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11/03 11:55 |
壬申の乱 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その4Category : 運命学と歴史
![]() 那須高原・秋 『大化の改新』を行った 藤原鎌足、中大兄皇子の時代になったところからでした。 次のエポックは、壬申の乱です。 今日は、運命学的に観た簡単な天智天皇論から始めましょう。 この中から、少しでも運命学の片鱗が皆様のお役に立ちますように、、、。 えらい天皇さまの事を、こんなに簡単に記事にしていいの? どうだこうだと言っていいのかしら? ほほ。 私ごとき人間が、過ぎた振る舞いのように思いますが、 そこは、どうかご容赦いただきますように、、、、、、 失礼がありましたら、どうかお許しくださいませ。 天智天皇は、政治面の業績を見る限り、 非常に進取性に富んだ男らしい人であったようです。 大化の改新を成し遂げる位の人ですから、決断力のある人物でしょう。 自分の思っている事を、果敢に実行をして行く力があったはずです。 しかし、その裏側に見えるのは、 過去からある物をそのまま守って引き継ぐ運勢ではありません。 女性関係を見ていると分かるのですが、 何事もドライに考えて即物的な思考をし、クールな対応をする。 あらゆる過去を合理的に整理、捨てる事ができる初代運の運勢です。 財が集まって来る運ですから、 権益や女性が雲集して来たはずです。 ( うらやましいですか~?) しかし、運命にも得手があれば、不得手があるのですよ。 自分が成功する運の人は、自分の子供が後を継ぐ運に恵まれません。 跡継ぎ運がないのです。 あはは~今日は、頭から男女不平等のような記事です。 現代だって、有名なスポーツ選手、あの人も、この人も、 芸術活動をしているあの人も、この人も、、、 一人自分の世界を作り上げて成功をおさめたという方は、 子供がいない。いるとしても女児だけだったり。 男児が生まれても母親の世界だけで大きくなっている。 その子が将来結婚もせず、孫ができない。 孫がいたとしても又、女の孫。そういう方が多いですね? 一代だけが栄える運です。 伝える事ができません。 また、男児、女児には、深い意味があります。 自然の摂理から言うと、植物においてもですが、 花や実を、大輪を咲かした場合は、良い種が取れないのです。 大根だって、実る時に栄養を与えて大きくしたら、 良い種が取れない。 逆に優秀な種を取ろうとすれば、栄養を制限して、飢餓状態にし、 実を大きく実らせないようにするのだそうです。 ご存知でしたか? 人間も、同じ摂理の中に生かされているのですよ。 ( えっ! 花も実も種も両方ほしい~? それには、運命学を勉強してくださいね。) 既存の過去を必要としない、あれば反ってそれらを壊して、 ゼロ・0からの出発ができる。そういう力を発揮する人は、 つまり、守りはできない。攻めのタイプです。 攻撃は得意です。けんかをすれば負けるはずがない。 また、孤独にも強い、というより孤独である方が持てる力を出し切れる、 王たるに相応しい頭脳も肉体も、恵まれた人。 天智天皇とは、そういう人だったはずです。 負けん気の強い、自負心の大盛な男らしい性格の中大兄皇子、 その性格に取ったら、倭国の置かれている状況は、 対外的には、『 中華帝国冊封(さくほう)体制 』)の外交関係のなかです。 (東京大学名誉教授、中国史学者西嶋 定生氏が提唱) わが倭国を何とか強くしたい、 そういう男気に溢れていたはずです。 だから、『大化の改新』を成し遂げられたのです。 歴史を変えるのは“人”です。 権力者の人間的資質、性格の力に負う処が、大なのです。 制度や、法律は、その後です。 天智天皇という人格のおかげで、 倭国は呪術の政治から律令の政治へ脱皮を果たした訳です。 