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    傀儡 2 / 天武天皇流の天皇の女系化と、系列の断絶化に観る運命学。その11

    Category : 運命学と歴史
    長谷寺礼堂の床錦


    長谷寺礼堂の床錦











    今回で、このシリーズは最後になります。

    今日は、天武天皇家の最後の一人娘の生涯を、

    記事にさせていただきます。


    いつもどおりに、前置きを。  (笑い)


    歴史という物は、過去のものです。


    しかし、我々とは、『天』の下、『時』で結ばれています。


    『時』の現在の端と、過去の端は、同じ『時』です。

    本質は、変わらない。

    今の中に過去があり、

    その過去の中に現在の因があり、今がその結果です。






    まともに、『天』の下、正面に向き合えば、

    過去は私たちの中へ流れ込んで、体中から生きていく知恵を貰えます。


    近代、現代という『時』の汚れやゆがみを弾いて見ると、

    流れて来た『時』が、そこには横たわっています。

    そして、『時』こそが、すべてを育んで来た事を知るのです。 






    自分の共感できた歴史の一ページは?

    めくって探してみましょうか.....





    今の教育の歴史は、唯物的で無味乾燥です。


    過去が抜け出した”ぬけがら”を拾っているようなものです。

    サンプルにもなりませんワ!  あはは。


    青春の多感な時に、抜け殻を与えられる虚無感は気の毒です。



    それは、日本固有のものだと思います。






    理由は、精神史が断ち切られ価値観が変わっているからです。

    特に、66年まえの敗戦の時が際立ちます。


    精神史を抜き取ってしまった”だしがら”の歴史です。


    他国からの侵略は、なかった。

    侵略されるような国ではないのだ。

    為政者が、自分の権威を絶対化する為に作り上げた虚構。 




    これって、

    今のバーチャルより凄いじゃないですか?  あはは。

    その化けの皮が剥げたのが、つい66年前です。




    そして、今、


    まわりのあらゆる国境線に、世界の価値観との違いが露呈しています。

    侵略には、どう対処したらいいのか?

    日本は、まるで”カマトト娘”のように、驚いた振りをするしかないのです。 




    そんな、ひどい~! 
    ゆるせないわ~! キャァー     


    あはは。




    侵略が、隙あらば当たり前という露骨な歴史を持つ世界の列強とは、

    日本は、対等にはやって行く術(すべ)を持っていない。 




    という事は、わが国は、母国の歴史から、何を教訓にしたの?


    ひょっとしたら、我々は、母国の歴史を陳列棚に並べるだけで、
    教訓を得るつもりがないのでしょう。
    だって、すべてが皇国史観、
    民主主義の今だって、それは底流に流れているのです・



    単一民族の、唯一の王朝が続く国にとれば仕方がないのかも知れません。









    今の歴史は、唯物史観。

    それを駆使して、
    精神史を掘り起こして、

    過去の母国の人間に、迫らなければ意味がありません。


    歴史を知る事で、反省ができ、分相応を自覚をして、

    今の私達の命に、力と知恵が漲(みなぎ)らなければ、それは嘘でしょう。 

    母国の歴史とは、常に、そうでなければおかしいでしょう? 




    やっぱり!  単一民族のケッコウナな国だと云う点だけに
    自惚れていてはイケナイのですね。    ほほっ。







    では、先へ進みましょう~!


    わが国の歴史には、

    精神史を掘り起こす、事が、いつも抜け落ちていますね!


    たとえば、高松塚古墳キトラ古墳について、玄室に方位四神像、

    高松塚古墳内の女性像、

    キトラ古墳の星辰図が、

    それぞれ描かれているとは、

    一般に報道をされて私たちは、知ることができます。


    が、しかし、どうでしょう? 


    その表す所の精神史については、詳しく述べられていない。
    それを、それぞれ言い表すと次のようになります。






    七C末~八C初めに作られたとされる高松塚古墳

    およびキトラ古墳の玄室には、

    共に
    道教の方位四神像が描かれています。 


    高松塚古墳内の女性像は、
    高句麗の古墳壁画に酷似しており、

    キトラ古墳に描かれた星辰図は、
    高句麗で観測された天空なのです。


    二つの古墳は藤原京中央のほぼ真南ラインにあり、

    天武・持統・天武帝の皇子たち文武帝陵・(大津と草壁か)もここにあります。


    この事は、天武朝は
    新羅経由の高句麗の文化で満たされていた証拠です。 




    ほら! 仏教だけではなかったのです!

