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10/24 09:22 |
宗派 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その2Category : 運命学と歴史
![]() 高尾山の登山道・稲荷山の頂上付近 今回は、前からの続きです。 ”同じ仏教と言っても、宗派によって真実が違うのですね。 それも、また、おもしろいです~! なぜ、違いが出てくるのか? ” ここからですね。 まず、前回の記事にいただいたコメントの紹介から、、、 おっ!これから・・・と思いましたら、 「よき休日を・・・」になってしまいました(笑)。 運命学からみる日本史・・・楽しみにしています。 「仏が、いろいろ~ではないの。人間が、いろいろ~なのです!」 に妙に納得しました。 ほんとうに、あはは~ ですね!(笑い) 私も前回の記事がいつもより短く終わったなぁ、と思いながら、、、あは! 内容的に丁度の所で切りましたら、ああなりました。 あのまま続けたら、10m位の記事になったいたかも? あはは。 そうです! 今日はその長くなる内容ですので、 お疲れなきようお付き合いください。 なぜ、いろいろな宗派の違いが出てくるのか? 大雑把に言うとそれは、おそらく、 1、釈迦の弟子の段階で、各々の弟子の悟りの解釈に差がついている。 2、釈迦自身の年齢的なタイムラグにおける悟りの進化の違い。 3、仏教が伝わる段階での、人間的解釈、伝播するタイムラグによる時代 の解釈の変化の差。 などが、挙げられるでしょう。 何時か必ず記事にしたいと思いますが、1,2、は、今回は省きます。 3、の“ 仏教が伝わる段階での、人間的解釈、伝播するタイムラグに よる時代の解釈の変化の差 ”と、 天武天皇系に至るまでの“ 倭国における内政的な流れ ”を 追ってみます。 そうしないと此の記事が、何十mにもなりそうです。 あはは。 よろしいでしょうか? 宗教と言っても、呪術政治が行われている倭国の時代において、 庶民にとったらお上の言う事に従うしかないわけですし、 お上と言えども、朝貢(ちょうこう)貿易の相手国である中国からの文物 ですから断るわけにもいかなかった、当時の事情がありました。 朝貢貿易については、次回詳しく記事にするつもりです。 インドからの仏典は、サンスクリット(梵字)で書かれています。 中国において、 その経典を漢字へ書き直す(漢訳)事業は2世紀後半から始まり、 11世紀末まで、ほぼ間断なく継続されていました。 中国に伝わり根を下ろした仏教は、 南北朝時代(439~589)に多くの教派、宗派が発生していて、 隋から唐にかけて興隆を極め、中国の思想界を支配していました。 インドから伝わった仏教は、中国で大流行をし、多くの仏教学者を生み、 中国国内でも、さまざまの経典が書かれたのですって! 初めてこれを知った時、へぇ~と思いました。 釈迦以外の人間が書いても経典になるんだって、、、 それらは、大蔵経もしくは一切経(いっさいきょう)と呼ばれる叢書に まとめられます。 この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、 後世に影響を与える大蔵経・一切経が完成したのが、730年です。 日本に仏教が伝わったのは、それが完成する前です。 従って正確に言うと、伝わった仏教は、一切経の一部だと言えるでしょう。 しかし、どうでしょう? 私達もそうですが、思想において、初めて自分が受け知ったものが、 その一部という認識を持つでしょうか? 受け取った思想すらも、完全に咀嚼消化していないものを、 目に見えない次なる仏教の変化した教えが伝わったとしても、 先に受け入れたものを仏教の全体であるとした認識は、変え難い。 何事も新しく、変化を受け入れて古いものを更新していく事は必要でも、 それが、為されるという事は不可能に近いでしょう。 例えば、物なら、見た目にも変わる変化を捉える事もできますが、 今、PC位の物ならバージョンをこうだ、ああだと判りますが、 目で見えない、鼻で嗅げない思想的なもの、宗教、哲学が 一旦入ってからの上書き、更新を続けていく事は難しいですね。 ある意味、伝統を守るという価値の側面を重んじる事に重点を置けば、 そういう流れが、宗派という固定を生み、今に至っているのでしょう。 