しかし、天皇と言えども為す事は完全ではありません。 いくら天皇だからといっても、変革への理解ばかりだけではなかった。 まわりから相当な反感を買ったはずです。 具体的には、 いわゆる大化の改新までに既得権益を持っていた豪族からの反発です。 得をする側がいれば、それによって損をする側が生まれるわけです。 倭国の中央政府にとったら、良い改革でも、 倭国の見えない部分=特に地方=に そういう不満が鬱積していたはずです。 しかし、天智天皇は運も自我意識も強すぎて、弱さを感じられない。 他人の弱さに無頓着なドライな性格だったに違いありません。 次に起こる『壬申の乱』のエネルギーを思えば、 『大化の改新』の後、中央政府に対する不満が鬱積していたに違いないと 思わざるを得ないのです。 ほころびは、天智天皇が病気に伏せられた時期から始まります。 権力者が強すぎる人の場合、逆らっても勝てない相手の場合、 不満分子は、権力者が病気などで弱まるのを待っているものです。。 天智天皇が崩御される二年前に、 重臣の中でも最も重要な人物、中臣鎌足が56歳で亡くなっています。 その時、 天智天皇は今までの鎌足の功績を讃えて大織冠と大臣の位を授け 「藤原」という姓を贈りました。これ以降藤原という姓名が誕生します。 もしか? 中臣鎌足がもう少し生きていたら、どうなっていたのか? 『壬申の乱』のエネルギーをうまく分散させる事ができたのか? ここで、これからの人間関係を整理しておきます。(39・=39代天皇の事 ) 39・天智天皇(中大兄皇子)と、40・天武天皇(大海人皇子)は、一応 同母兄弟と言われています。 40・天武天皇(大海人皇子)の妻(41・持統天皇)は天智天皇の娘です。 40・天武天皇と、その妻・41・持統天皇は、叔父と姪の間柄になります。 大友皇子(のちの40代・弘文天皇)は天智天皇の第一皇子ですから、 天武天皇の妻(41・持統天皇)とは、異母姉弟になります。 非常に、近い親族関係同士です。 系図をどうぞ! 天武天皇の妻・鵜野讃良皇女(後の41・持統天皇)は、 正妃であった大田皇女の妹で、 天智天皇が皇太子にした大友皇子とは、異母姉弟になります。 興味深い話題があります。 一つは、天武天皇は、天智天皇と同母兄弟であるとしていますが、 他の説では斉明天皇(皇極天皇)が舒明天皇と結婚する前に 一緒になっていた高向王(用明天皇の孫)との間に生まれた漢皇子が 大海人皇子(天武天皇)という説があります。 それは天武天皇が天智天皇よりも年上であるという説から出ており、 一方では漢皇子は天智天皇という説もあります。 『壬申の乱』と言えば672年に起きた ポスト天智をめぐる皇位継承権を争った日本古代最大の内乱ですが、 いまだに、『壬申の乱の原因論争』と題する古代史論争が、 特に大海人皇子決起の根拠、決起の正当性などが、 十分に論じ尽くされているとは言えずに、決着が付いていません。 乱の原因は単に親族の相続争いではなく、 当時の朝鮮半島情勢(新羅、百済の争い)および、その渡来人の争いが 背景にあると言う見方もあって、多くの人が論を繰り広げています。 何故こういう騒乱が起こったのかと言うと、最大の問題点としては、 皇位継承についての確固たる制定がなされていなかったことです。 嫡子存続という原則がなかったために、当時は、 兄から弟へと譲ることが多かったのです。 今では皇太子が第一皇位継承者として定められているので、 皇位を争うような事は起こりません。当時は皇太子制自体がなかった。 皇太子の地位は、飛鳥浄御原令か大宝令で成立したもので、 軽皇子(文武天皇)か首皇子(聖武天皇)が初例です。 首皇子が皇太子の場合でも、元正女帝が即位するなど、 次期天皇としての皇太子の地位は、まだ確定していなかったからです。 日本史のこの辺りは、 この時代の人のおおらかさ、自然性を失っていない、 非常に人間くさいドラマが、いっぱい詰まっているあたりです。 