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    【 東洋思想 3 】    末法時の予言 ・ 釈迦は自らの仏法の功力の消滅を予言

    Category : 東洋思想
    サンチー 遺跡(Sanchi)1989年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。


    次の4枚の写真をご覧になって見てください。

    どことなく我国の寺院や神社の懐かしい風景に似ていませんか?

    2300年前のアショカ大王が建立したインド最古の仏塔のある遺跡です。


    サンチー 遺跡

    自然のままの緑に囲まれた日本の寺院、神社の風景、石畳の参道、、、

    その風景と重なって来るものがあるでしょう?

    西洋の教会なら、ここは木もない広場になっている所です。







    サンチー沐浴池



    サンチー沐浴池

    ここで、仏塔をお参りする前に、沐浴をした池。

    周りは、いかにも東洋らしく自然林に囲まれています。

    西洋なら、石畳を全部に敷き詰めて、沐浴場などはありません。








    サンチー遺跡の代表・大ストゥーパ第1塔  



    サンチー 大ストゥーパ第1塔

    これを最初に見た時、いろんな建築様式が交じり合っている感覚に、

    頭の中がグルグル回ってしまいました!  あはは。

    まず、丸いストゥーパの屋根は、天皇陵の円墳を思い起こさせ、

    建物全体の雰囲気は、  

    まるで、アメリカの西部劇に出て来るインディアンの住居? あはは。

    てっぺんにある串刺しの様な擬宝珠は、五重塔のに似て、

    トーラナ(塔門)は、ひょっとして神社の鳥居の原型なのね!

    周りの丸い石の囲みは、神社を囲む石の柵を想起させられたのです。

    神仏混淆のイメージでしょう?     あはは。







    サンチー欄楯 ( らんじゅん )  


    サンチー欄楯

    写真のリンク先:インドing


    周りの丸い石の囲みを、裏側から見ると、そう!

    寺院や神社の寄進者の名前が刻印されている石柵の雰囲気。



    このように、サンチーの遺跡を初めて見た時に覚えた

    幻惑されたような異文化の交じり合った認識の目まいは、

    今の私の知っている知識中心に見れば、

    なるほどと、そうなるのですが、

    冷静になれば、確かに、

    サンチーの遺跡の方が断然古いのですから、

    サンチーの遺跡が、それらの寄せ集めなのではなくて、

    サンチーの古代インドの仏教美術や様式が、中国へ日本へ、

    仏教寺院や神道の神社へ、あらゆる影響を与えた事になるのです。

    そう思って唯物的に建物の様式を理解をしてみると、


    古代インドのこの遺跡は、日本の宗教的建築物の原点なのです。


    インド古代史上、最初の統一国家であるマウリヤ朝の最盛期を築いた

    アショカ王が、釈迦の遺骨(仏舎利)を安置する為に建立した

    ストゥーパ(卒塔婆)が、広々とした草原のなだらかな丘の上に立つ姿は、

    単なる古い2300年前の遺跡と云うよりも、

    さすがに、我々のDNAを刺激する存在感においては、

    平屋の建物なのに、現代の高層ビルに負けない力強い意志を感じます。

    歴史建造物は、みなそうですね。







    では、今日の本記事です。


    神への祭司を独占するカースト制の最高身分のバラモンに対抗して、

    その下の身分クシャトリア(武士・王族)の中から

    カーストを否定する仏教、ジャイナ教が生まれて来たと云う処からでした。


    仏教が、そもそもの成立した時点では、革新そのものだったのです。

    現代においては、仏教は、守旧的に見えますね?   

    古さを守っているだけでどこが新鮮なの? って、、、  あはは。



    それが、どうしてこうなったのか?

