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    コメントへのお返事 24.     科学信仰というお化け / 犬の幽霊 

    Category : 運命学と科学
    涸沢カールの紅葉(涸沢槍と獅子岩)

        中央左の尖がったのが、涸沢槍、その手前の小さな三角が獅子岩、
        右手が北穂高岳の南陵あたり、真ん中低くなった処が、涸沢のコル




                (どうぞ、写真をクリックしてください!)





    やれやれ!  この景色が見たくて!    
    無理やり過密スケジュールを押して涸沢へ来たのです!
    景色はお天気次第、、、ねばってみるものです、、、
                            昨年2013. 10. 2



    前回の記事で、穂高の山容は、
    170 - 180万年前の破局噴火の時の火山灰由来の穂高安山岩と呼ばれる
    溶結凝灰岩で形成されていると書きました。


    この噴火が、どれだけ大きかったかは、
    ----- 1914年(大正3年)の桜島噴火の約350倍、
    ----- 1990年(平成2年)の雲仙普賢岳の噴火の約3000倍、



    3000倍! 


    それだけの噴火の後に、
    膨大な火山砕屑物が堆積したものが、10万年! をかけて、


    10万年!



    2000m (2km)ほど隆起して形成されたのが穂高の山塊なのです。 



    2kmも隆起 !







    2kmも隆起した膨大な火山砕屑物の堆積は、
    なんども繰り返す氷期の氷に蔽(おお)われていました。
    氷期は、4万年から10万年の周期で起こったとされていますから、
    爆発から160~150万年の間に何度も繰り返しながら、
    その隆起した山塊が、
    氷河が溶けて流れ落ちる度ごとに削り取られてできたのが、
    この尖がった穂高の雄たる姿と、その渓谷(カール)の自然美です。



    今の穂高の山の形にほぼ削り取られたのは、
    一番最近の氷期の終りの時、
    それが、今からおよそ1万2千年ほど前の事だそうです。 


    一番最近の氷期の終りというのは、
    まだ最後の氷期が来て、終ったわけではない。と云う事です。
    つまり、現在は、その繰り返しの途中であって、
    氷期と氷期の間の、より温暖な時期である「間氷期」なのだそうです。
    多くの学者がそう考えております。
    少なくとも今の「間氷期」は、これから5万年は続くだろうと、、、




    あと5万年!    





    いずれ5万年後には、再び、地球規模で、
    世界に寒冷化をもたらす新しい氷期が始まるだろうと云う事です。



    これに関して、最新の情報を、、、 
    現在の地球温暖化と云う異常気象の原因は、
    co2排出等の人間活動にあると云う説明を、我々はほぼ信じています。
    しかし、その一方で、
    この寒冷期と間氷期の繰り返しのリズムにあると説明する学者もおり、
    そのどちらが正しいのか、
    この程、オーストリアとカナダの研究チームが調査解析をし、
    この結果は、今月14日付けの米科学雑誌サイエンスに発表されます。
    それによると、
    「小氷期」と呼ばれる寒冷な気候が終わった時期である
    1851~2010年の間の氷河減少は、自然変動の方が大きく、
    co2排出等の人間活動の影響は、25%であるが、
    1991~2010年の20年間に限っての氷河減少は、
    69%がco2排出等の人間活動が原因だったと云う事が解りました。
    つまり、1991年以降に進んだ氷河減少の原因の7割は、
    co2排出等の人間活動が原因の地球温暖化によるものでした。






    2014年と云う今は、
    地球が、そう云う歴史を歩んでいる途中なのです。





    その途中に我々は何をしているのだろう?





    地球が生れたのは、
    今、分っているのは46億年以前、です。
    地球を作っている材料は、宇宙の果てから集ったものです。
    地球が46億年以上もかけて仕込んだあらゆる資源を、
    我々は、後世の自分の孫や子の事も考えずに、
    18世紀後半からの産業革命、近代化以降、
    この46億年に比べたら、まばたき位の瞬間みたいな200年間に、
    地球資源を大量消費した事になります。
      



    近代化のもたらした大量生産、大量消費、
    これは、そのまま地球の資源の大量消費だったのです。





    温暖な気候を迎えた「間氷期」の地球に合わせて、
    ありとあらゆる生物が自分の生を営もうと生れて来ている時に、
    人間だけが、もっともっと快適な生活を! 
    もっと便利に!  科学技術の進歩はすばらしい!    あっは。 
    昔の王侯貴族よりも便利な機器に囲まれた生活の中で、
    際限なく自己の欲望の満足を求めて、
    その為に多くの生物を犠牲にし、絶滅させながら平気でいる。







    もっと、厳たる自然を見習いましょう。
    自然は、チマチマと計算なんかして、自己保存などしていません。 
     見事に!  自然そのものの力を体現して、壮大で、 
                      ダイナミックなのです。     ほっ。



    ほら、人間は、どこにいるのか捜してみてくださいな~?    ほほっ。


    キャンプ場


    この裏側に、あの上高地の大正池があるのですよ。



    午後の太陽光になって遠目に見ると、緑色は後退しています。
    「涸沢が燃えている」と言い表されるほどのナナカマドの紅葉が見事です。
















    今日の記事は、
    コメントへのお返事24.   科学信仰というお化け / 犬の幽霊 








    今日のコメントは、8月8日、一番直近にいただいたコメントです。
    夏にふさわしいご質問だったので、急遽予定した記事をやめて、  ほっ。
    コメントの中でお尋ねの幽霊とお化けの記事にする事にしました。



    ちょっと、むずかしい記事が続きますが、、、
    最後に、私の<幽霊>の体験を紹介致しましょう。    ほほっ。




    ご紹介するコメントは、長~いコメントで鍵が掛かっておりました。   ほっ。
    その中の一部分です。 公開をいたします。
    ご了承くださいね!     






