![]() 2013
04/10 16:35 |
『呂氏春秋』 6 天下非一人之天下也、天下之天下也 (東洋の平等観)Category : 呂氏春秋の世界
![]() 中国の楼 今日は、久しぶりにカテゴリ ”呂氏春秋の世界 ”の記事です。 前回より、8か月ぶりかな? もっと頻繁に書きたいのですが、いろいろあって、、、、、 あはは。 呂氏春秋は、非常に好きです。 呂覧(りょらん)とも言います。 中国の戦国時代末期、秦の始皇8年(紀元前239 年)に 秦の呂不韋が多くの食客を集めて共同編纂した書物。 26巻160篇からなり、儒家・道家を核に、名家・法家・墨家・農家・陰陽家 など諸学派の説が幅広く学べます。 孔子の言の次の行に、老子の言が普通に出て来る思想空間です。 いわゆる雑家の代表的書物で、当時の思想全般を知る事ができます。 1年12ヶ月を春夏秋冬に分けた「時期」の12期の構成から鑑みれるのは、 我々『人』が、『天』と『地』の間で栄えるには 『天』の恵み、『地』の安定を得るには、 ーーーーー 決して私欲に従うのではなく、 『時』に沿って行く事が重要であると云う示唆です。 これは、繰り返し繰り返し述べられています。 『時』こそが、 『陰』そのものの『陽』・現象界へ与える表現であると云うような 『陰』の創造性を『陽』の世界に現象化する力、エネルギー、 我々を生から死へ、又生へと運んでいくものであると云うような、、、 そう云う示唆に富んだ内容と思っております。 『天』の道、『地』の理(ここから地理と云う言葉ができた。)= -------- これが道理と云う言葉になる訳ですが、 これら『時』・道理を無視をして、 自分の欲・私欲だけに囚われ従って生きる事を強く戒めています。 それは、自分の欲すらも叶えられない、 自分の足場を失くす生きざまに陥るしかない。と、言うのです。 まさに、現代人の病理を言い当てているようです! 今も変わらぬ人間の欲を、どう裁き、どう旨い永遠の料理にするのか? これが、東洋の英知の追及でした。 ここが、欲望の満足境(天国)を渇仰する西洋と違う処です。 ◎ 東洋は、欲にまみれた意識を疑う処から出発しています。 直感的に、東洋は見抜いていたのです。 意識が欲望を適切にコントロールできない事を!!! あはは。 言い訳ばかりをして、へリクツばかりを作るのが上手なのを!!! ったく! あはは。 だから、自己の欲望をコントロールする規範を 自己の中に求めずに、 欲にしがみつく自分の意識を信用などしないで、 『天』や『地』の調和の姿にそれを求め、宇宙の摂理を探究したのです。 ーーー その結果、 自然、宇宙に具わった摂理が、自分の中にも在る。 宇宙即我 ・・・・・その事を発見したのも東洋の叡智です。 これらの方向性は、西洋哲学、思想にはまったく無いものです。 現に近代合理主義が爛熟した21世紀の今、 我々の目の前にあるのは、 我々を欲に狂騒させる欲望の肯定の上にある経済至上主義と、 その為に弱き意識を脅す為に持つ大国の大量破壊兵器、 今は、その論理に則って北朝鮮など経済的に弱小な国まで、 自国の存在をなぎ倒されない為に、核武装を着々と進めている。 それをどうしようもできない大量情報伝達・マスコミ、知識偏重社会。 宇宙自体を意識で探査する物質の世界としか見ない科学。 知識は膨大に膨らみ殖えるけれども、その中に智恵は一つもないのね! あはは。 たしかに、彼らを知識者とは言うわね! 知恵者とは言わないわ、、、 われわれを包む濃霧は、 自然のありのままの中に生きる我々の存在を無視して、 無理やりに我々を意識で作り上げた人工疑似自然空間に隔離幽閉した キリスト教的自然観、人間観を根底にする近代合理主義社会です。 呂氏春秋の思想空間は、それらとは、全く違うと云う事ですね。 呂氏春秋の言葉や語句を見れば、堅苦しい? と思いきや、 それらが志向するのは私欲から解放された普遍的な自遊空間、 (自由ではありませんわ!) ほほっ。 それらが志向するのは私(わたくし)しない平等観です。 どうか、「呂氏春秋」の世界の中に身を浸して、 現世の灰汁にまみれた我が身を洗い清めてくださいませ! あはは。 では、本論へ進みます。 《 孟春紀 》・ 貴公 (町田版 春の節11から) 天下非一人之天下也、天下之天下也。 陰陽之和、不長一類。 甘露時雨不私一物。萬民之主、不阿一人。 --- 中略 --- 天地大矣、生而弗子、成而弗有、 萬物皆被其澤、得其利、 而莫知其所由始、此三皇、五帝之德也。 