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    コメントへのお返事 23.      進歩という幻想     〝 降りてゆく生き方”      

    Category : 身近な物質文明
    涸沢カールの中の赤い屋根の涸沢ヒュッテ 





    karasawa hyutte





    真ん中の赤い屋根が涸沢ヒュッテです。
    夕暮れのような雰囲気ですが、
    ところどころの雲の切れ間に、太陽光が照らしています。
    右上の白い処は、夏を越した雪渓です。


    昨日の午後、到着した時、建物の左端のテラスの上で、
    ヘリコプターが何度もホバリングをして物資を下していましたっけ。



    写真をクリックして、、、、、それをもう一度クリックしてくだされば、
    大きく広がって見えやすくなります!


    2度クリックの拡大版の写真の右側を、ごらんになってください!


    陽が当たって明るい岩場に見える黄や赤や青や白の点々は、
    日本中から集まるアルピニスト達の北アルプス登頂のベースキャンプの
    色とりどりのテントの色です。


    ここが、どれだけ広いか!
    トップシーズンには人口数千人のテント村ができあがります。
    ここは、目の前の穂高連峰へ約2~3時間で登れます。
    陽が当たっている真ん中あたりの建物が、涸沢小屋。






    涸沢カールの名物は、三段((3色)紅葉です。


    1つは、左隅の 雪渓の白、
         夏を越えて秋、冬まで雪渓があり、夏スキーのゲレンデになります。

    2つ目は、紅葉の橙色と、

    3つ目は、樹木の緑を同時期に見る事ができます。


    他の灰色の部分は穂高の岩盤の色そのままがむき出しになっています。






    朝のモルゲンロートに続いて、天気は快晴と言いたいのですが、

    ご覧のように、雲の影が全体にかかっていました、、、。


    この雲が動いてくれますように、、、そう願って降りて来ると、     





    ・ ・ ・ ・ ・ いつもまにか雲が消えて、



    やっと見る事ができた涸沢(からさわ)らしい景色!

    遠くに見えるのが、涸沢小屋。


    涸沢の特徴は、涸沢カール と云う呼び名で有名です。




       晴れ間の 【涸沢ヒュッテのテラス】


    ヒュッテのテラス


            ↑ 中央:涸沢岳/3110m          ↑ 右端:北穂高岳/3106m



    待ち焦がれた青空をバックにした穂高連峰の雄大な自然美と、
    テラスの上でゴチャゴチャとしている私達、人間たちを、、、   ほっ。
    比べてみてください!


    どうでしょう?  どちらが主役?        あは。
    どちらとは敢えて言いませんが、      ほほっ。
    どちらが目障りな存在かお分かりになるでしょう?   ほっほっ。 


    お分かりにならなければ、
    どちらのオーラ-が巨大か?    あは!
    いわずもがな、でございます!


    ウジャウジャとした我々人間が、
    ひたすら穂高岳詣でをしている、
    そう云う構図でございます!   あはは。





    山とは云え、標高もあって高い樹木や土はなく、
    巨岩石の塊をあらわに見せている山肌は、
    170 - 180万年前の破局噴火の時の火山灰由来の穂高安山岩と呼ばれる
    溶結凝灰岩で形成されています。


    この170 - 180万年前 ! 
    地球がどう云う状態だったかと云うと、


    地質時代の区分で、
    更新世(こうしんせい、Pleistocene)の前期、カラブリアンの頃です。


    ヒト族が進化して、
    北京原人、ジャワ原人、ネアンデルタール人の頃、


    氷期と間氷期を繰り返し、地球上で15回の氷期があった頃、
    マンモスなどの大型の哺乳類の絶滅が始まった頃です。


    この170 - 180万年も前からここに居る!  
    今の人間が知る事ができない地球のありさまを知っている!
    という穂高連峰の無言の存在感が放つオーラーが、
    どうしようもなく人間を、細かく見せるのですね!      ほほっ。


    まだ地球に生れて20数年そこそこの若者から年配までの我々人間が、
    精一杯の元気を出し切って登って来て、
    どんなに意気軒昂な勢いがあって数千人が集まった処で、
    うじゃうじゃと云う存在感しかないのでしょう。


    170 - 180万年の存在からは、
    我々はもう、赤ちゃんも同然なのですね!     ほほっ。


    両手両足を使って地面を這い回る赤ちゃんのように、
    ここまで登って来た我われを出迎えてくれたのは、
    御年170 - 180万歳の峻厳なる峰々でした。





    しかし、山は常に温かいのです。
    こうして、何時の時も、詣でて登って来る人間を
    大きな腕(かいな)に抱き取ってくれます。
     




    170 - 180万年前のカラブリアンの頃の
    地球のエネルギーの姿に出逢えた事に、感謝です ! 




    乾杯!  です。









    ------ なんだかんだと申しましても、

    我々人間は、自然に対して完全に平伏すしかないのです。





    言い換えれば、
    自然を、支配する対象としてしか見ない近代合理主義の思潮の中で
    我々の意識が染まった傲慢さ・毒気を落とす為に、
    自然に平伏す我を、確認しに、山へ行っているのかな?     
    と、山への熱が覚めない私などは、こう、思うこの頃です。  ほほっ。




    せせこましい都会の中では、
    人間が巾をきかしていて、  
    あたかも、人間さまが主人公?     ほほっ。
    人間の意識は科学で自然を支配するんだ ! って?   ほっ。 
    電気も、電磁波も、楽で便利な生活を実現している!   ほほっ。
    な~んて、
    心のどこかに近代合理の優越感を持ちながら、     
    我々はおりますけれど、、、、、、、、    あっはは。





    ○o。.。o○ そんな事は幻想だと云う事が分ります。







    火(太陽熱)と水(水蒸気)のもたらす何十年ぶりと云う大雨、
    地球温暖化で年々温度が上昇する海水上昇のエネルギーが、
    今までにない巨大な台風になって、
    我われに向って来ると云うニュースに耳をそばだてています。
     






    『陰』の系列


    宇宙 ----- 自然 ----- いのち ----- と云う『実』に触れて思うのは、


    日ごろの我われは、
    みずからの「生」が、何処に根ざしているのか?
    その足元を見ようともしないで、
    意識に都合の好い幻想で作ったカプセルの中で生きているようです。





    幻想?   


    そう、幻想を幻想と気が付かずに、


    我々は、たった一度の人生を、
    豊かになるために~と云う幻想の中で生きさせられているようです、、、、、


    それが、本当の豊さだったらいいのですが、、、


    生きさせられて?    ほほっ。
    これが、生きると仮にするのならば、のお話ですよ、、、   ほっ。  






    近代合理主義の恐さは、ここです。



    我われは、真っ当に生きている ----------
    そう思っている現状の実相は、『陰』を排除した世界観の中です。






    ○o。.。o○ これは、地球と人間の真の関係から遊離した幻想の世界です。









    ● この近代合理の幻想に生きるかぎり、
    『陰』は無視され実体が無いのですから、
    『実』・命の継承の能力は萎えて行くでしょう。




    『実』とは、あらゆる命の継承です。
    それが、『陰』なのです。  





    それが、現象としての少子化です。


    『陰』を押し除け、経済、経済と伸(の)して来て、
    これが今、アキレス腱になっています。
    あくまでも、< 労働人口減 > などと、
    いかにも経済中心の用語らしい言い方ではないですか?   ほっ。
    経済大明神が社の奥から出て来て慌て出しています。
    経済の神輿をかつぐ人数が足らん!  とか、、、、  ほほっ。


    理由は簡単です。
    『陽』の『偽性』の大過は、『陰』の『実』の消失につながると云う事です。



    あらゆる命の継承がなければ、『陽』は栄える事ができないのです。   
    そんな事も知らないで!    ほほほっ。  

    この事が、『陰』の存在を排除をしている近代合理主義下の優秀な頭脳には、
    思いもよらない事なのです。
    近代合理主義が、『陰』を認めていないバツですよ! 