     (甚だ愚問でありますが) 幽霊、所謂お化けについては
    どうお受け取りになっておりますか。
    科学の時代とは言え、こればかりは科学でも手に追えない分野だと
    思います。ご高見賜りたく存じます。





    いつも熱心にブログをお読みいただきまして、
    コメントをありがとうございます。
    今回は、夏らしいご質問をありがとうございます!   ほほっ。


    せっかくのご質問なのに、
    コメント中に、気になる箇所が2つあります。
    はなはだ失礼とは思いますが、指摘をさせていただきますね。
    気を悪くなさらないようにお願いします。    ほっ。
    過去、コメント欄でのお返事で指摘をさせていただいた事と、
    今回も同じ内容なので、お分かりの事と思いますが、、、


    その時、自分は合理主義的な処があると自覚していると、
    分っているとおっしゃっていましたね!       あはは。




    ■ 一つは、 (甚だ愚問でありますが) の処です。





    これに拘ってみましょう !    ほほっ。
    お化けや幽霊について語るのを、愚問と観るのは、
    現、近代合理主義社会の観点ですね。
    やっぱり、 癖ですね!     あはは。
    これは、世間の一部 ( 学問的思考 ) の人の価値観です。
    言い換えれば、近代合理主義の思考を身に付けてしまった人、
    方便としてわきまえていればいいものを、
    どう間違ったか、
    真面目な性格が、方便を本質として身に付けてしまったかな?
    大抵の人は、合理主義と云っても、曖昧のまま、
    お化けでも幽霊でも、おそらく愚問とは言わず、
    伝統的な受け容れ方でその存在を気味が悪いと思っているはずです。 


    私も、おそらくこの曖昧な方に入ります。         あはは。
    この曖昧のまま、と云うのが実は知恵なのですね。
    人間らしいとも言えると思います。
    人間自体が複雑怪奇です!?     ほほっ。
    人間の方が、恐いかも知れませんね!    あは。
    幽霊やお化けは、それを拡大したようなもの、
    単純に割り切るにはモッタイナイものなのでしょう。    
    余りにも近代知性で物事を割り切らない方がよろしいかと?   ほほっ。
    現実は、合理的に割り切るにはあまりにも複雑すぎます。


    コメントをお送り下さった方のように、  
    ここまで教育を受けますとこうなるのですよ、、、       ほっ。
    安岡記念館の方が、
    大学で学問をすると東洋学的な智恵が分らなくなるようです。
    とおっしゃっていました。  
    なんだか、隣の部屋へ通じる戸かな?
    と思って開ければ、そこは狭い押入れだった!   あはは。
    みたいなものですね。
    直ぐに壁があってどこへも行けない行き止まり。
    奥行きの無い『陰』を排除した思考の癖に染まってしまうのですね。
    隣の部屋と云うのが、絶対真理の世界と云う事なのでしょう。
    つまり、学問は無意識の世界を捨てていると云う比喩でございます。
    学者、評論家、知性を仕事にしている人の病気ですね!  あは。
    まだ、社会人ではなかったですね?
    一日も、早く! 曖昧な社会の濁流の中へ飛び込んで、
    近代知性の垢をこすって落とされた方がいいでしょう。  あはは。


     
    合理主義的な思考を客観視する視点(東洋智)をお持ち下さるように!
    それを、願っております。
    よろしくお願いします。



    確認しておきます。
    このブログにおいては、何事も愚問だなんてございませんよ。    
    ここが、このブログの肝心な点なのです。
    運命学とは、夫婦ゲンカから、家系の相談、結婚、離婚まで、
    何からなにまで扱っております。  ほっ。
    まして、
    幽霊とお化けは、無意識界を指し示すもの、死の世界を象徴するものです。
    非常に重要な、サイン、象徴でございます。
    東洋において、無意識界は非常に重要です。
    これは、お分かりですね?



    なぜなら、死は一大事、
    生れたからには次に来るのは死ですから、
    死は、未来です。
    自分の未来を、愚問であるとは?    これいかに?    あはは。
    間違いないのは、我々は将来、死にます。      
    生れる訳ではないのですから、、、
    死の準備をするのが、生きると云う事らしい?        あはは。
    近代合理主義の社会は、死を無視をして、
    訳のわからないまま、生の賛美ばかりをしています。
    生は賛美すべきもので、死は愚問だなんて?
    この近代合理主義の煙幕に騙されては、ダメです。




    愚問と云う言葉は、使用方法がむずかしいですね。
    何事も、自分の狭い了見で括らないように!
    特に、本で読んだ知識だけで仕上げてはダメです。
    仕上げは、社会の中の荒波を浴びて検証してください。
    まだ、全貌が分らない事はおごそかに、謙虚に扱いましょう。
    見えない無意識界や死を、分ったように言うのは軽率です。
    幽霊やお化けも、そうです。
    長く受け継がれて来た言葉は、力がありますね。
    それは、無意識界への、その糸口、参入への入り口だったから
    消えずに保たれて来たのだと思います。






    では、 まず、お尋ねの<お化け>から始めましょう。
    <お化け>もいろいろありますが、、
    ■ 今の地球上を被っている最大のお化けは、科学信仰ではないか
    と思っています。




    そうです!
    幽霊やお化けを胡散臭い非科学的だ、と言い、
    これらを語る事を愚問だと云うのが、科学信仰そのものですね。
    ひょっとして、科学を信心していますか?      ほっ。 





    <お化け>や<幽霊>と云うのは、
    今の合理主義の思想では、意識が分らないので排除をした世界です。
    それは、お分かりになりますね?