しかし、何が、釈迦の教えの主流なのか? 眼目なのか? 何が、釈迦の残した真実なのか? それを見極める為にも、中国の皇帝たちは、 仏教の総まとめ的な仏教総覧大百科とも言うべき大蔵経・一切経の編纂 をおこなったのでしょう。 そのおかげで、それ以降の仏教を志す出家者は、大蔵経・一切経を 備えてある寺院に籠もってそれを読破するという所から仏教の勉強が、 できるようになったのです。 大蔵経・一切経は、経・律・論を合わせて「三蔵」と呼びます。 「経」とは、釈迦が説いた教えを記録しているもの。 「律」とは、弟子が書いた修行法や戒律に関するもの。 「論」とは、高僧が経典を注釈したもの。 当時、中国へ仏教を学びに行くと言っても、 一切教を全て学び終わった者が行く訳ではないですから、 それぞれの宗派の違いや間違いを認識選択してから行くのは無理で、 初めて仏教の経典とまではいかなくても、 律でも論でも、一巻を手にしたら、 ”これが、仏教だ!”と思うのは無理もなかったのでしょう。 遣○使と言うのは、当時、国費で留学をさせていただいているわけです。 帰国すると、”これが、カノ有名な仏教です!”と、 実際の巻物を何十巻も手にして持ち帰るという実績を、 報告をしなければならないわけですから、、、。 何時の遣唐使の、誰が、どの宗派の、誰に出会い、 仏教経典のどの「経」を、 又は、「律」なのか、「論」なのか? 何を手にすしたのか? それは、選ぶというよりも、自分がどういう仏教の教えを実績として 持ち帰れるかは、出会いの『運』そのものだったのでないか? しかし、事は重大です。 宗教 = 宗の教えですから、その哲学が間違いなら、 すべてが滅ぶわけです。 だから、中国では南北朝時代に、 南三北七(なんさんほくひち)という十の宗派が入り乱れているのを 見かねた天台大師が、それらと論争をして論破をしています。 南の揚子江流域の三宗派と、北の黄河流域の七宗派が相手でした。 論破の論拠は、たとえば、 釈迦の一生の間の化導(民衆を導いた)をした『時』代を五つに分け、 又、一生の間に説いた教えの内容の全体を八種類に分ける 『五時八教』を立てて、釈迦の全ての経典の浅深優劣を示して、 法論をして十派を整理したのです。 ちなみに、それを伝え聞いた当時の日本の天皇、 第50代・桓武天皇は、 天武天皇系の、平城京における、 肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い 中国の天台の教えを日本に正しく伝えたいと願って、 その実現をする事を最澄に命じます。 桓武天皇に中国の天台の教えを日本に伝える事を命じられた最澄は、 この時期すでに、天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に 任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていました。 最澄と共に、乗った船は違いましたが、 同じ時期に遣唐使として許された空海が、最澄と同時に入唐したのが、 803年です。 律令制度下において僧籍に入るには、 年に一定数の得度しか許されない決まりがあって、 原則は定員10名で、試験に及第して官許されるものでありました。 それにもかかわらず、 僧には課役を免除される特権があった為に、 税を逃れようと官の許可なく勝手に僧となる農民などが、 たくさん出て来て、それを私度僧と言います。 ついでですが、空海については、当時の身分は「私度僧」でしかなく、 どうして遣唐使の一員になれたのか未だに不明なのです。 最澄のように、勅命の目的があって遣唐使で行く者もあれば、 そうでない者は、遣隋使や遣唐使で中国へ渡航した時に、 その時の中国の仏教界で、何が、真実と注目されていたのか? それには、時の皇帝や、仏教界の実力者によって変化もし、 それぞれの認識の間の差違いが生じるのは当たり前だったでしょう。 考え方や、法は、人に依って広まるものです。 もっと言えば、人格に依って、広まりもし、廃れもする。 そういう一面が、あるのは間違いのない事でしょう。 また、情報が多く集まる所では、量的にも、時間的にも、 先進と思っていた知識が、古くなるのは早い。 スピードがあるのは、今と同じです。 しかも、隋、唐あわせて遣唐使は600~894年まで、約300年間 続きました。 