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    《 近代化の影 2.》       自由 と 平等   

    Category : 運命学と近代化
    夢のなかのアイスクリーム


    おいしそう~

    でも食べられない・・・夢のなかのアイスクリーム










    今日は、ひさしぶりの《近代化の影 》のシリーズです。 

    その2.になります。



    3月5日の《近代化の影 1.》から、約4ヵ月ぶりです。 

    長い記事になりそうな予感が、  あはは。

    何度かに分けて、お読みになってくださいね。




    わが国の近代化以後に、

    西洋の言葉を翻訳して入って来た言葉に、自由 と 平等があります。 



    元々は、「自由、平等、友愛」( Liberté, Égalité, Fraternité)、

    その起源はフランス革命にあり、革命期のスローガンの中の1つで、

    フランス共和国の標語です。



    友愛は、あの~鳩ぽっぽさんの家系の標語? 

    と、思ってたりして、、、!  あは。




    ちょっと世界史的に復習をしますと、

    あの有名なマリーアントワネットをギロチンに架けたフランス革命後、


    1789年8月26日、憲法制定への第一段階として採択された

    フランス人権宣言の中に、これらの言葉はあります。

    人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、

    所有権の神聖など

    17条からなるフランス革命の基本原則を記したものです。



    (以下~★★まで、ウィキペディアを参考 )

    自由については、こう定義しています。

    自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行う属人的な権利である。

    それは自然を原則とし、正義を規則とし、法を防壁とする。

    その倫理的な限界は、この格言にある通りである。

    ――己の欲せざる所は人に施すなかれ。


    平等については、こう定義しています。

    平等とは、保護を与えるにせよ、罰を与えるにせよ、

    法は全ての人間に対して同一であるということである。 

    生まれによるどのような差別も、また権力のどのような世襲も

    許されない。



    ちなみに、友愛は、そんなに強く私たちに印象を与えないようです。

    それは、

    自由と平等が自分たちの権利であると喜んで受け取られた一方で、

    友愛は、他者に対して負う義務=倫理的な臭いがありますから、

    単純に

    喜びと共に受け入れられない心の側面があるのかもしれませんね。

    人は、倫理的なことはお好きじゃないのです?   ほほ!   ★★
     



    現代人は( 私も含めてですが、、、ほほ。) おしゃべり好き、

    しゃべり過ぎ、意味のない会話が多いですね。

    意味もろくに分かっていない言葉を知ったかぶりをしてしゃべります。 


    あはは。


    かえってお互いの意志の疎通を阻害してしまう時もあり、誤解も生む。

    逆に、何もかも言葉にしない方が、いい場合もある。  



    チャップリンは無声映画を、こだわって、多くの作品を製作しました。


    その理由は、

    「英語は、英語圏の人にしか伝わらない。」と言ったそうです。




    そのように言葉は、ある規定をします。

    言葉の意味を深く考えもしないで使っている知らぬ間に、

    その言葉の世界の中へ私たちを無理やり閉じ込めます。 

    私たちの日常の生活をすら、縛ります。



    たとえば、

    人間は、自由で平等である事が、偏って美化され拡大解釈され過ぎて、

    他人よりも少しでも不自由を感じた時、不幸感にさいなまれたり、 あは!

    自分のわがままを通す為に、平等である、とか

    子供のような主張をしたりします。



    履き違えもいいところなのですが、

    自由 と 平等 と云う言葉があるからだけで、

    単純にどこにでも、その実体がある。と思うのは間違いです。 




    くりかえします! 

    言葉だけあって、

    この天下( 宇宙・自然 )に、その内実の存在(実体)がない

    虚しい言葉が多いと云う事に、


    お気づきですか?





    そして、

    常に実体をともなう言葉なら、

    それを一生と云う時間を費やして追いかけても価値がある、

    仕方がないところですが、

    元々実体がないものを、あると信じて生きるとしたら?

    むなしい、無駄な時間だと言わざるを得ません。



    その虚と実をわきまえて、この言葉を使っているのだろうか?




    と云うのは、今の私たちが、当たり前に憧れたり、目標にしたり、

    実現をしようとしている世界が、本当に実在するのだろうか?



