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10/29 11:13 |
朝貢貿易 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その3Category : 運命学と歴史
![]() 那須高原からの帰路、 西那須野ICへ向かう道路上 雨なのに青い空 前回のつづき、 前回予告をしました、『大化の改新』から『壬申の乱』、 余裕があれば、 聖武天皇と光明皇后の運命を、生み出した二人の女性を、 取り上げてみたいと思っています。 聖武天皇側は、父方の曾祖母になる持統天皇と、 光明皇后側は、その母、橘三千代(たちばなのみちよ)です。 ちょっと欲張りすぎたかな、 と反省をしています。 あはは。 今日の記事が長すぎるようなら、次回へ廻しますのでご了承を.....。 『大化の改新』を行った藤原鎌足、中大兄皇子の時代 すなわち、天智天皇の御世になった処からでしたね。 歴史上の人物は、誰でもそうですが、 私的な家庭生活や家族関係、生活面を見る方が、 作られた公的な業績よりも、その人となりの実像が見えてきます。 なぜなら、力がある人物なら公的な業績は、いくらでも、 作為的に作り上げられます。 まさに、『日本書紀』や『古事記』のように、 それが天智天皇の死後、権力を奪った天武天皇の思惑から出て作られた 文献においては、権力者の都合の好い様にいくらでも書く事が出来ます。 そういう意味で、残った歴史とは“勝者”の側の記録なのです。 その記録を金科玉条のように正史であると肯定をするという事は、 なんとアホラシイ事でしょう。 一つの視点には違いありませんが、、、 本当の歴史とは、残された文献や、歴史記念物から、又は、 同時代の交渉相手である外国の歴史上に残された文献と突き合わせると 言う作業をしながら、いかに真実に迫るかという点を忘れられたら、 それは、もう母国の歴史であっても魅力を感じなくなります。 当然いろんな視点があっていいのだと思いますが、 国民が知りたくなる歴史、 知ることに依って、国を尊ぼうとする気概が生まれる歴史、 その国の人間として生まれて良かったという感謝が芽生える歴史、 であって欲しいですね~~。 特に、最高権力者を見る時には、 その人物が、相手の女性をどう扱ったか? 扱うか? あはは~! “ 愛していた”とか、“ 大切にしなかった”とかの、 一言で片付けられるようなものではありませんよ。 女性の側から見ると言う側面だけではなくて、 これは、その人が、自分の財産をどう扱ったか? 扱う人か? を知るのに役に立ちます。 これは、非常に大事です。 ご参考になさってください。 天智天皇に関しましては、後、『壬申の乱』についての記事の時に、 また、詳しく書くつもりですが、、、 特に、当時の天皇家は、 現在の象徴天皇制のように民主主義で国会に管理された?収入だけで はなくて、すべての事に実権を持つ、まさに日本国の最強権力者です。 当然多くの利権なども一手に握っていたでしょう。 また、利権においては豪族との駆け引きも絡んできます。 天皇の近くに上がれる采女は、各地方の豪族の娘たちでした。 天皇が相手にする女性も、利権の一部、財の一部と見てよいでしょう。 女も財も使い放題、自己の思うがままに、です。 (笑い) その相手となった女性は、どうだったのかと言うと、 女性が、まるで心のない物のように扱われるこういう状態は、 一つは、いつも言います正しい宇宙観、自然観、人間観、生命観、 それらから来る道徳観、人生観、そこから生まれる結婚観、家庭観、が、 社会の中に形成されていない状態のなかで生きているわけですから。 あったとしても、非常に低いシャーマニズム【shamanism】、 アニミズム【animism】の範疇における未分化な社会です。 だから、今の女性が思うほど、彼女たちは不幸と思っていなかった。 それが当たり前と受け入れていた。 はずです。 そういう未分化な社会を、それをいち早く脱したのが、インドの仏教です。 いわゆる森羅万象の奥に、因果の理法 (すべての物は原因・結果によって起こっている)を見出したのです。 