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    ☆  東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 2. 「妊」の喪失

    Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
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         2017. 新年あけましておめでとうございます   
         2017   注連縄




    丁酉(ひのとのとり)年、本年もどうぞよろしくお願いします。

    昨年は、年間を通して只の一回もブログ記事の更新ができないまま、
    一年間のブランクと云う
    今までで最長の記録を更新してしまいました。


    訪問していただくみなさまには、その間、
    昨年の元旦の記事の写真(富士の初冠雪 )を
    いつも見続けていただくと云う事になってしまい、、、、、
    (なんだか昨年も同じような事を書いた様な気がします。) ほほっ。
    昨年一年間、ご訪問いただきました事に深く感謝申し上げます。 
    ありがとうございました。


    あっと云う間の一年間は、
    鑑定の仕事やその他、あれやこれやの雑務で、
    てんてこ舞いの365日の日常ではありましたが、
    書きたい事は無意識の淵から溢れ続けて来ていました。

    それが、あの、、、それを文字化しようとすると消えてしまう。
    いつものアレです。


    これに関しては、
    あの、、、 前々回の記事
    〔近代化の奈落 5.〕  
    我々の中の東洋的世界観の崩壊から来る  混乱



    の冒頭に書いた現象、あの繰り返しです。





    この犯人はとっくに分かっています。
    私の無意識層に沈殿した東洋的無意識です。


    そう、
    私が、長年、心酔して無意識層に蓄えて来た東洋的無意識です。





    キーボードを叩き出すと

      今、何を考えていたのかしら?   

    頭の中が真っ黒な闇に包まれて分らなくなってしまう、、、、、
    この原因は、
    私が綴る文章が、まだまだ近代合理主義の臭いがする為に、
    東洋的無意識から立ち昇って来る便りを文字で綴れないのだと、
    そう思わせられるものでした。

    逆に、書こうと云う意識を捨てると、闇の中から便りはやって来る。



    この繰り返しです。
    文章にしようとすると、パッと消える、、、    


    何もかもが消えて無くなった真っ暗闇の奥から
    湧き上がって来るエネルギーが
    頭上から、体内から、シャワーになって意識に振りかかって来ます。
    それを言葉にできない私の意識は、
    ただウロウロしている状態で、途方にくれてしまうのでした。


    この事から、
    薄々は感じていたのですが、
    生まれてこのかた全身で浴び続けて来た時代の思潮である
    近代合理主義よりも
    私の無意識層に深く沈殿している東洋的無意識の方が、
    私の存在へ強い影響を与えていると云う現実を自覚させられました。





    そうして一年が経ってしまったようです。




    サリンジャーに出会って ---------ーーー-----★




    そうして出会った本がありました。


    Salinger 」 と云う本です。


    デイヴィッド・シールズとシェーン・サレルノ共著の「 サリンジャー 」


    サリンジャーと云っても、お分りにならなければ、
    ライ麦畑でつかまえて 』 の著者と云えばどうでしょうか?

    1951年に発表され、原題を (The Catcher in the Rye) と云う
    彼の作品は、過去に世界中で6500万分も読まれています。
    現在でも毎年50万部が売れているそうです。

    当のサリンジャーは、
    91歳で6年前に、2010年に、すでに亡くなっています。

    サリンジャーは1965年から亡くなるまでの45年間、
    彼は、近代合理主義渦巻く世間から離れて静かに生き、
    作品を一篇も発表していません。 



    Salinger 」 は、その彼の評伝になります。




    45年間、作品を書かなかった。と云う理由が、
    もしか簡単な動機だったのなら、
    わざわざ著者たちが、彼を生前から研究の対象にして
    死後、評伝を書く事はなかっただろうと、
    私の無意識の力と通底するものがあるような気がしていました。


    デイヴィッド・シールズとシェーン・サレルノ共著者は、
    サリンジャーの生前から取材を初めて10年間、
    200人を超える関係者からの声を集めて
    なぜ?  小説を書かなくなったのか?
    この謎を解こうと調査をしました。


    その結果、分ったのは、
    サリンジャーが東洋哲学に触れていたと云う事。

    う~ん、やっぱり、と云う感じがしました。

    そして、サリンジャーがインドのヴェーダーンタ哲学に
    岡倉天心とともに没頭していた事が書かれてありました。
    その思想を通じて鈴木大拙とも親しかったと云う事も。

    そして、最後に、この共著者たちは、
    なぜ、サリンジャーが小説を書かなかったのか?
    それを次のように結論付けています。

    サリンジャーの中で高次な「東洋」が目覚め始めた時、
    彼が育って来た中で身に付けた様式では、
    「物語」は紡がれなくなったと云うのです。


    なるほど、やはりそうだった。

    彼が育って来た中で身に付けた様式とは、
    西洋の世界観に違いなかったはずです。
    その意識中心の西洋思潮の中で大いに問題になる事柄も、
    一旦、東洋的世界観を取り入れてしまえば、
    それはもはや問題ではなくなるのです。