    それは、後で、書きます。 






    クシャトリアから出たと云っても、

    仏教とジャイナ教は、その成立の根っこが全く違います。


    まず、ジャイナ教から片づけましょう。  あはは。

    仏教がまだ生まれる前、釈迦が出家する頃には、

    森林で生まれたウパニシャッド哲学を基盤としながらも

    カースト制の最高身分だったバラモン勢力に対抗する形で、

    バラモンのヴェーダの権威を認めない六師外道(ろくしげどう)と云われる

    六人の思想家達(唯物論者、七要素説者、道徳否定論者、決定論者、懐疑

    論者、 相対論者)が、出ていました。

    その中の一つが、相対論者の立場であるジャイナ教です。

    つまりジャイナ教は、六師外道の中の一つでした。

      
    前563~前477、開祖はヴァルダマーナ。

    彼は、輪廻の原因になる個々人の『業』を身体にくっついた物質と観ます。

    これは、ある種の唯物的観方です。

    体からくっついた『業』を剥がすには、苦行をしなさい、と。

    具体的には、苦行と徹底した不殺生を説いています。

    そして、苦行は、基本的には断食です。

    梵我一如を手にしたらこの世で生きている意味がないから、

    断食をしてそのまま餓死する事を進めるのですね!

    死んでしまいましょう! と、、、、、  あはは。


    現代のダイエットに熱心な人は、その昔、ジャイナ教徒 ? 

    きっと、その生まれ変わりのような?     あはは。

    このように、今世、理屈抜きで一生懸命する事や、自然にできる事や、

    なかなか止められない事って、前世の業と関係があるのですよ。



    今度は、真面目なお話しです。

    インド独立の父・ガンジーもジャイナ教徒の家の出自です。



     




    次は、仏教。

    前563~前483頃、開祖はガウタマ=シッダールタ。尊称がブッダ。

    ブッダ(仏陀)は、「覚者・覚った人」と云う意味で、一般名です。

    だから誰でも悟りを開いた人は、仏陀と名乗れるのですよ。

    あなたが悟ったら、仏陀と名乗る事もできますよ!   ほほ。


    お釈迦(しゃか)様とも言います。

    釈迦族出身と云う部族名の呼び方です。

    (シャーキャーと云う部族名が、中国へ伝わった時に音訳で釈迦になった。)