ここから、『壬申の乱』へ進んでいきます。 天智天皇は、668年の即位から3年後、 671年1月5日、47歳。太政大臣を新設し、 我が子、大友皇子(24歳)を任命します。 当時は、同母兄弟間で皇位継承が行われるのが慣例でしたが、 それを無視して、 天智天皇は、弟よりも血を分けた自分の子供(大友皇子)を 後継者とする意思を周囲に表明したのです。 大海人皇子は、事実上政治面からは外されます。 671年8月、天智天皇は、病床に着き、先の長くないことを悟ります。 同、10月17日、 天智天皇は、弟の大海人皇子(41歳)を枕元に呼びます。 使いにたった蘇我臣安麻呂は「言葉に気をつけるように」と注意しました。 天智天皇は、大海人皇子に後事を託しましたが、大海人皇子は、 大友皇子を推挙し、天皇のために自らは出家を申し出ます。 大海人皇子は、 自分の家に帰って、全ての武器を天智天皇へ差し出します。 これは、疑い深い専横的な天智天皇の性格を 大海人皇子が知っていたからだと言われています。 そして、大海人皇子は、家族を伴って吉野の山へ隠棲します。 これを知った人は、「虎に翼を着けて放てり」言ったといいます。 大海人皇子が、吉野の山へ行った時の和歌が、万葉集に残っています。 み吉野の 耳我(みみが)の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し その山道を “ 思ひつつぞ来し その山道を ”という処に、当時の大海人皇子の 失望が滲み出て伝わって来るような和歌です。 ここが、人間もようですね。 兄弟で、気を使い合って?“嫁を取ったり取られたり”(笑い)しながら、 兄の天智天皇も、娘を5人も弟へやった位、仲も良かったのでしょうが、 その中に、兄の寵愛する皇子が権力構造の中へ入って来る事によって、 雲行きは、当然の事ですが、ガラガラ~っと変わったのです。 ここまでの大海人皇子の対応は、正解です。 誰か助言をする臣下でもいたのかもしれませんが、 天智天皇存命中は、自身の身の危険を察知して、吉野に隠遁します。 同、12月3日、天智天皇が崩御。 同、12月5日、(近江朝)大友皇子が即位して、弘文天皇となり 近江にあって政務をみていたとされています。 翌、672年5月、大海人皇子の舎人が、 大友皇子が天智天皇の墓を造ると言って、 美濃と尾張の国司に命じて人夫を徴発しているが、 本当は武器を持たせていると報告してきました。 6月24日、大海人皇子は、 近江朝が軍備を整えているとの情報を得て、 妻の讃良皇女(後の持統女帝)や草壁皇子・忍壁皇子、 舎人20人、女官10人を連れて、吉野を脱出し、 尾張に向かう。ここから古代最大の争乱が始まります。 6月26日、大海人皇子が伊勢の北部に入ると、 大津宮(近江朝)を脱出した長男高市皇子、大津皇子と 合流し、桑名(三重県)にいたります。 まもなく、美濃に派遣していた村国連男依が戻って来て、 「美濃の兵3000人を動員して不破の道を防いだ」ことを 報告します。 この行動を察知できなかった近江の朝廷側の動揺は大きく、 急いで東国・飛鳥古京・筑紫・吉備などの諸国に使者を遣して、 兵隊を集めようとしますが、東国への使者は、 不破の関で捕らえられました。 本格的な戦いは、 7月 7日、不破から近江平野に進出した大海人軍が、 近江朝軍を撃破したところから始まり、 7月22日、近江を守る最後の拠点、勢田橋の戦いで、 大海人が勝利し、体勢が決着します。 7月23日(近江朝)の大友皇子が自害。 大海人皇子の吉野側の勝利に終わります。 9月15日飛鳥岡本宮にもどります。 これを、壬申の乱と言います。 673年2月27日、 大海人は即位します。これが40代・天武天皇です。 以降、40・天武(673~)系統の天皇が第48・称徳天皇(~770)まで、 100年に3年足らない 97年間、天武天皇系列の時代が続きます。 