それまでの時代の人類は、森羅万象の現象の表面だけを見て、 それが何故起こるのか? 説明できないレベルだったので、 その現象そのものに神の存在を見出すしかなかったのです。 火事のおかげが “火の神”、洪水になれば “水の神の祟り”です。 いわゆる、当時の人の意識レベルで捉えられない範囲は、 無意識の世界の言葉で括るしかなかったのです。 いわゆる幼子が、すべての良し悪しを母親の言動に由るのと似ています。 結果の原因を皮相的なレベルに求めるしかない観点の低さ、甘さです。 よく言う、“社会が悪い”、夫が浮気をしたら“夫が悪い”と、 すぐに相手に原因を求める、そして攻める。 そういう自己中心性を脱していない認識の低さに通じるものです。 人類は、そこから脱した者が勝ちなのです。 国も、個人もそうです。 だから相手よりも優れた宇宙観、自然観、人間観、生命観、 それらから来る道徳観を持った方が、価値であり、勝ちます。 根源は、宇宙観(天の道)、自然観(地の理)、 それに調和した人間観(人の紀)です。 この三つです。 今日は、日本の奈良~平安時代、 中国と行った朝貢(ちょうこう)貿易の遣隋使、遣唐使派遣について、 考えて見ましょう。 なぜ、中国とそういう形になったのか? そうしなければならなかったのか? そういう運命に陥った原因は、何だったのか? それは、当時の中国と、倭国・わが国との 宇宙観(天の道)、自然観(地の理)、人間観(人の紀)の違いです。 違いというよりも、圧倒的に高い思想体系が中国にはあったからです。 それらが生まれる素因の一つに、地勢的な条件もあげられるでしょう。 それは、又、別の機会に。 広い、周りをすべて包含する位の世界観を持っている国に対して、 何の世界観も持たない国は、その中に組み入れられてしまうという 現実というものがあった。 今もあるという事です。 経済力が、すべての源のように現在の世界は、動いています。 それは、違います。 それは一つの現象にしか過ぎません。 そう見せている? その方が本当に支配をしようとする人間には、 支配をするという意志を見られないで済む。 隠れる事ができる。そういう理由からでしょうね。 世界は、見て、感じて、それだけの奥行きではありません。 見えない世界の方が、正も悪も、膨大に広いのです。 経済の勝負の前に、 その奥の目で見えない世界の勝負が着いているという事を その事を、確認したいと思います。 時代を遣隋使の頃へ元に戻します。 朝貢貿易の詳しい状況を通して、 外交的な中国との関係において、思想に負けるという事は、 抜き差しならない本質的な従属関係に陥るという事、 それを見て行こうと思います。 残念ながら、我が国は、大和政権成立の当時から、 この東アジアにおいて、先進国ではなかった。 呪術を用いた政治を行い、法律を用いた政治ではなかった。 片や、中国においては四大文明のひとつである黄河文明を経て、 独自の死生観、宇宙観、自然観を持っていた。 文字も、暦も、天文学も、土木技術も、勝れていた。 きっと、その頃、倭の国といったわが国の人々は、 中国の文物へ憧れ、知った事象を、そのまま受け入れていたのでしょう。 大陸の中国が、すべての流れの川上であり、源流だった。 そういう関係に違いなかったはずです。 そういう関係とは、 今も変わらないある国に対する外交における日本の位置に似ています。 それらについて、先へ進みます。 今の日本の現実に至る遠因を深く知る上でも参考になるかもしれません。 日本の奈良~平安時代、 中国では隋・唐の頃、仏教の信仰や研究が盛んになっていました。 当時は、朝貢(ちょうこう)貿易の遣隋使、遣唐使派遣が盛んでした。 朝貢貿易というのは、学校で習ったのは、 中国の皇帝に貢物をする貿易だ、という内容だったはずです。 しかし、実際の詳しい実態は語られていませんね。 それは、おそらく、、、 中国に対しての立場が、日本にとって屈辱的な立場だったからか、 朝貢貿易と言うのは、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態で、 中国の皇帝に対して周辺国(属国)の君主が貢物を捧げ、 これに対して中国の皇帝側が恩賜を与える、 という形式で成立した貿易の事です。 