    本来、国土が生成発展を繰り返し続いて来たように、     
    我々の命も、生成発展を実現するのが『天』『地』の中庸なのです。




    それにもかかわらずに、


    近代国家といわれる西欧の先進国や、
    日本、韓国、カナダと云う近代化優等生の国々には、
    命の継承の危機である少子化の現象が起こっています。
    また、あらゆる命の継承が、この地球上で消失しようとしています。




    これらの危機は、
    『陰』を排除する近代合理主義の『陽』の頂点である現代の学問や
    近代国家の政治からも、
    次のような警鐘が鳴らされています。






    ●1. 植物においては、
    国立環境研究所や九州大などの研究チームが、
    環境省などが1994~1995年、2003~2004年に行った
    植物分布調査のデーターを使い、
    レッドリストで絶滅危惧種と準絶滅危惧種に指定している
    計1618種の植物の自生数の分析をし、
    「 国内に自生する植物が、現在のペースで減少を続けて行けば
    100年後には最大で561種が絶滅をする。」

    と云う予測を発表しました。
    この日本における絶滅のペースは、世界平均より2~3倍早いという。




    ●2. 海の食糧資源である魚も著しく減って来ています。
    今年の6月15日、絶滅危惧種に指定されたウナギは云うにおよばず、
    水産庁は、サバやスケトウダラなど、数が減って来ている魚について、
    新たな漁獲規制を導入する方針を決めました。
    サバは、1970年代は300万トン以上の資源量があったものが、
    2012年には109万トンまで落ち込んでいます。
    スケトウダラは、1990年代初めの1割程度までに落ち込んいます。
    その為、なんと、スケトウダラにおいては、漁獲量を半減させます。


    これは、価格にも影響しそうです。
    サバもスケトウダラも、今は庶民の魚ですが、高級魚になるかも?




    ●3. 東京へ一極集中の結果、地方も東京も滅びると、
    増田前総務大臣の論文が、霞が関で旋風を起こしています。
    その理由は、東京一極集中の為に20~39才の妊娠適齢期の女性が
    地方に居なくなると云うのです。
    若い女性が集まって来る東京では、若い女性は子が産めないと、
    理由は、東京は産んで育てられる環境ではないと云うのです。




    これらの現象は、今、急にこうなったのではありません。
    我々が右肩上がりに< 豊かになった > と、
    みずからを誇らしく語る時代を経て、この結果が出て来たのです。





    振り返って、
    真に日本が< 豊かになった >のは本当だったのでしょうか?        


    あっは!









    東洋4000年の叡智は、こう警告をしてくれています。

    『天』と『地』の間で生きる我々『人』は、
    『天地』との中庸(バランス)を求めて行かなければならない。
    それが、『天地』に守られる『人』たる所以なのです。






    『陽』の旺ずる極みは、衰。



    旺ずるとは、物事の道理よりも我々の欲を中心とする作為が進む事です。

    旺ずるとは、見えない本質より見える姿形に囚われる作為が進む事です。


    つまり、
    根・『実』から離れて枝葉・『方便』が満ちると云う事です。


    枝葉が繁り過ぎると、根はやせ衰えます。


    基本が失われ、応用ばかりが巾を効かせるようになります。


    そのうち、
    『方便』が『実』に取って代わって真理のような顔をします。


    これが、『陽』の『偽性』です。


    『偽性』が『実』を覆い隠します。






    ○o。.。o○ こうなると、全ては幻想でしかありません。







    我われは幻想に取り囲まれ、それを『実』だと勘違いをします。
    こうなると、我われは『実』を面倒と捨て、
    あえて、幻想を『実』と思い込んだ方が、楽なんだって!    あは!


    この面倒さが、ウザイと云う言葉に顕われています。




    『実』を見ないように生きる気楽さを知った我々は、
    見せかけがキレイであれば、何でも気に入ります。
    ファストフード( 待たずに食べられる簡単な食品の事)、
    ファストファション、ファストセックス、ファストウェディング、
    ファスト離婚、ファスト墓地、、、
    すべてが簡略化して、パッ、パッと片づけられるものばかり、、、


    『時』を賭けて『実』を掴もうなんて! ウザイ!
    効率が悪い事を、どうしてやらなくちゃいけないの?
    なんでもいいのよ! 便利に片づけられれば、、、、、



    そして、ついに、お葬式やお墓まで、
    宗教を抜きにしてお金で片をつけるようになってしまった。。 。


    自らの死が、どうでもいいものになる前に、
    食品に化学毒が混ぜられていても平気で食べるようになって、
    あらゆる事でダマされる事に鈍感になっています。




    真実は隠れ、意識に楽な『方便』ばかりが大通りを闊歩しています。
    幻想の外に出られない我々は、ウソを見抜く力を失っています。





    ●1. も ●2. も 現に起こっている現象です。
    ●3. は、これから起こる現象です。



    ●1.  ●2.  ●3. の、原因は、
    『陰』たる地球・自然の与えてくれる資源に対する
    人間の側の欲望の満足を求めるやり過ぎた奪取の結果です。


    ここまで、無慈悲に資源を欲望のままに搾取できるのは、
    地球を人間が支配をする物の世界と観る近代合理主義のせいです。
    近代合理主義と云う意識を中心にした欲望礼讃の思想のせいです。









    植物たちも、魚たちも、『天地』の間で、
    『人』が、その中庸を失っている犠牲になっています。
    植物たちも、魚たちも、自然から転がり出た『人』に警告を発しています。




    幻想都市・東京は、衰しかないのでしょうか?






    我々はどうでしょう?



    『天』『地』の中庸を破壊する
    欲望の論理である近代合理主義に染められた我々は、
    『天』の道を無視をし、『地』の理を破壊し、道理を踏み倒し、
    『天地』の中庸を破り、『天地』の自然から転がり出て、
    どうしようと云うのでしょうか?





    これでは、我々が安心をして住む事ができる自然は無くなるはずです。




    木も火も土も金も水も、その徳性で『人』を守らずに、
    『天地』の道理を忘れた『人』に刃向かって来るはずです。




    木も火も土も金も水も『人』へ刃(やいば)を向け困らせるはずです。









    これは、憎しみで言っているのではないのです。
    これは東洋4000年の叡智の精華です。







    さぁ、今日は、
    近代合理主義のこの世界が、幻想であると気が付いていただきたい。
    その『偽性』のベールを剥がしていただけるような記事にしたい。。。


    そう願いながら、書かせていただきます。
    いつものように、長くなる気配が、、、、、    ほほっ。
    更新の間は十分にありますので、
    何回かに分けて、お読みいただきますようにお願いします。








    涸沢の写真は次回もつづきます。
    上の写真の、 青空に映える穂高の山々、
    そのすそ野にもっと近づいて行って撮った写真を、
    次回は、お見せしましょう。



















    今日の記事は、

    コメントへのお返事 23.
             進歩という幻想 〝 降りてゆく生き方” のススメ       









    “ 降りてゆく生き方 ”については、後ほど記事の中で紹介します。


    まずは、初めに、
    前回の記事に “ 初コメント”をくださった方の
    拍手コメントをご紹介いたします。


    鍵が掛かっておりますが、公開をさせていただきますね。
    ご了承ください!






