壊していると云う事です。 もっと、的を狭くピンポイントに絞りましょうか? まったく同時に、我々の生殖機能をも破壊していると云う事です。 先ほどのリビドーを衰弱させていると云う事です。 それなのに、 物質文明の支配する現代社会は、 それらの解決を、いかにも物質文明らしいやり方で、 少子化を保育園や、女性の地位の向上で何とかしようとする低俗性に とどまったままです。 誰も、 東洋の地の日本に置いても、だれも、 近代合理主義の欠点、矛盾点に気が付き反省すら出て来ません。 それは、多かれ少なかれ、 今の現文明、 近代合理主義の恩恵、物欲の満足を追いかける事で事足れりの感を 我々が持っているからなのでしょうが、 この一番の被害者は、男性だと思っております。 いいえ、私は特に男性の味方と云う訳ではないのですが、、、 ほほっ。 でも、まず、女性が女らしくなくなっている現代社会は、 『陰』の徳性の欠如が起こりますから、 『陽』である男性が、男らしくいる事がむずかしい社会です。 あっ、女性に責任転嫁をしている訳ではありません。 しかし、男性達は、元の役割の位置にそのままですが、 女性たちが、その役割から移動しようとしている、、、 まるで男女を画一的な一つの性にしようとするかのような、 男性が男の性に誇りを持てる生き方ができなくなっている社会、 若者が、将来へ明るい光を感じられない社会だと言いたいのです。 これは、 物質文明の支配する現代社会が到達するべくして到達した極みの 意識だけを重用する『極陽』の現象化が社会をおおっている。 と認識をしています。 『極陽』なら、『陽』の現象化が盛んになるはずではないか?って 『陰』がいたぶられて、『陰徳』が衰微する訳ですから、 『陽』の炎は盛んにはなりません。 消えそうです、、、、、 『陽』の衰微する兆候が、あちらこちらで、出て来ます。 ◆ 通俗的な象徴で云えば、それらは、家庭では女性上位、 年増の妻に弱い夫、女房の方が収入が多い、 姉ばかりの末っ子の男の子、 まともな男性がまともな職業に就けない社会、 一家の主の収入が伸びない経済、等々です。 ◆ もっと、卑近な例を申し上げれば、 どうも、近代化の流れに上手く乗って生きて来た人や、 言い換えれば、 今の時代の正解に合わせて100点満点の合格点を出して生きて来た人が、 人としての一番具わっていなければいけない事をmissingしている。 いわゆる団塊の世代を想像してください。 子供の喜び事、孫に出合えない老夫婦が、多くいらっしゃるのです。 孫がいてもおかしくない年齢になっても、友人間での話題に、 うっかり自分の孫の事は出せないと気を使わなければならないそうで、 それだけ孫がいるのが普通と云う世の中ではなくなって来ているのです。 ★★ここで、各種データーを紹介しましょう。 内閣府の少子化に関する国際意識調査による異性関係の国際比較~ 9種類の情報録があります。 ご覧になってください。 異性関係、セックスレス、妊娠中絶等に関する国際比較です。 興味本位ではなく、このデーターの奥にある ユングの云うリビドーがどうなのか? を感じてみてください。 我々日本人について、果たしてどう思われるでしょうか? ◆異性関係の国際比較 ◆合法人工妊娠中絶の国際比較 ◆国内における未成年の人工妊娠中絶(推移と地域状況) ◆世界各国の所得水準と出生率との相関 ◆有配偶者のセックスレス夫婦の動向 ◆主要国の性行動比較 ◆世界各国のセックス頻度と性生活満足度(41カ国) ◆世界各国のセックス頻度と性生活満足度第2版(26カ国) ◆世界各国のセックス頻度と睡眠時間 社会実情データー図録から引用しています。 ユングの云うリビドーが、無意識界を本源とする本能とは、 東洋の『陰』の意味に通じる概念ですね。 日本人は、どんなに、命の自然から離れてしまった事か。。。 『陰』・自然から離れている実体が覗えますね。 何事にも真面目な日本人は、 近代化にも真面目に取り組んで来た。 個人の生活の全てを犠牲にしてまでも、 社会の、会社の、家族の近代化を進めた ――――――――― と云う事が、 反って、まともに近代化の弊害を受けているようです。 