    いわゆる、
    幼いころから彼の中に取り込まれて来たキリス教的世界観と
    青年期から学んで身に付けた近代的思考で
    この世界を理解していたものが、
    ある日、
    それらにとって代わった高次な「東洋」の世界観によって
    すべて解決されて跡形もなく消え去ってしまい、
    近代的思考の小説を書く必要がなくなった。
    近代的思考が問題とするものが氷解してしまったのでしょう。



    これを読んだ時、
    やっぱりそうだったのだ、、、
    東洋を知って自分の意識が東洋そのものになれば
    この近代合理主義のロジックなどはガラクタにしか見えず、
    それで東洋を書こうとしても書けない事を思い知ったはずです。

    読む前から分っていた! 直感していた通りだったのです。




    サリンジャーの東洋とは、

    ★↓
    東洋 *
    釈迦の初期仏教に影響を与えたバラモン教の経典『ヴェーダ』が説く
    宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、
    我々の個体の本質であるアートマン(我)とは本来は同一であると云う
    我即宇宙と云う世界観です。


    それに対して、


    西洋 *
    キリスト教世界観は世界を2つに分けてしまう2元論です。
    神と人間、
    自然と人間、
    あらゆる存在はバラバラに単一に存在すると云う世界観です。


    人が神への信仰を貫いても絶対的に神には成れないように
    神と人の間に絶対的な距離をおく2元論的世界が生む西洋の言葉で、

    あらゆるものは一つであるとする東洋の秩序は書けないのです。





    無意識からの声が聞こえたようでした!


    真実は言葉には宿らないんだよ! 

    東洋の無意識を、
    理論で表現しようなんて、スプーンで海をすくうつもりなのかい?


    そもそも、時代の灰汁で作ったような近代合理主義のボロ袋に
    東洋の無意識を入れようって云う魂胆がおかしいんだよ!






    言葉については叉何時か記事にしようと思います。





    今日の記事は、
    東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる  
                        2. 「妊」の喪失





    「妊」の喪失?

    「妊」と云う字は女の腹部がふくらみ、はらむ意です。

    喪失するとは、子供を孕(はら)むのを喪失する。

    女が子を孕まなくなる。



    前回、近代合理主義は片目である。と書きました。
    これは分かりやすかったでしょう。

    『陰』無意識界の存在を否定して、
    『陽』意識できる世界だけが存在すると云う世界観を持つのが
    近代合理主義でした。

    近代合理主義は、
    この森羅万象の宇宙の実体を片目でしか見ていない。



    それが、今回は、、、「妊」の喪失?
    どうも、近代合理主義は五体満足ではないようなのです。


     


    近代合理主義は、目で確かめられない物はうさんくさいとし、
    うさんくさい事は虚偽とし、存在を認めません。
    要は意識で認められる対象だけを相手にするわけです。


    ここで重要なのは、
    近代合理主義が相手にしないものの中には、
    我々の命の根源が含まれていると云う事です。


    これが、最大の欠点です。


    ついでに申し上げれば、
    人間の運も近代合理主義は相手にしていません。



    そして、
    相手にした存在を証明するには実験、実証に拠って合理を求めます。
    たしかに、合理とは科学的処方かも知れませんが、
    たとえればそれは、
    人間の意識が見える部屋の中と云う仕切られた空間での事、
    目で見える実証実験可能な卑小な空間に限られています。


    そもそもが真実や本質の存在は理論的存在ではない。
    真実は理論では語れません。


    理論は、意識にとっての道具だからです。




    合理を追求する近代合理主義には、
    今現在と云う時空に縛られたツタナイ理論からこぼれ落ちる本質を
    見損なっているのに気が付かないのです。

    合理を追求する近代合理主義は、
    理の階段を登って本質を追っているつもりでも、
    逆に理の階段が視界を邪魔してしまい
    本質をおおいかくしてしまっているのに気が付いていない。

    我々からーーーーー 在るべき然るべき命を奪っている、、、



    これが、近代合理主義の本質、相貌(そうみょう)なのです、、、





    さぁ、深刻になり過ぎましたので、  ほほっ。
    今日は、お正月らしく、
    どこかで微笑ましく、気取らない話題へ、    




    注連縄の形 ----------------------★





    みなさんも御存知の昔からある<しめなわ>について
    東洋的無意識層からの表出としての<しめなわ>をご紹介します。

    冒頭の<しめなわ>の写真をご覧になっていただけましたね?



    まず、<しめなわ>の由来について、
    一番有名なのは、
    日本神話から、その昔、天照大神が天の岩戸にお隠れになってから、
    出て来た際に、再び天の岩戸に入らないように、
    しめ縄で天岩戸を塞いだと云う神話です。
    その時のしめ縄は、どんな形だったのか?は、
    特に書かれていませんが、
    注連縄の原型のような形はでき上がっていたのではないでしょうか。
    その時の<しめなわ>の形は、
    今の装飾的に変化をしたものよりも
    人々の無意識からの表出としての意味を付託して形作られた
    直截的で原始的な象徴の形であったはずです。




    <しめなわ>の形はなに? ーーーーーーーーーーーーーーーー★




    答は、もう、知っているよ~ 
    と云う方もいらっしゃるかも知れません。
    答を知ったら驚いたり、へぇ~とどこかでニンマリ笑ったり、 あはは。
    これからは、
    民俗学の吉野先生の代表作から紹介させていただきたいと思います。



    出雲大社や伊勢神宮の形に通じる横長の<しめなわ>の形ですが、


    何に見えますか?