    例えれば、子供に質問をされた親が、それに答えられないから、
    --- そんな事どうでもいいんだよ。考える必要はないよ ---
    そう、いって誤魔化しているようなものです。       ほほっ。
    意識の無能を隠す為に、意識が広げた煙幕なのです。


    特に西欧においては、
    神を無視して人間の意識を神殿に祀り上げた訳ですから、
    いまさら、意識が分らないとは言えない。
    分らないと言わずに、無いと言う。
    学問的には、意識で解る世界だけが存在するのです。
    意識には掴めない幽霊やお化け、は存在しない。
    それが、意識のロジックなのです。
    かえって西欧の大学の方が、
    キリスト教理の神学研究や神秘主義の伝統がありますから、
    学問として認められているようですよ。


    学問的には、意識で解る世界だけが存在すると云うのは、
    一つのロジックで、虚構であると思います。
    実際の世界とは違います。
    神の桎梏を逃れる為に近代合理主義が決めた
    仮の取決めの約束の下にある方便です。
    ある意味、
    東洋的な無意識を目指す観点から観ますと、
    学問とは『偽性』の上に成り立っている虚構と言えるでしょう。
    つまり、学問、科学の真実とは、『時』に淘汰される情報でしかないのです。
    これは、後から、エピソードとして2つ紹介をします。
    だから、常に動いている物、
    新たにリニューアルされる必要があります。


    こういう事を、はっきりという私のブログの中ですから、   あっはは。
    絵空事の虚構の価値観に囚われる必要は全くありません。


    無意識界の事を尋ねる事は、決して愚問ではないのです。
    よろしいでしょうか?



    ■ もう一ヶ所、あります!      あはは。
    なにやら申し上げるのが気がひけますが、
    たぶんご自分でも気が付かれていないのでしょうね? 




    次の処です。


    こればかりは科学でも手に追えない分野だと、、、


    ああ、ここも合理主義的認識の匂いが、臭(くさ)いですね~!
    プンプン致します!          あはは。
    この言い方も、近代合理主義的な立ち位置から出ていますね。


    これを、そのまま解釈いたしますと、
    こればかりを除けば、科学は何でも大丈夫!
    幽霊とお化けを除けば、さすがの科学では、何でも大丈夫なのだけれど、
    と云う様なニュアンスになってしまいます。   あは。
      いかがでしょうか?


    お尋ね致します。
    科学は、お化けと幽霊以外の分野は、全て分っているのでしょうか?  


     あはは。





    結論から、申し上げますと、
    幽霊とお化けどころか、
    科学にとって手に追えない分野は、この世に山積みですわ。 ほほっ。
    ただ、この自覚がないのは、
    意識と云うのは、一つの事しか意識できない。    あはは。
    意識にとって一つの事が分った瞬間、
    意識の中では、他の分らない事が消えてしまうのですね。   ほほっ。


    何故かというと、
    意識は、五感と云うルーペの丸の中だけを認識する訳ですから、
    ルーペの枠から外れたものは見えない。
    又、違うものを二重に三重にだぶらせて意識、認識が不可能なのです。
    そうでしょう?
    ただし、音楽を聞きながら、食事をするとか、
    一方を意識せずに流して置くような事はできます。
    ~ながら、ですね。
    同時に、2つ以上の事を集中する事は不可能でしょう。
    集中して本当に美味しいと思った瞬間は、音楽は消えているはずです。
    いわゆる、うわの空状態です。    ほほっ。
    だから、意識にはうっかりと、失敗が付きまとう訳です。  あはは。
    御菓子を食べながら、これは甘いなあ~と味わうと同時に、
    感動をして涙を流すとか、
    と、同時に腹を立てて怒鳴りつづけるとか、 無理なのです。
    感動する時には、喜びだけが溢れ、哀しみで一杯になるのです。
    意識の器を満たすものは、常に一つなのです。



    一つを選ぶと云う事は、他を捨てると云う事です。
    いわゆる、漏れが出て来ると云う事です。
    意識は常に、漏れを作りながら先鋭化します。
    これによって、培われるのが専門性です。
    それと、専門以外はほとんど知らないと云うバカが、  ああっは。
    専門バカのできあがりですね。スポーツ馬鹿、理系バカ、などなど、、、ほっ。



    これなどは、
    『陽』の特徴である、分ける、分化、消滅そのものですね。



    これと同時に、
    科学の意識のルーペでは、物質しか見えないのです。
    また、科学は、見る事ができる「物」しか相手にしません。
    意識の欠点は、見えない物は見えないと言えばいいのですが、 
    見えないものは無い。 と取りあえずしてしまい、
    実験証明が出来ていない物は、あるとは言わない。
    STAP細胞でも、この事が問題になりました。
    これは、繰り返し書いてきた近代合理主義の欠点です。
    今、量子物理学等、そうは云っていられないようになって来ていますが、
    まだまだ、この壁は乗り越えらえないでしょう。
    それ故に、
    科学は物の世界の追及になってしまいます。
    そこから生み出すものは、物ばかり!    ほほっ。
    科学が進めば進むほど、物質文明が進んでいきます。
    石油からプラスティック! ゴミだらけです。    ほっ。


    科学は、人間を、心がない物体として扱いますね。
    つまり、近代合理主義下では、人間は物扱いです。
    いわゆる計測できる物として合理の対象となります。


    いわゆる、二元論における物質の相手側である精神、心ですが、
    心に関しては、科学が幾ら進んでも分らないままです。
    科学者ほど、人間の気持ちが分るのでしょうか?     
    これは、まったく逆の傾向があるような気がしますが、、、 あは。



    合理主義下では、
    意識が、合理で掴む事ができない物は胡散臭いものとして、
    科学的ではないと云う処理をされるわけです。


    科学的存在物 ----- こう云う言い方があるのかどうか、
    幽霊やお化けは科学的存在物にはなれない訳ですね。


    科学的存在物になれないからといって、
    お化けや幽霊の全存在を信じる事を愚かであるとか、全否定する事は、
    普通の人間には少なからぬ抵抗があるのではないでしょうか、、、