その間に情報量的、時間的にも、世の中は変わります~ 今の日本の300年前は、江戸時代です。 江戸時代に日本を学びに来た時に外国人が持ち帰ったものと、 今のを比べるとどうですか? 違って当たり前です。 その位、知識というものは、『陽』ですから、”ご用心!”なのです。 『陽』は時と共に、移ろいます。 知識とは、そういうものです。 その間に、中国の仏教の様子も変わったでしょうし、 なにしろ、当時は、仏教を、まず先進の『知識』として持ち帰った、、、 なにか、そういう臭いがします。 宗教を ”知識”として持ち帰る? 不思議な行為そのものと思われませんか? 学問・知識と言うものは、意識の産んだものです。 宗教は、無意識の世界から、意識を見据えるものです。 宗教が、知識の段階での理解であるかぎり、 その宗教の力は、無効なのです。 信じて受容して、初めて、それは、完結するものです。 つまり、宗教は、”知る”ものではありません。 いわゆる受容する。 信仰は、受容するものです。 正しく受容もできないまま、 どのように日本は知識として、仏教を扱ったのでしょうか? たとえ、知識として吸収しようとした所で、事は、 その当時の倭国の理性のレベルでは、追いつかなかったでしょう。 どういうレベルで、どういう雰囲気で仏教が公伝されたのか? どういう世情の中から、仏教が正式に伝わったのか? 仏教の受容の過程は? 今回の記事は、それらを内政的な観点からみていきます。 国家間の公的な交渉で仏教が伝えられた事を“仏教公伝”と言います。 仏教公伝から、聖武天皇が毘盧舎那大仏を建立発願まで207年。 百済に仏教が伝来したのは384年です。 その154年後の538年に、 百済の聖明王(聖王)が、日本(当時は倭国)に仏教を伝えました。 29代・欽明天皇へ釈迦仏の金銅像と経論他が献上されたのです。 さぁ、その釈迦仏の金銅像と経論は、最後どこへいったのでしょうか? とんでもない事になります! あとで、、、あはは~! それよりも、 百済は、わが国よりも仏教先進国だったのです。 154年も先に仏教国になっていた。それを、今更どうして、 日本へ仏教を伝えようとしたのでしょうか? その背後には当時の朝鮮半島の情勢があり、 百済は、新羅の任那侵略に対処するため、 日本と連携してその援助を受ける必要に迫られていた最中でした。 さかんに倭国に対して援軍を要求していました。 その援軍を得る為に、 継体天皇の時に五経博士を日本に送り、 六世紀初頭には仏教を伝え、 文化的なつながりを深めようとしたのです。 また仏法を東方へ伝播させたという実績をもって 仏教に帰依していた梁武帝の心を捕らえて、状況を有利にする為に、 仏教を日本に伝える事を外交の道具として利用したという側面です。 このように百済の仏教伝来は外交政策の一環として行われました。 以上のような状況下で、倭国(日本)は、 自らが望んだわけではなく外交政策でもたらされた仏教を、、、 どう扱おうとしたか? 釈迦仏の金銅像と経論他の扱いに困って大騒ぎになったのです。 なぜなら、この仏教が伝来するまで、 倭国を支えた宗教は呪術的なものを含む神祇信仰です。 太政官の方ではなく、独立して置かれた神祇官(みみつかさ)の方です。 大和朝廷発足以降も、律令という法令を一般民衆に理解させるのは 難しい事で、地方支配にしても 地方豪族を容認する連合国家のような朝廷の初期の姿が、 それそのものでしたから。 朝廷が民衆から税金を採る方法だって、 「神様に今年の収穫物の一部を捧げれば来年も豊作になるから出そう」と 云うようなものでした。 毎年の収穫時期に豪族などを介して 地方の神主・神祇官が収穫を集め朝廷に送っていたのです。 このような日本の支配体制は、 下部にある共同的に統合された呪術的支配体制を、 より強固な呪力で再支配する体制とも云えるのです。 これら土着の呪術的かつ共同体的な支配体制内において、 新たに外国から公伝した仏教の受容については、 外交的儀礼を含めて、どうしたらいいのか頭を抱えた事でしょう。 『日本書紀』には、大騒ぎが起こったと書かれています。 あはは。 天皇、豪族と言えども、同じ人間なのですね~ 親しみを感じてしまいます。 (笑い) 29代・欽明天皇が、仏教の信仰をどうしたらいいだろうか?と 居並ぶ群臣に聞いた時、 物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対をし、 「 そもそも倭国の天皇は天神地祇を拝してきたのに、 それをやめて蛮神(外国人のまつる神 )を拝めば、 国神の怒りを招くであろう」と述べたと『日本書紀』は、伝えています。 