    <しめなわ>の形は、二匹の絡み合う蛇だった。

    二匹の絡み合う蛇の姿はオスとメスの蛇が交尾しているところだった。





    これについての学問的知見は、民俗学の学者である吉野裕子著
     「隠された神々」 古代信仰と陰陽五行  より、
    吉野裕子先生のアニミズムと題する
    安田喜憲(国際日本文化研究センター名誉教授)の解説文から
    抜粋させていただきたいと思います。


    ⇒⇒ 抜粋のはじまり 
     
    「 安田さん 注連縄(しめなわ)は蛇よ!」
    この吉野裕子先生の一言によって、私の研究者としての人生は
    おおきく変った。
    地中海文明研究の途上、
    二匹の蛇が絡み合った彫像や絵画が、古代ギリシャ・ローマ文明の
    遺跡でいたるところでみられるのが、いつも気になっていた。
    「なぜこんなものを飾るのか。二匹の蛇にはどんな意味があるのか」
    ずっと気にしていた。
    それが聖なるものとして崇められたのは交尾の時間が長い為だった。
    ーーー その姿は豊饒のシンボルだったのである。

    そして蛇は脱皮する。
    それは生まれ変わる生命の再生と循環のシンボルだった

    日本人の魂の根幹を形成するものは蛇であり、
    その共通した世界観は太平洋の向こう側のマヤ文明にもある。
    そんな事を吉野先生はすでに1970年代に指摘されていたのである。
    「ああそうか、
    私がトルコやギリシャさらにはシリアやレバノンでみたあの2匹の絡み合う蛇は、しめ縄と同じ豊饒のシンボル、
    再生と循環のシンボルだったのか。
    これまで、まったく異質の文明と思っていた古代の地中海文明も、
    日本人と同じ世界観、アニミズムの世界観、多神教の世界観を持って
    いたのか」

    「しかし、現在の地中海世界を席巻しているのは
    一神教のイスラム教のモスクであり、キリスト教の教会ではないか」。

    「古代地中海の多神教の世界はどこに、なぜ消えたのか。
    なぜ古代地中海のアニミズムの世界・多神教の世界は、
    イスラム教やキリスト教のモスクや教会にとって代わられたのか」

    ーーー 私は震える手でキリスト教文明の闇を告発する
    『大地母神の時代』(角川選書)を書いたことを、
    昨日のことのように思い出す。

    ーーー 多くの民族祭祀は豊饒の祭りごとである。
    豊饒の儀礼は性の営みであり、そこでは生命を誕生させる女性が
    もっとも大きな役割を果たしたはずである。
    しかも、ながらく稲作漁撈文明の母権性の伝統のもとにあった日本に
    おいては、民俗の祭祀は女性原理と密接不可分にかかわっていた。
    そこには、女性の感覚でしか理解できないものが、
    山のように隠されているのである。
    にもかかわらずに、
    明治以降の欧米のキリスト教の父権主義のもとに育った近代的民俗
    学を導入することにやっきになった日本の学界では、そうした女性の
    視点をまったく軽視した。
    民俗学の中から女性の性や妖艶さを取り除く事が科学的であるとさえ
    考えていた。
    柳田国男や折口信夫の民俗学は男の世界の民俗学であり、
    女性の世界を欠如していた。
    しかし日本文明の根幹には女性原理が深くかかわっているのである。

    日本文明の原点である縄文時代の土偶は、99%は妊婦である。
    縄文の社会は、生命を誕生させる女性中心の社会であった。
    つづく稲作漁撈社会も、女性中心の社会である。
     
    ⇒⇒ 抜粋おわり



    学問的内容が分かりやすく書かれています。
    いかがでしたでしょうか?


    国際日本文化研究センターの安田喜憲名誉教授の次の言葉を
    もう一度、繰り返して確認をします。

    「しかし、現在の地中海世界を席巻しているのは
    一神教のイスラム教のモスクであり、キリスト教の教会ではないか」。


    「古代地中海の多神教の世界はどこに、なぜ消えたのか。
    なぜ古代地中海のアニミズムの世界・多神教の世界は、
    イスラム教やキリスト教のモスクや教会にとって代わられたのか」。