中国古代史で 『 中華帝国冊封(さくほう)体制論 』を唱えた、 東京大学名誉教授、中国史学者西嶋 定生(にしじま さだお)氏が、 この関係を『冊封体制』という概念で説明をされ、(冊封・さくほう) 「六-八世紀の東アジア」(1962年)にて、 「東アジア世界」という「その中で完結した世界」があったと言う事を、 その存在を提唱しています。 『冊封体制』とは、 冊封によって作られる中国を中心とした国際関係秩序の事です。 冊封とは、中国の「天子」皇帝と、と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、 名目的な君臣関係をともなう外交関係の一種です。 簡単に言うと、(宗主国)と(属国)の関係での外交関係で行う貿易です。 そう、中国は古代においても、自前の国際関係秩序を持っていたのです。 それはどういうものか? その背景には、「天子」と「皇帝」の言葉の使い分けがあります。 まず、「天子」とは、 「天命を受けて自国一国・中国だけでなく近隣の諸国諸民族を支配・ 教化する使命を帯びた君主」の事を言い、国外へ向けての呼称です。 「皇帝」とは、中国国内での呼び名です。 まったく感心をしてしまうのですが、 初めから近隣諸国を支配しようとする戦略があったのですね。 この戦略が生まれた背景には、 中国側の「華夷思想」・「王化思想」が根底にあります。 「華夷(かい)思想」とは中国に住む者を文化の高い華とし、 周辺部に住む者を礼を知らない夷狄(いてき)と蔑み、 峻別する思想の事です。 夷狄とは、中国から見て未開の民や外国人、野蛮な民族の事を言い、 東夷(とうい) - 日本・朝鮮などの東方の国 、人 西戎(せいじゅう) - いわゆる西域と呼ばれた国、 北狄(ほくてき) - 匈奴・鮮卑・契丹・蒙古などの北方の国 、人 南蛮(なんばん) - 東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋の国、人 これらの言葉は、今では死語になっていると思っていたのですが、 学術的には使われ続けているそうです。 え! 「王化思想」とは東西南北の夷狄(野蛮な敵)であっても、 中国皇帝の徳を慕い、中国皇帝への礼を受け入れるならば、 華の一員となることが出来る、してあげる。と言う思想です。 夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば 冊封国=属国になれたわけです! (喜んでいいのか? 苦しんでいいのか? トホホ、、、) 冊封とは、天子が、臣下や諸侯に冊をもって 爵位や称号・任命書・印章などを授けます。 つまり、 冊封を受けた属国の君主側は、 王や侯と言った中国の爵位や称号、印を授かり、 その授受を媒介として、中国皇帝と君臣関係を結ぶ事です。 (要は、名誉を与えて柵の中に囲い込んでしまうのか?) あぁ、だから江戸時代でも、毛利のお殿様などが『日本国の王の印』と いう印を持っているのですね。 あれは、中国から貰ったのかしら? 冊封関係を中国と結んで、『冊封体制』の中に入るメリットとは、 一つ目は、夷狄である周辺国が、冊封のおかげで中華の一員となれる。 二つ目は、他国の攻撃を受けた時は中国の救援を求める事が出来る。 三つ目は、中国からの軍事的圧力を回避できる。 四つ目は、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築ける。 五つ目は、当時朝貢しない外国との貿易を原則認めなかった中国との 貿易で莫大な利益を生むことが出来る。 (なんだか、似たような関係が、今もあるわね~) 「属国」の側の義務は、 一つ目は「臣・けらい」の立場で「方物・土地の産物」を ≪元旦に献上≫しなければならなかった。 ≪この事≫が朝貢で、これを行う使節を「朝貢使」と呼んだ。 朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通って指定され た「方物」を「天子」に献上し、天子の徳をたたえる文章を提出した。 二つ目は、「天子」の元号と天子の制定した暦を使用する義務があった。 三つ目は、中国から出兵を命令されることもある。 