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12/17 11:47 |
聖武天皇 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学 その9Category : 運命学と歴史
![]() 大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる「越塚御門(こしつかごもん)古墳」/7世紀後半 2010.12.12 奈良県明日香村での現地見学会で大勢の考古学ファンらが全国から訪れ、 硬い石英閃緑(せんりょく)岩を加工した精巧な石室に熱心に見入っていた。(YOMIURI ONLINEより) 前回の『 天武天皇流の天皇の女系化、、、』 Vol.8を アップした翌日 2010.12.11 に、 飛鳥時代の女帝、斉明天皇の孫であり、天智天皇の娘である 大田皇女の墓とみられる「越塚御門(こしつかごもん)古墳」↑ が、 斉明天皇の墓所である牽牛子塚(けんごしづか)古墳の前で、 発見されたという報道に接しました。 何故か胸がドキドキして。。。 日本書紀の 『 斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬する。皇孫大田皇女 (みまごおおたのひめみこ)を陵(みささぎ=斉明天皇陵)の前の墓に 葬る 』 の記述を裏付ける第一級の発見だそうです。 斉明天皇は女帝で、天智天皇と天武天皇?の母にあたる人です。 このブログでも、『 女帝1 / 天武天皇流の天皇の女系化と、、、』で 大田皇女の事は、取り上げています。 大田皇女についてはここをどうぞ 大海人皇子へ嫁いだ天智天皇の5人の娘の長女で、正妃でした。 大海人皇子が天武天皇に即位をした時に、皇后になるべき女性で、 2人の子供、大伯皇女7歳、大津皇子5歳を残し20代で夭折します。 この二人の子供は、母方の祖父である天智天皇に引き取られました。 大田皇女の代わりに妹が皇后になります。 それが、持統天皇です。 あろう事か、後々、 持統天皇によって彼女の産んだ大津皇子は粛清されます。 そういう悲劇的な、日本人のDNAにとっては、”義経的な同情感” 判官びいきの民族の心を刺激する要素がある皇女なのです。 “悲運のプリンセス” すこし、イギリスのダイアナ妃を慕う感情に似ているかもしれませんね。 その皇女が、祖母(斉明天皇)に守られるように眠っていた。 その事が、1300~1400年の時を越えて、 現代の私達の心にさざ波を起こしたようです。 午前中だけで1500人を超える考古学ファンが詰めかけ、 感嘆の声を上げながら人々は、石室を眺めたという事です。 約、3ヶ月前になりますが、 平城京遷都1300年の佳節の年の去る9月9日、 マスコミの報道で、 牽牛子塚(けんごしづか)古墳に、 墳丘のすそを八角形に囲む敷石や石室を囲んだ巨大な石柱が出土し、 天皇クラスの墓に限定される八角形墳だった事がわかり、 斎明天皇陵と判明したというニュースを知って、 この『天武天皇流の天皇の女系化、、、』の記事を書く気持ちになった のを思い出し、時の不思議さを感じています。 斎明天皇陵については、現在、次の両説があります。 A.『日本書紀』に、天智6年(667年)2月27日、 斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を、 小市岡上陵(おちのおかのうへのみさざき)に合葬したとあります。 これらの古墳を造営したとされるのは、 斉明の子、間人皇女の兄、大田皇女の父である天智天皇です。 近江へ遷都をする前に、自らの母親、妹、娘を同時に葬った場所です。 Aにより、宮内庁は、現在、 高取町車木(くるまき)の丘陵の山頂に築かれた車木ケンノウ古墳を、 斉明天皇と間人皇女を埋葬した越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ) として、その前に築かれた大田皇女の墓を 越智崗上墓として管理しています。 B.ところが、『続日本紀』の文武天皇3年 699年、には奇妙な記事があって、10月20日、 文武天皇は、 「越智山陵」と「山科山陵」を新たに造営するよう命令を下したと言う。 「越智山陵」は斉明天皇の墓で、「山科山陵」は天智天皇の墓である。 もしこの二つの山稜の造営が事実ならば、 斉明天皇の亡骸は間人皇女の亡骸とともに、 小市岡上陵から八角形の牽牛子塚古墳に改葬されたことになる。 従って、今年9月に発見された陵墓である。となります。 