    私は震える手でキリスト教文明の闇を告発する『大地母神の時代』
    (角川選書)を書いたことを、昨日の事のように思い出す。



    ーーーーーー

    一番上の現在の地中海世界 と云う処を
    現在の地球上 と言い換えると、



    「しかし、現在の地球上を席巻しているのは
    一神教のイスラム教のモスクであり、キリスト教の教会ではないか」。






    現在の日本を席巻しているのは東洋的世界観ではなく、
    一神教のキリスト教世界観を基盤の持つ近代合理主義ではないか。




    そして、日本を取り巻く世界中は、
    まさに一神教の
    ユダヤ教、キリスト教、イスラムと云う同じ神を仰ぐ兄弟宗教による
    宗教対立から宗教の宗派対立によってもたらされるテロの脅威に
    さらされています。




    過ってのヨーロッパでは
    キリスト教を国教とするローマ帝国が
    ヘレニズムの多神教の豊饒のシンボル、再生と循環のシンボルを
    打ち壊して以来、キリスト教文明の闇そのものが続いています。
    それ以来、西洋文明の根幹はキリスト教理の世界観です。


    ≫≫≫≫≫≫≫≫≫ これを打ち破るのは東洋しかできないのです。
    東洋から哲学者よ、思想家よ、出て来い!     


    ほほっ。





    東洋的なエネルギー転換は智恵そのものです。ーーーーーーーー★







    安田喜憲(国際日本文化研究センター名誉教授)の解説文から
    ⇒⇒ 抜粋の中の 


    ーーー 私は震える手でキリスト教文明の闇を告発する
    『大地母神の時代』(角川選書)を書いたことを、
    昨日のことのように思い出す。


    キリスト教文明の闇、、、
    何がキリスト教文明の闇なのか?


    一言でいえば、西洋文明には智恵がない。
    世界観にエネルギー転換が説かれていないのです。


    これを説明するには、2元論に戻らなければなりません。

    キリスト教理の世界観は簡単に云うと、、、すべては、バラバラ。
    神と人間がバラバラ、   人間は神が造ったもの、
    神と自然がバラバラ、   自然は悪魔が住む所、
    自然と人間がバラバラ、  自然は人間が支配する(物)


    神が頂点に存在して、
    その下に神に作られた人間がいて、
    その下には地球上のあらゆるものが(物)として存在します。


    これでは、互いの尊い関係性が生れて来ない。
    キリスト教自体が、神自身が、
    自分が創造した存在相互の円熟した関係性を説いていない。


    神、人間、自然の存在相互の円熟した関係性がないから、
    相互互換性のエネルギー転換がないのです。
    お互いを生かされない。
    お互いを潰し合うのです。  
    この智恵のなさ!
    これじゃ、我欲の為に他の存在を侵略し、収奪し、搾取するしかない。



    あぁ、智恵がないからです。



    智恵とは、すべてを救うと云う事です。





    確認のために繰り返します。


    神、人間、自然、のそれぞれのバラバラの存在を説明する事は、
    知識でしかありません。

    西洋文明における神、人間、自然において、
    その相互の存在間には、智恵の関係がありません。



    なぜなら、神、人間、自然と云う存在相互の関係性、
    強いて言うならば、
    相互で互換するエネルギー転換が説かれていないからです。





    つまり、
    人間が幾ら信仰をしたとしても人間は決して神には成れず、
    死後天国に行けるかどうかは、信仰に拠ります。
    アメリカ大陸に移民したイギリスのピューリタン(清教徒)達は、
    自分達の純粋な信仰で死後天国へ行けるのかどうか、
    その証拠を、生きている内の成功と云う姿に見ていました。
    自分が死後天国に行けるのなら事業で成功するはずだと、
    これが、アメリカンドリームの原型です。
    やはり、、物質至上主義の臭いがします。   ほほっ。


    神がこの世界を作ったにもかかわらず
    自然は悪魔の住む所なのだから、
    自然はあくまでも、一方的に人間に支配される(物)である。
    と云う思想自体が、
    自然を開拓して事業を起こす事を促進したはずです。


    自然をこんなふうに扱えば、
    支配欲から自然(物)を開発する事はうまくなるでしょうが、
    自然(物)の奪い合いが始まるに決まっています。


    それが、経済、資本主義ですか?


    東洋の云う 「経世済民」 とは?どう云う意味だったのですか?




    西洋はさように、東洋と比べる程のものではございません。
    それなのに、我々はどこかで東洋を低く感じている、、、

    それは、我々が東洋自体を余りにも知らなさ過ぎるからです。



    ★★★★★
    東洋の世界観は円満であり完結をしています。
    そして、永遠性を秘めたエネルギー転換が説かれています。

    つまり、人間が仏に成る方途が説かれてあり、
    自然も人間も仏までもが全てはひとつであるとする秩序は、


    智恵そのものなのです。



    宇宙のすべての存在に、石ころにも、木切れにも命の存在を認め、
    その命はひとつの大海原から生れた波のしずくのように、
    最後は、大海原に戻って行く一つの存在だと説きます。


    その一つ一つの存在には仏性が秘められていて、
    誰もが仏に成れると説いています。

    石さえも、草さえも、一本の藁さえもです。



    東洋の、、、この全て根本は一つに統一されているとする秩序は、
    理論ではなく、達観した智恵そのものなのです。




    智恵(屋根の上)に到達するには知識(はしご)が必要ですが、
    知識は(はしご)手段です、、、知識が目的ではないのです。





    子どもはどうして生れて来るのかをいくら説明しても、
    子どもが生まれて来る訳はないのです。


    子どもはどうして生まれて来るのかを説明できなくても
    子どもが生まれてくるのは溢れる智恵の秩序がそうさせるのです。




    安っぽい物質文明で明け暮れる今の少子化の日本を見れば、
    知識と智恵と、
    そのどちらが欠けているのか、お分りでしょう?