また、宗主国と同じ文字(漢字)、暦も使うようになっていたそうです。 これらの冊封国=属国の君主(天皇)は、 東アジアという冊封された領域内で 基本的に自治あるいは自立を認められていて、 冊封国(日本)がそのまま中国の領土となったと言う意味ではない。 冊封国=属国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、 中国皇帝とは関係を持たないので、 この意味で冊封関係は外交関係での支配であり、 中華帝国を中心にした外交関係の秩序を形成維持する為のものでした。 つまり、貢ぎ、貢がれる、属国、宗主国にとって、 それぞれの国益を謀った駆け引きがあったのです。 宗主国側(中国)の宮中では、 毎年の元旦の「元会儀礼」において朝貢物は展示され、 「天子」の徳の高さと広がりを示し、 献上国の「天子」に対する政治的従属を誇示したそうです。 朝貢の数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのであり、 内外に向けて現政権の正統性を示すためには、 中国の政権は朝貢で得た物以上のコストを払ってでも朝貢を 歓迎したのです。 と言うのは、朝貢には回賜という”お返し”があり、 貢物に対して数倍の価値ある回賜をする事が原則でした。 それが属国である朝貢国にとっては利益になったわけで、 朝貢使節団に対しても多額の褒賞金が与えられると云う ならわしががあったのですね。 その為に冊封を受けていない(属国ではない)国でも 朝貢自体は行うことが出来たので、朝貢を行う国があったそうです。 同じ漢字文化圏である冊封国である属国にとっての朝貢は、 そういう経済的な利益だけではなくて、 書物、情報、知識など、社会・文化的な得点もあって、 貢がされている?割りにそろばん勘定が合うものでした。 また、中国側にとっても、 周辺諸国と敵対関係になって戦争の為の軍事支出を行うよりも、 朝貢を受けて回賜を与えたほうが安上がりであるという現実もあり、 その地方との紛争を避けるという実利的な成果と、逆に周辺諸国 を討伐しようと戦争を仕掛け支配下に置いたとしても、 資源のない生産性の低い地域を支配領域に広げるだけであり、 税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る事になると いう計算の上で、朝貢自体が、中国政権にとって、 外交関係で支配でき安全上も優れた保障システムだったのです。 とにかく、こういう中国に対して、倭国が朝貢までした目的は、 海外の情報や中国の先進的な文物、仏教や儒教の経典等の収集です。 なんとなく、日○安保条約の中身と似ているでしょう? 今も昔も変わらぬ大国と小国の関係なのですね~ (笑い) ついでに逆に、日本が貢がれた例を、 日本は、7~10Cに朝鮮半島北から今のロシアにかけて出来た渤海国 から朝貢を受け入れましたが、 当時の我が国の国力では、毎年の朝貢に対する回賜を行う能力は無く、 朝貢の回数を12年に1回でいいと制限をしたそうです。 あらあら! 、、、 やはり、国力がないと貢がれる事も、無理だったようです。 遣唐使の最後の頃から、日本は、この冊封から外れていくのですが、 清代にはインド以東の国では、 ムガール帝国と日本を除いて他の国々は中国の冊封を受けていました。 当時の倭国と、当時の隋が、どういう関係だったのか? 『日本書紀』と、『隋書』を読み比べてみると、おもしろいのです。 推古天皇8年にあたる、600年 に第1回遣隋使を派遣していますが、 『日本書紀』に、その記載はなく、(なぜないのか?) 『隋書』にある記載です。 隋の高祖文帝が、遣隋使の使者に対して倭国の風俗を尋ねます。 それに対する遣隋使の使者の答えが、高祖からみると、 倭国の政治のあり方が道理に反したものに思えたのであろう納得できな かったようで、そこで、倭国の政治を改めるようにと、 使者に対して訓令したというのがあります。 (要は、政治のやり方にまで、指示を受けていた?) もうひとつは、 607年、聖徳太子が小野妹子を派遣した第2遣隋使の時です。 あの有名な「 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という あれです。 