    流れのついでに申し上げますと、
    科学は、見えない物を切って捨てて物の合理に徹していますから、
    それで正常な人間にフラストレーションがない訳がないのです。
    現に、見えない世界を想像したり、憧れる能力が、
    人間には具わっているのですから、、、
    そうなれば、
    科学の説明だけで満足しない想像力の豊かな
    人間の意識のキャパが向かったのが、
    この科学で切って捨てられた見えない世界です。


    見えない世界を、この人間の意識で確認しようとしたのが、
    スプリチュアルの世界です。
    西洋二元論の physical (肉体な、物質的に) に対応する語、
    spiritual (精神上の、精神的な )と云う形容詞が使われていますね。


    意識に見えない世界を、
    意識が見える諸現象を通して、
    意識の言葉で、見えない世界の事を説明するものです。



    この   部分が、東洋的なものとは違います。
    意識では無意識界を捉えられません。
    ですから、スピリチュアルは、
    意識で捉えた現象を説明をすると云う処までで終ります。
    そこが、限界なのですね。

    それ自体は、意識のキャパで為したものですから、『陽』の産物です。
    どうりで! 
    合理主義の言葉で説明した処で矛盾はありませんね。      






    まとめます。
    ・ 科学が、想像、推測でしか掴めない見えない世界を切って捨て、
    合理に徹した世界は、物の世界です。
    大きく言いますと宇宙、小さく言いますと、分子レベルの物の世界です。
    そう云った物の世界に偏った世界観の科学には、
    この宇宙、この世界を正しく掴むと云う事は、ドダイ無理なのです! 


    ・ 科学が捨てた部分を二元論内で、埋めようとしているのが
    スピリチュアルの必然性であり、役割なのでしょう。
    なぜなら、双方とも意識の範疇のものだからです。 


     いかがでしょうか?   ほほっ。


    このように、
    科学で分らない事は、膨大にありますね。
    このように科学を俯瞰できる観点は、東洋的観点です。
    どうか、科学に毒されない為にも、
    東洋的叡智を身に付けられる事をおすすめしますわ。


    繰り返しましょう。
    意識界を俯瞰できる観点は、無意識界を包摂する東洋だけです。
    科学は意識のルーペ、あるいは額縁と云ってもいいもので、
    囲われた内側だけを対象にしています。
    原則、それは、「物」だけです。
    見える物、触れる物、聞こえる物、、、、


    意識にとって無意識界の事は、分らないから、
    科学的には存在しないと決めた訳です。
    これは、一つの理(ことわり)ですね。
    これも、東洋的な観点からの視方です。

    科学信仰とは、
    この一つの理の中へ全てが網羅されていると信じる事です。


    以前に書いたと思いますが、
    無意識界を東京ドームの空間に例えますと、
    そこに浮かぶ空中のチリ、ホコリ一つ分が意識のテリトリ、
    つまり、意識の額縁の中になります。


    おぉ!  、なんと微小な空間だろうか!       
    狭すぎて閉所恐怖症になりそうですわ。      あはは。




    意識の情報の出入り口は五感です。 





    意識の欠点は、五感を通して入って来る環境に振り回される事です。
    科学は、その意識の額縁で囲った部分を合理にする道具です。
    科学は、額縁の中から合理だけを拾います。
    科学は、額縁の中から感情や憶測、想像等を切り捨てます。
    科学は、意識が五感で掴める「物」だけを対象にします。
    つまり、
    科学が知っているのは、額縁の中の、しかも合理にした「物」だけです。
    ゆえに、科学は、額縁から漏れた世界は分りません。




    科学から漏れた世界とは、無意識界だけでなく、
    『陽』の現象界の現象であっても、五感、意識が、見落とした「物」も含み、
    意識しない物は見落としますから、それらも含みます。     ほほっ。
    先ほどのスピリチュアルな世界も含みます。






    それだけの膨大な世界を漏らしているのが、科学の世界です。




    故に、
    科学は、この宇宙のすべてを見ている、解っている訳ではありませんのよ。
    到底、幽霊やお化けと云う目で見えない世界の事には手が出ない。
    他にも、もろもろ科学が手を出さないものは膨大にありますわ。 ほっ。



    幽霊やお化けどころか、
    その奥、無意識界の真理には、触る事もできませんし、
    生死、生まれる前の死、これからの死、まったく手が出ないのです。



    科学と云うものは、道具でしかありません。
    一つの鋭利な刃物、
    それが人類に役立つかどうか、今の処分かりません。
    便利だと思った科学の進歩も、地球の犠牲の上に立っている、、、
    それを考えると、 まっさか!
    まるで、神の如く捧げ持つ必要はないのですよ。       ほほっ。
    まして、我々の生きる背骨脊髄に、
    科学的合理主義を取り込むなんぞ、おかしいのです。
    どうか、お気を付けあそばせ!        ほほっ。




    しかし、科学信仰は、我々の中で根強いですね。


    一般的な常識になってしまった科学的知識を、何の吟味もせずに
    我々は、受け入れてしまっています。
    科学的な知識だから、間違いない、、、と、  ほほっ。
    しかし、正直に言いますと、
    めんどうくさいからいい加減に受け入れているのですよね。  あはは。
    本当に正しいかどうかさえ分からないまま、、、
    でも、その思い込みを放置したままにしていますと、
    いかに我々は、真っ赤なウソの脆弱な土台の上に立つ事になるのか、
    思い知らされた非常に面白いエピソードを、
    2題、ご紹介しましょう。
       


    高校の生物を思いだしてください。    あはは。
    今日は、記事があっちこっちに飛んで、しかもムズカシイわね。
    申しわけありません!





