![]() 2017
12/23 10:45 |
☆ 東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 3. 美辞麗句 <自由>Category : 東洋的視座・陰陽相対の世界観
レイアウトの適正には、表示(V)の文字のサイズ(小)で、お読み下さい。
朝日に輝く槍ヶ岳 ![]() 2018年の新年が、あと数日で明けようとしています。 今年は、新年の記事以来一回の更新もせずに来ましたのに、 毎日訪れてくださった方々へ深く感謝申し上げます。 お世話になりました。 ありがとうございました。 2017年の年頭から 今年こそは、 ブログの記事の更新がたった一回なんて事になりませんように、、、と、 気にしながら心で願っては来たものの、 振り返ってみますと、やれやれ、やっぱりと云うのか、 ほほっ。 こうしてまたもや、暮だけの更新になってしまいました。 一昨年以来の過去3年間、 このように困った状態が続いているわけですが、 右端にある過去の更新履歴である 月別アーカイブを見ていただくとお分かりのように、 2015年から、記事の更新が年一回になってしまっています。 そうなる(2014年)までは、最低月一で、 東洋思想の記事の更新をして来ました。 それは、東洋の思想の叡智を広めたい と云う私の願望があるからなのですが、 それへの意欲は、現在、今でも変わりはありません。 じゃ、どうして更新が進まないのか、 以前のように、東洋思想の記事が書けないのか、 と云いますと、 実は、それを書きたい私の意識と、無意識とのせめぎあいがあって、 そう、毎日、無意識から吹き込んで来る風のようなものがあって、 意識が意図した記事を書こうにも、それ処じゃないのです。 無意識から来る風のようなものがあるって じゃ、それを記事にすれば? と、思うのですが、 それができれば苦労はしないわ。 あはは。 これが、ある意味、仕事が忙しい以上に、 ブログ記事の更新の障害になっています。 現在の状況は、 ★ 東洋思想の記事が書けない、 ★ 無意識から溢れるものが書けない、 この2重苦を味わっています。 ーーーーーーーーーー まず、 ★ 東洋思想の記事がかけない、 について、 意識と無意識がどう作用し合うのか、と云う観点から まえがきとして書いておこうと思います。 そうすれば、読者のみなさまに 意識と無意識の関係になじんでいただく事で、 運命と云うものの仕組みが分かるようになって、 西洋思想と東洋思想の違いを鮮明に分別できるようになれば、 近代合理主義への失望から東洋の叡智へ目覚めていただける のではないか、と信じております。 ーーーーーーーーーー ★ 東洋思想の記事がかけない、 一つ原因で思い当たるのは、2014~2015年、 私の中での大きな変化があったのだろうと思います。 だろう、だなんて、なんだか他人事のようですが、 変化があったのは、 私の意識の奥、無意識の中での事なので、 こうして文章を書いている私の意識には意識できぬ世界の事だからです。 そもそも意識のキャパは、 推量する、想像する、事ができる位のもので、 しかも、それは当たっていればいい位のもの? ほほっ。 意識と云うものは、時が経って後になって初めて思い出して ようやく納得をするような事です。 よく、歴史でも、大局的な判断は後世の人に任すと云う事が言われますが、 その通りです。 病気でも、時は薬、といいます。 皮相的に物事をとらえがちな意識が、 無意識の意図を知り、それらから学ぶ知恵とするには、 意識には多面的な経験が必要です。 それには、時間の経過が必要なのです。 運命学的には、 赤ん坊も生まれたばかりの時に、その運命は定まっているのですが それが、はっきり誰に目にも分かるようになるには、 18~20年の歳月が必要です。 このように歳月が、観えない物事を動かぬ現象とし、具象化します。 『時』が、無意識の意図を教えてくれます。 私の場合も、 私の意識が、その奥の無意識層での変化を、 このように客観的に書き表せるようになるまでには、 3年がかかったという事だと思います。 