私の記憶では、聖徳太子が隋の皇帝に対して対等な書き方をしている、 それ程、聖徳太子という人は優れていたという様な話を 学校の授業で習ったと覚えています。 しかし、『隋書』にある記載では、 隋の皇帝煬帝(ようてい)は、倭国の王からの国書に、 “日出ずる処の天子”と倭国の王が自称しているのを見て立腹し、 外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に 「蕃夷(ばんい)の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と命じたと、 あります。 無礼な野蛮なやからの書は、今後自分に見せるな、と。 隋に従属している倭国の王が、 自分の事を天子と名乗るとは持ってのである! 思い上がるのも甚だしい!!二度と聞きたくもない!! と そう、立腹したという事です。 これには、続きがあります。 この時に小野妹子が持参したのは、 聖徳太子から隋の皇帝煬帝へ当てた「国書」です。 この返事は、外交儀礼では、帰国の時に持たされるのは煬帝からの 「返書」であるべきです。 しかし、この時に小野妹子へ持たされたのは、 倭国を臣下扱いする「訓令書」でした。 小野妹子は、これを天皇に見せて、天皇の怒りを買う事を恐れた為に、 妹子がその返書を破棄してしまった。 というのは、 妹子が「返書を掠取された」という大失態を犯した様に取り繕い、 大芝居をして、聖徳太子、推古天皇などとも合意した上で、 返書を掠取された事にした!? 「訓令書」しか貰えなかった事を隠した!?と 推察される事件もあったような記述が日本書紀にあります。 あは! マンガ、、、(笑い) それ位に、弱いと云う事は、苦しい立場だった、、、。 我が国は、威信を守りたかったのです。 小野妹子の返書紛失事件は『日本書紀』にはありますが、 当然ですが、『隋書』に記載はありません。 これらの事から、隋と倭国の関係がどういったものだったか? 訓示した、、、無礼な蕃夷、、、訓令書ですから、ね。 対中国に対しては、今も昔も変わらない? あはは。 王の位は、皇帝の下になります。 隋が滅ぶ618年(推古26年)まで、5回の遣隋使が行われています。 12年後に始まった遣唐使は最後の838年まで、 約200年間に渡っています。 唐の皇帝から、”その道の遠きを矜(あわれ)み、”と、 遠い所からだから毎年来なくてもいい、 20年に一回の朝貢でいいと許されて、 その間に、12~20回の諸説がありますが、遣唐使を派遣しています。 その間、派遣を命じられた者が、病と称して行かずに流罪になったのと か、あらゆる海難事故に遭ってたくさんの方が亡くなっています。 朝貢とは、元旦の朝に皇帝に貢物を持って伺うという事ですから、 12月中に都に着かなければならなかったのです。 そう、冬の海の荒れる時の航海をしなければいけなかったのです。 その当時の人たちの苦労が忍ばれます。そういう人々の犠牲の上に、 今の日本があるのだと思うと感謝をせずにはいられませんね。 「旧唐書」に記載されているのは、日本の遣唐使使節団が、朝貢の礼に 唐の皇帝から下賜された文物を、長安の都で全て売り払って、 代わりに膨大な書物を買い込んで帰ったと言う話が載っています。 どれだけ日本が中国の知識を求めていたかが分かりますね。 素直な日本人は、自国の知識や文物が劣っているから、 中国に引け目を感じないといけないのだと思ったのでしょう。 そして負けたくなかった。 国の為に必死に学ぼうと努力をした。その姿が目に浮かぶようです。 しかし、知識を学ぶ、身につける、真面目にそれだけをすれば、 外交関係とは対等に行くものでしょうか? 自国の国益第一の頭のいい相手は、いろいろな理由をつけて 自分を上位へ以っていくはずです。 この外交における力の違いは、何処から生じるのでしょうか? 一つは、確固とした世界観を持っているかどうか? そこから来る対外戦略があるかどうか? これらは、物で作るものではないのです。 物を所有する事でもない。外貨を貯めることでもない。 価値ある者や物が集まってくる思想を持つ事です。 それは、目に見えない所の戦略。その戦略を生む見えない理念です。 