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    家庭 4/4 どうして母親(妻)は、家族から遊離して、自分だけの世界に閉じこもってしまうか?  

    Category : いのちの継承
    那須高原1

     
     
    先週の那須高原の紅葉のようすです。

      今は、もうきっと紅葉でいっぱいでしょう・・・
      
      11月の末には、すべての葉が散ってしまいます・・・・

      ☆秋は大地が感動しているようで、とても優しくなれます(*^.^*)
     



    今日は、ジョンレノンのウーマン 
    (3分36) を どうぞ!






    前の記事のつづきです。Wのおはなし。  

    家庭にいながら、 結婚の形を利用して、心は夫からも、家族からも

    遊離をしているW・彼女のお話です。

    どうして、母親・妻であるWは、夫を受け入れず、家庭から遊離して、

    自分だけの世界に閉じこもってしまうのでしょうか?

    子供は、自分の分身として、認めていますから、

    単純な理由は、結婚相手に不満があったということになりますね。

    なぜでしょうか? 

    封建時代の結婚のように親が決めたわけでもないでしょうし、

    Wは、子供の頃から自由に、自主性を重んじられて育ったはずです。

    そして、年頃には、もう親の言う事も聞かない娘になっていたはずです。

    だから、当然、自分の結婚も自分で決めたはずです。

    しかし、その結果が、結婚してしまえば不本意な結婚になってしまった。

    そういうことなのでしょうね。 きっと。

    なぜでしょうか?

    自分で決めるということが、イコール幸せだったはずなのに、、、

    自分が決めた相手なのに、大切な我が子の父親なのに、

    その男性を自分のかけがえのない相手として受け入れる事が出来ず、

    彼との同一化の形成ができなかったということになります。


    世間に見せている外見はともかく、内面的には失敗かな?


    ここで、大人としてのきびしい言い方をすれば、

    「お互いを選んだのは、自分たちでしょう?」

    「そういう結婚しかできなかったのは、あなたたちの責任じゃない?」 と

    思わず言いたくなるのですが、

    生まれながらのお姫様で育ったこの世代には、こういう問いかけは無理

    かも知れませんね。

    自然な競争にさらされずに、強い母権に守られて、人工的な過保護が、

    あたりまえで、育ってしまって、責任転嫁をする事があたりまえかな?

    甘やかされて育てられたWには、むずかしいかも知れません。

    驚くかもしれませんが、子供の頃から自分の行動について何もダメだしを

    されたことがないのです。

    ホラ、よく教育者が言うでしょう。『 子供は認めてやらないといけない。』

     (そうなんだ~ 子供は、叱る前に認めないといけないんだ~)

    寛大な大人たちが、子供を認め始めたのです。

    道徳の基軸の失われた社会において、”認める”とは、何になるの?

    すべてが、駄々っ子と化す可能性を秘めています。

    道徳がホコリほども残っていない家庭の中で、自分の母親が、父親を軽

    んじる風景を眺めてきたWには、解かる訳がないのです。

    つまり祖父母の代からの生き様や、その奥にある日常的な選択としての

    癖がWの根っこにあって、言い換えれば、生活のさまざまな折々の、その

    時どうした?という道徳的な価値判断がWに受け継がれているのです。


    夫婦の形態は、まさに千差万別です。中身も千差万別です。そして、

    それぞれの家庭の事情もあります。だから、自分たち夫婦が、同一化の

    形成に失敗したからといって、大げさに悩む必要はないのですが、

    今からが大事です。そして、まず、いろんな苦の原因を誰のせいでもない

    自分に於いて生きていくことです。それが最低の道徳です。

    日本の伝統的な道徳を失い、何もないという私達の世代で大切な事は、

    西洋文明の上澄みをファッションのようにいくら纏っても、クリスチャンで

    はないわけで、それは所詮、根無し草、キリスト教文明の丸抱えの恩恵

    にはあたりません。その間隙に、Wが増えてくると言う素地があります。

    幸せになれないと諦めたWが、女の本来の陰の働きを放棄して、

    陽の男を軽んじ、男を手段化する事件が出てきています。

    そして増えていくでしょう。

    そのことは、あわれ、陰である女が自滅していく一つの姿です。


    できるならせめて、お互いに尊敬しあって、

    道徳的合意が家族の中で形成されるように、

    すなおに一番いい事、一番尊い事が目の前で為されている雰囲気の

    積み重ねをしなければと思います。

    学力、知力、人間力という陽の花や実は、その上に表れてくる物です。

    私達に必要な道徳は、もともと東洋に具わっています。

































    -------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

    関連記事

    テーマ : 哲学/倫理学
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    Comment

    那須高原の空気に、

    爽やかさを感じます。
    Wの反撃と言うのか、マスコミを賑わす事件のこと、
    こういう道徳的な意味があるとは、誰も考えないのでは。
    東洋的に分析すると、いろいろな事が見えてくるのですね! 驚きです。


    それでも、私は「認めろ」と言う。

    >ホラ、よく教育者が言うでしょう。『 子供は認めてやらないといけない。』
    >(そうなんだ~ 子供は、叱る前に認めないといけないんだ~)
    >寛大な大人たちが、子供を認め始めたのです。