    キリスト教理の世界観の中に収まっている近代合理主義に
    その近代合理主義の土台の上に築かれた学問に説明ができるのは、
    人間の意識で捉えられる世界だけです。


    つまり、目で見える世界、意識が覚知できる世界に限られています。


    意識が象(かたど)った学問などは、
    意識の額縁で象(かたど)られた宇宙のほんの片々に過ぎない。



    その宇宙のほんの片々に過ぎない学問的知識だけを信じて、
    科学的でないものをうさんくさいと馬鹿にする事に馴れた
    近代国家、先進国の日本に住む我々は、
    ついつい、しめ縄の原意を作った縄文人たちを
    馬鹿にしそうになりませんか?

    無邪気だったのよ!   あはは。
    なんだか、低俗。
    恥ずかしい、、、
    な~んて。



    見えないものを無視をして、(物)ばかりの豊かさを集めて、
    見てくれの心地よさだけを集めて、
    どこかで、見えない命の豊かさが分からなくなっていませんか?


    アニミズム的発想を原始的で、どこか幼稚な認識と思ったり、
    科学が説明できない領域を胡散臭いと思っていませんか?


    P.Cやスマホのアプリのマニュアルならいざ知らず、
    女が子を孕み、産んで子に恵まれると云う事は、
    その胡散臭い領域の自然の力の仕業なのですから、
    馬鹿にしてはダメです。
    馬鹿にするから、その力が退化して来るのです。

    つまり、、、、「妊」の衰退
    「妊」の喪失、
    不妊です。


    ほほっ。



    アニミズム的発想から --------ーーー-------★






    命と云うものは、命の豊饒を求めて生きようとしています。




    命の豊饒
    これは、決して、現在の近代合理主義によってもたらされた
    このゴミのような物の豊かさではないのです。


    キリスト教理の2元論で、
    精神と物質を真っ2つにぶった切った世界観の中で実現している
    物質文明のゆたかさではないのですよっ。




    原初の人間にとって自覚された不思議な力、
    その人間の意識『陽』が支配しようとしてもできない力が、
    見えない力が、
    大自然の中に在るっ。
    動植物や無生物の岩にでもあるって。

    それが、それぞれの容(かたち)にも溢れ出ていて、
    まさに、その容にも力があり、
    それこそが自然であると、
    自然の力とは、人間の欲望が無理やり強いる力ではなく、
    そんな人間の欲望とは無関係に、
    生物に、植物に、天体に、星々に、草や、生物を育てる光、
    風や、雲や、雨や、大地の地震、川の氾濫、山火事、諸処の現象が、
    自分の体だって自分の意識とは無関係に反応する、
    いわゆる、宇宙中に諸所の現象が表われて来る。
    その現象を引き起こす力。


    その力が、自分の体の中にもある。


    何か分からないけれど力が存在する。


    力が ! 



    原初の人間にとって、
    その力を畏敬する意識と云うものが強く意識されていたはずです。


    縄文人が、
    人間の意志で抗し難い大自然に対して、
    そう云うアニミズム的発想を持つようになると云うのも頷けます。



    日本においても、奈良時代、大和の三輪山は、
    現代人の認識、
    土や岩石でできた只の「物質」としての山ではなく、
    蛇が髑髏を巻いたその容から命を再生する神聖な山と云うより、
    その存在自体が、神そのものだったのです。


    蛇は、男根の象徴、生殖のシンボルだったのです。
    自然界の植生が循環する自然森、
    自然林そのものが、やはり神だったのです。



    それを真似てと云うか、
    大正9年に創建された明治神宮の森は、
    初めに植林をされてから、
    その後、人間の手を一切加えない、肥料も剪定も加えず、
    原生の森を作り上げるように考えられていたのだそうです。
    自然の植生の中で生きる植物や虫や鳥たちの生態系の中にこそ
    自然力の発現があるはずであると、それそのものが神の仕業であると
    当時明治神宮の森を任された学者たちは、考えたようです。




    あらゆる自然の万物には、
    人為で犯す事のできない霊魂(アニマ )が夫々宿っているとして、
    それらの発現する諸現象の力を尊んで、
    これを、そのまま◯◯神、◇◇神と畏れ敬ったのが、
    日本の古来神道だったのではないかと。



    つまり、根源の力を神と謂ったのではなく、
    人間の力が及んでいない働きに、それぞれの神の名を付けて、
    その力によって現象化した存在そのものを神と言ったのです。