つまり、3年前の私の無意識で起こった変化と云うのは、 仕事柄、仏教や東洋運命学を常に傍らに置き、 職業としてのマナーや嗜好や趣味としてと云うよりも、 もっと深く、これに命を預けてもいいと信じるに足る思想として 東洋運命学へ信頼を寄せてしまっていた事で、 幼い頃より空気のように吸い込んで馴染んで来た近代合理主義は、 私の無意識の中で、完璧に否定されてしまったようです。 それも私の意識が気が付かない間に、無意識に、静かにです。 この無意識の中での変化が、 それは何時の頃かと振り返れば、2014、12、21、の記事の頃です。 その内容を一部抜粋をして、解説を加えてみます。 ーーーーーーーーーーーーーーー過去記事より コメントへのお返事 25. 近代合理主義の理紋からみる お墓 ① ・ ・ ・ ・ ・ ・ 絶対性を失った物質文明の中の「物」 詳しくは、上の記事を参照ください。 ↑ (クリック) この記事の中で ① 『陰』無意識界の否定 ② は、『陽』意識中心の世界観 を近代合理主義の理紋として挙げております。 その思想に潜在的に具わる必然的な思想の運とでも言いましょうか、、、 これが、思想の理紋です。 この理紋①、②が、 近代合理主義を受け入れた人間内部の人間性に歪みを起こす。 それが相貌となって人生に現れて来る。 相貌とは、顔形に顕われた氏素性、人相のようなものです。 思想の文字面に掲げられたロジックとは違います。 ★近代合理主義は、理紋①、②、の相貌が出て来ます。 具体的には、 次のような心身共に亘る『陽』=現象界における現象群です。 1. 徳性の鈍化 (権利、義務の主張から来る) 2. 苦を逃避する (意識が苦しむのを避ける) 3. 意識の楽、物の満足の追及 (意識中心、物質文明から来る) 4. 役割の消滅 (徳性の鈍化、自由、平等から来る) 5. 道徳性の後退 (能力至上主義から来る競争) 6. 男女の役割の消滅。 7. 男性のメス化。 (ここまでの結果として現れる) 8. 女性のオス化。 ( 〃 ) 9. 非婚。 (個人主義の徹底) 10. 晩婚。 (結婚の軽視) 11. 不妊の増加。 12. 不妊治療に拠った子供の増加。 13. 離婚運の継承。 14. 縦係累の絆の断絶。 15. 家族、家庭の消滅。 16. 家系絶家。 17. お墓の終焉。 18. 過去世、来世の否定から来る永遠観の破棄。 19. 社会の目的観の消失。 20. 創造性の喪失。 惰性的社会。 芸術の貧困。(無意識の無視から) 21. 社会に対する強い関心の無さ 22. 思想の衰退 23. 生の衰弱 24. 人類が居なくなるかも知れないとだけ言っておきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーー 過去記事よりの引用終わり 今からちょうど3年前になりますが、 よくここまでの事をはっきり記事にしたものだと、、、 あはは。 すっかり、近代合理主義を乗り越えた無意識が、 私の意識に書かせた内容です。 内容的にも、明らかに現在の社会の状況は、上の 17.の辺りまでの顕在化が起こっています。 18.は、死後や輪廻転生を省く現世主義が横行し、 19.は、何の為に努力をするのか社会の目的観の消失。 20.は、現在まだ、活力があるようには見えますが、 社会規範よりも個人の自由を尊重し、 自由がもたらす人間の欲望を解放し、 一人一人が自分の幸福を追求する事を重視し、 その為には、経済だ! イノベーション! それが進歩だと錯覚する物質文明の先には、 社会共通の規範が崩壊した荒れ野、ニヒリズムが待っている訳ですから、 当然の顛末でしょう。 今もその兆候はありますが芸術の衰退が著しくなり、 やがては創造性の喪失へと顕在化していくと思います。 24. これは究極の表現をしていますが、 近代化を深く取り入れた場合、生命の誕生が危うくなるかもしれない。 『陰』の抹殺からその生がゆがんで来る事から、 高度に近代化した民族は【妊の喪失】が進むはずです。 逆に、イスラム圏のように近代合理を阻む社会においては、 命の誕生は勢いが衰えないはずです。 