このような日本古来の国神に対する外国の蛮神という発想が、 仏教の仏を捉える出発点であったようです。 その一方で、蘇我稲目は、 「 西の国々はみんな仏教を信じているのだから、 日本もどうして信じないでおれようか、仏教に帰依したい。」と 言ったので、 天皇は、蘇我稲目に 百済の聖明王から献上された仏像と経論他を下げ与えました。 稲目は私邸を寺として仏像を拝み始めますが、 後、疫病が流行ると、 外国から来た神(仏)を拝んだので、 その前に信仰をしていた国津神の怒りを買ったのだ、と、 寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てます。 あはは~! なんということでしょうか! 自分が手を合わせて拝んでいたものを捨てる! なんて、、、 大した信仰心までを持ち合わせていなかったのでしょう。 まず、仏と云うものが分かっていなかったのです。 ほほっ。 その後、 仏教の可否を巡る争いは、 31代・用明天皇の後継者を巡る争いで 物部守屋が滅ぼされるまで続きます。 近年、物部氏の本拠であった河内の居住跡から、 氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見されたりして、 物部氏も仏教を私的に信仰していたと云う可能性が高まっており、 同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られています。 結局のところ、 崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・否受容を争ったというよりは、 仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの 意見の相違であったとする説や、 本質は朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いとする説も出ており、 従来の通説に疑問が投げかけられています。 蘇我・物部両氏の対立の後、 587年、蘇我氏が支援した推古天皇が即位して、 曽我馬子によって本格的な伽藍を備えた 半官的な氏寺・飛鳥寺、四天王寺・法隆寺が建立され、 仏教的道徳観に基づいた政治を行ったとされます。 が、 この時期において仏教を信奉したのは、 朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、 仏教が国民的な宗教になったとは言い難い状態でしょう。 その後、時代は、 蘇我入鹿を暗殺して、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から 天皇中心の政治へ転換しようと乙巳の変 (いっしのへん)『大化の改新』を 行った藤原鎌足、中大兄皇子の時代へ大きく変わります。 645年です。 中大兄皇子こそが、今回の記事の天武天皇の兄、 668年即位をした38代・天智天皇になります。 中大兄皇子は、父、34代・舒明天皇と、 母、★35代・皇極天皇(重祚して、★37代・斉明天皇)との間の 第二皇子です。 (文中の、★は女性のしるしです。) 男の運命の舞台は、 社会での欲望の達成、権力欲の達成かもしれませんが、 その根となる運命の源は、その人の家族、一族のありさまに見れます。 次に、 簡単に天智天皇の身近な家族との関係を、一部挙げておきます。 天智天皇から平城京の奈良時代が始まります。 大化の改新より23年後の即位というのは、いろいろ問題があっての事、 天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説があります。 中大兄皇子であった当時の出来事ですが、 孝徳天皇の正妃・間人皇女(天智の同母妹)との不倫関係を示唆します。 最初の結婚は、鏡王の娘とでしたが、 その後、鏡女王を中臣鎌足に娶らせたのですが、 この時すでに、鏡女王は懐妊していましたから、 中臣鎌足の息子、藤原不比等は中大兄皇子の子供という説もあります。 また、その頃、弟・大海人皇子と結婚していた額田王(鏡女王の妹)を 離婚させて、自分の元へ嫁がせる。 という様な事もしています。 