しかし、この時には、文武天皇は16歳です。即位が同年8月ですから、 天皇になって2ヶ月で、こういう命令をしたとは思えない。 天皇陵を八角形とする案を考え出したのは、若き文武天皇ではなく、 持統上皇が、夫の心酔した道教の思想に基づいて、 彼女は一族の天皇陵を八角墳へ改造することを命じたにちがいない。 しかし、宮内庁は、13日の定例会見で、 「 現時点で陵墓の指定見直しまでは考えていない」と述べています。 学会もそうですが、 官という処は、革(あらた)むると言う事ができないですね。 なにのシガラミもなく革むる事ができるのは、 尻軽い庶民ですね~。 あはは。 前にも書きましたが、このあたりの歴史を見直して見ると、 納得がいかない事が、非常に多いのです。 田村皇女の墓発見について書いた前置きが、長くなりました。 そろそろ、 本題の方へ、進みましょう。 時は、斉明天皇の治世から60~70年後、奈良時代の終り、 藤原不比等と橘美千代の孫の代へ、 天皇家は、天武天皇と持統天皇の曾孫の代になっていました。 政治体制は、天皇や皇族を中心にした皇親政治から、 とうに、藤原氏を始めとする天皇の外戚(母方の実家)が、 実権を握るようになって行ったのです。 権力を掌中にした不比等が行った外戚政治、摂関政治というものは、 娘が天皇と結婚をして皇子を産まなければならない条件下です。 人にとって 最高の慶び事である孫の誕生と言う、自然の恵みである摂理を、 自己の権力欲の為には、 それすらをも利用をする。為なら何でもするという 不比等の”仁義なき戦い”の凄まじさを前回の記事に書きましたら、 それに対して、次のようなコメントをいただきました。 素朴な疑問なのですが、 この時代には、もう儒教が入っていたのでしょう?= なぜ、どうして、倫理観が低いのでしょうか?= それが、人間のサガと言われればどうしようもないですが。= 知って悲しい事、歴史にはたくさんありすぎですね。= 本当に、そうですね! 不比等が編纂に深く関わった『古事記』・『日本書紀』によると 4世紀末、百済国から王仁博士が論語10巻・千字文1巻を携え渡来し、 日本国に漢字と儒教を伝え皇子に教えたとあるのに~。 「王仁博士の墓」 あはは~! どうなっているの?? 私も、大きな声で言える立場ではございませんが、、、 ”論語読みの論語知らず ”? (爆笑) 儒教が、どれだけ 当時の天皇や貴族の生き方の中へ受容されていたの?? 優秀な頭脳ですから、知識として頭は覚えているかもしれませんが、 心、精神まではとてもとても~! 及んでいない! あはは。 この時代のあらゆるもの、古事記や日本書紀、律令制度、仏教、等々は、 中国の唐に対する示威活動、日本が対等な国であると見せるための セットアップだったのではないかと思います。 いわゆる、《万国博覧会》。 唐の皇帝から認めてもらいたい一心で、突貫工事的にしたものでしょう。 だから、嘘もある。 まゆつばもある。 そんなものでしょ! それをやったのが、天皇家の筆頭ブレーンである不比等です。 唐の目線に付いていくのに精一杯! 形だけの国体を整えたのではないか。 日本は、いつもそうです! 戦後もそう。 民主主義、平和憲法、男女平等、個人の人権、、、 未だに、どういう事? あはは。 誰も判っちゃおりませ~ん!! あははっ~! (笑える話題を提供してくれていますが、、、) まず、知識欲、知性と呼ぶものを総動員して、 そして、入りやすいのが交易、商売からですね。 次が技術、、、。 日本は、今、そこです。 これでいいと、思ってしまうのです~! 技術と知性と理性だけで生きていると錯覚してしまうのですね。 最終戦争は、思想戦だと言う事が、判っていない。 手と足の部分は、さっさと真似をするのですが、 心の奥、精神に於いてはいつも”もつれ”ています。 も~う!転びそうなくらい! あ、もう転倒している? あはは。 .....かも知れませんワ! あはは。 あぁ、また、主知主義の亡霊に出会いました。 (笑い) 時は、元正天皇の在位、 等しく比べることすら不可(でき)ないほどに優れた不比等が 720年、日本書紀を完成して、62歳で亡くなります。 不比等死後、藤原氏の跡を継いだのが、藤原四兄弟。 武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、 宇合(うまかい)、麻呂(まろ) 不比等の莫大な遺産の大半は、妻三千代を経て 光明子に受け継がれます。 まだ聖武天皇、光明子、19歳です。アンバランスな出来事です! 膨大な財産を受け継いだ妻を持つ聖武天皇。イヤまだ皇太子でした。 