    本当に実在しないものに対して、

    私たちは、努力をし、時を懸けて、時には、命までを掛けて、

    手に入れようとしているのではないか? 



    実際に、言葉に内実を込めるのは人間なのですが、

    ええ、まぁ、その人間が、存在が薄くなっているようなので、、、あは!



    今の世相を見るにつけ 頭の周りを飛ぶ蚊のように気になっております。






    ちょっと横道に逸れたお話をします。


    私の知人に、大メーカーの工場長をしている男性がおります。 

    ずいぶん前ですが、こう質問をされた事があります。

    「 なぜ、工場に”安全第一”と掲げるのか? 分かりますか?」


    私は、自分でも、面白くも何もないと思いながら、

    次のように、答えました。


    「 安全が一番大事だと云う事だから? 」と。   あはは。


    その方も、あはは~と笑いながら、こう言われました。


    「それはそうだが、工場と云う場所には、もともと安全はない。 

    その場に一番欠けているものを表わしています。

    だから、それを意識して作り出すようにするためです。

    工場と云う場所は安全が存在する場ではないから、

    わざわざ標語を掲げる必要があるのです。」


    私、「 あ、なるほど! そうですね! 」





    お分かりになりますか.....?      




    有史以来、

    人類はいろいろな政治形態を経験して来ましたけれど、

    未だに、”自由 ・平等 ”と唱えなければいけないと云う事は、

    現実のこの社会に、それが一番ないものなのだ、と云う事です。  

    ひとつのロジックです。




    この世には、不自由と不平等が溢れるばかりにあって、

    自由と平等は、この世に一番欠けているものだから?

    本当に欠けているのか? 

    実は、もともと無いのでは ? そんなものは自然にないのだわ!

    さぁ、大変です!  自由と平等がないなんて!     あはは。






    一度、お考えになってくださいね。 

    あるのか?  ないのか?      




    寝苦しい夜だから、アイスクリームが食べたい。 

    夢の中に出て来たアイスクリーム!

    夢の中のアイスクリームなんて! 食べた事がないから、、、

    食べたいと思うのでしょう。



    そう、とっても美味しそう!  けれど、

    でも、本当に自由と平等を食べて、その味を、知っている人はいない・・・

    食べようとすると消えていく、、、、、  







    つまり、不自由と不平等が溢れている(この世)の実感から、

    人間の意識が作った、いかにも西洋二元論らしい言葉です。



    Aである。 非Aである。  そのどちらかだけを引っ張り出す。 


    不自由より自由の方が、差別より平等の方が、受け入られやすいし、、、

    そう云うスローガンは、内実より、耳が、受け入れてしまうわ! 

    心が! ね。


    そういった観念的な、夢見る言葉は、ゴミほど多いでしょう?  あは!
       
    常に、西洋的言葉は、対立するロジックを作り、言葉で遊ぶのですね。


    西洋文明は、人類の想像力の結晶ではないかと...    




    どうしてこうなのだろう?  

    あまりにも上手くお話をするから、嘘だって見分けがつかない。

    話せば話すほど、真実から遠くなるのが、分からないのかしら?


    ほら! 自由には、義務が裏表にあるのだとか...

    自由と平等とは、同時に成立しない。とか...

    本当に論争が好きですね。 







    このブログの目的は、

    西洋文明の大波に洗われている日本の今の現状を、

    このままでいいのだろうか? 

    大きな穴が開いたような不安を抱えて、

    何とかしたいと思って記事を書いています。 



    それは、おおげさな思想の問題と云うよりも、

    我々の生活の問題であり、個人的な人生に表われる姿であり、

    真の満足感の追求なのです。 


    アメリカやヨーロッパの人々の考え方、生き方を批判する目的ではなく、

    西洋思想の「根」= キリスト教自体を受け入れないで

    西洋的思考方法「花」だけを利用している半端な日本人に対してです。






    なぜ、西洋文明の波に洗われている事が良くないのか?




