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    女帝 2 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学 その6

    Category : 運命学と歴史
    那須高原 ステンドグラス美術館

    那須高原 ステンドグラス美術館 



















    今日は、予告をした通りに、


    持統天皇の即位以降と、飛鳥(あすか)時代最後の天皇 

    42・文武天皇(持統天皇の孫)までの予定ですが、

    可能なかぎり、先へ進めようと思っています。





           ☆ 41・持統天皇 (女帝 《在位7年》




    持統天皇の特徴的なのは、

    頻繁な行幸で、在位中に31回の行幸を記録します。

    一番多いのは吉野行幸です。


    伊勢に一度、紀伊に一度の行幸も、

    『万葉集』には、近江に一度の行幸も記述されています。




    吉野は、天武天皇との思い出の地というだけではなく、

    我々には想像を絶する心労があったためでしょう。



    本来の女の人生の完成期における安定とは、

    力を持った夫に支えられ、壮年に達した息子、その幼い孫の成長を

    目を細めて眺めていられる平凡な日常です。




    持統天皇には、

    その日常が無かった。。。。。


    天皇神格化路線の最高権力者としての地位は築き上げたけれども、

    自分を守ってくれる夫も亡くなり、頼るべき息子も夭折し、

    残された幼い孫と、嫁と子供たち。

    自分が守ってやらなければならない者ばかりでした。


    しかも、守る物は、それだけではなっかた。

    それ以上に大事な、手にした皇位があった! 





    このストレスは、想像を絶しますよ。


    オリンピックで金メダルを取るストレスなんて、あはは。


    小指の垢くらいのものでしょう。 (笑い)



    人は、手にした楽と同質量の苦労を背負うわけですが、


    苦と楽とは背中合わせなのです。

     






    単に、息子を亡くすという不幸だけでも発狂しそうな位なのに、、、。




    跡継ぎの草壁皇子を亡くし、孫の軽皇子に移譲するまでの公の政務。

    どれひとつを取っても放り出して逃げられないものばかりです。


    いかに自分から天皇になりたかったのだとしても、

    男勝りな有能な女性であったとしても、

    他に類を見ない心労があったのだと。


    それを癒す時空としての、吉野ではなかったか、

    と推察致します。


    それは、あたかも、

    高村光太郎の妻、智恵子がふるさとの安達太良山を思ったように、、、




    持統天皇は、自分の置かれた立場において、

    あらゆる重圧に負けずに果敢に、

    自己の欲望の達成の為に努力をしたはずです。

    その努力には、持てる権力を惜しみなく行使したはずです。







    次のような説もあります。


    草壁皇子の遺児、軽皇子(文武天皇)を天皇にする為の★密約です。


    軽皇子の父の草壁皇子は、即位せず皇太子のままで亡くなっています。



    そういう場合は「皇子」ではなく「王」の呼称で呼ばれるはずなのです。

    が、祖母である持統天皇の力によって、

    立太子以前から皇子の扱いを受けていました。



    不比等と結んだ★密約と言うのは、
    それは軽皇子を天皇にするのに協力をしてくれたら、

    その代わりに、不比等の娘を入内させるというものです。




    7歳の孫が15歳になるまで時間稼ぎに、

    讚良皇女が持統天皇として即位をして、

    この間に都を藤原不比等に因んでいるとも言われる藤原京へと移します。







    藤原京 (694~720)に関して、すこし、、、、、

    2年前ですが、

    この藤原京を造営するための大規模な運河跡が見つかっています。

    この都は、日本で最初の都市計画に基づく都です。



    滋賀県の琵琶湖の南の田上山の木材が、宇治川、木津川の計100km

    を経て奈良県橿原市の藤原京まで、この運河を使って運び込まれ、

    木材などの搬入後、この運河は埋め立てられてたとみられるそうです。


    それは、それで大変な事業なのでしょうが、

    それを成し遂げたのは、すべて奴婢と言われる庶民です!



    彼らの、その頃の生活は、

    土の上に柱を立てたわらぶきの竪穴住居だったのですよ。

    おそらく草類を敷いて、地面の上に寝ていたのです!