    おはようございます。
    昨夜は訪問を有難うございました。
    記事を拝読しました。
    言葉を吟味してわかりやすく書かれてありますので、とても助かります。
    親族の悩みのない人は、ほとんどいないのではないかと思います。
    一族の繁栄を考えるならば、誰が継いでもよいのでは?と思いますが、
    財産の相続やその他もろもろのしがらみがあるので、
    争いが絶えないのだと感じます。
    私は無宗教ですが、子供の頃から11歳まで、
    プロテスタントの教会へ通っていました。洗礼は受けていません。
    仏教をはじめたくさんの宗教関係者がおられますが、
    高尚な方もお布施を集めることに必死で、
    市民を上から見てきたことが衰退につながっているような気がしています。
    私はお坊さんが若くして結婚をして丸々と太って、
    バイクや車を乗り回している … という現実がどうしても解せません。
    一度しかない人生ならばそれもありかもしれませんが、
    口では輪廻転生を唱えつつ、ご自分の行動は … (・∇・)?
    と思ってしまうからです。
    けれど、本当に素晴らしいお坊さんが存在するのも事実です。
    文字数が … また来ます。  






    拍手と、コメント、どうもありがとうございました!
    お人柄がうかがえるような丁寧な文章ですね。


    なお、固有名詞のあった一文は、まことに勝手とは思いましたが、
    コメントから割愛をさせていただきました。  ご了承ください!


    コメントの中身は、初めて下さったコメントとは思えない位、
    私が共感を抱かせていただくような内容でした。
    普段から、深く物事を観ておられるのですね。
    次の ①~④ について、お返事をいたします。




    ①  親族の悩みのない人は、ほとんどいないのではないかと思います。  


    そのとおりでございます。
    親族と云うのは、自分の意識が選んだ人たちではありませんの。  ほっ。
    それは、自分の無意識が選んだ人たちです。      ほほっ。


    意識の深い奥、過去の自分の所業に染まった無意識があります。
    ここは、五感(意識)では捉えらえません。
    つまり、意識の理解がおよばないゾーンです。
    だから、意識はなにも知らないのですね!    あはは。


    そこには、過去からの自分の身口意の業が、全部インプットされていて、
    あらゆる事が記憶されているらしいのです。
    そこにある無意識が記憶している情報によって、
    それにピッタシと合う今世の親族を、我々の無意識が選んで生れて来たと
    仏典には書かれています。
    今の瞬間までの自分の所業の反転が、
    いまの自分を取り巻く環境の全てであると、
    過去、現在、未来を説く因果応報の理法そのままであると、


    そう云う事でございます。



    全ての原因は意識ではなく、無意識にあります。
    無意識が種、意識上はそこから生じる枝葉、花実の現象です。
    無意識界にこそ実体があります。



    だからと云っても、今の意識界を軽く思ってはいけませんの。
    今の意識界への取り組みが、次への無意識界へ記憶され、
    次への意識界へ現象化する因になるからです。






    ◆ それなのに、今の思潮は、意識中心にあります。
    無意識界を無いモノとして排除をしています。
    つまり、近代合理主義は、人間の五感に基づく意識を中心にして、
    人間の無意識、神や宗教を排除しています。
    これは西洋での神と人間との事情から起こった事です。
    人間が、キリスト教の神の桎梏から逃げて自由になるのが目的でした。


    キリスト教理に置いては、
    神がこの世界を創った為に大地が中心なのです。
    地球はお皿のようなもの、太陽がその周りを廻っているとされていました。
    天動説です。
    聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述がある為に、
    大地が動くと云う地動説は、神の偉大さを否定する事になる訳です。
    まず、マルティン・ルターがコペルニクス説について、地動説を否定しました。
    ガリレオ・ガリレイも、地動説を唱えた為に迫害されました。
    プロテスタントでも、
    地動説はアイザック・ニュートンの登場まで迫害の対象だったのです。


    西洋の歴史は、
    キリスト教の全知全能の神中心の世界観の中で、
    人間の自我が封殺をされた歴史でした。


    それを、人間の自我意識を、世界認識の起点において、
    神に何の遠慮も無く、 地動説 を主張していこうと、
    この人間の意識の自由の為に、神を削除する事を選んだのです。


    神よりも、人間の意識を中心に据えたのです!


    これが、
    ヨーロッパにおける近代化の土台になったデカルトの言葉

    ” 我想う故に、我在り ”  です。


    しかし、デカルトは、神を完全に削除する事はできなかったのです。
    人間の究極的な存在と知識の基礎を神に求めたのです。
    “ 我想う、、” の我の存在の証明に神の保証を付けた訳です。


    ですから、近代合理主義の成る畑の土壌は、キリスト教理そのまま、
    キリスト教理の自然観、人間観、世界観の上に、
    デカルトは自分の哲学を構築しました。
    ですから、近代化を受け入れると云う事は、
    知らない間に、キリスト教理の自然観、人間観、世界観の中で、
    我われは生きている事になるのです。






    ○o。.。o○ これは、東洋人の我々にとっては、一つの幻想の世界です。









    そして、近代化の本質は、
    キリスト教の神が作ったこの世界で生きて行くのに、
    人間が、神の桎梏から逃れて人間の意識を中心に据えると云う事です。
    非常に、都合の好いロジックですね! 
    そう! まるで子供だましのように、、、、、  あっはあ。


    我ら人間は、神の保障した世界に居るが、
    その神殿には、神ではなく、人間の五感・意識が祀られている訳です。


    これは、当時のスコラ哲学が権威を持つ社会に置いて、
    そのスコラ派と折り合った一つの妥協だったのでしょう。



    この近代化の本質は、
    ここ日本にも、とんでもない影響を与えています。


    どう云う事かと云いますと、
    本来は、クリスチャンではない東洋の我々にとっては、
    キリスト教の神の桎梏など、なんら経験も関係もないにも関わらず、
    神を消去し、人間の意識を中心にした近代化を受け入れる事によって、
    日本人の我々も意識を中心に据えるようになったのと同時に、
    キリスト教の神の部分にあたる -----
    今までの東洋的伝統や宗教から来る倫理、道徳、東洋の叡智などを、
    ----- 完全消去してしまうと云う
    おそらく予想もしていなかった現実を招いた事なのです。
    我々のDNAの中に在る東洋の精髄とも言える無意識の世界を、
    近代合理主義は、根こそぎ濁流で呑込んでしまったのです。


    我々は、それ以来、
    神も仏も、東洋の叡智も、無視をするようになりました。


    無視をしている事すら意識しないで、、、



    西洋にかぶれたから、捨てたのではないのです。
    日本人が軽率だったから、失ったのではないのです。


    近代合理主義を受け入れると云う事が、
    即、それが無意識を無視した幻想の世界への参入だったのです。


    その思想に触れれば、無意識を忘れてしまう、、、
    そう云う仕掛けが近代合理主義にはあると云う事です。


    そして、無意識の価値、普遍性、
    東洋的な徳性と呼ぶような価値観を失って行ったのです。


    その代わりに、近代合理主義の根底を流れるキリスト教思想、
    それが、我々が失った東洋の無意識の価値観と入れ替わりました。


    それが、今、147年経った今、
    我々の血肉となり、血管の中を流れる精髄となっています。


    これは、本当に恐ろしい事です。
    日本に居て、日本語を話しながら、いのちの血潮はキリストです。
    半獣半人というのか、キメラというのか、、
    純粋な東洋は、我々の中には、もう、ないのです。。 。



    そして、日本人は、自分の背骨を失った人形のようです。
    ただただ、我尊しの自分の意識を惜しむ余り、
    家系を無視し、家族を崩壊させ、家庭を創る徳性を失いつつあります。



    これに、どれだけの人が気が付いているでしょうか?