    それは日本が、明治維新で西洋化を受け入れた時に、

    キリスト教そのものを受容して、その信仰を深める事で、

    日本の西洋化を進めていったのなら、

    あらゆる分野がキリスト教思想の反映した社会に切り替わり、

    社会や家庭における道徳が、

    キリスト教徒としての道徳を守らざるを得ない社会になったでしょう。




    後々、ほんとうに日本にとって不幸な事は、

    その当時の明治政府が、 

    欧米列強の一神教のキリスト教に対抗して、

    政府の組織の中に、国家神道という新しい宗教を作った事です。



    そして、キリスト教と云う宗教を除外した

    科学技術や進んだ知識だけを西洋から取り入れるという

    日本にとって二重構造になる近代化を行ったわけです。 



    これは真の意味で日本の西欧化を計るというよりも、

    西欧の都合のいいところだけを利用したハウツーものです。

    つまり、このやり方は、低俗なの。 恥ずかしいくらいです。 




    日本は、過去の歴史においては、もっと正々堂々としています。


    朝鮮を真似る時には、朝鮮から儒教を取り入れ、そして漢字を用い、

    あるいは、政治制度を真似る時には、

    仏教を学び、仏そのものを受け入れて来ました。 




    だからと云って、日本が

    キリスト教的社会になれば良かったと、そう思っている訳ではないのです。




    明治維新以降の日本は、欺瞞的です。

    素裸は、日本の伝統的な神道と天皇を利用した新興宗教の国家神道。

    その上に、西洋文明の技術と学問を盗んで装って来たわけです。



    例えて云えば、

    頭は鉄製なら、からだは木製、手足は石で作ったのです。

    まったくの支離滅裂、人だったら、健全な人格と言えないでしょう。


    人付き合いでは、こういう人なら警戒をします。  

    そんな状態ですから、わが国は大戦へ突っ込んで負けます。


    それはそうでしょうね!

    まともな事ができるとは思えない。

    自己欺瞞は、返ってまわりの渦に巻き込まれます。

    本当の自己を失っている。嘘のかたまりなのですから.. 。

    心身が統一されていないから、何の判断も間違ってくる。

    だから、戦う前から負けは決まっていたはずです。
     



    その上、GHQの占領政策で、

    戦争を起こした危険な宗教、思想だと云う事で、

    急ごしらえの国家神道なる似非宗教は禁止されました。



    これは、仕方ないでしょうね。 

    外国の戦勝国からなる占領軍に解体されて消える宗教なんて、

    初めからタカが知れているのです。

    日本人の心の根にはなれなかったのです。

    宗教と云うからには弾圧を逃れてでも信仰を貫いたキリシタンのように、

    地下に潜っても、信仰を捨てないのが本当です。



    我々に、国家神道は残っていますか?  ないですね。

    その程度のもので、戦争をしたのだから呆れます。




    日本は、上に揺れ、下に揺れ、揺れてゆられて、、、


    過去の精神的な伝統を失い、心が空っぽになりました。

    今現在は、頭・精神=『陰』のないまま、

    制度や法律=『陽』のみで国を何とかしようとしています。




    ーーーーーー  なんとかなりませんね。

    今は、政治も経済もあてどなく浮遊しています。 



    外交だって、そうです。


    自己の価値観は、自己の信条体系です。

    つまり自己の良心です。

    良心がある人と人とが、初めて認め合えるのです。

    そこに真の人間関係を築く可能性が生まれるわけです。


    認め合った土台の上に、お互いの利益を守る事ができるのですよ。


    自己の価値観を失った国家が、どう云う外交をするのですか?

    日本は、国益を守る事などできるはずもないでしょう。





    まるで木の葉のように、他国の国益の波間に翻弄されるだけでしょう。 


    わが国は、頭が無い国ですから、目や耳という五感のない国体で、

    手や足で何をまさぐっているのでしょうか? 

    お金だけをまさぐっているのでしょうか? 

    薄っぺらい、吹けば飛ぶような...




    それに引き換え、

    真の信仰の新天地を求めたピューリタンの信仰を持つアメリカの建国に、

    わが国は、国家の骨組みから劣ってしまった。 



    フランス革命で、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、

    所有権の神聖などの基本原則を明文化した(意識化した)フランスも、

    その建国の筋は、ハッキリとしています。



    わが国は、国が拠って立つ理念の普遍性で負けているのです。


    なにをやっても、これじゃポチか、丁稚にしかなれない!