運命学で言うと、典型的な女系の運命のひとつの象です。 女性の側が、どういう理由であれ経済力があります。 即位まで、あと4年。藤原氏の後ろ盾で即位を控えた皇太子は、 光明子に頭が上がらなかったでしょう。 しかも、光明子は、まだ皇后でもないのです。夫人でもない。 皇后になったら、どうなるのでしょうか? 聖武天皇は、光明子のお尻に敷かれたのでしょうか? (笑い) あは! 失礼な冗談は、さておきです。 このあたりから、不幸の予兆が錯綜として出て来ます。 不幸の予兆とは、男より、女が栄えていく姿が顕著になる事です。 721年、三千代が正三位に叙せられ、 同じ年元明天皇の危篤に際し出家。 721年、皇親勢力を代表して長屋王(不比等の娘婿)が政務を担当。 長屋王は天武天皇の孫で、その妻の吉備内親王は元明天皇の 子。夫婦そろって皇族です。 ☆ 42・聖武天皇 《在位25年》 724年、★1.首皇子が、聖武天皇として即位。在位724~749 724年、☆2.光明子が、夫の即位と共に後宮の位階である夫人号を得る。 これより、★1.首皇子を、★1.聖武天皇 と表記します。 ☆2.光明子は、そのままです。 727年、★1.聖武天皇と☆2.光明子共に23歳の間に★4.基王が誕生。 生後一ヶ月でが立皇太子される。 天皇や皇太子には成人であることを求めた当時としては、 きわめて異例です。 これには、天武天皇朝の皇位継承者の夭折という悩みが続いていて、 安定した跡継ぎに恵まれないコンプレックスが、あったためでしょうね。 どれだけ確実な跡継ぎを望んでいたのか、胸の痛いほど判ります。 『天』は、不比等を失った美千代に都合のいい事ばかりを与えません。 又、ここが、聖武天皇、光明子、美千代にとって運勢の頂点と言える でしょう。 次々と、不幸の予兆が襲って来ます。 728年、 ★4.基皇子が、病気により逝去。死後は那保山に葬られます。 そして、この生後一ヶ月でが立皇太子された★4.基皇子の死去より、 やさしい聖武天皇の基皇子の死に対する嘆きと悲しみが、 後のこの皇子の供養のための寺が、 大仏殿の建立へつながって行きます。 ★1.聖武天皇について、最後に少し述べてみたいと思います。 聖武天皇は、生来病弱だったのと臆病で、やさしい性格でした。 現代の草食系男子?(笑い) もっと格段な品格がおありだったはずですが、 天武天皇系皇位継承者が、ずっと女性天皇だった為に、 男性の継承者として、きっと大事に過保護で育てられたはずです。 在位25年の間、25回の行幸と、いく度かの遷都を繰り返しています。 自分に徳がない事への自戒と伝わっていますが、 実は、自分が権力闘争で襲撃されるのが恐かった為に、 常に居場所を移動していたという説もあります。 あまり側近を信用できない事情があったのかもしれません。 その証拠かどうか、実は正倉院の御物で最も多いのは、 聖武天皇の武器と兵器です。 聖武天皇は、行幸や度々の遷都のたびに、 その兵器を移動させています。 それはどうしてか? 臆病なやさしい聖武天皇は、藤原家との婚姻関係から来るプラス面、 マイナス面では、権力闘争の巻き添えになる事、 その身に迫る身近な危険を感じて 避けていたのかも知れません。 また、聖武天皇は仏事に専念した為に、 政治の事は、藤原氏、橘氏が支える光明皇后にまかせっきりでした。 お可哀想な聖武天皇 !! 可哀想という形容詞が、男の方には失礼な言葉なのですが、、、 事実、そのおびただしい数の武器兵器を、 光明皇太后が聖武天皇の七七忌に、藤原氏の氏寺であった興福寺に おいて法要を行い、 当日、聖武天皇が使っていたものを正倉院御物として、 東大寺の盧舎那仏に奉献したとされています。 この時に奉献したものを記した『東大寺献物帳』が残っていますが、 初めに、光明皇太后の天皇に対する哀悼文が記され、 奉献品の目録があって最後に、五人の署名があります。 この『東大寺献物帳』の内容、及び東大寺の盧舎那仏に御物を奉献した 事が、この五人の発案で為されたと云うのが、由水常雄氏の見方です。 その五人の署名とは、 (光明皇后の甥で孝謙天皇の従兄) 藤原朝臣仲麻呂は中衛府の軍務長官。 (仲麻呂の従兄)藤原朝臣永手は大倭守の長官。 (巨万は、高麗・コマ)巨万朝臣福信は、中衛府の軍務次官。 (鴨角足)賀茂朝臣角足は、兵馬を管理する馬監。 (和気広虫の夫で和気清麻呂の義兄)葛木連戸主だけが、上級官吏。 この五人は、各地域の最高幹部であり、特に、軍事顧問なのです。 正倉院御物の、目的は? 政権の軍事顧問が亡き天皇の兵器や武器を集め納めたものなのか? これは、何を意味するのでしょうか? また、聖武天皇の移り住んだ平城京、難波宮、恭仁京。 