    しかし、近代化以降の欧米に置いては、日本とは状況が違っています。
    欧米の人々の血肉や血液であったキリスト教理は、そのままです。
    近代合理主義下でも残っています。
    なぜなら、
    人間存在を神に保障をさせたデカルト以降の西洋哲学は、
    近代合理主義下でも、その自然観、人間観、世界観は、
    キリスト教理の空間の中に納まっているからです。


    西洋のあらゆる哲学は、キリスト教理からはみ出ていません。


    そこが、完全に東洋的な世界観、自然観、人間観を消去された
    日本とは根本的に違う訳です。
    西洋は昔を温存しています。
    東洋は、過去をすべて断ち切って捨てさせられたのです。


    先の敗戦の東京裁判で軍国主義の思想を捨てさせられた、
    そう云う事よりも、もっと深く長い時間をかけてです。



    ですから、日本人の我々は、個々には心の中で、
    東洋的な心象を持っているつもりかも知れませんが、
    我々が存在すると意識のどこかで、かすかに思っている東洋的な世界は、
    実は、もうない。
    --------- ないのです。


    たしかに、地理的な意味での【アジアの日本】 と云うのは存在します。







    ○o。.。o○ しかし、思想的な意味での東洋の叡智を継承している日本、
           これは、もう、すでに、一つの幻想なのです。







    我われは、今と云う現代を生きながら、
    日本国内の神社仏閣を、少なくともキリスト教よりも身近に感じ、
    それらに母国の歴史や愛着を少なからぬ感じていながら、
    我々の学ぶ教育や、我々が支持をして行かなければならない政治、
    それらはすべて、キリスト教理の哲学の上に築かれた物ばかりです。


    東洋の思想を帯びたものは、ほとんど我々自身の周り、
    我々の意識からも抜け出て行っています。
    自分の意識が東洋的な叡智に染まっていると自信がある人は、
    おそらくそんなにいない。 そう思っています。
    真に、東洋的な思考が身についていると、
    現代の余りな西洋的な二元論やロジック主体のやり方に、
    気分が悪くなってしまうでしょう、、、  あはは。


    我われは、正しいとか正しくないとかではなく、
    現実的な適応力として、近代合理主義的な観方を真似をし身に付けて、
    現実的には、二元論的な観点で物事を処理をしているのです。
    その方が、正しいと、新しいと、カッコイイのだと、
    自らに言い聞かせ、そうするように努力をしてきたはずです。
    それが、時代の思想に染まる、と云う事です。




    この事が、個人の所業になります。
    そして、

    運命自体にかかわって影響を与えます。



    だから、こんなにクドクドと書いているのですよ。  ほほっ。




    ついでに、
    一般的に学問で哲学と云う場合、
    西洋の哲学の事を指します。
    西欧で哲学者が新しい◯◯学派を生んだとして、
    その論理は、あくまでもキリスト教理の範疇での事です。
    西欧に置いては、この世界の中心は、キリスト教の神であり、
    二元論的自然観が真理だと云う大前提があるのです。


    学問が云う処の哲学と云うのは、
    東洋の思想などを哲学には入れていないのです。
    今の地球上で、哲学と云えば、キリストの世界観の上での事、
    近代合理主義下では、哲学、思想とは西欧の独壇場なのです。



    西洋で哲学を学問的に研究をすると云う事は、
    あくまでも、キリスト教の神を中心に据えた世界観の中で、です。
    それを根底に真理とするのが大前提です。
    哲学を学問すると云う事は、その内で考えると云う事なのです。



    西洋の人々は、東洋には思想があるとは思っていないでしょうね。
    仏教の一派、禅が西洋で理解をされたと言いますが、
    禅によって彼らの世界観が変わった訳ではない。
    世界の中心は、キリスト教の神、この世は神が創造したものと云う
    大前提は、揺らがないのです。



    それに比べると、特に日本における近代化は、凄まじい!


    なぜなら、キリスト教理を全て信じる訳でもなく、
    かといって、消去された東洋4000年の叡智も知らない。
    そう云う人間ばかりです!       あはは。


    そして、日本人は、自分の意識ばかりで生きている!
    凄まじいばかりです!      ほほっ。



    あ、そうか! 経済大明神を信仰している?   あはは。



    それに比べれば、
    西欧の人々が、近代化の中で権威は堕ちたと云えども、
    クリスチャンである割合は高いはずです。
    アラブのイスラム然り、インドのヒンズー然り、
    他の民族は何かの宗教を自分の背景にしています。


    日本人は、寄る港も無く浮遊している状態です。
    取り付く岸辺がないと云う点で、哀れ、溺れかかっているのですよ。


    日本人の世界観は?  自然観は?  人間観は?
    ましてや、家庭観は?  家族観は?     


    普遍的なそれらの価値体系が消去されてしまって、、、
    しっかりないのに、結婚?  できないわよね。
    若さの暴走で子供だけは作っても、それを維持できないのです。
    封建的な家制度は崩壊をし、それを補うものがない。
    意識だけが尊重されて、それゆえに浮遊するしかない日本人、



    あまりにも分厚い幻想に閉じ込められた日本人の意識、
    意識に頼っても、せいぜい迷走をするのが関の山なのですよ。
    意識が作るものは、せいぜいロジック位のものです。
    意識には、真理など掴む事はできません。


    その意識の迷走、
    少子化を、どうしたらいいのかと云う処での迷走、
    近代合理主義が壊して捨てた、
    例えば、家族道徳的な普遍性のあるお互いを結び付るもの、
    そう云うものを失った迷走だと思います。



    迷走も、幻想も、意識のする事です。      ほほっ。
    無意識は、迷走も、幻想も、致しません。     ほっ。








    今まで、長々と書いて来ました近代合理主義の世の中、
    人間の意識だけを重用する思潮の中で、
    その思潮の通りに生きるとすると、
    各々の意識は10人10色ですから、それを尊重をして、
    お互いの自由と平等を認め合うとすると、
    たとえ、家族であっても、
    お互いにバラバラで合わなくなるのが事実でしょうね。  ほほっ。


    現代の思潮である近代合理主義は、
    近代化が尊重する人権思想、自由、平等、権利、義務が、
    最高の価値基準として強調されていますから、
    個人の五感に基づく意識だけを主張しあって行けば、
    もう、柘榴(ざくろ)の実のように細かい粒粒がボロボロになって、
    バラバラになって飛び散ってどこに行ったのか分らなくなる本質がある、
    と思っています。


    特に、身内、家族の間は、大変なのです!
    家族や家庭、兄弟や夫婦と云う単位が、
    バラバラ、個個へと離れて行くでしょうね。
    離れて行くより前に、消える、、、、、命の継承が消えます。
    バラバラになると云うのも、実は消えるそのプロセスなのです。



    それらを円滑に、お互いが喜んで一つの心になる為には、
    どうしたらいいのか? 
    実は、これが、このブログのテーマなのです。




    無意識の本体を追求した東洋の叡智を、
    我々の中心に据えるしかないのではないか?