    日本の歴史や伝統から見ると、今の日本は中味と外が違うのです。

    今は、その中味すらも崩壊している。


    個人だって、その未来を作っていくのは、中味の深さです。

    中味のない国の政治は過去に囚われて、自分の未来を作れない。

    だから、何も決められないのです。






    西洋の衣を着て、中味は空洞。

    142年前に、わが国は、頭で近代化の学問を、手にそろばん(経済)を、 

    (そう云えば、福沢諭吉の学問のススメには、これからの時代は、

      学問とそろばんだと、そう書いてありましたっけ )

    これは、生きていく為には、最低の手段の選択です。 


    衣食住の為に、心を捨てろ、と。


    ひどい、、、





    心は、根無し草=廃墟である事を選択したのです。 

    3.11の津波の惨状は、

    我々の本質の中に、すでに142年前に、実現をしていました。

    心の眼は、眼前の荒涼とした惨状をずっと以前から見て来たはずです。 




    あろうことか、

    現代でも、知識人と言われる人は、武士道こそが日本の魂であると、、、

    しかし、

    明治からの知識人に武士道をほめ称える資格があるのですか?



    わが国は、

    その空洞を、キリスト教で埋める気はさらさら無いようです。

    江戸時代の檀家制度で形骸化した仏教に戻っても仕方がない。

    国家神道と云う官製の新興宗教は、お払い箱になっている。


    だから、日本が西洋文明の波に洗われている事が、困ることなのです。


    これは、自己欺瞞以外の何者でもありません。    

    自己欺瞞の本質は、自分を取り巻く現実の因果関係において

    自分の責任を切断してしまい、

    自分に都合の良い想像上の架空の幻想を脳の中に作り続ける事です。

    その観念の中で行ったり来たりを繰り返すだけです。

    ゆえに、真の現実感を失います。

    ゆえに、真の現実対応ができません。 

    すべて、自分さえ良かったらいい勝手な意識の仕業なのです。

    無意識に蓋をし、都合の悪い事だけを無意識に押し付けます。



    個人における自己欺瞞は、個人の人生の破綻に行き着きます。

    国の自己欺瞞の先は ?  どこへ行き着くのでしょうか?



    あろう事か! 

    日本は、『陰』、無意識の世界を大事にしない上に、

    無意識に、イヤな事だけを押し付け続けています。

    (まるで、身勝手な男の論理の押し付けみたい~!  あはは。

    これじゃ、夫婦関係は破綻をします。 離婚するかも...?)



    国の社会破綻。

    国民を守れない。 国益を守れない。 国境を守れない。

    世界の中で存在が破綻します。






    ただ、うつむいて技術だけですか?

    しっかりして!  日本!






    前置きが長くなりました。

    やっと本文です。  


    欺瞞が満ち溢れている日本に流布している西洋文明の言葉、

    ” 自由と平等 ”についてです。 
     


     ほっ!  





    もう、自分の正体すら分からなくなっている日本中で、

    気楽におしゃべりにも出てくる自由と平等とは、

    一体、何なのでしょうか?


    今は、なんだって自由でしょう?

    だれだって平等なんだから !


    この状況を、言葉の内実の混乱と言わずして何と言うのか?

    言葉が、軽く使われて、

    まるでゴミのように捨てられている我々日本人の日常です。





    ヨーロッパにおいては、前述のように歴史があり、

    キリスト教の神や王権の呪縛からの自由であり平等であったのです。



    西欧の自由と平等には、それなりの実体があります。

    二元論の範疇に押し込んだ、自由 と 平等ですが.....