天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なり。 陰陽の和は、一類を長ぜず、 甘露時雨(かんろじう)、は一物を私(わたくし)せず。 万民の主は、一人に阿(おもね)らず。 --- 中略 --- 天地は大なり、生じて子とせず、成して有せず。 万物皆その沢(たく)を被(こうむ)り、その利を得るも、 その由りて始まる所を知るなし。これ三皇・五帝の徳なり。 天下はだれか一人の天下と云う訳ではなくて、万人の天下である。 陰陽の調和は、(生き物の)一種類だけを成長させるものではない。 時節に叶って降る雨は、(生き物の)一物だけに恵みを与える事はない。 万人の上に立つ君主は、一人だけを依怙贔屓するものではない。 --- 中略 --- 天地は偉大である。 物を生み出しながら私物化せず、作り出しながら所有しない。 万物は、すべてその恩沢を受け、その利益を享受しながら、 それがどこから始まってもたらされた恩沢や利益か考える事もない。 いにしえの三皇・五帝の治世が、そうであった。 過去、2010年 7月13日の記事に次のように書きました。 『呂氏春秋』の 天下は一人の天下に非ず。 天下の天下なり。 命は自分だけの一人の命ではない。 すべての命は、大宇宙の命から生まれた命なのだから、 =大宇宙の命なのだ。 大宇宙のリズムに合わせて生きることが長生久視を叶える事だ。 と言うのです。 これが『天の道』です。 『天の道』に順じることが命を謳歌できる事であり、 それを邪魔するのが自分の欲である。 自分の欲の満足の為と言って結果は『天の道』に逆らって生きる。 その事を「私欲」と言う。 「私欲」を去って、「公」に生きるとは、 あくまでも、宇宙をひとつの生命体と見て、 そこから生まれ出る事を可能にした地球の恵まれた状況、 命をはぐくむ条件を満たしてくれる太陽と地球の恵まれた状況、 その命を今現在のあなたまで継承してつないでくれた恩人、 それが、直接的には両親。 それ以前の両親の親達。 先祖と言う事になります。 お分かりになりますね。 いのちの継承の筋です。 それが、『孝』に、道徳の最高価値を置く理由になります。 単に、親孝行、何かをプレゼントをすることが親孝行、 そんな目先の行為をさせる為だけの、『孝』ではありません。 それでは、幼稚園レベルと変わらないではありませんか? (笑い) 小学生に教科書で教える道徳とは、 困ったお年寄りに席をゆずりましょう。等が道徳という事に なるのでしょうが、 それは、ずっと先のほうで派生する枝葉であって、 根本的な本質は、この『天の道』から、『孝』へと導かれる 中にある筋であって、ここを外してはいけません。 全ては、これに尽きるのですが、 『孝』の普遍性は、自分の両親、先祖だけにとどまりません。 全人類で、、、 大きく出ましたでしょう? ほほっ。 『天』の恩恵を受けている生物皆、 『天』の恩恵を受けて生じた物皆、 と云う事になりましょうか、、、、、 あはは。 大変な深いお話になりますので、今日は簡単にします。 また、機会がある時に、記事にしたいと思っています。 今日は、ついでですから、 『天下』と云う言葉について、世間にさまざまな曲解があるようですから、 それらをここに、書き留めておきましょう。 たとえば、 ◎ 「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり」と云う言葉を、 徳川家康の言葉として紹介している場合があります。 又は、 ◎ 「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と 吉田松陰が主張していたと紹介をしている場合もあります。 これらは、徳川家康、吉田松陰が始めた言葉ではなく、 紀元前3C、呂不韋によって編纂された『呂氏春秋』を原典とする言葉で あろうと思われます。 おそらく、彼ら二人も中国の文献として『呂氏春秋』を学んでいたか、 学んでいた師匠についてそれを会得していたと思われます。 ◎ 福沢諭吉の「学問のすすめ』の 「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」という一節の 「天」と云う言葉についてです。 まず、その前に「云ヘリ」は、天が言ったというような意味ではなく、 どこそこでこのように「云われている」という引用の意味です。 この有名な言葉全体も、実は福沢諭吉の言葉ではなく、 アメリカ合衆国の独立宣言からの引用であれば、 この場合の天とは、キリスト教の神であろうと思います。 