    お互いが、喜んで一つの心になる、、、


    その結果が、家系における いのちの継承の実現なのです。





    我が家が、近代合理主義の害毒に遭わない? 為にも、  ほほっ。
    近代合理主義の欠点をよく理解される事を提案します。




    ◆ 東洋思想から観る近代化の思想の特徴は、
    A. 個人の五感に基づく意識を最大限に尊重をしています。
    B. 自然や神や仏と云う存在よりも、です。


    これを、東洋の陰陽学で観てみますと、
    A.  を 『陽』の範疇で人為によるものとします。

    B.  を『陰』の範疇とし人為によらないものとします。







    陰陽学において、
    『陰』は、本体、 根、 無意識、すべてを結び、一つにまとめるものです。
    『陽』は、機能、 枝葉、 意識、分かれ分かれて、 消えるものです。




    ごらんのように、意識だけを中心にした近代合理主義は、
    人間の意識が作った『陽』のロジックでしかありませんから、
    真理でも、本質でも、本体でもありませんから、
    その究極は、『陽』の原理のままに分離、分散、消滅する現象です。
    仏教的に謂えば、無常の範疇なのです。    ほっ。



    現代を色濃く染める近代合理主義には、
    個人の人権や個人の自由平等だけを強めるだけで、
    その人間をつなぎとめる、一致団結させる思想がありません。


    人としての道理というよりも、
    人為的な法律や制度が決めた自由、平等、基本的人権というロジックに、
    我われが逆規定されると云う有様になって来ています。
    これらは、画一的なバラバラになった個人が、
    網の目の中の一マスにハメ込まれて、
    放り込まれたような個人に成り果てています。
    自由だ、平等だと云っても、その個性を生かす事とは違います。
    人間を真に幸せにする事とは、違いますね。


    そして、いくら人間が書いた条文でこれらの枠にはめようとしても、
    絶対に、はめられないものがあります。
    それが、過去、現在、未来を貫く人の運のようなものです。
    制度でいくら平等と云っても、運命は不平等でございます。
    とくに、個人の運命は家系の運命から自由ではありません。


    人間だけが基本的人権といっても、
    自然の中にはそう云う概念は、一切ありませんし、
    自由、平等、というロジックも、宇宙や自然の中には存在していません。





    ある意味、人間の意識が作った権利と義務で要求する事は、
    自然を犯す、、、調和を崩す不自然性を感じます。




    自由ではないものを、憲法の条文にそって自由に振る舞うから、
    そこの処から、新たな分離と不幸が湧き出るのです。
    平等ではないものを、民法にそって平等を要求する事によって、
    そこの処から陰徳を失い、避け得た不幸を呼び起こす事もあります。



    これが、次世代への不幸の原因になるのが分っていますから、
    自然のありように、学ばなければいけないと思います。





    ですから、運命学の御相談では、
    極力、裁判で決着をつける事を避けるようにお勧めします。



    たとえ、裁判で勝っても、その事で陰徳を失えば、
    先で、手にしたモノを失う事があるのです。



    このように、人間の運を観て行きますと、
    ウムを言わさない厳しい摂理が貫かれているのが分かります。




    運は、最大の自分の中の自然そのものなのです。







    ②  一族の繁栄を考えるならば、誰が継いでもよいのでは?と思いますが、
    財産の相続やその他もろもろのしがらみがあるので、
    争いが絶えないのだと感じます。   





    相続についてですが、
    一般的に、長子相続ですね。
    これは、儒教の長幼の序 ------ 【 「孟子」滕文公上 】


    年少者は年長者を敬い従わなければならないと云う秩序です。


    昔は正妻の子の嫡男だけではなく、妾腹の庶子がいて、
    異母兄弟間で後継ぎ争いが起こっています。
    醜い家内争議を起さないように、
    一族の陰徳を守る筋として定められていたのです。
    昔は家督を継いだ長男に他の下の兄弟が従って家を守る。
    家督を継がない息子は、他家へ養子へ出す等の知恵がありました。



    民法での相続は、兄弟が平等に遺産を相続するとなっていますが、
    運命学的で云いますと、
    長男が、両親及びご先祖のお墓を守ると云うのが、
    いわゆる祭祀権の継承ですが、
    一番、家系的には正しくて、陰徳のある一族、家系になります。


    長男が継承できる家系と云うのは、それだけで運が良いと言えます。
    そうでない場合は、継承を受け継げない運が出て来ます。


    先祖からの運命として、さまざまな癖を受け継ぎ、
    いろいろな理由で長男がしっかりしていない。
    病気や精神的な障害で、将来結婚ができない状況であるとか、
    さまざまな現象が出て来ます。
    たとえば、結婚をしないので子供がいない、その意志がないとか、
    その代わり、しっかりした弟がいて、
    ご両親の世話やお墓の祭祀もやってくれる、
    こう云う場合、自然と長男はダメだけれど、
    次男が実家の名前を継いで、お墓の祭祀もしてくれる、
    こう云うご家系もよくあります。


    こう云うご家系の場合ですが、
    長男がダメ な家は、その本家筋が絶家になっているのが多いのです。
    つまり、継承運が二男の家へ移って来ている、と言えます。


    自然を観察するとよく分る事なのですが、
    植物も、年々季節が巡れば新たな枝が出て来ます。
    今までの古い枝を越えるほどの勢いがあって、
    その先に堂々と、一番に花を咲かせたりします。
    エースですね!      ほほっ。
    今年からは、僕が頑張っていっぱい咲かせるよ!
    そう云っているようで頼もしい限りです。


    その反対に、
    人間が枝を選んで剪定をしようとしなくても、
    放っておいたら何時の間にか、枝が枯れているのがあります。
    木全体は、どこもおかしくなく、新芽も出て来ている。
    そんな中で、1本の枝が枯れて行く、、、
    自然剪定と云います。
    木全体が生き延びる為に、不必要な枝を自分から枯らす事です。
    どうして? 去年は、あんなに花を咲かせた枝だったのに、、、
    と思って残念な気持になったりします。
    そんな気持に関係なく、自然は非情な厳しさで、
    自然の中で生き抜く知恵を実行していくのですね。
    自然の中では全体の秩序を守ると云う事が生命線なのです。


    これを、人間に当てはめてみますと、
    家系と云うのは、ただ偶然にそうなると云う事はなくて、
    その一族の姿を克明に表わすものなのです。
     


    目には見えないけれど、人の運は、家系で説明ができます。
    家系には厳然とした法則があります。
    家系から個人を離して尊重するだけでは、
    人間は決して幸せにはなれませんね。
    木自体、家系自体も枯れて行きます。