    『種の起源』で、有名なダーウィンの進化論です。
    簡単に云いますと、自然淘汰説。 適者生存説と謂われるものです。
    我々が、人間として進化をして来た、その方法は、
    ある種個体の突然変異から始まって、
    それが、生存する為に他より優位性を持っていれば競争に勝ち残り、
    その生存競争に敗れたものは、死滅するというのです。
    これが、ダーウィニズムの本質です。


    我々は、そう習い、覚えて来ました。
    しかし、、、です。
    科学とは、それを証明する物が無ければいけないのです。
    事件の犯人探しと同じで、物的証拠がなければそれは認められないのです。
    でも、
    ダーウィンの自然淘汰説、適者生存説を証明する化石等の証拠物は、
    何もないのだそうです。。。発見されていない現状です。
    それでも、我々は、教科書でそう教えられ、
    ダーウィンの進化論を正しいと信じていますよね。
    これが、現代科学の怪なのです。


    実際は、イギリスの経済学者のマルサスが、
    著書『人口論』で述べた人間社会の現象を、
    ダーウィンが生物社会に援用して取り入れただけとか、
    それにしたって、我々にそれは、間違いだったと云う訂正はされていません。



    それと、もうひとつ、
    すべての道はローマに通ずると云うローマ帝国ではないですが、
    これも西欧らしい!
    全ての学問や哲学は西洋を中心に発達をしていると、   あはは。
    ヒトがサルから進化をしたと云う進化論については、
    神がアダムとイヴを作ったと云うキリスト教義に、
    そぐわないからと科学者からも批判が出ていたそうです。   あはは。
    又、人間の起源は欧州にこそあるはずだと、     あはは。
    当時の欧州の専門家の間では、そう考えるのが定説で、
    *化石の証拠も丁度あった為に、
    現生人類の祖先がアフリカ人だったと発見をしたレイモン・ダートの論文は
    学会の学者連中から非難轟々が出て、
    ダートは、それから30年間、化石人類学会から追放をされます。
    しかし、その30年後、例の*化石の証拠は偽造だった事が分り、
    ダートの名誉は回復します。
    が、その30年間、科学の説明を信じて
    世界中の人々は、
    人類の起源は、ヨーロッパだと思って来たのでした。。 。  あはは。





    これらのエピソードから分る事は、
    科学と云うものは、人間臭いと云う事です。
    決して、高邁な真理や、普遍性を持ったものとは思えない。
    ああ、ただ、そう云う方向性へ憧れてはいるのでしょうね。   あはは。
    意識の願望です。
    神になれない、意識の俗物っぽい本質ですね。   あはは。



    現在でも、真偽半々のそう云う定説に、どれだけ我々が囚われているか、
    恐ろしい気が致します。
    いつも
    意識『陽』は、その本質は『偽性』と何度も申し上げて来ました。
    科学とて、本質は同様です。
    これは、科学者の人間性を言っているのではありません。
    いかに真摯に、物事の真理へ観察と計量と検証によって向かおうとする
    科学的態度があったにせよです。
    人間の意識を通して為す物である限り、『偽性』を免れないという事です。



    意識の特徴を吟味して、掛からなければいけませんね。
    意識は自分が、する事、した事を、良く正しいとしか言いません。
    その原理は、『陽』・意識界は、競争、闘争が本質だからです。
    意識は勝ちたいのです!
    勝つと云う事は本質ではありませんから、現象に過ぎません。
    その現象に、正義を求めるのも、可笑しなものですが、
    常に意識は、正義になりたがり、勝ちたいのですよ!  あはは。
    ここが、権力と結びつく要因だと思います。


    そもそも、意識の云う正義とは?
    『陰』を無視した『陽』・現象界においては、
    絶対性を排除したのですから、絶対の正はありません。
    絶対性を排除した近代合理主義社会に置いては、
    正しい事とは上位の意識が決めます。
    上位の意識とは権力者、あらゆる意味での権力保持者です。
    民主主義では、多数の者が正と思えば、それが正なのです。
    政治なら、多数派を占めた党派が、決めたものが正です。
    つまり、それは、意識の競争において、最上位に位した意識の都合です。   
    それが、その時の正らしきロジックになるのですね。   あはっ。
    お分かりになりますね?


    それは、言い換えれば、
    より上位の意識が、下部の意識を騙すのです。
    この『陽』の本質を、噛みしめておく事は一番大事な事です。  ほほっ。



    つまり、この危険性に科学の成果は晒されています。



    つまり、科学は時の権力者に逆らう事はできないのです。
    ここも、科学が持つ中立性というよりか、
    中に具わった『偽性』と言えるでしょうね。


    合理主義を振りかざす上位の意識が、
    自分の威信を守る為に、
    -------- それが続くと喜ぶ人や、得になる人がいるからですが、
    意識が打ち捨てた物や、(無意識界など意識にとって面倒なもの)
    合理や科学で解明ができない物に、
    貼るのが、うさんくさい、愚問、と云うレッテルなのです。



    これは、一つの社会通念の圧力の一つですね。
    いろいろな社会通念の圧力の中から、
    それが、なにを守って、そうさせているのか?
    よく考えてみる事ですね。
    見抜く目を持たなければいけません。
    繰り返しますが、
    そうしなければ、あなたの知性は俗っぽいままで終わります。
    レッテルをレッテルと見抜く鋭い目を持つ事です。


    科学信仰のお化けの匂いの元を退治なさってくださいね!  


    もしか、あなたが東洋に魅かれるのであるならば、
    科学信仰の匂いのする意識の額縁から飛び出て、
    この広大無辺な東洋の空間に躍り出る事です。
    そうすれば、科学のなんとちっぽけな事、
    意識の世界だけで自己満足をしている人間の愚かさに
    気が付かれる事でしょう。
    まず、東洋の大前提を咀嚼してください。
    そうしなければ、あなたは自分で作った迷路に入り込みますよ。
    それは、合理主義的解釈の疑似東洋の迷路です。
    お気を付けあそばせ!