その中には、天武天皇の血統を絶やさないようにと、 近親結婚やさまざまな努力をしながら、 皇后や母親が中継ぎの女帝をしながら8人の天皇での97年間です。 この皇統を眺めていると、 ヨーロッパのスペイン王国のハプスブルク家を思い出します。 (詳しくは、次回以降の記事へ ) 壬申の乱の原因とは、 天智天皇が自分の後の皇位を 弟より自分の子供に与えたかったという個人的な理由と、 天智天皇の急進的な改革によって既得権益、特権を奪われた者の 不満が爆発寸前まで溜まっていた。 そう考えられます。 その事は、 大海人皇子が吉野を出てからの畿内での動きを見てみればよく解ります。 地方の豪族が、 武器と兵士を準備をして大海人皇子の挙兵を待っていたのです。 なぜなら、そう感じる位の迅速さで兵を集めて行きますから。 壬申の乱以降は、おもいっきり天皇の神格化が作り出されます。 それには、二つの理由が考えられます。 ひとつには、 天武天皇系列の天皇の地位を、再び奪われないように強くして 置きたかった。 もうひとつには、 天皇の強権化を進め易い環境が整っていた。 なぜなら、 大海人皇子が勝利して天武天皇即位の時、その重臣になった者達は、 天智天皇時代の中・下級官僚たちでした。 まだ壬申の乱直後は近江朝廷には組織が完全に残っており、 高級官僚たちの殆どが大津に住んでいました。 天智天皇の天皇家と深い姻戚関係を持っていたわけです。 当然、乱の間は、重臣・家臣・親族なども両派に分かれて争うようになって いましたから、その反対に大海人皇子に従うものは、 その下の官僚たちだったのです。 天武天皇の新しい朝廷で、元近江朝廷の中・下級官僚だった者たちが 高級官僚になった気持ちはどんなだったか? お分かりですね~ 「雲の上に乗った!!」感じだったでしょう。 彼らをして、“われ等が天皇”を神格化するようになるのは、 至極当然だったのです。 天武天皇の皇后(後の持統天皇)は、さかんに柿本人麻呂に 天皇の賛辞の歌を作らせています。 大君は 神にし坐せば 天雲の 雷の上に いほりせるかも 柿本人麻呂はとうとう天武天皇を神様にしてしまいました。 日本一のゴマすり男?! あはは。 それにしても『万葉集』はおおらかですね。 皇族の不倫の歌を堂々と載せて、載せられた皇族も、民衆も、 それを許すおおらかさ。 その上、ごますり歌も、堂々と載せている! ごますり男を、大歌人だと! あはは。 今の感覚では、どうなのでしょうか? あはは。 この時は、まだ、天皇ではなく大君と詠んでいます。 敗れた大友皇子の皇妃は、 壬申の乱の勝者、大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女です。 自分の好いた女性との間の娘の夫と皇位を争うなんて! いくら、権力闘争とは言え、すさまじい修羅の命です! 天智天皇が我が子・大友皇子を思う人の親としての心とは、 まったく反対の心ですね。 本当に、大海人皇子の本心だったのか? この行動の裏に、野讃良皇女( 後の持統天皇)の怖~い嫉妬を感じます。 十市皇女は天武天皇と血を分けた親子ですが、 十市皇女と野讃良皇女との血はつながっていませんから。 継母による義娘の虐待なのか? 『日本書紀』には、 野讃良皇女は、壬申の乱に際して 大海人皇子と「ともに謀を定め」たと書かれています。 間違いなく乱の計画に与ったことが知られています。 彼女こそが乱の首謀者であるという説が、あるのも事実です。 今のようなマスコミがあったら、どう書かれるのでしょうね ? (笑い) いまだに大海人皇子の決起の根拠について、その正当性は?などの 論争が決着していないというのも故あるかな、です。 それを踏まえてか、天武天皇と皇后は、 679年に、6人の皇子たち(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、 ★川島皇子、★芝基皇子で、先の4人は天武の子、★は天智の子)に 互いに争わずに協力する事を誓わせたと書紀にあります。 