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    コメントへのお返事 19.   「闇」を否定する原子力    「苦」と「楽」について 2.

    Category : 東洋思想
     高尾山南陵の草戸山から眺める丹沢山系と空 (神奈川県)  2013年 5月 3日


    丹沢山系


                      写真をクリックして広げてご覧ください!



    青空と画面を二分する
    丹沢山系の黒緑色です。

    この山の向こうが相模国。




    今日は、いつものまえがきへ入る前に、

    頭にイメージを残しておいて欲しいものが、2つあります。



    1、上の写真の鬱蒼とした森の印象と、

    2、次の陰陽学の太極図です。




    ☆ 太極図 陰陽学





    太極図は、

    『天』・宇宙を表わす円の中に、白と黒の勾玉の様な形があります。

    今まで『陰』、『陽』については、いろんな角度から掘り下げて来ましたが、

      今日は、陰陽を「闇」と「光」の観点から観て行きます。


    白は『陽』、太陽のです。

    黒は『陰』、太陽の光が無い = です。


    宇宙は、陰陽の中庸(調和)に拠って正常に保たれると云う思想です。

    宇宙は、闇と光の中庸によって創造活動を常に行っています。

    宇宙での超新星爆発や恒星の輝きなど、              

    我々の目で見える宇宙は、

    大いなる闇の中の光の活動として捉えられます。


    実際、宇宙はおおいなる闇です。

    宇宙物理学でも〝暗黒物質”とか、〝ブラックマター”と云われる物質が、

    黒が、重要視されています。

    また、光は、闇から生じたもの、

    我々の太陽は、宇宙の闇から生じたのです。


    自分の中から出すエネルギーで光り輝く星を恒星といいますが、

    この様な恒星は、太陽だけだと思いたい? でしょうが、 ほっ。

    夜空に輝く星のほとんどは、太陽なのですよ!

    自分で輝く恒星は、夜空に星の数ほどあると云う事ですね。  ほっ。




    『陰』、『陽』それぞれに、次のような原義があります。



    白が『陽』 = 太陽、光、(死に臨む)生、意識、 人為、 男、知識、現象


    黒が『陰』 = 太陰、闇、(生に臨む)死、無意識、自然、女、智恵、本体





    光や男性が主体かと思えば、そうでもないような ?   あはは。

    闇や女性が本体のような ?   あはは。

    女性は、明らかに闇であり暗黒かも知れません。   ほほっ。

    冗談は、さておいて、、、   ほほっ。


    これは、『天』の業態、闇の中で生まれ輝く光が男である。

    智恵が女に振り分けられているのは、命を孕み産む女は自然の業態の一部、

    命の創造は知識では不可能な事、命の創造こそが自然の智恵そのもの。

    と云う事でしょうか、、、

    男は、女(母親)から生れて来る、自然の現れなのです。

    自然そのものの徳があってこそ、そこに人為の成果が成り立つのです。

    反対に人為がなければ、自然そのものからの生産活動は不可能です。

    (ちょっと、むずかしいかな?)

    まあ、これ位で、、、先へ行きましょう!   ほほっ。。





    ざっと、ご覧になってくださったら、

    次へ、、、


    上の2つのイメージを抱きながらお読みになってください。

    心に引っ掛かりながら、2つのイメージが混ざって一つになって行くはずです。


    そして、今日の謎を解いていってください。



    原発は、近代合理主義の必然の結晶である。




    どうして?  と思われるようであれば、


    この謎が解けるように、

    近代合理主義の柵の外へ、みなさんをお連れできたらと願っています。







    後ほど、本論で紹介をする今日のコメントは、

    実は、6月24日に頂いたものですが、

    原発に関する内容で、これは是非、記事でお返事を書きたいと思いました。

    しかし、私が東洋的な直感で自分の内側で分っている事を、

    近代合理主義の社会で生きる読者に、どう伝えたらいいのか?

    と云うのが一番苦労をする処なのです。

    私の直感を、できるだけ細かく

    合理主義的に論理的に崩していく、と云う手法は、

    結構、言葉やロジックの立て方が難しいのです。

    言葉に関して言えば、

    東洋の価値観に似合うぴったりの言葉が、現代にはありません。

    非常に、重要な言葉が、現代では死滅しているのです。

    合理主義的思想に合わない言葉は無視されていますから、、、

    生物の絶滅危惧種どころか、

    すでに真実を言い当てる言葉自体が、現代人の心の中で絶滅しています。

    と云う事は、我々の生き方の巾、および思考そのものも、

    狭隘になってしまっていると云う証拠なのですが、

    我々の選択の幅は、狭い意識の巾の中に限定されています。

    それは、近代合理主義の思想自体の程度が大したものではないからです。


    前にも触れた事がありますが、東洋的な演繹的存在であるものを、

    西洋の帰納的方法へ変えると云うのはちょっと、大変です。

    東洋的直感で覚知した内容を、

    合理主義的言語で表すのは無理があるのですね。


    ・東洋は宇宙の全てを表わす大きさの語彙があります。

    ・合理主義は、人間の意識の狭い範囲を表わす言語だけです。


    宇宙は、広い! といくら行った処で、

    それは意識が捉えた事象の表現ですから、

    運動場は、広い! と云う事と、どう違うのか?  あはは。


    仏教では廣大無辺、無量無辺(むりょうむへん)、無量劫(むりょうこう)

    などの宇宙や仏の慈悲の甚大さを表す言葉があります。


    現代を生きる我々が使っている言葉は、

    宇宙の真理を表わすには、貧弱すぎるのです!   あはは。


    無理無理、東洋的知見を

    合理主義的言語に置き換えて行く過程で、

    本当に大事な髄液のような部分が抜けて行ってしまうのです。

    もったいない!  

    西洋的帰納法で表わす事で、真理に「偽」をまぶす事になるのですね。



    これは、恐ろしい事です。




    今の子供達が苦労しながら大学に進学をして知識を学びます。

    その大学で学び、身に付けていく知識は、

    東洋の叡智から見ると真実とは全く違うものです。

    そりゃそうです。

    基点を意識内に置いた知識なのか、

    無意識下に置いた智慧をのぞむ智恵なのか、

    ぜんぜん違うのですから。。。

    しかし、意識内の知識は、

    今の世で生きていくには身に付けなければいけない道具です。

    この事は、非常に切ない現実です。

    今の世の人間は、食べて行く為の道具を身に付けるのに、あくせく、

    大事な一生を使っているのですね。。 。

    せっかく、自然の智慧で父と母とに命をもらった処で、

    その自然を否定した学問をする訳ですから、

    どれだけ命が尊いのか年を取っても分らないみたいですね。

    つまりは、

    自分と云う存在を、自然の真理から遠くに離してしまう為に

    お勉強を、学問をしているのですね。 あはは。

    トホホ~と云う気分です。

    わざわざ、智恵に蒙(くら)くなる為に、

    近代合理主義の癖を擦り付ける為に大学へ行くようなものですから、

    人間の尊厳を捨てに学問をしに行っているとしか思えないのです。



    近代合理主義が空気の様になっている社会の中で、

    このギャップを説明するのは難しいです!  ほほっ。

    まあ、それで、今回の記事をどう書こうかと、、、

    悩みながら今日に至ってしまいました。

    随分時間が、かかってしまいました!    あはは。

    と云うのは、他の記事もそうなのですが、

    東洋的智恵を西洋合理主義的言葉に翻訳していく過程で、

    東洋的な神秘をディスカウントしてしまう事は、絶対にしたくない、

    大罪だと思っています。

    『天』に対して、この宇宙に対して(オーバーかな?)

    取り返しがつかない事をしてしまうようで、、、 あはは。

    十分思索した上でないと記事にはできないと云う、

    私なりのガイドラインがありますの、、、    ほほっ。


    それで、やっと、

    今日の記事は、そのガイドラインを守りながら書く自信が付いた。

    私の中に在る事実を、言葉にできる確信が付いた訳です!

    やれやれ、、、時間は随分かかってしまいましたが、


    いつもよりもっと長編? になりそうな気がしています。   

    また次の更新までには、十分余裕があるはずですので、  ほほっ

    数回に分けてお読みいただくと幸いでございます。

    よろしくお願いいたします。


    毎回、東洋的な《智慧》を、そのまま伝えられたらいいのですが、

    《智慧》そのままは絶対に凡愚下賤の私などには不可能です。

    でも、せめて、(智恵)位には似せて?

    お伝えできればと願っています。







    東洋の叡智を、ご自分の中で直感的に覚知する事ができれば、

    それは、本当にすばらしい事です!

    -----








    では、いつものまえがきから参ります!