    彼は、釈迦族のカピラヴァストゥ国王の皇太子として生まれました。

    ミス釈迦族の美人を、お嫁さんにもらって、男児も一人もうけます。

    なに不自由ない宮廷暮らしの中で、人間の暮らしの無常を感じて、

    次期国王の地位や、愛する家族を宮廷に遺して、出家修行の道を選びます。


    当時、彼は29歳でした。

    ここで、彼は、やっぱり王子さまだなと思うのは、

    国王である父、浄飯王(じょうぼん)は、

    息子が皇太子の座を捨てて出家するのが心配でたまらなかったのでしょう。

    自分の信頼に足る家来6人を、警護も兼ねて同行させます。


    釈迦は、同じような修行者がいる森に入って、過激な苦行をしますが、

    少しも悟れないので苦行によって悟りをひらく事をあきらめます。

    断食で痩せ細った体で森から里へ降りて行きます。

    川の畔で、休んでいる時です。 

    よっぽど痩せてお腹がすいていると気の毒に見えたのでしょう。

    村の娘が牛乳を差し出してくれました。

    この村娘の名前がスジャータです。 余計な事ですが、、、ほほっ。



    この当時の仏教は、出家仏教で、在家仏教ではありません。

    悟りをひらいて解脱できるのは、出家して修行した人だけです。

    普通の暮らしをしている在家の人たちは、解脱はできないけれど、

    出家した修行中のお坊さんに、お布施(食べ物を与える)をする事で

    よい業を積む事ができる。

    そうすれば、今度生まれ変わる時には、今より少しでもよい所に生まれ変わ

    ることができると云う教えだったのです。

    村娘スジャータがした事は、そう云う事からだったのです。

    そのミルクのお陰で、蘇生したガウタマは、菩提樹の下で瞑想を始めます。

    そして、終に悟った。覚者になった訳です。仏陀になりました。




    ここでしばし、横道へ、、、お断りをしておきます。

    釈迦族のゴータマである仏陀を「彼」と親しみを込めて呼びましたのは、

    釈迦自身、自分は、未来永劫にあらゆる衆生を救う仏であるとか、

    だから自分を本尊にして拝みなさいとか、

    まして自分の仏像を作って本尊にしなさい、 

    とは、一度もおっしゃっていないのですよ。


    これは、キリストも同じです。

    自分こそが神とは、言い残してはいらっしゃらない。 

    仏や神として崇め奉ったのは、後々の弟子たちなのです。

    弟子たちが、自分たちの止むにやまれぬ都合によってそうしたのでしょう。

    その都合とは、強い信仰心による都合も入りますが。


    私の個人的な見解ですが、

    自分が神や仏と云う自覚があって、引き続き後世の人びとを救う目的で、

    その事を言い残す必要があると覚られているのなら、

    自分の死期を、前もって悟るのが、神や仏と云うのですから、

    それをそのまま、率直に、何の遠慮もなく、信頼に足る弟子達に、

    教えとして必ず遺されたであろうと思っています。

     
    まして、ご自分の覚知した法の力が、

    末法には消滅すると予言をした釈迦においては、そうです。


    ( 末法 = 釈迦仏法が力を失い功力がない法になる事。)




    そもそも、仏像崇拝も、「偶像崇拝」の問題にも関わって来る事です。



    偶像崇拝は、高等な宗教においては常に論争になっています。

    なぜなら、真理や本質は、人形像の容にはあらわれない。


    あくまでも仏教は、目で見えない仏の法が根本であり、

    信仰の本質は法の覚知にあるとするのが本来の仏教の精神だからです。


    古代インドでは、釈迦の図像や彫刻は作られておりません。

    仏像が一般化するのは、ギリシヤ彫刻の影響を受けたガンダーラ仏からで、

    あくまでも、仏像は、仏教の本来の精神ではないのです。


    だから、釈迦は、自分の仏像を作って拝めとは言わなかった。



    後々の弟子が、守ろうとする(これは悪しき保守です。)意識が、

    権威を作り、それを形造って来たのではないのか?

    権威とは、人の意識が作ったものです。 = 『陽』の範疇です。

    人間の意識が、自己を守る為に作る人工的な価値観です。

    王や貴族などの階級、ブランドなどの金ぴか思考ですね。  あはは。


    本質を観るには、権威は要らないものです。

    特に宗教においては、

    権威が傘高くなれば、法の本質的な内容が形骸化します。

    が、人の意識のベクトルは、常に自己保存に傾き、

    その為の権威を保ち持たそうとすれば、

    人に見せる金剛に飾られた人形が必要になって来るのです。

    この事は、なんら真実とは関係ありません。


    芸術や美術を真理や本質と思ってはいけません。

    しかし、とかく人は、キンピカに、綺麗にしたがりますね。

    これじゃ、西洋文明の意識が作った世界です。


    かように、本質が失われて物事は崩れていく、、、




    その過程を、釈迦は、正・像・末の三時に分けて遺した。

    ( 詳細は省きます。これに関しては、またの機会に。。。)




    つまり、人の意識が作った物・『陽』のみの残骸が増えて来ると、

    法の本質は隠れて見えなくなります。 それを、、、


    白法隠没・びゃくほうおんもつ』 白法 = 釈迦の仏法の力

    ( 釈迦仏法の力が消滅し、隠れて見えなくなる。)

    と言い残したのです。

    その時を、末法時と言います。

    これは、人間の本質を観抜いたすばらしい覚者の智慧です。



    つまり、意識の作為・『陽』が大過すれば、『偽』が主役になると。



    『偽』が主役とは、社会の機能において、

    善を守り善へと働く機能が薄くなり、善が消滅して行く。

    善は、仮面や形だけになり、本質が悪にすり替わって行く。


    故に、『 闘諍言訟・とうじょうごんしょう 』すると言い残した。

    ( 正しい事や善が守られなくなって争い、言い合いが激しくなる。)


    その時期を、

    釈迦は、自分の死後2000年以降と言い残したのです。

    末法時(まっぽうじ)です。

    そうなると、覚知した。 知っていたのですね。

    見えないものを見て、聴こえないものを聴かれたのです。

    だから、それを言い残された。


    それを言い残した釈迦が、自分が仏であるのかないのか?