これからは、 non近代化の思想、近代化のブレーキを包含した国家が 民族的にも繁栄していくのではないでしょうか。 東洋を守る使命のある日本は、イケイケドンドンを止めて、 金融主導のグローバリズムよりも、 見えない民族の価値規範、道徳規範を守り、 文明崩壊を食い止める真の保守の台頭が望まれます。 約3前に、このような記事を書いたという事は、 この時点で、私の中では、 近代合理主義のロジックが完全に崩れ去ってしまい、 空きができた意識の表層の隙間を埋めるように、 東洋的無意識のエネルギーがあふれ出るようになったのです。 おそらく、そのせいで、 従来の、東洋思想の記事を書こうとすると、 その溢れるエネルギーが吹き込んで来て邪魔をし、 まったく記事を書くことができなかったのです。 それは、無意識から、 ”今は、もっと大事な事を書くように!!! と、せめぎ立てられているような気がしていました。 ほほっ。 じゃ、 無意識界から溢れるものを記事にすればいいじゃん! ほんと、それができればいいのですが、、、 ★ 無意識から吹き込んで来て溢れるものが書けない、 先に述べた様に、書けない2重苦が、 もう3年間も! 続いていますので、 正直なところ、そんなに簡単に文章にできるような事かしらん? ほほっ。 と云うのは、 無意識が送って来る便りは、文字や言葉ではないのですよ。 それが、分かっていても、 その前段階の無意識からの衝動のようなもの、 さぁ~~っと吹き込む風のようなエネルギーを、 身近な言葉や語句で文章にするのは本当に難しいと感じています。 無意識からの便りを意識化、文字化できない状態が続いています。 言葉の壁、ここが、大きなハードルですね。=================★ 東洋を書く時に現代の言葉を使うジレンマ ーーーーーーーーーーーー★ 一般には言葉の壁とは、外国語と云う壁なのですが、 私が、ここで云う壁とは、近代合理の言葉の壁ですね。 だからと云って、 仏教や儒教の言葉をそのまま多用するのは、少なからぬ抵抗があって、 それには、どうしても、過去のものと云うイメージがありますから。 言葉については、又、いつか記事として書きたいと思っています。 西洋生まれの近代合理主義の持つ世界観、 それは、とりもなおさずキリスト教理の世界観そのままなのですが、 それは、世界を何でも2分割に分ける二元論の世界観です。 その世界観に基づいて生まれた西洋意識の言葉は、 人間と自然、精神と肉体、神と人間がバラバラと云う対立する存在です。 その語彙の含む世界の貧弱さ、意味内容の偏狭さです。 こんなものでは、 東洋的無意識からの便りを表現ができない。 と云うジレンマが、依然としてあります。 前置きが随分と長くなりましたが、 本論は、サラッといきたいものです。 ほほっ。 何せ一年にたった一回の更新ですから、 いつものように長くなりました場合は、 たびたびご訪問をしてくださって、分けてお読みなってくださいね。 今日の記事は、 ☆ 東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみる 3. 美辞麗句 ① 東洋的視座・陰陽相対の世界観から近代合理主義をみると、 近代合理の相貌は、どんなもの? 第3弾です。 シリーズ1. では、片目でした。 シリーズ2. では 「妊」の喪失でした。 近代合理主義のことを、 片目だとか、子供が生まれないとか、ひどい事を言っておいて、 今回は、美辞麗句! 美辞麗句、これが、近代合理主義の本性である。 今日は、と云うような記事になろうかと思います。 美 とか、 麗 とかの文字は、 言葉そのものの美しい、麗しいと云う意味だけでなく、 その裏に、怪しさや、 美や麗への疑いを暗示していますのよ。 ほほっ。 * 美辞麗句を調べますと 美しく飾った、聞いて心地よい言葉とあります。 甘い言葉 ・ 甘言 ・ 耳障りのよい言葉 ・ 耳当たりのよい言葉 ・ 口当たりのよい言葉 ・ 聞こえのよい言葉 ・。 人の心をくすぐるレトリック ・ リップサービス ・ 巧言令色 何気なく聞くと、とても魅力的に思えてしまう言葉のこと。