    今日のまえがきのテーマは、「闇」。













    早いもので、もう3カ月も前のことです。




    ゴールデンウィークの一日、


    手近な処で足慣らしをしようと思い、出かけたのがいつもながらの高尾山。

    と云ってもGWで混み合っている山頂を避けて、

    裏・高尾山、南稜線へ足を伸ばしてみました。


    (その時の写真が、上の、高尾山南陵から見た丹沢山系と空です。)


    思った通り! 登山者がほとんど居ない静かな山道。

    典型的な低山の尾根歩きですが、花を見るなら丁度の余裕の歩きです。

    しかも道中は、半端じゃない花が咲き乱れ、

    めずらしい【十二単】は、山道に沿って咲いていました。


    ジュウニヒトエ



    ここほど、お花が塊になって咲き乱れている場所は、他に見た事がない。

    東京から1時間ちょっとで行ける場所に、

    高尾山の混雑ぶりとは打って変わった静かな里山の風情が

    こんなに詩情を誘う森の花たちの場所があった事に驚きを感じました。

    出来る事なら、来年も同時期に訪れてみたい、、、

    そう思った春風薫る5月にふさわしい花のトレッキングでした。


    春蝉(はるぜみ)が、もう全道中で、煩(うるさ)く鳴いていましたっけ、

    鳴き声から推察するに、何千、何万匹もいたでしょう、、、

    春蝉の体は、鳴き声ほど大きくはないのです!   


    花の写真を次回と分けて紹介します。



    下の写真は、

    背丈も越えるオレンジ色の山ツツジが山中の至る所に咲いていて、

    目に沁みる新緑の緑とのコントラストで、とっても奇麗でした。



    ≪日陰の山ツツジ≫


    草戸山の山つつじ


     

    ≪日向の山ツツジ≫


    山つつじ



    光が当たっているのと、陰にあるのとでは、

    写真でさえこんなに違うと云う事、お分かりいただけますね!







    ----- 裏・高尾山、南稜線は、丹沢山系へ連なっています。

    丹沢山系(上の写真)のイメージは、山深さ、黒緑色です。

    自然への畏敬の念を生じさせる原始的な霊力を秘めた森です。


    原始的な霊力を秘めた森、

    森には、昼間でも鬱蒼とした木々の間に薄暗い「闇」があります。

    そこには、太陽や月、星の光すら届かない地面があります。

    殊に深い「闇」は、森に夜が訪れてからです。


    ----- それで思い起こすのは、那須高原での夏休みの夜でした。


    窓に貼り付けた黒い紙を見ているような窓の外に見える森の夜の闇、

    少しでも窓を開ければ、青ぐさい森の匂いと共に、

    その漆黒の闇が部屋に流れ込んで来て、部屋中を満たした後、

    室内の電灯の明かりを飲み込んで消してしまいそうな

    そんな気配がする森の夜の濃い「闇」。

    そう云う「闇」にすっかり閉じ込められた、ある夜、


    こんなに人間の意識は脆弱だったのかと、自覚した事がありました。


    車に置き忘れたものを外の駐車場へ取りに行こうと玄関まで行って、

    庭に垂れ込めている「闇」が恐くて外へ出られないのです。

    「闇」の中から、突然、獣(けだもの)が襲って来るかもしれない恐怖?

    あはは。、、、そんな想像を打ち消しても、

    庭へ出る勇気が湧いて来ないのは、なぜ?


    隣家はなく、周りは、那須の森ばかりに囲まれて、

    外を見ても、目の網膜に黒い紙を貼り付けたようで何も見えません。

    これほどの自然の闇は、

    普段、意識している空間認識を閉ざしてしまうのですね。

    対象との距離感、位置関係、方向感覚がまったくきかないのです。

    それでも、ドアを開けて一歩外へ出ると、

    シーンと静まり返った森の気配もなにも感じられない漆黒の「闇」の壁に圧倒

    されて背後へ倒れそうになりながら、本当に、こわい! と思ったのです。

    この闇の中へ、もっと足を進めて身を投じてしまえば、

    行こうとする方向が捻じれてしまうトリックアートの世界へ引きずり込まれる?

    ようで、なんだか頭が変になりそうで ?

    あるいは、体から重心が抜けて空中に体がフワフワ浮くようで、

    ついには、夜の闇の黒の質感の中へ吸い込まれそうで ?  ほっ。

    全身が、「闇」色になって自分の体が無くなってしまいそうで、、、 あはは。

    最後は、自分の体自体が発光体にならなければ暗闇から戻れないかも?

    奇妙な恐怖感にいろいろ囚われて、     あはは。

    まばらば木立も、

    その向こうに在るはずの駐車場も、

    車も、なにもかもが、

    もう、空間の意識の中から完全に消えてしまった!

    それ以上、前にも進めずに、

    玄関ポーチの明かりが照らす狭い空間に立ちすくんでしまったのです。



    もう! 忘れものなんかどうでもいい、、、と、玄関のドアを締めて、

    部屋の明かりの中へ戻って、どんなに幸せだったか!   あはは。





    近代以降の現文明に浸って、

    PCの画面の明るさに馴染んだ目や、

    明るすぎる環境に馴れた感覚・意識には、   

    自然の真っ暗闇の中で自分の存在を認識する動物的視力は、もう働かない。

    私たちの意識は、そこまで退化してしまっている。

    原自然の「闇」に対抗できる目ではないのです。



    『陰』たる無意識の大自然に、

    近代化のエセ自然に慣れた軟弱な視覚・意識をテストされたようです。

    きっと不合格だったわ、    

    そんな気がしました。

    体と命はもう、完全に、近代化に飲み込まれているわ。

    ここが近代化の奈落1丁目? 10丁目でしょうか?    ほほっ。



    今さら言い訳がましいのですが、

    都会生活の中では、過ぎゆく時の刻にしか過ぎない朝が、

    まだ、大自然の中にいると、

    間違いなく訪れて来るあした(明日)なのです!


    夜明けが心から待ち遠しいのです。

    そう、昇る朝日は、命にとって〝希望”そのものです。

    と云う感覚は残っていました!    あはは。



    これはきっと、我々の先祖が火を発見し、

    薪の炎で辺りを照らし自然の闇と戦って来た原始の頃と同じはずです。


    そう、人間は『火』の炎に、安全、安心と同時に、

    火を操れない野性の獣(けだもの)とは違う人間の値打ち、

    自然の獣性や野蛮性を断つ「礼」を観じていたはずです。




       


    余談になりますが、

    那須の森の百合が恐いって云うおはなしを、しましょうか、、、、 ほほっ。



    森には、いくら昼間でも、太陽が燦々と真上から照っていても、

    その蛮性を感じる不気味さがあります。

    人間を容易に近づけようとしない自然の荒々しさ、刺々しさです。

    森の一本一本の樹木の形も縦横無尽に枝を伸ばして、

    人の足を一歩も踏み入れさせない雰囲気があります。

    そう云う那須の強面の森に、白い山百合は咲いています。

    遠目には、大輪の白い百合の形で惹きつけられます。

    しかし、近付いて花を覗くと!

    そこには鬼の顔があって !  あはは。

    白い花びらの内側にある黒と赤の点や線紋様の配置が、

    怒った鬼の面構えに、そっくりなのです!  

    写真を撮ろうと近づいて、レンズをジーーっと覗いた途端に、

    その文様の鬼の顔面が醸し出す殺気に逃げ出した位ですから、、、あはは。

    恐さは、白地に、こう云う風に黒と赤の点と線をデザインして表現すれば

    鬼の顔になるんだな、、、と自然の造形に感心してしまう位、、、

    快適をコンセプトに造形された文明に馴れきった感覚には、

    野性むき出しのありのままの自然は手ごわいのです。

    活火山のマグマ溜りの凄まじさ、あれもそうです。

    自然そのものです。  



    夜の森の恐さ、、、絶対に森の中では迷子になりたくはないですね。


    その闇に通じる黒が、丹沢山系の黒、です。

    原始の森が持っている、自然の霊力を秘めた黒です。

    それは、日本海側の黒姫の黒暗色や、木曾の陰影とは違います。









    ◎ この漆黒の夜の意味については ------------

    「淨暗」と云う言葉をもう一度、出さずにはいられません。

    これほど、「闇」の真正さを顕した言葉はないでしょう。


    2010年 4月 6日の記事


    春眠不覺曉 / 「浄暗」という言葉を知っていますか? に少し書きました。


    そこを引用します。


    意識の覚醒は、昼

    無意識は、夜

    生あるものは、夜、無意識の世界で再生するのです。





    ところで、

    「浄暗」という言葉を知っていますか?

    浄化する暗さ。闇のことです。



    穢れを清めるための、神々しい闇、というのかしら。

    夜のことです。

    夜は神が動く時刻であって、人間が動く時刻ではない。



    司馬遼太郎の『義経』に、

    壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、

    平家から「三種の神器」の二つを奪った源義経が、

    都に凱旋することになったわけですが、

    「三種の神器」=神にあたる器を持っていたので

    都に上る移動を夜に行ったそうです。

    夜中の凱旋ですね。

    神の移動は浄暗=夜でなければならなかったとあります。




    夜=闇=意識が無力=無意識界=神の力の領域=陰=再生なのです。



    ( 以上、過去の記事より引用 )