将来における御二人の皇子・草壁皇子への譲位を 安全なものにする為に、 天智天皇との皇子たちとの争いを避けようとする両親の親心、 配慮が透けて見えます。 こうして見ると、壬申の乱の勝利は、 間違いなく自己の思いの実現。完璧なる自己実現です。 誰の自己実現でしょうか? ? 誰が望み、誰が一番満足をしたのでしょうか? 非常に巨大な『陽』の炸裂です。 『陽』は現象ですから、現象面では間違いなく勝ったのです。 意識の勝利でもあるのですが、、、 『陽』の現象の表出には、『陰』のエネルギーの消費があります。 覚えていただいていますか? 前のブログ記事に載せた、 家を新築した後に、必ずそこの誰かが亡くなるという不幸な出来事が 惹起するというコメントです。 では、天武天皇の為した業の後に来る不幸とは? 何か? 大海人皇子が天武天皇となって、 その威光が弥栄えてほしいと願ったはずです。 わが子孫が、永遠に栄える、そういう夢を見たでしょう。 果たしてそういう夢は、叶うのでしょうか? 打ち滅ぼされて没落をした天智天皇の直系の人々は? もう、天皇の地位をあきらめてしまったでしょうか? この先どうなったのでしょうか? 「天智天皇は、わが子大友皇子に皇位を継がせたかった」と 日本書紀は伝えています。 しかし、如何に天智天皇の強い性格と強権を以ってしても 死ぬまでにそれが叶えられる環境を、整える事はできなかったのです。 先に、天智天皇に跡継ぎ運がないと言いました。 太閤秀吉・豊臣秀吉も同じです。 人から譲り受けた訳ではない、自分で奪い取った権力を、 わが子へ継がせたかったにも拘らず 五奉行へ託さざるを得なかった状況、 最後まで安心できなかった死期の到来、 天下を完全に押さえた我が子のたくましい姿を見れなかった親心。 どんな権力者であろうと、自分の運を子供へは譲れないのです。 運は、別です。 運自体は、我々の意識外にあり、 『陰』の本体・高大な無意識の領域のエネルギーに、 因っているからです....。 権力は『天の道』に因るのです。 権力などより、幾千萬億倍も『天の道』の方が凌駕します、 『天の道』の方が、そもそも本体なのです。 『天の道』が燃える“太陽”本体なら、権力はそのコロナの一部なのです。 なにしろ『時』を以って、すべてのいい気になった権力を剥ぎ取り、 絶頂にある権力者を100年も経たない内に丸裸にします。 権力者が浮き沈むのも、 すべて『天の道』が刻む『時』のリズムのせいです。 権力という現象は、時に由り興り、時に由り廃れます。 嘘はいずれ暴かれ、贋物はいずれ壊れていきます。 我々人間も、その範疇の中に居ます。 最後に残るのは、自然、天と地のみ。 それこそがあらゆる生命を生じ育んできた『陰』の本体なのです。 『陽』の現象として、政治的には、 国家として、より強力な中央集権体制が築かれた。となっています。 いよいよ次は、聖武天皇の祖母、持統天皇が中心です。 聖武天皇の皇后・光明皇后の、その母、橘美千代は、そのあとで、、、 今日も、長い記事にお付き合いくださいまして、 感謝です! みなさまの心が、世界の不思議で満たされますように! よき日、 よき夜を、 お過ごしくださいね。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
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手強い内容でしたが楽しく一気に読みました。
日本史が体のなかで、生き返っているように読めますね。 男女の意味が違うというのですが、日常の常識では及びもつかない価値観に感心したり。 私たちは自分が生物として何も知らないで生きているようです。 人間は平等どころか限られた時間内の狭まった空間での選択をしているだけ。 読んだあといつも、少し落ち込みます... 向寒の候、秋から冬、肌寒さを感じるようになってきたのは年のせいでしょうか?=