    その肝心な事を必要ならば、教え遺されない訳がない。





    私自身は、なんら守るべき何の権威もなく、

    思っている事をそのまま言って、何も失う物もありませんから、

    率直に普通の人間性で申し上げます。

    あえて、釈迦が自分が仏であると言わなかった事実からは、

    それ以外のなにものでもない、、、 


    もっと突き詰めれば、言い残す事で後世に何らかの縛りを遺す、

    そう云う危惧もあったからではないかと、人間的に解釈しています。


    キリストもそうです。



    はたして、

    弟子が、神や仏に奉った事を、彼ら二人はどうお考えでしょう?








    本論に戻ります。


    釈迦の古代仏教が、六師外道の中から生まれたジャイナ教と違うのは、

    釈迦の仏教の方が、六師外道を超えた教えだと云う事です。

    外道と云う呼び名が、それを表しています。

    外道とは、内道(ないどう・仏教)ではないと云う意味です。

    因果応報の永遠の生命を説いていないのが、外道(げどう)です。



    あ、西洋思想も外道です。

    たとえそれが、ヘレニズムの神であろうとキリストの神であろうと、

    西洋の神は、因果応報の永遠の生命観を説いてはいない。



    仏教の発祥は、開祖ガウタマ=シッダールタの生年が前563~前483頃、

    とすると少なく見ても、今から483+2012=2495年前です。

    キリストは、今年から2012年前ですから、

    仏教の方が、4~500年古い。

    キリストが誕生した時に、もうすでに古代インドは、

    西洋よりも死生観、宇宙観、生命観、時空観において勝っていたのです。


    その新興の宗教である仏教を支えたのは、

    同じく新興の力を付けて来たクシャトリアの下の身分、

    バイシャ(商人)の有力商人達でした。

    彼らの豊富な財力が、釈迦教団を支えました。

    彼らも、独占的なバラモンの支配するカースト制度を否定する勢力でした。


    そして、バラモンの権威が眼の上のコブ? だった世俗の力を持つ王族たち、

    2300年前のアショカ大王

    西暦127年頃のクシャーナ朝のカニシカ王が、仏教を保護しました。

    カニシカ王はシヴァやゾロアスター教も庇護しています。



    我々は、中国の歴史と比べるとインドの歴史についてはあまり知りません。

    中国は、かって聖徳太子の頃の宗主国であり、

    我が国は柵封されていた属国と云う関係で、

    宗主国の宗教と漢字の使用を義務付けられていた為に、

    日本は、中国のコピー模倣をやっていたので、余計です。

    その上、インドは中国ほど国の歴史記録を熱心にやっていなかった。

    どうせ生まれ変わるものを書き留めて記録してどうなるの?  あはは。

    歴史記録に興味がなかった。のでしょう。  

    目で見える物を追いかけるよりも、

    目で見えない物を基準に生きて来た。  

    そう云う一面が、精神大国インドには現在も感じます。

    傍目は気にしない。自分の内面重視ですね!    あはは。

    だから、大衆の面前で、裸の沐浴ができる。

    ある意味、うらやましい気もしますが、、、ほほっ。

    これは、『陰徳』の徳性に通じる重要な一面です。




    しかし、現代のインドにおいては、

    ヒンドゥー教が社会的、文化的な生活の基盤です。


    今日、仏教徒は、インドの全人口12億4150万人に対して

    800万人しかいません。


    なぜ、キリスト教を凌駕する時空観を持ちながら、

    釈迦の仏教は、衰退をして行ったのか.....