こうして、天智天皇は14人の子どもを残した事になっていますが、 そのうち娘は10人、 その中から5人の娘を弟の天武天皇へ妻として与えています。 これだけの娘を弟へ娶らせたと云うのは、 同母兄弟と云う関係でなかったとも考えられます。 天武天皇へ与えた娘のうち大田皇女は、天武天皇の正妃で、 蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘が産んだ娘です。 大田皇女(伊勢斎宮となった大来皇女、大津皇子の母)は、 大津皇子を生んだ2年後に亡くなっています。 幼い時、 父(当時、中大兄皇子)と藤原鎌足の陰謀に拠るとされる密告で、 孝徳天皇の兵が、 謀反の咎で祖父(蘇我倉山田石川麻呂)へ差し向けられ、 その時、 祖父(蘇我倉山田石川麻呂)は、山田寺で自害をしてしまいます。 その心労で母を失い、長女として幼い2人の妹弟を守らなくてはいけない 心労から大田皇女は短い一生を終えたのかも知れません。 大田皇女がこんなに早く亡くなる事がなければ、 妹の鵜野讃良皇女(後の持統天皇)が、 天武天皇の皇后になる事はなかったでしょう。 そうすれば、持統天皇も有り得なかったのはないでしょうか? 歴史は大きく変わっていたはずです。 おそらくこの頃は、 国内的には、曽我氏が天皇家を脅かす程の権力を握り、 まず、その排除をする必要性もあったでしょうが、 なにしろ屈辱的な朝貢貿易の時代に、 隋や唐から受ける文化的刺激で成長をしていた我が国は、 朝貢貿易の宗主国である中国に、 野蛮な文化的に劣った国として扱われたくなかったのです。 そして、またいつまでも従属の関係の外交関係でいたくなかった。 文化や軍事や経済等、あらゆる面で、 中国から後進国扱いの外交関係を脱したかっのです。 その為には、天皇中心の中央集権国家としての建て直し、 隋や唐という国家と同じように、律令(法律)による政治を行う。 仏教をその精神支柱として、国の文化とする事を真似るのに急務だった。 仏教を、精神面における宗教的な受容というよりも、 隋や唐といった、アジアの先進国と文化や政治のレベルで肩を並べ、 国としてのお体裁を整える為の道具として、 仏教を必死に受け入れる。 という動機が大きかったはずです。 仏教に、「日本の国際的地位の向上」という目的が課せられていた。 要は、中国の姿、形、宗教を借りて来て、真似て、 対等な国としての格好をつけたかった。 そういうエネルギーと藤原鎌足というブレーンによって、 天智天皇が押し上げられたのではないか。 渡来人や朝貢貿易によって中国の思想や知識を吸収し、 呪術政治を律令政治へ転換をし、うまく“脱皮”に成功をした。 日本は、新しい船出をしたと言えるのでしょう。 運命学において、 婚外の男女関係の乱れは、いわゆる現代の不倫ですか、 家系の運気レベルをひどく押し下げてしまいます。 いくら政略結婚ばかりの時代であっても、そうです。 夫婦である相手に、恨みと悲しみを与え不幸にするからです。 不貞に限らず、不道徳な事は、陰徳が消えて行くのですね。 『天』の秩序に反するからです。 その一番現れる処が、子供、子孫です。 思うようになりません。不如意です。 いかに権力を掌中にし、巨万の富を蓄えた人間にとっても 頼りにしていた子供が、倒れる、夭折する、当てが外れます。 引継ぎが上手く行えません。ひどく不道徳なら、すぐに子供に、 大抵の場合は、3~4代目に時を経て現れます。 究極の現象としたら家系的には、家系を継ぐ者が途絶えるようです。 それは、つまりお墓の祭祀の継承者がいなくなる... それは、つまり、自分を弔う者がいなくなる...のです。 なぁんだ、そんなこと、どうでもいいよ~! ですか? あはは。 今は、個人の、しかも、刹那的な欲望の満足だけが”しあわせ”だと、 自分のしたい事をする事が、”しあわせ”だと、 あらゆる方向から思わさせられている世の中です。 先祖が残してくれた陰徳のおかげで、なんとかやっていますが、 私達が、なぁんだ、そんなこと、どうでもいいよ~! で済ましてしまうと、未来は? そう、 死は、nothingではありませんから、、、 無ではありません。 そして、 何の理屈よりも、 夫婦が仲が良いのが家運の為にも、自分の為にも一番良いのですよ! (笑い) 次回は、大化の改新から、壬申の乱までの内政と、 朝貢貿易の詳しい状況から見る屈辱的な中国との外交的な関係。 できれば、( 無理かもしれませんが、、、 ) 聖武天皇と光明皇后の運命を、生み出した二人の女性を 探ってみたいと思います。 聖武天皇側は、父方の曾祖母になる持統天皇。 光明皇后側は、その母、橘三千代(たちばなのみちよ)です。 時代の裏には、女あり! あは~! 乞う、ご期待!~! 今日は日曜日ですね。 素敵な一日でありますように・・・ 世界の不思議が、 みなさまの心満たしてくれますように・・・・・ -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