また、諭吉が1871年(明治4年)に、2人の息子たちの道徳教育に書いた 「ひびのをしえ」と云う小冊子に、 -----「てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがふべし。 ただしここにいふてんとうさまとは、にちりんのことにあらず、 西洋のことばにてごっとといひ、 にほんのことばにほんやくすれば、ぞうぶつしゃといふものなり」。 ・・・・・中略・・・・・・ 父母のいきしにはごっどのこころにあり。 ごっどは父母をこしらえ、 ごっどは父母をいかし、また、父母をしなせることもあるべし。 てんちばんぶつなにもかも、ごっどのつくらざるものなし。 こどものときよりごっどのありがたきをしり、 ごっどのこころにしたがふべきものなり」------- と書かれてある処からも、 キリスト教の神を受け入れていたのが分かります。 諭吉は、世間的にはキリスト教排撃論者として知られていました。 が、後に、 キリスト教を一時的とはいえ排撃した事は誤りであったと自己批判し、 日本の独立の地位を保つ為には、キリスト教という欧米文明と同じ 色の宗教を盛んにする事が必要だと述べています。 諭吉の天は、東洋的な天とは明らかに違います。 キリスト教のGod です。 今後、区別をしておいてください。 実は、この事を知って腑に落ちた読者も多いのではないでしょうか? 日本の近代化が、現在の状態のように完璧に行われた本当の理由です。 単なる国の政策、制度上としての近代化ではない、 命の底から遺伝子レベルから近代化に犯されている日本を知るにつけ、 これは、タダならぬ気配・・・魂からキリスト教的な社会を憧れ、 真にそうなろうとした人間がいたからこそ! 現在のような日本の近代化が完成しているのです!!! 近代化の事を考えるたびに、そう思ってきました。 随分前から、そう思ってきました。 それは、だれなのか? 当時の為政者、知識者、近代化推進者たちが、この諭吉のように、 本音の処で、キリスト教へ改宗をしている位の傾倒をしていたからこそ、 現在の近代化の完成された姿に日本がなっているのです。 当時の知識者たちは、本気で近代化を成し遂げたのです。 それがどうなる事か、思想を吟味もせずに、、、です。 そう云う意味において、 日本には思想家がいなかったのですね! ほほほ。 近代化が、欧米以外で、完成されたのは日本だけです! 実は、これで私の長年(中学校で諭吉の学問のススメを習った時以来)の 諭吉に対する不信感が腑に落ちたのです。 東洋がなんたるかを知らないレベルの10代の私の心には、 人の上、人の下と云う言い方はイイ事を言っていると受け入れるには、 当時なぜかは分りませんでしたが、違和感がありました。 日本人ではない? この言葉に、東洋的でないニオイを嗅いでいました。 心に影を落とした福沢諭吉と云う人物には、 この時から?が付いていたのです。 得体が知れない、と言った方がいいでしょうか。。。 東洋的でないというはっきりしたニュアンスではなく、 生活の中で漏れ聞いて来た普段の両親や周りの大人の言葉の端から 感じるモノとは違う!! どこかおかしい? 人を扱う言葉として、人があるべき道理を言い当てるのに、 上や下と云う表現を用いる事すらが不適切と、 体のどこかが受け止めていたと言った方がいいのでしょうか。。。 頑固に、受け入れられなかったのです。 なによ! と反発を感じていた、、、 今、考えれば無意識の便り、皮膚感覚で痛い!と感じていたのです。 長年、この事を誰にも言う訳ではありませんでしたが、 その点を確認するまでは、 諭吉をどんなにエライ人だと世間が言おうが、 私の心の中では、それに迎合する気はありませんでしたの。 ほほっ。 東洋学をするようになって、諭吉に対する疑いはますます濃くなり、 最近、諭吉がキリストの神を受け入れていたこの事実を知った訳ですが、 納得すると同時に、なぜ、私の子供心に違和感があったのか? 今更ながら不思議な思いがしています。 私の前世が教えてくれた? あはは。 この事から再確認したのは、 物の在り様や言葉に対する疑問や不信は、決して曖昧にせずにいれば、 何時かは、必ずその実体が観えるようになるのだと言う事です。 しかし、現在、学校教育においてさえ、「学問のすすめ」の天の意を、 未だに東洋的な天の意で解説している教師の方も多いと思います。 間違いは、訂正されなければいけません。 個人的な宗教の自由は、認められてはいる問題ですが、 政治家、公人性の強い場合は、それも考慮しなければいけませんね。 