    人として生まれ、その人が集まって社会を作り生きていく時に、

    人が、人のためにルールを作ります。 

    それが憲法、

    それは、人間が人間の為に作るのですから、

    人をみんな同じように扱う事が、大前提になりましょう。



    しかし、そうは言っていられない国や法律はあります。


    つまり、

    権力者のエゴや欲望の達成の為に、不平等なルールが勝手に作られて、

    権力者以外の人を差別、利用し、搾取する法律が存在します。

    今の地球上にも、そう云う段階の国があります。



    そう云う段階から、次の段階へと進むステップに、

    たしかに、言葉で云う処の自由 と 平等の言葉は掲げられます。


    安全のない工場に、安全第一、と云う標語が掲げられるようにです。


    人間は、人間に虐げられ、人間に傷つけられ、人間に差別されて、 

    苦しみ、悩み、戦って、

    観念の中に、やっとこの世に欠けているものを、

    発見し、言葉で表わす事ができたのでした。。 。




    苦しみの果てに、自己を救おうとする意識が生み出した概念です。




    それも、まだ、観念の中、

    意識の作った本の題名、第一章が書かれたばかりです。

    人間の脳の前頭葉が、シナプスをつないで探り当てた言葉です。






    これらは、東洋的な観点からは、部分的な知見にしか過ぎません。



    簡単に言うと、意識が作り上げたものは、

    それだけでは、現実には存在する事はありません。

    存在をすると一応の仮定をして、あるロジックを構築したものです。 




    梯子をはずされた。その梯子なのです。

    ロジックとは、梯子を登るための梯子、またその為の梯子。

    梯子、はしご、はしご、梯子の為の梯子、、、

    何の為のはしご? 天国への梯子でしょうか?







    東洋の思想の中には、自由、平等、このような概念はありません。



    自然と人間が、一体で、その調和の姿を中庸と云い、

    その為には、

    人間の欲望を『天』と調和する処まで節する事を知恵と考える体質には、

    人間が自由と平等である状態など必要ない。

    望んでいないのです。 




    西洋の、ある、とか、ない、とかの概念とは違います。


    あの地震と津波の力は、ものすごいエネルギーでした。

    『陽』となって具現しました。



    しかし、今はひっそりと、眼前にはありません。

    台風もそうです。

    『陰』となって意識には捉えられません。


    地震や津波が、現象となって出て来ていない。

    つまり、無意識の世界の中へ隠れている。



    これで地震や津波は無い、とは言わないでしょう?

    地震や津波のエネルギー、これは存在します。

    観念の中の、意識の中だけの、夢の中の力ではなく存在します。  



    自然とは、そう云う存在である。 


    東洋における本来の自然観から、

    『陰』の世界からありのままの自然を観れば、

    存在する「生命」のレベルでは、もの皆、すべて平等であるけれども、


    『陽』の世界では、あらゆる生物や物は、一切が、平等ではありません。



    『陽』は、差別相のある世界なのです。 現象世界です。 




    その姿、形、種類、生命活動における条件は、バラバラ、さまざまです。

    命が存在する場所、土地、気候、温暖、等、

    個々には、序列があり、差別があり、長幼があり、能力の差があります。



    平等ではない。と云う事が、『陽』の世界の常識です。







    その差別相を表わしている世界が、『世間』である。

    この世である、この生きて行く社会である。






    植物においても、種が落ちて芽を出す土地でさえさまざま、

    『天』から与えられた性質、姿、力は、決して同じではありません。

    差別、序列が当たり前なのです。


    その表に表れた差別相、それが現出しているこの世のありさまを

    仏法では、『世間』せけんと言います。



    「間」とは、個々の差と差、その違いであります。

    この世は、あらゆる差別相を表わしながら生きて行く場所である。

    それが、「世」です。



    あらゆる思い通りにならない不自由な苦しみ、

    人がこの世の中で受ける差別の苦しみ、


    これらを、東洋の叡智、仏教では、『苦』と言います。

    四苦八苦、あらゆる『苦』です。 

    これは、本当に、私たちの命(心と肉体)に存在しています。




    観念の中だけにあるとか、偽の存在ではありませんね。

    現実の体や心=命を痛め、苛め、傷つける実体を持つものです。


    東洋では、この苦からの開放を、目指しました。

    このあらゆる苦からの開放された状態を、仮に丸い球体とします。

    ある側面から見た球体の観察観が、

    ――――― 西洋的価値の「自由」かもしれない。

    また別の側面から見た球体の観察観が、

    ――――― 西洋的価値の「平等」かもしれない。


    だから、部分知と申し上げたのです。 

    東洋から、西洋を観ると、そう捉えられると思います。


    これこそが、東洋の叡智です。 





    フランス人権宣言にある自由と平等とは、

    自然に基ずく「法」に限定されるとしています。



    今、 真実そうに見えても、いつ崩れるかどうか、わからないもの。


    ”人権”と云う概念も、そうです。


    日本国の憲法に書かれた言葉であったとしても、

    日本が、国力が衰えて、衰退をし、

    どこか大国が侵略をして来て、併合とか、

    日本がその国に支配をされる事が起これば、

    日本人の人権、自由、平等、なんて吹き飛んでしまうでしょう。



    いかほどのものでしょうか?