    これは大切のなのですが、それを為すオトナの方が難しいのですけど・・・
    一体、何を基準に「認めるのか」ってなこともありますし・・・

    全てを認めるにして、それを親自身が受け入れる覚悟も必要ですし・・・。

    荘子の言い方ですが
    「親の因果・先祖の因縁・アダムとイブの原罪。そうはいうが、それは産まれた赤子の「罪とが」でも「責任」でもない、預かり知らないもの。」
    です。

    結局、人はなんらかの「十字架」なり「オモリ」など背負って産まれてきますよね。
    それまでも「責任や罪」というのは、無道で酷です。がそれを背負って生きていくのが、人の常なのです。
    私がADDであったり、ある人は性同一性障害であったり。ある人は金持ちという十字架・ある人は貧乏人というオモシであったり。
    責任や罪はなくとも、その「宿題」を背負って生きていくだけに思います。あるいはそういう「天命」を受けて生まれてきたわけです。

    「人の自由」というのは、ある意味その「十字架」なり「オモリ」で、潰されるのも・背負うだけのも・道具にして利用して楽しく生きるか・その用い方を選ぶ自由なのかも知れません。

    それを受け入れる認めるというのが、実は「子供は認めてやらないといけない」ということに含まれます。
    親自身が自分や子供の「天命」なり「産まれもっての資質」を認めないと、結局なんら話が始まらないのです。
    最初に認識して受け入れてこそ、「矯正」や「鍛錬」ができます。その人の体力を無視した運動や訓練が無謀で無理なように。

    結局は「それはお前の責任!」とすべてを、個人当人の責任にする「自己責任」の社会は、現在の日本の「殺人的格差社会」の元になりますし、私は元凶と確信してます。
    ですが、「そうは言っても、それを幸福にするか不幸にするか。教訓にして成長するか、ただの厄災にしてなにも得られないで嘆くだけにするかは、あなたの自由です。」って位が、無難なところに思います。

    まあ「嘆く」時期も経ないと、「教訓」にするためには消化しきれないようですから。
    ただ「嘆く」をつづけても、愚かしいですから。

    >自分で決めるということが、イコール幸せだったはずなのに、、、
    >自分が決めた相手なのに、大切な我が子の父親なのに、
    >その男性を自分のかけがえのない相手として受け入れる事が出来ず、
    >彼との同一化の形成ができなかったということになります。

    結局は、自分の「道徳」が一貫してないだけに思います。
    自身が誤れば、自身で正せばいいわけです。あるいは状況を変えればいいですし。
    自分で決めるということは、結局は自分でそのことの結果を受け入れることなのですが、それにぼやく自体「士道不覚悟」って奴ですよね。

    自分自身を認めれない人が、自分の為したことなど認められるはずも無いわけです。
    それを考えると『 子供は認めてやらないといけない。』のです。けど、それをどれだけ認識して言っているか・・・
    どうもあまり出来てないようですね・・・。

    未熟な親に、未熟な子供が出来る。でも未熟さを認識して練磨することが日々生きていることでしょうか。

    ていう未熟者の愚生の戯言でした。

    再見!

    Re: 那須高原の空気に、

    > 爽やかさを感じます。
    > Wの反撃と言うのか、マスコミを賑わす事件のこと、
    > こういう道徳的な意味があるとは、誰も考えないのでは。
    > 東洋的に分析すると、いろいろな事が見えてくるのですね! 驚きです。

    ★那須は大好きな処です。さわやかな気を共感くださってうれしいです。
    東洋の良さを理解してくださり、感謝します。
    ありがとう!★------------------------------:*・+☆+"*☆★☆

    Re: それでも、私は「認めろ」と言う。

    Re: それでも、私は「認めろ」と言う。
    > >ホラ、よく教育者が言うでしょう。『 子供は認めてやらないといけない。』
    > >(そうなんだ~ 子供は、叱る前に認めないといけないんだ~)
    > >寛大な大人たちが、子供を認め始めたのです。
    >
    > これは大切のなのですが、それを為すオトナの方が難しいのですけど・・・
    > 一体、何を基準に「認めるのか」ってなこともありますし・・・
    >
    > 全てを認めるにして、それを親自身が受け入れる覚悟も必要ですし・・・。

    ★好いところに拘っていただいて、、、(笑い)
    ひさしぶりに種のある葡萄を食べた感じがしました。 あはは
    ”ガッツ” と奥歯に音がしましたよ!