ちなみに、自民党の石破氏、麻生氏はクリスチャンです。 他にも、大勢いらっしゃいますね。 なぜ、自民党の政治家にクリスチャンが多いのか? 興味がある方は、ここへどうぞ! 本論へもどりましょう! ここからが、大事です。 むずかしいかもしれませんが、読むだけでも、、、 『人』=『天・地』と云う自然観や宇宙館は、西洋にはありません。 『人』=地球・自然・宇宙と云う世界観は、東洋の叡智です。 『地』の形態が、『人』の為すすべを生み、 『地』の様相が、『人』の従う則を決めるのです。 『地』の『理』が、『人』の『紀・き』を定める。 『地の理』が、『人の紀』へ通じて幸いが実現されます。 ここで、『地』と『人』とは、一体なのです。 『天』もそうですが、『人』は、『天・地』自然と一体なのです。 東洋の、我即宇宙と云う叡智は、 西洋の意識・観念が作文する”自然と一体感を持つ” ”自然と共生をする”などと云うような 意識に心地よい、耳に聞き良い、美辞麗句でもなく、 表現上の言葉のアヤなどでもなく、 見て綺麗な幻想のおとぎ話の挿絵でもありません。 実在の『天・地』から『人』の存在までを一体と観る叡智です。、 実在の心と身体に、その行動へ作用する『天・地』の力を観じた 東洋的な智恵なのです。 その根は、無意識にあります。 意識では、感覚器官では捉えられない真実とでも言いましょうか? 東洋は、わざわざ自由だ平等だと概念で区切りませんのよ。 あはは。 区切らなければいけない事こそが、幼稚、稚拙だと思うのですが、、、 誰かの自由は、その隣にいる人の不自由かもしれませんし、 すべて平等だというのは、 愚かな尊卑相対化と人間の均質化を進める蛮行でしかありません。 選挙権が平等にある。と云うの等はOKですよ。 あはは。 天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なり。 陰陽の和は、一類を長ぜず、 甘露時雨(かんろじう)、は一物を私(わたくし)せず。 万民の主は、一人に阿(おもね)らず。 西洋的平等感のようなものは、東洋にはワザワザありませんが、 強いて言うなら、この上段の部分は、東洋的平等観とでもいいましょうか、 そして、また、 その下段の部分、 天地は大なり、生じて子とせず、成して有せず。 万物皆その沢(たく)を被(こうむ)り、その利を得るも、 その由りて始まる所を知るなし。これ三皇・五帝の徳なり。 ここは、束縛、支配、所有から解き放たれた東洋的自由観でしょうか、 西洋的概念、人間の意識の中にしかない、人間の観念で作った言葉、 実体のない絵空事の自由、平等とは全く違う -------------- 無意識・『陰』--------------------- あたりまえのように存在する 自然そのものを受け入れれば ------------------ すぐそこに実在する ----------- 誰もが知らない内に恩恵を受けている。 これは、圧倒的な平等ですよ! あはは。 無駄に使おうが、役立てて使おうが、まったく自由です! あはは。 ただし、ただしです! 『陰』におけるありさまは、そうですけれど、 一旦、欲を帯びて『陽』の現象界へ生産性を具現すると、 そこは、厳しい差別の世界なのです。 動機も不平等なら、得る結果も不平等です。 不自由です。 いかに、不平等か? いかに、不自由か? は、各々の陰徳の蓄えに由ります。 『陰徳』の蓄えは、各々の『陰』を尊ぶ業に因る訳ですから、 まったくのごまかし、要領、依怙贔屓はききません。 どれだけの『陰徳』を積もうとするのか? それすらも、まったくの各自の自由です。 ただ、その結果は掛け値なく、差し引きなく、あなたの業の果です。 この法則において、摂理において、われわれは平等に扱われています。 『天』は差別をしません。 『天』は依怙贔屓をしません。 『天』は狡さを見逃しません。 『天』は『陰』を尊ぶ業も見逃しません。 全きの平等な天下です。 さあ、安心をして生きていきましょう! 『天』を信じて、、、 東洋的叡智ともっと仲良くなってくださいね。 ほほっ。 長い記事を最後までお読みいただきました事を 感謝申し上げます。 次の更新まで、よき日々をお過ごしください。 今夕より、奈良へ参ります。 吉野山の桜が携帯カメラでよく撮れるといいのですが、、、 ほほっ。 参考文献 : 「呂氏春秋」 町田三郎 講談社学術文庫 百家諸子 中國哲学書 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