    圧倒的な、あの地震と津波の力のような

    元々自然に存在するものではないのです。






    今の日本国の認める自由、平等、人権などの制度は、

    そう、あくまでも制度の上の自由、平等、人権です。




    人が定めたものは、作り上げたものは、

    『時』、時代とともに、人にツレ、と云う様に、

    人がどう云う意識を持つかによって変化をするものです。

    人の作った概念は、自然の前では、無力です。




    西洋の言葉は、人類の苦闘の歴史かもしれない。

    が、『陽』の範疇のものでしかないのです。



    常に繰り返し記事の中で書いている事ですが、

    『陰』の本体のバックアップなしでは、

    無意識の世界の力の存在を認める事なしでは、


    すべての『陽』は、形骸化をし、効力を失います。

    つまり、それらは即、嘘になるわけです。

    故に、『偽』に通じると言います。



    そうすれば、これらの事は、生活に、人生に直結します。

    何かを真に求めても手に入らない。

    しあわせは、手の指の間からこぼれていってしまいます。


    根無し草的生き方=見えないもの『陰』を失った生き方、

    をあらためる事が、非常に大事になってきます。

    中身もよく知らない自由と平等と云う言葉を

    私達が、家庭の中へ、家族の中へ、人間の中へ、

    知ったかぶりをして口先だけで、持ち込むべきではないのです。




    友愛こそ、持ち込むべきでしょうね。   あはは。



    よろしくおねがいします。



    我々は、近代化の研修を142年間も受けて来ました。

    もう、そろそろ研修も終わりにしたいものです。











    長い記事にお付き合いくださって、

    最後までお読みいただきました事に、感謝申し上げます。



    よき週末を、お過ごしください。































    -----------------------------------------*・・+"*☆★☆." 
    記事は無断転用なさいませんように、お願いします。

    [一部、版権]がございます。権利は放棄しておりません。

    どうぞ宜しくお願いします。


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    テーマ : 家系・家族の癖
    ジャンル : 学問・文化・芸術

            

    Comment

    No title

    一気に、何度も読ませていただきました。=
    心にしみいるように伝わってきて、でも、表現するのはむずかしいです。=
    言葉には、どれほどの意味があってどれほどの歴史があるのか、ふしぎなきもちです。=
    おしゃべりの中で、まるで如何様のように使っていることがありますね。 (笑) =

    でも、たびたび目にするのは、日本、この国のことを思っていらっしゃることです。=
    わたしなどは、どうすればと思うだけですが、いうtもすごく刺激になります。=

    夜回り、ちょっとはやいかな

    うーん 食べられないアイスクリーム、
    例えが、女性向きなんで、
    飲めない生ビールなら、 わかるような気がしますが。

    自由も平等も、ありえないでしょ、というのが正直なところで、
    苦からの開放は、いやもっとむずかしそうだ。

    検索で辿り来た者です

    本来、自然の中の状態では、真の自由も真の平等も有り得ないと考えます。

    法の定める制度において自由と平等を実現するのは困難と考えます。
    日本の教育は義務教育や受験で入り口段階までは機会均等になっていると言い、
    進路の自由や機会が平等に与えられているとなっていると言い、
    職業の選択の問題も就職先や進路を自分で選択可能だと言う事になっているが、
    これも有り得ないと考えます。

    たしかに小学校入学のスタート地点から最終学歴の卒業までは平等であるようになっている。
    つまり、制度としての平等は託されているようであるが、
    その現実は、教育や職業の選択の自由、平等を実現するというよりも、
    実際は個々の差別化を実現する制度になってはいないか。
    実態は格差の実現化のための制度として機能している。