    当時は、それが当たり前と言っても、



    天皇や貴族の暮らしぶり。

    その差に気が滅入ってしまいます。
     




    先日の「大仏展」もそうでしたが、

    毎年行く、「正倉院展」にも、

    きらびやかな御物など、珍しい物が展示され、

    わが国の誇るべき文化だと我々は賛嘆をします。



    しかし、一部はそうであるかもしれないけれど、

    ほとんどが外国からたどり着いた御物ではないのか。

    遠い外国と交流があったという証拠にはなるけれど、

    いわゆる当時の倭国の最上流階級の人々が、

    海外からの文化美術品を交易によって手にすることができたと云う

    だけに過ぎないものではないのか。



    同時に、地方と朝廷とがやり取りをした文書が展示をされていて、

    それには、田や畑といっしょに、奴婢が何人、女が何人と、

    まるで奴隷として! 物といっしょに混ぜて交換したり、

    税としてやり取りをした事などが読み取れます。




    それらを見て、「 何が文化だ?」と、笑いたくなります。


    当時の倭国の社会における、統治者の人心の低さ、

    文化以前の野蛮性の臭味を嗅ぎ取ってしまうからです。



    いくら母国の歴史と言っても、

    すべてが正しいと受け入れられるものばかりではないのですね。





    今の政治や官僚主導の政治に対する”怒り”に似た感情と共に、

    何か恥ずかしい心情になります。

    御物の美しさや誇らしさ、それに対比して

    精神の惨めさ=やってはいけない事を発見した時の恥じ入る気持ちが

    沸き起こります。 


    自分が、天皇や貴族のつもりでいるのなら満足でしょうが、

    おそらく我々の先祖は、そうではなかった?  あはは。



    ひとつの例ですが、

    正倉院に納められた御物の目録の中で、

    扇が、 八十  とあるのを見た時、 うそ~!!あはは~


    それはそれは美しい、おびただしい数の芸術品の扇子です!


    信じられない~? と思いましたよ。 (笑い)


    これは格差どころじゃないわ!


    奴婢は、団扇のひとつも持っていなかったでしょうに~。



    意識が! 理性が! 格差や階級を作るのですよ。

    貴族という階級自体、意識と理性の産物です。



    または、人間は格差や階級を正当化する為に、

    理性や意識を発達させて、、、来たのですから、、、。





    そのために、仏教の知識までを利用した。

    仏教を信じて湧いてくる智恵ではなく、

    仏教の智恵を知ったかぶって利用をする仏教の主知主義ですね。


    それが貴族仏教の限界です。


    主知主義は、知者たらんとする人から起こります。




    人間は、エゴの為なら何でも利用しますから! 

     


    では、つぎへ進みます !





          
             ☆ 42・文武天皇 《在位10年》





    持統天皇が52歳の時、


    697年、2月、孫の軽皇子を15才で皇太子にする。

          8月、軽皇子に譲位。持統は初の太上天皇(上皇)になります。


     
    697年、飛鳥(あすか)時代最後の天皇42・文武天皇の在位697~707 
              
             

    ★密約の通り、 不比等は、自分の娘、宮子を入内させます。




    これは梅原猛氏によれば、

    不比等は、地方の美しい娘を自分の娘と偽って後宮に入れたとか。。 



    皇后、妃になろうとしても皇族出身に限られていたので、

    宮子は「夫人」と言う名称ですが、


    『続日本紀』において、

    文武天皇が、正式な妃・皇后を持った記録は無いのです!




    本来は、皇太子になった段階で、

    将来の皇后となるべき皇族出身の妃を決めない事は考えられないので、

    何か原因があってできなかったか、記録が消されたのかもしれない。



    つまり、宮子が一番上位の妻の立場、つまり事実上の皇后だったのです。



    このことについても梅原猛氏は、彼の著書『黄泉の王』で、

    万葉集を根拠に、

    紀皇女こそ妃であったが 弓削皇子と密通した事が原因で

    妃の身分を廃されたという仮説を述べています。


    未来の皇后の不倫という不埒な行為によって公式記録から抹消された?