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No title”天は人の下に人を作らず”とか言う所の天は、呂氏春秋から来たもんでしょう。と、
記事中に紹介の過去記事のコメントに書いた記憶があります。 いっやあ、間違いだった。 その証拠が、1万円札だった、て まさか、お釈迦様でも知らないよ。 今回勉強しました。 管理人のみ閲覧できますこのコメントは管理人のみ閲覧できます
No titleおはようございます~~♪
春らしい野の花も咲いていますが春の気温にはまだまだの先週でした。 今週は少し暖かくならないかと期待しています。 cosmosさんは中学時代から諭吉に違和感を抱いておられたんですね。 私なんか何も考えず何も感じず・・・何も疑問も持たず言われたことを信じてしまう人間のようです(。_゚)〃ドテッ! こうしてcosmosさんのブログを読んでいると近代合理主義にどっぷり浸かってると感じる今日この頃。これからも読ませて頂いて東洋思想が少しづつ浸透したらどうなるか楽しみも・・・・・ 読みが浅くてcosmosさんの言ってることを理解してるのはごく微量のような感じですが(;´Д`) あはっ No title>天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なり。
>陰陽の和は、一類を長ぜず、 >甘露時雨(かんろじう)、は一物を私(わたくし)せず。 「天」の平等さ、このことは、植物を育てているとよく分ります。= 植物を見ていると、ありのままにその事を教えてくれます。= 植物のどれもが陽光に、恵まれているとはかぎりません。= でも、その自分の立場を不平を言っているような風情はないですよ。(笑い)= どんな土地に芽を出そうと、どんな日陰であろうと、私の知る限りですが、(笑い)= 植物はそれなりの精一杯の花を咲かせます。= 健気さ、純粋さを感じます。= こんなに励まされる言葉が、昔から東洋にあったなんてありがたいですね。= No title>『地』の形態が、『人』の為すすべを生み、
>『地』の様相が、『人』の従う則を決めるのです。 >『地』の『理』が、『人』の『紀・き』を定める。 >『地の理』が、『人の紀』へ通じて幸いが実現されます。 >ここで、『地』と『人』とは、一体なのです。 普段、ムズカシイことはあまり考えないのですが、 地の形態が人の為すすべを生むとはどういった事になるのでしょうか、 地政学的な影響ですか? 管理人のみ閲覧できますこのコメントは管理人のみ閲覧できます
Re: No title 鍵コメントさんへ
小気味いい? あはは。 近代化を語るのは、東洋的なモノが勝れているからですね! 感謝です! ![]() Re: No title> ”天は人の下に人を作らず”とか言う所の天は、呂氏春秋から来たもんでしょう。と、
> 記事中に紹介の過去記事のコメントに書いた記憶があります。 > いっやあ、間違いだった。 > その証拠が、1万円札だった、て > まさか、お釈迦様でも知らないよ。 > 今回勉強しました。 ★そうでしたね! ずっと気になりながらお返事が書けなくておりました。 その時は、内容的にむずかしいかなと、、、 でも、諭吉の事は、最近分かった事なのです。 そうだったのかと腑に落ちたのと、ひどい人だなと、あはは。まさに主犯格ですね。 感謝です! ![]() Re: No title 鍵コメントさんへ
> 東洋哲学の究極的な目標は、「宇宙(天)の理」と一体になることだと思います。 それはその通りなのですが、少し違うのね。 離れている天と一体に(なる)事ではなくて、 もともと一体である事を(自分の中から生き生きと蘇らせる)事なのね。 理屈ではない、とってもvividな事なのです。 > 同時にこんなにも昔に、大宇宙の理を見抜いた東洋は超最先端なのですね! そう! 実に古いのに、実に新しいのです。 あはは。 > 悲しいことに現代人にとっては、、、、、、一蹴されるのです(笑) 現代人は、欲が邪魔をしますから、 なんだそんなもの、何の得になるの? って具合になるわね。 今日の記事に書きましたが、「陰」は欲を解かなければ分からないのです。 > 「学問」をやればやるほど賢くなるどころがむしろ、「無知」に成っていくように感じました。 木を見て、森を見ず、と云うようになるのですね。 全体観を失って行くのもあるでしょうね。 > ②日々の営みが記号と化しているように思えてなりません。 これは、一つは、現行の文明が物質文明と云う事も理由ですね。 物じゃない見えない処(心)が阻害されて退化していっているのですよ。 実は、心だけじゃなくて、命が弱体化して行っているのね。 > 音」によって深い意味が込めれているのですね! 今日の記事にも、少し書いてみました。ご覧になってください。 感謝です! ![]() Re: No title> おはようございます~~♪