そして、全国に作られた国分寺、国分尼寺を想像する時、 それらを、すべてを日本人で作る事は、不可能であり、 大工だけでなく、瓦を焼く、石切り、中国人の技術者を抜きにしては 考えられない、、、 結果として、中国人が多く住み着いていた場所に国分寺を作った。 その目的は? 絹の産地における、交易の為の絹の天皇家と中国人との取り合い、 飛鳥時代には、想像する以上の中国人が日本のあちこちに住んでいた、 その時の、中国とは、唐です。 それに対する懐柔策だった、、、。 という説もあるようです 先に、持統上皇が、夫の心酔した道教の思想に基づいて、 天皇陵を八角墳へ改造することを命じ、、、。と書きました。 持統天皇の夫とは、天武天皇。 八方位で世界を表す道教の思想に基づく八角形の墓。 天武天皇の時代は、儒教より、仏教より、道教が受け容れられて いたのか。。 では、飛鳥人は、何を、心から信じていたのか? 真実は、判りません。 しかし、私達が歴史で習った様な仏教一辺倒ではなかったようです。 推理作家の松本清張氏が、東大寺二月堂の修二会=お水取りの松明の火 の特徴を、BC1500年~BC1000年頃、古代ペルシャで起こった拝火教 (ゾロアスター)の影響があると指摘をされています。 前にも言いましたが、 古代の飛鳥は、オリエンタル都市だったに違いありません。 当時、流行った疫病や天変地異を、神道で祈ったり、 仏教で調伏を祈願をしたり、 何かがあると、あれをやったりこれをやったりしていたようです。 おそらく、持統天皇が、跡継ぎの悩みを解決しようと、 道教に頼ったおかげで、 それまでの歴代の天皇のお墓を八角形に改葬したのか? しかし、 依然として跡継ぎの悩みは、受け継がれ、ずっと付きまとっている。 どんな権力を行使し、惜しみない努力を以ってしても、 皇位継承者としての健康で強い皇子の存在が実現できなかったのです。 当たり前です。権力は、『陽』の事象であり、 命の正しい継承は、『陰』そのものに因るからです。 『陽』の事象が、『陰』そのものをコントロールする事はできません。 影が動けば、体が動く? そんな事は聞いた事が、ないでしょう? 体が動いて、初めて影が動くのです。 『陰』は『陽』の本体なのをお忘れなきように、あそばせ! 命と、権力とは、対極にあるもの。 だから、つい140年前まで、権力の交代は権力者を殺す事でした。 だから、世界の覇権の奪い合いも、戦争であり、兵器なのです。 こうして見る時、聖武天皇が武器兵器を大事に持ち歩いていた、 この点で、聖武天皇は、まぎれもなく『陽』男だった!!のです。 『陽』は、男、知識、競争、権力、戦争、命の略奪です。 その対極にある、『陰』とは、何なのか? なぞなぞです。 皆様でお考えあそばせ~ あはは。 今日は、”基皇子の死去”まで。 続きは、安積皇子の誕生からです。 これから、すべてが暗転してエンディングへ転がっていきます。。。 どうぞ、おたのしみに..... 今年最後の、墓参旅行へ、今夕から出発します。 コメントのお返事が遅くなると思います。 よろしくお願いします。 参考文献:由水常雄著 『正倉院の謎』 中央公論社 参考資料:応請矩明氏 橿原日記 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
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押し迫ってきましたが、これから、墓参でご旅行なんですか?大変ですね!=
天皇も人間なのだと痛切に感じました。= 跡継ぎの悩み、代々続いている障害のようなものは宿命といわれるものでしょうか?= 思想戦、戦争なら負けもあるし、負ければこわい。ということくらいしか想像できません。= 不安でもあるし、日本の弱い点ですね?= ご旅行気をつけて行って来てください。= 管理人のみ閲覧できますこのコメントは管理人のみ閲覧できます
No title道教の影響・・・この時代、儒教よりも影響力が強かったのですね。
また、ゾロアスター教の影響も・・・興味が絶えません。 そして、次回は「陰」の答え合わせから始まるのでしょうか・・・。 夜回り~おれっー! 夜回り組みがもう一人、こんな夜更けにいるよう~な。
こんな夜更けに何方か知らん? 古代は、遠くにありて思うものと思ってきましたが、cosmosさんのおかげで身近になり申した。 天皇家も我が家もおんなじ女系、そうか、と解かり申した。 嫁はいいところから、もらうなかれ。 No title年末は出かけることが多くなります。お墓参りの後にお疲れないように・・・・・!