    古代インドの仏教の発祥においては、

    その革新性と三世に亘る宇宙観で絶大な信頼を得て勢力を持ちながら、

    イスラム教とヒンズー教のそれぞれの政権の出現によって

    弾圧を受け、寺院の破壊と僧侶等の殺戮によって

    壊滅的に衰退して行きました。

    このインド仏教の衰退の原因は、当地の仏教界においても、

    末法の時代としての説明解釈がされています。



    末法と云う時が、来たのだと云うのです。 




    すべて重要なのは、『時』です。

    すべて、『時』に拠って真実は顕れ、ウソは暴露されるのです。 



    今は、どう云う時か?

    インド仏教界と同様に言うならば、

    末法時におけるありさまの日本。    あはっは。


    まさしく時空観において仏教よりも低い外道の近代化に誤魔化され、

    グルメ三昧、他人の精子や卵子をもらわないと子が作れない、、、

    命をつなぐ食には、遺伝子組み変え、化学物質が塗(まぶ)せられ、

    体を清潔に保つには、仕方なく経皮毒を浴びねばならず、

    科学の恩恵さまさまの現状を、やっと生き抜いておりますが?


    ひょっとすると死ぬ間際には、胃瘻と云うものを

    外から直ぐに胃へ入れられて、

    いつ死ぬのかも、他人に管理されるかもしれません。 あはは。


    命を物と見る低い生命観の科学の御仕着せを、

    うんざりしながら、もう、飽き飽きしています。   あはは。

    ほ――、あまり悪態をついていても、面白くありませんから、

    この辺で,、、ほほっ。







    今回、記事の更新が遅れまして申し訳ありませんでした。

    一昨日から、富士の1~5合目登山で、

    渋滞やら五合目の寒さで、帰りが予定より遅れました。

    まだ、頭の中は富士の山中を彷徨っております。   ほほ。



    今日の記事の続きは、

    【 東洋思想 7 】以降に廻したいと思います。



    次回は、

    今までの記事へいただいたコメントへのお返事になります。




    よき、一週間をお過ごしになってください。


    あ、今日の金環食は、我々の干からびた意識へ、

    無意識からの『陰』の存在感を知らしめた

    『天』からの見せしめのショウだったように思います。


    『太陰』へ感謝をしましょう。

    大地へ感謝をしましょう。

    大地へ、  ひどく、揺れないでね。




























    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

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    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    Comment

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    No title

    初めまして。
    本日はコメントありがとうございました。
    富士山へ行ってらしたんですね。
    五合目から頂上というのはよく聞きますが
    一合目から五合目というのもいいですね~~♪

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    はじめまして

    はじめまして。
    最近、こちらのブログを知ったのですが、私が今までないがしろにしてきた大事なものが、ギュッと詰まっているブログだなぁと感じています。
    現在の私にはわからない記事も多いのですが、いろいろと勉強になることを書いていただき、ありがとうございます。

    今回の東洋思想シリーズは、とても面白かったです。

    私は無宗教ですが、弟が仏教系の幼稚園に通っていたおかげで、お釈迦様の物語の本や漫画が家にあり、子供の頃にその本を何度も読んでいました。
    そのせいか悟りに興味があり、ブラフマンとアートマンの事は、何かの本で読んだ記憶があります。
    苦しい事があっても、この体験が肥やしとなり、いつかは悟る時が来るかもしれない…という、希望のようなものが心の中にあります。
    でも、現代社会では悟りや解脱が、ただの自己顕示欲のためや、ビジネスのためになっているようで、とても残念に思っていました。

    釈迦は、自らの仏法の功力の消滅を予言されていたのですね!