    ◇ さあ、次は、ご質問の幽霊についてです。


    これらは、あれこれ言葉で説明するよりも、
    私の体験を紹介します。
    と云うのは、中に書いてありますが、
    幽霊と云うのは、誰もが見る、遇う事はないようです。   ほほっ。
    私がそうだから、あなたも、だれでもと云う訳にはいかないようです。
    それで、これから書きます体験から、
    どうか、ご察しいただければと思います。     ほほっ。


    少し長くなりますが、なるべく克明に書きます。
    我慢をしてお読みになってください。






    たしか、私が小学校2、3年生の夏休みでした。
    もう、はるか昔、   ほほっ。
    幽霊やお化けに、何の先入観も知識も無かった頃の体験です。
    それ故、母と私が忘れもせず正確に覚えている事なのです。


    夏の夜の8時、就寝の直前の事です。
    私は、母親が敷いてくれた布団の上に横たわり、
    母親は、当時は蚊帳を使っておりましたので、
    布団の上に広げた蚊帳を吊るために
    部屋の4隅に蚊帳の金具を掛けたりしていました。
    蚊帳が、私のまわりに丁度吊るされて、部屋の電灯が消されて、
    母親が、おやすみ!と言って部屋を出て行こうとした時です。


    枕に頭をおいた私の視線のむこう、
    薄暗い前方、ちょうど足元の蚊帳の上のあたり、白いものが見えました。
    それが、何であるのか考える暇も無く、
    ( じ~っと見て、なんだろう? と思案する間もなく )
    母親が耳にしたのは、私が、
    「シロ! シロよ! シロがいる!」 と云う声だったそうで、
    ( シロは、真っ白なメス犬の名前です。 )
    それは私が実際に、思わず口にした言葉でした。
    母親は、驚いて蚊帳の裾をめくり中に入って来て、
    「どこに? シロはいるの?」 とたずねます。
    私は、薄暗い前方の蚊帳の上に見えるボーっと白い影から目を離さずに、
    腕を上げて、「そこ、そこに、シロよ!」と指さしながら、
    母親が繰り返し幾度も、何も見えない。としか言わないので、
    母親に分ってもらいたくて強情に叫んでいたようなのです。


    A.しかし、その時の私の意識はおもしろい事に、しっかりとしていて、
    母親に「シロが!」と言いながら、
    どこかで、どうしてあの白い影がシロなんだろう?って  ほほっ。
    いぶかしげに思っていたのですよ。   あはは。



    B.そして、ある一方では、あれはシロ! と確信しているのです。
    それはどうしてかと云いますと、今考えると不思議なのですが、
    どうしてシロと思ったのか?
    思ったのではないのですね!
    思わせられたと云う方がその状況に合っていますね。
    何に思わせられたのか? と云う事ですが、
    その白いものを見た瞬間の電撃のような阿吽の呼吸が、
    私にシロと言わせた! 言ってしまった感じがしますね。
    強いて言えば、その白いものから来る優しい波長、
    おとなしそうな、悲しそうな柔らかい白いものの存在が、
    私が、実際のシロと云う犬に抱いていた感触を思い起こさせて
    目で見る姿を越えて、結び付いたとしか言いようがありませんね。
    それで、シロと云う名前を呼んでしまったとしか思えないのですね。
    私は、目が釘付けになってボーっと白く見える影に囚われていた
    と云った方がいいでしょうか、



    シロが見える!と言う私を信用しようとしても、母親にすれば、
    私の指さす方を、いくら確認しても見えない訳ですから、
    おまけに、私が指さしていたのは蚊帳の上方です。
    そんな処に、犬が虫のように止まっていられるはずもなく、 あは!
    妙な事をいうなぁ、と思ったと言っていましたね。
    私の記憶では、
    私のその言動に、母が動揺をしているようすだったのを憶えています。
    そのうち、私の目の前から、その白いものは消えて行きました。
    私が静かになったのに気が付いた母親は、最後に、
    私に、とどめを指すように、こう言って部屋を出て行きました。
    「シロは病気なんだから、ここには来れないのよ。」
    私は、ボーッとした白い影の後を見つめて黙っていました。


    それはそうです!
    シロは近所の小谷さんという家の犬で、数日前に散歩の時に、
    野良犬に腹部を噛まれて大ケガをして大変な事になっていたのです。
    それで、小谷さんの家族と、
    我が家の家族が心配をしていた状態だったのです。
    本当にみんなで心配をしていました。
    前日、シロのお見舞いに母親と小谷さんの家へ行った時には、
    横になって寝たシロの腹部の傷から膿と血が出ていました。
    これじゃ、もう治らないかも知れないね。
    今のように、獣医院が町にあるわけではなく、
    小谷さんが諦めたように言った言葉が心に刺さったまま、
    母親と一緒に自宅へ帰って来たのでした。
    シロが来たと大騒ぎをした夜は、その翌日の夜ですから、
    とても歩ける状態ではないし、しかも夜来る訳がない。
    母は、そう判断をしたそうです。
    しかも母には、目の前にシロが見えなかったのです。
    その現象が、見える人と見えない人がいると云う事です。
    母親にすれば、オカシイのは私です。
    何を勘違いしてオカシな子だ位に思って、戸を閉めて、
    母親が部屋を出て行った、次の瞬間です!