    人は、自然の中に生きていれば、直感的に分るのですね。

    前もって陰陽学などの学がなくても、説明を受けなくても、

    夜の闇が何を意味し、なにを心に呼び起こすのか、、、

    自分の意識を閉じれば、その下の無意識が教えてくれるのです。


    『闇』は意識にとっては恐いのです。

    しかし、恐いだけではない、、、

    『闇』こそが、

    外界に振り回される五感の感覚器官を鎮めるのです。

    正直、「闇」の中では外界の生物は眠り、そして静まりますから、

    外界の刺激は五感の感覚には届きません。

    自然の雨音、風の音、虫の音だけが残る世界になります。

    「闇」は、意識の外界へ向かう窓を閉じて内なる自分へ向き合わせ、

    意識を鎮める事ができるのです。

    そうして、


    『闇』こそが、意識に休息を与え、

    欲望に支配された意識を浄化する事ができるのです。




    月と星の自然の光だけに照らされた暗闇の中で、

    人は、やっと欲望に満ちた我の意識を閉じて、我の無意識に向き合う。

    人は、自分の意識を離れて、初めて自分の中の無意識に触れられるのです。

    そして、

    外界の大自然の暗闇の奥の無意識界の力を知り、従う。

    夜は月明かりしかなかった昔の人は、従わざるを得なかったのです。

    「闇」の中へ眠りに落ちる事で意識を休め、

    『陰』そのものの創造性の中に浸かる事で、

    そこで、人は、蘇り、明日への命の回復を図ったのです。


    『闇』は、無意識の支配する世界であり、命の再生の象徴なのです。



    それを、近代化以前の昔の人は知っていて、

    「闇」を畏れながらでも「闇」を敬っていたはずです。




    人は、意識のみで生れては来れません。

    意識の力で死ぬ事もできません。

    意識で息をしている訳ではなく、無意識の呼吸で生きています。

    昔の人は、命は無意識に生かされている事を悟り、

    暗闇と無意識の底知れぬ深さの中で命が再生する事を知っていたのです。

    その無意識の存在と、その深淵を悟れるように、

    宇宙に「闇」が、夜の「闇」があるのかも知れません。




    宇宙における「闇」と「光」の分量の割合から云うと、

    「闇」こそが圧倒的です。




    ―――― ここまでが、近代化以前の「闇」と人の意識の関係です。


    近代化までは、人の意識は、「闇」の価値を直感的に知り、

    畏れてはいても、その深さに畏敬の念を持っていたのです。



    近代以前の人びとは、まだ、「死」の恐怖、闇の恐さを知っていて、

    「死」は恐い。 闇も恐い。

    けれど、それを人間如きが乗り越えるなんてとんでもない!

    ただただ、畏敬の対象だったのです。


    夜はそのまま、自然の恐ろしい闇でしたし、

    「死」もそのまま畏敬の対象だった。


    眼前の「苦」は避けられないモノと諦めていたし、

    「苦」も「死」も「闇」もそのまっまを受け容れていたのです。



    今よりも、もっと身近に、

    宇宙を自然を人生を今より深く観じていた。と言えるのでしょう。




    受け容れると云うのと、避けて無視すると云うのとは大違い、




    そう、問題は近代化以降なのです。






        ・     ・     ・     ・     ・     ・
        ・     ・     ・     ・     ・     ・







    ―――― ここからが、近代化以降の「闇」と近代的自我意識の関係です。


    我々は、ここに立っています。

    人々は近代化と共に、傲慢になって行くのですね。


    近代化以降、

    意識できないものは無視をしろ! とばかりに、

    伝統と無意識下の絶対性を排除した人間の意識にすれば、

    あたかも意識が、絶対者に成り代わったようなものですから、 

    今までにない存在感を発揮していきます。


    万物の基軸と成り上がった我々の意識は、

    意識<愚王>として、まるで王様の如く、  あはは。

    目、鼻、口、耳、皮膚、の五感の窓から覗いて、

    「苦」と「楽」をパッ! パッ!と分けて、

    えっ、「苦」?  いらないよ!  さっさと捨ててくれ!

    意識は、無造作に「苦」を放り投げて捨てます。

    後の処置は、科学技術と資本主義に任せて、、、  あはは。

    だってそうでしょう? 

    近代合理主義の意識<愚王>は、『苦』が大嫌いでいらっしゃる。 あはは。

    「楽」を求めて、科学へ命令を下します。

    我に、「楽」のみを与えよ!

    「苦」は我の王国の外へ捨てておけ!


    ははーっと、畏(かしこ)まってお辞儀をした自由主義経済は、

    欲望の望むものは何でも、競争に勝つ為にも、

    強い意識の望むモノは全て、作って売るようになっているのです。


    だって、売れるのですもの!     ほほっ。

    この社会では、売れる事が、最善の事なのです。    あはは。



    「苦」を捨てた後の「楽」こそが王たる我が身にふさわしいものである、

    と、のたまう意識<愚王>に応えて、

    科学は、技術の最高峯、選抜された意識の生っ粋を集めて、

    「闇」を消す為の灯りを、夜だけでなく昼も、昼をもっと明るく!

    24時間、48時間、年柄年中、明かりが灯る電脳都市を作らんとして、

    楽園の実現・「天国」を求めて築き上げたのが、原子の灯です。


    このように、近代合理主義で王へ成り上がった意識<愚>王は、

    無意識を無視し、「死」を捨て、「闇」を嫌い、避けます。

    そして、「闇」の「苦」をのがれる為に、「闇」を消そうとしたのですが、

    でも「闇」を全部、消す事はできなかったのですね。   あはは。


    夜になれば「闇」は表われて来ますのも、ね。

    そして、意識にとったら怖い森ですが、    ほほっ。

    自然の中には、鬱蒼とした「闇」が、まだまだ残っています。

    「闇」を失くす事は、そんな簡単な事ではなかったのです。


    そして、意識はただ単に、それらを意識外へ捨てた!だけなのですが、

    意識外とは、無意識界です!

    だから「死」も「闇」も「苦」も、無意識界にそのまま溜っています。



    溜りに溜まった「死」や「闇」や「苦」が、

    無意識界から意識界へ、ある時、どっと現象化したらどうなるのか?

    隠したり捨てたエネルギーだけの反動をもって、

    この意識界へ戻って来るはずです。

    それを考えただけでもおそろしい~!

    この世に、どっと「死」や「闇」や「苦」が満ち溢れるのですよ!




    無意識を無いとして捨て、

    自然を敬う心を失くした近代的自我の意識にとれば、

    畏れだけが残った「闇」は邪魔なモノです。

    森の抱える「闇」は苦痛そのものになったはずです。




    なぜなら、暗黒の「闇」は、近代的自我の意識の限界を超えている領域です。



    『陽』である意識・感覚器官の機能が働く範囲は、

    かすかにでも光がある処 = 『陽』の現象界に限定されています。

    これで、なぜ、近代的自我の意識が「闇」を嫌い、

    「光」を求めるのか、お分りになりますね? 


    意識の機能は、「光」がある現象界でしか働かないからです。 



    「闇」は、意識にとったら「苦」そのものの領域なのです。




    そうして、、、


    近代的自我の意識<愚王>が、

    「死」の影を持つ「闇」の「苦」を追い払おうと科学に命じて

    作り上げた道具が、近代的学問の生っ粋の科学っ子である原子力の火です。 




    自然の中での不便をムダとし、煩わしさを「苦」と退け、

    「楽」だけを選び取った近代合理主義の物質文明の中で、

    意識・『陽』は、生産性を求めて利便さと効率で「楽」だけを求めます。

    意識・『陽』は、非効率な「苦」を避け、徹底的に逃避します。

    そう、意識にとっての幸せは「苦」の無い「楽園」に到達する事なのです。





    そうでしょう?





    その為に、便利な快適な生活の為に、

    原子力発電所を作ったのでしょう?




    放射能は恐いと思いながら、もっと「楽」になれるのならって

    我々は、心のどこかで原発の存在を許して来ましたね ?

    そして、その結果はどうだったのですか?




    おおいなる「楽」だと思ったものが、おおいなる「苦」になったのです。



    だから、「苦」と「楽」とは表裏一体だと云うのです。

    無意識下では同じエネルギー、

    意識界へどう出るか、現象界での違いなのです。






    だから、「苦」と「楽」について書こうと思えば、

    近代合理主義の申し子、近代化の優秀な息子とも云うべき原発の事を

    無視する訳にはいかないのです。









    やれやれ、やっと、本論へたどり着きました!   ほほっ。





    今日の記事は、


    コメントへのお返事 19. 「闇」を否定する原子力  「苦」と「楽」について 2.






    では、いただいたコメントを紹介いたします。




    原発に関しては

    IAEAはじめとする、核(原発、核兵器)保有国が一丸となり

    安全性のアピールに躍起となっています。

    ほぼ成功してて反対する人は放射脳と揶揄されてますし。

    ほんとうの事が判れば、核放棄に世論は一気に動きだすことは

    間違いないんですがね。

    時の来るのは、福島の健康被害が本格的に増えるのはもう少し先です。

    時間がたちすぎて福島との関連性を云々できないと専門家や政治家は

    のたまうのでしょうきっと。

    核に関しては絶対反対の立場ですので、

    原発再稼働の動きには懸念してますよ!

    核にせよ年金にせよ未来へのつけは残したくはありません。

    さて、自分に何ができるのか?時間はありません、真剣に考えていかねば。







    まじめなコメントをいただきました!    