    本来、こう知らされなければいけないのに、いかがですか?

    暗に、仏教が興隆していたかのように誤魔化されています。

    どう言う意図でしょうか?



    かように、わが国の歴史は、分からなくなっています。 


    報道や表現の自由が保障されているわが国で、です。  あはは。


    めんどうくさいから?

    細かい事まで国民大衆に知らす必要はないからですか?

    専門家と学識経験者以上が知っていればいいからですか?


    意識で作った近代国家の法律、ルール、
    これを敢えて、『陽』の偽性の賜物と言っておきましょうか、 ほほっ。


    それにおいてさえ、
    次の様に言う事ができるはずです。


    国民は、自国の歴史のあらゆる事を知らされる権利があるはずです。


    さほどに、抜け道の多いのが、『陽』である法律、制度です。

    法律や制度は、運用する人間に依って功罪があるのです。

    おなじ法律や制度が、人を殺しもし、生かしもするのです。

    故に、法律や制度では、人間は等しく平等に幸せにはなりません。












    では、本論の方へ進みましょう。



    そうそう、

    政務から逃げていた聖武天皇が、男で初めて太上天皇になり、
    聖武天皇と光明皇后の娘☆3.阿倍内親王  が、
    749年、48・☆3.孝謙天皇在位749年~758年、として即位します。 




             ☆ 46・孝謙天皇 (女帝) 《在位9年》






    752年、東大寺大仏開眼供養会を挙行する。

    753年、盧舎那殿の前に戒壇を立て、皇太后・天皇と共に登壇して鑑真より

         菩薩戒を受ける。
        
        母の太皇太后宮子が崩ず。 


    756年、聖武太上天皇が崩御。

        崩御にあたり天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残す。


    古代より皇位継承の際の混乱を避ける為に、

    「天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という

    不文律がありました。

    女性天皇は、結婚する事は許されない訳ですから、

    もちろん子供も産めません。

    だから、女性天皇の子供が皇位を継ぐという皇位継承は、あり得ません。 




    ☆3.孝謙天皇の後の皇位継承をどうするのか?

    この大変な閉塞感が、

    聖武天皇の晩年の心の中に、

    ☆3.孝謙天皇ご本人の胸の中に、朝廷の貴族の中にも漂っていたはずです。


    ☆3.孝謙天皇の後の天皇の座を巡って、

    いろいろな思惑がうごめいていたはずです。 





    それを見越してか、聖武天皇は、

    ☆3.孝謙天皇の後に、天武天皇の2世王・道祖王を立てたかった。


    それは、娘へ譲位をした父天皇としての責任からでしょう。

    自分が藤原の傀儡として天皇の位にある事を良しとは思わなかったはず、

    娘の幸せをも考えて遺言をしたのでしょう。


    しかし、聖武天皇は、自分の死後、

    ☆3.孝謙天皇が自分の遺言通りにすると、信じていたのでしょうか?




    一人っ子のわがまま娘、☆3.孝謙天皇は、世間知らず、

    という相場通りの事をやってのけたのです!    ほほっ。


    時代も違えば、身分も違う! 
    しかし、人間は同じです!
    そういう意味では、彼女は正直な可愛い女だったのでしょうね。
    なにしろ、彼女は、天皇と言う位に立った人ですから、
    その我がままたるや、私達とは桁が違います。     ほほっ。




    両親(☆1.聖武天皇☆2.光明皇后)の死後、

    前代未聞の事を次々とやってしまいます...