    玄関をドンドン! 人が叩いています。
    そのまま、母親が出て行って、話す声が聞こえてきました。
    シロの飼い主の小谷さんのおばさんが、ハアハア息を切らして、
    「今、シロが、死んだよ。それで、、、」 と、
    玄関で話しているのが聞こえます。
    その時の母が返した言葉が、、、
    「あっ! そうなの!
    やっぱり、 今、(私の名前)が、シロが来ているって言ってね。
    蚊帳の処に見えるって、どうしてもシロが、来ているって言ってたのよ。
    きっと、シロが自分が死んだのを(私の名前)に知らせに来てくれたんだね!」


    その時の私には、この言葉の内容すべては、理解できるはずもなく、
    ただ、自分の中で驚愕! したのは、
    シロの姿が見えないとあれほど言っていた母親が、
    この中では、スーッとシロが来たんだと認めた事でした!
    いったい、これはどう云う事なんだ?
    見える世界と、見えない世界が、同時にあると云う事実、
    見えないと言いながら存在するものが、あるんだと云う不思議さ、
    人は、見えなくても納得する事ができると云う母親の言動、
    なにもかもが不思議なものとして、深く心に刻み付けてしまったのですね。



    犬のシロが、自分が死んだって私に知らせに来たんだ、、、って、
    そんな証拠、どこにあるの?
    母は、シロは来ていないって言ってたじゃない、、、 
    どうして? 
    えっ! ひょっとすると私だけが見た、、、白いものが?
    シロだと思ったけど、本当にシロだったのかなあ、、、?
    その程度の理解ですね。        あはは。


    しかし、その白い残像をきっちりと思い出せば、
    間違いなくやさしい悲しそうなシロの感触が湧きあがって来るのです。
    あれが、幽霊? おそろしい幽霊なの?     あはっは。
    とても、そう云う風には思えなかったのですよ。
    でも、よくよく考えると、
    少し胸がドキドキ鳴るような、
    命が死んだら知らせに来るのか? -----
    命とは、死後も続いているものなのか? -----
    母の云うように、あれは本当にシロだったのか? -----
    これらは、何度も何度も、くりかえした問いでしたね。


    この事については、興味本位に、誰にも話す事はありませんでした。
    それほど重大な事に受け止めていたのです。
    母にも秘密にして言わなかった事がありました。     あはは。
    ボーッと白い影には、頭と思われる最上部に、
    白い三角の形が付いていたのですね!
    その当時は、その三角の意味は分らなかったのです。    ほほっ。
    その白いものが、何なのか?
    その残影とこの疑問をず~っと抱きながら、
    あれって、幽霊じゃないのかも知れないとか、
    シロが来たのだとすると、三角の白いものを何故付けていたの?
    とか、いろいろ疑って、、、        ああっは。
    何も見えなかったと言う母親には、言っても仕方がない。
    、、、、と自然と忘れていったのですね。


    小谷さんの家と我が家の親密関係は、
    我が家の敷地を養鶏場を営む小谷さんの家へお貸ししていたのです。
    シロと我が家の関係は、我が家にはシロの子供がおりました。
    そう云う濃厚な関係が小谷家と我が家にはあって、
    小谷さんは、毎日、養鶏場に来るたびに、
    我が家が貰ったシロの産んだ子犬を見に来る。
    そして、養鶏場で産みたての卵を我が家へ置いていってくれる。
    我が家も、飼い犬の母親であるシロを心配したり、お見舞いに行ったり、
    夜でもシロが死んだと走って知らせに来ると云うのが、
    自然な心の発露としてできるお付き合いがあったのです。
    小谷さんの家から我が家までは、走って5分もかからない位でした。
    ちょうど私が、シロが見えると母に言っていた時から、
    小谷さんが知らせに来た間が、5,6分位のものでした。


    これは、シロが自分の死を知らせに来ると云う事が本当にある事なのか、
    後から随分考えて時間的には納得しました。   ほほっ。


    それが、その後、
    新たな驚きと共に、この経験を深く真剣に考えてみようと思ったのは、
    次の事に出逢ってからです。
    数年が経って、私が中学生の頃、
    子供ながら身近なお葬式に参列を致しました。
    棺桶の中の故人とお別れをするのは、生れて初めてでした。
    その時に、本当に驚いたのは、
    棺桶の中の死出の支度をされた死者の頭の三角の布です!
    もう、静かにお別れをしている人の列の中で、
    あっ! と声をあげそうになる位、おどろいた!
    あの時、夜に見たボーッと白いものが頭に付けていた三角は、これだった!?
    ----------  これで、やっとすべてが腑に落ちたのです。
    やはり、あの夜の母の言葉の通りなのかも知れないと思いました。
    自分の死を知らせに来た犬のシロの幽霊は、
    たしかに頭に、人間と同じ三角の白い形を付けていましたから!   
    そう、解った時には、もう、笑いたくなりましたよ。    あはは。  
    死んだ犬の幽霊までが、三角の布を付けているなんて、  
    あれは、立派な幽霊だったのです。
    犬のくせに、なんと云う正式な幽霊になって!     あはは。



    それで、自分が体験をした一部始終と、
    あの夜の母親の言葉が、すべて納得できた訳です。
    調べてみると、
    額につける三角は、紙冠、宝冠、カミエボシ、マンジヌノ等と云うらしく、
    その由来は、冠の一種、死者の顔をおおう「顔かくし」の変形とも。
    白は清純無垢を意味し、
    死者の魂の浄化や死のケガレを払うとか、
    白装束の「白」には葬式だけではなく、花嫁の白無垢のように、
    「新たな再生」という意味が含まれているのです。
    これは、私独自の考えですが、
    三角と云う形は、ピラミッドの三角と同じですね。
    あるパワーを秘めた形、形と云うのは、重要です。
    また、3と云う数字、天人地の三才の3と同じです。
    数字も大事です。


    ・ 犬の幽霊が人間と同じ三角の死者のしるしを付けていた。
    これは、自分の中で未だに大きなどよめきが起こる程、感心しています。
    命の生死の次元では、人も犬も同じなのだと云う事です。


    ・ まさか! 小谷のおばさんが、死後、直ぐに、三角の布を
    死んだシロに付けてやったとは思えません!     ほほっ。
    でも、私の処へ来た時には、ちゃんと付けていたわ。     あはは。
    実際に死者の頭に飾らなくても、幽霊に付いていたと云う事は、
    あの世で身に付けたのですね。     あはは。
    これはもう、腰が引けてしまう位、恐ろしい、不思議な事なのです。