> 春らしい野の花も咲いていますが春の気温にはまだまだの先週でした。 > 今週は少し暖かくならないかと期待しています。 > cosmosさんは中学時代から諭吉に違和感を抱いておられたんですね。 > 私なんか何も考えず何も感じず・・・何も疑問も持たず言われたことを信じてしまう人間のようです(。_゚)〃ドテッ! > こうしてcosmosさんのブログを読んでいると近代合理主義にどっぷり浸かってると感じる今日この頃。これからも読ませて頂いて東洋思想が少しづつ浸透したらどうなるか楽しみも・・・・・ > 読みが浅くてcosmosさんの言ってることを理解してるのはごく微量のような感じですが(;´Д`) あはっ ★とんでもない! 勘のいいリンダさんだから大丈夫ですよ~! あはは。 東洋的になったらって、今でも十分東洋的大和なでしこではないでしょうか? ほほっ。 後々の世代の事を考えると、国の借金とか、年金も、現発も、今のままでは?ね? と云う危惧は、誰でも持っているわね。 日本は、こんな国じゃなかったはずなのに、もっと堅実な国だったでしょう? 感謝です! ![]() Re: No title> >天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なり。
> > >陰陽の和は、一類を長ぜず、 > > >甘露時雨(かんろじう)、は一物を私(わたくし)せず。 > > > 「天」の平等さ、このことは、植物を育てているとよく分ります。= > 植物を見ていると、ありのままにその事を教えてくれます。= > 植物のどれもが陽光に、恵まれているとはかぎりません。= > でも、その自分の立場を不平を言っているような風情はないですよ。(笑い)= > > どんな土地に芽を出そうと、どんな日陰であろうと、私の知る限りですが、(笑い)= > 植物はそれなりの精一杯の花を咲かせます。= > 健気さ、純粋さを感じます。= > > こんなに励まされる言葉が、昔から東洋にあったなんてありがたいですね。= ★本当にそうです。 疑いもなく信じられる平等感ですよね! 庭の植物のお世話をしながら感じられる事も多いでしょうね! 私もやっておりますから、共感できるわ! 自然は、あらゆる事で、先生ですね! 励まされたと聞いて、よかったなあと思いました。 感謝です! ![]() Re: No title> >『地』の形態が、『人』の為すすべを生み、
> > >『地』の様相が、『人』の従う則を決めるのです。 > > >『地』の『理』が、『人』の『紀・き』を定める。 > > >『地の理』が、『人の紀』へ通じて幸いが実現されます。 > > >ここで、『地』と『人』とは、一体なのです。 > > > 普段、ムズカシイことはあまり考えないのですが、 > 地の形態が人の為すすべを生むとはどういった事になるのでしょうか、 > 地政学的な影響ですか? ★ええ、そうです! ご質問ありがとうございます! 地政学的な影響ですね。 こんど又、記事に取り上げて詳しくお返事差し上げますね。お待ちくださって! 感謝です! ![]() Re: No title 鍵コメントさんへ
> あらゆる事柄に自分に納得のいく理由を求めている あら! いいじゃないですか~! 納得がいくまで理由を求めていけばよろしいと思いますよ。 あはは。 > 本当の自分の指針を見失わない為にあるのだと思います。 そう、人間は、ひとりひとり個別なのです。全員が特注なのね、だからなのです。 > 一つ一つの命式に過去という複雑な縦糸が絡みつき、全ては必然なのですね。 そうなの、それが分ればすべてを素直に受け入れられるでしょう。 命式の書き方ですが、簡単に、たとえば、 己(劫財)巳 庚(食神)建禄 「戊 丙」でいいのです。 「」の中は、巳の蔵干の余りを書いておきます。これが、あなたの潜在意識になります。 あとは、書く必要はありません。 ちなみに、天干の己があなたの外観、いわば看板です。 そして、蔵干の庚があなたの意識できる内面です。 がんばってくださいね! 感謝です! ![]() |
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