    ●一つ目は、

    ☆2.光明皇后☆3.孝謙天皇の二人から寵愛された藤原仲麻呂です。


    藤原仲麻呂は、

    ☆2.光明皇后の皇后の兄(藤原四兄弟の一人・武智麻呂)の息子。

    つまり、不比等の孫です。

    ☆3.孝謙天皇の従兄弟に当たります。



    ☆3.孝謙天皇は、その仲麻呂を寵愛し、

    「親の心、子知らず」それを知ってか知らずか?  
    彼の勧めるがまま、聖武天皇の遺言も無視して、
    757年、天武天皇の孫(天武天皇の皇子・舎人親王の七男)を立太子します。


        後の第47代・淳仁天皇です。





    ●二つ目は、弓削道鏡(注★)です。

    父・聖武天皇の遺言も無視して、

    淳仁天皇を立てた後すぐに、☆3.孝謙天皇の寵愛は、僧・道鏡へと

    移って行くのでした。



    このあたりが、いかにも女性の権力者の気分のまま?  あは!
    感情的に流される欠点が出ているように思えますね。




    (注★)☆3.孝謙天皇、後の称徳天皇に取り入り、寵愛を受けて、

    それまでの天皇の愛人だった藤原仲麻呂を失脚させた後に、討ち、

    太政大臣禅師となり法王となって位を極め、

    さらに神託によって皇位に就くことを望んだとされる。








              ☆ 47・淳仁天皇  《在位6年》



              

    758年、☆3.孝謙天皇から譲位を受け、47・代淳仁天皇に即位。

          政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、

          仲麻呂の後見人である☆2.光明皇后が強い影響力を持っていた。


          上皇になった☆3.孝謙天皇とは、僧・弓削道鏡との関係を

          注意した事で対立をするようになる。


    760年、祖母の美千代に正一位と大夫人の称号を贈った。

    764年、恵美押勝の乱

        淳仁天皇は「仲麻呂と関係が深かった」と言う理由で廃位を宣告され、
        ☆3.孝謙上皇の軍によって包囲され、

        親王の待遇をもって淡路国に流され、逃亡して捕まり32歳で亡くなる。


    ☆3.孝謙上皇と、弓削道鏡の二人は、
    天皇の外戚(母方の実家橘家)からの政権奪回に乗り出し、
    46・☆3.孝謙天皇が、仲麻呂を討ち、淳仁天皇を廃し、
    自らが重祚し、第48代・☆3.称徳天皇として返り咲きます。






         ☆ 48・称徳天皇 (女帝) 《在位6年》






    764年、第48代・☆3.称徳天皇、在位764年~770年

    あろう事か、今度は、その道鏡を天皇にしようと・・・道鏡事件が起ります。


    769年、大宰府の宇佐八幡神の神託として道鏡を皇位につけるべきと奏上。

    しかし、念のため宇佐八幡の神託を伺うこととなった。

        藤原氏は当然、工作したであろう。

        そのおかげか道鏡への譲位を否定する神託を持ち帰る。


    世間知らずの☆3.称徳天皇が道鏡の甘言に乗ったのか? 


    道鏡が、もし天皇になっていたら、彼も僧であり後継者はいない。

    道鏡の後すら想像できない。 

    どうするつもりだったのか?

    日本歴史最大の危機だったのですね。 


    ☆3.称徳天皇と道鏡の関係か? 
    道鏡の野望か?




    いゃ~そんな可愛いものではないでしょう。
    もっと、ドス黒いものです。
    彼女の次の天皇の座を巡って、
    三つ巴の権力闘争の大きな渦があったのです。 
     


    まず、第一の渦は、☆3.称徳天皇自身の政治改革。

    両親を見ていて、藤原氏の傀儡であった父・☆1.聖武天皇のように

    第二の傀儡にはなりたくないと言う”わがまま娘”らしい野望がありました。


    二つ目の渦は、

    聖武天皇が仏教に帰依するあまり、朝廷以上の力を持った仏教界。

    仏教の興隆を背景に、調子に乗った奈良の仏教界です。

    道鏡を異常な程に寵愛した称徳天皇を利用して、

    仲麻呂を失脚させた仏教勢力の実力。

    天皇の権力さえも仏教勢力の支配下に置こうという権力欲が、

    思惑があったのです。


    三つ目の渦は、
    それを巻き返そうとする藤原氏です。


    失脚した仲麻呂は藤原4兄弟の不比等の長男・武智麻呂(南家)の息子です。
    残る兄弟3人のうち四男・麻呂の(京家)は、後継者がなく、すでに失脚。
    次男・房前(ふささき)(北家)
    三男・宇合(うまかい)(式家)が残っていました。