しかし、我が国の社会は、 そのレール(軌道)を踏み外している事に気が付いていない。。。 その結果として、 間違いなく言える事は、 只ならぬ様相を帯びて来ていると思うのが、 未婚の人が増えている事と、 結婚をしても子供が授からない夫婦が増えている事と、 年をお取りになって、生活は悠々自適な生活をしているにもかかわらずに、 子に子が生れない = 孫ができない老夫婦が増えている事です。 長年生きて来て、人間としての生きざまの努力を積み重ねながら、 これは、ひょっとして、知らぬ間に、 取り返しのできない不幸になる為の努力をして来たのではないか? と云う疑問が湧かざるを得ないのです。 学歴や収入や家や車や地位は意識の努力でなんとかなっても、 高学歴でも、高年収でも、蓄財では買えない物が、ある。 よく子供の頃、お金で買えないものがある、と教えられたものです。 それは、なあに? と云う場合の答えは、心だったように思います。 だって、その頃は、 家族や家庭は当たり前に個人の周りに存在するものだったのです。 今の時代、 心もお金で買えるような? 時代になったような? あはは。 今、お金でも買えないものは、家族、家庭なのですね。 つまり、その構成人である配偶者、子ができないのです。 これらは、意識のテリトリではないのです。 学問、経済、知識、学歴、計算でも、評価でもない、 まさに、無意識のバックアップが要るものばかりなのです。 だから、不妊治療においては、 先進の医療に頼っても、できない人はできないようです。 受精卵を作る処までは、科学でできる。 しかし、あくまでも受精卵が母体の子宮に着床するのは、 これは母体の能力ですから、自然任せですから、 自然が拒否をして、着床できなければ、妊娠はできません。 不妊治療をして、妊娠できなくて、子をあきらめた人の なんと! 多いことか... まあ、いろいろあり過ぎですが、 そろそろまとめなければ、、、、、 あはは。 ■ 最後に、絶家になる法則をお伝えしましょう。 まず、絶家は、陰徳を否定した行状が積み重なった結果です。 特に、『仁』、『義』、『礼』が欠ける事によって、 『智』を失い、『信』を破壊するような行状です。 これらを、堅い言い方ですが、家族道徳と云います。 家族間の道徳です。 たとえば、、『仁』、『義』、『礼』を守っていればいいものを、 守れない状況ですね。 それぞれの家系、家族間の歴史の中で、何かがあったのでしょう。 その原因が、探るのが命式です。 時代、社会の変化を何の抵抗もなく取り入れる事によって、 それがどう、我々の経済に影響するか? あはは。 経済だけを気にしていたらダメですよ! ほほっ。 と、まあ、そう云う事でございます。 近代合理主義が、経済第一の思想を運んできました。 楽だ、楽だ! と取り入れたあれやこれやが、 それらは必ずしも、徳性を保つやり方ではないものを 我々の生き方に植え付けたかもしれませんね。 近代化された楽な生き方の中で、 どうか、未婚 非婚 少子化 と云う地雷を踏まれませんように、 賢い生き方を求めてください。 あなたと云う子孫へたどり付くように、 過去、どんなつらい時も耐え、 死のうかと思う苦労の中で、あなたの両親を育ててくださった、 あなたにたどり着くまで必死に生きてくれたご先祖、 そのご先祖の思いを継ぐような生き方を、 是非、あなたの子供さんへ伝える事、それがあなたの役割です。 感謝と共に、役割を忘れず、 徳を積む生き方をなさるようにお祈りをしております。 やっと、終りました。 やれ、やれ、、、、、 あはっ。 最後までお読みいただきまして、お疲れ様でした。 感謝申し上げます。 あ、そうだわ、 ここまでお読みいただきましたお礼に、 浅田真央さんの今回の事を、 運命学的に御教えしたかったのですが、 長くなり過ぎるようなので、次回へ廻しましょう。 では、次の更新まで、 あなたの『時』を大切に、お過ごしになってください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。 |