だそうです。 東洋的視座・陰陽相対の世界観から見ると、 近代合理主義の相貌は人の心をくすぐるレトリック である。 ほほっ。 近代合理主義は人の心をくすぐるレトリック? ーーーーーーーーーーー★ 美辞麗句の意味に 人の心をくすぐるレトリック とありますが、 レトリックとは、 修辞学、美辞学のことで、 実質を伴わない表現上だけの言葉、表現の巧みな言葉の事です。 そういうものに、人間の心(意識)はくすぐられるのでしょう。 つまり、中身はないけれど感覚器官が喜びそうな? 意識(心)に受けがイイ言葉のようです。 それは、つまり、嘘 近代合理主義のロジックの中には、 人間の欲望が喜びそうな、好きそうなテーマやタイトルが! たとえば、 ほら、ほら、 平等、自由、永遠、と云う言葉などが、 まるで王冠に散りばめた宝石のようにキラキラ光を放って眩しい位! まるでキラキラネームみたいです。 これらは、みんな嘘? 中身のないレトリックなのでしょうか? 口を突いて出て来る時には白々しく無視をするようにしていますが よく考えてみると 近代合理主義から生まれたこれらの言葉やその概念は、 どこか、フワ! フワァ~として 足元が見えません。 当たり前ですね。 これらの言葉は外来語を翻訳した言葉で 我々は、その言葉の真意を知らぬままに、 勝手な日本人的な情緒で肉付けした解釈をして 中身の意味を膨らませてイメージをしています。 自由って、まるで何でも思い通りにしてもいいのね! すばらしいわ~って! あはは。 本当は、どう云う氏素性の言葉なのか知るべきですね。 そこで、今回は、 美辞麗句 の ① で (自由)という言葉の中身について取り上げておきます。 西洋哲学における(自由)について ーーーーーーー★ 1630年ごろの事です。 我々の住む東洋の端、日本列島から 遠く離れたヨーロッパにおいて、 近代は始まったとされています。 近代化とは、 キリスト教の神の権威で秩序立っていた宗教的社会から、 神を否定して人間が主役となるような世俗的な秩序の社会へ と云う大混乱の中から引き起こされた社会秩序の転換です。 社会秩序の支柱を何にするかと云う転換です。 社会秩序の根幹を、神から人間の意識へと転換をしたのです。 それは、神の権威による教会の抑圧から、 中世の暗黒時代まで続いた国王による封建制度を倒し、 その不確かな危機的状況の中で、 脱宗教化された世俗的秩序を作るために、 確かなものとしての”われ思うゆえの我” の存在を 社会秩序の確たる支柱にした事です。 近代合理主義の祖、デカルトが関心を持ったのは, 我の認識であり、我の精神作用だけでした。 彼の思想体系の中には、他者が存在をしていません。 思えば窮屈な彼の前頭葉の中だけの世界です。 デカルトのこの2点については、 又、詳しく記事を書く機会があると思います。 このヨーロッパでの近代化で生まれた自由という言葉 キラキラネームは、次のような特性を孕んでいます。 西洋の歴史が求めた自由は、 キリスト教の神の権威で秩序立っていた宗教的社会の枠組み、 いわゆる旧体制を壊して手に入れた自由です。 自分の意識が神に支配されないような枠組みを求めて 自己の意識を守る為に 自己の外に求めた自由でした。 自己意識の自由を防御する為に生まれた、 盾とも言える社会秩序としての言葉群です。 (自由)と言ったら、東洋人が直感する精神性の中での言葉ではなく、 自己の精神を守る外の環境を (こうあるべきだ)と規定する言葉です。 自己意識を神の支配から防御する盾のようなもの、 それが、(自由)のキラキラネームの氏素性なのです。 言い換えれば、 認識の主体である自分を変える必要はなく、 そのままの自分の精神の作用である認識によって、 都合よい環境を求めて行く(自由)なのです。 中世のキリスト教の神の権威に抑圧された当時の人間にとれば、 宗教的秩序の神の思し召しに従わずに 自分の精神の作用である我の認識によって真理をつかむ それこそが人間の自立であり = 神からの自立である。 それは 人間の精神の作用の確立である。 = それを保証する環境こそが(自由)なのです。 