    紀皇女については記録が殆ど残されていないのです。





    夫人の藤原宮子こそ、首皇子、45・聖武天皇の精神病を病む母です。 






    万葉集に、文武天皇の作られた歌が残っているが、皆さみしい歌です。


    み吉野の山の嵐の寒けくにはたや今夜もわが独り寝む



    本当にさむ~い!凍えるようなお歌ですね~ 





    文武天皇の在位はわずか10年間で、最大の業績は、

    701年、大宝律令の制定・施行。遣唐使の復活です。


    701年、文武天皇と夫人の藤原宮子の間に首皇子が生まれます。

         後の聖武天皇です。


    702年、持統天皇はこの曾孫を見届けて57歳で崩御。


    1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇の墓に合葬されます。



    天皇の火葬はこれが初の例であったそうです。



    なぜ火葬にしたのでしょうか?



    陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。


    持統天皇の遺骨は銀の骨壺に収められていたのですが、1235年に

    盗掘に遭って、骨壺だけ奪い去られ遺骨は近くに遺棄されたという。


    藤原定家の『明月記』には、

    女帝の御骨においては、銀の筥を盗むため、路頭に棄て奉りしと言う。

    塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。

    ひどい話だ。」とあり、

    崩御の500年後に夫・天武天皇と引き離され打ち捨てられた持統天皇の

    悲惨さを物語りその盗掘の顛末が記されています。







    持統天皇の孫の文武天皇も、24歳で病に倒れて亡くなります。

    残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)は、7歳でした。



    母の宮子は精神病で、聖武天皇は物心がついて以後、

    母とは37歳の時まで会う事すらができなかったと言います。。




           



          ☆ 43・元明天皇(女帝《在位8年》




    残された首皇子(後の聖武天皇)は、7歳でまだ幼かったため、

    中継ぎとして、草壁皇子の正妃・文武天皇の母が皇后の経験もなく、

    707年、43・元明天皇、在位707年~715年、が即位します。


    持統天皇の異母妹であり、草壁皇子の叔母であって、

    18歳で甥の17歳の草壁皇子の正妃になっていましたが、

    草壁皇子が即位しないまま亡くなったので皇后にはなっていません。

    持統天皇と同様、孫の成長まで祖母が皇位を続けるというパターンです。









    不思議に思いませんか?





    ★持統天皇の子供は、草壁皇子一人であって27歳で天皇に即位もせず

    に7歳の軽皇子を残して亡くなっています。



    ★持統天皇の孫である文武天皇(軽皇子)も、24歳で

    7歳の首皇子を残して亡くなっています。






    偶然でしょうか?