    藤原氏は仏教界の野望を絶対に阻止したい考えだったはずです。




    奈良の既成仏教勢力 対 藤原氏の房前(北家)・宇合(式家)の
    権力闘争の構図です。
     
    それに加えて、
    一つ目の渦、☆3.称徳天皇です。



    ☆3.称徳天皇自身自分の母親が藤原氏にもかかわらず、

    当時、実権を持ちつつあった藤原氏を排除しようという

    果断な政治改革をした所が、藤原氏の反発に会った。


    しかし、彼女には頼る身内もだれも居なかったのです。

    現実問題として、まず、後継者が居なかった。

    自らは巫女天皇であり子供は産んでいない。


    弟の基皇子は早世し、

    聖武のもう一人の皇子である異母弟安積皇子も消され、

    聖武の直系は居らず、

    聖武が皇太子とした道祖王は陰謀で廃され、

    その兄弟の塩焼王は仲麻呂の乱で擁立されようとして斬殺され、

    船王もそれに与して流されている。


    大炊王(淳仁天皇)は自らが廃して、

    三原王は死んだ。

    他の皇女は結婚している。

    天武の孫世代は壊滅状態であり、もうだれもいなくなっていた。

     



    天武・持統直系は少なくとも断絶でした、、、、、。



    自分が政治改革をしようとしても、もうすでに味方がいなかったのです。






    そう云う彼女が、今まで頼って来たのは、


    最初が、寵愛した藤原仲麻呂であり、

    次が、彼女が法王にまでした弓削道鏡でした。

    しかし、権力を持った世間知らずの彼女に、

    心から信頼にたる人物はいなかったのです。 


    それは、間違いなく彼女を利用する人間ばかり、

    しかし、その事を嘆いてはいけません。




    それが、そう、
    『陽』そのものに生きた本質だからです。








    だからこそ、陰徳のない女性は、幸せにはなれない。 

    と申し上げるのです。


    つまり、
    女性が、いくら権力を持っても幸せにはなれません。
    うぬぼれの強い女は、いつも之に引っかかるのですよ!
    おきをつけあそばせ!




    度重なる権力闘争の粛清の結果、兄弟もなく、身内もなく、
    天武天皇の子孫たる親王、王がいなかった。 



    この行状から、この時代の権力が、仏教をどう考えていたのか?
    まったく心細い想像しか浮かびません。
    仏教こそが、この権力の魔性と戦うものなのに、
    国家鎮護を願う時の国の権力者がこうなのですから、
    その事から、
    この時代の仏教が、釈迦仏教の方便から抜け出ていなかった、、、
    としか、申し上げられない、、のです。




    ついに、
    最愛の間柄であった道鏡の裏切りもあって、
    こんな我がまま娘は、煮ても焼いても喰えない!?
    最高権力者がそう判断したのでしょう。
    もう、時の権力者にとって、もはや邪魔者でしかなくなった