こう云う意味になろうかと思います。 いかがでしょうか? ここで、 サッカーで使うディフェンスと云う言葉を使います。 中世の暗黒時代の終わりまで続いた神の権威の支配から 人間である自己の意識をディフェンス(防護)して、 人間の自立を守る盾として、 自由と云う言葉が生まれたのです。 同じく近代化で生まれた他の権利、義務、人権と云う言葉群も 自己意識を中心とした人間の自立を確たるものにする為に キリストの神の支配を防御するディフェンシブな言葉群と言えるでしょう。 次の3つの表現は、 今後も近代合理主義の特徴として繰り返し味わう内容ですから。 どうか記憶に止めておいてください。 自己意識を中心 自由な自己意識を守る為 ディフェンシブな言葉群 東洋のパラダイムについて ーーーーーーー★ 遠く離れたヨーロッパにおいて近代が始まったとされる1630年ごろ、 我々の住む東洋の端の日本列島は、徳川幕府、 第3代将軍の家光の時代でした。 ヨーロッパで生まれた近代化のキラキラネーム 自由の概念を社会に実現する為に作られた近代法や制度を真似て 日本は明治時代に近代化を取り入れました。 しかし、日本のそれまでの歴史において、 広くは東洋思想全体に、 西洋の自由と同じ意味を持つ言葉はありません。 平等、愛、人権、 もそうです。 現在、近代化以降の私たちは、日本国民として、 学校教育で教えられて受け入れ、社会の常識として身に付けて従い、 一般的なその言葉の概念を理解したつもりにはなっています。 しかし、 東洋のど真ん中からこれらの言葉の真贋を観れば、 一体、これはなんじゃ? ですよ! あはは。 じゃあ、東洋は封建制度のまま? 服従と不自由、不平等である事をあきらめて、ずっと我慢を? あはは。 確かに、そうですね。 仏教でも浄土宗などの爾前教においてはその通りの教えだし、 朱子学なども、忠だ、義だ、と? ほほっ。 でも本来の究極の仏教のパラダイムは、ぜんぜん違っています。 どう違うのか? それについては、東洋の叡智のホンの一端を 愚考させていただきますと、 東洋における最高位の仏(釈迦ではない)の御名前の一つに 自受用身(じじゅゆうしん)と云うのがあります。 自ら欲しいままに受け用いる身、と訳すのですが、 これが、最高に自由な境地であると謂われています。 どんな自由かと云いますと、 自らこの宇宙の広大なる(真理である)法理の楽を好きなだけ 欲するがままに受けて他者へ与えることができる仏身と云う事です。 しかも、自分の主観の智と、自分を取り巻く環境との真理とが 境智冥合(きょうちみょうごう)した仏身を謂います。 つまり、自分の欲するままに起こすあらゆる事象が、 対する相手や周囲とのトラブルを起こす事もなく受け容れられて、 客観世界の真理に合致する楽しさが、この上ない、という事です。 これは、よく考えてみると、 誰もが願う事ではないでしょうか? あは。 自分の欲することで誰も傷つける事なく、共通の真理に合致している。 ステキな事ばかりで、なんて楽しいんだっ! あはは。 自分も相手も救われる! お互いに感謝、報恩の思いが溢れる! ありえない、うそみたい、 あはは。 それが仏法ではアリエルと謂うのですよっ。 ほほっ。 ご覧のように、驚くのは、 西洋に云う処の(自分の自由)だけと云う概念とは違って、 東洋が求めた自由の境地は、 自分の外に向かっての自由度ではなく、 外からの防御としての自由を確立しようという事ではなく、 この欲しいがままに受け用いる力が、 相手側という客観世界へも及んでいるという事です。 自他共の幸福、 自然との調和の上にある人間存在なのです。 広くは宇宙から祝福される事が真の自由であると 教えてくれているようです。 これは、西洋の意識が思考した自由の概念よりも途方もなく広く深く、 同時に、非常に身近な不幸を無くす事ができると云う事です。 普通の人間の思考では想像もつかないありさまですよね。 ほほっ。 ここで、ちょっと質問なのですが、 どちらの自由の内容がレベルが高い?と云う問題の前に、 どちらの自由も売っている商品だとして、 あなたが、どちらを買いますか? と尋ねられたら、 あなたは、どちらの自由を選びますか? あはっは。 