    水の神、火の神、木の神、海の神、山の神、などなど、、、

    その同じ力が、人間に人間をもたらす、女に子供を孕ませ産ませる。
    生命の再生が女を通して実現される。
    原始の人間は、
    その力がいつも人間にとって幸いであるように願ったはずです。
    それが、数々の土偶が妊婦である理由なのでしょう。


    この原始の人々の直感は、間違いでも、愚かでも、拙くもないのです。
    逆に我々が自然を見るのに拙いのです。
    ほら、都会に林立するビルが邪魔になって、
    その原野だった頃の自然の力を肌で感じられなくなっているのを
    不自然とも思っていないのですから。



    (物)に惑って、見えない力を感じられなくなっています。






    仏法に受け継がれているアニミズム ------------★




    その証拠に、

    東洋においては、
    サリンジャーの中に高次な「東洋」を目覚めさせたインドの
    ヴェーダーンタ哲学から脈々とつながるこのアニミズム的発想の
    世界観は、時代を通して人々の智恵を経由して、
    東洋のゆるぎない血脈として受け継がれています。



    どこに?


    仏教の最高の法である法華経に至って、
    詳しく緻密に整理されたものが、
    一念三千(いちねんさんぜん)の法門 として明かされています。
    法華経は、前半の迹門と後半の本門に分けられるのですが、
    まず、迹門において、
    これら宇宙の森羅万象の現象の働きを諸天善神と配しています。
    そして、本門においては、その現象果の根源の力を仏として、
    その仏を中心とした宇宙の壮大な成住壊空(じょう じゅう え くう)の
    姿と、永遠の生命観が説かれているように思います。



    その縄文の頃に芽生えた森羅万象の本質への覚醒は、
    このように仏教の中に昇華しています。
    その本質において、方向性は見誤ってはいないのです。
    と云うことは、原始の人達の直感は正しかったという事でしょう。
    その証拠は、大地震のたびに目に見えない自然の威力を感じる
    我々の中にも在ります。



    ちょっとここで法華経の事を書いたついでですから、
    仏教上の厳密な事を申し上げておきましょう。
    この釈迦が説いた法華経には、
    その仏は誰なのか、どう云う名前の仏なのか、明かされていません。
    釈迦自身も自分がその仏とは言っていないのです。
    この事が分かるには、一切経を読破しなければ無理のようです。
    たまたま、遣隋使や遣唐使になって仏教を学びに行ったとしても、
    釈迦が説いた初めの頃の経典だけを読んで、
    The 仏教が分かった! と自らが宗派を開いたとしても
    浅い認識で純真な信徒を迷妄の淵へ引きずり込んだだけです。
    これが、釈迦を本尊とするあらゆる宗派を生む原因にもなり、
    本尊に対する無知から起る低俗性を招いているのだと思います。


    ★★


    もうひとつ付け加えておきます。

    仏教は、一凡夫(人)を仏の高みまで到達させるのが目的ですが、
    釈迦の目指す処が高すぎて、
    当時のインドの民衆たちが釈迦の云う通りに
    一挙に到達できない困難性をカバーする為に、
    釈迦は初めの導入部のステップをゆるやかにして少づつステップアップできるような説法の方法を取りました。
    ある意味、一つの方法論として譬え話し、嘘までついています。
    脅かしたり、苦しみを味あわせたり、渇仰させたりと、 あはは。
    説法の中の一部がそうである場合どころか、
    その経自体が、全編ウソ(方便)で貫かれている場合もあります。
    しかも、
    40年間以上も真実を言わなかった! と、、、    ほほっ。
    釈迦が、無量義経説法品で、
    「四十余年未顕真実」という言葉で告白しています。
    これがウソも方便と云われる所以ですが、
    真実へ至るウソであるならば、有用なのである、と云う事なのでしょう。
    こうして、仏教経典は実にスリリングで開明的、
    最後まで飽きさせない真実へのあらゆるメソッドを用いています。
    それは、近代合理主義における証明のような
    A=B, B=C だから A=C と云うような平面的な解説ではなく、
    常に、
    前ステージでの思い込みを破棄させながら次への展開へと云うような
    重層的な世界が次々へ啓かれる開法が用いられています。
    分かりやすく言うと、まず最初には、
    貧しくも愚かな我々であっても開けるに易いAの扉を提示します。
    誰もが開けられるその扉の奥には二つの部屋が用意されています。
    その二つの部屋を相対比較して勝れた部屋を選択した場合、
    その部屋の奥には、更に奥へ進むBの扉が用意されています。
    初めて扉を開ける時には思いもしなかった部屋に来ている。と云う
    具合いにです。
    ある意味、ミステリーツァーのような?    あはは。

    しかし、それは真に仏法を求める者には喜びだったはずです。
    そして、優劣の選択の結果、Cの扉を開けた者は、
    法華経の部屋にたどり着くのですが、
    そこにはまた、二つの部屋があって、
    そこが、迹門と本門の二つの部屋です。
    仏法を学んだ智恵の直感に導かれて本門の部屋へ入ったならば、
    実は、本門の部屋には更に奥の部屋に至る最後のDの扉があって、
    その最後の扉の奥は、文底独一本門の部屋として開かれます。
    そここそが、仏が無明(何も分からない迷いの凡夫)の我々を連れて行きたい目的の場所です。