    問題提起、ありがとうございます。

    いろいろ原発の事、放射能の事、お考えになっていますね。

    いつかは、原発の事、脱原発の事を書かなければ、、、と思っていました。


    心の奥底では、だれもが、そのように考えている事だろうけれど、

    残念ながら、

    現実的な行動としては、世の中は、そこまで行っていないようです。

    脱原発は、国民の総意になる処までには至っていない。

    そう認識をせざるを得ませんね。




    先に行われた参議院選挙の結果もそうでした。




    しかし、参議院選挙運動期間中(7月4~13日)、

    ツイッターでの一番の話題だった政策は、エネルギー政策でした。


    一方、同期間の全国世論調査での

    投票先を決める時のもっとも重視する政策は? と云う問いに、

    第一位は、景気や雇用でした。

    その中で、エネルギー政策は、それらより遙か下、7位でした。


    全国世論調査の方が、選挙結果に近いですね。




    いわゆる日本の脱原発論は、我々の中で、まだよく煮詰まっていない。

    真に、国民は、脱原発を切望する処までは行っていないのです。

    それより身近な、給与、雇用、経済の方に「苦」を感じるのが現状です。



    一体、我々は、何を「苦」と感じるのか?

    「苦」は避けようと思えば避けられるものなのか?

    近代合理主義下では、

    何が「苦」か、意識が決めちゃうのですよね!   あはは。

    意識は、現在の五感の満足、天国の「楽」が最高の目的なのですよ。

    地獄に落ちても気持ちがいい方がいい~!  あはは。

    と云うのが、意識の癖でした!

    これらが、キーポイントです。



    五感と云う感覚器官で感じる事は、1000人いれば、1000の種類です。

    意識も1000種類に分かれ、それらは一つとして同じではなくバラバラです。

    それが、まだ、我々の間で収斂されていないように思います。

    しかし、どう云う現状であれ、粘り強く、

    命が最第一に大切にされる世の中を願って行く事は一番大事です。




    しかし、近代合理主義は、

    言葉だけは天国のような?   あはは。

    結果的には命を大切にする事ができない思想となっています。


    今日は、東洋的な観点から、どうしてそうなるのか?

    どうしたら原発の問題を乗り越えて行けるのか、考えてみようと思います。




    現在の日本の状況は、

    今回の選挙公約で脱原発を掲げた政党にしたって、

    その具体的な脱原発の方途はないまま、口先だけでした。

    その空虚さを有権者は、生活者として感じていたはずです。

    従って、必ずしも脱原発を訴えた政党が勝ってはいません。


    全てが曖昧模糊、霧の中のようです。

    具体的な方途がないままとは、

    福島を廃炉にする技術すらどうするのか? これからです。

    廃棄する核燃料の行き場は?

    代替エネルギーすら、まだまだ開発途上、技術革新を待つ状態です。

    今は、化石燃料を輸入して燃やしているのですが、

    それが、地球温暖化へどう影響をするのか?

    今夏の天候の異常さを感じながらでもどうする事もできていません。

    化石燃料自体、地球が何十億年もかけて蓄えて来たものですが、

    現在のように原発の穴埋め用に頼ってどんどん使っていたのでは、

    あと何十年~100年単位で失くなって行ってしまいます。

    このような、後世の人々に借りを作るようなやり方には疑問を持ちます。



    費用は?

    福島だけでも、廃炉の費用は莫大な税金を使うでしょう。

    全国的に脱原発をした時の廃炉費用は、どうするのか?

    このようないろんな問題があります。


    そして、もっと大きな問題として地球環境の問題があります。


    地球温暖化、地球的人口増加、地球的食料難、地球的水不足、

    いわゆる地球資源の枯渇です。

    これら水不足などは、もう始まっています。

    これらは、見ようによっては、原発より大変です。

    すべて国家間の資源戦争へと進む問題です。

    中国は、その為に海洋資源の確保に動き出して尖閣問題等もあります。




    今、人類は、非常に緊迫した状況にいると思います。



    地球規模で、脱原発をしようと思ったら、

    ・アフリカや新興国の人口が現状から絶対に増えない。

    ・アフリカや新興国の生活水準が今のレベルから上がらない。

    そう云う前提でもない限り、無理でしょう。

    おそらく、誰もが、ニューヨークのような街で、東京のような生活をしたい。

    ネットの普及した世界中の人達が見たら、そう望むはずです。

    その時に、今の先進国の人達は、今の生活水準を保てるのか?



    再生可能エネルギーと云っても、その元は太陽エネルギーです。

    総量は決まっている。

    技術が進んでも、その設備を作るのに相当な電気が要るはずです。

    その電気はどうするのか?

    その時、又、原発が頼りにされるのではないか、、、 ほほっ。

    笑いごとではない。

    現実の世の中と云うのは、欺瞞に満ち、偽性で成り立っています。



    こういう社会を、

    我々は、近代化以降、作り上げてきたのですね。

    近代合理主義の思想を社会のすみずみにまで徹底させて、、

    我々の教育、政治、法律、その枠組みを全て変更して、

    近代国家を作り上げて来たのです。

    近代国家とは、それぞれの国家の「楽」の追求ですから、

    最後は、熾烈な命の殺戮になるでしょう。




    近代合理主義は、人間の五感に依存する意識を基軸にしています。

    その意識が、

    無意識の闇を切り捨て、

    より優秀な前頭葉の持ち主を選抜する学歴社会を構築し、

    No1ばかり、最高の意識レベルを集中させた科学技術を道具として、

    地球資源を駆使して、

    意識で囲ったエリアから「闇」を放逐し、

    人工の灯りで明るくするのには成功したようですが、


    さてさて、「楽」に満ちた平安な世界を築けたのでしょうか?



    今は、原発は大いなる「苦」そのものの存在ですが、

    元々は、我々にとって大いなる「楽」をもたらすモノとして

    作って来たはずです。


    誰だって、どの地域の人達だって、

    初めから大いなる「苦」になるモノを

    自ら進んで誘致して作るなんぞ、するはずもないからです。

    どう云う「楽」を欲しいと思ったのか?

    どう云う夢を見ていたのか? 

    もう、その時の当事者ですら、今の現実を目の前にしては

    思い出せないかも知れません。


    しかし、間違いがないのは、当時の意識が得だと判断をした、、、

    原発が「楽」をもたらすモノだと認識をした、、、

    からこそ受け入れる決定をしたはずです。





    1000人の意識が、1000のそれぞれの得を認めたからこそ、

    この『陽』の現象界へ原発がまぎれもなく実現したのです。






    実際に、福島原発については、

    その当時の経緯について、2012年 3月 18日の記事、


    あれから一年 2. 「フクシマ」論  開沼博ー 災害の外因・内因 


    に記事にしてあります。

    直接は国策で、東電が作ったモノです。

    しかし、地域に住む人々が原発を断わったのに無理やり作られたものではなく、

    国に押し付けられてイヤイヤ作ったのでもないのです。

    その経緯については、いわき市に住む、地元の人だからこそ書く事ができた 

    東京大学大学院に在籍中だった社会学を専攻する開沼 博氏(29歳)の

    著わしたフクシマの検証本『「フクシマ」論 』 青土社 をご覧になってください。


    この本の中身は、

    事故前の1月に、彼の修士論文として提出されていた内容です。

    福島原発の事故があったから書かれたものではないのですが、

    非常に、人間の意識の身勝手な移ろい、欲望の満足の恐さを

    浮き彫りにしています。

    つまり、人間は欲望の満足の為には平気で嘘が言えるのですね。




    事故前の福島には、

    「原子力関連施設のおかげで生活できるという幸福感」

    満ちていたと彼は書いています。

    福島に原発が建設された実際は、

    1957年、後の県知事となり「原発知事」と呼ばれた木村守江が、

    まだ当時、福島県選出の参院議員であった時に、

    まだ原発建設に手を上げる自治体がない中で、

    「後進県からの脱出をめざして」と、いちはやく原発誘致に動き出し、

    「ムラが原発を能動的に受け入れ、抱擁した。」

    「ムラは、言われるがままに原子力に乗せられた訳ではない。」
    「反対派あっての安定した秩序」を構成したのだ。

    と書いています。

    そして、

    原子力ムラと福島の建設地のムラ、この二つのムラが、

    「お互いの都合で抱擁し続ける中で、

    ムラの人間たちに、絶対安全だという”神話”が生まれた。

    この”神話”の信心こそが今回の大事故の底流にある。」 



    と書いています。



    当時の原発知事が、県の為に国に誘致を頼んで造ったのだ。


    と、書いてありました。


    また、開沼氏は、この著書を表わす前に、

    福島はもちろん、青森の六ヶ所村を訪れています。

    その時の印象を書いてある中で、

    いずれの原発施設に通じる国道や県道にも、パチンコなどの遊興施設が

    道路の両側に沿って延々と数多く立ち並び、

    その道路上には高級車が止めてある風景ができ上がっているのは、

    福島も六ヶ所村も共通していた、とありました。

    いわゆる普通のありふれた街の雰囲気そのものですが、

    それが、本当なら寒村と云われる場所一帯に突如として現れる、

    その風景から、

    時間と金銭が豊かになれば人は、こう云う同じ事をするのか?

    彼なりに捉えた一文が、心に重く残っています。


    人が求める「楽」とは、どう云うものか?