    ☆3.称徳天皇は、今の名古屋付近の藤原百川の家で毒を飲まされました。



    権力だけが欲しい『陽』にとれば、

    自己主張をし出した、わがままな、役に立たない傀儡は要らないのです。 





    ーーー 必要なくなれば、役に立たない物と一緒です。





    ☆3.称徳天皇は、病に臥せって、100日余、

    この間、医療行為を施されず見殺しにされたと、

    看病の為に近づけたのは女官の吉備由利だけで、

    道鏡は崩御まで会うことはなかった。


    「逆説の日本史」で井沢元彦氏が、主張されています。





    1ヵ月後に平城京で、


    770年、孤独な☆3.称徳天皇が崩御します。 








    ☆3.称徳天皇は、聖武天皇☆2.光明皇后の娘です。






    藤原不比等と、橘美千代の孫です。



    それだけの権門の地を引き継ぐ娘が、
    どうしてこう云う最後を迎えなければならないのでしょう、、、





    人の生き方の総決算は、孫の代に報われると言います。

    また、自分の孫に出会えるかどうかは、その人の徳の結果とも言います。 







    最後に、天武朝における

    中国の唐、朝鮮半島の政治的な影響力については、

    次のように述べられるかと思います。


    道鏡事件の神託を出した宇佐八幡宮は、
    もともと豊前に鎮座する古神ですが、

    聖武朝の時に畿内に飛来をして、
    東大寺大仏造立の難工事の際、
    天神地祇を率いて援助をしたとなっています。

    これが、東大寺の鎮守神・手向山八幡宮になります。 






    その意味は、こう云う事になるのでしょう。



    新羅系の宇佐神が同系の天武王統の聖武帝を助けたという事実です。
    同時期に、中国から難渋を重ねて鑑真が渡来していますが、
    これは、新羅勢の妨害で難路を取らされた結果でしょう。






    聖武帝の後に、なぜ藤原仲麻呂が、台頭できたのか?


    それは、唐や渤海(高句麗遺民の国)と手を結んだおかげです。
    唐や渤海の国力に背後を守られて、
    親新羅の橘諸兄・奈良麻呂父子、吉備真備・僧・玄ボウらと
    対抗できたのです。
    結局、恵美押勝の乱として鎮圧され、道鏡の世となりますが、
    道鏡自身の出自は、あの蘇我王統です。




    東大寺に対抗する西大寺も建立して、

    769年、宇佐八幡神はついに道鏡を皇位につけよとの神託を下します。

    しかし、これを和気清麻呂が宇佐で聞き直すと、

    全く逆で「天皇家以外の者を皇位につけてはならない」と言う事であった。



    これに激怒した称徳女帝は、
    和気清麻呂を遠流に処す訳ですが、
    後、女帝崩御ともに、今度は道鏡が配流され、清麻呂は召還されます。



    このゴタゴタの本筋と言えるものは、


    天武朝の断絶後、最後の称徳女帝の「その後」に、
    天智帝の孫・光仁帝が即位して、その子が桓武天皇になるわけですが、
    桓武天皇の母が、百済王の血を引く王族であったと言う事に、
    「新王朝」のめざす流れがあったと、見る事ができるのでしょう。





    道鏡事件と言うものは、

    仏教勢力と、藤原氏、唐・新羅派天皇の三つ巴であり、

    また、それをそれぞれ背景とする、

    蘇我・天智・天武系の三つ巴の王統権力闘争であった。



    それは、日本の中での「朝鮮」勢力の権力闘争だったのです。



    具体的には、

    「高句麗」であり、「新羅」であり、「百済・加羅」であり、
    それらの弱肉強食の戦いそのものの
    権力の消長の姿であったと言えると思います。






    そのように、歴史は、学びの宝庫です。



    女性の特質・『陰徳』に光を当てて歴史を見るのもおもしろいのです。







    これで、このシリーズは終わります。

    いかがでしたか?


    いかに華やかに栄えているかに見える家も、

    わずか3代で、滅びてしまうのです。

    その『因』は、『陰』の衰退、女性の『陽』化です。


    それぞれ、たった一人の女性の生き方です。

    家系を滅ぼすのも、たった一人の女性の生き方で彼のです。
    家系を盛り立てて行くのも、おなじく、
    たった一人の女性の陰徳で可能なのですよ。
    その事を、今回はご記憶くださいね。







    よき休日を、よき『時』をおすごしくださいませ。













































    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
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    どうぞ宜しくお願いします。



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    テーマ : 歴史上の人物
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    Comment

    女性の本質

    床錦のうつくしさー奥床しさの言葉を思い起こしました。

    権威や名誉や地位のような男性的な価値観をものさしにした歴史が、
    他には、いっぱいありますが、『陰』から見た歴史という試みを、他では見たことがありません。

    こういう視点が、もっと一般的に広まっていたら、
    いまの女性たちも、男性を真似ることなく、自分の特性に目覚めたに違いないと思ったわ。
    なにが、女性をしあわせにするのか?
    古いというだけで、捨ててきたものを、もう一度見直さなきゃいけませんね。