    その理由は、
    先天的に自然から与えられた個人の資質のまったくの違いを無視している。
    それでも殊更に平等を強く印象つけるために教育の現場で指導をされる事は、
    曰く、『誰でも努力すれば夢は叶う』という日教組的考え方がなされていて、
    努力をどうするかにかかっていると云う言い訳です。
    この理屈は、制度の限界を親と子供たちに転化するもので彼らは迷いながら従うしかない。
    他の制度と同じく常に制度の矛盾点の被害者は一番の弱き当事者です。

    自然は各人には個性もあり、努力をしても適性がない場合もある。
    努力をしても夢は叶わない場合がある。個人の持った能力の適性や限界によって、それは多い。

    にもかかわらず、あくまでも教育と職業の選択は自由であり平等である。
    そのための制度は間違っていない。
    この官製の無謬性、法の正しさが優先される指導である。

    ゆえに夢が叶わないのは本人の努力が足りなかった。という圧力が働く。
    これは自然な差異のある生身の人間の現実を無理やり人間の理性がつくった制度へ合わせるイカサマです。

    ある学歴を身につけたとして、同じエンジニアという職業についても、
    アメリカのマサチューセッツ工科大学院、国内の大学院、一流の工学部、三流の工学部、専門学校卒業では、一つの大メーカーに入社できたとしても手にする業務は天地の差別が実社会にはある。
    平等の原理はない。業務の選択に自由はない。
    格差の中へ分別される行程そのものです。
    実社会の現実は自由、平等を定める法の力の限界が露呈する。
    制度自体が人間の理性の限界である事を示している。
    ゆえに人が作った制度は自由と平等の中味を実現でき得ない。

    自然の社会の実態は不平等であると明らかにし正直に受け止め、
    個々人においては正しく己を知ることが正しいと考えます。

    No title

    東洋と西洋の違いについて今日ほど感じた記事はありません。
    東洋的な奥行きはどれほどの深さだったのか、それを見た感じです。
    これほど右と左ほど違うものを、どうして気づかずに来たのでしょうか?
    変な、妙な気がします。

    >中身もよく知らない自由と平等と云う言葉を

    >私達が、家庭の中へ、家族の中へ、人間の中へ、

    >知ったかぶりをして口先だけで、持ち込むべきではないのです。

    なるほどと思いました。
    自由と平等をあたらしい価値観だと信じて当たり前のことで正しいと受け入れて、
    そして、知らずに大事なものを壊してきた。
    中がからっぽとは、がっかり落胆です。
    この近代化の研修を終わる事はできるのでしょうか、、、、、

    Re: No title

    > 一気に、何度も読ませていただきました。=
    > 心にしみいるように伝わってきて、でも、表現するのはむずかしいです。=
    > 言葉には、どれほどの意味があってどれほどの歴史があるのか、ふしぎなきもちです。=
    > おしゃべりの中で、まるで如何様のように使っていることがありますね。 (笑) =
    >
    > でも、たびたび目にするのは、日本、この国のことを思っていらっしゃることです。=
    > わたしなどは、どうすればと思うだけですが、いうtもすごく刺激になります。=


    ★ひとつひとつの言葉には拘らなくて、何かが伝わっているだけでもうれしい事です。
    言葉は、近代化以降、中身が薄れていっているように思います。
    その時を、すなおに、感じていく心を失いたくないですね。
    いつもお心配りのコメント、大変感謝致します。  ありがとう☆cosmos

    Re: 夜回り、ちょっとはやいかな

    > うーん 食べられないアイスクリーム、
    > 例えが、女性向きなんで、
    > 飲めない生ビールなら、 わかるような気がしますが。
    >
    > 自由も平等も、ありえないでしょ、というのが正直なところで、
    > 苦からの開放は、いやもっとむずかしそうだ。


    ★例えが悪かったでしょうか。。  。  ほほ。
    男性の立場では、よくお分かりいただける言葉ですね。
    女子供のように、夢見る余裕はないはずですから、その中での毎日のお働き、ありがとうございます。
    命を懸けるとか、心から為す事とか、距離のある社会です。
    苦からの開放など、どうなっていくのかと思うばかりです。
    いつもあたたかいコメント感謝申しあげます。   ありがとう☆cosmos