    『時』に従う秩序と、全体の中で自分を見ると云う事が大事です。


    これが、近代化以降の日本には、欠けています。
    秩序からも、全体からも、分離して行っているのです。
    これでは、繁栄するわけがありません。


    これに関しては、
    命の継承と運命シリーズの記事をお読みになってください。









    ③  仏教をはじめたくさんの宗教関係者がおられますが、
    高尚な方もお布施を集めることに必死で、
    市民を上から見てきたことが衰退につながっているような気がしています。  






    なるほど、その通りだと思います。
    市民を上から見ると云う事もそうでしょうが、
    もともとの釈迦仏法に末法と云う限界があって、
    力が衰退をすると云うその姿を現していると思う事もあります。






    ④  私はお坊さんが若くして結婚をして丸々と太って、
    バイクや車を乗り回している … という現実がどうしても解せません。
    一度しかない人生ならばそれもありかもしれませんが、
    口では輪廻転生を唱えつつ、ご自分の行動は … (・∇・)?
    と思ってしまうからです。
    けれど、本当に素晴らしいお坊さんが存在するのも事実です。  





    これも、その通りだと思います。
    よく、ご覧になっていらっしゃるのですね。
    実は、私も、ひとつ拘りがありまして、
    僧と云うからには、出世間というのですから、
    未婚でいるべきではないかと思う事もありました。
    仏教界においても、昔は厳しくて、全員がそうなのです。
    しかし、特に鎌倉仏教以降、
    大乗経では煩悩を、そのまま認めるようになりました。


    お坊さんと云えども、100人100色です。
    無意識界の因もさまざま、見かけでは分からないものです。
    今と云う皮相的な姿だけでは説明がつかない処がありますね。


    が、運命学から拝見いたしますとよく分ります。
    つまり、『時』をかけて観ると云う事ですね。
    『時』は、『天』そのものの運行です。
    つまりは、道理です。
    道理で観て行くと非常によく分ります。
    まず、子孫に現象が出て来ますから。
    一番、恐い事は跡を継がせたいと思う一人息子が、思うように育ちません。
    そして、子供は全員が女の子しか生まれないとか、
    その中のカワイイ末娘さんが、どうしても結婚をしないとか、
    お寺さんの家でも、まったく、在家の我々と同じ悩みをお持ちですよ。   
    それはその方の所業の因果応報として出て来る現象です。
    そのように『天』は公平、処置に間違いありませんから、  ほほっ。
    僧と云った処で分け隔てはありませんから、
    黙って見ておけばよろしいのです。   あはは。


    人は、その職業や地位といった『陽』の現象で見たらあきまへん!  あは!
    大事な事は、家庭、家族、家系です。
    全てはそこへ表われて来ますから。
    『天』の無意識からの伝言は、
    その人の家系の中へ、家族、身内の中へ、
    特にその人の孫の中へ現れます。
    これは、もう、誰でも誤魔化しようがありません!
    ご安心なさってください!       ほほっ。





    ○o。.。o○







    いままでの我々日本人を取り巻く幻想の世界、
    いかがでしたか?





    毎日が、意識(五感)を満足させる事に夢中で、
    キレイな物や美味しい物、楽しい物を手にする事に忙しくて!
    なかなか考えてみる事もなかったのではないでしょうか?




    これからは、地球を取り巻くマジカルミステリーツァー!   ほほっ。
    その探検にお連れしたいと思っています。     


        あはは。









    これからが、今回の記事の目的、
    ○o。.。o○ 我われを取り巻く最大の幻想の世界についてです。


    この『偽性』のベールを、剥がしましょう!




    相当長くなっていますので、もう少しご辛抱下さるか、
    何度かに分けて、ご訪問いただきお読みになってください!   ほっ。





    ◆  降りてゆく生き方 ”について、



    降りてゆく生き方 と云うのは、映画の題名です。



    映画は、武田鉄矢さんが出演をしている自主映画です。
    詳しくは、 ここ をクリックしてください!


    ほんとうの「生き方」を求めて と云う題で
    映画のコンセプトがそこに載っています。
    長い文章ですが、何回かに分けて是非読んでみてください。



    これを、今回取り上げましたのは、
    私がこのブログに書いている内容と恐ろしく内容が類似しているからです。
    特に、近代化以降の現代に噴出している問題点に気が付いて、
    具体的な行動を起こしている日本人たちがいる、と云う点に、
    少なからぬ驚きを感じたからです。


    これを、読む事によって、我々は、


    ○o。.。o○ 戦後最大の幻想に気が付く事ができるかも知れません! ほっ。   


    ○o。.。o○




    どうか、近代合理主義の『偽性』に気が付き、
    この楽と便利と進歩と云う表看板のキャッチコピー幻想から目覚めて、
    (大きな事を申し上げるようですが、)
    我われと、地球の運命を変える事につなげなければなりません。 ほほっ。





    映画のコンセプトから、少し、抜粋、引用します。





    第二次大戦後、日本人のみならず世界中の人々は、
    科学の進歩にこそ人類の明るい未来の希望があると考えていた。
    人間の科学技術は、もはやどんな問題でも解決できると、
    当時の人々は考えたことであろう。


    まさに「昇っていく時代」の象徴といえよう。
    ところが、アポロ計画による月着陸からほどなくして、
    ローマクラブが「成長の限界」を発表し(1972年)、
    このまま地球の環境破壊が進めば環境悪化と資源の枯渇によって
    人類は成長の限界に達する、と論じたのであった。



    人間の科学技術は、
    人間の輝かしい未来を保証するものではなく、
    環境破壊によって人類を滅亡へと誘うものになってしまっていたのである。



    そして、環境問題は、金融問題とならび、
    世界人類にとって大きなテーマとなっているのである。


    近代以前は、いまのようなグローバルな人間圏は存在せず、
    ローカルな人間圏がちらばって存在するだけだったのである。
    これが劇的に変化するのは、
    18世紀に始まった「産業革命」のときであった。


    産業革命に始まる科学技術の発展は、
    それまで生きることが精一杯だった人間が、
    それまで抑圧してきた「欲望」を解放するものとなった。


    時代は、近代へと入り、新しいユニットが生まれた。
    それが「国家」である。
    「国民国家」が成立するに至ったのだ。


    国民国家の台頭により、「領土は国家が所有するもの」となった。
    これが「地球は人類が所有するもの」という現代の人間の考え方の
    出発点といってよい。


    モノをどんどんつくり、豊かになれば必ず幸せになるはずだ。
    日本人の多くがそう信じていた。
    ひたすらにモノをつくろう。豊かになろう。消費をしよう。
    そういう「欲望」というものを基礎として、
    日本人は「右肩上がりの経済成長神話」を信仰するに至ったのである。
    経済成長していれば、必ず幸せになると、だれもが信じていたのだ。
    そして、その経済成長は、永遠に継続すると信じていたのだ。



    いや正確にいうならば、
    経済成長が永遠に継続すると「信じたかった」というべきかもしれない。



    戦後は、戦前の大家族主義から、
    消費を前提とした「都市型」の「核家族」が圧倒的に増えて、
    家族は、「生産共同体」から「消費共同体」へと変化した。


    日本は、経済のグローバル化を選択した時点で、
    経済というものを自国のコントロールから外してしまったのである。


    人間は、いまや、世界的に、
    マネーのもつこの魔力に屈したといってよい。


    そして、「カネで何でも買える」という人類の共同幻想が、
    幻想を超えて、いま正に制度として確立したのである。



    マネーはいまや、各国民国家に上位し、それを包含するもの、
    人間圏の根本原理たる地位を獲得したといえる。
    もっといえば、マネーが人間圏を「支配」している、ということである。