時がたつのは間違いなく、年をとるのもどうしようもないです。= 歴史は振り返るばかりじゃないし、今に生かせるのなら知恵の山なのでしょう。= 記憶の遠くにあって忘れてしまっていた天智天皇の存在が今、身近に感じられ・・・= すべてに意味があるとすると次の女帝の持統天皇の記事、たのしみです。= 「日本一のゴマすり男?!」に思わず笑ってしまいました。
歴史的重要人物もかたなしです。 また、「権力は『天の道』に因る」・・・奥の細道の「平泉」を思い出しました。 人の世のはかなさ・・・というよりも、権力のはかなさでしょうか・・・。 次回も楽しみにしています。 Re: タイトルなし> 手強い内容でしたが楽しく一気に読みました。
> 日本史が体のなかで、生き返っているように読めますね。 > > 男女の意味が違うというのですが、日常の常識では及びもつかない価値観に感心したり。 > 私たちは自分が生物として何も知らないで生きているようです。 > 人間は平等どころか限られた時間内の狭まった空間での選択をしているだけ。 > 読んだあといつも、少し落ち込みます... ★長い記事にお付き合いくださって、申し訳ないわ~ あはは。 今の日常は、狭い西洋思想の中に入っていて東洋的な価値観は削ぎ落とされています。 それでそう感じられるのでしょうね。 人の可能性は、今のある考え方だけではないという事を、感じていただけててうれしいですね。 いつもありがとう! 感謝☆cosmos Re: タイトルなし> 向寒の候、秋から冬、肌寒さを感じるようになってきたのは年のせいでしょうか?=
> 時がたつのは間違いなく、年をとるのもどうしようもないです。= > > 歴史は振り返るばかりじゃないし、今に生かせるのなら知恵の山なのでしょう。= > 記憶の遠くにあって忘れてしまっていた天智天皇の存在が今、身近に感じられ・・・= > すべてに意味があるとすると次の女帝の持統天皇の記事、たのしみです。= ★さむくなりましたね~! 年は平等に同じように取りますから、どうしようもないですね。 過去に学ぶと言ったら、歴史が一番ですね。 皇族の方たちは、情報が公開されていて利用をするのには都合が良いのです。 一般人は、個人情報など難しい面がありますから、、、。ぜひ楽しみに! いつもありがとう! 感謝☆cosmos Re: タイトルなし> 「日本一のゴマすり男?!」に思わず笑ってしまいました。
> 歴史的重要人物もかたなしです。 > > また、「権力は『天の道』に因る」・・・奥の細道の「平泉」を思い出しました。 > 人の世のはかなさ・・・というよりも、権力のはかなさでしょうか・・・。 > > 次回も楽しみにしています。 ★あはは~。教科書の書き方は、いい人はいい人。悪人は悪人。エライ人はどこまでもエライ人って言う風に、、、枠に嵌めて教えてしまうし、無味乾燥な事項と年代の羅列ばっかしで歴史の面白さがなくなるのよね。 次の記事に書きますが、日本一のゴマすり男は、今で言う”官僚の天下り”のハシリでもあったのですよ。 ある意味、立派! ちゃんとゴマをすり上げているのです。(笑い) 私の経験ですが、まんが偉人伝を小学低学年には全部読むように指導して、読んだ頃に質問をします。 例えば、「鎌倉幕府を開いたのは、義経?」 そうすると、「ちがうよ、頼朝!」 「義経が戦で勝ったからでしょう?どうして?」と聞くと、 「頼朝の焼きもち?」と3年生位で言えます。 自分の能力でそこまで精一杯考えられるのですね。自分の頭で考える子にしなければ、その子は道具で終わります。人間の実態を知るには歴史は、個人情報がオープンにされているのですから、そこから学ばないと勿体無いですね。 いつもありがとう! 感謝☆cosmos |