    >これは、人間の本質を観抜いたすばらしい覚者の智慧です。

    とても感動しました!
    東洋の叡智に憧れます。

    No title

    何度も読んだのですが、なかなかコメントにならなくて、、、=
    サンチーの遺跡をみて、涙ぐんでしまいました。=
    なにか、心があったくなったようで、世界中、人間の心は同じなんだなと思いました。=

    権威が本質の邪魔になる。=
    そう云いながら世間を見回すと、なんと権威にしがみついている人が多い事なんでしょう。=

    いろいろな事が、頭にめぐって取り留めのない状態ですが、、、=
    やはり、人は本当の事を大事にしていくべきなのですね。=

    次回の記事を楽しみにしています。=

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    No title

    あーー、よかった!
    cosmosさんのコメントのレス、まだだったわ~。

    今回の記事は、興味深く読ませていただきましたが、
    自分なりに調べて、cosmoaさんへ質問をしたかったのでありますが、
    よろしいでしょうか?

    Wikiなどによりますと、
    釈迦の立教以来1,000年(500年とする説もある)の時代を正法(しょうぼう)、次の1,000年を像法(ぞうぼう)、その後10,000年を末法の三時観で分けて考え、釈迦の教えが及ばなくなった末法においては、仏法が正しく行われなくなるという、仏教(特に大乗仏教)における下降史観である。

    日本では平安時代の頃から現実化してきた。特に1052年(永承7年)は末法元年とされ人々に恐れられ、盛んに経塚造営が行われた。この時代は貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある動乱期で、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。

    などと書かれていました。
    このへんの歴史は、重要だと思うのですが、習っておりません。
    また、いろんなお寺の発信もあったとは記述がありません。

    いい加減にされているのかわかりませんが、天下泰平なんだと思いました。

    まさか、これが、『偽』が主役になると云うことでしょうか?
    いままさに、なにがなにやらわからない? そういう時代の入っている?

    東洋思想7、を楽しみにしています。

    Re: No title

    鍵コメントさんへ
          仏経に関心を?   あはは。  そうですか!
          いつもありがとうございます!    感謝☆cosmos

    Re: No title

    > 初めまして。
    > 本日はコメントありがとうございました。
    > 富士山へ行ってらしたんですね。
    > 五合目から頂上というのはよく聞きますが
    > 一合目から五合目というのもいいですね~~♪


    ★金環食の写真、思い出になりましたね。
    五合目から頂上へは、山開きが終わってから、行こうと思っています。
    山登りは、さわやかで!  いいものですよ~   
         コメントありがとうございます。  感謝☆cosmos

    Re: No title

            鍵コメントさんへ
             そうですね! 自分たちの歴史を大事にしないといけませんね。
             いつもありがとうございます!    感謝☆cosmos

    Re: はじめまして

    > はじめまして。
    > 最近、こちらのブログを知ったのですが、私が今までないがしろにしてきた大事なものが、ギュッと詰まっているブログだなぁと感じています。
    > 現在の私にはわからない記事も多いのですが、いろいろと勉強になることを書いていただき、ありがとうございます。
    >
    > 今回の東洋思想シリーズは、とても面白かったです。
    >
    > 私は無宗教ですが、弟が仏教系の幼稚園に通っていたおかげで、お釈迦様の物語の本や漫画が家にあり、子供の頃にその本を何度も読んでいました。
    > そのせいか悟りに興味があり、ブラフマンとアートマンの事は、何かの本で読んだ記憶があります。
    > 苦しい事があっても、この体験が肥やしとなり、いつかは悟る時が来るかもしれない…という、希望のようなものが心の中にあります。
    > でも、現代社会では悟りや解脱が、ただの自己顕示欲のためや、ビジネスのためになっているようで、とても残念に思っていました。
    >
    > 釈迦は、自らの仏法の功力の消滅を予言されていたのですね!
    >
    > >これは、人間の本質を観抜いたすばらしい覚者の智慧です。
    >
    > とても感動しました!
    > 東洋の叡智に憧れます。