    そう云う「楽」を一度手に入れたら、手放そうとはしない。

    それが、原子力建設地のムラで、安全神話を生んだのだと言うのです。


    心も頭も真に安全とは納得していないのに、

    人は、自分の欲望が「楽」に手に入るお金で満足できるようになると、

    自分の心と頭に嘘をついてでも都合の良い行動を取る事ができるのです。

    これが、欺瞞です。

    『陽』の現象界の「偽性」そのものです。


    『陰』たる自分の命そのものを背いてまでも ------ 『陰』の無視

    『陽』たる自分の欲望の満足を優先する。------ 意識優先の思想


    これを思想自体から許しているのが、近代合理主義の実態なのです。



    開沼氏から、もう一度、


    非常に、人間の意識の身勝手な移ろい、欲望の満足の恐さを

    浮き彫りにしています。

    つまり、人間は欲望の満足の為には平気で嘘が言えるのですね。




    政治家や業界が、手にしている既得権益を手放そうとはしない。

    官僚が省益を第一に考える。

    どれも同じ穴のムジナです。








    『陰』を無視し、無意識界を無いとする近代合理主義では、

    いかに美しい言葉を連ねてスローガンを作ろうと、

    正しい言説を述べて演説をしようと、

    最後は、

    この人間の暗黒部分が結果的には現象化します。
     



    (この事を、今回の記事は繰り返し、徹底的に書きます。) ほほっ。





    原子力発電所は、

    我々の近代的自我の意識・心から出た現象そのものなのです。






    そう! 「闇」や「苦」や「死」を彷彿とさせる原自然から

    人間を隔離して自然からの「苦」を排除する為のエネルギーを求めて、

    意識が探し当てたのが、原子力でした。





    そう、全くの自然を無視して、

    意識の中で作り上げた天国・「楽」をこの世に実現しようとして、

    我々の近代合理の意識<愚>王が、産み落とした御曹子が、

    原子力発電所なのです。




    原子力発電所は、

    近代合理主義に染まった我々の意識・心から出た現象そのもの、

    まぎれもない産物なのです。





    ーーーーー もう一度言いましょう。

    原子力発電所は、まぎれもなく

    我々の意識、心、精神が産み落としたものです。





    日本中には、18地域、51基の原発があります。

    これだけの現象化を実現すると云うのは、国だけでは無理です。

    余程の周りからのエネルギーが集まらないと無理です。

    それ相応の欲望のベクトルが、集まったのですね。



    51基が建設される過程で、

    どうして今の沖縄の辺野古沖の埋め立て反対運動のようなものが

    起こらなかったのでしょう?

    どうして過去の成田闘争のような反対がなかったのでしょう?

    原発自体を反対する、

    脱原発の声が全国的に起こらなかったのでしょう?



    1954年(昭和29年)3月、

    中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により

    原子力研究開発予算が国会に提出された事が起点とされています。

    1955年(昭和30年)12月、

    原子力基本法が成立し、原子力委員会が設置された。

    初代委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎氏です。

    故に、正力氏は、日本の「原子力の父」とも呼ばれています。

    しかし、この時原子力委員であった日本人初のノーベル賞受賞者である

    湯川秀樹氏は、抗議の為に委員を辞任しています。


    それから、今まで、約58年の間、今のような脱原発の声は挙がりましたか?


    安全だと政府が言ったから黙って認めて来たのでしょうか?

    それが、事故があったから、もう、ダメなのですか?

    安全と言って来た政府が悪い、からですか?

    安全神話がウソだったからですか?



    我々の態度も、

    周囲の変化に合わせて云う事がクルクル変わる、、、国と同じです。

    我々も、『陰』たる基軸を捨てているから、

    頼るのは周りに振り回される近代的自我の意識しかないからです。

    我々は、憐れな『陰』の徳性を失っている民です。

    そして、

    現在における自分だけを守る ・・・・・ これも、国と同じです。


    我々の中にも平気で『陰』を無視して来た欺瞞があるのです。



    「楽」ならいいじゃないか? ほんとうに?

    「楽」になるって思う方が「楽」じゃないか?    あはは。



    「楽」ならいいと云う基準がおかしいのです。

    「楽」でも「苦」でも、ダメなものは、元々ダメなのですよ。


    事故がない間は、よかったんだ?  あはは。

    事故があろうとなかろうと、ダメだったのです。

    本質的にダメなものを許してしまったのは我々の意識です。

    「楽」に騙されて作ってしまったのは我々の意識です。




    我々の中にも欺瞞と云う内因があるから、

    こう云う目に遭う『運』を作ってしまった!のです







    原発を許した原因は、我々の「楽」を求める意識です。

    近代合理主義に染まって、

    「楽」を求める事を恥だと感じる羞恥心を捨てた我々の心です。



    もう、幼子から、お年寄りまで、

    そりゃ、「楽」がいいに決まっているのですから、、、 あはは。

    近代合理が、頭をナデナデして「楽」になるよ!

    って言ってくれていたから、

    あの事故さえなければ、

    今もそのまま原発には黙っていたのだろうか?

    言うなりになるつもりだったのだろうか? 

    東京に住む我々は、原発立地自治体じゃないからって、

    無関心でいたのだろうか?


    ーーー 原子力発電所は、そう云う我々の意識・心から出た現象そのものです。ーーー




    「楽」になると云われれば、原発を黙認し、

    事故が起って「楽」どころか「苦」になれば、

    やっと、原発そのものが悪者のように脱原発と騒ぎ出す、、、

    時系で変化する現象に振り回されてフラフラする意識を頼っている限り、

    目先の「楽」を追いかける限り、


    永遠に、本当の平安は手に入らないのです。



    今回、学ばなければいけないのは、この事です。






    前回の記事、

    「苦」と「楽」について 1.で、

    近代合理主義の意識にとれば、「苦」と「楽」はバラバラに見えている。

    と書きました。

    これは、現代に生きる我々にとっての事です。





    しかし、

    東洋の深い叡智から観ると、実は、そうではない。


    実相を正しく捉える東洋の仏法の智慧では「苦」と「楽」は、不二である。

    つまりは、意識が排除をする「苦」とは、実は「楽」にもなり、

    意識が欲しがる「楽」は、実は「苦」そのものになるのです。
      






    「楽」が、「苦」になり、

    「苦」が「楽」になる原因は?


    それは、人々の心の清らかさ・清浄さにかかっていると

    高度な仏教には説かれています。

    邪心を持てば、「楽」が「苦」になる、と云う事です!

    邪心とは、真理に背く心、、、???

    ああ、修行が足らない我が身には、難しくて分かりません!

    何が清浄なのか?と云う事には、今触れる余裕もありませんが、

    深くは、又、いずれ、、、修行の後に、、、、、 ほほほっ。





    さぁ、そうであるならば、困った事が起こり得ます。

    「苦」であると云うだけで、そんなに簡単に何でも捨てていいものだろうか?





    近代合理主義の科学は、政治は、経済は、

    「苦」と「楽」がバラバラであると云う二元論を克服できていません。




    そもそも、「苦」と「楽」の完全分離の根拠は西洋二元論です。

    この事自体が、欺瞞に満ちたロジックです。

    そもそも意識レベルで捉えようとすると、

    意識は、現象を掴まえる事しかできませんから、

    「苦」と「楽」か、どちらかに見えるはずです。

    悦びながら苦しむとか、悩みながら嬉しがるとかは、

    意識には無理です。    あはは。

    真実を知る事の出来ない意識には、そうにしか捉えられない。


    何事もそうですが、分けて思考すると云うのは

    真理に至っていない前駆段階、途上の言い訳、位相、方便、主義です。

    仏教の経典にも、そう云う前駆段階の経典が多くあると前回書きました。

    それを真理を明かした仏の教えと受け入れれば、トンダ邪教になる訳です。

    何事にも、浅瀬なのか? 深海なのか?

    本音なのか? 上辺なのか?

    飾りなのか? 本体そのままなのか?

    腐りかけの魚なのか? 生きがいいのか?

    魚を見る目にも、それ位の目利きはいるでしょう?   ほほっ。

    人を、言葉を、思想を、見極める目を持つしかありません。

    智恵と云うものさしを持つしかありません。


    近代合理主義は、こんなチャチナ低い思想なのだと云う事です。

    その低い思想である近代合理主義が起した現象の渦巻く現状が、

    我々を取り巻いている。

    真実を知らない無知な意識が、

    お馬鹿な近代的自我の意識が犯す間違いのオンパレードが、

    この近代合理主義の社会を蓋っているのです。



    どうか、そこに気が付いてください。

    私たちは、騙されています。

    もう、そろそそ気が付いてもいい頃ではないですか?





    もし、原発を批判するのなら、 


    その前に、原発を許し、作った、その背景である近代化と云うものの

    批判ができなければなりません。

    そして、自分の中の無意識・命を否定する近代合理と戦う必要があります。

    そして、自分の身を近代合理主義の柵の外へ置く事です。




    それは、どう云う事かと云うならば、


    脱原発を実現したいのなら、


    その前に、自分の意識、心、精神が、

    「死」と「闇」の「苦」を消そうなどとは思わないで、

    せめて昔の日本人が畏敬の念で、その存在を認めたように、

    この世の「死」と「闇」の「苦」をありのままに受け入れる事が前提です。 

    自然と共に生きていた昔の人びとの心を取り戻す事です。




    つまりそれは、無意識の智恵を用いなければ解決はできないでしょう。


    それは、こう云う事です。


    無意識から観れば、

    意識の云う「楽」と云うモノも、

    意識の云う「苦」と云うモノも、

    無意識からの同一エネルギーの現象での違いにしか過ぎません。


    ある時は、意識の捉える「楽」が、一辺に「苦」に変わり、

    ある時は、意識の捉える「苦」が、刹那に「楽」に変わるのです。


    これが難しければ、次の例えなら分りますね?!