    管理人のみ閲覧できます

    このコメントは管理人のみ閲覧できます

    そういえば、子供のころ年配の人に、よく

    男女の別といいますか、あなたは女だからと、どこかで言われました。=
    それには、深い意味があったのですね。=
    口下手な祖母などは、細かいことは教えてはくれませんでしたが、=
    女でくやしいー!と、思ったりして、単に、それは男女の差別意識だと軽く考えていました、、、。=
    記事を読めば、そう取ることが、女性の自信のなさを表してきたものと思えるようになりました。=
    深い意味を知る事は、自分の狭いカラを、打ち破れるような気がします。=

    ところで、家の栄えるという事は、昔の天皇家と違って、=
    現在の庶民にとったらどういうように考えたらいいのでしょう?=
    そのまま、子孫が栄えると、続いて行くことが大事だということですか?=

    今日は日曜らしく

    休みです。めったにない事ですよ。
    うーん、歴史を女性の目で読むと、こうなると思いながら読むのだが、
    今日は、高い山の上から矢が! 矢が! 石つぶてか!
    女性の『陰』に逆らうとコワイんだな。
    よーくわかり申した。

    なぜ、日本史学会が真実を追求しないか? 

    に共感致します。
    聖徳太子は、いなかった。と言う説もあります。

    603年に聖徳太子と蘇我馬子が作ったとされる冠位十二階ですが、(1-大徳~12小智)

    これに先んじて九州倭国の王、姓は阿毎、字は多利思北孤(タリシヒコ)の時に、
    内官として十二階(600年)の制度があったと、「隋書東夷伝・俀国」に、書かれています。

    日本書紀で、これらを潤色したと考えられます。


    No title

    宇佐で和気清麻呂が脅迫して聞き直した、とも聞いたことがありますが、

    「陰」の衰退、女性の「陽」化の影響・・・しかと記憶したいと思います。

    Re: 女性の本質

    > 床錦のうつくしさー奥床しさの言葉を思い起こしました。
    >
    > 権威や名誉や地位のような男性的な価値観をものさしにした歴史が、
    > 他には、いっぱいありますが、『陰』から見た歴史という試みを、他では見たことがありません。
    >
    > こういう視点が、もっと一般的に広まっていたら、
    > いまの女性たちも、男性を真似ることなく、自分の特性に目覚めたに違いないと思ったわ。
    > なにが、女性をしあわせにするのか?
    > 古いというだけで、捨ててきたものを、もう一度見直さなきゃいけませんね。


    ★あ、本当にそうですね!
    ”権威や名誉や地位のような男性的な価値観をものさしにした歴史” そのとおりです。
    男性社会である事を、忘れていますね!
    このままでは、男性のようになっていくのが男女平等だと、錯覚します。
    女性にも視点をおいた歴史というものを作り上げて行きたいものです。
    寒さ厳しき折、お体をたいせつに! お仕事に励んでくださいね~。ありがとう☆cosmos

    Re: No title

    鍵コメントさんへ
      感謝します☆cosmos

    Re: そういえば、子供のころ年配の人に、よく

    > 男女の別といいますか、あなたは女だからと、どこかで言われました。=
    > それには、深い意味があったのですね。=
    > 口下手な祖母などは、細かいことは教えてはくれませんでしたが、=
    > 女でくやしいー!と、思ったりして、単に、それは男女の差別意識だと軽く考えていました、、、。=
    > 記事を読めば、そう取ることが、女性の自信のなさを表してきたものと思えるようになりました。=
    > 深い意味を知る事は、自分の狭いカラを、打ち破れるような気がします。=
    >
    > ところで、家の栄えるという事は、昔の天皇家と違って、=
    > 現在の庶民にとったらどういうように考えたらいいのでしょう?=
    > そのまま、子孫が栄えると、続いて行くことが大事だということですか?=


    ★男女の別を教える人たちは、もう多くなくなりました。
    でも、子供の時の記憶を大事になさっているのですね。
    そう、自分を進化させていく事は大事です。
    それこそが、成長というものですね、
    お尋ねの件、今度、記事の中でお返事いたします。それでよろしいでしょうか?
    ご家族のみなさま、インフルにならぬように健康に留意されてお過ごしくださいね。感謝です☆cosmos