    これは、一切経(あらゆる仏典)を隅から隅まで読まなければ見通せない事のようです。
    そこまでのチャレンジをしないまま、AやBやCやDの扉の前で止めてしまっては最後の部屋には到達できません。
    現実的には、Bの扉で止まったのが上座部仏教(小乗教)、
    CやDで止まったのが仏教の各宗派として開宗されたと云うのが
    現代における仏教界の現実です。





    近代合理主義が無視をし排して止まない領域 --------★





    ★にもどりましょう。



    縄文人が、覚知しようとしたもの、

    これは、一体なになのか?
    これこそが、
    近代合理主義が無視をする、排して止まない領域なのです。

    普段,
    我々が当たり前のように暮らしている『陽』の現象界、
    近代科学の技術を以って便利で安全だと信じている空間、
    この近代合理の人工空間が、完璧に排除している領域です。


    その領域は、
    今まで陰陽学の『陰』から説明をして来た領域の事です。
    そこは無意識、
    我々の意識が覚知できない領域の事を謂います。




    我々は、目の前の狭い世界の中だけで生きていられる時には、
    『陰』や、無意識と云う言葉で表現しているこの領域の存在を
    忘れています、
    我々が、その大きな力である存在に気づかされるのは、
    忘れた頃にやって来る -------- (あれ)
    天災が、地震が、津波が、我々を襲って来た時です。
    我々の意識や努力でどうにもできない天の禍いが
    襲って来た、身に降りかかって来た時でしょう。



    『陰』、無意識の存在を受け入れて到達する『常住観』 -ーー--★



    襲って来た、、、と云う言い方自体も、
    我々にとって都合がよくないと云う理由の勝手な受け止め方です。
    いわゆる、我々にとって迷惑な事が、
    大自然にすれば、
    自然の自然による普通の自律運動でしかないのでしょうが、
    この時、初めて 
    ・・・・・この大自然の止まる処のない自律的エネルギーと云うものが、
    実は、・・・・・・ 津波や地震と云う現象化を起こしていない時にも、
    我々の意識の背後に、奥に、目では見えないけれど、
    無意識の領域に、、、、、間違いなく常に存在しているものなのだ。 
    と云う 『常住観』に目覚めさせられるのです。


    つまり、目に見える世界に囚われている間は、無常観です。
    目で見えない領域、『陰』の世界に目覚めた時、
    無意識界の存在を覚知で来た時、
    初めて『常住観』に到達する事ができるのです。



    この『常住観』は、
    法華経以前の経典(華厳経や阿弥陀経、大日経など)を拠り所にしている宗派には教えとしてありません。
    そこでは、あくまでもこの世は穢土(よごれた場所)です。
    だから、死んでから極楽浄土に行くと教えます。   
    死んでから極楽浄土、、、
    こんなお伽話を、現代人は信じるでしょうか?
    今は、天国に行くと思っている人が多いようですよ。 
    あはは。
    これも、近代合理主義の知識の中にどっぷり浸かって
    キリスト教理の世界観の中に生きている我々にとっては、
    極楽より天国の方が、ごく自然の成り行きなのでしょう。

    とにかく、極楽は、
    釈迦が仏教を信じさせるために付いた嘘です。   ほほっ。
    先に良い事があると思わないと人は信じませんからね。
    あはは。
    これを、方便と云いますの。
    深く難しい世界を教えるのには、だましだまし、、、   あはは。
    極楽浄土というのも、つまり、うそ!
    意識が想像して作った架空の世界なのです。
    実体はありません。
    釈迦が説いた物語の中の登場人物? 架空の仏です。
    が、
    古代インドの人達ははっきり云えば無知、純真だったのです。 
    なにしろ、王族出身の王子が身分を捨ててまでも
    教えてくれた事だったのですから、、、 ほほっ。
    我々の遠い先祖たちは信じちゃったのですね。
    つまり、
    これは、キリスト教の天国と同じ、
    どこにあるのか? その住所さえ証明できていませんのよ。

    あっはは。

    それを、今聞いたとして、
    現代人なら、そんな、アホな!? と思うでしょう。
    こう云う事を含めて、
    現代人の我々にはウソかマコトか見抜ける智恵があります。
    また、科学的な知識も中途半端ですがありますし、
    昔の人たちと比べると、
    それはどうしてかと云いますと、DNAのせいです。
    純真に信じて騙された過去の記憶が積み上げられていますから、
    その人類の体験が現代に生きる我々のDNAに残っています。
    我々は、DNA の中に、
    人類の歴史のすべてを引き継いでいる事が分かっています。
    間違いなく、誰の中にも、
    縄文人の生涯の思い出が遺伝子の中に潜んでいるのですよ。