    ある人には「楽」である現象が、別の人には「苦」である事は普通です。

    そのように、「苦」や「楽」には普遍性は存在しません。

    特に、『陰』・無意識を無視した意識の「苦」や「楽」は皮相的なもので、

    徳性も、普遍性も存在しません。



    その原理を知らずに、

    目の前の「苦」を捨て、「楽」ばかりを拾おうとするのは、愚か。

    その愚かさに目覚めていないのが、近代合理主義と云う大ばか者です。





    無意識界を認めないから意識には智恵が欠けています。

    だから意識は「苦」を避けざるを得ない。

    仕方がないから、「楽」ばかりを集めているのです。

    この愚かな真似は、もう止めた方がいい。

    近代化の奈落へ堕ちるばかりでしょう。


    今の社会の経済、政治、すべてそうです。


    意識が、これは「苦」、あれは「楽」と選別するのに従って

    我々は、欲しがったり、無視をしたりしています。

    これは、「楽」なのよ~

    これで便利だよ~

    「苦」はイヤだ~


    「苦」を避けて「楽」を手にする事が、さも、それで正しいように、です。

    「楽」は正義だったのか? 

    「苦」は悪だったのか? 

    じゃ、近代合理主義では、善とは何か ?

    子供にどう教えているのだろう?



    国民全員が、自分の「楽」ばかりを主張したら、どうなるのか?

    国民全員に、「楽」を与えるには、それ相応の税金の負担である「苦」が

    返って来るのはお分かりですね?



    このように、無意識を否定した近代合理主義の思潮の下、

    「苦」を乗り越えないで避けて、避ける為の道具ばかりを開発し、

    それが、イノベーションだなんて?!

    「楽」の獲得ばかりに奔走する意識に連れられて、

    我々は、どこに向って進んで行くのでしょうか???



    人間は、何もしないで、ただ安楽椅子に寝そべり、

    あるいは、運転席に座っているだけで、

    機械が、人間の脳やまなざしを感じて動くと云う理想郷の実現に向って

    科学と産業を、経済が引っ張って行ってくれるようです。

    その為の法整備をするのが政治なのですね!?    あはは。


    便利なモノを作れば売れる、

    安全装置だと云えば売れる、

    どこまで人間を甘やかしたらいいのだろう?

    バカな経済が主導する人間像は、どう云う人間を作ろうと言うのか?

    まさか、売れる事が、正義だなんて言わないで欲しい。


    その結果が、人間がどうなっているのか顧みる事もしないで、、、



    文明化された都市に住む限り、意識の体験は限られています。

    泥だらけになる事は不衛生だし、非能率だし、コストが高くつくし、

    それらを避ける為に、

    近代化によって泥だらけにならないように、自然を遠ざけ、

    道具を開発し、機械を作って、作業手順を工夫して来ました。

    それがすべて、良い事なのか、どうか?


    近代化された意識中心の社会の中で生きる我々は、

    普段、その自覚はないが、聴力も、脚力も、弱くなっているのですね。



    その事を、嫌になる位、那須の夜の森で感じました。

    人間は、もう、森の中では暮らせない生物になっているのです。


    その他にも、手を伸ばせば水が出て来る水道のおかげで、

    昔の水道の蛇口を廻せない小学生が、出て来ているようです。

    蛇口を廻す指の筋肉が、まったく発達していないのですね。

    それどころか、指でナイフを操ってリンゴの皮剥きができない主婦や

    作られた人工の旨味や合成されたジャンクフードに馴れて

    自然の果物の甘みを感じられない若者の味覚、、、

    果物を食べる時の果汁で手が《汚れる?》のがイヤで、

    果物を敬遠する人間が、増えているそうです。


    本物の自然を排除した合理化デラックスな安っぽい疑似自然の中で、

    人間の疑似人間化は、もうすでに、命の底から完了しているのです。


    これでは、男女共に子供ができる体ではなくなるはずです。


    我々の五感は、もうすでに狂い始めているのです。

    本当の自然の過酷な環境では生きていけない程に

    自然の中で生きていく能力を失って行っている。。。 。


    さすれば、我々が、まだ気が付かない処で、

    地球上のあらゆる生物の命のレベルは、

    人工疑似的に壊変され、生の本体の能力をmissing しつつあるはずです。


    これが、『陰』を無視したエネルギーの還流です。



    『陰』を無視したやり方が、当たり前になって、

    女と云う性を受け入れた生き方をしないまま成長をして、

    生殖器が未成熟なまま不妊症になったら、不妊治療を受ければいい、

    年齢制限までに人工授精か何かで子供を作ればいい、、、

    子供は製氷機で氷を作るように、水を入れれば同じ氷ができる?

    あはは。 そんな! 

    運命学から観れば、不妊治療で生まれた命式は、

    ある特徴があってなかなか普通ではないのですよ。



    今でも自然でいるのは、

    アフリカの草原を駆け回って採集生活や狩猟生活をして

    まだ近代化からはほど遠い後進国の人々でしょうか、、、

    今でも、自然である能力を失ってはいないはずです。

    あー、でも、

    近代化の魔の手は、これからアフリカへも伸びて行くのですね。



    このまま意識のセンサーがもっと弱って行くと、

    人間は、もっと「闇」に耐えられなくなって怖がるようになるでしょう。

    「苦」を遺棄するようになるでしょう。






    意識は、過去の経験と現在の環境に縛られています。



    常に生き残る為に環境に順応しようと移ろう意識は、

    過去の経験のデーターからしか、未来を作れません。

    原発事故から得たデーターでどんな未来を作るのでしょうか?


    近代合理主義が作り上げた電気代のかかる疑似自然を手に入れた意識は、

    その現在の「楽」を手放す事ができるのでしょうか?




    意識は、文明化すればする程、無意識・本質から遠ざかります。


    意識の力(五感の情報収集力)は、環境に左右され、

    文明化する程、退化をして行く、、、情報が拡散し、過ちが多くなる。

    本質を離れ偽性が強く大きくなる。・・・・・・・・・・『陽』


    言葉の中身が抜けていく。命の中身が抜けていくからです。

    これでは、

    意識の権化・言葉が信じられなくなる。

    〝再稼働は安全だ!”と云っても、

    ほんとうは、何が安全なんだか ??? わからない!



    実は、この事自体が、究極の近代化の奈落なのです。



    無意識を無いとする近代合理主義の意識を中心とした現象界は、

    絶対的価値を、missing した相対世界ですから、

    だれかの言葉を絶対的に信じるなんてできなくなって行く。。 。


    人と人を結び付ける『信』の徳が抜けて行き、

    個々人がバラバラに、個人の意識を優先し出すと、

    夫婦や家庭は成立しなくなるでしょう。

    もうすでに、その現象化は表われて来ています。

    止めどもなく、人間が物になって行くのです。




    近代合理主義と云う思想そのものが、袋小路の中です。

    する事、為す事、すべてが、その凝滞の姿を現すのです。



    これに、もう気が付かないければいけませんね。


    凝滞(ぎょうたい) = 物事の流れがとどこおって先へ進まないこと







    最後に、陰陽学から、

    太極図を思い出してください。



    『陽』が極まった『極陽』である近代的自我の意識は、

    命の本源『陰』・「闇」を完璧なまでに無視をしています。  




    『陰』・無意識を無視するとは、

    『陰』の原意の徳がすべて、近代合理主義の現象化には欠けると云う事です。





    近代合理主義を基盤とする科学が、

    無意識の領域を完全否定するとは、どう云う事になるのか?  



    『陰』・無意識を無視するとは、

    『陰』の原意の徳がすべて、科学の結果から欠けると云う事です。


    それらの現象は、

    我々の生きる命の傍から、

    地球の危機をみすみす手をこまねいて何もしない今のように、

    本当の自然を遠ざけ、自然を破壊し、

    疑似自然で我々を囲うようになるでしょう。

    人の生き死にから出生、病気を統計で国家が管理するようになり、

    フーコーの云う生政治がもっと個人の生活を統制するようになるはずです。

    女が女でなくなり、男が男でなくなり、

    今の女性の6人に1人が不妊治療を受けていると云う事実。


    この現実を、保育所が無いからだと、待機児童のせいだとして、

    何の不思議とも思わない延長上には、

    「苦」も科学技術を道具にして失くす事ができると云う

    人間の意識の傲慢があります。

    この意識の傲慢は、最終的に自然を征服したと言える満足を求めて、

    恐らく命の操作へ挑戦をして行くでしょう。

    人間製造と不老不死を実現しようとするはずです。

    これからの合理主義はそれを狙っているはずです。

    ある意味、放射能よりも恐い。

    自然に対する畏れが無くなっているからそれができるのです。




    その近代合理主義が、人の為、世の為と、

    美辞麗句を自信がありそうに平気で言えるのは、

    意識には常に〝漏れ”があると云う事について無知なのと、

    意識には、常に偽性が伴う事を自覚していないからです。 






    もしや現代の我々は、

    現代科学の技術を利用して「苦」を避けたつもりで原発の火を点火し、

    「楽」を得たつもりでいたのが、

    地震と津波と云う大災害で、おおいなる「苦」へと、手の中で変った??? 

    と、本気で思っているのですか?

    もしや地震や津波で、事故が起こらなければ「楽」のはずだった?  