    Re: 今日は日曜らしく

    > 休みです。めったにない事ですよ。
    > うーん、歴史を女性の目で読むと、こうなると思いながら読むのだが、
    > 今日は、高い山の上から矢が! 矢が! 石つぶてか!
    > 女性の『陰』に逆らうとコワイんだな。
    > よーくわかり申した。


    ★たまのお休み、よかったですね!
    あはは!、高い山から矢が降ってきたとか? 誰でしょう? 石つぶてなど! (笑い)
    雪山から、雪合戦の雪玉が降ってきたのでは?ないですか?
    寒さ厳しき折、くれぐれもお体の健康に留意されてお元気でいていただきますように、、。
    いつもあたたかいご厚情、御礼申し上げます。☆cosmos

    Re: なぜ、日本史学会が真実を追求しないか? 

    > に共感致します。
    > 聖徳太子は、いなかった。と言う説もあります。
    >
    > 603年に聖徳太子と蘇我馬子が作ったとされる冠位十二階ですが、(1-大徳~12小智)
    >
    > これに先んじて九州倭国の王、姓は阿毎、字は多利思北孤(タリシヒコ)の時に、
    > 内官として十二階(600年)の制度があったと、「隋書東夷伝・俀国」に、書かれています。
    >
    > 日本書紀で、これらを潤色したと考えられます。


    ★お初に、お立ち寄りいただきまして、ありがとうございます。
    わが国の歴史は、いろいろな都合があって難しいものです。何を恐れているのでしょうか?
    真実を言うのに、何が恐いのでしょうか? 時は進んでいるというのに! (笑い)
    折角のコメント、無駄にしないようにお勉強致します。 感謝です☆cosmos

    Re: No title

    > 宇佐で和気清麻呂が脅迫して聞き直した、とも聞いたことがありますが、
    >
    > 「陰」の衰退、女性の「陽」化の影響・・・しかと記憶したいと思います。


    ★あたかも伝承のように”脅迫して聞き直した”とかの子供だまし?の表現で誤魔化すくだりが、
    わが国の国史には、いろいろあって多いのですが、
    そう言うようなあやふやな事ではなくて、この一連は、あきらかに権力闘争です。
    そういう事を、日本史の中で、きちんと教えないのですね。わが国は。 
    一連のカモフラージュです。
    わざと、”見ざる言わざる”で、実態を見えなくしているのが、我が国史全般です。
    実態は、
    宇佐神宮は、加羅、任那の滅亡時に、皇祖の応神を改祀しているのですが、
    その必要性は、応神の出自と深い関わりがあったからなのですが、
    そのように朝鮮半島の勢力図、国内の権力図を抜きにしての解釈はできません。

    そもそも、道鏡を天皇にと、奏上した太宰府の神司・習宣阿曽麻呂(スゲノアソマロ)は、道鏡に媚びヘツライ仕えていた人物で、尚且つ、このとき習宣阿曽麻呂を監督する大宰府長官は道鏡の弟の弓削浄人でした。 

    つまり、道鏡・弓削浄人兄弟は、蘇我王統の出自の人間です。
    道鏡の宇佐神宮奏上事件は、藤原 対 蘇我の権力抗争です。  あはは。お分かりですね。 

    その事から、どのような経緯で何の為に、神託が出されたかは容易に推察できますね。
    藤原氏が牛耳る朝廷で、それがそのまま通ると思った地方に追いやられていた蘇我氏側が、甘かった訳です。

    外国の国々は、おびただしい侵略を受けた歴史ですから、ありのままそれを学習して、次の侵略に具えて、相手を鋭く見抜く目を養う為に自国の歴史を、事細かに教えますよ!
    わが国は、万世一系のイメージが傷つくからか、罠とか策略をなかった物として隠すのですね。
    全くおかしな国です。外交のセンスが育つわけないわね、、、。(笑い)


    ちょっと講義をしてしまいましたわ~  ありがとう☆cosmos

    何か良い形にしていきたいです

    私はいろんな経験を通じて「陰陽」の概念を体感しました。10代後半です。
    その当時、それが「陰陽」だという認識は無かったのですが、今から思うと確かにそうでした。
    その概念を知ったからこそ「陰」の世界を大切にしました。
    そうする必要があると感じたからです。
    「陰」を重んじること抜きに、現在の幸福感を得ることはなかったであろうと確信しています。