理念も戦略も持っていない国は、今も昔も同じです。 いつも周りを見てウロウロするしかないのです。 ウロウロすると言えば、 築地市場、 世界の人口が70億人へと近づく中、食料の需要の増加は加速してい ます。経済成長によって所得が増えたBRICs4カ国も、 食料においては輸出を減らす一方、輸入量は拡大しているそうです。 東京・築地市場の2010年1月の初セリでは、香港と日本で店舗展開する 「板前寿司」が3年連続の最高値でクロマグロを落札した。 今年の最高値は重さ232kgのマグロで、1本1628万円という値段は、 2001年の2020万円に次ぐ記録だ。板前寿司を経営するリッキー・ チェン氏は「香港の人もおいしいマグロを求めている」と話す。 2010年の初セリにはマカオで高級日本料理店を経営するフューチャーブ ライトグループも初参加し、築地市場でもアジアの勢いは増すばかりだ。 もちろん日本も新興国などの買いに応戦すればいいのだが、 高値で買い付けても低価格志向の強い店頭で価格に転嫁できず、 国際市場で買い負けてしまう。 デフレの日本を素通りし、富裕層の多い上海など中国の沿岸部へ向かう。 (日経電子版 食料ウォーズ より引用) いくら一流企業が業績で海外で勝ったとしても、 国内の労働者の所得が伸びないと購買力は出てこないのです。 その為に、お魚大国だった日本において、高級魚が海外へ全てさらわれ て行ってしまうという悲しい現実です。 指をくわえて、それを見ているしかないのでしょうか? わが国においては、 真の高度な精神文明を培っていかなければ、、、。 祈るような気持ちです。 。。 週末が巡って来ました。 よき休日をお過ごしください。 長い記事を最後までお読みくださって、感謝です! 参照: 「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」 川本芳昭著、九州大学 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
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ちょっと読み応えがありすぎて休みを入れて全部を読ませていただきました。(笑)=
どのくらいの資料を読まれたのか・・・、= 国史というものを、もっと知るようになるべきと反省しました。= 高校の授業では選択で、日本史を全員が習わないのですが、= これでは、過去を知らないまま未来を作る怖さの様なものを感じます。= いろいろな視点があってもよい・・・= 今のまま、これではどの視点も持っていない国民の集まりにしかなりませんね。= 目を持っていないわたしたち、こわいです。= 日本人って、周りに気を使う国民性はそのままと思いましたが、奈良時代の出来事も、今に起こったことのようです。時が経っても変わらないのですね。本質的なことは。
繰り返し書かれている精神性の広さ高さがキーポイントとは、 この物質文明への力強い反論のようです。 いくつかポイントがあって、思わずメモを取りました。最近進化がはやい.....。 100年前に崩壊したと思われた冊封体制・・・現在も存在しているって感じでしょうか。
理念も戦略も持っていないと、ホント相手国の動きに翻弄されて、行動にブレが生じて、足をすくわれそうです。 もう、すくわれかけているかもしれませんが、 根っこを張りめぐらせて、何とか踏み留まらなくてはいかんのですね。。 最後に「築地」の話題とリンクするとは思いませんでした。 日本人は苦労して来たんだね。
エコノミックアニマルまでして動物になって、 人間じゃなかったし、、、 いやぁ~、仰る通りそのとおりよ。 基本を踏まえた筋の展開で、今日もやられターァ、逃げろ! ごきげんようこちらは台風らしくない風と雨が続いております。
お庭の花達には癒しの雨だろうと喜んでいます。 数分出ると奈良の山々が見えます。 この風土で生まれた奈良時代の日本史の記事楽しみです。 Re: タイトルなし> ちょっと読み応えがありすぎて休みを入れて全部を読ませていただきました。(笑)=