今日も記事も、知らないことばかりがいっぱいで勉強になります。 日本は、単一民族、島国、他国から攻めらなかった(元寇以外)、日本人はぬるま湯だ、のんびりした歴史のように教えられた記憶ですが?ぜんぜん違う。 古代の人のほうが、他国としっかりしてやっているのかな? 陽は命の反対、前より解かる気がして、陰はむずかしいですね。すてきな陰の定義をおしえてください☆ Re: 押し迫ってきましたが、> これから、墓参でご旅行なんですか?大変ですね!=
> > 天皇も人間なのだと痛切に感じました。= > 跡継ぎの悩み、代々続いている障害のようなものは宿命といわれるものでしょうか?= > 思想戦、戦争なら負けもあるし、負ければこわい。ということくらいしか想像できません。= > 不安でもあるし、日本の弱い点ですね?= > > ご旅行気をつけて行って来てください。= ★墓参旅行は、快晴に恵まれて無事終える事ができましたよ。 お気遣い感謝します。 これで、年末モードに入れたらいいのですが、、、そうもいかないのね。 天皇も人の子です。あのお立場で自分の宿命と戦わなければならないなんて、それは大変な事ですね。 日本は、今は、フワフワしていますが、確実に状態は良くならないと思うわ! その為にも、東洋の知恵に復帰してほしいと思います。 いつもありがとう! 感謝☆cosmos Re: 雑感鍵コメントさんへ
ありがとう! 感謝☆cosmos Re: No title> 道教の影響・・・この時代、儒教よりも影響力が強かったのですね。
> また、ゾロアスター教の影響も・・・興味が絶えません。 > > そして、次回は「陰」の答え合わせから始まるのでしょうか・・・。 ★そうですね~、当時の権力者が都合よく創った歴史に乗せられて、事実が全部明らかになっていない所が、古代には多すぎますね。 また、次の記事で書こうと思いますが、あ、そうそう! コメントを引用させていただこうと思います。 よろしくお願いします! (笑い) いつもありがとう! 感謝☆cosmos Re: 夜回り~> おれっー! 夜回り組みがもう一人、こんな夜更けにいるよう~な。
> こんな夜更けに何方か知らん? > 古代は、遠くにありて思うものと思ってきましたが、cosmosさんのおかげで身近になり申した。 > 天皇家も我が家もおんなじ女系、そうか、と解かり申した。 > 嫁はいいところから、もらうなかれ。 ★ほんとうに! たまたまなのでしょうが、深夜組みさんが多いですね! いやいや、お宅に女帝がいらっしゃるとは、古代の天皇家と、それは身近に思われるでしょう! でも、たまちゃんさんは男系の男って感じですよ! はてさて? あはは。 女帝に負けないようにお祈り申し上げております。 いつもありがとう! 感謝☆cosmos Re: No title> 年末は出かけることが多くなります。お墓参りの後にお疲れないように・・・・・!
> > 今日も記事も、知らないことばかりがいっぱいで勉強になります。 > 日本は、単一民族、島国、他国から攻めらなかった(元寇以外)、日本人はぬるま湯だ、のんびりした歴史のように教えられた記憶ですが?ぜんぜん違う。 > 古代の人のほうが、他国としっかりしてやっているのかな? > 陽は命の反対、前より解かる気がして、陰はむずかしいですね。すてきな陰の定義をおしえてください☆ ★古代の日本人の方が、外国との駆け引きが上手かったように感じます。 海上保安庁など、国境警備がない時代に、どやどや入ってくる外国人とやって来たのですから。 守っているのは、防人だけですよね。とってもリアルな外国に接していたのでしょうね。 陰陽は、これからもずっと書き続けていきますから、大丈夫ですよ。読んでくださればお解かりになられます。 いつもありがとう! 感謝☆cosmos |