    元々学問としての歴史をほとんど知らないし、ここ一連の記事も何度も繰り返し読ませて頂いていますが、正直に申しますと全てクリアには理解できません(恥)
    でも読んだ後で、感覚として伝わって来るものが毎回確実にあります。
    史実を知ること、それを通して事実以上に読者に何を教えて下さっているのか、また「各自何を考えよ」とおっしゃっているのか...ということです。

    こちらのブログを拝見するようになって、特に「女性の在り方」「これからの世の中」を強く考えるようになりました。
    今後の自分の在り方もこれまで以上に考えるようになりました。
    そして、考えた事を何かしら良い形にしていきたいです。


    前回で少し勇気が増えましたので(?)再びコメントしました~。
    やっぱりドキドキです...少しずつ、試し試しです。
    いつもありがとうございます。

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    Re: 何か良い形にしていきたいです

    > 私はいろんな経験を通じて「陰陽」の概念を体感しました。10代後半です。
    > その当時、それが「陰陽」だという認識は無かったのですが、今から思うと確かにそうでした。
    > その概念を知ったからこそ「陰」の世界を大切にしました。
    > そうする必要があると感じたからです。
    > 「陰」を重んじること抜きに、現在の幸福感を得ることはなかったであろうと確信しています。


    ★深い瞑想と体験を感じます。 そう誰にでもあるものではありませんよ。
    世の中の皮相的な現象に、騙されない様になれましたでしょう? (笑い)
    きっと、貴女が、そうなれるようにと誰かが心から祈ってくれた、そういう事でしょうね。
    そこで、つながっているはずです。大事になさってください。



    > 元々学問としての歴史をほとんど知らないし、ここ一連の記事も何度も繰り返し読ませて頂いていますが、正直に申しますと全てクリアには理解できません(恥)
    > でも読んだ後で、感覚として伝わって来るものが毎回確実にあります。
    > 史実を知ること、それを通して事実以上に読者に何を教えて下さっているのか、また「各自何を考えよ」とおっしゃっているのか...ということです。


    ★ありがとうございます。記事を書いている甲斐があると言うものですね! (笑い)
    そう思ってくださる人が、いるというだけで、その事に感謝せずにはいられませんね~



    > こちらのブログを拝見するようになって、特に「女性の在り方」「これからの世の中」を強く考えるようになりました。
    > 今後の自分の在り方もこれまで以上に考えるようになりました。
    > そして、考えた事を何かしら良い形にしていきたいです。


    ★OKです! 期待しています! あはは。
    「女性の在り方」が本当に分かれば、世の中が全部分かって来るわけですから、それで十分です。
    これからの世の中に、何かできないか? いっしょに考えていきましょう。



    > 前回で少し勇気が増えましたので(?)再びコメントしました~。
    > やっぱりドキドキです...少しずつ、試し試しです。
    > いつもありがとうございます。


    ★あ、それは、一段と成長をすると言う挑戦ですね。
    心で思っているだけでは、それがどんなに思っていてもですが、前には進まない部分があります。
    事によると、自家中毒のように自分を蝕むこともあるでしょう。
    そうならない為に、常に書いたり、話したり、自分の体を通して自分の考えを自分の外へ出すと言う事は、子供を産むのと似ています。
    明らかに、自分の分身ですが、存在を持っていますから、客観的事実として、自分が冷静に眺める事で、読み返す事で自分のの支えや、助けや、反省の材料になるはずです。時間が経って読むと、自分の成長の度合いが分かって楽しいです。変わらない部分がどこまで残せているか?確認もできますから、ね。
    せいぜいコメントをお書きになって、それを利用してください。
    すばらしい充実した人生のために! 女性でよかった! と喜べるために! あはは。
    ありがとうございます☆cosmos

    Re: こんばんは。 

    鍵コメントさん、コメントありがとうございます。☆cosmos

    Re: No title

    鍵コメントさんへ、いつもありがとう☆cosmos
    非公開コメント

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    寂光ーcosmos

    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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