    のですか?

    地震や津波が起こった事を悔やんでいる?

    自然災害、あれさえなければ、よかったのに、って?


    いいえ、災害に由って「苦」へと変ったのではありません。

    元々、近代合理主義が内包する偽性が生むはずの「苦」そのものなのです。

    こうなる帰結を中に孕んだ思想であると云う事です。

    その思想に、何の疑問も持たずに染まって、

    「楽」を得たりと勘違いをしていた我々が、愚かだったのです。




    そして、我々は犠牲者だと? 

    いいえ、我々は、揃って自然への加害者です。

    我々の命を生み出した大自然への地球への揃って加害者です。

    感謝もせずに、畏敬の念も捨て、傲慢に自然に挑戦をして来た加害者です。

    天に唾する行為をしたのは、我々です。




    我々は、国が在って生れて来たのではない。

    我々は、『天』・自然より命をこの世に享けたのですから、、、


    『陰』の徳性をもって『天』に心から向き合えば、

    国のせいにして済む事ではないと気が付くはずです。





    『陽』の偽性(ロジック)に従って、

    国家と云う枠内でその責任を論じる場合、

    たしかに国に責任があると云う事は間違いがありません。

    しかし、

    国は、そもそも民主主義下では、国民主権であるならば我々です。

    国の賠償金は、国民の税金からと云うのは自明の理です。

    全ての負担は、我々の上に降りかかって来ます。

    それを考えると、

    一番の責任は

    科学技術でもたらされた原発の恩恵を受けた便利で楽な生活の中で、

    近代合理主義に対して何の疑問も持たなかった、、、

    自分達が選んだ議員を甘やかして好きにさせた、、、

    あらゆる事に、のほほんと黙って見過ごしてしまった、

    そう、欲の満足を受け入れるままに生きた我々です。

        
    大地が、全てを受け入れるように、

    国民が、それぞれの力に応じて、

    最後は自分達の「苦」を受け入れるしかないのです。



    これを運命学で云えば、それぞれの運次第です。

    隣に住んでいる同士でも、運は違います。

    同じ家族でも、運命は違います。







    放射能が恐いのなら、放射能を遠ざけるだけではダメです。

    脱原発をしたいのなら、もう、気が付かなければ..。


    自然の中にありのままに在る「苦」そのものを受け入れる事です。

    「苦」そのままを、自分の命で受け入れる力を持つしかないのです。


    臆病に逃げてはダメですよ!

    運は決してあなたを逃がしてはくれませんよ!   あはは。

    運は、あなたが目の前の「苦」を受け切って行かない限り、

    逃げたつもりでも、その罪も加重されて、     あはは。

    あなたの子孫に代々継承されるだけです。

    これは、脅かしではありませんわよ。


    詳しくは、命の継承シリーズで、また。    ほほっ。







    最後に、もう一度、繰り返します。



    この『極陽』の近代的学問が産んだ火は、

    生命と生命の本体・自然を破壊するものだったのです。


    それはそうです。

    『極陽』の近代的自我の意識は、

    命の本源『陰』・「闇」を完璧なまでに無視をしている。




    だから、

    命を守るものを作れるはずがないのです。

     

    近代合理主義のもたらす物の豊かさが、

    色心に亘って、我々を幸せにする事はないでしょう。

    その美しく聞こえる言葉も、それが成就するはずはないのです。

    成就しない処か、物に幻惑されて有頂天になっている間に、

    最後は、命を破壊、抹殺する現象化へ収斂していくしかないのです。


    『陰』を無視し、命の本源を捨てた結果の当然の帰結です。

    近代合理主義自体のリズムが現象化した世界です。



    もう、気が付いてもいいのではありませんか?



    今日のなぞなぞ?


    原発は、近代合理主義の必然の結晶である。



    これ、お分りになっていただけたかしら?   ほほっ。







    記事が非常に長くなりました、、、


    更新が伸びた分、2回分位書いたでしょうか?  あはは。

    最後までお読みくださった事に、

    深く感謝申し上げます。


    暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛を、、、



    次回で、コメントへのお返事は一旦終わります。

    更新がひどく不定期になっております。

    記事の内容によって、

    思索を深めなければならない場合もありますので

    しばらく時間がかかる場合もあります。

    また、暇があれば山へ行きたくなるシーズンです!   あはは。

    ザックにパッキングしている時が、一番ワクワクします。

    ご了承ください!   ほほっ。

    では、次の更新まで、よき日々を !































    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。

       
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    No title

    やあ、長編の記事、
    おつかれさん!
    ひさしぶりに大砲が轟く中、
    何度も目をこすりながら拝読終了。
    ものすごい音だ、
    今後も記事が長くなるようなら、
    分けて読みましょう。

    破局という言葉ですが、頭にチラつきました。

    cosmosさんの頭の中は、それ、前提ですか?

    No title

    おはようございます~~♪
    本当に長編でこれだけの文章を書くのにどの位時間がかかると思うと・・・心して読まねばと思いつつなかなか理解できない私がいます。
    そこで部分部分の感想に・・・って長編でなくてもですが(。^p〇q^。)プッ
    私 近代化の奈落にどっぷり落ちこんでるタイプだと思います。
    ここから這い上がるには???
    でもだんだん歳とともに・・・少しづつ這い上がってきてるような気もします・・・本当か!?

    百合のお話 納得です。
    いつもよく見ると怖さを感じていました。
    皆 綺麗~~と言ってるけど なんか違うって・・・
    メドーセージも怖いんです(苦笑)

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    残暑お見舞い申し上げます~

    8月7日に、秋が立ちました、が日本中、異様な暑さがつづいています。
    なにやら省エネという言葉がどこかに行ったみたいな毎日クーラー漬けで過ごしています。
    これも地球温暖化、そのせいでもあるのでしょうね。
    いかがお過ごしでしょうか?


    今回の記事から感じたことは、
    決して世の中は時と共に良い方へ進んで行っているのではないな? と疑問を持っていたのが
    そう思う事が間違いではなかったと感じています。
    人は、賢くなって行っていないのですね!   

    欧米の近代化と比べると日本は、その弊害が深刻のような気がします。
    状況判断、手の打ち方が早い、変革をしようとしていると思います。
    そのちがいはどこから来ているのでしょうか?

    つぎの写真もたのしみです!

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    Re: No title

           鍵コメントさんへ


           > ではどうすればとなると、混乱してしまいます。

       
           たぶんですが、今日アップした記事に、そこの処を書いたつもりです。
           で、男性はいいのですよ、
           ただ、女性の生き方が崩れると、世の中が非常に危険です。
           陰徳を、誰が積むのか?と云う事です。
           比翼のように、男女の役割は厳然としてありますよね、
           

             やっと秋! ご自愛を!! e-266 coamos
                 

    Re: No title

           鍵コメントさんへ


           お久しぶりでございます!
           今日、アップした記事もどうですか?


            やっと秋! ご自愛を!! e-266 coamos

    Re: No title

    > やあ、長編の記事、
    > おつかれさん!
    > ひさしぶりに大砲が轟く中、
    > 何度も目をこすりながら拝読終了。
    > ものすごい音だ、
    > 今後も記事が長くなるようなら、
    > 分けて読みましょう。
    >
    > 破局という言葉ですが、頭にチラつきました。
    >
    > cosmosさんの頭の中は、それ、前提ですか?


    ★ 暑い夏も、終りそうです。 ホッとしますね!
    いつも、お心使いありがとうございます!

    さっそくですが、今日の記事に、
    ぞっくり長大編の記事を書かせていただきましたわ!
    また、目を擦りながら読んでくださいね!  あはは。
    もう、秋! なにかいい事、あったらいいですね?   


        
    やっと秋! ご自愛を!! e-266 coamos

    Re: No title

    > おはようございます~~♪
    > 本当に長編でこれだけの文章を書くのにどの位時間がかかると思うと・・・心して読まねばと思いつつなかなか理解できない私がいます。
    > そこで部分部分の感想に・・・って長編でなくてもですが(。^p〇q^。)プッ
    > 私 近代化の奈落にどっぷり落ちこんでるタイプだと思います。
    > ここから這い上がるには???
    > でもだんだん歳とともに・・・少しづつ這い上がってきてるような気もします・・・本当か!?