    ・ 誰にでも見える事ではないようです。       
    母親には見えなかったけれど、私には見えました。


    ・ シロと直ぐに分った!
    死者とのコミュニケーションは、意識で考えると云うようなものではなく、
    姿形と云う目で見える意識を越えた処の伝達方法なのです。
    よ~く考えると、不思議な気持に襲われますね。
    時間と物理的な物がないのですね。
    阿吽で伝わるようです。


    A.の部分は、意識・私の実際の目が捉えた幽霊の感想なのです。
    あれは、犬に見えないけど、、、って冷静に観察していたのですね。
    ここが、単なる幻想とは違うと思っています。
    後から頭に残った残影を思い出して、いろいろ考えてみたら、   
    どう考えても、犬と思うしっぽがあるわけでもなく、
    メス犬とも女の人とも見えないボーッとした白い影でした。
    全体は小さいのですが、白い胸像のような、
    下の方は切れてしまって見えなかったのです。
    たしかに足は無かった!       あはは。
    頭である最上部が尖がっている?  あの三角は?
    何なのだろう? とずっと疑問でした。
    それが、どうしてシロって分ったのだろう、、、って
    私自身に対する疑問でした。


    B.の部分は、A.の意識の認識とは別に、
    私の無意識へ伝わって、その伝わったものが、
    犬のシロの無意識と結びついて了解した事なのですね。
    見た目には違うのだけれども、シロだと確信させるものだったのです。 


    このAとBの論争が、ずっと私の胸の中でありました。
    それを明解に決着させられたのは、大人になってから、
    東洋学から入った無意識界の世界の存在です。 
     

     



    幽霊の体験は、以上のようなものです。    ほほっ。




    これ以来、幽霊は身近になって、Well come! ですね。     ほほっ。
    いつでも、だれでも出ていらっしゃい! みたいになっております。    
    大人になってからの体験もありますが、
    幼い私が、既成概念を持たずに出会った初めての幽霊と云う意味で、
    今、思い出しても、やっぱりシロは来ていたんだ。
    それなら、もっとやさしく名前を呼んでやれば良かった、、、
    幽霊とはいえ、恐ろしさよりもいとおしさが込み上げて来ます。



    感動の新鮮さと、シロと云う犬の幽霊のやさしさが、秀逸なので、
    今回、ご紹介をいたしました。        ほっ。




    幽霊、お化けは、『陰』の世界から覗いた処で、肉体は伴っていません。
    しかし、働き(用法)としたら存在すると思っています。
    『陽』の究極・科学が捉えられる最低の物質、分子構造がないのですね。
    ですから、本来は、『陽』の現象界には現象化しない。
    しかし、分子構造より違った、もっと微小の粒子、リズムのようなもの、
    かすかに捉えられる光のような存在になっているのかも知れません。
    間違いないのは、無意識で我々とつながっている一体のものです。


    ですから、科学のキャパを越えるものなのです。
    『陽』の世界の科学にとっては無いのも当然でしょう。
    見えないのです。
    触れないのです。測れないのです。        ほほっ。
    科学は自分のキャパを越える事柄に関して、
    在る、ない を明言する力はありませんね。
    解らない、理解不能であると、
    謙虚に下がっていればよろしいのです。   ほほっ。
    それが、科学の用法としての限界だと思います。



    科学が、思い上がって無理やり説明すると、不自然な言葉が並びます。
    感覚遮断性幻覚や、身体の限界状態で見る幻覚や、
    入眠時や極端な睡眠不足に起こる幻覚とか、  あはは。
    はたまた薬物による幻覚であるとか、、、   あはは。
    こう云う言葉の羅列は、自然をムリムリねじ曲げ、
    科学の狭い額縁の中へ押し込めようとする意識中心から出て来る傲慢さ、
    意識がこの世界を支配しようとする欲、専横さを感じます。


    私の経験を克明に書きましたのは、ここと区別をする為です。





    私は、この空間には、酸素や窒素で出来ている空気だけでなく、
    科学的分子レベルの物質だけではなく、
    太陽光だけでなく、
    溢れる程の【何か】が詰まっている、と思っています。
    いろいろなものです。
    今、あなたの耳の傍、目の前、頭の上、あらゆるところに、
    ギュウギュウに溢れる程の【何か】が詰まっている、と思っています。
    それについて詳しくは記事にはできません。
    意識の作った文字で書いていいものなのか?
    その疑問が解決できていないからです。



    この空間は、空気や光や放射線や電磁波が飛んでいるだけではない。
    もっと、密度の濃いもの、
    意識だけを道具とする科学では捉えられない存在が、
    この宇宙には、溢れていると思っています。
    我々の肌に触れる、この空間は、
    ただ、風が通っている空間などではありません。
    お化けもいっぱい!
    幽霊もいっぱい!          あはは。


    よろしいでしょうか?
    夏向きに、少し涼しい気持ちになったでしょうか?     あはは。 




    科学が云う事だけを信じて生きる事だけはお止めください。
    今日の記事の教訓は、その事でございます。


    人間のこと、宇宙の事、お化けの事、
    死について、何を訊ねても、愚問にはなりません。
    愚問と見下ろす権威の高みこそが、愚かなのです。


    この高みを作ったのは、お馬鹿とサル、
    ほら! 高い所に登るのが好きな、、、     あはは。
    権威は、間違いなく『陽』の現象界の産物でございます。
    そこには、本質も真実のかけらもない。    ぺっぺっ!




    長い記事を最後までお読みいただきまして、
    感謝申し上げます。


    お疲れ様でございました!    あはは。


    次の更新まで、
    あなたの時を抱きしめて!  お過ごしください。
































    参考資料 :  背信の科学者たち  講談社   著者 ウイリアム・ブロード

    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    寂光ーcosmos

    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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