    ★はじめまして、、、!
    コメントありがとうございました!
    今日の記事に、そのまま引用させていただきます。
    そこでお返事を致します。  よろしくお願いします。   感謝☆cosmos

    Re: No title

    > 何度も読んだのですが、なかなかコメントにならなくて、、、=
    > サンチーの遺跡をみて、涙ぐんでしまいました。=
    > なにか、心があったくなったようで、世界中、人間の心は同じなんだなと思いました。=


    ★そうでしたか、、、私も、胸にこみ上げる物があって、
    こうして、文化と云う物は伝わるのだなって、大事にしないといけないわね。



    > 権威が本質の邪魔になる。=
    > そう云いながら世間を見回すと、なんと権威にしがみついている人が多い事なんでしょう。=
    >
    > いろいろな事が、頭にめぐって取り留めのない状態ですが、、、=
    > やはり、人は本当の事を大事にしていくべきなのですね。=
    >
    > 次回の記事を楽しみにしています。=


    ★そう、権威はよろしくない。  あはは。
    権威が、本当の事を隠して誤魔化してしまうのです。
    しかし、人は偉くなりたがり、権威で自分を飾ろうとします。  あはっは。
    気を付けましょう^^。  いつもありがとう!   感謝☆cosmos

    Re: No title

          鍵コメントさんへ
          なつかしさを、、、? よかったわ!
           nowを大事に、そしてnewを、どう迎えるかですね。感謝☆cosmos
              

    No title

    こんにちわ~~♪
    2300年前にこんな立派な仏塔のアショカ大王は建立したのですね。
    凄いですね。
    難しいお話ですが・・わかったことは・・
    私がジャイナ教徒ではなかったってこと。
    食欲旺盛でダイエット出来ません(苦笑)

    Re: No title

    > あーー、よかった!
    > cosmosさんのコメントのレス、まだだったわ~。
    >
    > 今回の記事は、興味深く読ませていただきましたが、
    > 自分なりに調べて、cosmoaさんへ質問をしたかったのでありますが、
    > よろしいでしょうか?
    >
    > Wikiなどによりますと、
    > 釈迦の立教以来1,000年(500年とする説もある)の時代を正法(しょうぼう)、次の1,000年を像法(ぞうぼう)、その後10,000年を末法の三時観で分けて考え、釈迦の教えが及ばなくなった末法においては、仏法が正しく行われなくなるという、仏教(特に大乗仏教)における下降史観である。
    >
    > 日本では平安時代の頃から現実化してきた。特に1052年(永承7年)は末法元年とされ人々に恐れられ、盛んに経塚造営が行われた。この時代は貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある動乱期で、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。
    >
    > などと書かれていました。
    > このへんの歴史は、重要だと思うのですが、習っておりません。
    > また、いろんなお寺の発信もあったとは記述がありません。
    >
    > いい加減にされているのかわかりませんが、天下泰平なんだと思いました。
    >
    > まさか、これが、『偽』が主役になると云うことでしょうか?
    > いままさに、なにがなにやらわからない? そういう時代の入っている?
    >
    > 東洋思想7、を楽しみにしています。


    ★まぁ、お勉強をしてもらって、助かりました!   
    今度、記事にする時に参考にさせていただきますね。
    なにがなにやら、、、   あはっは。 そもそもの認識と自覚が要りますね!
    でも、最後は道徳なのですよ。 いつもありがとうございます!   感謝☆cosmos

    Re: No title

    > こんにちわ~~♪
    > 2300年前にこんな立派な仏塔のアショカ大王は建立したのですね。
    > 凄いですね。
    > 難しいお話ですが・・わかったことは・・
    > 私がジャイナ教徒ではなかったってこと。
    > 食欲旺盛でダイエット出来ません(苦笑)


    ★あははー!  お元気で健康の印ですよ。
    お互いに!   あはっは。
    また、お伺いしますね。ありがとうございました。  感謝☆cosmos
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    寂光ーcosmos

    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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