    つまり、マネーとは、
    人間にとっては「神」といってもよいようなポジションを獲得したのである。



    それが、経済のグローバリゼーションの本質であることを
    十分理解する必要がある。



    それまで日本的な組織やムラ社会にいた個人たちが、
    個人として世間の荒波に直接放り込まれるようになった。
    つまり、個人が全てのリスクを背負わされる社会が到来したのである。
    ここから「格差社会」が始まるのである。



    格差社会が始まったということは、
    それまでの日本社会におけるルールである「学歴主義」「終身雇用」と
    いったものが崩壊を始めることであった。
    役に立たない人間はリストラされ、
    大学を出ても就職ができないような状況となった。
    派遣業法も改正され、企業は自由に派遣会社から人を雇い、
    不要になればいつでも切ることができるようになった。
    人間は、ついに、企業の部品、モノといっていいところまで、堕ちたのである。


    日本人の多くは、国や行政がなんとかすべきだ、と考えている。

    しかし、日本政府が経済の統制を放棄し、
    グローバリゼーションへと舵をとった時点で、
    日本は国民国家の権能を放棄したのであるから、
    日本人は直接「世界」と向き合うほかないのである。



    それにもかかわらず、日本人は、
    「国や行政が何とかしてくれる神話・幻想」から逃れられずにいるのである。


    というよりも、
    国や行政しか、すがるものを思いつかないということなのかもしれない。


    国や行政に対する神話や幻想の消滅という事実を直視することは、
    個人にとってはあまりに辛いことなのかもしれない。
    日本人が、戦後いままでとってきた「生き方」「考え方」からすると、
    私たち個人を支えてくれるものは存在しない、というのが現実なのである。



    私たちは、戦後の経済至上主義、右肩上がり神話の中で、
    「お金」に全ての関心を奪われ、
    「いのち」というものの大切さをすっかり見失ってしまったのかもしれない。
    以上のとおり、
    日本人は、ミクロの視点において重大な危機に立たされている。


    それのみならず、マクロの視点からも、危機に立たされている。


    地球システムにおいて人間圏が膨張する中、
    地球温暖化問題や環境汚染の問題や食糧問題が発生しているのである。



    中国など新興国の工業化によって、
    食糧が今後確実に不足してくると言われている。



    2020年には、
    食糧不足と水不足が大きな問題になると言われているのである。



    食糧と水は、人間が生きて行く基礎をなす。
    これがなくては、生きていけないのである。
    2020年には、「生き甲斐が欲しい」「充実感が欲しい」などと
    悠長なことは言っていられなくなるだろう。


    その後、食糧不足と水不足の問題はさらに進み、
    カネがあっても食糧や水が買えないという事態が発生する。


    もしそうなってしまうならば、
    「カネで何でも買える」というマネーに対する共同幻想が崩壊し、
    貨幣制度が崩壊し、
    ついには資本主義が崩壊する可能性が高いのである。


    国民国家の上位にあった「グローバルマネー」という構成要素が、
    音を立てて消えていくのである。


    そのとき人々は、マネーというものは実態がなく、
    共同幻想に過ぎなかったことに気づくであろう。


    そして、そのときやってくるのは、
    「人間圏の消滅」という人間の生存に直結する危機なのである。
    そうやって、2050年ころには地球環境は最大の危機を迎え、
    宇宙学者や環境学者たちによれば、
    遅くとも今世紀中には人間圏は消滅するとされているのである。



    このように、地球システム的に日本人が置かれている立場をみると、
    将来に対して不安をもち、希望がないのは、
    むしろ自然な事といえるのである。

    では、もう未来には希望はないのだろうか?

                                   引用おわり






    これから先は 「ほんとうの生き方を求めて」 ← クリック!

    をご覧になってください。


    いま「常識」だと思っている事をもう一度疑ってみて下さい。
    これが、そのままどこまで通用するのか、疑ってみて下さい。
    本当に人間らしく生きる為に、今、何を変えるべきか、するべきか?

    これが私たちに課せられた未来への挑戦かも知れませんね。





    なんども繰り返し書く事なのですが、





    近代合理主義は、その意識中心で無意識を無いものとして扱っています。


    それは、どう云う事かと云いますと、


    『陰』の根を失った『陽』の世界(近代合理主義)は、その内実を失って、
    『偽性』そのものになっいるが故に、
    『実』そのもの・存在意義を失くして滅ぶ。




    実体がないものは、滅ぶ。


    と、云う事でした。




    皆さん!   安心してください。     ほっ。
    ウソは栄えません。
    『偽性』は、子を孕む事ができないのです。



    あっ、ウソをついて生きている方は、安心できない?  あは!
    じゃ、これからは、ウソをつかないで生きて行きましょう!  あはは。


    でも、この場合のウソは、心で、口で、嘘をつく事ではないのです。
       これは、自覚できる事ですが、


    『偽性』はウソの世界観の中でそれに気が付かないまま生きる事です。   
       これは、自覚がないままする事です。




    つまりは、
    近代合理主義の価値観を信じて、その幻想を信じて生きる。
    自然を排除した空間をおかしいとも思わず、
    これが、楽で便利だと、天国だ! と錯覚する事です。





    しかし、その上に、更に、
    今、近代合理主義のこの局面は、より深刻になっています。


    意識のお調子者は!  もっと悪さをしています。
    『陽』が『陽』を呼び、『偽性』が『偽性』を生んで、
    我々は、完全に幻想の世界に飲み込まれています。



    なんのことだか? 分らない?    あはは。




    最後に、卑近な例えでまとめましょう。


    ほんの少し前まで、大人は明日の空模様を知るには、
    家の外に出て、西の空を仰いで自分の目で確認をしていました。
    ラジオやテレビの天気予報を見ても、
    自分で、空を見上げて納得をしていたのです。
    自分の目で確かめたかったのですね。     ほほっ。
    昔の大人は、全員が天気予報官みたいなものでした。     ほっ。
    しかし、今の我われは、
    自分の目で見て明日の天気を知る、なんて事はしない、
    できないでしょう?
    理科で習った事が、実際の現場で使う能力が育っていないのですよ。


    だって、 いそがしいから、、、    ほほっ。
    テレビで見た方が早いじゃない!


    天気予報は、
    テレビで見るモノ、ネットから知識として知るものになっています。
    空を見上げるなんて、都会では窓も開けませんね。


    このように、我々は、身近な自然を断ち切って平気でいます。


    自分の五感(『陽』・意識)で確かめようともせず、
    今は、専門家と云う他人が作った情報を頼るようになっています。
    便利じゃない!