西洋の自由の方がわかり易い、ですね。 自分は変わらなくてもいいから簡単? 受け入れやすい、 ほほっ。 法や制度を変えて自由になれるというキャッチコピーで、 それは楽でいいや~なんて、 人間の欲望に訴求する効果はあるかもしれませんね? ほっ。 我々は、近代合理主義の思想で 本当に、この社会に自由を実現する事ができるのですか? 普遍的価値と云う以上は、 地球上の誰もが一人残らずに、自由になれるの? 最近の脳科学で 意識は自分の生存が脅かされないような刺激の方を 都合のいい楽な受け取り方ができる刺激の方を 選んでしまう事が判って来ています。 やっぱり、なっとくするよ、 ねぇ。 あはは。 脳は、太古の昔から、 生命をいかにして守ろうかと四苦八苦して発達して来たはずですから、 外界が心地いい事は、生命にとって好都合で安全だと、 笑顔で受け容れるようにシナプスを繋いで来たのかも知れません。 脳って賢いばかりじゃないのね。 脳って馬鹿 自分の意識が嘘を付いてまで、自分をダマす脳は、 生物の中でも高等に発達した人間の脳だけでしょうね。 だからって言ったって、 高等に発達しているからって、 脳が正しいという事じゃないのよ。 なんとか生きながらえる工夫を積み重ねて来たって事で、 脳も必死に日々の現実の中で、 生きる為のやりくりをやっているって事。 胡麻化す事も、生きる為の方便って云う発達もありですよ。 だから、 脳はいつも正しいと云う思い込みを持っていたい人は、 そこまで自惚れてまで、帳消しにしたい現実や、 忘れたい過去があるって云う事なんでしょう。 人の生存欲には、 どっかで安心をして長生きをする為に、 苦しさや辛さから逃れたい、忘れたい欲望があるって云う事です。 人は中身がない表現上だけの言葉でも、 耳障りがよくて、口当たりがよくて、聞いて心地よければ、 それを受け入れる ーーー それを好ましいと思うだけでなく、 そう、好き嫌いだけならまだ許せるのですが、 恐ろしい事に、まるで、邪教を信じるように --- それを真実と受け入れてしまうという事です。 脳内だって、嘘を真実だと受け入れてしまう不合理がある。 歴史を振り返れば、 合理的な事柄だけが勝負に勝って来た訳ではありません。 危機を乗り越えられたのは合理的だったからだと思うのは、 人間の脳が、都合の悪い事を見ない様にして、 意識しない様にして、説明が付くその理屈を好むからではないでしょうか。 人間の意識は、言葉で説明できないものは覚知できないからです。 生活における全く不合理にしか思えない事、 そう云った共同社会の中での経験から切り離せない知識は、 必ず、理屈では割り切れない他者の存在があったはずです。 それに反して、 近代合理主義の祖、デカルトが関心を寄せた世界は、 自己の意識の精神の中だけです。 その自己の意識の尊厳性を守る仕組みを作ろうとして、 自己の外に(自由)と云うロジカルな盾を構築したのです。 嘘さえ真実と信じてしまう脳内の精神作用があるとは、 さすがの彼も気が付きもしなかったでしょう。 彼の構築した近代合理主義と云うイズムのお陰で進歩をした科学が、 自己の脳内の不確かさを暴露をしました。 科学が実証した結論から言えば、 今にして思えば、 自己の脳内の意識活動こそ不確かなのです。 ヨーロッパでの近代化、 それをアメリカ経由で受け入れた日本、 その近代化の過程で、 意識できるものには目を見張って来たかもしれないけれど、 見えないものは、意識の隙間を通して知らぬ間に切り捨て、 自己認識で合理に合格したものだけをチョイスして来た結果、 社会全体で信頼を寄せられる確かなもの 他者の存在、共通の善についての対話、を失っていきました。 我々は、生きて行く事の意味も目的も消滅したストリートを一人で歩き 通りに溢れる消費財を消費してゴミにする行為しかできなくなっています。 それが、経済だと言うのだそうです。 国を挙げてゴミを生産する活動をもっとしろと奨励されています。 私たちは経済の為に生きていくのですか? その為に消費をしてゴミを生産すればいいのですね!? あはは。 