    偶然ではないのですよ。







    運命学で言えば、天武天皇の家系が女系になって来た証拠です。


    女系とは、頼るべき男性が病弱とか、夭折とか、能力がない等の姿で

    生まれて来て、全く当てにできない為に、

    逆に女性がそれを庇うような力があって生きる為の苦労を背負います。

    女性の側も、男性に守られると言う『陰』の生き方が真っ当できません。



    家系が滅びる末期には、

    こういう傑出した女性が出て男を凌いで成功する現象が現れるのです。
     








    簡単に元明天皇の人間関係を整理しましょう。



    奈良時代になってからの初代天皇である元明天皇は、

    智天皇の娘なので、

    大友皇子、39・弘文天皇、41・持統天皇、とは異母兄弟になります。

    夫・草壁皇子とは、叔母と 甥の関係になります。


    子供は、氷高皇女(元正天皇)、珂瑠皇子(文武天皇)、吉備内親王


    孫は、首皇子(聖武天皇)、広成皇子、広世皇子、膳夫王、葛木王、

    鉤取王、桑田王




    710年、元明天皇、藤原京から平城京に遷都。

         これ以後、794年の平安京遷都までを奈良時代と言います。 

         
         左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、

         平城京では右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。

    712年、古事記が献上され、

    713年、風土記が編さんされた。

    714年、首皇子の元服が行われて正式に立太子をします。

    しかし病弱であった事と皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、

    即位は先延ばしにされます。









           ☆ 44・元正天皇(女帝《在位9年》





    元明天皇は自身の老いを理由に譲位することとなり、

    孫の首皇子はまだ若かったため、文武天皇の姉である草壁皇子との娘の

    氷高(ひたか)皇女が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぎます。



    715年、<44・元正天皇即位、715年~724年在位は9年間。 



    女帝としては5人目ですが、

    それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、

    結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇です。



    また、唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇です。

    ただし、父親は男系男子の皇族である草壁皇子であるため、

    男系の血統は維持されています。



    717年から藤原不比等らが中心となって養老律令の編さんを始める。

    720年、日本書紀が完成。藤原不比等が病亡し、大きな後ろ盾を失う。

    721年、元明天皇崩御。

    「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には、

    「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり、

    「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。


    723年、三世一身の法が制定。これにより律令制は崩れ始めていく。








               ☆ 45・聖武天皇 《在位25年》




    724年、45・聖武天皇(持統天皇の曾孫)即位。在位724~749年

              伯母の元正天皇より譲位を受ける。




    持統天皇以来、ご本人、息子の嫁、その娘、というように女帝が続いてい

    ましたが、天武天皇系流の男の天皇が、皇位に就いたわけです。


    ここでやっと女帝の中休みになります。


    しかし在位の前半、聖武天皇は病気がちで政務が行えなかった為に、

    元正上皇が、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行しました。


    そして在位の後半は、仏教信仰に傾倒した聖武天皇に代わって、

    光明皇后が政務を行いました。


    どちらにしても、天武天皇系流の男の天皇たちは、存在感が弱く頼りなく

    なぜだか今の”植物系”男子を思わすような感じがします。





    それでもこれは暗雲の隙間から漏れた一条の光でしかなく、

    最後、締めくくりの女帝の時代へと進んでいきます。



    文武天皇につづいて、

    不比等は、聖武天皇にも娘・安宿媛(あすかひめ)を入内させます。



    すなわち、後の光明皇后です。

    藤原不比等42歳の時、橘美千代36歳との娘です。


    文武天皇の夫人・宮子とは姉妹です。

    つまり、藤原不比等の長女(宮子)は聖武天皇の母となり、
     
    その聖武天皇の皇后は、藤原不比等の三女(安宿媛)です。




    その光明皇后と聖武天皇との間に生まれた阿倍内親王こそが、

    藤原不比等と橘美千代の孫、

    女帝 46・孝謙天皇であり、重祚した第48・称徳天皇なのです。






    あぁ、やっと、橘美千代が、出てきました! (笑い)

    辿りついて、ほっとしました~。 あはは。



    次回は、藤と橘について、  えっ? 


    そう、藤原氏と、橘氏、

    光明子の母、橘美千代を中心にしたいのですが、、、





    ちょっと歴史は休憩しましょう~   (笑い)



    次回は、

    皆様からいただいたコメントが溜っていますので、

    そのコメントを中心にお返事を記事にしたいと思っています。



    藤と橘は、その次です。





    あなたが、無意識からのシグナルを受け止められますように!


    祈っております。


    感謝です。





























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。




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    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    Comment

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    No title

    意識や理性が格差や階級を作る・・・それをまた、意識や理性でなくそうとすることは容易ではない、ということでしょうか・・・。

    運命学という学問は、何でもお見通しって感じです。
    それにしても、文武天皇の歌・・・本当に心の寒さが伝わってきました。

    記事を読み終えた後、

    無意識からのシグナル、、、が聞こえる、、、ような気持ちになったのですが、、、=
    、、、、、自信はありませんが。 (笑) =
    運命学の見方は深遠ですね。深い井戸をのぞきこんでいるようです。=
    歴史ってこんなに役に立つものでおもしろかったのですね。大人の歴史ですね。=
    これからどうなるのか想像できません。=

    ステンドグラス美術館の写真、乾いた木立と、木の間から見える空がきれいですね。=
    どんどん寒くなります。お体をご自愛ください。=

    夜回り~

    忍び足で、そっと覗きにきたら、

     いやぁ~すげぇ大きな大砲! 見た事もない。
     どうやって作ったんだ?
    こりゃ、やられてしまう、、、う まいった!