    もうすでに、我われは、自分の五感を信じるより、
    五感(意識)すら閉じて、機械を頼るようになっています。
    そして、何十億年も前から生きる為に培って来た能力をスポイルしています。

    何千年も、何万年も、かかって培った能力が、
    我々の命の中で、輝きを失って行っています。


    天気予報の能力だけではありません!
    体育座りをすると後方へ引っくり返る小学生や、
    水道の蛇口をひねる事ができない子供、
    人や物の気配を感じられない子供ばかりになっているそうです。
    この原因は、自然の中で虫捕りをする経験が少ないから、
    自分の意識で操作できない思い通りにならない物を捉える経験がない。
    ゲームは、どう云った処で、人間が作ったもの。
    人間の限界内のものです。
    つまり、人間が操作するように作られた物です。
    しかし、自由に飛ぶ虫は、人間が操作できません。   ほほっ。
    人間の意識外の動きに対応できないのですね。
    それを訓練してくれるのが、自然の中の虫捕りなのだそうです。
    自然の中では、小さくても、虫の方が上手!    あはは。
    自分より上手なものでしか、訓練はできないのです。
    自然を遠ざけた事で、こう云った能力が退化しているそうです。


    そう、まるで、絶滅危惧種の草木や虫たちのように、、、、、
    我々の命を支えて来た人間の能力が絶滅危惧種そのものなのです。


    こうして、



    『天』と『地』の間で、『人』として生きる調和点を見出す能力を失い、
    『天』と『地』の間の、道理が悟れない。


    自由と平等と、権利と義務、基本的人権と云う幻想を立ち上げ、
    『陽』の現象で身を固めた我われは、
    宇宙との調和とは? 
    首を傾げるばかりです、、、、、、、



    それは、もう、自然の中で生きていける命ではないと云う事です。
    我々自身が、絶滅危惧種になりつつあると云う事です。






    日本人そのものが、希少種になるのでしょうか!!!





    この宇宙の地球と云う星に生きていながら、
    宇宙、自然の摂理から、こぼれ落ちているのです。





    それに気が付かず、これらを楽と受け入れる我々の意識の歪みが集まって、


    ・・・・・・・・ これが、時代の傲慢性に通じています。





    我々が、自慢気に進歩をしたと思っている事を、
    我われを生み出した宇宙やこの地球や、自然は、


    どう思っているでしょう?


    我々、人類の祖先たちを自然の懐に入れて育んでくれたこれらの自然は、
    我々が、自然を隔離した便利な空間に住んで喜んでいる事を、


    どう思っているのでしょう?




    日本の、145年間の近代化の歴史の中で、
    我々はりっぱに近代化をした!
    先進国になった! と思っている事を、
    これらの自然の山々、森は、どう思っているでしょう?





    人間の進歩なんて大したものはないさ。
    自分達(大地)が、大揺れしたら、
    (山)が、マグマを吹きだせば、
    すべて木端微塵に壊れる物ばかりだろう、、、



    大雨が降って、山が水を持ちこたえられなくなれば、
    山もろとも、森もろとも、川を埋め、人の家を押し流してしまう、
    人間の近代化とは、所詮、押し流されるものさ!
    宇宙の小さな星よりも早く消えてしまう、そんなものにしか過ぎない、、、




    ----- これが、 平成25年10月11日(金)に発生した台風26号が、
    16日深夜、伊豆諸島付近を通過した時に起こした風水害でした。




    他人が作ったロジックの中にはめ込まれて、
    毎日あくせくと、大自然を遠くに、自分の背後に置いて、
    決して、自然を、 自分が生まれ出た処を、振り帰ろうともせずに、
    前に、前へ、進む事が良い事だと単純に思い込んで来た我々。


    しんぽ、シンポ、進歩とおまじないのように唱えながら、
    シンポしなければ、相手に敗けるからって、
    欲しがりません、勝つまでは、、、、、  
    まるで、戦時体制下のように、頑張って来たけれど、


    我々は、一体、本当にシンポしているのですか?       あはは。
    どこまで、進む予定ですか?      あはは。




    すると!    声が!


    大事な事は、便利と進歩だ! 目指すは楽だ!
    地球の資源を使い尽くすまで、進歩をしろ!  



    あぁ、そう云う第6天の魔王の声が聞こえるようです!      ほほっ。 






    そのうち、人間が何もしなくても
    目的地へ運転をして連れて行ってくれる車が溢れ、、、
    なにでもやってくれるロボットが◯種の神器とかになって、、、
    壊れたロボットが、粗大ごみに出される日も近いでしょう。


    子供は、若い頃に冷凍保存をした卵子を取り出して産む物です。
    出逢った事も無い男の精子を通販で送って貰い、
    一人暮らしの女も孤独に子供だけは作れるようになる、、、
    あ、これは、もう普通の事なのですね。


    その子が、その親の所業をどう運命的に背負って生れて来るのか、
    考えようともしないのです。


    運命学からは、恐さ以外の何物でもないのですよ! 
    また、詳しくは、いつか、機会があれば、、、



    そして、このままだと、
    不便な森の中で自然の摂理のままに生き抜いているおサルさんに、
    すべての点で、負けて行くでしょうね。
    苦であれ、楽であれ、自然のままにおサルさんらしく行き切る事が、
    どんなに自然に調和をしている事か!
    人間は、生き抜く能力においても、
    自然に生きると云う生物の目的に置いても、完敗です!


    永遠や精神はどこかに置いたまま、
    我々の肉体は物として、物質文明の坩堝と化すでしょう。
    角膜や足や手も、臓器もなんとか細胞で作り変えられて、
    100才と云っても、ピッカピッカの体の持ち主ばかりになるでしょう。


    目も良く見えて、歯も大丈夫! 臓器もピッカ、ピッカの体になれて、、、
    よかった!
    そして、100才以上で、その元気で、
    地球上に枯渇していく食料や水を、世界中の人と奪い合うのですか?
    高騰する食料や水を、どう手に入れるのですか?


    年金は、もっと高くしなければいけませんね!   あはは。
    そのお金はどこから持って来るのですか?
    あ、そうだ! 
    食料と水を奪い取って来る為のロボットを開発しなければいけませんね!
    企業の次なる製品開発は戦うロボット!   それだ!    ほっほっ。


    企業は、売れるものを作ろうとするのですね。
    地球の未来も、人間の進化も、まったく考えていないのです。
    目先のマネーだけが欲しいのです。


    ○o。.。o○ 


    ○o。.。o○ 



    これが、我々の真に望む夢? だったのでしょうか。。。

    もう遅すぎるくらい!



    でも、安心をして、、、、、
    自然は、見事に解決をするでしょう。




    これに対する自然が繰りだす解決方法は、


    自然剪定。


    本来の生の息吹に満ちていない枝から、枯れて行くはずです。





    どうか、お互いが、
    その時、自然剪定される枝にならないようにしたいものです。


    今日は、その為の、これから考えていただく為の入り口で、
    ほんの一つのヒントとしていただけたらと、、、 
    映画 「降りてゆく生き方」を紹介させていただきました。



    今までの進歩(上昇する生き方)では、我々地球★は、もう無理です。
    一人一人が、地球★を守る生き方を始めましょう。


    あなたにとって「降りてゆく生き方」とは?






    あなたの五感を喜ばす奇麗な心地よい便利なベールをちょっとつまんで、
    近代合理主義の幻想の天国から這い出てくださる事を祈っております。


    五感に心地よい楽な道から、
    苦に満ちた荊(いばら)の道の方へ歩み出して下さい。
    そこにこそ、無意識下で真の楽の応報へと転ずる因が積まれます。
    苦の出会いの中でこそ、陰徳は積まれるのです。
    よろしくお願いします。




    次の更新まで、良き日々を!



































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    テーマ : 文明・文化&思想
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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