    ★ あはは! いつも読んでいただいてありがとうございます。
    振り返れば近代化の海を泳いでいる、、、アップアップしながらだけど、
    まっ、溺れてないから、いっか! みたいな?  同じですわ。
    でも、他人の悩みを聞いている時に、何が人間を不幸にしているのか
    見させていただいている時には、この近代化の個人主義やら道徳の些末さやら、、、
    心がドカッと痛みます。 憎っくきヤツと、ほんと思います!   あはは。



    > 百合のお話 納得です。
    > いつもよく見ると怖さを感じていました。
    > 皆 綺麗~~と言ってるけど なんか違うって・・・
    > メドーセージも怖いんです(苦笑)


    ★ おほ! 数少ない味方がいて、、、よかった!
    あの百合は、すごく怒っているのよね!
    何に怒っているのだろうって、、、
    きっと、何かあったのだろうかと、那須に行く度に思います。
    ちょっと、歴史を調べてみようかと思うくらい!    あはは。
    ソーセージに殺菌効果で入れるくらいだから、恐いわよね。  ああは。
    たくさんあれば、人も殺されるかも知れない? 毒があるのかな?   あああ。


       やっと秋! ご自愛を!! e-266 coamos

    Re: No title

    鍵コメントさんへ


    > 自然を恐れ敬う事を迷信じみた恥ずかしいと思っているのかも知れませんね。。


    近代合理主義が、その根元で断ち切っているから、
    その傲慢性が、科学や、学問へ近づく人間に伝染するのでしょうね。
    いわゆる、現代の「知性」と云われる部分から崩れて行くのだと思います。
    これが、今日の記事の、刀の切っ先、です。
    今、できれば、女には学問をさせたくないと思うわ。




    > ,,,,,ーさんと一時的な決別状態になりました。しばらく時間を空けることにしたのです。


    良い事ですね。目標は、不必要になる事です。



    > 「スピリチュアルカウンセリング」や「サイコセラピー」、「魂の成長」、「宇宙意識」など、こういったものはどのように受け取られていますでしょうか。


    あはは。まず、あっさり切りますと、お金儲け以外の何物でもありません。
    形態自体が、お金儲けです。
    スピリチュアルと言いながら、物欲的です。   あはは。



    たしかに、『陰』と云う世界は、人間の前頭葉が考えられない事ばかりがある世界です。
    仏教などの感応妙など、記事に書きましたが、
    我々、人間が知る事ができるのは『陰』の世界のほんの一部ですよ。
    それを、全部知っているようなそぶりをするのは、それ自体が欺瞞です。
    万が一、もし、知っていても、お金儲けの道具化をしない。
    それが、『陰』を知った人間の最低の智恵でしょう。
    私も、記事では書きにくそうにしか、書きません。
    字にするとウソになる。偽が付きまとうからです。


    そう云った事を、ちょっと知った位で、直ぐに商売にする、

    その根性は、資本主義ですね?     あはは。


    こう云った『陰』の世界については、はっきり、近代合理の言葉で表せないのです。
    それを、精神、霊、などキリスト教の言葉そのままを使って、
    出所を知って使っているのかしら!     あはは。
    まったく近代合理主義の世界の中のままです。

    ある意味、近代合理主義が産んだモノですね。   あはは。
    オカルトな部分を切り捨てる合理主義が、それでは全体観が持てない為に、
    こう云う形のものを生んでくるのだろうと思います。



       やっと秋! ご自愛を!! e-266  coamos

         

    Re: もうすぐ、終戦記念日ですね。

           鍵コメントさんへ


    > 脱原発ができない理由は、
    > 原子力でエネルギーを得て、便利で楽な生活をするためのほかにも、
    > 「戦争」が生み出したものであると思います。
    > 「絶対に戦争に勝って、相手国を絶対的に支配したい」
    > 「原子力を手に入れれば、戦争に有利で国のためになるのだ」という、強烈な欲望があるように感じます。


    そうですね。 戦争自体が、意識の「楽」の追求そのものなのです。

    自分の「楽」の為には他者の命を殺戮できるのが意識です。

    そして、日本に限って言えば、第9条で戦争放棄をしているので、

    戦争ができない状況下です。

    それでも原発を作ったのは、支配欲と云うよりも、

    我が国の資源のなさです。

    アメリカにその資源を封殺されたから、日本は、真珠湾を攻撃した。

    その時点では、それしか活路が無かったと云う状況だったのは間違いがない。

    それを避ける為には、資源を封殺されないように、

    外交をしっかりやって行く。必要がありますね。

    戦争と云うのは、自分がしたいからやると云うより、

    周りの大国の都合に押されて圧力をかけられて、そうせざるを得なくなるように

    追い込まれるのです。

    日露戦争は、日本は当時のヨーロッパに援助をしてもらって勝ちましたが、

    それは、その時の世界情勢が、日本とロシアを戦わせたかったのです。

    なぜ?  ロシアが、日本と戦争をしなければ、

    ロシアは、ヨーロッパへ進攻をする状況だったのです。

    そのロシアの目を日本へ向けさせる為に、ヨーロッパは日本を助けてくれました。

    ロスチャイルドは、日露戦争の日本側の戦費の為に、

    膨大な債権をヨーロッパで売ってっくれたのです。  

    だから日本が勝ったとも言えます。勝たせてもらったとも言えます。

    戦争をすると云うのは、外交の負けの結果です。

    単純な、支配したい云々の原因ではないのです。


      やっと秋! ご自愛を!! e-266 coamos

    Re: 残暑お見舞い申し上げます~

    > 8月7日に、秋が立ちました、が日本中、異様な暑さがつづいています。
    > なにやら省エネという言葉がどこかに行ったみたいな毎日クーラー漬けで過ごしています。
    > これも地球温暖化、そのせいでもあるのでしょうね。
    > いかがお過ごしでしょうか?
    >


    ★たいへんな熱さ、大丈夫でしたか? 
    地球温暖化のせいでしょうね。日本列島の周りの海の水温が上がっているそうです。
    大量な雨も、これから降るようになるはずです。
    『天』のお裁きですね!   あはは。



    > 今回の記事から感じたことは、
    > 決して世の中は時と共に良い方へ進んで行っているのではないな? と疑問を持っていたのが
    > そう思う事が間違いではなかったと感じています。
    > 人は、賢くなって行っていないのですね!   
    >
    > 欧米の近代化と比べると日本は、その弊害が深刻のような気がします。
    > 状況判断、手の打ち方が早い、変革をしようとしていると思います。
    > そのちがいはどこから来ているのでしょうか?
    >
    > つぎの写真もたのしみです!


    ★日本の近代化の深刻さは、今日の記事に書きました。
    また、お読みになってください!
    今日の写真も素敵でしょう?
    ほんとうに思い出になったトレッキングでした。


           やっと秋! ご自愛を!! e-266 coamos

    Re: No title

          鍵コメントさんへ


           いつもありがとうございます!
           今回の記事は、お尋ねのお答えも書いてあります。
           お読みなってください!


               やっと秋! ご自愛を!! e-266  coamos

    Re: No title

           鍵コメントさんへ


    > 局地的な豪雨、少雨による水不足、なにより今年の猛暑!
    > 自然界はしきりに何かサインを送ってきているのでしょうかね? 



    おっしゃる通りだと思います。
    鹿児島の方では、桜島が噴火をし、山陰は水害で、関東や中部は水甕が干上がっています。
    これらは、因果応報、も当たっていますが、
    我々の心法が、地球と云う自然の色法へそのまま感応している、、、
    自然を無視する文明の、そのままの願いが叶った?と云う事でしょう。

    日本は、四季があって、本当によかったですね。
    秋らしくて、ホッとします、、、  ほほっ。
    今日の記事、長すぎです。   あはは。
    お疲れなきよう、   あはは。
    読んでくださいね!


         やっと秋! ご自愛を!! e-266  coamos

    Re: No title

           鍵コメントさんへ


    > 近代的自我の魔力による東洋思想の利用
     巷でも東洋思想や陰陽五行や易を利用したセミナーや本ががあるらしいのですが、
     内容的に何かおかしいのでは??と思うことがあるのです。

    > 具体的に申し上げますと、、確かに五行で自然界や五臓六腑など森羅万象を説明するのですが
    「エーテル体」「アストラル体」「ハイアーセルフ」などの意味不明で形而上的な用語が出てきたり、
     神話を五行で解釈して「魂の成長」を論じ、錬金術が人間の魂の成長の過程だ、
     西洋も東洋も五行で見れば皆同じだ(根本的なキリスト教的文明観には触れず)など....
     何か現実離れしているというか、こちらで学ばせて頂いている小生から致しますと、
     気持ち悪さ?違和感?を感じるのです。
    >
    > いずれにしましても...こういったものから感じるのは、己の徳の無さ内省し天命や自然を恐れ敬い、天地の理に適った・・・ではなく、こういった東洋思想でさえも自らの「幸せを掴む!」という意思的な所作の手段にしているように感じるのです。。
    結局、自らを見つめる事無く、近代的自我を着込んだまま東洋を利用しているのでは?思います。
    これでは苦しんでいる人が藁をも掴む思いで、
    東洋に触れても、結局救われないでのはと心配になりました。 


    これは、このまま、他の人にお読みいただいたら、きっとお役にたつと思って、
    そのままにしました。

    お書きになっている内容、そのままよく正しく判断をされたと感心をしました。

    シュタイナーの哲学は、仏教の権教(これは、今日の記事で書いています。)の一部である
    修験道的な内容に似ていますし、内容がかぶさるのですね。
    エーテル体など、シュタイナーの人智学から抜き取って利用しているのだと思います。

    こう云うのを、仏教では〝法盗人(ほうぬすっと)”と言います。  あはは。

    昔から、こう云う輩がいたのです。

    放っておいたらいいのです。

    自分が惑わされないようにだけ、ご注意ください。  ほっ。

    それから、我々も、

    東洋思想を説明するのに、外来語や他の思想の言葉を使わないように

    しなければいけません。

    そうしないと、せっかくの智恵に偽をまぶす事になるからです。

    これには、毎回、苦労をしていますよ。

    適当な言葉がなかったら、そのままの言葉を書くようにしています。



    > 人間の心身とは不思議なのですね。


     そうですね。その通りです。
      よかったですね!


       やっと秋! ご自愛を!! e-266  coamos
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    家系・個人の運命鑑定
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