> どのくらいの資料を読まれたのか・・・、= > 国史というものを、もっと知るようになるべきと反省しました。= > 高校の授業では選択で、日本史を全員が習わないのですが、= > これでは、過去を知らないまま未来を作る怖さの様なものを感じます。= > いろいろな視点があってもよい・・・= > 今のまま、これではどの視点も持っていない国民の集まりにしかなりませんね。= > 目を持っていないわたしたち、こわいです。= ★長い記事を最後までお読みいただきまして、、、ありがたい気持ちで一杯です! (笑い) これが無意識に重点を置いている強みと言いますか、 自然と関心があるものは、目に留まるので、あまり苦労をしていないのですよ。 ある時期から、自分を知る上でも歴史を正しく知るのは必要だと思うようになりました。 歴史を知ると、贋物と本物を見分ける良識というのか、それが身についてきますね。 いつもありがとう! 感謝☆cosmos Re: 日本人って、> 周りに気を使う国民性はそのままと思いましたが、奈良時代の出来事も、今に起こったことのようです。時が経っても変わらないのですね。本質的なことは。
> > 繰り返し書かれている精神性の広さ高さがキーポイントとは、 > この物質文明への力強い反論のようです。 > > いくつかポイントがあって、思わずメモを取りました。最近進化がはやい.....。 ★日本人の本質ですか、 そうですね。私もそう思います。 ずっと、誰かの後を追って来た。一生懸命に頑張って来たのが日本人ですね。いとおしい位に、、、 精神性の高さ、それは即ち自分の存在の高さですよ。位が高いとかじゃなくってね! あはは。 誰からも左右されない自己の値打ちの練磨、磨くほどに軽くなるわが身かな~。(笑い) いつもありがとう! 感謝☆cosmos Re: タイトルなし> 100年前に崩壊したと思われた冊封体制・・・現在も存在しているって感じでしょうか。
> 理念も戦略も持っていないと、ホント相手国の動きに翻弄されて、行動にブレが生じて、足をすくわれそうです。 > もう、すくわれかけているかもしれませんが、 > 根っこを張りめぐらせて、何とか踏み留まらなくてはいかんのですね。。 > > 最後に「築地」の話題とリンクするとは思いませんでした。 ★そうですよ~! それを誰が自覚しているかしら?! 現実を認識すれば、行動が変化をして、よりレベルアップした自己の作戦が決まると思うのですが、、、 少しも変わらずに、”生真面目一本でやっていれば、どこかで報われる”と信じて、右往左往している。 右往左往しているというのは、結果的に相手の全貌が見えないという事ですから、此方の落ち度なのね。 相手が悪いのではないのよ。 でも、今の日本は、相手を攻めるだけで終わっている。そして、もがいている? あはは。 その自分の落ち度を見据える事もせずに、”生真面目一本”では、本物の”生真面目”でもなくなるわ~。 品位が下がるだけですね。三流の政治ですね。 残念です! 政治家は、そういう言動が、自己の観念の中だけの努力にしかなっていない事に気がつかなければいけませんね。 わが国は、勤勉さはありますが、 そこで終われば、もっと利口な上層の思想の持ち主に利用されるだけなんだから、、、。 いつもありがとう! 感謝☆cosmos Re: タイトルなし> 日本人は苦労して来たんだね。
> エコノミックアニマルまでして動物になって、 > 人間じゃなかったし、、、 > いやぁ~、仰る通りそのとおりよ。 > 基本を踏まえた筋の展開で、今日もやられターァ、逃げろ! ★あはは~! 昨夜、たまちゃんさんを追いかける夢を見ましたわ! あはは。 人間じゃなかった? そりゃまた、手厳しいご発言ですね。 やられたァ~ ! あはは~ いつもすみません! 感謝☆cosmos Re: ごきげんよう> こちらは台風らしくない風と雨が続いております。
> お庭の花達には癒しの雨だろうと喜んでいます。 > 数分出ると奈良の山々が見えます。 > この風土で生まれた奈良時代の日本史の記事楽しみです。 ★ずっと、こちらも雨が続いています。 奈良の山々、雨に煙って美しいことでしょう。 そうなんですね。今の歴史の舞台だったのですもの、、、。 もっと、詳しい事がお解かりなら、是非お教えくださいね。 いつも、ありがとう! 感謝☆cosmos |