      ほほっ。


    しかし、だからと言って、昔の人々の事を
    決して馬鹿に出来るものではないと思います。
    仮に、縄文人の信仰を、低俗で迷信の類と片づけて、
    近代合理主義で切って捨てるのは簡単ですが、
    その行為自体が、あまりにも近代合理主義の物質に偏った世界観を
    素直に受け入れた害毒ではないかと申し上げておきましょう。




    それを不合理として排除する近代合理主義のロジックこそ、
    自然を「物質」と観るがゆえに命なき(物)としての扱いをし、
    それが自然破壊へ繋がると云う事だけでなく、

    子を孕むと云う為には、
    自然の中にある同じリズムを刻んでなければならない我が体をも、
    破壊してしまうのだと云う事を警戒をしなければなりません。





    その因果応報が、創造性の退潮、、、命の退化、
    自然のありようから外れて行くさまざまな障害としての姿なのです。


    近代化された先進国では少子化傾向だと云われています。
    おそらくですが、
    命の豊饒さは後進国、まだ近代化が遅れている国に
    具現化していく力が残っているのがお分りになるでしょう。

    なにでも先進したら、(極みは)負けなのですよ。
    極めたら、今度は、
    それを保つ為に尊いものまで犠牲にするようになります。
    手段が目的化してしまうのです。

    今の日本がそうです。
    そして、現在の優位を保つ為に未来まで捨てるようになるでしょう。
    本来は、未来の為に現在を我慢する、、、のが正しいのです。
    今の日本の政策は、その逆です。



    現在の経済指標の為に未来を捨てるのですから、
    日本の我々に未来はありませんわ。   ほほっ。

    未来を捨てて、、、
    現在だけの現象に囚われて夢中になっている我々、、、

    これは近代合理主義のせいですよ。
    意識はすぐに過去は忘れています。  あはは。
    目の前を見る目はあっても意識には未来は分かりません。
    意識は感覚器官を通して現在(今)に集中するしかありません。
    意識に基づく学問は、いつもいつも、
    結果である現象(天変地異)の解説ばかり、
    もう、うんざりです。


    もう、未来に起る現象が、そこまで来ていると云うのに、、、
    その事には、科学は一言も触れない。
    分らないのですよ。

    占いの方がよく分かるかも知れない、、、  ほほっ。



    しかし、この閉塞空間の状況は、どこから?

    一神教の支配する世界と云うのは、
    本質的、自由はないものです。
    それが、近代合理主義は、自由だ、平等だと言っている。
    ウソつきです。

    そう云う偽善渦巻くキリスト教理の世界観の中、
    エネルギー転換のない狭い空間に押し込められているからですよ。

    (神にもなれない人間は、自然を支配して物を手に入れるしかない。)
    (物を手に入れる競争で、一番になる事が神に似る事である。)
    =それが死後天国に行けると云う証拠である。
    =これがアメリカンドリームの背景、ピューリタン精神です。 
    (死後、天国へ行くまで悪魔と戦うのだ!)
    (悪魔をやっつける戦は、正義の戦いである。)
    (正義の戦争は止められない!)



    あははっ。



    アニミズム的発想を卑下してさ迷う女たち -ーー-------★




    男は生産に従事し、女は子を孕み産み出だす。
    これが、自然の則に従って生きると云う事です。
    この尊い豊饒力を卑下をさせて無視をさせて、
    女に経済の欲望に従う事を進める社会とは、
    これは、
    自然の豊饒さに逆らう者、命の恵みに唾棄する者たちです。


    絶対に、善人の集りではない。




    魔界の掟に女を縛り付けるとは、
    これに拠るしか立ち行かない国家とは、魔の国家ですよっ!



    論より証拠、
    この国で大切なのは、女が子を産むと云う事ではなく、
    まず働いて税金を払え、保険料を払え、そして消費をしろと
    勧奨する事がこの国の国是です。
    その上で子を産めと、
    男も子守をしろと、    あはは。

    なにより大事な事は、精魂込めて働いた代価で「物」を消費しろと、
    「物」以上のものはないのだと、
    「物」こそが経済を成長させるのだと、
    暗に女にアニミズムに浸ることを卑下させるのです。

    その「物」を獲得する為に働けと、
    労働の代価で「物」を消費する事を奨励する、、、、、
    日本は、それ以上の尊い行為はないと云う国になったのです。



    これじゃ、我々は、
    命の豊饒さを最高価値に置く『孝』を捨てた魔界の民、
    天界に魔が住む。と云うけれど、
    魔が居ると云う事は、天国のしるし。

    あぁ、ここはキリスト教理の天国なのでしょうか?   ほっ。




    ★ 近代化と云うことは、
    キリスト教理のこの魔界(天国)へ招かれた事だったのですね。



    ほっっ。





    お正月そうそう、
    我々の住所がいつのまにか、
    魔界にすり替わっていただなんて、お知らせしてしまいましたっ。

    どうぞ、悪く思わないでくださいね。   ほほっ。


    女のみなさまへ

    まだ産める年齢の方は、どんどん子供を産みましょう。


    あはは。




    昨年より、もっと更新ができますように、、、
    今年、一年間、よろしくお願いします。

















    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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