    認めると云う事は、 その場だけの子供を認めるだけではなくて、その子供の過去も未来も、認めて欲しいのです。
    同じまなざしで、ずっと~です。
    -----------------------------------------------------------------+"*☆★
    > 荘子の言い方ですが
    > 「親の因果・先祖の因縁・アダムとイブの原罪。そうはいうが、それは産まれた赤子の「罪とが」でも「責任」でもない、預かり知らないもの。」
    > です。
    >
    > 結局、人はなんらかの「十字架」なり「オモリ」など背負って産まれてきますよね。
    > それまでも「責任や罪」というのは、無道で酷です。がそれを背負って生きていくのが、人の常なのです。
    > 私がADDであったり、ある人は性同一性障害であったり。ある人は金持ちという十字架・ある人は貧乏人というオモシであったり。
    > 責任や罪はなくとも、その「宿題」を背負って生きていくだけに思います。あるいはそういう「天命」を受けて生まれてきたわけです。
    >
    > 「人の自由」というのは、ある意味その「十字架」なり「オモリ」で、潰されるのも・背負うだけのも・道具にして利用して楽しく生きるか・その用い方を選ぶ自由なのかも知れません。

    ★そう、そうだと共感できます。
    -----------------------------------------------------------------+"*☆★
    > それを受け入れる認めるというのが、実は「子供は認めてやらないといけない」ということに含まれます。
    > 親自身が自分や子供の「天命」なり「産まれもっての資質」を認めないと、結局なんら話が始まらないのです。
    > 最初に認識して受け入れてこそ、「矯正」や「鍛錬」ができます。その人の体力を無視した運動や訓練が無謀で無理なように。

    ★そうですね。たとえ苦が伴なっても、あるがまま、そのままを受け入れると云う事が”仁”というのではないかと、考えたりしています。
    そこからが、すべての出発、もしくは、到達点かもしれません。
    -----------------------------------------------------------------+"*☆★
    > 結局は「それはお前の責任!」とすべてを、個人当人の責任にする「自己責任」の社会は、現在の日本の「殺人的格差社会」の元になりますし、私は元凶と確信してます。
    > ですが、「そうは言っても、それを幸福にするか不幸にするか。教訓にして成長するか、ただの厄災にしてなにも得られないで嘆くだけにするかは、あなたの自由です。」って位が、無難なところに思います。

    ★そこ!すごくいいところですね!
    ”あなたの背負っているものは、苦ですね。大変でしょう” と、一方的に認められるのもいやですね。
    そこは、”あなたが背負っているものは、それを大きな幸せに変えられる、大きな夢を持っていることと同じですよ。すばらしいですね!” とでも言われたとしたら、そう認められる事は、天地雲泥の差ですよね。
    どちらを口に出来るかは、その人、その人の差です。
    -----------------------------------------------------------------+"*☆★
    > まあ「嘆く」時期も経ないと、「教訓」にするためには消化しきれないようですから。
    > ただ「嘆く」をつづけても、愚かしいですから。
    >
    > >自分で決めるということが、イコール幸せだったはずなのに、、、
    > >自分が決めた相手なのに、大切な我が子の父親なのに、
    > >その男性を自分のかけがえのない相手として受け入れる事が出来ず、
    > >彼との同一化の形成ができなかったということになります。
    >
    > 結局は、自分の「道徳」が一貫してないだけに思います。
    > 自身が誤れば、自身で正せばいいわけです。あるいは状況を変えればいいですし。
    > 自分で決めるということは、結局は自分でそのことの結果を受け入れることなのですが、それにぼやく自体「士道不覚悟」って奴ですよね。
    >
    > 自分自身を認めれない人が、自分の為したことなど認められるはずも無いわけです。
    > それを考えると『 子供は認めてやらないといけない。』のです。けど、それをどれだけ認識して言っているか・・・
    > どうもあまり出来てないようですね・・・。
    > 未熟な親に、未熟な子供が出来る。でも未熟さを認識して練磨することが日々生きていることでしょうか。

    ★むずかしいですね~
    わがまま、甘え、うそ、本心を見きわめる愛情があって、将来も共に苦しむ覚悟を持って、目の前の子供の未来を信じながら、真剣に認め合うことができたら、どんなにいいことか、、、
    誰だって、迷いながらと思いますが、道徳性のなさ、個人だけを責められませんね。
    やはり、社会の責任は大きいと思います。
    世間の関心は経済の方へ重きを置いていますが、実は道徳的なことを充実させる方が、よっぽど、何より経済的な事はないと思うのですが、、、。(笑い)
    -----------------------------------------------------------------+"*☆★
    > ていう未熟者の愚生の戯言でした。
    >
    > 再見!

    ★いいえ、いいえ、とんでもない!
    ありがとう、感謝します。-----------------------------------------*・・+"*☆★☆."

    この事は、娘を持つ母親として、心の痛みを感じながら読みました。
    これでいいのだという規範が全く見えないまま、みなさんもお悩みのことかも。
    以前、女性教育が一番大事だと確か?書かれていましたね。
    こういうこと!だった!のですね。




    Re: タイトルなし

    > この事は、娘を持つ母親として、心の痛みを感じながら読みました。
    > これでいいのだという規範が全く見えないまま、みなさんもお悩みのことかも。
    > 以前、女性教育が一番大事だと確か?書かれていましたね。
    > こういうこと!だった!のですね。

    ★そう!!
    女性教育が、一番大事なの。特に見えない部分だから。
    でも、今は見える部分が女性の個性のように特化されて、それが商業主義に煽られています。
    そこが問題です。 ありがとう。★-----------------------------------:*・+☆+"*☆★☆

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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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