    Re: 検索で辿り来た者です

    > 本来、自然の中の状態では、真の自由も真の平等も有り得ないと考えます。
    >
    > 法の定める制度において自由と平等を実現するのは困難と考えます。
    > 日本の教育は義務教育や受験で入り口段階までは機会均等になっていると言い、
    > 進路の自由や機会が平等に与えられているとなっていると言い、
    > 職業の選択の問題も就職先や進路を自分で選択可能だと言う事になっているが、
    > これも有り得ないと考えます。
    >
    > たしかに小学校入学のスタート地点から最終学歴の卒業までは平等であるようになっている。
    > つまり、制度としての平等は託されているようであるが、
    > その現実は、教育や職業の選択の自由、平等を実現するというよりも、
    > 実際は個々の差別化を実現する制度になってはいないか。
    > 実態は格差の実現化のための制度として機能している。
    >
    >
    >
    > その理由は、
    > 先天的に自然から与えられた個人の資質のまったくの違いを無視している。
    > それでも殊更に平等を強く印象つけるために教育の現場で指導をされる事は、
    > 曰く、『誰でも努力すれば夢は叶う』という日教組的考え方がなされていて、
    > 努力をどうするかにかかっていると云う言い訳です。
    > この理屈は、制度の限界を親と子供たちに転化するもので彼らは迷いながら従うしかない。
    > 他の制度と同じく常に制度の矛盾点の被害者は一番の弱き当事者です。
    >
    > 自然は各人には個性もあり、努力をしても適性がない場合もある。
    > 努力をしても夢は叶わない場合がある。個人の持った能力の適性や限界によって、それは多い。
    >
    > にもかかわらず、あくまでも教育と職業の選択は自由であり平等である。
    > そのための制度は間違っていない。
    > この官製の無謬性、法の正しさが優先される指導である。
    >
    > ゆえに夢が叶わないのは本人の努力が足りなかった。という圧力が働く。
    > これは自然な差異のある生身の人間の現実を無理やり人間の理性がつくった制度へ合わせるイカサマです。
    >
    > ある学歴を身につけたとして、同じエンジニアという職業についても、
    > アメリカのマサチューセッツ工科大学院、国内の大学院、一流の工学部、三流の工学部、専門学校卒業では、一つの大メーカーに入社できたとしても手にする業務は天地の差別が実社会にはある。
    > 平等の原理はない。業務の選択に自由はない。
    > 格差の中へ分別される行程そのものです。
    > 実社会の現実は自由、平等を定める法の力の限界が露呈する。
    > 制度自体が人間の理性の限界である事を示している。
    > ゆえに人が作った制度は自由と平等の中味を実現でき得ない。
    >
    > 自然の社会の実態は不平等であると明らかにし正直に受け止め、
    > 個々人においては正しく己を知ることが正しいと考えます。


    ★お立ち寄りくださった事、長いコメントをお書きくださった事、ありがとうございました。
    よく読ませていただき、また、記事にさせていただくような事もあると思います。
    その時は、よろしくお願い致します。 感謝☆こころ☆cosmos

    Re: No title

    > 東洋と西洋の違いについて今日ほど感じた記事はありません。
    > 東洋的な奥行きはどれほどの深さだったのか、それを見た感じです。
    > これほど右と左ほど違うものを、どうして気づかずに来たのでしょうか?
    > 変な、妙な気がします。
    >
    > >中身もよく知らない自由と平等と云う言葉を
    >
    > >私達が、家庭の中へ、家族の中へ、人間の中へ、
    >
    > >知ったかぶりをして口先だけで、持ち込むべきではないのです。
    >
    > なるほどと思いました。
    > 自由と平等をあたらしい価値観だと信じて当たり前のことで正しいと受け入れて、
    > そして、知らずに大事なものを壊してきた。
    > 中がからっぽとは、がっかり落胆です。
    > この近代化の研修を終わる事はできるのでしょうか、、、、、


    ★いつも、私の記事に影のように沿って、あたたかい共感をどうもありがとうございます。
    知らずに、大事なものを壊してきた罪、それが今、噴出しています。
    その事は、また書かせていただきますね。よろしく!
    流れに流されないように、、、お化けたちの一味にならないようにしましょうね!  あはは。
    お仕事、お疲れないように精励ください。   感謝☆こころ☆cosmos
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    Author:寂光ーcosmos
    家系・個人の運命鑑定
    東洋運命学教室を主宰

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