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あは~と笑いながら記事を書いているのが想像できて、
こりゃ楽しみで書いているというのが読んでいると判りますよ。 前頭葉が疲れたのをみると大砲だ~った。大作であった。 逃げろ! 始まりましたね。「運命学からみる日本史」。
仏教伝来から、大化の改新まで・・・。 日本史の教科書を読むよりワクワク感があります。 稲荷山の頂上付近の写真が記事の雰囲気に合っていて見とれてしまったのです。
大田皇女の事が心に残っています。 いまだかって知らなかった人ですが、 そういう方も皇族の中にいた... まさに、人は運命にもてあそばれるのですね。 不幸の前には不道徳がある。妙に納得できますね。 ここまではっきり深い事を教えていただいて...運が良いわ。 遅くなってしまいました。=おげんきですか?=
今日のコメントは書きにくいですね。ムズカシイ~!= 日本史は大好きな科目でしたが、最近は本もなかなか読めないですね。= 大人の日本史と言うのか深く知る事によって自分の知恵になるような輝きを感じます。= 宗派というものは、お葬式の時くらいしか考えたことがない、その程度です。= もっと深く知る事ができたら違った世界が見えそう、続けて読ませていただきお勉強します。= なにしろ●●●が付いていけそうもない私なので・・・・・= Re: タイトルなし> あは~と笑いながら記事を書いているのが想像できて、
> こりゃ楽しみで書いているというのが読んでいると判りますよ。 > 前頭葉が疲れたのをみると大砲だ~った。大作であった。 > 逃げろ! ★あはは~! 見られてしまいましたね~ お疲れのところ、ありがとうございました。よき日をお過ごしください。感謝☆cosmos Re: タイトルなし> 始まりましたね。「運命学からみる日本史」。
> 仏教伝来から、大化の改新まで・・・。 > > 日本史の教科書を読むよりワクワク感があります。 ★あはは。 日本は、正直に自国の歴史を語っていない所がありますね。 お体裁ぶっているところ、優等生ぶるところなど、(笑い) もっと脱皮して、もっとおおらかに自分を語るべきだと思うわ~。 いつもありがとう! 感謝☆cosmos Re: タイトルなし> 稲荷山の頂上付近の写真が記事の雰囲気に合っていて見とれてしまったのです。
> 大田皇女の事が心に残っています。 > いまだかって知らなかった人ですが、 > そういう方も皇族の中にいた... > まさに、人は運命にもてあそばれるのですね。 > 不幸の前には不道徳がある。妙に納得できますね。 > ここまではっきり深い事を教えていただいて...運が良いわ。 ☆運が良いわ、、、そう言っていただくとうれしいわ~ あはは。 幸せになろうとする前に、不道徳を反省しよう! (笑い) 本当に幸せになれる人なんか居なくなってしまうかも、、、 いつも、ありがとう! 感謝☆cosmos Re: 遅くなってしまいました。=> おげんきですか?=
> 今日のコメントは書きにくいですね。ムズカシイ~!= > > 日本史は大好きな科目でしたが、最近は本もなかなか読めないですね。= > 大人の日本史と言うのか深く知る事によって自分の知恵になるような輝きを感じます。= > > 宗派というものは、お葬式の時くらいしか考えたことがない、その程度です。= > もっと深く知る事ができたら違った世界が見えそう、続けて読ませていただきお勉強します。= > なにしろ●●●が付いていけそうもない私なので・・・・・= ★げんきですよ! 何とかかんとか、やっています。 あはは。 日本史がお好きなら、丁度よかったですね! おかしな所があったら、ご指摘ください。ご感想もお聞かせくださいね。 いつもありがとう! 感謝☆cosmos |