これでいいのですか? ストリートには子供の姿が、声が無くなりました。 ちょっと長くなったついでに、 老婆心で、お節介心で申し上げましょう。 ほほっ。 マーケティングで計算され尽くしたエサばかりを与え続けられ、 リスクや効率追求の世間の価値観に躾けられてしまった結果、 すっかり原野を生きる動物としての生の衝動が弱くなった若者が、 市場でのカスタマーとして飼いならされた居心地の良さで、 本来の動物としてのオスとメスとしての 命の大自然を失って行く姿は、 非常にイタイ! 痛々しいものがあります。 共同社会生活の最小単位としての家族と云う不合理な負担より、 自由で守られた自己意識の方が大事と云う まったく合理的な判断をした結果、 恋愛や結婚を避ける傾向にあると云うアンケート結果がありました。 この自己意識にとっての不合理を避ける姿には、 すでに絶滅危惧種になっている日本人の影を見る思いがします。 これが、自己意識の認識を中心にして生きる終末の姿ではないかと、 危惧するものです。 ご近所を見渡せば、 あそこも、そちらも、こちらでも、 未婚のままの30代、40代の息子や娘が 今でもご両親や未亡人になられた母親と同居がうかがえる現実です。 親子の仲がよろしくてよろしいのでしょうが、 ほほっ。 孤室で一生を過ごしてしまう若者も多いのではないでしょうか。 知っているオーナーの所有するワンルームマンションですが、 何十もある一棟の各部屋が全部、独身の40代の男女が 入居者なのだそうです。 そこは、30年後、老人棟になってしまうという事ですね。 世話をする自治体はどうするのでしょうか? 今年も出生率は最低、 国内で生まれた 日本人の赤ちゃんは94万1千人でした。 2年連続で、100万人を下回り、 統計の残る1899 年以降、最少を更新する見通しだそうです。 おかしくはないですか? 教育費だけの問題とは思えない心境になります。 過っての日本の家族の例ですが、 戦後の食うや食わずの焼け野原の上で、 服役した兵士、当然ですが無職の男である夫を迎えて、 今に云うベビーブームと言われる爆発的な出生数を記録しました。 かっての人類は、 いつも食料を求めて原野を移動し続け 何もない処から、すべてを始めたのです。 何でも計算づくで、便利のより便利を寄せ集めた暮らしの 合理を突き詰めた枠内での認識が、 新たな命をもたらし、幸せを築く事にはならないと云う事を 思い出さなくてはなりません。 他者のいない、思惟する自我だけに基盤を置く 近代合理主義の相貌は、レトリックである。 ーーーーーーーーーー 長い記事を、最後までお読みいただきありがとうございました。 私が無意識から受け取った風を、 どこまで、そのまま文字にして届けられたかは問題ですが、 ひょっとしたら、そのままの風では突風過ぎて 何もかもが飛んで行ってしまったかもしれません。 このくらいで良かったのかもと、 無意識に許してもらおうと思っています。 次の更新は、無意識のままに、 私の意識が言葉にできるかどうかが勝負でございます。 あはは。 それではまた、、、、、、 みなさま 良いお年をお迎えください。 -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 記事は無断転用なさいませんように、お願いします。 [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。 どうぞ宜しくお願いします。
|
Comment |
No title時たま覗いていたんですが この年末は当たりでした。更新にご苦労なさってるようすですね。
生まれてこの方、近代合理主義の世の中で生きてきたためなんら問題意識を持ちませんでした、 が記事を読んで 少し暗澹たる気持ちになりました。同僚に独身の奴多いですよ。 もう個人の問題じゃないですよね、 社会とか国のことを考えれば 皆真っ当な生き方をやっぱり考えるべきかなと思います。 管理人のみ閲覧できますこのコメントは管理人のみ閲覧できます
|
Trackback |