    走って逃げろー!

    No title

    何か、歴史というのは涙が出そうなもの、とはつゆ知らずに、お勉強の歴史しかやっていないのですね。
    圧倒的に真実を知る事のむずかしさが、かぶさってきます。

    運命学のこの真実に、だれもがどうして気がつかないのでしょうか.....

    Re: No title

    鍵コメントさんへ
       ありがとう! 感謝☆cosmos

    Re: No title

    > 意識や理性が格差や階級を作る・・・それをまた、意識や理性でなくそうとすることは容易ではない、ということでしょうか・・・。
    >
    > 運命学という学問は、何でもお見通しって感じです。
    > それにしても、文武天皇の歌・・・本当に心の寒さが伝わってきました。

    ★格差や階級は、人間の造作物ですよ。
    プラスチックのおもちゃと違うのは、目に見えない心の中に作り上げた造作物でしょう。
    でも、両方とも人間の存在へ影響をします。大なり小なりの、、、違いはあっても、、、。
    見えないものは、壊すのも大変です! 
    意識が自分の作ったものを壊すと思いますか? 壊すはずがないでしょう。守るはずです。
    目下の事業仕分けの廃止された予算が、看板を替えて復活して来るのと同じ、ゾンビですね。 あはは。
    そのように意識・理性は、嘘が付けるの。知識を利用して、悪知恵と策略と陰謀も意識は産み出すし、
    だから、欺瞞を一番に避けなければいけないのだわ。(笑い)

    運命は、天皇も権力者も関係ないのです。すべて天の道に反したら、自然淘汰をしていきます。
    ありがとう! 感謝☆cosmos

    Re: 記事を読み終えた後、

    > 無意識からのシグナル、、、が聞こえる、、、ような気持ちになったのですが、、、=
    > 、、、、、自信はありませんが。 (笑) =
    > 運命学の見方は深遠ですね。深い井戸をのぞきこんでいるようです。=
    > 歴史ってこんなに役に立つものでおもしろかったのですね。大人の歴史ですね。=
    > これからどうなるのか想像できません。=
    >
    > ステンドグラス美術館の写真、乾いた木立と、木の間から見える空がきれいですね。=
    > どんどん寒くなります。お体をご自愛ください。=

    ★歴史って、私もいつの頃からか興味を持つようになったのです。
    読み取れる物差しを持つと、楽しいのです。
    運命学をそう思っていただくと光栄です。ありがとうございます。
    那須の風景、きれいでしょう? 大好きな場所です。一度お連れしたいわ! あはは。
    ぜひ、一度、いつか、、、
    ありがとう! 感謝☆cosmos

    Re: 夜回り~

    > 忍び足で、そっと覗きにきたら、
    >
    >  いやぁ~すげぇ大きな大砲! 見た事もない。
    >  どうやって作ったんだ?
    > こりゃ、やられてしまう、、、う まいった!
    >
    > 走って逃げろー!

    ★いつも夜回りお疲れ様です!!
    大砲の音聞こえましたか? 深夜だったのでおごそかに撃ったのですが、、、 あはは~
    傷は、もう大丈夫でしょうか?
    お仕事に障りませんように、祈っておきます。(笑い)
    お疲れの処、ありがとう! 感謝☆cosmos

    Re: No title

    > 何か、歴史というのは涙が出そうなもの、とはつゆ知らずに、お勉強の歴史しかやっていないのですね。
    > 圧倒的に真実を知る事のむずかしさが、かぶさってきます。
    >
    > 運命学のこの真実に、だれもがどうして気がつかないのでしょうか.....

    ★私も少しでも気がついてよかったと思っています。
    そして、共有してくださって有難いと思います。
    われ等が民族の先祖が残してくれた歴史を学ばないといけないと、、、
    どういう史観であってもいいのではないかと、、、あはは。
    いろいろ感想、聞かせてくださいね。
    ありがとう! 感謝☆cosmos
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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